世紀末の女性一アイデンティティ模索の軌跡
市 田 せつ子
(人間科学)
世界は一挙にほとんど十倍の大きさになった。(……)それは,有産階級が遍歴の騎士 として活躍した時代であった。その時代もやはりロマンチシズムを追い,愛の夢想に 耽ったのである。有産階級の足場に立ち,結局は有産階級の目標に向かっていくのでは
あるが。
エンゲルス『家族,私有財産および国家の起源』
来年の1990年には「芸術と社会における女性」(Frauen in Kunst und Gesellschaft)と銘打ったシンポジウムが東京ドイッ文化センターで開かれ,
ドイッ女性の置かれている社会状況や彼女たちの芸術界での活躍が紹介される ことになっている。そこには当然,歴史的な回顧もあろう。ドイツで1960年代 末に始まったウーマン・リブに属した人々も,フェミニズムのお手本として,
今世紀初頭の急進派の婦人運動家を例に挙げている。既に1970年代もマスコミ では回顧の対象になっているが,その現在においてなお,19世紀末から20世紀 初頭の時代を婦人運動の原点として捉えていることに変わりはない。このよう に常にこの時代へ回帰していくのも,百年前から現在までの社会の変動が女性 にとって意味したところが長い間定まらなかったからであろう。文明からの救 済として性の自由化が唄われる度に,実はそれが男性支配の隠蓑として機能し ているのではないかと疑う気持ちにさせる歴史的な事実が積み重なって来た。
現在,フェミニズムは第二期と称して,十九世紀に始まった婦人参政権獲得を 中心とした婦人運動からは理論の上で訣別した。第一期の婦人運動は,鳥鰍図 の視野から描かれ始めている。そのような目で,百年前のドイッに生きた「新 しい女」をどのように捉えられるか。本稿では,婦人運動史,ミュンヘンの風
俗史,文学史のエピソードの上で著名であった三人の女性,リリー・ブラウン,
フランチスカ・ツー・レヴェントロフ,ルー・アンドレアス・サロメが自己像 をどのように切り結んだかを彼女たちの自伝或いは自伝的小説を手掛かりに 探っていく。これは,今日エピソードとして残された世紀末の「新しい女」の 評価でもある。まず,女性についての典型的な思想を歴史との関わりで見,次 いで19世紀の婦人運動と母権思想を紹介する。
(女性と歴史)
歴史の中には,数多くのエピソードの主人公として後代の人々の心を楽しま せ慰めてくれた女性や,また遙かに少数であるが,自身の才覚に秀でた女性が 名を残している。そして,歴史には残っていなくとも,どの時代にも傑出した 女性や政治的な力を持った女性が存在して,相応の社会的地位を得ていたであ ろうことを誰もが喜んで認めたがるのではないだろうか。だが,これらの女性 が活躍したとしても,それは有機的な生き物としての社会が,社会の周辺的集 団に対して必ず例外という枠を設けていて,その枠が充たされることが社会を 活性化したからと説明されよう。さらに集団としての女性に現実的な意味でも 象徴的な意味でも同性の指導者が必要とされたという事情もあろう。女性一般 については,「歴史のなさ」1)が言われる。少数の有能で著名な女性によって,
男性中心の通則が直ちに揺らぐ事も,彼女たちが正史としての歴史の重要な構 成要素になることもなかった。
「歴史のなさ」は,また,論考の対象としての女性の「歴史性のなさ」と結 びついてもいる。どのような時代環境に生きていたかという問いを「女性とは 女性である」という声高な同意反復がかき消してしまう。「普遍的な女性」と いう句も同意反復の例と云えよう。その句からは,限られた経済的・社会的条 件の中で生きなければならない人間の歴史性はやすやすと払拭されている。19 世紀末に膨れ上がった婦人運動で,女性が自己の社会的な条件の改善を公然と 求めたことは,この意味で歴史と歴史性への参画を求めたことといえよう。以 下に西欧全体に起きた初期の婦人運動の概略を,ドイッを中心に追ってみたい。
(19世紀ドイッ婦人運動の沿革)
西欧文明の中で,婦人の地位を向上させる要因と成りえた思潮は度々現われ た。人文主義の興ったルネサンスや,啓蒙主義である。啓蒙主義時代には,女 性の抑圧に対する抗議の書が女性によって記されたとされている』)だが欧米 で女性が集団として政治的運動へ移ったのは,市民革命を経て,近代の市民が 生まれた後であった。18世紀末から19世紀前半にかけて試みられた革命が女性 に好意的だったわけではない。人権宣言を下したフランス革命では婦人が共に 王政派とたたかい,盛んに政治的活動をおこなったが,革命四年目にはロベス ピエールが婦人団体を解散し,婦人に政治的集会に加わることを禁じている。
革命の一応の成果として生まれ,普遍的な「ひと」を対象としたはずのフラン ス市民法(Code Civil,1804)は,私的所有権の保障を原則としながら,夫に 妻の財産を管理させた。それでもやはり,この時代に生まれた法的主体として の「ひと」という概念が,権利から除外された者の意識を呼び起こしたことは 疑えないだろう。財産による制限選挙は,19世紀を通じて西欧諸国のブルジョ
ワ,プロレタリアの階級意識を先鋭化して,普通選挙という目標を民主運動に 与えていた。そしてこの思潮と共に,徒弟の権利を求めた青年運動や,婦人参 政権を初めとする両性の法的平等を掲げた婦人運動が,展開されていったので
ある。
欧米の19世紀は,産業革命後,女性が工場に働きに出たという点で,女性が 経済力を身に付けた時代であった。19世紀末ドイツの統計は女性の労働人口が 急激に増大していることを示している:)だが,それは女性の動向を示す一つの 面でしかなかった。他面において,19世紀は,女性が経済力を失った時代であ
った。
プロイセンでは,啓蒙思想の影響を強く受けて成立したプロイセンー般法
(1794年)が,婦人にあらゆる職業へ従事することを認めたのに対して,手工 業の親方たちが,反対の請願を繰り返した。その結果は,19世紀半ばにして,
婦人の職種は再び,厳しい制限を受けたのである巴他のドイツ諸国でも事情は
同じだった。19世紀半ばといえば,いわゆる復興期に当たる。青年ドイッ派の 運動が,1848年の3月革命で穏健派に破れ,時代は「実利主義的・非政治的 な」5)ビーダーマイヤーへ移っていた。女性が,政治と公に関わることも同時 期に禁止されている。1830年代には,婦人は急進派の集会に参加したが,1850 年にはプロイセンで「婦人,学童,徒弟が組合に加入すること,集会で政治的 な事柄を述べる」ことが禁止され,ザクセンで雑誌の編集責任を男性にのみ認 める新しい出版法が制定されたのである:)
