描画表現の成立に関する一 察
日 名 子 孝 三
*Key Words:絵画,成立,描く,表現
【はじめに】
2005年度人間学部研究紀要「児童美術と大人の美術の接点を えるⅡ」を継続するにあたっ て絵画表現の成立についてもう少し明確にしておかなければならない。本紀要においては,美 術家側から見た絵画表現について えてみたい。同じ平面上で成立している表現でありながら,
成立の過程は,大きく異なっているのではないか。美術史的観点から両者を見ても美術家の現 在に至るまでの過程と子どものそれとは,認識のされかたも異なると える。
では,人間はなぜ絵を描くのか,と えたとき人類が描くという行為を確立するためには,
いくつかの要因が挙げられるであろう。
① 生活に必要な道具を手の延長として作り出し,それに工夫を加える
② 自分の所有物である印として道具に装飾を施す
③ 自分の内面を言葉,音楽,造形などによって表現する
④ 人に何かを伝えたいことの記号化
⑤ 宗教にたいする祭壇や偶像にたいする装飾
⑥ 集団の中の権威やそれにたいする象徴としての装飾
などによって文明が築き上げられ,その流れの中に描くという行為が必然的に加わり進化し たと えられる。これらを美術史の基とし現代の絵画は生み出されているが,現実に美術家は どのような過程を踏まえ絵画を形成しているかを下記 5項目の観点から 察を行ってみたい。
(1)描画表現の成り立ち:描くということについて
(2)イメージの表し方:固定化について
*人間学部保育学科
(3)具象
→
描写力 抽象→
表現力について(仮説として思想,心象と絡ませて上記のように捉えることが えられる)
(4)大人は形を欲しがる,ということについて
(5)色彩について
以上,イメージから始まる描画について段階的に過程を追うことによって一般的な絵画の成 立を えてみる。
【(1)描画表現の成り立ち:描くということについて】
描く対象の中にどのようにしてイメージを見いだすのであろうか。描く対象は,いくらでも 身の周りにある。ただ,描くか,描かないかが美術家にとっては最初の問題であろう。何かを 見,触れることによって触発されることは誰にでも経験があるであろう。しかし,そこから描 くという行為を行わずに感覚的に満足し,消えてしまうことも多いのではないか。つまり言語 よってものが表現されるようにものを造形することによって自分の えを表現し,また,人に 伝えようと,するのが絵を描くという行為の一般的な目的であろう。しかし,人によっては日 記をつけるように自分だけのために描くこともあるだろう。どちらも描くという行為は同じで あるが目的が違うと言える。しかし,これは美術家の意見であろう。
鑑賞者側にとっては,目的のある絵であろうが,日記的な絵であろうが,そのことに問題は 感じないであろう。何が私的なもので何がそれではないのか。造形表現においては,その部分 が非常に分かりにくい部分と言える。小説には,私的小説,フィクション,ノンフィクション などの区分けがあるが造形表現においてはそのような区分けないし名称は存在しない。
では,ヨーロッパの美術史に見られる,皇室絵画,宗教絵画の時代に私的な表現は存在しな かったのか。隠された私的な表現があったとしても不思議なことではないだろう。絵画表現の 自由な発想は印象派前後とされるが現在のように理解しにくいとされる表現はあまりなかった と えられる。
印象派後の近代絵画は,印象派以前のような宮廷絵画に見られる誰のためにとか,宗教色が 濃いものなど,いわゆる伝統からの脱却をヨーロッパの美術界は目指すことになる。しかし,
その自由さは絵画における技術的成り立ちといった事柄からも脱却を試み,光に主眼をおくと いった流動的な表現を試みるようになった。それにつれて色彩への関心が高まり動きのある筆 づかいによって完成度,絵作りといった結果をもたない絵画表現へと進んで行くが,現象的テ ーマを好む絵画表現は,1枚の画面が途方もない迷路へと落ち込むことになる事態をも生んだ のではないかと える。
ハーバート・リードは述べる「私が確信していることが一つあるのだが,それは,カンディ ンスキイがいつもしていたように,フォームの諸要素をカンヴァスの上で結合する前に,自分
― ―
の胸中でより明確に練り上げておくべきだ…ということである。こう言うと,前に自発性の必 要について述べたのと矛盾するように思われるかも知れないが,実はそんなことにはならない。
