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漢代喪葬画像における観者の問題

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(1)

漢代喪葬画像における観者の問題

著者 鄭 岩, 加藤 直子

雑誌名 美術研究

号 395

ページ 1‑19

発行年 2008‑08‑28

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006165/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

漢代喪葬画像における観者の問題

漢代喪葬画像における観者の問題

鄭            岩

  はじめに一、祠堂画像の観者二、墓室画像の観者  おわりに

     はじめに

  古代中国の青銅器時代と比較した場合、金石学・考古学の成果に より解明

されつつある漢代美術の重要な特徴として、二次元的表現の隆盛が指摘でき

よう。喪葬建築を構成する画像石・画像磚および彩色壁画の研究は、題記の

釈 読、 作 品 の 図 像 学 ( iconography ) 的 探 求、 建 築 構 造 の 復 元、 図 像 の 象 徴 的 意 味 ( symbolic meanings ) や 歴 史 的 背 景 の 検 討 に ま で 及 ぶ が、 す で に 多 く の 研

究者が論じているように、図像の文化史的意義を検討する際には、対象自体

の研究はもとより、人々の行為との関係の諸相にも目を配り、考察を進めて

いく必要がある。こうした方向性の研究としては、死者の遺族、死者の生前

の友人や同僚、死者本人、墓の制作にあたる工人という四種類の集団から、

後 漢 時 代 に お け る 墳 墓 建 築 の 社 会 的 機 能 を 論 じ た 巫 鴻 W u H ung 氏 の 業 績 が あ る

)(

。本論で筆者は氏の論に沿いつつも、考察対象をいささか広げ、観者と

画像との関係をも視野に入れつつ検討を試みたいと思う。巫鴻氏は「観者」

とみなしうる要素に言及したものの、その関心は主として墓・祠堂の造営、

画 像 の 制 作 に 際 し て の 内 因 に 向 け ら れ て い た。 し か し、 「 観 者 」 は 創 作 の 主

体と作品に対して、ある種相対的な外因とみなすべきである。

  戦国時代に 屈原 Q u Yuan が楚の先王廟、 公卿の祠堂の内部の壁画を観じ、

題したとされる「天 問

)(

」、後漢時代に王延寿 W ang Yanshou が魯恭王霊光殿の 壁画を詠じた「霊光殿 賦

)(

」などから知られるように、画像資料について記し

た早期の文献は、すべて観者が記録に残したものである。同様に、漢代喪葬

画像をめぐるわれわれの考察もまた、 「 観る 」 行為の結果である。 「観る」者 に は、 二 つ の 類 型 を 想 定 で き よ う。 す な わ ち、 第 一 に は、 出 資 者 ( patr on )

と制作 者

)(

とが、あらかじめ想定した観者があげられる。画像はすべてこの種

の人々に観られることを意識したうえで制作されており、観者が関与するこ

とによって、画像は当時の宗教・儀礼および社会の諸システムのなかで機能

しはじめるのである。第二に は、出資者と制作者とが、まったく想定しなか

った観者があげられる。この種の観者は、画像の制作された時代から大きく 加  藤    直  子  訳

(3)

美 術 研 究  三 九 五 号

隔たった時代に属するケースが少なからずあり、そうした場合、観者は画像

の本来基づく儀礼システムの外側に位置することとなるために、当初の意味

から懸隔した解釈にいたる事態もあった。眼を転ずれ ば 、第二の観者の存在

に よ っ て 語 り ( discourse ) の 歴 史 が 形 成 さ れ る こ と は 十 分 に 想 定 さ れ、 そ の 研究意義も十分にみとめられるもの の

)(

、本文の主要なテーマは第一の観者に

ついての探究を進める点にあるので、ここでは言及しない。

     一、祠堂画像の観者

  現在まで残存する漢代石祠堂は、その装飾として豊富な画像をもつ。視覚

芸術作品たる画像は、観者との関係を通じてその機能が発揮される。祠堂の

も っ と も 重 要 な 機 能 は「 鬼 神 の 在 る 所、 祭 祀 の 処 な り ( 先 祖 の 霊 の 留 ま る 所

で あ り、 祭 祀 の 場 で も あ る )

)(

」 と 表 現 さ れ て い る と お り で あ り、 こ の た め に 祠

堂画像には次に掲げる二種類の観者が生じた。

  ( 一 ) 墓 主。 被 葬 者 で あ る 墓 主 は、 祠 堂 に お け る 一 連 の 図 像 の 所 有 者 で あ

る。後に詳述するが、この時代には故人の霊魂には知覚があり、当然死者に

は「観る」能力があると考えられていた。ゆえに墓主は供台に捧げられた物

品を嘉納するとされ、さらには厨房、歌舞などの図像に取り囲まれていたの

である。出資者は墓主に種々の物質的、精神的財物を供えたが、実際のとこ

ろ、これらの品々はただの絵にすぎない。こうした図像は「物を備ふれども

用 ふ 可 か ら ざ る な り ( 死 者 へ の 供 え 物 は わ ざ と 実 用 不 可 能 に 作 る べ き で あ る )

)(

と さ れ る も の で あ り、 中 国 の 俗 諺 に い う「 餅 を 画 き て 飢 を 充 つ ( 絵 に 描 い た

餅 で 飢 え を し の ご う と す る ) 」 で あ る。 だ が 死 者 に と っ て は、 こ れ ら 画 像 お よ

び墓中に副葬される明器は、同様に現実的な意味をもつ存在であった。この

違いは生死の間の相違でもある。   ( 二 ) 祭 祀 の た め に 祠 堂 を 訪 れ る 者。 こ の 集 団 に は、 資 金 を 提 供 し て 工 人

を雇い、祠堂を建てる死者の兄弟や子のみならず、後世の子孫をも含む。山

東 省 嘉 祥 県 Jiaxiangxian の 後 漢 時 代 の 武 氏 祠 に 立 て ら れ て い た 武 梁 W u Liang 碑 の 碑 文 は、 祠 堂 建 立 の 経 過 を 記 し、 「 後 嗣 に 垂 示 せ ん、 万 世 忘 る る な か ら

んこと を

)(

」 と結ぶ。この表現からは、 殷周時代の青銅器の銘文中に みえる 「子

子 孫 孫 永 く 宝 用 し 享 せ よ 」 と い っ た 吉 祥 句 が 容 易 に 想 起 さ れ よ う ( 祠 堂 は 堅

固 な 石 材 を 用 い て 建 造 さ れ る が、 こ れ は 祠 堂 の 命 運 が 石 の 性 質 と 同 様 で あ る よ う

願 う 出 資 者 の 心 情 を 物 語 る も の で あ る。 ま さ に「 寿 は 金 石 の 如

)(

(補註

し 」 で あ る ) 。 こ

の種の観者には、祠堂の中央に配置された墓主肖像が最も重要なポイントと

なる。祭祀のために訪れた遺族は、墓主肖像を通じて故人の霊魂と交流し、

死者に対して思慕を表明すると同時に加護を祈願するのである。

  上述の二つの類型のほかに は、画像に 併記された題記あるいは掲示に よっ

て、第三の観者の存在が明らかになっている。山東の後漢時代の祠堂題記に

は、観者に言及するものが散見されるが、なかでも最も古いものとして『滕

県金石志』に採録された「漢永元残石」と題する刻石があげられる。近年に

な っ て、 台 北 の 中 央 研 究 院 歴 史 語 言 研 究 所 が 所 蔵 す る 鮮 明 な 拓 本 ( 挿 図

( )