19世紀に婦人が蒙った経済上の不利益は,職業に結び付いたものばかりでは なかった。産業革命後,もはや家庭が社会の直接的な経済単位ではなくなりつ つある時代に,妻に私的所有権が認められないことから来る不利益があった。
職業につく女性が無産階級か,中間層のごく限られた人々であり,家族法の分 野で女性が不利な扱いを受けたことから,19世紀は女性が経済力を失った時代 だと云えるのである。フランス市民法に夫が妻の財産を管理する規定のあるこ とは先に触れた通りであるが,ドイッでも,妻の財産権を認めた啓蒙主義的な プロイセンー般法が存在したにも関わらず,実情は,19世紀を通じてフランス 市民法に近い形で処理されたという3)ドイッ帝国が成立した後,1896年にドイ ツ民法が制定されるが,そこでは夫婦の財産は原則として共同財産であり,夫 は妻の財産の管理権,用益権をもっていた。離婚の際には,夫に破綻責任のあ る場合でも,共同財産は夫の所有に帰した。この時期に婦人運動の規模が飛躍 的に大きくなったことと考え合わせると,夫婦に関する同規定は,新たな解放 思潮のもとに生まれたのではなく,19世紀を通じての慣行・地方の条例を映し 出したものと捉えられるだろう8)
こうした状況の中で,ドイッで最初に婦人の組織を作り政治的な要求を掲げ たのは中産階級の職業婦人たちであった。まず,それは小規模な運動から始 まった。産業革命後,無産階級の女性が工場で働き,低賃金工場労働力の少な からぬ部分を構成していったのに対して,同時期に中産階級で職業に就いた女 性の数は限られていたのである。中産階級の女性にとっては,住み込み家庭教 師,学校教師,有給のコンパニオン(話,旅行の相手),保母などが考えられ
る職業だった。彼女たちの就労は,当時の社会にとって例外であり,女性人口 の過多と結び付けられ,未婚ゆえの就業であると説明された。だが,他方では,
女性の教師は独身であることを条件に雇用されており(Z61ibatsklausel),教 職についている限り未婚でなければならなかった。この雇用条項はワイマール 共和国で廃止されるまで付いてまわる:)プロイセンでは1861年から96年にかけ て,女性教員の数が7366人から14,600人に倍増している;°)これは急速な増加で ある。それでも,1895年の統計によれば,ドイツの女性人口のうち約四分の一 が職業に携わっていたが,女性の労働人口の内77%が労働者であり,教員もそ の一部である公職・自由職業への就業は約2.7%を占めるにすぎない;1)19世紀 後半に入って組織化されていった婦人運動も,初めは周辺的な現象であった。
初期の組織は,その成員の特色からいって,婦人の職場確保,職業訓練を目 標に掲げていた。だが,同時に貧しい女性の救済という,慈善的な性格も強く
もっていた。1890年になってようやく,女性教員が労働組合に近い組織を作っ た。彼女たちが求めたことは,女子教育の改革である。当時,女性は高等・大 学教育を受けられなかったため,学位をもてなかった。そのため,学校内で常 に男子教員より低い地位と俸給に甘んじなければならなかったのである。ここ では,比較的速く改革が進み,翌1891年に,初めて帝国議会で女性の大学入学 が審議されてから,1908年までにはドイツのすべての大学で女性の大学入学が 認められた。
婦人団体の上部組織(ドイツ婦人連合一BDF)は1894年に結成された。
1901年には会員およそ7万人,137の傘下団体をまとめていた;2)さらに,1914 年には全体で約50万人の会員を集めていた。数量的には,欧米の婦人運動の中 でイギリス,アメリカに次いで三番目の規模に成長したのである。
だがここには,ドイツの婦人運動の当時における転回点も用意されていた。
会員数が急激に増大したのは,1908年の新帝国結社法で,女性に政治的結社へ の加入,政治的集会への出席が認められ,女性が非合法の烙印を押されること なく,政治的な活動を行なえるようになったためであるが,このとき,右翼的 団体の女性部及び,保守党と密接なつながりをもつ婦人団体がBDFに加入し,
総会での投票の結果を左右するようになったのである。さらに,従来は未婚の 俸給生活者が運動を支えていたが,1908年以降,文官,軍人,企業家,大学関 係者,地方名士の妻たちが大量に加わり,運動の関心は婦人の職業から離れ,
主婦の消費者的な関心や,中間層一般,貴族,軍人,官僚その他の広汎な社会 層の利益へ移った。同時に中心となる思想も,男女平等から,女性の異なる本 性(Andersartigkeit)へと変わった。当時の婦人運動家アリス・ザロモンは1908 年に次のように述べている。「婦人運動の古い世代は,男性と同等の職業に就 き,男性と同じ教育機会を獲得しようとしてきた。(……)公共の生活で男性 と同じ権利と義務を求めた。(……)男性のいる位置が女性の生活を測る規準 であり,その規準に合わせて,要求のすべてが掲げられたのである。」「[反対 に,婦人運動の]新しい動向では,真似ごとや女性のなかの普遍的人間を常に 強調すること,男性の業績を規準とすることの代わりに,両性の情緒的,知的 な差異性が認められるようになった。男女平等の要求は婦人の多くが家庭で文 化的な価値を創り出していることに基づいて行なわれるべきである。その価値 は全く独特であり,他に替わるものがない。そして,それは職業における男性 の業績とまったく同等である。女性の独自性という特別な文化的価値こそが
(……)男女同権を求める新世代の女性を引き付ける旗印となろう。」13)
BDFが1902年に公式に同意した婦人参政権要求は,組織内部で激しい攻撃 に遭った。そして結局は,個人的自由や職業における男女平等を求めた人々が 急進派として排除されていったのである。以後,BDFは女性の社会的役割を 容認した上で,その役割の範囲内での女性の関心を代表した。そして「ドイッ 民族を党派や階級を超越する民族共同体として統一する」ことを綱領にますま す広範な層を掴み,ワイマール共和国の最後には100万人の会員を抱えるに至 る。ナチの政権掌握と同時に一部解散,一部ナチ傘下の組織へ統合されていっ たというBDFの歴史は,この組織の性格に沿ったものだろう。こうして,ド イツにおける,いわゆる第一期の婦人運動が終わった;4)
