「exit‑voice」モデルの拡張と検討課題 : 国際政 治経済学と開発論の視座より
著者 高橋 直志
雑誌名 同志社商学
巻 66
号 6
ページ 1025‑1048
発行年 2015‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013949
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題
──国際政治経済学と開発論の視座より──
高 橋 直 志
はじめに
Ⅰ 先行研究の整理
Ⅱ 基本モデルといくつかのオプション
Ⅲ モデルの拡張(1)Large-Small(上位−下位)パラダイム
Ⅳ モデルの拡張(2)Public-Private(公−私)パラダイム
Ⅴ モデルの拡張(3)Legal-Illegal(合法−非合法)パラダイム おわりに
は じ め に
リーマン・ショックから数年を経て,新興国の躍進と先進国の衰退局面がますます鮮 明になりつつある。このトレンドを裏付ける代表的文献を挙げると,20世紀末にあっ て常識的であり,かつ社会科学の根源的な問いを発したエルナンド・デ・ソトの『資本 主義の謎:なぜ西洋世界は成功し,非西洋世界は失敗するのか』(2000)が,世界規模 の大きな反響を惹起した。ところが,歴史的見地より英米型の経済発展を肯定的に評価 してきたと目されるニーアル・ファーガソンが,先進国社会の行き詰まり要因を意欲的 に分析した『劣化国家』(2012)を上梓し,序章にて「なぜ西洋は衰退したのか」とい う,デ・ソトと全く逆の問題提起をしている。そして,むしろこの問いかけこそが社会 科学全体におよぶ喫緊の検討課題として注目を浴びている。この著作は「民主主義・資 本主義・法の支配・市民社
1
会」という
4
つの視点より,主に19
世紀後半から20
世紀末 までの西洋世界において伏在していた諸問題を改めて問い直す姿勢を見せているが,(意識的か否かは別として)英米社会をモデルに据えて開発経済学や途上国の地域研究 を進めてきた人に対しても,大きな論点を提出するであろう。つまり,21世紀に入っ てからは経済成長のあるべき姿を考察するのと同時に,守勢に立たされた組織・社会の 採るべき行動まで考えざるを得ない時代に突入した,という話になる。21世紀になっ て今なお成長軌道に載らない国・地域がある一方で,成熟期を通り過ぎたと思われる先
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1 この著作では,バーク,バジョット,ディケンズ,トクヴィルの4名の議論を大きく採り上げている。
この内,バークとトクヴィルについては,晩年のハーシュマンの著作においても,何回か引用されてい る。
(1025)21
進国が衰退局面における望ましい行動を意識せざるを得ない事態は,深刻というより他 にない。最近の事例を見ても,EU加盟国内部での独立投票をめぐる一連の騒ぎ(スコ ッコランド,カタルーニャ地方)やアメリカにおける暴動(黒人少年射殺事件の後の不 起訴措置に対する抗議)の発生からも指摘できる「(国民国家の枠組みを前提にした)
統合から分裂へ」という憂慮すべき事態に,誰も適切な提言ができないままでいる。経 済面では先行きが読めない状態が依然として続いているものの,軍事・安全保障や国際 政治に関しては明らかに反動局面と言える状況にあり,経済学と政治学を架橋しながら
「衰退から回復への過程」を学術的視点から考察する必要性は極めて高い。
しかしながら,半世紀ほど前の時点でこうした問題意識に近いテーマを掲げた著作群 が,少数ではあるが組織論というジャンルを中心に存在する。その著作群の代表作とし て,本稿では
A. O.
ハーシュマンによる『離脱・発言・忠誠』(1970)を大きく採り上 げる。最初に但し書きをしておくと,上述した資本主義の歴史的転換点を真正面から分 析するほどのスケールを有した気宇壮大な問題意識とは異なり,あくまで国や企業,組 合くらいの規模の組織を上限として,一時的な衰退に直面した組織,もしくは社会の採 るべき行動を,独自の視点から分析した著作である。この著作の論点の一部を先取りす ると,「消費者であれ,投票者(有権者)であれ,現実の世界では機敏な反応を示す者 と緩慢な反応を示す者が存在する。しかも,両者の総和,および比率は一定でなく,そ の上これらの変化を事前に予測することはほぼ不可能に等しい。そのため,経済学や政 治学といった社会科学の分野で数学の応用分野たる物理学の模倣をしたとしても,さし たる意味はない。それよりも,上述した前提条件から導き得る教訓として,過失には『とりかえしのつく過失』(repairable lapses)と『とりかえしのつかない過失』の
2
種類 があること,そして前者にはなんらかのスラック(slack:余剰,ゆるみ)という(埋 め合わせの可能性を含んだ)ファクターが存在することを意識する方が,衰退傾向にあ る組織を立ち直らせる上で,遥かに重要である。」(緊張経済(taut economy)観に対す るスラック経済2
観という,ハーシュマンの考案による命題)という,非常にユニークな 問題提起を打ち出した。同時に,既存の経済学・政治学が常識としてきた前提条件や分 析トゥールを根本から批判した,非常に挑戦的な性格を帯びている。ただし,この業績 は学問領域としては経済学を含んではいるものの,全体的に政治学に関連した論点が多 く,経営学や社会学,さらには心理学の色彩すら強く,重要な問いを発しているにも関 わらず,学問の細分化が進んだ現在では省みられる機会が極端に少なくなっている。本 稿では「現在の社会科学にとっては,分野や論点を始めから絞り込んだ上で専門的な分
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2 厳密に言うと,このアイディアはハーシュマンと公共選択学派批判で名を馳せた政治学者であるC. E.
リンドブルムとの共著論文で提示されたものである。初出は1962年だが,ハーシュマン(1971)63−84 ページに再録されている。
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析を深化させることよりも,学問的厳密性を多少犠牲にしてでも,視野の拡大を優先す ることこそ急眉の課題」という立場からこうした研究成果を積極的に再評価しつつ,難 点と思われる箇所の一部に,筆者なりの補足を加えてみたいと考える。
そこで,Ⅰではハーシュマン自身の著作群,さらにそれらと密接な関連を持つ文献を いくつか紹介する。Ⅱでは,ハーシュマンが考案したモデルと,それに対して改良を加 えたモデル,さらには批判的考察を含んだモデルを紹介する。そして,先行研究では十 分にカヴァーされてこなかった分析視角を深める目的で,Ⅲでは「上位者−下位者」パ ラダイムを,Ⅳでは「公的行為−私的行為」パラダイムについて論じる。Ⅴではこれら のパラダイムを用いてもカヴァーできない「合法−非合法」パラダイムについて,新た にモデルを提案しながら分析を試みる。これらの議論を踏まえ,「おわりに」にてハー シュマンの再評価と難点を克服しうるヒントの提示をして,本稿の締め括りとしたい。
Ⅰ 先行研究の整理
この節では,本稿の主題となる
exit-
3
voice(離脱−発言)モデルを初めて世に問うた
『離脱・発言・忠誠』(1970)について直接言及する前に,発案者自身の思想遍歴をおお まかに踏まえる目的で,このモデルを考案するきっかけとなった『開発計画の診断』
(1967)を,さらにこのモデルに対する考察を大幅に拡張・深化させた『失望と参画の 現象学』(1982),ならびに『方法としての自己破壊』(1995)を簡単に紹介しておきた い。これに合わせて,ほぼ同時期の著作でハーシュマンの問題意識に近いと思われる
