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P・T・フォーサイスにおける神義論 利用統計を見る

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(1)

Title P・T・フォーサイスにおける神義論 Author(s) 高, 萬松

Citation 聖学院大学総合研究所紀要, No.25, 2003.1 : 308-336

URL http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4114

Rights

聖学院学術情報発信システム : SERVE

SEigakuin Repository and academic archiVE

(2)

3 08 

P ・ T ‑

フ ォ

1

サイスにおける神義論

仁 コ

I

品 目

松 はじめに

フ ォ

1

サ イ

ス の

同 封

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足 ︒

ミ ミ

c ︒ 札 ・

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雪之号︑司

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R

下 泣

き お

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リ E S H S S

同討さ忌ミ(一九二ハ年)という著作は

義論﹂(忌席︒庄司)を主題にしている︒ミルトン

C ︒

﹃ ロ

冨 出

件 ︒

ロ 一

六 O 八│七四)

は 司

令 ︑

hHh

史 的 ︒

h a

H に

お い

て ︑

﹁ こ

の 大

い なる主題の高さにふさわしく︑永遠の摂理を擁護し︑神の道の正しさを人びとに明らかにすることができるように﹂

( 1 )  

(円

B

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ユ 思

2 5

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﹀ E

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え の

︒ ι

B E

g ‑

)

と歌っているが︑

るに当たって次のように述べているのは︑ミルトンを意識してのことに違いない︒

フ ォ

1 サイスが神義論を論じ

﹁われわれは︑信仰にも芸術にも向

その作品の目的は︑﹃永遠の摂理を擁護し︑人間に対する神の道を義と

( 2 )  

す る

こ と

﹄ (

叶 ︒

︿ 宮

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古 田 25

一 中

︒ i H

8 8

・ ﹀ 足

‑ ‑ 5 E

守 p m

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え の

︒ ι

Z B

M S

・)と扉に記されている﹂︒ピューリタン

の信仰に立っているミルトンを高く評価しながら︑あの崇高な作品から﹁神義論﹂という言葉の意味を得ょうとしたフ じ

よ う

に ︑

一つの立派な仕事に親しんでいる︒

オーサイスの試みは非常に意味深いことだと言わざるを得ない︒

フ ォ

l サイスの言う神義論には一つの特徴が見られる︒ それは福音的性格として神の恩寵の強調があげられるという

(3)

ことである︒言い換えれば︑神義論の結論として神の義を持つのでなく︑賜物としてそれを持つということである︒神

義論は歴史と関わりのある問題であるが︑ その歴史の問題の解決においても彼は神の恩寵からアプローチしようとし

た︒神義論をめぐる彼の思惟構造は︑神についての唯一の擁護者を神とし︑神ご自身の神義論は御子イエス・キリスト

( 3 )  

という構造を持っている︒

の 十

字 架

に あ

り ︑

﹁神の問題は歴史の問題であり︑歴史の中にある神の問題である﹂ そして

﹂ういう神義論は

﹁ 歴

史 神

学 ﹂

になるのであろうか︒

歴史神学は︑大木英夫教授によれば︑︿

E Z

2 2

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2 の

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‑ ︒

向 日

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け ら

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︒ 前

者 は

︑ 組

織神学︑聖書神学︑実践神学と並立する神学諸科の一つとして︑教理史や教会史を取り扱う歴史神学を意味している︒

し か

し ︑

われわれの関心は後者にある︒すなわち英語でいうと︿岳

g z

唱 え

E ω

ぢ 弓

ること︑すなわちそれが歴史への内在性と超越性の動的結合によってなされる︑ は︑神学そのものが歴史的にな

﹁歴史形成町﹂ということである︒換

目 す

れ ば

﹁ 終

末 論

的 神

学 ﹂

と呼ぶことができよう︒ それは

﹂ こ

で は

﹁ 神

義 論

という問題をめぐってフォ l サイスがどのような原理に立脚してそれを展開し︑歴史をどのよう

に理解しているのかという問いのもとで以下の四つの問題について考察してみたい︒即ち︑第一に神義論の根本原理︑

つまり神の自己義認という理念と購罪論から神義論への転換について︑第二に神の恩寵としての歴史理解について︑第

三に目的論としての神義論について︑第四に審判と神義論という問題について考察する︒

神義論の根本原理

フ ォ

l サイスの言う神義論の底流にある理念を見てみたい︒第一に﹁神の自己義認﹂(∞

o ‑ 3 5 E g

t ド

) )

と い

う 理

P'T・フオーサイスにおける神義論

3 0

(4)

について︑第二に﹁哲学的神義論の排除﹂ について︑第三に﹁蹟罪論から神義論への転換﹂ について考察しよう︒

3

IO 

神の自己義認

( ω o

一 ヱ c

ω Z

2 2

t o

コ )

フ ォ

1 サイスの言う神義論は︑次のように

( 6 )  

﹁義認論の中にその核心﹂を持っている︒ ﹁われわれは︑神の人間に対す

る要求が︑神に対する人間の要求に先行することを認めるよう命じられている︒ そしてこの二つは︑神に対する神の要

求︑神がご自身の要求を満たされることによって無効にされる

( ︒

︿ ゆ

号 ロ

‑ o )

そしてわれわれは不本意ながら︑人間に

さいの根底にある義認は︑神の自己義認(︒︒︻主将

5 5 E 図

︒ 色

︒ ロ

) ついての神の義認のみが︑神についての人間の義認の秘密を解くかぎな

2 2

C

を与えていることを学ぶ︒

であ(か)﹂︑と︒換言すれば︑彼は信仰義認を﹁人間に

﹂ れ

ら い

ついての神の義認﹂

と 表

現 し

︑ 人間が神の正義を判定する

﹁ 神 義 論 ﹂ を ﹁神についての人間の義認﹂

る︒そして︑神の自己義認という理念が両者の根底に据えられているのである︒

そ の

意 味

は ︑

自 身

年 と

目ー

る 六

噴長

二 し

2 3 1 2

と呼ぶことができるし︑ ﹁ 神 み ず か ら 義 と な り ﹂

( 同

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一 町

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円 ・

一 Z H 山 ∞ ︿ 一 F m w E B R

阿 佐

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ロ ω

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ロ マ

童 三

一 ・

六)という御言葉に聖書的根拠を持つ︒

﹁ は

じ め

に ﹂

でフォ!サイスは︑ ピューリタンの信仰に立っているミルトンを高く評価したことにふれたが︑

﹁ 自

己 義

認 ﹂

( ω

巳 ヱ

ω 昨 日

g t

︒ロ)という言葉は︑ミルトン︑トマス・グッドウィン︑オウエンなどのピューリタン神学者たちの

( 9 )  

