密 教 文 化
宋
福
州
版
大
蔵
経
考
三)
中
村
菊
之
進
東
禅
版
刊
行
の
支
持
者
東
禅
版
の
刊
行
に
寄
与
し
た
士
大
夫
元
絡
。
東
禅
版
開
雛
の
当
初
、
大
檀
越
と
な
っ
た
元
絡
に
関
し
(58)て
は
所
々
に
伝
の
記
載
が
存
し
、
逸
事
も
亦
、
多
数
知
ら
れ
て
い
る
。
略
伝
。
元
緯
、
字
は
厚
之
。
杭
州
銭
塘
の
出
身
。
登
第
後
、
広
東
、
両
漸
及
び
河
北
の
転
運
使
等
を
歴
任
、
翰
林
学
士
に
累
擢
せ
ら
れ
、
知
開
封
府
か
ら
三
司
使
、
次
い
で
参
知
政
事
に
達
し
た
。
翰
林
学
士
に
昇
進
の
頃
よ
り
王
安
石
の
知
遇
を
得
、
又
、
神
宗
の
親
任
を
蒙
る
。
知
福
州
。
嘉
祐
七
年
(
一
〇
六
二)
十
一
月
よ
り
治
平
二
年
(
一
〇
六
五)
正
月
迄
の
二
年
三
月
間
、
元
経
は
知
福
州
と
し
て
任
地
に
在
っ
た
。
知
州
在
任
中
の
治
蹟
に
関
す
る
記
載
は
見
出
し
得
な
い
が
、
十
余
年
後
、
参
知
政
事
に
就
任
し
た
時
、
猶
、
福
州
と
の
関
係
を
維
持
し
て
い
た
こ
と
は
、
知
福
州
時
代
に
同
地
の
有
力
者
と
親
密
な
関
係
を
有
し
た
こ
と
を
示
唆
す
る
。
三
司
使
。
開
宝
版
の
印
行
処
で
あ
る
印
経
院
は
煕
寧
四
年
(
一
(59)〇
七
一)
三
月
十
九
日
の
詔
に
よ
り
廃
絶
せ
ら
れ
、
そ
の
建
物
は
三
司
の
庁
舎
と
し
て
利
用
さ
れ
る
こ
と
と
な
っ
た
。
元
絡
は
同
所
に
住
し
た
初
代
の
三
司
使
と
な
っ
た
が
、
火
災
発
生
の
責
任
を
問
わ
れ
、
侍
読
学
士
に
落
職
せ
し
め
ら
れ
た
。
彼
の
場
合
、
其
後
幾
許
な
ら
ず
し
て
翠
牧
使
に
復
職
し
次
い
で
参
知
政
事
に
昇
進
し
た
が
、
元
経
を
含
め
印
経
院
跡
の
三
司
庁
舎
に
住
し
た
歴
代
の
三
司
使
は
、
何
れ
も
そ
の
職
務
上
の
失
態
を
弾
劾
せ
ら
れ
職
を
全
う
し
得
な
か
っ
た
。
印
経
院
跡
を
俗
用
に
供
す
る
に
つ
い
て
は
当
初
よ
り
免
角
の
批
判
が
あ
り
、
此
処
に
住
し
た
計
相
が
終
り
を
善
く
し
な
か
っ
た
事
実
に
つ
い
て
、
世
間
で
は
異
事
と
目
す
向
き
も
多
く
、
元
緯
自
身
、
不
安
を
懐
い
て
い
た
こ
と
は
想
像
に
難
く
な
い
。
或
い
は
此
の
不
安
感
の
補
償
と
し
て
東
禅
版
刊
行
の
寄
捨
に
思
い
至
っ
た
の
か
も
不
知
な
い
。
参
知
政
事
。
元
緯
が
参
知
政
事
に
在
任
し
た
の
は
煕
寧
八
年
(
一
〇
七
五)
十
二
月
壬
寅
十
五
日
よ
り
元
豊
二
年
(
一
〇
七
九)
五
月
甲
申
十
七
日
に
至
る
三
年
半
の
期
間
で
あ
る
。
参
知
政
事
在
任
中
、
元
豊
元
年
(
一
〇
七
八)
十
月
三
日
付
で.
