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駒澤大学佛教学部論集 45 011舘 隆志「鎌倉期の禅林における中国語と日本語」

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二五九 駒澤大学佛教學部論集   第四十五號   平成二十六年十月

鎌倉期の禅林における中国語と日本語

 

 

 

 

はじめに

  平 安 末 期 か ら 鎌 倉 期 に か け て、 多 く の 日 本 僧 が 中 国 に 渡 っ て 仏 道 を 学 ん だ。 古 く は 比 叡 山 の 覚 阿 が あ り、 ま た、 栄 西 ︵ 一 一 四 一 ∼ 一 二 一 五 ︶ も 二 度 に お よ ぶ 入 宋 を 果 た し、 禅 を 学 ん で 日 本 に 伝 え た。 さ ら に、 俊 芿 ︵ 一 一 六 六 ∼ 一 二 二 七 ︶ は 入 宋 後、 十 二 年 間 の 長 き に 渡 っ て 中 国 で 戒 律 を 学 び、 帰 国 後 に 京 都 東 山 の 泉 涌 寺 を 律 院 に 改 め た。 そ の 後、 道 元 ︵ 一 二 〇 〇 ∼ 一 二 五 三 ︶、 円 爾︵ 一 二 〇 二 ∼ 一 二 八 〇 ︶ と 続 く わ け で あ る。 こ の よ う な 活 動 の 蓄 積 の 上 で、 南 宋 か ら 渡 来 僧 が や っ て き て、 日 本 に 禅 を 弘 め る こ と と な っ た。 蘭 渓 道 隆 ︵ 一 二 一 三 ∼ 一 二 七 八 ︶、 兀 庵 普 寧︵ 一 一 九 八 ∼ 一 二 七 六 ︶、 大 休 正 念︵ 一 二 一 五 ∼ 一 二 九 〇 ︶、 無 学 祖 元︵ 一 二 二 六 ∼ 一二八六︶などがそれに当たる。   鎌 倉 前 期 頃 に 禅 を 学 ぶ 場 合、 中 国 に 留 学 す る こ と が 必 要 で あ り、 そ の 彼 ら に と っ て 必 然 的 に 問 題 と な っ た の が 言 語 で あ っ た こ と は 想 像 に 難 く な い。 そ し て、 日 本 語 と 中 国 語 の 隔 た り は、 渡 来 僧 に お い て も 同 様 に 大 き な 問 題 と な っ た こ と で あ ろ う。 し か し な が ら、 そ の 実 態 は こ れ ま で ほ と ん ど 論 じ ら れてこなかっ た 1 。   そ こ で、 限 ら れ た 史 料 の 中 か ら で は あ る が、 鎌 倉 期 の 禅 林 に お け る 中 国 語 と 日 本 語 の 実 態 の 一 端 に つ い て 明 ら か に し て みたい。

入宋僧の状況

  宋 代 に 中 国 に 留 学 し て 仏 教 を 学 ん だ 僧 侶 を 入 宋 僧 と 呼 ん で い る。 鎌 倉 期 に 入 っ て か ら 盛 ん に な る が、 平 安 時 代 に も 少 数 な が ら 入 宋 僧 が い た。 永 観 元 年︵ 九 八 三 ︶ に 入 宋 し た 奝 然 ︵九三八∼一〇一六︶ 、長保五年 ︵一〇〇三︶ に入宋した寂照 ︵? ∼ 一 〇 三 四 ︶ で あ る。 た だ し、 こ の 二 人 の 僧 侶 は 留 学 中 に 中 国 語 を 話 す こ と が で き ず に、 中 国 人 と 筆 談 を 主 と し た 交 流 を 行なっていた。 延久四年 ︵一〇七二︶ に入宋した成尋 ︵一〇一一

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二六〇 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ ∼一〇八一︶は、 在宋中に﹁談話﹂した記録が散見されるが、 これも基本的には通事︵通訳︶を頼って行なわれたらし い 2 。   こ れ は、 当 時、 日 本 国 内 に 中 国 語 を 話 せ る 人 が ほ と ん ど い な か っ た こ と に 起 因 す る と 思 わ れ る。 遣 唐 使 船 の 派 遣 は 承 和 五 年︵ 八 三 八 ︶ を 最 後 に 行 な わ れ な か っ た こ と か ら、 貿 易 港 と し て の 九 州 博 多 周 辺 の 地 は 別 と し て も、 京 都 に お い て は 中 国人そのものがいなくなっていたのである。 平清盛 ︵一一一八 ∼ 一 一 八 一 ︶ が 宋 人 を 博 多 大 宰 府 か ら 福 原 に 呼 び 寄 せ、 後 白 河 上 皇︵ 一 一 二 七 ∼ 一 一 九 二 ︶ を 招 い て 面 会 さ せ て い る が 3 、 こ の 事 実 は 平 安 後 期 に は 京 都 に 中 国 人 が い な か っ た こ と を 物 語 っ て い よ う。 そ の た め、 平 安 中 期 以 降 に 中 国 へ の 留 学 を 志 し て も、 日 本 で 中 国 語 の 発 音 を 学 習 す る 機 会 を 得 な か っ た 可 能性が高いのである。   平 安 時 代 末 期 の 入 宋 僧 と し て 注 目 す べ き 存 在 が 覚 阿 で あ る。覚 阿 4 は比叡山の僧侶であったが、 二十九歳の時に中都 ︵杭 州 ︶ よ り 帰 っ た 商 人 か ら 宋 国 で 禅 宗 が 盛 ん な る こ と を 聞 き、 入 宋 し て 禅 を 学 ぶ こ と を 志 し た と い う。 二 十 九 歳 の 時 が 何 年 の こ と で あ っ た か は 不 明 で あ る が、 覚 阿 が 実 際 に 入 宋 し た の は、乾道七年︵日本の承安元年、一二七一︶のことである。   覚 阿 に つ い て、 ﹃ 嘉 泰 普 灯 録 ﹄ 巻 二 十﹁ 霊 隠 仏 海 慧 遠 禅 師 法 嗣 ﹂ の 覚 阿 上 人 章 に は﹁ 阿 少 親 二 墨 一 善 二 国 書 一 5 と 記 され、 幼い時から文墨に親しみ、 諸国書に通じていたとある。 諸国書とは、恐らく中国語︵華語 ・ 唐語︶の典籍と考えられ、 仏 典 を は じ め と し た 典 籍 に 通 じ て い た と 評 価 さ れ て い る。 こ れ が 故 に﹁ 至 レ 未 二 載 一 径 躋 二 域 一 其 於 二 語 一 自 通 ﹂ とあり、 中国語を数年のうちに習得したことが記されている。 覚 阿 は 三 年 間 の 修 行 を 経 て 乾 道 九 年︵ 一 一 七 三 ︶ に 日 本 に 帰 朝しているから、この三年間の間に習得したことになろう。   こ れ を 裏 付 け る よ う に、 臨 済 宗 楊 岐 派 の 瞎 堂 慧 遠︵ 仏 海 禅 師、 一 一 〇 三 ∼ 一 一 七 六 ︶ と 覚 阿 と の 交 流 は、 当 初 は﹁ 書 ﹂ を 通 し た も の で あ り、 す な わ ち 筆 談 で 行 な わ れ て い た の で あ る。 こ れ を 大 休 正 念 は﹁ 唐 言 す る こ と 能 わ ず と 雖 も、 筆 を 以 て 書 し 6 ﹂ と 評 し て い る が、 そ の 後 の 修 行 中 に 中 国 語 を 習 得 し て い き、 最 後 は﹁ 書 ﹂ を 用 い ず に、 中 国 語 で 慧 遠 と 問 答 を 行 な い、 印 可 証 明 を 受 け る の で あ る 7 。 こ う し て、 後 年﹁ 此 に 至 る や 未 だ 数 載 な ら ず し て、 径 に 祖 域 に 躋 る。 其 れ 華 語 に 於 い て は 能 く 自 ら 通 ず ﹂ と 評 価 さ れ る に 到 っ た の で あ る が、 留 学 の当初は相当に苦労したことであろう。   次 に 入 宋 し た 記 録 が 残 る の は 栄 西 で あ る。 栄 西 は、 仁 安 三 年︵ 一 一 六 八 ︶ に 一 度 目 の 入 宋 8 、 文 治 三 年︵ 一 一 八 七 ︶ か ら 建 久 二 年︵ 一 一 九 一 ︶ に 二 度 目 の 入 宋 を す る 9 。 一 度 目 は 一 年 に も 満 た な い 短 期 の 留 学 で あ っ た が、 二 度 目 の 入 宋 は 足 か け 五 年 に 及 ぶ 滞 在 で あ り、 こ の 間 に 臨 済 宗 黄 龍 派 の 虚 庵 懐 敞 か ら 禅 の 法 を 受 け 嗣 い で い る。 二 度 の 入 宋 経 験 と、 合 計 六 年 近

