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: ドイツ経営学における経営社会学的思考の一萌芽

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(1)

ディートリッヒ労働共同体論に関する一考察(二)

: ドイツ経営学における経営社会学的思考の一萌芽

その他のタイトル Dietrich's Thought on "Arbeit‑Gemeinschaft"

(II)

著者 大橋 昭一

雑誌名 關西大學商學論集

巻 4

号 7‑8

ページ 580‑599

発行年 1960‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021737

(2)

ねばならない︒

ードイツ経営学における経営社会学的思考の一萌芽

I

ー労働共同体の経済的基礎I

前述のように︑経営の経済的活動をなすものは経営労働であり︑この経営労働によって生産された給付の対価と

して経営の受取るものが経営収益

( B e t r i e b s , E r t r a g )

題である︒ところでディートリッヒは経営の社会的側面たる労働共同体達成の経済的要件として収益配分の問題を

あげている︒従って︑われわれにとっては︑この両者がどのような関連においてとらえられているかが問題なので

あるが︑そのためには︑経営労働と経営収益とをディートリッヒがどのような観点から問題にしているかが問われ

ディートリッヒによれば︑経営労働には技術的存在たる側面と経済的存在たる側面との二側面とがある︒

( S

. 1

3 6

,

2 )

この両側面は現実にはもちろん統一されているが︑科学的認識のためには両者を区別する必要があり︑経営科

に 関 す る

経営の経済的側面は経営労働と経営収益の問

考 察 ロ

ディートリッヒ労働共同体論

四四

(3)

581 

方をみればなおいっそう明らかである︒

ただしここでいう経済的とは広義のそれであって︑

まず経営労働の一般的尺度としての労働時間の原理的考察とは︑

四五

( a r b e i   t s g e m e i n s c h a f t l   i c h e  

経営労働を対象とするのではな

学は︑経済科学の一部分として︑そのうち経済的側面のみを取扱うものである︒

題として︑経営労働の一般的尺度としての労働時間

( A r b e i t ' Z e i t )

と ︑ とくに取上げられ︑規範的︑演繹的に考察される︒それは︑資本の維持ということはすでに一般に認められている

( S . 1 1 7 )

人間の維持の問題のうちでもとくに労働時間と 労働賃銀とは原理的な体系と実際のそれとが最も著しく対立している問題であるから︑とくにその基礎となる原理 を理論的に確定する必要があるためである

o ( S . 3 5 7 )

問題はこの原理がどのような観点からのものであるかである︒

く︑狭義の労働︑人間労働を対象として︑その労働時間の長さ︑休憩︑休暇等の方法等を考察することなのである が︑ディートリッヒは︑指導理念たる経済性に従って︑労働時間の経済的決定ということをその基本原理として設

P f l i

c h t )

︑社会的義務

( g e s e l l s c h a f t l i c h e P f l i c h t )  

健康で活動的なものとして維持されること︑ 労働共同体的義務

を含むといわれ︑

( S . 3 6 2 )

具体的には勤労者が老年に至るまで

および経営生活外での正当な要求をみたすに十分な時間が労働者に残 されていることを意味するものとされていることから明らかなように︑

( s .

3 8 8

) ここでも維持︑経済的維持が基本的

原理とされているが︑それも経営的観点とか経営維持の観点というよりは︑経営肢体維持の観点であり︑

そして経

営肢体の維持という場合も︑労働力としての経営肢体の経済的維持という観点とともに︑社会的文化的︑ディート リッヒ的にいえば人間的な維持が基本的な観点となっている︒こうしたディートリッヒの考え方は︑収益の取扱い

口︵大橋︶

が︑人間の維持はさほど一般に認められていないためと︑

一般的目的としての収益との二つの問題が

( s .  

3 0 2 )

まず経営労働の中心的問

(4)

利潤の否定それ自体についていえば︑ からのみ考察されていることである︒

次の三つの意味がある︒

ディートリッヒ労働共同体論に関する一考察

て﹃売上高﹄

( E r l

o s )

口︵大橋︶

﹁経営が何人かによって受取られるなんらかの給付を行いそれに対する対価として︑すな

q u  

に等しいものであるが︑この収益によって経営費用

(B

et

ri

eb

s,

Au

fw

an

d)

3 1  

において表現されたる労働給付の価値が補償される︒

( S . 3 9 5

ところがディートリッヒは︑この収益と費用とは︑計

)

