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こぺる No.141(2004)

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乙ぺる刊行会

NO. 1

4

1

ひろば⑮

「酒うんめか

た、仲間いてうんめか

った

一 一私と新潟水俣病事件 旗野秀人 ある光景⑥

他人を知るということ

高田嘉敬 尼崎だより⑫

記録

夜作られる

中村大蔵

(2)
(3)

ひろば⑮ 旗野秀人︵新潟県在住︶

||私と新潟水俣病事件 その日︵二

O

O

四年八月八日︶、川本ミヤ子さんは水 俣から一人でやってきました。﹁県立環境と人間のふれ あい館︵新潟水俣病資料館︶﹂開館三周年企画﹁妻とし て、母として、水俣病を語る﹂の講師でした。連れ合い の輝夫さんの葬儀以来ですから五年ぶりの再会です。 ﹁男はもうたくさん!﹂などといいながら胸には輝夫 さんの写真が納まっている大きなペンダントを見せびら かすミヤ子さんはなんとも遣しく輝いて見えました。筑 豊の作家、上野英信さんの七回忌に訪ねたときの妻の晴 子さんもそうでした。﹁昔、男ありきょ。それでもよか づたらどうぞいらっしゃい﹂。その晴子さんも今はこの 世の人ではありません。女性はいつも強く遅しいものだ

仲間いてうんめかった﹂

とつくづく思ってしまいます。 家中の水道の蛇口を開けっ放しにされ水浸しになった ことや、放火未遂などの嫌がらせに遭ったことなどを 淡々とミヤ子さんが語り終えたあと、私にも話しに加わ るように主催者から突然、要請がありました。三

O

年余 りのときの流れを感じつつ、なんだか不思議な気分で川 本さんとの出会いからお互いに被害地にお地蔵さんを建 立し、輝夫さんが亡くなるまでを話しはじめたのです。 水俣病と出会う こペる 七一年の暮れ、私は三里塚闘争にあこがれて家を出ま 1

(4)

した。ところが、東京駅前のチッソ本社に怪しげなテン トを発見、寄り道をすることになったのです。このこと が私の人生を狂わす、いやいや豊かな人生にしてくれる きっかけとなりました。阿賀野川のほとりで閉じこもっ ていたら出会えなかった人たちとの﹁ご縁﹂のはじまり と な っ た の で す 。 テントの脇で当時、筑摩書房﹁展望﹂の編集長だった 原田奈翁雄さんと筑豊の炭住に居を構え、鉱夫たちを記 録し続ける作家上野英信さんは患者支援のハンガースト ライキを決行中でした。私も軽い気持ちで隣に座らして もらったのですが、﹁新潟は今、どげんなっとるかな﹂ 眼光鋭い、自主交渉派リーダー川本輝夫さんに芦をかけ られて震えてしまいました。その年の九月に新潟水俣病 第一次訴訟判決が出ているにもかかわらずまったく答え ることができなかったのです。瓢々とした風貌で淡々と ハンストをこなす原因さん、上野さんの脇に一週間ほど 滞在して、いつかは新潟の上野英信になりたい、などと 思って一戻ったものの水俣病患者の聞き取りはなかなか思 うようにはいきませんでした。 家業の建築業が嫌で、現場から地下足袋のまま叩−

n

国際反戦デ

l

のデモ隊の最後尾にくっついてみたり、書 き置きをして広島へ出かけてみたり、二一里塚闘争にあこ がれてみたりするものの、そこに身をはめることが怖か ったのです。だから、テントに座り込んだことを聞きつ けて一緒に活動しようと誘われた時も迷いました。今で は笑い話ですが、川本さんとの出会いがいつの間にか ﹁過激派﹂などと言われることになってしまうのですか ら 滑 稽 で す 。 はじめの頃﹁水俣病のことは話したくない﹂と、門前 払いになったことも何度かありました。二

O

歳そこそこ のどこかで﹁世のため、人のため﹂などと思いたかった 自分は半べそをかいてしまったのですが、足を運ぶうち に次第に家族づきあいをしてくれる人たちも現れてきま し た 。 新潟水俣病に取り組む 私の住む安田町︵現阿賀野市︶は阿賀野川河口から約 一 二

0

キロの中流域に位置し、運動の拠点となった一

00

(5)

せんとうじ 戸足らずの千唐仁集落は阿賀の川筋でも珍しい、ほとん どが川舟の船頭という集落でした。新潟水俣病はご存知 のように熊本水俣に次ぐ第二の水俣病発生地であり、ま た新潟においては昭和電工の農薬説もあって当初、下流 域だけの事件とされ、安田町のような中流地域は後手に 目されたところでもありました。川本さんたちの行政不 服の闘いが七一年に逆転認定裁決を勝ち取って﹁疑わし きも認定せよ﹂という環境庁の通達を出させたことや、 新潟の一次訴訟判決が力となって一時、認定患者も増え るものの七三年のオイルショックあたりから棄却患者が 急増することになります。﹁水俣病でなければ何の病気 か﹂、棄却された患者さんたちの素朴な疑問が運動のは じまりでした。船頭仲間から家族ぐるみ、そして地域ぐ るみの運動へと少しずつ拡大されていくのですが、途中 でマスコミに取り上げられたことから駐在所が背後関係 を問いただしに来たり、町長が説得工作に入ったりと患 者さんが動揺する事態も起こったのです。 熊本の水俣病研究会がまとめた﹁認定制度への挑戦﹂ をバイブルとして川本さんたちの闘いを真似ようとした のですが、なかなか逆転認定裁決を勝ち取ることは出来 ま せ ん で し た 。 一

