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◎論説特集◎義和団百年と現在

帝 国 か ら 民 族 国 家 へ

清 朝 末 期 農 村 の 衝 撃 ︑ 支 配 と 自 治 [梨 園 屯 争 議 の 歴 史 叙 述 ]

張 広 生

・・⁝

(ド)

序 言

これまで︑歴史学者たちは梨園屯の歴史叙述を︑常に一

連の事件の格付けに訴えてきた︒このような叙述では梨園

屯争議(小事件)を義和団運動この一つの﹁大事件﹂ の内在構成部分とみなすものであった︒しかし︑本論の叙

述が関心をもつのは︑梨園屯の玉皇廟争議(小事件)と義

和団運動という一大事件との関係であるというよりは︑む

しろこの小事件が展開してみせる︑中国の伝統的秩序の転

換の問題なのである︒

この伝統的秩序は︑官であり学者である士大夫階級が獲

帝国 か ら民族国家へ

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(2)

得した実体(政治‑社会)と象徴(文化‑道徳)の︑二重

の整合性に依存している︒この整合関係は上層の士紳が住

む﹁城﹂(都市)に現れるだけでなく︑下層の士紳や大多数

の平民がいる﹁野﹂(郷村)でも同様にみいだしうる︒

問題は︑城壁のなかの秩序と地方の農村の秩序がどのよ

うにつながるのか︑ということである︒表面からみると︑

国家は農村に対する絶対的な支配という優位を備えていて︑

しかも︑支配の意思を農村の最下層まで貫こうとしている︒﹁支配﹂と﹁自治﹂は︑ちょうど国家の支配と村落の自治の

(2Vように︑はっきりと分かれる両極端なものである︒しかし︑

農業経済を基礎とする国家において︑村落はいつでも強大

なものである︒なぜなら︑国家の正式な行政制度は県レベ

ルまでしかのばすことができず︑しかも︑さらに重要なの

は︑帝国の運営に必要な重要資源は︑田賦であれ径役であ

れ︑村落からひき出してそれに依存しなけれぼならないの

で︑国家は村落で代理人を捜さなくてはならず︑そしてこ

そ自己の毛細血管を広大な領地に伸ばすことができるから

である︒

この意味からいえば︑﹁支配‑自治﹂は正式な制度的﹁構

造﹂などではなく︑それぞれが互いに往来して︑交流する

なかで絶えず作り上げられる﹁関係﹂である︒そして︑﹁封

建を郡県のなかに宿らせる﹂という救済方法は︑規範的制

度を推進することで︑﹁国﹂1この︑一人の君主を名義と する統治機構に︑﹁天下﹂ー何千何万の一般人が構成する

社会を︑さらに順応させるに過ぎないのである︒顧炎武が

はっきり示した帝国統治の論理は︑本当にこのように奇異

なものかも知れない︒つまり︑国家の﹁権﹂は地方の﹁勢﹂

と結合してこそ︑支配と自治が相互に依存してこそ︑全体

の秩序は維持できるのである︒

これも︑以上の二つの部分の秩序のつながりは︑決して

国家のエリートたちが主導する﹁普遍主義﹂的な制度と理

性が︑一方向からだけ達するものではない︑ということを

意味している︒国家のエリートたちは国家機構の暴力を使

用したり︑専断的な命令を下達する方式を通して︑城壁と

農村の間にある種の形式のつながりを確立できるけれども︑

実際は︑﹁普遍主義﹂的な制度や理性と地方社会の﹁その時

その土地の﹂︑﹁特殊主義﹂的な慣行およびその理性との間

の往来と交流こそが︑上述の二種類の秩序を連結させる︑

さらに重要な媒介なのである︒

このように言うことは︑以上の双方の関係を︑二種類の

﹁ローカル・ナレッジ﹂(localknowledge)Q間の純粋な相

互理解関係と見なさなければならないことを意味してい

ない︒なぜなら︑知識と権力のリレーは︑一つ一つの具体

的な社会空間を通り抜けなければならず︑しかもそれらの

間は必ず相互に連結するのであり︑いわゆる﹁理解﹂のな

かにも︑必然的に支配の意思が付き従っているのである︒

(3)

