一 立 ち 現 れ た 執 政 合 法 性 の 危 機
一九七八年一二月下旬に公布された第一一期三中全会公
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︿報は︑執政は「生産力を発展させることを中心とする」と確定させたと同時に︑人民民主を保障し︑社会主義法制を強化するとの任務を強く打ち出した︒つまり「依るべき法があり︑法があれば必ず依拠し︑法の執行は必ず厳格に行い︑法に違えれば必ず追求すること」が秩序に従って︑系統的に︑着実に実施されること︑これに権威を備えさせることを︑法制化の具体的基準であるとした︒また︑さらに憲法に規定されている公民の権利︑法律の前に誰もが平等である原則︑つまり法の下の平等原則︑司法の独立性を 擁護すること︑いかなる人も法律を超える特権をもつことを許さないことを保障すべきであると明確に指摘していた︒これ以後︑たとえ歴史の発展変化の道に障害や紆余曲折があったとしても︑経済を発展させることならびに法制を強化することは︑一貫して変わらない社会の主旋律である︒ 包み隠さずに述べれば︑一九七八年の「法に依って国を治める」との宣布明言においては︑規範の普遍性を承認すること︑手続の公正性に注意すること︑司法活動の専門化および精緻化を促進すること︑人権を尊重すること︑政府権力を抑制することなどの概念は︑まだ提起されていなかった︒また︑学界と実務部門にあっては︑「民主と法制」の実質的内容についても︑異なる見解や対立する主張
中 国 の 法 治 は い ず こ に 向 か う の か 季 衛 東︵訳=吉川
剛︶
●●●●● 論 説 ││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││中国法の諸相
がずっと存在していたのである︒だが︑生産力の発展をいろいろと工夫して加速させること︑これに相応する生産関係を調整すべきこと︑この点については︑すでに全国至るところでの基本的な共通認識となっていた︒多くの人がよく知っていることではあるが︑所期の目標を達成するには︑旧来の命令式計画体制を改革し︑市場競争のメカニズムによって効率を高めねばならないこと︑外国ベンダーを引き寄せ︑海外からの投資や技術と商品販売ネットワークによって︑産業発展のチャンスと利益を獲得せざるを得ないことである︒まさに︑こうした目標ならびに道理にかなった要求が︑法制建設は国際的に通用するゲームルールを参考にして進めねばならないことを決定付けているのであり︑さらには︑市場競争メカニズムを構築し︑健全化させ︑個人の自由な領域を拡大させ︑権利のために十分な︑制度化された救済手段を提供させ︑行政による規制を緩和させることなどをもって︑法律体系の基本的特徴とさせるのである︒その結果︑一九九七年に至って︑中国の執権政党は「法に依って国を治め︑社会主義法治国家を建設する」という重大な施政方針を正式に打ち出したのであり︑二〇〇四年に採択された憲法修正案にも「国家は人権を尊重し︑保障する」︑「国家は非公有制経済の発展を奨励し︑指示し︑指導する」などの条項が追加されたのである︒ 上述した二五年間において︑中国社会には二つの大きな 共通認識が形成されたようである︒一つは経済について︑また一つは法治についてのものである︒だが︑事実が裏付けるように︑後者にあっては︑法治に関する共通認識は︑真に確立されているわけではなく︑少なくともその基礎は非常に脆弱であり︑極端な場合には政法部門は知識分子と同床異夢の幻を見ていると形容される可能性すらある︒これまでの過程を振り返って見いだせることは︑「法制」と「法治」という用語をめぐって︑異なる立場の間での争いが終始存在してお ﹀2
︿り︑一九九七年の「法治国家」の概念に至って︑やっと政府官界の語彙・言説体系に導入されたのであり︑七年の努力を経て︑二〇〇四年になって「法治政府綱領」に昇華されたのである︒だが︑まさにちょうど二〇〇四年から︑法治国家の構築をめぐって︑不協和音が出始めた︒まずもっては河北省の執権政党政法委員会が公布した一号文件であり︑つまり特定の時期︑特定の類型の刑事案件の審理について︑具体的な指示を出し︑司法に公然と関与したのであ ﹀3
︿る︒続いては︑人民法院改革第二次五年綱要の趨勢と内容をめぐって論争が現れ︑長らく棚上げにされるといった事態をもたらしたことであ ﹀4
︿る︒二〇〇六年四月に中央政法委員会は︑社会主義法治理念教育を実施する措置を講じ始め︑「法の執行は民のため」と「大局に服務する」がとりわけ強調された︒この二年後には︑一九九〇年代からの司法改革に対する検証︑是正および法治の後
退といった形跡が現れ︑学者と実務家の間において︑異なる程度の動揺と混乱を巻き起こしたのであり︑その余波は今でも続いている︒ 現代における法治の本質とは︑人権ならびに公民の合法的権益についての制度化された保障を通じて︑国家権力を抑制し︑公平・正義を実現し︑それにより執政の合法性を強化するところにある︒かかるロジックにおいて︑もし国家が身をもって範を示せず︑自らが制定︑公布した現行の法律を厳格に遵守できないのであれば︑そのような規則は次第に名ばかりの存在に変わってしまうのであり︑政府も必然的に民の信をなくすに違いないであろう︒もしも現実の中で︑超法規的特権と規則を踏みにじる政治行為が存在するならば︑それでは︑公民の遵法精神は根本的に問題にもできないあろうし︑秩序は強制力にすがって実現するのみであり︑そうであれば︑社会を安定維持するためのコストは︑国家が負担に耐えられなくなるまで絶え間なく上昇するであろう︒もし︑このような事態の局面が転換されないのであれば︑私たちは︑ついには深刻な執政合法性の危機に直面することになるはずである︒二〇一〇年末に発生した浙江省温州寨橋村出身で長期にわたる陳情者であった銭雲会の死亡事件が引き起こした社会的反応︑それこそが最新の警告であろう︒その地の村民およびネット世論は︑公安部門が下した交通傷害致死事故の結論に疑いを持ち続 け︑地方政府あるいは開発に従事した企業および保安人員に謀殺の嫌疑があると推測し︑裁判機関である法院の一審判決の公正さを信じず︑社会的信任はまるで跡形もなく消え去ったかのようである︒現時点では︑その真相結果についてここでは言及しないこととするが︑最も驚かさせられたことは︑権威あるべき機関にあって︑大衆による信頼性がこれほどまでに乏しいということが︑むしろ争えない事実となってしまっていることである︒このことからもすれば︑執政合法性の危機といった論じ方は全くもって杞憂ではない︒経済の高速成長と人々の生活向上・改善は︑むろんある程度の矛盾を緩和し︑危機が爆発するのを先延ばしさせてはいる︒だが︑これは決して根本から問題を解決できはしないのである︒
二 誤 っ た 方 向 に 導 か れ た 民 主 化 は 意 図 し な い 結 果 を も た ら す で あ ろ う
