• 検索結果がありません。

パトリス・ルコントとインド映画

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "パトリス・ルコントとインド映画"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

桑  原  隆  行

パトリス・ルコントとインド映画

プロローグ

 始まりはフランスの映画監督パトリス・ルコントの初 めての小説『ショートカットの女たち』(春風社)を翻 訳出版できたことにある。ルコントがインド映画好きで あることを知った。実際、ルコントはインド映画の女優 アイシュワリャ・ライを起用してロレアルのコマーシャ ル・フィルムを撮影できたことをとても喜んでいる。さ らに、『ショートカットの女たち』の中では、主人公ト マと文房具店の4人の女性たちにボリウッド映画(イン ド映画の一つ)私が最初そうだったようにハリウッ ド映画の間違いでは、と勘違いしないでいただきたい のDVDを観て楽しむ土曜日を用意してくれている。

 さらに、『ショートカットの女たち』の装丁をしてく ださった矢萩多聞さんもインド好きであり、『インド・

まるごと多聞典』(春風社)という対談集を出している。

この本からは多くを教わった。今も、この小論を書きな がら時々参照させてもらっている。引用もさせてもらっ た。決定的だったのは、ルコント二作目の小説『リヴァ・

ベラ』(春風社)を訳す幸運に恵まれたことである。そ して、この本の素敵な装画を描いてくださった漫画家グ レゴリ青山さん(女性)装丁・レイアウトは矢萩多 聞さんがインド映画ファンであることを知った。(実 は、『インド・まるごと多聞典』にグレゴリさんの名前 が出てくる。)グレゴリさんの漫画『マダムGの館 月光編』(小学館)にはボリウッド映画のことが紹介さ れてある。これは大いに参考になった。帯にあるように

「美という名の別世界へ」「連れて行って」もらった。『グ 印観光』(メディアファクトリー)にはニヤッとさせら れる。『旅のグ』(旅行人)もいい。中に描かれてある「上 海の新亜ホテルにあった青島ビールの生だる」、「タイの 南部、ヤラーという町で見かけた入れ歯の看板」、「ベト ナムはサデックの市場のヘアスタイルがファンキーなぼ

ん」、「マレーシアはマラッカの路地裏のせんたくもの。

何やら現代芸術のようなおもむきがありました」等々の 絵が好きだ。『愛人』の作者マルグリット・デュラスを 巡るベトナムの旅を描いた漫画にも関心を引かれた。フ ランス文学を教えていながらデュラス関連の地を訪れた ことのない私に若干の羨望の念を抱かせる。

 私が訳した小説の出版にインド好きの人たちが関わっ ていたこういう偶然には喜んで身を任せるべきだろう。

だから、私はボリウッド映画の、そしてそれ以外にもイ ンド映画のDVDを集中的に観た。楽しむことができた。

観ていると連想がついつい『リヴァ・ベラ』に運ばれて いく。画面を『リヴァ・ベラ』の様々な場面に重ね合わ せて観ている自分に気づくのだった。それで、想像して みた。私が観た映画をルコントも観たと仮定しよう。そ の映画的特徴・手法が深く彼の心に残り、それが時間を かけて発酵して自然に知らないうちに浮上するように、

『リヴァ・ベラ』で小説的特徴・手法として転換利用さ れていると仮定してみる。ただの仮定だ、単なる想像に すぎない。確認も証明もできない。けれども、ボリウッ ド映画のようなインド映画と『リヴァ・ベラ』には同じ ような雰囲気、共通した空気のようなものを感じてしま うのだ。さて、その似たような感じの依って来たるとこ ろ、その正体を思いつくままに明らかにしていく。ボリ ウッド映画のポスターにつられて、ふらりと映画館に入 って気楽な時間を過ごすような調子で最後まで読んでも らえれば、うまく舞台を終えたときの『リヴァ・ベラ』

のトニのように嬉しい。

ある種のインド映画

 ボリウッド映画という言葉を用いてきたのだが、まず、

『マダムGの館』に書かれてある説明を借用させてもら う。それによればボリウッド映画とは「世界最大の映画

「本にない教えの数々を教えてくれるのは凧」 (『チャンドラムキ』)

「少しの間甘い言葉をささやいてはダメ?」 (『チャンドラムキ』)

強情に揚がってくれない凧を追いかけてその少女も走っている。

(『リヴァ・ベラ』)

「ただ自分の胸に問いかけてみて、あなたが『愛している』と

 最後に言ってくれたのはいつだったかしら?」 (『リヴァ・ベラ』)

(2)