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二六一 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ い滞在から中国語を習得していたとみられるが、 栄西の場合、 伝 記 史 料 や 諸 記 録 に 中 国 語 の 習 得 に 関 す る 記 録 は 存 し て い な い。   そ こ で 、 栄 西 に 次 い で 入 宋 し た 俊 芿 ︵ 一 一 六 六 ∼ 一 二 二 七 ︶ に つ い て み て み た い 。俊 芿 が 入 宋 し た の は 正 治 元 年︵ 一 一 九 九 ︶ で あ り 、 以 後 、 帰 国 す る 建 暦 元 年 ︵ 一 二 一 一 ︶ ま で 十 二 年 と い う 長 き に 渡 っ て 中 国 に 留 学 し た 。 そ の 留 学 当 初 の こ と が 、 ﹃ 終 南 家 業 ﹄ 巻 上﹁ 答 日 本 芿 法 師 教 観 諸 問 ﹂ に、 ﹁ 日 本 芿 師、 為 二 法 之 切 一 於 二 慶 元 間 一 泛 レ 東 来。 彼 時 先 師 如 庵 開 二 法 景 福 一 芿 即 依 学。 十 有 余 年、 縁 二 異 音 不 一レ解、 毎 別 レ 席指 教 10 ﹂と記録されている。これによれば、 俊 芿 は当初 ﹁異音﹂ を 理 解 す る こ と が で き な か っ た た め に、 ﹁ 席 を 別 け て ﹂ 教 え を 受 け て い た と い う。 す な わ ち、 ﹁ 異 音 ﹂ が 理 解 で き な い た め個別補講を受けていたのである。   結 果 と し て、 俊 芿 は 当 時 の 発 音 を 究 め て 帰 朝 し た も の と 想 定 さ れ る。 在 宋 期 間 が 十 年 以 上 で あ り、 中 国 語 に つ い て は 相 当 に 習 熟 し た と 推 定 さ れ よ う。 俊 芿 が 実 質 的 な 開 山 で あ る 泉 涌 寺 に お い て は、 儀 礼 な ど を 中 心 に 中 国 語 を 用 い た 修 行 が な さ れ て い た こ と も こ れ を 象 徴 し て い る 11 。 俊 芿 が も た ら し た 発 音 は、 泉 涌 寺 に 残 る 経 典・ 典 籍 に 振 り 仮 名 が 付 さ れ た 情 況 で ﹁ 宋 音 12 ﹂ と 名 付 け ら れ て 伝 承 さ れ て お り、 泉 涌 寺 で は、 修 行 生活では中国語も使用されていたと考えられている。   栄 西 の 建 仁 寺 で ど の よ う で あ っ た か 明 確 で は な い が、 あ く ま で 天 台 宗 に 所 属 し て い た 建 仁 寺 で は 中 国 語 を 基 本 と し た 修 行 生 活 は 難 し か っ た 可 能 性 も 想 定 さ れ る。 し か し、 栄 西 は 俊 芿 が 帰 朝 し た 際 に は 九 州 ま で 迎 え に い き、 そ の ま ま 俊 芿 を 講 師 と し て 建 仁 寺 に 迎 え 入 れ て い る 13 。 こ れ は、 多 分 に 最 新 の 中 国 仏 教 の 見 識 を 深 め る 意 味 合 い を 有 し て い る だ ろ う が、 中 国 語の講師という側面も注目されるべきであろう。   こ の 事 情 を 考 え る な ら ば、 や は り 建 仁 寺 に お い て 中 国 語 を 用 い た 中 国 式 の 修 行 生 活 を 導 入 し よ う と 試 み て い た 可 能 性 は 高 い と い え る だ ろ う。 一 方、 講 師 と し て 俊 芿 を 招 い て い る と い う 事 実 は、 建 仁 寺 に お い て は、 中 国 語 を 用 い た 修 行 は 途 上 段 階 に あ っ た と み て よ い だ ろ う。 そ の よ う な 試 み が 行 な わ れ は じ め て い た と み る べ き な の か も し れ な い。 そ の た め、 入 宋 僧 の 先 駆 け と な っ た 俊 芿 の 泉 涌 寺 で 中 国 語 を 用 い た 修 行 が 実 際に行なわれていた意義は、 極めて大きかったと考えられる。   道 元 は 園 城 寺 公 胤︵ 一 一 四 五 ∼ 一 二 一 六 ︶ に 禅 宗 の 存 在 を 示 さ れ て、 宋 国 へ の 留 学 を 勧 め ら れ、 入 宋 経 験 が あ り 禅 の 法 を 受 け 嗣 い で い た 栄 西 に 参 学 す る 14 。 そ こ で、 得 る も の が あ っ た の で あ ろ う、 建 保 五 年︵ 一 二 一 七 ︶、 十 八 歳 の 時 に 正 式 に 建 仁 寺 に 入 山 す る。 当 時、 道 元 が 入 山 し た 建 仁 寺 で 中 国 語 を 用 い た 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い た か 否 か は 不 明 で あ る が、 少 な く と も 数 キ ロ 先 の 泉 涌 寺 で は、 当 時 の 中 国 語 の 発 音 を も っ

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二六二 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ て 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い た。 現 に 金 沢 文 庫 の 史 料 の 中 に、 道 元 が 俊 芿 に 参 学 し て い た こ と を 窺 わ し め る 史 料 が 残 っ て い る 15 。 あ る い は 入 宋 を ひ か え た 道 元 が 俊 芿 に 中 国 語 を 習 っ て い た 可 能 性 を 示 す も の で あ ろ う か、 中 国 留 学 前 に、 当 時 の 中 国 語 の 発 音 を 習 得 す る 場 と し て、 道 元 が 泉 涌 寺 に 参 学 し て い た と 考 え る こ と も 不 自 然 で は あ る ま い。 近 年、 泉 涌 寺 僧 を 中 心 と し た 人 的 交 流 が 指 摘 さ れ て い る が 16 、 中 国 語 を 習 得 す る こ と が 可 能 な 京 都 の 寺 院 で あ っ た と い う 点 か ら み て も、 泉 涌 寺 は 重要な寺院であったといえるだろう。   こ の よ う に、 少 な く と も 律 宗 の 泉 涌 寺 に お い て は、 儀 礼 な ど を 中 心 に 中 国 語 を 用 い た 修 行 が 行 な わ れ て い た と 考 え ら れ て い る が、 で は 鎌 倉 期 の 禅 林 で は ど の よ う な 情 況 で あ っ た の だろうか。

蘭渓道隆と建長寺

  鎌 倉 期 の 僧 侶 が、 中 国 人 か ら 直 接 に 中 国 語 を 聞 く 機 会 を 得 た の は、 そ の 時 期 に 中 国 か ら 禅 僧 が や っ て き た こ と が 大 き かったと思われる。   鎌 倉 期 に 諸 宗 を 兼 学 し た 無 住 道 暁︵ 一 二 二 六 ∼ 一 三 一 二 ︶ は、 当 時 の 建 長 寺 の 様 子 を﹁ 唐 国 の 如 し 17 ﹂ と 記 し て い る。 道 暁 は 実 際 に 中 国 に 渡 来 し た 経 験 は な い の で、 中 国 の 禅 寺 の 景 観 や 様 子 を 知 っ て い た わ け で は な い。 し か し、 恐 ら く は 当 時 の 建 長 寺 に は 異 国 の 風 情 が 漂 っ て お り、 道 暁 は こ れ を 見 て 中 国の雰囲気を感じたのであろう。   日 本 に や っ て き た 渡 来 僧 た ち は、 日 本 語 を 話 す こ と が で き な い わ け で あ る か ら、 交 流 は 基 本 的 に 中 国 語 を も っ て、 あ る い は 漢 字 に よ る 筆 談 で 行 な わ れ て い た こ と は 想 像 に 難 く な い。 少 な く と も、 渡 来 僧 の 住 す る 寺 で は、 中 国 語 で 上 堂・ 普 説・ 小 参 な ど が 行 な わ れ、 中 国 式 の 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い たのだろう。   こ の 点 を 指 摘 し た の は、 西 尾 賢 隆 氏 や 村 井 章 介 氏 で あ り、 西 尾 氏 は 一 山 一 寧︵ 一 二 四 七 ∼ 一 三 一 七 ︶ や 18 春 屋 妙 葩 ︵ 一 三 一 二 ∼ 一 三 八 八 ︶ の 事 例 19 を も っ て﹁ 生 き た 中 国 の 言 葉 が、 わ が 国 の 禅 林 で 飛 び 交 っ て い た と 考 え る 20 ﹂ と 指 摘 し、 村 井氏は後述する竺仙梵僊 ︵一二九二∼一三四八︶ の事例をもっ て﹁ こ の こ ろ の 鎌 倉 五 山 が、 日 中 両 国 の こ と ば が 丁 丁 発 止 と 飛 び 交 う バ イ リ ン ガ ル の 世 界 だ っ た こ と を、 彷 彿 さ せ て く れ る 21 ﹂ と、 鎌 倉 期 の 禅 林 の 様 子 を 想 定 し て い る。 こ の 点 に つ い て、 諸 史 料 を 通 し て、 よ り 具 体 的 な 事 例 を も っ て 考 察 し て い きたい。   日本において、 最初にやってきた渡来僧は蘭渓道隆である。 自 発 的 に や っ て き た 道 隆 は、 博 多 の 円 覚 寺、 京 都 の 泉 涌 寺 来 迎 院 に 滞 在 し た の ち に、 鎌 倉 寿 福 寺 に 寓 居 す る 22 。 博 多 の 地 に は 唐 房︵ 宋 人 街 ︶ が あ り、 京 都 の 泉 涌 寺 で は 中 国 語 を 用 い た