R. A.
ダール(1971)の分析枠組みに関しても,ハーシュマン・モデルの理解に資する範囲内で言及しておく。
まず『開発計画の診
4
断』についてであるが,この著作は世界銀行の支援により実施さ
れた
1964〜1965
年における調査をベースにした理論的考察を展開しており,複数の予見不能な「不確実性」(uncertainties)を大前提としつつ,「許容
5
性」(latitude)と「特性
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3 三浦隆之氏が1975年に出版した訳本によると,「exit」は「退出」,「voice」は「告発」となっている。
基本的なタームとなる語ではあるが,後述する通り,心理的な描写という性質が強いため,文脈に応じ てベストの訳は変わり得る。本稿では,日本人による研究の引用・参照をした箇所以外は,2005年に 出版された矢野修一氏の訳本に従い,「離脱」と「発言」に統一する。
4 この文献において,開発経済学の世界で自明のこととされていた設計主義に対し,ハーシュマンは強い 疑問を投げかけている。1958年の著作にも同様の萌芽は見られたものの,この1967年の著作より設計 主義への不信感が決定的になった,といってもよい。長峯(1985)も「計画は合理的であって然るべき ものである。しかしながら,計画されたものだけが合理的であるとは限らない。」と舌鋒鋭い議論を展 開している。
5 なお,「許容性」と対になるタームは「拘束性」(discipline)である。興味深いことに,経営組織論の分 野において岸田(2014)では,拘束性と許容性に該当する用語として,「構造統制」(organized)と「組 織生成」(organizing)という語が用いられている。このタームについては,同書の第2章・第3章にて 詳述されている。
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受容(trait-taking)と特性形成(trait-making)との混合」の重要性を説いた書である。
字義通り,開発計画に潜むリスクとチャンスの双方に目配りした,いわば開発経済学の 中に人生訓・社会訓を盛り込んだ珍しいタイプの学術書であるが,ハーシュマンはここ で分析対象となったナイジェリアの(植民地時代から存在する)鉄道公社と(新設の高 速道路を利用した)トラック輸送の奇妙な共存関係に対し,大いに刮目した。当時の常 識に即して考えると,一次産品の長距離大量輸送に限れば鉄道の方に分があるはずなの に,トラック輸送の方が大きくリードをしている。その上,トラック輸送の後塵を拝し たはずの鉄道会社の方には改善努力がほとんど見られず,競争圧力に晒されている様子 も見られない。とりわけ,後者の現象は経済学のロジックでは説明がつかない,と。こ の現象を説明するために大きくクローズ・アップされた考え方こそ,先述したスラック 経済観である。普通の経済学者ならば,今も昔も「市場の反応に鈍感な公社は,速やか に民営化せよ。」という診断を下すはずであるが,ここでハーシュマンはオリジナルな 説明原理の構築に執心した。また,政治学や社会学の立場からは,通常は歴史的観点よ りナイジェリア国内の民族・宗教対立,そしてイギリスによる植民地統治の評価に言
6
及 するのが定石となるはずだが,彼の場合はなぜかそうした問題意識は希薄であった。た だし,ここで言及された許容性と拘束性の議論が,スラック経済観と緊張経済観を並列 した
1970
年の著作につながったことだけは確かであり,ナイジェリアの社会背景をミ ス・リィーディングしながらも新規のアイディアを創出する基盤作りに成功するとい う,珍しい仕7
事を成し遂げた。
次に『失望と参画の現象学』についてであるが,これは晩年になってやや市場擁護の 立場に重心を移した頃の著作である。ここでは,経済学者が好む「離脱」も政治学者が 推奨する「発言」も対等に評価すると述べながらも,やや後者に肩入れした
1970
年の 著作と異なり,公的行為としての「発言」に失敗した後の私的行為に当たる「離脱」を 肯定的に評価(擁護)する姿勢を貫いた。率直に言えば,民主主義の欠陥や(民主的手 段による)社会変革の難しさをかなりの程度認めており,論を進めるにつれて若い頃に は見られなかった暗い色調を帯びている。とりわけ,公的幸福追求も私的幸福追求も共 に固有の独占欲を備えているが,執着度の点では前者の方こそ性質が悪い(恐らく,意────────────
6 峯(1999)255−256ページを参照されたい。これは島田周平氏の指摘によるものだが,ナイジェリアの 鉄道公社がトラック輸送にワン・サイドで敗れた理由について,ハーシュマンがエスニックな対立感情 を理由に挙げたことまでは良いものの,その対立がイギリスによる植民地統治に起因していることを見 逃している。元々,少数派の寄合である北部はイスラム教を信仰し,多数派の南部はアニミズム信仰と いう棲み分けができていたが,一神教の方が文明的と考えたイギリス人の偏見により,北部は間接統 治,南部は直接統治となった。だが,差別されつつも多数派であった南部に鉄道会社の利権が継承され たため,北部の人々は高速道路が完成すると共にトラック輸送へ「離脱」していった。
7 この著作に関する評価についてであるが,受田・青山・小林(2010)では経済学的アプローチと人類学 的アプローチの両面からみて「開発論の最高峰」という,極めて高い評価がなされている。なお,拙稿
(2012)では長所と短所を共に指摘した。
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図せざる公私混同による混乱,いう意味)ことを認めるような叙述が目に付く。社会変 革(主に経済成長)と民主主義のジレンマという深刻な課題は,経済学と政治学の架橋 を提唱したハーシュマン本人でさえ,考察を深めていけば苦悩するほど重いものである と言わざるを得ない。
最後に『方法としての自己破壊』についてであるが,ここでは「離脱−発言」モデル が考案者であるハーシュマン自身が想像すらしていなかった「共進」現象(東ドイツの 実例)を説明するトゥールとして,(彼の著作群の中で)最後の輝きを放っている。こ れは,「ベルリンの壁崩壊」が起きる直前のライプチッヒで実際に起きた事件が題
8
材に なっている。『離脱・発言・忠誠』では,この時の東ドイツのような独裁国家が瓦解寸 前の段階に至った場合,「離脱」と「発言」の片方,もしくは両方が機能したならば社 会に破壊的な悪影響を及ぼし,かえってマイナスとなる可能性があることを指摘した。
ところが,行動こそ違うものの逃亡希望者と残留希望者が,共に反体制と祖国統一の意 思を表明するという,腕利きの小説家でも想像できないような歴史的瞬間が訪れた。こ れを目にした彼が,理論的な考察を深めると同時に,若き日にナチスの迫害を逃れるた めに離れた祖国へのわだかまりが氷解したであろうことは,想像に難くない。
このように,ハーシュマンの思想遍歴は「市場」擁護と「民主主義」擁護の狭間にお ける苦闘の足取り,と形容しうるものであるが,絶対に指摘すべき重要ポイントとし て,彼は歴史的段階発展論や循環史観のような社会観・世界観を断固として受け付けな かった。そのような議論は往々にして間違った歴史認識やペシミズムに通じる固定観念 を植え付けるものとして,むしろ忌避の対象とした。生涯にわたって,「不確実性」を 除去しえないファクターとみなした彼の議論からすれば,これは何も奇異な話ではな い。素朴で楽天的な社会的ダーウィニズム,そしてペシニズムの極みとも言うべき予言 的終末論のどちらにも与しなかったという意味では,東西冷戦の時代に限れば面白みに 欠ける嫌いもあったが,極めて冷静な議論を残した点は高く評価されるべきであろう。