算的にも︑概念的にも一致するのであって︑

このような収益と費用との一致︑利澗の否定は︑

第一には経営における営利の否定である︒

すなわち貨幣

一般に前者が後者より大であることによって生ずる利潤

^ 引

r

は︑全く人為的なもの︑誤った計算の結果にすぎないと主張するのである︒

( S . 3 9 6 , 4 1 4 )  

5 1  

シェーンプルークのいうようにまさに人々を歴然たらしめる中

心命題

( v e r

b l i i

f f e n

d e r

K erns

at

z)

ではあるが︑ディートリッヒの考え方よりすれば前述の奉仕の理論や維持の原則 から直接出てくる当然の結論なのであり︑ディートリッヒの考え方︑そしてその労働共同体論の特徴を集中的に表 現するものである︒ではそれはどのようなことを意味するのか︒こうした考え方の最も特徴的なことは︑

B i

プルークやカインホルストの指摘しているように︑収益の問題が市場の側面からではなくて︑もっばら経営の側面

つまり︑例えば国家財政において歳出から歳入が決定されるように︑費用の 高さから収益の高さを決定するという考え方である

9

こうした考え方では︑ディートリッヒ自ら述べているように︑

となってくる︒

(

S . 3 9 9 )

収益の獲得や本質︑機能といった問題よりも︑収益の正当なる受取人を見出す配分の問題がより重要な問題

つまり︑収益の問題が分配理論の前提という意味においてのみとらえられることになるのである︒

後述の収益配分の項目をみてもわかるように︑

(G

ew

in

n)

 

一ックリッシュの﹃成果﹄

( Ertrag)

と同じ概念ではなく︑ わち要求し支払いをうける価格として︑

経営が受取るかまたは計上しなければならないもの﹂

収益とは︑厳密には︑ 四六

( S . 3 9 5 )  

(5)

583 

のは経営自体であり︑ には︑ディートリッヒ自身は﹁経営の維持﹂ということには経営を安定︑強化させるという意味とともに︑発展さ

( e n t

w i c k

e l n )

︑拡大させ

( a

u s

d e

h n

e n

) ︑形成する

e a 

実際には︑カインホルストの指摘しているように利潤の否定される結果︑経営の単なる維持のみが可能であって

拡大は困難になるのであるから︑経営自体としては蓄積発展の必要のないこと︑社会全体としては蓄積が行われる

としてもそれは経営の外部において行われ︑それによって経営もまた発展するという考え方であることになる︒こ

の考え方をさらに発展させば︑ディートッヒ自身にとって問題なのは︑経営そのものよりも︑経営に関係する人間

の維持であって︑経営はそのための手段としての意味しかもたないこととなる︒第三には︑利潤の否定によってい

わゆる企業者の否定を根拠づけ︑企業者を頭脳労働者として︑単なる経営の一肢体︑経営の一部分として︑

働者となんら異なるところのないものとすることによって︑経営共同体の思想を理論づけることである︒

が︑収益の分配がどのような観点から論じられるかが︑

S .

4 0

2 )

ただしその場 一方ではこのように経営は経営自

(E

ig

en

tu

m ︑R

ec

ht

de

s  B

e t r i

e b s )

 

( a u s

b i l d

e n )

ことを含んでいると述べてはいるが︑

( S

. 1

1 6

)

さらに次の問題である︒ディートリッヒは収益の分配の問

題を論ずるにあたって︑まずその前提として経営に対する所有権

アウニルバッハに従って展開する︒ディートリッヒは︑まず︑全体として考えられる場合には︑経営を所有するも

経営を支配するものは経営自身であると主張する︒

( S . 4 0 0 )

それ故収益はまず経営に帰属す

るのであって︑その経営から各経営肢体に分配がなされる︒ディートリッヒは︑

体に属するとしながらも︑他方では各経営肢体に経営に対する所有権があるものと考える︒

合︑経営肢体のうち物的肢体にはそれ自身のみで自己を代表する力がないという理由から︑経営の所有権は人的肢

ディートリッヒの収益理論においては︑

収益の分配がその中心的な問題となるのである

(6)

ディートリッヒ労慟共同体論に関する一考察

( S . 4 0 3

4 )

資本の投下

経営における人的共働

( S . 4 0 7 )

そして人的肢体に所有権が生ずる源泉として次の二者をあげている︒

一方では経営を所有するものは経営自体だとしながらも︑他方では人的肢体に経営所有権があるというのほ︑

体いかなることを意味するのか︒それは︑人的肢体はなるほど経営の一部でありあくまで有機的な一肢体ではある

が︑それと同時に︑経営外的な存在として︑それ自体として存在する経営に対して持分的な権利をもつものである

こと︑すなわち経営は経営肢体がその生活維持のための手段を獲得するために組合

( G e n

o s s e

n s c h

a f t )

的に経営す

q .  

