• 検索結果がありません。

中央学術研究所紀要 第25号 173ケネス・E・ボールディング、藤田浩一郎 訳「ヨハン・ガルトゥングに対する十二の疑問」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中央学術研究所紀要 第25号 173ケネス・E・ボールディング、藤田浩一郎 訳「ヨハン・ガルトゥングに対する十二の疑問」"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ガルトゥング著﹃平和研究論集﹄に寄せて

ョハン・ガルトゥングに対する十二の疑問

ケネス。E・ボールディング

藤田浩一郎訳

173 ピカソがそうであったように一人の人間の手になる成果とは思えないほど、さまざまな分野にわたって膨大な業 績を挙げている人がいるが、ョハン・ガルトゥングもまた、この類の人物であろう。再版された論文からなるこの 二巻本は、最終的には、五巻及びそれ以上出ると予想される最初のものである。巨大なエネルギーと想像力に満ち 溢れた人物が生み出した成果であって、その仕事は特に社会学の分野が中心であるとはいえ、異なる多くの分野に わたっている.彼はあたかも噴射するロケットのように、アイディアを打ち出していく。彼は母国語でない英語で 様々な国の読者に向かって著作を著しているが、一般的に社会学的特殊用語を並べるだけという過ちに陥らずに、 英語圏において英語を学んだ者たちの羨望の的になる程の、簡潔で、文体の整った、かつ流暢さをもつ文章を書き 続けている。彼の仕事は、ひとつの論文に凝縮されたものというよりは、様々な論文の中に散らばっているから、 この全集は大変歓迎されるものになるだろう。その著作群は、読者にガルトゥングの思索の幅の広さをかなり正確 に教えてくれている。評者としては、彼の思想を余すところなく示してくれるであろう残りの全集が出版されるの

(2)

174 を心待ちにしているところである.もちろん、この種の全集の性質上、ある程度の反復は避けがたいところではあ る.しかし、ガルトゥングの主張しなければならないことの多くは、一度ならず幾度も重ねて言及される価値があ るものであるので、多少の重複があっても、その全集の価値を減ずるものではない. この二巻の全集には三十三の論文が納められている。多様で豊富な内容を持つこの全集を詳細に検討することは ほぼ不可能に近い.この論文集は、ごくあたりまえな手法により、大雑把にトピック毎に分けられている.第一巻 では、主として理論的、一般的な平和の問題に関する序論的な部分と、次いで平和研究、平和教育、平和実践に関 する部分が取り扱われる。第二巻では、より特定化された、社会学的な問題が取り扱われる。戦争、軍備競争に関 する部分、社会学的・経験科学的な世論や軍縮に関する部分︵主に報告書として書かれている︶、平和維持、平和創 造に関する部分︵主として社会学的理論的に扱われている︶、非軍事防衛に関する部分が取り扱われている。第三巻 は、もっと理論的なものになるであろう。第四巻は、世界構造であり、第五巻は、事例研究になると思われる。l lこれらはまだ出版されていない・ 私は個人的にガルトゥングを尊敬もし、賞賛の念も抱いている。私は彼との友情から得るところも多い.それに もかかわらず、彼の見解の多くの点について、極めて明確な型で見解を異にしていると考えている。それゆえ、私 がこの書評でできる最も有益なことといえば、いささか喧嘩腰で、私事にかかわるように聞こえるにしても、それ を承知の上でこれらの見解の相違点を説明することである。ガルトゥング自身、マトリックスで分類するのが好き であるが、私も表1に示したように配列することによって、彼と私の立脚点を明らかにすることから始める。ここ で私は、世界像に対して三つの広義のタイプの理論的アプローチについて説明をする。それらは、﹁構造的﹂、﹁弁証 法的﹂、﹁進化論的﹂と私が呼んできたものである。この場合、私はこれらのタイプに、暴力に関するある種のタブ

(3)

ヨ ノ 、 二 構造論者は、主に静的な構造パターンと形式という観点から思考する。物事を動的に理解しようとしているとき でさえ、天体力学のように時空の四次元構造で捕えている。彼らにとって、ダイナミックスは少し不得手のよう見 受けられるが、その瞬間を表示している構造をもって世界像を表そうとしている。私はガルトゥングを暴力をタブ ーとするこの構造論者の範嬬に入れている.﹁多重測定基準﹂・数量平和学者の多くも、この範祷に入るであろう. 例えば、ルドルフ・ランメル角且○]g]・困匡日日①]︶、ディビット・シンガーSmぐ己の旨い閏︶、英国の気象学者で あるリチャードソンP・同国、冨巳の目や彼は色々な意味で平和研究の父である︶さえも、この範涛に入る.構造 論者で暴力をタブーとしない立場を取るものとしてタルコット・パーソンズ︵目巴8群嗣胃のgの︶が上げられる。そ んな意味でガルトゥングの考えは、パーソンズ学派であると考えられる.しかし、マックス・ウェーバ︵冒閏君g閏︶、 ワォールラス︵量武1国、︶、ビルフレッド・パエトロ︵司胃①色○勺画①再○︶、そして、その他の高名な社会学者も、こ の範嬬に入る。多少、強引に涙じこんで押し込めば、この小さな枠の中に収まるものと考えられる。 次の範祷は、階級とか国とか、大きな構造を持つシステム同士の闘争を通じて相互作用をするという点から、世 lが、著者の思想の中で重要であるかどうかについて、それぞれ分類することにした。 ガ ル ト ゥ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問 表 1 'ノ 〆 ズ 175 暴 力 T・パ K・マルクス、レ・上ン 毛沢東 ︵ロ・ハ、ムノイン 非 暴 ■ZT ノリ J・ガル、、ウング H・シ.︾シミ.、. K・ポ.ルディング 構造、蝿義 弁証法 進化論

(4)