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二六三 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い た。 鎌 倉 寿 福 寺 は 栄 西 の 開 山 寺 院 で あ り、 当 時 は 入 宋 経 験 が あ る 大 歇 了 心 が 住 持 で あ っ た の で、 道隆にとっては滞在しやすい情況であったといえるだろう。   そ の 後、 宝 治 元 年︵ 一 二 四 八 ︶ に 常 楽 寺 の 住 持 と な り、 こ の際には百人の修行僧があっ た 23 。 そして、 建長元年 ︵一二四九︶ に 北 条 時 頼︵ 一 二 二 七 ∼ 一 二 六 三 ︶ に よ っ て 開 創 さ れ た 建 長 寺 の 開 山 と な る の で あ る。 こ の 際、 道 隆 は 中 国 語 し か 話 せ な い わ け で あ る か ら、 中 国 語 で 上 堂 や 小 参 を 行 な っ た と み ら れ る。 そ し て、 修 行 生 活 は﹁ 唐 式 に 依 り て 行 持 24 ﹂ し、 経 典 の 諷 経 を﹁ 唐 様 に 挙 唱 25 ﹂ さ せ て お り、 常 楽 寺・ 建 長 寺 の 修 行 僧 は 道 隆 の も と で 中 国 語 を 使 用 し た 中 国 式 の 修 行 生 活 を 行 な っ て い た の で あ る。 道 隆 は 宋 代 の 仏 教 を 日 本 で 再 現 し よ う と し て いたのであろう。   道隆は、中国から蜀︵四川省︶出身の義翁紹仁︵一二一七 ∼ 一 二 八 一 ︶ や、 漳 州 ︵ 福 建 省 ︶ 出 身 の 龍 江 応 宣 を 伴 っ て 来 朝 し て い る こ と が 知 ら れ る 26 。 他 に も、 若 く し て 道 隆 に 伴 っ て 来 朝 し た と み ら れ る 徳 智 27 が あ り、 小 仏 事 な ど の 記 録 か ら は、 志 半 ば で 日 本 の 地 で 道 隆 よ り も 早 く 客 死 し た 渡 来 僧 の 名 前 が 記 録 さ れ て い る 28 。 こ の 語 録 は 弘 長 四 年︵ 一 二 六 四 ︶ 一 月 ま で の 記 録 で あ る か ら、 建 長 寺 を 訪 れ た 渡 来 僧 は、 実 際 に は も っ と多かったのである。   一 時 的 と い う こ と で あ れ ば、 臨 済 宗 大 慧 派 の 古 澗 世 泉 や 29 、 高 麗 僧 の 了 然 法 明 30 、 台 州︵ 浙 江 省 ︶ 出 身 の 西 澗 子 曇 31 な ど が、 道 隆 が 住 持 す る 建 長 寺 に 滞 在 し て い た。 ま た、 寿 福 寺 の 大 歇 了 心 32 な ど も あ る 程 度 は 補 佐 し た こ と だ ろ う し、 博 多 聖 福 寺 で 住 持 を 勤 め て い た と み ら れ る 入 宋 僧 の 承 性 33 や、 道 隆 と 同 船 で 帰 朝 し た 塩 田 長 老 34 な ど も あ り、 中 国 語 で の 修 行 生 活 を 行 な う た め の 情 況 は あ る 程 度 整 っ て い た の で あ る。 こ の 点、 東 福 寺 の 円 爾 な ど は、 建 長 寺 が 開 創 さ れ た 時 に、 求 め に 応 じ て 門 弟 十 人 を 建 長 寺 に 派 遣 し て お り 35 、 大 勢 の 助 力 に よ っ て、 日 本 の 建 長 寺 に て 中 国 式 の 修 行 生 活 が 営 ま れ て い た と み る こ と が で きよう。   ﹃蘭渓和尚語録﹄ 巻下 ﹁普説﹂ には、 ﹁塩田和尚至、 引座普説﹂ が収録されており、その中の一文に、 莫 下 提 二 話 頭 一 光 返 照 是 玄 妙 上 麼。 錯。 莫 下 咬 二 牙 関 一 念 一 玄 妙 上耶。 錯。 莫 二 庭 前 柏 樹 子 洞 山 麻 三 斤 是 玄 妙 一 耶。 錯。 莫 下 離 二 意 識 一 絶 二 凡 路 一 是 玄 妙 上耶。 錯。 只 此 四 錯、 有 レ 難 レ言。 鄕 談 未 レ暁、 問 二 取塩 田 36 一 [ 訓 ] 是 れ 話 頭 を 提 起 し て 回 光 返 照 す る は、 是 れ 玄 妙 な る こ と 莫 き 麼 。 錯 。 是 れ 牙 関 を 咬 定 し て 一 念 を 起 こ さ ざ るは、 是れ玄妙なること 莫 き 麼 。錯。是れ庭前の栢樹子、 洞 山 の 麻 三 斤、 是 れ 玄 妙 な る こ と 莫 き 麼 。 錯。 是 れ 心 意 識 を 離 れ て 参 じ、 聖 凡 の 路 を 絶 し て 学 ぶ は、 是 れ 玄 妙 な

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二六四 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ ること莫き 麼 。錯。只だ此の 四 錯 は、 口有れど言い難し。 郷 談 未だ暁らかならず、塩田に問取せよ。 と記されている。ここで言う﹁郷談﹂とは、 後に述べる如く、 日 本 語 を 意 味 し て い る と み ら れ る。 す な わ ち、 道 隆 は 中 国 語 で 普 説 し て お り、 ﹁ 四 錯 ﹂ に つ い て、 自 分 は 日 本 語 で は 説 明 で き な い の で、 こ の 後 に 話 を す る 日 本 僧 の 塩 田 和 尚 に 尋 ね る よ う に 求 め て い る。 す な わ ち、 道 隆 は 中 国 語 で 普 説 し て い た の で あ り、 大 部 分 の 修 行 僧 は 道 隆 が 話 す 中 国 語 を 理 解 で き て いなかったことになろう。   た だ し、 こ れ は あ く ま で 建 長 寺 に お い て 塩 田 長 老 の 為 に 引 座普説をした 時 37 、 すなわち建長寺が開かれてまもなくの頃の、 道隆の日本語力の話である。   道 隆 は 日 本 に お い て 三 十 三 年 の 長 き に 渡 っ て 禅 の 布 教 を 行 な っ た。 そ の た め、 日 本 語 に 習 熟 す る 時 間 は 十 分 に あ っ た も の と 思 わ れ、 現 存 す る 道 隆 の 尺 牘 は、 晩 年 に 記 さ れ た も の ほ ど 日 本 式 の 書 式 で あ る﹁ 候 ﹂ が 頻 出 す る よ う に な っ て お り、 道隆が日本にとけこもうとしていた様子が窺え る 38 。   こ の こ と を 示 し て い る の が、 無 学 祖 元 の 語 録﹃ 仏 光 国 師 語 録﹄巻八﹁仏祖讃﹂に収録された道隆に対する讃文であり、    蘭渓和尚 没 レ頭没脳、 怒罵呵咄、 打 二尽日本郷談 一 、破 二蕩祖翁家活 喚 レ 作 レ 馬、 有 レ 無 レ 舌。 別 別。 西 川 五 十 四 洲、 因 レ 生 二此妖 孽 39 一 [訓]頭没く脳没く、 怒罵呵咄し、 日本の郷談を打尽して、 祖 翁 の 家 活 を 破 蕩 す。 驢 を 喚 ん で 馬 と 作 し、 口 有 れ ど 舌 無 し。 別 別。 西 川 五 十 四 洲、 甚 に 因 り て か 此 の 妖 孽 を 生 める。 と 記 さ れ て お り、 道 隆 が﹁ 日 本 郷 談 ﹂ を﹁ 打 尽 ﹂ し て い た と 言 う の で あ る。 ﹁ 打 日 本 郷 談 ﹂ が 日 本 語 を 使 う 意 味 で あ る こ と は、 後 述 す る 祖 元 の 普 説 に お い て も 明 ら か で あ る。 そ の た め、 ﹁ 打 尽 日 本 郷 談 ﹂ は 日 本 語 を の こ ら ず 使 い き る と い っ た 意 味 に な ろ う。 祖 元 は 道 隆 の 示 寂 後 に 日 本 に 招 聘 さ れ て い る た め、 道 隆 を 直 接 に 知 っ て い た わ け で は な い。 そ の た め、 こ れ は 道 隆 の 門 弟 か ら の 伝 聞 に 基 づ く も の で あ り、 道 隆 の 門 弟 は、 道 隆 が 日 本 語 を と こ と ん ま で 使 い き っ て い た と 評 し て い たのである。   恐 ら く は、 上 堂、 小 参、 普 説 な ど は 中 国 語 で 行 な い、 日 常 会 話 や 細 か い 話 な ど に は 日 本 語 も 用 い て い た も の と 推 察 さ れ よ う。 こ れ は、 三 十 三 年 間 と い う 長 き に 渡 っ て 日 本 で 活 動 し た道隆ならではのことであったといえるだろう。

月峰了然と蜀音

  道 隆 に 学 ん だ 日 本 僧 に 月 峰 了 然 が い る 40 。 も と 大 学 博 士 で あ り、 来 朝 し て ま も な く の 道 隆 に 参 じ て、 そ の 法 を 嗣 い だ。 中

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二六五 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 国 古 典 に 関 す る 広 い 学 識 を 有 し て い た は ず で あ り、 そ の 知 識 は 参 禅 に 大 い に 資 す る も の が あ っ た で あ ろ う。 記 録 が 残 っ て い る 僧 侶 の な か で は、 最 も 早 く 道 隆 の 法 を 嗣 い で お り、 極 楽 禅寺︵現在の浄妙寺︶の住持として迎えられる。   了 然 自 身 は 入 宋 し て い な い が、 宋 地 で 刊 行 さ れ た﹃ 月 峰 和 尚 語 録 41 ﹄ が 存 し て お り、 臨 済 宗 虎 丘 派 の 渓 西 広 沢 に よ る そ の 序 文 は﹁ 月 峰 は 蘭 渓 の 蜀 音 を 操 り ﹂ と 記 し て い る。 日 本 人 で あ る 了 然 の 漢 語 の 説 法 録 を み て、 道 隆 ゆ ず り の 蜀 音︵ 四 川 こ とば︶を操った、と評したのである。   ﹁ 蜀 音 ﹂ と は 四 川 の 方 言 の こ と で あ ろ う が、 そ れ は 単 に 諸 方 言 の 一 つ と い う に と ど ま ら な い。 宋 代 の 禅 門 に は 四 川 出 身 の 僧 や 居 士 が 目 立 っ た 存 在 で あ り、 ﹁ 蜀 音 ﹂ に は 借 り 物 で な い 独 自 の 禅 風 を 挙 揚 す る と い う イ メ ー ジ が と も な っ て い た ら し い 42 。無準師範 ︵一一七七∼一二四九︶ の語録 ﹃仏鑑禅師語録﹄ 巻二﹁住臨安府径山興聖万寿禅寺語録﹂には、 謝 二 旧 知 事 両 堂 秉 払 一 堂。 衲 僧 家、 無 二 拠 一 動 静 去 留、 無 レ活路。進一步 臨 レ機没回互 退 二一步 声色如 二 聾瞽 一 。不 レ 進不退、 又且如何。 前堂首座是果州人、 後 堂 首 座 是 蓬 州 人。 蓬 州 人 自 打 二 州 郷 談 一 果 州 人 自 打 二 果州郷談 一 。雖然如 一レ 是、君子千里同 43 。 [ 訓 ] 新 旧 知 事・ 両 堂 の 秉 払 を 謝 す る 上 堂。 衲 僧 家、 本 拠 無 く、 動 静 去 留、 活 路 に 非 ざ る 無 し。 一 步 を 進 み て、 機に臨んで回互没く、 一步を退きて、 声色は 聾 瞽 の如し。 進 ま ず 退 か ざ れ ば、 又 た 且 つ 如 何 ん。 前 堂 首 座 は 是 れ 果 州 の 人、 後 堂 首 座 は 是 れ 蓬 州 の 人。 蓬 州 の 人 自 ら 蓬 州 の 郷 談 を 打 し、 果 州 の 人 自 ら 果 州 の 郷 談 を 打 す。 是 の 如 し と 雖 然 も、君子は千里に風を同じくす。 と い う 内 容 の 上 堂 が 収 録 さ れ て い る。 こ れ は、 新 旧 の 知 事 両 堂 が 秉 払 し た こ と に 感 謝 す る 上 堂 で あ る が、 こ の 際 に 前 堂 首 座 が 果 州︵ 四 川 省 ︶ の 人 で あ り、 後 堂 首 座 が 蓬 州︵ 四 川 省 ︶ の 人 で あ り、 蓬 州 の 人 が 蓬 州 の 郷 談 を 使 い、 果 州 の 人 が 果 州 の 郷 談 を 使 っ て い た こ と が 記 録 さ れ て い る。 無 準 師 範 そ の 人 が 綿 州︵ 四 川 省 ︶ の 出 身 で あ る こ と か ら、 そ の あ た り の 地 方 の発音の差異に詳しかったのであろう。   また、 希叟紹曇の語録 ﹃希叟紹曇禅師広録﹄ 巻一 ﹁法華語録﹂ に、 謝 二 蔵 主 至︿ 綿 州 人 ﹀ 一 堂。 大 康 山、 楊 浮 山、 撞 レ額、 共 打 二 談 一 其 中 切 脚 無 二 会 一 一 大 蔵 教、 華 梵 重 翻、 且 道 是 甚 麼 字。 切 不 レ 鉢 囉 娘。 且 聴 蒲 許 村 中人熱 忙 44 。 [ 訓 ] 応 蔵 主 の 至 る を︿ 綿 州 の 人 ﹀ 謝 す る 上 堂。 大 康 山、 楊 浮 山、 頭 を 撞 き 額 を ち、 共 に 郷 談 を 打 す。 其 の 中 の 切脚、 人の会する無し。一大蔵教、 華梵重ねて翻するは、 且 ら く 道 え、 是 れ 甚 麼 の 字 ぞ。 切 に 道 う を 得 ざ れ、 鉢 囉