るものと考えられていること意味する︒経営における人的共働によって労働者にも資本家同様経営所有権が生ずる

の方法で︑すなわち労働者も資本家であり︑経営所有者であるとすることによって︑経営共同体がふたたび根拠づ

けられるのである︒さらにわれわれは︑ディートリッヒがその理論の中心においている人間とは︑こうした意味に

つまり経営に対して二面的な関係にたっところの人間であることをここで確認しておく必要がある︒

こうした経営所有権にもとづいて収益の分配にあずかる権利が生ずる︒収益はまず二つの部分に分けられる︒

( S . 4 0

4 )  

て ︑

共働者に分配される部分

その労働を実物投資するという考え方なのである︒かくしてここでは︑

労働者は単なる雇傭関係にあるのではなくて︑

企業者が否定された場合とは全く逆 資本家が資本を投資するのと全く同じ意味におい

体のみが有しうるものとしている︒ 四八

(7)

S85 

国家︑地方自治体︑上部団体︵例えばカルテル︶等への強制的支出

予備基金の積立て

H

の共働者に与えられる部分は︑いうまでもなく基本的には前述の奉仕の理論︑維持の原則に従って︑各共働者

の給付のいかんにかかわらず︑共働者の維持という観点からそれが決定される︒例えば物的共働者のうち有形資本

に与えられる部分は︑⑱ディートリッヒが中心的報酬

( H

a u

p t

l o

h n

)

とよぶ貸付利子と副次的報酬

とよぶ危険に対するプレミアムとしての利子割増金︑⑮使用または消費に対する補償部分︑c災害や価値減少に対

^ 出

する保険部分の三部分から成っており︑その観点は純粋に経営肢体の経済的維持という観点であるが︑人的肢体に

与えられる部分においてはやや異なった観点が考えられている︒人的肢体に与えられる部分は︑賃銀

(L

oh

n)

と賃銀補償

( L

o h

n ,

E r

s a

t z

) とから成るが︑ディートリッヒは︑賃

銀には︑それが最大の部分を占めていることと︑原理と実際とが前述の如く最も著しく乖離していることとによっ

( 6 )   ( 5 )  

口︵大橋︶

第三の職分より生ずる︑社会に対する自由な支出

( 4 )  

③外部の共働者に与えられる部分︒例えば郵便︑鉄道等の外部用役費 ②  ① 

⇔の部分も次の四つに分かれる︒ 共働者には人的共働者と物的共働者があることによって日の部分は︑さらに次の二つの部分に分かれる︒

経営に保留され︑経営の職分遂行のために使用される部分

物的共働者に与えられる部分

人的共働者に与えられる部分

四 九

(N

eb

en

lo

hn

) 

(8)

る︒まず前払賃銀部分の決定要因として次の三者があげられる︒

⑳ 

生活費用

( L

e b

e n

s k

o s

t e

n )

のでない故決して正しいものではないとして︑ ( S

. 44 0 f f. )

いずれにしろディートリッヒは︑

( S . 4 4 "

a

それにかわるぺき賃銀額決定の理論を次のように提示す これらの理論がいずれも経営の本質︑経営の職分から導き出されたも ということよりも十分なものを受取ることが問題である︑

S . 4 3 7 ‑ 4 3

9 )  

て最大の注意を払う必要があるとして︑賃銀体系を詳細に展開している︒まず賃銀は二つの部分に分けられる︒経

営における労働という給付に対する反対給付たる奉仕賃銀

( D i e

n s t l

o h n )

と︑代替に対する補償部分に相当すると

a "

 

ころの︑経営から退職した後に支払われる年金的な恩給賃銀

( R

u h

e l

o h

n )

とである︒さらに奉仕賃銀は︑労働契約

にもとづいて前払いされる前払賃銀部分と︑年度の終りに年度決算のいかんに従って与えられる後払賃銀部分とか

S . 4

3 2 )

賃銀はもともと人的肢体に対する経営の反対給付であるから︑さきの維持の原則からいって︑賃銀の高さは基本

的には人的肢体を維持するに足るものであり︑またそれをみたせばそれで十分なものである︒こうした観点からデ

ィートリッヒは︑労働者が全労働収益に対して権利をもっているというオッペンハイマーの主張を︑第一に全収益は

経営に属するもので個人に属するものではないこと︑第二に各人がそれぞれなした給付に対する収益を全部受取る

という二つの理由から否定し︑

a "

 

賃銀は市場における労働の需要供給によってきまるというティレェの理論は︑人間は商品でない故市場法則のもと

にはおかれないという︑新歴史学派経済学者ロェスラーがアダム・スミス批判に用いたと同様の論点と︑市場法則

では経済性は考慮されない故経済性の阻害される危険の大きいという二点から受け入れがたいものとしている︒ 0

(9)

587 

第 一 表

珊 V I   > 

︱学校教育の不可欠のもの︑例えば機械労働者︒

‑ I

V より資任の重いもの︑例えば職長︒

一︑︑︑ドルマネジメソト的地位にあるもの︑例えば技師

一共同指揮者

] !  