が発表された。この刻石は石祠堂の構成材と推測され、題記全文は次の通り

である。

永元三年四月……□成、伝于後世、敬白士大夫、願毋毀傷、願毋毀 傷

)(

永 元 三 年 ( 九 一 ) 四 月 …… □ 成、 後 世 に 伝 え ん。 士 大 夫 に 敬 白 す、 願 わ

くは毀傷する毋からんことを、願わくは毀傷する毋からんこ と

)(

(補註

を 。

(4)

漢代喪葬画像における観者の問題

  ま た、 一 九 三 四 年 に 発 見 さ れ た、 永 興 二 年 ( 一 五 四 ) 銘 を も つ 薌 無 患

Xiang W uhuan ・ 薌 奉 宗 Xiang Fengz ong 兄 弟 が 亡 き 父 母 で あ る 薌 他 君 Xiang Tajun 夫 妻 の た め に 建 立 し た 祠 堂 の 門 柱 題 記 ( 挿 図

( ) に お い て、 そ の 後 半

部分が観者に向けたメッセージであることは明らかであろう。

観者諸君、願勿 (攀) 傷、寿得万年、家富昌

)((

観 者 諸 君、 願 わ く は ( 攀 ) 傷 す る 勿 か ら ん こ と を、 寿 は 万 年 を 得、 家 は

富昌 え

)(

(補註

ん 。

  さらに 、 一九八〇年に山東省嘉祥県宋山 S ongshan で出土し、 永寿三年 (一 五 八 ) 十 二 月 の 紀 年 を も つ 安 国 An G uo 祠 堂 に は 四 六 一 字 に わ た る 題 記 が 刻

され (挿図

( ) 、この後半の文章も同様に観者への呼びかけである。

挿図 ( 山東省滕県永元 ( 年祠堂題記 挿図 ( 山東省東阿県永興 ( 年薌他君祠堂門柱および題記

挿図 ( 山東省嘉祥県永寿 ( 年安国祠堂画像および題記

(5)

美 術 研 究  三 九 五 号

唯諸観者、 深加哀怜、 寿如金石、 子孫万年。牧馬牛羊諸僮、 皆良 家

)(

(補註

子 、

来人堂宅、但観耳、無得琢画、令人寿。無為賊禍、乱及孫子。明語賢仁

四海士、唯省此書、無忽 矣

)((

唯だ諸もろの観る者、深く哀怜を加うれ ば 、寿は金石の如く、子孫は万

年、牧馬牛羊諸僮、皆良家の子。来人、堂宅は但だ観るのみにして、琢

画するを得るなかれ。人をして寿あらしめん。賊禍を為すなかれ。乱孫

子に及 ば ん。明らかに賢仁、四海の士に語る。唯だ此の書を省みて、忽

せにするな か

)(

(補註

れ 。

  「 漢 永 元 残 石 」 お よ び 薌 他 君 祠 堂 題 記 に お け る 観 者 へ の 文 言 は、 内 容 の う

えで安国祠堂題記のものと一致する。画像石の様式からみた場合、安国祠堂

は、 薌 他君祠堂や有名な武氏祠のものと近似している。この安国祠堂の発見

によって、これ以前の出土資料の信頼性が高まった。

  こ の ほ か、 近 年 報 道 さ れ た 二 〇 〇 〇 年 発 見 の 山 東 省 嘉 祥 県 の 永 和 六 年 ( 一

四 一 ) 祠 堂 題 記 に も ま た、 観 者 に 関 す る 記 述 が 存 在 す る と の こ と で あ る が、

正式な発掘調査報告は未発表であり、筆者も実物および拓本を実見していな

いため、ここでは保留として後考に俟ちたい。題記中の関係箇所は以下の通

りである。

諸君往来観者、下至□重□、勿敗易、寿得千年、長楽未央。頓首、長累

諸 郷

)((

諸君、往来の観る者、下至□重□、敗易する勿かれ。寿は千年を得、長 楽未だ央からざらん。頓首す、諸郷の長累せんことを。

  巫 鴻 氏 は、 安 国 祠 堂 題 記 の「 語 り 手 」 ( narrators ) は 祠 堂 の 出 資 者 で は な い かと推測してい る

)((

。これに従うなら ば 、題記は出資者の意図を最も直接的に

伝達する史料といえよう。出資者は、莫大なエネルギーと財産を投じて建立

した祠堂を、観者が大切に 扱うよう希望した。題記中の「願わくは毀傷する

毋からんことを、 願わくは毀傷する毋からんことを」 といった畳句の形式も、

「牧馬牛羊諸僮、皆良家 の

)(

(補註

子 」といった追従の言も、すべて出資者の恐懼に

満ちた心情をあらわすものであろう。

  山 東 省 長 清 県 Changqingxian の 孝 堂 山 石 祠 堂 に は 観 者 に よ る 多 数 の 落 書 き

がある。祠堂の三角隔梁石の西側面には、

平原湿陰郡邵善君以永建四年四月二十四日来乎過此堂、叩頭謝賢 明

)((

平 原 湿 陰 郡 邵 善 君、 永 建 四 年 ( 一 二 九 ) 四 月 二 十 四 日 を 以 て 来 り て 此 の

堂を過ぐ。叩頭し賢明に謝す。

と あ り、 信 立 祥 Xin Lixiang 氏 は こ の 文 中 の「 謝 」 字 を 根 拠 と し て、 こ の 題

記が墓主の門生故吏の手によって祠堂の建立時期よりさほど降らぬ時期に 刻

された可能性を指摘し た

)((

。視点を変えるなら ば 、これは、出資者が観者のふ

るまいに対する懸念から祠堂に題記を掲げるにいたったことを、よく証明す

るものとなろう。祠堂題記の「願わくは毀傷する毋からんことを」や「琢画

するを得るなかれ」などという願いを込めた呼びかけは、古くは山東省肥城

市の建初八年 (八三) 祠堂題記 (挿図

( ) にまで遡ることができる。

(6)

漢代喪葬画像における観者の問題

建初八年八月成。孝子張文思哭父而礼。石値三千、王次作。勿敗□

)((

建初八年八月成る。孝子張文思、父を哭して礼す。石は値三千、王次作

る。敗□する勿 か

)(

(補註

れ 。

と あ り、 判 読 で き な い 部 分 も あ る も の の、 「 敗 □ す る 勿 か

)(

(補註

れ 」 と の 語 句 は 明

らかに観者に向けられたものである。

  以 上 か ら、 「 観 者 諸 君 」 は、 「 賢 仁 四 海 士 」、 「 士 大 夫 」、 甚 だ し き は「 牧 馬

牛羊諸僮」 までも含む実にさまざまな人々を指すことが理解される。 これは、

宗族の祭祀の重要な場であると同時に、屋外にあって確実にある種の公共性

をもつ祠堂の性格を、出資者が熟知していたことを示すものであろう。出資

者は、観者が祠堂の建築および画像を大切に扱うようひたすらに希求し、さ

らに多数の人々が通りかかってこれらを目にし、そこからより多くの情報を

得ていくよう期待しているのである。

  巫鴻氏は、後漢時代の祠堂題記を検討し、その際に 題記の語りに あらわれ

る大きな変化を指摘している。これによれ ば 、早期に属する題記は祠堂の機

能を示し、死者の事跡を簡単に記すといったものであったが、のちには祠堂 の建立過程を詳細に描写するように変化しているという。氏は、二世紀の民 間において自身の「孝」を誇示せんとする人々の出現により、この変化がも たらされたとみている