大国インドのムンバイ(旧ボンベイ)で製作されている ヒンディー語映画」のことであり、「ボンベイのハリウ ッドということで」ボリウッドと呼ばれている。ト マの友達アンドレはボンベイに旅立つ(『ショートカッ トの女たち』))。彼が見つけた花嫁は女優で歌姫だと書 かれている。きっとボリウッド映画の女優さんに違いな い。私が観たDVDにはタミル語の映画も入ってい る。厳密には、ボリウッド映画とタミル語映画という風 に区別しなければならないことになる。以後、できるだ けそう努めたいとは思うけれども区別を忘れた言い方を してしまうかもしれない。そのときはお許し願いたい。

私が用いるタミル語映画という言い方もボリウッド映画 という言い方も、ここでは歌と踊りが大きな比重を占め るタイプのインド映画を主に表わしていると理解してほ しい。

 私が観たのは『家族の四季』、『チャンドニー・チョー ク・トゥ・チャイナ』(以上ヒンディー語)、『アルナー チャラム 踊るスーパースター』、『パダヤッパ いつで も俺はマジだぜ!』、『チャンドラムキ 踊る! アメリ カ帰りのゴーストバスター』(以上タミル語)。

 これらの映画はどれも長い。いずれも150 〜 180分で、

『家族の四季』にいたっては210分ある。最初にこの時間 表記を目にすると、観る前に敬遠してやめてしまう人が いるかもしれない。これらの映画の長さは退屈とは無縁 なのに。残念だが仕方がない。あなたは笑いも涙もある 豪華で豊饒で、悲しくもあり陽気でもある、ワクワクさ せる人生のような映画とは無縁な運命だったのだ。それ らの映画の長さは歌や踊りを全部カットすれば、大幅に 短縮できるのではと言う訳知り顔の効率主義者がいるか もしれない。確かに。でも、ただ短くするためだけに歌 と踊りがカットされるとすれば、それはタミル語映画も ボリウッド映画も自らの特徴を意味もなく放棄すること と同じだ。それは逆に明確な意図と主義を持って歌 と踊りを封印しつつも全体を短縮したりせずに、162分 という長さの映画『マイネーム・イズ・ハーン』を撮っ たカラン・ジョーハルの例を見ればよく分かる。そ れに、映画の楽しさを教えてくれるインド映画を長いと いう理由だけで観ないのは、ワクワクする長編小説を読 むのを最初から諦めるみたいなものだ。無理強いするつ もりはない。長編を読むという充実した濃密な長い時間 を味わうチャンスを自ら放棄するなんて。残念だが仕方 がない。人それぞれだしね。さて映画ごとに、『リヴァ・

ベラ』からの引用も交えて見ていく。(順序は必ずしも 私がDVDを観た順序通りではない。私が語りやすい順 序にしてある。)映画から『リヴァ・ベラ』へ、『リヴァ・

ベラ』から映画へと移り行く私の連想の往復運動のさま が綴られることになるだろう。

『アルナーチャラム』

 さきに言っておくと、『アルナーチャラム』、『パダヤ ッパ』、『チャンドラムキ』はラジニカーントというスー パースターが主演の映画である。ともかく、驚異的なノ リノリのすごい踊りを披露している。「ラジニ兄貴」の 驚異的な踊りは、私の連想を『リヴァ・ベラ』の踊りが 苦手なトニと上手いオッタヴィオの対比性へと運ぶ。

 あの下衆野郎は踊りがうまかった。トニはそい つが以後彼のライバルになるとは一瞬たりと想像 できなかったのだが。あの下衆野郎はスュジーに いくつか基本ステップをやってみせた。彼女は笑 った。

 踊りはそれだけで誘惑的なのに、上手いとなると言葉 以上に官能を刺激する雄弁で情熱的な口説きになる。そ の時点で勝負はついている。トニが妻スュジーを下衆野 郎に奪われる物語構造が準備されるのだ。

 映画のアルナーチャラム(ラジニカーント)はヤモリ、

サソリ、ヘビそれにしても何とも土着性、地域性を イメージさせるではないか、そして愛の小道具バラ などをマジシャンのように出してみせる。その映像を私 は楽しむ。なんだかトニみたい、でも本当のマジシャン、

トニのほうがすごいぞと思う。種類はもっと段違いに多 いし、自分以外の人のポケットからでも出してみせるこ とができるからだ。以下が、その文章による驚きの品々 の小説的羅列描写の例。