(19世紀の母権制思想一バッハオーフェンとエンゲルス)
19世紀の西欧は,革命と結び付いた民主的な思潮を生みだしたが,市民の文 化は,世紀末の様式が生まれるまで,厳しい性道徳と騎士道を合わせ持った
ヴィクトリア期(イギリス),ビーダーマイヤー(ドイツ)に代表されたとい えるだろう。ドイツでは市民革命の推進者でさえ,婦人解放という概念に至ら なかった。ビーダーマイヤーを代表した保守層の人々が,「女性」について事 新たに考えることがなかったとしても不思議ではない。女性は小説の主人公に なることはあっても,思想家の省察の中心になることは少なかった。あったと しても,それは著者の思想のなかで,周辺的な位置を与えられた。ショーペン ハウアーの女性についての言説と彼の中心とされる理論を有機的に結び付ける
ような試みは一般にはなされていない。彼の女性観は思想というより,彼個人 の性向と見なされ,しかも有名な哲学者のことばとして,ニーチェの女性観と
共に人口に月會灸したが;5)
世紀末以前の文化の中では,女性を中心に据えて,思想を構築すること自体 が,革新的なことと呼んでさしつかえないだろう。19世紀末から20世紀初頭に かけて,婦人運動や性差についての理論が頻出したのは,現実に婦人運動が一 般の人々の目につく形で現われたことと無関係ではないが,この流行的現象に 先だって,万古不易とされていた女性の社会的地位を,歴史の中で相対化させ たのはバッハオーフェンとエンゲルスであった。
前者は主に神話にある言い伝えに依拠して,後者はモーガンが行なったイン ディァン社会での人類学的観察を基にして,両者とも,古代アテネ国家に始ま る西欧文明の成立以前に,女性が社会を主導した時期のあったことを証明しよ うとしたのである。バッハオーフェンの『母権論』(1861)以後,母権論一父 権論は大きな論争のテーマとなったが,ここで問題とするのは,二人の思想家
それぞれの「女性」に対する了解と,その著作が後代に与えた意味である。双 方にとって,母権制はある理想的な社会を意味していた。だが,当時の道徳を 基本的には遵奉していた観念論者であるバッハオーフェンと,唯物論に立つ革 命家エンゲルスとでは,母権制以後の歴史の歩みが全く別様に描かれたのは当
然であろう。
バッハオーフェンにとって,母権制は人類すべての揺藍期16)であり,「人々 の生活がまだ自然の調和から外れていなかった」,「自然における生の営み同様,
境界を設けることを知らない」17)世界だった。母権制に現われるすべての現象 は父権制を倒立させたものである。父権制が個体化を進めるのに対して,母権 制に現われる現象は類型的一普遍的であった。その違いは,父が子供を精神的 な側面で受け入れるのに対して,母と子のつながりは専ら生理的,先天的であ
り,母は「自然」のように子供を受け入れられるから,と説明される。母性愛 は人類の野蛮状態における最初の「愛と結合と平和の神的法則」(das g6t−
tliche Prinzip der Liebe, der Einigung, des Friedens)18)であり,従って母と子
の関係を基本に成り立っている社会も自由で平等であると称揚される。
バッハオーフェンが描く有史前の女性は,母親=「自然」として,すべてに 開かれた存在であるばかりではない。単婚が一応制度化された母権制に先立つ,
さらに文化の低い段階として彼はヘテイレの時代を措定したが,ヘテイレ(古 代ギリシアの高級娼婦,さらに古くは婚姻外の性一般を意味した)の女性は,
性に対して身を閉じることが全くなく,乱婚を営んでいたという。「神話の伝 承は(……)高い信頼度に裏付けられた,真実の歴史の資料」19)であり,「神話
はあらゆる発展の始まりにある」,「あらゆる文明の唯一の強力な挺子は宗教で ある」2°)と主張するバッハオーフェンは,母権制を大地の女神デーメーテール 崇拝,ヘテイレ期をアジア出身の女神アプロディーテー崇拝に結び付けた。だ が,奇妙なことに,ヘテイレ期が母権制へ移行した原因は人間の心理的な側面 に求められ,女性が性の規律を望んだためであるとされている。
母権制から父権制への移行は,歴史を観念が進歩していく過程として捉える バッハオーフェンにとって,最も重要な転換点である。母権制の基盤であった
「自然」は,父権制の生みだした「精神」によって,乗り越えられなければな らない対象になる。この推移は,大地の表象に結び付いた母権制宗教から宇宙 に表象を求めた父権制宗教への移行に対応する。父権制の開始期を代表する神
は,女性とのつながりから自由になったアポロと,父から生まれたアテネであ る。こうして,文明が始まって以来,父権制の歴史が続いてきたことが,バッ ハオーフェンにとって歴史の進歩を証明していることになる。父権制の中でも 母権制は常に場面を移しては部分的に復活していた,と云うとき,おそらく彼 は,当時,特異な存在であった婦人運動を意識していたのであろう。彼は父権 制を称揚して歴史の概観を締めくくる。
(……)自然の重力に打ち勝ち,人間の使命の最高の目標一地上的な存在形態を神的な 父権原理の清浄さへ高揚させること一に到達することが,あらゆる時代の様々な宗教の 支配下にある人類にとって,如何に困難かが納得される…1)
懐古の中では,理想郷である「自然」は,結局,人間の進歩の内の一段階で しかなく,克服の対象でさえある。この自然に対する分裂した態度は,シラー の「素朴文学]と[情感文学」よりさらに遡って,カントの「芸術美」「自然美」
という分類に萌芽を認められる,西欧の伝統的な思考に沿うものといえよう。
バッハオーフェンは,自然に対する二様の心情の一方を母権に,他方を父権に 両極化させたのである。
『母権制』に見られるもう一つの図式はオリエント(「停止したアフリカ・
アジア世界」22))一オキシデント(西洋)の対比である。文化の前段階は常に オリエント(アジア,アフリカ)に結び付けられる。このため,父権制は必ず 西欧文明に固有の現象とされるが,母権制は父権制との対比においては,オリ エントに発祥の地が求められ,ヘテイレ期からの移行を描くにあたっては,そ の移行は西洋(Occident)の功績とされる。こうして,バッハオーフェンの父 権制一母権制,オリエントーオキシデントの両極化の中からは,女性一自然一 東方(アフリカ・アジア)という連鎖が浮かび上がってくる。