界を見ようとする弁証法論者達の属する範祷である。その範祷で暴力をタブーとしない立場を取るものとして、マ ルクス、レーニン、毛等は最も有名であるが、その他クラウゼビッッや弁証法の父、ヘーゲルもこの範嬬にはいる. この範嬬に属しかつ暴力をタブーとする人を見いだすのは難しい。何故なら闘争そのものが彼らにとって大切だか らである。闘争の勝利で世の中のバランスが成り立つと考えるので、しかも暴力をタブーとする人は大変限られる だろう。しかし、そのタブーが完全ではないと知りつつも、ヘルマン・シュミット田閏日目の8日匙“スウェー デンの共産主義者︶のような平和学者を、この範祷に分類してきた。 次に進化論者は常に変化するという変数の条件下で相互作用し、無数の種の生態的相互作用からなる非平衡のシ ステムとして世界を見ている。ダーウィンの、不幸でしかも全く不正確な﹁生存競争﹂の比職にもかかわらず、関 係を表す支配的なモードは、﹁闘争﹂ではなく、相互作用であるとするものである。厳密には弁証法的な過程は、社 会進化の中で極く稀に有意義なものとして見い出されるが、生物学的進化では、ほとんど起こらないものと考えら れている。その主要なダイナミックスは生態学的、非弁証法的と見倣されている。この観点から、もちろん、これ らの構造が順番に次に起こる展開の決定に役立ち得るが、進化の過程から出現する構造は、ある瞬間、あるいは特 定の期間の過程の切断部分に過ぎない。私自身、暴力をタブーとするこの範嬬の立場を強く支持している.暴力を タブーとしない進化論者は、過去に遡っては、アダム・スミス、アルフレッド・マーシャルとチャールズ・ダーウ ィン等である。顕著な現代の代表者としては、﹁共通の悲劇﹂のガレット・ハーディン︵の四陣①洋画胃島ロ︶を上げる ことができる。 176 構造的進化の連続体の反対側からガルトゥングを見ると、彼の著作の中に多くの些細ではあるが弁証法的な疑問 点を見つけることができる。これらを進化的弁証法と見倣すよりも主に構造的弁証法と見倣す理由を説明する必要

(5)

がある。構造的弁証法とは、その矛盾が解決されず、しかも矛盾そのものの中に現れ、継続している緊張下でどん な分析。統合よりも適した事実の描写が存在し得るとする立場である。古代中国の陰陽思想がその良い例であろう。 これらの不一致は進化と弁証法の相違である。一方が正しく、他方が誤りであるという見方、つまり、進化的に言 えば、他を征服するある種の﹁勝利﹂により解決されるというものである。 最初の疑問点は、彼は、本当の意味での平衡論者ではないので、彼をこのように分類するのには、多少のためら いはあるけれど、ガルトゥングの思想は、進化的または弁証法的であるというよりは寧ろ、構造的、静的である。 平衡は、変化しやすい現実世界ではわからないし、人間の作り事であるということを彼は同意するだろう。ガルト ゥングは次のように考えている。人は変化というものが、いつもある種の規範的評価と関連していると疑っている。 彼は、世界が正常でないと考えているところがあり、それを改善したいと考えている。そのこと自体問題はないが、 ほとんどの変化というのは、規範的評価の結果ではないのである。 このことが第二の疑問点へと導く。それは弁証法的選択の問題というよりは、強調の問題である。ガルトゥング の考えは、事実の描写が難しいような点において、とても厳しく規範的である。私自身の考えもとても規範的であ るので、私はこの点について軽く触れるだけにする。未来へと発展する現実世界のダイナミックスの認識への影響 の研究や、世の中の状況は悪いものからより悪いものへ、あるいは悪いものから良いものへという変動の意味の研 究からなる﹁規範科学﹂と呼びたい範涛の中の、本質的に下位の学問分野と私は平和研究を見ている.私は規範科 学は必要だと信じるが、規範科学を危険な仕事と見倣している.私達の現実のイメージをこじつけようとするフィ ルターとして規範は働く危険性があるからである。 我々は世界を見る場合、我々の見たいように見ているし、すべての思考はある程度希望が入るので、科学的根拠 177 ヨ ハ ン ・ ガ ル ト ゥ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(6)

178 を重んじる共同体の価値観では、認識をこじつけようとするものに対しての防御に力点がおかれている。科学の分

勤での諸手段l実験サンプリング統計的検査等lの利用は認識や希望的観測に対して科学者を守農よう

に設計されるある種の儀式と考えられる.もう一つの防御策は、規範が可能なかぎり感情から遠ざかることである。 私達は明らかに強い感情や情緒なしで価値を持つことができる.価値そのものというよりは、現実の認識をゆがめ るのは感情や感覚であると人は考える。このことが科学者を血の通わない生き物にしているように思われるなら、 恐らく我々は次の事実に直面しなければならない。科学的倫理を持ち合わせない人や説得術や信念のために策略を 用いようとしている人々に対してこそ科学者は感情や情緒は取っておくべきである。これが本当のジレンマであり、 このことが、悪徳を少しでも減じようとするダイナミックスの全体像の実相を把握しようとする冷徹な科学者と、 人間の尊厳の辱め、暴力、貧困、抑圧に怒りを抱く人情味ある、完全無欠な人格との間の深刻な役割の対立に導く 可能性がある.ガルトゥングはこの二つの役割の間を俳個しているが、それは、彼の不名誉にならない.しかし 認識の歪みを避ける方法によってその対立の緊張は必ずしも解決されない・ 方法論的な事柄に触れたので他の二つの方法論的な疑問に言及する。一つは、事実の描写というよりは分類の方 が人間の理性に向いているが、特に連続している世界から見ると、ガルトゥングの思想は分類学に片寄っているき らいがある。私が図1で示したように彼はマトリックスや物事︵要素︶を鳩の巣のような狭いところに配列するこ とを特に好んでいることが、彼の特徴を示している。しかしながら、二分法の点から言って、構造的暴力対行為的 暴力、勝者対敗者、中心対周辺等々、どんな二分法以上に連続的で、複雑なのがこの世の中である。 他方、このことは、前述のこととは一貫性がないように見えるが、ガルトゥングの思想の構造的特性は、世界の パターンや現実の不連続性を認識するのを妨げている。彼は社会の中での乱雑さの重要性を過小評価しており、ま

(7)