 滑稽な二つのパントマイムの間に、彼は眠り込 んだ人たちのポケットからまた天竺ネズミを出し てみせる。花束、日傘、満杯のシャンパングラス、

鳥籠、果実、旗、置時計、辞書、灯した電飾、ミ ニチュア模型機関車、スー族の帽子、スリッパも。

 タミル語映画では、みんなが踊る、男も女も、大人と 子供も、祖父母も親も、兄弟姉妹も、親戚も知人も、通 行人も屋台の主人も、善人も悪人も、社長も秘書も・・・

まるで猫も杓子も、森羅万象、世界中が踊りに参加して いるみたいだ。まるで世界中の人たちは、踊りの苦手な

『リヴァ・ベラ』のトニのような例外は別にして全員が 踊りの名手なのだと見る者が錯覚してしまうほどに。踊 りのシーンは変化と不意打ち効果のオンパレードだ。ラ ジニカーントと女優サウンダリヤーが二人で踊るシーン も多い。その一つで、サウンダリヤーが急に木の後ろに 消えたと思うと、すぐに今度は色違いのまったく別の衣 装で現われる。見る者にとっては不意の嬉しい驚きだ。、

トニのショーの一場面のように。最初、彼はマリンブル ーの衣装で登場するのだが・・・

(3)

 床から噴き出る煙の柱に即座に包まれ、彼は観 客の目の前で濃い煙の渦巻きの中で二秒足らずで 消える。半回転し、前方に飛び跳ねて煙の中から、

元通り出てくる。ただし今度はまったく最初と同 じだがバラ色の衣装を着ている。

 さて、『アルナーチャラム』を見終わった私は、ド派 手で大仰で陽気なメロドラマを観たような感じに襲われ ることになる。ド派手で大仰で陽気なという形容詞とメ ロドラマという名詞の結びつきがあり得ない奇妙なこと のように思われるとしても、そういう感じなのだから仕 方ない。効果音もド派手ですごい。その音に包まれなが ら、思い出すのは『リヴァ・ベラ』の一節だ。

 舞台はいきなり暗転し、観客は計画的なものか、

あるいは故障なのかと思う。

 洞窟の奥から響くような、とりわけ濃い闇の中 では少しぞっとする音楽が聞こえる。

 『アルナーチャラム』の派手さを強調しすぎたかもし れないが、それでもインド社会に根強く残る問題、ここ では識字率の問題を意識させるエピソードをさりげなく 映像化していたりするのは上手いなと思う。次の映画に 移ろう。

『パダヤッパ』

 この映画で観客が意識させられるのは、カースト制度 と結婚問題である。確かにインド社会の深刻な問題だ。

しかし、色の競演みたいな豪華な群舞の圧倒的な迫力を 目にするうちに、そうした深刻な問題に対する意識はど こかに消えてしまう。それに安心してもらっていい。と いうのは、こういうタミル語映画は勧善懲悪的なところ が特徴の一つでもあるからだ。最後はメデタシ、メデタ シ。歌と踊りで締めくくられる。

 歌と踊りだけに目を奪われていると、インド映画の喜 劇性、コミカルな一面を忘れることになる。というのも、

インド映画にはあらゆる要素が盛り込まれているから で、観客は種類の違ういくつもの料理を楽しむ客のよう に映画を楽しむことができるのだ。満腹感を味わうのは 間違いない。「このような映画を別名、マサラムービー(ス パイス調合映画)というらしいです。」(グレゴリ青山『旅 のグ』) さて、それでお笑い性だけれども、ここでは一 人の俳優に注目してみる。私には名前が特定できていな いのだが、映画を観た人にはどの俳優のことを言ってい るか、すぐ分かるはずだ。

 『アルナーチャラム』では羽振りがよくなると急に白 のスーツ姿で、それも明らかに007のテーマ曲をもじ

ったような音楽をバックに登場する俳優だ。憎めない 顔の小柄で小太りの俳優で、彼がいるだけでおかしい。

それでも踊りとなると上手に踊るし格好良い。こう した人物のコントラスト、映画に倣って大仰な言い方を すると一人の人物が持つ多面性、複雑さを提示してみせ るのもまたボリウッド映画の魅力だ。何かまたドジ なこと、変なことをしちゃうんだろうなと観客に思わせ るのだ。『パダヤッパ』でもその期待は裏切られること はない。ラジニカーント演じるパダヤッパの仲間という か友達の役で出ている。「パダヤッパが力の男なら、俺 は美学を追及する男だ」と格好つけた途端、泥道で転ん で自慢のシャツを台無しにしてしまう。格好つけた発言 と格好悪い結果の落差が観客の笑いを誘う。私が笑いな がらイメージしたのは、『リヴァ・ベラ』のカジノ支配 人のことである。この憎めない顔の小柄で小太りの役者 にカジノの支配人を演じてもらい、次のようなセリフを 喋ってもらう、と想像してみる。