)((

。その行き過ぎた状況は、当時の知識人による多数の

批判から知られる。例え ば 「耿介にして俗と同じくせ

)(

(補註

ず」と描写された王符

W ang F u は「今多くは倹を違え養うこと、 生に約し以て死に待す。終没の後、

乃ち喪紀を崇飭し以て孝と言う。賓旅に盛饗し以て名を求む。誣善の徒、従

いて之を称す、此の乱を孝悌の真行と。而ち後生の痛を誤るものなり

)((

」と述

べている。こうした悪習があらわれた背景には、当時の「挙孝廉」制

)((

(補註

度の存

在がある。多くの官途に 就こうとする人々は、まず在地社会で孝の名声を獲

得 せ ね ば な ら な か っ た た め、 「 生 き て は 養 い を 極 く さ ざ る に 、 死 し て 乃 ち 喪

を崇んにす

)((

」といった処世術はごくありふれたものであった。この過礼現象

は喪葬儀礼にも具体的な形で波及し、王符の描写する「大冢を造起し、広く

松柏を種え、廬舎祠堂は侈を崇び上僭す

)((

」といった状況が生じた。

  このような観者の側の変容に より、祠堂を建立する意義が微妙に 変化した

と解するのは、ある意味においては首肯できよう。本来、祠堂は死者を祀る

場ではあるが、生者の関知しうる地上の建造物でもあるために、出資者が公

衆に向け自らの孝行を示す手段となっているのである。出資者の意図は、題

記を刻する行為によって明らかにされている。題記は、用いた石材がいかに

良いものか、依頼した工人がいかに優れた技術者であるのか、造営にかけた

時間がいかに長かったかなどという情報を、絶え間なく喧伝し続けているの

である。 薌 他君祠堂の題記においても、こうした表現がみられる。

無患 ・ 奉宗、 克念父母之恩、 思念忉怛悲楚之情、 兄弟暴露在冢、 不辟晨昏、

負土成墓、 列種松柏、 起立石祠堂、 冀二親魂零 (霊) 、有所依止。歳腊拝賀、

挿図 ( 山東省肥城市建初 ( 年祠 堂画像

(7)

美 術 研 究  三 九 五 号

子孫歓喜。堂雖小、経日甚久、取石南山、更逾二年、迄今成已。使師操

義、山陽瑕丘栄保、画師高平代盛、邵強生等十余人。価銭二万五 千

)((

無患・奉宗は克く父母の恩を念い、 忉 怛悲楚の情を思念し、兄弟暴露し

て冢に在り、晨昏を辟けず、土を負いて墓を成し、松柏を列種して、石

祠 堂 を 起 立 す。 冀 わ く は 二 親 の 魂 零 ( 霊 ) に 依 止 す る 所 有 ら し め、 歳 腊

に拝賀して子孫歓喜し、堂は小なりと雖も日を経ること甚だ久しからん

ことを。石を南山に取り、更に二年を逾えて、今に迄りて成り已んぬ。

師の操義、 山陽瑕丘の栄保、 画師の高平の代盛、 邵強生等十余人を使う。

価は銭二万 五

)((

(補註

千 。

  安 国 祠 堂 題 記 に お い て も ま た、 「 作 治 す る こ と 連 月、 工 夫 は 極 り な し、 価

は銭二万七 千

)((

」といった記述がみられる。加藤直子氏は祠堂題記にみえる金

額の記述とその実質的な価値を比較し、多くは誇張された数字であろうこと

を示唆し た

)((

。さらに、祠堂の長期にわたる制作過程そのものが在地社会にお

ける一種の孝行「パフォーマンス」であった可能性も考えられ る

)((

  それでは、観者たる公衆は祠堂の内部に 何を見いだしたのであろうか。言

い換えるなら ば 、祠堂内の画像と観者との間にはいかなる形の関係が切り結

ば れていたのだろうか。われわれは観者の立場に立って、祠堂内の画像を理

解することができるだろうか。祠堂の装飾画像はすべて観者に向けて出資者

の孝行を示すためのものだろうか。

  これらの疑義に 答えるに あたり最大の障害は、前掲の永元三年祠堂、 薌 他

君祠堂、安国祠堂がみな不完全な形での出土であったため、トータルに 画像

の内容を検討するすべがない状況にある。ただし、安国祠堂の題記には、画 像の内容について記した箇所がある。

調 (雕) 文刻画、 交龍委蛇、 猛虎延視、 玄 蝯 登高、 肺熊啼戯、 衆禽群聚、

万狩雲布、台閣参差、大興輿駕、上有雲気与仙人、下有孝及賢仁。遵者

儼然、従者粛侍、煌煌濡濡、其色若 信

)((

文 を 調 ( 雕 ) み 画 を 刻 す。 交 龍 は 委 蛇 と し て、 猛 虎 は 延 視 す。 玄 蝯 は 高

きに登り、 肺 熊は 啼 戯す。衆禽は群聚し、万狩は雲布す。台閣は参差と

して、大いに輿駕を興す。上に 雲気と仙人と有り、下に 孝及賢仁有り。

遵者は儼然として、従者は粛侍し、煌煌濡濡として、其色信ぶが 若

)((

(補註

し 。

  この美辞麗句を連ねた文章は、およそ画像に ついては巧みに 表現している

ものの、その象徴的意味に関しては何ら言及しておらず、背後に存する思想

を明確に読みとることは難しい。出資者はこの文章を作成するにあたって、

画像全体の内容に一瞥を与えたのみで、その深い所にひそむ意味について詳

細には追求しなかったらしい。ここで、後漢の王延寿の「魯霊光殿賦」の一

節を参照したい。

飛禽走獣、 因木生姿。奔虎攫 挐 以梁倚、 仡奮 舋 而軒 鬐 。虬龍騰驤以蜿 蟺 、

頷若動而躁 泥 。朱鳥舒翼以峙衡、騰蛇 蟉 虬而遶榱。白鹿孑 蜺 於 欂 櫨、蟠

螭宛転而承楣。狡兎 跧 伏于柎側、猿 狖 攀椽而相追。玄熊稱甜以齗齗、却

負載而蹲跳。斉首目以瞪眄、徒 眽眽 而示示。胡人遙集於上楹、儼雅 跽 而

相対。仡欺狸以雕穴、幽類謬而睽睢、状若悲愁于危処、潛嚬蹙而含悴。

神仙岳岳于棟間、玉女窺窗而下視。忽 瞟 眇以響像、若鬼神之仿 佛

)((

(8)

漢代喪葬画像における観者の問題

飛禽走獣、木に因りて姿を生ず。奔虎攫 挐 して以て梁倚し、仡として奮

舋 して 鬐 を軒ぐ。 虬龍騰驤して以て蜿 蟺 、頷は動くが若くして躁泥たり。

朱鳥翼を舒べて以て衡に峙ち、騰蛇 蟉 虬として榱を遶る。白鹿 欂 櫨に孑

蜺 として、蟠螭宛転として楣を承く。狡兎柎側に 跧 伏し、猿 狖 椽に攀じ

て相追う。玄熊稱甜として以て齗齗、却き負載して蹲跳す。首目を斉し

くして以て瞪眄すれ ば 、徒に 眽眽 として示示たり。胡人遙かに上楹に 集

まり、儼雅として 跽 きて相対す。仡欺狸として以て雕のごとくに穴、幽

類謬として睽睢す、状危処に悲愁するが若く、潛として嚬蹙して悴みを

含む。神仙棟間に岳岳として、玉女窗を窺いて下視す。忽 瞟 眇として以

て響像のごとく、鬼神の仿佛たるが若

)((

(補註

し。

  二つの文章の比較を試みるなら ば 、容易に 両者の共通性を看取できよう。

安国祠堂題記にみられる駢儷体の対句表現は、後漢時代における辞賦の様式

と明らかに通底する。書き手は、文人の間で流行していたスタイルを模倣す

ることには熱心であったようだが、祠堂内部の画像をリアルに叙述するとい

った方面にはさほどでもなかったらしい

)((

。印象に残らない画像のディスクリ

プション、華やかではあるものの空虚な辞句は、祠堂内部の華麗な装飾を観

者に誇示せんとする目的のもと選択されたのであり、画像の意味を解説する

ためのものではない。題記の書き手にとってより重要な目的は、観者に 自身

の メ ッ セ ー ジ (「 明 ら か に 賢 仁 四 海 の 士 に 語 る、 唯 だ 此 の 書 を 省 み て、 忽 せ に す

る な か れ 」) を 示 す こ と に あ っ た。 お よ そ 画 像 は 工 人 の 制 作 で あ り

)((

、 題 記 に

刻された内容こそが出資者の手になるものであるためである。題記の内容に

は、画像や建築という有形の「物的証拠」のみならず、出資者が甘苦ととも

に祠堂を建立した全工程をも含む。 出資者は人々が画像と建築を観る (「観」 ) だけではなく、 題記中に示された出資者のさまざまな行為を理解する (「省」 )