ガ ル ト ゥ ン ヨ ノ 、 ン た頻度の高い予期できない多変数的変化、即ち、古い秩序が、新しい秩序によって交換されるという﹁システム・ ブレイク﹂と呼ばれる変化により、社会組織にもたらされる極度の困難をも過小評価している。構造に単純に乱雑 さを投入する際、構造的思考は乱雑さを重要視はしていないが、進化的思考においては、乱雑さをとても不可欠な 要素とする。歴史がかくあったように起こらなければならないという信念は、歴史家の幻想に過ぎない。実際の記 録は、幾らか外れてしまった、起こりそうもない出来事の継承の記録である。社会組織では、﹁百年洪水﹂のような 出来事で満たされており、それは、おおよそ起こりそうだと予想されるが、適時に起きる場所を予想しえないもの である。実際のその時の歴史のあり様を創造する、起こりそうな出来事が、実際起こるのである。私は、ガルトゥ ングを厳格な決定論者とは呼ばないが、構造主義者がかなり決定論的な点から考えるきらいがある。 もう一つの別の疑問点は、意味論よりも少し深く、部分的にはその流れであるが、﹁積極的﹂、﹁消極的﹂という言 葉の定義において、ガルトゥングには不注意があるように思われる点である.彼がとても好んでいる、﹁消極的平和﹂ という表現は、完全な呼び誤りである。彼の述べているのは、消極的な戦争である。積極的、消極的という言葉が、 ここで有用かどうかはわからない。国際システムの中で理解できることは、戦争と平和が、例えば、温度が上がっ たり、下がったりするにつれて、水が凍って氷になり、解けて水になるような二つの良く定義された状態を持つシ ステムの様相のそれぞれである。平和とは、戦争しているグループのシステムの一つの様相に過ぎない。それは単 に水は﹁氷でない﹂という以上に﹁戦争のない﹂という状態を意味しているものではない。戦争と平和のいずれも、 様相がそれぞれ特徴を持ったシステムの二つの様相に過ぎない. ガルトゥングの善という価値に重きを置く事柄の、ある状態を示しているように見える﹁積極的平和﹂という言 葉はほとんど不幸なものである。どのような点から言っても、消極的平和の反対のものとはならない。実際それは 179 グに対・する十二の疑問

(8)

180 平和と関係ない。すべての人がそれを真実と認めないかもしれないけれども、様相という点から、平和とはそのシ ステムのひとつの部分である。これは規範的科学者としての私自身の見方ではないが、戦争を愛してきた人々や平 和よりも良いものと考える人はいるし、過去において、人々の見方のひとつであったし、また今もその見方は存在 すること認めせざるを得えない。社会システムにおいて﹁積極的﹂と﹁消極的﹂という語の区別をはっきりさせる ことは、マイナス掛けるマイナスがプラスになるような簡単な代数の原理である物理学上の区別以上に大切なこと である。しかし社会システムにおいて、マイナス掛けるマイナスは、プラスと同じではない。悪を作り出すことを 慎む、つまり、害することを慎むことと善を作り出すということは、全く別物であり、計画されたマイナスなもの の交換は、プラスなものの交換とは、全く異なるものである。 それは、全体の価値観を理解する重要な手掛かりとなる第一巻の第二番目の論文に説明されているように、エン トロピーという概念の根本的な誤解であるように思われる。後に化学において酸素であることが解かつた熱素とい う考え方と同じくらい害のある誤解ではないけれども、熱力学においてエントロピーの概念は、不幸にも否定的︵マ イナス︶に定義された。エントロピーは負の潜在力である。熱力学第二法則は、何か起こった場合に、そのことが 起こりうるための潜在力があったからであり、それが起こった後では、その潜在力は使い果たされてしまったもの であるということで一般化される。その認識を通して潜在力の減少は、エントロピーの増加分に等しい。それゆえ に潜在力は、正の概念であるから、エントロピーの概念より理解しやすいのである。 彼の平等に対する希求︵多くは称賛に値するものであるが︶、換言すれば階層、支配、勝者等の、抑圧のように見 えるものに対する憎悪ゆえに、ガルトゥングは、善のシンボルとしてエントロピーを定義し、ネゲントロピー、つ まり、構造、起こりそうもない可能性や潜在力を悪と見倣している。また彼は、エントロピーがあらゆるものの平

(9)

ガ ル ヨ ノ 、 ン ここで構造的観点と進化的観点の根本的な相違について考えることにする。構造的観点は、構造の理想的状態そ れ自身を敵視しており、構造を平等の敵としてみる。実際そうなのであるが、進化的観点では、エントロピーの分 離、つまり、なんの心配もいらない無限の太陽光線の中で、住み分けがうまく行われている我々の場合のように、 熱力学第二法則によれば、常に熱力学的無秩序が、増大するという犠牲を払って、組織、人や物から構成される無 限の人工物、人間、生命、DNA、結晶体中に整った小さなお城を築くものとして、全体的進化の過程を捉えてい る。構造論者は構造において、排煙、スラム街、悪徳を汚れと判断して、それを﹁排除してしまえ﹂と主張する。 進化論者は、汚れが進化そのものの代価と見倣す。 ガルトゥングのエントロピーに関する誤解は、人は疑うが、平等などの概念に与えている圧倒的な重要度、つま り彼の規範科学の基本原理に由来する。ガルトゥングは、ある人は貧乏で、またある人は金持ちであるというよう な社会より、すべての人が、等しく貧しいといった社会を好んでいる。そのような平等に対する希求は、貧乏人に 対する憐悪の情は持たずに、金持ちを憎むということへ導くのである。貧困に対して強い負の価値を持ち、不平等 と信じ、それが廃止されるべきであると信じる人がいる。このことは、受け入れられる不平等の程度を越えて、誰 も落ちることが許されない限界よりさらに下に下限を持つ社会に導くのである。ガルトゥングはどこにも彼の理想 ている。 ないが、すべて不安定で不平等な構造を持つ、星、惑星、生命や社会が徐々に向かいつつある究極の状態と見倣しないが、 のが宇宙空間に同温で、均等に分布している宇宙の最後の究極のささやきを、あるいはそれを浬葉と呼ぶかも知れ 方向に向かっていると考えている。熱力学第二法則による、これ以上何事も起こりそうにないような、すべてのも 衡状態への推移、富の消失、階層や組織の崩壊を意味するかぎり、すべてのものが、社会エントロピーが増大する 181 フ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(10)

