ベトナムの対外政策決定過程 : 機構的側面からの 一考察
著者名(日) 小笠原 高雪
雑誌名 山梨学院大学法学論集
巻 43
ページ 1‑28
発行年 1999‑09‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000825/
論
ベトナムの対外政策決定過程 機構的側面からの一考察 説
小笠原 高 雪
目 次
一 対外政策決定機構の概略
二 外務省の機能と組織
ω 抗仏抗米戦期の外務省
ω 経済外交の模索
⑥ ASEAN加盟の旗手として
ω 冷戦終結以後の再編成
三 政府内部の政策調整
ω ASEAN国家委員会
ω 国際経済協力国家委員会
本稿の目的は︑ベトナム社会主義共和国の対外政策決定過程に関する研究の一環として︑同国の対外政策決定機 論
ベトナムの対外政策決定過程││機構的側面からの一考察 説
目 次
一対外政策決定機構の概略
二外務省の機能と組織 川抗仏抗米戦期の外務省
ω 経済外交の模索
ω A S E A
ω 冷戦終結以後の再編成 N 加盟の旗手として 三政府内部の政策調整 ω A S E A
国際経済協力国家委員会 ω N 国家委員会 小笠原
高
雪
本稿の目的は︑ベトナム社会主義共和国の対外政策決定過程に関する研究の一環として︑同国の対外政策決定機
法学論集 43〔山梨学院大学〕 2
構に若干の考察を加えることにある︒
周知のように︑現在のベトナムにおいて︑﹁組織過程﹂や﹁政府内政進に関する信頼しうる情報はきわめて不
十分にしか存在しない︒そうした状況下では︑政策決定者たちの公式的言明に表現されたイメージを中心とする思 パぽ 考過程の分析は︑対外政策研究の手段としてきわめて重要な位置を占めるといえる︒また︑対外政策決定をめぐる
政治過程の考察を試みる場合でも︑当面の焦点の一つは政策決定機構の解明とならざるをえない︒公式の機構につ
いて知ることは︑決定過程を明らかにするための十分条件では決してないが︑少なくとも必要条件ではあるからで ハぎ ある︒もとより現在のベトナムにおいては︑そうした作業に必要な資料すら十分とはいわれない︒その意味におい パゑ て︑本稿における筆者の作業は︑対外政策決定機構に関する基礎的知見の収集努力の第一歩にとどまるものである︒
本稿は三つの部分より構成される︒すなわち︑はじめに対外政策決定に関わりを持つ党と国家の主要機関を一瞥
したのち︑国家における対外政策決定機構の中心的存在である外務省の機能と組織の変遷を辿り︑最後に近年にお
ける対外関係の緊密化に伴い重要性を増しつつある政府内の政策調整の仕組を検討する︒
一2一
対外政策決定機構の概略
現在のベトナムにおいて︑共産党︵ベトナム共産党︶は﹁国家と社会の指導勢力﹂であることを憲法上明記され
パゑ た存在であるとともに︑国会を含む各種国家機関に多数の党員を送り込み︑その内部にさまざまな党組織を張巡ら
している︒したがって︑少なくとも重要な政策の決定に対しては︑共産党は制度上も実態上も決定的ともいえる影
2
構に若干の考察を加えることにある︒
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(山梨学院大学〕
周知のように︑現在のベトナムにおいて︑﹁組織過程﹂や﹁政府内政色に関する信頼しうる情報はきわめて不
十分にしか存在しない︒そうした状況下では︑政策決定者たちの公式的言明に表現されたイメージを中心とする思
考過程の分析は︑対外政策研究の手段としてきわめて重要な位置を占めるといえお︒また︑対外政策決定をめぐる
政治過程の考察を試みる場合でも︑当面の焦点の一つは政策決定機構の解明とならざるをえない︒公式の機構につ
法学論集
いて知ることは︑決定過程を明らかにするための十分条件では決してないが︑少なくとも必要条件ではあるからで
ある︒もとより現在のベトナムにおいては︑そうした作業に必要な資料すら十分とはいわれなは︒その意昧におい
て︑本稿における筆者の作業は︑対外政策決定機構に関する基礎的知見の収集努力の第一歩にとどまるものであお︒
‑ 2ー
本稿は三つの部分より構成される︒すなわち︑はじめに対外政策決定に関わりを持つ党と国家の主要機関を一瞥
したのち︑国家における対外政策決定機構の中心的存在である外務省の機能と組織の変遷を辿り︑最後に近年にお
ける対外関係の緊密化に伴い重要性を増しつつある政府内の政策調整の仕組を検討する︒
対外政策決定機構の概略
現在のベトナムにおいて︑共産党(ベトナム共産党)は﹁国家と社会の指導勢力﹂であることを憲法上明記され
た存在であおとともに︑国会を含む各種国家機関に多数の党員を送り込み︑その内部にさまざまな党組織を張巡ら
している︒したがって︑少なくとも重要な政策の決定に対しては︑共産党は制度上も実態上も決定的ともいえる影
3 ベトナムの対外政策決定過程一機構的側面からの一考察
響力を及ぼしており︑そのことは対外政策の場合においても例外ではありえない︒共産党における政策決定の事実
上の中心機関は中央委員会政治局および政治局常務委員会であり︑対外政策決定においては党中央の対外関係部局
が補佐的機能を営んでいる︒したがって︑この事実から考えれば︑対外政策決定の最高機関は党政治局︑政治局常
務委員会であり︑外務省をはじめとする政府機関はそれらによって決定された政策の執行機関にほかならないとい
パヱ って差支えない︒
しかしそれだからといって︑対外政策の決定過程を党政治局︑常務委員会から政府︑外務省への一方的な伝達過
程としてのみ捉えることは適切ではないであろう︒それには大きく分けて三つの理由が存在している︒第一に︑対
外政策の基本路線を最終的に決定するのが政治局であったとしても︑その決定を準備する過程において︑外務省を
始めとする政府機関の意向が働くことは十分に考えられることであり︑それら機関は情報の収集と分析︑ありうべ
き選択肢の提示といった任務の実施を通じて︑自分たちの見解を政策決定に反映させる可能性を有していると考え
られる︒たとえば︑外務省は︑外交の専門機関であるとともに︑非社会主義諸国を含む各地の在外公館を通じて国
際社会の動向に最も敏感に反応すべき位置にあり︑したがって︑外務省の行う情勢判断は︑政府から共産党への公
式経路を通じ︑あるいは外務省内部の党組織を通じ︑党中央対外局や政治局に直接間接の影響を与えることができ