執政合法性の危機を根本から予防︑克服するためには︑政治体制改革を積極的に推進すべきであり︑民主化によって法治の後退と変質を防ぐべきである︒このような主張はもちろん正確である︒だが︑結局のところ何をもって政治とするのか︒何をもって民主化された政治とするのか︒中国はいかなる民主化を必要とするのか︒こうした問題は明
確ではない︒「民主法治」の発展方向は依然として変転するかもしれず︑望み通りに運ばないかもしれず︑また意図せざる結果を迎えるかもしれない︒大本をたどれば︑政治とは衆人に関わる事項について決定をすることなのであり︑いわゆる民主化された政治とは︑衆人の事項に対する決定が衆人の意を十分に反映させていることである︒公共事務における決定の中に︑衆人の意を十分に反映させるためには︑情報公開︑表現の自由︑説明と論証が必要である︒このことから推論するならば︑公共事務を決定する面において︑もし自由かつ公開の審議と討議弁論がなければ︑言うに足るべき本当の民主もない︒しかも︑意見を持して互いに譲らないといった紛糾を避けるためには︑少数は多数に服する表決手続がやはり必要である︒また︑決定が眼前の利益あるいは情緒といった要素の影響を受けるのを避けるためには︑間接民主方式︑つまり衆人が決定者に対してのみ決定を下すことがやはり必要である︒そこで︑投票権と選挙権に対する制度的保障を必ず強化せねばならないのであり︑決定プロセスについての民主化による改革を全力で推進すべきであり︑代議制を完備させるべきである︒この外にも︑決定における公平と効率という二つの問題に配慮するため︑決定を確実に下す職責︵立法権︶︑決定を有効に執行する職責︵行政権︶および決定と執行についての合法性ないし妥当性に対して監督ならびに裁決を行 う職責︵裁判権︶を適切に区分すべきである︒
だが︑現在の中国というコンテクストにおいては︑民主化は小国寡民を前提とする直接民主といった既成の枠組に︑すでに陥っているようである︒それは主として︑一つには合理的組織原理を無視した「基層海選」︵純粋な個人的選択の和が必ずしも合理的であるとは限らないとするアローの第五定理からすれば︑政党政治を欠く場合には︑たやすく容易に︑宗族︑ヤミ社会あるいはその他の非正規組織が選挙結果を操作する事態をもたらすであろう︶として表現され︑また一つには政治ロジックを偏重した「執法為民」︵実際︑個人の事項に関わる司法判断にも衆人の意を反映させようとすることでもある︶として表現され︑そして全ての制度化された中間部分を省略した「世論監督」︵気ままで︑移ろいやすく︑特殊な民意が︑かえって制度の運用を決定するに等しい︶として表現され︑しかも︑分権による抑制均衡ならびに法に依拠した協調といった効果が持続するメカニズムを欠落させているのである︒一般的に言えば︑法治は民主を安定させる前提であり︑民主は公正たる法治の保障であり︑法治と民主の間には︑相互依存の関係が存在している︒法治が民主の名義によってなされる破壊に遭遇した場合︑実のところ︑きっと同時に民主制も破壊に遭遇するに違いないであろう︒わずかに司法領域について述べれば︑民主の理念が︑もしも当事者の同意と
大衆の満足であると一面的に理解されるならば︑一時的場当たり的な世論が判断の基準とされるのであれば︑そして「大調解」のような駆け引きに基づく紛争解決方式を体現するのであるとされるならば︑その結果は︑裁判官が責任から逃避し︑責任を転嫁させる傾向を助長するであろうし︑おそらくは︑皆が責任を負うが︑実は誰も責任を負わないといった制度的陥穽を形成させるであろう︒ 民主法治を実現するカギは︑立法という最も典型的な公共事務における決定に民意を十分に反映させることであって︑民意を法執行活動のうちにまで直接織り込むことではない︒なぜならば︑このようにした結果は︑局部的民意を全体の民意として置き換えるに過ぎないからである︒この観点から見てみると︑政治体制改革の現段階での最も重要な任務とは立法機構の民主化の進展を促進させることであり︑全国人民代表大会代表ならびに同常務委員会委員の選挙制度をさらに完備させることである︒その上︑最もカギとなる措置を挙げるなら︑憲法と法律の明文規定に基づいて︑人民代表大会およびその常務委員会の予算案審議と決定についての機能を強化させることであり︑「予算議会」の方式を通じて︑租税と財政をめぐる議論を活性化させ︑まずもって公共資源の分配において︑協議と投票を組み合わせた手続的民主を推進させることである︒このように行った場合︑少なくとも以下いくつかの利点がある︒まず 第一に政治改革を経済改革と直接リンク︑関連させ︑人民代表大会体制に対する再構築を進める際に生じる各種の衝撃力を緩和させることができる︒次いで各種の利益集団と政治勢力が単純な財政予算の編成と審議に関する手続の中で︑妥協の技巧をマスターさせ︑人民代表および政協委員が政策競争に従事し︑政治決定へコミットする能力を徐々に向上させることに有利である︒換言すれば︑つまり財政の透明化である「陽光財政」を通じて︑「訓政」から「憲政」への転換を完成させることである︒このようにすることで︑人民大衆に対するポピュリズムや経済格差に対する「均富」や外交などのような︑簡単に情緒・情感化されやすい争点を︑政治の基本対抗軸とさせ︑民主政治を夭折させる事態をもたらすことも避けられるであろう︒さらに述べれば︑民意の代表による行政権に対するコントロールを有効的に強化させることに有利であるとともに︑行政問責義務ならびに政治リスクを政府が単独で︑社会に向けて請け負う能力を強化させ︑党政分離改革において生じる権力の空白や職能的混乱を避けられるであろう︒ また別の利点は︑これこそが全国予算案についての実質的議論は︑中央レベルに通じる公共論壇・フォーラムに対して︑地方政府および各種社会勢力が︑交渉・駆け引きを行おうとする興味を刺激するであろう︒そして︑それにより︑地方自治を推進させる助力になると同時に︑中央の凝
集力を保たせることにも役立つであろう︵これは︑もちろん中央政府が十分な財源および相当大規模な補助資金を審査交付する権限を有するべきことを暗示している︶︒財税集権の現状と二〇一〇年の収用・立ち退き関連法案の改正ならびに不動産課税がもたらした地方政府財政に対する衝撃をめぐっては︑予算審議を強化することを考慮する際︑少なくとも以下いくつかの制度面での措置は︑議事日程にきちんと整理してのせるべきである︒まずもって︑中央と地方のために交渉︑討論をする場所︑手続および具体的規則を提供する必要がある︑それが全人代の場であろうと︑国務院財政部の場であろうと︑いずれにあっても︑中央政府と地方政府の間の財政関係を協議調整するフォーラムが必要であろう︒次いで︑財政権を有効的に集中させるためには︑予算支出における相当大きな額を地方に交付して使用させるか︑あるいは地方レベルにおいて地方間にて調節させるべきであり︑「地方で集め︑地方で用いる」を︑中央政府の徴収能力を強化するための正当性の根拠とさせ︑地方の積極性と求心力のテコ作用とさせるべきである︒このような条件の下︑地方政府が中央部門に対する陳情︑上申および根回しや駆け引きなどの活動を活性化させるであろうし︑またある種の「顧客政治」式の民主化をもたらす可能性はとても高いであろう︒ 