映画の自立と自由を求めて
―中国のインディペンダント映画について
菅 原 慶 乃
Ⅰ.はじめに
改革開放政策以降の中国映画界では、政治、及び美学面でそれぞれ大きな 変化が発生した。政治面での最大の変化は、映画の「政治中心論(政治本体 論)」に代表されるような、映画の政治宣伝の道具としての役割を大きく払 拭した点である。また、美学面においては、所謂“三突出”等に代表される 「極左」的表現方法を大きく脱した、斬新で大胆な新しい技法が次々と現れ た。政治面と美学面でのこれら変化は互いに連動し合い、以降の中国映画の 美学的復興の牽引役となった。文化大革命以前に映画教育を終え、文革終了 後に監督として活躍をはじめた、張暖忻、鄭洞点等「学院派」と呼ばれる作 家達が、新時期初期のこの流れの主な担い手であった。 その中でも大きな影響力を持った創作の流れに、探索映画がある。探索映 画は、マクロ的には知識人界を席巻した文化熱を背景とし、ミクロ的には文 芸界の「文化尋根」を根拠として、「中国文化とは何か」という共通の命題 に、映画作家それぞれが独自の視点から答えを模索した映画群を指す。『黄 色い大地(黄土地)』(陳凱歌監督、1985年)や『赤いコーリャン(紅高梁)』 (張芸謀監督、1987年)がその代表作として挙げられる。探索映画は、映画 界における知識人達が、政治から比較的離れた空間で、ナショナルな文化を 建設しようとしたものであった。その後、1990年代に入ると、社会の大きな 変化や、映画制作のミニマム化等を契機として、より個人的な視点から創作 されたドキュメンタリー映画、またはドキュメンタリー風の作品が多く現れ た。呉文光、張元、王小帥、最近では賈樟柯等の映画作家達がその代表と言 「言語文化」8-1:55−70ページ 2005. 同志社大学言語文化学会 ©菅原慶乃えよう。 本稿では特に、呉文光等が持つ「自ら撮りたいものを撮る」という、映画 作家の強い自立性に注目したい。「自ら撮りたいものを撮る」という意識を、 本稿では1990年代的な「個」の意識と呼びたい。これはこの時期に限られた ものではなく、政治性からの脱却と形式の美学の復活を目指した新時期初期 の「学院派」の試みや、探索映画の監督の創作意識にも、同様の意識は見ら れる。しかし、1980年代後半の中国映画界におけるドキュメンタリーの出現 は、「独立制片」と呼ばれるインディペンダントな制作形態と連動している 点から言えば、この時期を他の時期と大きく分かつ契機となっていると考え られる。ドキュメンタリーという形態とその手法は、新時期中国映画界にお ける「映画」概念そのものを変える力を持っていた。 筆者はこれまで、探索映画に代表される、1980年代的なナショナルな文化 構築という目標に沿って作られた映画と、1990年代的な「個」の意識を中心 とした映画を、映画の「語り」の方法から分析し1、また現場の映画人の集 団意識と個の意識を対比させて考察してきた2。本稿では、1990年代的な 「個」を更に掘り下げて考察したい。まず呉文光の『流浪北京:最後の夢想 者たち(流浪北京:最後的夢想者)』と、張元の『媽媽』を「個」の意識形 成の契機とし、その背景を探った後、1990年代の典型的な「個」の意識を体 現した賈樟柯の『一瞬の夢(小武)』を取り上げ、中国インディペンダント 映画の状況を考察する事を本稿の目標とする。なお、本稿では映画タイトル を『日本語タイトル(中国語タイトル)』と表記する。日本で公開された事 が無い映画の場合、中国語のタイトルのみを表記する。
Ⅱ.新しいドキュメンタリー映画の出現
―呉文光『流浪北京:最後の夢想家たち』を中心に