バッハオーフェンの論が現実の女性の地位を少しも改変しなかったこと,或 いは彼自身それを求めてもいなかったことはあきらかである。「女性」は「男 性」よりも低次の文化を代表していた。それでも,当時の秩序と性道徳からは,
明らかに否定されるべき,母権制とヘテイレ期を神によって導かれた時代とし て描き,その存在を学術的に証明しようと試みたことの社会的な衝撃はあった。
母権制とヘテイレ期は,19世紀の道徳では推し量れない,別の道徳に支配され た神聖な領域として人々の意識に上った。キリスト教の中で,マリア崇拝にも かかわらず,神が常に男性であったのに対して,母権制を導いたのは女神であ る。彼の論が,19世紀の市民道徳に飽きたらないものを持っていた人々のロマ ンチックな夢を育んだとしても不思議はない。さらに,彼の論は,「女性」と
「自然」を等しく見ることによって,従来の自然と文化・芸術の対立を巡る論 議に「女性」という項目を付け加えた。20世紀の初頭に現われた,性差につい てのジンメル,シェフラー,シェーラー等の評論は,バッハオーフェンの「女 性」像から基本的に逸脱することはなかった…3)彼らは,欠陥のある文明と自然 を対比させ,自然の調和を体現している「女性」をバッハオーフェンのように 既めることもなく,文化的作業の最終目標として絶対化したのである。『母権 論』は,文化に関わる範囲では,女性の力を認め,文学の中で,ヘテイレや母 権制を体現しているような女性が,「自然」のように絶対的,神秘的な力を
もって登場したり,現実にもそのような女性がミ文化的現象、として活躍する 素地を提供したのであった。
エンゲルスも『家族,私有財産および国家の起源』(1884,以下『家族』)の 中で,母権制を理想郷として描いた。それは,私有財産が存在しないという意 味においてであった。エンゲルスにとっても母権制は人類史の曙光の一時期を 画しているのであって,人類史の上では,文明以前,野蛮時代の中期までとさ れる。だが,バッハオーフェンとは異なり,文明と自然を対置させる観点は彼 にはない。原始の人間の家族形態と動物の家族形態の比較はナンセンスとして 退けられる:4)彼にとって,人間は意識をもつことによって動物の進化の線から 外れた非連続な存在であった。従って,人間の行動・心情を「自然」から解明 することに,彼は真っ向から反対した。社会の諸制度も人間に帰せられること になるのである。
『家蜘の中の,歴史を分けた一大転換点は,人間の間に所有の概念が生ま れたことであった。モーガンのインディアン社会の観察に基づいて,エンゲル
スは母権制を,未だ自身と他者の利害の分裂が行なわれず,権利と義務が一つ に融合していた原始共同体として描いたる)これに対して,父権制とは富と剰余 の一所への集中により支配と被支配の階層を生んだ社会である。その意味で有 史以降の歴史は,進歩ではなく,下降の方向へ向かったことになる。
革命家であるエンゲルスは,支配を受ける立場にある者に普遍的な人間を見 いだそうとした。それゆえ,一般人を意味するman=男性が支配してきた有 史の文明時代を相対化し,原始共同体社会における普遍的人間二女性を浮き彫
りにしたのである。たとえ先史時代の野蛮人であっても母権制の人間は,動物 とは明らかに一線を画す,意識をもった,普遍的人間として,エンゲルスの同 時代人に並び立つ。そして,諸制度が人間の作りだしたものであれば,その改 変は所有の概念と結び付いたものも含めて,望みえたのであった。母権制の人 間は将来特定されるべき空白の「人」でもあった。同著の中での女性は平和や 調和的性質を本性として備えているのではなく,何よりも男性の支配に屈しな ければならなかった存在,「所有」から外れた人間,しかも普遍的な人間とし て構想されたのであった。
* * *
(世紀末の女性の自伝)
ここに,三人の女性がいる。彼女たちは,社会史,風俗史,文学史のどれか で,或いは複数の分野に股がって,世紀転換期の「新しい女」として名を残し た人々である。三人とも,作家の称号を得ていたか否かに関わりなく,小説,
女性についての論文,評論,翻訳を通じて文筆の世界に身を置いていた。特に 彼女たちの自伝は出版的な成功を収めたか,研究の上でよく読まれる作品に なっている。
ケイ・グッドマンの概説によれば,自伝(Autobiographie)とは,市民社会 の勃興と共に生まれた文学のジャンルであるぎ)それは,まだ社会の中で自身の 地位を自身の力で獲得しなければならなかった新興市民が内面的には教養を通
じて,外面的には社会での地位を得るという形で,自己の存在証明を掴むまで
の闘いの歴史を描いたものだという。そして,自伝文学以前の「自分」を語っ た文学は,宗教告白であるか,外面的な事象に対象を限った,職業上の成功潭,
冒険小説の類とされる。市民の自伝(Autobiographie)に対しては,貴族の回 想記,覚書(Memoiren)があった。自伝が,宗教告白,職業での体験,冒険 の要素のすべてを併せもち,アイデンティティの問題を抱えているのに対して,
貴族の回想記は,自己存在の証明を求めて闘う必要のなかった人々が,身の周 りの世界(宮廷・軍)に起こった事件を綴ったものである。
ここで,初期市民社会に女性の置かれた状況を顧みて,グッドマンは言う。
「公共の場に身を置くことができなかった女性たちが自分の生活をどのように 公に語ることができようか?」27)自伝が,自他共に向けられた自己存在証明の 獲得の過程を描いているのであれば,原則として家庭の外に身を置かなかった 女性は,それだけ,家庭の外へ向けての自己証明を動機づけられる機会も少な
く,その意味で自伝から遠のいていたといえよう。
こうした中で,女性が自伝を書くことは,それ自体矛盾と緊張を孕んでいた。
自分の生活を公に向かって語ることは,話者と公との接点が既に存在していな い限り,新しく公と関係を切り結ぶことである。また,公とは,女性が家庭内 に限られていた女性の自己存在証明を否定したときに向かう場でもあった。し かも,やはり,自身を書くことは,自分とは何かという問いかけにぶつかるこ とであった。新たな,そしてしばしば反社会的なアイデンティティの形成とい う緊張を和らげるために,女性の自伝が虚構の形に包まれていたとしても不思 議はないだろう。他方,女性の活動範囲が私的な領域に限られていたことから,
