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め ﹁ 隔 夜 ﹂ (かくや)という語がある。隔夜とは一夜おきにという意味である。また隔夜は﹁よまぜ﹂とも読む。そ ﹁ 隔 夜 ﹂ と は 、 こでまず諸辞書で確認すると、 一 晩 ご と 、 毎 晩 な ど と あ り 、 一 夜 ず つ 隔 て る こ と 、 一 夜 あ け た 次 の 朝 、 また微妙な語釈の相違がある。しかし﹁隔夜修行﹂となると、これは一日交替に特定の神社 仏悶に住復参詣する修行のことであった。すなわち、一夜ずつ神社、寺院を泊まり歩いて参詣修行すること、 問一晩ずつ特定の寺社を泊まり歩き参詣修行すること、神仏へ一夜おきに参詣する修行であった。 重複した説明もあれば、 一 定 期 日本の古代、中世社会では、このような修行を重ねる僧を隔夜上人、隔夜聖、隔夜道心と呼んだ。古くは﹃本朝法 華験記﹂や﹃今昔物語集﹂に行空がご宿上人 L と呼ばれた説話があり、﹃太平記﹄には伊勢神宮に毎日隔夜詣です る行者の話がみえる。また奈良高畑町の空也堂と長谷寺を往復する隔夜法師が確認され、河内磯長の叡楠寺と聖徳太 子廟を隔夜参詣した隔夜僧も江戸時代にみられた。 小稿は、右記のような隔夜修行、隔夜参詣について、その具体的事例として安心という僧に注目し、彼が実践した -130--龍谷大学論集修行内容をあきらかにしてみたい。
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相
隔夜参詣について延宝四年(一六七六)に﹃日次紀事﹄を著した黒川道祐は、 は五所、或は七所、多くは一年を限りて、今日その神社を拝して其の所に宿し、 ﹁人々帰仰する所の神社・仏閥、或 翌日また其の仏閣に詣ず。是を隔夜 参詣といふ。此の事多く沙門これを為す。是の人を隔夜道心と称す﹂と、具体的に分かりゃすく紹介している。 天明六年(一七八六)自序の松葉軒東井編﹃警喰尽﹄の説明によれば、隔夜とは﹁隔夜打執行之行也、 宿るを禁也﹂とあり、隔夜修行は隔夜を打っとも呼ばれた。 二夜と同所に のちに掲げる史料を勘案すると、隔夜修行は、ある特定の二カ所の神社仏閣へ一 日交替に往復参詣する修行のことであり、そのような修行僧を隔夜僧、隔夜道心、隔夜上人と呼んだのである。 では隔夜修行の淵源はどこに求められるのであろうか。そこで想起されるのは、先にふれた﹃本朝法華験記﹄ このように近世の文献、 お よ び 、 ( 巻 二 二 ・ 二 四 話 ) 、 お よ び 、 ﹃ 三 外 往 生 記 ﹄ ここでは﹃今昔物語集﹄の本文を掲げてみたい。 (第一三﹀にみえる行空上人の話である。今 中 ・ 六 八 ﹀ ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 世に一宿の聖人といふ僧ありけり。名をば行空といふ。若くより法華経を受け習ひて、昼六部、夜六部、 日 夜 に 十二部を諦することを閥かず。出家の後、住所を定めずして、 一 所 に 二 宿 す る こ と な し 。 いはむや庵を造ること なし。これによりて一宿の聖人とはいふなりけり。 右の話によると、行空上人は、住所を定めず、一所に二宿することなく、況んや庵を造ることなく修行したため、 世に一宿上人と呼ばれたという。隔夜修行が一宿上人の修行そのものではないにしても、この話のように、すでに平 安時代に隔夜の原初的形態を求めることができるのではないだろうか。 ま た r--, 巻 原初的巡礼論(根井) -131ーところで﹃太平記﹄﹁伊勢より宝剣を進る事﹂にも次のような興味ある記事が載っている。 か ん べ 伊勢国の岡崎神戸に、下野阿閣梨園成と云ふ法師あり。太神宮へ千日参詣の志し有ける問、毎日に潮を垢離にか 喰 働 , ん ド ν いて、隔夜詣をしけるが、己に千日に満ける夜、(中略﹀園成、是(※宝剣)を錦の袋に入れて頚に懸け、託宣 に任せて先ず南都へぞ赴きける。春日の社に七日参寵して有けるが、是こそ事の顕はる可き端よと思ふ験も無り ( 巻 二 五 ﹀ け れ ば 、 又初瀬へ参て、一二日断食をして寵りたる・: ﹃太平記﹄の記事は、源平の壇の浦合戦で沈んだはずの宝剣が海浜から発見されたその後として、貞和四年(二二 四八﹀に伊勢固から奏上された経緯の発端部分である。