第三に︑密室での取引︑不公平な分配︑高すぎる交渉コ ストを避けるために︑中央は財政再分配ならびに予算収支の更なる公開化︑透明化および手続正義の原則に合致させることを次第に実施すべきであり︑さらに地方サイドも︑自主徴税︑国税と地方税の比率変更および中央財政への移転割合を縮小させる要求を︑段階的に提起せざるを得ないであろう︒地方による自主財源ならびに管理権限を拡大することに関する要求を中央が拒絶したならば︑国内各級政府間の紛糾を発生させてしまうであろう︒こうした紛糾の発生は︑相互関係を調整する政治性フォーラムあるいは行政手続のほかに︑憲法ならびに法律に基づいて紛争を処理する制度を︑別途打ち立てる必要があることを意味しているのである︒過去︑司法部門は裁判︑仲裁︑調解などの方式を︑これまでは公民個人︑企業︑団体の間および民間部門と政府部門の間の問題を解決することに限定し︑しかも国内政府間の紛糾を考慮の枠内にいれてこなかったのである︒中央政府と地方政府との職能ならびに権限を区分させるといった目標を提起しようとするならば︑「でたらめな費用徴収の抑制」︑「行政機関が設けるあらゆる形式の小金庫の厳格なる禁止」︑「あらゆる形式をもって財政に償還︑納付させることになる行政事業的性質をもつ費用徴収を厳格に禁止すること」などの具体的措置を実施しようと試みるのであれば︑実際には︑中央と地方政府との間の紛糾をいかに処理するかの問題を回避する方法はないであろう︒
このため︑憲法裁判所あるいはその他の類型の司法性違憲審査機構を設立する必要がある︒ 上述の分析に基づいて︑我々は初歩的な結論を導き出しても差し支えないであろう︒つまり︑中国が政治体制改革をさらに一歩推し進める場合には︑ある種の低俗化︑単純化された民主観を退けねばならず︑ポピュリズムと情念化した大衆世論が民主化の進展を歪曲させることを防ぐべきであり︑それ故に民主と手続を密接に結合させるべきであり︑公正な法律形式を備えた民主があってこそ︑はじめて「よいもの」であると真に称することができるのである︒この意味において︑中国は法治を通じて民主に向かうべきであり︑しかも政治体制改革の初期段階にあっては︑「大衆路線」式︑世論指向的︑「蜂の巣をつついた」式の民主を強調するよりも︑むしろ︑まずもって法治ないし憲政をより多く強調したほうがよいであろう︒もし憲政に対して︑依然なにも論じないのであれば︑その場合︑大衆の民主をどのように論じようとも︑すべては一場の虚構の文字遊びにしか過ぎないであろう︑あるいは︑それこそは責任を負わない政治リスクでしかないであろう︒憲政とは︑憲法を至上とする原則の下に︑司法審査の制度布置によって︑人権を適切に保障させ︑権力を濫用する政府の行為を制限するのであり︑国家活動を全て法治の軌道に次第にのせることを意味するのである︒まさに︑この立憲主義的意 味における法治という制度布置があって︑やっと国家は執政合法性と社会整合性を強めさせることができるのと同時に︑民主政治というこの精巧なメカニズムを真に有効的に︑安定的に動作させはじめることができるのである︒
三 中 国 が 推 進 す る 法 治 の 問 題 状 況 を 改 め て 認 識 す る
法治に対する中国の再認識は︑経済改革と対外開放を起源としており︑この過程において︑プラスとマイナス両面における経験と教訓に基づき︑人々は市場経済は法治経済であるべきと認識するに至ったのである︒社会の更なる発展は︑市場経済ならびに法治には︑そのいずれにも唯一正確なモデルや固定不変のモデルはないことを︑やはり証明している︒また︑市場経済に対する法治の影響を重視すべきであるだけではなく︑さらに︑異なる市場経済モデルに対する異なる法治モデルの異なる影響に留意すべきであり︑また実際の状況に応じて︑異なる類型に対して取捨あるいは再構築の判断をすべきでもあると言えるであろう︒ 現時点までに︑中国式の法治は︑市場監督と管理の面において︑非常に強硬な︑単刀直入的な方式を採用しており︑関連法規もしばしば剛性構造の様相を呈しており︑厳格な法令運用と厳しい取締りと重罰を課すことを基本的な
特徴としている︒その結果は︑放逸と強制命令という両極端な状況の併存と交錯であり︑たえず「ひとたび管理すれば停滞し︑ひとたび緩めれば混乱する」といった抜き差しならない苦境を引き起こすのである︒市場経済の合法性の承認と行政規制の大幅な緩和が︑また︑経済の持続可能な発展と社会の調和のとれた発展に尽力する現段階においては︑営利主義的モチベーションの膨張と市場経済のアンバランスな発展に対して制限を課すといった国家の管理は︑いっそうの弾力性と多様性を備えるべきである︒コース博士が社会コストを論じたおりに述べたように︑「問題の相互 ﹀5
︿性」︑あるいは権利訴求の背後にある相互性に目を向けるべきである︒このことから︑競争における制度環境にもっと弾性に富む構造を出現させる必要がある︒このことは多元化され︑動態的で︑正当性を論じることを重んじ︑客観的な再検討を通じて不断に調和︑統合された︑そして社会の公平︵impartiality︶に対する訴求・要求と相応した法治観を意味している︒経済発展と関係する規範体系を剛性構造から弾力性構造に転換させねばならないとも言えるであろう︒このことは我々が向き合わなければならない一組目の問題である︒
早くも一九八〇年代中頃において︑中国の経済学者と法学者は︑政府は運動員でもあり︑審判員でもあるという背理した地位におかれていると指摘してお ﹀6
︿り︑政府と企業の 分離︑機能分化および国家権力の中立化を促進することが主張された︒だが︑この問題はこれまでずっと解決されておらず︑極端にはグローバル化の過程においてより複雑化されてもおり︑予想外の様相を出現させることも少なくない︒例えば市場の活動主体としての政府は︑政策性が非常に強い財物を提供するばかりか︑規模がより大きな調達にも従事するのであり︑また巨額な国債を発行するだけでなく︑国家所有の株式を売却するのでもある︒別の面では︑政府は超然的立場に立って︑貨幣︑利率︑雇用や給与︑物価︑社会保障などの各種政策と制度的措置によって︑外部から市場活動に対して規制を行うのである︒確かに︑貿易と金融の世界体制が形成され︑国を越境する企業の自由度の増加︑産業資本市場の規模の拡張といった類の要因は︑「脱国有化」︵denationalization︶の趨勢を促進している︒だが︑これと同時に︑エネルギー資源︑技術︑市場シェアおよび制度と政策をめぐる国際競争のたえざる激化は︑保護主義の勢力を刺激し︑「再国有化」︵re-nationalization︶の運動を呼びかける刺激ともなっている︒現在︑中国政府は︑報酬体系の合理化︑公正なる分配︑環境保護︑エネルギー資源の確保とバランス調整および持続可能な発展モデルを強調しているが︑それは国家の関与・干渉の機会を容認し︑強化した構造を︑必然的に擁護あるいは再構築させるに違いないであろう︒財政機能の拡大は︑貯蓄︑消費お