伝
法
院
新
編
法
宝
録
﹄
の
(60)参
定
を
命
ぜ
ら
れ
た
。
然
し
、
翌
二
年
五
月
の
失
脚
に
よ
り
、
参
定
の
業
務
は
後
任
の
察
確
に
引
継
が
れ
、
彼
の
手
で
完
成
し
た
。
本
目
録
は
伝
法
院
の
編
纂
し
た
第
四
番
目
の
、
そ
し
て
最
後
の
法
宝
録
で
あ
(61)り
、
景
祐
四
年
(
一
〇
三
七)
編
纂
の
﹃
景
祐
新
修
法
宝
録
﹄
二
十
一
巻
の
後
を
承
け
、
伝
法
院
最
終
期
の
訳
経
目
録
及
び
関
係
諸
文
書
の
集
録
で
あ
っ
た
と
推
定
さ
れ
る
が
、
完
全
に
散
侠
し
去
り
そ
の
巻
数
す
ら
不
明
で
あ
る
。
元
緯
が
本
目
録
を
参
定
す
る
こ
と
に
な
っ
た
の
は
参
知
政
事
の
職
務
に
付
随
し
て
の
こ
と
で
あ
ろ
う
が
、
参
定
の
作
業
中
に
伝
法
院
関
係
者
よ
り
仏
典
に
関
す
る
知
識
の
供
給
を
受
け
、
大
蔵
経
及
び
そ
の
刊
行
に
関
し
格
別
の
関
心
を
有
す
る
に
至
っ
た
も
の
か
と
推
察
す
る
。
元
緯
は
王
安
石
の
知
遇
を
得
て
副
宰
相
格
の
参
知
政
事
の
要
職
に
就
任
し
、
又
、
神
宗
の
親
任
の
厚
か
っ
た
こ
と
は
伝
に
一
致
し
て
記
載
す
る
と
こ
ろ
で
あ
る
。
此
の
事
実
は
取
り
も
直
さ
ず
、
政
敵
の
少
な
か
ら
ず
存
し
た
こ
と
を
意
味
す
る
。
斯
く
し
て
彼
は
参
知
政
事
を
拝
し
て
間
も
な
く
、
其
の
任
を
全
う
し
台
算
の
長
か
ら
ん
こ
と
を
祈
念
す
る
旨
を
東
禅
版
各
帖
版
木
の
尾
刊
記
に
雛
し
た
。
か
か
る
現
実
的
な
願
望
を
刊
記
に
明
示
す
る
の
は
異
例
の
こ
と
か
と
目
す
る
が
、
大
蔵
経
刊
行
の
功
徳
に
寄
せ
る
元
緯
の
願
望
の
程
を
端
的
に
物
語
っ
て
い
る
。
元
緯
は
以
降
三
年
五
月
在
任
し
た
が
、
息
子
者
を
弾
劾
す
る
者
現
れ
、
彼
自
身
も
坐
鶏
し
元
豊
二
年
五
月
、
参
知
政
事
を
罷
免
せ
ら
れ
知
毫
州
に
出
で
て
中
央
政
界
よ
り
身
を
引
い
た
。
猶
、
政
争
激
化
の
極
に
達
し
た
当
時
に
在
っ
て
、
参
知
政
事
の
三
年
余
は
決
し
て
短
期
間
の
在
任
と
は
目
し
得
ず
、
又
、
中
央
よ
り
去
っ
て
後
も
神
宗
の
親
任
は
変
り
な
く
、
年
余
に
し
て
資
政
殿
学
士
と
し
て
復
帰
し
、
提
挙
中
太
一
宮
の
俸
を
以
っ
て
遇
せ
ら
れ
た
。
老
を
乞
う
に
(62)数
多
の
礼
遇
を
賜
り
、
元
豊
三
年
(
一
〇
八
○)
、
七
六
才
で
嘉
去
す
る
に
及
び
太
子
少
師
及
び
章
簡
の
説
の
遺
贈
を
加
え
ら
れ
た
。
歴
代
知
福
州
。
東
禅
版
刊
行
の
開
始
さ
れ
た
煕
寧
年
間
未
よ
り
完