宝剣は海上の光り物として浜辺に漂着し、それを採取して朝 廷に献上しようとしたのが闘成法師であった。 問題は固成法師が太神宮へ隔夜参詣していたことである。 また、固成が脊日社と初瀬(長谷寺﹀に参寵しているこ とは、次に紹介する春日社と長谷寺との聞を往復した隔夜僧の先般として見逃せない記事である。その隔夜僧とは、 ﹃多聞院日記﹄永禄九年(一五六六﹀五月二十三日条にみえる修行僧である。 ナ ラ 、 ハセノ隔夜スル法師、南円堂より六道、迄つれて雑談之所、彼物(者﹀は当国片岡の生れ、信貴山先達の所 に九歳より奉公了、奥州柳津虚空蔵一二年二百日参龍了、峰へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高 野大師ト当社トへ片道三日ツツニテ、以上一ヶ年ノ間ニ五百度参詣成就、 ナ ラ 、 ハセ隔夜今年既三二年ニナル問、 明年三月ニテ三年三月可有供養ト云々、当年四十六歳ニナルト申。 右の隔夜僧み*すからが語るところによれば、彼は片岡(奈良県宇陀郡﹀の生まれで、九歳から信貴山で奉公、奥州 柳津の虚空蔵堂(初島県会津町円蔵寺﹀に一年二百日の参龍、峰(大峰山カ﹀に凹十一度入峰、京都で四十八度の百 万遍供養、高野山と当社(春日社﹀を五百度往復参詣、 そして今、奈良、長谷寺を隔夜参詣する修行者であった。彼 の 修 行 期 間 は 三 年 間 、 やがて三年三月になるというから、隔夜参詣は千日の修行でもあった。そしてこの記事のよう -132-龍谷大学論集
に、奈良、長谷寺聞を往復する隔夜僧は中世末期の文献にも現れ、 その特異な修行につき守多聞院日記﹄の記主・興 一侃寺多聞院・英俊は感嘆をこめて隔夜僧を記録したのである。 大和を中心に現れる隔夜僧については、 山辺の道の界隈に散在する石碑によっても知ることができる。たとえば、 天理市勾田町・浄国寺にある名号碑には﹁南無阿弥陀仏/十方檀那六親春属三界万霊/乃至六道至聖春並群類等/奈 良長谷寺各夜一千三百日/結願山城相楽沙門順覚/天文五年丙申十月十五日﹂とあって、山城国相楽郡の順覚という 隔夜僧が知られる。また天理市佐保庄町の朝日寺跡の聖観音石仏の銘に﹁天文廿三年甲寅十二月各夜覚円﹂とあり、 さらに天理市柳本町の墓地にある五輪壌碑にも﹁党(キリ l ク)法界各夜春教/弘治三年丁巳三月十日﹂とあり、そ れぞれ覚円、春教という﹁各(隔﹀夜﹂僧を確認することができる。
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大和の隔夜修行は、奈良、長谷寺を往復参詣するのが古い形態であったと思われる。奈良側の拠点は春日大社にほ ぽ近接する一堂であった。すなわち、新薬師寺の北方に位置する奈良市高畑町にある隔夜寺である。隔夜寺は、もと (享保二十年﹀によると、隔夜寺の本尊は十一 客養寺という古寺があった所と伝え、無明庵古道の﹃奈良坊目拙解﹄ それはまた長谷寺本尊の十分の一の像という。そして輿福寺勧修坊の支配下にあり、 面 観 音 像 ( 現 存 ) 、 中坊美作守時祐が建立したが、大破に及んで享保十四年(一七二九)四月、再興修復された。ここに身を寄せる隔夜 寛文年中に 僧は、春日大社内の枯れ木を採取して供斎の薪となし、それは古より免許されたものであったという。さらに、 夜 堂 : : : 長 谷 寺 隔 夜 修 行 者 三 四 侶 在 住 而 守 レ 之 、 毎 日 二 法 師 詣 = 子 泊 瀬 寺 一 亦 両 僧 自 = 長 谷 一 帰 = 宿 此 堂 ↓ 故 名 -一 隔 夜 堂 一 失 。 空也上人木像一躯安ニ当寺↓空也上人(或号市ノ聖﹀者、本朝隔夜道心之開祖、何テ安レ之云々﹂とも伝える。 右記のように、隔夜僧の開祖は空也上人と伝え、 それを裏付けるように、 たしかに現・隔夜寺には空也像が安置さ ﹁ 隔 原初的巡礼論(根井〉 -133ーれている。この空也上人像は口に六阿弥陀仏をくわえた京都六波羅蜜寺にある有名な空也上人像と同型のものである。 