ると考えられるのである︒
第二に︑一般に国際関係の緊密化は国内問題と対外問題の間に伝統的に引かれてきた境界線を曖昧なものとする︒
そのことは︑対外政策に関与する機関を増加させるとともに︑それらの問の調整を対外政策決定過程の重大な焦点
パお
とする︒このような傾向は︑多様な政党や圧力団体の要求が対外政策決定過程に交錯しやすい自由民主主義諸国に 響力を及ぼしており︑そのことは対外政策の場合においても例外ではありえない︒共産党における政策決定の事実 上の中心機関は中央委員会政治局および政治局常務委員会であり︑対外政策決定においては党中央の対外関係部局 が補佐的機能を営んでいる︒したがって︑この事実から考えれば︑対外政策決定の最高機関は党政治局︑政治局常
ベトナムの対外政策決定過程一一機構的側面からの一考察
務委員会であり︑外務省をはじめとする政府機関はそれらによって決定された政策の執行機関にほかならないとい
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しかしそれだからといって︑対外政策の決定過程を党政治局︑常務委員会から政府︑外務省への一方的な伝達過
程としてのみ捉えることは適切ではないであろう︒それには大きく分けて三つの理由が存在している︒第一に︑対
外政策の基本路線を最終的に決定するのが政治局であったとしても︑その決定を準備する過程において︑外務省を
始めとする政府機関の意向が働くことは十分に考えられることであり︑それら機関は情報の収集と分析︑ありうべ
き選択肢の提示といった任務の実施を通じて︑自分たちの見解を政策決定に反映させる可能性を有していると考え
られる︒たとえば︑外務省は︑外交の専門機関であるとともに︑非社会主義諸国を含む各地の在外公館を通じて国
際社会の動向に最も敏感に反応すべき位置にあり︑したがって︑外務省の行う情勢判断は︑政府から共産党への公
式経路を通じ︑あるいは外務省内部の党組織を通じ︑党中央対外局や政治局に直接間接の影響を与えることができ
ると考えられるのである︒
第二に︑一般に国際関係の緊密化は圏内問題と対外問題の問に伝統的に引かれてきた境界線を暖昧なものとする︒
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そのことは︑対外政策に関与する機関を増加させるとともに︑それらの聞の調整を対外政策決定過程の重大な焦点
とすお︒このような傾向は︑多様な政党や圧力団体の要求が対外政策決定過程に交錯しやすい自由民主主義諸国に
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おいて最も顕著であるが︑現在のベトナムのように共産党の一党支配を原則とする体制下でも︑類似の変化は進行
しうると考えられる︒すなわち︑ドイモイの一環である﹁対外関係の拡大︑多様化︑多角化﹂の下においては︑さ
まざまな争点領域に関わりを持つ政府機関や国会などの影響力が次第に増大してゆくことが予想されるのである︒
たとえば︑最近のベトナムには︑輸出主導型の経済成長策を推進する観点から戦後日本の通産省に相当する強力な
政府機関の必要性を唱える議論が存在するが︑もしそのような政府機関が形成されるとするならば︑それは対外経
済政策決定過程において軽視しえない要因となるかも知れない︒
第三に︑ASEAN︵東南アジア諸国連合︶やAPEC︵アジア太平洋経済協力会議︶といった多国間組織への
参加は︑ベトナムの対外関係を質的に変化させる可能性を含んでいる︒これらの組織は︑基本的には︑国家主権の
分割・委譲を構成国に要求するものではなく︑緩やかな国家間協力を目的として設立されたものであるが︑にもか
かわらず︑一般に多国問組織への加入は構成国の対外政策上の自律性に一定の制約を加えることを否定できない︒ すレ すなわち︑そこでは外交における決定過程と交渉過程の区別は従来よりも曖昧となり︑交渉過程が決定過程の一部
を形づくる可能性は大きくなると考えられる︒多国間外交の現場において交渉を直接的に担当するのは外務省や各
種の経済官庁などであるから︑共産党といえども︑少なくとも交渉の具体的戦術に関しては︑それら政府機関の担
当官の裁量の幅を広げることを承認せざるをえなくなるであろうことが容易に推測されるのである︒
こうして︑現在のベトナムの対外政策決定過程を正確に理解するためには︑外務省の各部局から共産党政治局に
至るさまざまな機関の政策決定過程における役割とその相互関係を明らかにすることが必要である︑ということが
できるのである︒現在のベトナムにおいて︑対外政策決定に関わる党と国家の主要な機関としては︑以下のものを
一4一
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おいて最も顕著であるが︑現在のベトナムのように共産党の一党支配を原則とする体制下でも︑類似の変化は進行
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(山梨学院大学〕
しうると考えられる︒すなわち︑ドイモイの一環である﹁対外関係の拡大︑多様化︑多角化﹂の下においては︑さ まざまな争点領域に関わりを持つ政府機関や国会などの影響力が次第に増大してゆくことが予想されるのである︒
たとえば︑最近のベトナムには︑輸出主導型の経済成長策を推進する観点から戦後日本の通産省に相当する強力な 政府機関の必要性を唱える議論が存在するが︑もしそのような政府機関が形成されるとするならば︑それは対外経 法学論集
済政策決定過程において軽視しえない要因となるかも知れない︒
第 三
に ︑
ASEAN (東南アジア諸国連合)や APEC(
アジア太平洋経済協力会議)といった多国間組織への 参加は︑ベトナムの対外関係を質的に変化させる可能性を含んでいる︒これらの組織は︑基本的には︑国家主権の
‑ 4 ‑
分割・委譲を構成国に要求するものではなく︑緩やかな国家間協力を目的として設立されたものであるが︑にもか す
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種の経済官庁などであるから︑共産党といえども︑少なくとも交渉の具体的戦術に関しては︑それら政府機関の担
