中観帰謬派の開祖について
――ゲルク派の伝承を中心として――
西 沢 史 仁
ナーガールジュナ(Nāgārjuna)に起源する中観派の学統は,空性論証に関する ブッダパーリタ(Buddhapālita)の解釈に対するバーヴィヴェーカ(Bhāviveka)によ る批判,及び,チャンドラキールティ(Candrakīrti)によるブッダパーリタ擁護と バーヴィヴェーカ批判を契機として,所謂,自立派(Rang rgyud pa, *Svātantrika)と 帰謬派(Thal ’gyur ba, *Prāsaṅgika)の二つに分裂したことは,夙に知られるところで ある1).しかるに,後代のゲルク派の文献によれば,自立派の開祖として,バーヴィヴェーカを立てる点では議論はないが,帰謬派の開祖として,ブッダパーリ タとチャンドラキールティの二人のうち,何れを立てるのかという点について解 釈の相異が見られる2).本稿では,チャンキャ(lCang skya rol pa’i rdo rje, 1717–1786)
の教義書に見られる記述を手掛かりとして,ゲルク派における帰謬派の開祖に関 する諸問題を検討することにしたい.
1.帰謬派の開祖に関する『チャンキャ教義書』の記述
帰謬派と自立派の開祖に関するチャンキャの解釈は,『チャンキャ教義書』(Grub
mtha’ thub bstan lhun po’i mdzes rgyan)自立派章に以下のように明確に説かれている. 大尊師ブッダパーリタは,『根本中論』のブッダパーリタ註において,[『根本中論』]根 本偈に説かれた諸正理の意味を,多数の帰謬を立てて註釈し,自立証因を説かない.そ の後,尊師バーヴィヴェーカは,ブッダパーリタの註釈に対して多数の過失を捉えて, 自立証因を立てる必要がある理由を多数説き,[ナーガールジュナの密意を]自立[派 説]として註釈する開祖(rang rgyud du ’grel ba’i shing rta’i srol ’byed pa)となった.その 後で,吉祥なるチャンドラキールティは,ブッダパーリタにはそれらの過失は適用され ないことと,自立証因を承認することに対する拒斥と,[自立証因を]承認することは正 しくないことに対する能証を多数示して,聖者[ナーガールジュナ]の密意を中観帰謬 [派説]と註釈する開祖(dbu ma thal ’gyur du ’grel ba’i shing rta’i srol ’byed)となったので ある.(『チャンキャ教義書』(Krung go bod kyi shes rig dpe skrun khang, 1989)p. 196.3–11) また,訳語の不統一の例としては,以下のようなものもある.
チベット語訳(第 27 巻,p. 198):byang chub sems dpa’lamgang nas ’gro ba’i lam de yad chag chag btab ste . . .
モンゴル語訳(第 2 巻,p. 139 下):budhi satuva ali tergegür dür odqu i ter mőr i ber sigürdečü . . . ここでは,チベット語訳中の二つの lam をモンゴル語訳では異なる二つの訳語 tergegür と mőr とに訳し分けて表現していることが確認できる.このような新旧 訳語の存在はモンゴル語訳 Lal の成立年代について考察するための重要な手がか りになると考えられる.
まとめ
本稿ではモンゴル語訳 Lal の第 14 章の逐語訳ではない部分については,訳者に よる意図的な編集,古ウィグル語訳の借用,新旧訳語という観点から検討してみ た.今後,文献学的研究に基づいて,モンゴル語訳 Lal 全体の総合的研究へ進む ことを目指している. 〈略号〉モンゴル語訳 Lal Qutuγtu aγui yekede čenggegsen neretü yeke kőlgen sudur. モンゴル語訳 カンジュール(北京版第 2 巻,諸品経).
チベット語訳 Lal ’phags pa rgya chen rol pa shes bya ba theg pa chen po’i mdo. チベット語 訳カンジュール(北京版第 27 巻,no. 763).
梵文 Lal 外薗幸一『ラリタヴィスタラの研究』上,大東出版社,1994. BJ Burqan u arban qoyar ǰokiyangγui (Poppe 1967).