空也上人の行業については源為憲の﹃空也謙﹄、慶滋保胤の﹃日本往生極楽記﹄、および、-﹃扶桑略記﹄ ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ ﹃本朝高僧伝﹄﹃打開集﹄などによって知ることができるが、隔夜僧および奈良の隔夜寺との関係につ いての決定的な記述は見当たらない。ただ﹃長谷寺観音霊験記﹄(下巻第一七話﹀によると、空也上人は大般若経を かちべ 書写し、水精の経軸を得んとして長谷寺に参寵して本尊に祈り、やがて下向に立ち寄った勝部寺の寺僧の教示によっ て、土中から水精軸を得たという話を載せる。 ﹃ 本 朝 文 粋 ﹄ ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ ﹃ 六 波 羅 蜜 寺 縁 起 ﹄ ﹃本朝高僧伝﹄にも長谷寺参寵の帰 途、大和添上郡の勝部寺の寺僧の教示によって水精の経軸を得たという記事がある。これら諸書にでる勝部寺につい てはあきらかでないが、現・奈良隔夜寺の古跡であったという客養寺に該当するのかもしれない。 ﹁長谷寺観音春日明神隔 引 リ 夜御参詣之図﹂がり、調書(巻中﹀にも、次のようにみえ、先述の水精経軸感得の話を伝える。 上人春日明神へまふて玉ひて、鐘をた L き、声高に念仏を唱へ玉へは、御帳の内より、またもまたあらばや人に また京都市中京区亀屋町の空也堂に伝わる﹃空也上人絵調伝﹄四幅のうちの第三軸には、 教へし、南無あミた仏の六の外には、と御声あらたに御詠歌ありけれハ、上人たふとく思召、それより長谷寺執 行し、御念仏を勧めたまふなり。上人長谷寺に夜もすから念仏勤行し給ヘハ、沙門一人来れり。上人云、吾ハ念 仏の行者空也と云聖なり、吾始て大般若経を写す、水精を以て軸とせんと願と云り(下略﹀ 空也上人が書写した大般若経の供養会は、応和三年(九六三﹀京都・鴨の河原で行われたようで、 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ に 左大臣の藤原実頼以下、天下の諸人が結縁 は﹁八月廿三日壬寅、於=鴨川原一供=養金字般若経﹁道俗集会﹂とあり、 した。おそらく、空也上人の大般若書写供養会に先行する水精経軸感得の奇瑞が後世に弘まり、それが奈良隔夜堂と 長谷寺を往復参詣する隔夜僧にも享受され、やがて彼ら隔夜僧の開祖としての空也上人語ができあがったのであろう。 ちなみに﹃和州豊山長谷寺古今雑録﹄ (元禄十年﹀には﹁南都隔夜道心は空也上人之末流也。空也上人自=南都一長谷 -134ー 龍谷大学論集
寺観音堂へ日参、隔夜修行己隔夜之始是也。伺テ南都隔夜堂ニ有ニ空也之像一為三万祖プ本尊は十一面観音也﹂とあり、 (巻二)にも﹁隔夜堂、高畠町の束、丹坂町にあり。開基空也上人なり﹂とみえる。なお現・隔夜 ﹃ 大 和 名 所 図 会 ﹄ かえるまた 寺観音堂の墓股には空也上人が用いたという鉦(模造)が使用されている。
長谷寺の隔夜堂
大和における隔夜参詣のもう一つの拠点は長谷寺(桜井市﹀の隔夜堂であった。 ﹃和州豊山長谷寺古今雑録﹄によ ヲ ハ V ル ﹂ 、 長 谷 寺 の 隔 夜 堂 は 、 当寺の信海法印の願にかかるもので、 奈良の隔夜寺と同様に中坊美作守が建立したとい ぅ。当初は開山堂(現・法起院﹀にあったが、 のち与喜寺︿現・廃寺﹀の下に移転し、 さらに観音堂の御供所の脇に 移って明治末期ごろに廃絶したと伝える。 (宝暦十二年﹀によると﹁隔夜堂、与喜寺の下に在。洛東六波羅密寺開山空也上人当 月輪院祐厳の﹃豊山玉石集﹄ 山に龍り、観音の御告に依て、前世に調ひ置玉ひし、大般若経の軸を尋得玉へて、信心弥増し、南部春日宮より当山 へ一千日参詣の願を立、南都に一夜、初瀬に一夜、夜を隔て与宿り、三年三月の問、念仏の弘通を祈らせ給ひける。 其旅宿なり。:::夫より隔夜と名つけて、春日より、はっせ迄、上人の跡を続、一千日を限りて往返参詣する者、三、 四 人 つ L 今に至る迄絶す。:::春日の側にも此堂有とそ﹂とみえ、さらに﹃豊山続玉石集﹄によれば、隔夜堂は﹁弐 間四方﹂の建物であった。 ところで、長谷寺祖師堂には木造・定和上人像があり、その像内背部には﹁奉造立長谷寺奥院定和上人/尊像一躯 南都長谷寺一千日/隔夜為供養也/愚弦善利二親/井十方檀那法界群生同登覚口者也会/慶長五年子三月二日/大施 主泉州鉢峯住養観敬白﹂という墨書銘がある。 右の銘にみえる定和上人とは、長谷寺奥院菩提院の開基・浄阿上人であり、その浄阿上人像を隔夜僧・養観が長谷 原初的巡礼論〈根井)一