182 社会というものについて説明していないし、実際他の誰がそれをしたとしても、多分その結果、それを好まないで あろう。そのように平等に関する関心は極めて彼の著作の中で強く現われている。 このことは、彼が、平等の代償を軽く見ているように思われる。少なくとも私にとって第一に平等性の欠如そし て第二に自由の欠如という点から、その代償は、とても高くつくように思える。平均的な到達点ではなく、最高到 達点であり、そして平等主義者の社会は、さらにその最高到達点に先んじなければいけない・完全な平等社会では、 芸術、文学、科学の最高品を作り出すことは決してなかった。ガルトゥング自身明らかに質の高い人間であり、そ のこと自体彼の信条を裏切っているという矛盾がある。彼は山の頂点におり、平地にはいないのである。彼の実収 入は世界平均を遥に上わまわったものである。彼は世界の至る所を旅行している。私自身も同様であるが、知的ジ ェット機の乗客であり、彼の生産性から言って、このことを正当化するのは、困難を感じないが、平等主義社会か らは、ガルトゥングのような人は輩出できないという皮肉がそこにある。 さらにガルトゥングは、平等が自由の損失を含むという可能性を理解していない。彼の著作の中で極端な平等主 義者と違って、彼は自由に高い価値をおいていることを暗示している文章がある。しかしながら、自由は所有を含 んでおり、というのは、所有は、自由の持つ権限の範囲のものであり、そして所有は、いつも平等をぶちこわす力 学を持っている。その理由としてある人は、それを有効に使うし、またある人は、下手に使うし、ある人は貯蓄を し、またある人は使い切ってしまうからである。マタイの福音書にある、有名な﹁マタイの原理﹂︵自分の持ってい る富を与えなさい︶は一度所有の平等が破られると、そこに自由がある場合、乱雑さの力により、ある種の不平等 の均衡が達成されるまで、富者はますます富み、貧者は、ますます貧しくなることを説明している.個人所有の厳 密な定義やより大きな平等のために多くの社会所有の確立という説得力ある事例の一方で、完全な平等主義は、ガ

(11)

ガ ル ト ゥ ン ヨ ハ ン ルトウングにとって受け入れがたいものと思われる︵私にとっても受け入れがたい︶個人所有の制限を含んでいる。 ガルトゥングの不平等に対する嫌悪と密接に関連していることは、彼は支配、言い換えれば階級制に対しても嫌 悪を抱いていることである。彼自身が上流階級に属しているために、彼が明らかに勝者であるという事実にも拘わ らず、誰かが勝者になるということを認められないのである。このことは社会組織の原理としての階級制の完全な る拒絶に導く。彼はこの拒絶の代償について検証して来なかったように思われる。階級制は、誰かとほかの誰かと 情報交換するような小さな集りを越えるどんな組織も支払う代償である。一握り以上の人が所属する組織において 欠くことのできない、情報伝達を節約するための工夫である。たとえば、百人程度の組織でさえも、九千九百の可 能なペアができるし、その全部のペアの間の情報伝達を達成するのは不可能に近い。 階級制は、情報の腐敗や権力の集中という点で、その犠牲を伴い、意志決定者の力が強ければ強いほど、その結 果は悪いほうになるという、一般的な命題がある。階級制の非効率や病的症状があるということを疑う人はいない だろう。しかしながら、非効率性や病的症状は、階級制の構造の中で処置されるべきであり、それを廃止すること によっては決して解決されないものである。階級制をなくすことや組織の解放という社会エントロピーの創造によ り、人間の問題を解決しようとすることは、全くの幻想に過ぎない。ガルトゥングの階級制を病んでいる状態と見 る認識は、マルクス主義者から彼を救った。︵もっとも彼は何度も述べているようにマルクス主義ではないが︶とい うのは、マルクスは完全には階級制の問題を理解できずに終わってしまい、また、私の考えるところでは、階級制 の問題は、有益どころか害にしかならないということである。より大きな平等と参画に関する、まったく合法的な 要求に基づいている社会主義運動は、莫大な権力の集中と極めて病理的階級制を産み出してきたことは、歴史の大 きな皮肉の一つである。支配の有効性をすべて否定することは、私にとってはとても重要な人間の問題を否定する 183 ゲ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(12)

ことである。というのは、支配は、合法的な社会契約の部分であり、合法化された支配の非病理的形態の発展だか らである。結局、社会契約は、支配の代価に値するという理由で、被支配者が同意する支配である。ガルトゥング の支配に対する憎悪は、この問題の公式化を妨げている。 彼の支配に対する憎悪と密接に関連していることは、貧困と不平等は主に抑圧の結果であり、即ち支配者による 支配の結果であり、それを取り除く方法は、彼らの立場から支配の権限を取りあげるということである。世の中で 支配と抑圧は、実際的な問題であることは誰も否定できないが、人間の悲劇が抑圧によるものであるとするのは、 甚だしい誤解である。ここでの我々の間の相違は、構造的アプローチと進化論的アプローチの違いをとてもうまく 説明しているように思う.構造主義者は世界を見て、所有と権力の構造ゆえに、ある人は豊かであり、ある人は貧 しいと観察し、富者がより貧しく、弱くなりさえすれば、貧者は豊かになり、強くなると議論する。この見方は、 その単純さゆえに魅力がある。しかし、不幸にも、それは多分幻想でしかないだろう.貧者が貧しく、力がないか ら、富者も貧しく所有物や力を持たないのではなく、相互に深く関連していない異なる力学のプロセスに関与して いるからである。 184 これは﹁個別的発展﹂の原理である。極端なモデルとして、二つの島が全く関係していない状況を例にとってみ ると、全く同じレベルで始まったとしても、革新や倹約をその文化が進めることにより、富める社会となり、また 他方は、富みへと導く行為を開拓できないために貧しきままの社会である。二つの社会で触れ合いがないから、抑 圧や搾取がなく、システムの個別的ダイナミックスが不平等を作り出している。他の極端な例として、貧者少なく とも労働階級はあらゆるのものを作り出すが、最低限のものは除いて、富者は彼らから生産物を取り上げるという マルクス主義者の例が上げられる。実際の世界は、この二つのケースの交じり合ったものである。マルクス主義者

(13)

