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―1885年『基督教海徳山問答』との比較からみた口語文の近代化―

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(1)

1884 年『鄙語海徳山問答』の脱欧文脈と脱漢文脈

―1885 年『基督教海徳山問答』との比較からみた口語文の近代化―

松 本   隆

Modernization of colloquialism in HINA-KOTOBA Heidelberg Catechism published in 1884.

― Compared with KIRISUTO-KYO Heidelberg Catechism published in 1885 which was strongly influenced by the Chinese

and Western languages ―

Takashi M

ATSUMOTO

  This…paper…compares…two…of…the…Heidelberg…Catechism…translations,…

that…were…published…in…1884…and…1885,…and…examines…the…modernization…

of… colloquialism… from… the… aspects… of… discourse… patterns,… sentence…

structures,… expressions,… vocabulary… and… characters… used… in… the… two…

Japanese… translations.… Both… of… the… Catechisms… were… translated… into… the…

same… colloquial… Gozari-Masu(ru)… style,… but… the… 1885… translation… was…

strongly… influenced… by… the… styles… of… both… the… Chinese… and… Western…

languages,…appearing…crude…and…deviating…from…spoken…Japanese.…On…the…

other… hand,… the… 1884… translation… was… more… natural… and… easier… to… read,…

and…the…unification…of…the…written…and…spoken…forms…of…Japanese…can…be…

seen… in… the… text.… The… unification… also… facilitated… the… readers'… sense… of…

closeness… to… Christianity… by… using… daily… expressions… for… God… and… Jesus,…

and…by…supplementing…explanatory…words.

要  旨

 明治前期に邦訳出版された 2 種類のハイデルベルク信仰問答を,文章構 造・構文・表現・語彙・用字の各面から比較し,口語体文章の近代化につ

(2)

いて検討した.『鄙ひなことばはいでるべるぐもんだう

語海徳山問答』も『基きりすときやうはいでるべるぐもんどう

督教海徳山問答』もゴザリマス

(ル)体を基調とする口語訳であるが,後者は欧文と漢文の影響を強く受け,

言と文の乖離が目立つ.それに対し前者は,日本語として無理のない訳文 に改善され,言文一致の進化が見て取れる.また前者は,神とイエスに対 し日常的な待遇表現を用い,また必要に応じて説明的な語句を補うなどし て,キリスト教への親近感を増幅させている.

1.ハイデルベルク信仰問答,現存する明治前期の口語訳 2 種  ハイデルベルク信仰問答は,1563 年にドイツの古都ハイデルベルクで 執筆出版された.『岩波キリスト教辞典』871 頁は本書を「改革派の教理 問答がいくつかある中でも傑出したものとして,現在各国の改革派教会で,

洗礼・堅信礼準備のテキストとして,また礼拝説教のテキストとして用い られている」と解説する.1878(明治 11)年に本邦初訳が出版されたと いう記録が残るが,現存は確認できない(秋山 2008:… 91-92).現在,目に できる最も古い邦訳が,ここに取り上げる 1884 年『鄙ひなことばはいでるべるぐもんだう

語海徳山問答』と 1885 年『基きりすときやうはいでるべるぐもんどう

督教海徳山問答』である.後者の序文には第二版とあり,初 版は 1880(明治 13)年刊とみられ(秋山同上),邦訳の順番としては前 者よりも後者が先になる.両者とも口語訳である.小稿では,前者を「鄙 語版」あるいは「鄙語訳」と仮称し,後者を「旧訳版」あるいは「旧邦訳」

と呼び分けて区別する.ハイデルベルク信仰問答は,その後も今日に至る まで様々な邦訳が試みられており(石丸 1996:… 41-84),日本でも広く親し まれ続けている.

 本書は全 129 問答からなり,冒頭の第 1 問答「基き り す と け う と

督敎徒の安なぐさめ慰/

きりすとしんじや

督 徒の安なぐさめ慰の事」で趣意を先取りし,第 2 問答「問もんどうの大おほわけ/此このもんどう の大おほわけ」で全体の構成を予告する.括弧内斜線の左側が鄙語訳,右側が旧 邦訳の表題である.このあと 3 部に分かれ,第一篇「人にんげんの艱くるしみ難の事こと/人 の不ふさいはひ幸なる論こと」第 3 〜 11 問答,第二篇「人ひとの罪つみを救すくふ事こと/人ひとの救す く ひ贖の論こと」 第 12 〜 85 問答,第三篇「恩めぐみを感かんずる事こと/神かみに感かんしゃすべき論こと」第 86 〜 129 問答,と続く.

 各篇の表題だけを見比べても察せられるように,両版の訳調には差異が ある.訳者は,鄙語版が石川彜つね(石川寧ねいせい),旧訳版が木曾五郎(千村五郎)

である.両版の刊行にグリング(Ambrose…Daniel…Gring,…1849-1934,…米国

(3)

ドイツ改革派教会として最初の来日宣教師)が深く関わっており,鄙語版 は表紙に「クリンク氏蔵版」,旧訳版には「宣教師美國エ、 デ、 グリング閲」

とある.

 小稿は底本として下記①〜④の 4 資料を参照し,例文は①〜③から引用 した.『鄙語海徳山問答』には「和譯と英譯とを合せて一巻」にした本と「之 を別わけて二巻」とした本の 2 種類が存在する(鄙語版「緒はしかき」より).①は「二 巻」本のうちの「和譯」本で,④の複製版・鄙語訳は「和譯と英譯」を合 わせた「一巻」本である.④鄙語版の英訳は③と同一のものを使っている.

③の扉(表タイトルページ題紙)の書名下に「Prepared…and…Published…by…the…Direction…

of…the…German…Reformed…Church…in…the…United…States…of…America.」とあ り,米国ドイツ改革派教会の公的な英訳であることがわかる.③の本体は 見開き 2 頁で,ドイツ語原文,ラテン語版,近代ドイツ語改訳版,英語訳 文の 4 種類のテキストが対照できる体裁をとる.英訳はドイツ語原文に忠 実な訳であると序文に解説されている.

