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沖縄県下の猪垣(二) : 沖縄本島

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沖縄県 下 の猪垣

一{中 糸電本 島 一

矢 ケ暗

AStudyoftheDistributionof"Shishigaki"

inOkinawaPrefecture(2)

TakaoYagasaki

猪垣の分布

猪 害 防 除 手 段 ・沖 縄 県 下 の 猪 垣 は 沖 縄 本 島 と 八 重 山 諸 島 の 石 垣 島(石 垣 市),西 表 島(竹 富 町)と に み ら れ る.本 稿 で は 沖 縄 本 島 に つ い て 考 察 を 進 め た い. ま ず,沖 縄 県 下 の イ ノ シ シ の 被 害 額 ω を み る と,1966年 総 額139,132.21ド ル で,う ち サ ト ウ キ 『ビ101,711i45ド ル が 最 も 多 く,つ い で パ イ ナ ッ プ ル28 ,089.72ド ル,サ ッ マ イ モ 3,602.63ド ル で,こ れ らが 主 要 な も の で あ っ た.な お,地 域 別 で は 石 垣 市13,913.81ド ル, た け とみ ち よ う 竹 富 町1,152.48ド ル に 過 ぎ な く,沖 縄 本 島 は124,065.92ド ル と 圧 倒 的 で あ っ た.沖 縄 本 くにがみそん おお ぎ み そん ひがしそん 島 の う ち で は,国 頭 村 ・大 宜 味 村 ・ 東 村 ・ ぎ の ざ そん き ん ちよ う な ユ し 宜 野 座 村 ・金 武 町 と,名 護 市 に被 害 は多 く, な お 石 川 市 で はサ トウ キ ビの み に被 害 が み ら もと ぶ ち よ う おん な そん よ みた ん そ ん れ た.こ の ほ か,本 部 町 ・'恩納 村 ・読 谷 村 ・沖 縄 市 に も若 干 の 被 害 が あ ったL猪 害 は 図 1の よ う に 沖 縄 本 島 の 北 ・中 部 に集 中 して み ら れ た の で あ る. 猪 害 防 除 手 段 の 主 軸 は猪 垣 で,古 来 か ら の 石 ・木 ・竹 な どの 垣,土 手 の ほ か,近 年 は ト タ ン ・金 網 ・漁 網 な どの 垣 が 用 い ら れ て き て い る.そ れ らの分 布 は,図1に み る よ うに北 の 国頭 村 か ら沖 縄 市 に 及 ぶ.音 や臭 の 利 用 を ふ くめ て の カ カ シ で の 防 除 は,国 頭 ・大 宜 味 両 村 と宜 野 座 村 な どに分 布 す る.こ れ らの 防 除 策 に対 して,捕 獲 に は各 種 の 手 段 が 用 い ら れ,ほ ぼ 猪 害 発 生 の全 地域 にみ られ る. そ の 主 体 を なす もの は槍 と落 し穴 ・ワ ナ で, 恩 納 ・宜 野 座 村 以 北 に分 布 す る.戦 前(昭 和 17年)に は捕 獲 柵 も用 い られ た.(2)また,』サ ギ ヤ イ の伝 統 的手 法 も同 じ地 域 で 用 い ら れ た. 犬 を供 に す る槍 で の狩 猟 は 広 く,重 要 な手 段 で あ っ た.鉄 砲 は 明治 以 前 に は用 い られ な か っ た よ うで あ るが,明 治以 降 は重 要 な 手 段 と な り,槍 に か わ り犬 を供 に して 狩 し,猪 害 の 地 域 に広 く普 及 して い る.据 銃 は沖 縄 の 特 色 と い え よ う. 以 上,各 種 の防 除手 段 が 用 い られ て きて い るが,そ の 中 核 を なす もの は,古 くは 猪 垣 と 槍 で あ り,現 在 は鉄 砲 と トタ ン板 とで あ る. な お,威 鉄 砲 の み られ な い 点 も沖 縄 の 特 色 と い え る.近 年 ラ ムタ リ ンの 薬 物 の臭 と味 を イ ノ シ シ が 最 も き ら うこ とで,こ れ に よ る防 除 も試 み ら れ た.(1)しか し,そ の 普 及 は あ ま り 顕 著 とは い え な い よ うで ある.な お,猪 垣 に 落 し穴 を併 設 す る こ と は,前 報(3)でも記 した 1

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図1沖 縄 本 島 に お け る猪 害 防 除 手 段 の 分 布 沖縄県 史,各 市 町村 史誌,そ の他に よ り作成 が,一 般 にみ られ た もの で あ る. 猪 垣 の分 布 ・延 長 猪 害 防 除 手 段 の うち,猪 垣 は イ ノ シ シ の 生 息 す る 背 梁 山 地 の 海岸 寄 りに設 置 さ れ た.本 部 半 島 で は 山 地 はあ る もの の,そ れ らの 分 布 は乏 しい.開 発 も進 ん で い る南 部 の 島尻 地 域 に は 分 布 を み ない.以 下 に具 体 的 に考 察 しよ う. 沖 縄 本 島 の 猪 垣 は明 治14年(1881)巡 回 の 『上 杉 県 令 沖 縄 本 島巡 回 日誌 』・に克 明 に記 さ れ て い る.(4×5)全国 的 に み て,明 治 以 降 に猪 垣 が 記 録 され た の は,上 杉 県 令 に よ る もの が 最 初 か と も思 わ れ る が,な お 検 討 を進 め た い. この 資 料 は沖 縄 県 教 育 委 員 会 の 「歴 史 の 道 」 調査 に お い て も,活 用 され て い る.(6×7)つい で 明 治26年 に琉 球 探 検 を行 った 笹 森 儀i助氏 も注 目 し,地 誌 的 な 記 録 『南 島 探 験 』(8)に随 所 で 記 述 して い る.地 元 沖縄 県 民 に と って 猪 垣 の 重 要 性 は わ か りき った こ とで あ る が,本 土 よ りの 来 訪 者 に は 注 目に 値 す る構 造 物 で あ った とい え よ う.し か し,そ の 延 長 は 近 年 明確 で な く,地 元 の住 民 に と って も不 明 な もの と さ れ て い る.(9) 上 記 の 資 料 な どで,猪 垣 の延 長 の 著 しい こ とは 注 目 さ れ て い たが ダ こ れ を さ ら に 聞 き取 り調 査 し,国 頭 地 方 の 西 海 岸 を 主 に分 布 を明 らか に した の は千 葉 徳 爾 博 士 で あ る(io)(図2). 前 報 で も述 べ た が ダ こ の地 域 の 猪 垣 は 石 を用 い ジ 部 分 的 に は木 ・土 も用 い られ た. そ の延 長 ・分 布 は本 図 に よ っ て初 め て 明 確 に な っ た とい え よ うが,国 頭 地 方 の西 海 岸 に お い て卓 越 し,長 城 型 で あ る.海 岸 に 沿 う集 落 よ りは ず っ と内 陸部 に猪 垣 は設 置 され,地 .形 等 に応 じて,か な りめ屈 曲 を も・?のも特 色 で あ る.筆 者 も大 宜 味 村 で そ の 分 布 を聞 き取 り した が,山 腹 に 入 って 設 置 さ れ て い た点 に 特 色 を 感 じた.現 在 の 国 道 は海 岸 に 沿 っ て走 るが,明 治 初 年 の 旧道 は山 寄 り を縫 い 随 所 で 猪 垣 と交 っ た り,望 見 で き た の で,上 杉 県 令. は そ の 地 点 を克 明 に 日誌 に記 した よ うで あ る. 2

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'図 2 沖 縄本 島. に お ・ け る 猪 垣   石 ● .竹 木 ● 土   と 土. 地 利 用 料..国 に 土 よ:地 り 理 ・ 作 院. 成10/ 20 万 土 地 利. 用 Q ,. 九 入 』i互 、 千. 葉 徳 爾 博 士. 原 図 に 麺x 沖 縄 県 史 ● 各市 町. 村 史 誌 そ の 他 の 資 一3一