当官の裁量の幅を広げることを承認せざるをえなくなるであろうことが容易に推測されるのである︒
こうして︑現在のベトナムの対外政策決定過程を正確に理解するためには︑外務省の各部局から共産党政治局に
至るさまざまな機関の政策決定過程における役割とその相互関係を明らかにすることが必要である︑ということが
できるのである︒現在のベトナムにおいて︑対外政策決定に関わる党と国家の主要な機関としては︑以下のものを
5 ベトナムの冠外政策決定過程一機構的側面からの一考察
列挙できる︒
共産党
中央委員会︵ωき9巷訂昌三盆躍ぎ轟︶
政治局︵切oO霞嘗鼠︶ 常務委員会︵q網びき臣蓉轟釜︶
中央対外局︵ωき&ぎ碧亀馨凝5轟︶
中央軍事局︵ゆきρ轟bω三毎凝ぎ轟︶
ホーチミン国家政治学院︵=8≦窪o岳嘗鼠090晦一国=oO匡匡凶嘗︶
国 家
国会︵ρきo=亀 国会常務委員会︵q﹃びき臣ぎ轟釜O容oぎ一︶
国家主席︵O浮膏ゲ匡8︶
国防・安全保障会議︵団o包o轟∈8嘗o凝奉四昌艮旨︶
政府官房︵<き嘗o轟O霞旨9q︶
外務省︵ω02讐蝕讐8︶ 国際関係学院︵=8二窪O仁きぽ288︶
内務省︵︼Wo29釜︶
国防省︵ゆoρぎo嘗o轟︶
政府国境委員会︵ωき庄窪笹o搾轟O霞嘗嘗¢︶
対外委員会︵q矯げき3ぎ碧巴 一5一
言 宗 利 H ‑ '
市UK d 。
唱 〈 幽 書 記
丑唱〈鰍目制同 ( B a nchap hanh t r u n g u o n g )
督匁阻 ( B oChinh t r i )
担保S柄拘II1~目 (Uyban 百lUong 刊) 壬唱<~貫太眼 (Band o i n g o a i
廿unguong)
壬司〈冊悌眼 ( B a nquan s u t r u n g u o n g )
長‑"ト
If!入 I B 9 H 持経深刻守盤 (Hocv i e n c h i n h
廿iQuoc g i a Ho C h i Minh)
4 経
1 貫太鰍 I I I
~~(Uy ban d o i ngoa i )
国側経総称II1~目 (Uyban 出uong
vu Quoc ho i ) 国側 (QuocHo i )
I f f i H や阿佐 g (Chu t i c h n u o c )
田主ミ'~<rl1感盤側捕監 ( H o i dong quoc phong va an n i n h ) 醤
j皇制限 ( V a nphong Chinh p h u )
回送駆総省ド盤 (Hocv i e n Quan he quoc t e ) 京総細 ( B oNgoai g i a o )
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ξ 終組 ( B oNoi v u )
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自民団憲君樺饗││健頬似都機醤4h↑ 摂Q d
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古~~IB喧型車棋~II1~目
( B a n b i e n g i o i cua Chinh p h u )
ば コ
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計画・投資省︵ゆo冨げ3畠苺U窪言︶
貿易省︵ωo冒ぎ轟ヨ亀
財政省︵野凄ぎ霞旨︶
国際経済協力国家委員会︵d﹃びきOぎo笹拶ぎげ850匹旨言28琶
国家人文社会科学研究センター︵↓毎轟雷目浮8ぎo釜ぎ一話導きく目ε8鵬邑
しかし︑残念なことに︑現在のベトナムでは︑主として公開資料の不足から︑これら機関の役割とその相互関係
を十分に解明することは︑きわめて困難な状態にあるといって差支えない︒そのような研究を本格的に進めるため
には︑ベトナムにおける関連資料の一層の公開が必要であろうし︑それら資料を十分に消化しながら大規模な聞取
調査を実施することが必要である︑といわなければならないのである︒
一6一
二 外務省の機能と組織
前節に列挙した国家機関のうち︑対外政策決定において最も重要な役割を果してきた機関の一つは外務省である︑
といってよい︒このことは︑歴代の外相たちの多くが同時に党政治局員であった事実からも容易に推測されるとこ
ろである︒既述のように︑外務省は対外政策の決定機関であったというより執行機関であったといったほうが適切
であると考えられるが︑仮にそう考える場合でも︑そのことは︑政策執行機関としての外務省の機構的変遷のなか
6
計 画
・ 投
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しかし︑残念なことに︑現在のベトナムでは︑主として公開資料の不足から︑これら機関の役割とその相互関係
を十分に解明することは︑きわめて困難な状態にあるといって差支えない︒そのような研究を本格的に進めるため
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には︑ベトナムにおける関連資料の一層の公闘が必要であろうし︑それら資料を十分に消化しながら大規模な関取
調査を実施することが必要である︑といわなければならないのである︒
外務省の機能と組織
前節に列挙した国家機関のうち︑対外政策決定において最も重要な役割を果してきた機関の一つは外務省である︑
といってよい︒このことは︑歴代の外相たちの多くが同時に党政治局員であった事実からも容易に推測されるとこ
ろである︒既述のように︑外務省は対外政策の決定機関であったというより執行機関であったといったほうが適切
であると考えられるが︑仮にそう考える場合でも︑そのことは︑政策執行機関としての外務省の機構的変遷のなか
7 ベトナムの対外政策決定過程一機構的側面からの一考察
に︑各段階における対外政策の基本理念や優先順位が投影される可能性を否定するものではない︒そこで︑
おいては︑外務省の機能と組織の変遷をいくつかの項目に分けて概観しておきたいと思うのである︒
1 )
(
抗仏抗米戦期の外務省 以下に
一九四五年九月二日︑ホー・チ・ミン︵国oO三霞9︶はベトナム民主共和国の独立を宣言し︑自ら国家主席と
外相を兼務した︒外務省は一九四六年四月七日に正式の国家機構として発足したが︑その時点では地域別や争点別