正に知識と権力の絶え間ない連結のなかに︑正に支配と反

支配の繰り返される闘争のなかに︑一定の秩序が構築され︑ ヱあるいは瓦解させられるのである︒

近代になって︑外部世界は中華帝国の伝統的秩序に強烈

な影響を与えた︒この影響は最上層において帝国の正式な

体制を攻撃しただけでなく︑ゆっくりと最下層に位置する

郷村社会にも浸透し拡散した︒キリスト教の︑近代中国の

郷村社会における拡大はその一例である︒この様な背景の

もと︑﹁支配﹂や﹁自治﹂の他に︑外部の影響がもたらした

新型の﹁衝撃﹂は︑我々が伝統的秩序の転換を理解するの

にとても重要となる︒﹁衝撃﹂は︑外部世界の到来以前にはさまざまな程度で存

在したが︑外部世界の衝突は新しい衝撃様式をもたらした︒

衝撃は一連の事件であり︑この一連の事件は伝統的秩序の

なかで一つの﹁破れ目﹂を裂き︑これらの新しい空間に浸

透してくる権力は︑絶えず新しく自己の勢力を配置し︑伝

統的な﹁支配‑自治﹂という関係のモデルは日に日に瓦解

したのである︒

ここでは︑﹁空間﹂は共時的な場景として理解してはなら

ない︒事件は共時的な場景関係においては説明できないの

である︒なぜなら︑時間解釈項を欠いた状況にあっては関

係/事件の二元論の戦術をはじめると︑その結果は︑事件

を﹁居dQわせN得るべきJ(presentavailable)関係に還元し てしまい︑関係と比べて事件は﹁泡沫﹂に過ぎないからで

ある︒マークスの鎖(事件系列)が展開される切り紙細工

の表面(関係系列)に覆われるとき︑関係/事件の戦術は

同時に︑社会学と歴史分析の理論を包摂するという願望を

曖昧にしてしまうのである︒なぜなら︑いったん時間の次

元が省かれると︑権力関係の図式的な﹁外面﹂は閉じられ

てしまい︑歴史空間のトポロジー的伸長は可能性を失って

しまうからである︒しかし︑事件は社会学の分析の作用に

対して﹁過程﹂という︑独立した解釈項を引き込んでいて︑

いわゆる歴史分析を結合する重要な洞察が現れてようとし

ており︑時間の変量の変化にしたがい︑事柄は何らかの変ハな化を有するのである︒

まさに長く続く事件が︑その時この土地において互いに

遭遇する力を貫通しただけでなく︑時間の延長にともなっ

て︑その時この土地の在地性も超越したのである︒事件は

異なる﹁空間﹂を縦に貫くだけでなく︑それ自身も新しく﹁空間﹂を創造しており︑絶えずそれをさらに近くにあるい

は遠くに差し向ける︑だからさらに秘密の﹁他者﹂が入場

するのである︒事件の発展過程において︑歴史は舞台の装

置や役柄を書き定めた脚本ではなく︑行動する者は新しく

自己の権力や戦術を配置しなくてはならない︒行動中は人 ユだけでなく制度も思考せねばならない︒

梨園屯争議はひとつの歴史的事件として我々に伝統的秩

15g一 帝 国 か ら民 族 国 家 へ

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序の変化を観察する窓を提供している︒

衝撃がひろがってゆくにしたがって︑我々は︑訴訟に関

連する各方面(教徒︑村民︑宣教師︑地方エリート︑公使︑

総理衙門︑司教︑県・府・道・省の地方の役人)が次々と

登場し︑権力の網が事件が裂いた﹁破れ目﹂に満ち︑それ

ぞれが依拠する﹁事実﹂が続々と呼び出され︑様相のバラ

バラな﹁真相﹂が繰り返し尋ねられたことを見ることがで

きる︒﹁正当﹂な命令が次々になされ︑﹁自ら進んで契約す

る﹂という誓いの言葉も次々に表明された︒一言で概括し

て言うならば︑権力が新たに展開してゆくなかに︑支配‑

自治の関係が衝撃により︑折りたたまれ︑切り開かれて︑

再び折りたたまれて︑再び切り開かれたのである︒このな

かで︑重要なのは事件の結果ではなく︑帝国から民族国家

にいたる秩序転換の歴史的難局なのである︒

幾 つ か の 記 憶 の な か の 梨 園 屯 争 謙

物語の発生地である梨園屯は︑特殊な﹁飛び地﹂であっ

た︒山東省冠県十八村(実際は二四村)のなかに含まれて

いた︒冠県十八村は行政上は山東省東呂府冠県の管轄であっ

たが︑冠県とつながっていないだけでなく山東省内に存在

せず︑離れて直隷省内にあり︑冠県の県城から一四〇里余

りも離れていた︒冠県県誌は十八村を﹁地勢が離れていて︑ 風俗は異なる︒盗賊は満ち溢れ︑平民と教徒とが入り混じっ

ている︒省の外にあって︑一つの独立した村であるので︑

支配は遠隔地のため及ばず︑統治また阻まれて通じない﹂

と記載している︒

梨園屯での平民と教徒との争議は︑玉皇廟の敷地に起因

する︒康煕年間︑村の庫貢生である李成龍が土地と住居一ヵ

所を寄付し︑後に︑村の他姓の富戸もいくらか土地を寄進

し︑共同で護済義学を維持した︒村人達はこの公の土地にバぜ玉皇廟を建造して︑村が迎神饗会を挙行する場所とした︒

一八六〇年代の戦火で義学と玉皇廟は破壊され︑その後

は風雨に曝されたが村には修復する力がなかったのであろ

う︒我々の物語が生ずる年代まで︑これらの建物は壁垣の

一部が残っていただけであった︒

一八六九年(同治八年)︑村のカトリック教徒は︑義学の

田畑を分けることを協議せねばならないと提議し︑梨園屯

全村三街の会首と地保の一同は協議して︑分配に同意した︒

宣教師のスガリグリアは後に︑﹁一八六九年に新しく帰依

したキリスト教徒は彼らが過去に金を寄進したことがある

と言い︑スガリグリアに︑彼らのために一部分の廟の財産

を手に入れるよう要求した︒この宣教師が招きに応じて参

加した﹃正式宴会﹄でこのことを申し出た時︑村の顔役た

ちー﹃あきれた異教徒たちは逃げ口上で答えた﹄︒当地の

布教者(教徒)たちとさらに討論をした後︑顔役たちは廟

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の財産を分けることに同意した︒帰依者は崩れた廟を得︑

非キリスト教徒たちは依然として土地を保有していた︒顔

役たちと地保は︑一八六九年三月一日に分配契約書を起草

して署名し︑続けて冠県知県の承認を得た﹂と述べている︒

一八六九年の家産分割取り決め証書(原文開分単)の櫨

案が残っており︑﹁冠県邑北境の梨園屯キリスト教会︑漢教(中国の伝統的宗教信仰者)は︑家産分割取り決め証書を作

成する︒村に昔からある義学の建物一ヵ所︑護済義学の田

畑三十八畝は公のものである︒今︑三街の会首と地保が協

議して︑四つに均分して分割するように望んだ︒漢教は四

分の三をとり︑田畑三十八畝を分けるべきである︒キリス

ト教会は建物一ヵ所︑加えて破損した広間三部屋︑崩れた

西側の部屋三部屋︑正門の合計の宅地三畝九厘一毫を分け

るべきであり︑天主堂を建築して使用する(傍点筆者)︒各

街の会首と地保を迎えて面と向かってはっきりさせるよう

求めたところ︑争論なく︑心を同じくして本気で望んでお

り︑それぞれはばかることなく︑また心がわりすることも

なかった︒後々のために︑はっきりと家産分割取り決め証

書を作成し証拠とする︒同治八年新正月十九日﹂とある︒

続けて村の顔役合わせて一二名の署名がある︒左令臣︑姜

錫広︑高清林︑閻鳳池︑閻培元︑王太興︑李福恒︑劉長安︑

顔役のなかで︑閻の姓が富戸から生まれたのではないこと

を除いて︑みな富戸が推された︒劉の姓は人数が多くない

が︑劉長安は監生なので︑会首に列せられた︒王俊成は一

〇畝の土地しか持っていなかったが︑弁舌の才に優れて威

信があるので︑彼も会首に列せられたのである︒

その後四年間は︑平穏無事であった︒

しかし四年後︑つまり一八七三年から一八九二年までの

二〇年余りは︑村民と教徒の争議が幾度も繰り返された︒

訴訟は冠県から東昌府に到り︑また東昌府から済東道に到

り︑さらに済東道から山東巡撫衙門に到ったのであり︑し

かもフランス公使と清朝総理衙門も口を出してきた︒村落

の日常生活の芝居は演じるほど大きくなり︑役者はますま

す複雑となり︑話の筋はますます込み入り︑一つの政治劇

にまで発展するのであった︒

﹁すでにはっきりと︑先に家産分割取り決め証書

を作成したのであり︑どうして後で後悔してみだ

りに告発することができよう﹂

(一八七三〜一八八七年)