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現 在 は そ の 旧 道 も,ま た 猪 垣 も,林 中 に埋 も れ,所 在 を明 らか に す るの は 困難 に な っ て い る よ うで あ る.西 海 岸 の 地 域 は 開発 が 進 み, 古 く よ り集 落 ・耕 地 も発 達 し,そ れ に応 じて 猪 垣 の構 築 も進 め られ た.一 方,東 海 岸 に お い て は,,奥 の 囲繞 型 の 猪 垣 が 特 色 で,前 報 に も記 した.そ の他 の 数 少 い集 落 の 周 辺 に お い て も猪 垣 は み られ た.図2は 以 上 の 資 料 そ の 他 を総 合 して 猪 垣 の 分 布 を示 した もの で あ る. 西 岸 北 部 の 猪 垣 西 海 岸 に お い て,猪 垣 は 名護 市 源 河 の 辺 よ 'り み られ た が,も っ と南 西 部 に も設 け られ て い た と思 う.こ れ か ら東 北 に向 い,地 形 に応 じて 屈 曲 しつ つ も,本 島北 部 の 宜 名 真 へ 続 い て い た.山 腹 の 上 手 に設 け られ たが,上 杉 県 令 の 記 録 で はつ ぎの よ う に観 察 さ れ て い る. す な わ ち,源 河 を過 ぎ峠 を越 え る と,「 右 辺 二 小 木 ヲ,蔓 ニ テ結 ヒ,遠 ク 山 二連 リ タ ル ア リ」ω と木 垣 の 猪 垣 の 延 長 を記 す.さ ら に 北 上 して,伊 地,謝 敷,辺 野 喜 港 の辺,宇 嘉 川 を越 え て か ら の 山路 な どで 猪 垣 に接 し た.⑫ ぶ み 島 の北 端 の 宇 嘉 ∼辺 戸 間 で は,武 見 坂 とい わ れ る急 坂 が あ り,こ の 辺 に は 「猪 垣 嶺 ヨ リ渓 二 亘 ル,秦 皇 長 城 万 里 ノ 図 ヲ見 ル が 如 シ 」⑫ と延 長 を記 す が,山 頂 よ り谷 に 亘 る猪 垣 は 当 時 は絵 図 で 見 る しか す べ の な か った 万 里 の 長 城 を彷 彿 とさせ た も ので あ ろ う.当 時,猪 垣 は焼 畑 と 山林 との 境 を なす もの で,街 道 か ら もその 延 長 を望 見 で き た もの で あ ろ う.な お, 先 端 の 山 間 に あ る辺 戸 に は石 灰 岩 の 絶 壁 を も つ 黄 金 森 が あ 軌 こ れ に は ば まれ て か猪 垣 は 短 く,丘 を切 り取 った 猪 垣 で あ っ た とい う.㈲ この 西 海 岸 の猪 垣 の延 長 は,長 崎 県 西 彼 杵 半 島 や 長 野 県 伊 那 谷 の ものω に匹 敵 す る もの と い え る. 東岸 の 猪 垣 一 方,東 海 岸 の 様 相 は 一 変 す る.集 落 の 発 達 は 少 く,北 部 で は奥 ・伊 江 ・楚 州 ・我 地 ・ 伊 部 ・安 田 ・安 岐 の 集 落 が 小 湾 の奥 に立 地 し, そ の 規 模 も比 較 的 小 さい.こ の うち,奥 の猪 垣 は前 報 で も示 した が,囲 繞 型 で約24㌔ ㍍ の 総 延 長(大 垣 約12㌔ ㍍,外 垣 と開 墾 垣 約12㌔ ㍍)を もつ 立 派 な もの で あ った.た だ し,上 杉 県 令 の 記 録 に は奥 の 猪 垣 は記 載 が な い.県 令 は奥 か ら安 田 へ 出,船 で 安 波 へ 行 き,「 猪 垣 山 腹 二 連 亘 ス,又 長 城 ノ 図 ヲ看 ル カ如 シ」 (15)と安 波 の 猪 垣 を記 す か ら ,か な り壮 観 な も の で あ っ た と推 察 され る.な お,安 田 に も猪 垣 は あ り,全 部 サ ンゴ の 石 積 み で あ っ たが, 平 坦 な と こ ろ に は竹 垣 もあ り,約4㌔ ㍍ で 農 :地を 囲 っ て い た㈲.途 中 の 楚 州 は奥 か ら の移 住 者 が 村 立 した もの で あ るが,県 令 の 記 録 に は な い もの の,南 側 に 半 円 形 の猪 垣 が 存 在 し た㈹ こ と は注 目 さ れ る.つ い で 安 波 の 山 中 に も猪 垣 は あ り,県 令 は2度 こ れ を越 え て,⑱ 西 海 岸 の 辺 土 名 へ 出 て い る. な お,昭 和46年 安 波 の焼 畑 を 調 査 した 佐 々 木 高 明博 士 は,ア ラ ジバ ル(焼 畑)全 体 を囲 む頑 丈 な猪 垣(シ シ ハ キ)の 構 築 を 記 す.(18) 山 か ら5.5尺 ほ ど の杭 を伐 出 し用 意 し,こ ぶ しの 入 らぬ く らい の 間 隔 で打 ち 込 み 完 成 させ た.共 同 作 業 で 各 戸 の分 担 が あ り,全 員 が 検 査 を した.極 め て 完 備 さ れ た もの とい え よ う. 東 海 岸 で は 猪 垣 は集 落 の 周 囲 の 耕 地 を囲 む 囲繞 型 で あ る点 が 特 色 で あ る.こ れ は 大 分 県 つ る み まち 鶴 見 町 の も の(1elと通 じる とい え る.沖 縄 本 島 の猪 垣 は東 西 両 岸 で対 照 的 な 特 色 を もつ.こ れ は 集 落 の 密 度 や立 地,農 業 開 発 の相 異 な ど に 関 連 す るが,根 本 的 に は地 形 に よ る もの で, 東 海 岸 に は農 業 適 地 が 乏 しか っ た こ と に よる もの と考 え ら れ る. さ らに 南 下 して 東村 域 にお い て も,猪 害 は 著 し く,猪 垣 もあ った よ うで,慶 佐 次 の マ ジ リ ガ タの 地 点 に は 土 と石 で イ ヌ ガ キ を造 り, 田 を 拓 い た.⑲ 東 村 の 猪 垣 は段 々畑 の 上 手 に あ っ た が,竹 ・木 を編 んで 設 置 し た と い わ れ るせ い か,ほ と ん ど現 存 して い な い とい う(東 村 教 育 委 員 会 で の 聞 き取 り).戦 後 の 事 情 を み よ う. 新 聞 記 事 の 集 録 か ら 国頭 ・大 宜 味 ・東 の3 4

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村 の 地 域 で は,「 猪 垣 が 戦 争 で 崩 さ れ た た め 戦 後 は イ ノ シ シ の 害 に お び や か され つ づ け, 反 当 収 量 は 大 分 減 っ た 」⑳ と い う.群 島 政 府 は 農 水 産 業 に補 助 金 を 出 し産 業 育 成 に 努 め た が,北 部 の村 々 か ら強 く要 望 され た猪 垣 に82 万 円 を交 付 し(1952),す で に名 護 市5㌔ ㍍, 東 村5㌔ ㍍,国 頭 村25㌔ ㍍,大 宜 味 村8㌔ ㍍, 旧 久 志 村13㌔ ㍍ の 猪 垣 が 完 成 して お り,150 町 歩 を 猪 害 か ら守 り,451万 円 の 利 益 が あ げ られ た.(zi)しか し,猪 害 は 猪 垣 め み で は手 に お え ず,・猟 銃 の使 用 を か ね て か ら求 め て い た が,狩 猟 法 立 法 中 で 応 じ ら れ な か っ た.(22) 1953年 の 猪 害 面 積 は東 村169反,国 頭 村756反, 大 宜 味 村770反 で,農 民 は 悲 鳴 を あ げ,増 産 意 欲 を失 い,そ の 対 策 と して 半 恒 久 的 な猪 垣 の 築 造 と,猟 銃 使 用 の 許 可 を緊 急 事 と した.㈱ 1954年 に は80万 円 の助 成 で 延 長45㌔ ㍍ の 猪 垣 を 北 部4村 の 地域 に築 造 した.こ の事 業 で は 山 地 の地 形 に よ り,中 腹 を 削 り落 しイ ソ シ シ の 降 下 を不 能 に し た り,高 さ4尺 の垣 を積 み 上 げ た り した.そ の築 造 地 域 は,国 頭 村 で 東 岸 の 楚 州 一 奥,西 岸 の 宇 嘉一 宇 良,大 宜 味 村 の 大 兼 久 一 大 宜 味 一 田 嘉 里,謝 名 城 一 押 川 一 津 波,さ ら に東 岸 の東 村 で 宮 城 一 川 田一 平 良, 西 岸 の 名 護 市 域 で 数 久 田,世 富 慶 な どで あ っ た.図 北 部 の 東 西 両 岸 に わ た っ て い る が,猪 垣 の 不 完 全 な地 点 に設 置 し,完 備 に努 め た も の と思 わ れ る.さ らに この 年 に は 免 許 制 で 銃 器 の 所 持,狩 猟 も 許 可 され た.㈱ な お,東 村 の 高 江 に は 牛 を 放 牧 す る垣,ウ シ ガ キ が あ り,㈱ この 地 域 で は牛 馬 の放 牧 も広 く行 わ れ て い た. つ い で 旧 久 志 村(名 護 市 ・東 村)の 地 域 に も長 大 な猪 垣 が あ った.『 南 島探 験 』に は 「該 地 方 幾 万 頭 ノ猪 ア リテ,作 物 ヲ害 ス ル甚 シ. 故 二 防禦 ノ為 メ,各 村 連 合 シ テ 数 十 里 ノ石 垣 ヲ築 ク(高 サ 四尺 余,厚 一 尺 以 上 往 来 二 木 戸 ヲ附 シ,他 府 県牛 馬 牧 場 ノ提 柵 二 異 ナ ル コ ト ナ シ).其 建 築 ノ 荘 観 人 目 ヲ驚 ス ニ 足 ル.然 シテ 村 民 カ ク ノ如 キ 巨 額 ノ費 用 ヲ惜 マ サ ル ハ, 恐 ラ ク ハ他 府 県 人 ノ夢 想 タル モ 及 ハ サ ル 処 ナ ルヘ シ.」㈱ と感 嘆 して い る.猪 垣 の 地 域 や 延 長 を 明確 に は で きな い が,明 治 時代 に は耕 地 と山林 の 境 に あ る 猪 垣 は望 見 が で き た もの と み られ る. さ ら に南 方,名 護 市 の 安 部,天 仁 屋,宜 野 はん り 座 村 の 漢 那 に も,猪 垣 と して 「樊 籬 ノ設 ケ」㈱ が あ った.こ れ は 木垣 で あ っ た とい え よ う. な お,こ こ に は猟 師3名 が い た が,「 七,月ハ 大 暑 ニ テ,犬 疲 ル ・故 二 猟 セ ス」 と犬 を愛 護 し,ま た 犬 な くして は猟 ので きぬ こ と を示 し, 年 に10頭 位 を獲iった.㈱ さ ら に 名 護 市 域 で 大 浦 湾 か ら西 岸 の 羽 地 へ 抜 け る 山 地 に も猪 垣 が 多 くみ ら れ た.㈲ な お,宜 野 座 村 に は福 山 と 松 田 に猪 土 手 が現 存 し,(30x31)筆者 も実 見 した. 以 上,本 島北 部 の 猪 垣 は,西 岸 の 長 城 型, 東 岸 の 囲 繞 型 と特 色 を もちつ つ,完 全 に 設 置 され て い た こ とが 知 られ る.な お,南 部 で は 粗 放 的 に な っ て い た よ う に考 察 され るが,あ とで み よ う. 本 部 半 島 と西 岸 南 部 の 猪 垣 』 上 杉 県 令 の 巡 回 は本 部 半 島 に も及 ぶ.こ こ で は 半 島 の 中 央 部,伊 豆 味(本 部 町)か ら屋 部 に至 る名 護 市 域 と み ら れ る所 に,「 ヘ ゴ」 を も っ て 「多 ク猪 垣 トセ リ」⑱ と記 す が,木 垣 の 猪 垣 の あ った こ とが 知 られ る.な お,こ の半 島 北 部 に は牛 馬 が 放 牧 され 厂馬 埓 」 が あ な き じんそん った.謝 名(今 帰 仁 村)と 浦 崎(本 部 町)の 2か 所 で あ る.(33)山地 は低 く,開 発 も進 ん で い る こ の半 島 で は猪 垣 の設 備 は 著 し くは な か った. 名 護 市 域 の 南 部 で は,恩 納 村 に近 接 す る幸 喜 で 猪 害 に悩 ま さ れ,そ の対 応 に苦 心 した. 名 護 市 史 の 『戦 前 薪 聞 集 成 』賊 こよ っ て み よ う. 常 食 のサ ツマ イモ を毎 年 イ ノ シ シ に 食 い 荒 さ れ,蘇 鉄 で 飢 を凌 いで い た が,1936の 記 事 で は当 時 提 唱 され て い た農 山 漁 村 の更 正 は,こ こで は猪 害 防 除 に あ る と して,資 金 を出 し合 い,2400㍍ の 猪 垣 を築 き,25名 の警 戒 隊 を常 置 した.し か し,崩 れ た場 所 を越 え て イ ノ シ シが 浸 入 し苦 労 した.な お,国 頭 郡 地 方 と し 5