やや唐突な話になるが,ここでハーシュマンと同時代の政治学者で,進歩史観や歴史 的必然論に否定的な社会観・世界観を共有し,当時から混乱していた「民主主義」に関 する議論に一石を投じた人物として,R. A. ダールの議
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論も紹介もしておきたい。ちょ うどハーシュマン・モデルが大きな反響を呼んだ時期に出版された『ポリアーキー
(polyarchy)』(1971)は,「自由化(公的異議申し立ての可能性)」と「包括性(選挙を 通じて,政治に参加できる可能性)」というふたつのシンプルな評価軸から,(一国レベ ルのスケールではあるが)当該社会における民主化の進展度合いを検証している。後述
────────────
8 ハーシュマン(1995)(邦訳)11−52ページを参照されたい。
9 ダール(1971)(邦訳)7−29ページ,57−79ページを参照のこと。
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する議論に即して言えば,(やや強引なアナロジーにはなるが)G. オドンネ
10
ルが提唱し た「(私的行為に近い)垂直的発言」と「(公的行為に近い)水平的発言」に近い概念で ある。このふたつの評価軸から,ダールは各国社会の在り様を「閉鎖的抑圧体制(ヘゲ モニー)」「包括的抑圧体制(ヘゲモニー)」「競争的寡頭体制(オリガーキー)」「ポリア ーキー(多数による支配)」の
4
種類に分類(第1
表)した。彼自身は「閉鎖的ヘゲモ ニー→競争的オリガーキー→ポリアーキー」という順序を理想としながら,現実(1969 年の文献に基づく考察)を見れば「閉鎖的ヘゲモニー→包括的ヘゲモニー→ポリアーキ ー」となりそうな事例が多いことを指摘し,開発独裁やコーポラティズムに対して一定 の理解を示していた点は,ハーシュマンと見解を異にしていた。ただし,「閉鎖的ヘゲ モニー→ポリアーキー」という一足飛びの変化は,敗戦による占領統治を経験した日 本・西ドイツ・オーストリア・イタリアを重要な例外とした上で,大きな危険を伴う可 能性が高いと述べ,漸進的な社会変革を標榜した点はハーシュマンの見解に通じるもの があった。Ⅱ 基本モデルといくつかのオプション
前節で確認した社会思想史的な背景を踏まえつつ,本節ではハーシュマン自身の考案 による「離脱(exit)−発言(voice)」モデルの紹介に止まらず,これに改良を加えた論 者や批判的な見解を寄せた論者によるモデルも紹介したい。何故ならば,この「離脱−
発言」モデルは一見すると単純なモデルのように思われがちであるが,実は複雑な人間 心理の描写を主眼とする性格が強いため,むしろ最初から多面的なアプローチをした方 が理解の速度と正確さの点で有益と考えるがためである。
まず,基本形となるモデルが他ならぬ「離脱−発言」という
2
つの選択肢をつなげた ものである。「離脱」は字義通り,黙って去るのみの行動であり,通常の場合において これに必要とされるのは当人の意思決定のみである。良く言えば市場原理に即した合理────────────
10 「オドネル」または「オドーネル」と表記する文献も多いが,本稿では人口に膾炙した「オドンネル」
で統一する。もっとも,原音主義(ネイティヴの発音を尊重)の立場からすれば,「オドンネル」とい う表記は望ましくない。
第1表 ポリアーキー(多数による支配)の位置づけ
包括性(政治への参加可能性)
可能性が低い 可能性が高い 自由化(公的異議 可能性が高い 競争的寡頭体制 ポリアーキー 申し立ての可能性) 可能性が低い 閉鎖的抑圧体制 包括的抑圧体制
(出所)R. A.ダール(1971)『ポリアーキー』(邦訳)14ページより,一部表現を変えて引用.
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的な行動であるが,別の言い方をすれば他者との協力を必要としない私的な行為であ り,もっと悪く言えば自分本位の行動,裏切りに直結する,とも言い得る。さらに,こ の選択肢は基本的には
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回限りのものであり,これを繰り返すためには「(再)参入(re-entry)」という選択肢が不可欠となる。これに対して「発言」は,伝える内容が個 人的な要望か集団的な訴えかは別として,「離脱」に比べると時間や手間がかかる選択 肢で,場合によっては大きなリスクすら随伴する非合理的な行動と言える。最初から非 合理を承知の上での行動であるため,おおむね公的行為と言えるものであるが,1回で 済むこと自体が稀であり,かつ「技芸(art)」を要する(他者との協力が必要な場面も ある)点に留意しなければならない。そして,「離脱」と「発言」の中間的な行動に該 当するのが「(忠誠者による)離脱の脅し」もしくは「ボイコット」であり,(状況にも よるが)これは私的行為にも公的行為にも解釈できる性格の選択肢である。ただし,こ こで注意を要するのは,ハーシュマンは「離脱」と「発言」を常に対立する選択肢とは 考えていない。後述するが,場合によっては「補完」や「代替」,そして稀ではあるが
「共進」するケースも見られるため,対立した選択肢というより「分立」した選択肢と 解釈するのがベストと言える。そしてこの複雑さ故にグラフや数式を用いたモデル化に なじみにくく,主として政治学者から大きな反響が寄せられる一方,大半の経済学者か らは「敬して遠ざける」扱いを受けることになった感は否めない。
話はやや脱線するが,この点こそが今日の経済学で主流の座を占めるゲーム理論との 決定的な違いと言える。というのも,ゲーム理論で登場する選択肢は「裏切り」と「協 調」の
2
種類しか存在せず,しかもこれらは対立する概念であるため,煎じ詰めると「○×」式の決断しかできない。しかしながら,経済学者が注目する「緊張経済観」に 対して「スラック経済観」の重要性を提唱したハーシュマンにとっては,この種の議論 こそが問題の本質を見誤る要因に見えたのではないか,と筆者は推測する。さらに,
「離脱−発言」モデルの議論を締め括る段階で,このモデルは生来不安定なものである ため,離脱と発言の最適な組み合わせが実現したとしてもそれは一瞬の出来事にすぎな い,と明確に述べている。この議論を敷衍すると,ゲーム理論に存在する均衡の概念 が,「離脱−発言」モデルには(形式上はともかく)実質的に存在しない,と指摘して も過言ではなかろう。
話を本題に戻すと,決断を下してから実行に移すまでの手間暇を考えれば,通常は
「発言」よりも「離脱」の方が幅を利かせる場面が多いため,ハーシュマン自身のアイ ディアによれば,「離脱」を弱め「発言」機能を強化するためにオプションを追加する 必要があるとされる。そのオプションのひとつが「忠誠(loyalty)」である。これは,
日本人の一般的な感覚からすると殉教精神にも似た「滅私奉公」を想起する行動に思わ れるかもしれないが,彼の考える「忠誠」はもっと打算的なものである。すなわち,組
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織への忠誠はそもそも自己の利益と合致する場合に発揮されるものであり,損得勘定を 度外視した忠誠は衰退化傾向にある組織への適切なフィードバック機能(=「発言」機 能の強化)を果たしえないことをも指摘している。さらに,「離脱」傾向を弱める対策 として,「参入手続きの厳格化と離脱に対するペナルティーの強化」さえ提言しており,
場合によっては消費者の利己的な行動に抑制をかける必要も積極的に認めていた。
ここで,ハーシュマン=モデルの意を酌んだ積極的オプションの考案者として,共に 高名な政治学者である
S.