135-寺参詣一千日の供養として修造したと伝える。浄阿上人については守豊山玉石集﹄に﹁むかし浄阿上人とて道心堅固 なる遊行派の念仏者あり。此所に草の庵を結んで露の身を宿し、明れば仏の仏名をとなひ、心を西方に傾け、終に人 王九十七代光明院御宇暦応二卯年六月二日、端座合掌して眠るが如く往生を遂げられけり。曾て手づから白身の寿像 を造り置きしかば、是を其草庵の本尊として道心者など往来せり﹂とみえる。浄阿上人は時宗二祖・他阿真教の弟子 で真観と号し、時宗四条派の本山・金蓮寺(四条道場﹀の開基である。金蓮寺蔵の﹃浄阿上人行状﹄ ﹃ 浄 阿 上 人 伝 ﹄ や﹃浄阿上人絵調伝﹄によると、浄阿上人が直接長谷寺に巡錫した記述はないが、若年に全国の山林樹下に修行して ﹁暦応四年六月二日﹂に遷化しており、これは﹃豊山玉石集﹄の﹁暦応二卯年六月二日、端座合掌して眠るが如く往 生を遂げられけり﹂とある本文と対応するであろう。 このような長谷寺と時宗との関係は、たとえば、長谷寺の大鳥居の額は七代託阿上人の筆で、与喜天神鳥居の額は 十四代太空上人の筆跡と伝え、特に永正元年(一五
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四)二十一代知蓮上人が、長谷寺において老婆から金欄に観音 党字を織った古布を布施として受け取ったが、実はその布が長谷寺本尊の仏面に掛けであった戸帳であったという有 名な話(﹁遊行霊宝仏帳面裏書﹂)にも表れており、時宗の徒も多く長谷寺に参詣して集まった。時宗開祖の一遍上人 も、隔夜の祖とされる空也上人について﹁わが先達なり﹂と述べており、隔夜修行はまた、空也上人から一遍上人の 遊行精神にも受け継がれていることが理解できる。 したがって前記の浄阿上人像銘にみえる養観も、 おそらく時宗徒 であったに相違あるまい。なお、隔夜僧・養観は﹁泉州鉢峯﹂の者であったといい、鉢峰は大阪・堺の鉢峯山長福寺 (現・法道寺)であろう。さらに養観の名は、奈良春日大社南門の近くにある石灯龍の正面に﹁慶長九甲辰年二月土口 日/春日社奉寄進為一門後生善(処)也/泉州鉢峯住養観敬白﹂とみえ、左面には﹁隔夜衆中﹂の銘があって、たし かに奈良春日大社に近接する隔夜堂と長谷寺の隔夜堂を往復参詣した隔夜僧であった。 このような大和の隔夜僧は他の修行者とは異なり、 ﹃ 和 州 豊 山 長 谷 寺 古 今 雑 録 ﹄ に ﹁ 上 下 ノ 往 来 、 難 レ 逢 ニ 高 官 ノ 僧 、 -136-龍谷大学論集高 位 ノ 俗 一 不 レ 脱 レ 笠 不 二 平 伏 一 也 。 不 レ 拾 下 落 ニ 大 地 一 物 凸 半 歩 モ 後 ト ヘ ハ 不 レ 帰 。 人 家 ノ 軒 ノ 下 ニ テ 不 レ 乞 レ 物 、 広↓此外法度多有レ之云云﹂とあり、隔夜僧の法度と特別な保護があった。 のか、残念ながらその詳細はあきらかでない。 不 レ 休 -一 茶 ﹁隔夜法度﹂がどのようなものであった 隔夜僧は奈良や長谷寺に限らず全国各地にもみられ、彼らの痕跡や伝承が報告されている。たとえば大坂藤井寺市 の叡福寺門前には隔夜堂があって、 中 の 太 子 、 下の太子の聞を往来した隔夜僧があり、 ﹁かっけさん﹂と呼 詑って ばれたという。 また岸和田市大沢町大威徳寺には青銅製の地蔵菩薩像があり、 台座に元文三年の年次と ﹁ 領 主 西 隔夜﹂の銘がみえる。さらに修験の山として有名な吉野山の竹林寺近辺の道には﹁吉野山隔夜常照﹂銘の道標が あ る 。 隔 夜 僧 ・ 安 心 の 行 業 隔夜僧の痕跡はまだまだ発見できると思われるが、ここでは地方の隔夜僧として熊本県人士口市と球磨郡一帯で活動 人吉相良氏歴代藩主の事蹟を綴った した隔夜僧・安心を紹介しておきたい。隔夜僧・安心については、 M W 録﹄元禄二年(一六八九﹀条に次のように伝える。 ﹃ 南 藤 蔓 綿 同年九月廿九日模空山轄生院開基安心房寂昨律師寂、七十才、秋山氏、山田素生、正保年中、勢州文性上人ニ随 而真言律法を停、菩薩戒を受持ス。万治三年郡に下リ、鱒生院を造創シテ住ス。又延賓年中奉為天真院殿三年隔 又御仏股建立す。其後数年隠居之願有といへとも、相醸弟子無之故、瑞祥寺越心和尚ニ談し嘗寺之末寺 夜 を 勧 、 と す 。 嘗 院 二 代 , Z 情門瑞祥寺末派とす。 安心は球磨郡山江村山田の生まれで俗名を秋山といい、正保年間︿一六四四
