Title P・T・フォーサイスにおける神義論 Author(s) 高, 萬松
Citation 聖学院大学総合研究所紀要, No.25, 2003.1 : 308-336
URL http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4114
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3 08
P ・ T ‑
フ ォ
1
サイスにおける神義論
仁 コ
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品 目
松 はじめに
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1
サ イ
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同 封
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足 ︒
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雪之号︑司
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下 泣
き お
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同討さ忌ミ(一九二ハ年)という著作は
神
義論﹂(忌席︒庄司)を主題にしている︒ミルトン
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六 O 八│七四)
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﹁ こ
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い なる主題の高さにふさわしく︑永遠の摂理を擁護し︑神の道の正しさを人びとに明らかにすることができるように﹂
( 1 )
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と歌っているが︑
るに当たって次のように述べているのは︑ミルトンを意識してのことに違いない︒
フ ォ
1 サイスが神義論を論じ
﹁われわれは︑信仰にも芸術にも向
その作品の目的は︑﹃永遠の摂理を擁護し︑人間に対する神の道を義と
( 2 )
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・)と扉に記されている﹂︒ピューリタン
の信仰に立っているミルトンを高く評価しながら︑あの崇高な作品から﹁神義論﹂という言葉の意味を得ょうとしたフ じ
よ う
に ︑
一つの立派な仕事に親しんでいる︒
オーサイスの試みは非常に意味深いことだと言わざるを得ない︒
フ ォ
l サイスの言う神義論には一つの特徴が見られる︒ それは福音的性格として神の恩寵の強調があげられるという
ことである︒言い換えれば︑神義論の結論として神の義を持つのでなく︑賜物としてそれを持つということである︒神
義論は歴史と関わりのある問題であるが︑ その歴史の問題の解決においても彼は神の恩寵からアプローチしようとし
た︒神義論をめぐる彼の思惟構造は︑神についての唯一の擁護者を神とし︑神ご自身の神義論は御子イエス・キリスト
( 3 )
という構造を持っている︒
の 十
字 架
に あ
り ︑
﹁神の問題は歴史の問題であり︑歴史の中にある神の問題である﹂ そして
﹂ういう神義論は
﹁ 歴
史 神
学 ﹂
になるのであろうか︒
歴史神学は︑大木英夫教授によれば︑︿
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︒ 前
者 は
︑ 組
織神学︑聖書神学︑実践神学と並立する神学諸科の一つとして︑教理史や教会史を取り扱う歴史神学を意味している︒
し か
し ︑
われわれの関心は後者にある︒すなわち英語でいうと︿岳
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唱 え
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ぢ 弓
﹀
ること︑すなわちそれが歴史への内在性と超越性の動的結合によってなされる︑ は︑神学そのものが歴史的にな
﹁歴史形成町﹂ということである︒換
目 す
れ ば
︑
﹁ 終
末 論
的 神
学 ﹂
と呼ぶことができよう︒ それは
﹂ こ
で は
﹁ 神
義 論
﹂
という問題をめぐってフォ l サイスがどのような原理に立脚してそれを展開し︑歴史をどのよう
に理解しているのかという問いのもとで以下の四つの問題について考察してみたい︒即ち︑第一に神義論の根本原理︑
つまり神の自己義認という理念と購罪論から神義論への転換について︑第二に神の恩寵としての歴史理解について︑第
三に目的論としての神義論について︑第四に審判と神義論という問題について考察する︒
神義論の根本原理
フ ォ
