『 岩 手 毎 日 新 聞 』
「 文 芸 欄
」 お よ び 関 連 記 事 に 見 る 文 化 伝 播 の 諸 相
―一 九一
〇年 代の 文学
・美 術、 及び 文化 の動 向、 宮沢 賢治 の文 学揺 籃期 に関 する 一考 察―
秋 枝 美 保
・ 谷 川 充 美
岩手 県の 文化 は、 明治 末期 から 大正 期に かけ て中 央の 文化 と深 い関 係を 持ち
、文 学で は石 川啄 木、 美術 では 萬鉄 五郎 など が出 て、 日本 文化 史に 少な から ぬ影 響を 与え てい る。 中央 と地 方の 文化 交流 を媒 介し たの は新 聞・ 雑誌 など のメ ディ アで ある
。本 論に おい ては
、敏 腕編 集者 の下 で新 しい 文化 を積 極的 に紙 面に 掲 載し た『 岩手 毎日 新聞
』を 調査 する とと もに
、当 時の 新し い文 化伝 播の 状況 を明 らか にし
、次 代の 文化 創造 の基 盤を 究明 する
。
【キ ーワ ード
岩手 毎日 新聞
フュ ウザ ン会
大正 期文 化】 はじ
めに 秋枝 は、 宮沢 賢治 にお ける
「心 象ス ケッ チ」 とい う方 法の 成立 につ いて 論じ る過 程で
、そ の方 法が 同時 代の 美術 にお ける 表現 革 命と 軌を 一に して いる こと を指 摘し た( 注1)
。特 にそ の表 現革 命 には
、岩 手県 内の 同時 代の 文学( 短歌) 活動 と、 後期 印象 派を 受容 して 独自 の画 風を 打ち 立て た花 巻市 出身 の萬 鉄五 郎の 画論 とに
、 深い 関わ りが ある こと を指 摘し た。 それ らの 活発 な動 きは
、い ず れも
『岩 手毎 日新 聞』 の紙 上に 見る こと がで きる
。
『岩 手毎 日新 聞』( 一八 九九 年・ 明治 三十 二年 二月 創刊
、一 九三 三年
・昭 和八 年四 月廃 刊) は、 大正 時代 には
、石 川啄 木の 詩友 で、 敏腕 編集 者と して 知ら れる 岡山 不衣 が主 筆と して 在籍 して おり
、
文化 欄の 充実 には 眼を 見張 るも のが ある
。当 時の 地方 新聞 の文 化 動向 を知 るこ とは
、地 方で 揺籃 期を 過ご した 文学 者た ちの 文化 形 成の 基盤 を知 るこ とに つな がる と考 えら れる
。当 時の 作家 達は
、 郷里 と東 京と の間 を往 復し なが ら、 両方 の文 化的 背景 の中 でそ れ ぞれ 表現 活動 の立 ち上 げを 行っ てい るか らで ある
。 前掲 の拙 論に おい ては
、宮 沢賢 治の 表現 方法 の確 立に 影響 を与 えた と考 えら れる
、同 紙掲 載の 萬の 画論
「友 人の 批評 に答 へる 手 紙」(
『岩 手毎 日新 聞』 一九 一三 年・ 大正 二年 一月 一日) につ いて 言及 した
。萬 は、 一九 一二 年・ 明治 四十 五年 四月
、東 京美 術学 校 を卒 業後
、フ ュウ ザン 会で の活 動を 通し て後 期印 象派 の影 響の 下 で新 たな 表現 を生 み出 す途 次に あっ たが
、一 九一 四年
・大 正三 年
から 郷里 の岩 手県 花巻 市に 帰省 して 自ら の画 風の 完成 に取 り組 ん だ。
『岩 手毎 日新 聞』 紙上 にお いて は、 この 記事 の前 後に
、現 代美 術に 関連 する 記事 の連 載が ある
。 本論 第一 部に おい ては
、『 岩手 毎日 新聞
』の 一九 一二 年・ 大正 元 年十 一月 から の美 術関 連記 事を 取り 上げ て、 中央 の文 化の
、地 方 伝播 の現 状を 明ら かに する( 秋枝 担当)
。第 二部 はそ れら の文 化活 動に おけ る文 化人 の交 流の 様相 から 時代 思潮 の一 端を 明ら かに す る( 谷川 担当)
。(
「は じめ に」
・「 おわ りに
」は 秋枝 担当
) 第一 部
『岩 手毎 日新 聞』 にお ける 萬鉄 五郎 の画 業に 関す る記 事
―後 期印 象派 の受 容と フュ ウザ ン会 の活 動と の関 連― はじ めに 後期 印象 派の 認知 と紹 介に つい て、 美術 史家
・田 中淳 は、 次の よう に述 べて いる( 注2)
。
一九 一〇 年十 一月
、ロ ンド ンの グラ フト ン・ ギャ ラリ ー で、ManetandthePost
‐impressionists
と題 され た展 覧会 がひ らか れ、 すく なか らず ロン ドン の美 術界 の話 題と なっ た。 その 展覧 会の 内容 は、
「ゴ ーギ ャン
、ゴ ッホ
、セ ザン ヌを 中心 に、 スー ラ、 セル ジエ
、モ ーリ ス・ ドニ
、ヴ ァロ ット ン、 ルド ン、 さ らに
、二 十世 紀の 新し い動 向を 示す ため に、 マル ケ、 マン ギャ ン、 ルオ ー、 ヴラ マン ク、 ドラ ンと いっ たフ ォー ヴィ スム の画 家た ち
の作 品が 加え られ
、マ チス
、ピ カソ の作 品も わず かで はあ るが 出 品さ れて いた
」と いう
。 この 展覧 会の 内容 は、
「報 道、 画集
、評 論、 そし て複 製図 版を と おし て、 日本 に影 響が 及ぶ こと にな る」 とし
、そ の最 も早 いも の が一 九一
〇年 十二 月十 日『 萬朝 報』 での
「倫 敦雑 信 本社 特約 通 信員 在倫 敦 ウオ カー 夫人
」の 文章 であ り、 つい で一 九一 一年 八月
『早 稲田 文学
』六 十九 号に 掲載 され た仲 田勝 之助 の評 論「 後 期印 象派 の精 神」
、さ らに 一九 一二 年四 月創 刊の 美術 雑誌
『現 代の 洋画
』の 四、 五号( 同年 七、 八月) に掲 載さ れた 木村 荘八( ペン ネー ム 木村 章) の「 後期 印象 派の 画家 ポー ル・ ゴー ギャ ン」
、「 後期 印象 派の 画家( 二) ヴァ ン・ ゴー ホ」 とい う記 事だ とい う。 そし て、 一九 一二 年の 美術 界を 回顧 する 一九 一三 年正 月の
『萬 朝報
』の 記事 を、 次の よう に挙 げて いる
。
ハイ ンド 氏の
『ポ スト
・ア ンプ レツ ショ ニス ト』 等の 出版 物を 仲介 とし て後 印象 派の 紹介 せら れ、 併せ てそ の作 風の 流 入し たる は特 筆す べき
、昨 年の 一現 象に して
、殊 にわ が邦 の 洋画 が久 しく 写実 主義
、自 然主 義の 淵に 沈淪 して
、そ の一 部 の如 きは 既に 腐水 を見 るの 折り から
、こ の派 の主 張は 実に 頂 門の 一針 にし て、 ひと り洋 画の みな らず
、美 術界 通じ て好 影 響あ るべ きは 争ふ べく もあ らず
。 後期 印象 派の 影響 を受 けた 画家 たち( 斎藤 与里
、岸 田劉 生、 高村 光太 郎な ど) は、 一九 一二 年・ 大正 元年 九月 に「 ヒュ ウザ ン会
」( 後 に「 フュ ウザ ン会
」と 改め た) とい う美 術集 団を 結成 し、 十月 十五 日か ら十 一月 三日 まで 第一 回ヒ ュウ ザン 会展 を開 催し た( 会場 は
銀座 の読 売新 聞社