 いいですか、妻は私の親友と逃げたんです。

ありふれた話だと言うでしょうね。確かに、でも こんなこと信じられますか、彼らは私たちの家(つ まりは、私の家の)まさに真向かい、まさしく通 りの反対側のマンションに居を構えたんです。そ れで始終彼らに出くわすわけですが、私を見ると すぐ彼らはわざとディープキスをします。おまけ に、非情にも、オルガスムに達するときはカーテ ンを開け、明かりはつけたまま。

 情けない辛い話なのに、あの憎めない顔で言われたら 笑ってしまうかもしれない。同情して悲しんでやるべき ときなのに、笑いたくなるかもしれない。せっかくタミ ル語映画について語っているので、次のようなアイディ アを提供したい。『リヴァ・ベラ』が映画化されたら、

この俳優が演じる支配人がやけになって踊る場面を加え るのだ。それを見たトニもよろつく足で踊りだす。妻に 逃げられた二人の男のダンス。

 『パダヤッパ』では、本来、形や具体的な姿にして見 せることのできない感情さえも映像化されている。怒り の炎を燃やす、という言い方があるけれど、まさに怒り が炎の形をとって映像化され、スクリーンの中で何個も 燃えているのだ。タミル語映画は、普通なら馬鹿馬鹿し くて物笑いの種になりそうな映像でも、平気で遠慮なく 過剰なほどに盛り込む。観客は知らないうちに、否応無 しにその世界に引きずりこまれてしまう。おそらく、馬 鹿馬鹿しくて物笑いの種になりそうなものを大真面目に 大袈裟に大量に映像化してみせることこそが、観客を喜 ばすサービスであるという考え方なのだ。さて、今度は ルコントの小説に戻って、トニが見た「羽のある無数の スュジー、無限に同じだけの人間トンボとなって反響す

(4)

る元妻が一面に広がる」悪夢を共有させてもらおう。

 決められた合図で、そいつらは全部彼の背中に 止まる。やっと静かになる。トニは何千もの足が 肌にしがみつくのを感じる。ほとんどくすぐった くなりそうなものなのに、実際は、嫌な感じだ。

別の合図で、そいつらは全部一緒に改めて飛び立 ち、動かない酔っ払いの身体を天井まで持ち上げ る。一瞬宙づりにしておく。続いて放す。でもベ ッドは消えてしまっている。それでトニは虚空に 落下する。

 私は小さい頃はよく怖い夢に悩まされた。中でも一番 怖いのはトニの夢のように落下する夢だった。この頃は 見なくなった。歳をとると悪夢にさえ嫌われる。

 タミル語映画では何であれ、ダンス・シーンを入れる 理由になる。むしろ、ダンス・シーンを入れる理由なん かどうでもいいと思っているような気がする。あまりに 回数が多いので、踊り以外の場面はすべてその間に踊り を挿入する役割のためだけに作られていると思いたくな るほどだ。もちろん、そんなはずはないのだが、それほ どまでに踊りのシーンは圧倒的な迫力で驚異的で、驚嘆 と歓喜をもたらす。それでも、踊りと一緒に歌われる歌 詞を字幕で見ていると、歌が果たしている役割が何とな く推測できる。特に一組の男女が踊りの中心や、前面で 踊るような場合は当然と言えば当然だが恋の歌が多い。

踊り歌いながら交互に歌詞を投げかけ合う。相聞歌を応 酬する恋の勝負のような意味を持っているのだ。映画の 中で歌われる「キスしたら後には退けなくなる」という 歌詞は不意に私の連想を『リヴァ・ベラ』の一節へと運 ぶ。ただし、キスしたくなったら後には退けない、とい う表現に即座に一部言い換えることができた私はニンマ リする。というのも、キスしたくなったトニとスュジー の状況がまさにそうだからなのだ、次のように。

 いずれにせよ、並んでペダルを漕ぎながら彼ら はキスしたくなったのだった。恋人たちのキス。

唇の先を触れ合わす軽い素早いキスではなくて、

本当のキス。毒にも薬にもならないショーよりも はるかに北京サーカスとか芸人連盟大祭の管轄に 属する類いの訓練。しかし、トニとスュジーはが むしゃらで、壮挙を試そうと互いに身をかがめる。

その結果、夫と妻はもんどりうって転倒する。

 インド映画の歌の役割は幅広い。人生の教えを説く、

人生訓の役割を持つような場合もあれば、映像をバック に流れて物語を要約するような役割を果たしている場合 もある。映画でも小説でも、要約は重要な手法の一つだ。

『リヴァ・ベラ』の次のような文章がナレーションとし

て流れ、映像が映し出されると想像してみよう。要約的 な場面になるのではなかろうか。

 女性理容師から薬剤師夫人へと、自転車落下か ら気絶の真似へと、七月は流れ行く。今や、習慣 化したウォッカもまた流れ行く。トニはウォッカ をますます食らう。

 しばしばきれいで、時々少しぎこちないウエイ トレス、書店員、避暑客、花屋の店員などの女性 たち、彼女らの田舎臭かったり熱心だったりする 愛撫は彼に、今までで愛した唯一の女性、つまり 妻を忘れさせることは決してできない。