よう期待していた。こうした掲示によって、観者はある結論、すなわち出資

者が「孝を竭くし、行い殊に し、義に 篤 き

)((

」人物であるという見解へと導か

れていくのである。出資者にとって、画像や建築という物質的存在は観者を

誘導する手段にすぎず、出資者の道徳上の評判こそが最終的な目的に他なら

なかったのである。

  山 東 省 長 清 県 の 孝 堂 山 石 祠 堂 に は 永 康 二 年 ( 三 〇 一 あ る い は 三 九 七 ) 銘 の

題 記 が 刻 さ れ、 「 申 上 龍、 永 康 二 年 二 月 を 以 て 此 の 堂 に 来 れ り、 斯 人 の 至 孝

に 感 ず 」 と あ る

)((

( 挿 図

( ・ 左 よ り 一 節 目 ) 。 こ の 題 記 は 祠 堂 の 建 立 か ら お よ そ 三 世 紀 後 の も の で あ る が、 観 者 た る「 申 上 龍 」 Shen shanglong が 祠 堂 を 観 覧

して抱いた感想は、出資者の願望と基本的に 一致したようだ。北魏の太和三

年 (四七九) および景明二年 (五〇一) の題記では 「孝堂」 あるいは 「孝子堂」

と こ の 祠 堂 を 呼 び

)((

( 挿 図

( ・ 第 二、 三 節 ) 、『 水 経 注 』 巻 八「 済 水 」 条 に お い ても「世に之を孝子堂と謂う

)((

」と記されている。これらの呼称は当時の通称

に 由 来 す る も の と 推 測 さ れ、 蒋 英 炬 Jiang Yingju 氏 は「 こ の 種 の 孝 子 が 建 て

挿図 ( 山東省長清県孝堂山石祠堂の後人題記 の書きおこし

(9)

美 術 研 究  三 九 五 号

た祠堂あるいは先祖祭祀の堂は孝子堂と通称され、またこれは適切であるよ

うに思われる」と述べている。また、氏はこの呼称が早くは漢魏時代に用い

ら れ て お り、 さ ら に 後 代 に い た っ て こ の「 孝 子 堂 」 が 孝 子 郭 巨 G uo Ju を 記 念して建てられた祠堂と誤解されることとなったと指摘している

)((

  しかし、仮に 漢代祠堂が出資者自身の喧伝のみを目的として建てられたも

の で あ る と す る な ら ば 、 そ れ は あ ま り に も 単 純 化 さ れ た 推 測 と い わ ざ る を

えない。祠堂内の画像と題記は異なる性格をもち、別個の伝統を背景に担っ

て い る た め で あ る。 比 較 的 早 期 の 年 代 に 属 す る 山 東 省 肥 城 市 Feichengshi の

建 初 八 年 ( 八 三 ) 祠 堂 か ら、 安 国 祠 堂 お よ び 同 時 期 の 嘉 祥 県 宋 山 小 祠 堂 ( 挿

( ) に い た る ま で、 画 像 の テ ー マ は 漸 次 増 加 し て い っ た に も か か わ ら ず、

画像はすべて祠堂正面の墓主肖像を中心として展開していることに変わりな

い。二世紀の在地社会において祠堂の建立が流行するなか、題記の語りの焦

点の変化に伴って、図像の基本的な画面構成が本源的に変化したわけではな

い。信立祥氏は墓主肖像を祠堂画像における「不変の内容」とみなし

)((

、また

楊 愛 国 Yang Aiguo 氏 も「 た と え 祠 堂 画 像 石 の そ の 他 の 題 材 の 内 容 が 増 減、

変化したとしても、墓主夫妻の肖像である楼閣拝謁図の位置は一貫して変わ

らない。これは祠堂の最も基本的な役割が一貫して変わらないことを意味し

ている」と述べている

)((

  祠堂画像の中心的テーマがかかる不変性を示す背景に は、さまざまな要因

が考えられるが、ひとつに、工人が古くからのテーマを長期にわたって踏襲

し制作していた、などといった状況も想定できよう。画像石の制作における

専門性が次第に高まっていったために、経験豊かな名工、良匠には、装飾の

内容決定に際して、相当の決定権が委ねられていた可能性がある。それに も

まして重要であるのは、ひとたび祠堂が「鬼神の在る所、祭祀の処」として

挿図 ( 山東省嘉祥県宋山後漢 ( 号小祠堂復元図と画像

(10)

漢代喪葬画像における観者の問題

の役割を失うなら ば 、もはや祠堂としての体をなさず、出資者の孝心を表象

することも叶わなくなるという事実である。ゆえに、 薌 他君の二子、 薌 無患 ・

薌 奉宗は、題記において祠堂建立の目的を表明する際に「冀わくは二親の魂

零 (霊) に依止する所あらしめんことを」と述べているのである。

  これまで、祠堂画像に 付随しうる観者に ついて考察してきたが、その身分

はさまざまであり、また「観る」立場も異なるということが知られた。しか

し、これらの多様なまなざしのために、祠堂画像が解体され、不協和音が生

じるということはなかった。それどころか、多くの祠堂画像は、依然として

完全なる統一体であって、そこではさまざまな意味内容をもつ画像もすべて

調和し、共存しているのである。厚葬の流行と画像の隆盛が、挙孝廉制度の

もと登場した売名行為としての「刹那的な」パフォーマンスであるのか、あ

るいは固定的な伝統的観念と習俗の産物であるのかは、容易に結論づけるこ

とはできない。

     二、墓室画像の観者

  祠堂に くらべ、墓室は閉鎖的な空間である。それに もかかわらず、墓室内

の画像にも、祠堂と同様に観者の問題が存在する。近年発見された陝西省綏

徳県辛店嗚咽泉 Suidexian, Xindian, M ingyanquan 後漢画像石墓の後室門洞の左

右には、以下の題記が刻されている。

   惟居上寛和貴斉殷勤同恩愛述神道熹苗裔。 (右石)

   覧樊姫観列女崇礼譲遵大雅貴□□富支子

)((

。 (左石) (挿図

( )

惟だ上に居て寛和にして、斉しく殷勤たるを貴 ば んことを。恩愛を同じ くして、神道を述べ、苗裔を熹かさん。 樊姫を覧じ、列女を観ずれ ば 、礼譲を崇び、大雅に遵わん。貴□□、支