女性の書いた小説も著書の体験と直接結び付けられた。女性の著した文学の中 で虚構と自伝が絢い混ぜ合わされてきたのであるき8)
19世紀後半から世紀転換期にかけて,女性が公職に就き,家庭婦人としても 公共の文化に寄与していることが,社会の認識になるにつれて,女性の自伝が 受け入れられやすい地盤ができていったと言えるだろう。だが,基本的に女性 の領域として,「公的」に対立する「私的」領域をおいている社会において,
女性の著者が社会との摩擦なく描くことができたのは,公的な活動(職業・社
会的,政治的活動)に接した場面に限られていたのではないかと想像される。
社会から彼女たちに割り振られた私的領域も,公・私の間に当然あったであろ う葛藤も沈黙に閉ざされるか,変形を受けたであろう。その公的な地位が,ま だ確保されたばかりの危うげな状態では,その事情は納得される。
『ある社会主義者の回想』 リリー・ブラウン
日本ではあまり紹介されることのなかったリリー・ブラウン(1865−1916)
は,ドイッの社会主義婦人運動の指導者クララ・ッェトキンのライバルとして,
近年,婦人運動史のなかで研究の進められた人である:9)主著には1901年に出版 された『婦人問題一その歴史的発展と経済的側面』と,1909年,1911年の2回 にわたって公表された回想記『ある社会主義者の回想』3°)がある。だが,没後 1922年に出版された彼女の五巻本の全集は,婦人問題についての論は一つも収 録せず,回想記,小説,悲劇,叙情オペラから成るという。彼女の文学への志 向が窺われる。
『ある社会主義者の回想』(以下『回想』)は,実在の人物の名前だけを変え て書かれた自伝である。自伝を書く意図は,「息子に寄せて」と題された序文 の中に,述べられた。
私の日記帳は私の生涯にずっと付き添ってきた。(……)そこに書かれた簡潔な覚書は 全く味もそっけもない事実を並べただけだが,思い出が人生のこもごもの場面で一杯に なるときそれを縁取ってくれる額縁である。その中からは,私自身が私を見つめている。
世間に棲んでいる,称賛と呼ばれたり憎悪と呼ばれたりする下手な肖像画家によって歪
められないで:1)
『回想』はこの日記帳を元に書かれる。自分を見つめている「自分」に向か い合い,それを見つめ返すという作業の中には,自己の存在証明を求めるとい う,自伝にとって普遍的ともいえる欲求が込められている。だが,その欲求を 作りだした,そもそもの動機といえば,世間に対する自身の立場の釈明であろ
う。この自伝の一部が書き上げられたのは,既にクララ・ッェトキンとの争い に敗れ,社会民主党(SPD)の仲裁裁判により最終的に党生活から退いた翌
年であった。
私は人から恨まれた。(……)皆は私を裏切り者だという。だが,私には彼らの方が不 誠実に思える。どちらが正しいのだろう,彼らか,私か。その答えを得るために,私は 自分の存在の根の奥から,一番離れた枝の先までよく調べたいのだ。そうしながら,私 はいつでもお前のことを考えているだろう,おまえが大人になったとき,私を理解して
くれるようにと:2)
さらに,自伝を書かせた第三の要因として,彼女の文学への志向がある。彼 女が文学の様々の形式で作品を試みていたことは先に触れたが,この回想記に
は創作の跡が多く伺われる。内容の一つの中心となっている,彼女と両親との 争いは,自然主義の家庭悲劇の戯曲を思い起こさせる。だが,虚構性は既に 題名にも現われている。『ある社会主義者の回想記』という題名は回想記
(Memoiren)が貴族の自伝を指したことを十分意識した命名である。彼女自 身,貴族出身であったし,事実,「貴族」は作品の中で重要なテーマとなる。
「回想記」に「社会主義者の」(elner Sozialistin)という規定語を加えること によって,この題名自体に,「貴族」「社会主義者」という,二つの,社会的に は対立する概念が統合されることになる。そのどちらでもあるという主張が込 められるわけだが,この統合は現実のレヴェルでは不可能であるわけだから,
題名自身が現実を超えた地点を指さざるを得ないのである。他方では,序文で 自伝であることが断られている。いわば,かなり意図的な現実と虚構の二重性 の中で『回想』は書かれたことになろう。彼女が親しんできた女性文学,自伝 文学双方の素養の総てがそこに注ぎ込まれた。『回想』には,伝統的に女性の 表現手段である手紙が多く現われ,また,「回想記」の名にふさわしく,自身 の家族の由来から書き起こし,年代記風の構成がなされている。
1909年に出版された『回想』第一部は,自身の生い立ちから,最初の夫と死 別するまでを振り返っている。リリー・ブラウンは1865年7月2日にプロイセ
ンの将軍の娘として母方の祖先伝来の城で生まれた。母方はやはりプロイセン 譜代の大地主であり,父方は財産を持っていなかったとされる。即ち,彼女の 家は,家柄は申し分ないものの,常に経済的な不安を抱えた,上流と中流を行
き来する,流動的な階層に入っていた。リリーは裕福な叔母の財産の相続人と して,上流の令嬢になることを期待されていた。そこで,お稽古事を習い,叔 母の許で行儀見習をさせられ,当時の裕福な家でそうであったように,家庭教 師をつけてもらった。年頃になってからは,乗馬を楽しみ,上流の社交界で戯 れの恋を幾つも経験して,日常生活の中で青春を満喫している。だが同時に彼 女は,家庭の中に窮屈を感じ,隠れて新思想を読み耽った。自由に憧れながら も自身の階級の価値観から抜け出せない葛藤がそこに生まれた。『回想』に引 用された23才のときの手紙で,「私は働いていないし,生きてさえいない,生
かされているのだ。」(lch arbeite nicht nur nichts, ich lebe nicht einmal, ich
werde gelebt!)と嘆いた彼女は,切実に家庭の外での活動を求めていたが,
いざ,経済的な自立の道として「貴婦人の同行者,家庭教師……」と列挙され ると,尻込みしてしまう。
涙が沸いてくるのをどうすることもできなかった。もうとっくに,他に道のないことは 感じていたが,こういう唯一可能な働き口を事務的に列挙されると,改めて呆然とする。 一
この可能性というのは私にとっては不可能なことなのだったき3)