【底本】

①『鄙語海徳山問答』1884 年刊,横浜市立図書館蔵本

〈http://www.lib.city.yokohama.lg.jp/Archive/DTRP0 3 2 0?SHIRYO_

ID=1029〉

②『基督教海徳山問答』1885 年刊,国立国会図書館蔵本

〈http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825010〉

③『The Heidelberg catechism, in German, Latin and English: with an historical introduction.』1863 年刊,プリンストン神学校図書館蔵本

〈https://archive.org/details/heidelbergcatech00newy/page/n5〉

④『覆刻・日本基督一致教会信仰ノ箇条』2013 年複製版(教文館)所収,

「鄙語海徳山問答」1884 年刊,「基督教海徳山問答」1885/86 年刊,とも に東京神学大学図書館蔵本

2.構文の比較,第 118 問答を例に

 では最初に,やりとりが短く構文の違いがわかりやすい第 118 問答を 取り上げ,鄙語訳が旧邦訳よりも,日本語として自然な構文をなし,かつ 原文にも忠実であることを例証する.用語や用字など細かな点については 第 5 節で後述するので,ここでは文全体の構造に留意して下例を検討され

(4)

たい.

 引用文の元の所在をアルファベットと数字の組み合わせで示す.例えば 下の太括弧内にある K118Q の場合,K は旧邦訳『基督教海徳山問答』を 意味し,その第 118 問答の Q つまり質問を指す.A はその回答である.

また H は鄙語訳を意味する.

【K118Q】神かみが、何なにを、親じ ぶ ん自に、懇ね が ふ求べきことを、吾わたくしども等に明めい、玉ひました。

【K118A】親じ ぶ ん自に、吾わたくしども等の主しゅなる、基きりすと督が、吾わたくしども等に教を し へ示玉へる祈い の り禱に、包こ も り括た る所ところの、身か ら だ體と、靈たましひに、切いりやうなる諸すべてのもの物を。

 難解な悪文ではないにしても,「神/基督/吾等」が何をどうするのか,

一読しただけでは把握しにくい.やはり自然な日本語とは言いがたく,ぎ こちなさを拭えない.これを次の鄙語訳と読み比べてみよう.

【H118Q】神かみさまは我わたくしども儕に何なにを願ねがへと命おほせられましたか

【H118A】靈たましひと身か ら だ體に必なくてならぬ諸すべての物もので御ります其それは主しゅきりすと督が親みづから 我わたくしども

儕に御おをしへ敎なされました祈い の り禱の中うちに御おふくめおき含置なされました

 こちらのほうが先の旧邦訳よりも,理解が容易に感じられるのではない か.その理由は,構文が日本語の語順として無理なく整っているからであ る.

 以上 2 種類の邦訳を,英語訳ならびにドイツ語原文と比較してみると,

旧邦訳が英訳あるいは原文に拘束された文構造をなしていることがわか る.なお太括弧内の E は英語,D はドイツ語原文を意味する.

【E118Q】What…has…God…commanded…us…to…ask…of…Him?

【E118A】All…things…necessary…for…soul…and…body,…which…Christ…our…Lord…

has…comprised…in…the…prayer…taught…us…by…Himself.

【D118Q】Was…hat…uns…Gott…befohlen…von…im…zu…erbitten?

【D118A】Alle… geistliche… uñ… leibliche… notdurfft,… welche… der… HERR…

Christus…begriffen…hat…in…dem…Gebett,…das…er…uns…selbst…gelehret.

(5)

 邦訳 2 種の問答を,質問と回答に分け,英訳文に照らしながら分析して いこう.まず質問の構文から検討する.K118Q に限らず,旧邦訳は「何」

をはじめとする疑問詞を文頭もしくはその付近に配することが多い.英文

(あるいは独原文)の拘束下にあるとみてよかろう.他方,鄙語訳は日本 語として自然な語順をとり,英文に拘泥せず,それでいて内容を過不足な く伝えている.例えば K118Q の「親じ ぶ ん自に」に相当する語句が H118Q に は見えない.「親じ ぶ ん自に」は E118Q の「Him」を忠実に訳出したものであろ うが,日本語でこの「親じ ぶ ん自に」を顕在化させると「吾わたくしども等に」との間で助詞 が重複・衝突し,かえって理解に混乱を招きかねない.これを顕在化させ ない H118Q は不要な混乱を未然に防ぎ,文を簡潔達意にまとめている.

 では次に回答のほうに目を移そう.K118A は全体が長めの1文である のに対し,H118A は「…御ります」のところで文を区切り全体を 2 文 に小分けし,第 2 文を「其それは…」で始めている.H118A に句点を補って 骨格を示すと「(名詞)で御ります。其それは(動詞)ました。」となる.こ れに対し K118A は名詞と動詞の提示順が逆になる「(動詞)する所の(名 詞)を。」という連体修飾構造をとっている.どちらも言っていることは 同じなのだが,神は我々に何を願えと命じたか,という問いに簡潔に答え て い る の は H118A の 第 1 文「( … 諸すべての 物もの) で 御 り ま す 」 で あ る.

H118A は,第1文で要点たる名詞を先行させ,第 2 文でその説明を後続 させる流れをとる.一方,連体修飾構造をとる K118A は,結論にあたる 名詞の提示が後回しになる.

 英文/独文「All…things……/ Alle……」とも単刀直入に要点をまず提示し,

関係代名詞「…,…which……/…,…welche……」以下で説明を後続させている.

鄙語訳は,この構文を保持し,英独文とほぼ同じ順に話題を提示する.いっ ぽう旧邦訳は,関係代名詞以下を先に提示し,「…する所の…」という欧 文脈特有の構文に当てはめ,後ろから前に訳し上げる典型的な技法を用い ている.旧邦訳は,欧文脈の約束事に従った生真面目な訳文であるため,

その向こう側に原文が透けて見えるような,奇妙な日本語の姿を呈してい る.これに対し鄙語訳は,原文の流れを保持しながら,日本語として自然 に読める,こなれた巧みな訳が実現されている.