著作からは発見できない︒どこからフォ l サイスはこのモチーフを得たのであろうか︒恐らく彼は︑他の神学者からこ

の理念を得たのではなく︑

﹁ 信

仰 義

認 ﹂

の理念から逆に思索して得た独創性ある理念であると思われる︒ というのは彼

﹁われわれは︑人間についての神の義認によって︑ご自身についての神の義認に驚いて日を見張る︒両者は一つであ

( 印

)

り︑同じ行為である﹂と述べているように︑信仰義認から神の自己義認を見出す面が見られるからである︒

(5)

彼の神学を﹁十字架の神学﹂

と呼ぶことができる︒神の自己義認も﹁キリスト﹂と

十 字 架 の上に立っていると考

えられるが︑ ﹂れについてみてみよう︒

第一に自己義認の理念が

と結ぼれている点についてみよう︒世界において無秩序が悪や苦痛︑罪責など の形として人間を悩まさせる時︑隠れているように見える神の計画を探求することは︑神の正義と関わりがある︒神の

﹁ キ

リ ス

ト ﹂

正義に対する関心は︑大きく分けて

﹁ 教

会 ﹂

﹁ 世

界 ﹂

から発している︒キリストの十字架と福音に負っている教会か

らの聞いは︑

どうすれば人聞は神と正しい関係に入れるのかである︒

二 OO

一年九・一一同時多発テロの直後の吋を(リマ宣旨ミ心ミミミ

( ω 8

・ N ∞

M o o ‑

) と い う 雑 誌 は 回 目 頭 で ︑ ﹁わたしたち は神から御言葉を願っている︒:::わたしたちは︑神がわたしたちに対して意図していることを絶望的に知ろうとして ( ロ ) いる﹂︑と言う︒想像できない危機の中で神の声をどのように留めることができるのか︑どこでそれを発見することが できるのかという神義論的な聞いではないかと考えられる︒反面︑

エゴイストと共にする世界から発している聞いは︑

どうやって神は人間と正しい関係になるのかである︒前者は人聞を神の法廷に連れて行くが︑後者は神を人間の法廷に

キリストはこの両者を取り扱う︒ 連れて行く︒

フ ォ 1 サイスによれば︑

﹂れが神の自己義認という理念の核心的論理で あろう︒神の道を人間の理性や人間の良心の法廷に持ってくるのでなく︑すべての理性と良心をイエス・キリストと十

(HH) 

字架において神ご自身のための基準に持っていく︑そのような論理である︒こういう論理は︑彼が迫町内マ註註ミ同忌片

ミ司令︑(一九一六年)という著作において︑御子は人間の良心だけでなく︑神の良心をも義とするために来られが)と述

べている論理と一致している︒

キリストがそうすることによって神はご自身の法廷に行くことになり︑神の自己義認

がキリストに具体化されるのである︒

( 日 )

﹁キリスト﹂が与えられたのである︒

それゆえ︑神についての義認はキリストによって人間に与えられたのではなく︑

第二に自己義認の理念が

r‑'‑‑>‑

f  架

と結ぼれている点についてみよう︒唯一の究極的神義論は神の自己義認だと一言え

P.T ・フオーサイスにおける神義論

3 II 

(6)

るが︑神は御子の ﹁十字架﹂においてそのように行った︒なぜ十字架においてであろうか︒ その理由は︑神みずからさ

さげもの

( ω

己 申

︒ 同

2 宮間)になったからである︒ どんな人間の理由づけも御子についての神の処置を越えて︑神を義と

3 12 

することはできないであろう︒ したがって︑神はご自身を義とせざるを得ない︒神は人間に︑ご自身と共に万物を与え

るほど︑御子を惜しまなかった︒邪悪な人間に対して︑ キリストの愛が感じる最悪の条件の下で︑神みずからささげ

も の

に な

っ た

それだけでなく︑聖なる御名に対してもそうした︒人間を義とするだけでなく︑神をも義とした場所が

それ[十字架] ﹁十字架﹂である︒十字架上で︑正義の神は行為者となり︑受難者となった︒﹁しかし︑義とするものがどんなものでも︑

は︑全人類

( F

o g

‑ 2

3 ︒)と共に神のすべての摂理を義とし︑全人類の問題を解決する﹂︑とフォ l サ

十 字

架 に

イスは言う︒審判と恩寵を持つ十字架︑愛と栄光と救いを持つ十字架︑

﹁世界における神の唯一の自己義範﹂がある︒ そして完成された業を持つ十字架︑このような

第 三

に ︑

では︑神の自己義認という理念の神学的妥当性についてみてみよう

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RS? 守ミ

S E U S

︑ ミ

ミ ミ

( 一

九 九

五年)と題するフォ i サイス関連論文集において

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弘 同

ミ ミ

も S

S S という題の論文を書いたマッキノン(ロ

色 色

云 ・

R 豆 百ロロ︒ロ)は︑十字架における神の自己義認という理念を︑フォ!サイスにとって﹁唯一の妥当な神義論﹂(任︒

( 四

)

︒ ロ q

s E P g E Q )

として見なしている︒芳賀力教授によれば︑十字架の神義論はキリスト教的神義論の要衝である︒

こういうことにより︑御子の十字架における神の自己義認という理念は神学的妥当性を持っていると言えよう︒

哲学的神義論の拒否

フ ォ

l

サ イ

ス は

同 出

向 ︑

N h a s s S 3

矢口ミという著作において︑

章を設けている︒彼がそれを設けた理由は︑神義論の問題が哲学に対しても同等のレベルにおいて究極的な問題であっ

﹁ 哲

学 的

神 義

論 ﹂

( 司

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己 百

︒ 品

目 ︒

可 )

