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酒末民初 における政治 と社会の一側面 - 内藤湖南 と服部宇之吉の場合

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酒末民初 における政治 と社会の一側面

‑ 内藤湖南 と服部宇之吉の場合

は じめに

操触界」か ら官学履歴 な き身分で時の京都帝国大学 に迎 え られ、後 に京都 支那学派の学風 を築 き上げた中心人物の一人であった内藤湖南 (1866‑1934) は戦前 における東洋史学の大家 として今 日もなお広 く知 られているのはいまさ ら賛言 を要 しないであろう ところが、内藤湖南 と同時代 の人であるのみな ら ず、 また同 じく戟前漠学界 において泰 山北斗 と仰がれたほどの中国 (儒学)忠 想 史家服部宇之吉 (1867‑1939)は、戦後 になって殆 ど忘れ られた存在 となっ たのである その理由並 びに服部の生い立 ちについては、 ここにおいて紙幅の 都合で詳 しい論及 を別稿 に譲 るが、本論 を展開す るために最低限必要の程度 を 紹介 しておこう

服部宇之吉 は東京帝国大学文科大学哲学科 の出身である 活 国 と ドイツ留学 後、京師大学堂 (北京大学の前身)師範館総教習 として七年間の長 きにわたっ て清末の北京 に滞在 していた。 この滞在 は後 に彼の中国学のあ り方 に多大な影 響 を及ぼ したのはい うまで もない。そ して明治四十二 (1909)年初、服部 は 日 本に帰国 し、昭和三 (1928)年退官 まで東京帝国大学の教壇 に立ち、中国 ( 学)思想 その他の関係科 目を一筋教授 していた。その後、帝国大学在任 中の初 代京城帝国大学総長の任 に続 き、国学院大学学長 を担任す る一方、 また東方文 化学院の創設 と運営 に精魂 を傾 けていた。 さらに斯文会や漠学会の重役及 び湯 島聖堂再建の陣頭指揮 をとることなどが示す ように、精力的に社会的活動 に も

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参入 していた興味深 くて研究すべ き人物 だ った と言 えよう

上述の ように、湖南 に して も服部 に して も象牙の塔 の中の住 人であるに もか かわ らず、二人 ともきわめて現実感覚の強い人である それに中国学 (漢学) の伝統的性格 (た とえば 「文章経 国

文以載道」 な どの類)、及び明治人特有 のエ ー トス (いわゆる 日本主義や国家主義的な類)か ら彼 らの学問研究 は往 々 に して学 問研究以上の意味合い をもったことは理解 に難 くないだろう 本論の 狙 いは正 にこの ような視角か ら、湖南 と服部の 目 (著書) を通 して清末民 国初 期 における中国社 会 と政治の一側面 を見 る とともに、近代 日本の中国学 におけ る諸問題、 と りわけ現実政治 と学 問研究の関係 を検証す ることにあ る よって 近代 日本の中国学 とい う包括 的な視野か ら、 とくにそれに関す る思想 史、制度 史的意義 の探究 に力点 を置 きなが らそ こにおける諸問題 を構造的な解 明 を試み ようとす る研究のために一つ基礎 的な作業 を為 してお きたいのである

、 服部 と湖南 における清朝史研 究の背景 と動機

明治三十七年 (1904)十一 月、京師大学堂師範館総教習在任 中の服部 は中国 学の専 門著書 『清国通考』 第一篤 を脱稿 し、翌年一月それ を三省堂 よ り刊行 さ れた。 これは服部 の、最初の中国学専 門著書 であ り、 また彼が西洋哲学者か ら シノロジス ト‑ の転身 を宣告す るような著作で もあ った。

本書 の例言 によれば、 もともと 「活国の官制 ・学術 ・風俗 ・人情等 ノ諸方面 二渉 リテ記述 シ、上ハ朝廷 ノ大事 ヨリ、下ハ市井 ノ蹟事二至 ルマデ、苛モ以テ 清朝 ノ実情 ヲ知 ルニ資 スル二足 ルモ ノハ、勉 メテ之 ヲ網羅セ ン」 とし、それに

「二ケ月二一篇 ヲ出ダシ、六篇 ヲ以テー先 ヅ終 リヲ告 ゲ ン」 とす る予定であ っ たが、第二篇が数 カ月遅 れて同年六月になってや っと刊行 したのみであ る れ以下の著述がついその ままで中絶 して しまったのである その理 由が はっき りしないが、多分 に大学堂 の激務 な どの事情 によって思 った通 り筆 を進 め られ なか った と思 われる

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服部が 『清 国適者』 の ような著作 を書 くに思 い立 ったのは何故であろ うか。

もっともこれについて今で は推測 しかで きない。 まずその きわめて現実 を重 ん じる学問姿勢か らの鼓動があ った と考 え られるが、最 も直接 的で しか も主たる 要因は清朝末年 における社会激変‑ の把握 のためであろ う 言 い換 えれば、活 末期 における変転 目まぐる しい社会諸相‑ の迅速かつ正確 な認識 は、すでに西 洋哲学者か らシノロジス トに転身 しようとした服部 に とって 自分の学問観か ら 課せ られた使命であ ると同時 に、一種の宿命 とで もいえるだろ う それは概 し て言 うな らば、近代 日本中国学の前 身にあたる漢学が経学か ら史学お よび哲学

‑ の脱皮過程 において中国 を対象か ら方法 とした域 に到達す るまで良かれ悪 し かれ、時の シ ノロジス 下達 に とっての中国が常 に学問研究の域 を越 えた宿命的 存在 だ ったか らであろう その理 由はここでは さておいて、要す るに服部 も湖 南 もいずれ もその ような宿命 を越 えることがで きなか ったのである

冒頭 に述べ た通 り、湖南 についての先行研究が汗牛充棟の ごと くであ って、

い まさら彼 の生涯 を説 く賓 を要 しないであろ う ここで特 に取 り上げ ようとす るのは湖南の学問上の一つ顕著 な特 質である 即 ち彼が早 くか らその学問的関 心 を清 朝 史研 究 に向 けて いた こ とであ る まだジ ャーナ リス ト時代

( 1 887‑

1 906)の湖南 は職業上の要請 もあ って活末社 会に多大 な関心 を寄せ、早 くも明

治三十年代 か ら清朝 に関す る学術論文 を人気 の大衆誌 『太 陽』 に相次 いで発表 して いた。 明治三十三年

( 1 900)七 月 に書 いた 「

清 国創業時代 の財 政

」 (

陽』 第六巻 第九号)、翌年三月 に書 いた清 朝興衰 の関鍵

」 (

太陽』 第七巻第 三号) などはそれ を物語 っている しか し湖南 をして学問上本格 的に清朝史 を 取 り上 げた最 も重要 な契機 は、明治三十二年以降たびたび行われた中国旅行 や 学術調査 、及 び明治四十年か らの京都帝国大学就任であった。 とりわけ第二回 目の中国行では清朝の要路大臣、親王、名士 、学者 を訪問 し筆談 を通 して種 々

1 の意見 を交 わ し、文字通 り 「政治的に も学問的に も重要 な意味が見 られた」旅 だったのである 前者 は ともか くとして、後者 については当時の旅行記 「遊活

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雑信」 に 「奉天 にてはゆ くりな くも東洋学上非常 なる宝物 を発見致 し候。 (

?