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二六六 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 娘と。且らく聴け、蒲許村の中、人の熱忙するを。 と あ り、 こ れ は 綿 州︵ 四 川 省 ︶ 出 身 の 応 蔵 主 が や っ て き た こ と に 感 謝 す る 上 堂 で あ る が、 西 蜀︵ 四 川 省 ︶ 出 身 の 希 叟 紹 曇 と、 応蔵主がともに郷談で話したことを述べている。 また、 ﹃希 叟紹曇禅師広録﹄ 巻三 ﹁慶元府瑞巌山開善崇慶禅寺語録﹂ には、 上 堂。 謝 二 閩 浙 蜀 中 兄 弟 相 訪 一 筍 剪 二 鬚 一 山 茶 烹 二 雀 舌 一 欵 客 話 二 私 一 各 打 二 談 一説。 閩 蜀 同 レ風、 浙 音 迥 別。 老 倒 芝 峰 耳 重 レ聴。 ︿ 拍 レ 云 ﹀ 子 規 声、 訴 二 更 一 月端 午 45 。 [訓] 上堂。 ﹁閩 ・ 浙 ・ 蜀中の兄弟相い訪ねるを謝す。 筍、 龍 鬚 を 剪 り、 山 茶、 雀 舌 を 烹 る。 欵 客 家 私 を 話 し、 各 お の 郷 談 を 打 し て 説 く。 閩・ 蜀 風 を 同 く す、 浙 音 迥 か に 別 なり。老倒芝峰耳に聴くに重し﹂ と。床を拍ちて云く ﹁子 規の声、三更を 訴 げ、月端午なり﹂と。 と あ り、 閩︵ 福 建 省 ︶ と 浙︵ 浙 江 省 ︶ と 蜀︵ 四 川 省 ︶ の 兄 弟 弟 子 た ち が 訪 ね て 来 て く れ た こ と に 感 謝 す る 上 堂 で あ る が、 そ れ ぞ れ が﹁ 郷 談 ﹂ を 用 い て い た と い う。 閩 と 蜀 は 似 た よ う な 感 じ で あ っ た が、 ﹁ 浙 音 ﹂ は ま っ た く 別 の 発 音 で あ っ た と い う の で あ り、 そ れ ぞ れ の 地 方 に お け る﹁ 郷 談 ﹂ の 相 異 は 間 違いなく存在していたのである。   日 本 僧 の 月 峰 了 然 の 語 録 の 中 に 道 隆 ゆ ず り の﹁ 蜀 音 ﹂ の 名 残 を 見 い だ し た 中 国 の 禅 者 は、 は る か な る 異 国 の 地 に 禅 を 伝 え た 道 隆 の 苦 心 を 思 い、 感 慨 を 禁 じ 得 な か っ た の で は あ る ま いか。

兀庵普寧と大休正念

  道 隆 の 建 長 寺 住 持 中 に 日 本 に や っ て き た 禅 僧 の 一 人 に、 兀 庵 普 寧 が い る。 文 応 元 年︵ 一 二 六 〇 ︶ に 来 朝 し た 普 寧 は、 博 多 聖 福 寺、 京 都 東 福 寺 を 経 て、 道 隆 住 持 の 建 長 寺 に や っ て く る。しばらくは、 道隆が住持を勤める建長寺に滞在していた。 弘 長 二 年︵ 一 二 六 二 ︶ 春 に、 道 隆 が 京 都 建 仁 寺 の 住 持 と し て 建 長 寺 を 離 れ る こ と と な り、 代 わ り に 普 寧 が 建 長 寺 の 住 持 と な っ た。 こ れ は、 北 条 時 頼 の 強 い 要 請 に よ る も の と 考 え ら れ る。   建 長 寺 住 持 と な っ た 普 寧 は、 す ぐ に 問 題 に 直 面 す る こ と に なった。 言語の問題である。 ﹃兀庵和尚語録﹄ 巻中 ﹁建長寺語録﹂ には建長寺入院上堂の次に、 上 堂。 卸 二 千 斤 重 担 一 惟 要 在 処 清 閑。 老 来 業 債 未 レ脱、 復堕 二建長一関 語音未 レ辨、 酬酢猶艱。 説者聴者難復難。 只 拠 二 条 白 棒 一 南 来 者 北 来 者、 俱 与 二 痛 棒 一 忽 然 打 二 著一箇半箇独脱底 一 従教知道、 酌然不 レ説処不説処 三乗十二分教、 総是指 レ 空話空、 撒 レ 土撒沙、 必竟如何。 摘楊花、摘楊 花 46 。 [ 訓 ] 上 堂。 千 斤 の 重 担 を 卸 却 し、 惟 だ 要 す 在 処 清 閑 な

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二六七 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ ることを。老来業債未だ脱せず、 復た建長の一関に堕す。 語 音 未 だ 辨 ぜ ず、 酬 酢 猶 を 艱 し。 説 く 者、 聴 く 者、 難 復 た 難。 只 だ 一 条 の 白 棒 に 拠 り、 南 来 の 者、 北 来 の 者、 俱 に痛棒を与う。 忽然として一箇半箇の独脱底を打著せば、 従 教 い 知 道 る と も、 酌 然 と し て 説 処 不 説 処 に 在 ら ず。 三 乗 十 二 分 教、 総 て 是 れ 空 を 指 し 空 を 話 し、 土 を 撒 き 沙 を 撒く、必竟して如何ん。摘楊花、摘楊花。 と い う 上 堂 が 収 録 さ れ て い る。 語 音 が 通 じ な か っ た た め に、 話す方も聞く方も大変だ、 と述べているのである。すなわち、 基 本 的 な 修 行 生 活 は 中 国 語 で 行 な わ れ て い た が、 多 く の 修 行 僧 が 理 解 で き て い た わ け で は な か っ た こ と が 暗 示 さ れ て い る のである。   普寧はこの情況を、 後に ﹃兀庵和尚語録﹄ 巻中 ﹁建長寺語録﹂ の﹁国公就本寺、満散祈祷道場、礼請普説﹂で、 老僧千錯万錯、 越 レ漠乍到此間。衰 晚 之質、 語音未 レ通。 無 奈 難 レ 命 一 勉 レ 支 二 住 持 之 職 一 陞 堂 入 室、 示 衆普説、雖 レ曾缺、垂手之際、自嘆枉費 神 47 一 [ 訓 ] 老 僧、 千 錯 万 錯、 漠 を 越 え て 乍 ち 此 間 に 到 る。 衰 晚 の 質、 語 音 未 だ 通 ぜ ず。 無 奈 く 上 命 を 却 け 難 く、 力 を 勉 め 住 持 の 職 を 支 撑 す。 陞 堂 入 室、 示 衆 普 説、 曾 つ て 缺 かずと雖も、 垂手の際、 自ら嘆く、 枉 しく 精 神 を費すを。 と述べていることが、その苦労を物語っていよう。   普 寧 が﹁ 語 音 未 だ 辨 ぜ ず ﹂ と 述 べ た の が、 道 隆 が 建 長 寺 を 退 い た 直 後 で あ る こ と か ら す れ ば、 あ る い は 道 隆 の 住 持 中 に は、 中 国 語 で 修 行 生 活 を 送 り つ つ も、 上 堂 の 後 な ど に 日 本 語 で補足がなされていたのかもしれない。   普 寧 は、 五 年 程 の 活 動 で 中 国 に 帰 国 し て し ま っ た た め、 日 本 語 を 道 隆 ほ ど に 習 得 す る こ と は な か っ た で あ ろ う。 ﹃ 兀 庵 和尚語録﹄巻中﹁建長寺語録﹂には、 上 堂。 臈 月 八 夜 眼 見 レ鬼、 便 開 二 口 一 理 一 若 向 二 僧 門 下 一 過、 爛 槌 一 頓 無 レ 矣。 莫 レ 助 レ 底 一 麼。 操 二日本郷談云、和蘇嚕 之 48 。 [ 訓 ] 上 堂。 ﹁ 臈 月 八 夜、 眼 は 鬼 を 見 て、 便 ち 大 口 を 開 い て 道 理 を 説 く。 若 し 衲 僧 門 下 に 向 い て 過 ぎ な ば、 爛 槌 一 頓 せ ら る こ と 疑 い 無 け ん。 拳 を 助 け 踢 を 助 く る 底 有 る に 莫 ず 麼 ﹂と。日本の郷談を操りて云く、 ﹁ 和 蘇 嚕 之 ﹂と。 という上堂が収録されている。これによれば、普寧は上堂の 最後に﹁日本の郷談﹂を操って﹁ 和 蘇 嚕 之 ﹂の一句を発した と い う。 そ の 意 図 は と も か く、 普 寧 の 日 本 語 力 が、 か た こ と の日本語で ﹁おそろし﹂ と言える程度であったことがわかる。 普寧の上堂は中国語で行なわれていたのである。   兀 庵 普 寧 の 帰 国 後、 再 び 道 隆 が 建 長 寺 の 住 持 と な る が、 こ の 再 住 期 間 中 に 日 本 に 渡 来 し た の が 大 休 正 念 で あ る。 正 念 は 道 隆 の 助 力 も あ っ て 鎌 倉 禅 興 寺 の 住 持 と な り、 次 い で 寿 福 寺

