Advertising Councilの成立過程 : 公共広告をめぐ って
その他のタイトル Establishment of the Advertising Council : About the Public Service Ad.
著者 中農 晶三
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 4
号 1
ページ 21‑35
発行年 1973‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023214
―公共広告をめぐって一一
中 農 晶
序
1970年代は, 広告の世界にとってむつかしい時代である。 アメリカの広告界は, 20世紀の初 期からなんども危機に見舞われてきた。 とくに1929年の大恐慌のあと, ひとびとが失業の不安 におののいているときに,広告はいたずらに消費の欲求不満をかきたてるものとして,激しく攻 撃された。
以来,広告はさまざまな経済的,道徳的理由で糾弾され,いくたびもピンチを迎えたが, 70年 代の危機は,従来の危機といささか異質であるように思われる。簡単にいえば,広告批判がビジ ネスのツールとしての問題から社会問題に移り,広告が社会的制度として,果して良いものかど うかがきびしく問われているように思われる。
FTC(連邦取引委員会)は偽りの広告をした場合,その広告主が自己負担で媒体のスペースと 時間を買い,訂正広告を行う罰を課している。消費者運動の旗手 RalphNaderは,広告の主張 については,いついかなる場合にも完全な立証をするように求めている。子供向けの食品広告に 関して,栄養研究家 RobertChoateは,製品の優秀さと栄養含有物の主張に規制を加え, 子供 時間帯の T Vの1時間当りの食品コマーシャルの数を制限し, この時間帯には売薬のメッセー ジを流さないよう勧告している。また媒体の料金構成が,大広告主を不当に利していないかどう かが,再び調査されている。さらに広告が大広告主側に,独占力と独占利潤を与える重要な要素 だという告発が, ワシントン筋に相ついでいる°。広告に対する法的規制と,公衆の側からする 広告の量と質に対する糾弾は,当然のことながら社会的制度としての広告の役割に,大きな疑問 が投げかけられていることを示している。
このような状況の下で,ハーバード・ビジネス・スクールの準教授 Stephen A. Greyserと リサーチ・アシスクントの BonnieB. Reeceが, 71年に,ハーバード・ビジネス・レビューの 読者のうちから, ビジネスマン2,700人を対象にして広告調査を行い,その結果を発表した2。
1) Stephen A. Greyser and Bonnie B. Reece "Businessmen look hard at advertising," Harvard Busi,iess Review, Vol. 49, 1971, p. 18.
2) Ibid., pp. 18 ff.
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それによると, ビジネスマンは現在でも,販売のツールとして広告の意義を認めているが,その 他の面,つまり広告の信憑性,社会に与えるインパクトなどについては,不安の念を表明してい
る。そして62年に同誌が行った同様の調査に比べると, ビジネスマンの広告に対する見解は,
より懐疑的になり,より非好意的になっている。 (62年の調査に比べると,主要な項目で,意見 が5ないし 10%反対の立場に移動していることが報告されている)。社会的影響に関する調査項 目では,広告は子供に不健全な影響を与え,ひとびとが必要としないものを買わせるという点に 賛成する意見が, 62年の調査よりも増えている。広告の内容に関する10年前と現在との比較の 項目では,悪趣味な広告,公衆の知性を侮辱する広告,いらいらさせる広告が増えているとした 回答者が多い。そして,回答者の 3分の 2以上が「広告の存在理由は,広告主に対する利益に帰 せらるべきだ」という哲学に,不賛成の意を表明している3。
調査の回答者であるビジネスマンの約90%が, 管理職ないし専門職である点を考えると,こ の意見は一見奇異な感じさえする。それほどに,アメリカにおける広告の危機感は強いのだ。
ひるがえってわが国の現状をみるとここにも広告の危機がじよじよにしのびよっている。FTC, FCC (連邦コミュニケーション委員会)の強い監視,連邦政府,州政府のあくなき規制立法と,
広範な消費者運動におびやかされて,広告主が神経過敏になっているアメリカの現状に比べると
,その危機感はさほど切迫していないが,やがてアメリカと同じ道をたどることは明かだろう。
迫りくる危機を回避するには虚偽,誇大広告の防止,クリニイティプの質的向上,政府による消 費者保護立法,その他の対策が必要だが,すでに数十年前にアメリカに成立している消費者保護 の自主機関 Better Business Bureauと, PublicService Ad (公共広告)りの実施機関である Advertising Council (広告協議会)の確立が望まれる。
とくに広告協議会についていうと,これは広告を通じて社会公共に奉仕することを目的にした 槻関で,広告主,媒体,広告代理店の三者で構成されている。広告主は金を,媒体はスペースと 時間を,広告代理店は制作業務を無償で拠出して,現代社会がかかえている難問を解決するため に,キャンペーンを実施するのが任務である。広告はその発生の歴史から,販売のためのツール として発達してきた。しかし,広告といえども,機能的にはコミュニケーションの一手段である。
そして大衆説得に,はかりしれない力をもつ広告コミュニケーションの機能を,商品販売以外の より高次の目的,すなわち社会が求めているものを達成するために利用するのである。そのとき にはじめて広告は,社会的制度としての有用性を認められるだろう。とはいっても,アメリカの 広告協議会が,十分その方向に役立っているとは思われない。だからこそニクゼクティプの間か らすら,広告の悪しき社会的影響が指摘されるのだ。その原因はなにか? 広告協議会の成立の 過程から,その原因と思われるものを探ってみたい。
3) lbid., p. 24.