し入手せ Lにはあ らず)その外 ろいろ満州研究の緒 を得 Lも云 々」 と述べ ら れたことが伺 える その 「宝物」 とは奉天文潮闇の 『四庫全書』および黄寺の

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満蒙大蔵経

」 】

とい う貴重 な文献資料である。当時 まだ満豪語 に通 じなか った 湖南 はこれによって大 きな励み を受 け、帰国後直ちに満豪語の勉強 に着手 し、

二年後の明治三十八年七月再度渡満の時すでに満蒙語 を修得 した湖南 は、奉天 の宮殿書庫で 『清朝実録』、 『満文老楢』、満漢蒙三体の 『満州実録』、満漠豪の

蒙古源流』、太宗朝 の官公書、それに 『五体清文鑑』 な ど学界 を驚倒 させ る ような きわめて貴重 な文献 を続々 と発見 したのである これ らの発見 によって 早 くか ら清朝史に興味 を示 した湖南の学問的関心が一層脹 らめていったのはい うまで もない。後 に彼の知的営為 は主 として清朝史研究及びその延長 において なされたの もそのためだ と言 えよう

ところで、服部 に して も湖南 に して もその清朝 史研究の動機 は上述の学問的 関心 のほかに、「政治的」 な要 因をも看過すべ きで はない。服部 も湖南 も同 じ

く、 自分 自身の学問研究 は単 に学界や社会一般 に刺戟 を与 えるだけに満足せず、

国家の対外 (清朝及 び民国)政策の形成 に も一役 を買お うとい う抱負 を有 して いたのは事実である これ もまた前述の ような中国学の伝統的性格の一面 によ

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るところが大 きい と思われる 服部がいち早 く清朝官制の研究に、湖南が清朝 財政制度の研究 に着眼 したのはそ うい う抱負 とは決 して無関係ではなか った と 言 えよう それに清朝の急速の衰退、殊 にその滅亡 と民国の樹立 とともに両者 におけるそのような傾向が一層濃厚 になっていったのである 服部 は華北駐屯 日本軍司令部の要請で編集 した 『北京誌』 (明治四十一年)、それか ら著書 こそ ならなかったが、辛亥革命直後か ら一段 と多 くなった中国時局 に関する論説、

湖南の 『清朝衰亡論』 (明治四十五年)、『支那論』 (大正三年)などはいずれ も その現れにはかな らな

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̲、 清国追考』一清朝官制の変遷 と清末の政治事情一

前述 の如 く、 『活 国通考』 で は予定通 り清朝 の学術 風俗 人情 に筆 を進 め な か ったが、刊行 した第一、第二篇において専 ら清朝の官制、 とくに活末期 にお ける中央 と地方行政組織の変化並 びに現状 を取 り上げている。

第一篇の内容では、 まず当時清朝の最高行政機関であった軍機処の由来、組 織及 び職掌 などについて述べ、それに関連 して内閣 ・六科給事 中及び翰林院の

I :1

事 に論及 している また 「翰林院ヲ説 クニ付 テ、科挙二論及スルヲ便」 として、

つ いでに 「学校 卜科挙」及び 「科挙鎗聞」の二幸 を書 き加 えている

第二篇では予定通 り清朝の官制 を中心 に取 り扱 っている まず清朝中央行政 6 組織一般の記述か ら始 ま り、清朝 には 「全国行政 ヲ統一スルノ機関無キコ ト」

を指摘 し、次いで中央行政主要各部の組織官制お よび文官の選叙 について叙述 し、そ して文官 との関連で 「書吏 卜幕友」 について も筆 を加 えている 終わ り に 「六部の沿革」 と 「地方制度及其沿革」 な ど清朝官制の歴史的沿革 を取 り上 げている

この通 り全体か らみれば、 『清国通考』で は一応清朝官制の叙述が主 とされ ていることが分かる ただ叙述の中で しば しば自ら見聞 したことを用いて説明 す るところが特色 だ と言 える ところで服部 は 日本人にとって最 も難解の清朝 官制 にいち早 く着眼 したのは、一面 に於いて彼個人の文部官僚経歴 と無関係で はなし;が、他方では前述の ように活国への認識、更 にその認識 に基づ く国策形 成 とい う国家 の要請 に白か ら応 えようと した ものであろ う しか し、服部 は

活国通考』 を通 して清末社会の政治的変動 を官制変化の面か ら捉 えようとす る意欲 を見逃 してはな らないのである 清国通考』 の叙述が清朝官制の沿革 に重 きを占めたのはそ うい う狙い と無関係ではない と思われる

さて、 『清国通考』 を刊行 した時、満活王朝 は滅亡 まであ と僅か七年 間の余 命である それ まで二世紀半以上続いた活王朝 は幾多の改制 を経歴 したが、清 朝創立初期、官制諸般 において殆 ど明制 を踏襲 していたのである しか し 「明

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の官制 は漠、唐 の旧に沿ふて而 して之 を損益す

(明史 ・職官

‑』)

とい うよ うに、明朝の官制 に一大変化 をもた らしたのは明洪武十三年 (1380)丞相胡惟 庸事件が発生 した時である それによって中央行政機 関 としての中書省及びそ の長官である左右丞相 を廃止 し、行政権が悉 く皇帝一人に帰 したのである

れ以後、一時期 を除 き清朝 に至 って も官制 にお ける実際の 「相権」が殆 どな かったのである 活 国通考』 において重 きをなすのは、軍機処 ・内閣 ・六部 など中央行政機関の関係お よびその変化 に関す る叙述である まず軍機処 をみ てみ よう

活国通考』 に 「清朝モ国初ハ明 ノ削 ヲ受ケ、機務 ノ出納ハ一二内閣 ノ手 ヲ 経 タリ 但 シ軍機其他天子 ヨリ特二命ゼ ラレシ事項ハ、議政王 ・大臣二於テ之

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ヲ審議 スル ノ例ナ リキ」 とい う如 く、軍機処 は清朝最初か らあった行政機関で はない。それに少 な くとも官制上、清朝 中央の最高行政機関は依然 として大学

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士か らなる内閣であった。軍機処 は早 くとも森正七年 (1729) に設立 された、

専 ら軍事機密 を扱 う機関であ り、いわゆる内閣下の一部局みたいな存在 にす ぎ なか った。すなわち 「軍機処ハ本 卜軍事 ノ機密 ヲ掌 ツガ為二設ケ タル内閣分局 ニシテ、一般 ノ政務二預ルモ ノニアラズ。是軍機処 ノ名アル所以ナ リ 然ルニ 其後漸 ク一切 ノ政務悉 ク軍機処二帰 スルニ至 り、軍機処ハ行政最高府 トナ レリ 蓋 シ当初軍機大臣二任ゼ ラレシ者ハ、皆天子 ガ最モ親信 スル トコロノ人ニ シテ、