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ては

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,県考案の猪捕獲柵を

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か所に設置 し,前年度に

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頭を捕った.また東岸の久 志では沖縄在来種の「久志犬」を用いて猪狩 し,防除に努めた.この犬は本島では広く用 いられたものであろう. ところで,名護市域では明治

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の「名護間切各村内法」によると,

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猪垣通 よす木苗並にか竹植付サセ候事」とあり,猪 垣の維持に努力すべきことを示し,また「猪 大垣破

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については科金を申付ること闘にな っていたが,これはさらに後述しよう.なお, 猪垣の管理に関しては,同様なスタイルの記 載が国頭郡下の金武・久志・本部・今帰仁・ 羽地・大宜味・国頭などの間切各村内法にあ る.各村の実情に合せ定められたものと推察 され,猪垣の存在を認めうると思っている. その内容は後で触れる. つづいて国頭郡の南端,恩納村でも,猪垣 は山地と里との境に延々と続いていた.猪垣 は密生した竹林や 溝とその掘土で、造った土 堤であり,海中からとった平板状のサンゴを 壁状に仕立てたものもあった.これらの猪垣 は

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年前

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)

ころまではよく残っていた が,現在はその一部分さえも見ることができ なくなっている(9)というが,残念である.そ の所在地を特定はできないが山里を限るその 延長を注目したい.なお 『南島探験』では 思納間切の明治

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年の事情を「野猪ノ害多キ 為メ一間切ニシテ十里以上ニ及フ石垣ヲ緯シ テ,其害ヲ防ク.猪垣当ト云フ吏員ヲ特ニ設 置シテ其修繕等ノ事務ヲ担当セシム.

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倒と述 べている.延長

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キロ旬)は村域からし て長大過ぎる感じもするが,屈曲もしつつ延 長していたものと思われる. さらに南の中頭郡域においては野猪に重傷 を負わされることがあった.明治

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具志川間切で,同

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年美里間切(沖縄市)で 生じたが,助人は斧や梶棒で対応した.附銃 での対応はなかったが,沖縄市域での銃の所 持は明治

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挺闘に過ぎぬことから当然と いえよう

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には越来で猪害に対し,銃殺隊 を組織して対処すべく県に許可を求めた.倒 鉄砲は普及したとみられる. 猪垣の築造年代 全国的にみて猪垣の築造は,岡本大二郎博 士の研究によれば,元禄頃(1

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ころ)と天 明 文化年間

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ころ)と

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つの大きなピ ークのあることが示されている.附沖縄県の 事情を以下に考察を進めたい. 沖縄本島の猪垣は 『球陽』に

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世紀の記 事がある.すなわち,大宜味村の塩屋・屋古 前田・田港・渡野喜屋・根路銘の

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集落問,

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.

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ロキ

ι)

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か年かけ石で改築した. これは大風雨により損壊したため倒闘であっ たが,その創築はさらに遡るものの,明確に できない.ちなみに石垣島においても年代は 不明であるが,

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往古の時」に兄弟2人して 石の猪垣を築いて民が安楽したと,

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遣老説

一 一 一 洛

; 集 落

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山一

一沖一→←場翼手→刻墜ト息数+道+昆敬十文田→も巳水田→焔吋税制ぜ勝地

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にイ)-) 型 け ピ Uさと、,.

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仲 糾

a .Æi:è>~ぶ札場F

議事

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謀 長 特 将 峨 蜘

幽齢二?とー__,--",.J~

A 伝統的猪垣(石・土・木など), B 現在の猪垣(トタン) 図

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模式的山原型村落の断面図(猪垣と土地利用) 『名護市史』の原図に加筆し作成 6

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-伝 』 に あ る.㈹ 沖 縄 に お い て も本 土.と同 様 に 近 世 に築 造 さ れ た も の で 南 るが,年 代 は明 ら か に し え な い.、 と こ ろで 国頭 地 方 の猪 垣 は明 治 以 降 も築 造 さμ て き・.奥ρ 石 垣 を主 とす る囲 繞 型 の 猪 垣 は 明 治36年(1903)に 築 造 さ れ た.そ れ 以 前 は 竹 垣 を 各 農 民 が 造 っ て い た 二 従 つ て 上 杉 県 令 巡 回 時 に 注 目 さ れ な か っ.たの も 当 然 と 思 わ れ る.一.こ乳 はHB和34年 放 棄 さ れ た が,(45)こ,れ は 後 述 す る.他 方,大 宜 味 村 で は1955ま で 造 られ 左,㈹ 本 土 に お い て 明 治 以 降 め 設 置 は 殆 ど見 か け ら れ な い と思 うが,こ の点 は 沖縄 県 』 下 で の 大 き な特 色 とい え よ う. 猪 垣 の位 置 耕 地 と森 林 との 境 に猪 垣 は設 置 さ れ て い た が,そ の 位 置 を さ ら に具 体 的 に考 察 し よ う. やんばる 本 島 の 北 部,山 原 地 方 は 図3の 模 式 図 で み る よ う な特 徴 的 な 地 形 と,土 地 利 用 が あ る.㈲ 標 高500㍍ 以 下 の 山岳 地 域 は,.中 生 界 の 粘 板 岩 ・千 枚 岩 の名 護 層 と,中 生 界 な い し古 矛 三 系 の砂 岩 ・頁 岩 の 嘉 陽 層 な どか ら な り,山 麓 に は 開析 さ れ た段 丘 が 分 布 す る.段 丘 の 下 に は ビ ー チ ロ ック が 発 達 レて㌧い る.㈲ 僅 か な 海 岸 の平 地 に は集 落 ・耕 地 が み られ,段 丘 崖 は 林 地,段 丘 面 は 開 墾 地 で,傾 斜 変 換 の 山 地(森 林)へ と続 く.大 宜 味 村 の 地域 で は集 落 の あ なはやま る平 地 か ら急 勾 配 で せ り上 る斜 面 を 中 山 と い い,松 敷 ・竹 敷 な どの 仕 立 敷(造 林 地)が あ る.こ の林 は 山 崩 れ を 防 ぎ,貯 水 涵 養 林,開 墾 地 の 防風 林(抱 護 林)の 役 目 も果 し,自 由 な伐 採 も許 さ な く,保 護 管 理 され て きた.㈹ 中 山 の 上 部,開 墾 地 か ら続 く山 地 は,国 有 の 森 林 地 域 で,沖 縄 で 最 重 要 な森 林 資 源 で あ やん る.国 頭 地 方 で は こ こ か ら薪 材 を産 出 し,山 ばるしん 原 船 で 那 覇 首 里 に販 売 し利 益 を得 て い た.㈲ そ の結 果 か,こ の 地 域 は 「沖縄 島三 地 方 ノ 中 ご テー 等 ノ遊 情 ナ ル 所 也 」・と地 元 警 察 署 長 の 言 を笹 森 氏 は記 す が,な お 氏 は こ の地 方 の 林 '政 ,猪 害 防 除 な ど を 「良法 美 政 」 と賞 め て い る.(50)その 林 制 は 王 府 時 代 か ら重 視 され,1薪 図 、4『沖 縄 県 国 頭 村 地 域 に お け る猪 垣 と現:存植 生 環境庁1/5万 現存植生 図 ・千 葉徳爾博士 原図 とによ り 作成. 炭 ・木 材 を産 す る と と もに保 護 され て き た が, 他 方 開 墾 もさ れサ ツマ イ モ の 栽培 な ど農 民 の 自給 的 食 糧 の 生 産 地 で もあ っ た.中 山 に接 す る段 丘 面 は杣 山 と もい わ れ る 国有 地 で あ っ た が,開 墾 され て私 有 地 と な っ た所 も多 い.明 替 地 ・焼 替 地 ・喰 実 畑 ・キ ナ ワ畑 な ど と もい わ れ,大 宜 味 村 で は20等 分 し,そ の1つ を毎 年 各 戸 に割 当 て焼 替 えサ ッ・マ イ モ を栽 培 し, あ と植 林 を し20年 で1回 転 させ た.こ こ に は 段 々畑 が 発 達 して い る と い、うが,一 部 は傾 斜 面 の 森 林 に も及 ん で い た と思 わ れ る.な お 中 山 の 地 域 に段 々畑 が 開 か れ た 地 域 もあ り,奥 の集 落 の 周 囲 は そ の 典 型 とみ られ る.㈲ か よ う な地 形 ・土 地 利 用 に対 し,猪 垣 は段 丘 面 の 明 替 地 と林 地 と の境 に 設 置 され た.こ の猪 垣 の 展 延 と土 地 利 用 の 関係 を図4に 示 し 一7一