監督者なしに物財の委託にあたるが︑その資任の

重い場合︑例えば倉庫の管狸人︒

J I  

I と同じく教育は不要であるか︑又はそれがあっ

てもごく短期間で表面的なものであるが︑ I と は

区別される特殊条件のあるもの︑例えば︑とくに 衣服費の必要な売り子や事務員︑又は運転手の如

くある責任のある場合等︒

ク ラ ス 内 その職務について教育が全く不要か︑又は有して

いないもの︑例えば肉体的︑精神的軽労働︒

ただし本表は筆者がディートリッヒの説明 (S.446‑451)の内容を要約して

作製したものである。

ろとなるのが︑第一の要因たる生活費用補償の観点であって︑ めに︑少数の者が多数の者のために喜んで放棄するという共同 ヒによれば︑全く資本主義的な方法であって︑これをなくすた の開きを例えば労働の需要供給にもとづく市場法則によってき る要因が︑第三の要因である労働共同体的梢神である︒もしそ

労働共同体的精神

(a

rb

ei

ts

ge

me

in

sc

ha

ft

li

ch

er

G e i s

t )  

まず口の職分的給付なる要因すなわち各人の責任︑教育︑知識等に関する能力のいかんによって︑全人的共働者

は七つのクラスに分けられる︒

( S . 4 4 4 )

(第一表︶各クラスの間で賃銀額においてどれほどの開きをおくかを決定す

( b e r

u f l i

c h e

Le

is

tu

ng

) 

めるとすれば︑最高クラスの賃銀額は最低クラスのそれの何倍 にもなるのであるが︑このような大きな開きは︑ディートリッ

体的精神がここで決定的な力として作用する︒

賃銀体系の基礎となる具体的な賃銀額を決定する際のよりどこ

( S . 4 4 6 )

そして

最低の場合でも生活上の個人的要求と社会的要求をみたすに足 る金額であることが要求されるとともに︑年令に応じて増加す ることが要求される︒以上三要因を加味してディートリッヒの

提案する賃銀体系の具体的な賃銀額が第二表のそれである︒

口︵大橋︶

(10)

の権利は繰越されないとディートリッヒがしているのは︑

第二表 前払賃銀の賃銀額

年 ] ぺ ご I J I   I ] [   i  │  │  V I  V i l  

1 7   I  7 2 0   │  7 8 0   │  ‑ │  840  │  ‑ │  ‑ │ 

2 0  

L  9061  9 6 0   I  1 . 0 2 0  1 . o a o   I  1 . 2 0 0   I  ‑ I  ‑

2 5   I  1.320 1 . 3 8 0   I  1.≪o ¥ 1.soo  I  1 . 8 0 0  2 . 1 0 0   I  ‑

30  I  1 . 6 2 0  / 1 . 6 8 0  / 1 . 8 0 0   I  2 . 1 0 0  2 . 4 0 0  3 . o o o  3 . 6 0 0  

3 5   I  1 . 9 2 0  1 . 9 8 0   I  2 . 1 0 0  2 .  1 0 0  3 . o o o  3 . 6 0 0  4 . 5 0 0  

4 0   I  2 . 1 0 0  2 . 2 2 0  2 . 4 0 0   I  3 . o o o  3 . 6 0 0   2 0 0  s . 4 0 0  

4 5   I  2 . 1 0 0  2 . 2 2 0   I  2 . 4 0 0  3 . o o o  3 . 6 0 0  4 . s o o  6.000 

第三表

I ][ V I   v n  

25  │  ‑ I  ‑ │  ‑ │  ‑ │  ‑

25 30  │  1 0   │  │  │  │  ‑

30 50  │  8  I  │ 

50 60  │  5  I  │  │  ‑ │ 

( S . 4 6 3 )  

S .