ロッカンとG.
オドンネルを紹介しておきたい。まずロッカ
11
ンについてであるが,彼はハーシュマンと同様にファシズムとの遭遇を経 験した政治学者であり,主に戦後の西ヨーロッパにおける社会構造と政治制度の関連を 明らかにする業績を残した。彼による提言の骨子は「離脱と参入(entry)の双方を国 家が適切に管理せよ。離脱も(再)参入も手続きが数回に及ぶように実
12
施せよ。そし て,発言が機能する制度構築にもできる限り力を注げ。これらの政策を通じて,社会的 な分断や国境を融通無碍に変化させていくことをためらうな。」と約言できる。すなわ ち,第二次世界大戦後に固まった国民国家の枠組みを維持しながら,軍事・行政と文 化,経済という
3
つの局面からなる社会の変化や要求を円滑に受け入れる手段として,「(国家による)離脱と参入のコントロール−発言」というモデルを提唱したのである。
次にオドンネルであるが,彼は母国アルゼンチンにて軍事独裁政権による害悪を目の 当たりにした経験を持つ政治学者であり,過酷な言論統制の実態を知りつつも民主主義 への復帰を希求する思いの強さは人後に落ちないことで有名であった。1976年より軍 政期に突入したアルゼンチンでは,原因不明の逮捕や拷問,(捜査段階での)殺害が常 態化しており,まともな「発言」など望むべくもない社会状況にあった。多くの国民が
「沈黙」を強いられ,「遠回しの発言」にも慎重にならざるを得なかったことになるのだ が,オドンネルはこの極限状況の中で「発言(告発)の技芸」が大きく成長した事実を 強調した。それは「発言」には大きく言えば
2
種類が存在し,個人が伝えたい相手に直 接意見を表明する「垂直的発言(vertical voice)」と,ある程度の規模を持つ集団の内部 で意見の擦り合せを経てから適切なタイミングを見計らって意見を表明する「水平的発 言(horizontal voice)」に分けられること,そしてこの2
者の組み合わせの妙(状況に よって発言の内容や順序が変わり得るという含み)こそが「発言の技芸」である,とい う言13
説である。付言すると,「垂直的発言」は私的性格が,そして「水平的発言」は公
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11 彼が「1960年代のヨーロッパにおける政党は,(実の所)1920年代の社会構造を内包している。」と提 唱した説は,クリーヴィッジ(分裂)仮説として知られている。詳しくは,白鳥(2001)を参照のこ と。
12 ロッカンは自身の論文の中で,「一次離脱」「二次離脱」という用語を使用している。ロッカン(1974 b)を参照されたい。境界線の強化と緩和の併用策を唱え,移民のついても「社会的なガス抜き」とい う意味で「exit」扱いしている。
13 この議論は,オドンネル(1986)pp.250−266ページ,峯(1999)183ページ,矢野(2004)318−321 ! 同志社商学 第66巻 第6号(2015年3月)
28(1032)
的性格の強い選択肢となる。また,オドンネル自身の指摘によると,垂直的発言は(孤 立無援に陥りやすい一面があるため)一時的に抑え付けることが可能である一方で,水 平的発言は(どのような状況であれ,人々の中に潜んでいるものであるため)完全に封 殺することができない頑健性を持つ。さらに,離脱が大きく制約される状況下はもちろ んであるが,その逆のパターンに当たる過剰離脱の局面にあってさえも,その弊害を軽 減しうる可能性を含むという意味において,これは優れた「技芸」であると言えよう。
なお,この「離脱−垂直的発言−水平的発言」モデルを用いれば,1989年の東ドイツ
(ライプチッヒ)にて実際に起きた「離脱と発言の融合(共進)現象」(国外逃亡者と残 留希望者の共闘関係)を説明することも可能である。
以上,ハーシュマンとロッカン,オドンネルによる
3
者によるモデル(exit-voice+α
)は,いずれも積極的オプションと言い得るタイプであるが,これらのアイディアに 対して批判的な論者,そして賛否相半ばする論者が存在することを踏まえ,本稿では前 者によるアイディアを消極的オプション,後者によるアイディアを保留型オプションと 命名した上,紹介および解説をしたい。まず保留型オプションについてであるが,これはラポンス(1974)による「離脱−発 言−接近(access)」モデル,そしてシャファー&ラム(1974)による「離脱−発言−潜 伏(hiding)」モデルが挙げられる。接近も潜伏も決断を下す前段階の行動であり,「調 査」「ロビー活動」「焦らし戦法」といった戦術を含んだ解釈もできるオプションと指摘 できるであろう。これが公的行為か私的行為になるかは状況次第であるが,少なくとも
「(弱点を抱えた)下位者による戦略」くらいは指摘しうるであろう。判断そのものを保 留している特徴を有するがために,「接近」も「潜伏」も単なるガス抜きや茶番に終わ る可能性を持ちつつ,一方で社会的変化を誘発する基盤,すなわち「トロイの木馬」と なる可能性も含みうる。比喩的に述べると,緩衝剤と触媒という正反対の顔を兼備した 影のようなもの,と言い得るであろう。
次に消極的オプションについて言及する。バリー(1974)の見解によると,ハーシュ マン・モデルの意義を認めながらも,これは現実世界の分析にはそぐわないとする。そ もそも対概念として「離脱−発言」を組み合わせること自体がおかしな議論であり,離 脱の反対は「非離脱(残
14
留)」,発言の反対は「沈黙(非活動・不参加)」となるはず,
と突き放すようなコメントを残している。しかし,議論の展開を明確する目的により,
本稿においてはこの議論は最初から「離脱−発言」モデルの本質をミス=リーディング しているものと捉える。先述した通り,「離脱」と「発言」は分立した概念であり,対 立概念のみで論じる性質のものではない。それに,バリーのいう「非離脱」も「沈黙」
────────────
! ページを参照されたい。
14 山川(1996)では,「体制内退出者」という表現が使われている。