0

年間で約三

OO

件の行政不服審査請 求の中で差し戻し裁決が一件、逆転認定裁決がたつたの 一件だったのです。この行政不服の闘いが第二次訴訟の 原動力になったことは間違いないことなのですが、裁判 に対する不信感を少なからず抱いていたので裁判以後の 運動をひとり密かに考え始めていたのでした。 気がつくと私は三

O

歳になっていました。患者のひと り、明治四一年生まれの餅屋のジイちゃんこと加藤作二 さんに言われました。﹁いつまでもこんげなこと︵運動︶ してねえで早く結婚しなせえ。まずは本業が大事だ。大 工仕事をちゃんとしねばなんねえよ﹂と、親代わりのよ うにいつも言ってくれていたのです。最初に門前払いに あった川舟の船頭だった栄作さんところしかり、いつの 間にか一人前気取りで晩酌をご馳走になっては泊めてい ただき、弁当まで作ってもらって出勤するほど甘えてし まっていました。つきあう時聞が長くなるにしたがって、 目の前にいる栄作さんは川の流れや風を読み、寡黙で船 頭一筋に生きてきたひとであって、間違っても私が求め るような水俣病闘争のリーダーではないことに気づきま す。しかし、船頭仲間の丈夫さんとのコンビは抜群で、 こべる 3

(6)

何事も信用のある栄作さんが一軒一軒説得をし、集会で はどこか親分気質をもっ丈夫さんの出番でうまく乗り切 ってきました。その丈夫さんも原告になることもなく裁 判を前にして亡くなってしまうのです。 第二次訴訟の前年、私は餅屋のジィちゃんに言われた とおり二二歳で結婚することになります。収穫のない行 政 不 服 の 一

O

年のように言われがちですが、理想の闘う 患者像と目の前にいる患者さんとのギャップを知り、身 の丈にあったわれわれ流の運動の大切さと患者さん一人 ひとりの魅力に気づいた、かけがえのない一

O

年 で し た 。 いよいよ裁判が始まるとき、セツルメント運動からの叩 き上げの闘土で共闘会議の事務局長だった大正生まれの

K

さんに﹁過激派﹂などと散々いじめられたにもかかわ らず、なんと専従の事務局員にならないかと誘われたこ とがあります。さすがにジイちゃんの言葉を思い出して 本業の建築業を続ける道を選びました。そして、栄作さ んの娘さんと結婚することで、私にもありがたい縁がま わってきたのです。作業療法士で誠治療もできるという なんとも頼もしい助っ人の彼女と一緒になることを誰よ りも喜んでくれたのは餅屋のジィちゃんでした。嬉しい ことは重なるものです。一八歳で結婚したジィちゃんパ アちゃんが五

O

年目の金婚の年であることもわかって合 同で祝う会をやることになりました。東京で餅屋を繁盛 させたことのあるジイちゃんは二

OO

人余りの参加者の 赤飯を寝ずにつくって祝ってくれたのです。私も仕事柄 さっそく母の畑の一部に新居を建築しましたら、栄作さ んや餅屋のジィちゃんは毎日のように訪ねてくれました。 翌年には長男も生まれ、ことのほか喜んでくれました。 しかし、彼女は妊娠中毒症がもとで半年間の入院となっ たり、寝不足の私は大きな交通事故を起こしたり、新築 聞もないわが家を全焼することになったりと悪いことが 続くことも経験します。そのたびに患者の皆さんからは 過分な支援をいただいて立ち直ることが出来ました。そ う、支援者のつもりが支援をされるありがたさを身に泌 みて実感するのです。

八三年、今ではすっかり有名になった佐藤真監督と出 む こ 会います。水俣の患者さんを撮った﹁無事なる海﹂の助 監督を勤め、その上映のために新潟にやってきたのです

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が、私にとってもタイミングの良い、嬉しい出会いでし た。酒の勢いを借りて餅屋のジイちゃんや船大工の遠藤 さんの魅力的な生き様を自慢し、阿賀の映画づくりの夢 を語ったのです。既成の運動に違和感を覚えつつ、石牟 礼道子、土本典昭、ユ

l

ジン・スミスなど表現者の大勢 いる水俣を羨ましく思いました。告発調ではなく、水俣 病という言葉はなるべく使わず、新潟の宝もんをそっく りそのまま撮ってほしいと訴えていたのです。﹁原発、 社会党。水俣、共産党﹂と言われていた当時、第二次訴 訟の只中でもあり現実的にはなかなか難しい局面もあっ て製作委員会代表に大熊孝新潟大学工学部教授になって もらえたことは心強いことでした。佐藤監督とカメラマ ンを誰にするか、となった時もなぜか写真集﹁ぱんぱか ぱん﹂を撮った小林茂さんという共通の名前が挙がった ことも不思議なことでした。録音の鈴木彰二さんもそう、 しんきゅうし まったく録音経験のない鏑灸師の卵だったのです。製 け ん け ん が く が く 作資金調達の問題から、喧々誇々血を見るような編集作 業まで、まったく先の見えない映画づくりではありまし たが、必ず何とかなるだろうという確信めいたものを感 じていました。無責任なようですが、終始自に見えない 大きな力で支えられているように思えていたのです。 七人のスタッフが三年間の合宿生活の末、九二年の春 に映画﹁阿賀に生きる﹂はようやく完成します。出演し てもらった患者の皆さんにも一緒に見てもらえたことは 何より嬉しいことでした。明けて九三年の一一一月には栄作 さんが、四月には餅屋のジィちゃん、六月にはパアちゃ んと次々に亡くなっていくのです。まさに映画の完成を 待って逝ってくれたようなものでした。栄作さんが亡く なったときに、私は初めて背中を押される思いで新聞に 投 稿 し ま す 。 ﹁二一月一八日、第二次訴訟原告で二九人目の死亡 者がでた。安田町未認定患者の会初代会長市川栄作 さんである。昨年の新潟地裁で一審判決がでた日に 地元の安田町千唐仁集会所で報告集会があった。そ の席で物静かな栄作さんが﹁これでやっと、金目当 てのニセ患者と言われないで済む。今日は胸を張っ て村に帰れた﹂と感想を述べていたのが忘れられな い。その後、年内決着をスローガンに被害者にとっ てはハードな運動が展開されたが、実直な栄作さん はそのほとんどの行動に船頭仲間の冷ややかな視線 を浴びながらも積極的に加わった。入院するひと月 こぺる 5