と い

う 題

(7)

( 幻 )

たからである︒ しかし神義論をめぐる方法論として︑彼は哲学的なアプローチを排除している︒彼が

( 幻

)

たご計画は哲学者と共にあるのではなく︑預言者と共にある﹂︑と述べているように︑彼を哲学的思考に頼った神学者 ﹁主の秘められ

と呼ぶことはできない︒ むしろ彼は︑哲学的思考から思いを背けるように勧めている︒すなわち︑ ﹁われわれは啓示の

迫力のある力へ向かわなければならない︒ つまり哲学の広大な輪郭

( g

D Z

ロこからもっと広大な神学の軌道(︒号芹)

ヘ︑聖なるものと永遠なるもののエネルギッシュな詩へ向かわなければならな時﹂︑主一一一口う︒このような方向の転換は︑

言い換えれば︑想像から信仰への転換を意味し︑霊感から噴いヘ︑ すべてのものからキリストと十字架への転換を意

味 し

て い

る ︒

フ ォ

1 サイスが哲学を重視しなかった理由は何であろうか︒ その理由は︑彼が哲学における過程(司

5 2

2 )

よりむ

しろ行動

( R

位 ︒

ロ )

や 行

為 2 2 )

を重んじ︑神の栄光をあがめている点にあると考えられる︒人間には答えられない問

いがあるであろう︒例えば︑なぜ被造物は苦しみ続けているのか︑どうして神は善の軌道にのっていた人々の道徳的破

滅を許し︑聖徒の堕落さえも許すことができるのかという問いである︒こういう答えられない問いに対する彼のアプロ

ーチの仕方は︑神に対する信仰と信頼にある︒即ち︑彼は次のように述べている︒

( 斜

)

( g

i D

m 宗門)によって思想家や世界を制する神を信頼することができる﹂︑と︒彼は神への信頼と共に神の栄光をも重 ﹁われわれはただ︑救いの行為

視した︒神が人間に喜びを増大しない時さえも︑神に栄光を帰する信仰︑

( お )

の魂の喜びではなく︑神の栄光である﹂︑と信じている信仰である︒哲学的気質は︑行動より過程にもっと関心を持ち︑ つまり﹁われわれの偉大な目的は︑われわれ

危機よりは結合

( g r g

z ロ)︑奇蹟よりは秩序︑恩寵よりは成長に関心を持つが︑彼は極力こういう気質を避け︑

信仰と神の栄光を目指す神学的思索に逼進したのである︒

﹁ストア主義から啓蒙(口

E E

E 色︒ロ)まで︑ライプニッツ

( Z

E E

R )

( U O 富

山 町

宮 )

ま (

切 に

哲 学

からド・メストル

神義論は形づくられるが︑ その方法論の中の一つには個を全体の従属物として︑個を全体の幸福のための手段としてみ

た だ

P.T ・フオーサイスにおける神義論

3 1

(8)

( 幻 )

て︑個々人の道徳的人格的価値を無視する傾向がある︒こうした哲学的神義論は︑ ﹁魂の決定的な変則(言︒ B

己 可

え 任

そしてそれ自身の弁証法に関して破綻しがちである﹂︑と彼は

3 1

ω ︒己)を考えた時︑私たちの手の中でこわれてしまい︑

言う︒この言説の中で

﹁ 魂

の 決

定 的

な 変

則 ﹂

とは︑十字架のキリストを意味していると考えられる︒換言すれば︑哲学

的神義論がキリストの十字架に適用される時︑矛盾が発生するということである︒ その理由は何であろうか︒二つの理

由がある︒第一の理由は︑ キリストによる救いとして︑彼は救いの経験を述べることによって ﹁個﹂を確立しているか

ら で

あ る

﹁世の罪を取り除く神の子羊よ︑わたしを憐れんでください﹂[ヨハネ一・二九︑

マ タ

イ 一

0

・ 四 七 参 照 ] と

いう聖句があるが︑彼は

﹁ わ

た し

に ﹂

(BO) という言葉に注目して次のように述べている︒ ﹁わたしに対する神の関心

( g

B )

が︑世界に対する神の関心事を信じるわたしの信仰の源泉だということは真実である︒ わたしは救済された

世界の中で救われた︒:::わたしの救いがどれほど深く世界の救いに基礎づけられているかを自覚させたのは︑

の救いであつが)﹂︒こういう告白から全体を贈ったキリストにおける わたし

﹁ 個 ﹂

の確立を見ることができるであろう︒第

の理由は︑十字架のキリストに神の摂理があるからである︒ささいなことにも神の摂理は存在する︒世界のささいなこ

とが摂理を持たないならば︑ そしてそれが偶然の領域の中にあるならば︑世界は善になることも永久になることもでき

な い

で あ

ろ う

ささいなことは永遠の法則から発し︑ それは全体の善をつくる神の摂理である︒十字架は些細なことで

あった︒イエスの時代︑十字架につけられたものは︑もっとも軽蔑されたものであったからである︒しかし︑キリスト

は︑全世界の重荷と未来を含んでいる人間(常 ω ︒己)となったのであ持︒哲学的神義論は︑十字架につけられたキリ

ストに含んでいる神の摂理に対して十分な説明を与えることができなかったと思われる︒

では︑哲学的な方法の影響を受けたキリスト教の道はどうなるのであろうか︒ それについての批判の核心は罪と悪に

対する処理の欠如にある︒このような影響を受けるならば︑和解の概念が万物において神の理想的過程の性質として把

握され︑騒いに対して十分な価値を与えない︒ それゆえ︑哲学的方法の影響を受けた神学は︑ ﹁人間の蹟いや神の関係

(9)

回 復

( 巳

︒ ロ

O B g

言 ︒

︒ 巳

)

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コ リ

ン ト

五 ・

一 九

︑ 二

( 寸

) )

﹂ ︑

と 彼

は 言

う ︒

それは神を義 における和解を発見しなかった

とする(︺己注守)が︑神に栄光を与えることには失敗した︒

一 ー ー 三

購罪論から神義論ヘ

﹁至高の神義論は蹟罪である﹂

( 泣

)