一八七三年(同治一二年)︑村民と教徒の双方が初めて県

に訴えた︒村民側の告発人は当時︑家産分割取り決め証書

に名前が並んだ会首の一人︑閻立業であった︒教徒側の代

表者は教会長の王桂齢であった︒当時の冠県知県は韓光鼎

帝国か ら民族 国家 へ

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であった︒閻立業は教徒が義学の廟を破壊して天主堂を建

てたと告発したが︑王桂齢は村民側が土地を求めて玉皇閣

を建てようとしており︑約束と違うと告発した︒この間︑

カトリックの山東教区司教のエリギウス"コシ(漢名顧

立爵)は︑知県に当時の家産分割取り決め証書と︑教会が

この地所のために数年来納めてきた銭糧納入証書‑串票

八枚を引き渡した︒知県が﹁原告と被告を集めて確実な供

述をとり︑詳しく家産分割取り決め証書と対象考察したら︑

一致した﹂︒知県は﹁この事件はすでにはっきりと︑先に家

産分割取り決め証書を作成したのであり︑どうして後で後

悔してみだりに告発することができよう︒実に不当である﹂

という見解を持った︒直ちに閻立業などの人々をそれぞれ

﹁責任を重いとし罰を示す﹂ことをしようとしたが︑河北の

文生である朱昇堂などに彼らを保釈することを許可して︑

事件の結末を付けたのだった︒

この争議に関して︑梨園屯の老人たちは多くが︑教徒が

廟の土地を密売したからだと回想して述べている︒﹁教徒は

廟の分け前を手に入れて後︑神父に対して︑﹃村人はこの廟

を売りたがっているので︑俺たちはここに教会を建てねば

なりません!﹄と言った︒神父はこの場所を見定めてから︑

廟を購入して教会を建てることに同意した︒神父は金を払っ

て廟を購入したが︑金は梨園屯の人々に渡ったのではなく︑

全て教徒により密かに分けられたのである﹂と︒ しかし︑宣教師たちは別の叙述をしており︑それは教徒

たちが廟の敷地の分け前を手に入れた後に︑建てる力がな

かったので︑翻って敷地を宣教師の梁多明(スガリグリア︑

イタリア人)の名の下に献上して教会を建てた︑というも

のである︒

路遙氏は︑村人が回想する︑廟地を売るときの梁神父は︑

梁多明の死後を受け継いだ︑梨園屯教区を管理するもう一

人のイタリア人梁明徳ではないかと考えている︒村人

が回想して言う︑三元の銀元宝(一元五〇両)を取り出し

て教徒に渡し︑廟を買ったのは彼だったのである︒一八七

三年(同治一二年)︑彼は信徒に命じて速やかに教会を建て

たが︑村民の怒りを引き起こした︒

最も面白いのは﹁一八七三年︑三人の裕福な非キリスト

教徒が﹃生員﹄の身分となり︑彼らの新しい地位に相当す

る威勢を示すために︑キリスト教徒を告発し︑﹃彼らは廟の

破壊を強行し︑土地を力つくで占拠したと非難し訴えた﹄﹂

というコシの見解である︒

一八七三年の判決以後は︑どの資料にも双方の動静は記

載されていない︒しかし︑一八八一年になって︑村人は玉

皇神会を挙行して衝突が始まった︒

一八八一年の衝突に関して︑教会側の記述がある︒﹁一八

八一年二月八日︑人々はそれぞれの通りを通り抜け︑一体

の神像を担いで来て︑教会の門に至った︒手に矛や剣を持っ

(7)

た一群れの人が︑教会の中庭に集まった︒抗議をした一人

のカトリック教徒の女性が重傷を負ったが︑その他の教徒

は泰然自若としていたので︑﹃村のキリスト教徒への徹底し

た大虐殺は免れた﹄﹂︒﹁二月一二日︑梨園屯の左宝員は二〇

〇〇名の群衆を集め︑手に矛や剣︑棍棒を持って教会の門

を破壊し︑玉皇像を教会のなかに安置した﹂︒

中国当局の調査ではこう述べている︒一八六九年(同治

八年)に教徒が敷地を宣教師に取り次いで渡して︑天主堂

を建てた︒その後︑玉皇像は教会の付近に堂を設けて祭ら

れた︒一八八一年(光緒一二年)正月九日︑村は玉皇神会

を挙行した︒村人たちは人を雇って︑彩船小戯を上演した

が︑天主堂の門の外を通過する時︑遊覧客が集まって見物

していて︑かなり混んでおり︑教会の正門を押し開けてし

まった︒教会のなかの教徒が抗議したが︑その時は人が多

くて文句が多く︑ある人は天主堂はもともと玉皇廟の敷地

を借用したものであり︑将来︑また玉皇像を作って︑それ

を運び込んで祭ろうと︑と言った︒

フランス公使ボーハイは︑総理衙門に宛てた照会のなか

で︑梨園屯地方では悪党が教会の門を打ち壊して︑大勢の

人を率いて教会に闊入し︑そして中庭で芝居をしてたのし

もうとした︒少数の教徒には阻止する力がなく︑すぐに前

のほうに進み出て抗議したが︑殴られて重傷を負った︑と

説明し︑天津領事のディロンを山東に派遣して︑事件を調 ︿26>査せねばならない︑と桐喝した︒知県の韓光鼎は︑山東教

区司教のコシからこのことを知ったのであった︒韓知県は

調査後︑一八八一年の衝突は﹁ただ空論の争論に過ぎない︒

まだ正門は破壊されていない︒また教徒の住宅に無理強い

してふざけたこともない︒及び土地の神を天主堂のなかに

入れた事件もない﹂という見解を示した︒彼は﹁左宝元は

人々を率いて騒擾を起こさなかった︒結局︑めでたいこと

である︒閻東付は宗教に頼って︑たちの悪さを見せびらか

している﹂との見解を示した︒なので︑彼らに対して﹁そ

れぞれ責任を軽いとし罰を示した﹂︒教会の敷地に至って

は︑﹁村民と教徒は元通り仲直りをし︑土地はしばらくの間

借用してよいが︑教徒が別の敷地を購入して教会を建てる

のを待って︑返還を協議する︑という命令を下し﹂事件を

終結させた︒

奇妙なことに︑教徒側がこの変化の大きな断定について︑

どのような見方であるのかという記載がなく︑一八八一年

から一八八七年まで︑双方とも争いを続けていないのであ

る︒

に)

﹁法はあまねく施すことができないだけでなく︑

道理もひろくさとすことが難しい﹂

(一八八七〜一八九〇年)

一 一帝 国 か ら民 族 国 家 へ  

向しかし︑実際には教徒たちは別の土地をさがして教会を

(8)

