◎論説日中相互イメージの交錯
清 末 の 中 国 教 科 書 に 見 る 日 本 人 像
徐氷・・⁝
はじめに
日中関係はある意味で通常の国家関係の類型を超越した
関係といえるかもしれない︒一方の内部の変化は︑必ず他
方に大きな影響を及ぼしてきたのが︑少なくとも清末以降
の両国関係の特徴であった︒わけても二〇世紀前半の日中
衝突において︑中国の青年と知識人の反日感情は︑常に中
国政府に巨大な圧力をかけ︑両国関係の進退を左右してき
たと言っても過言ではなかろう︒
二一世紀の今日︑日中関係は前世紀前半と類似の状況を
呈しているようである︒その当時の中国青年︑知識人の日
本認識を回顧し︑それが両国関係に与えた影響を掘り起こ すことは︑日中関係を正確に把握し︑摩擦を減らすための
参考になるであろう︒本稿はこうした問題関心から︑中国
近代教科書に着目し︑まず中国における近代教科書の発足
を概要的に紹介した上で︑清朝末期︑一九〇〇年前後ごろ
から中華民国が成立するまでの約十年間︑中国の教科書が
どのように日本を紹介し︑また日本人を描いているかを明
らかにしたい︒
教科書は次世代に科学に裏打ちされた知識を伝播し︑青
少年の人格と世界観を育成する道具の一つである︒中国教
科書の日本記述は︑世代から世代へと中国全土の青少年に
日本を紹介し︑理解させる窓口として重要な役割を果たし
てきた︒小中学校︑高校で教育を受けた中国人は︑長年の
学習のなかで次第に印象を強めながら︑日本に対する基本
清末 の中国教 科書に見 る日本 人像
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的な態度を固めていく︒また教育で得た知識は︑新聞雑誌
などからの知識や︑直接的あるいは間接的に接触した日本
や日本人に対する印象と重なり合って︑日本イメージの全
体像が形成される︒少年時代の教育は人の一生に影響を与
えるものである︒それゆえに︑学校教育と教科書という巨
大な体系は︑中国人の日本認識を育成する上で︑極めて重
要な作用を果たしてきたと言ってよい︒二〇世紀前半︑中
国の教育普及度はまだ低く︑教育を受けた中国人は社会の
エリートとして︑国家と社会の各分野で活躍する中堅となっ
た︒彼らの日本認識は︑教育を含むさまざまな経路を通じ
て社会のなかに不断に広がり︑やがて日中関係にも決定的
な影響を及ぼす大きな作用を発揮したのであった︒
中国教科書の日本記述はまた︑その時代の中国人の日本
観を直載に反映している︒教科書は各学科の知識を教授す
るなかで︑随時日本についても紹介しているが︑そこには
意図すると否とにかかわらず︑政治︑文化︑経済︑軍事な
どの各分野での日中関係が反映されざるを得ない︒私たち
は各学科教科書の日本関係記述の変遷を跡付けることを通
じて︑近現代における中国人の日本認識の原風景と形成過
程︑変遷過程を見ることができる︒そればかりでなく︑日
中関係の変化の軌跡とその内在要因を見出すこともできよ
う︒さらに教科書の記述の分析を通じて︑近代以来の日中
交流と日中摩擦の特質をえぐり出すことも可能であろう︒ このようにして過ぎ去った時代の教科書をめぐる歴史の教
訓を総括し反省することは︑今後の日中交流のあり方を考
えるための参考になるにちがいない︒
しかし︑日本関係記述にとどまらず︑この時代の中国教
科書の内容を分析することは︑これまでの研究史において
も未開拓の領域である︒教科書そのものの発掘︑整理作業
自体がまだ十分に進んでいるとはいいがたい状況である︒
その意味で︑本稿が紹介︑分析する清末の中国教科書に現
われた日本関係記述は︑二〇世紀前半の日中関係史研究に
対し︑新たな視点を提示する素材となるであろう︒
中国近代教科書の発足
中国では︑﹃三字経﹄﹃百家姓﹄のような伝統的な蒙学(一
番最初に学ぶ学校)の教科書に対して︑近代的な教科書は
西洋人宣教師が編集した教科書から発足した︒一八七七年︑
在中国キリスト教徒が上海で第一回宣教師大会を開催した
際︑出席者からの提言により︑各教会学校のために教科書
を編集出版することを主な目的として学校教科書編集委員
会(SchoolandTextbookSeriesCommittee)︑中国語では﹁益
智書会﹂が成立した︒編集委員の多くは英米の宣教師で︑
教会学校以外の生徒も使えるように配慮しつつ︑西洋の歴
史︑地理︑宗教︑倫理などの教科書︑例えば︑﹃教会三字
経﹄﹃福音史記課本﹄等を作り︑教会学校のほか各宣教地区
の塾にも提供した︒中国では︑﹁教科書﹂という言い方がこ
の年に始まったと言われている︒
楊暁によれぼ︑近代日中教育関係の発展と変化は次の四
つの段階に分かれるという︒第一段階の一八六ニー一八九
五年は清朝政府が日本の教育を肯定する段階で︑第二段階
の一八九五1一九一二年は清朝政府が全面的に日本の教育
を模倣し学ぶ段階である︒第三段階の一九一ニー一九三七
年は中華民国が次第に日本の教育の影響から離脱する段階
であり︑第四段階の一九三七‑一九四五年は中華民族が抗
ム 日教育を実施する段階である︒中国教科書の日本記述も︑