( 叶 F O ω

口 問

) 2

5 0

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︒ 品 w

目 ︒ 山 ︑

宮 町 民 ︒

O ロ

B ︒ 巳

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フ ォ

l サイスの言う神義論のキ 1 ワ

﹂ れ

は ︑

ードだと言える︒ つまり神義論には蹟罪論が横たわっているが︑ そこにフォ 1 サイス独特の理念がある︒ それは英語

の ぼ SDO

件 ︒

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) ︑

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﹁ 関

係 回

復 ﹂

( お )

と 訳

す )

という理念である (大木教授の示唆により﹁神と関

係を回復する﹂ ここではまず︑蹟罪の根幹をなす和解の概念をみた後︑購罪論から神義論への転換をみてみ

' こ

3 0

4J

V

まず考察したいのは︑

﹁ 蹟

罪 ﹂

( 内 四 件 ︒ 口

E m ︒

w 口 同 )

﹁ 円

H

刃 生

1

1

小 目

A 月 ﹂

( 円 ゅ の

︒ ロ 巳

] E Z ︒ ロ )

の理念である︒和解に対す の土台となっている

る伝統的な聖書箇所はこう述べている︒ ﹁神はキリストにおいて世を自分に和解させ︑ その罪過の責任をこれに負わせ

ることをしないで︑:::神はわたしたちの罪のために罪を知らないかたを罪とされた︒

そ れ

は ︑

わたしたちが︑彼にあ

って神の義となるためなのである﹂

( H

コリント五・一九︑二一)︒ にはどういう概念があるのであろうか︒驚

﹁ 日 刃 牛

手 →

A 用 ﹂

くべきことは︑ ﹁神ご自身のうちで和解された﹂

( ︒ ︒

ι 5 8 R

‑ F

仏 三 岳 吉 田 B R R )

という概念である︒これについてみ

てみよう︒和解において神の怒りあるいは神の審判の理由は取り去られるが︑

フ ォ

l サイスは守宮司︒込ミ

Q N

司 法 叫 (

九 一

O

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と い

う 著

作 に

お い

て ヨ

一 早

つ ︒

﹁和解は神が罪の責任を負わせない(口︒ロム自℃己主︒ロ)ことによる︒神が罪の責任

( 泊

)

を負わせないことはキリストがわれわれのために罪とされたことによる﹂︑と︒換言すれば︑罪を知らない永遠の御子

のうえに罪の審判が下った︒そして︑ それによって︑神ご自身のうちで和解されたということである︒神がつねに﹁キ

P ・ T ・フオーサイスにおける神義論

3 1

(10)

リストを喜び﹂とし︑ ﹁神ご自身の聖なる自己満足﹂(路用

8 5 1 R g q )

とするのは︑和解によるものであった︒

和解の基礎をなすものは蹟罪である︒大木教授が見ているように︑和解と購罪の両概念は︑

として見ることができる︒既述した ﹁同一の神的現実に根差

ヲ 1 6

し て

い る

﹂ ︑

﹁ 互 換 融 通 可 能 な 同 義 概 念 ﹂ ﹁円 μ

刃 牛

r t 午 品 問 川 ﹂ の概念を踏まえた上で

﹁ 購

罪 ﹂

層 が

あ る

概念を見てみよう︒人間は神の行為を最後まで拒絶する罪の中に存在している︒罪のゆえに神と人間の問には巨大な断

﹁人間は武器を手にした反逆者のように神と敵対してい持﹂︒それゆえ購罪は人聞からではなく︑神から来な

ければならない︒神が︑罪責を破壊し︑犯した悪を打ち消し︑神ご自身の聖なる御名を崇めることによって︑人間は蹟

われるのである︒すなわち臆罪は︑大木教授によれば︑神が御子イエス・キリストの十字架という傷ましき手続きを経

て実現される神の行為であ認︒この意味で十字架は

﹁ 神

の 十

字 架

で あ

る ︒

十字架において神は人間にこう語っている︒人間は霊的な耳をもって聞くことができよう︒

フ ォ

l サイスは言う︒

﹁わたしの正義の名を弁護する(古色守)

た め

に ︑

わたしは独り子を犠牲にするのだ︒:::われわれは︑あなたたちを

圧倒する重荷を負ったのだ︒:::御子のなしたことは︑ わたしのなしたことである︒:::静まって︑ わたしが神であ

る こ と を 知 れ ︒ その憐れみはその威厳のようであり︑ その全能はおもに赦しと噴いにある︒ 聖性に満ちている新しい

天と地の聖所において︑すべての人々を礼拝に集められるあの日に︑新しい人類が世界ヘ生まれるという喜びのため︑

( お )

苦悩は忘れられるであろう﹂︒すなわち︑神ご自身による正義の名の弁護と︑それによる蹟い︑そして神の喜びが描か

れ で

あ る

︒ ハ ン タ ー

( k r ・冨・出口口宮司)も注意を払っているように︑ここには

( 鈎

)

( }

5 q

E H

F q

ω o

‑ E

S ロ 包

E E

ω

∞︒ロ・)という理念が見られる︒というのは︑フォ 1 サイスはここにおいて︑ ﹁御子における聖なる父の自己関係回復﹂

キリストの

十字架が人間のみを和解し︑神と関係回復しない

( 幼

)

らである︒既述のように︑神はご自身のうちで和解されたが︑臆罪においてもそれと同様に︑神ご自身を贈った

( 口

三 巳

5 ︒ ぎの︒己)ならばこういうことは事実無根だと見ているか

( す

なわち関係回復した) のである︒これが購罪における関係回復という論理である︒十字架における関係回復の結果︑神

(11)

カ ま

﹁ 永

遠 の

歓 喜

( 0 5 5

ニ色色ん)を持つのは当然のことである︒こうして︑神が人間を購ったことは︑神ご自身と関

係回復したということになる︒

フ ォ

1 サイスは︑訴︒忠言︒︒円(﹁関係回復﹂)というモチーフを誰から得たのであろうか︒

( 必

)