彼女に転機が訪れるのは,父の退役後,窮乏に見舞われ,心機一転のため,
一家でベルリンへ上京してからである。そこで彼女は,文才を認められ,作家 になる機会を得るが,さらに重要なことは,大学教授のゲオルクと知り合った ことである。ゲオルクを通じて,彼女は男女平等の思想,アメリカやイギリス での婦人運動の現状に触れていく。また,無神論の立場でありながら,先験的 な倫理の存在を主張するゲオルクに協力して,「倫理協会」を創立させる。こ うした交流の中で二人の間に愛が芽生えた。彼女の両親は,社会主義者に同情 的で,体の不自由であったゲオルクを認めないが,二人は結婚する。以後,リ
リーは婦人運動家かつ「倫理協会」役員として,公的な活動を始める。
リリーはまず,穏健な「婦権協会」に加わった:4)これは,彼女の描写によれ ば,婦人に医学の研修が認められるよう請願を繰り返す,中産階級以上の婦人 の穏健な集まりであった。婦人参政権を訴えていた彼女は,同協会の態度に物 足りなさを覚える。他方,夫の創設した「倫理協会」も,社会主義に同情的で
あった夫の意向を離れ,非政治的な,一種の教会運動に活動を限ることになる。
二つの協会に共通していることは,非合法の長い歴史を持った社会民主党との 関わりを,極度に恐れたことである。
主人側として指示するとき以外は,労働者に直接,接触したことのない生ま れのリリーも,社会主義者に対して恐れをもっていた。人類愛の気持ちから,
援助や奉仕をしたいと思っても,「彼らの隊列の中に組み入れられることには,
戦1栗を覚えた」と告白している。そのような彼女も夫の手引きで,社会主義の 文献を知り,ある集会で,社会主義婦人運動の指導者,オティリエ・バーダー
と知り合うことで,労働者の世界へ入っていく。彼女にとっての,婦人運動と 社会主義のつながりは,以下の彼女のことばにあらわれていると見てよいだろ
う。
私たち[女性]が政治上の権利をもっていないことや経済的に依存しなければならないこ と,私たちが社会のなかで抑圧されていること,こういったことすべてのために,私た ちは自分の意志に関わりなく,権利を剥奪された人々の側に立っているのです。その上,
私たちのもっている母性的な感覚を通して,私たちはより一層,窮乏や悲惨を透視して いるのです。女性がいれば,一世界があるのです15)
この女性観は二つの合い反する傾向を抱えている。まず,彼女は女性のすべ てを無権利者と同列におくことにより,女性を社会主義運動の担い手にも,運 動により解放されるべき対象にもした。たとえ,上流階級の女性であっても,
階級の利害を直接代表するのでも,利益を直接得るのでもないという点では,
この主張には説得性がある。だが,逆に,依存している側の方が,周辺的存在 であるがゆえに,自分の属する階級の利害や価値観に一層強く縛られて,依存 から逃れるよりは,依存させてくれる者の繁栄に自身を同一化させることも一 般に見られる現象だということは,気づかれていないか,些細なこととして黙 殺されている。
次に,彼女は,女性すべてが社会的悲惨に対して,鋭敏な感覚をもっている ため,いわば生まれついての社会主義者であるという意味のことを云おうとし ている。この主張の前提になっているのは,女性すべてが「母性的」である,
という,また別の主張である。前文では,救われるはずであった女性は,ここ では母親として,社会の悲惨に手を差し伸べる存在になっている。無産階級に 対しては,同志から慈善者へ変貌するのである。
ここで,貴族であった彼女が社会主義者へ転向したときの意味が問われる。
エンゲルスが「所有する人間」の代わりに「所有しない人間」を普遍的な人間 像として浮かび上がらせた意味は,この二種類の人間の間に横たわる淵の深さ ゆえに生じたものであった。リリーにとって,その淵は「女性」が埋められる のであった。それは,女性が財産に関しては何ももたないから,しかし母親と しては,すべてを与えることができる存在とされたからである。まさに,「女 性がいれば,世界がある」(Hatten wir die Frauen,−wir hatten die Welt!)
ことになる。自身の出自である階級と無産階級の間の対立は彼女には存在しな い。彼女が社会民主党へ入党した1896年は社会主義鎮圧法は既に廃止されてい たものの,前年に,婦人の結社及び集会を禁じる法が改めて発布されており,
厳しい情勢下であった。だが彼女のこの選択は,労働者の外観を思い起こして 恐怖を覚えた頃からの内面的な変化をそれほど必要としなかったといえる。
夫を病気で失ったリリーが社会民主党(SPD)に入党した後,クララ・ツ ェトキンとの確執から結局,党活動を断念せざるをえなくなるまでの経過を綴 ったのが,『回想』第二部である。随所に,第二の夫との結婚生活,出産,育 児の体験といった私生活も織り込まれている。またSPD婦人部の様子も語ら れている。婦人部は当時まだ非合法だったこともあって,SPD内で片隅の存 在だったこと,男性の同志が女性の運動に無関心で,蔑視する者さえあったこ と,一方,婦人部では,クララ・ツェトキンの意志が絶対であり,他の女性党 員はただ,彼女に従うだけで,政治や思想を語るよりも,内輪のゴシップに興
じていたこと等,生々しく描かれる。自身の理念を実現するために活動の場を 移しただけの感のあるリリーと,階級闘争の土台の上に婦人運動を築こうとし たクララとの関係は初めから緊張を孕んでいた。リリーの提案・企画は,こと ごとくクララの反対にあって,潰え去られたことになっているき6)リリーはまず,
婦人労働についての情報センターを作ることを提案した。これは,彼女がまだ ブルジョワ側に立っていると見なされていたため,支持を得られない。彼女が 婦人問題について本を書くことも,ベーベルの『婦人論』と党の機関誌『平 等』が理論を充分提供しているのだから必要ないとされる。さらに彼女は,母 親が育児の期間に経済的な保障を得られるように,国家による「母性保険」を 設ける必要性を説くが,同志の反応は冷たかったという。最後に,彼女は働く 母親のために,個別的な家政機能を協同組合にまとめるという提案をおこなっ ているが,『回想』の中では,再び冷たい反応に遭っている。
彼女の提案を見ていくと,中産階級の婦人運動に加わっていた頃にまして,
母親を社会改革の中心に据えていることがわかる。