且軍機 ヲ掌ルノ故 ヲ以テ、 日夜天子 卜接近スルヲ以テ、 自然二内閣 ノ権 ヲ奪 ヒ、

政務一二軍機大 臣二帰 スルニ至 リシ 此二於 テ内閣ハ、復批答 ・上諭 ヲ擬撰 ス ルコ ト無 ク、其事ハ皆ナ軍機処二移 り、内閣ハ僅二批答 ・上諭 ノ下 リシモ ノヲ

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受ケテ、之 ヲ公布 スル ノ職 ヲ取 ルモ ノ トナ リキ」 とい う

この ように軍機処が設立 した後、幾 ば くも無 く内閣 との関係 を逆転 させ たの である いわば皇帝 にとって、「外延」 となった内閣に対 して軍機処が 「内廷」

となったのである その うえに宣続三年 (1911)慶親王突勤を総理大臣 とす る ll

皇族内閣」の成立 まで短時の例外 を除いて、軍機処 は清朝事実上の最高行政

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機 関 となった。軍機処 と内閣の関係逆転の理由について、『活国通考』では軍 機掌握 と天子接近 を上げるに止 まり、さらなる説明を施 してな

事実、清朝三分の二以上の時期 にわたって、軍機処が実質上の最高行政機関 であったにもかかわらず、官制上においては一度 も正式の行政機関 と規定 され たことがなかった。それに軍機大臣がすべて皇帝によって親王、大学士、尚書、

侍郎、京堂などか ら選任 されるとはいうものの、大抵五名前後の兼職者か ら分 任 される その下 に滴漠両班 (各八人ずつ)の軍機章京が具体的な事務 を担当 す る。 このように軍機処 は一方では、内閣の権 を奪いかつ最高行政機関であ り なが ら、他方では正式の官制で もな く完全 に皇帝一人に直属 している とくに 軍機処 は 「承 旨」のほかに如何 なる行政権 をもたなかったため、実際には君権 が伝統的 「相権」 を弱めるためにほ しいままに使 える有力な道具 とな り、君権 の附庸にす ぎなかったのである これは軍機処 と内閣の所属関係が逆転 した原 因であ り、 また軍機処が長期 に存続で きた 「秘密」で もあったのである

清朝ではすでに封建社会の晩期 に入 り、それに又少数の満州族が施大な漢民 族 などを支配 していた。そこで政治上強力な中央集権、つ ま り絶対君権がなお さら必要視 とされたことは想像 に難 くない。清朝歴代の皇帝、とりわけ康興、

森正及び乾隆は皆絶対君権の樹立 とその維持 に腐心 していた。すなわち一方で は徹底的に地方の行政権 を弱小化 し皇帝直属化せ しめることによって高度の中 央集権 をはか り、他方では軍機処の如 き 「内廷」 をつ くって内閣及び六部の職 権 を剥奪する か くの如 くして清朝では、「行政‑ ノ法無キ結果 トシテ (中略) 中央各部モ地方各省モ、行政上各孤立 シ、随テ国 ノ政務二統一無キニ至ル、是

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実 に清国行政組織上 ノ大紋点ナ リ」 と服部 は指摘する

こうして軍機処 は内閣に取 って代わ り、内閣は 「止 ダ内外臣工 ノ章奏 ノ批答 13

及 び上諭 ヲ軍機 ヨリ受ケテ、之 ヲ公布スル ノ事務 ヲ掌ルノ ミ」 となった。一万、

六部尚書 も又軍機大臣の鼻息 を伺 わなければな らない。「各部 ノ尚書等ハ、政 務二関シ上奏セ ン ト欲スルモ ノアル時ハ、先ズ之 ヲ軍機大臣二告ゲ其意見 ヲ叩。

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大臣二於テ同意 ヲ表 ス レバ則 テ之 ヲ上奏 シ、若 シ不同意 ヲ表 ス レバ則 チ暫 ク其 事 ヲ廃議 トナシ敢 テ上奏セズ。然 レ ドモ尚書等が、此 ク軍機処大臣二商議 スル

1Ll

ハ仝 ク私事 二属 シ、決 して職制上 の関係 ヨリスルニアラズ」 とい うのはそれを 物語 っている

ところで、清朝の六部 もまた大体 において明制 を受 け継 いだ ものであ る して成 豊十一年

( 1 861)総理各 国事務街 門設立迄、「

六部 ヲ以 テ天下 ノ政務 ヲ

分治セシメ、行政府 ノ中枢 タリ」 とはいえ事実明永楽年間内閣が置かれた以降、

六部尚書 は内閣の成命 を受 けて執行す るのみ となって実権がなか ったのである

こうして清朝 の中央行政官制 は非常 に独特 な様相 を呈 していた。即 ち 「清朝ハ 内閣 ノ権 ヲ軍機大臣に移 シタレバ、今 モ偽 ホ習慣上、内閣大学士 ヲ相 国 卜称 ス レ ドモ、其実宰相 ノ実権ハ内閣ニアラズ。軍機モ亦明時 ノ内閣ホ ドノ実権 ヲ有

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セ ズ。六部 尚書が宰相 ノ権無キハ明朝二異 ナ ラズ」 とい うことであるそ して この ような行政組織構造 に変化 を もた らしたのは活末 における内外 の情勢 によ る政治変動の時である。

最初の変化 は前述の総理各 国事務街 門 (総理街門 と略称)の設立 によって も た らされ た。 その背景 には清朝が第二 回アヘ ン戦争 の失敗 に よって英仏 露 と

北京条約』 を余儀 な く締結 させ られた事情があった。いわば総理衝 門が最初 専 ら 「夷務」 を処理す るため に特別 に設立 された中央行政機 関である 但 シ 当時ハ外交事務 ヲ重視 セズ、該街 門 ノ組織モ敢 テ六部二同ジカラシメズ、僅ニ

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数名 ノ大臣及書記官 ・播訳官等 ヲ置キシノ ミニ止 テシ リ」 とい うように、総理 街 門大臣が軍機大臣、大学士、尚書 、侍郎、京堂か ら委任 され兼職す る しか し、清朝が漸次外国 との接触が頻繁 となるにつれ、総理街 門の職権 も絶 えず拡 大 してい き、大凡外国に関す る財政、軍事、教育、鉱産物、交通な ど各方面の 大権 を総撹す るようにな り、事実上清朝 の新 しい 「内閣」 となったのである それか ら義和 団事変

( 1 9 00)

の時 に至 って、「列国ハ外交事務 ヲ国務 ノ最要 卜 認 ムベキ コ ト、及此主義ニ ヨリ総理街 門ノ位置組織 を更改 スベ キコ トヲ要求 シ、

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清国政府ハ総理街 門ヲ外務部 卜改称 シ、六部 ノ上二位セシメ、且其官制ハ大体