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た が,耕 地 の 周 囲 を囲 ん で 延 び て い る.こ の 猪 垣 を越 え て 森 林 の奥 地 に もサ ツ マ イ モ 畑 が 設 け ら れ た 場 合 もあ り,そ の 場 合 は 畑 の 周 囲 を木 柵 で 囲 った こ とは前 報 で も述 べ た.ま た 大 宜 味 村 の 押 川 は明 治 時 代 に士 族 帰 農 の 屋 取 集 落 と して 成 立 したが,そ の 外 囲 に 猪 垣 は設 け られ て い た(大 宜 味 村 役 場 宮 城 弘 氏 談). と こ ろ で,イ ノ シ シ の好 餌 で あ るサ ツマ イ モ は,県 民 に とっ て も極 め て 重 要 で あ る.大 サツ マ イモ 槻 文 彦 著 『琉 球 新 誌 』岡に は 「甘 藷 ハ 終 年 繁 茂 シ,土 人 常 糧 トス」 「貴 人 ハ 米 ヲ食 ヒ貧 人 ハ 甘 藷 ヲ食 フ」 とあ る.土 人 とは 土 着 人 の意 で,特 に 軽 べ つ の意 は ない と思 うが,貧 人 と い う の も一 般 庶 民 の こ とで あ り,年 中サ ツ マ イモ の得 られ る こ と は注 目 さ れ る.沖 縄 に お い てサ ツマ イモ は7月 に植 え て12Eに 収 穫 す るが,な お 食 糧 不 足 の 時 は満90日 で 食 用 に供 す る こ とが で き,1年 に3∼4回 の 収 穫iがえ ら れ,天 候 や 地 力 の よい 場 合 に は 他 府 県 の2 倍 の 収 穫 が あ る.(52)なお,他 府 県 農 民1戸 当 た り耕 地 が9.6反 に対 し,沖 縄 で は3.9反 に 過 ぎ な い.耕 地 狭 小 な 沖縄 で 人民 一 般 の生 命 を つ な ぎ う る の は,1年 に3回 収 穫iし,か つ 収 量 も多 い サ ッ マ イ モ に よ る と笹 森 氏 は述 べ て い る.働 沖 縄 県 民 に とっ て 主 食 の サ ツ マ イ モ は極 め て 好 都 合 な作 物 と い え る の で あ る.イ ノ シ シ は掘 り取 った サ ツマ イ モ を ス ス キ の 中 に 覆 い 隠 して置 く知 恵 も持 っ て い る(写 真1) こ とは 驚 きで あ る. と こ ろが,杣 山 開 墾 に は 明 治25年(1892) い わ ゆ る 開 墾 事 件 が 生 じ た.岡 開 墾 適 地 を 払 い下 げ,無 禄 士 族 に帰 農 させ,開 発 を進 め る こ とに 対 し,農 民 が 反 対 した.そ れ は杣 山 か ら砂 糖 製 造 用 の 薪 木 や 榑 板,牛 馬 の飼 秣,作 物 の 肥 料 な どの 産 物 を得 て い た の を奪 い,か つ 水 源 の 涸 渇 に よ る水 害 の招 来 な ど を理 由 と した.し か し払 い 下 げ は実 施 され た.こ の 開 墾 地 で はサ ツ マ イ モ を栽 培 した が,そ の 最 大 の 障 害 は猪 害 で,猪 垣 の工 作 が 緊 要 で あ った. こ の 建 設 が 進 まぬ た め,開 墾 も ま た進 展 しな 写 真1ス ス キ 原 の ウ ジ(通 路)に イ ノ シ シ が 隠 し た サ ツ マ イ モ(ス ス キ で覆 う) 国頭村役場経済課提供(1989) か っ た.士 族 を入 れ るの は屋 取 集 落 とな るが, こ の 北 部 地 域 で は そ の 発 達 は さ して 顕 著 で は な か っ た.(55)開墾 地 へ は近 傍 村 の 二 三 男 が 多 く入 っ た の で あ る.開 墾 に と って 猪 害 が 障 害 を な し,多 大 の 労 力 や 出 費 で猪 垣 を築 造 す る 必 要 が あ っ た が,こ れ は無 禄 士 族 に と って は 困難 で あ っ た と も考 え ら れ る. 猪垣 の維 持 ・管 理 猪 垣 の 維 持 ・管 理 沖縄 で は猪 垣 の 築 造 は地 元 農 民 が 自力 で 行 い,王 府 や行 政 側 は特 別 な支 援 もな く,た だ 褒 賞 の み を行 った 点,大 きな特 色 で あ る.薩 摩 藩 や 王 府 の 搾 取 の 著 しい こ と もあ り,農 民 は食 糧 確 保 の 緊 要 性 が い っそ う強 ま り,止 ま れ ず 自力 で 厳 重 か つ 長 大 な猪 垣 を仕 上 げ ざ る を得 な か った わ けで あ る.後 述 の よ う に鉄 砲 の 普 及 を み な か っ た沖 縄 で は,猪 垣 を主 に, これ に付 設 の 落 し穴 と槍 と に よ り猪 害 を防 除 した の で あ る.な お,暖 地 で 木 垣 の 保 存 年 数 の 短 か い こ と(2-3年)は,対 馬 と も共 通 で あ る が,こ こで は石 垣 や 土 手 の猪 垣 構 築 に む か わせ た とい え る.た だ し,現 実 に は竹 木 の垣 もか な りあ っ た よ うで あ る.し た が っ て 樹 木 の伐 取 もか な り行 わ れ た よ うで,つ ぎの 8