『方広』 『方広大荘厳経』(『大正新脩大蔵経』3 巻). 〈参考文献〉
Poppe, Nicholas. 1967. The Twelve Deeds of Buddha—Mongolian Version of the Lalitavistara:
Mongolian Text, Notes, and English Translation. Wiesbaden: Otto Harrassowitz.
〈キーワード〉 モンゴル語訳,Lalitavistara,第 14 章,比較研究
2.ゲルク派における解釈の分裂の起源について
ところで,チャンキャが言及した「自派の或る学者」であるが,これはデプン 寺ロセルリン学堂の教科書作成者であるパンチェン・ソナムタクパ(Paṇ chen bsod nams grags pa, 1478–1554)を示唆したものと推察される.即ち,パンチェンは,『中 観総義』(dBu ma’i spyi don zab don gsal ba’i sgron me)においてこう説いている.
『般若灯論』では,『根本中論』[の密意]を自立[派説]と註釈したが,[それについて は]ひとまず語る機会ではない.ブッダパーリタは,『根本中論』の密意を帰謬[派説] と註釈する轍を与え(thal ’gyur du ’grel ba’i srol gtod pa),それを,[チャンドラキールティ は,][『根本中論』]註『明句論』により,大道[として]打ち立て,[その]密意(=帰 謬派説)を自説として註釈し,…(『パンチェン中観総義』シャルツェ活字本(Mundgod: dGa’ shar dpe mdzod khang, 2000)p. 3.6–9)
ここでパンチェンは,自立派の開祖として,『般若灯論』の著者であるバーヴィ ヴェーカを立てた後で,帰謬派の開祖として明確にブッダパーリタを立てている. この文章は,実はケードゥプジェの『提要大論』の記述のパラフレーズになって いるが,後述するように,ケードゥプジェは,帰謬派説を最初に説いたものはブッ ダパーリタであるとは説いているが,帰謬派の開祖であるとまでは明言していな かった.しかるに,パンチェンは,そこから一歩進んで,帰謬派説を最初に説い たブッダパーリタを帰謬派の開祖として立てたわけである. これに対して,パンチェンと同時代人にしてセラ寺ジェ学堂の教科書作成者で あるセラ・ジェツゥンパ(Se ra rje bstun chos kyi rgyal mtshan, 1469–1544)は,このパン チェンの解釈を明確に否定して,チャンドラキールティをその開祖として立てる 解釈を提示した.例えば,彼の『中観総義』(dBu ma’i spyi don legs bshad skal bzang mgul
rgyan)にはこう説かれている. 帰謬派の側では,尊師ブッダパーリタは,『根本中論』のブッダパーリタ註を著作なさ り,聖者[ナーガールジュナ]の密意を帰謬[派説]と最初に解説した.そうであって も,(1)帰謬[派説]は妥当であり,(2)自立[派説]は妥当ではないこと等の区別は なさらなかった.その後で,吉祥なるチャンドラキールティは,『根本中論』の註釈『明 句論』を著作なさり,聖者ナーガールジュナの密意は帰謬[派説]にあり,自立[派説] は妥当ではないことを明瞭に説いて,[帰謬派の]車の轍を開いたのであるが(shing rta’i srol phye ba yin la).…(『ジェツゥン中観総義』セラジェ活字本(Bylakuppe: Ser byes dpe mdzod khang, 2004)pp. 7.15–8.4)