私が言いたいのは,中国の画家が習練の結果なしえている書道における運筆を,君も本能的に 駆使しうるのでなければならない,ということなのだ。同じカンヴァスに絵具を塗り,さらに その上に塗り上げてゆく描き方,あれはたしかに間違っている。あれはただ「疲れた」絵具
(むさくるしいマティエール)を意味するだけでなく,同時に枯渇をも意味するものだ。もち ろん,人は進むにつれて修補を加えなければならず,また紙の上にインクかクレヨンで表現さ れた思想が,カンヴァスの上に油絵具で描かれた場合には別な思想になってしまうものだ……
ぐらいのことは私も知っている。けれども君はその変形の度合いを(心の中で)斟酌しうるの でなければならぬ。まず第一に,君の記号のアルファベットを完成することだ。すべて偉大な 芸術家は,その明確さや速度において差異があったにせよ,みなそれをやってきているのだ。
最初に明確な思想を持っているのに,制作を進めてゆくうちにそれらがぼやけてしまうのだ,
と君は言っているが,その思想は君の想像力のなかでのみ明確なのだ。もしも最初に明確な心 象の形式をとっていたならば,それがカンヴァスの上に移されたからといって,ぼやけたりす ることはないはずだ。」(1)
私たち絵画を表現するものにとってリードの述べる明確な思想,心象の形式は描写行動を起 こそうとするにあたって少なからず行っている行為である。下描きとしてのデッサン,エスキ ースは,人によって 1,2回のこともあれば数十回,数百回と,描き手しだいである。ただし,
だからと言ってそれが最終決定を意味するものではない。そこには,必ずある種の状況が生ま れる。予測されない状況は,しばしその表現しようとするものを良くもすれば単なる混乱を招 くだけのこともある。ただし,このことは鑑賞する側の人たちには分からないかもしれない。
それらは,フォルムであったり色彩であったりするが,その行為を悪戯に繰り返すことはリー ドの述べる,
「あれはただ「疲れた」絵具(むさくるしいマティエール)を意味するだけでなく,同時に 枯渇をも意味するものだ。」という意見に表れる。特に油絵の具という材料を使用した場合に その状況は起こりやすいと える。油絵の具を用いるには,その特性をよく習得をしたうえで 使用することが望ましく,非常にやっかいな材料であることは事実である。油絵の具を使用す る美術家は,この材料と長い年月を繰り返し格闘しなければならないであろう。美術家は,混 乱を好むわけではない。そこに表れる予測外の色彩またはフォルムに魅力を感じてしまうので ある。描かれる画面すべてが,その描き手の最初の思想(イメージ)で埋め尽くされ,持続さ せていればそれに越したことはないであろう。
リードの述べる「もちろん,人は進むにつれて補修を加えなければならず,」も当然作業の 流れとしてある。
欧米人(特にヨーロッパ人)と日本人では,油絵の具を使って描くということについて大き な違いがある。それは,「描く」と「塗る」の違いにあると える。ヨーロッパ絵画における
油絵の具の使い方をモネの「睡蓮」を例にとると,水面に浮かぶ睡蓮と水面によって𨻶間なく 画面が塗られているように見える。しかし,実際にその画面を近寄って見てみると筆を使って 絵の具を置く,ないしは,描くといった筆使いが顕著である。睡蓮の花を見ると筆と絵の具を 使って描いていることが,その筆跡より明らかである。日本人には,油絵の具を使用した絵画 表現は非常に難しいと えられる。日本人の気質にある器用・丁寧さは,工芸的な仕事に真価 を発揮し素晴らしい作品を多数生み出してきていることは歴史が示している。この事実は,油 絵の具を使用する場合にも「描く」よりも「塗る」という意識に繫がってくるのではないか,
と えられる。描くというよりも塗るといった手仕事に見合った資質が絵画表現にとって不必 要な油絵の具のいじり過ぎによって画面に混乱を与えることになる。油絵の具による絵画の制 作は,ある種の計画性を持って制作にあたることが混乱を回避できる最善の方法であり,リー ドの述べる「むさくるしい」マティエールを見ないですむ,と える。
【(2)イメージの表し方:固定化について】
イメージは,人それぞれによって違う。同じ事柄を描画しようと数人が同時に試みるがそれ ぞれの表現方法,過程は違ってもなんらの問題はない。制作者自らの意思が他の人には見られ ない独自の表現を目指しているならば当然であろう。
a