)。 一九 一三 年・ 大正 二年 三月 十一 日か ら同 月三 十日 まで 第二 回フ ュウ ザン 会展 を開 催( 会場 は読 売新 聞社
)し
、 同年 五月 二十 五日 に解 散が 決定 して
、そ の後 それ ぞれ 独自 の活 動 に移 行し て行 った
。こ の活 動の 実態 につ いて は、 前掲 の田 中淳 の 著書 に詳 しい( 注3)
。そ れに よれ ば、 東京 美術 学校 の在 学生 を中 心と して
、そ れ以 前に
「既 成の 美術 団体 の肥 大化 と固 定化 に対 す る、 青年 画家 たち の反 発」 から なっ た小 グル ープ の乱 立が あり
、
「「 後期 印象 派」 絵画 に感 じ取 った 彼ら
、ひ とり ひと りが 集ま った とき
、グ ルー プが 生ま れ、 運動 体と なっ てい った
」の では ない か とし てい る。 一九 一二 年・ 大正 元年 十一 月に は雑 誌『 ヒュ ウザ ン』 を刊 行し た。 田中 は、 この 章の
「む すび
」で
、フ ュウ ザン 会に つい て「
「後 期 印象 派」 の受 容と いう 側面 から みれ ば、 その 絵画 の影 響が 日本 に 最初 にあ らわ れた グル ープ であ った とい うこ とを 確認 して おき た い」 と結 論づ けて いる
。ま た、 木村 荘八 の評 論活 動と 創作 を検 証 した 結果
、そ れら の活 動が
「や がて 内面 の自 己意 識の 増大 によ っ て大 きく 展開 し、 増大 した
「自 己」 とい うフ ィル ター を通 して
、
「後 期印 象派
」絵 画を 絶対 視す るよ うに なっ てい った
」と
、そ の 受容 の軌 跡を 総括 して いる
。本 論に おい ては
、そ れら 中央 での 受 容が
、地 方に おい てど のよ うな 受け 止め 方を され てい くの かを
、 地方 紙『 岩手 毎日 新聞
』の 紙面 から 明ら かに した い。 花巻 市出 身の 画家
・萬 鉄五 郎は
、フ ュウ ザン 会の 有力 メン バー の一 人で あり
、解 散後 の大 正三 年夏 頃に は郷 里花 巻市 に帰 省し
、 大正 五年 一月 に上 京す るま で、 そこ で独 自の 画風 の形 成に 専念 し
た。 一九 一一 年か ら、
『岩 手毎 日新 聞』 では
、萬 の挿 画が 頻繁 に掲 載さ れて おり
、彼 の画 業に 関す る批 評文 も多 く見 られ る。 同時 に、 その 表現 革命 が文 学に も影 響を 与え てお り、 県下 の文 学活 動の 新し い動 きに つい ての 記事 が掲 載さ れて いる のを 見る こ とが でき る。 この よう に、 本論 にお いて は、 萬へ の注 目を 契機 と して
、フ ュウ ザン 会の 活動 への 関心 が高 まっ たこ とに 連動 して 岩 手県 内の 文化 活動 が活 発化 した 様を
、同 紙文 化欄 の記 事か ら明 ら かに する
。そ れは
、大 正後 期に 新た な表 現を 生み 出し て行 く宮 沢 賢治 以後 の世 代の 文学 者に も影 響を 与え たと 思わ れる
。賢 治の 作 品に つい ては
、同 紙一 九二 三年
(大 正十 二年
)に
〈心 象ス ケッ チ
「外 輪山
」〉
、童 話「 やま なし
」、 童話
「氷 河鼠 の毛 皮」 が掲 載さ れ るこ とに なる
。本 論は
、宮 沢賢 治の 周辺 の文 化事 情に つい て、 宮 沢賢 治文 学揺 籃期 の文 化受 容の 背景 を明 らか にす るこ とを 目的 と する
。 一、 フュ ウザ ン会 に関 する 反響
―『 岩手 毎日 新聞
』紙 面に 見る
― 田中 によ れば
、「 第一 回ヒ ュウ ザン 会展 覧会 目録
」に は三 三人 の 名前 が記 され てい ると のこ とで
、し かも 当時 の雑 誌に 掲載 され た 出品 作品 との 異動 があ り、
「実 際に 出品 した 画家 の数 以上 に声 をか けて いた ので はな いか とお もう
」と ある
。そ の中 の三 分の 一は
、
「生 没年 すら 不詳 のま まで ある
」と あり
、「 寄合 所帯
」的 な性 格が 指摘 され てい る。 その 展覧 会に つい ての 紹介
・批 評の 記事 は、 展覧 会開 始の 翌日
から
『読 売新 聞』 を始 め各 紙に 出て おり
、一 般か らも 注目 され て いた こと がわ かる
。し かし
、い ずれ も「 後期 印象 派の 模倣
」、
「子 供の 悪戯
」と いっ た否 定的 な評 言が 目に 付く
。田 中は
、そ れら の 批評 記事 につ いて
、い ずれ も「 後期 印象 派」 絵画 との 対比 で出 品 画を 批評 して いる こと に注 目し
、そ れは
「後 期印 象派
」と いう 言 葉が
「批 評の 言葉
」と して 使用 され た最 初の こと では なか った か と、 日本 美術 史上 の画 期的 な出 来事 とし て評 価し てい る。 その 中 で、 冷静 で客 観的 な批 評を 述べ た内 田魯 庵の 批評 を挙 げ、
「オ リジ ナリ チー に頗 る欠 けて をる
」と 手厳 しい 批判 を述 べた こと を指 摘 して いる(
『読 売新 聞』 十月 二十 五日)
・二 十六 日)
。 田中 が著 書の 序論 で述 べて いる よう に、
「後 期印 象派
」の 受容 は メデ ィア を通 して 行わ れた のだ が、 それ は「 本家 本元 の文 脈を は なれ て、 波及 した 側の 文脈
、つ まり 受容 する 側の 精神
、知 識、 感 覚、 感情 など の主 体的 な位 相と 絵画 表現 との 問題 とし て受 けと ら れて いく
」と 述べ てい るよ うに
、中 央画 壇で の受 容は
、地 方へ と 波紋 を拡 げて いく こと にな るの であ る。 それ はど のよ うに 受け 止 めら れて いく ので あろ うか
。
『岩 手毎 日新 聞』 にお いて は、 ほぼ 半月 遅れ で関 連記 事が 次々 に掲 載さ れて おり
、そ の関 心の 高ま りが うか がわ れる
。そ の記 事 に刺 戟さ れる よう に、 県内 の文 学者 の動 向も 同時 並行 的に 報道 さ れて おり
、紙 面全 般に 総合 的な 表現 革命 の様 相を みる こと がで き る。 萬鉄 五郎 に関 する 記事 で最 もま とま った もの は、
『岩 手毎 日新 聞』 一九 一二 年・ 大正 元年 十一 月十 五日
~同 十一 月二 十七 日ま で 連載 され た、
「新 しい 画家 萬君
」( 一)
~( 四) と題 した 紹介 記事 であ
る。 これ は、 展覧 会を 実見 せず
、文 献か らの 情報 に基 づい て書 か れた もの であ る。 この 連載 記事 の前 後に
、下 記の よう な関 連の 記事 が続 いて 掲載 され てい る。 前述 の通 り、 第一 回ヒ ュウ ザン 会展 が、 十月 十五 日 から 十一 月三 日ま で行 われ てい るた め、 これ らの 記事 は、 その 会 期中 から 始ま って いる こと にな る。 大正 元年 十一 月二 日
「東 京に をる 友へ
」( 文芸 欄) 十一 月七 日
「味 はし むる 絵( 上)