子を富ましめん。

  左 石 の 題 記 に は、 「 覧 」 と「 観 」 の 二 つ の 動 詞 が 含 ま れ る が、 残 念 な こ と

に主語は省略されており、ここでの観者が誰を指し示すのか、文中からは判

断できない。

  漢代に おいて、墓室は死者の遺体を安置する場というだけではなく、死者

の霊魂がなお生き続ける場でもあった。この空間には、死者のために死者が

生前所有していたもののみならず、所有することのなかったものの一切、す

なわち美酒佳肴、荘園官庁、宝馬に華車、男女の召使い、楽舞百戯などが用

意され、死者がここより旅立って、天門を越え神仙の住まう楽土へ昇仙する

と信じられた。 捧げられた品々に は副葬品で表象されるものもあれ ば 、壁画 ・

挿図 ( 陝西省綏徳県辛店嗚咽泉後漢画像石墓題記

(11)

美 術 研 究  三 九 五 号

0

画像石・画像磚などの形式で表象されるものもあった。また、この死者の小

世界には家庭の温もりに満ちた面もあれ ば 、恐怖を感じさせるような面も存

在した。 『楚辞』招魂賦では、地下のさまざまな怪物について、 「魂よ帰り来

れ。君此の幽都に下ること無かれ。土伯九約す。其の角は疑角たり。敦恢血

拇にして、人を逐ふこと 駓駓 たり。参目虎首にして、其の身は牛の若し。此

れ皆人を甘しとす。帰り来れ、帰り来れ。恐らくは自ら災を 遺

)((

ら ん

)((

(補註

」 と詠じ

られているが、墓は地下世界に属するために、つねに数々の脅威に晒される

状況にあるとみなすこうした観念は、漢代の思想に深く影響を及ぼし、一種

の対抗措置を生み出した。たとえ ば 、諸侯王・列侯などの「大喪」では「熊

の皮を蒙り、黄金四目にして、玄衣朱裳、戈を執り盾を揚ぐ」と描写される

方相氏が、墓中に入り、戈で四隅を撃ち、方良などの怪物を駆逐することが

慣例とされ た

)((

。一般人の墓においても、毒をもって毒を制する、辟邪が災い

を除くとする論理のもと、魁偉な容貌の鎮墓獣ないし類似の画像を配置する

ことが行われた。これらの儀礼によってはじめて、死者は地下世界における

安寧を保証され、生者は不安から解放されたのである。

  古代漢民族は、死後の世界を数々の素晴らしいイメージで充溢させたが、

この実証不可能な想像などでは、結局のところ死の恐怖を払拭することは叶

わなかった。当時、人間は最も近しい人であっても、その死後には別世界の

存 在 へ と 変 容 し う る 存 在 と 考 え ら れ て い た。 『 論 衡 』 訂 鬼 篇 に お い て、 王 充

W ang Chong は「 凡 そ 天 地 の 間 に 鬼 有 る は、 人 死 し て 精 神 之 と 為 る に 非 ざ る なり、皆人の思念、存想の致す 所

)((

な り

)((

(補註

」 と説き起こし、人の死後にその精神

が鬼となり、この死鬼が折々に生者を脅かすとする当時の一般的な認識をよ

く伝えている。後漢から魏晋の時期において、道教的性格をもつ鎮墓文の役

割はこうした脅威をすみやかに除去することにあり、生者と死者は路を異に し、互いに妨害してはならないとの旨が文中で幾度となく強調され る

)((

。漢代

の墓に「長く幽冥に就け ば 則ち決絶し、閉壙の後、復た発かれざら ん

)((

」など

の句が掲げられる背景として、こうした観念の存在をも無視することはでき

ないだろう。

  およそ墓室は固く閉ざされ、盗掘を防御する完璧な設備を備えていたもの

の、副葬品である金銀珠玉の財宝はなお盗賊の一攫千金の夢を煽っ た

)((

。古代

漢民族が常時墓中で祭祀を行う習俗を有していたことを証明するには、現在

のところ充分な根拠がないが、墓室内には祭祀具一式が副葬されていたこと

から、墓を閉ざす前に一時的に祭祀に用いた可能性も十分に考えられる。筆

記小説には、俑が地上で祟りをなすといった怪異譚がし ば し ば 収載されてい

るが、そこには墓からの出土品をひたすらに恐れ、接触を回避しようとする

生者のさまが描き出されている。

  物質的存在と観念的存在との峻別は、まさに 地下墓室と地上世界との隔た

りが明瞭に意識されていた状況をあらわすものであろう。したがって一般的

には、およそ墓は公共の場ではなく、死者が個人的に占有する私的な空間で

あったと考えてよいと思われる。さまざまな壁画は、喪葬儀礼を構成するも

のであり、また生者が死者に献じたものであり、死者のみが「観る」ことが

できるものなのである。

  陶淵明 Tao Yuanming 「挽歌詩」三首の二には、次のようにある。

在昔無酒飲    在昔酒の飲むべき無く

今但湛空觴    今は但だ空觴に湛うるのみ

春醪生浮蟻    春醪浮蟻を生じ

何時更能嘗    何れの時にか更に能く嘗めん

一〇

(12)

漢代喪葬画像における観者の問題

肴案盈我前    肴案我が前に盈ち

親旧哭我傍    親旧、我が傍に哭す

欲語口無音    語らんと欲するに口に音無く

欲視眼無光    視んと欲するに眼に光無し

昔在高堂寝    昔は高堂の寝に在りしに

今宿荒草郷    今は荒草の郷に宿す

一朝出門去    一朝門を出でて去ら ば

帰来夜未 央

)((

   帰来夜に 未だ央 き

)((

(補註

  陶淵明は知識人として、 死の意味 を冷静に受けとめていたようだ。彼は 「語

らんと欲するも口に音無く、視んと欲するも眼に光無し」と嘆ずるが、自身

を死者に擬するにもかかわらず、眼は「光無」く「視んと欲」するというの

は、いささか腑に落ちない。

  墓中に 描かれた画像のなかに は墓主肖像も存在するが、この画像の死者は

決して「視んと欲するに眼に光無」き白骨ではなく、色鮮やかな生者の姿を

とっている。これらの像は、墓中において美食を堪能し、眼前の楽舞を鑑賞

するといった別世界で続けられる墓主の「生活」を具体的に表象するもので

あ る。 墓 主 に と っ て、 墓 中 で 捧 げ ら れ た 画 像 は た だ の「 形 象 」 ( image ) で は

なく、リアルな財産なのである。

  これに 関連して、リディア ・ トンプソン L ydia Thompson 氏が興味深い実験 を 行 っ て い る。 氏 は、 山 東 省 沂 南 県 Yi ’nanxian の 後 漢 墓 の 立 体 模 型 を 計 測 制

作し、この模型を利用して死者の位置に立ってみるなら ば 、棺の安置された

後室から前室を「一望」することができ、石梁上の画像の方向、配置、題材

はみなこの死者の「まなざし」に沿うものであることを明らかにし た

)((

。   そ し て わ れ わ れ は、 東 晋 の 文 学 者 陸 機 L u Ji の「 挽 歌 詩 」 三 首 に こ う し た

観念を見いだすのである。注目すべきは以下のくだりである。

重阜何崔嵬    重阜は何ぞ崔嵬たる

玄廬竄其間    玄廬は其の間に竄る

磅礴立四極    磅礴として四極を立て

穹隆放蒼天    穹隆として蒼天に放ふ

側聴陰溝涌    側に陰溝の涌くを聴き

臥観天井懸    臥して天井の懸るを観る

壙宵何寥 廓

)((

   壙宵は何ぞ寥廓 た

)((

(補註

  陸機もまた、死者の口吻を模して墓中の情景を叙述しているが、ここで死

者 は「 聴 く 」 こ と、 「 観 る 」 こ と が 可 能 な 存 在 と し て 描 か れ て い る。 こ の 詩

文により、死者は地下世界で生き続けており、その感覚は依然として生前と

同様に 機能していると、古代漢民族がみなしていたことが理解されよう。

  もっとも、これと対立する見解が存在していた点を無視することはできな

い。魏の文帝曹丕 Cao P i は、 「骨は痛痒の知無くして、 冢は栖神の宅に非ず」

「棺椁は以て朽骨に足るを為り、衣衾は以て朽肉に足るのみとせ ん

)((

」などと

述べて、薄葬を主張した。しかしながら、このことは画像を用いて装飾とし

た厚葬の習俗と、死者が知覚をもつとする観念との相関関係を、むしろ証明

する事例とみなすことも可能ではないだろうか。

  考古資料に 通暁した者なら ば 、陸機のこの詩文の叙述と同時期の墓室の構

造との間に、意外なほど符合する部分がみられることに気づかされるであろ

う。例え ば 、墓室のドーム状の天井、そこに描かれた天文図、排水溝など、

一一

(13)