. 下描きを行う鉛筆なり描写できる材料によって下描きを行いイメージの具体化を計るが,この段階が必ず しも下描きだけに使われるものと限った作業ではない。最初に行われる作業は,率直であり新 鮮さを有するため,しばしば描画作業としての最終段階までイメージの変更なしに進んで行く こともある(むしろ,その方が望ましい)。ここでの作業は,画面上における混乱を避けるこ とによって円滑なイメージの定着を試みることが目的である。しかし,その作業を行ったとし ても,また新たな問題が起きることによって画面上に混乱が起こることも事実であろう。ここ での新たな問題とは,イメージの展開が豊富であるということでもある。人には,それぞれイ メージの展開に対し強弱があるようである。通常において相当数の画家はこの手順を踏み,現 代におけるコンピュータを使用したCGの作業でも同じことが言えると える。CG環境にあっ てもエスキースにおいて充分に自分のイメージを的確に定着できる作家は,素晴らしい画像な らびに平面表現を結果として出している。また,日本画のように技術的に制約を持つ分野にお いては本描きよりも,むしろエスキース段階がよりその作家の表現が発揮されている場合が多 いと言える。現代における美術の主流は,まさに,その試行錯誤,手の跡が残る作業が作品と なる場合が多い。この状態を「抽象作品」という言い方で捉えていることも事実である。抽象 表現主義が進むにつれて作業状態を画面に残し,率直にイメージを表現するということも現代 美術の大きな特徴の一つであると える。
― ―
b
. 彫刻的な絵画と画家的絵画カンヴァスの上に置かれたフォームは,空間へと飛び散ってゆくか,あるいは空間から中心 目がけて入ってくるか,またはただ単に矩形の枠内を唯唯諸諸として満たしているだけかであ る。けれども,それらはカンヴァスの限界と関連づけられていなければならない。プーサン,
セザンヌ,クレー,ピカソなどの絵画においては,われわれは額縁の存在を意識しないが,そ れは構図がその内部に(あるいは外部に)密着しているからなのだ。ルネッサンス期の単純で 地味な肖像画なども,いつも窓から外を眺めている人たちの頭部を画面に見るように思われる。
人物の周囲の空間が,中心部の団塊ときわめて緊密に結びついているのだ。レンブラントに なると,頭部の背後の空間は,頭部そのものの描写と同じくらい重要なものになり,すべてが 一つの空間概念を形成しているのだ。
私が言わんとしているところを,上のように図示することができるのではないかと思う。
この図解は初歩的で一目瞭然たるものだろうが,(1),(2),(3)は,私が彫刻的な絵画 と言うときに意味しているものを示しているつもりだ。まず第一にフォームがあり,次に枠が 与えられ,そしてフォームのまわりに枠がおかれるというわけだ。(4),(5),(6)は,画 家らしい描き方を示すもので,まず最初に枠があり,次に枠の内部の空間があり,それから枠 にかこまれた空間を満たすフォームができることになる。両者のフォームが決して同じものに ならぬことは,言うまでもない。(1)の最初から三次元的に認識されているフォームと,二 次元の領域を占拠するものとして認識された(6)のフォームとは,全く別種のフォームなの だ。そして,私はここで色彩の機能を無視してきたが,枠の内部でフォームが分離した各部分 を縫合する仕事に,色彩はひと役を演じうるのである。(2)
以上のことをカンヴァスに関連させて言うならば,空間を細別して,そのいずれの部分をも 他の部分や全体と調和ある関係を保持しうるようにすることができる…ということなのだ。こ の調和ある組み格子(graticcio)によっておおうことのできぬ空所などないのである。
しかし,言うまでもないことだが,一般に芸術家がこの結果に到達するのは,幾何学的な計 算によってではなく,構成に関する本能的な法則によってそうするのだ。(3)
図 1
現代の絵画の特長は,空間を切り取った画面とでも言ってよいのではないかと えられるが,
リードが示すように絵画を形成するとき二つの空間概念のどちらかを基に制作を行っている。
ピカソをはじめ抽象表現主義が表れることにより額縁の存在を意識しない絵画が主流になる が,それらはカンヴァス外の空間を意識し,支配するように画面(カンヴァス)自体が大きさ を増してくるのである。リードは,ここで「彫刻的絵画」と「画家的絵画」を比べることによ って絵画の表現を最初から三次元的に認識されているフォームと,二次元の領域を占拠するも のとして認識される二つのフォームによって区別をつけている。これを簡単な言葉によって表 現すると