ここで,チャンキャは,帰謬派の開祖として,ブッダパーリタではなく,チャ ンドラキールティを立てていることに留意されたい.ここで,「開祖」と訳した shing rta’i srol ’byed という語は,語義的には,「車の轍を開く者」という意味であ るが,これは,ある学統を打ち立てたもの,一派を開いたものを指す表現であり, 一般には大乗開祖としてのナーガールジュナとアサンガを指す表現である.これ は,ここでは転じて,中観派の分派の開祖を示す表現としても用いられている. これに対しては,当然のことながら,チャンドラキールティに先だって,帰謬 派説を説いているブッダパーリタは何故に帰謬派の開祖として立てられないのか ということが問題となる.チャンキャは,その点について,ケードゥプジェの『提 要大論』(sTong thun skal bzang mig ’byed, abbr. sTong thun chen mo)を典拠として,ブッダ パーリタを帰謬派の開祖と見做す「自派の或る学者」(rang re’i mkhas pa kha cig)の 説を引いて,それを批判し,チャンドラキールティをその開祖と見做す解釈を提 示している(『チャンキャ教義書』p. 196.12–19).そこでチャンキャは,以下の二つの 条件を挙げている. 1.帰謬派説が正しいことの能証を提示していること 2.帰謬派説より他の学説(自立派説)が妥当ではない理由を提示していること チャンキャによれば,帰謬派の開祖であるためには,単に帰謬派説を最初に提 示しただけでは不十分であり,帰謬派説より他の学説である自立派説を否定する ことが必要とされる.例えば,ナーガールジュナ以前に,インドラボーディ王や 大バラモン・サラハが現れ中観説を説いたが,中観派の開祖としては立てられな いと明言している(『チャンキャ教義書』p. 197.21–24).それと同様に,ブッダパーリ タは確かにナーガールジュナの密意を帰謬派説として解釈したが,それは帰謬派 説を提示しただけに留まり,自立派説を否定する形で帰謬派説のみが妥当である ことを示すことはしていないので,帰謬派の開祖として立てられない.それを最 初に行なった人物は,チャンドラキールティに他ならないので,チャンドラキー ルティこそが,帰謬派の開祖として立てられると解釈する.ここに提示された上 述の二条件は,〈中観帰謬派の開祖の二条件〉と称しておこう.チャンキャにとっ ては,この二条件を充足するか否かが中観帰謬派の開祖として立てられるか否か の判断基準となっている.この背景には,チャンキャ自身が明言しているように, ツォンカパの了義未了義論に関する解説が前提となっている(『チャンキャ教義書』 p. 196.20–23).
2.ゲルク派における解釈の分裂の起源について
ところで,チャンキャが言及した「自派の或る学者」であるが,これはデプン 寺ロセルリン学堂の教科書作成者であるパンチェン・ソナムタクパ(Paṇ chen bsod nams grags pa, 1478–1554)を示唆したものと推察される.即ち,パンチェンは,『中 観総義』(dBu ma’i spyi don zab don gsal ba’i sgron me)においてこう説いている.
『般若灯論』では,『根本中論』[の密意]を自立[派説]と註釈したが,[それについて は]ひとまず語る機会ではない.ブッダパーリタは,『根本中論』の密意を帰謬[派説] と註釈する轍を与え(thal ’gyur du ’grel ba’i srol gtod pa),それを,[チャンドラキールティ は,][『根本中論』]註『明句論』により,大道[として]打ち立て,[その]密意(=帰 謬派説)を自説として註釈し,…(『パンチェン中観総義』シャルツェ活字本(Mundgod: dGa’ shar dpe mdzod khang, 2000)p. 3.6–9)
ここでパンチェンは,自立派の開祖として,『般若灯論』の著者であるバーヴィ ヴェーカを立てた後で,帰謬派の開祖として明確にブッダパーリタを立てている. この文章は,実はケードゥプジェの『提要大論』の記述のパラフレーズになって いるが,後述するように,ケードゥプジェは,帰謬派説を最初に説いたものはブッ ダパーリタであるとは説いているが,帰謬派の開祖であるとまでは明言していな かった.しかるに,パンチェンは,そこから一歩進んで,帰謬派説を最初に説い たブッダパーリタを帰謬派の開祖として立てたわけである. これに対して,パンチェンと同時代人にしてセラ寺ジェ学堂の教科書作成者で あるセラ・ジェツゥンパ(Se ra rje bstun chos kyi rgyal mtshan, 1469–1544)は,このパン チェンの解釈を明確に否定して,チャンドラキールティをその開祖として立てる 解釈を提示した.例えば,彼の『中観総義』(dBu ma’i spyi don legs bshad skal bzang mgul