さ れ

て い

る ︑

そ れ

は ︑

﹁十九世紀最大

の 牧

師 ﹂

(弓包包存者ロ

‑ E S H

︒ N

Z H A ω

︒ ロ

一 八

一 ム

ハ │

一 八

﹁理想の説教者として高く評価﹂

ロ パ

1 トソン

章 ) ︑

ブ ォ

l サイスは既にロバ 1 トソンを知っていたし

( Q

‑ S

? 凶

︒ ミ

ミ 可

ミ 湾

︑ 第

( 必

)

ロ パ

l トソンが説教の中でピ︒

5s

︒︒円という用法を使ったからである︒また︑ 三)から得たと考えられる︒なぜなら︑

一 八

五 一

年 ︑

﹁キリストによる

和 解

﹁キリスト教の中心的な教理は蹟罪である︒:::それは関係回復

( k r Z 5 2 5 2 C

で あ

る ﹂

と題する説教において

で と あ 説

る§教 。 し

な が ら

( 仲

町 ︒

﹃ め

の ︒

宮 山

口 色

︒ ロ

B え

B 言︒︒仏)という論理を展開したこともあったから ﹁神に対する人間の和解﹂

徹底的な意味において神義論は︑認められた(包宮古包)だけでなくまた崇められた(包︒﹃包)神の義を問題視する︒

神の義を完全に︑静かに︑実践的に告白する一つの場所が人間にはある︒神の義のために行動において神義論を語った

( 必 )

である︑と彼は述べている︒神は十字 場 所 が あ る ︒ ﹁キリストの購罪の十字架﹂

( h

ω ぺ F ユ

ω m w

件 ︒ 巴 ロ

m

同 h

.

ω ω )

そ の

場 所

は ︑

架にご自身の名を永遠に置き︑十字架においてご自身を知る(出足ー

ω ) ︒こうして神は︑永久に神の名を崇める神義論に

﹁人間の噴いや神との関係回復

2 5 3 2 Z

の鉛)﹂における購罪を発見する神学的営みを ご自身を委ねるのである︒

通して︑積罪論が神義論ヘ転換されたのである︒

P.T ・フオーサイスにおける神義論

3 1 7  

(12)

3 1 8  

神の恩寵としての歴史

﹁悲しいことに人々は︑神は歴史から遠く離れて不在であると思っているが︑神と距離を置き︑神を不在とする人間

たちの歴史を︑神はどのようにご覧になっておられることであろうか﹂︒ ﹂れは︑神と歴史との関係を切断する人々に

﹁ こ

れ は

ル タ

1

( 必

)

主義を十七世紀の無味乾燥な正統主義にもたらし︑二十世紀にはビザンティン主義において生ける死をもたらした﹂︑ 対するフォ l サイスの疑問だと思われるが︑ ﹁歴史﹂を度外視する神学に対しても彼は次のように言う︒

と︒ルタ l の神学はフォ l サイスのそれと同様に ﹁十字架の神学﹂と呼ぶことができるが︑実際的には違う︒ウァルテ

ル・フォン・レ!ヴェニヒ(巧巳 F2g

ロ 円

︒ め

当 g

w F

)

( 9 )  

十字架の神学は︑啓示の神学﹂であると述べている︒ は﹃ルタ l の十字架の神学﹄という書において︑

﹁ [

ル タ

! の

] つまり歴史神学でなく︑思弁による認識をしりぞける啓示の神

学だという意味である︒

フ ォ

l

サイスの上記の言説には︑歴史的土台から離れた神学を回復しようとする意図が見ら

れ る

い て

︑ 彼

は フ

1

サ イ

ス は

歴 史

を ど

の よ

う に

み た

の で

あ ろ

う か

︒ 同

封 ︒

ー 可

ミ ミ

丹 念

山 内

¥ k A N h H

E ︒ミ守(一九二二年)という著作にお

﹁歴史﹂を︑大きな意味における歴史と小さな意味における歴史との問︑大きな理念の連続としての歴史と

で は

経験的出来事のかたまりとしての歴史との問︑予測されたものとしての歴史と証明されたものとしての歴史との聞を区

別しようとした︒ドイツ語のの 2

岳 山 ︒

F Z

と 巨

ω ぢユゆとの区別であろう

o E

E 2

‑ o

は歴史学の方法によって決定されるよ

うな歴史である︒ ︒

0 2

E n

F 件︒は︑同室︒ユゆが検討すべき範囲の外にある︑より広いものである︒

( 印

)

フ ォ

1

サイスによれば︑人間を形成する︑創造的なものである︒意味深いのは︑彼がの

2 ︒ F

W F

Z という歴史を

一 方

つ ま り そ れ は ︑

﹁ サ

(13)

ラメント的な歴史﹂

( ω

R 5

5 0

E 巳

F Z g q )

として見なしている点である︒極めてフォ l サイス的な表現だと言えるが︑

彼は聖書における歴史もこのようにみている︒聖書には︑神が人間をどうしようとされているのか︑人間のために何を

しておられるのか︑人聞が救われるためには何をなすべきか︑ という問いとそれの答えが記されている︒

フ ォ

1 サイス

に よ

れ ば

キリスト教の神は︑永久に人間を捜し求め︑見つけ出したもう神︑人間を購うために何かをなされた神であ

それを蹟いの歴史(宮町宮弓︒ご色︒自立古口)と呼ぶこともできるし︑恩寵の徹底的な行動

( ‑

8 m

m R

t g

)

と終局的

行為が表されるゆえに︑恩寵の歴史

( F 2 z

q ぇ

m E

2 )

と呼ぶこともできる︒意味深いのは︑彼は聖書の歴史を︑

( ω R B E g s ‑ F Z

クラメン的な歴史﹂ ( れ)と呼んでいることである︒サクラメント的な歴史とは何であろうか︒彼は言

﹀ つ ノ

それは︑神の

﹁ そ

れ ら

は 証

明 (

℃ 円

︒ ︒

貯 )

サクラメントや源泉である︒ キリストの死は︑何も証明しない︒

で な

く ︑

思寵を伝達し︑そして新生(号者間貯)の源泉である︒それは証明

( 2 E 8 8 )