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題(高橋) (1033)29
も,「面従腹背」「消極的対応」という意味では同じことになり,突き詰めて言えばハー シュマンが「離脱」と「発言」の中間と位置づけた「ボイコット」よりもさらに消極的 な対応に該当し,(悪く言えば)俗物根性そのものとさえ言えるであろう。通常,経済 学者が偏愛する「離脱」と政治学者が肩入れする「発言」を(不自然な感はあるが)組 み合わせることに,このモデルの積極的な意義を見出すべきである。ハーシュマンの見 解に従うならば,軍事独裁国家のような社会で生命の危険にさらされ続けている状況な らいざ知らず,民主主義が機能している状況でバリーの議論を適用しようとするなら ば,恐らく「面従腹背」も「沈黙」も「政治的な離脱」,もしくは「惰性・怠慢」とみ なすであろう。ただし,この「離脱−非離脱」「発言−沈黙」モデルも,後述する「上 位者−下位者」パラダイムでは使えるアイディアであるため,本稿では全面的にバリー の見解を排除するつもりはない。
最後に,以上の論者と比較するとかなり命名しにくい研究となるが,S. I. コーヘン
(2009)の議
15
論も紹介しておきたい。これは「忠誠−発言−参入−離脱」を基本形とし ながら,「発言と離脱」を一緒のもの,と考える傾向の強いモデ
16
ルである。組織のメン バーとして,機敏な反応とする者と緩慢な反応に終始する者の
2
種類のタイプを設定し ているところは,ハーシュマンのスラック経済観を継承していると言えるが,先述した バリーの考え方も包含している点が興味深い。すなわち,「忠誠→発言&離脱→参入」と「忠誠→(中途半端な)発言→(自己利益に即しながら)無反応→黙従」というふた つの循環モデルを想定しているため,強いて言えばこれは「ハイブリット&循環」オプ ションと命名できるであろう。恐らく,現時点ではこれこそが「離脱−発言」モデルを 最も複雑化した研究なのではないか,と筆者は推測する。
ハーシュマン自身は,経済学と政治学を架橋する形で新しい組織論を構築することを 志向したと思われるが,客観的に見ると当初から心理学的な考察と密接不可分の議論を 展開していたため,多くの混乱を呼び寄せながらも議論に幅と深みが加わったのであろ う,とここでひとまず総括しておく。
Ⅲ モデルの拡張(1)Large-Small(上位−下位)パラダイム
本節では,本稿の主題である「exit-voice」モデルの拡張を,社会的な権力構造の存在 を所与の前提とした形で試みる。すなわち,「Large-Small」(上位者−下位者)パラダイ
────────────
15 もっとも,コーヘン(2009)の主眼はあくまで「家計本位システム」「国家本位システム」「企業本位シ ステム」の3分類から,(画一化しつつある)開発経済学と(バラバラになりがちな)地域研究の架橋 を目指すことにある。
16 ただ,ハーシュマンやロッカン,オドンネルと異なる点として,やや「離脱」と「発言」を悪玉オプシ ョンとみなす傾向が見られる。
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30(1034)
ムの定式化にチャレンジする。これは,分析対象に応じて「大国−小国」モデル,「多 数派(マジョリティー)−少数派(マイノリティー)」モデル,「パトロン(親分)−クラ イアント(子分)」モデル,そして少し強引なアナロジーにはなるが,「プリンシパル
(依頼者)−エージェント(代理人)」モデルと読み替えても大きな差し支えはない。
ここでは,「上位者」を「自分の意思を下位者に押し付けることができる者」,そして
「下位者」を「(合法的手段の枠内において)限られた手段でしか上位者に反抗できない 者」と定義して,議論を進める。
まず,「離脱」についてであるが,上位者がこれを用いた場合「拒否権の行使」「(場 合によっては)追放」(リストラも含む)を意味する。これに対して下位者が示す反応 と言えば,合法的手段であれば「ボイコット」,非合法手段であれば「逃亡」というこ とになる。
次に「発言」であるが,上位者がこれを用いたならば「(片務的な)忠誠の強要」
「(状況次第では)茶番や妥協の強要・面従腹背の推奨」となる。逆に,下位者が公の場 で(集団行動を誘発しやすいように)これを効果的に用いるならば「水平的発言」,匿 名性を保てる状況で大胆に行使したならば「垂直的発言」となる。特に後者の場合,緊 迫した状況下では「内部告発」もしくは「離脱後に外部から発言」という事態も起こり 得る。
最後に「忠誠」であるが,上位者がこれを下位者に一方的に求めるのは,極めて特殊 な状況に限られる。すなわち,江戸時代の日本の武士のように(事実上の)永代雇用が 保障されているケース,あるいは異常な手段で洗脳されたカルト集団や犯罪者組織くら いのものであろう。これに対し,下位者がこれを発揮するのは極めて打算的な君臣関係 のようなものであり,殉教(ハーシュマンによれば,これは「究極の離脱」に該当)の ように状況次第で,あるいは立場によって,美談とも単なる自己満足とも解釈できる現 象については分析不能とする。また,忠誠は当事者である上位者と下位者の双方にとっ て善玉オプションとなっていたとしても,第三者からすれば悪玉オプションとなるケー スも多々あることには留意すべきであろう。
以上の事柄を踏まえつつ,打算的な観点よりリーダー国の存在を正当化したと一般に 評価されている覇権安定論,とりわけ
R.
ギルピンの議17
論に言及する。往々にして,覇 権安定論は覇権国の利益最大化行動を正当化する「お為ごかし」の理論と揶揄されるこ とが多いのだが,ギルピンの見解によれば,覇権国には(コスト要因を度外視してで も)国際公共財を提供する義務を負わされており,これが原因で自壊するリスクも常に 存在するという前
18
提になっている。そして,上位者と下位者が固定的ということも長期
────────────
17 ギルピン(1981)p.197,および中野(2014)96−102ページを参照されたい。
18 もっとも,第一次世界大戦以前のイギリスと第二次世界大戦後のアメリカによる外交を歴史的に振り!