彫刻的絵画
→
「描かれたものがわしづかみ」できるフォームを持つ絵画画家的絵画
→
「空間を切り取ったようで枠の外へ分散する」ようなフォームを持つ絵画 ということが言えるのではないか。リードが述べているこの意見は,非常に明快に絵画におけるフォームのあり方を示している。
しかし,描き手側はこの意見を絵画制作時に意識をしているとは限らない。というよりもほと んど意識をしていないか制作が進みほとんど完成とみなされる時期か(現実的には,絵画や彫 刻に完成ということはあり得ないが),ある程度期間をおいた後ということになるであろう。
ゆえに描き手は,これらのことをほとんど無意識のなかで行っているのではないかと思われる。
また,生まれつきの資質,育った環境によってその描き手のタイプがこれら二つのどちらかに 属することも えられる。
リードが最後に述べているように「一般に芸術家がこの結果に到達するには,幾何学的な計 算によってではなく,構成に関する本能的な法則によってそうするのだ。」という え方は,
はっきりと認識されるところである。
【(3)具象
→
描写力 抽象→
表現力について】多くの人たちが絵画を前にして思うことは,描かれた作品にたいして理解できるか,できな いか,ということが事実としてあるだろう。筆者は,これまでに具象・抽象の問題があったと は思わないが,描き手の立場からすると見慣れたものにたいする人々の安心した態度が感じら れる場面に遭遇することがある。美しく対象に忠実な描写力を持った絵画にたいしての鑑賞者 の感想,それに比べて抽象絵画にたいする感想の違いは顕著である。具象も抽象も同じ表現で あるにもかかわらずなぜ抽象絵画について人々の共感を得られないのであろうか。絵の中に日 常的な環境がなく,見たこともない形態が浮かび,ただ一色で塗られた画面など,理解を深め ようとすればするほど困惑するのではないか。しかし,「絵画を理解する」とはどういうこと なのか。何かを描こうするとき,外見的なことに囚われず,そのものにたいする描き手の心象 によって直感的に描き出された表現は当然非日常的であり,見たこともない情景として表れる
― ―
であろう。それを理解しようとすれば「なんだか分からない」という感想を持つのは当然のこ とであろう。絵画表現にたいして筆者は,日頃からこの「分からない」という え方に関して 疑問を抱いているのであるが,それは,見る側に基本的な誤解があるからではないか,と思っ ている。表現は,個人的な対象にたいしての心象的な思いの表れであり人それぞれの表現がな されるべきであろう。「感じる」という言葉は,曖昧な言葉ととられがちであるが,感覚は人 間に備わった優れた機能と言える。これまでに人それぞれの感覚を大切にした指導がとられて いたのであろうか。描写に関して指導者側が,ある結果を持ちながら指導を行っているのでは ないかと思うことがある。描写とは,そっくりに描くことではなく対象と対峙する一つの手段 ではないのか。単なる再現による描写が絵画とするならば子どもの表す絵画は,どのように説 明をすれば良いのであろうか。絵画は,自分自身を表現することだ,とも言われるが鑑賞者も 目前にある作品と対峙し,何かを感じとり「分からない」という言葉で自分の感覚を閉じない で欲しいと える。
【(4)大人は形を欲しがる,ということについて】
一般的に成人は,絵画にたいして自分が認識しているものが描かれていることに共感を持つ ようである。それは,昨今,各美術館の開催内容ならびに入場者状態を見ればあきらかであろ う。首都圏の美術館を見回しただけでも展示内容は,印象派に関するものか,アニメーション が主流である。各美術館の学芸員たちが自分たちで掘り起こし研究した結果を地域貢献や地域 文化の一つとして時間をかけ準備するのだが,なかなか入場者数が伸びず,それに引き換え印 象派,アニメーション関係は,連日人々が来場するというのが現状である。新しいテーマを持 って展覧会を企画する場合,家族ないし子どもを対象に企画を えたところに入場者が増えて いるのではないかと想像する。つまり,造形表現として専門性を持った企画ならびに進歩的と えられる企画に,人々は興味を示さず普段テレビなどで目にするアニメーション,知ってい る形が表されている絵画,彫刻については興味を示すということが えられる。見たこともな いものが表現されている作品こそオリジナルということが言えるのではないか。知っているも のが表現されていることに安心感を憶え,それが芸術的な作品のすべて,とされるならば文化 の一端を人々から奪い取る結果となるのではないか。また,それが標準であるとする感覚を 人々が持たないように示唆すべきであろう。誰でも他人の知らない自分だけが,表現できる感 覚,事柄を持っている筈である。