よび投資に対し︑状況に応じて有利に導く責任を政府がもっていることを意味しており︑そして︑再分配要求こそは︑調節作用を十分に発揮させる中核である︒残されたオプションは︑主として︑国家による干渉はいったい民主決定方式を採用するのか︑それとも集権化された方式︑極端には独裁的方式を採用するのかである︒政府は二重の役割を演じており︑市場に対する参加と干渉は︑矛盾しながらも相互補完しており︑これこそは我々が向き合わなければならない二組目の問題である︒ 現代の法治秩序の深層構造にあっては︑区別と対照は非常に重要な意味をもつ︒例えば︑合法と不法・違法︑勝訴方と敗訴方︑人格と財産︑公共性とプライバシー︑主権と人権︑国内法と国際法との間には︑明確な︑厳格な境界分野︑および常に現れる矛盾とそれに対抗する状況が存在している︒しかし︑一九九〇年代以降︑グローバル化とローカル化という二大潮流の衝突において︑もともとあった多くの境界線は︑ますます曖昧となり区分けできないほどに変化してしまった︒ヒト・モノ・資本および情報が国を越え自由に流動する︒このことは解体と再構築の同時進行︑異質な因子の混合および法律体系の各構成要素の溶解と再結合をもたらしている︒例えば油田採掘権契約と国家安全保障戦略とは︑本来は直接的関連はないのであるが︑現在では︑両者は容易にもつれあい外交上の紛争を引き起こし ている︒企業制度は︑もともとは融資方式︑管理構造︑資源に分かれ︑この三つの基本要素を再編することで︑それぞれ独自の規範︑手続︑行為論理をもつものである︒しかし︑巨大な資本市場と激烈な国際競争を背景とし︑頻繁になされる企業の合併・買収活動︵M&A︶は企業全体の変容を引き起こしており︑証券取引は企業管理への手早く簡単な手懸かりとなっているだけでなく︑なおも組織および実体経済の溶解を生み出している︒その他にも︑政府に代わって︑社会に公益・公共善を提供する民間団体︑非自然人に対する刑事処罰︑不法行為法における故意と過失の区別の相対化︑経済価値をもつデジタル情報をめぐる著作権と課税方式の複雑かつ錯綜する法律関係などがある︒従って三組目の問題は︑各種旧来の制度上の垣根の解体︑リスク因子の増加︑非常に相対的なまでの境界区分の変更に及ぶ規範領域の問題なのである︒ 最後の問題として︑文化的価値および権利意識の影響がある︒中華帝国が古来より法を軽視し︑訴訟を取り下げるといった統治ストラテジーを取り入れ︑礼楽教化︑賢人支配︑郷規民約︑調解妥協の作用をより強調してきたのであるが︑その結果︑市場は権利の境界策定と権利再編において必要とされる制度的条件を欠いており︑個人の正当な利益も必要とされる法的保障を欠落させている︒確かに︑法治にはある種の固有の欠陥が存在しており︑社会的衡平
︵equity︶およびその他各種の優先順序付︵ordering︶メカニズムによる補完を必要とする︒だが︑まさに法治という︑このような正当性による強制的配置は個別交渉︑互恵および契約を超え︑そのことから︑未来への予期および社会関係の確定性を強化するのである︒また︑つまりは法律は原則的信頼︑随意変更不可能な信頼︑場合によっては絶対化された非交換性︵un-bargained for︶の信頼すらも創造し得るのであり︑これは市場交換行為者の判断と選択にとっては極めて重要なのである︒現代中国の現実から見てみると︑秩序原理の主たる特徴は事実が規範より優先されること︑互恵は権利に優先されることである︒そして︑「人間関係」の前あるいは上において確定される法治観は︑まるで全くないというわけではないが︑非常に薄弱であ ﹀7
︿る︒こうした事態をもたらした原因は人々がいずれも法を知らない︑法を守らないと述べるよりも︑むしろ公正︵fairness︶に対する自己の理解あるいは好みに照らし︑さらには国家権力の広範な影響をかりて︑規則を随意に解釈し︑功利的目標に応じて条文を操作すると述べる方がふさわしいのであり︑各人は是非の尺度をそれぞれにもっており︑すべては特殊主義的な交換性の信頼によって決定される︒このことは法律体系それ自体を不整合にさせ︑内在矛盾を充満させ︑実効性を欠如させるのである︒かつて私は︑他の学者とともに︑一九九〇年代の中国市民の価値観 に対して二度のアンケート調査を実施したことがあり︑このような思想傾向をこの調査結果の中から見いだすことができた︒都市居住民は特殊人格︵例えば身内や指導者︶だけではなく︑実効力をもつ権力︵例えば軍隊︑政府など非常に強い威嚇性と報奨性をもつ強制機関︶に対してすらも︑その信頼度はかなり高いが︑法律制度︵とくに大衆の信任と執行力がかなり弱い裁判機関︶の信頼度はかなり低いのであ ﹀8
︿る︒法治に対する不信任をいかに克服するか︑これこそが︑今までのところ︑中国の市場経済発展が依然として回避し得ない四組目の問題なのである︒
四 法 治 の 起 点
──裁判独立原則を確実に貫徹すること 法治が競争における自由と公平を保障しようとするならば︑まずもって民の信用を得るべきである︒しかも法治に対するこうした信任を打ち立て︑擁護しようとするのであれば︑各種の制度と規範は決して自己矛盾したり︑人に応じて適用を変えてはならないのであり︑一貫性︑協調性を備えていなければならない︒グローバル化の時代にあっては︑法制の整合化の作業は国内法のみに限られるわけではなく︑自国法と外国法︑国際法ないし国内の地方性法規とも相互に接続︑融和︵harmonization of laws︶させねばなら
ないであろう︒つまりは︑各種の法律制度間の調和がなければ︑経済発展および社会全体の調和を実現することも非常に難しいであろう︒行政的独占を打破し︑政府が段階的に市場から撤退することは︑経済管理と調節の基本方式に︑根本的な変更を生じさせることを意味している︒それは︑事前の行政許可と直接的な規制から事後の司法救済と間接的な制約へと転換させることである︒中国の経済学者の考えを取り入れるならば︑つまり「市場管制に対する裁判所の介入を次第に拡大させる」ことであ ﹀9
︿る︒裁判所が︑市場競争の領域において︑あるべき作用を発揮しようとするならば︑中立の姿勢を厳格に保つべきであり︑最終決定権をもつこと︑これこそが︑裁判独立の程度と法廷技術の水準に対して︑より高い要求を提起したことになる︒立法の民主化は︑公共的決定を下すために︑異なる利益集団の間の関係を調整しなければならない︒裁判の独立化とは︑民意を反映する法律が︑適用過程において歪曲されることのないよう確実に保障しなければならないことであり︑法律が政治情勢と勢力の対比関係の変化に伴って変化し︑社会の不安定をもたらすことを避けなければならないことなのである︒この二つの面を一つに結合させてこそ︑はじめて公正︑安定︑調和のある経済社会のために必要とされる制度的基礎を提供できるのである︒ 裁判の独立原則は︑我が国の憲法と法律において明文の 規定があり︑それは司法権を存続させ︑その強化を可能とさせる基礎でもある︒司法権を立法権︑行政権と区別すべき理由は︑また裁判の独立を強調すべき理由は︑それは現代法治国家の基本的性質によって決定されるものであり︑民主制を健全化させることから求められるのである︑そうでなければ︑政治学にはロジックに合致した結論を導き出すことはできないであろう︒簡単に述べれば︑立法機関と行政機関は多数派の立場に立って行為をするのであるが︑司法機関︵ここでは主として裁判所を指す︶の場合は︑少数派の立場に立って行為をなさねばならないのである︒それはなぜか︒立法は多数派の意思の表れであり︑行政が採用するのは功利主義的思惟方式であるからであって︑もし少数派とくに弱勢の地位におかれた普通の個人が︑多数派あるいは強勢グループとは︑異なった訴求をもつ場合には︑たとえ正確であっても︑法律規定およびその行政執行の過程に中に︑反映させる方法はないのである︒だが︑司法機関は同じではない︑合理的な訴因がありさえすれば︑いかなる人が提起した案件も受理すべきなのである︒裁判所にあっては︑いかなる人もみな平等な対応が得られるべきであり︑裁判官は当事者の声に耳を傾けるべきである︒もしも述べられたことが道理にかなっており︑その主張を裏付ける証拠があるならば︑少数派あるいは普通の人は勝訴の判決を獲得できるはずである︒なぜならばこの判決