婦人が職業につくことは,機械によって,生産方式が革新されたために生じた。この新 しい生産方式の下で,婦人労働はますます必要になっていくだろう。だが,婦人労働の 普及は,同時に家族の従来の形態をむしばみ,(……),人類の存続を危機に晒している。
人類の存在条件は健康な母親なのである。結局,自分自身を放棄するか,資本主義の経 済体制を放棄するかの選択しか残されないことになろう17)
彼女が資本主義を攻撃するのは,それが,機械を据えた工場を作ることに よって,母親を家庭から奪ってしまったからである。この状態は,別の経済体 制にならない限り,改善されないというのが彼女の認識である。それでは,彼 女が未来の社会の経済をどのように想い描いていたか,その点は明らかではな い。寧ろ,彼女の論は,20世紀初頭に輩出した文明批判論に足並みを合わせて いたというべきだろう。母親が家庭へ復帰できるのであれば,かって経済を規 定していた農業共同体も家内制手工業も歓迎されるのである。
このように,母親を社会の絶対的な根幹に据えた彼女が,母親と母親でない もの,既婚者と未婚者の間にも絶対的な区別を設けて,同性者を評価する基準 としても不思議はない。初期の婦人運動が,特に中産階級において,独身者に 担われていたにも拘わらず,リリーにとってこのような個人の肉体の歴史と身 分法上の地位は形而上の意味を持っていた。結婚と出産の体験は絶対化され,
この体験の有無が,婦人の問題について論議し審判する資格の有無に繋がる。
だがこれは「母親」によって,社会改革を行なおうとした立場を守るために身 につけた,いわば公向けの感覚であったともいえるかもしれない。二番目の夫 との結婚生活を送る難しさから,結婚制度に対する疑念が度々,表明される。
「結婚は日常を,愛は祝祭気分を必要としている」,「他の生活形態同様,それ
[結婚]も,進歩する過程において壊れてしまっても構わないではありませんか,
核にあるもの,即ち愛が保たれてるのならば。」という発言の中で,単なる可 能性として挙げただけであっても,彼女は婚姻外の性の営みを容認し,既婚者
と未婚者の線引きを自らぼかしている。
リリーは,婦人部でもSPD全体の中でも修正主義者の烙印を押されて活動 を停止させられたときに初めて,公の自分,私の自分の区別から離れて,自己 のすべてを総決算することを迫られたといえよう。ここで,彼女は「貴族」と いう概念に取り付く。その「貴族」は社会主義者に対立する概念ではない。彼 女が社民党に入党したことによって,幼時から定められていた叔母の財産の相 続権を失った時,その犠牲の深さが,逆に彼女に社会主義者としての揺るぎな い存在証明を与えていた。だが,党生活から退いた後に至った「貴族」は「社 会主義者」をも包括するもっと強烈な存在証明となった。
私は貴族であったし,あり続けてきたから,貴族とユンカーの区別もつけられるのです。
フッテン,ベルリヒンゲン,ミラボー,ラファイエット,(……)この人たちは貴族で した。それは自由な君子だったということです。君侯の下僕ではなかったのです。(…
…)私は死ぬまで,あの下男のユンカーと闘いますま8)
貴族は財でも称号の問題でもないという。だが,彼女が自己の存在証明を得 るにあたって,自身の貴族の出自があればこそ,自由と人類愛の象徴としての
「貴族」に自己を同一化させられたともいえよう。そのとき,人類愛の対象と なる,「貴族」とは縁もゆかりもない人々がどのような自己の存在証明を得る のかという問題は,もはや,彼らとの直接のつながりを失った彼女の思考に浮 かんでこない。現実には,当時のSPDの女性党員が,党内部においても,個 人としてより,一人の強烈な指導者の従属集団として存在したこと,従って党 活動を通じても自己の存在証明を得られなかったであろうことは,リリー・ブ
ラウンの描写に沿う限り,明らかである。だが,エンゲルスの提唱によれば,
社民党の活動は,自己の存在証明の手段を断たれている人々に,社会や歴史の 与えなかった存在証明を奪回する試みでもあったはずなのである。
『エレン・オレスティエルネ』フランチスカ・ツー・レヴェントロフ
リリー・ブラウンと同じように,世紀末の「新しい女」に数えられたフラン チスカ・ッー・レヴェントロフ(1871−1918)も自伝的小説といわれる『エレ ン・オレスティエルネ』(1903)を残している。フランチスカもまた,シュレ スヴィヒ州フーズム周辺の郡長であったレヴェントロフ伯爵を父に,他伯爵家 の令嬢を母にもつ貴族の出身であった。彼女は画家を志し,ミュンヘンのボヘ ミァンとして名を残した:9)画家としては成功しなかったが,生計を支えるため の仕事として,アナトール・フランス,モーパッサンの翻訳を手掛け,社会評 論と四編の小説を発表している:°)
彼女の最初の小説となった『エレン・オレスティエルネ』は著者自身の生い 立ちから,家出,結婚 ミュンヘンでの自由奔放な生活,離婚,息子の出産ま でを綴った自伝的小説とされている。書かれた内容が歴史に重なることもさる ことながら,小説中に著者の実際の日記や手紙が引用されているからである。
特に,第一部は主人公エレンが概ね三人称で語られるのに対して,第二部では 手紙・日記の多用によって,エレンはほとんど「私」として登場する。だが,
こういった小説の構成を離れてみると,著者にとって,この作品が決して,記 録としての自伝ではなかったことがわかる。リリー・ブラウンは『回想』に序 文をつけ,自伝であることを断っているが,ここにはそのような断り書きはな い。芸術家であったフランチスカにとって,『エレン・オレスティエルネ』は,
たとえ自身の記録を織り込んだものであっても,一つの独立した「作品」とし て意識されていたと思われる。この小説を書くように彼女に勧めたとされる親 友ルートヴィヒ・クラーゲスに,執筆中の彼女は次のように書き送っている。
親愛なるお友達,怒らないでください,でも,修正作業はやはり自分でやりたいと思い ます。多分,これはヒステリーなのでしょう。でも,ちょうど,誰かが,私のスケッチ
に,それが私より数倍上手であっても,線を描き込むときに味わうような,それに似た 気持ちがするにちがいないと思われてきました11)
彼女はキャンパスに向かって線を描いていくときと同じ姿勢で,「書く」こ とを望んだ。この手紙に先立つ書簡では,同じクラーゲスに,原稿を査読し,