l サイスの言う神義論の底流にある理念を見てみたい︒第一に﹁神の自己義認﹂(∞
o ‑ 3 5 E g
t ド
) )
と い
う 理
念
P'T・フオーサイスにおける神義論
3 0 9
について︑第二に﹁哲学的神義論の排除﹂ について︑第三に﹁蹟罪論から神義論への転換﹂ について考察しよう︒
3
IO神の自己義認
( ω o
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2 2
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コ )
フ ォ
1 サイスの言う神義論は︑次のように
( 6 )
﹁義認論の中にその核心﹂を持っている︒ ﹁われわれは︑神の人間に対す
る要求が︑神に対する人間の要求に先行することを認めるよう命じられている︒ そしてこの二つは︑神に対する神の要
求︑神がご自身の要求を満たされることによって無効にされる
( ︒
︿ ゆ
号 ロ
‑ o )
︒
そしてわれわれは不本意ながら︑人間に
さいの根底にある義認は︑神の自己義認(︒︒︻主将
5 5 E 図
︒ 色
︒ ロ
) ついての神の義認のみが︑神についての人間の義認の秘密を解くかぎな
2 2
C
を与えていることを学ぶ︒
であ(か)﹂︑と︒換言すれば︑彼は信仰義認を﹁人間に
﹂ れ
ら い
っ
ついての神の義認﹂
と 表
現 し
︑ 人間が神の正義を判定する
﹁ 神 義 論 ﹂ を ﹁神についての人間の義認﹂
る︒そして︑神の自己義認という理念が両者の根底に据えられているのである︒
そ の
意 味
は ︑
自 身
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と呼ぶことができるし︑ ﹁ 神 み ず か ら 義 と な り ﹂
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一 ・
二
六)という御言葉に聖書的根拠を持つ︒
﹁ は
じ め
に ﹂
でフォ!サイスは︑ ピューリタンの信仰に立っているミルトンを高く評価したことにふれたが︑
﹁ 自
己 義
認 ﹂
( ω
巳 ヱ
ロ
ω 昨 日
g t
︒ロ)という言葉は︑ミルトン︑トマス・グッドウィン︑オウエンなどのピューリタン神学者たちの
( 9 )
著作からは発見できない︒どこからフォ l サイスはこのモチーフを得たのであろうか︒恐らく彼は︑他の神学者からこ
の理念を得たのではなく︑
﹁ 信
仰 義
認 ﹂
の理念から逆に思索して得た独創性ある理念であると思われる︒ というのは彼
﹁われわれは︑人間についての神の義認によって︑ご自身についての神の義認に驚いて日を見張る︒両者は一つであ
( 印
)
り︑同じ行為である﹂と述べているように︑信仰義認から神の自己義認を見出す面が見られるからである︒
カ
ま
彼の神学を﹁十字架の神学﹂
と呼ぶことができる︒神の自己義認も﹁キリスト﹂と
十 字 架 の上に立っていると考
えられるが︑ ﹂れについてみてみよう︒
第一に自己義認の理念が
と結ぼれている点についてみよう︒世界において無秩序が悪や苦痛︑罪責など の形として人間を悩まさせる時︑隠れているように見える神の計画を探求することは︑神の正義と関わりがある︒神の
﹁ キ
リ ス
ト ﹂
正義に対する関心は︑大きく分けて
﹁ 教
会 ﹂
と
﹁ 世
界 ﹂
から発している︒キリストの十字架と福音に負っている教会か
らの聞いは︑
どうすれば人聞は神と正しい関係に入れるのかである︒
二 OO
一年九・一一同時多発テロの直後の吋を(リマ宣旨ミ心ミミミ
( ω 8
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M o o ‑
) と い う 雑 誌 は 回 目 頭 で ︑ ﹁わたしたち は神から御言葉を願っている︒:::わたしたちは︑神がわたしたちに対して意図していることを絶望的に知ろうとして ( ロ ) いる﹂︑と言う︒想像できない危機の中で神の声をどのように留めることができるのか︑どこでそれを発見することが できるのかという神義論的な聞いではないかと考えられる︒反面︑
エゴイストと共にする世界から発している聞いは︑
どうやって神は人間と正しい関係になるのかである︒前者は人聞を神の法廷に連れて行くが︑後者は神を人間の法廷に
キリストはこの両者を取り扱う︒ 連れて行く︒
フ ォ 1 サイスによれば︑
﹂れが神の自己義認という理念の核心的論理で あろう︒神の道を人間の理性や人間の良心の法廷に持ってくるのでなく︑すべての理性と良心をイエス・キリストと十
(HH)
字架において神ご自身のための基準に持っていく︑そのような論理である︒こういう論理は︑彼が迫町内マ註註ミ同忌片
ミ司令︑(一九一六年)という著作において︑御子は人間の良心だけでなく︑神の良心をも義とするために来られが)と述
べている論理と一致している︒
キリストがそうすることによって神はご自身の法廷に行くことになり︑神の自己義認
がキリストに具体化されるのである︒
( 日 )
﹁キリスト﹂が与えられたのである︒
それゆえ︑神についての義認はキリストによって人間に与えられたのではなく︑