(63)成
を
み
た
政
和
二
年
に
至
る
三
十
七
年
間
の
知
福
州
在
任
者
は
二
五
代
、
二
二
名
を
数
え
る
。
完
成
後
の
重
雛
刊
記
と
も
含
め
、
刊
記
に
記
名
あ
る
知
福
州
は
次
の
六
名
で
あ
る
。
劉
瑛
。
元
豊
四
年
(
一
〇
八
一)
四
月
よ
り
同
六
年
(
一
〇
八
三)
宋 福 州 版 大 蔵 経 考 ( 二)-37-密 教 文 化 (64)
八
月
に
至
る
二
年
四
月
間
、
知
福
州
に
在
任
。
首
刊
記
に
元
豊
三
年
(65)と
あ
る
帖
本
の
尾
刊
記
に
沖
真
及
び
元
緯
と
連
名
し
て
、
天
章
閣
待
制
知
軍
州
事
劉
瑛
と
記
載
す
る
。
許
慾
。
元
祐
元
年
(
一
〇
八
六)
十
月
着
任
。
在
任
中
に
卒
去
(66)し
た
。
次
任
の
朱
福
の
着
任
は
元
祐
二
年
(
一
〇
八
七)
八
月
で
あ
る
こ
と
か
ら
、
在
任
期
間
は
一
年
弱
と
推
定
す
る
。
病
気
平
癒
を
祈
願
す
(67)る
元
祐
二
年
八
月
の
為
自
身
捨
銭
三
十
貫
文
入
等
覚
院
な
る
刊
記
が
存
す
る
。
祠
述
。
福
建
路
提
刑
そ
の
他
多
く
の
官
職
の
歴
任
中
、
二
回
に
わ
(68)た
り
知
福
州
と
し
て
在
住
し
た
。
第
一
次
は
元
祐
五
年
(
一
〇
九
〇)
四
月
以
降
同
七
年
(
一
〇
九
二)
四
月
に
至
る
二
年
一
月
間
、
第
二
次
は
元
符
三
年
(
一
一
〇
〇)
十
二
月
以
降
崇
寧
元
年
(
二
〇
二)
四
月
(69)に
至
る
一
年
四
月
間
で
あ
る
。
第
二
次
在
任
中
の
記
年
を
有
す
る
刊
記
に
王
祖
道
及
び
陳
陽
と
連
名
し
て
い
る
。
王
祖
道
。
福
州
閲
縣
の
出
身
。
出
身
地
回
避
の
原
則
の
例
外
と
し
て
、
然
も
二
回
に
わ
た
り
知
福
州
に
在
任
し
た
。
第
一
次
は
元
祐
八
年
(
一
〇
九
三)
二
月
以
降
翌
、
紹
聖
元
年
(
一
〇
九
四)
閏
四
月
に
至
る
一
年
二
月
間
、
第
二
次
は
崇
寧
二
年
(一一
〇
三)
五
月
以
降
同
四
年
(
一
一
〇
五)
正
月
以
前
の
約
一
年
余
の
期
間
で
あ
る
。
又
、
第
一
次
在
任
後
、
福
州
路
提
刑
に
移
り
紹
聖
二
年
(
一
〇
九
五)
十
二
月
迄
の
一
年
八
月
間
、
そ
の
任
に
あ
っ
た
。
第
一
次
在
任
中
、
閲
江
の
中
州
、
榜
厳
州
の
南
北
に
舟
を
連
ね
浮
橋
を
架
け
交
通
の
便
を
計
り
、
住
民
は
建
桐
し
て
顕
頒
し
た
。
中
央
に
帰
っ
て
後
、
刑
部
尚
書
(兵
部
尚
書
と
な
す
記
載
あ
り)
に
任
ぜ
ら
れ
、
端
明
殿
学
士
太
中
大
夫
に
達
し
た
。
(70)大
観
二
年
(
=
○
八)
卒
。
単
独
記
名
刊
記
の
他
に
陳
陽
と
連
名
(71)の
、
或
い
は
陳
陽
及
び
桐
述
と
連