美 術 研 究  三 九 五 号

すべて六朝期の墓の特徴であ る

)((

。単純な事実として指摘しうるのは、作者た

る陸機は生身の人間であったということである。では一体、彼はいかに墓室

内のすべてを把握しえたのであろうか。これについては、以下の推論を提示

したい。陸機はいうまでもなく自分の手で墓を造営する工人ではなく、文人

であったものの、常に墓を目にする機会に恵まれていたのではなかろうか、

というものである。

  ここで『後漢書』趙岐伝に みえる、 趙岐 Zhao Qi が自らの「寿蔵」に絵を

描かせた事跡を参照したい。

( 岐 ) 先 自 為 寿 蔵、 図 季 札、 子 産、 晏 嬰、 叔 向 四 像 居 賓 位、 又 自 画 其 像

居主位、皆為賛 頌

)((

( 岐 ) 先 に 自 ら 寿 蔵 を 為 り、 季 札、 子 産、 晏 嬰、 叔 向 の 四 像 を 図 し て

賓 位 に 居 ら し め、 又 自 ら 其 の 像 を 画 き て 主 位 に 居 ら し め、 皆 な 賛 頌 を

)((

(補註

る 。

  これは、漢代の墓室画像のうち正史に 記載された唯一の作例である。趙岐

は純粋に「個人的行為」に属することがらを、いかにして世間に流布したの

であろうか。ひとつの可能性として、趙岐が自ら記録に残したということ、

さらに大きな可能性として、他者が墓の閉ざされる前にこれらの画像を目に

したということが指摘できよう。これにより、墓室壁画には墓主以外の観者

が存在するとの仮説が設定可能となる。

  この仮説は、近年の考古学上の新発見が証明しうるものではないかと思わ

れ る。 最 近 報 告 さ れ た 陝 西 省 旬 邑 県 百 子 村 X unyixian, Baizicun 出 土 の 後 漢 壁 画墓は、この問題に関する新たな手がかりを提供している。この墓は長く傾 斜した墓道と単天井の磚室で構成されている。壁画の内容はバラエティに 富

むもので、 題記には某 「 邠 王」 の墓と刻されている。 「 邠 」 は 「豳」 字であり、

『後漢書』郡国志の「橋邑に豳郷有 り

)((

」の記述より、周の祖先たる公劉の故

地と知られる。墓の甬道の両壁には、門を守る力士像が描かれ、その外側に

題記が朱書されている。

   諸観者皆解履乃得入。 (挿図

( )    諸欲観者皆当解履乃得入観 此

)((

諸もろの観る者、皆な履を解きて乃ち入るを得ん。

諸もろの観んと欲する者、当に皆な履を解きて乃ち入るを得、此を観る

べし。

  先秦から漢魏に かけては、履物を脱ぐ行為は尊い人物に 面会する際の礼儀

であり、同時に室内では床に敷物を敷きその上で生活する習慣が、この頃に

は定着していた。例え ば 『礼記』曲礼には「長者に侍坐するときは、履きて

堂に上ら ず

)((

」 とあり、 ここから 「解履」 という語に 出仕するとの意が生じた。

この意味での用例としては、 『北斉書』文苑の「未だ冠を成さずして登仕し、

財かに履を解き以て従軍 す

)((

」との記述がある。ただ、百子村墓の題記にみえ

る「解履」の語は本来の意味で用いられていると考えてよいだろう。墓は死

者の邸宅に等しいとされたため、観者は履物を脱いで墓に 入り、死者に 対す

る敬意を表するのである。この二行の題記は、門を守る力士像の傍らに記さ

れてはいるが、この画像の解説ではない。力士像からさらに近い場所に「 邠

一二

(14)

漢代喪葬画像における観者の問題

王力士」との題記が別に存在するためである。言うところの「諸観者」ある

いは「諸欲観者」は複数形表記であり、墓主のみを指すのではなく、外部か

ら墓室に進入する生者らを指していることは明白である。これによって、少

なくとも後漢時代には、墓はプライヴェートな空間のみに留まるものではな

く、壁画の完成後又は墓主が埋葬される前に、墓室が公開され、人々の観覧

に供される機会が存したことが理解される。

  後 漢 時 代 に お け る 墓 を 公 開 す る 習 俗 は、 当 時 の「 挙 孝 廉 」 の 制 度 と 関 わ

り を も つ 可 能 性 が あ る。 楊 樹 達 Yang Shuda 氏 は、 漢 代 の 喪 葬 に 関 す る 文 献

の関係史料を渉猟し、この時代には皇帝が生前に寿陵を造営しただけではな

く、臣民もし ば し ば 自らの墓地を営んだとの史実を見いだした。こうした行

為 が 記 録 に 残 さ れ た 人 士 に は、 大 臣 の 霍 光 H uo G uang 、 張 禹 Zhang Yu 、 文 人の馮衍 Feng Yan 、趙岐、孔耽 K ong D an 、宦官の侯覧 H ou Lan 、趙忠 Zhao Zhong な ど が あ げ ら れ る。 ま た 一 般 に は、 人 は 死 後 す み や か に 埋 葬 さ れ る わ

