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派生的暴力としての認知症高齢者のカテゴリー化

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派生的暴力としての認知症高齢者のカテゴリー化

―― 介護者の「語り」を手がかりに ――

荒木 正平

1.はじめに

高齢の認知症患者は、自らの意思を周囲にうまく伝えることが難しい状態にある。一方、患者 の周囲もまた、彼らの意思を上手に汲み取ることに、大変な困難を覚えてしまう。そのような困 難の中に置かれた認知症高齢者の意思を理解するためにはいかなる方途が存するのだろうか。彼 らの意思に沿う形で、快適な介護、支援を提供するためにはいかなる対策が必要なのか。端的に 言えば、これら二つの問いこそが、認知症高齢者介護をめぐる研究に共通するアポリアである。

筆者もまた、十年ほど前に高齢者介護の現場に職員として関わり始めた当初から、施設と職種を 変えながら勤務して現在に至るまでの過程において、常にこの二つの問いに向き合い続けてきた。

しかし、これらの問いに対して、単に抽象的なもの、精神論的なものにとどまることなく、実践 的な意義をも含んだ答えを提示することは、容易ではない。

本稿では、一つ目の問い、すなわち認知症高齢者の意思の理解をめぐるアポリアについて考え るところから始めたい。というのも、上記二つの問いは、実際には並列のものではなく、一つ目 の問いの検討を進める中で、その延長上に二つ目の問いが浮上する、という関係になっているか らである。つまり、一つ目の問いに対して一定の有効性を持った回答が可能になるならば、それ は同時に、二つ目の問いについての重要な示唆ともなるのである。

認知症高齢者の意思を理解することの困難性についての主たる研究の潮流として、認知症の

「病」としての側面に焦点を当てたものがある。その特徴は、「認知症患者」ではなく「認知症」

が対象とされるところにある。すなわち、限定的な意味での「治療」の対象として、認知症を捉 えているのである。この観点からすると、認知症高齢者は、意思疎通の困難をもたらす症!!!

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とみなされる。認知症患者に認められる症状は「中核症状」と「周辺症状」とに区別さ れるが、「病」としての認知症に焦点を当てる研究においては、認知症に伴う症状のうち、「中核 症状」を治療する方途がより重点的に追求される

限定的な意味での「治療」を目標とした認知症研究の重要性については、確認するまでもない。

しかし、現時点では、認知症を完治させることは不可能であると言われていることもまた事実で ある。完治が困難であるとすれば、結果として症状の緩和・軽減こそが課題となり、したがって、

「中核症状」のみならず、「周辺症状」への対応も、重要性を増しているといえる。周囲との関 係性や環境に大きく左右される「周辺症状」を予防・緩和する、あるいはその発症に対して適切 な対応を行うには、患者自身の意思の理解が必須である。本稿においてテーマとなるのは、この

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意思の理解に関する部分である。それゆえ「認知症」についての、狭義の治療的アプローチに関 する研究はここでは行わない。認知症高齢者の意思を理解するために、本稿においてまず分析の 対象とするのは、認知症患者を介護する者の「語り」である。

これまでの筆者の経験を振り返ると、認知症高齢者による「語り」とそこに込められた意図は、

介護者主導で一方的に解釈されるケースが多かった印象がある。介護者は、「語り」の「主体」

としての認知症高齢者の意図を十分に汲み取ることなく、結果として、自身の望む現実認識を認 知症高齢者にも強制することになってしまいがちである。たとえば介護施設などにおいては、施 設に入所している認知症高齢者が、帰宅願望を何度も繰り返し訴える場面が頻繁に生起する。こ うした場面に繰り返し立ち会うことになる介護者は、自身らの負担がより軽いものとなるように、