名
の
刊
記
が
知
ら
れ
て
い
る
。
江
応
辰
。
紹
興
三
十
二
年
(
二
六
二
年)
十
月
よ
り
隆
興
二
年
(72)(
=
六
四)
五
月
迄
の
一
年
半
余
、
在
任
し
た
。
其
後
、
四
川
宣
撫
制
置
使
に
移
っ
た
と
あ
る
が
、
同
年
十
一
月
に
は
左
朝
議
大
夫
敷
文
閣
待
制
知
福
州
軍
提
挙
学
事
充
福
建
路
安
撫
使
馬
歩
軍
都
総
管
玉
山
縣
開
国
男
食
邑
□
□
賜
紫
金
魚
袋
江
応
辰
と
し
て
、
﹃
伝
法
正
宗
(73) (74)論
﹄
の
追
離
に
捨
資
し
て
い
る
。
官
は
吏
部
尚
書
を
経
て
端
明
殿
学
士
に
至
っ
た
。
費
選
。
淳
煕
十
三
年
(
=
八
六)
四
月
よ
り
同
十
六
年
(
二
八
九)
三
月
迄
、
知
福
州
に
在
任
し
た
。
淳
煕
巳
酉
歳
(
十
六
年)
の
重
(74a)離
刊
記
に
﹁
安
撫
使
賞
侍
郎
捨
﹂
と
あ
る
。
其
他
の
士
大
夫
(75) 彰 寂 。 元 祐 二 年 ( 一 〇 八 七) の 刊 記 に 、朝
議
大
夫
提
黙
福
建
路
刑
獄
公
事
本
路
勧
農
使
提
挙
江
渠
公
事
上
柱
国
平
涼
縣
開
国
男
食
邑
三
百
戸
賜
金
魚
袋
彰
寂
な
る
官
位
職
勲
等
の
記
載
あ
り
、
母
王
氏
、
妻
鄭
氏
及
び
娘
彰
念
二
娘
と
共
に
銭
三
十
貫
文
を
寄
捨
し
自
(
704)
函
を
開
離
し
た
。
彼
は
前
記
の
職
に
元
祐
元
年
八
月
着
任
し
同
三
年
十
二
月
に
は
中
央
に
帰
任
し
て
(76)い
る
。
猶
、
同
刊
記
に
は
家
族
構
成
を
記
載
し
、
父
の
代
よ
り
勲
等
を
有
し
た
こ
と
が
知
ら
れ
る
。
陳
陽
。
福
州
出
身
。
紹
聖
元
年
(
一
〇
九
四)
九
月
、
制
科
及
第
。
礼
楽
に
通
じ
﹃
楽
書
﹄
二
十
巻
を
は
じ
め
合
計
一
五
〇
巻
の
著
作
を
有
し
、
官
は
礼
部
侍
郎
に
達
す
。
東
禅
版
正
蔵
の
略
完
成
時
の
崇
寧
二
年
十
一
月
、
割
子
を
以
っ
て
上
奏
し
、
東
禅
版
木
に
﹁
崇
寧
万
寿
大
(77)蔵
﹂
と
賜
名
し
準
勅
版
と
為
す
旨
の
御
筆
が
あ
っ
た
。
陳
陽
に
は
単
(78)名
刊
記
の
他
に
、
何
述
及
び
王
祖
道
と
の
連
名
刊
記
が
存
す
る
。
林
之
寄
。
福
州
侯
官
縣
の
出
身
。
紹
興
二
十
一
年
(
=
五
一)
及
第
。
提
挙
福
建
路
市
舶
を
経
て
福
建
路
参
議
官
に
再
任
し
た
。
官
位
(79)は
朝
奉
郎
に
留
ま
る
。
隆
興
二
年
十
一
月
、
﹃
伝
法
正
宗
論
﹄
の
追
離
(52・80)に
践
文
を
書
し
た
。
桑
葉
大
任
。
福
州
出
身
。
政
和
八
年
(
=
一
八)
進
士
及
第
。
(81)官
位
塾
朝
議
大
夫
主
管
台
州
崇
道
観
。
郷
貢
進
士
、
林
柄
然
と
各
自
二
十
貫
文
省
を
捨
銭
し.