rgyan)にはこう説かれている. 帰謬派の側では,尊師ブッダパーリタは,『根本中論』のブッダパーリタ註を著作なさ り,聖者[ナーガールジュナ]の密意を帰謬[派説]と最初に解説した.そうであって も,(1)帰謬[派説]は妥当であり,(2)自立[派説]は妥当ではないこと等の区別は なさらなかった.その後で,吉祥なるチャンドラキールティは,『根本中論』の註釈『明 句論』を著作なさり,聖者ナーガールジュナの密意は帰謬[派説]にあり,自立[派説] は妥当ではないことを明瞭に説いて,[帰謬派の]車の轍を開いたのであるが(shing rta’i srol phye ba yin la).…(『ジェツゥン中観総義』セラジェ活字本(Bylakuppe: Ser byes dpe mdzod khang, 2004)pp. 7.15–8.4)
ここで,チャンキャは,帰謬派の開祖として,ブッダパーリタではなく,チャ ンドラキールティを立てていることに留意されたい.ここで,「開祖」と訳した shing rta’i srol ’byed という語は,語義的には,「車の轍を開く者」という意味であ るが,これは,ある学統を打ち立てたもの,一派を開いたものを指す表現であり, 一般には大乗開祖としてのナーガールジュナとアサンガを指す表現である.これ は,ここでは転じて,中観派の分派の開祖を示す表現としても用いられている. これに対しては,当然のことながら,チャンドラキールティに先だって,帰謬 派説を説いているブッダパーリタは何故に帰謬派の開祖として立てられないのか ということが問題となる.チャンキャは,その点について,ケードゥプジェの『提 要大論』(sTong thun skal bzang mig ’byed, abbr. sTong thun chen mo)を典拠として,ブッダ パーリタを帰謬派の開祖と見做す「自派の或る学者」(rang re’i mkhas pa kha cig)の 説を引いて,それを批判し,チャンドラキールティをその開祖と見做す解釈を提 示している(『チャンキャ教義書』p. 196.12–19).そこでチャンキャは,以下の二つの 条件を挙げている. 1.帰謬派説が正しいことの能証を提示していること 2.帰謬派説より他の学説(自立派説)が妥当ではない理由を提示していること チャンキャによれば,帰謬派の開祖であるためには,単に帰謬派説を最初に提 示しただけでは不十分であり,帰謬派説より他の学説である自立派説を否定する ことが必要とされる.例えば,ナーガールジュナ以前に,インドラボーディ王や 大バラモン・サラハが現れ中観説を説いたが,中観派の開祖としては立てられな いと明言している(『チャンキャ教義書』p. 197.21–24).それと同様に,ブッダパーリ タは確かにナーガールジュナの密意を帰謬派説として解釈したが,それは帰謬派 説を提示しただけに留まり,自立派説を否定する形で帰謬派説のみが妥当である ことを示すことはしていないので,帰謬派の開祖として立てられない.それを最 初に行なった人物は,チャンドラキールティに他ならないので,チャンドラキー ルティこそが,帰謬派の開祖として立てられると解釈する.ここに提示された上 述の二条件は,〈中観帰謬派の開祖の二条件〉と称しておこう.チャンキャにとっ ては,この二条件を充足するか否かが中観帰謬派の開祖として立てられるか否か の判断基準となっている.この背景には,チャンキャ自身が明言しているように, ツォンカパの了義未了義論に関する解説が前提となっている(『チャンキャ教義書』 p. 196.20–23).
は,チャンキャは,先に自派の或る学者が帰謬派の開祖としてブッダパーリタを 立てる典拠として『提要大論』の一文を引いたが,そこでは,文中の「帰謬と解 釈する」(thal ’gyur du bkral)という語を帰謬派説でなく帰謬論証に結び付けて会通 している(『チャンキャ教義書』p. 197.18–21).しかしながら,『提要大論』の一連の 記述を見る場合,このチャンキャの会通の妥当性自体が検討されるべき課題となっ ている.