(8)

前の昨年二月、昭和電工本社前座り込み抗議行動 も激痛を押しての最後の参加であった。入院後のベ ッドの中にあっても運動資金を心配して会費だけは 毎月納めるようにと言い残し、もうろうとする意識 の中でカテ

I

テルのチューブを外し、船のロ

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プ を 丸めるようにしてベッドの手すりに掛け﹁よし﹂と 声 を あ げ た と 一 一 一 守 つ 。 最 後 ま で 阿 賀 野 川 の 船 頭 で あ り 続けて逝った市川栄作さんであった﹂ 栄作さんとの出会いがなければ私は運動を始めること も続けることもできなかったのです。 栄作さんの葬儀を終えてひと月もたたないうちに餅屋 のジィちゃんが逝きます。寝たきりのパァちゃんの看護 がある娘のキミイさんの代わりに私は仕事を終えてから 毎晩、病院に通い看とりました。ジッとしておれずに急 逮、追悼文集の製作を思いたち、全国の﹁阿賀に生き る﹂ファンに呼びかけたところ五

O

通あまりも寄せてい ただきました。いずれも思いあふれる心のこもったもの でした。私にとっては父のような、子供たちにとっては 祖父のような存在だったのです。小学五年生だった長男 と三年生だった次男もそれぞれ思い出を緩ってくれまし た 。 ニ ’ つ け 正月になると毎年もちをつく。父さんと小浮のじ いちゃんでつく。ぼくと弟もときどきつく。ついて るとき思った。﹁重い﹂じいちゃんと父さんはそれ を軽々とやる。とくにじいちゃんだ。あんな細い腕 なのに軽々と持つ。﹁どこにそんな力があるんだろ う﹂ぼくは思う。じいちゃんはもうできないのだ。 もちつき、たんじようび、クリスマス、ぼくたちが 小浮に行くとき、必ず笑顔をかかさない。けれども、 もう、水遠にその笑顔が見れないのだ。ぼくはじいち ゃんの笑顔が忘れられない。 ぼくはじいちゃんの家に行くのがいやだった。な ぜかというと父さんとじいちゃんの話が長くなるか らだ。その問、ぼくとゆ、ったろうくんはテレビのサ ザエさんを見ていた。父さんはいつも﹁いま行く﹂ と言つでもなかなか帰らない。でも、じいちゃんの もちはおいしかった。僕はいつものりをまいでしょ うゆをかけていた。キミイさんに﹁しようゆとのり

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ちょうだい﹂といってもらいました。っけなくても おいしかったので、っけなくても食うようになった。 だからじいちゃんのもちは、さいこうにおいしいの で、ぼくは日本一のもちだと思います。 それぞれ成人となった今も時々は一人暮らしのキミイ さんを訪ねてくれています。 私たちは心からの感謝を込めて、﹁送る会﹂を地元で 開催しました。全国各地から﹁阿賀に生きる﹂ファンが お参りに駆けつけてくれました。国内外から思わぬ賞を たくさん貰えたことで、いつもは患者のみなさんを批判 的に見ていた地元の人たちにも変化がみえ、いくらか好 意的になってくれたようです。運動の初めの頃、駐在の 警官が集落に入ったことで村八分のような状況を経験し た栄作さんたちもきっとあの世で喜んでくれたに違いあ りません。この年がきっかけで毎年、五月の連休を利用 して安田町で追悼の集会を開催することになったのです。 水俣病事件にかかわって二

O

年目にして得た映画﹁阿 賀に生きる﹂は私にとってもその後の大きな力となりま した。公開まもなく話題となって劇場などで上映された 後も地味ながら毎年のように学校や農協、町内会や宗教 団体に老人クラブなど思いもかけないところからも声が かかって観てもらえたのです。また、北は北海道、南は 九州沖縄までフィルムを担ぎ患者さんとともに巡ること も出来ました。観客のみなさんは水俣病問題を超えて、 ひとが豊かに生きること、そして逝くことを﹁阿賀に生 きる﹂人たちから学んでくれたのかもしれません。 それぞれの阿賀 映画が出来て三年後、第二次訴訟が二二年半の歳月を 重ね和解となります。弁護団長が辞任するといった和解 に批判的な意見もありましたが、三