ヨ ハ ン のモデルは、なお一層前資本主義社会に応用可能であるという矛盾を持つ。つまり、我々は資本主義に移行し、特 に成熟した資本主義に発展するにつれて、単に個別的発展モデルに代わるから、その矛盾が生じる。 三つの理論的枠組みのそれぞれは、独自の力学を作り出している。構造的思考は、天体力学や、エコノメトリッ クス宙8国○目98︶のような機械的な原動力へと導き、弁証法的思考は、闘争に勝利するための原動力へと導き、 そして進化的思考は、遺伝子情報やノウハウが生態的相互作用の淘汰的過程を通して媒介されて、変化が引き起こ される初期の段階の原動力となる。実際の世界はこの三つの混合物であり、大きな問題は、このミックスされたも のにより引き起こされるものと思われる。私個人の見解では、進化の過程は、他の二つに比べて優勢である。それ ゆえに主に弁証法的モードで制御され、単に支配者を取り除くことによって人間の問題の解決を模索する﹁解放主 義﹂は以前のものよりも質の悪い、別の支配者集団を作り出す。人間の悲劇を減じたり、貧困を取り除く唯一の方 法である本当の進化発展過程を促進するには、ほとんど役立たないものである。この点において、ガルトゥングは 進化過程の重要性を認識できずに、彼にとって不快と感じる弁証法的な見方を克服することに失敗している。 上で述べたことと密接に関連していることは、彼は生産より再分配に強調点を置き過ぎていることである。この ことは、構造的思考から起こるものである。構造主義者は、﹁パイ﹂の比職を特に好んでいる。パイは、総生産量を 表し、要求者の間を分裂させる。実際の世界では、一つのパイではなく、小さなパイの急激な増加と、そのいくつ かは他のものより早く成長する。どの比職も適当なものではない。公共機関の場合、一つの﹁パイ﹂があり、再分 配は可能であるが、限定されている。生産性を落とす再分配は、簡単に貧者を以前にもまして貧しくする.しかし ながら、生産性を強調することは、進化を強調することでもある。マルクス主義者の大きな誤謬は、生産物は労働 から生まれるとするところにある。実際、それは、社会が持つ社会的遺伝構造から来るものである。つまり、社会 185 ガ ル ト ゥ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(14)

186 的遺伝構造とは生産物やフェノタイブ︵もロgg弓①咽表現型︶の形態に物質を変形し、移動させるのにエネルギー を注ぐための技術情報の効力を助長する組織、技術情報、知識である。社会の全体の生産性は、労働力や自然資源 の関数にもまして組織的技術情報を含む知識と技術情報からなる関数である。これは一つの例であるが、経済発展 は、進化のように純粋な遺伝構造の一つの過程である。社会的事例では、遺伝構造は人間の知識であり、ノウハウ である。物質の世界で、資本は単なる強要された人間の知識に過ぎない。かくして、歴史的に貧者の貧困は、再配 分によってほんの少し救済されただけである。貧者は、主に生産性を高めたり、ノウハウを蓄積して、進化の主流 に乗ることによって、より豊かになるのである。 これらの生産についての誤った認識と幾らか関わっているのは、彼の仕事を支配し、平等の要求と支配への憎悪 と関連している中心・周辺モデルである。原材料の生産は、周辺に属するものとし、処理と製造が中心をなすと仮 定したとき、それは、生産と貿易のネット・ワークの複雑さをあいまいにし、まったく誤った方向に導くものとな るけれども、そのモデルは全体として応用できないものではない。このことは、特にラテン・アメリカで人気のあ る﹁依存性﹂型の議論と関わっていて、それは富者の支配あるいは政治力の点で、貧者が富者に対して乏しい貿易 条件しか持っていないから、貧者は貧しいとする。再び構造主義者の世界観に戻ってみると、それを支持する本当 の意味の根拠が存在しないのである。十九世紀後半の日本の絹や同時期のスウェーデンの木材にみる良好な貿易条 件は、社会のより急速な発展に貢献してきた。しかしながら、全体として、貿易条件は、どの一つの集団にとって も、世界の産業の産み出す積み荷の変化と一緒に良くなったり、悪くなったりする傾向を持っている。貿易条件は、 貧困から救いだしてくれるどの発展過程にもよらない・ 生産性の向上のみが、長きに亘って社会がますます栄え富み続けうる唯一の方法である。貧困から遠ざかり、よ

(15)

り豊かな方向に向かう社会の動きを決定づける場合、貿易条件が含む、外的な関係以上に内部の文化がより重要で あるという、﹁個別的発展﹂の命題は、以前は主に原料供給国であった社会が、このことをうまく処理したため豊か になり、他方同じような立場にあっても、他の国は貧しいままであるという事実により支持されている。オースト ラリア、ニュージーランド、カナダ、米国、スウェーデンは、前者の例であり、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ は後者の例である。全体の中心・周辺に関する議論は、進化のダイナミックスの光に当たると、分散してしまう。 周辺は中心となり、中心は周辺となり、そして、中心がどんな永続的な力やどんな種類の再分配力さえも持ってい るという根拠は、ほとんどない.皇帝は、帝国の枯渇の元であり、発展を妨げてきたのである。 今までの議論では、平和という語はとても大切な部分であるけれども、特に言及してこなかった。平和や紛争に ついての彼の著作がほんの一部に過ぎないのは、ガルトゥングの思想が全体を動機づける重要な部分からなる大き な体系であるという事実の反映である。しかしながら、彼は、紛争の一般理論について、一つの重要な貢献をして きた。それは、紛争状況の連関的解決と分離的解決の間を区別したことである。連関的解決方法は、いわば、より 大きな一般的な意志に合体・吸収されるように、多分組織やある座標を越えた構造、紛争する当事者達の在り方や ある種の同意を含有する.分離的解決法は、互いに人々を遠ざけて、良き隣人関係を作り、良い柵、境界線、所有 物を含んでいる。ガルトゥングは、原理的に分離的解決法を拒絶していないが、彼は、明らかに連関的解決方法に よるという強い偏見を持っている。紛争の連関的解決方法は、階級制、支配、不平等、彼の嫌う他の多くの要素を 含むきらいがあるので、彼の他の問題に対するいくつかの立場とは少し一貫していない・ この矛盾は、現実的であるけれど、意義がある。たとえ彼自身は明白な不可知論者であっても、ガルトゥングの 故郷ノルウェーの伝統である基本的聖書の背景から、その矛盾が生じていると人は疑うだろう。あらゆる人が平等 187 ヨ ハ ン ・ ガ ル ト ゥ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(16)