注
大
乗
樗
伽
経
﹄
三
時
(
435)
を
開
離
し
(82)た
旨
の
刊
記
が
存
す
る
。
及
第
の
期
日
並
び
に
刊
記
の
期
日
及
び
官
職
名
よ
り
み
て
、
葉
大
任
は
、
終
生
、
実
官
職
に
就
任
し
な
か
っ
た
も
の
か
。
猶
、
彼
の
名
は
開
元
版
の
﹃
辮
正
論
﹄
明
(
274)
函
の
尾
函
記
に
も
見
出
し
得
る
。
(83)陳
宋
臣
。﹃
大
唐
貞
元
新
定
目
録
﹄
英
(
捌)
の
尾
刊
記
に.
福
州
進
士
陳
宋
臣
詳
定
L
と
あ
っ
て
、
校
定
に
従
事
し
た
こ
と
が
知
ら
れ
る
。
開
元
版
の
雛
経
都
会
の
一
員
に
陳
俊
臣
あ
り
。
彼
と
排
行
と
一
に
す
る
親
族
か
。
趙
士
術
。
紹
興
二
十
六
年
(
=
五
六)
五
月
に
、
大
蔵
経
版
の
年
代
寝
遠
、
為
に
字
書
漫
滅
し
印
造
不
堪
な
る
を
観
て
俸
資
を
特
施
し
工
に
命
じ
損
者
は
重
修
、
朽
者
は
新
刻
し
一
蔵
計
五
百
六
十
余
函
を
(84)円
満
な
ら
し
め
た
旨
を
記
す
刊
記
が
存
す
る
。
趙
士
術
は
宗
室
の
一
員
に
し
て
皇
叔
。
当
時
の
官
職
は
保
寧
軍
承
宣
使
知
西
外
宗
正
事
、
同
職
に
紹
興
二
十
一
年
(
二
五
一)
以
降
同
(85)三
十
一
年
(
二
六
一)
迄
在
任
し
た
。
西
外
宗
正
司
は
は
大
宗
正
司
の
後
身
で
、
族
属
を
糾
合
し
而
し
て
之
を
徳
行
道
芸
を
以
っ
て
訓
し
其
の
詞
訟
を
受
け
而
し
て
其
の
葱
違
を
掌
る
官
衙
で
あ
り
、
宗
室
員
中
、
徳
行
の
秀
れ
し
長
者
を
以
っ
て
知
事
と
為
す
を
例
と
し
た
。
南
渡
後
霧 福 州 版 大 蔵 経 考 ( 二)-39-密
教
文
化
は
、
他
の
官
衙
に
同
じ
く
、
諸
処
を
移
転
し
紹
興
三
年
(一一三
二)
(86)に
至
り
福
州
に
安
置
し
た
。
猶
、
本
職
に
は
直
前
の
前
任
者
と
し
て
、
同
一
排
行
に
属
す
る
趙
士
樽
が
あ
り
、
開
元
版
の
開
離
に
捨
資
し
て
い
る
。
曽
墨
。
福
州
閲
縣
出
身
。
紹
煕
四
年
(
一
一
九
三)
に
登
第
。
知
泉
州
奮
江
縣
た
り
。
大
理
寺
丞
、
広
東
運
判
(発
運
判
官
或
い
は
転
運
(87) 判 官 か) に 達 し 、 宝 慶 二 年 ( 一 二 二 六) 、 六 十 才 に て 卒 。 多 数 (88)の
重
雛
刊
記
に
広
東
運
使
寺
正
曽
豊
捨
と
あ
り
、
最
晩
年
の
頃
の
捨
記
と
推
定
さ
れ
る
。
彼
は
読
書
家
と
し
て
知
ら
れ