0

年間も病苦と闘い ながら年老いた同志が次々と亡くなっていく中で、私は ﹁お疲れ様でした﹂と、一言葉をかけるしか出来ませんで した。九五年の一一一月、昭和電工と患者さんが調印する その日、私たちは隣の会場で﹁新潟水俣病三

O

周年特別 企画写真展・それぞれの阿賀展﹂の展示作業に追われて い ま し た 。 こぺる 7

(10)

裁判が終わればまた患者さんたちはそれぞれの地元に 帰り、弁護団も医師団も共闘会議もいない、普通の日常 に一民ります。そのときに誰が寄り添い、支えていくこと になるのか考えてみました。例えば阿賀野川の風景に魅 せられてキャンパスに向かう画家やカメラマン、鮎つり やカヌーを持って阿賀に通う人たちなどおよそ裁判闘争 にはかかわることを苦手としているふつうの人たち、そ のパイプをつくれないものか。最初の開催地は県都、新 潟市にある県民会館にしました。ちょうど和解の問題が クローズアップされた時期でもあってマスコミも取り上 げ、連日多くの人で賑わうことになりました。あのユ l ジン・スミスも新潟水俣病を撮っていたことが判明し、 三点展示することが出来ました。阿賀の四季を撮り続け ているアマチュアカメラマンから油絵で表現する画家、 そして書家にいたるまでバラエティに富んだ﹁それぞれ の阿賀展﹂となったのです。会場近くの新潟明訓高校放 送部の諸君との出会いも嬉しいことでした。突然、取材 に来た彼らはいつの間にか﹁生きてるうちに﹂と一言うビ デオ作品をまとめて

NHK

の放送コンクールの全国大会 に入賞してしまうのです。患者さんにとっても若い人た ちとの縁は嬉しいことでしばらくの問、話の種が尽きま せ ん で し た 。 翌年の一月から﹁それぞれの阿賀・流域巡回展﹂と、 題して阿賀野川流域市町村一

O

箇所で開催します。とこ ろが、最初の開催を予定していた昭和電工のある鹿瀬町 では直前になってキャンセルとなってしまいました。今 更ながらに企業城下町だった地域の問題の根深さを思い 知らされました。それでもそれぞれの開催地で新しい出 会いがあって阿賀野川流域のネットワークができたこと は 大 収 穫 で し た 。 忘れえぬ人びと いわゆる苦渋の選択という言葉で表現された昭和電工 との解決協定に調印した安田町の患者の会はその年の暮 れ、初めて温泉宿で慰労会をやることになりました。 ﹁水俣病患者なのにカラオケで歌っていた﹂とか﹁貰っ たカンパで温泉に出かけている﹂などと陰口をたたかれ、 二

O

年余りの運動の中で一度もできなかった温泉行きで した。これまで一緒に闘ってきた一

OO

人あまりの同志 が裁判で半分に減り、その後次々と亡くなって二

O

人を

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割り、今では実際に活動できる人は一

O

人足らずとなっ てしまったのです。﹁明日はわが身で、残された時間は 誰にも遠慮なく楽しく過ごしたい。冥土のみやげ話をた くさんつくって逝こう﹂と開き直ったのでした。 会長の勇さんが歌う﹁人生劇場﹂をはじめ、晴雄さん が 歌 う ﹁ り ん ご の 唄 ﹂ 、 和 男 さ ん の ﹁ 古 賀 メ ロ デ ィ ー ﹂ 、 シズさんの﹁花笠道中﹂、ツヨシさんの﹁北国の春﹂、そ して若い頃にレコードデビューの話もあったという民謡 歌手、渡辺参治さんの自慢の喉で歌う民謡の数々、お人 柄がしのばれる歌いぶりは心に染み入るものでした。私 にとっても今後の節目となる慰労会となりました。これ まで苦労してきた分、残された時間はそれぞれの患者さ んが輝けるような楽しい運動を心がけようと、決めたの で す 。 渡辺参治さんは大正五年生まれの八九歳です。若い頃 ふ は屋根茸き職人でした。子供の頃、村の祭りや盆踊りの や ぐ ら 櫓の上で太鼓を鳴らしながら歌う参治さんの姿を記憶 しています。水俣病検診の相談を受けてから二

O

年余り つきあっていたにもかかわらず、正直なところ私は参治 さんを水俣病患者としてなかなか認めることが出来ませ んでした。川漁師でも川舟の船頭でもありません。八二 歳で大腿骨を骨折し入院するまで、その働きぶりは世間 でも評判でした。そして、あの自慢の喉で何処に行って も歌いまくります。見事な禿頭と顔の色艶、働きづくめ で鍛えあげた筋肉、どう見ても水俣病患者とは思えませ んでした。いつの間にか、私自身の中にも認定審査会を つくって参治さんを棄却していたのです。水俣病患者は 悲惨でかわいそうな人たち、支援を求めている救済して やらねばならない人たちと勝手に﹁理想の患者像﹂を押 し 付 け て い た の で す 。 患者の会で一番若い文子さんにも相談されたことがあ りました。裁判がはじまって間もなくの集会で、震えな がらはじめて話したときのことです。﹁嫁いできてもな かなか子供が出来ないと責められて、ようやく出来ても 流産してしまいました﹂と、一保ながらに訴え満場の拍手 を受けたのだそうです。﹁あの話はとてもよかった。ま た話してください﹂と、その後も乞われてとても辛かっ たというのです。支援者も弁護士も医師もみんな理想の 患者像を求めすぎていたようです。 こべる 9

(12)