建てることを望んだわけではなかった︒一八八七年︑フラ

ンシスコ会の神父ヨセブ・ヴィラは煉や瓦を持ってきて︑

古い建物に替えて︑その土地に洋風の正式な教会を建てよ

うとした︒教会の建物はすでに着工して数日がすぎてから︑

劉長安と左建勲および閻立業などが数百人を率いて︑手に

武器を持ち︑教会建設の材木やレンガなどを奪い去った︒

ヴィラや教徒たちは驚いて身を隠した︒村人たちは建設中

の教会を壊し︑その土地に新しい廟を建てた︒フランス公

使ラメールは︑山東司教のペテロ・パウロ・デ・マルチの

説明を引用している︒﹁光緒一三年(一八八七年)︑⁝⁝ヴィ

ラ神父はその村でレンガや材木を購入し︑壊された教会の

建物を新しく建てようとした︒すでに着工して数日となっ

ていたが︑突然村の悪党の左建勲︑劉長安などが数百余人

を集め︑それぞれ手に武器を持ち︑大胆に材木や金銭などムないっさいを略奪した﹂と︒

当時︑梨園屯の神父ウェポール(フランス人)が︑韓知

県の後任の何世箴への書状で︑村人たちは一方では劉長安

などが県へ行って具稟し︑一方では廟の建設に着手した︑

と述べた︒何世箴は︑劉長安などは﹁道理を曲げて争いを

始めた︒当然追及し︑処罰せねばならない﹂︒しかし︑﹁争

いの原因を考えると一日のことではなく︑多くの人が意見

を出しているので︑寛容な措置として監生をはずす﹂と認

定した︒そして︑一八八八年二月以前と期限を定めて︑廟 を壊して教会に戻す命令を下した︒

しかし︑村人側は屈服しなかった︒一方では武装して廟

を護衛し︑一方では控訴を続けた︒村の老人たちの回想に

よれば︑十八魁という言い方が初めて登場した︒六大冤と

いう訴訟の陣容も初めて集まった︒﹁最初に教会を壊して廟を建てた時︑(村人は)十八本の

双手帯(刀)を製造し︑十八人を派遣して廟を護衛したが︑

これが老十八魁なのである﹂︒﹁十八魁には閻家の者はおら

ず︑趙老人の一団で︑後に老十八魁は騒ぎを止めず︑閻書

勤も目障りだと思い騒ぎは増していったのである﹂︒﹁高老街(東山)︑閻得行(徳盛)︑王老括(文昌)︑左老

村(建勲)は外で告訴をし︑残りの三人は手配りして︑金

を集めて告訴した︒告訴を五︑六年したが負けたので︑﹃六

大冤﹄というのである﹂︒

この六人の紳士には︑監生の資格をはずされた劉長安︑

金で監生の官職を買った左建勲︑文生王世昌︑金で生員の

官職を買った姜汝能︑金で生員の官職を買った高東山︑武

生員閻得盛が含まれていた︒

教徒側は判決と事態になお不満足で︑王謙(伯三︑三歪)

の指導で先に告訴した︒

村民側は三人の紳士が代表となることで︑それにつづい

て告訴した︒

双方はまず東昌府に告訴したが︑すぐ後で済東道に告訴

(9)

し︑最後に山東巡撫衙門に告訴した︒省と府はこの事件を︑

県の役所に再審査するよう裁決した︒この時︑何世箴は﹁命

を奉じて事を降り﹂︑新任の知県魏起鵬が﹁原告と被告を召

喚して訊問した︒供述は双方とも自分の意見に固執した﹂︒

何世箴はすぐ後に復任し︑魏起鵬と共同で審理した︒しか

し︑﹁ちょうど取り調べている間に︑王三歪などと劉長安な

どが連名して申請して述べたことにより︑事件は紳毫の溜

光美などが調停し気が晴れるようにしてやったため和解し︑

彼らはみな悔悟し︑最後まで訴訟をやりたいとは思わなかっ

た︒王三歪などは教会が占拠している古い廟の敷地が︑村

に帰されて廟とすることを心から願い︑劉長安などは村の

人々とまた別の敷地を購入して︑王三歪らのために新しく

教会を建てることを心から願ったのである﹂︒

何世箴と魏起鵬がこの事件を裁いた論理は︑﹁これらの訴

訟事件は︑人々の心が揃っており︑法はあまねく施すこと

ができないだけでなく︑道理もひろくさとすことが難しい﹂︒﹁劉長安などは道理を曲げて争いを始めたが︑当然前の判断

に照らして廟を壊し教会に戻すことを命じなければならな

いが︑これら平民と教徒は同じ村に住んでいるので︑もし

仲違いがひどくなれば︑災いを醸す心配がないとは保証し

がたい︒すでに紳毫の調停を経て︑双方とも悔悟して和解

を請うているので︑ここでこの件を終わらせ︑もって平民

と教徒が互いに打ち解け過去をゆるし︑永久に互いにいざ ござがないことを期するに越したことはない﹂というもの

だった︒そこで︑﹁双方銀百両を納めてこれを手当とし︑期

限をきめて急いで古い教会の形に照らして起工し︑建造を

完成させた︒弁償する衣服や身の回り品は︑数の通り整え

て引き渡すべく︑それぞれ調べて明らかにし︑教徒が教会

で受領するよう命令し︑事件を終わらせた﹂︒

このように︑紳毫と官庁の調停のもとで︑村民と教徒の

間に妥協が成立したのである︒

その後二年間は︑村民と教徒は互いにいざこざがなく︑

無事であった︒その間︑一八八九年と一八九〇年の二回︑

フランス公使はマルチの要求により︑同治八年に作成した

家産分割取り決め証書に依拠して︑もとの土地に教会を建

設することを主張し︑﹁本大臣が先に山東のマルチ司教から

受け取った書簡で︑同治十三年三月七日の︑前任の韓知県

の書状のなかで︑この訴訟はすでにはっきりと︑先に家産

分割取り決め証書を作成したのであり︑どうして後で後悔

してみだりに告発できよう︑実に不当である︑と述べてい

る︒そして︑分割証文と串票を教会に渡して管理させたの

であり︑暫時借用の説明は言っていない︒まして前任の何

知県の報告の中でも︑劉長安らが来年二月までに神像を移

転するように命令をしていた︒暫く借用するという説明は

ない︑と述べている﹂︒

注意に値するのは︑フランス公使が二度の審理判決から

165‑一 帝 国 か ら民 族 国 家 へ

(10)

得た推論である︒﹁このことは︑教会がいまだ廟の敷地を不

法占拠しておらず︑地方官もしばしぼこの土地を︑教会の

資産としたことがわかる﹂︒しかも︑教徒が調停を受け入れ

誓約したと言っていることは︑教会のあずかりしらぬこと

であり︑地方官とマルチが直接に教会に返還する事柄を相

談するように要求している︒

しかし︑山東巡撫張曜は総理衙門への回答書で地方官の

見解を引用し︑教徒が誓約したのは︑当時の李という姓の

宣教師と﹁妥協協議した﹂後に成立したものであり︑しか

も︑訴訟が起きたときに調査の上判明したが︑宣教師の姓

は衛であり︑訴訟の知らせが伝わったときはすでに李の姓

に代わっており︑現在︑訴訟事件が終わってすでに一年余

り︑宣教師はまた幾人か代わったそうである︑とみなして

おり︑故に︑﹁実は他の込み入った事情はないが︑いまだ

はっきりしない件﹂と述べている︒要するに︑この二年間︑

フランス公使は抗議したけども︑地方官はこの訴訟事件は

すでに終わっているということで︑マルチ司教に会うのを

(一)

﹁民の好むものを好み︑民の悪むものを悪まない

でいて︑どうして民の父母となれようか﹂

(一八九一年〜)

一八九一年︑情勢は逆転し︑長江流域の寄老会の反キリ スト教の雰囲気のもと︑山東の反キリスト教感情は高揚し

た︒﹁三月︑河南の寄老会が騒乱を起こして教会の焼き打ち

事件が度々起った︒山東は七月まで郷試が行われていて︑

科挙を受験する人が雲集していた︒悪党は機会に乗じて紛

れ込み︑口先で人を惑わそうと匿名の掲貼を散布し︑一時

はデマが方々に起こり︑情況は危険であった﹂︒朝廷は地方

官に︑適切に宣教師や教徒を保護する︑さもなくば︑﹁事実

に基づき厳しく糾弾する﹂︑﹁以前の各省の審理を終えてい

ない訴訟事件は︑当該将軍督撫を派遣して速やかに解決さ

せる︒災難を恐れて解決を遅らせ︑書類を山積みにして下

役に任せてはならない﹂と命令した︒こうした情勢のもと︑

総理衙門は山東巡撫福潤に命じて︑地方官と山東司教が梨

園屯事件を迅速に︑直接協議して解決させるよう要求した︒

福潤は東昌知府の李清和に︑知県を越えて直接﹁情報を

集めて明らかにする﹂ことを命じ︑廟を教徒に譲り︑教会

を改築させると命令させた︒あわせて民心が服従しないこ

とを恐れ︑何知県から銀二百両と京銭一千串を寄進させて︑

人々が別の土地を購入することをゆるし︑新しい廟を建て

て神像を移させて︑事件を終わらせた︒

しかし︑教徒たちは﹁訴訟をおこした人のその名を調べ

て捕らえて罪を糾弾するなら終わらせてもよい﹂と言いた

てたため︑﹁多くの人が承服しない﹂事態となったのであ

る︒村長の左建勲は︑団練を組織したときの武器を廟内に

(11)