呉文光は1956年雲南省昆明に生まれた。高校卒業後、昆明郊外の農村へ労 働奉仕活動、所謂「下放」された後、雲南大学中文学部へ入学、1982年に卒 業した。その後、地元の中学校で教師の職に就くがやがて離職、1985年から 2年ほど、昆明テレビ局に勤務する。ここで、記者や番組構成等の仕事を経 験した。また、1983年には、新彊ウィグル族自治区へ旅行、一時期現地の中学校で教鞭を取った経験も持つ。 『流浪北京:最後の夢想家たち』は、彼の第1作目の作品である。1990年 に完成したこの作品は、後に香港国際映画祭へ出品された。1991年には、山 形国際ドキュメンタリー映画祭のアジアプログラムでも上映された。 このドキュメンタリー作品は、牟森、張夏平、張大力、高波、張慈の5人 の若き芸術家の北京での生活を2年間に渡り撮影したものである。5人のい ずれの芸術家も1960年代前半生まれで、不法滞在にあたる「盲流」として北 京に留まり、芸術という夢想を実現するべく活動を続けている。彼等は「盲 流」である事に後ろめたさを感じるというより、むしろ誇りに近い思いを抱 いているようだ。作品中のインタビューにおいて高波は、「盲流」とは自由 職業者のことである、と語っているが、その解釈は彼等の共通認識である。 この作品が、それまでのドキュメンタリー映画(テレビドキュメンタリー も含む)と決定的に異なる点は、制作当初は、作品の公開や上映を前提とし なかった事である。この点について呉文光は、「ただ自分がしたいように撮 り、その結果どうなるかという事は考えなかった」3と述べている。つまり、 作品を撮った後に何らかの形で作品を公開する事や、映画祭に参加する事も、 制作当時の念頭になかったと言うことだ。この作品を撮る契機となったのは、 雲南時代からの友人張慈が、アメリカ人と結婚しアメリカへ行くかも知れな いと彼に漏らした時であった。極めて個人的な出来事から始まり、極めて個 人的なドキュメンタリーが撮影されはじめた。 こうして見たように、呉文光の制作意図には、自分の撮りたいものを撮る、 という強い意志と、それゆえ生まれる強い自立性が見られる。彼自身、国営 映画撮影所の名前の下に行われない映画制作は違法である事を、取り立てて 問題にしていなかった4。呉文光が示した映画の制作形態は、全く新しいも のであり、1990年代半ば以降には、「体制外映画」(インディペンダント映画 の意味)と称される、一連の極めて個性的で実験的な作品の源流となるもの だった。呉文光は、「体制外」、つまりインディペンダントである事に、ある 特別な意味を見いだしている。彼は言う。 思うに、インディペンダントなドキュメンタリー映画は中国にとって
新しいドキュメンタリーの傾向であり、昔から継承されてきた「お上 の言説」から抜け出すことができ、また完全に個人的な言説実践を追 及することができる。その現在のレベルがどうであれ、その出現は尋 常でないほど貴重なスタートなのである。5 彼が言う「お上」(公家)とは、既存の映画体制の中で映画を創作する際 に、映画作家達が避けて通る事ができない体制側の作品への介入を指してい る。「自分が撮りたいものを撮る」という呉文光の創作姿勢に見られる「自 由」とは、個人の自由意志を意味すると同時に、「お上」の介入から自由で ある事をも意味している。また彼は、『流浪北京:最後の夢想者たち』を撮 影した機材が、「お上」のもの、つまりコネをたどってテレビ局から無料で 拝借したものである事を逆手に取り、この作品を、「お上」のカメラを使い つつも、「お上」が決して顧みることのない「盲流」という身分の芸術家達 を撮ったと位置づけている6。呉文光のこれらの言葉から、1980年代後半以 降の中国のインディペンダント映画が、自由という名の強い「個」の意識に 裏打ちされたものであり、同時に体制からの逸脱性を帯びていた事がわかる。 彼が採用したドキュメンタリーという手法は、後の作家達にも引き継がれ、 ドキュメンタリーである事が、同時にインディペンダントでもあるという立 場を形成していった。 呉文光は、2000年より『現場』シリーズを出版し、若手作家の作品を取り 上げている。また、北京の民間の映画愛好家の団体「実践社」の会合で講師 として、またインディペンダント映画の先達として、若手と盛んに交流して いる7。
Ⅲ.ドキュメンタリーと劇映画の融合―張元『媽媽』