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よ う な 下 知 もあ っ た.す な わ ち,文 化6年 (1809)国 頭 地 方 で の 「田 地 奉 行 規 模 帳 」(56) で 「猪 垣 之 儀,作 毛 を守 護 故.別 而 不 レ入 レ 念 候 而 不 レ叶 事 に て破 損 等 則 々修 補 申付.尤 年 々 木 数 大 分 伐 取 調 候 に付 て は専 杣 山 之 為 不 レ宜,其 上 百 姓 手 隙之 費 多,旁 以 不 レ宜儀 候 間, 小 松 植 付 盛 生 させ 候 様 致 二下 知_候 事 」とあ る. 猪 垣 の 手 入 に毎 年 伐 採 す る木 も多 く,杣 山 に も百 姓 に も宜 し くな く,小 松 の 植 林 をい っ て い る の で あ る. 土 石 で 築 造 され た猪 垣 で も毎 年 そ の 修 理 を 行 い,完 璧 な 防 壁 の整 備 が 必 要 で あ った.し か し,そ れ で も イ ノ シ シ の 浸 入 は あ り,落 し 穴 や イ ン ビキ で 捕 獲 した.と くに 台 風 の 通 路 に相 当 す る 沖縄 で は,水 害 で 猪 垣 の 流 失 す る こ とが あ っ た.文 政9年(1826)に は国 頭 村 で そ の 例 が あ り,さ らに 干 害 もあ った. と こ ろ で,明 治 政 府 は 明 治19年(1886)に 「間 切 内法 」 を制 定 し,極 め て詳 細 な農 村 統 治 を行 っ た.そ の な か に猪 垣 の維 持 ・管 理 の 項 が あ る.金 武 問切(村)で は 「猪 垣 之 儀 持 地 二 分 配 シ テ 以 テ修 繕 セ シ ム而 シ テ 垣 構 ヲ設 ケ 置 キ時 々 巡 視 セ シ メ テ 破 壊 所 ア ル トキハ 則 々 捕 付 其 垣 壱 問 二金 五 銭 ッ ・科 金 ヲ取 立 テ村 役 場 二納 メ 置 キ何 歙戸 主 惣 揃 之 際 支 配 ス右 構 ハ 壱 年 勤 ニ シ テ米 壱 斗 弐 升 五 合 ヲ給 与 シ テ 人 民 一 同 之 撰 定 ス ル モ ノ ナ リ」働 と定 め て い る. こ こで は猪 垣 を農 民 に分 担 して 修 理 させ,ま た 農 民 か ら選 出 の 「猪 構 」 が 巡視 し て,猪 垣 の 破 損 か所 の あ る時 は科 金 を と った の で あ る. 本 来,農 民 発 想 の 猪 垣 で あ る が,行 政 側 が そ の 維 持 ・管 理 に は厳 重 に 関 与 して い た点 注 目 され る.ま た,名 護 問切 で は 「猪 大 垣 破 一 個 二 本 人弐 円 ツ ・夫 地 頭 掟 拾 銭 ツ ・耕 作 当 弐 拾 銭 ツ ・科 金 申付 候 事 」岡 と決 め,イ ノ シ シ の 大 垣 破 損 に対 して は農 民 や 役 職 者 に 連帯 して 厳 し く科 金 を と っ た点 に も,支 配 の徹 底 さが 知 ら れ る. 一 方 ,猪 垣 の 維 持 の た め に,そ の 手 入 を命 じて い た.金 武 間切 で は 厂猪 垣 通 ヨ シ苗 植 付 サ セ 候 事 」働,国 頭 間 切 で は 「猪 垣 通 場 所 見 合 ヨ シ 苗 並 相 当 ノ竹 木 下 知 方 可 然 事 」㈹ と ヨ シ や竹 木 を用 い た 手入 の こ とを示 した.こ れ は大 宜 味,今 帰 仁,本 部 の 間切 で も 同様 に行 わ れ た.㈹ さ ら に 国 頭 間 切 で は 厂荒 地 明 替 並 猪 垣 仕 合 又 ハ 御 用 入材 木 杣 取 方 且 共 有 船 及 他 船 作 事 請 ニ テ船 材 木杣 取 其 他 ご付 山 中へ 昼 夜 在 留 ノ時 豚 羊 ヲ殺 シ支 配 致 候 向 モ 有 之 哉 相 聞 へ 」 るが,そ の 際 に豚 や 羊 を殺 し食 べ る こ と を 禁 じて い る.㈹猪 垣 修 理 の た め の 木 材 の伐 り出 し は認 め て い た が,そ の 折 の飲 食 は農 民 に と って は楽 しみ で あ った と思 うが,豚 羊 の 殺 食 は制 限 して い た の で あ る.な お,こ こ で も 「猪 垣 ノ儀 破 レ次 第則 々 修 繕 致 シ若 シ不 行 届 者 ハ 壱 問 二付 科 銭 三 舛 ツ ・召 行 ヒ大 破 ノ節 ハ 吟 味 ノ 上 重 キ 科 米 申 付 候 事 」圃 と あ り,科 銭 は 米 で 厳 し く納 め させ て い る 点 特 色 で あ るL アタイ 猪 垣 破 損 の 際,・「耕 作 当 」 に も科 金 の あ っ た こ と は前 記 の文 書 で 明 ら か で あ る が,厂 村 耕 作 当 勤 方 ノ義 毎 日朝 晩 百 姓 中仕 口之 首 尾 承 届 月 二 五 度 ッ ・走 廻 り作 場 見 届 」㈹ る こ と を 定 て い た.間 切 内 法 の 一 部 を み た 限 りで も, 極 め て 厳 重 な 農 村 の 支 配 体 制 が 整 っ て い た こ と を知 り,そ の 一 環 に猪 垣 の管 理 も含 まれ て い た の で あ る. な お,か よ う な 支 配 は 「原 山 勝 負 」㈹ に よ りさ ら に徹 底 され て い た.こ れ は王 朝 時 代 か らあ り,毎 年 春 秋 に役 人 が 問切 を巡 視 し,農 林 業 の指 導 を行 っ たが,そ の 際,風 俗 ・習 慣 ・勤 怠 な ど まで 調 べ,そ の成 績 の 発 表 会 を催 し,余 興 もあ って 農 民 を楽 し ませ た.た だ し, 成 績 の悪 い 村 の 村 頭 ・耕 作 当 ・山 当 た ち は公 衆 の 前 で顔 に墨 を塗 られ,罰 金 も と られ た. こ の結 果,村 の 対 抗 意 識 が 強 ま、り,し が っ て 農 民 へ の 要 求 も厳 し くな り,農 民 は 迷 惑 した. こ の調 査 項 目17項 の うち に 「猪 垣 破 損 」 が あ っ た.明 治 以 降 も この行 事 は続 け られ,沖 縄 県 は優 等 村 に賞 与 金 を 出 し,農 業 奨 励 策 の1 つ と した. な お,別 の 褒 賞 が猪 垣 に関 して与 え られ た. 9一

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降 って 昭 和12年,有 栖 川宮 厚 生 資 金 が 名 護 市 域 の 幸 喜 集 落 に伝 達 され た.そ の 条 件 の1つ に村 疲 幣 の 主 要 な要 因 を なお 猪 害 防 除 と して, 猪 垣1030問(1873㍍)の 築 造 に よ る 更 正(65)が 含 まれ て い た ので あ る. 上 記 の 原 山勝 負 に 附 帯 して,明 治43年 か ら は 国 頭 郡 で 「鼠 駆 除 勝 負 」 が 実 施 さ れ た.㈹ 大 正8年(1919)に は年3万 ∼5万 尾 台 の ネ ズ ミを捕 獲 して い るが,猪 害 につ い て は全 く ふ れ て い ない.イ ノ シ シの 捕 獲 が 進 み,鼠 害 が 著 し くな っ た た め か,な お 検 討 を要 す る 点 で あ る. 戦 後 の 猪 垣 の管 理 をみ よ う.戦 場 と化 した 沖縄 で,猪 垣 も荒 廃 して い た が,農 業 生 産 の た め に は村 民 挙 げ て,そ の修 理 が 始 め ら れ た.砌 しか し,石 積 み の猪 垣 の 完 備 は な か な か に 困 難 で あ っ た.国 頭 村 辺 野 喜 で は雑 木 を組 み合 せ 構 築 した 猪 垣(ヤ マ シ シハ キ)が1962設 置 され て い た.佐 々木 高 明博 士 の焼 畑 調 杢 報 告 で は,す で に 「大 垣 士(ウ ー ガ チ)の 大 型 猪 垣 の 大 部 分 は失 わ れ た もの の,山 地斜 面 一 帯 の 共 有 地 の 原 地(ア ラ ジ)1に は村 民 に割 当 し た 焼 畑(ア キ ケ ーバ ル,ア ラ ジバ ル)が 開 か れ,そ の周 囲 に共 同 で 木柵 の サ ナ ガ キ を設 置 した.こ この 焼 畑 は3年 ほ どで 放 棄 され る が, そ の 理 由 の1つ に は猪 垣 の 耐 久 期 間 の 問 題 が あ っ た.こ の 点 は前 述 した 点 と共 通 で あ る. 奥 の 猪 垣 国 頭 村 奥 の 猪 垣 が 囲繞 型 で あ る こ と は,前 報 で 図 示 し述 べ た.こ こ は猪 垣 の築 造 と維 持 管 理 の 典 型 と い え,か つ資 料 も豊 富 に 保 存 さ れ て い る.以 下 に そ の実 態 をみ よ う.(ss) 奥 の 集 落 を囲 む 山地 は,中 山 に相 当 す る斜 面 を明 治30年(1897)県 か ら払 い下 げ を受 け, 個 人 が 買 い 取 り,段 々畑 を開 い た.畑 面 積 は 拡 大 した もの の,猪 害 も著 し く,各 自が 竹 垣 を巡 して 防 除 したが,不 経 済 で あ っ た.こ こ に は協 同 体 の 組 織 が 発 達 し,(ss)共同 店 の 創 設 者,糸 満 盛 邦 氏 が 「共 同猪 垣 」 を提 案 し,明 治36年 に大 猪 垣 の 構 築 を実 施 した.集 落 の 周 囲 を囲 ん だ 大 垣 は約12㌔ ㍍,こ の 外 の 外 垣 と さ ら に開 墾 地 の 垣 が 約12㌔ ㍍ で,計25㌔ ㍍ の 猪 垣 が 完 成 し た.こ の結 果,1945こ ろ に は水 田27町,畑15町,開 墾15∼20町 の 耕 地 が 保 全 さ れ た.農 作 物 被 害 は最 小 限 に くい とめ られ, 増 収 を図 り得 た. 猪 垣 の築 造 は多 大 の経 費 ・労 力 を要 す る が, 区 民 は 自力 で そ の築 造 ・修 理 を行 っ た.所 有 耕 地 面 積 に応 じて担 当 か所 を決 め,修 理 を義 務 づ け た.区 に はそ の割 当 を示 す 「猪 垣 台 帳 」 が11冊 保 管 さ れ て い る(写 真2,3).明 治 45年 か ら昭和20年 に わ た る もの で あ る.帳 簿 に は 割 当 か所 の 番 号 ・長 さ(尋 尺)・ 屋 号 が 記 され,移 動 も注 記 さ れ て い る.そ の 帳 簿 の 管 理 は 厳 重 で,「 本 帳 簿 ハ 字 区 長 ノ 外 手 ヲ入 レル コ ト ヲ得 ズ 」 「垣 主 変 更 ス ル 時,両 人 立 合 ノ上 ナ ス コ ト」 「垣 主 変 更 ノ 時 ハ 譲 渡 人 ノ 捺 印 ヲ要 ス」 の3項 が 昭和13年 の 大 垣 台 帳 に 記 され て い る.猪 垣 の維 持 管 理 は奥 区 民 の最 重:要な 義 務 の1つ とさ れ,「 垣 当 りの 制 」(垣 監 視 役)と 「総 回 り制 」(全 員 に よ る定 期 的 視 察)・を設 け,垣 当 りは 巡視 し,破 損 か 所 を 発 見 す る と,区 当 局 か ら担 当 者 す な わ ち 垣 主 に 通 告 し,3日 以 内 に修 復 させ た.不 実 行 の 場 合 は区 当局 が 修 復 し,そ の 費 用 を垣 主 に負 担 させ た.ま た,総 廻 りの 際 は事 前 に 厂垣 掃 除 」 の 通 知 を出 し,掃 除 ・修 復 され て い な い 場 合 に は垣 主 は罰 せ られ た.そ の 維 持 管 理 に は万 全 が 期 せ られ たが,破 損 か 所 か らイ ノ シ シ の侵 入 が 直 ち に み られ る こ とか らす れ ば, 緊 要 事 とい え る. い ま昭 和5年 の 帳 簿 を み る と,管 理 も完 全 と は い え な くな っ て い る年 代 で あ るが,そ の 事 情 が 若 干 知 ら れ る.ヴ グ原 で 割 当 の 地 数 628あ り,こ の う ち558地6分 は 「新 垣 ヲ取 ル 」 と い う こ とで,割 当 て て新 た に 築 造 させ た も の とみ ら れ る.残 りの74地4分 は垣 主 が 築 造 せ ず 「金 トナ ス 」 と い う こ とで,1地48銭 の 割 で徴 集 した.そ の 個 人 別 の 地 数 は最 高 が9, 1地 の 者 もあ り,17人 の垣 主 で 計33円79銭 一10一