でなく︑行動であり︑永遠の行為の出

現であ詑﹂︑と︒換言すれば︑サクラメント的な歴史は︑神の恩寵を伝達する行為の歴史であり︑人間を形成する創造

的歴史であると言えよう︒

このような神の思寵を基盤とする歴史理解に神学的妥当性を認めることができるのであろうか︒ラインホールド・ニ

ー バ

l の歴史理解を見ることにしよう︒

ニ ー

1

は ﹃

ミ SS

弘同なぎミ(一九四九年)という著書において︑

﹁ 歴

史 ﹂

対して二つの聖書的観点を述べている︒ またそれによってご自身の目的を その一つは︑神が歴史に対して主権を持ち︑

﹁ 聖

書 的

( 日

)

思想において︑神の思寵は︑歴史の領域において合理的明瞭

( E

ロ E

m E z q )

の限界を超えて意味の構造を完成させる﹂︒

これがニ l パ 1 の見方である︒フォ l サイスは︑神の思寵を宇宙の平面図

( m

g c

足立山口)として見ているが︑この点

( 日

)

においてニ l パ!と親近性を持っていると言えよう︒人間が歴史の意味と目的を発見するのではなく︑受けるもの︑ 達成される普遍的歴史

( E Z q

ご 吾 宮 司 ) g であり︑もう一つは神の主権を無視する人間の倣慢の歴史である︒

すなわち神の恩寵の産物として理解することに︑神学的妥当性を認めることができる︒

P'T・フオーサイスにおける神義論

3 1 9 

(14)

の進路がキリストを説明できるのであるならば︑ それでは︑歴史を神の恩寵によってみるならばどうなるのであろうか︒歴史は自分自身を説明可能であろうか︒歴史

そのことはキリストを歴史の産物に変える︒しかし︑そうではない︒

3 20 

歴史はキリストの産物であり︑ キリストが歴史を説明するのである︒

フ ォ

l サ イ ス は 言 う ︒ ﹁歴史や人間は︑歴史を超

えるだけでなく歴史の中で究極的である何かによってのみ理解されうる︒

そ し

て ︑

それらは歴史に属しないが歴史の中

にあり︑歴史から起こるのではなく歴史に与えた何かによってのみ理解されうる︒またそれらは︑歴史の内部で勝利

的 (

︿ 宵

宮 ユ

︒ 5 )

・ 創

造 的

( Q g 一

昨 日

5 )

に立っている何かによって理解されることができる﹂︑と︒歴史を越えているもの︑

歴史の中で究極的であるもの︑歴史に与えたもの︑ そして歴史の内部で勝利的・創造的に立っているものとは何か︒

れは︑上から来るもの︑ キリストを意味している︒言い換えれば︑歴史には歴史の主︑

キ ス ト が お

「 ら キ れ リ る ス と トをい

で 意 つ

味である︒すなわち︑神の右の手から︑歴史の過程を貫いて神ご自身の蹟いと和解を成し遂げるのは︑

あ る

﹁世界史は世界審判﹂(シラ ︒

l )

だという句があるが︑

フ ォ

l サイスはどのように見ているのであろうか︒彼は部分的

その言葉は︑﹁全部が真実でない(巧﹃

5 ‑

q s

E 5

)

わけではないけれども︑全部が真実(巧

} 5 ‑ q

守 口

︒ )

( 回

)

というわけではない¥と言う︒ニ l バ l も︑﹁これはある意味においては真であるが︑歴史がそれ自身の審判者である

という概念は偽り﹂だと述べる︒部分的に肯定している両者の共通点が見られる︒さらに︑歴史がそれ自身の審判者で に 肯 定 し な が ら ︑

はないという見方には︑両者の見方が一致している︒

的審判を作らない﹂︑と見ている︒なぜ︑世界史は審判を作れないのであろうか︒聖書にはこう記されている︒ つまりフォ 1

サ イ

ス も

﹁世界史はキリストのために世界の終局

﹁ わ

た し

たちが神を愛したのではなく︑神がわたしたちを愛して下さって︑ わたしたちの罪のためにあがないの供え物として︑

御子をおつかわしになった﹂

( I

ヨ ハ

ネ 四

・ 一

O )

︒これが聖書で言う愛である︒世界の根本問題が罪の問題だとするな

ら ば

その罪の問題に対する治癒の方法は愛しかない︒ その治癒のためには︑あがないの供え物(胃︒七日 S

一 民 ︒ ロ ) ︑

つ ま

(15)

り十字架の憐れみ

( B q q )

が要求される︒人間に対する︑神からの愛の最初と最後の賜物は十字架である︒この十字

架は困難からの救出だけでなく︑全世界の原理と尺度でもある︒このように︑十字架の主が宇宙的

( 5 守

q g ] )

審判の

( 臼

)

終 局

的 受

託 者

( 出

口 包

守 口

ω 苛め)になるゆえに︑世界史は世界の審判を作らないのである︒フォ!サイスは世界史を救済

( 臼

)

史的に捉えながら次のように一言う︒﹁世界の審判は世界の歴史でなく︑世界の救い主である﹂︑と︒

目的論(豆

g ‑ ︒

当 ) と し て の 神 義 論

歴史には歴史を貫いている目的がある︒ その目的を哲学的な仕方で解く方法もあれば︑福音的な仕方で解く方法もあ

( m m )  

である﹂︑と述

フ ォ

1 サイスは後者を選んでいる︒すなわち︑彼が ﹁唯一の可能な目的論は福音的

( 2 8 m

o 腎

包 )

べ て い る よ う に ︑ それは思寵と信仰に属するものとして︑救済論によってのみ保証された目的論を目指している︒

因 ω 寵と信仰に属する.﹁福音的目的論﹂をみてみたい︒既述のように︑ それは恩寵に属し︑また信仰に属するものを示

している︒恩寵に属するという意味は︑神の目的を神から与えられたものから追求することを意味している︒ すなわ

ち︑絶対的な確かさをもって与えられ︑自ら与えられた神から出発するという意味である︒ ﹁被造物はキリスト教を説

明 で

き な

い が

キリスト教は被造物を説明できる︒ われわれは命の目的論を形づくることができない︒:::われわれは

つまり別の方法では絶対的な確かさをもって与えられ︑自ら与えられた

( 似

)