監督張元は、1963年南京で生まれた。1985年に北京電影学院撮影学部に入 学、1989年に卒業。その直後から作品を撮り始める。数多くの劇映画、ドキ ュメンタリー映画を制作すると同時に、ロックミュージシャン崔建の『譲我 在雪地上撒点児野』(1991年)、『一塊紅布』(1992年)を始めとするビデオ・ クリップ作品(歌手に代表される音楽アーティストのプロモーション目的で制作される映像小品)でも注目を集めた。 映画『媽媽』は張元の第1作目の劇映画である。脳障害を持つ子供とその 母親を追うドキュメンタリー風な物語で、1990年にナント三大陸映画祭で審 査員賞と観客賞を受賞、その後も1992年のベルリン国際映画祭で審査員賞等 を受賞した。後に、西安映画撮影所の名義で配給されるが、制作形態そのも のは、インディペンダント映画である。制作にあたっては、まずビデオカメ ラを用い、実際の障害児とその母親へインタビュー形式で取材を行い、その 過程を記録し、それらを作品の資料とした。これらのインタビューは後に作 品の中に挿入され、『媽媽』という映画の一部を成すこととなる。作品の中 に組み込まれた「本物の」母親達のインタビューの中では、物語の部分の主 人公であり、架空の人物であるはずの母親梁丹も登場し、インタビューに答 えるという、極めて実験的な試みがなされている。 脳障害を持つ息子冬冬とその母親の梁丹の間には、ある矛盾が存在する。 二人の間には、道徳的道義的な意味での親子関係があるのだが、他方、障害 によって発話の機会が無い息子冬冬とのコミュニケーションギャップに苦し む母梁丹の姿がある。梁丹は息子に常に話しかけ、お話を聞かせてやり、 “治療”するが、息子が回復を見せることは無い。また、母親梁丹が息子の 治療のために奔走したがために、職場や周りの人に受け入れてもらえない事 態が発生する。梁丹は冬冬を置き去りにしようとし、果ては自殺未遂する。 これは、社会的文化的に刷り込まれた“母性”に対する異議申し立て行為で あり、梁丹と社会、文化との溝を提示すると同時に、梁丹が主流文化におけ る中間的あるいは境界的な存在であることを提示している。作品では、実際 の脳障害児の母親達のインタビューが数多く挿入されている。これらの映像 は、もともと作品を制作する全段階で資料として撮影されたものだが、監督 の判断で後に作品の中に組み込まれた。その中に、作品中の架空の人物であ るはずの梁丹も登場し、インタビューに答えている。この処理によって、梁 丹が話したことが他の実在する母親が話したことと同様に真実であることが 強調され、物語が現実と一致を見せる。物語の「真実らしさ」を導き出すこ の手法は、典型的なリアリズムの手法であり、それ自体は特に注目すべき手 法であるとはいえない。しかしここで重要なのは、梁丹が、ヒューマニズム
的な自己決定権を持つ存在ではないという事だ。常にとまどい、さまよう存 在として描かれている。ラストシーンで、線路をさまよい歩く梁丹の姿は、 極めて象徴的だ。このラストシーンは、当初は梁丹が息子の首を絞めて殺す というものだったが、後に監督張元はそれをふさわしくない、として改変し ている8。 梁丹が息子を殺してしまえば、物語は、主流文化と非主流文化という二項 対立になってしまうが、梁丹の境界的存在を、ありのまま残すことで、文化 の中で不安定なアイデンティティを持つ人々の空間を提示し、主流文化の枠 の中では定義できない境界的な「個」の存在を浮き彫りにしたといえる。こ うした処理は、1980年代の探索映画と比較すれば、弱々しく、また曖昧なも のであるとの見方もできよう。しかし、張元は一貫して以下のような発言を 繰り返している。 私は芸術に関しては一切妥協しない。追及したいこと、自分のしたい 事について、絶対に妥協しない。こうした態度は芸術家にとっては当 たり前のことだ。しかし、芸術家は結局の所大変弱いのだ。いつも思 うのだが、芸術家は赤ん坊と一緒で、これといった能力も持ってはい ないのだ。できることといったら、だだをこねたり、大泣きしたり、 ごねたりする事くらいだ。芸術家が何かを変えられると思ってはいけ ない。芸術家は、ただ自らの表情や感情を皆に伝えることのみできる のである。9 芸術家は無力で、ただ自らの表情や感情を皆に伝えることしかできない赤 ん坊である、という彼の言葉の中には、映画界における知識人達が目標とし 依拠すべき責任感が喪失した1990年代前半の中国社会において、芸術家個人 としての自己表現の確かさが、逆説的に表されている。
Ⅳ.