今回は西洋人が後押しをしている︒行きたければ行きなさ

い﹄と言った︒八人は︑これらの身分がある人々がみな行

きたがらないのを見て︑彼らも取りやめるより仕方がなかっ

た︒この八人は後世の人に﹃八大訟﹄と称された﹂︒

﹁この時村民は︑役所が民のために自らが処理にのりだそ

うとしないので︑教徒と命懸けになろうと決め︑閻書勤︑

高小麻を首領として推挙し︑﹃十八魁﹄と公言したのであ

る︒閻書勤らがやっているのは紅拳で︑事件を起こして後︑

彼は梅花拳の首領である趙三多と連合し︑彼に弟子入りし

て師とした︒趙三多は大王曲の梅拳首領である陳老明と連

合したのである︒趙三多︑閻書勤らは梨園屯の騒動のとき

に﹃義和拳﹄と改称したのである︒﹃義和﹄は皆が連合し

た︑という意味である︒六名の紳士は騒ぎが大きくなるの

を見て︑みな梨園屯を離れたのである﹂︒

地 方 の 舞 台 で の 衝 突 ︑ 支 配 と 自 治

この平民と教徒の争議は二〇年余り続いた︒ひとつなが

りの事件であるので︑それはひとつながりの関係を含んで

いる︒私の直線的な描写では︑せいぜいこの繁雑な関係の

いくつかの側面に言及しただけである︒そして︑切り込ん

だ分析も︑これらの側面の横断面ー衝突︑支配と自治とい

う横断面に過ぎないと考える︒ 私の見たところでは︑この長い間続けられた訴訟は︑ま

さに衝突︑支配と自治の関係が︑一つの地方社会の舞台で

長期間発展した現象なのである︒

e 村 落 ‑ 二 種 類 の 自 治 力 の 発 展

そのような長期的発展を見ようとするなら︑梨園屯の王

という教徒の死は︑補足して述べる価値がある︒なぜなら︑

この小人物の死亡事件が︑我々の関心の対象を歴史の中か

ら浮き上がらせるからである︒

王という教徒の死について︑老人たちの回想はとても曖

昧である︒﹁当時︑教徒は王伯三を首領としていた︒王伯三は王老宅

の父親であった︒初めて布教に来たさい︑梨園屯で土地を

買い教会を建てようとした︒教会を買う金は全て王伯三に

横領され︑儒仏道側は少しも得なかった︒当時︑彼の権力

はとても大きく︑初めの間は彼を頼りにしていたのであっ

た﹂︒﹁王伯三(教徒を代表)︑王世昌(村民を代表)は共に邸

県へ行って告訴した︒王世昌は知県の前で脆いたが︑王伯

三は脆かず︑さらに経典で知県を殴った︒この知県は何二

糊除の息子で︑何二糊除はかつて冠県の知県をしていた︒

知県は大いに怒り︑王伯三を死刑に処した﹂︒﹁王三は冠県

で死んだ︒先に何が官職につき︑後に彼の息子が知県となっ

t68

(12)

移して防衛を意図し︑そして臨清の人である魏合意道士を

招聴して廟に住まわせた︒教徒たちはみな驚いて逃げるか

身を隠した︒巡撫福潤は済東道の張上達に﹁自ら行って機

を見て穏当に処置せよ﹂と命令した︒張上達は東昌府知府

の李清和︑臨清州知州の陶錫棋と冠県知県の何世箴を監督

引率して付近の紳毫を呼び集め︑﹁利害を諭して適切に教え

導き︑紛議を起こす愚民を全て解散させた﹂︒

官吏や紳士の斡旋のもと︑﹁六大冤﹂はそれ以上訴訟をお

こさないことを承諾するしかなかった︒路遙氏は調査によ

り︑今回招集された紳毫は十八村の士紳ではなく︑県の近

くの四周や︑威県の士紳であり︑曲同の井湖塞の武挙であ

る張倫遠と威県文生の鄭一魁︑文生寵清音などであったと

検証している︒張上達は自ら監督して廟を壊し︑そして教

徒側は土地を査収した︒﹁同時に︑張はさらに非キリスト教

徒のために別の場所に廟を建てた︒﹃彼は︑カトリック教側

を誘って教会を別の場所に移転することも意図していたが︑ な彼らは拒絶した﹄﹂︒

村人は回想して︑﹁後に何世箴は講和して︑金を払って教

会を建てる土地九畝を買ったが︑廟を建てる土地も買った

のである︒何畝かは分からないが︑教会の土地より少なかっ

た︑そして金を出して︑廟や教会を建てた(瓦ぶきであっ

た)︒元々の廟の所在地と廟の土地は官有地となった︒しか

し教徒は出ていかず︑頑なに元々の廟の場所を離れて廟を 建てなければならない︑と要求した︒こうして︑村(人)

が新しい廟を祭り︑おひろめの芝居をうつ時にまた騒ぎが

起こったが︑今回は教徒がみな驚いて村の外へ逃げ去った﹂

と述べている︒﹁その時の芝居上演では︑十八魁が廟を守ったことでは功

労者だが︑彼らは大男にすっぽかされた︒彼らは承服しな

かった︒閻徳盛は二日目に礼台に火をつけて燃やした︒三

日目には閻書勤がひどく罵り出し︑青龍刀を手にしてお供

え台をたたき切り︑七人の県の役人はみな逃げた︒府の役

人は老官塞まで逃げ︑神父も逃げ︑教徒も逃げたのである﹂︒

六人の紳士は︑一八九二年五月に官紳の調停において︑

再び告訴しないということを表明したが︑この後に彼らは

あきらかに︑最後の努力をしたーすなわちまた東昌府に

告訴をしたのである︒王世昌は法廷で府知事に︑"民の好む

を好み︑民の悪むものを悪まないでいて︑どうして民の父

母となれようか"と詰問したそうである︒知府は王世昌︑

左建勲︑閻徳盛にそれぞれ禁固二年の判決を下した︒﹁出所

後︑六人の紳士は村に金を求める面目がなく︑私財を出し

て訴訟の費用に充て︑二度と告訴しなかった﹂︒

陸術科は回想して述べている︒八人の村人(一般の貧者)

が後に︑さらに代表者を出して話し合いたがった︒﹁彼らは

まず六名の紳士に︑彼らと連合してともに行ってくれるか

尋ねた︒この時︑六名の紳士は怯んで﹃私たちは行かない︒

(13)