 『インド・まるごと多聞典』から、『パダヤッパ』の音 楽を担当したラフマーンについての発言の一部を引用さ せてもらう。「朝の始まりをラフマーンの音楽から始め ることによって、その日一日が元気にスタートする。そ ういう生活に密着したところにある音楽だった。だから、

『パダヤッパ』を聴くとそのときの気持ちや、車の窓か ら見える町の風景がパーッと蘇る。ラフマーンの曲には いろんな思い出や気持ちがいっしょにつまっていて・・・

それぞれ好きなんです。」そして次のは、言語について の質問と、それに対するラフマーン自身の返答だ。「多 聞 インドにはいろいろな言語がありますが、音楽を作 る上でもっとも音楽に適している言語は何ですか?」「ラ フマーン 難しいですね。それぞれの言語には固有の特 徴がありますから。タミル語でもヒンディー語でもウル ドゥー語でも。/言語は一つの要素に過ぎません。私は、

言語の如何にかかわらず音楽をつくり出すことができま す。いい音楽なら他言語に翻訳されたとしても、いい音 楽であることに変わりはないはずです。」

『チャンドラムキ』

 始まって早々のラジニカーントのド派手なアクショ ン・シーンがこの映画の本格的な幕開きを告げる。彼に 投げ飛ばされた相手は宙を飛んで見事に車のフロントガ ラスを直撃して、リアウインドーを突き破って外に飛び 出る。フロントガラスを血で染める者もいれば、送電線 に当り火花を散らす者もいる。観客はビシッ、バシッと いうような効果音がこれほど快感を与えるものであるこ とを実感する。もちろん相手をけ散らすラジニ兄貴に自 分を投影して見ているからだけれど。タミル語映画の撮 影テクニック、映像技法は本当にレベルが高く、素晴ら しい。

 タミル語の響きはまるで歌みたいに聞こえる。ケーラ ラ州の聖地シャバリマライという地名が字幕に出てきた りするので、インドの地図を開いてみる。(私が持って

(5)

いる地図に、シャバリマライは載っていなかった。)ケ ーララは南インド、ラカディーブ海に面した細長い州で ある。トリバンドラム、マラバル海岸、タミル・ナード ゥ州、トゥティコリン、マドラス、カッダロール、コロ マンデル海岸などの表記を見るだけで音楽が聞こえるよ うな気がするほどだ。ルコントがリヴァ・ベラという地 名を小説のタイトルにしたのは、その響きに惹かれてい たのがその理由の一つかもしれない。と想像する自由は 誰にでもある。

 『チャンドラムキ』では、内面の声の用い方に注目し たい。とは言っても、注目するという意志や強い決意を 持つ必要はない。ただ見ているだけで、自然に気にかか ってしまうぐらいに多用されているからだ。ある登場人 物が内心でつぶやく。それと分かるような表記(イタリ ック体など)で字幕が出る。ほとんどが人に聞かれたく ない、口に出しにくい苛立ち、嫉妬、嘲りの言葉だ。と ころが、この映画のラジニカーントは他者の内面の言葉 を即座に読み取れるアメリカ帰りの精神科医という設定 なのだ。相手は思っていたことを見抜かれ、返事や返答 を返されるのであたふたとうろたえる。驚き、あわてふ ためく滑稽さを観客は笑いながら同時に、精神科医に象 徴される欧米流の医者の胡散臭さが大胆に滑稽化され、

抜け目なく娯楽映画の材料にされているのを見て取る。

小説の場合、このように、「・・・と思った」のような 表現の「と思った」は省いて「・・・」の部分だけを、

つまり内面の声をそのまま提示してみせるやり方は自由 間接話法と呼ばれる。ルコントは『リヴァ・ベラ』でト ニの内面の声を提示するのに、この自由間接話法を効果 的に利用している。その部分を訳すのも楽しかった。

 今、どこにいるんだ、ノルマンディー海岸の恋 人どもは? 確実にもうホテルの中だ。急いで互 いの体に飛びつき、部屋の四方八方に服を投げち らす。一刻も早く抱きしめあい、可能なあらゆる 体位で、肘掛け椅子の上、整理箪笥の上、開けた 窓の前で挿入し、挿入されたくて。あいつは俺よ り上手に彼女の胸を愛撫するんだろうか、あのく そったれスペイン貴族は?