「個」の意識出現の背景
―テレビ業界とインディペンダント映画の接点
『流浪北京:最後の夢想者たち』及び『媽媽』に見られるような、映画作家の強い「個」の意識とインディペンダント精神は、1980年代後半の社会的 状況にその一因を見ることができる。ここでは特にテレビ番組の変貌と合わ せて考察していきたい。 1980年代後半以降のドキュメンタリー映画を中心とするインディペンダン ト映画を担った映画作家達の多くが、何らかの形でテレビ界と深い繋がりを 持っており、ビデオカメラという新しい映像器材による撮影方法や、少人数 による作品制作といった手法は、ドキュメンタリー映画の制作方法というよ り、むしろテレビ番組の制作方法を踏襲したものであると言える。 改革開放以降の中国における映画産業が、年々斜陽化を辿った事に対し、 テレビ放送は発展の一途を辿った。1978年12月には、中央電視台のニュース 番組『新聞聯播』でENG(Electoric News Gathering)が導入された。ENGと は、肩に担げられる程小型化されたビデオカメラを用いてニュースの取材を 行うシステムのことを指す。ニュースが起こった現場から即時に映像を送る 事が可能であり、ニュースの即時性と同時性を高めたものである10。 テレビ局の独自取材が盛んに行われた事にも注目したい。テレビ局が独自 に取材をし、ニュースとして放送される形態は新しいものだった。1980年に 中央電視台が放送したニュースのうち、独自に取材したニュースは全体の 40%程度、地方テレビ局が独自に取材したものを合わせると、独自取材によ るニュースは全体の80∼90%を占めた11。即時性が高く、短いニュースを大 量に放送する必要性に迫られていたこの時期に導入されたENGは、その要 求に十分に答えうる機敏性を持っていた。 こうしたニュース番組を提供する為の器材は、多くは輸入品に頼らざるを 得なかったが、1984年にはラジオ・テレビ放送の設備の輸入に際しての関税 が取り払われ、デジタル技術を用いた設備、器材が大量にもたらされるよう になった12。 ビデオカメラによる取材が盛んになった事は、より多くの技術者達に映像 機材への接触の機会を増加させた。映像器材の普及と、ニュースに代表され る映像メディア制作の機会増加は、人脈を頼れば容易にビデオカメラを入手 できる環境を生み出した。呉文光が、友人知人のつてを辿りテレビ局から拝 借したビデオカメラを「お上のカメラ」と称したのは、こうした背景があっ
たためである。 文化大革命以降のテレビ界を支えた人々のうち、文化大革命以降に教育を 終え、仕事を始めた若い世代が多かった事も、後に現れるインディペンダン トなドキュメンタリー映画の発生の要因となっている。この事は、映画界は 重鎮、中堅にあたる40才代以上の監督達の活動が健在だった事と対照を成し ている。1984年には、優秀なテレビドラマに与えられる飛天賞(飛天奨)に 参加した作品のうち、賞を受賞した作品や、受賞しないまでも影響力が大き い作品のほとんどが、30才を過ぎたばかりの若手監督によって撮影されたも のであるとの指摘がある13。また、その制作手法は、100分のドラマをわず か70日で完成させる等、作業スピードが非常に速かったとの報告もある14。 年齢の若さ、及び制作の機敏性は、1980年代後半以降の中国インディペンダ ント映画の制作形態と類似する。したがって、呉文光、張元に代表されるイ ンディペンダント映画作家のルーツは、映画界のみならず、テレビ番組の制 作業界からも辿る事が可能である。 テレビ局の番組制作、並びに同時期に需要が増加したテレビ広告の制作は、 インディペンダントの形態で映画を撮る作家達の資金源にもなった。また、 ポピュラー音楽産業の盛況は、ビデオ・クリップの制作需要をも増加させた。 呉文光、張元のみならず、インディペンダントの形態で映画を制作した映画 作家達は、国営映画撮影所所属の映画監督ではない為、民間の立場で映画を 制作する為には、資金の調達が大きな問題となる。映画界では、1984年から 16の国営映画撮影所の独立採算制が展開された。このことは、後に映画産業 の斜陽化を招く一因となる。加えて1980年代後半からは、「主旋律映画(主 旋律電影)」と呼ばれる中国共産党の宣伝性が高い作品を多く制作する路線 が敷かれた。