は︑案件の具体的事実と特殊な状況を検討し︑彼が具体的訴求をした後になされたからであり︑おそらく法律にとっては事後救済であり︑行政機関の措置にとっては是正であるかもしれない︒このレベルの意味においてのみ︑司法機関は能動︑積極的であり︑立法︑行政機関に対して抑制均衡をとり︑また︑ある種の是正を行っても構わないであろうし︑少数者︑個人に社会の進歩を促進させ︑制度変遷のチャネルを拓かせるようになってもよいのである︒ このことから︑裁判機関は法律解釈と判断に関する最終決定権を掌握すべきであり︑それでこそ︑法制の統一と安定をよりよく擁護することができるはずである︒まさに上述した制度に関するロジックに基づけば︑裁判所は異なる利益集団の上に超然とあるべきであり︑独立して裁判を行うべきであり︑いかなるその他の機関︑団体および個人の干渉を受けないのである︒社会の発展がアンバランスであり︑貧富の差ならびに都市と農村部の差がかなり大きいという状況において︑いくらかの公民の理にかなった訴求は︑立法の内に︑即時には反映させられないので︑裁判過程において法律の不備を補い︑適切な救済がなされることが求められるのである︒もし裁判が独立していなかったら︑人々は助けを求める場もないと感じてしまうであろうし︑不信感のうちに絶望的感情をもってしまうであろう︒実際︑裁判の独立がなければ︑法律を厳格に適用すること は空論であり︑公共権力も有効な制約を得られないことになり︑執政の合法性も確立︑擁護︑強化のしようもないのである︒ それゆえに︑裁判所は独立して裁判を行う原則を固守することを天職とすべきあり︑そして人民代表大会代表と提案数を競いあう必要はなく︑各級政府部門と経済的実績を競いあう必要もなく︑企業と収入創出額を競いあう必要もなく︑弁護士と当事者に対する法律服務態度を競いあう必要もないのである︒そうでなければ︑こうした「能動」に励めば励むほど︑裁判の独立はなくなってしまうであろう︒また︑裁判所は︑まずもって司法の本分に立ち戻り︑法律解釈と判断の最終決定権にまで後退させ︑そうした後にこそ︑真に論ずる価値のある司法能動性が存在するのであると言うこともできる︒換言すれば︑中国において目下展開されている司法改革の最も重要な措置とは︑司法と政治を区分けすることであり︑歩むべき第一歩は司法消極主義まで後退することである︒そうしてこそ︑裁判の独立を真に実現させられるのであり︑司法は積極的であるべきところで積極的になれるのである︒少しも疑いのないことではあるが︑民主化は我々における今後の政治改革の方向なのである︒だが︑我々は司法機関が民主を実現すると期待すべきではない︒信望ある司法機関は︑とくに独立してなされる裁判は民主政治に対して頼りになる制度的保証を提
供し︑それによって︑よりいっそう秩序があり︑穏やかな︑成熟した方式をもって民主政治を実現させるのである︒だが︑裁判と民主政治を短絡的に結合させたならば︑災難をもたらすに違いないであろう︒司法参与を強化すべきか︑裁判機関は大衆の叫び声に耳を傾けるべきかと問われれば︑もちろんその必要はあると答える︒しかし︑法廷においては直接民主制の構想は実現不能である︒司法における民主性は︑結局のところは︑立法民主によって決定されるのであり︑司法の根本的職責とは︑民意に符合した法律を厳格に適用することである︒このような前提条件の下にあって︑やっと人民性と専門性︑世論と法律のあり方を︑いかに制度化し︑いかに組み合わせるかを適切に検討することができるのである︒
五 裁 判 の 独 立 お よ び 積 極 司 法 の カ ギ は 違 憲 審 査 制 に あ る
周知の通り︑中国は三権分立の体制を採用していないことから︑各級法院︵裁判所︶は相応する人民代表大会に対して責任を負いかつその監督を必ず受けなければならない︒制度レベルでは代議機構により裁判官の人事任免は定期に実施され︑また︑法院院長︵裁判所所長︶は定期に人民代表大会に対し業務活動を報告し︑質疑に答える︒最高 法院は︑実際には司法解釈の方式によって︑一定程度において規範を創出してはいるが︑理論上にしろ︑制度設計上にしろ︑法院はいずれも代議機構至上の原則を必ず堅持しなければならないのであり︑法律︑地方法規に対して司法審査を実施してはならないのである︒この論理の延長線上においては︑行政法規ひいては規則を制定し︑決定を下すといった抽象的行政行為に対してさえも︑司法審査についての明文規定を︑法院が実施し得ないという事態を生じさせている︒この他にも︑最高法院は法律規範に対して解釈を行うことができるが︑この解釈は裁判活動と関わる範囲内に必ず限定されなければならず︑当然︑憲法本文に対する解釈は語り得ないのである︒こうした制度布置にあって︑裁判の独立は相対化されざるを得ないのであり︑ひいては根本的に論じ始める手立てがないのである︒このことからすると︑裁判の独立を確保するカギは︑司法審査の範囲を︑抽象的行政行為にまで拡大させること︑それによって行政法規ならびに規則などに対して︑その合法性についての審査を行わせること︑さらに一歩進んで︑法律および国家権力機関の活動に対して合憲性に関する審査を行わせることであ ﹀10
︿る︒
現代中国の司法審査制の歴 ﹀11
︿史は︑一九八九年の行政訴訟法第五条にまで遡ることができ ﹀12
︿る︒当該法規が定める司法審査について︑その最も大きな特徴は︑裁判所の合法性審