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六部二倣 ヒテ改 メタ」のである

もとよ り第‑回アヘ ン戦争後、清朝がすで に晩期段階に入 り、内外の情勢 に したが って官制上 も次第に種々の変化がみえて きた。総理街 門の設立及 びその 職掌職権の絶 えざる増大がその典型的な一例 だ と言 える しか し、清朝官制 に おける本格的な変化が 日活戟争、特 に戊成維新以降のいわゆる活末期 にみ られ それは行政機関の新設 に止 まらず、 またそれ らの機関の意見が中央行政上 において も漸次重 きをなす ようになった。光緒二十七年

( 1 901)

四月設立 され た 「督弁政務処」がそ うい う新 しい行政機関の一つである その設立の背景 に は義和 団事変後結 ばれた 『辛丑条約』 の如 く欧米及 び 日本 か らの 「外圧」が あったのは言 うまで もない。

活国通考』では、活末期の行政機関をその職能によってそれぞれ議政機関、

行政機関お よび監督機関 とい うふ うに三大類別化 している 議政機関は軍機処 と政務処 を包含す る 軍機処 は前述の如 く一方では清朝最高行政機関で もあっ たため、純然 たる議政機 関が政務処 だったのである 活国通考』 ではそれに つ いて次 の ように述べ ている 政務大臣ハ、中央行政各部 ノ長官削及外省総 督 ノ中ヨリ、特選 ヲ以テ之二任ゼ ラレ、選任顧問官 ヲ置 カズ。提調、総弁等 ノ 諸員モ、亦皆ナ行政官 ヨリ之 ヲ兼又。該処ハ特 に命ゼ ラレタル事項二付 、意見 ヲ上 ルヲ以テ職 トス 其諮言句事項二走限無 ク、軍機大 臣旨ヲ奉仕 ジ該処二下 シ テ議セシム 其上 ル トコロノ意見ハ、固 ヨリ参考二供 スルニ止マ リ、其取捨ハ

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一二哀断ニ ヨル」 ことになったのである

政務処 の職掌 は、上述 の ようにただ 「命ゼ ラレタル事項 二付 キ、意見 ヲ上 ル」のみだった とはいえ、畢寛議政の気風 を開いたのである それが また清朝 行政機 関の職能上の一大変化だった と言える 活末時期、内治外交上の問題が 山積 してお り、従来通 り一 々 「忘断」 を仰 ぐことは無理が多い とい う裏事情が そこにあ ったのである これ もまた、清朝の各行政機関の間では上下の統属関

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係がな くそれぞれ皇帝 に直属す る制度 と無関係ではなか った と服部は見抜いて いる すなわち皇帝は各地か らの上奏の 「旨ヲ軍機大臣二博へ、其事 ヲ之二関

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係 アル行政府二下 シテ議奏セシメラル」のである 政務処では軍機大臣か らの 議 旨を奉 じて更 に 「内閣 ・行政各部 ・九卿 ・翰林 ・科道二通知 シ会議 スルコ トゝナ レT) 。 是二於テ会議 ノ範囲ハ、従来二比 シテ一層拡張セ ラレ、九・翰

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林 ・科道 ノ会議官 トシテ ノ作用ハ、愈多キヲ加へ ン トスルニ至」 つたのである

ここにおける 「会議」 は実 に活末期 における注 目すべ き一大政治現象であっ た。二十世紀初頭か ら君主立憲の議論が朝野 においてにわかに盛大になってい た。その背後には清末社会の政治的変動 にあたって立憲派 と革命派の政治的対 立があったのである 従 って行政議政機関 としての政務処では無論世の立憲論 に対 して無反応で はい られなかった。「会議」範囲の拡大が こうした社会の政 治的情勢 に応 じた結果であった。ただ 『活国通考』執筆 中、「事 尚ホ草創 二属 スルヲ以 テ、将来 ヲ判 ズルコ ト難 シ。戎ハ之 ヲ以立憲政治 ノ萌芽 トシテ歓迎 ス ルモ ノアル ドモ、果 シテ然 カク有望ナルベキヤ否ヤハ、今尚ホ末ダ断定 シ易カ

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ラズ」 とい う如 く服部がそれに対 して見守 る姿勢 を示 している

なお、行政機関にみ られた変化 は前述の総理衛 門を外務処 と改称 したほか、

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光緒二十九年 (1903)に商部、総理学務処、翌年に練兵処 などの行政機関が相 前後 に して新設 された。その中で、総理学務処 は近代的教育 を実施す るために 設立 された機関であって、京師大学堂師範館総教習である服部 にとって恐 らく 最 も関わ りのある、最 も熟知 している部門であ った。 したが って総理学務処の 長官である学務大臣が官制上 「尚ホ末 ダ外務部以下 ノ尚書二及バ ズ、教育行政

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長官 トシテ ノ職権ハ、偽ホ微弱不確強ナル ヲ免 レズ」 とい う現状 に服部が明 ら かに不満であった。それにこの状況が光緒三十二年 (1906)学部の設立 まで続 いたのであるO ついで練兵処の設立 も 「全 国軍制 ノ統一 ヲ図 ラン トスルニア リ」 として清朝兵制 における一大変革だ と言 える 前述の如 く清朝の行政制度 は従来統一 を欠け、兵制 も無論例外ではなかった。 ところが、二回のアヘ ン戟

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争、太平天国、捻革鎮圧 、特 に 日清戦争 など幾度の戦争失敗 によって兵制不統 一の弊害が漸 く認め られたため、初めて兵制の統一 を図る練兵処が設立 された のである

清朝の地方官制 も基本的 に明制 を承継 していた。ただ清朝では 「天下 ヲ分ケ 25

テ十八省 トナ シ、各省 二総督 ・将軍及学校 ヲ置」 いた。総督 ・巡撫が皇帝 に よって直接選任 され、 また彼 らも皇帝 に直属 していた。その うえで必要 に応 じ て総督及 び巡撫の任地 は随時変更で きる 従 って総督 ・巡撫 は皆厳密 な意味の 地方官ではな く正真正銘 な地方官 は府 ・州 ・県の長官のみであ った。 しか し、

朝官 と地方官 を一身に兼ねる総督及び巡撫 は事実上清朝晩期以降、国政上漸次 大 きな発言権 をもつ ようになったのである 典型的な人物 としては、太平天国 軍 を破 った曽国藩 と李鴻章があげ られる これ らの地方勢力の強大化 に従 って、

次第に中央行政 に も参画 しさらにそれに変化 をもた らしていった。 『活国通考』

ではこうい う点 に論及 していないのは実 に一大不足だ と言 わねばな らない。

なお 『活国通考』 に使 われた史料 について も服部 は明言 していないが、内容 か ら見れば、基本的に中国歴朝の 「正 史」 (官撰 史書) に依拠 していた ことが 分かる しか し、 日本の中国史家の研究関心 は主 として古代史に集中 していた 時期 に、服部 はいち早 く清朝の官制 に目を向け、かつその変化 を通 して活末社 会の政治的変動 を捉 えようとしたことは実 に世 に活 史研究の重要性 を提示 した と言 えるだろう 後 に臨時台湾旧慣調査会が 『活国行政法』 を編纂す る時に も