の専門部局は形成されていなかったようである︒その背景としては︑第一に当時は独立直後であり民主共和国が正
式の外交関係を結んだ主権国家は存在していなかったこと︑第二に同様の理由からそうした部局を形成するに足る
ほどの専門家が育成されていなかったこと︑第三に最重要の対外問題であったフランスとの交渉はもっぱらホー・
チ・ミンの個人的イニシアティブの下に進められていたこと︑の三点を考えられる︒
一九五四年七月のジュネーブ協定調印により︑民主共和国政府はハノイに凱旋し︑外務省も組織の整備が進んだ︒
その結果︑外務省には︑人民民主・社会主義諸国局︑東南アジア局︑フランス・西欧局︑の三つの地域局が相次い パど で設置された︒東南アジア局が地域局の一角を占めたことは︑当時の北ベトナム外交において﹁東南アジア﹂が一
定の重要性を占めていた可能性を示唆するものである︒もっとも当時の﹁東南アジア﹂はインドを含む概念であり︑ パゑ そこでの外交活動の対象として重視されていたのは中立諸国や非同盟運動であったといえる︒その後︑一九五七年
までに︑これらの地域局はソ連・東欧局︑西欧・米州局︑アジア・アフリカ局に再編された︒局名には明示されて
いないが︑おそらく中国担当部門は人民民主・社会主義局からアジア・アフリカ局に移管されたと考えられる︒当 に︑各段階における対外政策の基本理念や優先順位が投影される可能性を否定するものではない︒そこで︑以下に おいては︑外務省の機能と組織の変遷をいくつかの項目に分けて概観しておきたいと思うのである︒
)
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・ ・ ・
( 抗仏抗米戦期の外務省
ベトナムの対外政策決定過程一一機構的側面からの一考察
一九四五年九月二日︑ホ l
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( 図 ︒
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冨 E F
)
はベトナム民主共和国の独立を宣言し︑自ら国家主席と
外相を兼務した︒外務省は一九四六年四月七日に正式の国家機構として発足したが︑その時点では地域別や争点別
の専門部局は形成されていなかったようである︒その背景としては︑第一に当時は独立直後であり民主共和国が正
式の外交関係を結んだ主権国家は存在していなかったこと︑第二に同様の理由からそうした部局を形成するに足る
ほどの専門家が育成されていなかったこと︑第三に最重要の対外問題であったフランスとの交渉はもっぱらホ 1 ・
チ・ミンの個人的イニシアティブの下に進められていたこと︑の三点を考えられる︒
一九五四年七月のジュネーブ協定調印により︑民主共和国政府はハノイに凱旋し︑外務省も組織の整備が進んだ︒
その結果︑外務省には︑人民民主・社会主義諸国局︑東南アジア局︑フランス・西欧局︑の三つの地域局が相次い
で設置されが
)O東南アジア局が地域局の一角を占めたことは︑当時の北ベトナム外交において﹁東南アジア﹂が一
定の重要性を占めていた可能性を示唆するものである︒もっとも当時の﹁東南アジア﹂はインドを含む概念であり︑
そこでの外交活動の対象として重視されていたのは中立諸国や非同盟運動であったといえお︒その後︑ 一九五七年
までに︑これらの地域局はソ連・東欧局︑西欧・米州局︑ アジア・アフリカ局に再編された︒局名には明示されて
いないが︑おそらく中国担当部門は人民民主・社会主義局からアジア・アフリカ局に移管されたと考えられる︒当
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時︑中越関係はきわめて緊密なものと見られていたことを想起すれば︑外務省組織における中国のこのような位置
づけはいささか意外に感じられる︒しかし︑当時の中越関係においては国家間関係よりも党間関係のほうが圧倒的
に重要であったと仮定すれば︑外務省における中国担当部局の重要性は相対的に低いものであったと考えることも
可能である︒
一九六〇年代に入り抗米戦が拡大すると︑ハノイの指導者たちは南部における武力闘争を外交闘争と結合し︑国 パぎ 際的に有利な力関係を形成することを通じて自らの戦略目的を達することに力を注いだ︒抗米戦期の北ベトナム外
交には戦時的色彩が濃厚に認められ︑そこではクラウゼヴィッツの有名な命題を転倒させて︑外交こそは﹁他の手
段を以てする戦争の延長﹂であったといっても過言ではない︒そのことは外務省組織にも反映されたように思われ
る︒たとえば︑米国の軍事介入が本格化した一九六五年︑西欧・米州局から北米局が独立し︑それはまもなく第一
局と第二局の二局構成となった︒第一局は南ベトナム情勢の分析を任務とするものであり︑それが北米局から枝分
かれして成立したということは︑いかに当時のハノイが対米関係の観点から南部問題を捉えていたかを裏書きして
いる︒これに対して第二局は対米関係そのものを対象とし︑一九七三年のパリ協定成立まで重要な役割を果してい
パぎ
た︒具体的数字は不明であるが︑当時の状況から見て︑これら二局にかなりの予算と人員が割当てられたであろう
ことは容易に推測されるところである︒
@ 経済外交の模索
パリ協定成立後︑外務省は対外経済関係の拡大を自己の新たな役割として模索した︒すなわち︑政府は一九七四
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時︑中越関係はきわめて緊密なものと見られていたことを想起すれば︑外務省組織における中国のこのような位置
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づけはいささか意外に感じられる︒しかし︑当時の中越関係においては国家間関係よりも党間関係のほうが圧倒的
に重要であったと仮定すれば︑外務省における中国担当部局の重要性は相対的に低いものであったと考えることも
可 能
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一 九
六 0 年代に入り抗米戦が拡大すると︑ ハノイの指導者たちは南部における武力闘争を外交闘争と結合し︑国