査の範囲を具体的行政行為に厳格に限定したことであり︑また同法第一一条において︑行政訴訟の対象となる具体的行為を一つ一つ列挙し︑同法第一二条第一項第二号において︑行政法規︑規章あるいは行政機関が制定︑公布した普遍的拘束力を有する決定ならびに命令を︑明確に︑案件の受理範囲の外においている︒行政法規︑規章および普遍的拘束力を有する決定ならびに命令に対する行政解釈も具体的行政行為ではないことから︑ましてやあらゆる抽象的行政行為は︑いずれも︑一定程度において︑法律規範の執行は同時に︑その内容に対する行政的性質の解釈を下すという属性を有することから︑論理上︑法院は行政解釈についても審査を行ってはならないのである︒さらに続けて述べれば︑行政訴訟法冒頭第一条は︑人民法院が行政案件を審理する目的について︑行政機関の職能活動といった分野を監督すること以外に︑それを擁護することも規定しており︑また擁護という文言を監督の前に配置し︑擁護ならびに監督すると規定する︒一目でわかることは︑中国において行政解釈は司法解釈よりも優越性を備えていること︑このように配置された権力関係は︑現代法治主義の原則に背理するものであり︑法律上の相互抵触︑規範体系の不整合をもたらすことも避けがたいのである︒ 司法審査制度を改革する面では︑人民代表大会体制を前提とするのであれば︑二段階に分けて実施する方式を採用 することである︒すなわち全国人民代表大会に直接責任を負う憲政委員会を先に設立し︑その後に︑これを憲法法院へと発展進化させるのである︒もっと正確に述べれば︑第一段階においては︑憲政委員会により基本的法律の条文条項が違憲であるか否かの審査結果を下し︑もしも全人代常務委員会が︑ある法律条項が違憲であると認定された審査結果に対して︑全人代に再議の提出を主張しなければ︑それにより即座に効力を生じさせるのである︒この反対の場合︑次回の全人代での討論まで︑その結論を持ち越すのであり︑結果の如何に関わらず︑憲政委員会はいずれにせよ全人代の判断に必ず従わなければならない︵現有の体制とリンクさせるため︶︒全人代が合憲性審査の領域における最終判断権を行使しやすくするために︑明文で規定してもよい︒また︑法律が違憲であるか否かの提訴に対する憲政委員会の審査結果は︑可能な限り︑毎年三月上旬に開催される全人代の開会前あるいは会議開催期間において下されるべきである︒憲政委員会の権威を擁護するために︑やはり明文によって規定すべきであろう︒全人代が合憲性審査の結論を否決しようとするならば︑代表全体の三分の二以上の多数による賛成を必ず得なければならない︒これは︑すなわち憲法修正案を採択するにあたって︑重きをおかれた多数表決の条件と同等とする︒この他に︑提訴案件の爆発的増加が合憲性審査制度の機能を麻痺させるリスクを予
め防止するために︑非常に厳格かつ精緻に受理要件を規定する以外に︑第一段階においては︑まずもって機関による提訴権を承認するだけでもよいであろう︵建議権や要求権とは異なり︑これは現有制度に対する限定的改善である︶︒人権と公民の基本権利を保障する領域についての審査手続の始動は︑暫時︑国家信訪局によって一括して実施させる︵現有の構成要素に対して再定義と再構成を行う︶などである︒ 第二段階では︑憲法法院を設立すべきであり︑主として具体的基本権について訴訟方式を通じて︑違憲な法律と法規に対して審査を行い︑政治原則と技術的解釈の間の関係を不断に調整することによって憲法体制の連続一貫性と整合性を保証する︒この過程において︑司法権は明らかに強化され得るであろうし︑このことから︑裁判の独立原則の実施をさらに促進させ︑またあわせて裁判官集団の素地素養をかなりの速さで改善させることに有利である︒裁判機関の地位を真に向上させることができさえすれば︑その独立性と尊厳を十分に保障させられるのであって︑そうであれば︑たとえ政治体制に対して大がかりな改造を行わなくとも︑権力構造にも徐々に深い変化が生じるであろうし︑司法権が立法権と行政権を適切に制約するという新たなフレームワークが自ずと形成されるに違いないであろう︒上述のステップを通じて︑司法的性質を導入した合憲性審査 制度は︑もともとの権力構造︑とくに人民代表大会体制に対して︑直接的な衝突は起こらない︒このため比較的容易に共通理解を形成させることができ︑比較的容易に成功を収めるであろう︒これは中国において司法権を強化すること︑裁判の独立原則を確実に実施すること︑漸進式政治体制改革を推し進めることについての︑理想的な問題解決の糸口である︒
六 権 利 と い う 言 説 に 対 す る 弁 護 士 の 思 考 、 表 現 、 関 心 を 促 進 す る
法治によって民主へと歩む漸進式政治体制改革の過程において︑職業法律家集団︑とりわけ弁護士は︑その推進役としての重要な役割を演じるであろう︒裁判官︑検察官および弁護士をその中に含む職業法律家集団において︑弁護士は公民個人に最も近い存在であり︑また市場と社会にも一番近い存在である︒経済における調和のとれた発展であろうと︑個人の権利と利益の保障および規範秩序の調和であろうとも︑この中において︑弁護士はいずれも極めて重要な媒介ならびに優先順位付作用を発揮している︒マックス・ウェーバーもかつて「弁護士は当事者と直接結びつき︑また不安定な社会的評価に依存する私的開業者の属性を備え︑このため権力も勢力もない人間を代表し︑法定の
平等性を擁護する役割を務める傾向がある」と指摘した︒一九八六年から二〇〇五年の間︑中国の弁護士の成長倍数は五であり︑逓増速度は確かに相当なものである︒だが︑このようであっても裁判官︑検察官をその中に含む職業法律家集団の全体構成においては︑つまり︑全体数において︑弁護士の数が占める割合は︑わずか五分の一前後でしかない︒二〇〇〇年時点での︑中国の裁判官と弁護士の人数における比率は︑二・五対一であり︑その他多くの国家の比率とはまさに反対である︵例えば韓国は一対三︑フランスは一対五︑日本は一対六︑アメリカは一対二五であ ﹀13
︿る︶︒最近五年では︑弁護士の人数もかなり大幅に増加しているが︑司法官僚と「在野法曹である」弁護士との間の比率は依然として変化はない︒指摘せねばならないことは︑司法官僚と民間で弁護を行う弁護士との間には︑規模と力量の上で︑これほど大差が開き︑しかも引っ繰り返されたままの在朝在野の枠組が四半世紀もまるまると維持され続けたため︑法律言説空間にある種の欠陥を生じさせてしまったことである︒それは︑上から下への命令︑宣伝︑教育︑説得の声は︑しばしば下から上への権利訴求の声を圧倒してしまい︑社会制御と調節というフィードバック機能を容易にねじ曲げてしまうことである︒このため︑司法改革の進展に伴って︑職業法律家集団の内部構造を調整し︑頭でっかちのいびつな発展を改めるといった課題を政 治議事日程にのせる必要がある︒
これまでのところ︑中国の弁護士制度の進化の動機と動力はどこにあるのか︒明らかにわかる通り︑やはり主として経済的ニーズである︒弁護士を「政府がお金を払わない経済警 ﹀14
︿察」と位置づけ︑まさにこうした初期のスローガンは︑この点を極めて生き生きと反映している︒上述のロジックに従えば︑司法部は一九九二年に弁護士事務所は第三次産業に属するという概念を受け入 ﹀15
︿れ︑法務市場における開放性と競争メカニズムを承認し︑二〇〇四年になって再び弁護士広告の存在を容認し始めたのであ ﹀16