業を萎縮させたけれども︑地方エリートの能動性は大いに

ひきだされることになった︒冠県十八村の地方エリートは

一八六〇年代以後︑日に日に成長し活躍し始めた︒内乱中︑

干集の紳士と商人は梁庄の溜氏一族︑鴨窩庄の楊一族と連

合して︑﹁志閤団﹂という名の地方団練組織を開設した︒

彼らと︑威県の曲周﹁十八村﹂の団練組織は関係を持ち︑

南北志閤団と称した︒南志閤団の本部は井湖塞に設置した︒

一八八九年の調停における溜光美は︑当時の北志閤団の団

総であった︒一八九二年の紳士調停における武挙張倫遠は︑

当時の南志閤団の団総であった︒

この時期︑道光年間に梨園屯と並んで︑十八村の二つの

定期市であった干集はさらに迅速に発展し︑中興集と改称

し︑地方エリートが︑戦乱中における地方秩序再建の中心

であった︒文秀才の張凌雪は中興集八街の会首で︑北志閤

団のすご腕の一人であり︑彼は張老博と称する一人の紳士

の援助の下で︑十八村の楽育書院(威豊二年︑知県と十八

村の有力者が共同で資金を工面し︑干集に建設した)を管ムき理していた︒

当時の団練の首領たちは︑とても大きな権力を有してい

て︑彼らは各村から割り当てられた銭糧を管理し︑甚だし

くは︑騒ぎをおこす地方の﹁犯人﹂を直接捕らえて殺し︑

後で知県に報告することもできたのである︒この団練の編

制は︑内乱中にも温存されただけでなく︑楽育書院や銭糧 櫃制度とともに︑十八村の﹁自治﹂と﹁支配﹂が交差︑集

合する中心舞台となったのだった︒

十八村の田租と漕銭税は︑中興集の銭糧櫃に前渡ししな

ければならなかった︒銭糧櫃は︑冠県の役所が委託する中

興集の﹁紳董﹂八街の会首が合同で管理し︑一年に三

期催促して取り立てて上納する責任を負った︒会首たちは

銭糧櫃のなかから﹁黒税﹂(不法な税)を取ることができる

だけでなく︑銭糧の支払いが滞っている戸主を縛る権利も

有していた︒

十八村の唯一の書院ll楽育書院は中興集に建てられた︒

それは県試の合格者に︑毎月の課題を与えるだけのところ

ではなかった︒府や県の官員は中興集の視察に来るさい︑

士紳名流を集めて議事する場所を︑銭糧櫃の近くの楽育書

院内に設置した︒王朝政府は官員が村落に赴くことを奨励

しなかったので︑事実上冠県の知県は通常一年︑甚だしく

は二︑三年おきに一度中興集へ視察に来るのであった︒老

人の回想によれば︑県官が来たとき︑中興集の総会首兼団

総の張凌雷と︑紳士の張老博が楽育書院で迎え︑中興集の

その他の﹁紳董﹂を接見し︑そして共同で議事をした︒平

素は︑十八村の公共事務はこれらの紳董たちにより管理さ

れていた︒周囲の各村は重大なことがあると︑みな中興集

の書院に集まって協議した︒紳董や会首たちは﹁冠県の役

所との繋がりがとても緊密で︑村人の中でもとても高い威

170

(14)

たのだ︒王三はカトリック教の首領だった︒王三は何知県

に﹃私はカトリック教の状元だ﹄と言い︑何知県は﹃私は

この状元を殴る﹄と言った︒彼の死後︑七日も出棺しなかっ

た︒その時︑教徒が大三級に訴え出たのである﹂︒﹁告訴が起こった時︑密かに廟の敷地を売った王××は公

然と﹃私は状元である神父が私に状元を与えたのだ﹄と言っ

た︒邸県の知県に殴られて皮膚が破れ裂け︑手押し一輪車

で家に帰る途中で死んだ﹂︒

これらの回想の曖昧さの中に少しは一致点がある︒第一

に︑この教徒は梨園屯の王という姓である︒第二に︑玉皇

廟の敷地争議中︑彼はかつて教徒側の代表であった︒第三

に︑彼は法廷で知県を怒らせて︑責めたたかれて死んだ︒

官方櫨案の記載によれば︑この冠県の教徒の本当の姓名

は王桂齢である︒光緒七年(一八八一年)︑フランス公使の

ボーハイは総理衙門に圧力を加え︑山東省の教案ができる

だけ早く解決させるように要求した︒ボーハイの書簡のな

かで︑山東司教コシの説明を引用して︑﹁教徒が訴訟をおこ

した事件は何時までも平穏になることができない︒それは

みな非キリスト教徒が訴訟の後︑逆に教徒を無視してあざ

むこうとするためであると述べている﹂︒梨閻屯の教徒王桂

齢は︑一八七三年の玉皇廟争議の教徒側の代表であった︒

コシは︑一八七三年の事件はすでに終わったと思っていた

が︑非キリスト教徒側の左保元は王が既に死亡したことが 分かると︑度々教会に対して騒擾を起こし︑故意に難癖を

つけて喧嘩を仕掛けた︒もともと︑一八八一年の玉皇神会

の衝突は王桂齢の死後に発生したのである︒王は梨園屯の

教徒の︑第二代教会長であった︒

王桂齢事件を官庁は調査して︑﹁冠県の教徒王桂齢らが県

に送られて処罰拘留された事件は︑邸県の人である程光合

が漕銭の支払いが滞ったため︑県へ召喚され︑拘禁して支

払いをせまられたことによる︒程光合の子供の程二羊は︑

かねてよりカトリック教になじんでいた︒賄賂を贈り︑同

教の冠県の王桂齢と結託して︑また同教の信じる劉洛六す

なわち劉西長を招いて︑都双魁の二輪車を雇って邸県に到

着し︑酔いに乗じて真っ直ぐ県署に閲入して騒ぎ立てた︒

知県が出て来ると︑王桂齢らは納得せず怒号したので︑知

県は王桂齢らを罪に応じて処罰すべく︑都双魁とともに籍

地に送った︒王桂齢は冠県に送られたが︑病気のために亡

くなった︒冠県は詳しく調べ︑そして劉六洛らを釈放して き事件は終わった﹂︒

王の死は︑伝統的地方社会における秩序の調整に︑新し

い外来の要素を引き込むという意義を十分にあらわしてい

る︒この過程は一八六〇年代から述べねばならない︒

一八六〇年代は戦乱の時代で︑太平軍の北伐︑捻軍の蜂

起︑八卦教の蜂起︑そしてその他の小さな組織の地方暴動

は冠県に強烈な影響を与えた︒戦乱は農業を後退させ︑商

(15)