3) 「公共奉仕広告」と訳したほうが,意味が明瞭だが,一般に「公共広告」と呼んでいるので,それに 従う。
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I
アメリカにおける広告の最初にして最大の危機は, 1929年の恐慌につずく 30年代に訪れた。
29年10月29日の株式取引所の大暴落に端を発した経済の崩壊は, 33年の春まで間断なくつず いた。連邦政府の労働統計局が作成した指数をみると,当時の社会状況が端的に現れている。そ れは1926年を100とする指数を基準年度として,用いたものである%
卸売物価 雁 用 給 与 1929年平均 95.3 97.5 100.5 1930 // 86.4 84.7 81.3 1931 // 73.0 72.2 61.5 1932
64.8 60.1 41.6
1933 // 65.9 64.6 44.0
,,ヽロルド •U• フォークナー著,小原敬士訳
「アメリカ経済史」(下) 1969, p.833
この指数のなかで,扉用に関するものを人数で 示すと「AFLの推定を用いれば, 1930年10月 には, ほぼ463万9,000人が失業していたことを 意味した。その数は1931年10月には777万8,000 人に高まり,また1932年10月には1,158万6,000 人に, 1933年の初めには1,300万人以上になった。
このような推計は4,800万人をやっと上まわって いた1919年の総労働力と比較すべきである」2。 想像を絶する失業状態のなかで,ひとびとは商品よりも仕事を求めていたのに,広告は消費を推 奨するうるさくて,いらいらさせる声として受けとられた。ひとびとはなによりも金を求めてい た。 29年以前に購入した商品の月賦返済がまだ済んでおらず,その支払いに四苦八苦していると きに,新型の自動車や,ぜいたくな化粧品の購入をすすめる広告は,腹立しさを呼び起す以外の なにものでもなかった。しかも当時の広告には,虚偽,誇大広告が氾濫していたので,一層ひと びとの怒りに火をそそいだ。
1933年3月4日に FranklinD. Rooseveltが, ニュー・ディールを約束して,大統領に就任 した。ニュー・ディールの目的は,まずひとびとを悲惨な不況から救出し,破局を招くもととな った経済的弊害を是正することにあった。この目的に関連して,経済体制の均衡を保っために,
労働者や農業のような弱い部門を強化し,いっぽう金融や産業部門を強力な政府統制のもとにお くことが計画された。 Rooseveltはいった。 「われわれがもとめているのは,われわれの経済体 制上の均衡—農業と工業との間の均衡, 賃金労働者, 扉用者, および消費者の間の均衡であ
る」3と。
ニュー・ディールの理論的支柱となったものを求めるなら, それは Keynesの経済理論であ ろう。彼は景気循環を上向かせるためには,雇用を促進することによって,購買力を増大し,企 業への投資を再開するために,政府が介入しなければならないと主張した。 Keynesは自由放任 主義の終焉を唱え,必要とあらば経済への政府千渉を提唱したのである。ニュー・ディールの実
1) ハロルド •U• フォークナー著,小原敬士訳,「アメリカ経済史」 CT)1969, 至誠堂p.833 2) ハロルド •U• フォークナー,前掲書 p.834
3) ハロルド •U• フォークナー,前掲書p.846