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題(高橋) (1035)31
的にはありえず,大国と小国との間で繰り広げられるパワーゲームに終わりはないとい う,現実主義の立場から慎重に制約条件を意識した議論を展開している。そして,覇権 国と(軍事・経済ともども)対等に近い立場で行動できる強力な新興のライバル国が出 現した場合,別言すればヘゲモニーの交代劇が起きそうな場面におけるパワーゲームの 理論として,以下のような戦略案を提出した。
最初に一番安易な選択肢として,無言のまま防衛ラインを自ら後退させる「撤退」,
次に(格下の)友好国との間で手の込んだ調整が不可欠となる「同盟」,最後にもっと も実現のハードルが高い選択肢として,場合によっては友好国との信頼関係を犠牲にす るさえ厭わない敵対国との「共存」が存在する。ハーシュマンの用語になぞらえるなら ば,「撤退」は誰とも協調する必要がないという意味において「離脱」と同様の選択肢 であるが,交渉相手国こそ違うものの,どちらも信頼・協力関係が必要となる「同盟」
と「共存」については,かなり複雑な話になる。もともと利害を共有する「同盟」
19
国の 場合,その数が増えれば敵対国への圧力が強くなる一方で,「同盟」国同士の争いに関 与せざるを得ない状況も生まれ,これはトレード・オフの関係にある。かといって,敵 対国に対して直接「共存」関係を申し出ることは相手を増長させるだけの融和政策に終 わるリスクが付きまとう。その上,「同盟」国の機会主義的な行動の封じ込めも画策す る必要がある。率直に言えば,ギルピンの議論に関しては,大国・小国それぞれの立場 で「腹の探り合い」という状況設定をしているため,ハーシュマンやオドンネルらの議 論よりも先述したゲーム理論を用いた方が理解しやすい。だが,「撤退」「同盟」「共存」
のいずれをとっても,自国に有利な状況を維持しつつ単独主義的行動を貫きたい覇権国 の立場からすると,消極的な選択肢でしかない。もう一方の小国の立場から見ても,大 国との短期的利害のみで動くような議論になっており,長期的な視点から小国同士の同 盟を構築するという発想の余地はない。ギルピンの議論は,上位者と下位者の入れ替わ り局面を的確に分析する視点を備えてはいるが,ハーシュマンの用語でいえばスラック が存在しない「緊張経済観」と同じ状況設定であるため,どうしても短期的利益に注意 が偏ってしまう。また,これは平時における行動とは異なるため,「強制された協調・
妥協」という視点が欠落することをカウントすると,「離脱−発言」モデルとは正反対 の「上位者のバイアス」が生じてしまう。
煎じ詰めると,スラック経済観を織り込みながら「下位者のバイアス」を内包するハ ーシュマンと,緊張経済観のみに立脚した「上位者のバイアス」を偏るギルピンの双方 を包含,もしくは接合した理論が存在しないと「L-S パラダイム」が成立しないことに
────────────
! 返ってみたとき,この前提条件にそぐわない事例も多々ある。
19 ギルピンによると,「同盟」は決して片務的な契約ではないことになっている。強いて言えば,かつて 中国と(主に)東南アジアの国々との間で行われていた「朝貢貿易」に近い考え方になるであろう。こ れを大国による「恩情」とみなすか,それとも「お為ごかし」と見るかは,微妙な問題であろう。
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32(1036)
なるのだが,現時点では目的に応じて両モデルを使い分けるしかない,という話にな る。ただし,これにハーシュマンの議論を追加しておくと,財力や権力に物を言わせた 搾取や暴利,職権の乱用が注目を集めやすい一方で,怠惰・怠慢・腐敗といった比較的 小さな悪行は看過されやすい(第
2
表)が,むしろこうした事態に対してこそ「発言」が有効であり,安易に「離脱」を選択することは賢明と言えないことを強調しておきた い。
Ⅳ モデルの拡張(2)Public-Private(公−私)パラダイム
どちらかというとマクロ的な色彩の強い前節の考察を踏まえつつ,本節ではミクロ的 な観点に重心を移しながら,趣を異にするモデルの拡張を試みたい。これは既にハーシ ュマン自身の手である程度の補足・改良がなされている議論ではある。だが,経済的な 格差問題と文化の差異に根差した民族・宗教問題とが,いわば「負の融合現象」を起こ しながら深刻化した事例すら見受けられる現在こそ,再トライすべき「Public-Private」
パラダイム(公的行為−私的行為)に関する定式化を試みる。これは,状況によって
「建前−本音」モデル,「外見−内面」モデル,「(政治的)情念−(経済的)利益」モデ ル,「集団行動−個人行動」モデルと言い換えることも可能であろう。
そもそもの問題として,「公」と「私」の基準,そしてそれらの境目を明確にするこ と自体がかなりの難問である。「公」と「私」は,生来的な性格として各々「善」と
「悪」のふたつの顔を持つ厄介な概念であり,時代や地域によって,あるいは立場によ って,その基準や範囲は大きく異なり,しかもそれらは瞬時に入れ替わることすらあり うる,という社会の複雑さを示す二分法でもある。元々の「離脱−発言」モデルを拡大 解釈するにしても,集団で「離脱」したならば公的行為,個人で「離脱」ならば私的行 為と見做され,匿名性の高い状態での「発言」は私的行為,匿名性のない状態での「発 言」ならば公的行為,と考えるのが限界と思われる。となれば,ここでの議論は前節の
第2表 正常な感知機能が欠落した組織の位置づけ(網掛けをした箇所)
衰退は主にどちらの反応を引き起こすか
離脱 発言
組織は主に どちらの 反応に敏感か
離脱 競争的営利企業 異議は認められるが「体制化」
されている組織
発言
代替的反応方式があるため競争 にさらされる公企業
怠惰な寡占企業 会社−株主関係 インナーシティ など
メンバーからの忠誠をかなり引 き寄せるとともに民主的に応答 する組織
(出所)A. O.ハーシュマン(1970)(邦訳)139ページより,一部表現を変えて引用.