けではなく、埋葬までの期間は七日から四百日余りにいたるものまでさまざ

まであった

)((

。生前に自身の墓を造営する寿蔵の風習や、殯の期間を設けて埋

葬 を 待 つ 葬 法 に よ っ て、 生 者 が 墓 室 に 入 り 壁 画 を 見 る 機 会 が 生 じ た の で あ

る。さらに、死者を送る際には、死者の友人・故吏・門生など多くの客人が

参加した。王符が記す「寵臣貴戚、州郡世家、喪葬有る毎に、都官属県、各

の 当 に 吏 を し て 奉 を 齎 し む。 車 馬 帷 張、 待 客 の 具 を 貸 仮 し、 竟 に 華 観 を 為

)((

」といった状況である。碩儒として名高い鄭玄の葬礼では会葬者が千人余 に の ぼ っ た と い う

)((

。 墓 の 扉 が 閉 ざ さ れ る 前 に 墓 中 の 芸 術 の 鑑 賞 者 た る こ と

は、万人に開かれていたのである。

  『後漢書』陳蕃 Chen Fan 伝は、住民の趙宣 Zhao Xuan が親を埋葬したもの

の、地下の墓道を閉じずに墓室内で二十年余りもの間服喪していた話を伝え

)((

。趙宣なる人物はこの行為によって在地社会で虚名を得たが、彼が孝行を

アピールした舞台もまた地下の墓室であった。

  ここで注目すべきは、陝西省北部出土の画像石

)((

(補註

墓の構造である。これらの

墓において画像の大半は墓門あるいは門框、門楣等に 集中しているが、これ

らは外部に向けられている場合が多く、墓主の「まなざし」からは逆の配置

となる。これは、緻密に刻された図像を墓室への進入者に対して示すには非

常に適した配置といえよう。

  以上をふまえ、出資者の心情を推測するなら ば 、ある面では死者の霊魂の

ために、また別の面では当時の生者のために、墓室装飾を設置していたと考

えてよいだろう。祠堂と比較した場合、題記において明瞭に観者に言及する

墓の出土例は決して多くはないが、これは墓と祠堂とでは公開の度合いが明

らかに異なるとの事情に由来する可能性もある。百子村墓の題記は比較的簡

略であり、 観者の身分、 墓室の公開時間など細部については知りえないため、

これに 関してはさらなる資料に よって解明されることが待たれる。

  このほか、近年の数々の考古学的発見に よって、さらに 複雑な状況が明か

されつつある。一九八七年から一九九一年にかけて発掘された河南省永城県

柿 園 Yongchengxian, Shiyuan 出 土 の 梁 王 陵 は、 現 段 階 で は 最 も 早 期 の 壁 画 墓

であり、その造営年代は紀元前一三六年から紀元前一一八年の間とされてい

)((

。この墓の天井部分からは完全な保存状態の巨大な壁画が発見されている

が、主室の四方壁の天井と接する四辺の部分には溝がめぐらされており、そ

挿図 ( 陝西省旬邑 県百子村後漢壁画 墓甬道東壁壁画及 び題記

一三

(15)

美 術 研 究  三 九 五 号

こから腐朽した木片が発見された。よって、当初は木で組まれた天井が存在

し、これは天井壁画をあたかも遮蔽するような形で構築されていたと推測さ

れ る

)((

( 挿 図

( ) 。 こ の 出 土 状 況 か ら 鑑 み る に、 喪 葬 儀 礼 の 参 加 者 は 墓 室 に 進

入したとしても、この壁画を目にすることはなかったのではなかろうか。亡

き梁王のみがこの図像の存在を感知することが可能であったとするなら ば 、

これは死者が「観る」方法と生者のそれは異なることを示すものかもしれな

い。   さらに 蓋然性の高い推測としては、この壁画が神仙に 対してのみ意味をも

つ存在であったのではないかということが考えられる。ここで、同時期に宮

中で生じた新たな芸術の動きを、この仮説を間接的に補強しうるものとして

提示してみたい。仙人を希求した前漢の武帝の治世には、東方の方士が蝟集

し「致物」の方術を言上した。それによれ ば 「上即し神と通ぜんと欲せんに は、宮室被服、神に象らずん ば 、神物 至

)((

ら じ

)((

(補註

」 といったものが具体的な方策

であった。この理論に基づき、武帝は「乃ち雲気を画ける車を作り、及び各

おの勝日を以て車に駕して悪鬼を辟く。又甘泉宮を作り、中に 台室を為り、

天・地・太一の諸鬼神を画きて、祭具を置き、以て天神を致さんとす」など

の実践を試みたのである。

  ここで示される甘泉宮の壁画は、天の神に 対してのみ意味をもつものであ

った。これにより、死すべき人間を仙人が迎接し、上天へと導くとされたの

である。 「宮室被服、 神に象らずん ば 、 神物至らじ」と信ぜられていた以上、

墓室内の仙境怪異の画像も同様に 、必ずや天より神仙を招来せしめんとの期

待から創り出されたものであろうことは想像に難くない。これ以降、墓室は

二つの機能を担うように なったのではなかろうか。すなわち、遺体を安置し

各種の副葬品を納める空間であるとともに、死者および副葬品の背景として

そこに虚構の仙境を現出させる空間でもあるのだ。以上述べ来たったところ

に 照 ら せ ば 、 墓 室 に は、 現 実 世 界 の「 鏡 像 」、 そ し て 仙 界 へ 通 ず る 橋 と い う

二つの機能が附与されていたことが理解されるのであ る

)((

     おわりに

  観者に 関する問題は、喪葬芸術の機能と主題の理解に おいても大きな影響

を及ぼすものであり、漢代画像を研究するうえでの基礎的な問題である。一

箇の儀礼のうちで、観者と図像とが補完し合い形成されてゆく一種の相互作

用関係が成立していたことが明らかとなった。あるときには、図像が観者の

思考に影響を及ぼす場合があり、たとえ ば 陝西省綏徳県出土の嗚咽泉墓題記

などでは、図像を観ることによりもたらされる感化作用が強調されている。

またあるときには、受容する側の変化が図像内容の選択と形式に 影響を及ぼ

挿図 ( 河南省永城県柿園梁王陵主墓室の見取り図(筆者作成)

 

 

三号側室

N

一四

(16)

漢代喪葬画像における観者の問題

す 場 合 も あ り、 そ の 一 例 と し て 北 魏 の 酈 道 元 Li D ao yuan に よ る、 先 に 取 り

あ げ た 趙 岐 の 墓 室 壁 画 に つ い て の 解 釈 が あ る。 す な わ ち、 「 ( 郢 ) 城 中 に 趙 台

卿の冢有り、岐の平生より自ら営む所なり。冢に賓主の容を図し、情好を存

し、其の宿尚を叙ぶるに用 う

)((

」と記し、趙岐の墓室壁画を他者が観覧するな

ら ば 、この題材の選択には「志を述べる」という意義を見いだせると解した

のである。また祠堂には、墓主の生前の経歴を反映させた画像がみられる。

山東省嘉祥県の武梁祠東壁の下層には「県功曹」が「処士」を招聘する場面

が描かれ、これは武梁碑中の「州郡請召するも応じず、辞疾して就かず」の

記 述 と 重 な り 合 う。 さ ら に 、 武 栄 W u Rong 祠 堂 で あ る 武 氏 祠 前 石 室 で は、

大画面の車馬出行図が東西の側壁を貫き、後壁上部、その前壁を支える軒柱

の内側と三角隔梁石両側面にも車馬出行図が配されている。この出行図の題

記も、碑文に記録された武栄の事跡と符合す る

)((

。信立祥氏は、武氏祠前石室

のタイプの車馬出行図について考察を深め、山東省長清県の孝堂山石祠堂の

上 部 の 車 馬 行 列 は、 墓 主 が「 大 王 ( 諸 侯 王 ) 」 の 出 行 に 随 行 員 と し て 参 加 し

た生前の経歴の記録であり、その人生で最も栄誉あるイベントを祠堂に 掲げ

たものであるとした。氏は、また「墓主の生前で最も栄誉あるイベントを表

現した車馬出行図と「墓主が祭祀を受ける図」との間には図像学的意義の上

で必然的な繋がりはなく、祠堂画像の中でも可変的な部分に属する」と指摘

し て い る

)((

。 観 者 の 立 場 か ら 考 察 を 試 み る な ら ば 、 こ の 種 の 画 像 が 存 在 す る

意 義 は 容 易 に 理 解 さ れ よ う。 同 様 に、 内 蒙 古 自 治 区 ホ リ ン ゴ ー ル 県 H elinge ’

er xian の 新 店 子 小 板 申 Xindianzi, Xiaobanshen 漢

)((

)(補註((

墓 の よ う に 他 者 の 進 入 が 可 能

であった墓室においては、こうした墓主の生前の事跡を表現した図像の目的

は明白である。これらは広く死者本人の功績を喧伝するものであり、その結

果、墓主の子孫が社会的地位を築きゆく過程で重要な拠所ともなりえた可能 性もある。このように、漢代の祠堂と墓は当時の社会のコンテクストのなか にあり、観者の立場より画像が制作された動機や画像の内容を理解しようと する試みは、いっそう重視すべき有効な手法であるのだ。   観者がいかに 観たか、という点に 関しては、これはまた別の問題であり、

本稿で検討すべきことではない。ちなみに、出資者の策略に満ちたふるまい

は、王符のたぐいの観者から手厳しい批判を不本意にも蒙ることとなった。

だが、北斉時代に孝堂山祠堂が孝子郭巨の記念堂とひとたび誤解されたため

に、その後千年余りも誤解され続けることとなった事例からも承知されるよ

うに、そうした状況など、出資者はどうして予測できただろうか。

註(

Press, 1995, pp . 189-250

.