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写真2奥 の大垣 台帳(表 紙) 写 真3奥 の 大垣 台帳 の 内容(昭 和13年) を 納 め て い る.と こ ろ で,そ の 支 出 内訳 は 「垣 分 」 時 の酒2斗1升 余 の 代 金 が19円62銭 で 最 も多 く,「 垣 当 手 当」 が10円 で,両 者 が 主 体 を な して い る.垣 当 の 手 当 は 区 の役 職 と して 出 した もので あ るが,垣 分 の 酒 代 は恐 ら く垣 の 割 当 や 築 造 に際 して の もの で,慰 労 の 費 用 に 充 当 した もの とみ られ る.な お,垣 分 の 時, 未 青 年 者 に は ソ ー メ ン代1円20銭,菓 子 代1 円 が 支 出 され て い る.か よ う に して猪 垣 は維 持 され て きた こ とが 知 られ る. あが り い り 奥 の 猪 垣(大 垣)は 「東 垣 」 と 「西 垣 」 と に2分 さ れ て い た.東 垣 は 集 落 の 南 側 斜 面, 西 垣 は 北 側 の 斜 面 に 設 け ら れ て い た.い ま 猪 垣 台 帳 で 東 垣 を み る と,番 号 総 数 は552で6 区 に 分 け ら れ て い る.長 さ は 尋 尺 で 現 さ れ て い る が,記 載 内 容 を 検 討 して み る と,尋 は6 尺 で な く,10尺=1丈(3.03㍍)と して い る こ と が 知 ら れ た.か よ う に 考 え て,そ の 総 延 長 を 集 計 し て み る と,2671.47丈(8,094.6㍍) と な っ た.総 延 長 は 約16㌔ ㍍ と い わ れ る の で, 西垣 も8㌔ ㍍ ほ ど と思 わ れ る.東 垣 の割 当0, 最 長 は21尋(63.6㍍),最 短 は2.3尺(7罅 ン㍍) で あ り,平 均 は4.8尋(15㍍)と な る.農 家 は耕 地1筆 につ き猪垣1か 所 を担 当 す る が, 1家 が 数 か 所 の猪 垣 を分 担 す る こ と に な り, 相 当 の 負 担 とな る.女 手 の み の 農 家 は 困却 し, 人 を頼 み 義 務 を果 す場 合 もあ った とい う.こ れ は 生 存 上,必 要 不 可 欠 の 緊要 事 で あ っ た わ け で あ る. 鉄 砲 沖縄 で 猪 害 防 除 に鉄 砲 が 用 い られ なか っ た こ とは 前 報 で 述 べ た.こ れ は本 土 との 大 きな 相 違 で あ る.『 球 陽 』㈹ は沖 縄 で は 「往 古 ノ俗 習,今 ト大 イ ニ異 ル」 と記 す な か で,動 物 に つ い て は 「尤 モ 猪 鶏 多 シ」 と述 べ,「 兵 器 二 刀 梢 弓 箭 劔 鍍(注,ツ ル ギ)ノ 属 ア リ.国 貧 ニ シ テ 鉄 少 ケ レバ 刃 ミナ 薄 小 ニ シ テ,多 ク骨 角 ヲ以 テ 之 レヲ輔 フ.(我 国 鑛 鉄 ノ 属 ヲ産 セ ズ. … …)」 と,砂 鉄 を産せ ず,刀 剱 も薄 く小 さ い こ と を云 っ て い る.鍛 治 の技 術 は 薩 摩 や種 子 島 か ら奄 美 経 由 で,い つ ご ろ か らか 沖 縄 へ 伝 っ て は い た.(71)石垣 島大 浜 村 の 例 で は往 時, 鉄 農 具 が な く,小 舟 を 造 って 薩 州 坊 ノ津 に い き,鉄 器 を買 っ て帰 った と い う.㈱ さ ら に琉 球 を支 配 した 島 津 藩 は 「鉄 砲 所 持 の禁 止 」 と 「武 器 輸 出 の 禁 止 」 を 沖縄 で 行 っ た が,武 器 の 所 持 また は取 りあ げ は し なか っ た.(73)海上 交 易 の 要 地 で あ っ た 沖 縄 は,江 戸 時代 以 前 で も,鉄 砲 の輸 入 は容 易 で あ っ た と 考 え られ るが,禁 令 の も とそ れ も所 持 せ ず, む しろ 平 和 的 な儒 教 政 治 ・文 化 政 治 と な っ て い た.(73)沖縄 は 自然 条 件 か ら して,漂 流 ㈹や 外 来 文 物 の 流 入 も著 しか っ た.交 易 の 発 達 は 当 然 で あ るが,薩 摩 藩 は 利益 独 占 の 立 場 か ら, 諸 藩 ・外 国 と の 交 流 を禁 じた.(75)かよ う な条 件 下,沖 縄 人 は鉄 砲 の 受 け入 れ に は消 極 的 で あ った とみ られ る. と こ ろで,ペ リー 来 航 に際 して,本 土 で は 厳 し く拒 否 した上 陸 が,沖 縄 で は 簡 単 に実 現 した.米 将 兵 は沖 縄 本 島 に上 陸 し,各 地 を踏 一11一

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査 した.そ して野 猪 を探 した り,火 縄 銃 よ り も進 ん だ 銃 尾 に弾 丸 を こめ る鉄 砲 を用 い た り して,沖 縄 住 民 を 驚 か した.㈹ 銃 の 普 及 を み る の は 明 治 以 降 で あ'り,そ れ も威 銃 の 発 想 は な くて,専 ら 狩 猟 に用 い た 点, 本 土 と著 し く異 な る.伝 統 的 に は,猪 害 防 除 ・は猪 垣 と落 し穴 ,犬 を用 い た槍 と に ひ たす ら よっ た の で あ る.鉄 砲 の 利 用 は こ の あ と戦 後 に お い て も消 極 的 とみ られ る.

猪垣の消長

イ ノ シ シの 捕 獲 明 治 以 降,鉄 砲 の 普 及 を み た が,そ の 数 は さ して 多 くな か った.沖 縄 県全 域 で 狩 猟 免 許 状 下 付 人 員(明 治24年 まで 銃 猟 規 則 は施 行 し な か っ たが,こ の 人 員 の うち 銃 猟 者 数 は不 明 〉 は 明 治34年(1901)254を 数 え た もの の,前 年 の279よ り減 少 して い る.㈲著 しい 銃 の普 及 は な か っ た もの と思 う.降 って 戦 時 中 の 昭和 18年 に は,県 は 「野 猪 捕 獲i柵設 置 費 補 助 」㈹ を行 っ た.当 時 「本 県 ノ野 猪 ハ 中頭 郡 ノ 北 部, 国頭 郡 及 八 重 山 郡 二 存 シ年 々 五 十 三 万 円 ノ被 害 二 及 ビ近 年 ハ其 ノ被 害 益 々 増 加 ノ傾 向 ア リ 捕 獲 柵 設 置 ヲ以 テ 耕 地 ヘ ノ侵 入 ヲ 防止 シ 又 罠 二依 ル 捕 獲 ヲ計 画 実 施 中 ナ リ本 年 度 ハ 六 十 五 個 所 ノ 設 置 二対 シ 三,○ ○ ○ 円 ヲ補 助 セ ン ト ス」 と い うこ とで あ っ た.県 が 補 助 金 を出 し た こ と は,従 来 あ ま り見 られ な い こ とで 注 目 され る し,ま た柵 と罠 とで 鉄 砲 を挙 げ て い な い 点 も特 色 で,本 土 と著 しい 相 違 とい え よ う. た だ し,沖 縄 で は 据 銃 の普 及 が あ り, .昭和10 年 読 谷 村 で は絶 命 者 を 出す 事 故 が あ った.㈲ 第 二 大 戦 で戦 場 と な り,荒 廃 を極 め た が, 戦 後 は森 林 地 域 も米 年 の施 設 下 に置 か れ,地 元 民 の 立 入 不 能 の 地 域 も広 くみ られ た.イ ノ シ シ は 自 由 に生 息 し近 辺 の 農 耕 地 に侵 入 して, 被 害 を与 え た こ と は当 然 の 成 行 で あ った. 1950こ ろ 国頭 地 区 で は猪 害 が 著 し くな り, 猪 垣 や 猟 犬 だ け で は対 処 で きず,猟 銃 の 許 可 を希 望 した.㈹ な お,山 林 は乱 伐 も加 わ り, 福 地 川 な どで み られ る よ う に 氾 濫 を生 した が, 山林 の 木 を伐 り山 稼 ぎ に 出精 しな くて は生 活 で き ぬ 矛 盾 もあ っ た.(si)そう し た な か で1952 に は猪 垣 計56㌔ ㍍ の完 成 を み て い る.そ して 猟 銃 の 許 可 は よ うや く1954に 実 現 した.(sz)な お 琉 球 政 府 は1957「野 生 鳥 獣 対 策 事 業 補 助 金 」 に 関 す る立 法 を し,1966の 規 程 で は 「猪 駆 除 奨 励 金 」 の 制 もあ り,補 助 率 は50%以 内 と定 め られ た.(83)これ に は猪 頭 数 と猟 犬 の 実 績 の 報 告 を要 した が,槍 と銃 とに よ る捕 獲 で あ っ た と み られ る.な お,昭 和51年 の 狩猟 免 許 状 交 付 状 況 で は,ワ ナ ・網 が34,装 薬 銃 ・ガ ス 銃 が654,空 気 銃 が10,計698で,圃 銃 が 主 軸 を な し,槍 は挙 が っ て い な い.ち な み に,こ の 年 の 猪 捕 獲 数 は643頭 で,前 年 よ りは増 加 して い る.な お こ の あ との 猪 捕 獲 数 は増 え, 1983に は928頭 で ピ ー ク を示 し,あ と500∼ 600頭 台 に 減 少 して い る.(85)しか し,か よ う な 銃 そ の他 に よ る イ ノ シ シ の捕 獲 の み で は猪 害 は 防 除 で きな か っ た.波 形 トタ ンな ど新 資 材 利 用 の猪 垣 を用 い て 防 い で い るが,石 垣 な ど の 築 造 よ り は,は る か に容 易 に設 置 され う る よ う に な った 点 で,好 都 合 に な っ た と思 わ れ る. 旧 猪 垣 の放 棄 と新 対 応 前 述 の 完 備 さ れ た奥 の猪 垣 は,そ の 後 維 持 管 理 が 困 難 と な り,1部 は 前 記 の よ う に維 持 され た(ウ ー ガ チ)も の の,昭 和34年 に放 棄 せ ざ る を得 な くな っ た.そ れ は人 口 の都 市 へ の 流 出 に よ る もの で,こ の 傾 向 は 昭和20年 代 か ら始 ま って い た.昭 和15年 以 降 の 沖縄 県 の 人 口 は増 加 の 傾 向 を辿 った の に対 し,国 頭 郡 北 部 の3村 の 人 口 は 昭和25年 以 降,著 しい減 少 傾 向 を示 した(図5).こ の 結 果,耕 地 の 耕 作 は 困 難 と な り,放 棄 の ものが 増 え,猪 垣 の 維 持 もで き な くな っ た の で あ る.(45)林地 と 段 々畑 の 境 に設 置 され て い た 猪 垣 は,放 棄 さ れ た畑 地 が 樹 木 に 覆 わ れ る に伴 い,林 地 に埋 も れ,崩 壊 も して,所 在 不 明 に もな って い る. 写 真4は 奥 集 落 を 囲 む 山腹 の 変 貌 を示 し た も 一12一

