災害時の「持ち場」から引き出される力
─「持ち場」を引き受ける人の存在意義─
坪 内 千 明
キーワード:災害時、持ち場、引き出される力、他者への責任
amid disaster, one’s post, displayed power, responsibility to others
Ⅰ はじめに
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、地震と津波による死者・行方不明者が1万 8,000名を超え、未曽有の大災害となった1)。全国各地からの救援はもとより、被災者自らも 復興に向けた活動を続けている。このような災害時には、人々が通常担っていた「持ち場」
に基づく支援が大きな働きを残している。ここで「持ち場」とは、置かれた状況の中で、自 ら決意して行動する役割や場所のことをいう。当然のことながら、支援する人々も被災した 当事者であり、中には家族や家を失っている人々もいる。しかし、それでも「持ち場」を もって、被災した他者に対し自ら関わりを持とうとする。「持ち場」は、それを担う当人、
あるいは周囲の人々にとってどのような意味をもつのだろうか。また、その役割が、どのよ うな力を人々から引き出しているのだろうか。
社会調査などから人間の内面にある希望と経済的・社会的要因との相互作用を考察する希 望学2)の研究を2005年から始めた中村尚史と玄田有史は、震災前から岩手県釜石市と関わ り、震災後は被災した人々の話をオーラル・ヒストリー3)として記録し、その人々の語り の中でしばしば「持ち場」という言葉に出会う。その「持ち場」とは、「職責として事前に 決まっていることもあるが、自発的に受け持つこともあるし、たまたま居合わせたために担 当することになった場合」など、被災時の情報が遮断された混乱状況のなかで、自分や周囲 の判断で「偶然決まる場合」も含め、「行政上の職務に限らず、企業や町内会」、「避難所な どの自主組織」において、人々が自らに役割を課し全うしようとしている姿を指している。
そして、その人々の働きの「共通の前提」となったのは、震災前から築かれた「家族や地域 との『信頼関係』」であり、「希望の共有」だったという(中村・玄田2014:401-2)。
本研究では、「持ち場」に着目し、陸前高田市において、筆者が出会った人々の聴き4)書
きから、それを担う人々がその役割をどのように自覚し、自己や周囲にいかに作用し、そし て、震災直後の困難時やその後の生活にどのように影響したかについて検討する。
ところで、中村・玄田によらず、震災後、被災した人々、あるいは被災者支援に携わる人々 等に対するインタビューや語りの記録は様々なかたちで活字となり出版されている5)。赤坂 憲雄編(2012)では、2000年以来、東北地方で「聞き書き6)」の旅を続けてきたグループ が、震災時やその後のナラティヴを記録している。聞き手(書き手)は、「それぞれに東北 とのゆかりが深いジャーナリストやライター7)」であり、語り手1人につき、それぞれ400 字詰め原稿用紙 10 枚にまとめて 100 人分編集されており、震災を契機とした「取材目的」
の一過性の記録ではないことが強調されている(赤坂憲雄編2012:6)。本研究においても、
メンバーそれぞれが陸前高田市の同一地域に何度も足を運び8)、出会った人々との関係性に 基づき被災当時や今の暮らしについて語る言葉を聴く機会を得た。そこには、本科研9)に よって親しくなった現地の人々を軸に、我々にとっては初対面の方の偶然の参加も含めた。
それは、これまで親しくなった方の「持ち場」に関する新たな一面を知る手がかりになると 同時に、そこで語られる内容は、初対面同士の一過性のものではなく、既に構築された人々 の関係性の延長上に展開されると考えたからである。また、2004年の新潟中越地震経験者 の同行により、被災者同士の語り合いの機会も設定した10)。本研究は、人々の発する言葉 から、震災時、あるいはその後の「持ち場」が果たす役割の検討を目的とするものである。
Ⅱ 研究の方法 1.研究方法
筆者は、本科研研究の2年目から加わり、この活動を通して関係が形成された人々や、新 たに出会った人々から被災当時から今に至るその場の語りを、土方(2012)の例に倣い聴き 書きし、またその際に関連資料なども取得した。土方は、2000年から東北各地で聞き書き の旅を続け、戦争体験や戦後の東北開拓の記録、明治や昭和の津波の話などを残してきた。
2011年の東日本大震災による被災体験についても、被災地を生きるとはどういうことなの かという視点から、語り手の人生に着目して聞き書きを行っている。本研究においても、体 験の語りに込められた語り手にとっての「持ち場」の意味を、被災地を生きる当人の人生や 周囲との相互作用にも着目しながら、分析対象の共通点、相違点から検討する。
2.研究対象と分析
(1)研究の対象
本研究の分析の対象は、被災後の活動において、震災前から担われていた業務、職位が、
今回の震災を機に本人に与えた影響、変化を反映していると思われる者の語りに絞った。そ
こには、先にも記したように、我々にとっては初対面であっても、聴き書きをした人の知人 として語りの輪に加わる場面や、小千谷市で2004年の新潟中越地震を経験した者と語り合 う場面を含む。具体的には、東日本大震災当時、陸前高田市A保育園園長だったF氏、新潟 中越地震当時に川口町内保育園で勤務していた3名の保育者、社会福祉法人陸前高田市保育 協会の事務局長のK氏と陸前高田市議会議員のS氏の語りである。なお、陸前高田市には、
2014年8月から2016年3月の間に計5回訪問した。
(2)倫理的配慮
本研究の聴き書きは、現地での様々な活動を通して出会った人々との関係性の中で語られ た言葉を、その場でメモした記録である。記録に残す際には、予めご了解をいただいた。ま た、F氏、K氏、S氏には本草稿を送付して掲載の許可を得た。
(3)分析の具体的な手順