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施には,ある種の計画経済を必要としたので,それは必然的に政府の監督,統制の強化を意味し た。
1933年に制定された National Industrial Recovery Act (全国産業復興法)に署名するに当 って, Rooseveltは「誠実な企業を悩ませたばかりでなく,労働者の病弊にも貢献した海賊のよ うなやり方や慣行を除去することによって,産業に対しては適正な利潤を,労働者に対しては生 活賃金を保証すること」がねらいであると語ったり。 この法律は簡単にいって,企業の自己規制,
賃金の引上げ,労働時間の短縮などを導入して,復興を促進することを目的にしていた。しかし,
「海賊のようなやり方」で,巨利をむさぼることに慣れていた企業は,つぎつぎと打出されるニ ュー・ディールの施策におびえた。自由放任主義に慣れていた企業は,迫りくる政府統制に身の 危険を感じたのである。
広告はひとびとに金がないときに,新しい商品を見せびらかす悪魔の誘惑として攻撃され,企 業は自由を圧迫する政府統制に,本能的反撥を感じた。ひとびとは製品を作らず,そのために職 を与えてくれない企業に,怒りの眼を向けたが,その怒りはまた企業の声である広告に向けられ た。こうして企業と広告は,共通の利害をもった。 30年代以降の打ちつずく危機に際して,企業 と広告が手をにぎって対抗する素地がここに培われた。
企業と広告の側からする反撃がはじまった。 AAAA(American Association of Advertising Agencies, アメリカ広告代理業協会)と媒体が, Consumer Committee (消費者委員会)を組 織した。 ARF(Advertising Research Foundation, 広告調査協会)が, 世論調査を行った。
ANA (Association of National Advertisers, 全国広告主協会)が「ビジネスにおける消費者の 関心」というテーマの研究を行った9。
ANA,AAAAその他の広告団体が, コンペンションのなかで, 世論の批判にどう答えるべ きかを討議した。だがこれらの活動はそれぞれが孤立し,大きな勢力に結集することができなか った。企業と広告に対する批判への反撃が,ー大勢力となるためには, 40年代の到来を待たねば ならなかった。
JI
40年代に入って,はじめて広告界の勢力が大きく結集し,最後に広告協議会の結実をみること になる。広告のまったく新しいアイデア 公共広告 という概念を生んだ広告協議会は, 歴史 のいたずらによって, きわめて短期間に生れた。具体的にいうと, 1941年 11月13日から1942 年 3月 4日の間,わずか 4ヶ月足らずの間に,アメリカの広告界の珍種である広告協議会が結実
した。ひとりの独創的な男のアイデアと,数人のニネルギッシュな広告人の献身と,まったくの 4) .,、ロルド.u. フォークナー,前掲書 p.860
5) Harold B. Thomas, " The Background and Beginning of the Advertising Council," in C. H. Sandage (ed.). The P,vmise of Advertising, 1961, p. 17.