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題(高橋) (1037)33
L-S
パラダイムよりも複雑とならざるを得ない。そこで,この難点を克服するために第3
表を活用したい。この表を用いると,状況によって変わり得る「公」と「私」,「負担 者」と「受益者」,「当事者」と「部外者」の境界線がかなりの程度,明らかになるであ ろう。言うまでもないが,プロジェクトの成否は,その進展とともに負担者と受益者の 納得感・満足度がどのくらい重なり合っていくか,の一点にかかってくる。ここで,単純化された善悪二元論を排した形で「公的行為」と「私的行為」の線引き をなしうる指標として,プレティ(1995)の議論(第
3
表)を紹介したい。これは開発 援助における「住民参加」の度合いを7
段階にランク付けした議20
論であり,以下では筆 者による短評に基づいてコメントする。まず,開発の理念から逸脱しているという意
21
味 で論外のケースとなる「1」,そして援助からの卒業段階,もしくは元々不要と思われる
「7」のケースは最初から除外する。ほとんど官僚や政策担当者による「やらせ」だが,
開発独裁を黙認してでも進めるべき国家的プロジェクトがある場合のみ正当化される可 能性のある状態が「2」と「3」,そして短期的な雇用対策とプロジェクトの早期推進の 観点から辛うじて「必要悪」を併せ呑んだ状態が「4」,そして援助のあるべき姿として 最も理想的なのが「5」と「6」であろう。「6」はオドンネル風に言えば「水平的発言」
の段階をも乗り越えた対等に近い立場での「対話」段階になるが,本稿で特に強調した いポイントは,「5」に見られる「折半方
22
式」による相互承認と互いの行動を伴ったプロ ジェクトの遂行である。この方式ならば,ハーシュマンやオドンネルの言葉を借りれ ば,これは「垂直的発言」と「水平的発言」の一体化を促進する「忠誠」行動と言うこ ともできるであろう。また,「公的な幸福追求」と「私的な幸福追求」の両者が有する 固有の独占欲が薄れ,一時的ではあれ両者の安定的なバランスが保たれる可能性も高 い。
さらに,上述したプレティ(1995)の指標に加え,Ⅰで紹介したダール(1971)の
────────────
20 プレティ(1995)p.1252,および佐藤(2005)168−172ページを参照されたい。
21 指摘するまでもないが,意思表示すら認められないとなれば,それは「占領統治」と同じ話になる。
22 もっとも,「折半」というのは建前で,現実にはドナー国の方がより多くの負担をするケースが多いの が実情である。
第3表 「住民参加」「参加型開発」の段階的分類
「参加」の程度 筆者による短評
1.名目的参加 2.受け身的参加 3.協議的参加
4.物的インセンティヴ参加 5.機能的参加
6.相互行為的参加 7.自発的参加
参加の名に値しない拘束イベント
ほぼやらせだが,「Yes/No」の意思表示は可 ほぼやらせだが,微調整までは応じる ドナー主体だが,住民も賃労働の形で参加 資金・資材の一部を住民が提供した上で参加 ドナーと住民が意見交換をして設計図を作成 ほぼ自前で実施,援助の必要なし
(出所)プレティ(1995),および佐藤(2005)を参考に筆者作成.
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著作から,この議論に貢献しうるアイディアを紹介したい。それは民主主義が成立する 条件として最もシンプルな判断基準とも言えるものである。その基準というのは,エチ オピアのアムハラ族の例を取り上げつつ,「当該社会の中で人と人との信頼関係が勝っ ているかそうでないか」が民主主義を導入できるかどうかの境界線になりうる,という 議論である。とりわけ,ロッカンやダールが指摘する下位文化,すなわち民族や言語,
宗教といったファクターが社会的対立の導火線になりがちであることを強調している点 は,こうした問題に対してやや鈍感なハーシュマンやオドンネルと特徴を大きく異にし ている,と言ってよい。この話にプレティの議論を接ぎ木するならば,「1」から「3」
の段階は民主主義の導入は無理で,開発独裁・テクノクラート支配が正当化されるよう な状態,「4」は境界線上の状態,「5」から「7」は民主主義を導入しても大丈夫と思わ れる段階,ということになる。
また,「援助」や「参加」という概念についてであるが,これは本来ならば「公」の 概念に近似すべき性質のものであるが,佐藤(2005)によると「援助計画に関する議論 に参加する人の数が増えれば増えるほど,ドナー側の思惑から乖離しがち(徐々にでは あるが,「公的」要求が「私的」要求に変質する現象)」というパラドックス現象が指摘 されている。これは長年タブー視されてきた話題を用いると,先進国における高等教育 への進学率の上昇,とりわけ大学進学率の上昇と労働市場の動向とのミス・マッチ状態 とも一脈通じる話であり,経済学の用語で説明すれば「合成の誤謬」に該当するパター ンである。また,ハーシュマン(1982)によれば,「公的行為」とされている選挙制度 ですら「(参加する意思のない者まで動員する)強制された低関与」やこれとは逆の
「過剰関与(選挙違反のような犯罪も含まれる)」も起こるうることが指摘されている。
要するに,「私的行為」が「公的行為」に昇華する事例が少ないのに対して,「公的行 為」とされているものが容易に「私的行為」に転化するケースは枚挙に暇がないほど身 近に多く存在している,という話である。この点,すなわち(通常において)人は私的 行為に流れやすいという,経済学者が好む「性悪説」的な世界観を前提とするならば,
「発言」概念を私的行為に近い「垂直的発言」と公的行為に近い「水平的発言」に二分 割したオドンネルの卓見こそ,民主主義の本質に肉薄したものと言えよう。なぜなら,
いかなる状況でも多数決のみで「発言」を確定することが「公的行為」とされるなら ば,本質的に市場と国家の境界線が消滅してしまい,最終的に公共選択学派の見解のみ が政治経済学になってしまうからである。社会的なルールや規範の確立には,オドンネ ルの指摘する通り「水平的発言」に支えられた「垂直的発言」を(合法的手段で)戦わ せる必要があるだろう。それから確定したルールや規範を遵守するための制度的枠組み を構築するのが筋,と筆者は考える。だが,途上国の現実を見れば,最初(独立直後)
に(欧米産の)法律や制度を導入した後,民族紛争を抱え込む国が後を絶たない。この
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題(高橋) (1039)35
トピックスにも多くの課題が残るが,少なくとも経済成長の土台作りよりも民主主義の 土壌を形成することの方が時間のかかる事実だけは,強調してよいと思う。
Ⅴ モデルの拡張(3)Legal-Illegal(合法−非合法)パラダイム
この節では,Ⅲ・Ⅳにて拡張された範囲を確認すると同時に,2種類の拡張範囲をも ってしてもカヴァーしきれない論点について,なるべく最近の事例に触れつつ言及す る。
これまでの議論で分析できないタイプの組織というのは,「離脱」も「発言」も(実 質的に)不可能で,かつ上位者と下位者の境界,そして公と私の境界も強権的手法で固 定化されていると思しき組織,すなわち一党独裁体制の国家やテロリスト,犯罪者集団 を指す。さらに本稿では,ポスト冷戦期から注目を集めている軍事紛争や破綻国家もこ れらの分類に加えて論じたい。これらの組織は,経済的な要因以外にはいかなる制約も 受けない絶対的権力者が存在するケース(法律や規範を権力者の都合の良いように改変 できる組織),もしくはあらゆる法的制約から自由に行動できるイリーガル・セクター,
のどちらかに属する話として議論を進める。