」( 文芸 欄) 十一 月八 日
「味 はし むる 絵( 下)
」( 文芸 欄) 十一 月十 三日
「風 景」 萬鉄 五郎 氏筆( フュ ウザ ン会 展示 の一 つ) 十一 月十 五日
~十 一月 二十 七日 まで
、「 新し い画 家萬 君」( 一)
~( 四)
(文 芸欄
) 十二 月二 十四 日「 新ら し」 と云 ふ事( 文芸 欄) これ らの 関連 記事 は、 翌一 九一 三年
・大 正二 年前 半期 まで 続い て 行く 大 。 正二 年一 月一 日 萬鉄 五郎
「友 人の 批評 に答 へる 手紙
」( 一一 面) 一月 三十 一日 金田 一陸 郎「 京の 友人 へ( 上)
」( 文芸 欄) 二月 一日 同上
「京 の友 人へ( 下)
」( 文芸 欄) 以下 三篇 は「 創刊 十五 周年 記念 号」 の一 面 三月 二十 五日 孤杉 山房
「閑 日記
」( 三月 十四 日)
「フ ュウ ザン 会( 一)
」
三月 二十 六日 孤杉 山房
「閑 日記
」( 三月 十四 日)
「フ ュウ ザン 会( 二)
」 三月 二十 七日 孤杉 山房
「閑 日記
」( 三月 十四 日)
「フ ュウ ザン 会( 三)
」
「京 の友 人へ
」は
、雑 誌『 ヒュ ウザ ン』 に関 して
、「 閑日 記」 は、 第二 回「 フュ ウザ ン会 展」 に関 する もの であ る。 この よう に、 東 京で の美 術の 動向 は、 ほぼ 同時 に岩 手県 内に も報 道さ れて いる こ とを 知る こと がで きる
。 これ らの 記事 を見 ると
、フ ュウ ザン 会の 絵画 は、 その 画期 的な 表現 のあ り方 につ いて 物議 をか もし
、大 きく 扱わ れて いる
。 先ず
、初 めに
、「 文芸 欄」 にお いて 作品 を紹 介す る記 事が 掲載 さ れて いる
。 十一 月二 日、
「光 鳥生
」著
「東 京に をる 友へ
」は
、文 展の 絵に 関 心が ない こと を述 べる 一方
、フ ュウ ザン 会の 萬鉄 五郎 を紹 介し
、
「従 来の 本件 の画 家は あま りア カデ ミッ クす ぎた 様で した が萬 氏 のよ うな 人を 出し たこ とを 大変 気持 よく 思つ てゐ ます
。」 と好 意的 に評 価し てい る。 その 絵を
「模 倣」 だと する 意見 を否 定し
、「 その 物に 共鳴 した 結果
」の もの だと 弁護 して いる
。ま た、 佐々 木繁( 作 家) が萬 と面 識が ある こと
、萬 の絵 が秋 田雨 雀の とこ ろに ある とし てい る。 これ は展 覧会 を実 見し たも ので はな いよ うで ある
。 十一 月七 日・ 八日 の佐 藤弧 葉著
「味 はし むる 絵」 にお いて は、 絵画 表現 につ いて 独自 の評 言か ら批 評を して いる が、 中央 画壇 の 批評 を自 分流 にア レン ジし たも のか と思 われ る。 絵を
「読 まし む る絵
」・
「見 せし むる 絵」
・「 味は しむ る絵
」の 三種 に分 け、 絵の 価 値を
「味 はし むる 絵」 に置 いて おり
、そ の代 表作 とし て文 展の 作
品を 挙げ てい る。 文末 にフ ュウ ザン 会に つい ての 評価 を段 下げ で 別途 付け 加え てお り、 展覧 会を 実見 せず
、内 田魯 庵な ど中 央で の 否定 的評 価に 従っ てい るこ とが 疑わ れる 文章 であ る。
「見 せし むる 絵」 の代 表を 竹久 夢二 の絵 とし
、「 内容 のな いの を画 題一 つで 無理 に読 まし むる
」も のと する
。そ れに は「 主観 的匂 ひ― 自人 格― 内 容と かい ふも の」 が貧 弱だ とし てい る。 これ に対 して
「見 せし む る絵
」は
、「 其の 画面 にあ らは れた 画そ れ自 身よ り外 に何 もな いも の」
、「 没人 格の 画」 とし
、「 写真 と何 の選 ぶ所 のな い画
」、
「無 意味 の画
」と して いる
。 これ らに 対し て、 絵と は「 もつ と強 いも の」
「チ ャー ム」 をも ち、
「人 をエ デュ ケー ショ ンす るも の」 であ ると 述べ て、
「人 をし て力 を思 はし め一 種い はれ ぬ感 情― 僕は これ を文 学的 感情 或は 審美 的 霊感 とで もい ひ度 い― を抱 かし める 画」 が最 も重 要で ある と述 べ てい る。 そこ には
、「 作者 の実 感が こも つて
」お り、 作者 の「 思想 上の 位置
」「 気分
」の 状態 が現 れ、
「主 調、 ねら ひ所
」も すべ て現 れて おり
、そ れゆ えに
「内 容の 充実 した 画」 であ り、 一方 描法 な どそ の「 形式
」は
「極 めて 自由
」で あり
、「 内容 に応 じた 作者 の偽 らざ る形 式の 下に 現れ る」 絵と して いる
。そ れを
「想 ひの 動く 画」
「主 調の 生き た画
」と して
、「 形骸 的の 画」 では なく
、「 生き た生 命あ る画
」だ とす る。 ただ
、こ の絵 は鑑 賞者 の力 量を 問う もの で あり
、こ れを 鑑賞 しよ うと すれ ば、
「因 襲的 の苦 しい 鉄鎖 をは なれ て勃 興す る気 分で 生き た画 の国 に達 せね ばな らぬ
」と して いる
。 作者 の思 想、 主調
、気 分、 生命 とい った 評言 が重 ねら れて おり
、 作者 の主 観を 重視 する とと もに
、そ れを 受容 する 鑑賞 者の 主観 的
働き かけ を重 視す る論 調と なっ てい る。 フュ ウザ ン会 の絵 につ いて は、
「味 はし むる 画で はな く、 訴ふ る 画で ある と思 ふ」 とし
、「 少し デカ ダン 的気 分の もの ゝや うに 思は れる
。横 から 観察 して ゐる 人々 の画 であ るや うに 思は れる
」と し て、
「も う少 し徹 底し たも のを みせ られ ない うち は」
「雷 同」 しが たい とし てい る。 ただ し、
「新 しい 流れ に棹 さし てゐ るこ とだ けは 事実 であ る」 と、 その 挑戦 的な 活動 には 注目 して いる
。 この よう に、 物議 をか もし た第 一回 ヒュ ウザ ン会 展で 展示 され た萬 の「 風景
」は
、絵 画の 写真 が掲 載さ れ、 紹介 の言 葉が 付さ れ てい る。 大正 元年 十一 月十 三日
「風 景」 萬鉄 五郎 氏筆( 引用 者注
―第 一回 ヒュ ウザ ン会 展示 の一
つ)
『風 景』 萬鉄 五郎 氏筆
この 画は 本県 土澤 から 出た 新し い画 家萬 鉄五 郎氏 が本 年の フュ ーザ ン会 に出 陳し た作 品の 一つ であ る。 ある 人は これ を 見て
、子 供の いた づら のや うだ と云 つた
。又 ある 人は 木だ か 家だ か分 らな いと 云つ た、 果た して さう であ らう か、 果た し て子 供の いた づら か、 木だ か家 だか 分ら ない か、 我々 は油 絵 と云 へば
、写 真の やう に見 える もの と心 得て ゐる 人に 対し て 新し い画 家の 事業 を説 明し なく ては なら ない