188 で、すべての人が他を愛せるような理想的世界は、達成することが困難なように思われるが、これは人類の将来に 深い影響を与える聖書を中心とする宗教のビジョンである。しかし、ガルトゥングの場合、そのことが、ヒューマ ン・ベターメントのより大きな枠組みや紛争解決における連関的要素と分離的要素の混合の最適条件という問題を 理解するのに妨げとなっている。このことは、再び所有の役割に引き戻すが、ガルトゥングは所有の役割について 適正に分析してこなかったと思う。所有とは、社会契約、つまり、連関的解決法や構造によって創造される。しか しながら、合意された境界線や柵の形成時の紛争に対して分離的解決法を作り出すことにより、社会契約は機能す る。そうすることによって、連関的解決法のさらなる実行に対する負担の軽減につながる。所有、例えば、土地、 資本、国境線は、多分合意するにもっとも簡単なことであるが、一度それに合意してしまうと、他のものに合意し なくてもよくなるのである。というのは、個人個人の所有の範囲内で互いに自由を持つからである。合意というも のは、とても高い潜在的な代価を持ち、簡単には得難く、希少であるので、それを経済化することは、有益のよう に思える。適当に混合していくという点は、解決するに長い時間を要するとても困難なことではあるけれども、私 は、ガルトゥング以上に分離的解決法に倫理的価値を置くのである。 最後に、ガルトゥングの偉大な比職、﹁構造的暴力﹂と﹁積極的平和﹂について論じてみたい。それは、モデルと いうより比職というが、その根拠は、疑わしい。比職は、何時もモデルを内包し、モデルは、スペシャルリストの 領分のものという理由で、モデル以上に説得力を持つのである。しかし、比噛が悪いモデルを含んでいるとき、説 得力があり、誤っているため、とても危険な状況が生じる。私が議論する構造的暴力の比聡は、このカテゴリーに まさに入るのである.その比職とは、貧困、剥奪、不健康、低い平均寿命、半分以上の人類が生活している条件は、 犠牲者を打ちのめし、町でお金を剥奪する暗殺団のようなものであり、人々の土地を奪い、人々を奴隷に落として

(17)

ヨ ノ 、 ン まさに現実に暴力に導く構造上の問題がある。しかし、不幸にも、彼が用いてきたような比聡﹁構造的暴力﹂は、 注意をこの問題からそらしてきた。誰かが、誰かを傷つけていて、それがますます悪化していくような行為として の暴力は、水が沸騰して、溢れだそうとしているポットのような﹁限界点﹂の現象である。ポットの中の温度は、 すぐには煮え立たず、長い時間をかけて上昇するが、沸騰点に達すると溢れだしてくる。暴力の基礎となる構造的 研究は、平和研究では無視されがちであるが、とても大切で、一般的に社会科学の分野である。暴力のような﹁限 界点﹂の現象は、それが、画一的というより、組織における﹁おこり﹂を示しているという点で、研究するのは難 しいのである。人と人の間や、組織と組織との間の暴力は、組織の﹁緊張﹂が、﹁強度﹂を越えたとき、この比噛で は、まさにチョークを折ったときに起こることを意味している。強度と緊張は、特に社会組織的な点から、余りに 相互に関係しているので、それを分離するのは難しい・ 暴力を縮小させるのは、二つの可能な戦略、あるいはその二つをミックスしたものと考えられる。ひとつは、シ ステムの強度を増すことであり、もうひとつは緊張を和らげることである。システムの強度は、暴力に至らずに、 システムの緊張の増加を押さえるようなものすべて、習慣、文化、タブー、制裁等を含んでいる。しばしば、原因 する過程とは、 てのものは、恥てのものは、他のすべてのものと幾らか関係しているけれども、貧困を生み、継続する過程は、暴力を生み、継続 力のいずれの暴力にせよ、貧困とは全く異なる現象である。世界のすべてのものごとにいえることであるが、すべ るけれど、少なくとも現代社会においては、それほど必要とされるものではない。町や家で、ゲリラや警察、軍事 失政によるものであり、その解決法は、暗殺団や征服者を排除することである。その比噛にはいくらかの真実はあ しまう征服者の﹁ようなもの﹂である。その意味するものは、貧困とそれに付随する諸問題は、暗殺団や征服者の 全く違う。 189 ガ ル ト ゥ ン グ に 対 す る 十 二 の 疑 問

(18)

しかしながら、定められた寿命が尽きる前に死ぬ人は故意ではなく知らずに他の誰かに殺されたと想定すると、 ガルトゥングが構造的暴力と呼ぶものは、︵それは、彼が嫌ったものとして、不親切な評論者によって定義された︶、 不必要に低い平均寿命として独自に定義された。その概念は、悲惨さ、搾取、貧困、欠乏などのすべての問題を含 んで拡張してきた。構造的暴力は、暴力を産み出す構造と周辺的に関わるシステムに属していて、かなり現実性が あり、研究や行動においてとても高い優先権のあるものである。暴力の文化と貧困の文化は、必ずしも関係してい るとは限らない・すべての貧困文化は、暴力文化ではないし、明らかにすべての暴力文化は、貧困の文化ではない。 貧困のダイナミックスと貧困から脱出する成功・不成功は、構造的暴力の比聡が与えてくれる以上にはるかに複雑 である。その問題に関心を向ける際に、構造的暴力の比聴は有効性を発揮するが、解答を見いだす際には、それは これらの論文の中に想像的な独自性や多方面にわたる豊富な内容を含んでいるが、何か基本的なことが、欠けて いることに気づくだろう。それは、一七九八年頃にマルサスが認めていたものであり、L・リチャードソンが軍備 競争の理論の中で、またアナトール。ラパポート︵少目旦両g8O風︶が囚人のジレンマの研究の中で、そしてガ 妨げとなる。 である。そ︵ える利害の認識に過ぎないのであり、それがどんなものであろうと、認識と現実の間のギャップはとても大きく、 してではなく、主に動的な過程を通して起こるのである。それは、﹁本当の﹂利害ではなく、人々の行為に影響を与 な部分ではない。人々が自己の利害を知るのは、とても難しいことであり、利害の誤った見積は、構造的過程を通 の緊張は、特徴的に大きく動いている。利害が絡む紛争はシステム上の緊張の部分でしかなく、必ずしも最も重要 を探求するのは難しい、政治や関連する経済的立場の変化、相互に刺激する敵偏心、軍備競争のように、システム 19 変化に抗うはずである。