後述のとおり、F氏は震災時に担っていた仕事として「持ち場」を引き受け、K氏とS氏 は担っていた役割から、あるいは自発的な意思で引き受けた「持ち場」が変化・拡大してい た。分析に当たっては、F氏の語りを中心に「持ち場」が生み出す力について、K氏とS氏 の語りを中心に「持ち場」の変化・拡大について考察するとともに、それらをふまえて、最 後に「持ち場」を引き受ける人の存在意義について考察する。
Ⅲ 結果と考察
1.「持ち場」が生み出す力 ~保育者の人々の震災後の実践~
F氏は、保育園園長として東日本大震災に遭遇した。40年近い保育士経験があり、園長に なって3年が経とうとしていた。地震が発生した当時、子どもたちを午睡から起こし、高台 に逃げる際も、「これから来る『事の重大さ』をわかっていなかった」と述べる。その言葉 からも、地震の後の津波の被害が想像を遥かに超える甚大なものであったことが窺える。
園は半島の中心部に位置し、海抜10m、海岸から1kmもないが、中学校と高校が両隣に ある小高い場所にあり、宮城県沖地震の津波想定ハザードマップでは、浸水域からはずれて いた。余震が続く中、地震による園舎の倒壊の危険を感じ、園児をパジャマのまま園庭に 集合させてその場で着替えさせたが、防災無線の「津波警報」が聞こえても津波が園に及ぶ 実感はなかったという。しかし、園庭にもひび割れが生じ、全員で避難している園舎の隣の 駐車場から移動してみると、煙のようなものと津波の第一波が見えた。F氏はすぐに職員と 子どもに指示を出し、坂を登って隣接する高校のグラウンドに避難している(藤倉2014:
179-81)。
筆者も現地でその避難経路を実際に辿ってみたが、それは傾斜の急な山道である。年に一 度の避難訓練では保育士が子どもを背負って山道を上がる練習もしていたというが、津波が
迫る中、複数の子どもを背負ったり手を引いたりして登る職員らが必死の思いだったことは 想像に難くない。幸い、後ろから中学校の生徒たちが追いつき、園児の避難を助けてくれた という。日頃から交流行事を通して知り合っていたことが功を奏したと F 氏は述べている
(藤倉 2014:180-1)。その後も、被災していない近くの小学校の体育館に移動し、保護者 が迎えに来ていない園児10名と、帰ることができなくなった祖母と園児1名、職員18名が 一夜を共にしている。翌12日には、ほとんどの保護者が迎えに来て無事を喜び合い、残っ た園児1名も翌13日には保護者に引き渡すことができた(藤倉2014:181-2)。
しかし、F氏にとって、園長という「持ち場」の最大の葛藤は、その後の園の再開の可否 の判断時に訪れたと思われる。園舎の外側は1m20㎝の高さまで浸水し、海水や汚泥が園内 のいたる所に及び、高い所で 60㎝の浸水があった。午睡用の寝具、冷蔵庫、事務室備品、
書類も全て泥をかぶって散乱しているうえ、園舎の内外に瓦礫や他の建物の一部が流れつい ており、園周辺の斜面もいたるところで崩れた状態だった(藤倉2014:182-3)。
そのような状況の中、F氏は被災した園で保育を再開している。それも、震災からわずか 1か月余りの4月15日である。果たして、どのような判断と経緯のもとに、同所での再開に 踏み切ったのであろうか。本節の分析は、2014 年 9 月 20 日、B 旅館(陸前高田市矢作町)
にて、F氏がC大学のボランティアの学生たちに向けて語った内容とその際に配布された資 料、F氏が執筆した『3.11岩手 自治体職員の証言と記録』の記述を中心に行う。また、2014 年6月に実施した、新潟中越地震当時に川口町内保育園で保育者だった3名の語りの聴き書 きとの共通点も参照しながら、彼らの「持ち場」について考察する。
(1)他者との関係性から引き出される力
震災後しばらくは、周囲は「原始の世界」で、何をする意欲も出ない「諦めきった状況」
だったという。そのうち、家族や知人の車に便乗するなど、足の確保を模索しながら園に通 い、重要書類を探しては乾かす作業に取り掛かっている。そして、周りの人々が少しずつ立 ち上がっていく姿を見て、改めて自分の役割を自身に問いかけている。「それぞれの職業は、
それなりの意味があって社会の中で成り立っている。それじゃあ私たちの役目は?。子ど も、保護者、地域に元気を与える役目ではないか」そう語るF氏の言葉に、長年、保育者と して、また園長として、その役割を担い培ってきた自負が窺える。
これは、2004年の新潟中越地震で被災された保育士らの園再開に至るプロセスとも共通 している。当時、新潟県北魚沼郡川口町(2010年4月から長岡市川口)にあったD保育園 は地区内の住民の避難所となっていた。保育士も皆被災者であったが、食料が不足する中、
求めに応じて町民のためのおにぎり作りなどに従事していたという。その合間に、分担して 園児の住む避難所を巡回し、安否確認や保護者の要望による避難所での「出前保育」をする 中、やはり本来の役割を自身に問いかけている。そして、「私たちは子どものためにいなきゃ
いけないのに」と気づくに至ったという。10月23日の被災後、12月1日には通常保育を再 開している。
F氏や川口町の保育士らの「持ち場」は、保育者としての役割意識であろう。F氏も園に 通っていた子どもたちを避難所に訪ねながら、親が被災後の片づけや生活再建に追われる 中、不自由な環境におかれている子どもたちの様子に、少しでも安心して遊べる場所を確保 してやりたい、との思いを強くしている。ただ、単独で、その意識に動かされたのではなく、
周囲の人々の活動に刺激され、改めて、今、すべきことを自分に問うている。そのことを、
F氏は、「誰かがやり始めると、自分も元気が出る。自分が始めたことも他に元気を与える」
と語っている。また、「市の職員のなりふり構わずに働くその姿に触れては、あの人も、こ の人も、被災したり最愛の人を失ったなかで頑張っていると、励まされたり、遠目に心配し たりする日々でした(藤倉2014:186)」と、当時の気持ちを記している。「持ち場」の力は、
他者との相互作用によって引き出されていることがここに示されている。