4 61 )

不合理であろう︒

定年退職後に受取る年金的な賃銀が︑第三の賃銀部分である恩給賃銀である︒ディートリッヒによれば︑維持と いうことには代替︑更新ということが含まれているから︑もともと各人がその労働能力のある期間中に受取る所得

るのであるから︑後払賃銀が与えられなかった場合そ 後払賃銀は賃銀の本質的な︑不可欠な部分をなしてい 従ってディートリッヒの賃銀体系では︑この

後払賃銀の賃銀額

補償の面がさほど強く考慮されていないためである︒ が上記の表に従って与えられることを予定し︑生活費 ほ︑正常な場合には当然後払賃銀の部分が残り︑それ れは︑ディートリッヒによれば︑もともと前払賃銀で 償的色彩が前払賃銀の場合よりも強くなっている︒そ

(年額,単位マルク)

(単位マルク)

生活費が多く必要な層が高額になっており︑生活費補 りここでは︑低クラスの︑そして年令の若い︑しかも の具体的な賃銀額が第三表のそれである︒みられる通 後払賃銀が与えられる︒ディートリッヒの提示するそ に収益が配分された後になお収益が残っている場合︑

口︵大橋︶

以上が前払賃銀の決定理論であるが︑さきの六つの収益使用項目のうち社会に対する自由な支出を除いた五項目

(11)

589 

ないという理由からであるが︑

( S . 4 7 2 )

これまた不合理であるが︑それはともかく︑一人者には年九

00

この退職後に備えて貯蓄される部分をも含んだ額を奉仕⑳ 賃銀として支払うべきものである︒

( S

. 4

4 6

)

しかし︑さきの賃銀額の中にはこの部分ははいっていない︒

リッヒによれば︑この部分は大体さきの賃銀額の一

0

%ぐらいのものであるが︑経営にとっては︑この部分だけ奉仕

賃銀を増額して貯蓄を各受取人にまかしてもいいが︑増額するかわりにそれ相当の部分を経営に留保しておいて本

人の退職後支払ってもいい︒従ってこの恩給賃銀は留保された奉仕賃銀であり︑賃銀の本質的な部分であるから︑

5 1  

( S . 4 8 7 )

ディートリッヒが少なくとも三十代半ば以前に入社したもののみにそれを受取る権利があるとするのは︑

この条件のあるものには六五オの定年後︑

6 1  

ク︑夫婦者には年一五

OO

マルクが原則的には一律に支給される︒与えられる額が一律なのは︑生活費には相異が

多額の金額を積立てた者が少額しか積立ててない者に譲与を

なすことになり︑共同体的精神からも望しい方法となるのである︒︵

. S 4 8 7 )

以上で明らかなように︑ディートリッヒのいう賃銀とは︑基本的には︑人的共働者の全生涯の生活を支えるもの

なのであって︑その決定に際しては生活費用補償が甚本的な観点とされ︑その上に種々なる要因が差別的要因とし

て設けられている︒しかしこうした生活の維持ということは︑個別経済たる経営そのものにとっては︑少なくとも

労働力の維持という観点を除いては殆んど意味のないものであり︑それはディートリッヒの奉仕の思想や組合的経

営観︑経営目的論を前提としてのみ意味のあるものにすぎない︒それに反して経営的観点からいって注目すべきこ

とは︑労働共同体的精神という社会的要因によって賃銀の相対的な格差が決定されるという点である︒この労働共

んでいるべきものであり︑

( S . 4 0 9 )

経営は︑本来ならば︑ は︑単にその時々の生活費用を補償する額だけではなく︑労働能力がなくなって退職した後の生活費の部分をも含

ディート

(12)

(5) 

( 心

(3)  (2) 

註 山

的側面を重要視していることを意味するものと考えられる︒

ディートリッヒ労働共同体論に関する一考察

同的精神は︑なるほどディートリッヒの説明によれば多分に相互扶助的なものであるが︑しかしそれが経営内の社 会的な側面に指向しているものであることは疑いない︒こうした社会的要因にしたがって賃銀の相対的格差が決定 される点が︑ディートリッヒの賃銀体系における重要な点であり︑

かれが経営の経済的側面の考察においても社会 労働時間の考察においては︑ディートリッヒはとくに

E

・アッベの経営社会政策を直接のよりどころとしており︑それに従

って例えば一九

0

0年四月一日ツアイスエ湯でアッベによってはじめられた八時間労働を︑アッベに従って力の消費が健康

的かつ経済的な方法で集中されうる最も短い時間︑すなわち適正

( O p t i m u m )

であるとし︑休憩は食事︑休養︑家庭的仕 事のための時間であるから大陸式に二時間にすべきこと︑また労働時間の延長については︑労働共同体となっている経営で はその必要性が認められれば従業員はそれに喜んで従事するし︑その場合の賃銀は︑規則的な賃銀が生活維持の必要額以下 でない限り支払う必要がない:………•と、独断的に断定している。

(S.362 ー 389) H•Nicklisch,

D i e   B

e t

r i

e b

s w

i r

t s

c h

a f

t ,

  S

t u

t t

g a

r t

  1

9 2

9

3 2 ,

s s .  