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の で あ る が,段 々畑 が 林 地 に 変 って い る点 が 明 瞭 で あ る.か よ う な変 貌 は 国頭 郡 北 部 一 帯 に み られ た もの で あ る.人 間 の耕 作 域 が 退 行 し,イ ノ シ シ の生 息 域 が 拡 大 した わ け で あ る. か よ う に して 山腹 の 段 々畑 の林 地 化 が 進 み, 耕 地 は 氾 濫 原 や 海 岸 の平 地 の み が 残 され た. こ こ は も とか ら貴 重 な稲 作 水 田で あ っ た が, 1966-67に サ トウ キ ビ畑 に 変 る こ と に な り (琉 球 新 報1966,10),現 在 に至 っ て い る. 図5沖 縄 県 お よ び 国 頭 郡 北 部3村 の 人 口 推 移 (1940^一1990) 沖縄 県統計年鑑に より作成. 猪 害 は 当 然 に あ り,イ ノ シ シ は 人 間 に 気 づ か れ ぬ よ う に か,サ トウ キ ビ畑 の 中 心 部 を 食 い 荒 し,農 民 を 困 却 さ せ る.そ の 防 除 の た め に は 波 形 ト タ ン で 山 麓 部 の 畑 の 境 を 囲 っ て い る (図3).ま た,金 網 ・ カ カ シ や 猟 銃 な ど で 対 処 して い る場 合 もあ る.な お,1966に は大 宜 味 村 ・国 頭 村 で,ラ ム タ リ ン に よ る 防 除 試 験:を実 施 した.こ れ は イ ノ シ シが 嫌 う臭 と味 を発 す る 薬 剤 を散 布 す る もの で,そ の 効 果 は 場 所 に よ り一 様 で な く,各 種 方 法 の組 合 せ が 大 切 と され た.(1)しか し,あ ま り普 及 は み な か っ た よ うで あ る. と ころ で,戦 後 農 村 人 口 の流 出 で 耕 作 域 が 退 行 した 反 面,山 地 の 開 発 が 他 方 で 進 め られ た 点 を注 目 した い.ま ず,1958か ら本 島 北 部 の 海 蝕 台 地 ・丘 陸 地 の 開 発 が 進 め られ た.こ こ は個 人 有 地 が 多 く,パ イ ナ ップ ル ・サ トウ キ ビが 作 付 さ れ た.さ ら に本 土 復 帰 後 は 日本 政 府 と沖 縄 県 と に よ り,内 陸部 に も地 域 開 発 計 画 が 立 て られ た.(as)そして 国 頭 地 域 は石 垣 島 を抜 い て 県 下 最 大 のパ イ ナ ッ プル 産 地 に な っ て い る圃(写 真5). イ ノ シ シ は 春 植 え,夏 植 え の パ イ ナ ッ プ ル の 芯 芽 を好 ん で 食 べ る.成 長 した 果 実 は トゲ が 生 ず る の で 食 べ に くい が,芯 芽 は軟 か く食 べ 易 い.サ トウ キ ビは甘 味 の 増 す12,月末 以 後 が ね らわ れ る.ま た,み か ん の 実 は皮 を む い て 食 べ る が,前 肢 で枝 を倒 す 術 を知 って い る. な お,人 気 の な い場 合 は昼 間 で もイ ノ シ シ は 侵 入 して 来 る な ど始 末 が 悪 い もの で あ る とい う(国 頭 村 教 育 委 員 会 大 嶺 進 一 課 長 談).さ ら に植 栽 の み か ん.茶 な ど の 樹木 や 土 手 の 芝 に施 肥 をす る と,ミ ミズ が 生 育 す るが,こ れ を食 べ るた め に 掘 起 し,根 が ぐ らつ き 間接 的 に被 害 の生 じ る こ と もあ る(沖 縄 県 立 博 物 館 千 木 良 芳 範 学 芸 員 談). な お,上 記 の トタ ン ・漁 網 ・有 刺 鉄 線 な ど で の 猪 垣 築 造 に よ る防 除 で は,農 家 は補 助 金 を 申請 す る が,予 算 の枠 内 で 費 用 の半 額 が 補 助 さ れ る.ま た,駆 除事 業 で は イ ノ シ シ1頭 を3,000円 で 買 上 げ,そ の 経 費 は県 と村 で 負 担 す る(鹵 頭 村 役 場 親 川 国 広 課 長 談).捕 獲 に は ワ ナ ・鉄 砲(イ ン ビチ)を 主 に 用 い,捕 獲 して イ ノ シ シ の 下 ア ゴ を提 出 して 補 助 金 を 受 け る(名 護 市 役 所 島 袋 正 敏 氏 談).猪 害 防 一13一

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除 は 現 在 も気 を ゆ る め られ ない 課 題 で あ る. む すび 沖 縄 本 島 の猪 垣 は,北 半 部 に み られ,西 海 岸 で は連 続 延 長 した長 城 型 に構 築 さ れ,東 海 岸 で は集 落 ・耕 地 の周 囲 を囲 む囲 繞 型 で 設 置 され て い た.猪 垣 に は 落 し穴 も併 設 され た が, 捕 獲 は専 ら槍 と犬 とに よ り,鉄 砲 ・威 鉄 砲 の 利 用 は近 世 に は な か っ た 点,本 土 と著 し く異 な る. 猪 垣 の 築 造 は近 世 か ら とみ られ る が,明 治 以 降 に も設 置 され,戦 後 の 昭 和35年 こ ろ まで 用 い られ た.本 土 よ り極 め て 長 期 に利 用 さ れ た.そ の 築 造 は農 民 が 自 力 で 行 い,行 政 側 の 支 援 は昭 和 年 代 以 降 で あ った.猪 垣 は 石 垣 を 主 に,土 手,竹 木 垣 な ど もあ っ たが,そ の 築 造 や 維 持 管 理 は農 民 自 らが 共 同 で 厳 重 に行 っ て きた. 猪 垣 の 築 造 位 置 は耕 地 や林 地 との 境 で あ っ たが,段 々 畑 を 山 地 に拓 い た こ とか ら,猪 垣 は 山腹 に 放 置 さ れ た.人 口圧 も大 き く,食 糧 の サ ツ マ イモ 生 産 の た め,耕 地 は 山 腹 に まで 写 真5沖 縄 本 島 北 部,丘 陵 地(東 村)の 開 拓 パ イ ナ ッ プ ル 畑(1990) 写 真4国 頭 村 奥,集 落 ・耕 地 の変貌 (上)一 昭 和30年 こ ろ,(下)一 昭 和61年 こ ろ. 両 側 の 山 地 斜 面 は 段 々畑 が 林 地 に変 る.猪 垣 は(上)で 上 手 に築 か れ,(下)で 山 麓 に トタ ンで 造 られ る.平 地 は 水 田か らサ トウ キ ビ畑 に変 る.前 方 は 太 平 洋,『 字 誌 奥 の あ ゆ み』 に よ る。 一14一

