URL http://doi.org/10.18953/00008951
黒田清輝宛書翰類の解読
2 影印・釈文・解説
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一〇九 黒田清輝宛書翰類の解読
2 影印・釈文・解説 の解読 以下に、黒田清輝宛書翰類を翻刻する。本報告は『美術研究』四二六号掲載の「黒田清輝宛書翰類
一、 翻刻にあたり、 原本の文字遣い、 様式をそのまま残すようにつとめたが、 編集の都合により次のようにした。 凡 例 松蔭大学非常勤講師 ( が担当した。翻刻にあたっては以下の点を配慮した。 ( 解題 ・ 目録」の続編である。翻刻および解説は 近松鴻二(元文化財情報資料部客員研究員 ・
(.
文中に適宜、読点(
、 ( および並列点(・ ( を加えた。ただし行の最下段には読点を付さなかった。
2.
原文の一行の文字数が印刷の一行の文字数を超えた場合は次行の下部に移した。
3.
漢字は、正字で記されているものは原則そのままとし、常用漢字には変換しなかった。
4.
変体仮名は、 者 のように、もとになった漢字を本文に記し、読みを右傍に平仮名で示した。
(は(5.
異体字は、原則として正字に改めた。
6.
合字については、 ゟ (より ( 以外は平仮名に改めた。
…か ( と記した。 7.
宛 字・ 誤 字・ 衍 字 は そ の ま ま 表 示 し て、 右 傍 に( マ マ ( を 付 し た。 正 し い 字 が わ か る 場 合 は、 右 傍 に(
8.
解読ができなかった文字は□□…(字数分 (、 [ ](字数不明 ( で示した。
濁点ありは、 「ゝゞ」 、「ゞゞ」 、「ゞゝ」 (それぞれの文字数 ( を用いた。半濁点は「 」とした。 9.
踊 り 字 は、 平 仮 名 は「ゝ」 、 片 仮 名 は「ヽ」 、 漢 字 は「々」 を 用 い た。 大 返 し は、 濁 点 な し は「ゝ ゝ」 、
(0.
本文作成者以外の記載については、 (異筆 ( とし、該文字を「 」内に記した。
文字を続けて記した。 ((.
抹 消 箇 所 は「 黒 田 」 と し、 訂 正 箇 所 に つ い て は、 樺 山 を 黒 田 に 改 め た 場 合「 樺 山 黒 田 」 の よ う に 正 し い を付した。 (2.
本 文 中 に 漢 文 様 の 記 載 が あ る 箇 所 に は、 読 み や す く す る た め、 適 宜 レ 点( レ (、 及 び 返 り 点( 二 一 ( 三、 解 説 中 に 註 が 必 要 と 思 わ れ る 用 語 な ど に は、 ( 以下「史料番号」と略記 ( である。 二、 次掲四点の史料名のあとの算用数字は、 東京文化財研究所所蔵黒田淸輝宛書翰類の史料番号(=写真番号、 (3.
本文中の( ( 内の情報は筆者が作成したものである。
((・ (
年次のみ( ( に記した。 表記した。ただし、 改暦のあった明治六年 (一八七三 ( 一月一日以降は和暦と西暦の日付は一致するので、 四、 太 陰 太 陽 暦( 旧 暦 ( 使 用 時 の 年 月 日 は、 日 付 ま で 西 暦( グ レ ゴ リ オ 暦 ( に 変 換 し( ( 内 に 漢 数 字 で に註記した。 2( … と、 釈 文 中 に は ①・ ② … と 付 し、 本 文 の あ と
* フ ラ ン ス 語 の 翻 刻 ・ 翻 訳 ・ 註 に つ い て は 、 東 京 文 化 財 研 究 所 客 員 研 究 員 の 齋藤達也氏の御協力を得ました。 記して謝意を表します。
七 号 一一〇
尚々御自愛專一ニ奉
レ給候
拜啓
陳ハ御懇書
兩三前辱拜受
仕候處、御一同様ニ 者
(は(御機嫌能被
二存
入
一奉
二敬賀
一候、然ルニ
私ニハ今日まで彼是
取紛れ御 不
(無(佐
(沙か(汰
仕候段 眞
(まっ平
ぴら(御
容赦被
レ下度候、 爰
(ここ(元
(もと(淸輝樣ニハ
御着後 御壮健
日々御勉學被
レ成 (一八八四 ( 七月五日書翰 〇〇四 ((縦一六・四㎝、横一七六・三㎝ (
(
在 パ リ の 橋 口 直 右 衞 門
((
( か ら 黑 田 淸 輝
(2
( の 養 父 黑 田 淸 綱
(3
( に 宛 て た 明 治 十 七 年 ( 一