活国通考』が参考書 として しば しば利用 されていたのはそれを物語 っている

そ うい う意味 において、湖南の清朝 史研究 も同 じくこのような草わ り的な役割 を果た した と言える

三、『清朝衰亡論』一清朝衰亡の軌跡 と共和政治への透視一

明治四十年

( 1 9 07)

十月、湖南 は京都帝国大学文科大学 史学科講師に迎 えら れ、東洋 史講座 を嘱託 されることになった。京都帝大 における東洋史講座 は湖

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南が講師 として招 かれた前年の明治三十九年 に開設 されたのである その背景 には 日露戟争後 日本国民 の関心が アジア全体、なかんず く中国に向け られつつ あ った風 潮 が あった こ とが看取 され る 湖 南 は京 都 帝 大 に迎 え られ る迄 、

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「ジャーナ リステ ィックな関心 と学問的な研究 を結 びつ けて」 いた学風 によっ てすでに彼独 自のシ ノロジーが形成 され、かつ 『近世文学 史論』、 『涙珠垂珠』、

諸葛武侯』 な ど一連の論著が示す ように彼 の学問 もすでに高 い水準 に到達 し ていた。 これは官学履歴のない湖南が京都帝大 に迎 え られる決め手 となったの である しか し最初 には教授で はな く講師 として招かれたことは就任の曲折 を

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物語 っている とにか く湖南 は同時 に京都帝大学長 として迎 えられる予定の三 宅雪嶺

( 1 8 6 0‑1 9 4 5 )

の反対 を押 し切 って就 任 に落着 し、「東 洋 史概 観」 と

清朝建 国史」 を講義す ることとなった。

京都帝大文科大学東洋史第一講座 は明治 四十年五月、即 ち湖南就任 の五 カ月 前 に開設 された。湖南 は第一講座 を担任 したのは同四十二年九月教授 となった あ との ことである 東洋 史第二講座 の開設が明治四十一年五月でその一 カ月前 か ら東京帝大漠学科 出身の桑原隙蔵

( 1 8 7 0‑1 9 31 )

はそれ を担任 し 「東西交渉

「中国法制史」 などを講義す ることとなった。 そ して昭和初期 までいわゆ

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る 「内藤 ・桑原体制」が東洋史学科 にどっ しりと築かれたのである

京都帝大就任 した後 の湖南 は講義 の ほか、狩野直喜 、富 岡桃 華 と史記 会 を 作 って会読 し、東京帝大の 白鳥庫吉、京城帝大の稲葉君山 とも時 々会 った り文 通 した りして研学 にふ けていた。 しか し湖南 は依然 としてその研究の重心 を清 朝史 に置いていた。明治四十一年末か ら準備 しは じめた学位 申請論文 は清太祖 ヌルハチの こ とを採 りあげてい る 同四十五年 『芸文】(第三巻≡ 〜四号) に 載せ た 「清朝姓氏考」 は即 ち学位論文執筆 の時ふれた史料 によって まとめ られ た研究成果であ った。

だが、清末期 にみ られる清朝 の急速 な衰退及 び革命情勢の高揚 による動揺不 安 の局勢 に湖南が一刻た りとも目を離れたことがない。清朝 の衰退及 びその運

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4 3

命への予言 は湖南 にとって ジャーナ リステ ィックな慣習 による要請のみな らず、

また彼の歴史観 によるな りゆ きで もあろう いわば湖南 に して歴史が予言可能 であるのみな らず、 また歴史で は必ず予言 しなければ意義が ないのであ る 朝衰退へ の関心及 びその運 命へ の予 言 は、早 く前述 した 「活国創 業時代 の財 政」 と清朝輿衰 の関鍵」 とい う二つの論文 に も見 られる この二本の論文 を 書いた時点 (明治三十四年) に湖南 はすでに清朝の崩壊が もはや不可避 だ とい う認識 を しめ、更 にその衰退の 「徴候」が早 くも乾嘉時代 の十八世末 に現れた と主張す る そ してかか る認識 はそれ以後数年 にわた って よ り充実 され、辛亥 革命 と相前後 して直接 『清朝衰亡論』 に繋がれ展開 されることになったのであ

明治四十 四年十一月二十 四 日か ら十二年八 日にかけて湖南 は京都帝大の金曜 講演会で、三回にわたって 「清朝 の過去及現在」 と題す る時局講演 を行 った。

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この講演の速記 をまとめて翌年刊行 したのはつ ま り 『清朝衰亡論』である れ以後、湖南の著書が殆 どこの ような形 を取 っていた。その理 由ははっきりし ない。恐 ら く 『支那論

新支那論』 の ように、その著書 は内容が極めて現時 性 をもっていることと無関係で はなか ったろ う それはさてお き、湖南が この 講演 を行 った時はち ょうど辛亥革命直後で、それに最終 回の十二月八 日革命軍 の蜂起がすで に内地 だけでな く新彊、蒙古 まで飛 び火 し、つ ま り清朝の崩壊が すでに明白な事実 となったのである 長年清朝衰亡 の軌跡 を追 い続 け、かつ清 朝 の衰亡 と共和政治の樹立 を益 々確信づtiナて きた湖南 は、 自分の学問研究が眼 前 の事実 となったの を見てその心の興奮ぶ りが想像 に難 くない。そ して湖南 は 三回の講演 にわた って、それぞれ 「兵力上の変遷

財政経済上 の変遷

思想 上の変遷」 とい う三つの側面か ら清朝衰亡の軌跡 を検討 してい る。

第一講 において湖南 は清朝の兵制 とその兵力の変遷 を検討す る まず活太祖 ヌルハチが創設 した八旗兵制 について述べ 、ついでそれ を明末時期の 「明兵」

と比較 し明末 に至 って も明朝 の兵力が さほ ど衰 えてい なか った と指摘 す る

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4 4

「明の兵 は満州兵の為 め に亡 ぼ されたので はな く、内乱 に亡 び」 られたのであ そ して明朝 も同 じく主 に呉≡桂 の裏切 り行為 に よって滅亡 されたのであ る

そのため に 「国 を建 て るこ とだけは成功 した」清朝 の兵力 は 「間 も無 く鈴 り強 くな」 くなったのである その最初の試練 は呉三桂 の三溝の乱 を平定 した時で あ る 清朝 は この反乱 を漸 く鎮圧 で きた ものの、「清朝 の兵 の見苦 しか った こ とは非常 な ものであ」 った。更 に乾 隆時代 に清朝 の兵 はか な り 「戟功 を立て ゝ 居 る」が 、 しか しそれは 「満州 人が強 いか ら戟功 を立 てた といふので な く、寧 ろ其時 に非常 に清朝 の財政が豊富であ った結果であ る」 と湖南 は見てい る 朝軍事力上 の破綻 、即 ち八旗 と緑営 の腐敗 は白蓮教 の乱 、なかんず く太平天国 の乱 の時非常 にあ らわに現 れて きた。 そ して太平天国 を平定す るには八旗兵及 び緑営 の兵が もはや用 い られず、完全 に地方 の 自衛民 団 としての 「郷勇」 に依 頼 したのだ。 「是 は清朝 の兵制が大変 な変化 をす る土 台 を作 った」 ので あ る