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四八﹀に伊勢国の文性上人について 真言律を修めて菩薩戒を受持し、万治三年(一六六O
﹀故郷の球磨郡に帰って転生院を創建したという。やがて藩主 念 原初的巡礼諭〈根井〉 -137ー相良頼寛(天真院)の菩提供養として、三年間にわたって隔夜修行した僧である。現在、人士口・球磨郡一帯に安心が 隔夜修行中に建てた石碑が数多く残っており、隔夜僧としての行業がよく理解できる貴重な資料となっている。確認 できる隔夜碑の写真と銘文を紹介する。 官頭に掲載した燈寵には高治四年(一六六一)二月の銘があり、安心が伊勢から帰郷して最初に建碑した石造物と なる。現在、人吉市津茂谷家屋敷内に遺存しているように、安心が当家に造立、寄進したものか、それとも﹁轄生院 閉山/安心合掌 L 銘があるように、元来、転生院に存在したものが移建されたのか、判断がつかない。また百日隔夜 碑から千日隔夜碑の銘文を検討すると、安心は延宝三年三六七五﹀から約三年三カ月隔夜修行し、延宝六年に満願 成就している。﹁隔夜一千日成就﹂の銘がそれで、隔夜修行が伝統的な千日行であったことをよく示している。さら に八百日と九百日隔夜碑は未発見である内、安心は隔夜修行の各百日目ごとに建碑しており、おそらく檀家・帰依の 人びとと一緒に法要をおこなったものと思われる。 銘文にみえる用語は、百日隔夜碑に刻んだ自力聖道門の悟りに至る順序の次第を表したもの、三百日隔夜碑の十一一一 向、六百日隔夜碑の七仏通戒の侮文などがあり、隔夜僧・安心の内実を知るうえで今後の検討課題となるであろう。 千日隔夜碑のひとつ﹁本源配性天真併﹂の銘文は藩主・相良頼寛の法名である。﹃南藤蔓綿録﹄収載の二十一代・ 壱岐守頼寛の系譜に﹁寛文七丁未六月廿九日采地ニ卒ス、往歳六十八、天真院殿ト号シ法名ヲ本源雄性ト云フ、牌所 ハ鳳朔山瑞祥寺﹂とあ川、藩主菩提のため隔夜修行した安心の行業内容を傍証している。最後に掲げた﹁徳光仏隔夜 碑﹂は、延宝五年十六歳で夫折した相良頼泰(法名・徳光院﹀の供養碑であり、安心は百日隔夜修行して頼泰の菩提 を弔っ向。銘文に﹁無量名称徳光傍/貞享五年戊辰導師﹂とあるように、安心は相良頼泰の供養法要の導師を勤め たのであり、この年は安心が﹁天真院仏殿﹂(相良頼寛仏殿﹀を転生院に建立した同年にあたる。 問題は千日隔夜碑が三基現存する点である。一基は人吉市原城町瑞祥寺脇の﹁本源自性天真併碑﹂、 一 基 は 人 吉 市 -138ー 龍谷大学論集
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戊炭 i再 仰 加 批 U 品名称徳光州 隔校 二 臼 日 -H<1ー 龍谷大午品集浪床町転生院跡の﹁隔夜一千日成就碑﹂、一基は錦町一武円鏡庵の﹁隔夜一千日成就碑﹂である。﹁本源自性天真悌 碑﹂は、まさに相良頼寛の菩提供養の隔夜千日修行の成就記念碑であり、﹁延費六戊午年五月十四日﹂の建立年紀銘 文がある。いっぽう転生院跡の﹁隔夜一千日成就碑﹂も﹁延賓六戊午天五月十四日﹂の建立年紀銘文があり、これは まさに安心自身の隔夜一千日成就記念であり、同時に﹁十箇所接待男女都合一万五千四百三人﹂とあるように、隔夜 修行を支えた十カ所接待の民衆のための記念碑といえるだろう。安心は自分が最初に創設した転生院に千日隔夜碑と し て 建 碑 し た の で あ る 。 ﹁十箇所接待男女都合一万五千四百三人﹂の銘文は重要であり、安心は十カ所で接待を受け おそらく安心は、隔夜修行の日誌と民衆の名簿を書き残していたに違いあるまい。 た人びとの総人数を刻んでおり、 安心自身の隔夜修行に関する文献史料の発見が期待できる。 円鏡庵の﹁隔夜一千日成就碑﹂は、前掲の二基とは異なり﹁延賓六戊午天八月十日﹂の建碑日銘文がある。前掲の 二基から遅れること約三カ月後である。しかし転生院に建てた﹁隔夜一千日成就碑﹂と同文の刻銘であり、これもま