九六年、参治さんと二人で﹁阿賀の源流植林ツア

l

﹂ に福島県の奥会津に出かけ、思いつきり太鼓を叩き、歌 ってもらいました。手足の薄れで眠れない夜もあるので す。でも水俣病患者が元気で歌つてなぜ悪い!参治さ んのお陰でまたひとつ気づき、ようやく解放されていく 自 分 が い ま し た 。 ﹁阿賀に生きる﹂の主役の一人、船大工の武さんが九 七年に亡くなります。船造りの都合で出来ている自宅で は手狭なので、葬儀は菩提寺の阿賀に生きるファン倶楽 部代表の孝順寺さんで盛大におこなわれました。その年 の追悼集会は武さんの船造りの技術を褒めてもらいたく て、川船研究家の第一人者、赤羽正春さんに講演を依頼 しました。寡黙で職人気質に徹した武さんはきっとあの 世で照れまくっていたに違いありませんが、その技術は 表日本よりも裏日本の方が高く、遠くエジプトからシル クロードを通ってきたものではないかという痛快なもの で し た 。 武さんが亡くなってひと月後、私の母も八二歳で逝き ました。三

O

歳になった正月、まったく蓄えのないこと を案じて、とにかく毎月一万円を預けるように言ってく れたのですが、四月にはそっくり下ろしてしまう出来損 ないの息子でした。二

O

歳の頃に何度か家出の真似ごと をするものの戻ることになった最大の理由はやはり母が 質屋通いをしながらも貧しい暮ら

L

を支えていてくれた 姿を見ていたからだと思います。水俣の運動にかかわっ て間もなく、親しくしてもらっていた晴雄さんのお連れ 合いが突然、自ら命を絶ってしまいました。泣きながら おどおどするばかりの私を﹁早くいってやれ﹂と励まし てくれたのも母でした。いつも一番の理解者であり支援 者でいてくれたのです。 川本輝夫さんのこと 水俣東京展開催の準備会で上京してきた川本輝夫さん と久しぶりに﹁告発する会﹂のアジト?で美味しい酒 を飲み交わしたときのことでした。﹁お地蔵さんを建て たいのだがいくらかかるかねえ﹂と尋ねられたのです。 当時、小学生だった息子たちのミニバスケットボールの 保護者会で酒飲み仲間だった地元の石工、漆山昌志さん を思いついた私は﹁阿賀野川の石で彫って送ってやりま

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し ら 由 か すよ﹂と約束し、建立してもらいました。阿賀と不知火 の﹁お地蔵さん物語﹂のはじまりです。そして四年後、 ﹁ 冥 土 の み や げ ツ ア

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﹂と称して、参治さんと晴雄さん、 石工の漆山さんも加わって、水俣まで阿賀のほとりに建 立するお地蔵さん石を探す旅にでかけたのです。現地で は川本線夫さんをはじめ、患者連合の佐々木会長に松村 さんと皆さん一緒になって水俣川から石を探してくださ いました。めでたく見つかったその晩は御所浦島に渡っ て、まるで竜宮城のような大交流会となりました。 その年の四月二四日、村の昔からの行事である虫地蔵 祭りの日にあわせて、不知火からやってきたお地蔵さん の開眼法要も営まれ、水俣をはじめ全国各地からお祝い に駆けつけてくださいました。川魚が余計に獲れればお 裾分けし、野菜が採れればそのお返しをする。そんな当 たり前のことがこの事件が起きたことで、認定されて補 償金を手にした人、棄却された人、裁判で闘った人、ま だ潜在している入など、お互いに被害者であるにもかか わらず非難、中傷を繰り返し集落がズタズタになりまし た。虫地蔵さんを昔から大切に村中で守ってきたように、 不知火からやってきたお地蔵さんも新しい村のシンボル 1998年 ー一一』・w・・・・・・・・四一一一日ーーーーーーーーーーー一一一一・ー・・・・・・・・唱団一一一一ーーーーーーーー−−E司ー−句・・・・・・・・・ー一一ーーーーーーーーーー 11 阿賀のお地蔵さん こぺる

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として代々語り伝えてもらえたらと、願つてのことでし た 。 兄弟地蔵の仕掛け人である川本輝夫さんも、ことのほ か喜んでくれてお連れ合いのミヤ子さんと共にお祝いに 駆けつけ、蛸士宮の花立をプレゼントしてくださいました。 翌朝早くに﹁最初で最後の女房孝行ですよ﹂などと、照 れ笑いしながら佐渡島に二人で旅立つのですが、それが ほんとに現実になるとは誰が想像できたでしょうか。翌 年の二月、輝夫さんは帰らぬ人となるのです。輝夫さん との出会いで水俣病事件にかかわり、お互いにそれぞれ の 三

O

年を積み重ねてお地蔵さんを建立しあったことが 最後の仕事になるとは思いも及びませんでした。つくづ く運命的なものを感じてしまいます。 昨年、八八歳の米寿を迎えた民謡歌手渡辺参治さんに、 わが﹁冥土のみやげ企画社﹂はお祝いに念願の