。 これ らの 紹介 記事 を踏 まえ て、 実際 にヒ ュウ ザン 会展 での 萬鉄 五郎 の絵 を紙 面に 掲載 して
、本 格的 な解 説・ 批評 がな され たの が
「新 しい 画家 萬君
」( 一)
~( 四) の連 載記 事( 一九 一二 年・ 大正 元年 十一 月十 五日
~同 十一 月二 十七 日) とい える
。執 筆者 の「 白楊 屋主
人」 は不 明で ある が、 美術 史の 専門 用語 を踏 まえ ての 解説 とな っ てい る。 中央 のメ ディ アの 批評 を受 けて
、「 後期 印象 派」 との 関係 から 説明 しよ うと して いる
。た だし
、筆 者自 身が 述べ てい るよ う に、 この 展覧 会を 実見 して の文 章で はな い。 紙面 にヒ ュウ ザン 会展 に展 示し た萬 の画 を掲 載し たと ころ
、一 般読 者か ら「 これ は画 だら うか
」「 子供 でも 描け さう だ」 とい った 感想 が聞 かれ たた め、
「こ れが 画だ
」「 然も 新し い我 が岩 手県 人の 書い た画 だ」 と解 説す る必 要が 生じ たと して いる
。た だ、 フュ ウ ザン 会の 人々 の画 は「 一般 の承 認」 はお ろか
、「 黒人 仲間
」に すら 疑問 をも たれ てい る様 だと 中央 での 批評 の現 状に つい て言 及し て いる
。彼 らの 画は
、「 後期 印象 派」 とい う部 類に 入る が、 ある
「物 の分 った 人」 の言 によ れば
、「 日本 の画 かき を啓 発す る」 には いい が、
「後 期印 象派
」の
「模 倣」 だけ で、
「独 創の 苦し みを 経た もの でな いな ら考 へも のだ
」と
、内 田魯 庵の 批判 を思 わせ る批 評を 紹 介し てい る。 また
、後 期印 象派 の画 自体 が「 芸術 のほ んと の道
」 であ るか 疑問 であ り、 フュ ウザ ン会 の人 々が いく ら「 真実 の共 鳴」 を見 出し たと して も「 畢竟 笑ふ べき こと
」だ と問 題提 起を した う えで
、「 後期 印象 派」 解説 の必 要性 を示 して いる
。
「後 期印 象派
」に つい ては
、「 ポオ ル、 ゴオ ガン
。ポ オル
、セ ザ ンヌ
。ヴ ィン ツエ ント
、ヴ ァン
、ゴ オホ
。ア ンリ
、マ チス
。こ れ 等の 画家 はい ずれ も 後 期 印 象 派
ポス トア ンプ レッ ショ ニス ト
画家 の翹 礎な ので ある
」と 紹 介さ れて おり
、先 ずは この 一派 の画 が「 薪ざ ツぽ のや うな 画を 奨 励す る流 派か
」と いう こと を説 明す ると し、 その 歴史 的意 義に つ
いて の解 説に 移る
。
(
二) は、
「仏 蘭西 に於 ける 近代 画発 達の 経緯
」を 常套 的に 説明 し てい る。 近代 画の 始ま りは
「コ ロー
、ミ レー
、ク ール ベー
」等 か ら始 まり
、彼 らの 特徴 は「 それ 以前
、物 象の 形骸 を無 意味 に辿 っ て来 た実 派や
、題 意に 誇張 を加 へる こと を意 とし ない 人々 に対 し て光 線、 空気 等を 重ん じ、 且つ 平凡 な題 材を 平凡 なま まに 取扱 ふ 自然 主義 の行 き方 をと る」 とこ ろに ある とし てい る。 これ 等の 傾向 は、 しか し一 面「 写実 と云 はざ るを 得な いも のが ある
」が
、「 もッ と真 の光 線、 もッ と真 の空 気を 研究 して 行つ た」
「エ ヅア ール
、マ ネー だの
、ク ロー ド、 モネ ーだ の」 は、 同じ 物 でも 時間 的な 推移 を表 現す るほ どに
、「 色彩 感覚 を鋭 敏に した
」。 これ が「 印象 派」 とい う流 派で あっ たが
、「 後期 印象 派は 之を 発達 点に して 更に 一層 の痛 切を 加へ たも ので ある
」と する
。 印象 派の 光線 を重 んじ る傾 向は
、
「ヘ ルホ ルツ など の光 学を 参照 して 益々 科学 的に 詳細 な研 究の 歩を 進め て行 った が」
、「 その 極ま る処 は必 ずし も芸 術的 に物 象の 生命 を把 握す る所 以で はな
」く
、 そこ に「 自然 の生 命に 沈潜 する 方法
」に
「一 転機
」を 見出 すこ と とな った とい う。
(
三) は、 後期 印象 派の 方法 の開 発に つい ての 解説 であ る。 その きっ かけ を作 った のが 日本 の浮 世絵 であ った こと に言 及、 それ が 小説 家の ゾラ やゴ ンク ール に紹 介さ れて
、印 象派 も歌 麿、 広重 な どに 影響 され る所 が多 かっ たこ とを 挙げ
、「 浮世 絵作 家の
、単 純大 胆に して 若か も全 体の 調和 を保 つた 手法
」が
「意 味深 くな がめ ら れ」 たと して いる
。そ こで
、「 新印 象派
」の
「煩 雑な 色の 研究 より
も、 直接 に色 の生 命そ のも のに ぶッ かる には
、色 と色 との 間の
、 幾十 百の 段階 はむ しろ 邪魔 にな る。 そん なも のが 間に はさ まれ ば 挟ま る程
、色 の生 命に 対す る把 握が 第一 義的 でな くな る」 と思 い つい たの が後 期印 象派 であ った と説 明す る。 その 上で
、後 期印 象派 の眼 目を
「在 来の 作家 が殆 ど全 力を 挙げ て物 象の 空気 や光 線の 表は れを 解釈 して ゐた のに 対し て其 努力 の 大半 を自 家心 内の 目に 集中 して
」、
「直 ちに 自分 と云 ふも のゝ 気分 を表 はす もの
」だ とす る。 これ を言 い換 えて
、そ の画 を「 物象 そ のも ので ある こと も必 要だ が、 それ と共 に自 分自 身で ある こと が 最も 必要 だ」 とし てい る。 フュ ウザ ン会 の画 に対 する 批評 で、 そ の作 品が
「区 々」 で「 一つ の団 体と 見做 すこ とが 出来 ない
」と い うの があ るが
、そ れは 彼等 一人 ひと りの 主張 が異 なる から で、 そ こに こそ 彼ら の目 指す とこ ろが ある のだ とし てい る。 その 結果
、「 自分 の気 分を 尊重 する
」彼 らの 画は 必然 的に
「象 徴 的に なっ てく る」 とし
、「 遠近 法だ の、 始め から 打算 して かゝ る調 和だ のと 云ふ こと は、 如何 にも 愚劣 極ま った 事に 違い ない
」と
、 画の あり 方が
、そ れ以 前と は根 本的 に異 なる とし てい る。 これ らを 踏ま えて
、フ ュウ ザン 会の 作品 の「 単純 な色 を大 胆な 手法 で塗 つて ゐる
」こ との 所以 を説 明す る。 萬の
「風 景」 は、 一 部の 人々 に「 薪ざ つぽ と見 誤ら れる 程崩 れて ゐる
」が
、そ れは
、 彼ら が「 成心 を離 れ」
、「 伝習 を脱 し」 て「 物象 であ り同 時に 自分 であ ると 云ふ 画」 を目 指し たか らだ とい う認 識を 示し てい る。 ここ では
、世 界の 正確 な「 再現
」に 意を 徹し て取 り組 んだ 印象 派、 新印 象派 に対 して
、「 自分