!!!!!認知症患者らの「語り」を恣意的に解釈することで、患者らが本来抱いた意思とは異 なった意味を持たせることとなる。その結果、認知症高齢者の意思が十分配慮されているとは言 えない現状が生まれる。たとえば、(ご家族の方が)明日迎えにいらっしゃるらしいですよ」な どという、ありもしない予定を告げてその場を凌ぐといった対応は、筆者自身によるグループホー ムでの勤務経験の際にも、非常に頻繁に確認されていた。そのような対応のあり方については、

当の介護職員によれば「ごまかしが○○さんには心の安定に確かになっとった」というような解 釈がなされ、特に問題はないこととされているのが、筆者の観察記録からも確認される。多忙 を極める介護の現場においては、その様な対応も、ある意味ではや!!!!!!ものであるのかも しれない。とはいえ、認知症高齢者の「語り」とそこに込められた思いが、介護者によってあま りに軽く取り扱われることは、結果として、認知症高齢者の「生きづらさ」を形成・強化する一 つの要因となっている。また、介護者による被介護者に対する管理―被管理の関係性構築に関連 して、たとえば出口泰靖は、パッシング・ケアという概念を用いて論じている。そこでは、「呆 けゆくこと」に気づいている周囲の者が、まるで本人が「呆け」てはいないかのようにふるまう 文脈を作り出す」ことで、認知症高齢者への「配慮のケア」が行われている事例を紹介している

(出口[24:16]。しかし出口が取り上げたような―おそらくは善意に基づく―介護者主導 による文脈形成過程においてこそ、介護者には、より慎重な言動と、反省的なまなざしを常に自 らに課すことが求められる

「認知症患者の意思を理解する」という営為についても、それ自体がすでに一方的な見方の押 しつけであるとの指摘を行うことが可能である。それは、「理解する側」= 健常者である我々 と、「理解される側」= 認知症高齢者である彼ら という関係づけを当然視しているという意 味での指摘である。本稿において検証するのは、認知症患者の意思を理解したいという、おそら くは善意に基づく試みの端緒においてすら(あるいはそれゆえに)、疑われることのない現実認 識のあり方であり、その背景にある暗黙の前提である。それはつまり、認知症患者が自らの意思 を他者に「理解させる」ことができないため、健常者である我々が「理解してあげなければなら ない」という暗黙の認識が、介護者―被介護者関係の前提として存在しているということである

認知症高齢者による「語り」が、患者本人の意思は置き去りのまま、介護者/支援者主導といっ た形で、一方的かつ恣意的に解釈されている状況は確かに存在している。周囲の介護者/支援者 による恣意的な解釈が支配的なものとなるに至る背景には、他に選択肢がなく、そうせざるを得

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ないという現実がある。実際、ほとんどの入所施設においては、法的には問題のない人員配置で 運営されている。にもかかわらず、業務過多のため、認知症高齢者からの訴えに時間を気にする ことなく耳を傾けて寄り添い続けることは困難な状況なのである。また、そもそも認知症患者本 人が、自身の「語り」に言及し、その意図を解釈/説明することは絶望的に困難である。それは、

認知症高齢者による「語り」の(解釈の方向づけに関する判断をも含めた)管理体制の善し悪し という価値判断以前の問題として厳然と存在している。そのように考えれば、認知症患者の「語 り」に対して、周囲の介護者/支援者が恣意的な解釈をすることには一定の理由があるように見 える。しかし、これは真に必然なのだろうか、別様の可能性は存在しないだろうかと問うてみる 必要がある。あるいは倫理的な問い方をすれば、認知症患者による「語り」の自己管理が極めて 困難であることは、介護者/支援者がほぼ全面的に管理する現状を正当化できるものなのであろ うか。たとえ親密な家族や善意の介護者による管理であったとしてもこの疑問は払拭されない。