W u H un g, M on um en tali ty i n E arl y C hin ese A rt a nd A rch itec tu re , S tan for d: S tan for d U niv ers ity

() 

( 頁 () 洪興祖『楚辞補注(重印修訂本)』(北京・中華書局、二〇〇二年)八五〜一一九

( 五二七〜五三三頁 () 費振剛・胡双宝・宝明華輯校『全漢賦』(北京・北京大学出版社、一九九三年)

( る。 建築や画像の具体的なディテールは石工が慣例に従って決定するといった次第であ とえば、出資者は規模などのおおまかな指示を出すにとどめて資金提供に専念し、 といった次第である。またある時には、設計者と施工者が一致する場合もあり、た る場合があり、たとえば、出資者が図像のテーマを提示し、石工が実際に施工する、 () ここにいう制作者とは、設計者および施工者をも含む。設計と施工とは分業され

O rientations 35.2 (2004): 90-7

.

Eu ge ne Y . W an g a nd Z he ng Y an , “ R om an cin g t he S to ne : A n A rch w ay in S ha nd on g,”

  照のこと。 例に関する討議を行ったが、これはこの分野における研究の一例である。以下を参 種の形式の言説(口承、文献、図像表現など異なる媒体をも含む)を生み出した事

Eugene Y. W ang

() かつて汪悦進()と筆者は、清代の牌坊について後世の観者が各

一五

(17)

美 術 研 究  三 九 五 号

 鄭岩・汪悦進『庵上坊︱口述・文字和図像』(北京・生活・読書・新知三聯書店、二〇〇八年)(

( 九七頁  蒋英炬・呉文祺『漢代武氏墓群石刻研究』(済南・山東美術出版社、一九九五年) 代画像石研究』所収、北京・文物出版社、一九八七年)一八五頁  信立祥「論漢代的墓上祠堂及其画像」(南陽漢代画像石学術討論会弁公室編『漢  『論衡』(『諸子集成』第七冊所収、上海・上海書店、一九八六年)二二八頁 この記述を用いて祠堂の機能を論証してきた。 祠堂をも含めた喪葬建築全てを指すものであることが理解される。よって、先学は 「古礼廟祭、今俗墓祀」とある。ゆえに、この「墓」の字が決して墓室のみではなく、 () 王充『論衡』四諱篇には「墓者、鬼神所在、祭祀之処」とあり、この文の前には

(  「古者明器有形無実、示民不用也」『塩鉄論』散不足(『諸子集成』本)三四頁 注疏』所収、北京・中華書局、一九八〇年)一三〇三頁 () 「孔子謂為明器者、知喪道矣。備物而不可用也、哀哉」(『礼記』檀弓下、『十三経

( () 洪适『隷釈・隷続』(北京・中華書局、一九八五年)一六八〜一六九頁

( 六二・六三・一六八頁 本精選集』(台北・中央研究院歴史語言研究所、二〇〇四年)拓本番号二八一一一、  文物図像研究室漢代拓片整理小組『中央研究院歴史語言研究所蔵漢代石刻画像拓 () 生克昭『滕県金石志』(北京・法源寺刊本、一九四四年)二九頁

( 八〇頁 (0) 羅福頤「薌他君石祠堂題字解釈」(『故宮博物院院刊』総第二期、一九六〇年)一

( (() 李発林『山東漢画像石研究』(済南・斉魯書社、一九八二年)一〇二頁

( 中国社会出版社、二〇〇四年)五三五頁 (() 江継甚「漢画題榜芸術」(朱青生主編『中国漢画学会第九回年会論文集』所収、北京・

((

W u H ung

) 註

pp . 195.

(前掲書

(() 蒋英炬「孝堂山石祠管見」(註

( (前掲『漢代画像石研究』所収)二一三頁

( (() 信立祥『漢代画像石総合研究』(北京・文物出版社、二〇〇〇年)八二頁

( 一九八二年)図四七二 (() 山東省博物館・山東省文物考古研究所『山東漢画像石選集』(済南・斉魯書社、

((

W u H ung

) 註

pp . 193-200.

(前掲書

( (() 『潜夫論』務本篇(『諸子集成』本)九頁

( (() 『潜夫論』浮侈篇(『諸子集成』本)五七頁

(0) 註

((前掲書、五七頁 (

(() 羅福頤註

( (0前掲論文、一八〇頁

(() 李発林註

( ((前掲書、一〇二頁

( 冊、早稲田大学美術史学会、一九九七年) (() 加藤直子「ひらかれた漢墓︱孝廉と﹁孝子﹂たちの戦略」(『美術史研究』第三五

( 〇〇二年九月二九日、邢義田氏より筆者に送られた電子メールより) スでもあった。﹁観者﹂は多重的なものであり、死者でもあり、生者でもある。」(二 覧を受けた。これは一種の﹁パフォーマンス﹂の機会であり、名声を博するチャン がしばしばあった。完成までの過程では、在地社会の関心を集め、人々の訪問、観 材は、組み立てられる前に墓の傍らで、名工を雇い、何ヶ月もかけて製作すること したニュースは在地社会の住民の間に自然に広まっていった。石造墓を構成する石 の家に死者が出たか、誰が墓を造営しているのか、またいかに造営するのか、こう 墓はしばしば集落、田地の付近にあった。(たとえ)親戚や旧友でなくとも、どこ  「われわれは未だに当時の人々の生態を想像することができないようだ。漢代の (() 邢義田氏より、本稿の査読後に以下のご指摘を賜った。

(() 李発林註

( ((前掲書、一〇一〜一〇二頁

( (() 費振剛・胡双宝・宗明華輯校『全漢賦』五二八〜五二九頁

( 央研究院歴史語言研究所集刊』第七五本第二分、二〇〇四年)参照。  邢義田「允文允武︱漢代官吏的一種典型︱﹁郡県時代的封建余韻﹂考論之一」(『中 て、文学は官僚たるうえで必須の基本的教養でもあった。 (() この題記には美辞が並べ立てられ、技巧を誇示するかのようである。漢代におい

( れは工人に関する問題であろう。 ら安国祠堂の画像は四宇の小祠堂と同一の制作者である可能性が考えられるが、こ 安国祠堂の画像の様式がこれら小祠堂のそれと近似している点である。このことか 画像石が、異なる祠堂に共通して用いられているためである。最も注目すべきは、 る。同様の内容をもつ画像石、顕著なものでは基となった粉本が同一と推測される  これら複数の祠堂の画像は、様式からみて同一の工人集団によるものと考えられ 七四一〜七五一頁)  蒋英炬「漢代的小祠堂︱嘉祥宋山漢画像石的建築復原」(『考古』一九八三年八期、 全な小祠堂として復原に成功している。以下を参照のこと。 (() 安国祠堂題記と同時期に出土した嘉祥宋山画像石は、すでに蒋英炬氏が四宇の完   李発林註 (() 安国祠堂題記に示される語句である。

( ((前掲書、一〇二頁参照。

(0) 蒋英炬註

((前掲論文、二〇五頁 一六

参照

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