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た円鏡庵に建碑した点に意味がある。 安心の隔夜修行は、藩主相良頼寛の菩提供養と自己自身、および、民衆接待供養の三つの側面がある。そのためか 一千日成就碑の一基は相良頼寛の位牌が安置された瑞祥寺門前脇に建て、あとのこ基は隔夜修行の対象となったと思 われる転生院と円鏡庵のニカ所に満願成就として建てたのであろう。 しばしば述べるように、隔夜修行は、ある特定の堂社二カ所を往復参詣するのが原別であれば、安心の隔夜修行の 対象となったのは転生院と円鏡庵であっただろう。この二カ所聞の距離は約二里弱、往復参詣は可能であった。その 意味で千日隔夜碑を﹁転生院﹂と﹁円鏡庵﹂のニカ所に同銘文で建て、そして、百日目ごとの記念として郡内各所に 隔夜碑を建立したに違いない。それとはまた別に﹁本源自性天真併﹂碑を位牌所であった瑞祥寺に建てたのであり、 安心隔夜行の一つの目的が相良頼寛の弔いであったことを明示している。 原初的巡礼論〈狼井〉 -145ー万人講結衆供養塔の建立
隔夜一千日修行を終えた安心は、十一年後の元禄二年(一六八九﹀から没する直前まで﹁万人講結衆供養搭﹂を集 中 的 に 建 て た 。 す な わ ち 、 人 吉 球 磨 郡 一 帯 に ﹁ 万 人 講 結 衆 供 養 元 禄 二 年O
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目安心住七十﹂とか、 念 仏 元 禄 二 年O
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目安心住七十﹂と刻んだ石碑が十四基確認されている。万人講はもっとも民 一つの宗教的目的を多くの人びとによって成就すれば、その人数の相乗的な功徳があるという信仰 接 待 人講結衆供養 俗的な講である。 から生まれる講である。先に紹介した一千日隔夜成就記念碑に﹁十箇所接待男女都合一万五千四百三人﹂とあったの は、こうした万人講が安心を中心として組織されていたことを物語っている。万人議結衆供養塔は安心の隔夜修行を 支えた民衆の滅罪と往生を祈願した建碑と思われる。したがって隔夜記念碑も、各百日ごとに結縁した人びとの助成 によって建てられ、その後、これら郡内村民すべての供養として万人講結衆供養塔を建立したのであろう。以下﹁万 MW 人講結衆供養塔﹂の銘文を掲げておきたい。f
妻 往歳七十 元禄二年 接 元禄二年 安心 一 一 月 廿 一 日 高人講結衆供養 安心 往 歳 七 十 口口講結衆供養 待 待 4 一 月 十 日 人 士 口 市 東 漆 田 町 観 音 堂 横 山江村山田味園J
妻 元禄二年 元禄二年 接 高人講結衆供養 口口講結衆供養 往歳七十 安心 { 女 ・ 心 待 往 歳 七 十 f J L l f u -ι -ι J , 寸t E 寸 ノ γ ト ι 待 二月十凶日 人吉市大畑 深田村向町 -146ー 万 龍谷大学論集高人講結衆供養 高人講結衆供養 高人講結衆供養 高人講結衆供養 接 元 禄 二 年 往 歳 安心 七十 待 三月七日 上村今井地蔵堂内 接 元禄二年 往歳 安心 七十 待 三月十一日 岡原村別府阿弥陀堂 接 元禄二年 往歳 安心 七十 待 三月十六日 多良木町久米熊野神社参道 接 元 禄 二 年 往 歳 { 女 、 心 七十 待 三月二十日 岡原村宮麓 音 観 接 元禄二年 往歳 安心 七十 南無 高人講結衆供養 井 大 高人講口口口口 高人講結衆供養 口口口口口供養 待 三月吉日 錦町西三条高山家 接 元禄二口
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口 口 口口口口 口口口口 相良村川辺 A:、 a曲、 元禄二年 往歳 安心 七十f
引; 四月廿一日 五木村頭地久領 メ入T '巳4、 往歳 { 女 、 心 七十 元禄二年 倒; 四月廿七日 五木村頭地田口 原初的巡礼論(根井)-147-ノへー, .0 元禄二歳 安 心 ト レ il 怯 仇 } 一 J b 前人前結氷供謎 的 六 月 廿 三 円 多 良 木 町 槻 木 水 谷 薬 師 ー 一 旦 市 立 安心万人議結衆供援抗日(人古市大畑﹀ 今 .0 正 裕 二 天 出人税引利衆供 必 七十段 五7 .L、 俳p L