むしろ親密な家族や善意の介護者としての自己を自明視している「他者」による管理という構造 こそが、管理を当然のこととして正当化する文脈を形成する主因となってきた。

そのような問いへの回答を探るためには、認知症高齢者自身による「語り」それ自体を分析す るのに先立ち、これまで彼らの「語り」がいかに扱われてきたのかについての確認作業をまず行 う必要がある。実際に用いるのは、認知症高齢者の支援にあたり、彼らが生きる〈現実〉の構築 に深く関わる介護者/支援者の「語り」である。本稿で行う作業、すなわち介護者/支援者の「語 り」が、(後に詳述する)「派生的暴力としてのカテゴリー化」の機能を果たしうることの確認と、

その実践的な効果についての分析は、認知症高齢者に快適な介護を提供するための研究を進めて いくうえで、必要不可欠のプロセスであると考える。

データは主に、認知症対応型共同生活介護(以下グループホーム)における参与観察を通して 得られたものである。一般にグループホームと呼ばれるこのサービス形態は、介護保険上の地 域密着型サービスに位置づけられる。地域密着型サービスとは、介護が必要になった人が、「住 み慣れた地域で、地域の特性に応じて多様で柔軟なサービスを受けることができるように」創設 されたサービスであるとされる(中央法規出版編集部編[23:21]。しかし、グループホー ムの利用者は、住み慣れた地域ではあるものの、実質的には自宅から離れて、施設に入所する形 式でのサービス提供を受ける形となる。

2.「悲惨な認知症高齢者」を生み出す「語りの暴力性」

認知症患者とともにグループホームという場を構成する主体である施設職員の「語り」には、

福祉コミュニティにおいて規範的役割を果たす「モデル・ストーリー」をなぞる形で発せられ る事例が多く確認される。つまり施設職員の多くは、十分に意識せぬまま、福祉コミュニティと いう限定的な範囲における特殊な「語り」の範型をなぞってしまっているのである。不用意にモ デル・ストーリーをなぞり、その強化・再生産に加担することで、結果的に認知症患者自身の「生 きづらさ」の生成・維持に深く関与する介護職員。まずは、このような現状の確認から論を進め ていく。

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認知症高齢者ケアをめぐる「語り」には、「苦労」「悲惨」といったイメージが強く付与され ている。グループホームにおける介護実践に限らず、認知症高齢者に関する文献や、新聞・テレ ビ等の報道においても、自明の前提として上記のようなネガティブなイメージから出発すること が多い。そして、「では困難をどのように軽減するか」「介護負担をいかに公平化するか」、とい う形で議論が展開する。すなわち、認知症高齢者ケアに必然的に付随する「困難」をいかに「軽 減」するか、というシークエンスを持ったストーリーに基づいて、ケアする―される関係が規定 されてきたのである。

認知症高齢者のようなケア受容者には「絶対的な受動性」が避けがたく付随しており、そうで ある以上、ネガティブなイメージの語彙を用いて語らざるをえないという暗黙の前提が語りを規 定する。本来、受動的(パッシブ)であることは即ち否定的(ネガティブ)であることにはなら ない。しかし、エイジングをめぐる言説空間においては両者に等号関係が成立していると勘違い するほどに、能動性や主体性は価値あるものとして扱われている。そのため、心身における主体 性の一方的な剥奪と、それに続くケアする‐される関係の強要は、主体の自由に大きな価値を置 く社会においては、「暴力的な経験」として直面せざるをえないものとなる。

これに関連して天田城介は、「介護をめぐる暴力性」には、「〈老い衰えゆくこと〉の語り難さ・

語り得なさという現実に含まれる根源的暴力性」と、〈老い衰えゆくこと〉によって他者から介 護や支援を受けるという受動性が孕む暴力性」の二重の暴力性が関わっていると指摘する。(天 田[21:46−47]

本稿においては、天田の論考から多くの示唆を受けつつも、介護場面において確認できる暴力 性について、「根源的な暴力性」と「派生的な暴力性」との二つに分類し直した。というのも、「根 源的暴力性」と「受動性が孕む暴力性」という天田の分類では、「根源的暴力性」においても含 まれている「受動性」のニュアンスを正確に把握しにくいと考えたためである。