曽国藩の湘軍、後 にそ こか ら派 出 した李鴻章 の准軍及 び衰世凱 の新軍 な どは、

事実上 、活末時期 において清朝が頼 れ る主 な軍事力 とな ったのみな らず 、後 に それ らの軍隊が また革命思想 を持つ洋式教育 を受 け、特 に 日本留学 の士 官生 と 結合 して革命 の土台 を作 ったのであ る 従 って辛亥革命 の勃発 も 「その本来 の 原 因 を調べ る と、一 向何 の不思議 な ことであ って、結局清朝 は二百余年 間、其 の政 策上 か ら自然 に革 命思 想 を養成 す る様 に 自分 で仕 向 けて来 て居 たのであ

」。

第二講 において湖南 は主 と して財政 の変化 か ら清朝 の衰退 を検討す る 明朝 滅亡 の 「大原 因」が財政 にあ ったの と同 じく、清朝 の衰亡 もや は り財政破綻 が 主 因だ った とい きな り主張す る 清初 の財 政 は戟乱 なお続 いていることもあ っ て 「歳入 に於て も矢張 り明の末年程 に這い らぬ」が、元来質素であ った活初の 帝室が明の帝室 ほ ど費用がかか らない し、それ に康興 の ように倹約政策 を実施 し宮 中の費用 を大 いに節約 で きた。 「其 の倹約 の結果 、康輿帝 の末年 には、国 庫 に多額 の剰鎗金 を生 じたのであ る」。更 にそのおか げで乾 隆の初 め に 「壮丁

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税」が廃止 された。それか ら薙正の時 になると、薙正皇帝 は歳入増加のために 財政整理政策 を実施 した。すなわち地租の附加税 に 「耗羨」 とい うものがあっ たD従来それが 「地方の収税 を取扱ふ所の官庁の雑収入 に使 った」 ものであっ たが、それを全部朝廷の税収 とした。続いて指官、塩税及 び関税 によって森正 の末年 に大いに増収 し、い よい よ乾隆の全盛期 に入 った。全盛期時代 の乾隆朝 では乾隆の賓沢 (六回にわたった江南の巡幸 は代表的な事例)及び西北、西南 への用兵 などに必要 とす る膨大 な支出を強い られたに もかかわ らず、地租 ( 回) と漕糧 (二回) を免除す る余裕があった。 しか し乾隆の末年 になると、財 政窮乏の兆 しが現れ、「それか ら段 々と衰 えに向か ったのである」。その原因に ついて湖南 は以下の四点 をあげている 即 ち皇族の増加、地租 の末進、物価の 騰貴及 び銀価の変化がそれである

乾隆末年か ら道光末年 までの六十余年問、清朝の皇族が北京 に乗 り込んだ時 の二千人か ら三万余人に増 え、それに伴 って歳出が増加 した。 ところが、歳出 増加す るのに地租が納め られず、 したが って歳入が減少す る一方であった。 こ こで湖南 は道光二十五年 と二十九年の歳入銀数 をあげている それか ら物価の 騰貴 について清末の著名な思想家漏桂芥

( 1 8 0 9‑1 8 7 4 )

が調べ たデータを採用 して説明す る。最後 にアヘ ン貿易のため銀が大量 に流 出するにつれて銀の価格 が高 くな り活初時の三、四割 となったこともある それが銀 と銅銭の両替相場 に変化 をもた らし銀の値打 ちを減 らせて しまったため、「清朝の財政 に大変 な 打撃 を輿へ (中略)道光、成豊頃 までの清朝 の財政は、無事太平であって も窮 乏すべ き勢 になって居 た

」。

太平天国軍 を平定す る時 に導入 された 「厘金税」

(内地の関税 お よび交易税)は戟争が終わった後 もなお続かざるをえない状態 は財政の窮乏 さをよ く物語 る それに清朝財政窮乏の もう一つの理由は行政機 関の重複 にあった と湖南 は指摘する 例 えば新式学校教育の中枢 としての京師 大学堂 を創設 したに もかかわらず、それまでの最高教育機関の国子監 は従来通 り保持 している そ して最後 に、それは単 なる清朝 にだけみ られる傾向ではな

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いが、中国歴史上歴代の王朝の末年 にみ られる共通の現象 としては 「帝室で も 大変な財力 を握 って居 るのであ」 つた とともに、中央の財政が非常 に膨張す る ことである 注 目すべ きことはこの中央財政の膨張が実 に中央集権 による結果 であった。眼前の清朝が正に 日本幕末時徳川将軍 と同様 に財政の窮乏による滅 亡の運命 を辿る しかない と湖南 は結論 を下 している

第三講 において湖南 は主 に 「種族観念の勃興」 と 「尊孔思想の変遷」 とい う 二項 目を中心 に思想変化の面か ら清朝の衰亡 を検討す る そ して軍事、財政面 か ら清朝の衰退が乾隆末、嘉慶初 には じまったの と違 って思想上の顕著 なる変 化が少 し遅れて十九世紀の初期 にみ られると湖南 は主張す る

さて、湖南 は伝統的な中華思想 に変化 をもた らしたのは 「僅か七八十年此方 のことである」 と真 っ先 に主張す る これ を説明す るために湖南 は英国使臣マ

ッカ ー トニ ー ( Ge o r g eMa c a r t n e y, 1 7 3 7 ‑ 1 8 0 6 )

が乾 隆五十八年

( 1 7 9 3 )

に乾 隆 帝 に謁見 した時における有名な礼儀 の争いを取 りあげている そ してアヘ ン戦 争以降、 とりわけ 日活戟争 などのように清朝の対外戦争 における度重 なる失敗 によって漸 く 「外 国 と自分の国 とが同等だ

支那人が外 国 と同等の者 だ」 と 否応 な しに認め られた。総理各国事務衝門の設立 はその現れにはかならない。

いわゆる 「種族観念の勃興」が こうした背景 における現象だ と言 える しか も それは単 なる清朝末期だけではな く、宋末元初、明末活初の如 く歴史において も見 られる現象である ただ歴 史上のそれ と異 なるのは活末の 「二重の種族観 念」である 詰 ま り清朝 といふ ものは外国に対す る関係上、外 国に対 して種 族観念 を人民 に起 こさせ ると同時に、又 自分が支配 して居 る国民か ら自分 に対 して種族観念 を起 こされて居 る」のである そこで明末活初の時の反満思想の 書籍が再版 され、広 く知 られて 「興漠滅満」 の有力な思想の支柱 となった、 と 湖南 は興味深 く指摘す る