際的に有利な力関係を形成することを通じて自らの戦略目的を達することに力を注いお︒抗米戦期の北ベトナム外
法学論集
交には戦時的色彩が濃厚に認められ︑そこではクラウゼヴィッツの有名な命題を転倒させて︑外交こそは﹁他の手
段を以てする戦争の延長﹂であったといっても過一一一白ではない︒そのことは外務省組織にも反映されたように思われ
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る︒たとえば︑米国の軍事介入が本格化した一九六五年︑西欧・米州局から北米局が独立し︑それはまもなく第一
局と第二局の二局構成となった︒第一局は南ベトナム情勢の分析を任務とするものであり︑それが北米局から枝分
かれして成立したということは︑ いかに当時のハノイが対米関係の観点から南部問題を捉えていたかを裏書きして
いる︒これに対して第二局は対米関係そのものを対象とし︑
問︒具体的数字は不明であるが︑当時の状況から見て︑これら二局にかなりの予算と人員が割当てられたであろう 一九七三年のパリ協定成立まで重要な役割を果してい
ことは容易に推測されるところである︒
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経済外交の模索
パリ協定成立後︑外務省は対外経済関係の拡大を自己の新たな役割として模索した︒すなわち︑政府は一九七四
年二月︑外務省の経済関連部門を再編成し︑経済局を発足させることを決めた︒経済局の目的は大別して四つあっ
た︒すなわち社会主義建設に奉仕する外交戦略の策定︑党と国家の対外経済政策への貢献︑具体的な対外経済活動 ハき の処理への貢献︑対外経済関係における具体的活動への参加︑がそれである︒経済局の設置は︑一九七三年十月の
第三期中央委員会第二十二回総会︵第三期二十二中総︶において︑国際的援助の﹁積極的奪取﹂と﹁外国との経済 ハぎ 関係の拡大﹂が決議されたことと関連していたように思われる︒ここで経済関係を拡大すべき対象には﹁若干の資
本主義国﹂が含まれていたし︑さらに南部併合後のベトナムは一九七七年までに世界銀行︵IBRD︶︑国際通貨
基金︵IMF︶︑アジア開発銀行︵ADB︶などに加盟した︒もし︑これら国際組織や資本主義国との経済関係が パお 早期に発展していたならば︑外務省もそれに応じた役割を対外経済関係において発揮しえたかも知れない︒しかし︑
現実には︑ドイモイの開始までは︑ベトナムの対外経済関係はソ連を中心とする社会主義国との間のそれに圧倒的
に集中していたし︑CMEA︵相互経済援助会議︶との関係の調整は外務省の管轄ではなく︑国家計画委員会の管
轄であった︒以上の結果︑当時の経済局の役割は︑国際経済に関する基礎的調査と交渉への実務的関与にほとんど
パぜ 限定された︒
外務省の経済的役割に対する期待が本格的に高まったのは一九八五年以降のことである︒一九八四年六月の第五
期六中総においてレー・ズアン︵冨U仁碧︶書記長がコつの世界市場﹂演説を行い︑資本主義国を含む諸国との パお 経済関係の拡大が党と国家の重要課題に位置づけられると︑ベトナム内部においては︑外交官も経済建設に積極的
に参加するべきであり︑伝統的外交と経済外交にそれぞれ半分ずつの比重で貢献するべきであると主張されるよう
になったのである︒その際︑外務省に最も期待されたのは︑カンボジア紛争による対越禁輸にいかに対処するか︑ 年二月︑外務省の経済関連部門を再編成し︑経済局を発足させることを決めた︒経済局の目的は大別して四つあっ た︒すなわち社会主義建設に奉仕する外交戦略の策定︑党と国家の対外経済政策への貢献︑具体的な対外経済活動 の処理への貢献︑対外経済関係における具体的活動への参加︑がそれであお︒経済局の設置は︑ 一九七三年十月の
ベトナムの対外政策決定過程一一機構的側面からの一考察
第三期中央委員会第二十二回総会(第三期二十二中総)において︑国際的援助の﹁積極的奪取﹂と﹁外国との経済
関係の拡大﹂が決議され起ことと関連していたように思われる︒ここで経済関係を拡大すべき対象には﹁若干の資
本主義国﹂が含まれていたし︑さらに南部併合後のベトナムは一九七七年までに世界銀行
( I B R D )
︑国際通貨
アジア開発銀行
( A
D B
)
などに加盟した︒もし︑これら国際組織や資本主義国との経済関係が
早期に発展していたならば︑外務省もそれに応じた役割を対外経済関係において発揮しえたかも知れな凶︒しかし︑ 基金
( I
M F
) ︑
現実には︑ドイモイの開始までは︑ベトナムの対外経済関係はソ連を中心とする社会主義国との間のそれに圧倒的
に集中していたし︑ CMEA( 相互経済援助会議)との関係の調整は外務省の管轄ではなく︑国家計画委員会の管
轄であった︒以上の結果︑当時の経済局の役割は︑国際経済に関する基礎的調査と交渉への実務的関与にほとんど
限 定
さ れ
問 ︒
外務省の経済的役割に対する期待が本格的に高まったのは一九八五年以降のことである︒ 一九八四年六月の第五
( z u g
ロ)書記長が﹁一つの世界市場﹂演説を行い︑資本主義国を含む諸国との
経済関係の拡大が党と国家の重要課題に位置づけられる回︑ベトナム内部においては︑外交官も経済建設に積極的 期六中総においてレ l
・ ズ
ア ン
に参加するべきであり︑伝統的外交と経済外交にそれぞれ半分ずつの比重で貢献するべきであると主張されるよう
になったのである︒その際︑外務省に最も期待されたのは︑カンボジア紛争による対越禁輸にいかに対処するか︑
法学論集 43〔山梨学院大学〕 10
CMEA諸国に対する過大な依存からどのようにして脱却するか︑石油資源を外貨獲得源へといかに発展させるか︑ パお 外国からの投資をどのようにして獲得するか︑などの具体的課題についての分析と提言であった︒
こうしたなかで︑外務省の経済関連部門は︑一九八五年を通じて大幅に拡張された︒すなわち経済局は分割され︑
対外経済政策企画局︑経済協力局︑世界経済局という三つの局が新設されたのである︒しかし︑この機構改革は︑
外交活動における経済外交の比重を飛躍的に高めようとする外務省の意欲を示すものではあったが︑改革の実は必
ずしもあがらなかった︒三局の間では︑経済協力局と世界経済局が情報の収集を︑対外経済政策企画局が政策の立
案をそれぞれ分担するとされたが︑実際にはそのような分業は必ずしも円滑でなく︑ときには不協和音を発した︒