なお,リーガル・セクターとイリーガル・セクターの中間に位置するインフォーマ ル・セクターについては,受田(2014)を参考としつつ,「離脱−発言」モデルの現実 的妥当性の有無を検討する。本来ならば,これは
L-S
パラダイムの節で取り上げるべ きトピックスかもしれない。しかしながら,これは(法律上はグレーゾーンとなる)イ ンフォーマルなパトロン−クライアント関係がメインとなる議論であるため,歯切れが 悪くなることを承知の上で,敢えて「合法−非合法」パラダイムにて言及を試みる。受 田氏は,歴史的背景を丁寧に押さえつつメキシコのインフォーマル・セクタ23
ーにおける 政治活動(特に都市大衆運動)を分析し,政治のような公的活動と無縁と誤解されがち なインフォーマル・セクターこそ,地方・国政両面で中道右派の
PRI(制度的革命党)
一党支配が続くメキシコにおいて,左翼政党の支持基盤・存在理由になりうる一面を活 写した。かつてハーシュマンは「途上国やインフォーマル・セクターは経済的利害のみ で動く世界であり,政治的情念なるものは存在しない,という考え方は偏見以外の何物 でもない。途上国社会は,先進国と同等に複雑な社会構造を有している。」と喝
24
破した が,受田(2014)はこれを実証したという意味において,貴重な労作と言える。この議 論を敷衍すると,近年のメキシコにおいては,経済的な格差はともかく,政治行動に関
────────────
23 現在,メキシコには62もの先住民言語が存在する。指摘するまでもないが,これはロッカンやダール の想定すら上回る,複雑な社会構造である。
24 ハーシュマン(1981)における議論である。峯(1999)195ページ,ならびに矢野(2004)172ページ を参照されたい。
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してはフォーマル(リーガル)・セクターとインフォーマル・セクターの垣根がほとん ど存在しない可能性もありうる。加えて筆者の印象を述べると,この議論で取り上げら れた現象の大部分は,ロッカンが提案した「参入&離脱−発言」モデル,もしくは先に 述べた保留型オプション(「離脱−発言−接近」モデル,または「離脱−発言−潜伏」
モデル)で説明可能と思われる。メキシコの場合,実質的な一党独裁が(21世紀初頭 を除けば)80年ほど続いているとはいえ,(マフィアに支配されたエリアを別とするな らば)言論の自由が保障されてきた国であり,この論稿から推測すると民主主義が根付 く土壌は充分に出来ていると思われる。また,先述のダール・モデルを用いると,メキ シコは今でも「(大枠で)包括的ヘゲモニー」の段階ではあるが「競争的オリガーキー
(公的異議申し立ての可能性)」の要素も含んだ社会と言えよう。上から目線を承知の上 でハーシュマンやオドンネルの用語を用いて評価すると,惜しむらくは現在のメキシコ のインフォーマル・セクターでは個々バラバラの「垂直的発言」と安易な「離脱」の両 メカニズムに偏り過ぎで,「忠誠」や「水平的発言」が社会に根差していない,「離脱の 脅し」や「ボイコット」といった交渉術も成熟しているようには見えない,そしてその ためにインフォーマルな社会に留め置かれている可能性が大きい,と指摘できよう。も っとも,持続的経済成長と制度構築重視の議論からすれば,これは何も現在のメキシコ に限った話でなく,ほぼ開発経済学のコンセンサスとなっている
25
話であるが。
ここから本題となる「合法−非合法」パラダイムに移りたい。そもそもの議論になる が,元々のハーシュマン・モデル(第
4
表)に見られる問題として,「全体主義におけ る支配政党」と「テロリスト・犯罪者集団」を同列に論じることが挙げられる。これは 心情的には理解できても,厳密に考えると難点が残る。なぜならば,前者には「人権は 抑圧されているが,社会的秩序は存在する」可能性がある一方で,後者は「人権が抑圧 されているうえに,社会的秩序も存在しない」可能性が考えられるからである。率直に 言えば,この分類法自体がやや雑,とも言い得るであろう。ハーシュマンやオドンネル の場合,民主主義の蹂躙や人権抑圧に対してとても過敏に反応し,かつミクロ的視点,────────────
25 受田(2009)63−68ページを参照されたい。
第4表 exit-voice(離脱−発言)モデルの一般的な性格
離脱(exit)
可 不可
発言
(voice)
可 任意団体 競争的政党 一部営利企業
(たとえば少数顧客向けに販売する会社)
家族 部族 国家 教会
全体主義ではない一党体制における政党 不可 顧客との関係で競争的な企業 全体主義的な一党体制における政党
テロリスト集団 犯罪組織
(出所)A. O.ハーシュマン(1970)『離脱・発言・忠誠』(邦訳)137ページより,一部表現を変えて引用.
「exit-voice」モデルの拡張と検討課題(高橋) (1041)37
心理学的側面からの分析に重心があるため,社会的な意味での「必要
26
悪」に不寛容な傾 向が強い。さらに,マクロ,もしくはメゾ・マクロ的な視点がやや手薄であるため,組 織の根幹とも言える資金・資材や人材の調達,予算配分や人事の在り様にも言及できて いない。しかし,繰り返すようであるが,「離脱は不可,発言も不可」と指摘するだけ では,それ以上この局面における精緻な分類も分析にも踏み込めないままであるため,
ここで筆者は「『離脱−発言』の裏返しモデル」(the Reverse model of exit-voice),すな わち「参入(entry)−統制(control)」モデル(第
5
表)を提唱したい。これは,「離脱」と真逆のオプションとして「参入」「募集(
27
recruitment)」「入口(entrance)」を,同じく
「発言」と正反対のオプションとして「統制」「制限(restriction)」「命令(command)」
を設定することから始まる。そして,前提条件も「これから拡大・成長が見込める組織 において,過熱傾向を抑えるための方策」(本来のモデルでは「衰退化傾向にある組織 の採るべき方策」)とし,両オプションの中間を「(参入後の)職業訓練期間,もしくは お試し雇用期間」(元のモデルでは「離脱の脅し」または「ボイコット」)とどちらも
「裏返し」した形で採用する。
このモデルを用いると,これまで言及できなかったインフォーマル・セクター(参入
…可,統制…不可)とイリーガル・セクター(参入…可,統制…可)の接点に踏み込め る。語弊を恐れずに指摘するならば,インフォーマル・セクターから拡大傾向にあるイ リーガル・セクターへの労働力移動には「魔の『ルイス・モデル』」というべき「アリ 地獄」のような関係が恒常的に存在するはずである。これに加えて,今日大きな問題と なっている破綻国家についても,イリーガル・セクターとインフォーマル・セクターの
────────────
26 この「必要悪」の具体的な内容についてであるが,筆者は①治安・社会的秩序を保持するための最小限 の軍事力,②銀行・金融危機が勃発した際の「最後の貸し手」機能,③暦(暦法)や度量衡,公用語の 制定(マイノリティーへの圧迫が不可避的に起きてしまう問題)などのような規格統一,の3つを考え ている。
27 もっとも,アフリカなどで広範に行われている少年兵の調達方法は,「強制された募集」(enforced recruitment)と表現した方が的確と思われる。
第5表 「exit-voice」の裏返しモデル(entry-control)
参入(entry)
可 不可
統制
(control)
可
犯罪者組織,テロリスト ブラック企業,(私設)軍隊
(イリーガル・セクター)
軍事独裁国家 諜報機関,公安
(国家犯罪)
不可
非正規雇用(派遣・パート)
失業者,犯罪者予備軍
(インフォーマル・セクター)
不確実性
(ポジ・ネガ両面)
(出所)筆者作成.
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