次 に湖南 は 「尊孔思想の変遷」 において まず活末公羊学派 または今文学派の 学説 について述べ、その代表的な学者 として康有為 をあげ、「康有為 は孔子 を

(17)

4 7

基督 な どと同様、支那の教主 として尊崇せ ん とし」、すなわち孔子 を帝王以上 に尊敬す る道 を開いたのは康有為 だった と主張す る

しか し、公羊学派及び今文学派の学者たちの 「尊孔思想」がやがてその本流 (孔 子)か ら離 れて春秋諸子 (老墨 の研究)、特 に仏教研究 の方へ と流 れて いった と湖南 は指摘する。それ らの代表的学者 は晩晴著名な公羊学派の経世学 家襲 自珍

( 1 7 9 2‑1 8 41 )

、魂源

( 1 7 9 4‑1 85 7)

、余樋

( 1 8 21‑1 9 07 )

をあげてい それか ら公羊学派の学者ではないが、活末革命派の有力な思想的代弁者で

30

あった章柄鱗、 また 「第一流の歴史家」である沈曽柏、文廷式、夏曽佑 なども 同 じく仏教、 とくに禅の研究 に没頭 している こうして知識人の間では 「兎に 角孔子 といふ ものは唯偉 い人 といふ考で尊ぶ ことはあるけれ ど、信仰の 目的 と して考へ るや うな思想 は段 々 と薄 らいで来て居 る傾がある」。その うえで外 国 留学の経験者 は外国の新思想 を受 けて共和政治 を行 う観念が生 じて きた。 この ような思想 的変化があって こそ、「今 日のや うに一度爆発す る と、最早救ふ可 か らざる形勢 になった」のである

最後 に湖南 はこれ まで諸側面か らみて きた清朝衰亡の歴史過程 を総括す る形 でその現代史的意義 を提示 している 前述の如 く、著書の もとになる最終回の 講演の時、清朝の滅亡 は もはや大勢のみるところとなったが、その時点では一 体時局の流れはどこへ向か ってい くかはなお混迷 を極めていた。湖南 は 「仲裁 講和論

南北分立論」の無常識性 を否定 した うえで、一時の勝敗 を問わず、

何れに して も革命主義、革命思想の成功 は疑 ないのである 是 は幾百年来の 趨勢で、今 日ではどうして も一変すべ き時機 に到着 して居 るのである」 と締め

くくっている

ここで湖南の試みた結論の多 くは予言的な ものであるが、事実 はそれ ら予言 の見事 さを裏付 けている それにこれが実 に歴史研究 は現代史理解のためにな

されねばな らない とい う湖南の学問における信念によるもので もあった。

なお、 『清国衰亡論』 において湖南 は清朝衰亡の軌跡 を検証す るとともに、

(18)

4 8

また辛亥革命前 の中国にすでに共和政治の基盤が存在 していた と提示 している

その基盤が中央集権の崩壊 による地方 自治体 の必然的な成長 によってつ くられ たのである それ もまた中国歴史 における 「大勢 の推移、 自然 の成行」 だ と湖 南 は強調 している

ところが、同 じく学問研究が現代社会の理解 に役立つべ きだ とい う信念 を抱 く服部 は清朝の衰亡及 び共和政治 について湖南 と殆 ど正反対 の見解 を示 してい

まず服部 は清朝 の衰亡 と革命 の成功が必ず しも必然 的な事で はなか った と主 張す る 論者 の多 くは前年 の革命 は国民 の間 に欝積せ る革命思想の機 を得 て 爆発 したる もの と為せ ども、予輩 の観察 は則 ち然 りと為 さず。初 よ り成功 を期 せ ぎ りし試みが狂信作者の利用す るところな り意外 なる局面の展 開 を見たるに

31

過 ぎ」 なか った。そ して清朝衰亡 の原因は 「唯其れ満人支那 に入 りて よ り三百 年文弱滑 々風 を成 し武人 として価値殆 ど絶無 なるに至 りしことは、満朝 の衰滅

32

を来 たせ る所以」である 従 って若 し 「当時‑の曽国藩」がいれば、「民国の 33

成 立末 だ必 ずべ か らざ りしな り」。 なぜ な らば、清朝 で は まだ完全 に民心 を 失 っていなか ったか らであ るとい う

次 に革命 は直 ちに民主 共和政治 に繋が る もので はなか った こと 支那 の民 34 主 共和政体 は決 して国民思想 よ り当然生ずべ きものな りと言ふ ことは能 はず」、

革命 は必ず しも民心 に出で したあ らず。況や革命必ず しも民主共和 を意味せ 35

ず、民主共和が国民の理想 た りしにあ らず」 のである それは今 日まで人心 を 支配 している天命説 と共 に発達 して きた倫理観 は 「民主共和 の義 と相容れ ざる もの」 だか らである ここでの倫理観 は儒教道徳上の五倫観であるにはかな ら なか った。 しか し、硯 にすで に出来た民主共和政体 に対 してそれが 「民 国前途 に於 ける思想 の大問題」 だ と服部 は否定的な見解 を捨 てなか った。

さらに南北分立論 につ いて も服部 は湖南 とまった く角度の違 う見解 を示 して いる 服部 は辛亥革命後 における南北分立の問題 に対 す る速断 を避 け、又北方

(19)

49

に比べて南方の経済力の優勢 を認めた ものの、歴史上 において地理、風俗 、言 語、思想文化 な どの面 に して も常 に北方が南方 を併呑 した ように南北分立 とす れば、「今 日の支那が将来如何 なるか といふ ことは別問題 として、唯だ歴史上

36

其他 の関係か ら私 は北 は南 を併呑せ ねば巳 まぬ もの と考‑ るのである」。一方、

これ と反対 に湖南 は 「支那 の歴史 を読 む人は、唯だ大掴 みに支那 はいつで も北 か ら侵略 され滅 ぼ された ものであるか ら、何 んで も北方が強い もの と考‑ て居 るが (中略) 自分 の考へで は、今 日南北が分立す る として、北方が よ く南方 に

37

対抗 して行 くこ とが出来 るか といふ ことが疑 問であ る と思ふ」。 もっともここ での南北 に対す る地理上の区分 について服部 と湖南 はい くらかの相異 を有す る

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こ とを付 け加 えておかか ナればな らない。だがそれに して も、辛亥革命直後か ら湖南の予言の多 くが驚 くほ ど正鵠 を射 った ことは後の情勢の推移 によって立 証 されているが、服部 はむ しろ王朝史観 に拘束 されてついに歴史推移の大勢 を 見損 なったのであろ う

長年 中国滞在 の経験 を もつ服部 は道理上、湖南 よ り現代 中国‑の肌の感 じが もっと強か ったはずであろ う その上 に もともと学風 の面 において も二人の間