一方、F氏も川口町の保育士らも共に被災者であり、車の中や避難所での生活を余儀なく された人や、家屋の再建の目途が立っていない人もいる。そしてまた、上記のとおり、両者 とも保育園を再開できる環境とは程遠い状況にあった。F氏は言う。「普通なら、こんなと ころで再開できない。再開しなくても、文句を言う人はいないだろう」と。川口町において も、保育園再開より避難所継続を優先させるつもりでいた当時の町長の方針を、園長の説得 により、住民の合意を得て園再開に踏み切っている。両者とも、園児や保護者の状況を把握 する中で、自らすべきこととして最優先に選んだのは、保育士として、また園長としての職 責だった。これらの人々の「持ち場」認識に、活動の原動力が見受けられる。
(2)「やむを得ない」決断
「やってよかったかどうか…、今でもわからない」と、園長として園再開を決断したこと についてF氏はそう語る。町内の公共的な施設は被災し、地域の公民館は全て避難所になっ ていた。避難所での子どもの様子を見て、「何とか再開しなければ…」との思いを強くし、
浸水した園に代わるスペースがないか、地域の建物を毎日見て回った。しかし、90人規模 の子どもを受け入れられるスペースは、他にはなかった。園舎そのものが大きく損壊してお らず、隣接して高台のグランドがあったこと、他に代わる場所がなかったこと、これらが、
浸水した園での再開を決断した理由という。そうした「やむを得ない」苦渋の決断は、誰か の指示によるものではない。相談できるような通常の組織による意思決定機能は失われてい た。そんな中、保護者の多くが園の再開を喜んだが、中には、浸水域にある地での再開を心 配する者もいた。同僚のなかにも「本当にあの場所でやるの?」と危ぶむ者もいた。水が出 ない、電気も切れたまま、園への登り口の土手も崩れたままという、「周囲の環境も衛生面 も問題だらけ(藤倉2014:184)」の中、職員もF氏の呼び掛けに車に便乗したり遠くから
徒歩で通ったりして園に集まり、総出で水を確保し、床の泥をかき出して消毒を繰り返し た。設備の修繕は、伝を頼って訪ね歩くなどして発注し、道路整備は市に要請した。そうし て何とか迎えた園再開の日は、水は応援自治体の給水車、電気は発電機、トイレはエコトイ レ、おやつは一関からの支援での午前保育による出発だった(藤倉2014:185)。こうした 状況の中、再開したことによって何かあれば、「あんな所でやって…」と必ず批判が出るこ とも想像できた。「毎日崖っぷちを歩いている感じだった」と、F氏も当時の思いを語って いる。その言葉に、決断により起こりうる全てのリスクを背負う園長としての覚悟と孤独が 滲み出ている。それでも敢えて園の再開に踏み切ったF氏の脳裏に、避難所での子どもたち の姿があったものと思われる。「持ち場」が、時として人にどのような作用をもたらすのか、
本事例は、その力の大きさに我々を気づかせてくれる。
(3)「現実」と「意思」をつなぐ逆接の発想
何もかも不足している状況での園の再開に周囲の批判が想像できても、F氏の中に全てを 整えてからの開園という選択肢はなかった。決断した当時の記録には、「まだまだ保育に十 分な環境ではありませんでしたが、いくらかでも以前の日常に近づけることが求められて いる事態だと考え、目の前のできることから歩きはじめようと決意しました(藤倉2014:
185)」とあり、F氏が何を優先順位の一番に考えたかが示されている。それは、被災後の子 どもたちの置かれている状況を「以前の日常に近づけること」、すなわち「保育園に通う」
環境を整えることである。その判断は、現状における「マイナス面」よりも、その不足部分 を「いかに補うか」に着目している。F氏の2014年9月の講話の際の配布資料には、「やる からには、最大限の努力をし、できる事を全てやる!まず、自分達ができることから一歩ず つ進もう!」と、当時の強い決意が示されている。そこに、園長としての職責に裏付けられ た「持ち場」を引き受ける人ゆえの覚悟の様相が示されているのではないだろうか。
その覚悟は、稲沢のいう「逆接(「にもかかわらず」)(稲沢 2015:111)」に通じるもの である。浸水し、泥や瓦礫が散乱する園内の圧倒的な現実と、それでも園の再開を決断する F氏らの意思は、「逆接(「にもかかわらず」)」で繋ぐしかない。つまり、その現実と意思は 自然に繋がるものではなく、人の踏ん張りによって生み出されるものである。稲沢は、その 踏ん張りにこそ、人が生きていくことのささやかな意味が現われていると述べている。
なお、A保育園は日本赤十字社・マレーシア赤新月社の支援によって新園舎が建設され、
2015年度から小学校の南西側に位置する海抜30mの高台に移転している。園内を明るく照 らすステンドグラスにはマレーシアの国花であるハイビスカスが施されている。我々が訪れ た時、現任の園長は、津波の心配がないことが園の職員や保護者の安心につながっていると 強調された。しかし、周辺の環境整備はいまだに途上で、園脇の道路拡張のため、園庭に面 した斜面を切り出す大掛かりな工事が予定されているという。子どもたちは、長い間外遊び
を制約されており、毎日の保育の中での体力や運動能力の維持向上の工夫に、保育者たちは 頭を悩ませている。
2.災害による「持ち場」の変化・拡大 ~語りに秘められた思い~
本科研の活動の発端は、2011年6月に、陸前高田市で募集していた「保育ボランティア」
に応募したことに始まる(村井 2014:44)。それを契機に、受け入れ側の窓口になってい るのが、社会福祉法人陸前高田市保育協会の事務局長K氏である。同協会の5つの保育園の 運営に当たり、被災後のボランティア等の受け入れに際し各園との連絡調整なども担ってい る。
2016年2月には、2004年の新潟中越地震によって激震地区で被災され、現在も地域防災 のNPOを立ち上げて対策を検討している方の同席で、それぞれの震災について体験交流の 場をもった。地震の規模、災害状況は異なるものの、被災の経験の共有によって様々な話題 が引き出され、「持ち場」で引き受けた役割、責任を反映したそれぞれの場面が語られた。