「どれを入れて,どれを省くか」一緒に決めてくれるよう,依頼しているが,
これも,自身の作物を外側から点検することで作品たらせようという,芸術家 としての意志の働きかけを感じさせる。
自伝を書く者にとって共通の,自己を認識する欲求も,彼女の場合,彼女の 芸術観と切り離して考えることはできない。彼女にとって,芸術は,「自己」
という「神聖な大聖堂」へ至る手段であり過程であったということは『エレ ン・オレスティエルネ』の中で繰り返し認められている。その結果,彼女はこ の作品中で,自身の生を,造形作品として,創り上げる一方で,時間の中で移 ろっていく自分を呑み込んでいる巨大な,しかも到りつくべき「自己」にも結 びつけている。描く対象である自己とのこのような緊張関係は,だが,決して 作品そのものの出来栄えに良い影響を及ぼしていないことを,この作品の書評
を書いたリルケが友人への手紙の中で語っている。
フランチスカ・レヴェントロフが自分の人生をようやく小説にして語りました。(…)
この生のもつ価値は,潰されることなく,生きられたということに尽きますが,それも,
その生の舵を握り,その生に悩み,結局はその体験を通して芸術家になることもなかっ た当人から語られると,必然性のほとんどを失ってしまうのかもしれません。この生と それを育んだ環境の中で,主人公は最重要ではなく,当人を超えたところに,当人も全
く理解していない生が生起していくように思われます12)
「今は書き留めているが,(…)私の手が私から遠く離れる日が来るだろう,
(…)今度は私が書かれることになろう。」43)という主体と客体の狭間に立つ葛 藤と,創作者である自身が客体へ転落する恐怖は,フランチスカにもあった。
だが,ここには,後に述べるように彼女の女性論も介在してくるのである。
『エレン・オレスティエルネ』も,リリー・ブラウンの『回想』と同じく,
主人公エレンの生まれた城の描写から始まっている。画家であった著者が場面
から場面を印象的な視覚像で結んでいったのは当然であろう。子供のエレンを 取り囲んでいるのは,城の展望台から見られた北海とフーズムの荒れ野であっ た。そこは,彼女にとって,親の許可がなければ行ってはいけない所であり,
彼女の活動を限っている家庭の外の広い世の中と重なり,自由の象徴として繰 り返し現われる。エレンも,リリーと同じく,上流階級の令嬢となるべく,母 の厳しい躾を受け,家庭教師をつけてもらっていた。そして,活動の範囲を家 政に限定され,従順な性格を要求されることに反発を覚え,自由に憧れたも同 様であった。
エレンは「親」に対立する,独自な「子供」の世界にいた。男の子よりも乱 暴で,荒っぽい悪戯を好み,城の中の古い牢獄や塔を巡り,仲間の弟や親友と 不思議な血の盟約や儀式を取り交わす。親が司る家庭に彼女は居場所を見つけ
られなかった。
小さなエレンは,本当に幼いときから,間違ってこの世に生まれてきたという予感を漠
然と抱いていた:4)
これが,小説冒頭の述懐である。家出は早い時期に考えられた。家出をして,
縁日に興行に来て,綱渡りを見せてくれたジプシーのサーカス団に加わること を子供時代のエレンは頻りに夢見る。
第二部で,思春期に入ったエレンは男友達を得ることで一層親からの自由を 希求し,他方では,ニーチェやイプセンを読むことで,逃亡の理論的裏付けを 得ていく。彼女にとって,「芸術に生きること」(der kunst leben)が,一つの
目標になった。それは,両親からの解放を意味すると同時に,「自己」を見い 出すという人生の目的と重なったのである。家出は,用意周到に準備されるが,
家出後の生活設計もなく実行された。以後,家族から絶縁され,父の臨終に立 ち会うことも許されないが,この処置は当時の中流以上の家庭が女性にとって 司法の場であったことを示してもいるき5)
こうして彼女は根無し草として,男たちとの愛の中に故郷と保護iを求める一 方,通常の社会の外で,気ままに無秩序に生きるボヘミアンの生き方を身に付
けていく。社会の中で自立することを,ことさら望んだわけではなかった。有 産階級の娘が当時就いていた職業を好奇心と冒険欲の命ずるののに覗こうとい う彼女は,旅行の同伴者の口を申し出た赤の他人の紳士と,ケルンのホテルで 不思議な一夜を経験したりしている。
第一部がエレンの現実の子供時代を綴ったものであるとすれば,第二部は,
社会から彼女に割り振られ,彼女自身も望んでいた「子供」という役を,その 一応の終結まで,描いたものといえるだろう。「親」との関わりを断ったとこ ろで,新しい世界を創ろうとした彼女が,自身を子供に同一化させたのは当然 であった。そして,当時「新しい生」を望んだ世紀末の思潮の中で,「子供」
が未来の象徴であったことも確かである。エレンは,髪型や服装,住居に全く 構わず,経済観念も零であるが,無垢な魂の持ち主の「子供」として描かれて いる。他方で,彼女は,社会に宙ぶらりんに引っ掛かり,社会から大人である アヴァンチュ ル
ことを拒まれ,保護の対象にもなれば,性的冒険の相手にもなりうる単身女性 として,求愛する男たちから「子供」と呼ばれたのである。短い結婚生活の伴 侶であったハインリヒが,彼女に専ら保護を与えようとしたのに対して,休暇 先の保養地やミュンヘンで彼女に出会った男たちにとって,彼女の自由奔放は 常に性的冒険の可能性に結び付いた。保護も冒険も求めていたエレンは,「故 郷」46)を体現していた夫との別離後,一方を求めるとき,必ず他方を期待する アヴァンチュヘルか,或いは,覚悟せざるをえない心境に到る。しかも,夫に自身の性的冒険を 告白した後,生死をさまよう大病に伏すという災厄の中には,社会の罰が暗示 されるのである『)「子供」でいることの軽やかさは失われ,「子供」であるが ための,ぬかるみを這うような苦しみを彼女は経験しなければならなかった。
救済は新しい恋人の子供を身籠ることでやっと来た。社会の中で「子供」であ り,あらされたエレンは,妊娠することで,「子供」の境涯を脱出するのであ る。常に一時的な憩いしか与えてくれなかった男たちに対して,生まれる子供 は「父親はもたない,私だけのもの」48)であり,「今まで経験したことのない安 らぎを私の内に感じ」49)させた。小説は息子の誕生で終わる。母子二人の貧し い部屋は啓示の降る「神殿」に変容し,「自己」という「大聖堂」へ至るべく