(6)

3.文章構造の比較,第 61 問答を例に

 前節では第 118 問答を事例として,文内部の構造について考察した.

これを受け,本節では談話の展開様式つまり文章の流れの中で話題がどの ように提示されていくかを,第 61 問答の回答部分を事例として比較する.

 旧邦訳,鄙語訳,英語訳の順に,それぞれの第 61 問答を下に掲げる.

比較しやすいよう回答部分に①②③の番号を追加して分割した.

【K061Q】何、汝あなたは、確しんこうに由よりてのみ、正たゞしきと、爲い ひ な さ い稱道まする、

【K061A】① 吾わたくしのしんかう確 信 の、抵ね う ち値に從したがひて、神かみの得き に い る悦納ことはなく、②但たゞきりすとの 滿つく

のい

と其そのたゞしきと淸き よ き聖のみが、神かみの御に、吾わたくしのたゞしきにして、③惟たゞしんかうに由よりて、

のみより、他ほかのしかたにて、吾わたくしのが、是これを受う け る領ことと、吾わたくしのと、することが、能 ぬ故ゆえ

【H061Q】汝あなたは只ただしんこうばかりで義たゞしとせらるヽとは何おふせられますか

【H061A】① 我わたくしが神かみさまの御みこころ意に適かなひますのは我わたくしの信しんこうの功どくによるも のでは御りませぬ… ②但たゞきりすとの贖あがなひと 義たゞしきと聖きよきとは神さまの御おんまえでは 我わたくしの 義たゞし

き事こととなりますばかりの故ゆえで御ります… ③又またわたくし我が其それを受うけて我わたくしの有ものと爲いたし ますのは只ただしんこうばかりによりまして決けつして他ほかのことでは能できませぬ

【E061Q】Why…sayest…thou,…that…thou…art…righteous…only…by…faith?

【E061A】① Not… that… I… am… acceptable… to… God… on… account… of… the…

worthiness…of…my…faith;…②but…because…only…the…satisfaction,…righteousness…

and… holiness… of… Christ… is… my… righteousness… before… God,… ③ and… I… can…

receive… the… same… and… make… it… my… own… in… no… other… way… than… by… faith…

only.

 2 種類の邦訳における①と③の話題提示順は,下のように要約できる.

①も③も,旧邦訳 K061A が「Xに{従って/よって}〜する」という構 文でXを先行させるのに対し,鄙語訳 H061A は「〜はXによる」という 構文を用いてXと「〜」の提示順を反転させている.

   『基督教海徳山問答』K061A  『鄙語海徳山問答』H061A   ① Xに従って〜することはない… 〜はXによるのではない   ③ Xによってのみ〜する…    〜するのはXばかりによる

(7)

 Xに入る具体的な言葉は,旧邦訳が「確しんかう(の抵ね う ち値)」,鄙語訳が「信しんこう

(の功どく)」である.教理問答の鍵概念であるこの語を,K061A は先に出し,

H061A は後にもってきている.「XによってYする」と「YはXによる」

の命題内容は同じでも読者が受ける印象は異なる.Xつまり「信仰」を際 立たせるには,鄙語訳の文型「YはXによる」を用いるのが効果的である.

 K061A の「XによってYする」では,XとYの両方に等分の重みが配 され,文全体として新しい情報を伝えることになる.そのため「信仰(確しんこう

)」が文中に埋没し,読者の注意が向きにくくなる.また K061A 全体 がひとつの長大な文で,連用中止法で文節が区切れなく連続する構造も,

読解を困難にする要因である.めりはりのない長文,いわゆるダラダラ文 は,読み手の記憶に負担をかけ,読解時の情報処理にも時間と労力を強い る.

 これに対し H061A は全体を 3 つに分け,第①文と第③文で同じ文型「Y はXによる」を繰り返すことによって,Xにあたる「信仰」を強く印象づ けている.この文型では,Yが既定の前提として文の前半で軽く扱われ,

Xが新たな情報として重みをもって文の後半に提示される.読者は,文ご とに整理された要点を確認しながら,文章全体の論旨を追っていける.

 H061A における情報の提示順は,英文 E061A のそれに近い.E061A の①と③は「faith」を文末に配している.質問文 E061Q でも「faith」が 文末にあり,この語が英語読者に強く印象づけられることは想像に難くな い.鄙語訳 H061A でも同等の表現効果が保存されている.

 さて,ここまでの比較検討を「脱欧文脈」という小稿の主題から整理す ると,明治前期に刊行されたハイデルベルク信仰問答の邦訳 2 種は,次の ように特徴づけられる.

 まず『基督教海徳山問答』の文章は,直訳調であり欧文脈が濃厚である.

生硬な日本語で,こなれた訳文になっていない.欧文邦訳に特有の「〜す る所の…」などを用いた,いかにも訳文らしい訳文である.緻密な訳調だ が,文構造や談話展開といった情報の提示方法にかかわる大きなレベルで は,もとの欧文の構成を日本語に反映できていない.

 これに対し『鄙語海徳山問答』は,もとの欧文の構成を日本語に反映さ せ,平易で読みやすい達意の文章を組み立ている.内容を正確に伝え,欧

(8)

文の読者が文章全体から受ける印象と,日本人読者が邦訳から受ける印象 とを近づけ,いわゆる等価翻訳を実現している.それと同時に,訳文にあ りがちな生硬さが軽減され,欧文の拘束から脱却を図っている.

 以上が「脱欧文脈」という観点からみた両邦訳の特徴である.旧邦訳ば かりに厳しい評価を下したが,もちろん旧邦訳にも優れた点があるし,高 く評価した鄙語訳にも多くの要改善点が目につく.

 例えば,第 61 問答の質問,疑問詞「何故」の位置は K061Q のほうが よい.欧文の拘束下にある旧邦訳は英文「Why…?」の語順そのままに「何 故…まする」と直訳しただけであろうが,これが功を奏し「何故」が文全 体にうまく効いている.いっぽう H061Q は「…とは何故仰られますか」と,

文末の述語の直前に「何故」を配している.これだと「仰られる」だけに かかり「何故」の作用域が狭まってしまう.文末近くに移動するなら「…

と仰られるのは何故で御座りますか」として「何故」を文全体にかけて訳 したほうがよい.