第二に自己義認の理念が
十
r‑'‑‑>‑
f 架
と結ぼれている点についてみよう︒唯一の究極的神義論は神の自己義認だと一言え
P.T ・フオーサイスにおける神義論
3 II
るが︑神は御子の ﹁十字架﹂においてそのように行った︒なぜ十字架においてであろうか︒ その理由は︑神みずからさ
さげもの
( ω
己 申
︒ 同
2 宮間)になったからである︒ どんな人間の理由づけも御子についての神の処置を越えて︑神を義と
3 12
することはできないであろう︒ したがって︑神はご自身を義とせざるを得ない︒神は人間に︑ご自身と共に万物を与え
るほど︑御子を惜しまなかった︒邪悪な人間に対して︑ キリストの愛が感じる最悪の条件の下で︑神みずからささげ
も の
に な
っ た
︒
それだけでなく︑聖なる御名に対してもそうした︒人間を義とするだけでなく︑神をも義とした場所が
それ[十字架] ﹁十字架﹂である︒十字架上で︑正義の神は行為者となり︑受難者となった︒﹁しかし︑義とするものがどんなものでも︑
は︑全人類
( F
o g
‑ 2
3 ︒)と共に神のすべての摂理を義とし︑全人類の問題を解決する﹂︑とフォ l サ
十 字
架 に
︑
イスは言う︒審判と恩寵を持つ十字架︑愛と栄光と救いを持つ十字架︑
﹁世界における神の唯一の自己義範﹂がある︒ そして完成された業を持つ十字架︑このような
第 三
に ︑
では︑神の自己義認という理念の神学的妥当性についてみてみよう
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RS? 守ミ
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ミ ミ
( 一
九 九
五年)と題するフォ i サイス関連論文集において
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S S という題の論文を書いたマッキノン(ロ
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云 ・
R 豆 百ロロ︒ロ)は︑十字架における神の自己義認という理念を︑フォ!サイスにとって﹁唯一の妥当な神義論﹂(任︒
( 四
)
︒ ロ q
s E P g E Q )
として見なしている︒芳賀力教授によれば︑十字架の神義論はキリスト教的神義論の要衝である︒
こういうことにより︑御子の十字架における神の自己義認という理念は神学的妥当性を持っていると言えよう︒
哲学的神義論の拒否
フ ォ
l
サ イ
ス は
同 出
向 ︑
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矢口ミという著作において︑
章を設けている︒彼がそれを設けた理由は︑神義論の問題が哲学に対しても同等のレベルにおいて究極的な問題であっ
﹁ 哲
学 的
神 義
論 ﹂
( 司
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己 百
︒ 品
目 ︒
可 )
と い
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の
( 幻 )
たからである︒ しかし神義論をめぐる方法論として︑彼は哲学的なアプローチを排除している︒彼が
( 幻
)
たご計画は哲学者と共にあるのではなく︑預言者と共にある﹂︑と述べているように︑彼を哲学的思考に頼った神学者 ﹁主の秘められ
と呼ぶことはできない︒ むしろ彼は︑哲学的思考から思いを背けるように勧めている︒すなわち︑ ﹁われわれは啓示の
迫力のある力へ向かわなければならない︒ つまり哲学の広大な輪郭
( g
D Z
ロこからもっと広大な神学の軌道(︒号芹)
ヘ︑聖なるものと永遠なるもののエネルギッシュな詩へ向かわなければならな時﹂︑主一一一口う︒このような方向の転換は︑
言い換えれば︑想像から信仰への転換を意味し︑霊感から噴いヘ︑ すべてのものからキリストと十字架への転換を意
味 し
て い
る ︒
フ ォ
1 サイスが哲学を重視しなかった理由は何であろうか︒ その理由は︑彼が哲学における過程(司
5 2
2 )
よりむ
しろ行動
( R
位 ︒
ロ )
や 行
為 2 2 )
を重んじ︑神の栄光をあがめている点にあると考えられる︒人間には答えられない問
いがあるであろう︒例えば︑なぜ被造物は苦しみ続けているのか︑どうして神は善の軌道にのっていた人々の道徳的破
滅を許し︑聖徒の堕落さえも許すことができるのかという問いである︒こういう答えられない問いに対する彼のアプロ
ーチの仕方は︑神に対する信仰と信頼にある︒即ち︑彼は次のように述べている︒
( 斜
)
( g
i D
m 宗門)によって思想家や世界を制する神を信頼することができる﹂︑と︒彼は神への信頼と共に神の栄光をも重 ﹁われわれはただ︑救いの行為
視した︒神が人間に喜びを増大しない時さえも︑神に栄光を帰する信仰︑
( お )
の魂の喜びではなく︑神の栄光である﹂︑と信じている信仰である︒哲学的気質は︑行動より過程にもっと関心を持ち︑ つまり﹁われわれの偉大な目的は︑われわれ
危機よりは結合