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偶然としかいいようのない歴史の不思議な力によって,それは生れた。その生誕の過程はドラマ ティックといってもよい。以下にその過程を述べるが,そのための資料の大部分は,元広告協議 会議長 HaroldB. Thomasの労作° に負っている。
最初に広告界が共同戦線を結成するように提唱したのは, ANA会長 PaulWestである。提 案者が広告代理店でも媒体でもなく,広告主すなわち企業の側であったことは興味深い。基本的 には企業側がより深刻な危機に見舞われていたともいえるし,広告界でのリーダーシップをもっ ていたともいえる。
Westは1941年8月28日付のメモで, ANAとAAAAの合同会議を提唱し,そのなかでつ ぎのように述べている。 「……政府高官の談話によれば,インフレをコントロールする手段とし ての広告の抑制と,生産をコントロールする手段としての広告の制限,ラジオ,屋外広告と電光 サインに対する課税, トレード・マークとプランドに関するベールにかくされた攻撃,強制的な 規格統一とすべてのコンシューマ・グッズに官製の等級ラベルをつけることの促進,広告は浪費 である,広告は独占を助長する,広告はコンシューマに追加されるコストであるという継続的な 告発―これらすべては,どんな方法でも,どんな目的でも,広告を抑圧しようという日ましに 大きくなる警告に由来している」3。 だから, 広告に関心をもつものの側でも,合同して反撃の 準備を整えなければならなかった。
30年代にも,なんどか広告界の大同団結が提唱され計画されたが,そのいずれもが失敗に終っ た。失敗の原因は企業,広告代理店,媒体の利害の不一致と,企業間,広告代理店間,媒体間の 根深い競合である。そして個々のグループの関心が,全体の関心の長期的判断を抹殺してしまっ た。だがいまやWestのメモにもみられるように,広告界全体がきびしい告発を受け,追いつめ られてしまった。共倒れになるか,共に生き残るかの二者択ーを選ばざるを得ない状況が,個々 のしっとや反目を超えて手を結ばせたのだ。機が熟した。ふたつのグループを代表する委員会が,
以下のように構成された丸
AAAA
Thomas D'Arey Brophy‑President of Kenyon & Eckhardt E. De Witt Hill―Vice President of McCann‑Erickson Chester LaRoche‑President of Young & Rubicam William Reydel‑Partner, Newell, Emett Company Thomas L. L. Ryan‑President, Pedlar & Ryan
1) H. B. Thomas, op. cit. 編者の注によると,このレボートは, 1952年に Thomasが広告協議会の 親しい友人に,騰写版刷りで配布したものを再録したものである。全篇これ,事件の渦中にいた人のみ が集め得る当時の手紙,議事録,メモで構成されていて,広告協議会設立のいきさつを知る貴重な資料 であるばかりでなく,裏面史を知る恰好の材料になっている。
2) Ibid., p. 18. 3) Ibid., p. 19.
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Frederic R. Gamble‑Managing Director, AAAA ANA
Lee Bristol‑Vice President, Bristol‑Myers Company A. 0. Buckingham‑Vice President, Cluett, Peabody
Charles Mortimer‑Vice President, General Foods Corporation H. W. Roden‑President, Harold Clapp, Incorporated
Harold B. Thomas‑President, Centaur Company Paul West‑President, ANA
歴史の幕は切って落とされた。10月6日の実行委員会で決められた4部に分れたプログラムに 基いて, ANAとAAAAの合同会議が, 1941年11月13, 14, 15日の3日間,ホットスプリ
ングスで開かれた。第1部「全国プランドと広告についての脅迫の事実」, 第2部「広告の経済 に及ぼす影響についての事実」, 第 3部「現代のシステムのもとでは, 広告は欠くことができな いことを証明する著名な広告主によるスピーチ」,と会議が進み,第 4部「とり得る行動」,に入 る前に JamesWebb Youngが,広告の歴史に残るスピーチを行った。 彼は非凡なコピーライ クーであり,シカゴ大学の元教授であり,広告代理店のコミッション・システムに関する有名な ヤング・レボートの著者であり,元政府官吏であり,大広告代理店の幹部であり,そして業界の
リーダであった。
Youngは大きく分けて, 4つのことを語った。 (1)広告はビジネス構造のなかでの存在理由と して,広告主に利益を与えることに専念してきた。だが現在は,これだけでは広告の存在を正当 化できないように思われる。一般大衆からのきびしい要求があり,もしそれに応じられなければ,
広告主,媒体,広告代理店は,ともにダメージを受けるだろう。そして三者が協同して対処しな ければ,応じきれないだろう。 (2)広告に対する嫌悪を緩和するためには,業界が広告表現で自粛 しなければならない。ラジオの音をもう少し小さくし,新聞の表現を適切にし,雑誌で悪趣味な いい廻しをつつしむことだ。それと「広告の実情」を一般に PRすることが,肝要である。 (3)
「自由企業」は,いまなお多くのアメリカ人が信奉している。ひとびとが,常に増加する商品と サービスの量から,自由な選択をするダイナミックな経済は,自由企業が提供する。ダイナミッ クな経済の可能性に新しい信頼をもたらすことが必要だ。投資に政治的な妨害をするかわりに,
ビジネスが必要な資本投資をひっさげて帰ってくるほど,強い信頼をつちかうこと。これらの投 資をすることによってのみ,ダイナミックな経済が進行する。 「そしてダイナミックな経済の可 能性を通じてのみ,われわれは自由企業を維持し,それとともに広告ビジネスを維持できる」の である0。
ここまでは合同会議が目的とした広告批判に対する対応策を訴えたものでとくに目新しい点は 4) Ibid., pp. 21‑22.