あった︒一八六九年︑教徒側は廟の財産を分けることを提

議したが︑これは一方では教徒集団の自意識の増大を表わ

し︑もう一方では︑村落共同体秩序の衰退が頂点に達した

ことをもはっきりと示しているのである︒

村の宗族は凝集力が非常に弱かった︒なぜなら︑族田族

産の普遍的な欠乏により︑素封家は甚だしくは︑一年に一ムむ度の﹁吃会﹂もやることができなかったのである︒村の閻

一族の子孫が︑一族の人がカトリック教の教徒になった時

の様子を回想してこう述べている︒﹁(閻家は)五支四門の

兄弟六人がみな教徒である︒家は人が多くて貧しかった︒

王家や張家が彼らをさそって教徒となり︑勢力が強大となっ

た︒私の曾祖父である閻照東は︑閻家で土地のある者は彼

らに小作させ︑食料ある者は一袋の高梁を与えさせようと

した︒困難な時期を過ごせたら教徒になる必要がなかった

のである︒閻家の人は︑彼らが教徒になるつもりであると

聞くと援助を断わり︑彼ら兄弟は閻万江の曾祖父以外はみ

な教徒となったのだ﹂︒

では︑士紳の力はどうだろう︒士紳の力の弱さは︑この

時期にとりわけ突出して現れている︒平民が︑士紳の階級

に上がるための準備施設‑護済義学と︑民俗を統括して

社区の凝集の象徴を現わす玉皇廟︑この二つの︑士紳の権

力が村で成長する基礎的な構造は︑八︑九年衰えつづけ︑

村の三街の会首たちは︑ついに資金を工面して建物を修理 する力がなく︑さらに彼らが浮浪者を救済し︑災害飢饅を

救済することも望めなくなった︒従って︑教徒たちが廟の

財産を分けることを提議したとき︑三街の会首たちは初め

は驚き誹しく思ったが︑後で仕方なく承諾したのはとても

自然なことであった︒

しかし︑一八七三年に村落共同体の力は目立って伸長が

あった︒かつて︑家産分割取り決め証書に署名した会首の

閻立業が︑先頭に立って争議を巻き起こしたことは一つの

典型的な現われである︒コシは︑三人の富裕な非キリスト

教徒が︑新たに獲得した﹁生員﹂という地位に相当する威

勢を見せるために︑﹁力ずくで廟を破壊し︑土地を力ずくで

占有した﹂とキリスト教徒を告発したのである︑と述べて

いる︒これは紳士の組織が拡大していると同時に︑まさに

廟の財産を取り戻し︑新しく自己の権力の基礎機構を作り

上げようとしていることを現わしている︒

上述の説明によって︑我々は一八八一年の王桂齢事件の

意義が理解できるのである︒村人と知県の眼中では︑この﹁宗教に頼る貧民﹂の狂暴な態度はまさに︑各種の力が結託

するなかで作り出された﹁異種﹂のエリートという漫画の

様態であった︒

教徒の回想において︑この時期教会長の多くは皆が公選

したもので︑威信があり︑教会のことに気を配ることが多

172

(16)

信を有していた﹂︒楽育書院は︑十八村の自治と国家の支配

が面と向かって協力を達成した象徴となった︑これにより︑ムミ村人たちはそれに﹁二衙門﹂というあだ名を付けたのである︒﹁村人は告訴するのに県に行く必要がなく︑ただ張凌轡を

訪ねるだけだった﹂︒﹁清朝時代︑大きな村はみな団を有し

ていて︑小さな村は大きな村に従った︒干集には団総がい

て︑団総の下は村長であった︒彼らは団総に従った﹂︒﹁十

八村の団の首領は︑各村の告訴︑殴り合い︑差役︑糧の納

付を管理した﹂︒

1県の役所と保甲の間に︑新しい権力空間が出現した︒

戦後の秩序再建において︑この空間は単に国家権力が下に

向かって伸び︑そして下層の紳士の権力が上に向かって成

長する場所というだけではなく︑一八六〇年代に活躍し始

めた各種民間の非合法の団体や秘密宗教︑さらに村のカト

リック教が発展する領域でもあった︒

このような華北の小農経済と経営地主制に依拠する紳士

の力は︑官庁の援助の下で発展して来たのであり︑江南の

紳士のような絶対支配体制を形成することは困難であった︒

この弱さゆえに︑彼らは完全には制御できない民間の非合

法団体や秘密宗教を︑許容しなくてはならなかったぼかり

か︑積極的な協力か消極的な不対抗かを問わず︑それらと

交流し︑理解しなければならなかったのである︒この脈絡

を考慮すれぼ︑老人たちの回想で︑ある十八村の団総が﹁密 かに祠を建て︑盗賊をかくまい︑広く善と悪の両方に交わっ

た﹂と述べていることは︑とても容易に理解できるのである︒

カトリック教の力は︑一八六〇年代以前にこの地方の社

会に浸透していた︒しかし︑一八六〇年代の布教権の獲得

や︑この時期の地方の戦乱が︑カトリック教の発展にさら

に良い機会を提供したのだった︒村落でずっと弱い勢力に

あった少数の姓の家︑宗族の救済を受けられない貧しい家

と︑皆がともに恨む盗賊︑政府の追跡逮捕に遭った異端宗

教分子︑および反逆分子1これらの伝統的な宗族︑紳士

の庇護のネットワークから離れて︑日に日に社会の辺縁へ

と零落してゆく勢力が︑カトリック教勢力を強大にさせた

のだ︒災害飢饅の救済︑訴訟への干渉など政治‑社会的庇

護に加えて︑一神教の信仰︑礼儀︑規律によって︑宣教師

は農村社会の内部でかなりの独立性を有する団体をすみや

かに生み出すことができた︒

一八六〇年代から一八九〇年代に至るまで︑カトリック

教のフランシスコ会とイエズス会は︑威県にある幾つかの﹁十八村﹂の飛び地で発展し︑二〇余りの教徒の村が現れ

た︒わずかに︑冠県十八村の二の村に天主堂がないだけ

であった︒一八六〇年代末期の梨園屯は教徒がすでに二〇

余戸あり︑全村戸数の約一〇%以上を占めた︒

一八六〇年代にカトリック教が梨園屯で迅速に発展した

時期は︑まさにこの村落が戦乱の疲弊に悩まされた時期で

(17)