ネガティブな認知症高齢者理解が支配的なものとなり、自明性を獲得していく過程は、同時に、

彼らに対するケア場面を「別様に語ること」が困難になっていく過程でもある。ここに、ケアす る‐されるという関係が本来有する「根源的な暴力性」とは異なる次元の暴力性、「根源的な暴 力性」との対比で言うなれば、「派生的な暴力性」の存在が明らかになる。ケア場面に関する「語 り」の多様性が縮減されることにより、「認知症高齢者=暗い、悲惨な、何もわからなくなった 人々」というステレオタイプ的な認識に陥ることは、より容易になる。「語りの固定化」は「派 生的な暴力」として機能しているのである。しかも、認知症高齢者と介護者との日々のコミュニ ケーション場面においては、「根源的な暴力性」以上に、この「派生的な暴力性」の方が関係各 主体の認識をより強く規定し、前景化してくる場合も少なくない。たとえば第一章で触れた、帰 宅願望を繰り返し表出する事例においてもそれは確認される。そこでの介護者の対応の根底にあ るのも、「語りの固定化」による「派生的な暴力性」の肯定化である。繰り返し述べているとお り、(ご家族の方が)明日迎えにいらっしゃるらしいですよ。」という認知症高齢者を刺激せず に落ち着かせるための説明自体は、介護の場面において常に無条件に否定されるべきものではな い。ただし、ありもしない予定を告げてその場を凌ぐといった対応を、介護にあたる職員の側が まったく問題ないものとして固定化してしまうことはやはり危険である。たとえ「ごまかしが○

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○さんには心の安定に確かになっとった」というような解釈がなされようとも、その対応が暴力 的に機能しうる可能性について何の検証もなされなければ、それは認知症高齢者の生きづらさを 強化する「派生的な暴力」として容易に固定化してしまう。そのような派生的暴力行使の一つの 形態として、介護者が認知症高齢者のアイデンティティ管理を行っているのである。

認知症高齢者の為す「語り」に対し、介護者主導での解釈が事実上黙認されてきた背景には、

以上みてきたように、介護者―被介護者関係に由来する、圧倒的に非対称なパワーバランスがあ る。介護者―被介護者関係の非対称性は、ケアする―されるという構造自体に内包されるもので あり、全面的に解消することは不可能である。しかしそのことは、介護者による被介護者の一方 的な管理を正当化する根拠とはなり得ない。

3.介護者によるアイデンテイティ管理

以下では、認知症高齢者のアイデンティティ管理への介護者の関与のあり方を確認していく。

介護者自身の「語り」のなかから、彼らが暗黙のうちに自明視している前提の存在を浮かび上が らせることで、コミュニケーション場面に潜む「派生的な暴力性」について検討する。

「普通の(認知症)「本来の(認知症)」といった語彙を用いた認知症高齢者の役割の固定化 は、介護スタッフ間でのやりとりにおいては珍しいものではなく、頻繁に観察される。しかしそ のような語彙や語り口を選択することで、介護者は、認知症高齢者に関して創り上げられた固定 的なイメージに対する無批判な信憑を顕わにしている。そして同時に、偏見を含む認知症高齢者 像の強化と再生産に、意図せず加担してしまってもいるのである。

これに関連して、グループホームを利用されている女性の娘さんとお話ししたときのやり取り は印象的であった。グループホームにおいては、一日の活動内容がほぼ決まっていることについ て話した際には、「生活のリズムはやはり大事なので、それはそれでいいと思う」といった趣旨 の発言が聞かれた。また、物品や金銭の管理などにも、お母様がほとんど関われていないことに ついての説明に対しては、「本人がそういう自由を管理できないし楽しめないから」といった返 答であった。(観察記録より)

エスノメソドロジーの代表的研究者であるハーヴェイ・サックスが提示した「カテゴリー化」

という概念には、この問題を考える際の重要な手がかりが含まれている。サックスはカテゴリー について、(女性、老人、黒人、ユダヤ人、ティーンエージャー等々の)カテゴリーの大部分は、