 でも何になる? アリーヌはいないのだから。

それでも、風が起こった今、オレンジとブルーの 竹と布で出来たあれを揚げることができるかどう か確かめるのは嬉しいのだが。そのことを絵はが きで娘に書いてやることができるし。

 『リヴァ・ベラ』のトニの凧揚げはうまくいかない。

それに対して(と思ってしまう)、『チャンドラムキ』の 集団凧揚げの場面は見事だ。空一面に凧が色とりどりの 花のように浮かぶ映像が美しい。「学校に行かなくても

凧揚げで賞状をもらえる」、「風をさえぎるものはない  風を受け飛んで行こう」。そして、こうした歌とともに 群舞へと移っていくのだが、これもいかにもインド映画 らしくてウキウキしてくる。

 マジック的な演出もある。ラジニ兄貴が後ろ向きで投 げたバラの花は女性の髪の毛にピタッと収まる。本物の 人間を燃やすようにそっくりの人形を燃やすトリックは 映像のマジックを見せられたような気になる。

 以上、ラジニカーント主演の三つの映画から受ける共 通の印象は、ワクワクと胸躍らせるショーを見ているよ うな印象である。だから、『リヴァ・ベラ』のトニのシ ョーを読む=見るのと同質の印象、親密感、既視感のよ うなものを感じてしまうのだ。

『チャンドラー・チョーク・トゥ・チャイナ』

 インドのデリー。チャンドラー・チョーク市場の屋台 で野菜を刻む仕事をしている弱虫でさえない職人シドゥ が主人公。親方の怒り実は愛の鞭を買い、空高 く蹴り上げられては惨めに地面に墜落する毎日だ。蹴ら れて宇宙の果てまで飛んでいく? でも、その荒唐無稽 さがその後の展開に期待をもたせ、ワクワクさせる。眉 間に皺を寄せてシリアスに観る必要はないのだ、と予告 してくれているようなものだ。アクシャイ・クマール演 じるこのシドゥ、妻に逃げられた情けないトニのように 情けないシドゥがデリーを離れ中国に向かう。悪のボス に支配され虐げられる村の代表に中国の英雄の生まれ変 わりだと間違えられ、村の救い手として期待され、その 気になってしまうのだ。

 その気になったところで、弱虫が一気に強い男になれ るわけではない。最初はこてんぱんにやられて、村人を 助けるどころか、助けられる始末。自信喪失した惨めで 情けないシドゥは一念発起して厳しい修練を受け、それ に耐えて技を磨き、最後は悪を倒す。自信回復、自己確 立、成長、到達の過程を描くのは映画であれ小説であれ、

物語というものの本質的な構造、傾向の一つである。こ の一傾向を介して映画『チャンドラー・チョーク・トゥ・

チャイナ』と小説『リヴァ・ベラ』は結びつく。『リヴァ・

ベラ』は、妻に逃げられショーも失敗に終わり、自信喪 失した惨めで情けないトニの自信回復の物語でもあるか らだ。

 悪のボス北条が被っているシルクハットのような帽子 は鉄製らしく、相手を倒す武器になる。首がスパッと 切られて転げ落ち、体はお腹で両断される。明らかに 007映画のぱくりだ。でもおもしろい。『アルナーチ ャラム』で007のテーマ曲がもじって使われているの は既に指摘した通りだ。どうもインドでは007映画が 人気なんだろうな、と思わざるを得ない。

 当然『チャンドラー・チョーク・トゥ・チャイナ』に

(6)

おける歌と踊りについて言及しておかなくてはならな い。ここでも歌はいくつかの役割を担っているのだが、

一つだけ指摘しておくと、シドゥの過去を要約し、彼と いう人物を紹介するのに効果的に用いられている。そし て、強い一人前の男になったシドゥを「フラフラしてい た男が腰を据えた」、「弱々しい月光が陽光になった」、「外 見は同じでも中身は別人」といった歌詞が讃える。彼が カンフーの鍛錬を積む場面にも歌が被さる。

 踊りは至る場所を背景に踊られる。背景を見るだけで 中国の景勝地に身を置いているような気になる。夢の中 の踊りもある。闘いのシーンも踊りだ。最後はエンドロ ールとともに、「俺はボリウッド・スター、アクシャイ・

クマール」のような歌でラップ風の踊りが見られる。

 シドゥがサラ(ディーピカー・パードゥコーン)にキ スしようとする。そのとき、サラが「映倫カットになる わよ」と言ってやんわり避けるところは気がきいている。

二人が空高く舞い上がり、空中相合い傘みたいに一本の 傘に掴まり宙に浮いたまま愛を語るシーンはロマンチッ クで楽しい。私はここで何故か『リヴァ・ベラ』のトニ がスュジーに告白した夜のことを回想する一節を思い浮 かべる。