に由来しなければならない﹂︑と彼は言う︒換言すれば︑人間の側から目的論を作るのではなく︑神から与えられたも あ

の 神

( ω

' m 己 同

‑ S D )

神 [

即 ち

キリスト]

のから神の目的を発見すること︑これが彼の言う目的論の核心の一つである︒ さらにもう一つの信仰に属するという意

味は︑世界の購い主を信じる信仰を意味している︒人間は世界の噴いを信じる信仰を持つゆえに︑世界に対する大きな

P ・ T ・フオーサイスにおける神義論

3 21 

(16)

定めを信じるであろう︒単なるエゴイストならば︑人間は繁栄するために生まれたと言うかも知れない︒こういう人々

に比べて︑人間は臆われるために生まれたと信じる信仰者は偉大であろう︒

て︑世界の蹟い主(何色

2 5

2 )

と蹟いを信じる生ける信仰を強調しつつ︑その信仰を

( 防

)

見なしている︒もう一つ見てみたいのは︑

フ ォ

1 サイスは後者に属する神学者とし

3 22 

﹁ 世 界 の 唯 一 の 目 的 論 ﹂ として

﹁救済論に保証された目的論﹂

の 意

味 で

あ る

そ れ

は ︑

﹁救い﹂を目的論の本

質と見なすことだと思われる︒神は人間を救うだろうし︑救わなければならない︒救いは︑彼によれば︑創造の原理で

あり︑神の聖なる目的である︒人間に必要なことは︑救いに対する終局的な保証である︒人間は何を所有してその保証

を得るのであろうか︒ ﹁信仰の結果なるたましいの救いを得ている﹂

( I

ペテロ一・九)と記されているように︑魂は信

仰の結果(任︒ g 巳え在任)によって救われ︑ そして未来について確信するのである︒しかし人間は︑

の勝利︑そして彼[神]の福音のゆえ時﹂︑神を信じる︒それゆえ︑

が世界の救いを﹁キリスト教の目的論の本質﹂として見なしている︑その根底には

﹁ 彼

[ 神

]

のキリ

スト︑彼[神] の十字架︑彼[神]

フ ォ

1 サイス

﹁ 十

字 架

﹂ が

横 た

わ っ

て い

る と

一 一

百 え

i m ﹀ つ ノ ︒

では︑彼の言う目的論が

﹁ 終

局 的

勝 利

( 出 E

‑ 4 1 2

︒弓)を目指していることについてみてみたいが︑なぜそれが

利﹂という理念と結ぼれているのであろうか︒ その理由は︑彼が ﹁勝利﹂を目的論的問題に対する解決としてみている

からである︒即ち︑ ﹁目的論的問題に対する解決は︑単純に啓示の成果(ぎ号母貯

R O )

で は

な く

で 、 そ

ヴ 合 れ

i y ピヨは

道 と 徳 彼 的 は 勝 言 利

( ω

︒ B s

‑ i 2 c q )

であり︑噴いである︒ それは宇宙を回復したその道徳的勝利

( B

O E

R 己 i2

︒ ミ

) う︒次のような問いがあるであろう︒最後の敵は十字架においてすでに滅ぼされたのか︒最後の勝利は打ち勝ったの

か︒すべてのものはすでに神の愛と思寵の足下に置かれているのか︑ という聞いである︒ ﹂ういう問いに対して何をも

って答えられるのか︒ その答えが

﹁ 勝

利 者

キ リ

ス ト

にある︒なぜなら︑ キリストは ﹁力﹂をもって︑すでに業を成し

遂げたからである︒

﹁ 勇

気 を

出 し

な さ

い ︒

わたしはすでに世に勝っている﹂

( ヨ

ハ ︑

不 一

ム ハ

・ 三

三 )

﹁ 世

に 打

ち 勝

つ 勝

利 ︑

(17)

それはわたしたちの信仰です﹂

( 新

共 同

ーヨハネ五・四)という御言葉のように︑ キリスト者のいのちは復活者イ

エス・キリストと共に神のうちに隠されている

( コ

ロ サ

イ 三

・ 三

) ︒

す な

わ ち

﹂の勝利とは︑信仰の眼によってのみ

見える︑隠された勝利である︒

フ ォ

l サイスの言う目的論は︑このように恩寵と信仰の上に立っている︒ それゆえ︑われわれは次のような仕方で歴

史の意味を見分けようとした︑ R ・ M ・ブラウンを評価したい︒ブラウンは︑歴史的な出来事︑

﹁信仰による解問﹂の必要性を強調したので つまりイエス・キリス

トにおける恩寵の賜物を通して伝えられた歴史の意味を見分けるために︑

あ る

︒ し

か し

フォ!サイスの言う目的論に対するマッキノン(口︒

E E

冨 ・

宮 内

胃 百

ロ ロ

︒ ロ

) の

言 及

に は

疑 問

の 余

地 が

あ る

マッキノンは

﹁ 目

的 論

と 蹟

い ﹂

( E g z

可 m m

百 円 四

. 0 円

P E H )

︒ ロ

) と

題 す

る 論

文 に

お い

て ︑

﹁ フ

1 サイスはへ!ゲルの﹃宗教

( 初

)

哲学﹄を引用しているにもかかわらず︑彼の気質(常百円高円)は常にもっとカント哲学的(問自民自)である﹂︑と述べて

いるが︑果たしてそうであろうか︒

フ ォ

1 サイスの言う目的論は︑ マッキノンの言うように哲学的でないと考えられ

る ︒

と い

う の

は ︑

フ ォ

1 サイスは目的論をめぐって哲学的にではなく実践的に問題を解決しようとしたし︑世界の問題

解決のためにキリストを絶対的土台として信頼したからである︒

フ ォ

i サ

イ ス

は 言

う ︒

﹁ キ

リ ス

ト 教

は ︑

: :

: わ

れ わ

が勝ち取る勝利ではなく︑われわれが受け継ぐ勝利である︒それが福音的原理である︒われわれは答えを調べる(認め)