その後︑これら三局は一九八六年に経済政策企画局と経済協力局の二局に統合され︑一九八七年には経済政策企画
局に一本化された︒さらに経済政策企画局は︑一九八八年に文化関係局との合併により経済・文化政策企画局とな
り︑一九八九年には国際組織局との合併により多角的経済・文化協力局となった︒このような統合は︑第一義的に
はドイモイの一環としての行政機構の簡素化の要請に従うものであり︑また部分的には経済外交の任務と国際組織
局の任務が相互に関連していたためであったが︑統合の結果︑多角的経済・文化協力局はさまざまな役割を同時に パ 担わされることとなり︑また︑その人員は五十名にも達し︑経済外交の能率は思うようには高まらなかった︒
一九九二年になると︑多角的経済・文化協力局から経済局が再び分離し︑それは一九九四年に経済政策企画局に
改組された︒一九九八年九月現在︑経済政策企画局は局長を含めて十六名の人員を持ち︑大別して二つの役割を担
っている︒第一は対外経済関係に関する情報収集であり︑その対象は国際経済の巨視的分析から国連や非同盟運動
を含む国際諸組織の経済機能にまで及んでいる︒第二は対外経済関係の促進であり︑その領域は貿易︑直接投資︑
一10一
10
CMEA 諸国に対する過大な依存からどのようにして脱却するか︑石油資源を外貨獲得源へといかに発展させるか︑
外国からの投資をどのようにして獲得するか︑などの具体的課題についての分析と提言であっ的︒
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(山梨学院大学〕
こうしたなかで︑外務省の経済関連部門は︑一九八五年を通じて大幅に拡張された︒すなわち経済局は分割され︑
対外経済政策企画局︑経済協力局︑世界経済局という三つの局が新設されたのである︒しかし︑この機構改革は︑
外交活動における経済外交の比重を飛躍的に高めようとする外務省の意欲を示すものではあったが︑改革の実は必
ずしもあがらなかった︒三局の間では︑経済協力局と世界経済局が情報の収集を︑対外経済政策企画局が政策の立
法学論集
案をそれぞれ分担するとされたが︑実際にはそのような分業は必ずしも円滑でなく︑ときには不協和音を発した︒
その後︑これら三局は一九八六年に経済政策企画局と経済協力局の二局に統合され︑ 一九八七年には経済政策企画
‑10ー
局に一本化された︒さらに経済政策企画局は 一九八八年に文化関係局との合併により経済・文化政策企画局とな
り
一九八九年には国際組織局との合併により多角的経済・文化協力局となった︒このような統合は︑第一義的に
はドイモイの一環としての行政機構の簡素化の要請に従うものであり︑また部分的には経済外交の任務と国際組織
局の任務が相互に関連していたためであったが︑統合の結果︑多角的経済・文化協力局はさまざまな役割を同時に
担わされることとなり︑また︑その人員は五十名にも達し︑経済外交の能率は思うようには高まらなかっ問︒
一九九二年になると︑多角的経済・文化協力局から経済局が再び分離し︑それは一九九四年に経済政策企画局に
改 組
さ れ
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一九九八年九月現在︑経済政策企画局は局長を含めて十六名の人員を持ち︑大別して二つの役割を担
っている︒第一は対外経済関係に関する情報収集であり︑その対象は国際経済の巨視的分析から国連や非同盟運動
を含む国際諸組織の経済機能にまで及んでいる︒第二は対外経済関係の促進であり︑その領域は貿易︑直接投資︑
11 ベトナムの対外政策決定過程一機構的側面からの一考察
政府開発援助︑労働輸出︑観光などに及んでいる︒二国問の案件は基本的には各地域局の管轄であるが︑複数の地
域局に関わる案件や二国間でも経済的色彩の濃い案件は経済政策企画局の管轄となる︒たとえば︑以前は国際組織
局やアジア第二局の管轄であったメコン協力は︑上記時点においては経済政策企画局の管轄となっており︑一九九 ハむ 七年のASEAN外相会議においてベトナムが行ったメコン協力に関する提案は同局によって起草された︒
他方︑経済局分離後の多角的経済・文化協力局は国際組織局に再編された︒国際組織局は︑計画・投資省などと パぞ ともに︑諸外国からの政府開発援助︵ODA︶を管轄している︒国際組織局はまた︑ニューヨークの国連代表部を
通じ︑国連を舞台とする外交活動において重要な役割を演じてきたし︑一九九五年の対米関係正常化までは米越間 パさ の事実上唯一の接触経路としても機能していた︒
3 ラ
(
ASEAN加盟の旗手として
抗米戦終了後︑外務省は︑政治・安全保障の領域においても︑新たな役割を模索した︒その一例は一九七八年六
月の世界問題局の設置であろう︒世界問題局は以下四点の研究を目的とした︒すなわち国際の平和と安全および軍
縮の問題︑植民地化と民族自決の問題︑人権問題ならびに社会問題︑国連および非同盟運動の体制と組織の問題︑
がそれである︒世界問題局はさらに︑省内の他の部局と協力しつつ︑欧州の集団安保︑アジアの集団安保︑国連の
人道援助︑国会議員連盟︑東南アジアにおける平和・安定・協力地域構想︑民族解放運動といった具体的諸問題に ハぞ 関する﹁主張と政策﹂についても研究を行うこととされた︒以上を総じていえば︑世界問題局は伝統的な二分法的
目軍事中心的国際関係観によっては必ずしも十分に捕捉できない国際関係上の諸問題を調査研究し︑政策決定者た 政府開発援助︑労働輸出︑観光などに及んでいる︒二国間の案件は基本的には各地域局の管轄であるが︑複数の地 域局に関わる案件や二国間でも経済的色彩の濃い案件は経済政策企画局の管轄となる︒たとえば︑以前は国際組織 局やアジア第二局の管轄であったメコン協力は︑上記時点においては経済政策企画局の管轄となっており︑ 七年の ASEAN 外相会議においてベトナムが行ったメコン協力に関する提案は同局によって起草され担︒
一 九
九 ベトナムの対外政策決定過程一一機構的側面からの一考察
他方︑経済局分離後の多角的経済・文化協力局は国際組織局に再編された︒国際組織局は︑計画・投資省などと
ともに︑諸外国からの政府開発援助
( O
D A