5 1

6 ,

  6

9 1

.  

ここでいう労働とは︑いうまでもなく労働には三つの担い手があるという場合のそれであって単に人間労働のみではなく︑

物的肢体の労働をも含んだいわゆる経営労働であるが︑

( s .

3 9 5 )

ディーリッヒが労働という場合のすべてがこうした意味の それではない︒すなわち︑前述の如くかれが経営を労慟共同体であるという場合の労働は明らかに人的肢体の労働のみを意 味するものと考えなくてはならない︒というのは︑それは経営の社会的側面︑人的側面についてのみいわれることであるか らである︒いずれにしろ︑ディートリッヒが以上のように﹃労働﹄という概念を︑用語上厳密に区別することなしに二様に 用いていること︑そして実際には前述のように人間労慟のみを︑しかもそれを主体的に人間に即して考ていることは︑看過 すべからざる重要な点である︒

このことをディートリッヒは次のようにも説明している︒経営と経営︑経営肢体︑社会に対する関係は債権債務的な関係で あるから︑債務の支払いにあてるべき収益の一部を債務を完全に返済しなかったために経営に留保しているとしても︑それ は決していわゆる利潤ではないと︒

( S

. 4

1 5

)

S c

h o

n p

f l

u g

,  

B e

t r

i e

b s

w i

r t

s c

h a

f t

s l

e h

r e

,  

2 .  

A u

f l

. ,

  S

t u

t t

g a

r t

  1

9 5

4 ,

S .     1 3 9 .  

五四

(13)

591 

U5) 

( 1 4 )  

(13)  (12)  (11)  (10)  (9)  (8)  (7)  (6) 

S c h o n p f l u g ,   a .   a .   0 . ,   S .   1 3 8 .   K e i n h o r s t ̀ D i e   n o r m a t i v e   B e t r a c h t u n g s w e i s e   i n   d e r   B e t r i e b s w i r t s c h a f t s l e h r e ,   B e r l i n   1 9 5 6 .   S .   5 9 .  

このことは︑分配が公正に行われさえすれば生産は増大するという新歴史学派的な考え方のうえにディートリッヒがたって いることを示すものであっても︑必ずしもディートリッヒが独占的経営の立場にたち︑それを対象にしていることを意味す るものとは限らないが︑しかし現実にはこうしたディートリッヒの理論の適用は︑アッベの経営社会政策がツアイス工場で

あったからこそ可能であったと同様に︑︵市原季一助教授﹁ドイッ経営政策﹂︱︱︱七頁︶独占的経営においてのみ可能であろう︒

K e i n h o r s t ,   a .   a .   0 .

̀ s .   5 9 .  

後述のようにディートリッヒは収益の使用項目として六項目を考え︑もしどうしても

G e w i n n

R e i n e r t r a g

という用

語を用いたいならば︑第六項目の社会に対する自由な支出がそれに該当するものであるとしているが︑

( s . 4 1 5 )

 

(

場合には

G e w i n n

は高い倫理的意味でのそれであるとしている︶いずれにしろそれは経営には残らないものである︒また

第五項目はいわゆる運転資金の予備的な積立てにすぎない︒

( S . 4 1 3 ) F .   A u e r b a c h ,   D a s   Z e i . 6 ' W e r k   u n d   d i e   K a r l   Z e i . 6 ' S t i f t u n g ,  

2 .   A u f l . ,   J e n a   1 9 0 4 , S .     9 4 5  

f f .