のではない︒われわれは解答者

E 2

2 )

を信頼す(れ)﹂︒こうした姿勢を︑哲学的であると言えるのであろうか︒

以 上

の よ

う に

フ ォ

1 サイスは信仰と恩寵に属する福音的目的論を主張した︒

( η )  

する情熱ヘ元気付け︑深めている﹂と彼がのべているように︑目的論は神義論ヘ転換可能である︒ ﹁目的論に対する欲望は︑神義論に対

﹁終局的勝利﹂とい

う理念は︑目的論的問題に対する解決であると同時に︑神義論的問題の解決にもなる︒

し た

が っ

て ︑

﹁ 勝

利 者

イ エ

ス ・

の中に神義論の核心がある︒芳賀力教授は﹃自然︑歴史そして神義論﹄という著書において︑勝利者イエ

ス・キリストの中に生の根拠を置いている神義論を正当な神義論として見なしていお︒ キ

リ ス

ト ﹂

ブ ォ

1 サイスの言う目的論もこ

P.T ・フオーサイスにおける神義論

3 2 3  

(18)

の範障に属している正当な神義論であると考えられる︒

3 2

審判と神義論

フ ォ

l

サイスは歴史の問題をめぐって審判という理念を強調した︒その理由は︑神の愛を感傷的に取り扱ったその時

( 九

)

代を覚醒させるためであった︒ここでは︑審判を恩寵として見なす点と︑それが神義論の要素になることについて考察

し て み た い ︒

四ー

恩寵と審判

どうして

﹁ 審

判 ﹂

﹁神の恩寵﹂となるのであろうか︒まず︑

という言葉が聖書学的に妥当であるか考察しよう︒

﹁ 救

済 の

審 判

﹂ フ

l サイスのいう﹁救済の審判﹂

( g i

ロ 阿 古 島

m g g c

とは︑十字架から広げられている審判を表現してい

る︒旧約では審判が救い主の訪れとして描かれている︒ ﹁天は喜び︑地は楽しみ︑:::主は来られる︑地をさばくため

( 詩

篇 九

六 ・

Ol

一三)︒新約では︑十字架はさばくためにあるのではないことと︑

判はイエス・キリストによって遂げられ完成されたという見方を得ることができ弱︒特に︑ に来られる﹂ 終局的(出

g ‑ )

﹁父はだれをもさばかな

い︒さばきのことはすべて︑子にゆだねられたからである﹂

( ヨ

ハ ネ

五 ・

一 一

二 )

という御言葉は注目に値する︒

と し ユ

﹀ つ

の は

そこには

﹁ 救

済 の

審 判

の意味が含蓄されているからである︒ R ・

E ‑

ブラウン

m q ( 同

H H 5

ロ 門 日 間 山 ・ 回 ﹃

︒ 者 ロ )

は 同 吋

w m

w

ヘ 曲 ミ 之 さ 晴

︑ 切 芯 な の

﹁ ヨ

ハ ネ

注 解

に お

い て

﹁イエスは審判者である︒なぜなら御父は御子に審判の力を引き渡した

r t ‑

z  s 

(19)

( 祁 )

2 2

)

からである﹂と注釈し︑

( 作

)

( g ‑ i

出 ユ

ロ ︻

日 間

目 ︒

ロ 乙

で あ

る ﹂

と 注

記 し

て い

る ︒

い で

あ ろ

う ︒

﹁[五章]二二節における﹃審判﹄とは命を与える力を含んでいる︑救いをもたらす審判

﹁ 救 い を も た ら す 審 判 ﹂

と い

う 言

一 某

は ︑

﹁ 救

済 の

審 判

と同一視してもよ

こうして︑神の審判は人間の救いを目的とする救済の審判であり︑ その救済の審判の行為が十字架におい

て永遠の霊的資源として存在するのである︒

どうやって審判は思寵と調和するのか︑ どうやって恵み深い神は恩寵において裁くのか︑ という問いがある︒

し︑既述したようにフォ 1 サイスにおける の理念は︑恩寵と反対の意味で使われていない︒ R ・ M ・ブラウン

( H g Z

1 存

K 2

∞ 5

4 3

)

ぎ一一一口うように︑審判と恩寵を﹁弁証法問﹂に扱っていると言ってよいであろう︒すなわち両

﹁ 審

判 ﹂

者は︑歴史における神の同じ機能とオペレーションに対して異なる面を持っている︒

( 乃

)

いて達成された審判なしには︑歴史の目的を把握することができないのである︒

そ れ

ゆ え

キリストの十字架にお

で は

﹁ 終

局 的

( 出

E ] )

審判﹂を恩寵と見なしている点をみよう︒ ﹁もし和解が十字架のおもてであるならば︑審判は

そのうらである︒恩寵と審判はキリストの同一の行為である︒完全な恩寵は過去も現在も終局的審判(出 E

ニ ロ

牛 肉

5 8

円 )

であか)﹂︑と彼は言う︒終局的審判とは何か︒それは︑歴史的キ である︒救いを無視することが断罪

( g D

仏 ゆ

目 白

色 ︒

ロ )

リストの働きと綿密に関連し︑それと同一視され︑

た﹂審判を意味する︒審判の終局性

S E ‑ ‑

q ) ︑ そして ﹁イエス・キリストにおいて原理的に遂げられ︑完成され

つまり魂にとってその終局的審判は世界で一つしかないということに

重点が置かれている︒すべての世界はキリストの前に立ち︑各々の人間は救われた場所に向けて終局的にさばかれる︒

こういうことには︑神の処置が必要となる︒

それゆえ︑十字架におけるキリストの働きは世界の救いのための世界の

審判となる︒

それが世界に対する神の終局的処置である︒彼が終局的審判を恩寵として見なしている理由がここにあ

﹁ 歴

史 や

魂 は

( 幻

)

ある﹄﹂︑と彼は言う︒したがって偉大な審判はキリストの恩寵である︒

キリストにおけるその審判なしには決してその真の目的が起こらない︒﹃生きることはキリストで

し か

P'T ・フオーサイスにおける神義論

3 2 5  

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