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ない。いってみれば,だれでもがいうことである。だが最後に彼は,いままでだれも考え及ばな かったまったく新しい広告のコンセプトを開陳した。そしてそれが結局,広告協議会を生む種子 となったのである。 「広告はかつて人間が発明したもっともモダンで,流線型で,高速のコミュ ニケーション・プラス説得の手段である。だから現在のレベルよりも,はるか以上にまで使える 可能性がある。今日,英国でみられるように,政府によって使わるべきである。選挙のときだけ でなく,継続的に政党によって使わるべきである。それは労働組合によって農業団体によって,
全国製造業者協会によって,大きな慈善団体によって,教会によって,大学によって使わるべき である。理解を生みだし,あつれきを減らすために,国際関係のオープンな宜伝活動に使わるべ きである。産褥熱のような無知から生じる病気を,一掃するために用いるべきである。この国が 求めている栄養となる仕事をなすべきである。音楽の,美術の,そしてすべての公正な力,さら にそれ以上のものの召使いとなるべきである」9。 このスピーチで, Youngは広告コミュニケー ションを,商品の呪縛から開放した。広告といえども,それはコミュニケーションの一手段であ る。しかも,広告はマス・ニデュケーションと説得の強力な武器である。 Youngの卓抜なアイ デアによって,いまや広告は暗い地乎から,広大な空に羽ばたく自由を与えられた。
はじめ合同会議の目的は,激しい広告批判に対して,広告界が一致団結して反撃することにあ った。合同会議のプログラムも,その目的に沿って組まれていた。しかし Youngが反撃とは別 の新しいアイデアをもたらした。批判に対して,弁解したり,改善したりする対症療法とは別に,
根本的な体質改善ともいうべき療法を示唆した。広告を商品広告という狭い檻から開放し,その 機能を通じて,社会公共に奉仕することによって,社会的制度としての有用性を認めさせようと いうのである。つまり広告の存在理由は「広告主に利益をもたらすことにある」という発想を,
「社会公共に奉仕することにある」というアイデアに転換させた。ホットスプリングスの合同会 議の結論には,広告界の一致団結,広告内容の改善,広告の機能と影響のPRなど,反撃的要素 も多しヽが,それとともに「商売以外のもの,とくに公共の関心があるものについて,インフォメ ーションと説得のために, 広告の技術と設備を使うことの推奨」0の一項がつけ加えられている。
しかしまだこの時期には, Youngのアイデアは前面には出てこない。 上述の一項も,結論の最 後につけ加えられているにすぎず,広告界は依然として「反撃のプラン」を練っていた。 Young
のアイデアが結実するためには,広告の世界をはるかに超えた歴史の手助けを必要とした。
合同会議の主役をつとめたのは PaulWestとChesterLaRocheである。このふたりは,の ちに広告協議会を成立させる大きな原動力となったひとびとで,その貢献のゆえにいつまでも記 憶されるに価する。ホットスプリングスの会議につづいて,そこで得られた結論を具体化するた めに, LaRocheのプランを検討する目的で, 11月27日に会議がもたれたo LaRocheのプラン は2部に分れている。第1部は広告とビジネスに対する脅迫から身を守るために,組織を作り,
5) Ibid., p. 23. 6) Ibid., p. 24.