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-﹂ 村 皆 越 中 村 安心万人説付衆供必犠( 上 村 今 引地蔵武内) -148ー 剖l谷大年二通!l!万人講結衆供養搭にみえる銘文﹁接待﹂とは、一般的には杭駆的な物ロ聞の供与を指す 一 目茶である。だが石碑は宗教 的泣物であり、したが っ てここにいう銭仰とは、安心の町閉校修行を支える村民による施茶の接待であり、また食帆州制抗 供を示した言楽であろう 。 つまり、隔夜という苦行を実践する安心に、村務の人びとが結縁し、毎日食純 一を保証した と考えられる。先に紛介した千円隔夜成枕抑に﹁﹂ l 問所接待児女郎合一万匹千凶百一 二 人 ﹂ と あ り 、 また﹁前人議﹂と あるように、安心の州凶には万人識が組織され、その人びとの紡紋によって附絞修行が速成されたからである。 安心の各百円ごとの脳夜碑が辿花された場所は、 たとえば一河口附政伸は錦 町 一 武 平 引の民 沙 門 常 航 、 一
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隔 夜 碑 は 上 村 正 伝 守 山 比 沙 門 悦 般 で あ り 、 ま た 万 人 市 山 紡 山 地 供 猿 第 も 、 それぞれ名地の 餓音堂(人吉市東討川町)、地政並ハ上村今井﹀、阿弥陀叩一(岡原村別府﹀、築制点目ム(五木村政地久飢﹀に近接して存 在する。これらのことから万人消の布陣を建てるおりには、近辺の紡 U 時点引が作子社に集まって法裂をおこない、村誠 共同体と し て建碑されたと推測できる。 いま、安心山民間の万人講紡衆供花熔の場所を地図に務として般討すると、京間は多良木町槻木と山江村味闘の問、 じつに広践である。安心は健脚で 、 まさし 市 止 は 人 士 口 市 大 畑 か ら 五 木 村 一 肌 地 の 聞 に 分 布 し て お り 、 そ の 距 離 は 速 く 、 く歩く宗教者であった。 人 士 口 領 内 の 念 仏 信 仰 W 附夜的安心は表向 き は 臨 位 間 以 の 的制という 。しかし 、安心は次節 で紹介するように 伊勢川目儀 式 可 で 修 験 道 に ふ れ 、 さらに真一訂作法を受持し、また仰念一致の教義にもふれ、多川柑な念仏、民俗的な念仏を享受していたと考えられる。 万人排紡衆供必椛に﹁念仏﹂とあるのは、特定の宗派の教義、 ~~ , 沿 1;1: あ し て 由、 11. も ま 、 ら 型l
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刀、 も t乙 ら およそ人吉 ・ 球磨郡には 、 鎌倉時代から時宗系の念仏が弘まっており 、 -150ー 加ýi大~{.:,~tt&した念仏があ っ た ロ す な オフ ち
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人古制内の念仏日仰に 多大な膨刊を与えたものと 思われ る 。 人吉・球陪川に定指し無品万院 ﹂のような庇史的背ぷを附 まえると を 聞いたことは ﹃ 向 勝 山 叫 抑 制 州 ﹄ に J れ ば 知 日 川 刀 院 では応水 以降の六月 ご 十日に飢 主 川良 為紛の市い畑' 川 として行万泌念仏が 山 山 また戦川別相良氏の似川且配を加える ﹃ 八 代 日 川 山 ﹄ によると ﹁ 川 例 大 念 仏 、 大政数 十 六丁﹂などとあ り、七月 岡 の孟刷盆会先組供長には大念 仏 がおこなわれていた 記事が散 見する。大念 仏は焔り念仏、六 斎念 仏 であったろうが 、 さ れ 、 特に踊り念 仏は 平安 中 期 か ら 山 J也 上 人 が始めて、それを一泌l
一 人 が 採 り 入れたことは 有名 な 訴 で 、先述の市町山 内 ﹄ w ' HL 派の虫も 刷 り念仏を作 っ て い た 。 一 九 水 一 . 十1