 さらに鄙語訳の要改善点として「H061A ②但たゞきりすとの贖あがなひと義たゞしきと聖きよきとは…」

の「は」があげられる.旧邦訳が「K061A ②但たゞきりすとの滿つくのひと其そのたゞしき

き よ き聖のみが…」としている箇所である.ここは「は」でなく「が」がよい.

ほかの何者でもなくキリストこそが,というように他者との比較において 限定したいわけであるから旧邦訳のほうが正しい.

 探せばいくらでも問題のある鄙語訳であるが,それでもやはりこの訳文 は「脱欧文脈」の進んだ読みやすい日本語である.

4.読み手を悩ませる文章の構成,第1問答を例に

 この第 4 節では,読み手にやさしい談話展開,逆にいえば,読解に戸惑 う翻訳文の構成について考察する.結論からいうと,欧文脈の制約が強い 邦訳文は読者に負担を強いる,という前節までの趣旨を補強することにな る.素材として第1問の答えの部分を取り上げるが,問いもあわせて下に 掲げる.説明の都合上(ア)から(セ)の符号を付加した.

【K001Q】何なにが、生いきたると、死しにたるに於おいて、唯たゞひとつの、汝あなたのなぐさめ安慰で、有ご ざ り之まする、

【K001A】(ア)吾わたくしは、身か ら だ體と、靈たましひありて、生いきたるにも、死しにたるにも、吾わたくしのでなく、其そのとふときち血をもて、吾わたくしのすべての諸 罪つみに代かはりて、全またく滿つぐのひ、惡あくの諸すべてのけん權より、吾わたくし

(9)

を救あがなひ、而そして如かやうに是、天てんに在る、父ちゝの御おぼしめし旨なしには、吾わたくしのあたまより、一ひとすじのけ毛も落おちるこ とは、能ぬ樣やうに、加そのうへ、萬すべてのものは、吾わたくしのすくひの爲ために、一ひとしく、工はたらくべき樣やうに、吾わたくしを 保ま も り護玉たまはる所ところの、真しんじつな、吾わたくしのすくひぬし え す穌基きりすとの、所になることが。(イ)是これ に因よりて、彼かれは、其そのせいれいに由よりて、永かぎりなきいのち生 をも、吾わたくしに、令う け あ は せ確保、自こののちは、由こゝろより心、彼かれにま で、生く ら す息ことを吾わたくしに令ね が は せ願欲、且また、令よ う い さ せ準備、玉ひまする。

【H001Q】生いきしにともに汝あなたの唯たゞひとつの安なぐさめは何なにで御りますか

【H001A】(カ)我わたくしの肉か ら だ體も靈たましひも生いきしにともに我わたくしの屬ものでは御りませぬ(キ)

たゞ真ま こ と實の我わたくしの救すくひぬしいえすきりすと

主耶蘇基督の屬もので御ります(ク)此このすくひぬし主は其そのとふときち血を以 て我わたくしの總すべての罪つみを全まつたく贖あがなひ魔わうの權しはいしたより我わたくしを償うけいだして天てんに在います我わたくしの父ちゝの御みこゝろ

でなければ我わたくしの頭つふりより髪かみのけひとすじ毛一筋でも脱をちませぬ樣やうに又またすべての事ことは悉みなわたくし我 の救すくひ の爲ためになります樣やうに我わたくしを守まもり而して又またそのせいれいにより我わたくしに限かぎりなき生い の ち命を得 させやうと保うけひ且またわたくし我に今いまより後のちしゅの御おんために一いつせう生を送おくりませうと心こゝろから 欲おも

ひ其そのになります樣やうにして下くだされます(ケ)是これが我わたくしの安なぐさめで御ります

【E001Q】What…is…thy…only…comfort…in…life…and…in…death?

【E001A】(サ)That…I,…with…body…and…soul,…both…in…life…and…death,…am…not…

my… own,…(シ)but… belong… to… my… faithful… Savior… Jesus… Christ,…(ス)who…

with…His…precious…blood…has…fully…satisfied…for…all…my…sins,…and…redeemed…

me…from…all…the…power…of…the…Devil;…and…so…preserves…me,…that…without…

the…will…of…my…Father…in…heaven…not…a…hair…can…fall…from…my…head;…yea,…

that…all…things…must…be…work…together…for…my…salvation.…(セ)Wherefore,…

by His… Holy… Spirit,… He… also… assures… me… of… eternal… life,… and… makes… me…

heartly…willing…and…ready…henceforth…to…live…unto…Him.

 まず質問文の構造についてみると,旧邦訳 K001Q が疑問詞を文頭に置 き「何が…で有ご ざ り之まする」という直訳調をとるのに対し,鄙語訳 H001Q はこれを文末に移し「…は何で御座りますか」のように自然な語順に整え ている.

 次に回答の中で「イエス・キリスト(耶穌基督/耶蘇基督/ Jesus…

Christ)」がどこに登場するかを見比べてみよう.英文 E001A(シ)と鄙 語訳 H001A(キ)では,問いに答え始めて間もなくイエスが現れるのに 対し,旧邦訳 K001A では答えの中程を過ぎてから,おもむろに登場する.

 肉体も精神も自分のものでなくイエス・キリストのものである,という

(10)

第 1 問の要点を英文(サ ・ シ)と鄙語訳(カ ・ キ)は,答えの冒頭で明確 に提示している.これを要点先行型の談話展開と名付けるなら,旧邦訳の それは結論後続型とでも仮称できよう.先にみた第 118 問答の回答も,

鄙語訳が要点先行型,旧邦訳が結論後続型の対照をなしていた.これは関 係代名詞の訳し方によるもので,ほかにも類例が多い.

 旧邦訳 K001A は,英文(ス)「who……」を連体修飾節として先に訳し「耶 穌基督」の前に出している.その結果「耶穌基督」の提示が遅れてしまう.