C

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ア ル バムを製作してプレゼントしました。八八歳で

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D

デビ ューしたことはきっとギネスブックものでしょう。八九 歳の今年、春には沖縄大学に﹁阿賀に生きる﹂のフィル ムを担いで歌合戦ツアーに行き、そして八月の末にはこ の春完成したばかりの主演映画﹁阿賀の記憶﹂を持つて の﹁冥土のみやげ北海道ツア

i

﹂が計画されています。 餅屋のジイちゃんが映画の中でポツリといいます。 ﹁ き ょ う は 酒 、 う ん め か っ た 。 仲 間 い て う ん め か っ た ﹂ 。 私の大好きなシ

l

ンのひとつです。まるで、今様良寛さ んのようでした。﹁あの世とこの世﹂を紡ぐ私の仕事は、 これからまだまだしばらくは続きそうな気配です。

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ある光景⑥

他人を知るということ

高田嘉敬︵福祉施設職員︶ ﹁ あ っ 、 ま た や ! ﹂

T

さ ん が 、 てんかん発作で倒れると、周りにさつと人 垣 が で き ま す 。 ﹁ 発 作 ゃ 、 発 作 や で

l

っ 。 ﹂ ﹁はよ、職員呼んでこなあ

1

0

﹂ ﹁ た い へ ん で

l

す 。

T

さ ん が ・ : 。 ﹂ 職員を探しに、あわてて駆けてゆく利用者。 このようなシ

l

ンが何度も繰り返された後で、たまり か ね て

T

さ ん が 訴 え ま し た 。 ﹁あのね、私を特別あつかいせんといてほしいの。あ んまりさわがんといてほしい。みんなの障害とはちがう かもしれないけど、私の発作のことも普通に受け入れて ほしい。そっとしておいてくれたら、すぐに元に戻れる ん や か ら 。 ﹂ ﹁そやけどな、びっくりするもん。急に倒れちゃうん や し ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 ﹂ ﹁

T

さんな、発作のときピクピクしてるやろ、うちら や っ ぱ な 、 見 て る と ド キ ド キ す る も ん 。 ﹂ ひとしきり議論は続いたのですが、てんかん発作とい ︵ 身 体 障 害 者 通 所 授 産 施 設 な の で 、 ぅ、このサギョウシヨ 利用者の多くは四肢に障害のある人たち︶にとって、こ れまで見慣れなかったタイプの障害の現れ方に対すると まどいは、容易には溶けそうにありませんでした。何度 か の 話 し 合 い の 後 で 、 てんかん発作ゅうても、肝心なことはね、 見守ることなんや。そーっと見守ってたら、それで十分。 ﹁ で も な 、 みんなかて、自分のことでワアワア騒がれたくないやろ。 だ か ら 、 最 初 は 、 び っ く り す る や ろ け ど な 、 び 、 ひ っ た ら あ かん。まず、ケガしたらあかんから、危ないもんをみん な遠ざける。あとはね、そっと見守る、だけ。この二つ で完壁なんや。どう、簡単やろ。みんな、わかったね。﹂ 職 員 の ア ド バ イ ス で 、 一応、利用者は納得したようで した。しかし、この後も好余曲折、それはそれはほんと うに数え切れないドラマがいっぱいありましたが、見守 こベる 13

(16)

りの作風は確実に定着してゆきました。 あたらしいタイプの障害に出会うと、それが受け止め られるまでの問、だれでも時聞がかかるものです。

T

さ んの場合もそうでした。多いと一日に一

O

回近くも頻繁 にてんかん発作が起きることがあります。このようなタ イプの人はサギヨウショにはいなかったのです。もちろ ん 、 初 め て 出 会 っ た 事 態 に 、 び っ く り し た か ら と い っ て 、 だれも責めるわけにはゆきません。 外から眺めれば、﹁障害者﹂で一括りにされてしまう かもしれませんが、障害の内容や表れ方がちがえば、そ の人を理解することが容易でないのは、 やはり利用者も 私たち職員も同じです。また障害のある人だからといっ て、どんな障害に対しても理解があるわけではありませ ん。身体に障害のある人だから、知的なハンディのある 人に優しいとはかぎらないわけです。 ところが、ここからのスイッチの切り替えは、職員よ りも利用者のほうが断然早かった。今では、

T

さんが発 作を起こしても、あわてる人はほとんどいません。てん かん発作が

T

さんの個性の一部として、すっと受容され たのだと思います。この﹁すっと﹂というのがとても大 切なところで、しかも職員と利用者とでは、微妙にちが います。しばらくすると、さりげない気配りを発作中の

T

さんに示しつつ、静かに本当にムリなく仕事に取り組 めるようになったのは、さすがという他ありません。ど こ か 、 やさしさの土壌がちがうというべきなのでしょう か もう一つ印象的だったのは、この間だれも﹁差別﹂と いうコトパを通して議論してこなかったことでした。 ﹁ 私 は 差 別 さ れ た 。 ﹂ ﹁ 僕 ら は

T

さんを差別したんや。﹂と は、だれも言わなかったのです。 ﹁ちがい﹂を固定化するまなざしが、﹁差別﹂というコ トパに感じられたからかもしれません。そういえば、差 別を訴えることと正義を主張することとは、もともとち がうことがらであったはずですが、いつの間にか、正義 を主張する︵から批判がしにくい︶根拠として、差別と いうコトパが活用されるようになったのはなぜでしょう。 ﹁ちがい﹂を乗り越える軽やかな道筋を、持ちたいも の だ と 思 い ま す 。