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を管轄していお︒国際組織局はまた︑ニューヨークの国連代表部を
通じ︑国連を舞台とする外交活動において重要な役割を演じてきたし︑
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( 3 )
ASEAN
加 盟 の 旗 手 と し て
抗米戦終了後︑外務省は︑政治・安全保障の領域においても︑新たな役割を模索した︒その一例は一九七八年六
月の世界問題局の設置であろう︒世界問題局は以下四点の研究を目的とした︒すなわち国際の平和と安全および軍
縮の問題︑植民地化と民族自決の問題︑人権問題ならびに社会問題︑国連および非同盟運動の体制と組織の問題︑
がそれである︒世界問題局はさらに︑省内の他の部局と協力しつつ︑欧州の集団安保︑ アジアの集団安保︑国連の
人道援助︑国会議員連盟︑東南アジアにおける平和・安定・協力地域構想︑民族解放運動といった具体的諸問題に
( 斜﹀
関する﹁主張と政策﹂についても研究を行うこととされた︒以上を総じていえば︑世界問題局は伝統的な二分法的
H 軍事中心的国際関係観によっては必ずしも十分に捕捉できない国際関係上の諸問題を調査研究し︑政策決定者た
法学論集 43〔山梨学院大学〕 12
ちに必要な情報を提供しようとするものであったと考えられる︒
一九七八年にはまた︑省内組織の一つとして︑対外政策の総合的研究を行なう小委員会が設置された︒この小委
員会は︑一九九〇年の対外政治・経済政策企画局への昇格を経て︑一九九三年に対外政策企画局に改組されるが︑
その間の時期において︑カンボジア紛争の政治的解決に関する研究作業に一個の基盤を提供するとともに︑一九八
六年七月の政治局第三十二号決議︑一九八八年五月の政治局第十三号決議︑一九九二年六月の第七期三中総決議な パぎ どの重要文書の形成に関与した︒これら三文書のうち︑政治局第十三号決議は︑戦争不可避論を基本的に否定した
上で︑国際関係の基調は軍事的対立ではなく経済・技術をめぐる競争になったという認識を示すとともに︑現代の
安全保障は﹁強大な経済力﹂﹁適度な国防力﹂﹁国際協力関係の拡大﹂によって確保されると主張した文書であり︑ パぞ そうすることを通じてカンボジア紛争の政治的解決を正当化したきわめて重要な文書である︒また︑第三の文書の
全貌は不祥であるが︑総会開始にあたりドー・ムオイ︵Oo三ぎ一︶書記長の行なった演説は︑﹁対外関係の拡大︑ パむ 多様化︑多角化﹂を主張していた︒対外関係の多角化という主張は︑ベトナムがただちにASEANの一員になる
ことと同義ではないであろうが︑ASEANを含む多国間組織との関係強化に積極的に取組むことを肯定するとと パぎ もに︑将来における加盟へ至る道を大きく開くものであったことは否定しえない︒これらの文書は︑その内容や当
時の指導者たちの諸々の言明などから考えて︑多分に外交当局者たちの意向を反映したものであろうと筆者は指摘
してきたが︑そうした指摘は本稿の分析からも裏書きされたことになろう︒
もちろん︑筆者が以上のように述べることは︑政治局がベトナムのASEAN加盟を最終的に決断するに至る過
程において外交当局者からの問題提起は一定の影響を持ったであろう︑という趣旨にとどまるものであって︑対外
一12一
12
ちに必要な情報を提供しようとするものであったと考えられる︒
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(山梨学院大学〕
一九七八年にはまた︑省内組織の一つとして︑対外政策の総合的研究を行なう小委員会が設置された︒この小委
員 会
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その聞の時期において︑カンボジア紛争の政治的解決に関する研究作業に一個の基盤を提供するとともに︑
一 九
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六年七月の政治局第三十二号決議︑
どの重要文書の形成に関与しが)︒これら三文書のうち︑政治局第十三号決議は︑戦争不可避論を基本的に否定した 一九八八年五月の政治局第十三号決議︑ 一九九二年六月の第七期三中総決議な
法学論集
上で︑国際関係の基調は軍事的対立ではなく経済・技術をめぐる競争になったという認識を示すとともに︑現代の
安全保障は﹁強大な経済力﹂﹁適度な国防力﹂﹁国際協力関係の拡大﹂によって確保されると主張した文書であり︑
そうすることを通じてカンボジア紛争の政治的解決を正当化したきわめて重要な文書であお︒また︑第三の文書の
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全貌は不祥であるが︑総会開始にあたりドl・ムオイ
多様化︑多角化﹂を主張してい問︒対外関係の多角化という主張は︑ベトナムがただちに ASEAN の一員になる
( ロ ︒ 冨
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書記長の行なった演説は︑﹁対外関係の拡大︑
ことと同義ではないであろうが︑ ASEAN を含む多国間組織との関係強化に積極的に取組むことを肯定するとと
もに︑将来における加盟ヘ至る道を大きく開くものであったことは否定しえな時︒これらの文書は︑その内容や当
時の指導者たちの諸々の言明などから考えて︑多分に外交当局者たちの意向を反映したものであろうと筆者は指摘
してきたが︑そうした指摘は本稿の分析からも裏書きされたことになろう︒
もちろん︑筆者が以上のように述べることは︑政治局がベトナムの ASEAN 加盟を最終的に決断するに至る過
程において外交当局者からの問題提起は一定の影響を持ったであろう︑という趣旨にとどまるものであって︑対外
13 ベトナムの対外政策決定過程一機構的側面からの一考察
路線の最終決定権を党が掌握している事実を否定するものでは決してない︒たとえば一九九四年一月に開催された
共産党全国代表者会議に提出された政治報告は︑公表された党文献としては初めて︑﹁ASEAN諸国およびAS パぎ EAN機構﹂との関係改善を提起したが︑同時に︑この代表者会議においては︑それまで政治局員候補であったグ パ エン・マイン・カム︵乞讐旨昌蜜きび9目︶外相の政治局員への昇格も決定された︒このことは︑一九九一年七月