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二六八 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ の 住 持 と な り、 道 隆 が 鎌 倉 か ら 離 れ た 際 に 建 長 寺 の 住 持 と な っ た。 さ ら に 道 隆 が 三 度 目 の 住 持 と し て 建 長 寺 に 戻 る と、 建 長 寺 か ら 鎌 倉 寿 福 寺 に 移 っ て い っ た。 正 念 の 語 録﹃ 大 休 和 尚 語 録 ﹄﹁ 偈 頌 雑 題 ﹂ に は、 宗 元 侍 者 が 徧 参 に 赴 く の に 与 え た偈頌が、    送 二宗元侍者徧参 一 寿 山 一 味 説 二 言 一 不 二 西 天 梵 語 翻 一 子 去 二 方 一 借 問、直言水出 レ 原 49 一 [ 訓 ] 寿 山 、 一 味 に 唐 言 を 説 く、 是 れ 西 天 梵 語 の 翻 に あ らず。子諸方に 去 きて 如 し借問せられなば、直に言え、 水は高原 自 り出ずと。 と あ り、 正 念 が も っ ぱ ら﹁ 唐 言 ﹂ す な わ ち 中 国 語 を 話 し て い たことが記されている。また、 ﹃大休和尚語録﹄ ﹁法語﹂には、 覚尊蔵主に与えた、    示 二 覚尊蔵主 一 大 覚 世 尊、 纔 出 二 肚 皮 裏 一 便 乃 奇 恠、 一 手 指 レ 天、 一 手 指 レ 云、 天 上 天 下 唯 吾 独 尊、 這 箇 不 二 従 レ 得 底 一 這 箇 不 二 安 排 得 底 一 。︵ 中 略 ︶ 覚 尊 蔵 主、 自 二 寿 山 一 来、 福 山 相 従 二 載。 渠 以 二 言 不 一レ通、 懐 レ 請 二 予 一 故 就 二 其名字 一、説些葛 藤 50 一 [ 訓 ] 大 覚 世 尊、 纔 か に 娘 の 肚 皮 裏 を 出 ず る や、 便 乃 ち 奇 恠、 一 手 天 を 指 し、 一 手 地 を 指 し て 云 く、 天 上 天 下 唯 吾 独 尊 と、 這 箇 は 是 れ 人 従 り 得 る 底 な ら ず 、 這 箇 は 是 れ 安排し得る底ならず。 ︵中略︶ 覚尊蔵主、 寿山 自 り朅来し、 福山にて相い従うこと二載。 渠れ唐言の通ぜざるを以て、 香 を 懐 き て 予 に 請 益 す。 故 に 其 の 名 字 に 就 き て、 些 の 葛 藤を説く。 と い う 法 語 が 収 録 さ れ て お り、 寿 福 寺 か ら 随 侍 し て 建 長 寺 で も 二 年 間 付 き 従 っ た 覚 尊 蔵 主 で さ え、 唐 言︵ 中 国 語 ︶ が 理 解 できず書面で教えを受けるほかなかったことが窺われる。   正 念 は、 寿 福 寺 で も 建 長 寺 で も 中 国 語 で 説 法 し、 中 国 語 で 会 話 し て い た の で あ る が、 正 念 に 寿 福 寺 で も 建 長 寺 で も 付 き 従 い、 建 長 寺 で 蔵 主 と い う 役 職 に あ っ た 覚 尊 で さ え、 中 国 語 を 話 す こ と が で き な か っ た の で あ る。 こ の こ と は、 多 く の 修 行 僧 が、 中 国 語 を 理 解 で き ぬ ま ま、 渡 来 僧 に 参 じ て い た こ と を物語っている。

無学祖元と円覚寺

  道 隆 が 示 寂 す る と、 翌 年 に は 無 学 祖 元 が 中 国 か ら 招 聘 さ れ 建 長 寺 に 入 寺 し た。 そ の た め、 来 朝 の 事 情 や 準 備 期 間 か ら し て も 日 本 語 の 理 解 に つ い て は ほ と ん ど 無 か っ た も の と 推 定 さ れ る。 こ の 点、 ﹃ 仏 光 国 師 語 録 ﹄ 巻 八﹁ 仏 祖 讃 ﹂ に 収 録 さ れ た自讃には、    相模四郞殿請讃

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二六九 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 頭浅面窄、 三尖五露。 雖 二然仏法満 一レ肚、 不 レ日本言語 一炷清香供 二 養伊、也能遍洒清涼 雨 51 。 [ 訓 ] 頭 浅 く 面 窄 く、 三 尖 五 露。 仏 法 肚 に 満 つ と 雖 然 も、 日 本 の 言 語 を 会 せ ず。 一 炷 の 清 香、 伊 を 供 養 せ ば、 也 た 能く遍く洒ぐ清涼の雨。 とあり、 自ら﹁日本言語﹂を理解できないことを記している。 こ れ は、 道 隆 に 対 し て﹁ 打 尽 日 本 郷 談 ﹂ と 評 し て い る こ と と は 対 照 的 で あ る。 ﹃ 仏 光 国 師 語 録 ﹄ 巻 四﹁ 相 州 瑞 鹿 山 円 覚 興 聖禅寺開山語録﹂にも、 謝 二秉払上堂。山僧有四賓主句。昨日作一句 分 二 四 頭 首 一 打 二 本 郷 談 一 説 二 本 条 実 一 示 二 諸 人 一 也。 諸 人 若 也 見 得 分 明、 却 二 室 中 一 一 一 吐 露。 是 則 与 レ 汝証拠。不是則再贈 二 竹箆。卓拄杖 座 52 。 [ 訓 ] 秉 払 を 謝 す る 上 堂。 ﹁ 山 僧、 四 賓 主 の 句 有 り。 昨 日 一 句 を 作 り、 四 頭 首 に 分 付 し、 日 本 の 郷 談 を 打 し て、 日 本 の 条 実 を 説 か し め、 汝 ら 諸 人 に 示 し 了 れ り。 諸 人、 若 也 し 見 得 し て 分 明 な ら ば、 室 中 に 却 来 し て 一 一 吐 露 せ よ。 是 な ら ば 則 ち 汝 が 与 め に 証 拠 せ ん。 不 是 な ら ば 則 ち 再び竹箆を贈らん﹂と。拄杖を卓して下座す。 とあり、 四頭首に命じて、 自作の一句を﹁日本郷談﹂ ︵日本語︶ で 大 衆 に 解 説 さ せ た と 述 べ て い る。 祖 元 は 自 分 で は 日 本 語 で 説明ができなかったのである。   こ れ は、 渡 来 僧 の 中 国 語 の こ と ば を、 中 国 語 も わ か る 日 本 僧 が 修 行 僧 に 解 説 し て い る 事 例 と し て も 注 目 さ れ る。 日 本 語 も で き る 道 隆 は こ れ を 自 分 で 行 な う こ と が で き、 日 本 語 の で き な い 祖 元 は、 中 国 語 も で き る 門 弟 に ゆ だ ね る ほ か な か っ た の で あ る。 例 え ば、 北 条 時 宗︵ 一 二 五 一 ∼ 一 二 八 四 ︶ が 祖 元 に 参 ず る 際 に は、 道 隆 の 法 嗣 で 入 宋 僧 で あ る 無 及 徳 詮 な ど が 通 事︵ 通 訳 ︶ を し て い た 53 。 基 本 的 に、 渡 来 僧 の み で は こ ま か な ニ ュ ア ン ス を 伝 え る こ と が で き な か っ た わ け で あ り、 渡 来 僧 の 住 す る 鎌 倉 期 の 禅 林 に は、 中 国 語 が で き る 日 本 僧 も 必 要 だったのである。   ま た、 ﹃ 仏 光 国 師 語 録 ﹄ 巻 四﹁ 相 州 瑞 鹿 山 円 覚 興 聖 禅 寺 開 山語録﹂に、 謝 二 那 洎 両 序 一 堂。 任 レ 使 レ 能、 住 山 之 職 也。 裁 レ 補 レ短、 梓 匠 之 職 也。 今 則 檀 那 新 建 二 覚 伽 藍 一 非 二 本 可 一レ支。 円 者 作 レ柱、 方 者 作 レ梁、 大 者 為 レ桷、 小 者 為 レ柆。 一 長 一 短、 有 レ 有 レ円、 各 任 二 責 一 各 呈 二 能 一 便 見 楼 観 翔 レ空、 叢 林 雍 肅、 一 新 壮 麗、 和 気 靄 然。 雖 二 如 一レ 是、 老僧手舞足踏、 作 二 場燕管相待去也。 いろはにほへと、 囉 囉 哩 哩 囉 囉 囉。 勧 レ 飲 二 樽 中 酒 一 老 僧 陪 笑 又 陪 歌。 且道是何曲調。卓 二 拄杖云、万年 歓 54 。 [訓] 檀那 洎 び両序を謝する上堂。 ﹁賢に任し能を使うは、 住 山 の 職 な り。 長 を 裁 り 短 を 補 な う は、 梓 匠 の 職 な り。

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二七〇 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 今 則 ち 檀 那 新 た に 円 覚 伽 藍 を 建 つ る は、 一 本 の 支 う 可 き に 非 ず。 円 な る 者 は 柱 と 作 し、 方 な る 者 は 梁 と 作 す、 大 な る 者 は 桷 と 為 し、 小 な る 者 は 柆 と 為 す。 一 長 一 短、 方 有 り 円 有 り、 各 お の 其 の 責 に 任 せ、 各 お の 其 の 能 を 呈 せ し む れ ば、 便 ち 見 ん、 楼 観 空 に 翔 り、 叢 林 雍 肅、 一 新 の 壮 麗、 和 気 靄 然 た る こ と を。 是 の 如 し と 雖 然 も、 老 僧 手 舞 い 足 踏 み、 場 の 燕 管 を 作 し て 相 待 し 去 ら ん。 ﹃ い ろ は に ほ へ と、 囉 囉 哩 哩 囉 囉 囉 。 君 に 勧 む、 樽 中 の 酒 を 飲 み 尽 く さ ん こ と を、 老 僧 陪 笑 し 又 た 陪 歌 せ ん ﹄。 且 く 道 え、 是れ何の曲調ぞ﹂ と。 拄杖を卓して云く、 ﹁万年の歓び﹂ と。 と あ る 上 堂 が 注 目 さ れ る。 祖 元 が﹁ 場 の 燕 管 を 作 し て 相 待 し 去 ら ん ﹂ と 述 べ た の ち、 突 然﹁ い ろ は に ほ へ と ﹂ と 歌 い 始 め た 時 に は、 聞 い て い る 人 た ち は み な 驚 い た こ と で あ ろ う。 祖 元 の 説 法 に 日 本 語 が 見 え る の は、 わ ず か に こ の 一 段 の み で あり、やはり祖元は日本語が話せなかったのである。   こ の よ う に、 開 山 の 道 隆、 二 世 の 普 寧、 三 世 の 正 念、 五 世 の 祖 元 と 中 国 人 の 住 持 が 中 国 語 で 説 法 す る こ の よ う な 修 行 風 景 は、 道 暁 が 建 長 寺 を 中 国 の よ う だ と 評 す る に 相 応 し い も の で あ っ た。 ま た、 鎌 倉 を 代 表 す る 禅 寺 で あ る 円 覚 寺 や 寿 福 寺 に お い て も、 渡 来 僧 の 住 す る 寺 は、 同 様 の 修 行 生 活 が 行 な わ れていたのである。