、
﹃
貴
渓
集
﹄
十
巻
等
の
著
作
が
存
し
て
い
る
。
謝
時
挙
。
泉
州
主
簿
。
泉
州
或
い
は
泉
州
某
縣
の
官
財
出
納
官
(89)か
。
重
離
刊
板
伍
片
の
捨
記
あ
り
。
徐
善
信
。
泉
州
某
縣
縣
令
の
妻
或
い
は
母
な
る
べ
く
、
泉
州
縣
(90)君
の
叙
封
号
を
有
す
。
重
離
刊
板
伍
片
の
捨
記
あ
り
。
謝
崇
。
三
班
奉
職
。
武
官
未
第
二
位
階
に
在
り
。
一
百
貫
文
を
(91)捨
施
し
印
板
三
函
を
開
離
(
重
離
な
る
べ
し)
す
る
旨
の
刊
記
あ
り
。
東
禅
版
の
刊
行
に
寄
与
し
た
僧
尼
及
び
庶
民
福
州
版
の
各
帖
に
は
資
を
寄
せ
た
僧
尼
及
び
庶
民
の
名
を
記
す
多
数
の
記
載
が
存
し
、
蔵
経
刊
行
に
関
す
る
事
情
は
固
よ
り
、
福
州
地
域
に
於
け
る
当
時
の
社
会
事
情
の
一
端
と
も
伝
え
て
い
る
。
猶
、
此
等
の
記
載
に
は
年
月
を
記
さ
ず
、
同
一
帖
に
存
す
る
他
の
記
年
と
は
別
年
代
の
記
載
で
あ
る
場
合
も
多
い
と
推
定
さ
れ
る
。
東
禅
版
の
刊
行
に
寄
与
し
た
僧
尼
各
帖
本
の
刊
記
に
見
出
さ
れ
る
僧
尼
の
所
属
す
る
寺
院
は
十
五
所
以
上
、
又
、
そ
の
所
在
す
る
場
所
は
福
州
及
び
泉
州
で
あ
っ
て
、
募
縁
の
範
囲
は
比
較
的
狭
い
。
泉
州
地
域
で
の
募
縁
は
重
雛
に
関
す
る
如
く
で
(93)あ
る
。
記
載
の
要
旨
を
所
属
寺
院
別
に
表
記
す
る
。
宋 福 州 版 大 蔵 経 考 ( 二)
-41-密 教 文 化
東
禅
版
の
刊
行
に
寄
与
し
た
庶
民
刊
記
に
見
出
さ
れ
る
一
般
庶
民
の
捨
資
は
福
州
、
建
州
及
び
泉
州
の
各
地
域
に
及
ぶ
。
此
等
の
地
域
の
内
、
泉
州
か
ら
の
寄
捨
は
や
や
遅
れ
て
専
ら
重
離
に
関
す
る
如
く
で
あ
る
。
福
州
の
内
で
も
特
に
城
下
三
縣
、
閾
、
侯
官
及
び
懐
安
の
各
県
か
ら
の
寄
捨
の
件
数
が
多
く
、
寄
捨
人
の
所
属
す
る
縣
名
の
判
明
し
て
い
る
四
七
件
中
、
三
三
件
(約
七
〇
%)
は
此
等
三
縣
よ
り
の
捨
資
で
あ
る
。
一
件
当
り
の
寄
捨
額
は
士
大
夫
の
場
合
に
比
較
し
て
少
な
い
が
、
そ
れ
で
も
百
貫
文
の
例
も
存
す
る
(94)記
載
の
要
旨
を
所
属
地
域
別
に
表
記
す
る
。
宋 福 州 版 大 蔵 経 考 ( 二)
-43-密
教
文
宋 福 州 版 大 蔵 経 考 ( 二)