その後で,尊師ブッダパーリタは,『根本中論』の註釈を著作なさり,聖者父子(=ナー ガールジュナとアーリヤデーヴァ)の密意を帰謬と解釈して(thal ’gyur du bkral zhing), その後で,尊師バーヴィヴェーカは,『根本中論』の註釈を著作なさり,ブッダパーリタ により帰謬と解釈されたことに対して,否定を多数なさり,自立の轍を最初に開いたの であるが(rang rgyud kyi srol thog mar phye ba yin la),…吉祥なるチャンドラキールティ は,バーヴィヴェーカによりブッダパーリタに対して過失が説かれたことを正しく断滅 し,自立の主張(=自立派説)に対して最終的な否定を詳細になさり,帰謬と解釈する 主張(=帰謬派説)を大道[として]打ち立てて,…(『提要大論』チャンツェ活字本 (Mundgod: dGa’ ldan byang rtse thos bsam nor gling grwa tshang, 1997)pp. 118.3–6, 118.18–
119.1) ここで,ケードゥプジェは,バーヴィヴェーカが「自立の轍を最初に開いた」 と明言しているが,これは,バーヴィヴェーカが自立派の開祖であることを示す 表現であり,「自立」という語は,自立論証ではなく自立派説という学説を指すと 取るべきである.そのように考えるならば,ここで「帰謬と解釈する」という表 現もまた,帰謬論証ではなく帰謬派説と解釈するべきである.それ故,ケードゥ プジェは,ここで帰謬派説を最初に説いたものはブッダパーリタであると明言し ていることになる.所引の『善説真髄』の記述には,その点は明記されていなかっ たので,この点に相異が見られる.しかしながら,srol ’byed pa という語は,自立 派の場合にのみ使用されており,帰謬派の場合には使用されていないので,この ことが,所引の『善説真髄』の記述と併せて,後代のゲルク派の学者達に帰謬派 の開祖に関して解釈の余地を残し,二つに分裂する遠因となった.
4.帰謬派の開祖に関するジャムヤンシェーパの解釈
最後に,デプン寺ゴマン学堂の教科書作成者であるジャムヤンシェーパ(’Jam dbyangs bzhad pa’i rdo rje, 1648–1721)の解釈を検討しておこう.チャンキャは,ジャ ムヤンシェーパの『教義書根本偈』(Grub mtha’i rtsa ba)の偈文を引いて,その解釈 をチャンドラキールティを帰謬派の開祖とするものと見做している(『チャンキャ ここでジェツゥンパは,ケードゥプジェやパンチェン同様に,ブッダパーリタ が最初に帰謬派説を説いたことは認めているが,それだけで帰謬派の開祖として 立てられることは認めていない.その理由として提示された二条件は,まさにチャ ンキャが提示した〈中観帰謬派の二条件〉に他ならないのである.恐らくは,チャ ンキャは,このジェツゥンパの解釈を踏襲して,ブッダパーリタを帰謬派の開祖 として立てるパンチェンの解釈を「自派の或る学者」の説として挙げて否定した 上で,チャンドラキールティを帰謬派の開祖として立てたものと推定される.3.帰謬派の開祖に関するツォンカパとケードゥプジェの解釈
このようにパンチェンとジェツゥンパの解釈の相異が後代ゲルク派において帰 謬派の開祖に関して解釈が分かれる直接的な起源となったが,問題はゲルク派の 開祖であるツォンカパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa, 1357–1419)の解釈である.チャ ンキャは『善説真髄』(Drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i bstan bcas legs bshadsnying po)の一文を引いて,ツォンカパは帰謬派の開祖としてチャンドラキール ティを立てたと解釈している(『チャンキャ教義書』p. 197.11–14).ところが,この文 章をそこに引かれていない先行する部分から読むと,決してツォンカパはチャンド ラキールティが帰謬派の開祖であるとは明言していないことに気が付くのである. [自立[論証]を否定することの]起こり方については,ブッダパーリタが,「自から[生 ずるもの]でもなく」他から[生ずるもの]でもない」(『根本中論』I. 1a)等の[四句不 生を説く]偈の意味を解説したことに対して,バーヴィヴェーカによって過失が説かれ たが,その過失は[実際には]適用されないと示した箇所で,『明句論』に,(1)ブッダ パーリタは自立[論証]をお認めにならないことと,(2)中観派は自立[論証]を為す ことは正しくないことの能証と,(3)[その]反対項に対する拒斥を説示して,[自立派 と帰謬派の]車の轍が開かれたが(shing rta’i srol phye la)…(『善説真髄』(Mundgod: Soku Publication, 1991)p. 170.2–8) ここでツォンカパが述べているのは,ブッダパーリタの四句不生の解釈に対し て,バーヴィヴェーカが批判をなしたが,それに対するチャンドラキールティの 再批判を通じて自立派と帰謬派の学統が分かれたという以外,帰謬派の開祖がチャ ンドラキールティであるとは全く明言していない.それ故,チャンキャの解説と は裏腹に,ツォンカパは,帰謬派の開祖としてブッダパーリタとチャンドラキー ルティの何れを立てるのかという点について明確な判断を下していないと解釈す るべきである.