普通、集団という場合のどの意味をとっても集団とはいえない。けれども、どのカテゴリーにつ いても私たちは豊富な知識をもっている。どのメンバーもこうしたカテゴリーのどれかを代表す るものとして見られ、あるカテゴリーにあてはまる人は誰でもそのカテゴリーの一人のメンバー と見なされる。」と述べる(Sacks[19=17:36] )内の補足はサックスによる)。ここ でサックスが指摘した内容について理解することは、さほど難しくはないかもしれない。サック スが指摘する通り、ある特定の文化を共有する成員たちは、さまざまなカテゴリーに対する「豊 富な知識」を有している。問題は、「豊富な知識」と呼ばれるもののなかには、固定観念に基づ く偏見が含まれていることにある。

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しかしここでもっとも重要となるのは先の引用箇所に続く次の一文である。

そのカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!なのであ る。(Sacks[19=17:36],傍点荒木による)

ここにこそ「カテゴリー化」の暴力性が端的に表現されている。つまり、何らかのカテゴリー 化とそれに基づく当のカテゴリーに対する偏見は、そのカテゴリーに属する特定の個人へ偏見と して、半ば当然のものとして無前提に固定化していくこともあるということである。ある人に対 して、カテゴリー化がいったん行われると、当人の個別性が顧みられることはほとんどなくなっ てしまう。そして、カテゴリー化の対象とされた人は、割り振られたカテゴリー一般に付随する 固定観念を体現する一例として扱われる。たとえカテゴリー化の対象とされた本人が、そのカテ ゴリーに割り振られることを不満に思っても、そこから抜け出すことは困難である。なぜなら、

そもそものカテゴリー化に確たる根拠があるわけではなく恣意的なものであるからである。たと えば、ある対象についてのカテゴリー化が、さしたる根拠もなく恣意的になされている状況があ ると仮定する。そのように恣意的にカテゴリー化された情報に触れた者が、必ずしもカテゴリー 化自体の妥当性を疑うとは限らないのである。そのことが結果として、カテゴリー化の対象とさ れた人々に対する誤ったイメージの拡大・強化に資するという構造になっている。

以上のような構造は、認知症患者のカテゴリー化の過程にも当てはまる。たとえば小澤は、「認 知症というレッテルは、以後、人の手を借りて受動的に生きてゆかねばならない、という含意を 併せもつ」としている。小澤は、そのような誤ったカテゴリー化の暴力性に抗うために、「彼ら を主人公とする、彼らの思いに添った」ケアを構築する必要があると主張する。(小澤[25:

3])ここでは、「カテゴリー化」や「暴力性」という概念は用いられていないものの、その問 題意識は本稿と共通している。さらに小澤は、認知症を「絶望的な病とする誤解や偏見」により、

患者本人に告知することが非常に困難な状況をも招いている点についても指摘している。(小澤

[25:74])この点についても、認知症をめぐるカテゴリー化の暴力性についての指摘として 捉えることが可能である

カテゴリー化の暴力性の問題に関連して、Aは自身の病院勤務経験と関わらせつつ、次のよう に述べる

〈Aへのインタビューより(※以下〈A〉

A:まあグループホームとかみてると、ま、わざとらしいかなあっていうような、ま、ふうに思 えるところは、あるのね。私の目からみて。で、それもまあ、利用者さんが、たちが、わざ とらしいとはとってはないとは思うんだけど。素直にとってるんだと思うけど、ま、ちょっ と、スタッフがへりくだり過ぎて、あのー、ま、持ち上げすぎてね、利用者さんを持ち上げ すぎて、こう…してるなあーと、思うところがけっこう

荒木:ああー

A:思う、のは確かに思い…。もう病院では、そういうことはない。逆にそうすると、なんか患

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者さんを馬鹿にしてるみたいな。

[中略]