K001A の読者は,この名が視野に入るまで,何についての説明か,大枠 が把握できない.肝心の主題が示されないまま,文末「…耶きりすとの、所になることが。」まで読み進めてやっと謎と不安が解消されるのである.

 しかし K001A の文末までたどりついても,さらに読者を戸惑わせる問 題が待ち受けている.文末が唐突のように「…ことが。」で終わり,述語 動詞がないので,読者は質問文にさかのぼって「ことが」の後に続くべき 語が「安なぐさめ」であったことを再発見する必要がある.そこで初めて,イエ ス・キリストのものになることが私の慰めだという質疑応答の主旨が了解 できるのである.このように K001A は読者にいろいろと負担を強いる.

文を読みながら同時進行的に内容を把握することはできず,文末まで読了 したのち,文構造を再処理し文意を再構築しなければならない.

 いっぽう鄙語訳 H001A は(キ)で主題語のイエス・キリストを早々に 登場させている.主題を先に示し,説明は後に回したほうが,読者の情報 処理は円滑に進む.まず(キ)で「救すくひぬしいえすきりすと

主耶蘇基督」を登場させ,その詳細 は次の(ク)に譲っている.(ク)の冒頭で「救すくひぬし主」を繰り返すことにより,

英文の話題提示順を,そのまま邦訳に写し取っている.鄙語訳(カ ・ キ ・ ク)

の読者は,英文(サ ・ シ ・ ス)の読者と同じ順序で情報を受け取っていく ことができる.

 旧邦訳 K001A に比べて,文章を巧みに構成する鄙語訳 H001A であるが,

鄙語訳にも読みやすさへの配慮を欠く面がある.H001A は(カ)から(キ)

をへて(ク)の冒頭まで短文が小気味よく組み上がっていく印象を受ける が,その後(ク)は途中から軽快さを失って長大化してく.(ク)はおお むね「救すくひぬし主は我わたくしを…して(;)…ませぬ樣やうに(;)又また…します樣やうに我わたくしを守まも り(.)而して又また…します樣やうにして下くだされます」という構造をなし,中止 法で文が途切れずどんどん連なっていく.英文は括弧の箇所でセミコロン

(11)

(;)とピリオド(.)を用い,文を分節している.(ク)も英文のピリオ ドに従って「我わたくしをお守まもり下くだされます」と文を一区切りすれば,読者も息継 ぎ(読解途中の整理)がしやすくなる.

 鄙語訳には句読点が一切みられない.逆に旧邦訳は文節の境ごとに読点 を連打する.そのため,文構造の大枠を示す役に立っていない.このよう に句読法が未発達であった当時の日本語に対し,英文では各種記号類が読 みさすさの向上に有効利用されている.英文 E001A は(セ)の直前のピ リオドまで,(サ ・ シ ・ ス)がひとつの長文をなすにもかかわらず,セミ コロンやカンマの適切な使用のおかげで意味の分節が視認しやすい.

 両邦訳とも改善の余地は大きい.しかし全体的にみて鄙語訳のほうが,

原文の趣旨を,こなれた日本語に移し替えることに成功している.旧邦訳 の生硬な直訳調と対照的である.また鄙語訳は,英文の情報提示順に沿っ た全体構成をなし,読み取りの処理に負担がかかりにくい.旧邦訳は,細 部において原文に忠実でも,情報構造の大枠で配慮を欠くため,文意の解 釈に再処理の負荷がかかる.

 卑近な例だが,スープ料理に喩えて説明を補足してみたい.鄙語訳は,

素材(原文)がじっくり煮込まれ,もはや原形をとどめぬほど,スープ(邦 訳)の中にエキスとして溶け込み,全体として調和のとれた一品に仕上がっ ている.舌触りも滑らかで,消化吸収も早い.対する旧邦訳は,火の通り が不十分で,スープの底に沈んだ細切れの素材が透けて見える.生煮えの 素材は,呑みこもうにも喉につかえるし,時間をかけて噛み砕かないと消 化不良をおこしかねない,といった訳調である.

5.旧邦訳の用語・用字・字順にみる濃厚な漢文脈

 この第 5 節では,漢文脈という視点から邦訳 2 種を比較する.具体的に は,用語と用字,つまり語彙・表現ならびに漢字の用法など細部を観察す る.旧邦訳に多くみられ,鄙語訳に少ない,漢文的な表記として,助字・

字順・熟字訓が指摘できる.以下これら 3 点に注目しながら論考を進める.

 助字は文法的な機能を担う漢字である.例えば K001A(イ)「…彼かれは…

かぎりなきいのち

生 をも、吾わたくしに、令う け あ は せ確保…を吾わたくしに令ね が は せ願欲、且また、令よ う い さ せ準備、玉ひまする」では,

使役の助字「令」が 3 つ連なる.これと異なり H001A(キ)は「我わたくしに限かぎ りなき生い の ち命を得させやうと保うけひ…」のように助字を用いない.

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 先の第 3 節に引用した K061A ①に戻ると「…神かみの得き に い る悦納ことはなく…」

の「得」が可能の助字である.このほか「可」も「能」も可能の助字であ る.K061A ③では「できる」を「他ほかのしかたにて…することが、能ぬ故ゆえ」のよ うに「能」と「得」を連ねた「能(る)」という漢字列で表記する.本 例のような「能(る)」を旧邦訳は好んで用いる.下に引用した第 111 問の答えの冒頭部を見比べてみよう.

【K111A】吾わたくしが、能る處ところと、可してもよきところには…… 可たすけるこのとのできるやうに

能 助 樣 に…

【H111A】我わたくしが能できる事ことまたて可よきことならば…助たすけることの能できるやうに…

 K111A は「できる」を「能る」と「可で き る能」の 2 通りに表記している のに対し,H111A は「能できる」で統一しており,別のところ例えば H061A

③にも「能できませぬ」とある.旧邦訳には漢語の字列を保持したまま和訓で よむ熟字訓が多い.いっぽう鄙語訳は,同じ訓を漢字一文字で表記する傾 向がある.上例では,旧邦訳が二字漢語「能得/可能」を用いるのに対し,

鄙語訳は「能」一文字に減じている.