(19)

ヴノL ヨ ノ 、 ン ツレット・ハーディンが共通の悲劇の中で、認めていたものである。それは、人が、その時に最善と考えることを するという決定の原理にも関わらず、社会において社会組織が悪いものから良きものへというより、悪いものから より悪いものへ進む誤ったダイナミックスの過程の存在である。誤ったダイナミックスの過程の分析は、ヒューマ ン・ベターメントの中で成功をもたらす仲介の鍵となる。そこには、仲介があるに違いない。即ち、温度を均等化 する際、熱力学的潜在力の消耗や年を取る際に、生物的潜在力の消耗、組織や社会の衰退や腐敗の社会潜在力の消 耗等、それ自身だけで︵単独で存在するもの︶置かれたものは、消耗するというエントロピーの法則に従うのであ る。一般化された第二法則は、潜在力の再生産がないなら、すべてのものごとは、悪いほうからより悪い方向へ向 かうことを示している。物事がどのように悪いほうからより悪いほうへ進むのか、いかに仲介するか、この流れを 変えうるのかの理解は、単に比職ではなく、モデルを含んでいなければならない。これは、私が呼ぶところの、﹁規 範科学﹂の大きな仕事であり、人類の緊急な仕事の一つである。 規範科学と平和研究の関係は、部分的には語義の問題であるが、それは大切な問題であり、実質を伴っている。 ガルトゥングが、構造的暴力や積極的平和という概念と結び付けようとしていることは、平和研究を規範科学へと 拡げようとすることである。原理的には、それはとても大切な貢献であり、平和研究運動の最も重要な成果の一つ は、平和研究を規範科学の一般的な動きに拡張させたことであり、それは、単に戦争や平和または暴力にだけ関心 を示すものではなく、人類を苦しめるすべての問題にも関心を示すものである。そしてまたより巧みな規範的な仲 介の希望の下で、平和研究運動はこれらのことについて秩序立った思考方法を含んでいる。良いことをするという 動機を持ちながらも、あまり多くの害がなされてきた点から言っても、良き規範科学は、もっとも優先されるべき ものであることは明らかである.良き規範科学の範涛の中で、国際システムの戦争と平和研究や個人的および集団 19] ウングに対・する十二の疑問

(20)

192 的暴力というより大きな問題の研究は、重要な部分集合を形成する。他の部分集合は、医薬、犯罪学、心理療法、 宗教研究、貧困研究などが含まれており、その研究は社会システム全体の分野に亘って、部分集合の間を網羅する ものであり、実際、その役割以上に人類の運命に深く影響を与える物理的・生物的システムにまで及ぶ。 究極的には、ヒューマン・ベターメントのための人類の仲介という観点から、トータル・システムとして規範科 学は、地球の研究あるいは地球以外の住居の可能性を含むものでなければならない。また規範科学はヒューマン・ ベターメントの定義の普遍的な合意を生み出す必要はないのである。ヒューマン・ベターメントの多様なイメージ の研究は、その分野の部分をなしている。ガルトゥングの誤りは、私が思うに、規範科学の部分つまり平和研究の 部分に適している理論的構造と概念を用いたことであり、それを実際にはできるはずのない全体に応用したことに ある。しかしながら、これは簡単に修正できる誤りであり、その誤りは、多分彼自身も気がついていなかった重要 性と規範科学が真面目な人間の努力の結果であると評価した偉大な業績を減じるものではない・ ガルトゥングの経験が暗示しているさらなる原理は、実際的に学際的研究が極めて困難であることである。ガル トゥングのシステムの失敗の要因は、主に彼が社会学者であり、経済の貢献というものを理解していないと人々に 疑問を感じさせるところにある。しかし多くの優れた経済学者もそのことを理解していないので、これは許される ことであろう。知性人としてのガルトゥングは、ビジネスや市場の共通性や商業生活の低級で分離した特徴を嫌っ ている。このことは、地位の平等を実現する一方で、富みの不平等を導くことも意味しているので、社会の調整役 としての交換の道徳的価値への軽視を彼にもたらしている。ガルトゥングの社会主義に対する二律背反的な感情は 国家の独裁と市場の独裁と見えるものとの区別ができないことに反映されている。私達が交換やそれが拠っている 資産制度を拒絶するなら、共産主義国家の歴史が多く示しているように、社会の主な構成要素として、愛ではなく

(21)

ウングに対・する十二の疑問 本書評は、ケネス・ボールディング︵侭①目①9両.、o昌呂侭︶の、目尋①]ぐ①句昌の且辱C5閏①]の乱s]○富国の巴冒凋︾ ]目目巴○市も8。①幻のの①胃Szo.旨︾ぐ○]〆[ぐ︾岳弓.のを訳出したものである。 訳者あとがき するなら、社会生活で連関的要素と分離的要素の混合の必要性にここで再び至ることになる。 脅迫を得ることになるだろう。悪いほうからさらに悪いほうへ進む代わりに、悪いほうから良いほうへ私達が移行 脚注なしで、重要な著作をさらに展開したような書評を書くことは、全くもって礼を失する行為と思われるかも しれない。しかし、私は慎重に問題の所在を広いキャンバスに描こうとしてきた。詳細な点で解釈を誤るのは簡 単であるように、どんな創造的な精神にも一貫性の欠如が見られるものである。私はいくつかの点で、ガルトウン グが主張していることを誤って解釈していると思うし、修正してもらえればまことに幸甚である。さらには、重要 な詳細憲点の多くを省略してきた.l例えば軍縮”議論カトリック教会を巨大なキリ真卜友全クェー勲︲︶ に変える提案や国連軍のサブカルチャーや世論の実験的研究、そしてすべての章で見られる数えきれない洞察のき らめきなどである。最終的な評価は、すべての巻が出版されるまで待たねばならない。その場合でも、恐らく読者 の数だけ評価がなされることになろう。この書評が、読者に対してその著作自らを研究するように説得することが できたならば、それで主要な目的は達成されたと言えるだろう。とはいえ、この書評は現在進行中の対話に刺激を 与えることができるならば、誠に有益なものとなるであろう。 193 ヨ ノ 、 ン ・ ガ ル