例えば、1988年には、「重大題材にかんする劇映画制作に対す る補助基金(撮製重大題材故事片資助基金」が設立された。これを受けて 『巍巍昆侖』( 光総監督、1988年)、『彭大将軍』(劉斌監督、1988年)等が 制作される。この時期の主旋律映画の流れは、1989年の中華人民共和国建国 四十周年記念事業の一環であったといえる。このように、映画制作の現場か ら、創作の機会が消えかけていた時代において、様々な形態の映像メディア の需要が高まったこと、及び映像産業市場が大きく発展した事は、資金面で、
インディペンダントという立場での映画制作を可能とした。この点は、市場 の動向が映画制作形態を大きく変容させたという点で、今後も注目すべき側 面である。
Ⅴ.映画における私小説の登場―賈樟柯『一瞬の夢』
検閲体制から自由であるインディペンダント映画は、作家の創作態度を、 体制内で制作される映画よりも、より直接的に反映する。インディペンダン ト映画の多くは少人数で制作されたが、この事も作家性の強い作品を生み出 す要因である。制作の参加者達は、多くの場合顔見知りや友人であり、時に 流動的でさえある15。呉文光、張元らの試みに継いで、王小帥16の『ザ・デ イズ(冬春的日子)』(1994年)、何建軍17の『懸恋』(1993年)等の作品が輩 出された。いずれも、友人等の協力により撮影されたものである。1960年前 後に生まれ、北京で創作活動を続けた彼等は、下の世代の若手に大きな影響 を与えた。賈樟柯、顧崢、王宏偉が結成した「青年実験電影小組」は、大き な成功を治めた代表的なグループである。彼等はいずれも、1990年初期に北 京電影学院へ入学した学生であり、ビデオカメラや16ミリフィルムで短編・ 長編映画を手がけた18。 第1作目の『小山回家』は55分程度の短編映画であり、『光明日報』関係 者から借りたビデオカメラと録音器材により撮影された19。田舎から都会に 出てきた主人公が大都市に彷徨い、同郷の友人達との関係を失っていく物語 で、都会に暮らす若者の故郷の喪失をテーマとした作品である。撮影、録音、 美術は、やはり北京電影学院の同期生等を誘って制作された。1996年、香港 の雑誌『電影双周刊』の取材を受けた事が契機となり、彼等は『小山回家』 で香港の映画祭 HONG KONG INDEPENDENT SHORT FILM & VIDEO AWARDSに参加、1996年の大賞を受賞した。これが契機となり、香港の投 資による第3作目『一瞬の夢(小武)』が制作される。 『一瞬の夢』は、『小山回家』の続編とも言える作品で、より踏み込んだ 形で故郷の喪失を描いている。舞台は、監督賈樟柯の故郷山西省汾陽に移り、 故郷に居ながらにして故郷を失いつつも、それでもそこに存在し続ける、孤 独であると同時に強い意志を持った「個」の存在を提示している。『一瞬の夢』において、故郷の喪失は、まず主人公の故郷汾陽の解体とそこに住む彼 の仲間や家族の変容で象徴されている。スリ仲間が結婚し、主人公から遠い 存在になってしまい、同業者を喪失する。さらに、スリで得た物品を金銭と 交換する雑貨屋が、再開発のために解体される。彼はスリという「職」をも 喪失する。また、主人公が久しぶりに実家を訪れた際、家族との意思疎通が 全くできず、家から追い出される展開も、彼の故郷喪失へと通じる。これら は全て、主人公が故郷という場所に居ながらにして、そこに所属していない 事を描いている。ラストシーンは、もともと、主人公が警察に逮捕され、解 体工事で両脇が瓦礫の山になった路を、画面の奥の方に去っていく、という ものであった。しかし、最終的には、手錠を電線につながれ、周りを野次馬 に囲まれる、というシークエンスに変更された20。改変後の当該シーンでは、 キャメラの焦点は、手錠をつながれた主人公の位置から180度パンして野次 馬の方に移動する。観客の視点として主人公を写してきたキャメラの視点は、 ここで一転して主人公の目線へと転換する。これは、主人公が「見られる」 立場から「見る」立場へと逆転したことを意味する。