 助字「可」には可能のほか許可や当然などの用法がある.K111A「可してもよき

」の「可」は許可の用法である.H111A は日本語に合わせて「爲て可よき」 と字順を反転させ「爲」のあとに「て」を送っている.K111A「可爲」は,

漢語の字順を保持したまま,その意味を振り仮名で訓じている.

 旧邦訳は,漢字が連続する表記を好み,活用語尾や助詞などは振り仮名 の中に収めてしまい,漢字が目立つため,硬質な印象を与える.漢文の字 順をとる「可爲處」「可能助樣」を,日本語の語順に従って書き下せば

「爲ス可キ處ところ」「助たすクルコト能あたフ可キ樣やう」となろう.しかし K111A「可爲處」

の傍訓は「なすべきところ」でなく「してもよきところ」と振られている.

同様に「可能助樣」も,書き下し文語体の「たすくることあたふべきやう」

でなく,口語体の「たすけることができるやう」という振り仮名を施して いる.

 要するに旧邦訳の漢字列に施された振り仮名の多くは,その読み方(音)

を示すわけでも,読み下し方を訓おしえるものでもない.その漢字列の解釈つ まり翻訳を平易な口語で添えているのである.

 K031A に,神の「秘旨」という漢字列がみえる.そのまま音読すれば「ヒ

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シ」となろうが,傍訓に「ふかきおぼしめし」とある.H031A はこの語 釈をそのまま「深ふかき思おぼしめし召」と表記する.鄙語「深ふかき思おぼしめし召」の訳出過程は下 図のような流れをたどったと考えられる.

英語訳文  ←― 独語原文 ―→… 近代独語改訳 the…secret…counsel …heimlichen…rhat… heimlichen…Rath

旧邦訳 「秘+旨⇒秘ふかきおぼしめし旨 」 → 「ふかきおぼしめし」 →鄙語訳 「深ふかき思おぼしめし召 」

 鄙語「深ふかき思おぼしめし召」が「the…secret…counsel / heimlichen…rhat」から直接 訳出されたとは考えにくく,旧邦訳「秘旨」を経由した(参照した)とみ るほうが無理がない.英単語の「secret」と「counsel」に,それぞれ「秘」

と「旨」の漢語(漢字)をあてれば「秘旨」の組み合わせが得られる.こ の漢字列の釈義「ふかきおぼしめし」を振り仮名として施したのが旧邦訳

「 秘ふかきおぼしめし旨 」である.なお,諸橋轍次『大漢和辞典』にも記載のない「秘旨」

が,独自の造語か,漢訳書に倣ったものかは未詳である.またこの語が,

独語原文からの直接訳か,英訳を経た重訳かも定かでない.これらの究明 は今後の課題としたい.いずれにしても,「 秘ふかきおぼしめし旨 」は用字「秘旨」と用 語「ふかきおぼしめし」が乖離するのに対し,「深ふかき思おぼしめし召」は用字と用語 に隔たりがない.

 同様に K111A「 可たすけるこのとのできるやうに

能 助 樣 」と H111A「助たすけることの能できるやう」に ついても,旧邦訳に比べて,鄙語訳は用語(言葉)と用字(文面)が近接 している.いわば見た目の言文一致が図られているのである.K111A と H111A は「たすけることのできるやう」という和語を共有するが,文面 から受ける印象,見た目の効果は大きく異なる.旧邦訳が漢文(訓読体)

を装って硬質さを演出するのに対し,鄙語訳は臆することなく漢字をひら  いて平仮名表記を多用している.鄙語訳の巻頭「緒はしかき」は「願ねがはくは江こうの 諸しよ

しん

じや

ひな

ことば

の鄙なるを以もてて此このしょを棄す つ る捐こと勿なかれ」と,当時の風潮を憂いつ つ締め括られている.世間一般で,平仮名書きの俗文体が軽視されていた ことが,この一文からもうかがえる.だからこそ旧邦訳は,高識字層にも 受け容れられるように,見た目だけでも硬質さを装う必然性があったので あろう.

↓ ↓ ← ?

(14)

 K111A「 可たすけるこのとのできるやうに

能 助 樣 」では漢文の語序(漢字の配列順)が保持され ているのに対し,H111A「助たすけることの能できるやう」では話し言葉そのま まに「助(ける)」を先に「能(る)」を後から提示している.

 旧邦訳は漢文の語序を崩さず,そのままの字順で提示する場合が多い.

例えば,動詞のあとに目的語がくる K107A「定つみとし/行ぜんをなす善」,否定が先行す る K113「不た え ず斷」,K007A「不したがはざる順」,K025A「 無はじめもなくをはりもなき

始 無 終 」など,漢文と邦 訳(としての傍訓・振り仮名)の語順が入れ替わる例は随所にみられる.

鄙語訳では H025A「始はじめもなく終をはりもなき」のように表記上の言文一致が進 んでいる.また文末の断定表現「…でござります(る)」も,鄙語訳が現 代的な「…で御座ります」と表記するのに対し,旧邦訳は「…で有ご ざ り之ます る」と記す.漢文の文末表現「…之れ有り。」を,もとの漢字配列「有之」

を崩さずに,邦訳文末の指定辞ゴザルの表記に借用したものである.ちな みに対義表現の「無之」も K048Q にみえる.

 以上のほか,漢文を装う旧邦訳の特徴的な表記として熟字訓が挙げられ る.以下に,訓読み動詞の例を終止形に統一し,五十音順に両邦訳を並べ た.所在を示す問答番号の下に,第 83 問答の回答後半部分を引用した.