うのは︑秀才に合格するのと大差なかった﹂︑﹁秀才に合格

すれば三日間自慢し︑状元に合格したようなものだった﹂︒

紳士は自発的に拒否したが︑中国当局と外国人神父は﹁孔

子参拝﹂問題で互いに譲らなかった︒地方官は︑受験する

教徒は一般人と一緒に︑科挙試験を受ける前に孔子を拝む

儀式を演じなくてはならず︑試験の上採用された後は︑そ

の時に孔子廟を拝み祭る儀式に参加する︑ということを要

求した︒しかし︑外国人宣教師はこの規定を断固拒否し︑

あわせてフランス公使を通じて総理衙門と交渉し︑教徒に

対する地方官の要求を否決するよう求めた︒総署は︑孔子

を拝むことは国家の重要な儀式に関わるので︑むやみに改

めることはできないと認識し︑地方官は規定どおり行ない︑

あわせて︑孔子を拝むことを拒絶した教徒の生員を免職す

るように諭告した︒

近代キリスト教と中国の出会いは︑情け深い天帝と大人

しい孔子の間の︑うちとけた話し合いというものではなく︑

手に鋭利な刀を持つミカエルと︑甲鎧を身に付けた韓退之

との﹁正統﹂の戦いであった︒

﹁私は状元だ﹂﹁私はカトリック教の状元だ﹂という︑王

という教徒の﹁納得せず怒号する﹂ことはまさに︑彼が演

じるエリートという役のおちつきのわるさを体現していた︒

王氏が自認したのは教徒集団の指導者であり保護者であっ

たが︑彼は一方では中国の士大夫制度のなかから官職の力 をひきだそうとし︑もう一方では異国のカトリック教神父

のところから威勢を汲み取ろうとしたのである︒しかし︑

彼は結局は﹁カトリック教の状元﹂であり︑しかもそもそ

も科挙による官職に採用されなかったのであろう︒そのた

めに彼は官側の公共権力から承認されなかったし︑郷里の

世論にも認められなかったのである︒

何らかの意味では︑まさにこの外部の性質を帯びた内部

矛盾ー郷土社会の内部に根を下ろしているが︑中国の正

統な秩序のなかで成長するのは困難な教徒の自治と︑郷紳

が主導し︑絶え間なく復興する伝統的郷村自治との間の︑

不断の闘争は︑この争いを長期化︑複雑化させ︑次第

に外部の力を村落共同体内部に引き入れさせ︑内部矛盾を

郷村の外にも拡散させたのであった︒

口 国 家 支 配 意 思 の 伸 長

我々は︑平民と教徒との矛盾が村落内部に限られていた

ときは︑国家の支配意思と梨園屯地方の権力ネットワーク

との関係は︑ただ遥か遠くに向き合っているだけであった

と仮定することができるだろう︒なぜなら︑国家権力の浸

透力は︑せいぜい十八村の中心i中興集までしか達しな

かったからである︒では︑一八七三年(同治一二年)の相

互告訴が国家の力をはじめて梨園屯村に引き入れたのだろ

うか︒ある歴史学者のように︑一八六九年の家産分割取り

174

(18)

イブの人が外国人宣教師や中国人教徒に頼りにされること

を承諾していた︒しかし︑このタイプの人は社区の内部で

成長して来たために︑伝統的共同体秩序を破壊した悪人と

して記憶されている︒なので︑後の世代の王三歪(伯三︑

謙)という蔑称や悪い行いは︑みな王桂齢一人に集まった

のだった︒

実際は︑カトリック教の中国農村での何十年かの発展は︑

すでに相当の凝集力を持つ教徒集団を生み出していた︒男

子が教徒になれば︑神父は彼が教徒の妻を捜すことを手伝っ

たし︑平素は教徒は互いに助け合い︑災害飢饅に遭えば︑

教会は救済したが︑教徒は救済を受けることが多く︑非教

徒は救済を受けることが少なかった︒ある教会はさらに教

公田をもち︑生活が苦しい教徒に耕させた宣教師が訴訟に

ついて一切をうけおったことは言うまでもないことである︒

家族の者で教徒となった者は︑家族の家簿に載らず︑教徒

は迎神賓会にも参加しなかった︒面白いことに︑外国人宣

教師は頻繁に交代するだけでなく︑一ヵ所の地方農村に長

期間留まることが難しかったので︑農村の中国人教徒はそ

の他の村人と同様に︑王朝の通常の権力が及ぼないところ

にいるだけでなく︑多く外国の教会の日常的支配の外にも

いた︑ということである︒

この相対的な自治状態は︑農村社会内部に新しいタイプ

のエリートーすなわち伝統的な科挙及第の紳士︑民間の 非合法団体や宗教組織に対処できる才能ある人を生み出し︑

教徒組織からも自らのエリート教会長を誕生させた︒

教会長は外国人宣教師に頼りにされるだけでなく︑村内の

教徒が選出して誕生したのであり︑とても威信があった︒

しかし︑教徒たちと宣教師たちはすぐに︑自分の力が中

国の秩序の主体内部で成長することが難しいと気付いた︒

その他の民間宗教と非合法団体との争いは言うまでもない

が︑彼らの最強で有力な相手は紳士であった︒

この問題を意識した直隷東南区のイエスズ会士たちは︑

宗教上の規則の制限を緩和することを決定し︑中国人教徒

が科挙の試験に参加することを許可した︒外交手段によっ

て︑宣教師たちのこの請求は直隷総督の認可を得た︒地方

官はもはや教徒が科挙試験に参加することを禁止せず︑人々

に科挙試験に参加する一般人と教徒を一視同仁とすること

を︑奨励して告げた︒しかし︑教徒は︑科挙試験を受ける

かれらのために保証人になることを希望する︑科挙及第の

紳士を探すことは困難だった︒この排斥は恐らく文化的な

差別だけでなく︑直隷東部一帯の科挙試験の人材不足と関

係あるかも知れない︒冠県を例とすると︑冠県には二つの

書院しかなく︑一つは県城の清泉書屋で︑もう一つは中興

集の楽育書院であった︒清朝のある時代︑全冠県で一人の

進士︑二一人の挙人(光緒時代には一人だけ)しかおらず︑

楽育書院の学生が学んでいたとき︑﹁冠を戴いて長衣をまと

(19)

査し許可するのであり︑同治四年の規定に照らして︑以上

の中国人教徒の公共の資産で(傍点筆者)︑他の人の名義を

用いて売買契約を結んではならず︑さらに悪賢い者が隔着

して勝手に売買契約を結ぶことをみとめてはならない︑と

はっきり記入すべきである﹂と規定した︒これは︑いわゆ

る密令の基本的な意図を公開して表現したものであるとい

えよう︒

こうしてみると︑一八六九年の家産分割取り決め証書の

特異な形式は︑単純な梨園屯地方の慣行と解釈することは

できない︒三畝の敷地をキリスト教会に分けて︑天主堂建

設を準備するために使用することは︑当然︑外国人宣教師

が内地で不動産を購入借用することはできないが︑教徒は

敷地の分け前を手に入れて後︑神父に献上して教会を建築

する援助を求めたのであり︑家産分割取り決め証書に宣教

師と教徒の名前を列記しなかったことは︑恐らくその点を

予め含めて考えていたのであろう︒教徒は廟の財産の分割

要求を︑最初は外国人宣教師と村の会首たちを通して提議

したのであり︑家産分割取り決め証書ができてから︑知県

の許可を得た︑という教会側の回想は理解の助けとなる︒

したがって︑もし普通の村民と教徒が︑当時のその地方

の村落の﹁慣行﹂を拠り所にして分割したものが︑ただ村

の公共財産の使用権だけだったと言うならば︑少なくとも

この村落慣行の産物は︑誕生の時からすでに︑国家の支配 意思と意思疎通をはたしていたのである︒それゆえ︑後に

家産分割取り決め証書を巡って展開した争議は︑梨園屯地

方の村落共同体が持つ︑公共財産の所有権は分割すること

ができないという共通の意識と︑宣教師が持っている絶対

的︑排他的な近代的所有権観念との対立であると︑理解す

るだけではすまない︒なぜなら︑ここには村民と宣教師の

理解の他に︑さらに第三種の理解‑国家の意思があるか まらである︒

一八六九年の家産分割取り決め証書の背後で︑各方面の

勢力がすでに配置を始めていた︒一方では︑外国人宣教師

の影響と︑村内の教徒の自治の力の発展が互いに結合した︒

教会を建てる敷地の獲得は宣教師に︑往来時の宿泊所と影

響を拡大する根拠地を保有させた︒しかも教会を建てれば︑

貧しい教徒が移って来て居住できるだけでなく︑村の教徒

の日常の宗教活動も︑他村の教会に行ってする必要がなく

なるのである1教徒は村内で発展するための空間を獲得

することになる︒もう一方では︑国家の支配意思と郷紳主

導の伝統的村落自治も︑密かに協力した︒官側は︑紳士が

支配する村落の暗黙の了解の力を借りて︑外来の衝突と浸

透に対処しようとし︑紳士は国家の力を借りて︑村落内部

の教徒の発展を抑制し︑自己の村落支配をしっかり維持し

ようと目論んだのである︒

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