このことが示唆するの は、故郷に依拠した文化的アイデンティティを失った主人公が、自ら「見る」 という視線の力を与えられることによって、故郷を喪失したにもかかわらず、 それでもそこに存在している事態である21。ここには、強い「個」の意識を 持つ制作者の分身が現れている。賈樟柯は、制作者の「個」の意識に関して 力強い発言を繰り返しているが、その例を以下に二つ挙げたい。 よく“我々”という言葉を耳にするが、“我々”とは一体誰の事だろ うか?“我々”とは、空虚なものであり、それを使うことで、個人の 道徳的責任逃れをすることができるのだ。なぜなら、それは“我々” であって、私でもなく、あなたでもなく、彼でもなく、最後には皆が 責任逃れするからだ。(中略)だから私は個人を強調するのだ。私は 自分の作品や考え、そして行動に責任を持たなければならない。それ が私の責任であり、栄誉でもあるのだ。一人一人の監督が皆自らの道 徳的役割を持っているのであって、集団的名義を使うことで責任逃れ をしているのではないのである。私は誰をも代表・代弁することはで
きない。私は私自身を代表・代弁できるのみである。22 実際は誰も大多数の人を代表・代弁する権利は無いのであって、人 は自分を代表・代弁する権利のみを持ち、自分自身のみを代表・代弁 できるのである。これは文化の束縛から抜け出す第一歩であって、あ る種の学識であり、さらに言えば生活習慣のひとつでもあるのだ。23 「私は誰をも代表・代弁することはできない、私は私自身を代表・代弁で きるのみである」という彼の言葉は、1990年代中国における強いインディペ ンダント精神を代弁していると言えよう。
Ⅵ.まとめ―インディペンダント映画の行方
1990年代に多数現れた中国インディペンダント映画は世界各地の映画祭で 脚光を浴びた。時に、「お上」の正式な映画と、インディペンダント映画が 国外の映画祭で鉢合わせになる事態も起こった。1994年2月、オランダロッ テルダム国際映画祭上で、中国映画特集のプログラムが組まれた際、中国大 陸の合法的に制作された映画と、一部のインディペンダント映画が同時に放 映されるという事態が起こった。これに抗議する形で中国の代表団が映画祭 出席をキャンセルし、大きな波紋を呼んだ。またこれ以前にも、東京国際映 画祭上で同様の事件が起こっていた。こうした事件をうけて、1994年3月12 日、広播電影電視部により「張元等の映像撮影及びポストプロダクションに 支持、協力しないことにかんする通知(関於不支持、協助張元等人拍撮影視 及後期加工的通知)」(広発影字[1994]135号)が通達された。この通知では、 実名で張元の『北京バスターズ(北京雑種)』(1993年)が批判された他、監 督名は匿名のまま、呉文光のドキュメンタリー映画『1966年、私の紅衛兵時 代(1966年、我的紅衛兵時代)』、王小帥の『ザ・デイズ』、何建軍の『懸恋』、 張元の妻で、『北京好日(找楽)』等で知られる寧贏の姉、寧岱の『関於一部 被禁影片的討論』、田荘荘の『青い凧(藍風筝)』、香港との合作映画『誘僧』 等、監督やグループによる作品7つが取り上げられ、これら監督の映像創作 活動に対し一切の協力をしてはならないとの厳しい通達が出された。「個」であろうとする映画作家達に対する電影局による引き締めは現在もしばしば 引き起こされている。 しかし近年、張元、王小帥、何建軍等の監督が、体制内でも制作を始めて いる24。また、あくまで体制内で制作することにポリシーを持つ路学長の 『成長大人』(1998年)、『非常夏日』(2000年)や、中央戯劇学院卒業の張揚 の『こころの湯(洗操)』(2000年)等、いわゆる「芸術性」、「娯楽性」が高 く、興行面でも成功を収めた監督達の活躍も見られる。こうした状況から見 ると、体制内あるいは体制外という映画の位置は必ずしも絶対的な基準では なく、基準はむしろそれぞれの監督自身の創作の機会がどこに存在するのか という点にあると言えよう。中国においてインディペンダント映画は、法制 上国内市場を持つことができないため、国内からの資金回収は一切見込むこ とが出来ない。それにもかかわらず、彼等の映画創作を支えているのは、一 部の文化人からの投資や、彼等が積極的に国際映画祭へ参加することで国際 的な注目を集め、海外の制作会社からの投資を獲得する等、彼等自身の活動 の範囲や射程がもはや中国大陸の国境を越えた地平へ向いていることが挙げ られるだろう。