旧邦訳 洗あ ら ふ滌 冒お か す犯 變か は る化 消ついやす 閉と ぢ る鎖 憎に く む惡 願の ぞ む望 開ひ ら く啓 防ふ せ ぐ遏 増ま す加 指む け る向 鄙語訳 洗あらふ 犯おかす 變かはる 費ついやす 閉とぢる 憎にくむ 望のぞむ 開ひらく 防ふせぐ 増す 向むける 所在 071 011 078 110 083 010 081 083 107 013 067  例文【K083A】天てんごくは、 信しんじゃには、 爲ひ ら か れ開啓 、 不しんじゃには、 得と ぢ ら れ閉鎖ること。

    【H083A】天てんごくは信しんじゃの爲ために開ひらかれ不しんじゃの爲ために閉とぢられます     【E083A】…,…the…kingdom…of…heaven…is…opened…to…believers…

         and…shut…against…unbelievers.

 旧邦訳は K083A「開ひ ら く啓/閉と ぢ る鎖」のように熟字訓を頻用する一方,鄙語 訳は H083A「開ひらく/閉とぢる」のように漢字一文字で表記する傾向がある.

上に列挙した各対はどれも,鄙語訳が旧邦訳の熟字から一字をとっている.

「開啓/閉鎖」などでは左側の1字めをとり,「冒犯/消費/願望/指向」

では右側の 2 字めをとっている.漢字は一般的に字義が広く単独では意味 が特定しにくい.意味の似たものと組み合わせることで,語義を鮮明にで

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きる.漢語にはそのような熟字が多く,上に列挙した熟字もその類である.

しかし漢語で意味が鮮明な組み合わせでも,日本語でその効力が発揮でき るとは限らない.「開啓」はともかく「防遏」となると「遏」がかえって 理解の妨げになりかねない.むしろ「防ぐ」と単純化したほうがわかりや すい.鄙語訳はそのような割り切り方をしている.日本語からみて,熟字 のうち主要な字を残し,もう一方の添え字を捨て去ることで,平易な表記 を実現している.「防遏」など,外来の借用表記を鄙語訳は排除している のである.

 K083A「爲ひ ら か れ開啓…得と ぢ ら れ閉鎖る」は,助字「爲/得」と熟字「開啓/閉鎖」

を併用しており,二重の意味で,言と文が大きく隔たった漢文脈の強い表 記である.この場合「爲/得」はともに受身と解釈できる.受身の助字と して旧邦訳でよく目にするのは「被」である.例えば,イエスがピラトに よ り K038A「 死に 被さだめられ定 」 て K039A「 十じう に 被つけられ」 そ し て K040Q

「被ほうむられ葬」たという具合に,漢文の語序が連続する.振り仮名は1字めと 2

字めを返読した結果を付している.旧邦訳は,受身「〜られる」の表記と して「被〜」を当然のように用いる.鄙語訳の H039A「十は り つ け字架に釘おかけられ」

などと比べて漢文脈の強い表記といえる.

 以上この第 5 節では,助字,語序,熟字訓の 3 点に注目して,両邦訳を 見比べてきた.旧邦訳は,漢字を多用し平仮名が比較的少ないため,文面 が黒々とし,重厚で硬質な印象を与える.漢字の選び方と並べ方は漢文の 語法に倣っているが,傍訓は平易な口語による釈義であり,文面から受け る第一印象と大きく異なる.振り仮名に記された言葉と,漢字表記の文面 が乖離し,言文二途の表記法ということができる.

 旧邦訳で振り仮名に小書きされた口語体の釈義を,さらに日常語に近づ け,そのまま文面に大きく(漢字と同じ大きさで)表記したのが鄙語訳で ある.漢文を彷彿させる漢字列が減少し,平仮名が増えたぶん,文面が白っ ぽく(明るく軽快に)なった印象を与える.外来の表記法から離脱し,表 記上の言文一致を志向する姿勢が感じられる.

6.待遇表現と補足的説明

 小稿はここまで鄙語訳を旧邦訳と比較し,鄙語版が,文章構成と文型に おいて直訳調の欧文脈から抜け出し(第 2 〜 4 節),用語と用字について

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は漢文脈の制約から離れようとする(第 5 節)姿勢を読み取った.欧文脈 と漢文脈という外来要素の影響力を弱めながら,鄙語訳は言と文を近接さ せ,日常語として読みやすい文章が不完全ながらも実現されていることが わかった.

 この第 6 節では,待遇表現と補足的説明に目を転じる.神やイエスに対 する待遇表現は,鄙語訳のほうが多様性に富んでいる.また鄙語訳は,補 足的な語句を独自に補いつつ,日常的な話し言葉で教義を説いている.一 例として第 39 問答を検討してみよう.

【K039Q】基きりすとの、十じうに被つけられ、玉へるに於おいては、或る他ほかのしにて、其そのしに、玉 ひたる、よりも多おほくのこと事が、有ご ざ り之まするか、

【K039A】唯はい。是これをもて、吾わたくしのうへ上 に、ある所ところの罰ばつを、基きりすとが、親じ ぶ ん自に、任ひきうけ、玉 へることを吾わたくしが、確うけあひまする爲ために。蓋そは、十じうの死は、神かみに被の ろ は れ呪詛、たる故ゆゑ

【H039Q】十は り つ け字架に釘おかけられなされましたは他ほかの死しにかたで死しにたまふよりも深ふかいい意こゝろ が御りますか

【H039A】然やうさ我わたくしに掛かけられました詛のろひを基きりすとが自みずから御ひきうけくだされました ことは由で保うけあひが附つきますそれは十は り つ け字架に釘おかけられましたものは神かみさまに詛のろ はれましたもので御りますからのことで御ります

【E039Q】Is…there…anything…more…in…His…having…been…crucified,…than…if…He…

had…died…some…other…death?

【E039A】Yes:… for… thereby… I… am… assured… that… He… took… on… Himself… the…

curse…which…lay…upon…me;…because…the…death…of…the…cross…was…accursed…of…

God.

 旧邦訳 K039QA は「基督」に対する敬語として「被つけられ、玉ふ/死しに、玉ふ

/任ひきうけ、玉ふ」のように「玉ふ」を連発し単調な印象を与える.ほかの箇 所では「玉ふ」以外の尊敬表現も用いるが,概して旧邦訳の敬意表現は変 化に乏しく簡略である.いっぽう鄙語訳 H039QA は「釘おかけられなさる/死しにたま

ふ/御ひきうけくださる」のように「給ふ」のほか「御〜なさる」や「御〜下 さる」も併用しており敬意表現が多様である.