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尼崎だより⑫

記録は夜作られる

中村大蔵︵特別養護老人ホ l ム 園 田 苑 ︶ 前 回 、

D

さ ん と

S

さんのかすさまじい μ 喧嘩を紹介し ながら、あらためて

D

さんと

S

さんの想い出にふけるこ と に な っ た 。 先に入所したのは

S

さん、園田苑が開設されて間もな い 一 九 八 八 年 一

O

月。息子夫婦は隣りの大阪市に住み、 娘は東京でキャリアウーマンとして活躍している。

S

さんの入居は某市会議員の口利きであった。この市 会議員の所属する会派が園田苑設立に議会内で﹁奮闘﹂ し た と 聞 か さ れ て い た 。 当時、尼崎市には特別養護老人ホ

l

ム︵以下特養と称 する︶が一つあり、それは某革新系会派の﹁奮闘﹂で日 の目を見たと言われ、次は前述の会派の順番であると伝 えられ、それが園田苑となった。このようにして特養は 誕 生 さ せ ら れ て い た 。

S

さんの口利きをした議員が

S

さんを知っていたと思 いきや、一面識もなかった。その議員の後援会員が議員 を通じて頼んできたのである。このことを知ったのは

S

さんが亡くなってからのことである。こんなことは行政 が入居権を握っていた措置時代にはしばしばあった。 さ て 、

S

さんは長屋で独り暮らしをしていた。いつも のようにご近所の人たちと立ち話に花を咲かせていたあ る 日 、

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さんが突然﹁火を消したかしら﹂と自宅に慌て て戻ったことが息子の耳に入り入居となった。

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さんの本意とは違った入居故、入居当初より夕暮れ に な る と

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さんの帰りたいコ

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ルが始まった。午後にな ると洗面器に下着類などを突っ込み風日敷で包み、ベッ ドの端に腰を掛けて時を待つ。しばらくは職員の説得に 耳を貸すも、時間の経過とともにその効は失せていく。 遂には風呂敷包みを抱えて外へ行く。近くのバス停ま で後をつけ、パスに乗り込んだのを見届けてから、息子 のお嫁さんがパ

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トで勤めている職場に電話を入れる。 パスが着く頃にはお嫁さんが

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さ ん を 出 迎 え て い る 。 こ ん な

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さんも近所では有名なかいけずパパア μ だ っ たようだ

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さん宅の近くに住んでいた人が偶然園田苑 にやって来て職員に告げ口した。いやはやどこにもお節 介焼きのおばさんはいるものだ。 こべる 15

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園田苑の職員が

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さんに﹁ちょっとお部屋の掃除を手 伝ってくれませんか﹂と気安く声をかけようものなら、 ﹁ここまで来て仕事をせなならんとは思うてもみなかっ たワ、あほらし﹂と冷たく一蹴されるのであった。その 口吻から察して、なるほど M いけずパパア。と言われた だけのことはあった。

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さんは阪神間でその道の人なら誰でも知っている

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老人病院に母と二人して入院していた。母はれっきとし た 老 人 で あ っ た が 、

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さ ん は ま だ ま だ で あ っ た 。 親 子 一 一 人きりの生活が長すぎてどうも母子分離ができなかった らしく、母の病気をきっかけに保健婦の勧めで入院とな っ た 。 母 が 死 に 、

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さんが﹁六五歳になるのを待ちに待っ て﹂︵保健婦の言︶特養入居に措置された。その時保健 婦は言った﹁六五以上の寝たきりが灰色なら、それ未満 の者には何の制度もなく暗黒の人生だ﹂と。 そんな

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さんもベッドから離れるにはそう時間はかか ら な か っ た 。

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さんにとって足の届かない高い病院のベ ッドから降りるのは、その巨体もあいまって身の危険を 感じた。園田苑のベッドの高さは約四

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センチ、普通の 体形なら十分足が床に届く。 だ が 、

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さんは入居後しばらくベッドを離れなかった。 入浴も頑として拒否した。ある夜、

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さんが自室のカー テンの隙間から外を窺っている。深夜になって一階浴室 から音がするではないか。恐る恐る職員が覗くや冷たい シャワーを全身に浴びている勇姿︵?︶がガラス越しに 映 っ て い た 。 やや重い糖尿病だった

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さんには早速医師看護婦より 厳格な食事制限が課せられた。ご飯は中盛り一杯まで、 間食は厳禁。これもある夜、自室より出てこられた

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んが苑の冷蔵庫にあったシュークリーム一箱全部平らげ ているところを発見した。暗閣の中での鬼気迫る情景に、 本人にさとられることなく私はその場から立ち去らざる を得なかった。苑の冷蔵庫は誰が聞けようとも勝手であ り、何を入れようとも何を食べようとも、誰のものを食 べようともいちいち詮索しないのがわが家風である。食 い 物 の 怨 み は 強 い か ら 。

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さんは夕食後﹁少し外出する﹂と言って出て行った。 約束の九時をとうに過ぎて帰苑した。﹁公衆電話もあっ たでしょうに﹂と言、っと、﹁まだこのあたりに慣れてい ないから﹂と言い訳をするものの、ちゃんとスナックに は 行 っ て い た 。