例えば、王小帥は『ザ・デイズ』で注目を浴びた後、香港の シュウ・ケイ(舒 )の援助を受け、『極度寒冷』を手がける契機を得てい る。 1990年代初期に呉文光と張元が国際舞台で脚光を浴びた事は、多くの若手 の映画作家に新しい映画制作への道を拓き、自己表現や芸術表現の幅の無限 な広がりの実例を示した。この事は、中国における映画制作の大きな転換の 契機となったに違いない。 2003年11月、北京電影学院にて、国家広播電影電視総局局長董剛を始め数 名の幹部と、賈樟柯、王小帥等若手映画作家等により座談会が開かれた。開 催された日付から、「1113会議」とも称されるこの座談会の席で、董剛はイ ンディペンダント映画に対する政策を緩和する事を示した25。これを受けた 形で、2003年12月1日より、海外の映画祭へ参加する際の手続きが緩和され、 従来必要だった電影局の検閲が廃止される事となった。 賈樟柯以降、「アマチュア映画(業余電影)」概念が定着を見た。1990年代 末には、都市部の若者の間で、より小型化されたデジタルビデオカメラが普
及し、自主映画が多く制作されはじめた。先に述べた「実践社」もこうした 流れで成立したグループである。インターネットの普及は、都市部における 自主映画グループ同士の交流の機会を増加させた。彼等のような「アマチュ ア映画」作家達の活躍は今後も、より自立し、より自由な映画を生み出す事 となるだろう。 注 1 拙稿「「いま、ここ」の二つの語り方―’80―’90年代中国大陸映画に見る語り のスタイルについての一考察―」『東洋文化』第84号(2004年3月)。 2 日本現代中国学会第53回全国学術大会上での口頭発表「<われわれ>から<わ たし>への転換−改革開放以降の中国映画作家にみるアイデンティティ形成の一 例」(2003年10月18日、大阪市立大学)。 3 呉文光『流浪北京:最後的夢想者』萬象図書、1995年、p. 279。 4 呉文光『流浪北京:最後的夢想者』萬象図書、1995年、p. 278。 5 呉文光・段錦川・ 智強「談紀録片:我們最需要的是「真実」」(焦雄屏による 1993年のインタビュー録)、焦雄屏『風雲際会』遠流出版、1988年、p.278。 6 呉文光「代序:記録的與被記録的」王慰慈『記録與探索:與大陸紀録片工作者 的世紀対話』遠流出版社、2000年、p.13。 7 実践社は、2000年5月に正式に設立。インターネットを活用し会員の交流を図 るほか、「制作部」「評論部」「放映部」の三部門に分かれ活動をしている。この 時期、北京では映画をテーマとするバーや喫茶店が多くあった。成府路(北京大 学東門付近)の「彫刻時光」(再開発の為2000年に北京理工大学南門付近へ移動)、 三里屯の「スワロウテイル(燕尾蝶)」、「ロフト(倉庫)」等が代表的であったが、 そのうち、実験社の放映、議論の活動の拠点は海淀区学院路の「黄亭子五十号」 であった(現在は再開発のため姿を消す)。なお近年、本稿で取り上げたような インディペンダント映画や、若手映画作家の映画を専門に放映するギャラリーも 出現している。例えば、北京のサブカルチャー発信地として最近盛り上がりを見 せる789芸術区の「HART Theater」、西海ほとりの「22 Film」等がある。 8 このことにかんして、張元は1992年に行われたインタビュー録において次の様
に述べている。「この結末は制作の完成過程で映画の中に取り入れなかった。と いうのも、八十九年の六四事件を経験したため、この結末はふさわしくないもの となったからだ。今の(引用者注:結末の)処理は比較的開放的なものとなって いる」(「談《媽媽』》:追求客観的力量」焦雄屏『風雲際会』(遠流出版、1998