中盤からは陸前高田市議会議員のS氏も加わり、各「持ち場」を引き受けたきっかけや思い が語られ、災害を機に「持ち場」が変容していくことも明らかになった。すなわち、災害時 における「持ち場」は固定したものとは限らず、それを機に他者からの求めや新たに生まれ た使命感により、担う役割や責任が変化するものとして捉えられた。
よって、本節では、「持ち場」の変容に着目し、それが本人や周囲にもたらす意義を考え る。第一に、K氏について、第二に、市議会議員S氏について、災害後の「持ち場」の変容、
拡大とその役割の意義、被災地を生きる思いなどを、その場の聴き書きを中心に検討する。
(1)求められる中で生かされる「持ち場」の役割 〜 K氏の語りから〜
震災から5年、K氏が一番に考えてきたのは、浸水した2園を安全な所に再建することだっ た。小千谷市で地域の復興に携わった同行者から、「市と復興計画の折り合いをつけること に難しさがあったのでは?」との問いかけに、国からの予算を市立では使えても法人では使 えないことに「歯がゆさ」を感じたという。それでも、ユニセフやヤマト福祉財団、マレー シア赤新月社等の補助事業を見つけ、支援を受けることで建設費用を捻出した。今は5園と も安全な場所で運営されていると思うと、ホッとして力が抜けた状態という。それだけ、2 園の新設園舎完成に至るまでのK氏の重責は想像を遥かに超えるものだったのだろう。
K氏は、5つの園の運営を保育協会が担うようになる前年の2006年10月に事務局長とな り、わずか半年で就業規則など運営に必要な書類を全て作った。当初は、1つの園を建て直 すまでの約束で、定年退職後は地域のまとめ役として長部地区のセンター館長に就任予定 だった。しかし、震災がきて「逃げるわけにもいかず」現在に至っているという。
K氏は、父も二人の兄も漁師だが、母の強い要望で漁師にはならず、以前は洋服販売をし
ていたという。震災前の事務局は市役所内にあり、当時からの関係を活かして、震災後もK 氏は市の職員と連携をとっている。園を建築する際、土地の払い下げや水路権などの問題に 関して、市に「何回も助けられた」という。なぜ、それが可能だったのだろうか。K氏は「若 い時から知っている人がいっぱいいる」からと、日頃からの職員との関係を挙げる。陸前高 田市では、市の職員も3分の1以上が津波で家を流され、犠牲になった人も多い。被災者で あり、家族や家を失いながら、それでも職員は住民が落ち着くまで休みなく働いたという。
K氏は市職員のそういう姿をつぶさに見ている。今では、職員が風邪を引いたとこぼすと、
K氏は「酒飲みゃ治る!」と減らず口をたたくと自ら笑う。そこに、災害によって本来より 大幅に重責のかかる「持ち場」で役割を果たした者同士の、気持ちの通じ合いや労わり、強 い信頼関係があって、それにK氏も支えられているのではないかと感じた。これは、先のF 氏の記述にもあった、「他者との関係性から引き出される力」にも共通する。K氏の語りか らも、「持ち場」の力は他者との相互作用によって引き出されるものであることが示されて いる。
また、保育園の土地を借りることができたのも、市や地区の人々に保育園は大事だとの認 識があったからだったという。だから、「地区にお願いすれば、誰も文句を言わない」と述 べる。こうした、K氏の人柄ゆえか、若い時から構築した人脈と、保育園に対する住民理解 が、震災後のK氏の仕事上の様々な難問の突破に大いに役立っているように窺える。K氏の
「持ち場」は、震災を機に、予想を遥かに超えた年数を、急迫した事態への対応という求め に応じて拡大し変化してきたように思われる。すなわち、「持ち場」は、災害による外部環 境の変化や他者からの求めによって変化を余儀なくされるものでもあることが、ここに示さ れている。新潟中越地震を経験した同行者との体験共有によって、この間の歩みを振り返っ たK氏は、「今考えると、いい仕事をさせてもらっている」としみじみ語った。
(2)地元に根ざした視点からの「持ち場」の模索 〜 S氏の語りから〜
S氏が保育協会を訪れた際、我々の姿を見て遠慮したところを、K氏がS氏を愛称で呼び とめて「紹介すっから」と招き入れたことからも、K氏とS氏は旧知の仲と想像することが できた。同行者による新潟中越地震の体験をふまえたNPO活動の紹介を皮切りに、市議会 議員として小千谷市にも視察に行っているS氏の語りが始まった。話の筋から、S氏は今回 の災害を機に市議会議員になったことが窺えた。また、津波で妻を亡くしたこと、近く5人 目の孫が産まれることなど、K氏がところどころ差し挟むS氏の個人情報も含め、被災者と して悲しい思いや背負っているものがあることも次第にわかってきた。
そして、S氏の語りは、我々と偶然会ったにもかかわらず、予想を遥かに超える時間と内 容で、我々を圧倒するものであった。地域の防災情報の流し方や災害時の個別支援計画な ど、小千谷市と陸前高田市、相互に災害後の体制作りや課題などの意見交換をする中で、S
氏の話題は様々な方向に飛んだ。嵩上げ工事の際に先祖の墓地、井戸、石碑などをどんどん 埋め立てる弔いを無視した行政の対応、マスコミで取り上げられた「奇跡の一本松」の観光 施設の建設予定が、従来からあった博物館の再建よりも優先されるという価値判断の危う さ、大雨の際の自主防災の体制作りの形骸化、罹災証明にまつわる行政対応の矛盾、チリ地 震による津波11)の経験知が今回の災害に生かされなかった組織の問題、高台に家を建てた ことで、近くに商店街や診療所があっても坂が急で歩いて帰れず、タクシーもないなど、復 興によって整備された環境が高齢者等に及ぼす新たな生活困難の問題などである。いずれ も、災害によって変化を強いられた地域の、復興の名の下にないがしろにされてしまう地元 の人々の声や、複雑で現実的でない行政手続き、機能性に乏しい防災組織など、体制の行き 届かなさに由来していた。それらを話す際、「不思議だ」、「あれはない」、「何なの」、「悔し い」、「なぜなんだ」などの言葉を繰り返す。それは、児島が「権力への異議申し立て」とし てとりあげる「語り」の作業に匹敵するとも考えられる。すなわち、当事者にとっての語り は、「耐え難い『不当さ』を直視し、『自分はどうするべきなのか?自分とは、何であるの か?』と問い尋ね、自己の新たな落ち着き場所を探そうとすること」であり、「自分の現実 を定義し、新たなアイデンティティを形成する」プロセスとして欠かせない作業であるとい う(児島1999:135)。S氏は、被災した当事者であるとともに被災者の隣人として自己のあ るべき姿を確立し、そこに「語る」意義を感じているのではないだろうか。これは一方で、