 アンチーブのカジノのゲーム台の反対側から何 度か視線を、次に微笑みを、次にカジノのバーで 愛撫を交わし、夜、水辺を散歩し、あまりに黙っ たままでいて、ほとんど満月のきらめく反射光の 中でトニが言ったときのこと。

 残りの日々をあなたと過ごしたいのだけれ ど。

 この告白にスュジーはほとんど散文的に答えた のだった。

 良い考えね。賛成よ。

 奇妙なことに、とても自然な承諾に驚嘆して、

トニは微笑みながらうなずいただけだった。

 ——ありがとう。

 そして彼らはもう絶対離れることはなかった。

スュジーは順番に彼の妻、相方、子供の母親にな った。

 さて、いよいよ最後の映画だ。

『家族の四季』

 監督はカラン・ジョーハル。主演はシャー・ルク・カ ーン、「“キング・オブ・ボリウッド”と呼ばれて尊敬を 集めている」(『マダム・Gの館』)俳優である。漫 画家グレゴリ・青山さんはボリウッド映画のエキストラ 募集を知り、シャー・ルク・カーンとの共演を妄想して ボンベイに飛ぶ(『グ印観光』)。さて、少し詳しく

見ていこう。

 映画では二つの国インドとイギリス、二つの街デリー とロンドンが描かれる。それは、ある家族が二つに分離 したことの具体的でもあり象徴的でもある証としての二 つの場所だ。家族の失われた絆を取り戻す和解と再出発 の物語でもあるのだが、これはルコントの『リヴァ・ベ ラ』とも通じ合う。

 この映画でも、踊りは大きな比重を占めている。試合 に勝ったといっては踊る。父親の誕生日といっては踊る。

踊る理由は何でもいい。踊りの場所も様々だ。大学のキ ャンパスが踊りの場になる。下町の娘アンジャリ(カー ジョル)はデリーの腕輪屋の前で踊り始めたと思うと、

場所が突然変わり、ピラミッドのある砂漠で踊っている。

次々背景と衣装が変わることに見る者は目を奪われ、異 国趣味を満喫するようにうっとりする。踊りが一段落す ると、画面は下町とかすかに失望の色を浮かべたアンジ ョリに戻る。今までの踊りは彼女が好きな男ラーフル(シ ャー・ルク・カーン)と行きたい場所を背景にしていた こと、恋する女の願望・想像が描き出したものであるこ とを知らせる巧みな技法。映像技法ということでもう一 つのシーンについて言及しておく。画面ではディワリー 祭(ヒンドゥーのお正月を祝う祭)の踊りが踊られてい る。今度はヘリコプターのプロペラが回っているのが見 える。そして、プロペラの回転が踊りの回転(輪)の動 きに重なるオーバーラップは秀逸だ。それはヘリコプタ ーで到着する人物が踊り(祭)に加わることを告げてい る。最初はヘリコプターから降りて歩く膝から下の映像 しか見せないのも見る者の好奇心と期待を高めるだけに なおさらだ。言い忘れていたが、『パダヤッパ』の 次のような映像が好きだ。井戸の中の暗い水が映し出さ れる。まるで、それを映すカメラがその中を突き抜けて 何かに重なるみたいに、井戸水が今度は光あふれる戸外 に置かれたバケツの中の水の映像に変わるのだ。映 像の重なりと願望の映像化、その小説的展開ということ から、『リヴァ・ベラ』の次の一節が思い浮かぶ。

 10キロ先で、すらりとした大柄な若い女がヒッ チハイクをしている。高速道路では原則禁止だが、

誰も気にかけないみたいだ。トニがとても驚いた ことに、その女性を無視して減速さえしないドラ イバーたちよりももっと彼女は気にかけないみた いだ。トニはといえばアクセルから足を上げ、ウ ィンカーを出す。

 それもそのはず、そのきれいな女はスュジーだ。

おまけに舞台衣装を着たスュジー。場面の仕上げ に言うと、その奇妙な色をよく知っているメルセ デスが近づいてくるのを見てもスュジーはそれほ ど驚かない。スュジーは開いた窓に身を乗り出し

(7)

て、自分もグランヴィルに行くのだという。

 『家族の四季』における笑いの要素について触れてお く。「本当に口が軽いんだから」「体重は重いのに」のよ うなセリフがもたらす笑いがある。表情と動作のコント ラストによる笑いもある。たとえば、「1970年代から80 年代にかけてボリウッドに君臨したアミターブ・バッチ ャン」演じる父親の場合。この父親は家長の権威を象 徴するような人物で、「言った通りだ。以上」が口癖だ。