八八四 ( 七月五日付の書翰 橋口直右衞門 公使館の書記生としてフランスに赴任することになった橋口直右 衞 門 は、 ( 将 来 官 吏 に な る こ と を 目 指 し ( 法 律 専 攻 の た め 留 学 す る 黑 田 清 輝 に 同 行 した人物である。淸輝との関係は本書翰のように淸綱に淸輝の動向を知らせてい るので黑田家とはかなり親しかったことがわか る
(4
( 。具体的には 「義 兄
(5
( 」、「義兄 (淸
輝 の 養 姉 千 賀 子
(6
( の 夫 君
(7
( ( 」 の 二 説 が あ る。 留 学 時 の 同 行 者 に つ い て 淸 輝 は「 幸 ひ 親 戚の者が、書記生で仏蘭西の公使館に行くことになつたから、遂に其人について 仏蘭西に行くことになつたのが、明治十七年の二月でし た
(8
( 。」と語っている。
巷間伝わる養姉千賀子の夫君の実名は文 藏
(9
( である。江戸時代武士の名前は本名
( 諱 = い み な ( と 通 称 ( 仮 名 = け み ょ う ( の 二 つ
(((
( が あ り、 直 右 衞 門 の よ う に ○ ○ 右 衞門というのは仮名によく用いられているが、 仮名の使用は明治四年 (一八七一 ・
二・九~一八七二・二・八 ( に禁 止
(((
( されており、本書翰が作成された明治十七年の 署名に直右衞門とあれば、この直右衞門は諱とするのが妥当であろう。直右衞門 の履歴は詳らかではないが、橋口文藏の履歴には直右衞門を名乗ったという記載 は見当たらない。また次掲
2の養父黑田淸綱から淸輝宛の書翰に、文藏と直右衞
門が別人格に記載されているので、文藏と直右衛門は別人であることは確かであ る。直右衞門と文藏の関係は未詳であるが、本稿では直右衞門を文藏の弟として お く
(((
( 。 留学当初の状況 本書翰は明治十七年三月十八日にパリに到着した三ヶ月後の淸 輝の状況を淸輝の養父淸綱に知らせたものである。
当初着後数ヶ月間は直右衞門と同宿したあとしかるべき学校に入学の予定であ ったが、入学は一日でも早い方が良いとし、三月下旬に入学し た
(((
( 。 当時の国際郵便状況 ところで、消印に注目すると、本書翰は明治十七年七月十 一日パリの郵便局に収集され、三十九日後の八月十九日に横浜に着き、同日中に 東京に着いている。船便利用の当時の郵便事情がうかがわれる。 (
( (( 橋口直右衞門、生没年月日未詳。
2( 黑田淸輝、 慶応二年六月二十九日 (一八六六 ・ 八 ・ 九 ( 生、 大正十三年 (一九二四 (
△
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一一一 候間、御放 神
(心(被
レ遊度候
扨本邦出發之際
御相談仕置候ニハ、着
後數ヶ月間私と
同宿致、然後御
入校之事ニ御約束
申上置候得共、當地江
着之上、友人等江相談
仕候處、一日な 里
(り(とも早
目御入塾之方 可
(が(可
レ被
レ宜旨承 里
(り(、殊ニ
私と旅宿ニ同宿
ニテハ入費も非常ニ
相嵩ミ、彼是之情實
ヲ以テ、好學校ヲ相撰 七月十五日没。
洋画家、帝国美術院院長、貴族院議員。
(
( 七三 ( には実子淸秀が誕生している。 田 淸 兼 の 子 息、 つ ま り 実 の 甥 で あ る 淸 輝 を 養 子 に 迎 え た。 な お、 明 治 六 年( 一 八 三 月 二 十 三 日 没。 明 治 四 年( 一 八 七 一・ 二・ 一 九 ~ 一 八 七 二・ 二・ 八 ( に 実 弟 黑 3( 黑田淸綱、 天保元年三月二十一日 (一八三〇 ・ 四 ・ 一三 ( 生、 大正六年 (一九一七 (
4( 本 書 翰 の 追 伸 に「 過 便( 恐 ら く 黑 田 淸 綱 か ら の 書 翰 ( ハ 御 者 樣( お ば 樣 ( よ 里
(ば((り(鼻拭御惠投被
レ下御厚禮申上候也」と淸綱の夫人を「おば様」と記している。 (
( デンの国民画家』図録所収、平成六年(一九九四 ( 刊。 = = グ レ ー シ ュ ル ロ ワ ン 」、 三 重 県 立 美 術 館『 カ ー ル・ ラ ー シ ョ ン 展 ス ウ ェ ー 成 五 年( 一 九 九 三 ( 刊。 荒 屋 鋪 透「 カ ー ル・ ラ ー シ ョ ン へ の 旅 ス ン ド ボ ー ン と 5( 大 井 健 地「 湖 畔 に 坐 る 黑 田 照 子 」、 広 島 芸 術 学 会『 藝 術 研 究 』 第 6 号 所 収、 平
( 淸輝の養姉、実の従姉、橋口文藏の妻。 6( 橋口千賀子、安政五年正月(一八五八 ・ 二 ・ 一四~三 ・ 一四 ( 生、没年月日未詳。
7( 田 中
淳「