は,チャンキャは,先に自派の或る学者が帰謬派の開祖としてブッダパーリタを 立てる典拠として『提要大論』の一文を引いたが,そこでは,文中の「帰謬と解 釈する」(thal ’gyur du bkral)という語を帰謬派説でなく帰謬論証に結び付けて会通 している(『チャンキャ教義書』p. 197.18–21).しかしながら,『提要大論』の一連の 記述を見る場合,このチャンキャの会通の妥当性自体が検討されるべき課題となっ ている.
その後で,尊師ブッダパーリタは,『根本中論』の註釈を著作なさり,聖者父子(=ナー ガールジュナとアーリヤデーヴァ)の密意を帰謬と解釈して(thal ’gyur du bkral zhing), その後で,尊師バーヴィヴェーカは,『根本中論』の註釈を著作なさり,ブッダパーリタ により帰謬と解釈されたことに対して,否定を多数なさり,自立の轍を最初に開いたの であるが(rang rgyud kyi srol thog mar phye ba yin la),…吉祥なるチャンドラキールティ は,バーヴィヴェーカによりブッダパーリタに対して過失が説かれたことを正しく断滅 し,自立の主張(=自立派説)に対して最終的な否定を詳細になさり,帰謬と解釈する 主張(=帰謬派説)を大道[として]打ち立てて,…(『提要大論』チャンツェ活字本 (Mundgod: dGa’ ldan byang rtse thos bsam nor gling grwa tshang, 1997)pp. 118.3–6, 118.18–
119.1) ここで,ケードゥプジェは,バーヴィヴェーカが「自立の轍を最初に開いた」 と明言しているが,これは,バーヴィヴェーカが自立派の開祖であることを示す 表現であり,「自立」という語は,自立論証ではなく自立派説という学説を指すと 取るべきである.そのように考えるならば,ここで「帰謬と解釈する」という表 現もまた,帰謬論証ではなく帰謬派説と解釈するべきである.それ故,ケードゥ プジェは,ここで帰謬派説を最初に説いたものはブッダパーリタであると明言し ていることになる.所引の『善説真髄』の記述には,その点は明記されていなかっ たので,この点に相異が見られる.しかしながら,srol ’byed pa という語は,自立 派の場合にのみ使用されており,帰謬派の場合には使用されていないので,この ことが,所引の『善説真髄』の記述と併せて,後代のゲルク派の学者達に帰謬派 の開祖に関して解釈の余地を残し,二つに分裂する遠因となった.