後藤が、正義とケアを切り結ぶうえで重要な視点と指摘する「ポジション配慮的不偏性」の 観点(後藤2004a:212)に通ずる主張とも捉えることができる。すなわちそれは、困窮し ている人々への資源の分配の程度を評価するために、「異なる理由やプロセスで困窮してい る人々の個別的特性や利益を広く情報とし、ポジション依存的な評価を形成しつつ、それら を不偏的見地から整合化する試み(後藤2008:234)」であり、被災した人々の様々に異な る事情をどのように整序化し、復興に向けた支援や新たな体制作りに役立てていくか、その あり方をも考える上で必要な観点である。S氏の「持ち場」は、声を上げにくい人々の様々 な事情に即した個別的特性のリサーチによる発信であり、後藤が主張する「複数の具体的 ルールを整序化するような一般ルールの形成(後藤2004b:273)」に寄与するものである。
S氏自身が大きな喪失体験を経験している中で、あえて、市議会議員として、災害によっ て生じる様々な矛盾や理不尽さに向き合う「持ち場」を選択している。とりわけ、S氏が「悔 しい」と何度も繰り返したのは、チリ津波の経験知が生かされず、防災無線で高台への避難 を呼びかけても逃げない人々がいたことや、個人の判断では避難が許されない組織の危機管 理の不十分さなど、助かったはずの命が失われた現実に対してだった。S氏は言う、「亡く なった人は帰ってこない。それよりも、生きる力を子どもたちに伝えていくことが私たちの 役割だ。今自分は一人で仮設にいるし、毎月の給料は皆さんの税金。皆さんに返さなければ
うそだ。一人ひとりに意見を聴いたり、お伝えしたり…、それが仕事、役目だと思っている」
と。S氏が今目指すのは、まさに地域防災である。そのために、3.11を慰霊の日にするので はなく防災の日として、それぞれの地域のコミュニティの情報を生かした逃げ地図12)の作 成と、それをいかに関係部署が共有して活用していくか、海と山それぞれに対する防災を考 えていかなければならないと語る声に、強い決意が感じられた。
小千谷市の同行者が「ここで生まれた因縁で、ご苦労ですよね」と声をかけると、S氏は、
「俺は苦労だと思っていない。ここで生まれて育てられた。津波は憎いが海に生かされた。
だから、自分の町が一瞬にして消えた事実、どこでも起こりうるんだと伝えたい。全部が全 部解決できないけど、自分たちができることをやるしかない」と語った。ここにも、この地 を愛し、自己の「持ち場」で踏ん張る人の姿があった。
3.災害時の「持ち場」を引き受ける人の存在意義
災害時には誰もが被災者として、それぞれに事情を抱えて対応に追われる。そうした中で、
他者に向けた「持ち場」を引き受ける人々は、なぜ敢えてそのような役割を自分に課すのだ ろうか。また、そのような力が引き出される要因は何なのだろうか。さらに、被災地におい て「持ち場」を引き受ける人々の存在は、地域の復興にどのような意義があるのだろうか。
前節までに示された人々の「持ち場」の特徴について、いくつかの視点から考えてみたい。
(1)「持ち場」を引き受ける人にとっての他者の存在
出会った人々は、災害時の混乱した状況の中、自らの決断によって各々の「持ち場」で役 割を引き受けていた。先に紹介した人々の語りをみると、F氏は「目の前のできることから 歩きはじめようと決意」したと述べ、K氏は「逃げるわけにもいかない」と言い、また、S 氏は「自分たちができることをやるしかない」と語る。
これらの物言いには、被災後に他者のために役割を引き受ける決断を自らに課した思いが 示されている。その決断とは、他者に向けた責任である。例えば、F氏にとっては園児や保 護者に対するものであったと考えられる。その責任は、回避の余地はあるが、引き受けるこ とはその人にしかできない類の責任である。よって、その決断は重い。
これは、児島のいうソーシャルワークの「他者に基礎づけられた倫理」に通じるものと考 えられる。すなわち、児島は、フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスの援助関係に おける個人の主体性は他者との関わりの中で生まれるとする思想に着目し、以下のように述 べる。「他者」に対し、助けるか、助けないかは、「私」の自由であるが、「他者」を助ける ことができるのはこの「私」しかおらず、他者への責任、それはあくまでも倫理的な要請で あって、存在論的な必然では決してない、と。すなわち、「私」は、「他者」が出現して呼び かけられ、それに他の誰でもない「私」が応えることよって、初めて主体として存立し、私
と他者との関係が成立するのだという(児島2015:7-8)。なお、児島はレヴィナスの思想を 導く理由として、「専門職者の役割遂行といった狭い枠組でなく、人と人との根源的な関係 のありように深く分け入って責任を捉えることが可能になるため」と述べる(児島2015:4)。
一方、鷲田は、我々が自己の存在や意味を見出すとき、そこには他者との関係性が必要で あると、以下のように記している。「所有物としてのじぶんの才能や性格のうちにではなく、
だれかある他者にとってのひとりの他者でありえているという、そうしたありかたのなか に、ひとはかろうじてじぶんの存在を、あるいはその意味を見いだすことができるだけだ(鷲 田2001:198-9)。」この児島、鷲田の主張は、「持ち場」を引き受ける人々が自ら役割を引 き受ける動機付けの検討にあたって、示唆に富むものである。