A:(それについて)は、ちょっと・・。そ、そんなに褒めなくっちゃいけないのかなあとか 荒木:ああ、そこまで、うーん

A:私とか、子どもがいるから、ほんとなんか子どもに接してるのと同じかなあって思う。

荒木:ああ

A:ような、まあ、子どもは褒めて育てろっていうからね(笑)

上でAが違和感を表明する、介護者による「過剰な賞賛」や「子ども扱い」も、一つのカテゴ リー化の実践としてとらえることができる。この「過剰な賞賛」がなされる事例については、介 護の現場においては、たとえば、レクリエーションという名目で実施されるゲームや小運動の際 などに、それこそ枚挙に暇がないほど見聞する事ができる。そのようなイベントとしての場面設 定がなされていなくても、たとえば日常的な会話においても「すごいですね」「よくご存知です ね」などの言葉の使用頻度は非常に高い。というよりも、介護現場での利用者との接遇における キーワードとなっている「尊厳」を重視するということと、「過剰な賞賛」との間に明確な線引 きがなされていない印象である。

「子ども扱い」については、介護職員同士の会話のなかで「○○さん(被介護者の名前)かわ いい」といった発言がなされることは珍しくない。また、グループホームのクリスマス会でサン タクロースの帽子や衣装を着せられる被介護者を目にしたことを筆者も記憶している。これにつ いても、たまたま訪問したご家族から、苦情に近いような訴えが聞かれていたにもかかわらず、

介護職員の側は何の違和感も罪悪感もない様子であったのが印象的であった(観察記録より) カテゴリー化を通して再生産されるのは、社会の成員として十分にはその資質を認められるこ となく、弱く、悲惨な、保護の対象としての認知症高齢者イメージである。こうしたイメージの 割り当ては、強者によって恣意的に為される。割り当てがなされると同時に、強者と弱者の間に は決定的な差異線が引かれる。社会的な「負」「弱者」といったイメージを身に負うものに対す る同情心や後ろめたさといった感情は、意識的に表明されるのではなく、反射的に表出されるの である。ここでの引用において

A

が違和感を表明しているのは、まさにこの反射的に組織され る同情心、強者から弱者に対する憐みにも似た感情についてであろう。

また、強者による線引きと、その結果もたらされるカテゴリー化が、既成事実化し社会的に広 く認知され始めると、それがどのような主体によって、どのような根拠をもってなされたもので あるかといったことに関係なく作用してしまう。それは、カテゴリー化の被害者、すなわちカテ ゴリー化の対象となるもの自身が、社会なるものから自らに割り当てられたマイナスのイメージ をなぞるように「暴力的な眼差し」を、自分自身に対して向けてしまうということでもある。

しかし、この線引きが恣意的なものであるということは、言い換えれば、「派生的な暴力性」

が前景化する契機は線引きの行為それ自体のうちに含まれているということである。つまり、別 様の差異線を引く行為へと向かう可能性もまた、常に存在するということでもある。であるなら ば、「根源的な暴力性」に比して「派生的な暴力性」の改変可能性は高いと言える。とすれば、

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介護の現場での再カテゴリー化の実践は、「派生的な暴力性」のレベルにおいて実効性をもつと いうことになる。

4.結論

認知症高齢者の意思の理解をめぐる困難状況について、介護者による「語り」を手がかりとし て用いながら論じてきた。そこで明確になったのは、一つの問題状況である。それは、介護者自 身は十分に意識しないままに発しているような「語り」が、認知症高齢者にとっては「派生的な 暴力性」として作用しており、結果的に認知症高齢者の意思の理解を妨げてしまっている、とい うものである。それは、たとえば、「○○ちゃん(=認知症高齢者の下の名前)、ええらしか(=