ほぼこの枠組みのなかで捉えることができる︒
一九〇〇年︑義和団の乱に際して外国軍隊による首都占
領の屈辱を味わった清朝は︑ようやく伝統的な体制を改革
する必要性を認識し︑翌年から日本を手本として︑行政制
度︑軍事︑経済︑教育などの広範な分野における改革ll﹁新政﹂に着手した︒教育はこの﹁新政﹂のなかでも最も急
速に改革の進んだ分野といえる︒
留学生の派遣は一九世紀後半からすでに始まっていたが︑
新政の時期には日本留学を中心に官費・私費ともその数は
急増した︒また︑清朝政府は学堂(新式の学校)の整備に
も乗り出し'1九O二年に﹁欽定学堂章程﹂'1九O四年は﹁奏定学堂章程﹂を相次いで発布し︑一九〇五年にはついに 科挙制度を廃止した︒清朝はさらにその翌年︑﹁忠君︑尊
孔︑尚公︑尚武︑尚実﹂を内容とする﹁教育宗旨﹂を発布
した︒これは従来の教育方針を留保しながら︑新しい内容
ヨ を取り入れたものである︒﹁忠君﹂と﹁尊孔﹂とは︑従来の
伝統文化を保ち清朝の統治の維持をねらいとするものであ
る︒﹁尚公﹂とは︑個人の利益より国家を大事にし︑国家意
識︑公共意識と団結精神を養うように指導するものである︒﹁尚武﹂とは︑日本の軍国民教育の影響を受け︑中国人の国
民性に欠如している﹁武﹂の精神の育成をめざすものであ
る︒﹁尚実﹂とは︑伝統的な儒教の思想のなかに空論が多い
ことに対する反省から︑国民の日常生活に役立つことを重
視するものである︒この教育宗旨は時代遅れの教育思想を
維持しつつも︑一定の近代的な教育理念をも反映したもの
と見ることができる︒
こうした政府の教育改革の推進と民間の開明人士の努力
により︑新式教育を行う学堂が次第に全国に普及するよう
になっていった︒新式教育の普及は当然のことながら︑新
式の教科書を必要とする︒そしてそれもまた日本の経験を
模倣することから始まった︒この戊戌変法運動前後から辛
亥革命ごろまでの時期が︑宣教師たちが編集し外国の教科
書等の翻訳を中心にしていた段階から︑自力で教科書を編
集できるようになる過渡期にあたる︒この時期には︑多く
の民間出版機関が教科書の編集・出版に携わっていた︒一
清末の中国教科書 に見 る日本人像
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九〇六年に上海図書商会が出版した﹃図書月報﹄の統計に
よれば︑当時︑この商会には二二の会員会社があり︑その
大多数は教科書専門の出版社であった︒しかし︑発行部数
が多く︑影響力が大きかったのは文明書局と商務印書館で
ある︒
文明書局の創始者の愈復︑丁宝書らは無錫三等公学堂の
教員であった︒彼らは豊富な教育の経験に基づき︑さらに
教育現場で実験を重ねて新しい教科書の編集作業を進め︑
一九〇二年に文明書局を立ち上げて︑﹃蒙学読本﹄を出版し
た︒これは国語読本の一種であったが︑この教科書が世に
問われると飛ぶように売れ︑三年間で十余版を重ねた︒こ
れをきっかけに中国地理︑外国地理︑中国歴史︑外国歴史︑
修身︑文法︑植物︑生理など二〇種類の﹃蒙学教科書﹄シ
リーズを出版した︒この教科書の編集陣の特色は︑多くの
者が外国の師範学校に留学した経験があり︑また国内の小
学校で教えた経験をもっていたことである︒そのため︑彼
らが編集した教科書は近代的な教育思想が反映されていた
ばかりでなく︑生徒の興味にも合致していたので︑大いに
歓迎されたのである︒一九〇六年︑清朝の学部(文部省に
相当)が一〇二点の教科書に対して検定を行った結果︑文
明書局の教科書は三〇点が検定を通り︑全体の約三割を占
ら めていた︒
文明書局教科書の特色の一つは︑強烈な愛国主義あるい は民族主義の精神が込められていることである︒例えば丁
宝書が編集した﹃蒙学中国歴史教科書﹄は︑ほんの数年前
の出来事︑すなわち一八九八年の列強による相次ぐ租借地
獲得まで書き及んでいる︒この教科書の主導思想は﹁文化
を促進し︑社会を改良することを主とし︑種族を守り︑国
威を発揚することを主とし﹂︑学習者が歴史の学習を通じて﹁古代の歴史を知り︑理解することを以って︑近今の喪亡の
痛を感じ取り︑学識を成長させ︑国恥を雪ぐ﹂ことを目的
ハ とした︒﹁近今の喪亡﹂とはとくに日清戦争のことを指す︒
しかし︑文明書局の教科書は︑民族主義を提唱しながら︑
日本の新しい事物に好奇心と羨望をもち︑積極的にそれら
を紹介し︑ときには日本に学ぶよう呼びかけた︒それは編
集者たちの日本に対する思いの表れでもあろう︒
たとえば︑﹃蒙学読本﹄の編集者の一人︑呉稚暉(一八六
五‑一九五三︒号は敬恒︒同盟会員で辛亥革命期にはパリ
でアナーキズム運動に関与し︑のち中華民国南京政府国防
最高委員会委員などの要職を歴任した)は︑一八九八年頃
に始まった﹃蒙学読本﹄の編集作業に携わったのち︑一九
ハブ 〇一年春に日本に留学した︒ところが翌年︑﹁成城入学事件﹂
の首謀者として逮捕された︒呉稚暉は警察に拘引させられ
る際に︑近くの橋から投身自殺を図ったが︑幸い一命を救
われた︒彼がそのとき携えていた遺書には次のようにした
ためられていた︒﹁呉敬恒︑絶命の時︑これを作る︒敬恒の