4.帰謬派の開祖に関するジャムヤンシェーパの解釈
最後に,デプン寺ゴマン学堂の教科書作成者であるジャムヤンシェーパ(’Jam dbyangs bzhad pa’i rdo rje, 1648–1721)の解釈を検討しておこう.チャンキャは,ジャ ムヤンシェーパの『教義書根本偈』(Grub mtha’i rtsa ba)の偈文を引いて,その解釈 をチャンドラキールティを帰謬派の開祖とするものと見做している(『チャンキャ ここでジェツゥンパは,ケードゥプジェやパンチェン同様に,ブッダパーリタ が最初に帰謬派説を説いたことは認めているが,それだけで帰謬派の開祖として 立てられることは認めていない.その理由として提示された二条件は,まさにチャ ンキャが提示した〈中観帰謬派の二条件〉に他ならないのである.恐らくは,チャ ンキャは,このジェツゥンパの解釈を踏襲して,ブッダパーリタを帰謬派の開祖 として立てるパンチェンの解釈を「自派の或る学者」の説として挙げて否定した 上で,チャンドラキールティを帰謬派の開祖として立てたものと推定される.3.帰謬派の開祖に関するツォンカパとケードゥプジェの解釈
このようにパンチェンとジェツゥンパの解釈の相異が後代ゲルク派において帰 謬派の開祖に関して解釈が分かれる直接的な起源となったが,問題はゲルク派の 開祖であるツォンカパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa, 1357–1419)の解釈である.チャ ンキャは『善説真髄』(Drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i bstan bcas legs bshadsnying po)の一文を引いて,ツォンカパは帰謬派の開祖としてチャンドラキール ティを立てたと解釈している(『チャンキャ教義書』p. 197.11–14).ところが,この文 章をそこに引かれていない先行する部分から読むと,決してツォンカパはチャンド ラキールティが帰謬派の開祖であるとは明言していないことに気が付くのである. [自立[論証]を否定することの]起こり方については,ブッダパーリタが,「自から[生 ずるもの]でもなく」他から[生ずるもの]でもない」(『根本中論』I. 1a)等の[四句不 生を説く]偈の意味を解説したことに対して,バーヴィヴェーカによって過失が説かれ たが,その過失は[実際には]適用されないと示した箇所で,『明句論』に,(1)ブッダ パーリタは自立[論証]をお認めにならないことと,(2)中観派は自立[論証]を為す ことは正しくないことの能証と,(3)[その]反対項に対する拒斥を説示して,[自立派 と帰謬派の]車の轍が開かれたが(shing rta’i srol phye la)…(『善説真髄』(Mundgod: Soku Publication, 1991)p. 170.2–8) ここでツォンカパが述べているのは,ブッダパーリタの四句不生の解釈に対し て,バーヴィヴェーカが批判をなしたが,それに対するチャンドラキールティの 再批判を通じて自立派と帰謬派の学統が分かれたという以外,帰謬派の開祖がチャ ンドラキールティであるとは全く明言していない.それ故,チャンキャの解説と は裏腹に,ツォンカパは,帰謬派の開祖としてブッダパーリタとチャンドラキー ルティの何れを立てるのかという点について明確な判断を下していないと解釈す るべきである.
大校閲翻訳師 dPal brtsegs 考(経部ほか)
原 田 覺
吐蕃の著名な大校閲翻訳師 shus chen gyi lo tsa/tsā/tstsha pa/ba として後代に並べ 称する Ka/sKa Cog Shaṅ gsum の三者の内 Ka/sKa ba dPal brtsegs に関して,dkar chag lDan/lHan dkar/kar ma(Dk.)記載仏典の内「律の蔵」 nos. 483–513(原田 2015 参照)「中 [観]の論書」 nos. 573–605(原田 2000 参照)「[唯]識の論書」 nos. 614–654(原田 2007 参照)等の仏典については,既に対応する現存のチベット大蔵経(sDe dge 版)所収の 仏典の奥書を検討してきた.ここでは上記以外の Dk. 記載仏典の内の,同翻訳師 の関与を伝える現存のチベット大蔵経所収の仏典の奥書を検討し,彼の梵文仏典 蔵訳の事情を瞥見してみたい.筆者の従来の見解によると,彼の翻訳活動は九世 紀の第二の四半期を中心とし,筆者が 836 年に成立したと考える Dk.を彼は編纂 している(原田 1982b, 1982c, 1985 参照).従って 836 年以降で,吐蕃王国が崩壊した 842 年以降まで彼の活動が継続したならば,筆者が 842 年かそれ以降の戌年 khyi lo の成立と考える dkar chag ḥPhaṅ thaṅ ma 記載仏典をも検討しなければ,彼の翻 訳活動の全体を検討したことにはならないであろう(原田 2017 参照).ここではそ の様な全体的検討の前段階として,紙幅の許す範囲内で,Dk. 記載仏典の内の, 彼が関与したことを伝える現存のチベット大蔵経所収の仏典の奥書を検討する(原 田 1991, 1992, 1993, 1995; Herrmann-Pfandt 2008 参照). Dk.[I]「大乗の経部[たる]般若の波羅蜜多の部類に属するものに於いて| 」は nos. 1–15 の 15 仏典で,計 165,274 頌,550 巻 274 頌であり,no. 10『聖[仏母法 徳]蔵般若波羅蜜多頌[経]』300 頌,1 巻の奥書は「インドの親教師[たる]Bidyā ka ra siṅ ha と| 大校閲の翻訳師[で]僧侶[たる]dPal brtsegs[と]が翻訳し了り且つ校 閲し了って決定したもの|| ||」(Herrmann-Pfandt 2008, St. nos. 110–116 参照,以下同様)と あり,全体の約 0.2% 弱である.