」の
「表 現」 に向 かっ た後 期印 象派
とい う位 置づ けが 明確 に示 され てい る。 その 解説 で使 われ てい る
「自 己の 気分
」、
「物 象で あり 同時 に自 分で ある
」と いう 表現 には
、 自然 主義 から 大正 期文 化の 特徴 であ る自 我へ の視 点の 移行 が見 ら れ、 それ が革 新的 な絵 画表 現の 批評 文受 容か ら現 れて いる こと に 注意 した い。
(
四) は、 萬の 履歴 の紹 介と
、同 年春 東京 で開 かれ た「 雑草 会」 の展 覧会 の画
、「 風景
」に つい ての
「フ ュー ザン 会に 於け る中 心人 物斎 藤与 里氏
」の 批評 文( 初出 不明) を掲 出し
、そ の「 讃辞
」に 注 目さ せて いる
。こ の批 評文 には
、新 しい 芸術 のあ り方 につ いて の 明確 な姿 勢が 現れ てお り、 執筆 者の 評言 が中 央画 壇の 画家 達の 表 現か ら影 響を 受け てい るこ とを 知る こと がで きる
。
萬鉄 五郎 氏の
『風 景』 は 眼まなこ の鏡 に映 つた パノ ラマ を其 の 儘カ ンバ スに 復写( ママ) した と云 ふよ りも 氏の 芸術 的良 心に 解釈 され た全 く氏 の風 景を 現し たと 云ふ 様な 絵で 氏の 心底 に 風景 を感 得す る働 きが あつ て同 時に それ を解 釈す る芸 術の 力 から 生ま れた 様な 処が
、他 の二 枚の 画よ りも 活々 して ゐた
。 私が
『風 景』 を心 持好 く感 じた のも 萬氏 の感 得心 が私─ 私は 私の 事ば かり 云ふ─ を感 じさ せる 力を 持つ て働 いて ゐる から でな けれ ばな らな い。 一口 に云 へば 新し い萬 氏の 風景 を見 せ て呉 れた のが 嬉し かつ たの であ る。 私は 其処 に云 ふに 云は れ ない 尊重 すべ き芸 術が ある のだ と思 つて ゐる
、価 値の 高下 は 別と して
。( 傍線 部論 者) 傍線 部の よう に、 萬の 絵が 評価 され るの は、
「新 しい 萬氏 の風 景」
であ るか らで
、そ れは
「萬 氏の 感得 心が 私を 感じ させ る力 を持 つ て働 いて ゐる
」と ころ に生 まれ たの であ り、 さら にそ れが 実現 し たの は「 氏の 心底
」に ある
「風 景を 感得 する 働き
」に よっ て感 得 され た風 景が 同時 に「 芸術 的良 心に 解釈 され
」て 描か れた から だ とい うこ とに なる
。そ こで は、
「私
」の 風景 に対 する 働き かけ が一 貫し て尊 重さ れて いる と見 るべ きで あろ う。 それ は、
「眼 の鏡 に映 った
」風 景を その まま 写し 取る こと では ない と強 調さ れて いる
。
「芸 術的 良心
」と は何 であ るか
、明 確に 述べ られ てい ない が、 印 象派 から 後期 印象 派へ と、 絵画 表現 のあ り方 の変 化が
、「 私」 の尊 重と いう 理念 で受 容さ れた こと を知 るこ とが でき る。 これ につ いて は、 文学 研究 者の 側か らの 大正 期文 学の 史的 研究 にお いて もす でに 指摘 され てい ると ころ であ るが
、田 中淳 は、 前 掲書 にお いて 後期 印象 派の 受容 の変 化の 細部 を、 美術 と文 学の 重 なる 地点 から 明ら かに しよ うと して いる
。特 に雑 誌『 白樺
』で 行 われ た「 絵画 の約 束論 争」( 一九 一一 年・ 明治 四十 四年 六月 から 始 まる) の経 緯と 雑誌
『ヒ ュウ ザン
』( 一九 一二 年・ 大正 元年 十一 月 創刊) にお ける 批評 活動 に注 目し てい る。 その 中で 特に 雑誌
『フ ュ ウザ ン』 三号( 一九 一三 年・ 大正 二年 二月) の木 村荘 八の
、「 後期 印 象派
」の 紹介 文に 注目 し、 それ が単 なる 紹介 から
、礼 賛へ と変 化 した とし て、 そこ に「 荘八 の自 己意 識の 拡大
」が あっ たと 指摘 し てい る。 そう いっ た「 自己 意識 の拡 大」 が、 同人 及び その 周辺 に どの よう に醸 成さ れて いっ たか が重 要で ある
。
『岩 手毎 日新 聞』 の記 事の 中に も、 斎藤 与里 の文 章が 直接 引用 され て、 彼ら の受 容が その まま
「後 期印 象派
」の 絵画 の受 容と し
て受 け取 られ てい くこ とが わか る。 地方 にお ける 後期 印象 派受 容 がど のよ うに 行わ れて いっ たか が本 論で 問題 にす ると ころ であ り、 その ため には ここ で引 用さ れて いる 斎藤 の文 章の 出典 等に つい て 調査 が必 要で ある が、 今後 に譲 りた い。 これ ら種 々の 批評 に対 して
、萬 自身 が自 身の 絵に つい て述 べた のが
「友 人の 批評 に答 へる 手紙
」( 岩手 毎日 新聞 大正 二年 一月 一日) であ る。 これ につ いて は既 に論 じた ので 詳述 は避 ける が、 萬の 文 章に おい ては
、「 自分
」「 私」 のあ り方 につ いて 観念 的に 述べ るの では なく
、分 析的
、哲 学的 に述 べる とと もに
、絵 画執 筆の 現場 か ら具 体的 に述 べて いる とこ ろに 特徴 があ る。 萬は
、自 らの 表現 に つい て次 のよ うに 述べ てい る( 注4)
。
私達 は自 然に 対し て居 る事 から して 常に 周囲 とい うも のが 我々 を取 捲い て居 る、 そこ で我 々の 心を 過ぎ る何 物か があ る 心に 烙印 を捺 して 行く もの があ るの であ る。 玆に 私が 心と い った が単 に所 謂精 神と いう 意味 では ない
。精 神肉 体官 能の 全 部を 含ん だ全 き自 我を 意味 する ので ある
、私 には 精神 と肉 体 とを 別々 のも のと して 離し て考 える 事は 出来 ない
。今 此の 自 我の 全的 存在 を仮 に生 きた 鏡に 譬え る事 が出 来る なら ば自 然 の姿 乃至 人事 の状 態を 明か に写 す事 が可 能で あり 且つ 瞬間 の 連続 を記 憶す る事 の可 能は 今更 らし く言 う迄 もな い事 であ る。 私は 此の 働き を簡 明に 言い 表す 為め に心 的印 象と いう 言葉 を 借る
。 この 文章 の中 で、 萬は
、自 分と 周囲 との 間で
「我 々の 心に 烙印 を 圧し てい くも のが ある
」と し、 その
「こ ころ
」と は精 神の みを 意
味す るの では なく
、
「精 神肉 体官 能を 含ん だ全 き自 我」 とし てい る。 その 自我 の全 的存 在を
「鏡
」に たと えて
、そ こに
「自 然の 姿乃 至 人事 の状 態を 明ら かに 写す こと が可 能で ある
」と し、 その 瞬間 の 連続 を記 憶す るこ との 可能 であ るこ とは いう まで もな いと して
、 それ を「 心的 印象
」と 述べ てい る。 これ を再 現す るた めに