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批判に対処する方法で,第2部は資金調達の方法で,広告主,広告代理店,媒体から,向う 5年 間毎年10万ドルを要求した%
ここで,ホットスプリングスの合同会議が開かれたころの,世界状勢を眺めてみたい。第 2次 世界大戦が1939年8月にはじまっている。 アメリカは参戦しなかったが, 中立の立場をかなぐ りすて,連合国側を戦争以外のあらゆる方法で援助するという政策を公けに採用した。 1941年1 月には, Roosevelt大統領は民主主義国への全面的援助を議会に要請し,その国の防衛がアメリ カの防衛にとって重大な影響をもつ場合は,いついかなる国に対しても,武器を貸与し,資金を 援助する権限を要求して通過させた。アメリカはすでに戦争への一歩を踏み出していた。したが って,ホットスプリングスの会議が開かれた41年11月には,すでに準戦時体制下にあったので,
物価管理局長官 LeonHendersonが会議に出席して,インフレの防止について訴えたのである9。 (Youngもそのスピーチのなかで,戦争について触れている)。 合同会議の間,防衛問題はまだ 背景にあったが,戦雲はすでにアメリカの空に,重く垂れこめていた。
戦争の危機感,防衛計画,政府の経済政策についていろんなうわさがあり, Westはワシント ンに行って,直接政府筋から聞くことにした。彼は12月7日に出発したが, ワシントンに着く 前に,真珠湾攻撃のニュースが入った。 2日後の12月9日,彼は政府の Supply,Priorities and Allocations Board (SP AB, 供給,優先制,割当本部)の DonaldM. Nelsoいから, とつぜ ん手紙を受けとった。大事な内容を含んでいるので,全文を引用する。
「国家が直面する立場の重大さは,いまやだれの目にも明かである。全資源を結集し,われわ れの努力をひとつにする必要性もまた明白である。
政府が強調する要求のひとつは,広告のクリエイティブ能力と,公衆に到達するコミュニケー ションのチャンネルを代表する組織の援助を得ることだ。
公衆教育,モラル,資源保護の問題,戦争目的に緊急に必要なものの場合代用品を使うといっ た,しなければならない多くのキャンペーンがあり,今後もあり得る。簡単にいって,この国の すべてのひとびとの一致協力を生みだすことが必要であり,あらゆる適当な方法で,アメリカ国 民に早急に,かつ効果的に宣伝する手段をもたねばならない。
全国広告主協会とアメリカ広告代理業協会,それと全国メディアの代表によって,これらさま ざまな職業を代表する協議会を設立することは,きわめてタイムリーである。それは政府がいま
7) Ibid., p. 28. 8) Ibid., p. 25.
9) 1940年に,大統領は軍事面以外の防衛計画を扱う組織として, Office of Emergency Management (OEM, 緊急管理局)を創設した。 OEMにはふたつの機関, Officeof Production Management (OPM, 生産管理局)と Officeof Price Administraiton (OP A, 物価管理局)があったが, OPMが非能率な ため, 9月に SPABを創設し, NelsonをExecutiveDirectorに任命した。なお,長官は副大統領の Henry A. Wallaceであった。その後さらに1942年1月には,生産関係の政府部局の諸活動を, Nelson を長とする WarProduction Board (戦時生産本部)に統合した。戦時生産本部の最大の任務は,平時 生産を戦時生産に転換させることにあった。
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緊急に必要としている助言と援助を, もっとも効果的に入手できる焦点を提供することになるだ ろう。
それゆえ,情報局と広告協議会の協力関係を確立する可能性を探ぐることは,われわれの愛国 的義務である。わたしはあなたが近日中に,協議会の代表と政府の代表の会合をアレンジするよ
う勧告する」1(1)0
Nelsonが Westに宛てた手紙は,きわめて重要である。真珠湾攻撃という歴史的事件によっ て,アメリカ政府の戦時キャンペーンの必要から,広告協議会を発足させる起爆剤を含んでいる。
Westは早速仲間を集めて相談し, LaRocheとThomasとともに, 12月15日にワシントンで Nelsonと会談した。 Nelsonは Westたちが「計画中の協議会」の援助の必要を力説し,資源 保護,民間防術,生産のスピード・アップなど,まだ一般大衆の知らない政府の巨大な防衛プロ
グラムを説明したIO。