ただしディートリッヒの考

えはアウエルバッハのそれと全く同じではないと︑ディートリッヒは断っている︒

( s . 3 9 9 )  

こうした組合的経営観は︑前述の債権債務的関係という考えからもいえるのであるが︑いずれにしろこうしたディートリッ

ヒの考えの基礎にあるものは労資間における支配従属関係の否定である︒

収益と費用とは﹁計算が正しければ﹂一致するのであるから︑当然一致しないこともありうるわけである︒しかし︑収益の 多い場合は問題でないから︑問題は費用が多い場合である︒その場合には︑自由なる支出︑予備基金︑無形資本︑賃銀の順

で削減される︒

( S . 4 1 4 )

ところでこれら六項目の合計額が費用

( A u f w a n d )

であるが︑山ー④の合計額が原価

( K o s t e n )

であり︑山ー⑤の合計額が総原価

( S e l b s t k o s t e n )

( S . 4 1 7 )

これに対して無形資本に与えられる部分の内容は︑出発明や提案に対する報酬②特許権料等とされているが︑

( S . 4 2 2 )

ずれにしろディートリッヒほ賃銀には具体的な金額まで示しているが︑他のものについてはそこまで行っていない︒ディー

トリッヒが賃銀にいかに大きなウェイトをおいたかが︑ここからもうかがわれる︒

賃銀補償は︑自己の責任によらずして失業したところの︑恩給賃銀を受取る資格のない失業者に与えられる︒支払責任者は 失業を惹起した責任の所在のいかんによって異なり︑その責任が経営指揮者にある場合には経営指揮者に︑経営自体にある ディートリッヒ労慟共同体論に関する一考察

口︵大橋︶

(14)

( 2 6 )   ( 2 5 )   ( 2 4 )   ( 2 3

( 2 2 )   ( 2 I )   ( 2 0 )   ( 1 9 )   ( 1 8 )   I I  7 )  

(16) 

ディートリッヒ労働共同体論に関する一考察口︵大橋︶

場合には経営に︑経営にも責任のない場合には経済政策・社会政策の担当者たる国家に支払責任がある︒額は奉仕賃銀の額

かまたは不可欠な生活費を補償するに足る額︒賃銀補償のためにたとえ一部でも労働者に負担さす失業保険は︑責任を労働者に転嫁するものでいけないとしている︒

( S . 4 7 5 1

4 )

ディートリッヒは︑奉仕賃銀は資本に対する報酬(Lohn)に相当し︑恩給賃銀は使用または消費に対する補償部分および

保険部分に相当するものと説明し︑

( S . 4 0 9 )

労資同権を用語上でも表現するよう苦心している︒

F .  O pp en he im er ,  T

he

or

ie

  de s  Arbeitsl

oh

n,

 D

eu

ts

ch

e  Wi

rt

sc

ha

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ei

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, 

1 9 0 9

N

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1 8

,  

1 9

,  

A.   Ti l l e,   Di e  B

er

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an

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 u nd   de s  G ew er be

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st

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,  B

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n 

1 9 1 0 .  

H.   Ro

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 G ru nd le hr en   de r  v on e  d m  S mi th   be

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ch

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e,

 

2 .  

A uf l . ,  E

rl

an

ge

n 

1 8 7 1 ,  

s .  

1 0 3 .  

その内容は︑山衣食住の費用︑②社会的文化的費用︑③職業教育の費用︑山子供の養育費から成り︑奢修︑豪奢なものでは

なく︑健康的にして品位のある家庭生活を営みうるものとしている︒

( S . 4 4 2

4 4 4 )

その他︑例えば男女は同一賃銀たること︑

( s .

4 5 3 )

出来高給制は労働者に誠実さと義務惑のないことを前提とするもの故労

働共同体的精神にふさわしくないからとられない等︑

( S . 4 5 5 )

細部にわたって指示している︒

ディートリッヒによれば︑基金に積立てる場合その額は︑ツアイス工場では賃銀総額の七形であったが一般には五l六彩で

十分であるから︑

( S . 4 2 7 )

この面からもこの方法の方が経営には有利である︒

( S . 4 8 8 )

この恩給賃銀については︑例えば経営所有権は退職とともになくなるから︑経営としては退職時にそれに見合うものを支払わなくてはならないが︑その額を決定することは困難であるので︑そのかわりとして恩給賃銀を支払うという考えもある

が︑ディートリッヒはそうした考えは誤りであくまで賃銀の一部分だと強調している︒

( S . 4 3 3 )

ディートリッヒによると︑それは少なくも一︱︱十代半ばまでにはいわゆる旅稼ぎ(Wanderschaft)を終りどこかの経営に落

着くよう努めるべきためである︒

( s .

4 7 0 )  

もちろんこの額に固定しているのではなく︑法律上の養老年金が支給される場合はそれだけ減額され︑また反対に病気の場合や子供のその時の状態等に応じて増額される︒

( s .