 このうち H039A「御ひきうけくださる」の「下さる」は,目上の「基督」か ら目下の「我わたくし」へ恩恵が授けられることを日常語で表現したものである.

(17)

これに比べると K039A「任ひきうけ、玉ふ」は動作主「基督」を敬う客観的な記 述として受け取られる憂いがあり「吾わたくし」との関係が意識されにくい.

 両邦訳に共通する「たまふ」が奈良時代から使われてきた伝統的な表現 であるのに対し,鄙語訳に多く見られる「お〜なさる」や「お〜下さる」

は江戸時代以降に成立した比較的あたらしい表現である.鄙語訳には「た まふ」をそのまま「お〜なさる」に言い換えている箇所があり,両者は待 遇的に同等の表現効果があったことがわかる.例えば第 49 問は,見出し に「天てんに昇のぼり給たまふ…」とあるが,設問本体では「基きりすとが天てんに御のぼりなされ ました事ことは…(H049Q)」と言い換えている.「たまふ」に「(お〜)なさる」

との互換性がみられることは,「たまふ」がもつ恩恵の授与と尊敬の両語 義のうち,前者が薄らぎ,動作主を敬う語義の側面が,より強く意識され ていた可能性を示唆する.この推測は「(お〜)下さる」が「たまふ」の 授与機能を分担していることからも裏付けられる.鄙語訳は,目上の行為 者から恩恵をあずかることを明言するのに「(お〜)下さる」をしばしば 用いる.例えば,H042Q「…基きりすとが我わたくしども儕の代かはりに死しんで下くださりました…」や,

H044A「…基きりすとが…我わたくしを地ごくの苦くるしみと苛から御うけだしくだされました…」な どである.「玉ふ」を用いる旧邦訳(K042Q,… K044A)に比べ,鄙語訳で は「我わたくし」とイエスの関係性が強く押し出される.

 両邦訳は語彙表現の新旧硬軟がしばしば好対照をなす.上掲の K039A

「蓋そは、…たる故ゆゑ」に対する H039A「それは…ました…から」以外にも類例 は事欠かない.K/H060A「…と雖も…/…(ます)けれども…」,K/

H076A「…に、由る如ごとく…/…に由よるやうに…」,K/H007A「然しからば/然さやうならば」

など,それぞれ斜線左側の旧邦訳は,どれも硬質な漢文訓読語で古めかし く,同時代の話し言葉から懸け離れている.いっぽう斜線右側の鄙語訳は 日常の話し言葉に近い.とりわけ H039A「然やうさ」(H074A「然さやうさ」)

や H079A「飲物なるぞ」など,その話しぶりさえ彷彿とさせる終助詞は,

鄙語訳が独自に加えたものである.

 神やイエスについても旧邦訳は,よそよそしい客観的な記述の仕方をす る.K039A をはじめ旧邦訳は全体を通じて,情緒性を伴わない「神」と いう呼称を専用するが,鄙語訳は「神さま」と日常的な呼びかけ方をする

(聖書の引用を除く).

 旧邦訳における人称詞はさらに非日常的である.先の第 4 節に引用した

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K001A(イ)では「基督」を「彼」という代名詞で受けていた.これは 英訳文 E001A(セ)の「He… /… Him」に相当する.また K122A では神に 向かって「汝あなた」と連呼する.これは英訳の「Thee…/…Thy…(=…you…/…your)」

に相当する.もちろん誤訳ではないし「玉ふ」などによって敬意も払われ ている.しかし「吾わたくし」との関係が希薄すぎる.これでは「吾わたくし」が本当に

「基きりすとの、一いちぶゞんとなりて…諸すべてのたまもの恩賜に、共あづかること(K055A)」ができるのか不 安になってしまう.

 また,直訳調の K001A(イ)「彼かれにまで」に対し,K001A(ク)は「主しゅ の御おんために」と敷衍し,「…させ玉ひまする」を「…ます樣やうにして下くだされます」

と言い改め,イエスを身近な存在として描いている.

 第 39 問答に戻って E039Q「anything…more」を基準に,K039Q「多おほくのこと事」

と H039Q「深ふかい意こゝろ」を見比べると,前者が直訳的で,後者が敷衍的な訳 になっている.さらに K039Q「或る他ほかのし」が E039Q「some…other…death」

の逐語訳であるのに比べ,H039Q は「方かた」を補って「他ほかの死しにかた」と表現し,

処刑方法が問題である旨を明示している.磔刑のもつ特別な意味,十字架 上の死の意義について熟考を促すには H039Q のほうがわかりやすくて効 果的である.

 語句の補足とあわせて,語句そのもののも,鄙語訳は身近な表現を選ん でいる.例えば,K039Q「十じうに釘つける」を,H039Q は「十は り つ け字架に釘かける」

と読み替えている.鄙語訳は,江戸時代以前から行われた伝統ある処刑法 の名称「はりつけ」を振り仮名に施すことで,新来の「じうじか」を知ら ない人にも理解しやすく工夫している.また「釘る」を「つける」でなく

「かける」と訓じることで,地面に寝かせた「十字架」でなく垂直に立っ ていることが連想しやすくなる.中世には地面に置いた板などに人を寝か せて「張り付け」る処刑法があったという.「かける」という語から連想 される立体的なイメージによって,それとの混同が払拭される.一見ささ いな言葉の問題にすぎないようだが,十字架上の死による贖いを信じられ るかどうかが,信仰に直結するといってもいいほど重要な場面なので,こ こをないがしろにはできない.

 以上この第 6 節では,待遇表現と補足的説明ならびに語句選択に注目し て両邦訳を比較した.鄙語訳は,文末の敬意表現と,神や基督の呼称を,

日常の言語生活に合わせ,また,敷衍的な説明を適宜補うことによって,

参照

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