Nelsonが熱望した広告協議会設立の必要性は,広告産業の側からもいえた。 たとえば,民間 防衛局の要請で, 「空襲の場合どうすべきか」というような6種類のプックレットを, 6代理 店が制作したが,それは出版されず陽の目をみないままに終った。また 3代理店が政府関係者の 求めで,市民防衛のために働く社員をワシントンに派遣したが,そこには緊急に伝達すべき情報 が山積されているにもかかわらず,官僚的形式主義で部局から部局にまわされ,いつしか忘れ去 られていた。陸軍省と民間防衛局の間にも,意見の相違が認められた。代理店のひとびとにいわ せると,民間防衛局には,レイアウトのなんたるかを知らないような文官のアーチストがいた。
たとえば,代理店の社員が,ヘッドライソ(見出し)を大きくしたいと思い,クイプ(活字)を 引伸す (blowup)よう提案した。するとその文官が「おお,タイプを爆破 (blowup)しては いけない!」と叫んだという笑話さえ伝えられている丸要するに,個々の広告代理店では満足 な仕事ができず,政府の側でも,高級将校でさえ一目おくような,十分な権限をもつ人に率いら れた窓口の一本化が痛感されたのである。
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Youngによって基本的なアイデアが与えられ, 真珠湾攻撃という歴史的事件によって触発さ れた広告協議会は, West,LaRoche, Nelsonらの献身によって, いっきよに成立へとなだれこ むことになる。ホットスプリングスの合同会議の主目的は,企業と広告に対する批判に反撃を加 えることにあったが,いまや国家の危機に際して,広告の技術と機能を,国家への奉仕に捧げる 方向へ「ヒール・ターン」 した。 では広告協議会はいつ生れたのか? AAAAの会長 John Bensonが, 42年1月10日付で, 実行委員会のメンバーに送った手紙によると「1月5日の二
10) H. B. Thomas, op. cit., p. 29. 11) Ibid., p. 30.
12) Ibid., p. 32.
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ューヨークにおける委員会の会合で, ChesterJ. LaRocheを永久議長に指名し, PaulB. West を事務局長として,仮りの組織が生れた」°ことがわかる。そしてこの組織には ANA,AAAA のほかに新聞,雑誌,ラジオ,屋外広告の団体の代表が参加することになった。 1月5日の会合 に関するほかの記録はないが,その日を広告協議会の仮りの誕生日としてもよいことは明かだ。
同じく 1月10日に, LaRocheが広告協議会のメンバーに宛てた覚書3がある。覚書は5つの項 目に分れている。
(1) 広告協議会の必要
ホットスプリングスの合同会議で,広告協議会の必要性が確認されたが, 42年12月7日の真 珠湾攻撃の時点で,その目的が突然変った。戦争目的がほかのすべての目的に優先することにな り,協議会の必要性がより緊急のものとなった。 12月15日の Nelsonとの会合で,彼は重大な 発言をした。すなわち,戦争に勝っためには国家の資源をひとつにまとめ,戦争物資の生産に集 中しなければならない。だから戦争物資の生産に転換できる産業は,すべて転換を余儀なくされ るだろう。 Nelsonはまたパプリック・リレーションが,たいへん重要な仕事であることを強調 した。 「この国民は乎和時の習慣,風習(ぜいた<, 金づかいの荒い態度,浪費,なんでもより 良いものと代えられる期待)を,すっかり戦時体制(保護し,節約し,貯蓄し,そしてなしです ませる)に転換しなければならない」と。 広告協議会はその方向に大衆を説得するためにつくら れた。
(2) 協議会の目的
広告協議会の目的は,業界を代表し,政府のために広告産業と接触する焦点を提供することに ある。そして政府との会議に出席し,パプリック・リレーションに関する政策,手続,組織の質 問にアドバイスし,相談に応じる。さらにいろんなキャンペーンに助言を与え,援助する。協議 会それ自体は仕事をせず,傘下のどの団体の機能を犯さないが,仕事のためにもっとも公正で,
効率的な代表を政府に派遣し,異った団体が仕事のために重複するのを避けるようアレンジする。
要するに協議会は,特別な任務で政府の部局と仕事をする団体のために,政府と広告産業をつな ぐメインバイプの役目を果す。
(3) 協議会の機能の仕方
協議会のメンバーが,彼らの定職から割くことのできる時間には限度があるから,政府と協議 会のメンバーにコンククトし,仕事を指揮するフルクイムの管理職が必要になるだろう。
(4) 政府にとっての利点
広告産業の最良の集合的な判断を,たやすくしかも迅速に入手でさる。パプリック・リレーシ ョン・プログラムの全体と各部分を相関させ統合できる。また協議会は政府に代って,広告界の 諸団体の活動を調整できる。
1) H. B. Thomas, op. cit., p. 34. 2) Ibid., pp. 35‑39.
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