︿る︒だが︑もしも一面的に経済的ニーズを強調するのであれば︑意図的であるなしにかかわらず弁護士事務所の営利指向を助長してしまうに違いないであろう︒これは明らかに社会的正義感と法律職業主義の要求に合致しないのである︒営利指向を制約する必要性をめぐって︑司法部は早くも一九九四年には︑弁護士の公益分野における作用と義務を︑さらに踏み込んで強調し始めており︑これにあわせて法律援助活動を積極的に組織し︑主導したのである︒ある種の意味から考えてみれば︑現行の弁護士法第四二条に規定される法律援助義務の条項は︑実際上は︑中国の司法行政当局が︑強制性規範と各種関連措置によって︑法律商業主義の偏向を克服し︑法律職業主義理念を堅持するという面で︑非常に特色あるお手本となっており︑ある程度の上で︑他の国家
の弁護士法の人権保障条項と類似した機能を発揮している︒なぜならば︑弱勢集団に向けて法律援助を提供することも︑合法的権利擁護の重要な分野なのである︒もちろん︑わずかに四二条のみではまだ遥かに不十分ではある︒ この他に︑経済的ニーズをテコ作用として︑弁護士制度の改革と発展を推進することは︑事務所の独立採算制と経営効果と利益を強調するあまり︑それは法務資源の配置をこっそりと変更させてしまい︑むしろ︑否応なしに弁護士に報酬の低い県や郷︑鎮から撤退させてしまい︑徐々に市場シェア・規模のさらに大きな都市へと集中させるのである︒公設の弁護士事務所や法律援助センターおよび郷鎮法律服務所は︑相当程度において︑こうした地域・地区間でのバランスを失した事態の重大性と各種の望ましくない影響を緩和している︒だが︑二〇〇五年に︑事実上二〇六の県が「弁護士ゼロ」あるいは法律服務の空白地帯と言えるエリアとなっている︒各地区︑各階層に対して︑法律服務を受ける面での平等性をどのように保障するか︑正義によって忘れ去られた片隅をいかに発生させないか︑こうしたことは︑もうすでに︑今後の法制建設における非常に緊迫した任務となってい ﹀17
︿る︒
周知の通り︑二〇〇四年から起算しての六年間︑中国は経済発展を主導的に調整する戦略を開始したのである︒その結果は︑持続可能な成長︑グリーンGDP︑環境問題の 頻出︑貧富の差の縮小などは︑最もよく耳にする流行語になってしまった︒こうした社会背景の下︑弁護士の行為方式も︑これに応じて多かれ少なかれ変化を生じさせるであろう︒例えば公害をめぐる紛争と訴訟は急激に増加しており︑弁護士は案件の代理人を引き受けるだけでなく︑やはりある程度において︑分散的な権利の訴求を制度の枠組の中に盛り込ませることにも尽力している︒環境訴訟以外の多くの領域において︑弁護士は民間と政府の対話や意思疎通および交渉といった重要な媒介者となっており︑また無秩序から秩序ある状態へと変化する過程の中で︑組織を作り︑協調を図るといった役割を務めているのである︒推して知るべしは︑かりにも私権を拡張し︑分配の公正を強調し︑自由な市場と民主的な法治国家を構築し︑それを完備させたいのであれば︑弁護士の活動範囲を拡大すべきであり︑職業法律家と公民個人の間のインタラクティブな関係を強化すべきである︒
だが二〇〇九年に発生した李庄事件︑およびそれに続いて弁護士業界で展開された「警示教育運動」は︑かえって弁護士の全体的イメージに多かれ少なかれ悪辣な印象を与えたのであり︑刑事弁護制度も多かれ少なかれ形骸化されてしまった︒中国の文化的伝統には︑もともと法律職業の成長に適した土壌はない︒一九五七年の「反右派闘争」運動では︑弁護士は「悪人のために弁護する」として真っ先
に攻撃されたのであり︑刑事弁護制度における二〇年の空白を生み出したのである︒一九七九年に制度が再建された際にも︑とても多くの人は攻撃の心配や恐怖をぬぐい去れず︑原職復帰を望まなかったのである︒こうした多年の努力を経て︑中国の弁護士の規模と作用は︑ついには明確に拡大したのであり︑こうした局面は社会全体でますます重要視される価値がある︒もちろん︑このことは弁護士が顧客と共謀して︑法律条項を弄ぶ方式によって︑国家秩序あるいは社会の公共利益に損害を与えてよいと意味しているわけでは決してない︒弁護士は︑いかなる人に服務しても構わないが︑いかなる人にも決して自分自身を売りに出してはならない︒こうした行為準則を厳守すべきである︒まさに中国社会は弁護士に対する信頼と尊重に乏しいことから︑中国の弁護士にあってはことさら厳格に自律すべきである︒李庄事件はたとえ真相がいかようであったとしても︑すべからく我々に重苦しい教訓を与えたのである︒すなわち︑弁護士がもしも自重せず︑節操の面で他人がつけこむ口実を与えたなら︑有効な合法的権利擁護活動を展開することは根本から難しく︑自由と自治の特権を享有するなどは︑さらに論外のことなのである︒このため弁護士業は収益が良ければ良いほど︑社会イメージを大切にすべきであり︑倫理水準の低下を厳重に警戒すべきである︒包み隠さずに述べれば︑現段階の中国の弁護士にあっては︑あ れやこれやの問題が存在しているが︑ある種の過度な︑利に走った行為および裏取引は︑異なる程度にそのイメージを損なってしまっており︑その是正が必要である︒このようであっても︑やはり我々は弁護士特有の身分評価と職業倫理を擁護する必要がある︒さらに決して︑弁護士の顔に泥を塗るような手段をわざと採用して政治目的を達成してはならないのである︒この弁護士という陣営がひとたび崩壊したならば︑権益侵害現象が社会の至るところで横行してしまい︑最終的には︑国家の土台にまで危機を及ぼしてしまうであろう︒
七 法 治 秩 序 構 築 の 思 想 的 基 礎 お よ び 中 核 を な す 価 値 観 の 再 構 築
我々は︑執政合法性の問題に向き合うにあたって︑やはり客観的事実と価値規範の間に日毎に拡大しているギャップ︑そして国家イデオロギーは変化し難いといった苦しい立場︑これらのことに真剣に対応せねばならない︒改革開放の時代にあって︑中国のハードパワーは︑確かに︑非常に速く増加したが︑情報の流通︑思想革新︑各種の文化面での吸引力・魅力およびイデオロギーの普遍的影響などの面においては︑あれこれの不備・脆弱さが依然として存在している︒ここ数年︑中国に対する海外のイメージはいく
らか改善が見られはするが︑国際社会において「儒学復興」および「北京コンセンサス」に対する注目や賞賛の声すらも出現しており︑国内にあっては︑民主と和諧を強調することは大衆の支持を勝ち得てもいるが︑全体から見て︑客観的に述べれば︑中国のソフトパワーは依然として︑まだ比較的脆弱である︒とくに制度間競争︵Institutional competition︶における立ち後れは深刻であり︑国際的に通用している現行のゲームルールを熟達運用し︑そのルール運用における明確な優位性を占めるまでには至っていないし︑公民による広範な合意を真に獲得すること︑あわせて国際的影響力を備える秩序範式をまだ示せていないのである︒ジョセフ・ナイ教授はソフトパワーは管理︑制御し得ないと見なしているが︑また彼は同時に︑国家政策それ自体がソフトパワーの増減に対して︑相当程度の影響︑場合によっては直接的影響を与えることができることを認めてもいる︒このため︑法学の見地から︑法律と政治︑法律と社会の角度から︑ソフトパワーの問題を観察し︑検討し︑解決する必要がある︒ ソフトパワーの概念を法学理論研究の領域に導入するにあたっては︑どうしても避けられないキーワードがある︒それは「権威」︵authority︶である︒すなわち人をして信服させる︑尊重させる︑自覚的に従わせる威信︑声望︑地位あるいは力量である︒権威は自ら発すること︑影響力を もつこと︑正しいといったことを特徴とし︑政治的強制性をともなう権力︵power︶とは同等でない︑ソフトパワーの一種と見なしてもよいであろう︒十分な正当性を有すると見なされた権力のみが︑権威を備えると称するに足るのである︒このため︑権威と正当性の論証・論拠の間には︑密接なつながりが存在している︒このことから推断すれば︑権力の制約︑正義の実現を目標とする法治秩序の基礎ないし本質は権威の中に存在するのである︒この意味において︑オックスフォード大学法哲学講座のジョセフ・ラズ教授が提起した「権威としての法律」︵Law as Authority︶の観 ﹀18