すなわち、その要因は、これまで築いた他者との関係、他者の存在にあり、その関係性の うちに自らの存在や意味を見出したことにある。それは、F氏にとっては園児や保護者であ り、K氏にとっては保育協会の保育士や職員であろう。また、S氏にとっては家族や地域の 住民と推察する。それに加えて、同じ被災者であり、家族や家を失いながらも住民のために 休みなく働く行政の職員など、「現実」と「意思」を逆接で結ぶしかない状況下で「持ち場」
を引き受けている他者の存在も大きい。F氏が職員の姿に「励まされた」と記しているよう に、周囲の変わり果てた景色や先の見通しがつかない状況の中、「持ち場」を引き受ける者 同士が相互に他者の働きをみて、自分を鼓舞したり、その役割を模索したりするなど、「鏡」
のような作用をもたらしたとも捉えられる。
(2)「持ち場」を引き受ける人としての責任
「持ち場」による活動とは他者への関わりである。ここに取り上げた人々は、被災を契機 に他者の存在によって発動し、「持ち場」から力を引き出されている。そこには、他者の存 在をかけがえのないものとして大切にする「慈しみ」(稲沢 2015:90)の気持ちが含まれ る。「持ち場」の人々が他者を慈しむ理由は何か。その点について、稲沢は、「誰にでも当て はまり、誰もが納得するような、マクロレベルの外在的で客観的な理由はない。おそらく、
一人ひとりがミクロレベルで個人的に納得するしかない(稲沢2015:95)。」と記している。
K氏の語りの中に、被災時、仲間の命を守らなければとの責任からの必死の判断が、自分 の命をも救ったとの件がある。そこには「持ち場」における他者への慈しみが現れている。
震災当時、陸前高田市保育協会の事務局は市役所1階にあり、今も共に働く同僚2人と一 緒だった。地震の後、多くの職員はまだ下にいて、逃げる様子がないことに K 氏は戸惑っ た。それは、小学4年生の時にチリの津波を経験しているからである。誰かが「津波が堤防 越えたぞ!」と叫ぶ声が聞こえた時、過去の、家が流された風景や高台に上がって避難した 記憶が頭をよぎったという。そして、避難場所に指定されていた市役所向かいの市民会館の 屋上に向かおうと同僚2人と外に出たが、そこで同僚の1人が知人と出くわして立ち話を始
めたところで、ふと市民会館と市役所の建物の高さを見比べ、市役所の方が高いことに気づ いた。即座に、周囲の人と一緒に市役所に引き返し、屋上への階段を駆け上がったという。
その一瞬の判断と行動が生死を分けたという。K氏はいう。「かっこつけるわけじゃない けれど、この2人だけは何とか助けたい、仲間意識があったからこそ、一緒に逃げた」、「あ のままたぶん1人だったら家さ帰った。きっと気仙川で引っかかって終わり…」。
この語りから、K 氏の当初の「持ち場」による意識は、2 人の同僚に対する責任であり、
決して不特定多数を対象にしたものではない。しかし、同僚2人を絶対助けたいというK氏 の強い思いが、咄嗟の状況下でも決まりごとに流されずに自分たちの身を守ることに徹した 判断を生み、結果として、その周辺にいた人々の命をも救うこととなった。稲沢が指摘する ように、K氏が「この2人だけは何とか助けたい」と同僚を慈しむ理由は、過去の被災の経 験や保育協会で共に事務局を担うことになった経緯、2人との関係などK氏固有のものであ る。「持ち場」を引き受ける人それぞれが固有の理由によって他者を慈しみ、それを原動力 に行動を起こしていることが窺える。つまり、被災時における「持ち場」を引き受ける人々 は、自己の利益や保身の動機によるものではなく、これまで関係を築いてきた身近な他者に 対する責任を果たすことに自己の使命を見出し、結果として、「持ち場」によって多くの他 者に対しても影響を及ぼすような役割を果たしていた。
(3)被災地にとっての「持ち場」の人々の存在意義
それでは、被災地にとっての「持ち場」の人々の存在意義とは何であろうか。川井は、
2011年5月1日から9月10日までの4 ヶ月の間、滞在型ボランティアとして陸前高田市で 支援活動を行い、そこでの見聞によって震災後の地域再生の可能性と課題を検証している
(2013:43)。その中で、避難所での自治会組織の自然発生的な形成など、各々が主体的に役 割を担うことに意味はあるものの、外部の者が性急に様々な機能の自主的運営を被災者に迫 ることは、かえって復興の芽を摘むことになりかねないと警鐘を鳴らす(川井2013:49)。
また、陸前高田市の人口の約7%にあたる1,758名が死亡・行方不明になっており、被災世 帯も全世帯の半数以上の4,465世帯にのぼることから、避難所や市外等への転居などによっ て離散を余儀なくされ、それまでの人間関係や地域コミュニティが崩壊しているとして、新 たな「場」と「関係」の創出の難しさを指摘する(川井2013:49-50)。川井の検証は、発 災後半年のうちの4 ヶ月の現地のフィールドワークによるものであるが、一方で、本研究で 出会った人々のように、その間にもこれまでの立場や人とのつながりを活かし、「場」の代 替や変化を遂げながらも、着実に地元で自分の「持ち場」を意識し、地域コミュニティの維 持や復旧、復興に貢献している人々の存在を見落としてはならない。また、川井の検証との 比較により、改めて本研究の「持ち場」を引き受けた人々の役割の大きさに気づかされる。
すなわち、それは、第一に外部からの支援では実現が難しい従来の人間関係が活用され、ま
た担い手同士の相互作用が、維持や継続を後押ししている。第二に、その働きは、地域の最 も身近な人々のニーズの把握によって発動している。そこに、震災後の地域再生において、
「持ち場」による活動ならではの強みが示されている。その一方で、何よりも重要なことは、
その発動の有無は、あくまでも「持ち場」を引き受ける人一人ひとりの意思に委ねられてい るということである。2020年7月のK氏の便りには、S氏は2019年に市議会議員三期目に 当選し、今も仮設住宅に一人住み住民第一で奔走していること、また、F氏は当保育協会評 議員として、保育所のあり方に園長の経験値を生かした意見を提供していることが記されて いた。そして、K 氏自身も、2021 年 3 月まで、事務局長として二人の事務局職員と共に仕 事を続けるとのことである。