( g r g
z ロ)︑奇蹟よりは秩序︑恩寵よりは成長に関心を持つが︑彼は極力こういう気質を避け︑
信仰と神の栄光を目指す神学的思索に逼進したのである︒
﹁ストア主義から啓蒙(口
E E
E 色︒ロ)まで︑ライプニッツ
( Z
E E
R )
( U O 富
山 町
宮 )
ま (
切 に
哲 学
的
からド・メストル
神義論は形づくられるが︑ その方法論の中の一つには個を全体の従属物として︑個を全体の幸福のための手段としてみ
た だ
P.T ・フオーサイスにおける神義論
3 1 3
( 幻 )
て︑個々人の道徳的人格的価値を無視する傾向がある︒こうした哲学的神義論は︑ ﹁魂の決定的な変則(言︒ B
己 可
え 任
︒
そしてそれ自身の弁証法に関して破綻しがちである﹂︑と彼は
3 1 4
ω ︒己)を考えた時︑私たちの手の中でこわれてしまい︑
言う︒この言説の中で
﹁ 魂
の 決
定 的
な 変
則 ﹂
とは︑十字架のキリストを意味していると考えられる︒換言すれば︑哲学
的神義論がキリストの十字架に適用される時︑矛盾が発生するということである︒ その理由は何であろうか︒二つの理
由がある︒第一の理由は︑ キリストによる救いとして︑彼は救いの経験を述べることによって ﹁個﹂を確立しているか
ら で
あ る
︒
﹁世の罪を取り除く神の子羊よ︑わたしを憐れんでください﹂[ヨハネ一・二九︑
マ タ
イ 一
0
・ 四 七 参 照 ] と
いう聖句があるが︑彼は
﹁ わ
た し
に ﹂
(BO) という言葉に注目して次のように述べている︒ ﹁わたしに対する神の関心
事
( g
B )
が︑世界に対する神の関心事を信じるわたしの信仰の源泉だということは真実である︒ わたしは救済された
世界の中で救われた︒:::わたしの救いがどれほど深く世界の救いに基礎づけられているかを自覚させたのは︑
の救いであつが)﹂︒こういう告白から全体を贈ったキリストにおける わたし
﹁ 個 ﹂
の確立を見ることができるであろう︒第
の理由は︑十字架のキリストに神の摂理があるからである︒ささいなことにも神の摂理は存在する︒世界のささいなこ
とが摂理を持たないならば︑ そしてそれが偶然の領域の中にあるならば︑世界は善になることも永久になることもでき
な い
で あ
ろ う
︒
ささいなことは永遠の法則から発し︑ それは全体の善をつくる神の摂理である︒十字架は些細なことで
あった︒イエスの時代︑十字架につけられたものは︑もっとも軽蔑されたものであったからである︒しかし︑キリスト
は︑全世界の重荷と未来を含んでいる人間(常 ω ︒己)となったのであ持︒哲学的神義論は︑十字架につけられたキリ
ストに含んでいる神の摂理に対して十分な説明を与えることができなかったと思われる︒
では︑哲学的な方法の影響を受けたキリスト教の道はどうなるのであろうか︒ それについての批判の核心は罪と悪に
対する処理の欠如にある︒このような影響を受けるならば︑和解の概念が万物において神の理想的過程の性質として把
握され︑騒いに対して十分な価値を与えない︒ それゆえ︑哲学的方法の影響を受けた神学は︑ ﹁人間の蹟いや神の関係
回 復
( 巳
︒ ロ
O B g 片
言 ︒
︒ 巳
)
( H
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ン ト
五 ・
一 九
︑ 二
( 寸
) )
﹂ ︑
と 彼
は 言
う ︒
それは神を義 における和解を発見しなかった
とする(︺己注守)が︑神に栄光を与えることには失敗した︒
一 ー ー 三
購罪論から神義論ヘ
﹁至高の神義論は蹟罪である﹂
( 泣
)
( 叶 F O ω
口 問
) 2
5 0
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︒ 品 w
目 ︒ 山 ︑
宮 町 民 ︒
O ロ
B ︒ 巳
・ ) ︒
フ ォ
l サイスの言う神義論のキ 1 ワ
﹂ れ
は ︑
ードだと言える︒ つまり神義論には蹟罪論が横たわっているが︑ そこにフォ 1 サイス独特の理念がある︒ それは英語
の ぼ SDO
件 ︒
︒ ︒
円 (
あ る
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︑ ば
⑦ ‑ E
Z ロ
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) ︑
す な
わ ち
﹁ 関
係 回
復 ﹂
( お )
と 訳
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︒
という理念である (大木教授の示唆により﹁神と関
係を回復する﹂ ここではまず︑蹟罪の根幹をなす和解の概念をみた後︑購罪論から神義論への転換をみてみ
' こ
3 0
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まず考察したいのは︑
﹁ 蹟
罪 ﹂
( 内 四 件 ︒ 口
E m ︒
w 口 同 )
﹁ 円
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刃 生
1