︿点は︑とても的を射ている︒十分な権威を有する法律はむき出しの強制手段を借りて実際の効用を得る必要はなく︑そのためソフトパワーを形成し得る重要な構成要素である︒この意味において︑法治を推進することは︑別の新たな権威主義︑すなわち法律権威主義を樹立しなければならないことを意味している︒しかも︑法律は権威を有すべきであり︑それは憲政的制度布置を前提条件とするものである︒憲政がなければ︑法律の権威は論ずべき方法もないのである︒ 権威のない法律は︑暴力と偽善者に依存するのみである︒そこで我々は︑このような中国式ソフトパワーのパラドックスに目を向けてみたい︒これは︑柔らかな願望をもって開始し︑強硬手段をもって終わりを告げるであろ
う︒ハードパワー神話などの事態の発生を避けようとするならば︑各人が自己の正義感に照らして判断し︑行為することをどこまでも強調することになる︑これは感情的にも︑経験的にも理解できることである︒しかし︑こうした主張を真剣に推進するならば︑団結のない︑ばらばらの砂となるような結末を︑とても容易に再び出現させるのであり︑おそらくは最終的に︑「其の昏昏を以て︑人をして昭昭たらしむ」を引き起こすといったそしりを免れがたい︒なぜこのように述べるのか︒それは︑中国の伝統的法律秩序のなかに一種の方法論上の個人主義がもともと存在しているからであり︑すなわち具体的な規範性についての判断は︑個人の主観的満足度ないし感覚を基準としてなされ︑互恵性の社会的交換および臨時的な状況倫理が社会構造の基礎となっている︒このような前提条件のもと︑さらに加えれば︑西欧のように普遍性をもつ教会組織が凝集力を提供することもなければ︑また日本のように集団主義的全体性が個人を束縛し戒めるといった「地面に円をかいて牢獄とする」こともなかった︒このため儒家思想に基づく共通の信念︑それにより形成された濃密な人間関係や道徳や人格の評価尺度︑そして非常に強力な国家権力があって︑やっと社会構造のバランスと安定を擁護できるのである︒もしこうした制約要素に変化が生じたならば︑中国式の方法論上の個人主義は︑一つの公共領域をも形成し得ないで あろう︒逆に言えば︑こうした状態にあっては︑個人の自由あるいは大衆の満足をますます強調すればするほど︑かえって公共事務の管理方式を改善することがますます不可能になるというパラドックスが︑往々にしてすぐに生じるのである︒その理由はとても簡単である︒公私を分かたず︑個人の徳である私徳を本位とする社会背景のもと︑個人の自由を放任し大衆の満足を強調することは︑分節性結合における分離崩壊を必然的に導いてしまい︑公共性の危機を誘発し︑そして︑法律手段によらず強制性権力を行使するといった決断に対して︑その根拠あるいは口実を与えてしまうからである︒ 推して知るべしは︑ある主体またはある特殊なコンテクストに対してのみ妥当性を備える行為の理由が︑その他の主体またはその他の特殊なコンテクストに対して︑同様の意味をもち得るとは限らないし︑社会全体の共通価値観の根拠になり得るとも限らないのである︒ましてや個人間の駆け引きや交渉と互恵性契約に依存するのみでは︑自主的秩序をしっかり形成し得るとは限らないのである︒なぜならば︑力量対比関係と社会的権力が当事者の意思をねじ曲げてしまうからであり︑私欲に基づく結びつきも他者と集団を犠牲にする可能性もある︒個人における具体的行為の自由が︑普遍的性質を備えている自由であると︑広範に承認し︑保障することが本当にできるのであれば︑普遍性を
備える立法によって︑各種の具体的行為の自由を︑広範に制約し得ることが前提であるべきなのである︒簡単な公式にまとめるならば︑つまり︑自由は非自由という基礎を必要とする︒そうでなければ︑いわゆるソフトパワーも根本的に論じる方法もないであろうし︑すべては偶然のあるいは臨時︑場当たり的な妥協によって決定されてしまうであろう︒現段階における中国の法学理論が直面している最大の課題の一つこそが︑こうした自由を保障できる非自由の条件を詳しく研究し︑確定することであり︑このようにしてやっと執政合法性の危機を︑本当に予防︑克服できるのである︒利害を有する個人同士が︑それぞれ独立して判断し︑その利益を最大化させる合理的行為を採用することは︑各人あるいは全体にとって︑いずれもが利益の最大化となる合理的選択を決して導き得ないのである︒こうした苦境から脱出するには︑当事者間の水平で横向きのコミュニケーションと協調を強化すべきである︒しかし︑利害を有する人間があまりに多い場合︑コミュニケーションと協調はいずれも︑非常に困難なものへと変化するであろう︒当事者の交渉コストも増加し続け︑個人の権利を規定し︑あわせて︑その合法的権益を擁護するための交渉を促進するだけでは︑必ずしも問題を有効に解決できるわけではない︒例えば環境権は︑交渉コストによって名ばかりの存在に変化する可能性がある︒このため︑交渉コストがあまり 大きい場合︑政府は公益・公共善を提供する方式によって問題を解決せざるを得ないのである︒これは︑ちょうど個人の自主的な話し合いを一面的に協調すること︑および具体的互恵性契約についての学説における重大な盲点である︒実際上︑各個人の具体的行為の自由あるいは意思の自由を一面的に協調することは︑政治問題および法学理論の公共的責任を回避しているのである︒その結果は︑やはり意図せざる結果に終わる可能性がとても高く︑さらに絶対的︑さらに消去しがたい不自由を招き寄せるであろう︒ 指摘せねばならないことは︑徹底された市場化︑あるいは市場原理主義の基準に基づいて全面的な構造改革を行うことは︑あらゆる面において︑すべてが必ずしもコスト減少︑効率向上を果たし得るわけではない︒場合によっては︑平等と正義を犠牲にする悲惨な代価を払うこともあり得るであろう︒もしもこうした超越的価値を体現する法律制度を保障としなければ︑市場メカニズム自体が歪曲されるであろうし︑市場によって政府に代わって公益・公共善を提供することなど論じる価値はないであろう︒このことから︑もしも法学理論も市場至上︑自由至上の主張を奉ずるのであれば︑法律無用の落とし穴に滑り落ちてしまい︑自ら抜け出せなくなってしまうに違いないであろう︒法学理論の立脚点は︑個人の権利と平等・自由をめぐる公共性であるべきなのである︒もっと明確に述べれば︑市場化そ