黒 田 清 輝 の 生 涯 と 芸 術 」、 東 京 国 立 博 物 館『 黒 田 清 輝
( 日本近代絵画の巨匠』展図録所収、平成二十八年(二〇一六 ( 刊。 生 誕 一 五 〇 年
( 8( 黑田譲編『名家歴訪録』中編、明治三十四年(一九〇一 ( 刊。
( 六年(一九〇三 ( 八月十日没。黑田淸綱の長女千賀子(淸輝の養姉 ( の夫君。 9( 橋 口 文 藏、 嘉 永 六 年( 一 八 五 三・ 二・ 八 ~ 一 八 五 四・ 一・ 二 八 ( 生、 明 治 三 十
( 四郎が仮名、景元が諱である。 (0( 町 奉 行 遠 山 景 元 の 従 五 位 下 左 衞 門 尉 に 叙 任 以 前 の 名 乗 り は、 金 四 郎 景 元 で、 金
( ((( 明治四年十月十二日(一八七一・一一・二四 ( 施行の「 姓 尸 不称令」 。
(せいし(( は直右衞門が文藏の弟のように記されている。 (2( 一 次 資 料 で は な い が、 黑 田 家 と 橋 口 家 の 親 族 の 家 譜 に 関 す る 聞 き 取 り の メ モ に
(3( 前 掲 註
中学までの程度 (、次いでリツセ官立中学校に転じ」とある。 8の 淸 輝 の 談 に は「 そ れ で 彼 国 で 一 週 間 目 に 或 る 私 塾 へ 入 り( 小 学 か ら
△
一一二
ミ、三月下旬よ 里
(り(御入塾
相成候次第ニ御座候
此學校ハ規則等至
極嚴ニシテ日曜之
外ハ外出ヲ許シ不
レ申
若シ不時ニ外出之時
ハ私自ら學校ニ參 里
(り(其段請求不
レ仕候而ハ
相叶不
レ申候程ニ御座候
貴書中如
レ仰當府
ハ世界中繁花之極
度ニテ少年等殊ニ失
身之人不
レ少有
レ之候由
淸輝樣ニハ日曜毎
ニ私之下宿ニ御出
相成、時ニハ舟漕 封筒(縦九・九㎝、横一四・一㎝ ( (表 ( 「東京 元老院ニテ 黑
田 淸
綱 樣
親
展 S. E. K. Kuroda Aux soins de la Poste centrale TOKIO JAPON 〈切手剝離〉 〈消印〉 ①「 PARIS AV. MARCEAU 6 E
PARIS AV. MARCEAU 6 ②「 E 84 」 JUIL |((
YOKOHAMA (9 AUG (884 ③「 」 84 」 JUIL |((
△
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一一三 等ニ參 里
(り(申候、成丈
ケ体操ヲ盛ニシテ体
格ヲ丈夫ニセザレバ何程
學問ガアリテモ ニ 者
(は(不
レ申候故成丈ケ
其主義ヲ以テ御敎
育仕候方ニ注責仕候
明日も休日ニ付、朝
よ 里
(り(御出之事ト奉
レ存候
當府之概況等申上度
候得共、一朝一夕中
々難
レ盡
二筆紙
一、是ハ
歸朝之時まで可
レ被
二相認
一申候、當府日本人之
御客様始終絶不
レ申
此頃も警視廳 (裏 ( 〈消印〉 ①「 PARIS A MODANE (2 JUIL 84 」 ②「東京 一七・八・一九」
一一四
連中 帶
(滯か(巴(パリ滞在 (、私 可
(が(接
對委員ニテ諸職
誘導、漸ク今夕
出發、一先息ヲ付キ
申候、先ハ今便右まで
申上候 恐々謹言
七月五日
橋
口 直
右 衞
門
黑 田
淸 綱
樣
侍
史
再伸 御一同樣江よろ
しく御致音奉
レ願候
過便ハ御 者
(ば(樣よ 里
(り(鼻拭御惠投被
レ下
御厚禮申上候也
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一一五 五月廿一日、同廿八日之貴翰 追々相届、忝致
二披見
一候
彌御堅固被
レ成
二勉學
一候段
大慶此儀ニ存申候、於
二爰元
一一同相揃無異罷在候、御安心
可
レ給候、折 尓
(に(ふ 禮
(れ(多
(た(る御詠歌
逐一成吟致し候、扨畫學
修業之事ニ決心被
レ致候趣
屢々被
二申越
一委曲了承既ニ
先便も申越候趣兎角
性之好む所ニ從ひ、何業ニ而も
人 幷 (竝か ( より抜出さへい 多
(た(し候へハ
其身一生之活計、且 者
(は(千載
芳名を殘 春
(す(の愉快 □□ 盛事
尓
(に(して只々時世 尓
(に(時めく俗人の
醉生夢死之類 尓
(に(奈
(な(ら 須
(す(登
(と(て
勉強可
レ有
レ之候、既ニ入門も
相調ひ毎日通學之由、大
悦い 多
(た(し申候、淸兼ニも其段
委細相話し置候、是も異論
無
レ之と、橋口文藏殿ニも先日
2 在パリ黑田淸輝宛在東京黑田淸綱明治十九年
(一八八六 ( 七月九日付書翰 (八 – 三 – 一 ((縦一六・三㎝、横一〇六・〇㎝ (
2