竺仙梵僊と清拙正澄

  渡 来 僧 の 竺 仙 梵 僊 に つ い て は、 中 国 語 で 上 堂 を 行 な い、 途 中、 日 本 語 で の 上 堂 に 切 り 替 え た こ と が 確 認 さ れ る 好 史 料 が す で に 提 示 さ れ て い る。 そ れ は、 ﹃ 竺 仙 和 尚 語 録 ﹄ 巻 下﹁ 浄 智 禅 寺 語 録 ﹂ に 収 録 さ れ た 上 堂 で あ り、 上 堂 の 前 半 の 話 55 を 受 けつつ、 師再垂語云、 寿侍者、 適間違 レ 条犯令了也。不恁麼底、 更 有 二 話 者 一麼。 寿 再 出 云、 達 磨 西 来、 言 語 不 レ通、 已 曾 伝 法。 学 人 上 来、 和 尚 如 何。 師 云、 汝 還 得 法 也 未。 是 時寿却転 二其舌音 作 二日本郷談云、 如何是祖師西来意。 師 答 亦 操 二 本 音 一云、 庭 前 柏 樹 子。 進 云、 此 是 古 人 底、 如 何 是 和 尚底 。 師 云 、 既 是 古 人 底 、 因 レ 甚却 在 二 僧 口 裏 一 出。 寿乃礼拝。 乃云、 洪鐘待 レ扣、 声応 二長空 宝鑑当 レ軒、 影 臨 二 像 一 禅 客 唐 様 問 レ禅、 山 僧 唐 様 答 話。 禅 客 日 本 様問 レ 禅、 山僧日本様答話。此事且置、 一 拽 レ 石、 二搬 レ 土。 喝。孟八郞漢又恁麼去。下 座 56 。 [ 訓 ] 師 再 び 垂 語 し て 云 く、 ﹁ 寿 侍 者 、 適 間、 条 に 違 い 令 を 犯 し 了 る 也。 恁 麼 な ら ざ る 底、 更 に 問 話 す る 者 有 り 麼 ﹂ と。 寿 再 び 出 で て 云 く、 ﹁ 達 磨 西 来、 言 語 通 ぜ ざ れ ど も、 已 に 曾 て 伝 法 せ り。 学 人 上 来 せ ば、 和 尚 如 何 ん ﹂ と。師云く、 ﹁汝 還 た得法する 也 未 ﹂と。是の時、 寿、 却っ

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二七一 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ て其 の 舌 音 を 転 じ、 日 本 の 郷 談 を 作 し て 云 く、 ﹁ 如 何 な る か 是 れ 祖 師 西 来 の 意 ﹂ と。 師 答 う る に 亦 た 日 本 音 を 操 り て 云 く、 ﹁ 庭 前 の 柏 樹 子 ﹂ と。 進 み て 云 く、 ﹁ 此 れ は 是 れ古人の底。如何なるか是れ和尚の底﹂と。師云く、 ﹁既 に 是 れ 古 人 の 底 な る に、 甚 に 因 り て か 却 っ て 山 僧 の 口 裏 に在って出づ﹂と。寿乃ち礼拝す。 乃 ち 云 く、 ﹁ 洪 鐘 は 扣 つ を 待 ち て 声 長 空 に 応 ず。 宝 鑑 は 軒 に 当 り て 影 万 像 に 臨 む。 禅 客 唐 様 に 禅 を 問 わ ば、 山 僧 唐 様 に 答 話 す。 禅 客 日 本 様 に 禅 を 問 わ ば、 山 僧 日 本 様 に 答話す。 此の事且く置く、 一に石を 拽 き二に土を搬ぶ。 喝。 孟八郞漢又た恁麼に去る﹂と。下座す。 と あ る。 達 磨 が﹁ 言 語 不 通 57 ﹂ で あ っ て も 仏 法 が 伝 来 し た こ と に 因 ん だ 問 答 で あ り、 こ れ ま で 中 国 語 で 上 堂 し て い た 竺 仙 梵 僊 に、 椿 庭 海 寿︵ 一 三 一 八 ∼ 一 四 〇 一 ︶ が 日 本 の 郷 談︵ 日 本 語 ︶ で﹁ イ カ ナ ル カ ソ シ セ イ ラ イ ノ イ︵ 如 何 是 祖 師 西 来 意 ︶﹂ と質問すると、 梵仙梵僊のほうも ﹁舌音﹂ を転じて日本音 ︵日 本 語 ︶ で﹁ テ イ ゼ ン ノ ハ ク ジ ュ シ︵ 庭 前 柏 樹 子 ︶﹂ と 答 え た と い う の で あ る。 中 国 僧 に 日 本 語 で 質 問 し、 中 国 僧 が 日 本 語 で答えるという情況が記されている。   竺 仙 梵 僊 は 元 徳 元 年︵ 一 三 二 九 ︶ に 来 朝 し た。 そ の 後、 示 寂 す る 貞 和 四 年︵ 一 三 四 八 ︶ ま で 日 本 で 活 動 し た た め、 足 か け 二 十 年、 日 本 で 活 動 し た 期 間 は 長 い。 こ の 上 堂 が 行 な わ れ た の は、 建 武 五 年︵ 一 三 三 八 ︶ の こ と で あ る。 来 朝 十 年 目 に も な れ ば、 日 本 人 が 度 々 発 音 し て い た だ ろ う﹁ イ カ ナ ル カ ソ シセイライノイ﹂の日本語を聞き取り、 ﹁テイゼンノハクジュ シ ﹂ と 答 え ら れ る ほ ど に は 日 本 語 力 を 得 て い た の だ ろ う。 竺 仙 梵 僊 は、 中 国 語 で 質 問 さ れ れ ば 中 国 語 で 答 え る し、 日 本 語 で 質 問 さ れ れ ば 日 本 語 で 答 え る と 結 ん で い る が、 に も か か わ ら ず、 こ の 上 堂 は、 基 本 的 な 問 答 が 中 国 語 で 行 な わ れ て い た ことを示している。   淸拙正澄の記した ﹃大鑑清規﹄ には極めて興味深い記述が、 陞堂。聴法時、 戒臘高者近前立、 後生兄弟次第皆近前立。 不 レ退 縮 一 在 二 門 外 一 此 皆 因 二 戒 退 縮 一 以 致 二 生 一 不 レ 前 一 又 陞 堂 時、 後 生 半 分 懈 怠。 其 意 謂 唐 音 聴 不 レ 得、不如懈怠不妨。此之謂師慢 一レ 法。向後決定 住院無 レ分。 自然鬼神妬滅 二其福 可 不 二自思 一︿法鼓一鳴、 諸天皆臨。在 レ寺掛搭者、軽慢住持、土地神必罰﹀ 。 58 [ 訓 ] 陞 堂。 聴 法 の 時、 戒 臘 高 き 者 は 近 前 し て 立 ち、 後 生 の 兄 弟 は 次 第 に 皆 な 近 前 し て 立 て。 退 縮 し て 門 外 に 在 る 可 か ら ず。 此 れ 皆 な 老 戒 の 退 縮 に 因 り て、 以 て 後 生 の 近 前 す る 能 わ ざ る を 致 す。 又 た 陞 堂 の 時、 後 生、 半 分 は 懈 怠 な り。 其 の 意 に 謂 う、 ﹁ 唐 音 聴 き 得 ず、 如 か ず、 懈 怠 し て 妨 げ ざ る に ﹂ と。 此 を 之 れ 師 を 軽 ん じ 法 を 慢 ず る と 謂 う。 向 後、 決 定 し て 住 院 に 分 無 け ん。 自 然 に 鬼 神 妬

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二七二 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ み て 其 の 福 を 滅 す。 可 ん ぞ 自 ら 思 わ ざ る︿ 法 鼓 一 た び 鳴 ら ば、 諸 天 皆 な 臨 む。 寺 に 在 り て 掛 搭 す る 者、 住 持 を 軽 慢せば、土地神必ず罰さん﹀ 。 と記されている。この前半部分は、 陞堂に際する清規であり、 戒 臘 の 高 い も の か ら 順 番 に 前 か ら 立 つ よ う に と あ り、 堂 内 で 戒 臘 順 に 前 か ら つ め て 並 ぶ よ う に 指 示 し て い る。 法 座 か ら 遠 ざ か り、 堂 外 に か た ま っ て は い け な い。 そ も そ も 高 臘 の 者 が 後 ろ に か た ま る か ら 若 者 が 外 に 押 し 出 さ れ る の だ と 述 べ て い る。   注 目 す べ き は、 陞 堂 に 際 し て の 淸 拙 正 澄 の 私 見 を 記 し た 記 述であり、 若い修行僧の半分は懈怠していると記されている。 住 持 か ら み て 懈 怠 し て い る と い う 情 況 か ら す れ ば、 お そ ら く は 居 眠 り を し て い た の だ ろ う。 こ れ に 対 し て 淸 拙 正 澄 は、 居 眠 り し て い る 僧 侶 は 心 の 中 で﹁ 中 国 語 が 理 解 で き な い の だ か ら、 い っ そ、 居 眠 り し て も か ま い は し な い ﹂ と 思 っ て い る こ と だ ろ う。 し か し、 こ の よ う な 言 い 訳 は 師 匠 を 軽 ん じ 仏 法 を あなどっていることだと記している。   こ の よ う な 記 述 か ら は、 修 行 が 中 国 語 で 行 な わ れ て お り、 し か も 通 訳 僧 な ど が い な い 状 況 が 想 定 さ れ る。 淸 拙 正 澄 が 住 持 し た 頃、 住 持 し た 寺 院 の 中 で は 大 半 の 修 行 僧 が 中 国 語 の 説 法 に 対 し て 消 極 的 な 態 度 で あ っ た こ と を 窺 わ し め る の で あ る 59 。