4 7 3 )  

恩給賃銀は本人が死亡しても未亡人が死亡するまで支給される︒それによって︑ディートリッヒによれば︑未亡人問題が正しく解決されるということである︒

( S . 4 7 2 )

(15)

593 

活動に関与する権利が与えられる︒

( p 7 8

ー7 1 3 )

五 七

今日の用語によれば単なる 前者は経営肢体全員が参加するものである

(B

et

ri

eb

s,

Ve

rs

am

ml

un

g)

 

1

ディートリッヒはその著

^ ' B e

t r i e

b , W i

s s e n

s c h a

f t "

の第四部を

B e t r

i e b ‑

E t h i

k

いわゆる経営の倫理を扱

うものとしているが︑前述の如くディートリッヒにおいては倫理的とは社会的ということであり︑経営の社会的側

面は労働共同体として把握されている︒従って経営内部生活の倫理とは社会的な政策によって経営の社会的側面を

は︑経営労働の秩序についての決定に人的共働者を参与させることである︒

( s .

7 0 5 )

かくしてディートリッヒのい

l l  

う経営倫理とは︑具体的には︑今日いう経営社会政策の問題となるのである︒

ところで︑ディートリッヒによれば︑経営の人的構造は︑少なくとも大経営では下級経営肢体︑中級経営肢体︑

上級経営肢体の階層的組織から成る︒︵

S .

6 4

3 )

それぞれいわゆる政策︑管理︑執行の階層に相当する︒

( O b e

r l e i

t u n g

)

とともに広義の指揮層を形成する上級経営肢体には︑共同指揮者として経営全体の指揮に参加する

権利があるため問題にならないが︑問題はそれ以外の中級︑下級の経営肢体である︒そのためにディートリッヒは

経営社会政策の種々な方法を提案しているが︑そのうちとくに重要なものは経営総会

と共働者委員会

( M

i t

a r

b e

i t

e r

A

u s

s c

h u

B )

という二つの機関である︒

から︑厳密には中級・下級共働者のみの代表機関とはいえないが︑この総会を通じて全体として最高指揮者の指揮

me

n)

 であるとしているが︑

(S

.7

08

)

最高指揮者を拘束するものとはしていないので︑

この権利は︑ディートリッヒは実際上は共同決定権

( m i t

b e s t

i m ,

つまり労働共同体的精神を喚起することであるが︑

最高指揮者 ディートリッヒによればこれを確保する方法

(16)

( B e t r i e b s , S t a t i s t i k )

であっていわゆる経営の計数的管理の問題にあたるわけであるが︑狭義の経営指揮はいわゆ

る今日いう経営管理の問題に相当するものである︒ここで重要なのは後者の経営指揮であるが︑ディートリッヒに すなわちディートリッヒによれば︑経営指揮には広狭二義がある︒ する権利等が認められている︒︵

S . 7 1 4

ー7 1 8

)

広義の経営指揮とは簿記を含めた経営統計 中級・下級共働者の選挙によって委員が選ばれ︑

協力権

( m i t w i r k e n )

するものであって︑

山労働共同体の

( A r b e i t e r a u s s c h u B )

に相当 であろう︒第二の共働者委員会は︑一八四九年の営業条令

( G e w e r b e o r d n u n g )

場委員会

( F a b r i k a u s s c h u 1 3 )

や一八九一年の営業条令改正令による労働者委員会

( S . 7 2 0

7 2 1 )

中級・下級共働者の雇入れ︑

転任︑解雇︑希望条件と苦情の処理︑労働手段労働場所の使用方法について協力する権利︑

従って︑ディーリッヒが労働共同体の社会的基礎としてあげるものは︑ におけるエ

および福利施設を管理

いわゆる経営参加のことである︒ディー

トリッヒによれば︑労働共同体的蜆点よりすると経営には次の三段階がある︒

( s .

7 0 2 )

経済的基礎と社会的基礎とをともに備えた高度の労働共同体︑②経済的基礎は未だないが社会的基礎は存在する低

度の労働共同体︑③経済的基礎も社会的基礎もともに備えていない単なる経営である︒従ってディートリッヒは︑

労働共同体の基礎としては︑経済的基礎よりも社会的基礎の方をより基本的なものとしているが︑社会的基礎とは

いわゆる共同決定とまではいかない単なる経営参加のことである︒それ故ディートリッヒのいう労働共同体とは︑

少なくとも低度の労働共同体とは︑経営参加の認められた経営を指すにすぎない︒ディートリッヒが労働共同体の

社会的基礎としてそのような低度の条件をおいたのは︑人的構造の経済的側面たる経営指揮

( B e t r i e b s , L e i t u n g )

が︑倫理的︑社会的にきわめて高度なものであることが予定されているためである︒

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