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拡 張 され て い た の で あ る. 戦 場 と化 した沖 縄 本 島 で,戦 後 は農 業 生 産 増 進 の た め,猪 垣 の修 復 が 重 要 で,琉 球 政 府 もこ の た め に援 助 を行 っ た.と こ ろが,農 村 か らの 人 口流 出,都 市 へ の人 口 集 中で,耕 地 は放 棄 され,猪 垣 の維 持 管 理 も困 難 とな り, 地 域 差 は あ る もの の,一 般 的 に は昭 和35年 こ 鬯 ろ を境 に猪 垣 も放 棄 され る よ う に なρ た.耕 地 の 退 行 に よ り,猪 垣 は樹 木 に 覆 わ れ る に 至 り,低 地 の 水 田 はサ トウ キ ビ畑 に変 化 し,新 た な猪 垣 が キ ビ畑 の 山 麓 よ りに トタ ン な どで 設 け られ る よ う に な った.一 方,イ ノ シ シ の 捕 獲 は槍 か ら鉄 砲 へ と漸 次 変 っ た. な お,こ の あ とパ イ ナ ップ ル を主 体 に,内 陸 部 の丘 陵 地 の 開発 が,琉 球 政 府 や 日本 政 府 に よ り進 め ら れ,新 た な猪 害 防 除対 策 が必 要 と な っ た.ト タ ンの ほ か フ ェ ンス ・網 な どが 用 い られ て い るが,猪 害 対 策 は な お 今 日的 課 題 で あ る. 前 報 と同 じ く指 導 ・教 示 を い た だ い た各 位 に,深 甚 の 感 謝 の意 を表 す る もの で あ る.な お 科 学 研 究 費 補 助 金,文 教 大 学 研 究 費 の利 用 に も恵 まれ た.引 き続 き入 重 山群 島 に 関 す る 報 告 を ま と め,本 テ ー マ の研 究 を完 結 す る 予 定 で あ る.(未 完)

文 献

(1)高 良 鉄 夫 ・東 清 二:イ ノ シ シ の 被 害 と 防 除 に つ い て,沖 縄 農 業,6-2,1967,44∼54. (2)名 護 市 史 編 さ ん 委 員 会:名 護 市 史,資 料 編,3, 戦 前 新 聞 集 成,2,名 護 市 役 所,1985,278頁. (3)矢 ケ 崎 孝 雄:沖 縄 県 下 の 猪 垣(一),文 教 大 学 教 育 学 部 紀 要,26,1992,14-26. (4)琉 球 政 府:沖 縄 県 史,第11巻,資 料 編,皿,上, 杉 県 令 関 係 日 誌,1965,1-58. (5)沖 縄 県 沖 縄 史 料 編 集 所:沖 縄 県 史 料,近 代,4, 上 杉 県 令 沖 縄 関 係 資 料,沖 縄 教 育 委 員 会,1983, 1-250. (6)沖 縄 県 教 育 委 員 会 文 化 課:沖 縄 歴 史 の 道 調 査 報 告 書,II一 国 頭 ・中 頭 方 西 海 道(皿)一,緑 林 堂 出 版,1986,12-75. (7)同 上:沖 縄 県 歴 史 の 道 調 査 報 告 書,VI一 国 頭 地 方 東 海 道 ・他 一 沖 縄 県 教 育 委 員 会,1987,6-7, 3637. (8)谷 川 健 一:日 本 庶 民 生 活 史 料 集 成,第1巻,探 検:・ 紀 行 ・地 誌(南 島 篇),.三 一 書 房,1968,447 -602 . (9)仲 松 弥 秀:恩 納 村 誌,村 長 大 城 保 晴,1980,128 -129 . ⑩ 千 葉 徳 爾:沖 縄 八 重 山 諸 島 の イ ノ シ シ と そ の 狩 猟,愛 知 大 学 文 学 論 叢,第44輯1970,129-153. (11)前 掲(4),30頁. (12)%35-36. ⑬ 前 掲(6), .73頁. ⑯ 矢 ケ 崎 孝 雄:長 崎 県 下 の 猪 垣(⇒,文 教 大 学 教 育 学 部 紀 要,25,1991,26-42.『 ⑮ 前 掲(4),38頁.『 ⑯ 〃(6),74頁. ㈲ 〃(4),39頁. (is)佐 々 木 高 明:沖 縄 本 島 に お け る 伝 統 的 畑 作 農 耕 技 術 一 そ の 特 色 と 原 型 の 探 求 一 人 類 科 学,第 25集,1973,9607. ⑲ 東 村 史 編 集 委 員 会:東 村 史,第1巻,通 史 編, 東 村 役 場,1987,43頁. (ZO)同 上:東 村 史,第3巻,資 料 編,2,東 村 役 場, 1984,412頁. (21)同 上(20),419頁. (22)〃408,422頁. ㈱ 〃424頁. (24)〃425頁. (25)〃435頁. ㈱ 前 掲 ⑲,37頁. 吻 前 掲(8),471頁. ㈱ 前 掲(4),26-27. (29)〃28頁. (30).宜 野 座 村 誌 委 員 会:宜 野 座 村 誌,第4巻,資 料 編1,文 献 資 料,上,宜 野 座 村 役 場,1988,83-84. (31)同 上,第3巻,資 料 編,皿,民 俗 ・自然 ・考 古, 1989,222-225,275-276. (32)前 掲(4),46頁.. 一15一

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(33)%43-44. 圃 前 掲(2),220,224,278,293-294. (35)琉 球 政 府:沖 縄 県 史,第14巻,資 料 編,4,雑 纂, 1,琉 球 政 府,1965,338-345. (36)前 掲(8),128-129. (37)沖 縄 市 史 編 集 委 員 会:沖 縄 市 史,第8巻,資 料 編, 7,上,沖 縄 市 教 育 委 員 会,1986,75,143頁. (38)同 上,第7巻,資 料 編,6,上,近 代 統 計 書 に み る 歴 史,1990,45頁. (39)同 上,第8巻,資 料 編,7,下,1988,519頁. (40)・岡 本 大 二 郎:虫 獣 除 け の 原 風 景,日 本 植 物 防 疫 協 会,1992,148-149. (41)桑 江 克 英:球 陽,三 一 書 房,1971,258頁. (42)沖 縄 大 百 科 書 典 刊 行 事 務 局:沖 縄 大 百 科 事 典,上, 沖 縄 タ イ ム ス 社,1983,150頁. (43)前 掲(8),325頁. ㈹ 〃(1),48頁. (45)奥 の あ ゆ み 刊 行 委 員 会:字 誌 「奥 の あ ゆ み 」,国 頭 村 奥 区 事 務 所,1986,141-143.. ㈹ 前 掲(2),齟本 編,11,わ が ま ち わ が む ら,1988, 53-54. ㈲ 青 野 寿 郎 ・尾 留 川 正 平:日 本 地 誌,21,大 分 県 ・宮 崎 県 ・鹿 児 島 県 ・沖 縄 県,二 宮 書 店,1975, 553頁. ㈹ 大 宜 味 村 史 編 集 委 員 会:大 宜 味 村 史,通 史 編, 大 宜 味 村 役 場,1978,・58-59,72-73. (49)池 野 茂:沖 縄 「山 原 船 」永 運 の 歴 史 地 理 的 な 考 察, :地域 と 交 通,大 明 堂,1975,47-75. (50)前 掲(8),471頁. (51)大 槻 文 彦:琉 球 新 誌,写 本,1873. (52)前 掲(8),557-558. (53)〃547頁. (54)国 頭 村 役 所:国 頭 村 史,国 頭 村 役 所,1967,332 -338 . (55)田 里 友 哲:沖 縄 に お け る 開 拓 集 落 の 研 究,琉 球 大 学 法 文 学 部 紀 要,史 学 ・地 理 学,第23号,1980, 45-51. (56)小 野 武 夫:近 世 地 方 経 済 史 料,第9巻,近 世 地 方 経 済 史 料 刊 行 会,1932,70頁. ㈲ 前 掲(35),,374頁. !㈹ 同 上 ,338頁. (59)〃369頁. ㈹ 〃402頁. ㈹ 〃420,436,451頁. 囮 〃406頁. ㈹ 〃371頁. (64前 掲 ㈹,67-69, 飼 〃(2),224頁. ㈹ 沖 縄 県 国 頭 郡 教 育 部 会:沖 縄 県 国 頭 郡 志,沖 紐 県 国 頭 郡 教 育 部 会 長,1919,91頁. ㈲ 前 掲 鰌,318頁., ㈹ 佐 々 木 高 明:日 本 の 焼 畑,古 今 書 院,1972,257 -261 . 働 田 村 浩:琉 球 共 産 村 之 研 究,岡 書 院,1927,149 -167 . ㈹ 前 掲 ㈹,12-13. ヤ マ ト ⑳ 谷 川 健 一:沖 縄 ・奄 美 と 日 本,同 成 社,1986, 64一一一68. ㈱ 前 掲(8),536頁. ㈲ 仲 原 善 忠:琉 球 王 国 の 性 格 と武 器,季 刊,沖 縄 と 小 笠 原(南 方 同 胞 援 護 会),1958,38二43. (74岩 崎 卓 爾:ひ る ぎ4)一 葉,前 掲(8),422頁. ㈲ 原 口 虎 雄 ・原 口 泉:伊 地 知 貞 馨 著,沖 縄 誌,青 潮 社,1982,561-562. ㈹ 土 屋 喬 雄 ・玉 城 肇 訳:ペ ル リ提 督 日 本 遠 征 記(⇒, 岩 波 文 庫,1948,7-107. ㈲ 前 掲 ㈱,第7巻,1990,450一 一451. ㈹ 〃(5),近 代,1,昭 和 十 八 年 知 事 引 継 書 類,1978, 228頁. ㈲ 読 谷 村 史 編 集 委 員 会:読 谷 村 史,第2巻,資 料 編,、 1,戦 前 新 聞 集 成,下,読 谷 村 役 場,1986,251頁. ㈲ 前 掲 ㈲,408頁. ㈹ 〃411頁. 圃 〃435頁. 圃 琉 球 政 府:公 報,第87号,1966,1-5. (80沖 縄 県 保 健 総 務 課:環 境 保 健 行 政 の 概 要,1977, 301頁. 圃 沖 縄 県:環 境 白 書,1990,384頁. 岡 前 掲(40,582-584. (87)〃616-618. 一16一

参照

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