かわいい)ねえ」といった、子ども扱いの言動によって表出されるカテゴリー化の暴力性という 形態をとることもある。

カテゴリー化の暴力性について、もう一点指摘しておきたい。それは、カテゴリー化の暴力的 な眼差しを、常に認知症高齢者に向けているのは、実は認知症高齢者自身であるということであ る。認知症高齢者は、家族や介護者などを含めた周囲の人々が向ける眼差しの暴力と同じく、あ るいはそれ以上に、彼ら自身を厳しく眼差してしまっているのである。

介護の現場においては、認知症高齢者自身が、「呆けること」に対して過剰なまでの恐れや苛 立ちを感じていると思われる言動を頻繁に確認することができる。恐れや苛立ちの理由は、もち ろん「根源的な暴力性」としての自身の心身機能(特に記憶・認知機能)の異変に対する反応と してもある。しかし同時に、彼らの恐れや苛立ちを増長させる要因には、「呆けた」とされる者 に対して向けられる、「排他的」で「差別的」な社会の眼差し=「派生的な暴力性」を、認知症 高齢者自身もまた、確かに有していたことの(

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があるだろう

これは、認知症高齢者の葛藤状況においてわかりやすい形で表出される。彼らの多くが、自身 の認知機能の衰えに気づき始める段階において恐怖や焦燥感を覚える。たとえば「もう私も、呆 けましたかね」と冗談めかして笑ってみたり、またときには「ああ、もうなんにもわからんごと なった」「俺はもう死なやん(死なないといけない)」などと、ストレートに絶望感を表現される ケースもあり、表現の仕方はさまざまである(観察記録より)。しかしいずれにせよ、そこで彼 らは、強者=健常者としての眼差しを、変容しつつある自分自身に向けざるを得ないという、「強 者/弱者」の線引きの狭間で引き裂かれるような経験をしていると推測される。この点は、本 稿において論じてきた認知症高齢者カテゴリーの規定性に関する考察を進めるにあたっては非常 に重要な意味を持つと思われるため、別稿にて改めて論じたい。

つまり、「病」としての認知症に焦点を当てる立場では、原則として、根本的な治療をめざす観点からの研究 を試みることとなる。これについては、狭義の医学や、理化学といった分野において研究が進んでいる。

認知症の中核症状は、発症の仕方に個人差はあるものの、全ての認知症患者に認められるとされる典型的な症 状である。代表的な症状として、記憶障害や見当識障害などがある。

「中核症状」は、器質的な疾患により必然的に発症する症状であるのに対し、「周辺症状」は、「中核症状」の 発症を前提としつつ、さらに周囲との関係性や環境条件などの要件がその発症に大きく関与するとされる症状 である。

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〈参考文献〉

天田城介 24 『老い衰えゆく自己の/と自由―高齢者ケアの社会学的実践論当事者論―』 ハーベスト社

―――― 21 『老い衰えゆくことの発見』 角川書店

荒木正平 27 「認知症高齢者は語ることができるか―「語りの場」としてのグループホームへ―」『文化環 境研究』No.

pp.

4‐

中央法規出版編集部編 23 『六訂版介護福祉用語辞典』中央法規

出口泰靖 24 「『呆け』たら私はどうなるのか? 何を思うのか?」 山田富秋編 『老いと障害の質的社 会学―フィールドワークから』 世界思想社

pp.

井口高志 27 『認知症家族介護を生きる―新しい認知症ケア時代の臨床社会学』 東信堂。

―――― 28 「医療の論理とどう対するか―認知症ケア実戦での医療批判再考」 崎山治男・伊藤智樹・佐 藤恵・三井さよ編 〈支援〉の社会学―現場に向き合う思考』 青弓社

pp.

西村ユミ 27 『交流する身体―〈ケア〉を捉えなおす』 日本放送出版協会 小澤勲 25 『認知症とは何か』 岩波書店

Sacks, Harvey,

9,“Hotrodder: A Revolutionary Category,” Psathas, George, ed., Everyday Language: Studies in Eth-

nomethodology, Irvington Publisher, pp.