Ⅳ 結論
本研究から、震災時、あるいはその後の暮らしにおいて、人々の「持ち場」の意識が、自 己や他者に様々な形で働きかけ、行動の原動力となっていることが明らかになった。1つに は、被災前からの他者との関係性が発動に作用していた。それは、「持ち場」を意識する動 機付けでも、「持ち場」の変化、拡大を当人が引き受ける場合でも、重要な要因となってい た。また、「持ち場」から引き出される力は、その人が潜在的に持っていたものが、他者との 関係性のなかで発現していくエンパワメントのプロセスともいえる。2つには、「持ち場」を 引き受ける人々は、様々な決断で自ら責任を引き受ける、あるいは引き受けざるを得ない姿 が見られた。また、その姿は「現実」と「意思」を逆接でつなぐ発想に起因し、その場で踏 ん張る力によって実現されていることが示唆された。3つには、「持ち場」発動の要因を、他 者との関係、存在、責任の観点から検討した。そして4つには、被災による喪失・崩壊に着 目した地域再生の一検証との比較によって、改めて「持ち場」の存在意義を明らかにした。
最後に、本研究の限界と今後の課題について述べる。本研究でまとめた「持ち場」によっ て引き出される力は、「持ち場」を引き受ける人の人間性によるものである。しかし、人々 の体験を聴き書きするうち、「持ち場」を意識することによって、使命を抱き発動する力が、
被災地の復興に少なからず役割を果たしているのではないかと考えるに至った。被災地に赴 き、防災・減災の人間科学を研究している守谷、渥美らは、現地の人々の語りから意味を見 出し、その特定の文脈や事例の中で「多彩な解釈」を行うことの必要性を説く。災害に普遍 的な法則を求めるのではなく、その解釈を用いて現状を変革すること、すなわち物語設計科 学こそが大事であると指摘する(守谷、渥美2011:19)。今後、「持ち場」の概念をさらに 吟味し、被災地において、一人ひとりが請け負われた役割、意義の検討を必要としている。
謝辞
本研究にご協力いただいた新潟県長岡市川口の皆さま、岩手県陸前高田市の皆さまに、深 謝いたします。F氏、K氏、S氏には、詳細な聴き書きをする機会をいただきました。心よ り感謝いたします。
付記
本研究は、科学研究費助成事業(基礎研究(C)一般、課題番号:25380765)を受けて 実施した研究の一部をまとめたものである。
注
1 ) https://www.npa.go.jp/news/other/earthquake2011/pdf/higaijokyo.pdf
(「平成 23 年(2011年)東北地方太平洋沖地震の警察活動と被害状況」令和2年12月 10日付警察庁緊急災害警備本部、2020年12月15日閲覧)
2 ) 「希望学」については、玄田有史(2006)を参照。
3 ) 中村尚史・玄田有史は、オーラル・ヒストリーを、「関係者の記憶に関する直接の声を、
その内容のみならず、語り口まで含めて大切な歴史的資料としてそのまま記録に残すこ とである(2014:399)」と定義している。
4 ) 「きく」の表記について、広辞苑には「広く一般には『聞』を使い、注意深く耳を傾け る場合に『聴』を使う」とある。本稿では、筆者のその行為を「聴」で表わす。
5 ) 「文献」に示したものの他にも、高倉浩樹ほか監修、とうしんろく(東北大学震災体験 記録プロジェクト)編(2012)『聞き書き震災体験―東北大学90人が語る3.11』新泉 社、土屋葉ほか編(2018)『被災経験の聴きとりから考える―東日本大震災後の日常生 活と公的支援』生活書院などがある。
6 ) 「聞き書き」について、土方は以下のように記している。「インタビューではない。聞き 取り調査でもない。コメントが欲しいわけでもない。そして、語り手の人生が透けるよ うな聞き書きは短くては達成できない。(土方正志2012:480)」
7 ) 聞き手の人々も「自らも家族や親族を失い、生活を破壊された聞き手が、同じ境遇の語 り手に対峙」することや、「語り手がやがて聞き手になっている例もある」という。ま た、「震災前から知りあっていた」間柄や、「直接の知り合いではなくとも、同じ町に暮 らしていたり、共通に知人がいたりと関係性はさまざま」ではあるが「震災を契機に
『取材』を目的としてのみ向かい合ったわけではないケースが大半」である(土方正志 2012:482-3)。
8 ) 本研究のメンバーと陸前高田市との関わりは、2011年6月に、陸前高田市で募集して
いた「保育ボランティア」に応募したことに始まる。それ以降、年に数回、陸前高田市 に足を運び、「保育ボランティア」や「洋服販売」などの活動をとおして、保育協会や 一部仮設住宅の方々と「顔の見える関係」を構築している(村井2014)。
9 ) 科学研究費助成事業(2013 ~ 2015 基礎研究(C)一般、課題番号:25380765、研 究課題名:「隣る人」の意義―震災・津波災害当事者中・長期的支援法の開発、研究代 表者:植村清加)。本研究は、文化人類学、社会福祉学、体育測定評価学の研究者がボ ランティア活動とフィールドワークを用いた共同研究により、陸前高田市で、人々が被 災経験から回復する過程に伴走する中・長期的な支援法を実践的に探ることを目的とす る。具体的には、社会福祉法人陸前高田市保育協会の事務局長のもとに継続して通い、
同協会の5つの保育園の子どもの体力測定や、保育園、仮設住宅の一室をお借りした洋 服の低価格販売などを実施しながら、保育協会や一部仮設住宅に住む方々と関係を形成 し、その時々の思いや震災時の体験の語りを聴き書きする機会を得た。筆者は、2013 年度はオブザーバーとして、2014、2015年度は研究分担者として本研究に携わった。