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に意外 に共通点が多 く見 られる しか し上述 の ように二 人の現代 中国に対す る 認識の落差があれほ ど大 きか ったのは一体何故であろ うか。 この疑問 に対 して 湖南 は 『清朝衰亡論』 の中で極 めて示唆的な提示 を施 している それは、敢 え て言 えば 「政治家 の研 究 の仕方」 と 「学究 の研究 の仕方」 の相 異 に よる もの だ ったのである 清朝の衰亡 と革命の勃発 の必然性 、それに共和政治‑ の歴史 的展望 な どをめ ぐって服部が湖南 と反対 に、殆 ど歴史の流れ を見抜 くことがで きなか ったのは実 にその 「政治的」 な色合 を濃 くもつ儒教倫理観つ ま り孔子教 に妨 げ られた と言 わざるをえない。

注 :

1

,三田村泰助 『内藤湖南』中公新書、昭和四十七年。一八七頁。

(20)

5 0 2. 同上。

3 . 『 満 蒙 大 蔵 経』 はの ち に東 京 帝 大 に もた らされ たが、 関東 大 震 災 に よって惜 し くも焼失 した。

4. 明治 三十 三 年 ( 1 9 0 0) 十二 月、服 部 が 「 支 那 地 方 官 ノ職 務 等 二就 テ」 と題 す る 論文 を 『 国家学会雑誌』 ( 第‑六六巻) に発表 した。

5 . 『 清 国通考』例言。

6 . 『 活 国通考』 第二篇、‑頁。以下、第一篇、第二篇 と表記す る

7. 例 えば明永 楽 帝 が 親信 の大 臣 を文淵 閣 ( 後 の 内 閣) に入直せ しめ政務 に参 与せ しめ た。 また宣 宗 の と き、 大学 士 楊 士 奇 らが重 用 され、 内 閣 の権 力 が 一 時 盛大 となった ( 『 明史 ・職官‑』)。

8. 第一篤、五頁。

9.軍機処 の設立時間が薙正七年 ( 『 活 史稿 ・軍機大 臣年表』)、轟正十年 ( 『 活 史稿 ・職 官志』) な ど幾説 ある

『 活 国通考』 で は轟正七年説 を取 っている

1 0.第一篤、六 〜七頁。

l l,轟正十三年 ( 1 7 3 5 ) 十 月 「 罷舶理軍機処,由総理事務処兼理」 ( 『 活 史稿 ・軍機大 臣 年表』)。ただ二年後 の乾隆二年 ( 1 7 3 7 ) 総理事務処が廃止 され軍機処が再 び回復 さ れた。

1 2.第二篇、五頁。

1 3 . 第一篇、三十六頁。

1 4.第二篇、四頁。

1 5 . 第二篇、十七頁。

1 6. 同上、一五 四頁。

1 7 . 同上、十五頁。

1 8. 同上頁。

1 9. 同上、七 〜八頁。

2 0.同上、九頁。

2 1 .同上 、十頁 〜十一頁。

2 2 . 同上、十一頁 〜十二百。

2 3.三年後の一九〇六年、工部が商部 に併合 され農工商部 と改称 した。

2 4.第二篇、二十七頁。

2 5.同上 、一九二頁。

2 6.J. A. フ ォーゲ ル著、井 上裕正訳 『 内藤湖南』 ‑ポ リテ ィックス とシノロ ジー一、

平凡社、1 9 89 年。一二三頁。

2 7 . 湖南 自身はそれに対 して非常 な不満 を抱 いた。途 中でやめる決心 を したほ どであ る とい う。前掲三 田村泰助 『 内藤湖南』、二〇二頁。千葉三郎 『 内藤湖南 とその時代』

国書刊行会、昭和六十一年。三一五百。

2 8.京都大学 『 京都大学七十年 史』、昭和 四十二年、非売 品。二九一 〜二九二頁。2 9.

『 内藤湖南全集』 第五巻、一八七 〜二五八頁。

(21)

51 30.章柄麟 は若 い時、愈 堪 ( 字 は曲囲) に師事 し経 史 を学 んだ。康有為 らの変法思想 に

共鳴 し、康 と 「 革政 同」 じき章 は戊 成変法 の前 かつ て今文学説 に依拠 して変法維新 思想 を鼓 吹 していた。戊成 変法失敗後 、康 梁 らと 「 保皇」 と 「 革命」 をめ ぐって対 立 しは じめ、つ い今文学派 を批判 す るようになった。 それ以後 、彼 の思想及 び行動

は主 と して古文学派の学説 に依拠 す るようになった。

3 1 .「 思想道徳 の上 よ り観 た る民国の前 途 」 『 支那研 究』所収 、二六五頁。

3 2 . 同上 、二六六頁。

33.同上頁。

3 4. 同上 、二 六三頁。

35 . 同上 、三六六頁。

3 6. 「 支那南北 と其 の分合 」 『 支那 国民性及 国民思想』 ( 海軍大学校 、大正七年)、二六六 頁。

3 7. 『 清朝衰亡論 』 『 全集』 第五巻、二五三 ‑二五 四頁。

3 8. 服部 は北 を十三省、南 を九省 とす る。湖南 は北 を十省、南 を十二省 とす る。それぞ れ前掲 「 支那南 北 とその分 合」 ( 二 四五 〜二 四六頁) と 『 清 朝衰亡論 』 ( 『 全 集』 第 五 巻、二五二頁) を参照。

39.湖南 は 日本折 衷学派 の流 れ を汲 んでい る。 その学風 の源流 を遡 れば折衷学派 の大家 であ る井上金峨 ( 1 7 3 2‑1 7 8 4) に繋 が る。一方 、 この金峨 の弟子であ った山本北 山 の 門下 に太 田錦城 ( 1 7 6 5‑1 82 5) が いた。錦城 は清朝 の学 問 を多 く採 り入れて、幅 広 い考証の学 を打 ち立 てた。服部 が師事 しかつ学風 の影響 を最 も多 く受 けた島田重 礼 はす なわち錦城 の弟子 であ る海保漁村 に師事 しその流 れ を汲 んだのであ る。湖南 はかつ て清朝 の考証学つ ま り僕学 を厭 わず ほ ど推賞 していたの は周知 の通 りであ る

四、 民国初期の政治的混乱 と中国分割論

清朝宣統三年 (1911)十月十 日勃発 した辛亥革命 は翌民国元年一月一 日孫文 を臨時大統領 とす る中華民 国の樹立 を以てひとまず成果 を納め、そ して一月三 日革命派 をは じめに立憲派及び旧官僚 を包含す る南京臨時政府の成立 を見 るに 至 った。

しか し一方、北方では清朝末代の宣統皇帝が まだ退位 してお らず、それに近 代的装備 と訓練 を受 け持 っている北洋革 を擁 して清朝内外 に も重 きをなす衷世 凱が十一月‑ 日活政府か ら内閣総理大臣に任命 された。事実上、南北対峠の局 勢が形成 しつつあった。当時清朝内外の論壇 を賑 わ した南北分立論がそ うした

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