(22)

一方、ボールディングの批判の対象となっている﹁平和研究論集﹂の著者ガルトゥングも、平和学でボールディ ングと並び称される平和学創設者の一人である。年令的には、ボールディングより二十才若い。オスロで生まれ、 オスロ大学で数学、社会学の博士号を修得後、平和研究に従事する。オスロ国際研究所︵冒庁①目昌○目用88両のの①閏烏 冒の再昌①︾○の]○︶を創設し、平和研究論集︵]○口目巴○[勺88雨①の①胃呂︶等を発刊して、国際平和学会の主流を形 成してきた北欧の平和研究者グループを牽引してきた。 またガルトウングも平和運動にも関心を寄せ、平和運動家との相互交流を重視してきた.彼の友人には、多くの 著名な平和運動家が名を連ねる。 ケネス.E・ボールディングとヨハン・ガルトゥングは、平和研究運動においては大変重要な役割を果たしてき 194 ケネス・ボールディングは、高名な平和研究創立者の一人である。一九一○年にイギリスのリバプールに生まれ る。正統派経済学者として業績を上げ、三十代半ばに平和研究への転身が始まる。ちょうどそのころ社会学者でク エーカー教徒であったエリーゼと出会い、後に結婚し、彼自身クエーカーに改宗する. この出会いが、彼のアカデミック・スタイルに変化を与えたと思われる。平和研究に関し膨大な著作を残し、北 米の平和研究の中心的役割を果たし、紛争解決研究センター︵○①具の氏日両①の①胃88○○日胃庁嗣①、o]昌○ロ︶設立 と紛争解決論集︵︺○口目巴○烏○○具胃計両①の○]目○国︶等を発刊する。一九九三年永眠。 さらに平和活動家としても、クエーカー主義の影響を受けて、良心的反戦主義を貫き、フレンズ奉仕団の積極的 な協力者であり、その教義に従って、平和運動の実践に夫人とともに活躍した。

(23)

ングに対・する−1一二の疑問 ヨ ノ 、 ン また時間的要素を含む進化論的非暴力主義に立つボールディングは、平和実現に対して悲観的側面を持っている が、総じて楽観的であるのに対して、ガルトゥングは、後の反論で楽観主義を批判している。 この書評での指摘は、ガルトゥングにとって有意義なものとなったようであるが、この書評の掲載された十年後 にガルトゥングも反論を試みている。︵の巴目ロ四︺・︾︽︽○口唇○口のCp閏叶①]乱昏病の目①9国○己。旨い︾ご]○日ロ巴○吊雨88 詞①の①閏○戸z○・画︾岳雪.ご己.ごCl四房.︶ 左記の表は、訳者が二人の違いを書き出したものであるが、必ずしも本文から得たものではない。参考までに付 しておきたい。 ナミズム、歴史性、多元性の欠如を指摘している。 つ構造的アプローチを比較して、ガルトゥングが提唱している﹁構造的暴力﹂や﹁積極的平和﹂の概念の中のダイ る。ボールディングは、彼の拠ってたつ進化論的アプローチと時間的要素を備えていないガルトウングの拠ってた た一一人であるが、本書評は、平和研究の在り方をめぐるボールディングーガルトゥング論争の発端となるものであ ガルトゥングは、紛争をもたらす国際社会の構造的要因、貧困、飢餓、差別等の要因を戦争の直接暴力に対し、 ﹁構造的暴力﹂と定義しているが、構造的暴力のない状態を積極的平和と呼び、平和研究は積極的平和を扱うべき だとしている。他方、ボールディングの主張では、平和研究は、単に戦争のない消極的平和を扱い、構造的暴力は 正義学とでも名付くのか、別な研究分野として扱うべきだとし、むやみに平和研究の領域を拡大するのを批判して V可 る C 195 ガ ル ト

(24)

196 ︵*1︶“本人は、特別にどの宗教を信仰していると聞いていないが、仏教に造詣が深いので﹁仏教的﹂と付けた。 参考”﹁仏教l調和と平和を求めて﹂、ヨハン・ガルトゥング著、高村忠成他訳、︵財︶東洋哲学研究所、一九九○、六頁。 ︵*2盲平和活動と平和研究への姿勢を形容している表現を探し、記入した。 本書評の翻訳にあたって、中央学術研究所の﹁新国際経済秩序の精神的側面﹂ゼミでボールディング研究に導い てくださった早稲田大学名誉教授山岡喜久男先生そして本書評の訳出にあたって懇切丁寧にご指導頂いた中央大学 法学部教授真田芳憲先生に深く感謝したい。また、浅学非才なものの訳であるので誤訳、拙訳等も多いと思われる。 読者諸賢のご叱正を頂ければ幸甚である。 ガルトゥング 数 牡会学、政治学 不意知論者 仏教能︵*1﹀ 構造的暴力 中心・局地 行動する研究者 連関的 構造論的非暴力主義 ボー︲ルティンク 経済学 物理、生物学 クィー・力I主義 宇宙船地球サ トータルシステム 研・究者かつ活動家 分離的 進化論的非暴力⋮義 名 前 学術的背景 精神的脅景︵思想︶ キ 創 i 昨 タ し ’た ム 実践と研究 〆 ︵*、ノョ︸ 平和研究での立場

参照

関連したドキュメント

詳細情報: 発がん物質, 「第 1 群」はヒトに対して発がん性があ ると判断できる物質である.この群に分類される物質は,疫学研 究からの十分な証拠がある.. TWA

以上,本研究で対象とする比較的空気を多く 含む湿り蒸気の熱・物質移動の促進において,こ

 この論文の構成は次のようになっている。第2章では銅酸化物超伝導体に対する今までの研

修正 Taylor-Wiles 系を適用する際, Galois 表現を局所体の Galois 群に 制限すると絶対既約でないことも起こり, その時には普遍変形環は存在しないので普遍枠

Wach 加群のモジュライを考えることでクリスタリン表現の局所普遍変形環を構 成し, 最後に一章の計算結果を用いて, 中間重みクリスタリン表現の局所普遍変形

しかしながら,式 (8) の Courant 条件による時間増分

が省略された第二の型は第一の型と形態・構

本研究は,地震時の構造物被害と良い対応のある震害指標を,構造物の疲労破壊の