【(5)色彩について】
ハーバート・リードは述べる。「かって私はある教師に対して,彼女の生徒たちに「無意識」
の絵画を描かせるように説いたことがあった。無意識の絵画は,「心画」などとも呼ばれてい たが。学童たちはものを えるのを止めるように命ぜられ(これは子供たちにとって至難の訓 練だったが),両眼を閉じて静坐し,それから心中に浮び上がる絵画を描くようにと言われる のだ。その成果はめざましいものだった。それらは初期のカンディンスキイの「有機的抽象」
に酷似しており,ユング学派の心理学者たちが「曼荼羅」と呼んでいるパターンに向かう傾向 を顕著に示していた(教師自身は心理学者ではなかった)。だが,そのこととは別にきわめて 興味をそそられたのは,色彩の計画が,学童たちが平常の絵画において用いるそれとは,全然 相違したものであることだった。その色彩計画はそれぞれの児童において一貫しており,かな らずしも美しいものではなく,むしろ狂暴で,ともすれば陰気なものだった。
この経験からして,色彩というものには無意識裡の象徴的な価値がある―あるいは各人各様 の価値があるのかも知れず,それぞれの「複合体」に価値があるのかも知れぬが―ことを,私 は確信するようになった。君の作品を見たときに,私が即座に感じたのは,君の用いる色彩が こうした意味で象徴的なものだということだったのだ。
言うまでもなく,色彩というものは,その選択が意識的になされているときでさえも,その 人の個性と密接に関連しているものなのだ。」(4)
マティスを例に挙げるまでもないが近現代の絵画は色彩の独立をより一層の自由さをもって 加速させたことが,特長に挙げられる。それまでの絵画においてテーマや形態に二義的立場で あった色彩は一義的な立場へと変貌をとげる。17世紀〜18世紀以前の絵画に見られるテーマ,
宮廷絵画,風景絵画,肖像画などに対し,生活や人間の内面に興味を持ち自由を求めた表現の 変化に伴い,形に囚われない色彩が絵画の主役の地位に就いたとしても不思議ではない。つま り,テーマを象徴的に際出させる描写力よりも現象的な事柄や感覚面を重視した表現力へと絵 画の価値観が移動したのである。このことは,子どもの描写する絵画にたいして一定の認識を 人々に与え社会的にもその後の子どもの造形表現を美術領域の一つであると世界中に広めるこ ととなったのである。子どもの造形表現に関してハーバート・リードがヴィクター・ローウェ ンフェルドとともに大きく貢献したのは言うまでもない。色彩は,リードが述べるように必ず しも美しいとされるものではない。色彩は,より個人的な表出であり各人各様の意味を内在し ているものである。簡単に言ってしまえばどんなに汚いと感じる色彩でもそれはその人の持ち 得ているものなのであり自分の感覚を押し付けながら見るものではない,と える。また,人 間の色彩感覚には,DNAの影響があるとは言え幼少時のさまざまな体験は,後にその人の色 彩感覚に少なからず影響を与えるであろう。
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【おわりに】
描画表現の成立について,ハーバート・リードの文献を横に筆者なりに雑書きを試みたが,
感覚面についての説明,自分の制作活動の再現は,なかなか難しいものである。リードは,芸 術家としても素養があったようである。その造形にたいする文章内容は,難解な評論書とは違 い実際の制作活動に即した現実的説得力があり,造形に携わる人間が目を通せば必ず納得する と えられる。項目の設定内容,記載順序を今一度再 し,「児童美術と大人の美術の接点を
える」と並行して研究を行った上で一つの研究紀要として収める予定である。
【引用文献・図一覧】
(1) ハーバート・リード著「若い画家への手紙」pp.37〜pp.38 新潮社 1971
(2) 〃 pp.34〜pp.36
(3) 〃 pp.36〜pp.37
(4) 〃 pp.17〜pp.18
図 1 ハーバート・リード著「若い画家への手紙」P35 新潮社 1971
(2006.12.14受理)