年)、p.245)。 9 「張元:芸術家就象嬰児一様」(インタビュー録)『演芸圏』1999年第7期。 10 これについては、趙玉明主編『中国広播電視通史』(中国広播学院出版社、2004 年)484ページに詳細な記述がある。 11 張香山「1980年的広播電視」中国電影家協会編『中国電影年鑑1981』中国電影 出版社、1982年、p.523。 12 上掲書487ページの記述による。 13 丁道希「弯道上的前駆與落伍者」『中国電影年鑑1984』p.742。 14 趙群「簡談1984年電視劇」『中国電影年鑑1984』p.745。当時の認識として、テ レビドラマと映画の形式の類似性が意識されていた。例えば、映画人によるテレ ビドラマ制作講座は、映画の手法が、テレビドラマの手法へ大きな影響を与えた 事を示している。1982年末から翌年初めにかけて、電視劇芸術委員会主催による 第1期全国テレビドラマ監督芸術研究班(電視劇芸術導演研究班)が開催された (1982年12月27日∼1983年1月21日)。受講生は、全国のテレビ局から集まった。 また講師陣は、北京映画撮影所の冀志楓、陳懐皚、郭維、北京電影学院の鄭洞天、 評論家の邵牧君等、そうそうたる顔ぶれだった。内容も、モンタージュ理論、映 画言語の基礎等本格的な内容が講義された。(記事「結合実際 提高理論 電視 劇導演芸術研究班第一期結業」(『中国電影年鑑1983』中国電影出版社、1984年)、 p.808)による)。 15 インディペンダント映画作家がこのような状況について触れたインタビュー録 は複数あるが、例えば呉文光は次のように回想している。「この作品は、基本的 には友人に手伝ってもらう事が割合多かった。私がどの人物を撮り、その人物の どの生活や仕事のシーンを撮影するか決めた後、機材をあれこれの方法で手配し た後、以前一緒に撮影の仕事をした事がある人や、友達に手伝いをお願いした。 人数は極めて少なく、3,4人程度だった。」(于堅「逃亡・最後的夢想者関於呉文 光和尚義街六号的文字記録」呉文光『流浪北京:最後的夢想者』萬象図書、1995 年、p.279)。 16 1965年生まれ。1985年、北京電影学院監督学部へ進学。『ザ・デイズ』は、王小 帥の中央美術学院附属高校時代の同級生を主人公とした作品である。 17 1960年北京に生まれる。陳凱歌の『黄色い大地』、『大閲兵』、『こどもたちの王 様』の制作に参加。1988年北京電影学院監督学部の研修クラスへ入学。その後、 張芸謀の『紅夢』、田荘荘の『青い凧』へ副監督として参加。『懸恋』は監督第1 作目。撮影期間は2週間弱だった。 18 第1作目の『小山回家』(1994年)から第3作目の『一瞬の夢(小武)』(1998年) まで、賈樟柯が監督、顧崢がシナリオ、王宏偉が主人公役を担当。 19 顧崢「回顧青年実験電影小組」『天涯』2000年第1期、p.131。 20 賈樟柯「電影≪小武≫(劇本与実拍時的改動対照)」『現場』第1巻(天津社会
科学院、2000年11月)、p.183。 21 賈樟柯自身、このシーンは観客を「観察される観察者へ変換させるためだと語 っており、「見る事」「見られる事」の力学について意識的だった事を示している。 (Charles Tesson、米拉多訳「在街道大学校里−賈樟柯訪談録」『北京電影学院教学 編訳参考』1999年第1期、p.53。これは、フランスの『カイエ・ドゥ・シネマ』 1999年1月号に掲載された記事を中国語に翻訳したものである。 22 「賈樟柯:烏鴉解決烏鴉的問題」(インタビュー)『演芸圏』1999年第7期。 23 賈樟柯「我不詩化自己的経歴」程青松・黄鴎『我的撮影機不撒 :先鋒電影 人 案−生於1961−1970』中国友誼出版社、2002年、p.369。 24 張元の『おかえり(過年回家)』(2000年、西安映画撮影所)、王小帥の『越南姑 娘』(1996年、北京映画撮影所)、何建軍の『蝴蝶的微笑』(2000年、北京映画撮 影所)等。 25 座談会の様子は、2003年12月4日に『南方都市報』配信のインターネット記事 に詳しい。当該記事は様々なサイトに配信されたが、2005年5月1日現在も閲覧 可能なサイトは次の通り。 http://www.okxr.com/news/temp/20031205/2003120509004226568.shtml。
Request for freedom: a research for Chinese independent films
Yoshino S
UGAWARAKey words: consciousness of individual, independent film, documentary