入宋僧の中国語学習

  こ の よ う に、 渡 来 僧 が 活 躍 す る 鎌 倉 期 の 禅 林 で は、 中 国 語 で も っ て 上 堂 説 法 や 小 参・ 普 説 な ど の 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い た よ う で あ る。 こ こ で 修 行 し た も の た ち が、 後 に 入 宋 し、 あ る い は 入 元 し て 中 国 で 禅 を 学 ん だ。 そ の よ う な 僧 侶 た ち に と っ て、 鎌 倉 期 の 禅 林 は、 禅 を 修 行 す る 道 場 で あ っ た の み な ら ず、 中 国 語 を 習 得 す る 場 に も な っ て い た こ と は 想 像 に 難 く ない。   覚 阿 は 入 宋 前 に 中 国 語 を 学 習 す る 機 会 を 得 て は い な か っ た と思われるが、 栄西については、 一度目の入宋前に博多に二ヶ 月 間 滞 在 し て お り、 こ の 間 に 唐 房︵ 宋 人 街 ︶ の 中 国 人 か ら 中 国 語 を 習 っ た こ と で あ ろ う 60 。 た だ し、 二 ヶ 月 と い う 期 間 か ら す れ ば、 実 際 の 会 話 能 力 に つ い て は、 入 宋 後、 さ ら に は 二 度 目の入宋に際して獲得していったものと考えたい。   道 元 は ど う で あ ろ う か。 ﹃ 正 法 眼 蔵 随 聞 記 ﹄ 巻 三 に は﹁ 我、 幼 少 の 昔、 記 典 等 を 好 み、 学 し て、 其 が 今 も 入 宋 伝 法 す る ま でも、 内外の書籍をひらき、 方言を通ずるまでも、 大切の用 事 61 ﹂ で あ る と 述 べ て い る。 道 元 が 幼 少 の と き に 漢 籍 な ど を 求 め て 学 ん だ が、 内 典・ 外 典 の 典 籍 を 読 む ほ か に、 ﹁ 方 言 ﹂ に も 通 ず る よ う に な る ま で 勉 強 し た こ と は、 今 で あ っ て も 中 国 に 留 学する前であっても大切なことであったと述べている。

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二七三 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶   こ こ で 言 う﹁ 方 言 ﹂ は、 中 国 語 の 口 語、 音 声 言 語 を 意 味 し て い る も の ら し く 62 、 道 元 は 入 宋 前 に 中 国 語 の 発 音 が 通 じ る よ うに勉強していたことになる。   道 元 が 建 仁 寺、 泉 涌 寺 な ど で 当 時 の 発 音 を あ る 程 度 学 習 す る こ と は 可 能 で あ っ た だ ろ う。 た だ し、 実 際 に 入 宋 す る ま で に、 流 暢 に 会 話 が で き る ほ ど ま で に 中 国 語 を 理 解 で き て い た か 否 か は 議 論 の 余 地 が 残 る 63 。 実 際 に 当 時 の 発 音 を 学 べ る 寺 院 が 限 ら れ て い た こ と を 踏 ま え る な ら ば、 道 元 も 他 の 入 宋 僧 と 同 様 に、 あ る 程 度 の 基 礎 的 な 語 学 力 を 得 た 上 で、 実 際 に 中 国 で 修 行 生 活 を 送 る こ と で、 中 国 語 を 習 得 し て い き、 如 浄 か ら 嗣法することができたと考えるのが自然であろう。   こ の 点、 円 爾 な ど は、 と も に 入 宋 し た 神 子 栄 尊︵ 一 一 九 五 ∼ 一 二 七 二 ︶ と と も に 径 山 の 無 準 師 範 に 参 じ て い る が、 円 爾 は 湯 薬 侍 者 と な っ て、 無 準 師 範 に 直 接 指 導 を 受 け な が ら 参 学 を 続 け た。 し か し な が ら、 神 子 栄 尊 は 中 国 語 が で き な か っ た た め、 日 本 語 が で き る 円 爾 を 通 し て 参 学 す る こ と に な っ た の で あ る。 神 子 栄 尊 は 基 礎 的 な 語 学 力 が な か っ た が 故 に、 無 準 師 範 に 直 接 指 導 を 受 け る 機 会 を 得 る こ と が で き な か っ た わ け で あ る か ら、 語 学 力 も 師 か ら 認 め ら れ る 上 で 重 要 な 要 素 で あっ た 64 。   円 爾 の 伝 記 に は、 天 福 元 年︵ 一 二 三 三 ︶ か ら 入 宋 す る 嘉 禎 元 年︵ 一 二 三 五 ︶ ま で 謝 国 明 の 私 宅 に 在 っ た こ と が 記 さ れ て い る 65 。 謝 国 明 は 博 多 綱 首 で あ り、 よ う す る に 中 国 出 身 の 貿 易 商 で あ る。 円 爾 は こ の 時 期 に、 入 宋 の 準 備 と し て 中 国 語 を 学 ん だ 可 能 性 が 想 定 さ れ る。 一 方、 同 船 に て 入 宋 し た 神 子 栄 尊 は、 こ の 間 に 円 爾 と は 別 行 動 を と っ て い た と み ら れ る 66 。 こ の 期 間 が、 二 人 の 中 国 で の 修 行 生 活 を 分 け た の で は な い だ ろ う か。   最 初 期 の 入 宋 僧 な ど は、 中 国 語 を 直 接 学 ぶ 機 会 が か な り 限 ら れ て い た の で、 書 面 語 の 読 み 書 き は 別 と し て も、 会 話 能 力 は 基 本 的 に は 入 宋 後 に 獲 得 し た の だ ろ う。 そ の 後、 入 宋 を 志 す 僧 侶 は、 必 然 的 に 中 国 語 を 話 せ る 渡 来 僧 や 入 宋 僧 に 参 じ、 ある程度の中国語を習得したのだろう。 その基礎知識を基に、 入宋後に中国語の会話能力を得ていったと考えられる。   一 方、 そ の す べ て の 人 た ち が 中 国 語 を 習 得 で き た わ け で は な く、 未 熟 な 語 学 力 の ま ま 中 国 へ い き、 最 後 ま で 習 得 す る こ と が で き ず に 帰 国 し た 僧 侶 も 多 々 あ っ た こ と で あ ろ う。 そ ん な 渡 来 僧 の 情 況 が、 僅 か な が ら で は あ る が、 中 国 の 語 録 に 遺 されている。   希叟紹曇の語録﹃希叟和尚語録﹄には、    日本玄志禅人請語 上人幼負 二凌雲志 一 、十五為 レ僧今廿二。 鯨波不 レ怕嶮如崖、 遠 涉 要 レ 西 祖 意 一 老 松 陰 下 扣 二 扉 一 未 レ 渓 劈 箭機 一。満口郷談学唐語、帝都丁喚那斯 祁 67 一

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二七四 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ [ 訓 ] 上 人、 幼 き よ り 凌 雲 の 志 を 負 い、 十 五 に し て 僧 と 為 り 今 廿 二 な り。 鯨 波 を も 怕 れ ず 嶮 し き こ と 崖 の 如 く な る に、 遠 涉 し て 西 祖 の 意 を 明 め ん こ と を 要 す。 老 松 陰 下 に て 烟 扉 を 扣 き、 未 だ 慈 渓 の 劈 箭 の 機 を 透 ら ず。 満 口 に 郷談して唐語を学び、帝都にて丁んに那斯祁と喚ぶ。 と あ り、 日 本 か ら や っ て き た 玄 志 禅 人 が、 ﹁ 満 口 に 郷 談 し て 唐 語 を 学 ﹂ ん で い る 様 子 を 記 し て い る。 当 時、 希 叟 紹 曇 の も と に は 多 く の 日 本 僧 が 滞 在 し て い た が、 こ の よ う に 評 価 し た の は 玄 志 禅 人 の み で あ る か ら、 日 本 語 を し ゃ べ り ま く り な が ら 中 国 語 の 口 ま ね を す る 姿 は、 恐 ら く 印 象 に 残 っ た こ と で あ ろう。   ま た、 断 橋 妙 倫︵ 一 二 〇 一 ∼ 一 二 六 一 ︶ の 語 録﹃ 断 橋 和 尚 語 錄 ﹄ 巻 下﹁ 法 語 ﹂ の﹁ 日 本 僧 以 二 死 一 ﹂ に は、 ﹁ 一 日 忽 有 二 衲 子 到 一 口 不 レ語、 手 却 会 レ書。 乃 知 レ 本 国 一 因 有 二 頌 語 一 求 下 決 二 生 一 話 上 68 と あ る。 あ る 時、 断 橋 妙 倫 の も と に、 雲・ 門・ 見 の 三 人 が 訪 れ て 言 葉 を 求 め た と い う が、 こ の 際 に 三 人 は 中 国 語 を 話 す こ と が で き な か っ た が 漢 文 は 書 け た 旨 を 述 べ て い る た め、 交 流 は 筆 談 に よ っ て 行 な われたことになる。   こ の う ち の、 門 は 無 関 普 門︵ 一 二 一 二 ∼ 一 二 九 一 ︶ の こ と で あ る が、 こ の 法 語 を 得 て す ぐ に 帰 国 し て い る た め、 中 国 語 を 習 得 せ ず に 帰 国 し て い た こ と に な る。 ま た、 先 に 紹 介 し た 神 子 栄 尊 の 他 に も、 無 準 師 範 に 参 じ た 悟 空 敬 念︵ 一 二 一 七 ∼ 一二七二︶なども中国語が話せずに、 日本僧を介して参学し、 一 翁 院 豪︵ 一 二 一 〇 ∼ 一 二 八 一 ︶ も 中 国 語 を 習 得 す る こ と な く 帰 国 し て い る。 後 世 ま で 名 を 残 す 僧 侶 で あ っ て も こ の よ う な 情 況 で あ る か ら、 実 際 に は も っ と 多 く の 僧 侶 が 中 国 語 を 習 得することなく帰国して活躍したのだろ う 69 。   多 く の 日 本 人 が 中 国 に 留 学 す る よ う に な る と、 中 国 語 に 親 し ま ず に 中 国 に 行 っ た 人 た ち は、 中 国 語 を 習 得 し た 人 に く ら べ て 目 立 つ こ と に な っ て し ま っ た の で あ ろ う か。 し か し な が ら、 こ の よ う な 記 録 は、 全 体 か ら す れ ば 僅 か 数 例 記 録 さ れ て い る だ け で あ る か ら、 中 国 に 留 学 を 目 指 し た 多 く の 僧 侶 は、 基 本 的 に は 鎌 倉 期 の 禅 林 で、 あ る 程 度 の 基 礎 的 な 語 学 力 を 得 てから留学したのであろ う 70 。