10) 人々の語りは「人と人とのかかわり」の中で生まれ、新たな人物の参加によってこれま でと異なる語りが引き出されたりもする。鷲田(1999)は次のように記している。「だ れかに触れられていること、だれかに見つめられていること、だれかからことばを向け られていること、これらのまぎれもなく現実的な経験のなかで、その他者のはたらきか けの対象として自己を感受するなかではじめて、いいかえると、『他者の他者』として 自分を体験するなかではじめて、その存在をあたえられるような次元というものが、
〈わたし〉にはある。〈わたし〉の固有性は、ここではみずからあたえうるものではなく、
他者によって見出されるものとしてある。(129-30)」
11) 1960年5月24日早朝、南米チリで発生した大規模な地震による津波が、北海道から沖 縄までの太平洋沿岸各地に被害を与えた。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1960_chile_
jishintsunami/index.html
(内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1960チリ地震津波、2020年12月 15日閲覧)
12) 地域の災害時に危険な場所を調べてそれらを地図に色別で示し、避難場所への安全な経 路を把握しておくための地図のことである。
文献
赤坂憲雄編(2012)『鎮魂と再生―東日本大震災・東北からの声100』藤原書店。
藤倉啓子(2014)「記録29いのちを守る!保育の重み―民間保育園で」晴山一穂監修、自治
労連・岩手自治労連編(2014)『3.11岩手 自治体職員の証言と記録』大月書店、179- 87。
後藤玲子(2004a)「ニーズ基底的相互提供システムの構想」齋藤純一編著『講座福祉国家 のゆくえ5 福祉国家/社会的連帯』ミネルヴァ書房。
後藤玲子(2004b)「正義とケア:ポジション配慮的〈公共ルール〉の構築に向けて」塩野 谷祐一・鈴村興太郎・後藤玲子編『公共哲学叢書5 福祉の公共哲学』東京大学出版会。
後藤玲子(2008)「第6章 ローカル正義・グローバル正義・世代間正義」アマルティア・セ ン・後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会。
稲沢公一(2015)『援助者が臨床に踏みとどまるとき―福祉の場での論理思考』誠信書房。
川井太加子(2013)「被災地で求められている『場』と『関係』の再創出―陸前高田の活動 を通して―」『地域福祉研究』41、42-51。
児島亜紀子(1999)「ナラティヴと政治」『社會問題研究』49(1)、127-43。
児島亜紀子(2015)「第1章 『他者に基礎づけられた倫理』の可能性―傷つきやすい他者へ の応答―」児島亜紀子編『社会福祉実践のおける主体性を尊重した対等な関わりは可能 か―利用者・援助者関係を考える―』ミネルヴァ書房。
玄田有史(2006)『希望学』中公新書ラクレ。
村井美紀(2014)「連載 東日本大震災と子どもの隣に居続けること」季刊『児童養護』45
(2)、44-7。
中村尚史(2014)「第 1 章 釜石における震災の記憶」東大社研・中村尚史・玄田有史編
『〈持ち場〉の希望学―釜石の震災、もう一つの記憶』東京大学出版会。
中村尚史・玄田有史(2014)「あとがき」東大社研・中村尚史・玄田有史編『〈持ち場〉の 希望学―釜石と震災、もう一つの記憶』東京大学出版会、398-405。
坪内千明(2016)「社会福祉マインドの発動―災害時における保育者の専門性の検討―」『教 職課程研究論集』東洋英和女学院大学、15-25。
土方正志(2012)「あとがき―本書の成り立ちについて」赤坂憲雄編(2012)『鎮魂と再生
―東日本大震災・東北からの声100』藤原書店、479-83。
鷲田清一(1999)『「聴く」ことの力―臨床哲学試論―』TBSブリタニカ。
鷲田清一(2001)『〈弱さ〉のちから―ホスピタブルな光景』講談社。
守谷克也・渥美公秀編(2011)『防災・減災の人間科学―いのちを支える、現場に寄り添う』
新曜社。
The displayed power from one’s post in disaster
─The raison d’etre of people who take the post upon oneself
TSUBOUCHI Chiaki
Key words: amid disaster, one’s post, displayed power, responsibility to others
This paper aims to study the role of one’s post during and after a disaster based on the narratives of the victims, and meaning was given to the effects of one’s post on oneself and those around them.
As a result, it became clear that : 1) awareness of one’s post had a motivating power upon disaster victims to work upon themselves and those around them, and to take the next action; 2) interpersonal relationships formed before the disaster affected the power strongly; 3) those who assumed their responsibilities accompanying their posts worked as a reverse connection to link the reality and their intentions—i.e.,
‘despite ..., I will ....’; and 4) awareness of one’s post played a role in the restoration of the stricken areas.