謹厳を絵に書いたようなこの父親が自分の誕生日パーテ ィーでは、挨拶代わりに踊り始める。それがまた上手い。

でも観客は笑いを誘われてしまうのだ。

 映画では複数の人物が交互に描かれることがある。こ れは同じ時間にそれぞれがどこで何をしているかを示し てみせる手法だ。対照的に描いてみせるのにも有効だ。

たとえば、オフィスにいるラーフルと下町にいるアンジ ャリを交互に見せる場面がある。そこで観客は二人の生 活環境、レベル、身分の違いを一気に理解する。二人の 恋を予想しつつも、その前途多難を予感する。小説『リ ヴァ・ベラ』でも、この交互に描いてみせる手法が用い られ、逆に映画を見ているような効果を上げている。

 トニと支配人がグランドホテルのレストランで 夕食中、スュジーと彼女の歌手も夕食だ、同じ海 岸沿いの他の場所で。実際にはそこからあまり遠 くないけれども反対側、つまりはリヴァ・ベラの 東、正確に言うとヴィリエ=シュール=メールで。

 あそこ、スュジーとオッタヴィオが海に面した 場所で、彼女は彼の肩に頭を乗せ、目を閉じる。

すると口元に微笑を浮かべて眠ってしまいそう だ。まるで、そこから50キロメートル離れたアロ マンシュのカジノの舞台で元夫がはっきり区切っ て発音する指令に、テレパシーで従っているかの ように。あり得る。[・・・]

 もし、遠く離れたスュジーにたぶん催眠術をか けたとトニが想像できれば、奇妙にもなくなり始 めている元気が与えられるのに。

 カーンにあるトニの知り合いの工房で、スュジ ーを取り除くために最初の写真が切り抜かれ、工 夫を施され、作り直されたとき、彼は心が締め付 けられる。まるで、その作業で別れが完全なもの になるかのように。

 スュジーのほうはといえば、彼女は激しい頭痛 に苛まれる。ポスターから消されたことがテレパ シーで彼女に影響を及ぼすみたいだ。さもなけれ ばまったくの偶然、さらにもうひとつの偶然だ。

エピローグ

 以上、五本のインド映画を、もしパトリス・ルコント が観たらという仮定のもとに紹介してきた。もちろん、

ルコントのような長いキャリアを持つ映画監督がわざわ ざインド映画の手法に頼る必要はないことは分かってい る。自分の映画作り、映画手法、映画表現を思い出すだ けで充分それを『リヴァ・ベラ』に転用して小説的効果 をあげることができるだろうことも。でも、少なくとも 私という観客・読者はどうしてもインド映画と小説『リ ヴァ・ベラ』に似通った空気を感じてしまうのだ。それに、

ルコントも私と同じようなところに心惹かれ、面白く思 うだろうと想像するのは自リーブル由だ。「リーブル」とい う言葉の曖昧さというか多義性についてトニが一瞬思い 悩む場面が思い浮かぶ。トニが「自リーブル由?」と問いか けた相手は女性理容師。

 カラン・ジョーハル監督『マイネーム・イズ・ハーン』

でシャー・ルク・カーンはアスペルガー症候群の青年ハ ーンを演じている。一種のロード・ムービーとして観る こともできるのだが、この点はロード・ムービーとして 読むことができる『リヴァ・ベラ』と同じだ。青年は美 容師マンディラ(カージョル)に恋する。彼女をガラス 越しに見る、彼女に髪を切ってもらう。こうした場面は

『リヴァ・ベラ』へと私の連想を運んだ。

 理髪店の前を通る。客はいない。女性理容師が ひとりレジに立っている。大衆雑誌を読み、王族 の恋愛のはっきりしない成りゆきに気をもんでい る。トニは考えずに、入る。

 女性理容師の手にやわらかく圧されて左に、右 に、前に傾く頭。耳のすぐ近くで聞こえる息。首 に感じる呼気。控え目な香水。中断される瞬間。

 ここで幕を降ろすことにする。幕に「F終 りIN」の文字が 重なると想像してほしい。

(8)

参照

関連したドキュメント

たとえば、市町村の計画冊子に載せられているアンケート内容をみると、 「朝食を摂っています か 」 「睡眠時間は十分とっていますか」

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

 映画「Time Sick」は主人公の高校生ら が、子どものころに比べ、時間があっという間

試料の表面線量当量率が<20μ Sv/hであることを試料採取時に確 認しているため当該項目に適合して

   手続内容(タスク)の鍵がかかっていること、反映日(完了日)に 日付が入っていることを確認する。また、登録したメールアドレ