の第七回党大会で当時のグエン・コ・タック︵Z讐﹃窪Oo醤8﹃︶外相が政治局員を退任して以来︑政治局におけ
る公式の発言権を失っていた外務省がそれを回復する過程と︑ASEANとの関係拡大論が共産党内において認知
を獲得してゆく過程が︑並行的に進行していた可能性を示唆するものといえるであろう︒
しかし︑そのような限定つきではあるにせよ︑共産党の一党支配を原則とする現体制の下において︑対外政策決
定過程における外務省の役割が着実に増大していることは確かである︒とりわけ一九九五年にASEAN加盟と対
米関係正常化がほとんど同時に達成されたことは︑外務省の権威を高めるものであったと考えられる︒対外政策企
画局の人員は十名程度であるが︑それは少数精鋭の原則の下に有機的に活動している︒対外政策企画局と外務省内
の党幹事会との間の意思疎通は緊密である︒党や国会に提出される対外政策に関する文書はしばしば対外政策企画
局において起草されるし︑対外政策企画局の作成する情勢分析報告は︑外務省を含む各省の幹部に回覧される︒党 パむ と国家の幹部の外遊や外国の要人のベトナム訪問に関する基本計画を立案するのも対外政策企画局の役割である︒
(4)
冷戦終結以後の再編成
一九九一年秋のカンボジア和平協定成立により︑ベトナムは一九四五年以来初めて戦時から平時への転換を本格 路線の最終決定権を党が掌握している事実を否定するものでは決してない︒たとえば一九九四年一月に開催された 共産党全国代表者会議に提出された政治報告は︑公表された党文献としては初めて︑﹁ ASEAN 諸国および
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しかし︑そのような限定つきではあるにせよ︑共産党の一党支配を原則とする現体制の下において︑対外政策決
定過程における外務省の役割が着実に増大していることは確かである︒とりわけ一九九五年に ASEAN 加盟と対
米関係正常化がほとんど同時に達成されたことは︑外務省の権威を高めるものであったと考えられる︒対外政策企
画局の人員は十名程度であるが︑それは少数精鋭の原則の下に有機的に活動している︒対外政策企画局と外務省内
の党幹事会との間の意思疎通は緊密である︒党や国会に提出される対外政策に関する文書はしばしば対外政策企画
局において起草されるし︑対外政策企画局の作成する情勢分析報告は︑外務省を含む各省の幹部に回覧される︒党
と国家の幹部の外遊や外国の要人のベトナム訪問に関する基本計画を立案するのも対外政策企画局の役割であお︒
( 4 )
冷戦終結以後の再編成
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一九九一年秋のカンボジア和平協定成立により︑ベトナムは一九四五年以来初めて戦時から平時への転換を本格
法学論集 43〔山梨学院大学〕 14
的に展望できるようになった︒そこへ至る過程においては︑一九八九年秋の社会主義陣営解体により︑﹁二つの世
界﹂の対立もまた終りを告げた︒国際環境のそうした変化は外務省組織にも影響を与えたように思われる︒まず︑
ソ連局は一九九一年に東欧第一局に改組され︑一九九三年には東欧・中央アジア局の中に統合された︒一九九三年
にはまた︑それまでラオスとカンボジアを管轄していたアジア第二局はアジア第三局と合併し︑東南アジア・南太
平洋局となった︒ソ連解体後のロシアが東欧・中央アジア局の所管とされたこと︑ラオスとカンボジアを専管する
局が廃されたことは︑行政機構の簡素化の一環であったと同時に︑おそらくは対外政策上の重点変化に対応するも
のでもあったであろう︒地域局の再編はその後も進み︑一九九七年三月に六つの局に整理された︒すなわちアジア
第一局︑アジア第二局︑欧州第一局︑欧州第二局︑アフリカ・中東局︑米州局︑がそれである︒このうち欧州第一
局は東欧・中央アジア局の後継であり︑アジア第一局は中国︑モンゴル︑朝鮮︑日本を︑アジア第二局は東南アジ
ア︑大洋州︑南アジアをそれぞれ管轄している︒一九九七年八月現在︑地域局の中ではアジア第二局が約四十名の パゑ 人員を擁して最大規模を誇っている︒
この間︑一九九四年九月には︑ASEAN局の新設も行なわれた︒これは同年夏のASEAN外相会議において パおレ 翌年からのベトナムの加盟が事実上同意されたことを受けた措置である︒ASEAN局は大別して二つの役割を負
わされている︒第一は︑ベトナムとASEAN組織との間の個別問題の処理に関する﹁方針︑政策︑措置﹂につい
て︑外相に意見具申をすることである︒一九九七年八月現在︑ASEAN局には局長︑二名の次長︑十三名の局員
がおり︑それらは機能協力︑政治安保協力︑経済協力︑一般問題の四つの班に分かれて活動している︒上記のよう
に︑ASEAN局の管轄はあくまでASEAN組織との関係であり︑したがって︑たとえばASEM︵アジア欧州
一14一
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的に展望できるようになった︒そこへ至る過程においては︑ 一九八九年秋の社会主義陣営解体により︑﹁二つの世
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界﹂の対立もまた終りを告げた︒国際環境のそうした変化は外務省組織にも影響を与えたように思われる︒まず︑
ソ連局は一九九一年に東欧第一局に改組され 一九九三年には東欧・中央アジア局の中に統合された︒ 一九九三年
にはまた︑それまでラオスとカンボジアを管轄していたアジア第二局はアジア第三局と合併し︑東南アジア・南太
平洋局となった︒ソ連解体後のロシアが東欧・中央アジア局の所管とされたこと︑ラオスとカンボジアを専管する
局が廃されたことは︑行政機構の簡素化の一環であったと同時に︑おそらくは対外政策上の重点変化に対応するも
法学論集
のでもあったであろう︒地域局の再編はその後も進み 一九九七年三月に六つの局に整理された︒すなわちアジア
アフリカ・中東局︑米州局︑がそれである︒このうち欧州第一
第 一
局 ︑
アジア第二局︑欧州第一局︑欧州第二局︑
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