「ど こ 迄も 画き 続け るカ ンバ スと 私の 心と の間 に一 点の 隙も 見出 せな い 画面 を得 る迄 は筆 を擱 く事 をし ない
。」 と、 絵を 書く こと の現 場で 大事 にし てい るの が、 自分 と物 象と の関 係で ある こと を具 体的 に 述べ てい る。 ここ では
、前 述の 斎藤 与里 の「 萬氏 の感 得心 が私
― 私は 私の 事ば かり 云ふ
―を 感じ させ る力 を持 つて 働い てゐ る」 と いう こと
、ま た白 楊屋 主人 の「 物象 であ り同 時に 自分 であ る」 と いう こと がど うい うこ とか を、 かな り明 確に 分析 して 述べ てい る と言 って 良い
。斎 藤が 否定 した
「眼 に映 った パノ ラマ
」の 再現 と いう こと に対 して
、「 自我 の全 的存 在」 を「 鏡」 とし てそ れに
「写 した
」「 自然
」・
「人 事」 の再 現と いう とこ ろに
、萬 の画 論の 眼目 は ある とい える
。そ れが 自然 主義 的な 写実 との 違い とい うこ とに な ろう
。ま た、 それ は自 己の 内面 の再 現と いう こと とも 異な るこ と に注 意し てお きた い。 拙論 にお いて は、 宮沢 賢治 の「 心象 スケ ッチ
」と いう 方法 と萬 の言 う「 心的 印象
」と の共 通性 を論 じた
。萬 の絵 画表 現論 が、 当 時の 美術 家・ 文学 者の それ の中 でど のよ うな 位置 にあ るか
、さ ら なる 調査 が必 要で ある
。 大正 二年 には
、第 二回 フュ ウザ ン会 展( 一九 一三 年三 月十 一日 か ら同 月三 十日) を観 覧し ての 鑑賞 記が
、孤 杉山 房筆
「閑 日記
」「 フ
ュウ ザン 会( 一)
」~ フュ ウザ ン会( 三)
」と 題し て三 月二 十五 日か ら 二十 七日 まで 掲載 され てい る。 筆者 自身 によ れば
、「 絵の 事に 関し ては 全く の素 人」 であ り、
「フ ュー ザン 会一 派の 所謂 新し い画 の如 きに 対し ては 始め から
、怖 ぢ気 を振 つて る一 人で ある が、 恐い 物 見た さの 好奇 心に 駆ら れて
」出 かけ たと いう もの で、 当時 の文 化 人の 一つ の受 け留 め方 を知 る資 料の 一つ と言 って よい
。ま た、 展 示さ れた 絵画 につ いて 具体 的な 報告 と評 言が ある
。 連載 の最 後に は、
「フ ュー ザン 会同 人の 製作
」に おけ る「 一貫 し てゐ る気 分と いふ やう なも の」 につ いて 総括 して いる
。同 人の 作 品に 統一 した 主義 はな く、 その 評価 も個 々別 々で ある が、 共通 す るも のと して
「現 状打 破の 叫び 声が 鋭く 聞か れる
」と し、
「従 来の 何等 の実 感に も根 底を 描か ぬ製 作に 対し て排 斥の 声を 雄叫 して ゐ る」 とし てい る。 そし て、
「皆 之れ 真実 を生 活し
、実 感に 活き 虚偽 の自 我を 蛻脱 して 彼我 両者 の間 に感 応融 和す る神 秘を 探つ て之 れ をカ ンバ スの 上に 発表 しよ うと いふ ので ある
」と
、そ の制 作の 姿 勢に 関し て、
「実 感」
「自 我」
「生 活」 とい った 評語 によ って これ を 評価 して おり
、そ れま での 評者 の評 言に 連動 した 評価 とい える
。 さら に、 雑誌
「ヒ ュウ ザン
」に つい ての 言及 がな され てい るも のと して
、金 田一 陸郎 筆「 京の 友人 へ」 上下( 大正 二年 一月 三十 一 日・ 二月 一日) があ る。 金田 一陸 郎は 不明 であ るが
、石 川啄 木関 連 の記 事に も名 前が 出て くる 地域 の文 化人 の一 人で ある
。
「ヒ ュー ザ ンと 云ふ 言は 新聞 或は 雑誌 で早 くか ら知 つて ゐた
。」 とあ り、 萬鉄 五郎 につ いて は、 岩手 毎日 新聞 での 紹介 で知 った こと を述 べて い る。 萬の 絵に つい て、
「毎 日の 様に 該新 聞に は原 始的 な書 振り の画
を掲 げて ゐる
」こ と、
「牛 十題
」の こと
、「 友人 の批 評に 答へ る手 紙」 のこ とを 挙げ て、
「と にか く新 しい 人だ と思 ふ」 と、 その 存在 の新 しさ に注 目し てい る。 雑誌
「ヒ ュウ ザン
」に 関す る評 言の 中で 注目 され るの は、 斎藤 与里 の詩 につ いて の感 想で ある
。斎 藤は この 号に は画 を発 表し て おら ず、 詩一 篇し か掲 載が なか った こと を述 べ、 その 詩に つい て
「氏 の画 によ く現 れて る原 始的 な気 分は 詩に は見 られ ない
」と 述 べて いる
。雑 誌「 ヒュ ウザ ン」 には
、画 家が 絵と 同時 に、 文学 作 品を も載 せて おり
、評 言の 革新 が、 絵画 的な 表現 と言 語的 な表 現 の両 方で 試み られ てい る現 状を 知る こと がで きる
。 この 文章 は身 辺雑 記風 の文 章で あり
、地 域の 文化 人の 動向 の一 端を 知る こと がで きる 資料 でも ある
。「 北国 のM 市」 にい た時 の体 験の 中か ら、 雑誌 等で
、「 後期 印象 派」
「立 体派
」「 未来 派」 など の 言葉 を知 り、 その 主旨 をお ぼろ げな がら に理 解し てい たこ と、 文 化サ ロン の仲 間の 中で
、ゴ ーホ
、セ ザン ヌを 知っ たこ と、 その 中 の洋 画家 の一 人が それ らの 絵画 につ いて 自ら の解 釈を 述べ たこ と など を挙 げて いる
。仲 間の 一人 は地 元の 医者 の息 子で
、中 央の 雑 誌に 詩や 小説 を投 稿し てお り、 高村 光太 郎を 崇拝 して いる こと な どを 述べ てい る。 また
、雑 誌「 ヒュ ウザ ン」 を横 にお いて 詩を 書 いて いる と、 十二 歳の 少女 がそ れを 開い てみ て驚 異の 目を 見張 っ てい ると いっ た風 景を 描い て、 地域 にお ける 中央 文化 の受 容の 現 場を 報告 して いる
。こ れら を見 れば
、フ ュウ ザン 会の 活動 が急 速 に地 域ま で拡 がっ て行 った こと を知 るこ とが でき る。
二、 萬鉄 五郎 の挿 画 これ らの 批評 と同 時並 行し て、 萬鉄 五郎 の挿 画の 連載 が続 いて いる
。特 に大 正元 年十 月四 日に は、 萬自 身の 詞書 が付 され た上 野 公園 の樹 木の スケ ッチ が掲 載さ れて おり
、絵 の批 評と 同時 に萬 の 絵そ のも のが 掲載 され てい るこ とは 注目 され る。 また
、そ れら の 絵の 多く が「 風景
」と 題さ れて おり
、前 述の 萬自 身の 評論 に述 べ られ てい るよ うに
、画 家と 外界 との 関係 を定 位し よう とす る意 図 が推 察さ れる とこ ろで ある
。 明治 四十 五年 七月 九日
「曲 芸師
」 七月 十四 日
「有 楽座
」 七月 二十 四日
「越 中島 所見