Dk.[III]「大乗の経部[で]大宝積の法の異門[たる]十万の品に属するものに於 いて| 四十九の品以上から」は nos. 25–72 の 48 仏典で,計 45,191 頌,150 巻 191 教義書』p. 198.3–7).しかしながら,『大教義書』(Grub mtha’i rnam bshad rang gzhan grub
mtha’ kun dang zab don mchog tu gsal ba kun bzang zhing gi nyi ma lung rigs rgya mtsho skye dgu’i re ba kun skong. abbr. Grub mtha’ chen mo)の当該箇所を見るならば,チャンキャの解釈 とは裏腹に,ブッダパーリタを帰謬派の開祖として立てる解釈を取っていること が分かる(『大教義書』ゴマン活字本(Mundgod: ’Bras spungs sgo mang dpe mdzod, 2000)p. 376.15–22).そこで,ジャムヤンシェーパは,ブッダパーリタが帰謬派の開祖であ ることを srol ’byed pa という語を用いて明記しているのである.このことは,『大 教義書』の他の箇所からも確認できるので,一例を挙げておこう.
…深甚なる中観の道,ナーガールジュナの究極の密意を,ブッダパーリタは帰謬[派説] として轍を与え(thal ’gyur du srol btod),チャンドラキールティは,[それを]車の大道 となさった(shing rta’i lam chen por mdzad pa)が,…(『大教義書』p. 526.12–14) ここで,ブッダパーリタは帰謬派の轍を開いたもの,チャンドラキールティは 帰謬派の大道を打ち立てたものと規定されている.これは前者を帰謬派の開祖, 後者をその確立者として立てる表現であり,パンチェンの解釈を踏襲したもので ある.
1)この自立派と帰謬派という用語は,筆者が知る限り,パツァプ・ニマタク(Pa tshab nyi ma grags, 1055–1140–?)の『根本中論』の註釈(dBu ma rtsa shes kyi ’grel pa, in bKa’
gdams gsung ’bum 11)に見出されるのが最初である.即ち,rang rgyud pa: 6a7, 6b16,
7b14, 7b15, 8a5, 8a6, 8a15, 11b20, 13b19, 47a21, 47a22, 48a4; thal ’gyur ba: 10b18, 10b19, 11a10, 12a9, 13a11, 13b19, 47a21, 48a4. 他方,dbu ma rang rgyud pa / rang rgyud pa という 用語だけは,パツァプとほぼ同世代のジャヤーナンダ(Jayānanda)の『入中論註』に も用いられている(D no. 3870: 281a6, 281b6, 282a2–3).
2)チベットにおいて帰謬派の開祖に関して議論があったことは,立川 1982, pp. 118–119 に簡単に紹介されている. 〈参考文献〉 立川武蔵 1982「帰謬論証派――仏護と月称」平川彰・梶山雄一・高崎直道編『講座大乗 仏教 7 中観思想』春秋社,117–145. (本稿は平成 27 年度科学研究費「基盤研究 C」(15K02046)の助成に基づく一部.) 〈キーワード〉 中観帰謬派,ブッダパーリタ,チャンドラキールティ,チャンキャ,ツォ ンカパ,ケードゥプジェ,セラ・ジェツゥンパ,パンチェン・ソナムタク パ,ジャムヤンシェーパ (大谷大学真宗総合研究所特別研究員,博士(文学))