3.(=17 山田富秋他編訳『エスノメソドロジー―社会学的思 考の解体』せりか書房)

桜井厚 22『インタビューの社会学―ライフヒストリーの聞き方』 せりか書房

小澤勲[25]等を参照。

本稿では、グループホームにおける参与観察を実施することで得られたフィールド・ノートを資料として用い る。後述するように、介護者へのインタビュー・データも考察に用いるが、彼らの「語り」からだけでは十分 に構築できない現場実践の事例を合わせて紹介することで、より重層的な分析が可能になると考える。

この論点に関しては他に、荒木[27]等を参照のこと。

これとは別に、考えられるもう一つの重要な指摘がある。それは、理解されるべき「意思」が、理解する側( 健 常者である我々 )のあり方と関わりなく独立して存在する対象物であると無条件に把握してよいのか、とい うものである。この点について考えるうえでも、介護場面に関わる各主体に十分に意識化されてこなかった、

認知症高齢者の「語り」の扱われ方についての検証を進めることが、今後必要になると思われる。そのような 検証過程自体が、場合によっては、「意思」の理解という解釈枠組みの変容を迫る問いかけとなる可能性もあ る。それは一つには、たとえば、「意思」と呼ばれるものの在所に関するより根源的な問いであるだろう。あ るいは「意思」と呼ばれるものの生成が、どこで、どのようなプロセスで行われているのか、という問いであ るかもしれない。この論点に関連する研究のうち重要なものとして、西村[27]、桜井[22]等。紙数の 関係上、本稿では詳細な検討を行えないため、機会を改めて論じることとしたい。

このサービスの利用条件の一つは、医師による認知症の診断が出ていることである。多くのグループホームが 共有するセルフイメージとして、たとえば、「家庭的な触れ合い」や「落ち着いた雰囲気」などがある。くつ ろげる雰囲気で、役割を持った生活を送ることにより、認知症患者の症状軽減・緩和などの効果が期待される と説明され、そのような関わり方を理念として掲げる施設も多い。

桜井厚は「おなじカテゴリーがコミュニティの違いによってまったく異なったコンテクストで使われ、異なっ た意味を構成する」ことに注目し、「特定のコミュニティ内でそうした特権的な地位をしめる語り」をさして

「モデル・ストーリー」とよんでいる(桜井[22:36]。本稿においても、この定義を採用する。

10そのほかたとえば井口高志は、家族介護者の経験に焦点化し、認知症(高齢者)ケアに関する社会学的観点か らの考察を行っている。そこでは「フォーマル機関による定義づけ」と、それ以前の「インフォーマル領域に おける、カテゴリー化」という、カテゴリー化段階の区別にも注目して考察が進められている(井口[27:

9]

11ここでの資料は、26年の6月から10月にかけて、九州北部地区において実施してきた、直接面接方式による インタビュー・データからの引用である。インフォーマント(A氏、女性)は、看護師として総合病院で働い た経験を持ちながら介護職員としてグループホームに勤務している。インタビュー当時(26年8月時点)3 代前半で、子育てのため休職中とのことであった。約2時間にわたるインタビューを行い、その内容は、本人 の同意を得て録音を行い、トランスクリプト作業を経て電子データ化した。

12ただし、もちろんカテゴリー化に基づくイメージの割り当てが強者によってなされるとはいえ、そもそも当の

「強者/弱者」の線引き自体にも恣意性は認められるであろう。

13ここで認知症高齢者は、きわめてカオティックな葛藤状況に置かれている。より正確な表現を試みるならば、

二重の「自覚/無自覚」の狭間で自己アイデンティティが引き裂かれていると考えられるのである。一つ目は

「認知症である自己/健常な自己」の狭間において。二つ目は「差別などと無縁であった自己/無意識に差別 に加担してきた自己」の狭間において。

14また「強者/弱者」の狭間におかれた認知症高齢者によって、さまざまに繰り広げられる印象操作の試みの実 際についても、紙数の関係でこれ以上考察を進めることはできないため、別稿にて論じることとしたい。

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