」 七月 二十 七日
「越 中島 所見( 二)
」 大正 元年
七月 三十 日
「少 女」 八月 四日
「越 中島 所見( 三)
」 八月 七日
「越 中島 所見( 四)
」 八月 十一 日
「越 中島 所見( 四)
」
十月 一日
「上 野公 園に て」 十月 四日
(
上野 公園 のス ケッ チだ が、 題は な く、 萬の 詞書 が付 され てい る。) 十月 六日
(
無題) 十月 十三 日 (
無題) 十月 二十 日
「上 野所 見」 十月 二十 七日
「上 野所 見」
十一 月十 三日
「風 景」 十二 月十 一日
「ダ リア の壷
」 十二 月二 十日
「風 景」 十月 四日 の萬 の詞 書が 次の よう に附 され てい る。
私は 時々 疲れ た脳 を慰 すべ くこ の公 園に 散歩 いた しま す。 老 樹の 葉の 一つ 一つ は既 に黄 ばん で来 るべ き沈 黙の 姿を 暗示 し 日光 は地 上を 微か に温 め盲 目の 蟲が その 下で ホロ ホロ と鳴 い てゐ ます
。江 戸の 古る い古 るい 染物 屋の 店の 隅に 鳴き 薬種 問 屋の 蔵の 下で 鳴い た蟲( 上野 公園 にて 萬) ここ には
、彼 の画 の表 現姿 勢―
「精 神肉 体官 能の 全部 を含 んだ 全 き自 我」 で外 界を 捉え る姿 勢― が見 えて 興味 深い
。視 角、 触覚
、 聴覚 の活 動、 そし てそ こか ら記 憶が 蘇る 様子 が捉 えら れて いる
。 大正 二年 には さら に掲 載数 が増 えて いく
。
大正 二年 一月 一日
~一 月二 十九 日
「牛 十題
」 一月 一日
「麥 の芽
」 一月 一日
「シ ネマ の夜
」 一月 一日
「風 景」 一月 十九 日
「レ スト ラン
」 三月 二十 七日
「静 物」 四月 一日
「有 楽座 見物 席」 四月 六日
「静 物」 四月 九日
「風 景」 四月 十三 日
「軽 業」 四月 十五 日
「風 景」
四月 十九 日
「風 景」 四月 二十 三日
「風 景」 四月 二十 五日
「か るわ ざ」 四月 二十 六日
「風 景」 以上 のよ うに
、フ ュウ ザン 会の 活動 は、 メデ ィア を通 じて
、強 い関 心を 呼び 起こ しな がら
、地 方の 文化 人に 受け 取ら れた こと を 知る こと がで きる
。そ して
、そ れは 様々 な文 化活 動に 関す る革 新 的な 動き の契 機と して 認知 され たと いえ る。 大正 元年 十二 月二 十 四日 文芸 欄の 栃内 吉胤 筆「
「新 らし
」と 云ふ 事」 は、 そう いっ た動 きを 示す 記事 であ る。 記事 の主 旨は
、そ の動 きが 西洋 の模 倣で あ るこ とを 非難 する とこ ろに ある が、
「近 来フ ュー ザン だと か、 新し い女 だと か男 だと とい ふも のが 出て
、従 来の 社会 のコ ンヴ ェン シ ョン を破 つた 処に 所謂 新味 があ ると いふ のだ そう だが
」と 冒頭 に 述べ て、
「フ ュー ザン
」を 始め とし て社 会に 革新 的風 潮が 現れ てき てい ると 見て いる
。「 ワグ ネリ ズム
」「 イン プレ ッシ ョニ ズム
」の 革命 的な 芸術 の新 運動 を例 に挙 げな がら
、年 号が 変わ り「 第二 の 自覚 期」 に入 るべ き日 本に さら なる 自覚 を促 すと いう 論調 であ る。 そう いっ た風 潮を 踏ま えて 新た な動 きを 見せ てい るの は、 文学 であ る。 新た な画 壇の 動き は県 内文 壇の 動き とも 連動 して おり
、 同年 九月 二十 一日 には
、古 川滴 泉筆
「活 動の 秋─ 県下 の歌 人諸 兄 姉へ
」と 題し て、 啄木 死後 の県 下歌 人の 活動 につ いて の報 告記 事 があ る。 東京 の富 田砕 花、 地方 の菊 池野 菊、 小田 島孤 舟と
、三 人 の歌 人を 岩手 県の 代表 歌人 とし
、
「今 や岩 手県 が生 み出 した 歌人 の 活動 すべ き秋 が来 たの であ る。
」と 述べ て新 たな 動き を評 価し よう
とし てい る。 特に 砕花 の活 躍に つい て、 新詩 社の 与謝 野寛 に学 ん だ後
、雑 誌『 創作
』発 刊に 参加
、そ の当 時『 所謂 スバ ル派 の歌 を 評す
』と いう 評論 で歌 壇の 批評 家の 中で 注目 され たこ とを 挙げ て、 その 活動 を評 価し てい る。 その 砕花 と小 田島 が近 く第 一歌 集を 出 版す るこ とを 予告 し、
「地 方に 於け る歌 壇の 驍将 と目 され てゐ る」 菊池 野菊 の歌 集出 版を 期待 する 旨述 べて いる
。 その 活動 の中 で最 も注 目さ れて いる のは 砕花 の歌 集『 悲し き愛
』 で、
「雑 誌の 広告 にま たは 新聞 の文 芸消 息に
」宣 伝さ れて いる こと を述 べて いる
。さ らに その 表紙 に斎 藤与 里の 絵が 掲げ られ てい る こと が触 れら れて おり
、当 時の 文学 者と 画家 との 連携 活動 の一 端 を知 るこ とが でき る。 十月 十九 日に は、 小田 島孤 舟『 郊外 の丘
』 の出 版が 報告 され てい る。 因み に、 小田 島孤 舟の 歌集 の表 紙は
、 この 後か ら萬 が担 当す るこ とに なる
。さ らに
、大 正元 年十 一月 三 日の 宮沢 賢治 の父 宛書 簡に
、こ の『 郊外 の丘
』を 購入 した こと が 報告 され てい る( 注5
)。 この とき 賢治 は十 六歳
、盛 岡中 学四 年 生で あっ た。 文学 関係 では
、石 川啄 木に 関す る追 悼・ 回顧 記事 の連 載が 同時 並行 して 掲載 され てい るの が注 目さ れる
。石 川啄 木は
、死 の直 後 に発 表さ れた 有名 な評 論「 時代 閉塞 の現 状」( 一九 一〇 年・ 明治 四 十三 年) にお いて
、自 然主 義の マン ネリ 化を 指摘 し、 新た な表 現創 出の 必要 性を 主張 した
。本 紙に おい ては
、そ の宣 言を 受け 継ぐ か のよ うに
、新 たな 表現 への 関心 を紙 面に 表現 して いる と言 える
。 これ ら文 化の 革新 的な 動き と同 時に
、同 紙に おい ては
、様 々な 文化 人の 交流 の様 相を 知る こと がで きる
。第 二部 は、 これ につ い
て触 れる
。 第二 部
『岩 手毎 日新 聞』 紙面 に見 る中 央と 地方 の文 化的 交流 の諸 相― 文化 人お よび 文学 青年 の交 流と 活動 の記 録を 通じ て― はじ めに 本研 究は
、地 域文 化の 形成 過程 を解 明す るこ とを 目的 とし
、『 岩 手毎 日新 聞』
(一 八九 九~ 一九 三三 年、 以下
『岩 毎』
)の 文化 欄に 掲載 され た記 事内 容を 通じ て、 執筆 者を 媒介 とし た文 学を 中心 と する 文化 伝播 の状 況を 分析 およ び考 察す るも ので ある
。 本稿 では
、電 翁( 注1
)「 温泉 日記
」( 一九 一二 年七 月二 四日
~ 一九 一二 年八 月一 四日
)に 登場 する 筆者 との 交友 関係 を通 じて