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白 屋 川 町 い r九 円 ﹃ H U 嗣 叩 h v l 明 4 F 吉岡 マある方との雑談中の話。﹁こんど二千 人ほどが集まる全国規模の大会がこの地 方で聞かれるというので、藤田さんを記 念講演の講師に推薦したんですが、もっ と有名な、たとえば鳥越俊太郎とか、ア グネス・チャンとかでなければという理 由で却下されました﹂とおっしゃる。わ たしのあずかり知らぬ事柄について﹁あ なたは却下されました﹂などと言われた って困ってしまう。﹁人権問題の世界﹂ では、どうもこの手の﹁押し売り的善 意﹂が罷り通りゃすいらしい。そうそう もうひとつ、﹁人権問題の世界﹂に特有 とは一言えないにしても、特徴的なのが ﹁有名人好み﹂。わたしは鳥越俊太郎さん やアグネス・チャンさんに対抗する気は ないけれど、有名か無名かが講師選定の 基準になるというのは、どう考えたって おかしな話。そこには講師の﹁有名さ﹂ によって参加者の興味・関心をひきつけ ようとする計算が働いている。主催者と しては無理もないなあと同情しつつ、人 権という人間の問題とは本質的に関係な いところで苦労せざるをえないこの国の 貧しさをあらためて思う。﹁何が語られ ているか﹂より、﹁誰が語っているか﹂ が大切にされる文化状況は少しも変わっ ておらず、言論世界における権威主義、 事大主義は根強いということです。ここ を変え・なければ、何ごともはじまらんの とちゃうつ マ先日、四日市市の小学校で全校生徒二 九 O 名に四 O 分ほど話をさせてもらった あと、町の様子を描いた風景のなかに ﹁これはどうかな?﹂と思う場面を見つ けて発表する六年生三六人の授業に参加。 生徒の意見がひととおり出たところでコ メントするという形式のものでしたが、 これがすごく楽しかった。何よりも生徒 とのあいだに呼応しあう関係が生まれた こと。授業は生きているんですね。もち ろん担任が四月以来積み重ねてきた努力 の成果に乗っかっての話です。それを忘 れてはいけないと自戒した次第。 マ金時鐘さんの新著﹃わが生と詩﹄︵岩 波 書 店 、 川 山 ・ 印 、 2300 円+税︶が出 版されました。本書には金さんとわたし の 対 談 ﹁ 人 間 と 差 別 を 考 え る ﹂ ︵ ﹁ 論 座 ﹄

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・ 1 ︶が収録されています。一読して く だ さ れ ば 幸 甚 。 ︵ 藤 田 敬 二 ﹁人間と差別﹂研究会のお知らせ ロ月間日︵土︶午後 2 時より 、石原成子さん ﹁ 生 き 方 を 選 ぶ | 変 わ り ゆ く 私 ﹂ ‘ 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー 第二会議室 EO 七 五 i 四 一 五 一 O 二 六 。﹃乙ぺる﹄忘年会のお知らせ 研究会のあと左記のとおり、忘年会を 開きます。ぜひご出席ください。 ロ月間日︵土︶午後 5 時半より 於 が ん こ 一 一 一 条 本 店 ︵ 河 原 町 三 一 条 東 入 る 北 側 ︶ mO 七 五 二 五 五 1 一 一 一 一 八 会 費 五 000 円 ※ご出席の方は、ロ月日日︵水︶までに 事 務 局 あ て に お 申 込 み く だ さ い 。 こ ぺ る 刊 行 会 事 務 局 ︵ 阿 昨 社 気 付 ︶ mO 七五|四一四八九五一 編集・発行者 こベる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿件社 Tel. 075-414-8951 Fax. 075-414-8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010-76141 第141号 2凹4年12月25日発行

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d 阜 、

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金泰泳+白石正明+中島智枝子+三原容子[編]

“平和・人権・環境の世紀”と期待された 2

1世紀,凄惨な戦

争で幕をあけた。弱者が痛めつけられ,多くの人命が奪われつ

つある今,私たちはどのように生きるのか。資料

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点収録。

+A5判・組組・ 374頁・定価(本俸2380円+税J ISBN 4-900590-75-4 ・目次内容 生涯学習 日本国憲法/敏育基本法/学校教育法/社会教育法/生涯学習の復興のための範策の推進体制等の盤備に関する法律/ 学習の成果を幅広く生かす一生涯学習の成果を生かすための方策についてー/教育改革国民会副車種告一教育を変える 17 の復調l−/特定非営利活動促進法等. ・第1昔日 一 四 一 号 二 OO 四年十 二 月 二 十五日発行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日発行 ︶ 一 九九 三 年 五 月 二 十七日 第 三 種 郵 便 物 認 可 人権問題 [人権鎗随・啓発]人備が噂E草される三.をつくる条例/人徳教育啓発法/人権救済制度の在り方について [部落問題] 師事保館のtt置及び運営について [民篠・外国人問題]アイヌ文化復興法/出入国管理及び鍵民認定法/外国人集住都市 会鐙[浜松宣言]及び[鍵冨] [性をめぐる問題]男女共同参画社会基本法/配偶者暴力防止法/性同一性障害に関す るガイドライン{第2版} [乎どもをめぐる問題]児童虐待の防止等に関する法律/川僑市子どもの梅利に関する条例 [障害者問題]隊嘗者革本法/身体障害者繍助犬法 [ハンセン病問題]『らい予防法』違憲国家賠償繍求事件判決要 旨 [エイズ悶姐]HIV Z時総 和解確偲書要旨 [さまざまな問題]環境基本法/ホームレスの自立の支援等に関する 特別指置法/育児休業.介纏休業等育児又は家族介績を行う労働者の福祉 に関する法律 等 . ・第2部 国際人権問題 ・第3部 等. 世界人樋宣言/子どもの梅剰l条約/あらゆる形態の人種差別の般廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約) 年表 ・生涯学習・人権叙育

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阿昨社

〒花L602(0-70501)7414-京都市よ京区衣8951 FAX(075・過)414上-8掴霊前下,し952E-l.lai 上木I :auノns下ha町73

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