入宋僧と中国語

  中 国 に 留 学 し 中 国 語 を 習 得 す る こ と な く 帰 国 し た 日 本 僧 が い る 一 方、 当 然、 中 国 語 を 習 得 し た も の も あ っ た。 し か し、 こ の こ と を 記 す 史 料 が ほ と ん ど 存 し て い な い。 た と え ば、 入 宋 し た 道 元 が、 日 本 に お い て 日 本 語 で 上 堂 し て い た の か、 あ るいは中国語で上堂をしていたのかさえ不明なのである。   こ の 点、 道 元 の 著 述 で あ る﹃ 真 字 正 法 眼 蔵 ﹄︵ 金 沢 文 庫 所 蔵﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄︶ に 記 さ れ た 古 則 公 案 と、 そ の 公 案 を 用 い た

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二七五 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ 和文の﹃正法眼蔵﹄の該当箇所を比較した場合、 古則公案は、 往 々、 和 文 に あ ら た め ず に 漢 文 の ま ま 記 さ れ て い る こ と が 指 摘 さ れ て い る 71 。 こ れ は、 道 元 が 和 語 の 説 示 の な か で も 重 要 な 語 句 は 中 国 語 で 発 音 し て い た 可 能 性 を 示 唆 す る も の と い え る だろう。   入 宋 僧 に よ っ て、 中 国 語 で 上 堂 が 行 な わ れ て い た こ と を 明 記 す る 史 料 は 現 在 の と こ ろ 管 見 に 触 れ な い。 し か し、 少 し 時 代 が 下 っ た 入 元 僧 で は あ る が、 今 泉 淑 夫 氏 に よ っ て、 ﹃ 空 華 日用工夫略集﹄永徳二年︵一三八二︶正月四日条に、 成南叔三子、 自 二 建仁来。 余問、 堂頭和尚歳節示 二 衆古則 未 審 有 二 麼 言 句 一 答 曰、 唐 語 説 法 故、 聴 不 レ得、 記 不 レ 得 72 。 [ 訓 ] 成・ 南・ 叔 の 三 子、 建 仁 自 り 来 た る。 余 問 う、 ﹁ 堂 頭 和 尚、 歳 節 に 古 則 を 示 衆 せ る に、 未 審 し 甚 麼 の 言 句 か 有る﹂ と。 答えて曰く、 ﹁唐語にて説法せる故に、 聴き得ず、 記 え得ず﹂と。 とある事例が紹介されてい る 73 。   ﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集 ﹄ と は 、臨 済 宗 夢 窓 派 の 義 堂 周 信 ︵ 一 三 二 五 ∼ 一 三 八 八 ︶ の 日 記 で あ り、 そ の 中 の 一 文 で あ る。 義 堂 周 信のもとに建仁寺より成︵梵成︶ ・ 南︵浦雲周南︶ ・ 叔︵中叔︶ と い う 三 人 の 僧 侶 が や っ て き た と い う。 そ こ で、 周 信 は そ の 三 人 に 建 仁 寺 の 堂 頭 和 尚 が 正 月 始 め の 上 堂 説 法 で ど の よ う な 話 を し た の か を 尋 ね た の で あ る が、 三 人 は﹁ 中 国 語 で 話 し て い た の で、 聴 く こ と も、 お ぼ え る こ と も で き ま せ ん で し た ﹂ と答えたのである。   こ の 時 の 建 仁 寺 住 持 は 臨 済 宗 大 覚 派 の 月 心 慶 円 と い う 僧 侶 で あ り、 中 国 に 留 学 し た 経 験 が あ る、 い わ ゆ る 入 元 僧 で あ っ た 74 。 中 国 語 の 堪 能 な 日 本 人 と い う こ と に な ろ う か。 南 北 朝 期 の 記 録 で は あ る が、 日 本 人 に よ っ て 中 国 語 で 上 堂 し て い た こ と が は っ き り と 記 録 さ れ て い る の で あ る。 日 本 人 が 中 国 語 で 上 堂 説 法 す る こ と は、 南 北 朝 期 に お い て も 不 自 然 な こ と で は なかったのである。   一 方 で、 尋 ね て き た 三 人 の 僧 侶 が、 と も に 中 国 語 で の 説 法 を 聴 く こ と も お ぼ え る こ と も で き な か っ た と い う 事 実 は、 実 際 に は 多 く の 日 本 人 が 中 国 語 の 上 堂 説 法 を 理 解 し て い な か っ た こ と を も 物 語 っ て い よ う。 先 に 紹 介 し た 淸 拙 正 澄 の 事 例 に 通ずるものがあろう。   日 本 語 が 話 せ な い 渡 来 僧 と は 異 な り、 入 宋 僧・ 入 元 僧 で 中 国 語 が 堪 能 な も の は、 中 国 語 も 話 せ る 日 本 人 で あ る。 聞 く 方 も、 中 国 語 が 理 解 で き る 僧 侶 が あ っ た と し て も、 日 本 語 な ら ば す べ て の 僧 侶 が 理 解 で き る わ け で あ る。 そ れ な ら ば、 理 解 不 能 な 中 国 語 で 上 堂 す る よ り も、 最 初 か ら 日 本 語 で 上 堂 す れ ばすべての僧侶が理解できるはずである。   し か し、 日 本 僧 は 聴 く 人 が 理 解 不 能 で あ っ た と し て も、 あ

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二七六 鎌倉期の禅林における中国語と日本語︵舘︶ え て 中 国 語 で 上 堂 説 法 し た の で あ る。 日 本 僧 も、 渡 来 僧 が 日 本 で 行 な っ た よ う に、 で き る 限 り、 中 国 式 の 修 行 生 活 を 中 国 語 で 行 な お う、 宋 代 仏 教 を 日 本 で 再 現 し よ う と 試 み た の で あ っ た。 内 容 の 理 解 よ り も、 中 国 語 を 用 い た 中 国 式 の 修 行 生 活 を 日 本 に お い て 再 現 す る こ と の ほ う が 重 視 さ れ て い た の で あろう。

まとめ

  平 安 末 期 か ら 鎌 倉 期 に か け て 活 躍 し た 入 宋 僧 た ち は、 言 語 の問題、 すなわち中国語の会話にかなり苦心したようである。 特 に 覚 阿 や 俊 芿 に つ い て は、 中 国 の 地 で 中 国 語 を 習 熟 し て い く 様 子 が 記 録 さ れ て い る わ け で あ り、 学 ぶ べ き 場 所 が 日 本 に は な か っ た 初 期 の 入 宋 僧 に と っ て は、 非 常 に 大 き な 問 題 と な っ た こ と で あ ろ う。 そ の 後 の 入 宋 僧 に つ い て も、 学 ぶ べ き 場 所 は 先 人 の 寺 院 と し て 俊 芿 の 泉 涌 寺、 栄 西 の 建 仁 寺 な ど に 限 ら れ、 あ る い は 出 航 前 に 博 多 で 商 人 た ち か ら 学 ぶ 機 会 が あ るくらいのものであったろう。   こ の 情 況 が 変 化 す る の は、 蘭 渓 道 隆 を は じ め と す る 渡 来 僧 が 日 本 に や っ て き て、 禅 林 の 開 山 と な っ て か ら で あ ろ う。 渡 来 僧 の 住 す る 寺 院 で は、 中 国 語 を 基 本 と し た 修 行 生 活 が 行 な わ れ て い た の で あ る。 鎌 倉 期 に お い て、 建 長 寺、 円 覚 寺、 寿 福 寺、 浄 智 寺、 浄 妙 寺 な ど の 鎌 倉 禅 寺 に お い て、 渡 来 僧 は 中 国 語 で 上 堂、 小 参、 普 説 な ど を 行 な っ て い た と み ら れ る が、 それは、 蘭渓道隆、 兀庵普寧、 大休正念、 無学祖元、 竺仙梵僊、 清拙正澄の例からもほとんど確実であったとみてよい。   し か し な が ら、 渡 来 僧 た ち に と っ て も、 日 本 僧 と 同 じ よ う に 言 語 の 発 音 の 問 題 が 存 在 し た。 長 年 日 本 に 滞 在 し た 蘭 渓 道 隆は、 日本語を使いこなすようになっていったようであるが、 兀 庵 普 寧 も 無 学 祖 元 も 日 本 語 を 使 う こ と が で き な か っ た よ う で あ る。 兀 庵 普 寧 が﹁ 説 く 者、 聴 く 者、 難 復 た 難 ﹂ と 述 べ た こ と は、 基 本 的 な 修 行 生 活 を 中 国 語 で 行 な う に し て も、 日 本 語 も 使 え た ほ う が、 よ り 細 か く 指 導 で き た こ と を 物 語 っ て い る。   渡 来 僧 の 住 す る 寺 院 に 参 じ た 僧 侶 は、 こ こ で 中 国 語 の 基 礎 的 な 語 学 力 を 得 た は ず で あ っ た が、 実 際 に は 多 く の 修 行 僧 は 中 国 語 を 理 解 で き て い な か っ た よ う で あ る。 た だ し、 祖 元 な どの例をみるかぎり、 渡来僧の中国語を通訳する存在として、 中 国 語 も で き る 日 本 僧 が 渡 来 僧 の 住 す る 禅 林 に お い て 活 躍 し ていたことを窺うことができる。   い ず れ に し て も、 中 国 語 で 行 な わ れ た 修 行 生 活 で、 中 国 語 を 習 得 し た 人 た ち は、 中 国 へ の 留 学 を 志 す こ と に な る。 あ る い は、 中 国 留 学 を 志 し た が 故 に、 渡 来 僧 の 住 す る 寺 院 へ の 参 学を試みた人たちも多々あったことであろう。   この点を、 曹洞宗にあてはめてみると興味深い。たとえば、

参照

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