、 中央 の文 化が 地域 の有 志に 伝播 して いく 様相 を明 らか にす る。 ま た、 菊池 野菊
(注 2) によ る同 人誌 およ び校 友会 誌に 対す る文 芸 批評 を取 り上 げ、 批評 を通 じた 文化 伝播 の実 相を 明ら かに する
。 一、 随筆 に見 る文 化人 の交 流と その 意義 電翁
「温 泉日 記」
(以 下、
「日 記」
)は
、盛 岡市 出身 の速 記者 であ る田 鎖綱 紀が
《盲 腸の 重患
わづ ら
もい
、ス ッカ リ疼 痛
い た み
が去さっ
た》 ので 公立 花 巻病 院の
《中 澤ド クト ル》 の許 可を 得て 台温 泉の
《阿 部旅 館》 に 滞在 した 当時 の身 辺を
《投 り書 き》 した もの であ る( 注3
)。
田鎖 は十 五歳 で東 京に 出て 大学 南校
(東 京帝 国大 学の 前身
)に 学び
、の ちに 工務 省へ 入っ て秋 田の 大葛 金山 に派 遣さ れる
。そ こ で出 会っ たア メリ カ人 技師 カー ライ ルか ら速 記術 の存 在を 知り
、 日本 語へ の応 用を 試み て成 功し
、創 案後 は技 術改 良に 励む 一方 で、 全国 各地 で講 習会 を開 催し てそ の普 及に 努め た。 その ため に田 鎖 の動 向に は不 明な 点が 多い が、 一八 九一 年か ら九 八年 にか けて は 故郷 の盛 岡に 居を 構え てい たこ とが 確認 され てい る( 注4
)。 その 一方 では
、「 日記
」に 先立 つ七 月五 日付 の『 岩毎
』一 面に
《病 気の 処快 方に 赴き 次第 上京
》を 理由 とし た「 入門 謝絶
」を 知ら せる 広 告記 事お よび その 宛先 に《 花巻 川口 町華 城速 記学 会》 とあ るこ と から
(注 5)
、こ の年 の田 鎖は 故郷 の盛 岡で はな く、 病気 療養 と並 行し て花 巻市 内で 活動 して いた こと がわ かる
。 さて
、阿 部旅 館滞 在中 も《 臺温 泉に 於て 夏季 講習 を開 設し て全 科程 を授 け又 斬新 な以 心傳 心術 を右 講習 会員 に限 り無 報酬 にて 教 授す と》 の広 告を 打つ
(注 6) ほど 余念 のな い田 鎖で あっ たが
、 その 教授 は意 外な ほど あっ さり して いる
。 食後 は所 見と 電筆 三昧 だ、 三時 から 四時 迄杢 平君 に速 記の 練習 をさ せた
、雨 が晴 た一 寸台 丸屋 の雑 貨店 へ往 った 妻君 は怎 うも 幼な 顔に 見覚 えが ある やう だ、 種々 談し て見 ると 見覚 えの ある も道 理、 廿年 前に 盛岡 の呉 服町 に予 は東 奥早 書学 会を 開設 し、 速記 発表 第十 周年 祝賀 会を 催う した 時、 大勢 の娘 さん 達を お招 きし て、 唱歌 を謡 って 頂い た中 の一 人、 高与 の愛 娘の おて うさ んで あっ た( 注7
)
三時 半頃 から 五吉 氏や って 来た
、四 時か ら五 時ま で栄 作子 と共 に責 任付 の速 記を 練習 やら せた
(注 8) おお むね その 指導 時間 は一 時間
。と はい え、
《五 吉氏
》は
《八 幡 村》
(現 花巻 市石 鳥谷
)か らや って 来て
《楽 知館
》へ と陣 取っ て長 期滞 在の 構え を見 せ、
《杢 平君
》は
《従 卒》 とし て師 の身 辺に 侍る など
、第 一人 者か らそ の技 術を 学ぼ うと する 人々 の熱 意が 偲ば れ る。
「日 記」 中に も《 盛岡 の呉 服町 に東 奥早 書学 会を 開設
》し た思 い出 が語 られ るな ど、 故郷 での 技術 教授 にも 熱心 であ った こと が 窺え る。 また
、こ うし た地 域の 人々 との 交流 以外 にも
、《 午前 六時
》と
《午 後五 時四 十分
》か ら配 達さ れる
《郵 便物
》か ら田 鎖の 交友 関係 を 見て いく と、 その 幅広 さに 驚か され る。 此日 午後 六時 頃、 旧門 生た りし 今は 医学 博士 の三 浦謹 之助 氏よ りと
、時 事新 報社 の熊 崎健 一郎 氏と
、土 沢の 高橋 久三 氏よ り八 月一 日以 降来 学し たい と云 ふは がき が来 た。 熊崎 氏よ りの は早 く上 京せ よと の督 促だ
、三 浦氏 のは 某院 長の 招聘 の件 だ、 其の 他、 国民 に萬 朝に
、近 江新 聞に
、岩 手日 報と 岩毎 とが 数葉 デコ 〳〵 と一 時に 来た
、其 他に はバ レペ ンク 商会 より アッ テー の由 来書 を贈 って 来た
、こ う一 時に 来て は堪 らん
。( 注9
) 差出 人を 見る と、 三浦 謹之 助は 東京 帝国 大学 医学 部教 授を 務め
、 崩御 直前 の明 治天 皇を 診察 した 当時 を代 表す る内 科医 であ る。 一
方の 熊崎 健一 郎は
「健 翁」 と号 して 熊崎 式姓 名学 を創 案し た姓 名 学者 で、 熊崎 式と 呼ば れる 速記 法の 一流 を立 ち上 げた こと でも 知 られ る。 そう した 人物 たち との 交流 は、 田鎖 自身 が最 先端 の情 報 や時 代状 況を 摂取 する こと につ なが ると 同時 に、 彼自 身を 通じ て
《高 橋久 三氏
》や 前出 の弟 子た ちを はじ めと した 各地 の門 下生 へ と伝 播し てい く構 図が 想定 され る。 さら には
、《 國民 に萬 朝に
、近 江新 聞に
、岩 手日 報と 岩毎
》と さま ざま な新 聞を 毎日 読み
、《 岩手 県出 身者 とし ては 最初 のエ スペ ラン チス ト》
(注 10
)で もあ る田 鎖と の会 話と は、 前出 の《 五吉 氏》 や《 杢平 君》 をは じめ とす る 地方 に暮 らす 人々 にと って はそ の見 識と 同時 に、 中央 の時 事か ら 流行 文化 まで も摂 取す る絶 好の 機会 でも あっ たと いえ よう
。 この よう に、 田鎖 の交 流関 係が 地方 への 文化 伝播 の実 態を 示す こと とな って いる こと に併 せて
、も う一 点注 目し たい のが
、
「日 記」 中に しば しば 登場 する 花巻 の《 宮沢 治氏
》と の交 流で ある
。宮 沢 治( のち に宏 と改 名) は田 鎖の 実兄 綱郎 の次 男で
、一 九〇 八年 に 花巻 の宮 沢シ ゲと 結婚 して 婿養 子と なっ た。
《こ の宮 沢家 は藤 井将 監を 経て 宮沢 三四 郎か らは じま る現 在ま で一 四代 続く 賢治 の家 系 の本 家》
(注 11
)で あり
、宮 沢賢 治は 同時 代を 代表 する 文化 人と の姻 戚関 係を 有し てい たの であ る。 峰芳 隆ら によ って
、賢 治の 代名 詞と も言 える
「イ ーハ トー ブ」 の語 が「 エス ペラ ント
」を もじ った もの であ る可 能性 が指 摘さ れ て久 しい が、 その 関心 の端 緒に つい ては 明ら かで はな い。 その 可 能性 の一 つと して
、佐 藤竜 一は 田鎖 が一 九一 六年 に『 岩手 日報
』 へ第 三回 日本 エス ペラ ント 大会 での 講演 録( 全六 回) を寄 せて い