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⋮ 円 二 ﹀ の ﹃ 川 町 山 引 拡 衆 契 伏 ﹂ ( I H川 貯 山 文 代 川 ) に ﹁ 附 念仏附く 止 闘 む可き が、立欽外 ﹂とあ り 、 い 川 町 山 内 で も 仰 い 叩 唱 だけ は刷り念仏が汗されていた。したがって ﹃ 八 代日花 ﹄ に散見す 胤硫化した念仏儀礼 であった にせよ、その源流は蜘ハ且寿院の開法で市賢 山 立定派の 昨阿上人が もたら し る大念仏も 、 た念仏で あ ったと思われる。ド附夜的安心が念仏をもち 、 聞 したとも考えらる 。政務の見 解をあお ぎ た い と 思 う 。 ﹁ 紋叫﹂と号したのは、中世の昨川上人の﹁昨﹂の字を継承J
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-152 -門市!鋭(表〉 細谷大学論型: 門官時克G!l)球府部錦町一武の薬師引 J内に安心が事納した門微鏡︿木製)がある。党字 ( 7 ﹀大日如来を浮き彫 り し た作品であ 仰さ二八センチである 。 A m 約で彩色され、相 N f 山に銘文が同訟でき る。法誌は縦山間 山 -L 八六七ンヲ 、断 三 八 二 セ ン チ 、 る。この銘文は附伐的安心のう訓セ解く市川封、かつ口市な銘文である 。 まずは銘文(前只)を悩げる。 + れ の 円 筒 鋭 は 、 ほんらい伊勢同世俗寺の住的見肢の成学正リ ' A e 法 非 平 等 利 朴 怖 を 祈 念 し 、 仰 比 一 水 十 八 年 三 六 凶 一 ﹀ 世間山寺応到の制政院秀者と、神念一致の宗風を税いた教主山(世能寺の山口勺﹀抑念沙門以純作であることをあきらか 闘 にしている 。 点仰は犯点じ年の川以という 。 この門制鋭を公心は、川治一年、人古球山市へ州郷するにあたり修 れ の 形
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として灯い受けたものであった。 当川、安心は凹義寺大削 u V にn
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していたことをあきらかにしている。大制強は明治二年以前まで成徳院の京側に あ っ た 立 で 、 市北部問、京刑 門 川 半、前に御供所があ っ た ( 世 儀 哨 境 内 閃 参 照 ﹀ 。 ﹃ 陶 磁 箆 紛 糾 叫 ﹄ に は 宏 、 む に つ い て 正 川 同 年 間 に 伊 勢 同 の 文 性 か ら 庁 公 パ作を伝授さ札、持政戒を受持し、 刀 治 -一4
山(人穴 ・ 球 山 市 ﹀ に 下 っ た とあり 、円 相 削 鋭 銘の万治 三 年帰郷と 張 合 す る 。 ついで﹁同年九月七日此庇拶始附 、 車 中 懸 所 者 ﹂ と あ り 、 万 治 三 年 、 転 生 山 地 か ら 錦 町 一 武の薬削刊 J に 訴 で この門似鋭を懸けたのであろう。 十栄削犯には本巧泌師如米と脇侍 イ 二 仰将 が伐 り 、 ﹂ 1 二 神 将 に は 、 そ れ ぞれ 則 一 ル 七 年 ( 一 円 九 八)の釣があると い 制 う。したがって、安心が隔夜修行のもう一つのぬ点とした錦町薬削立は、中世か ら 存在した築制吃と忠われ、そこに 安心は門知鋭をポ納したのである。門鋭胞とは薬師円 H ﹂ に 川 相 鋭 を 懸 け た こ と に ら な む 山 川 口 り で あ る こ と は 疑 い な く 、 安 心の命名であろう。 し た が っ て門紙鋭は、隔夜間安心の級肢の一端を開示し、伊勢川枇儀苛止引、 万 治 三 年川郷、転 生 院 創 設 、 刊 鋭 的 地 川 口 に い たる一巡の州移を災 訓す る れ れ 引 な資 料 で あ る 。 出I初的巡礼治(恨引) -153ー君、 毎
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法裂を常み処仰されたと忠われる。それほど知派結(間信者集川)が強靭であったと考止られる。 元泳三 年九月 二 十九日、安心は 二 つ の 似 を 閉 じ た 。 ﹃ 川 勝 必 紛 糾 叫 ﹄ 元 紋 二 作 品 目 は ﹁ 九 月 刑 九 日 渓 山 町 山 転引院関誌安 心口町絞叫作仰山相、七十級﹂とにす。伊勢同世俄寺か ら 川 市 郷 し 、政 初に創設したい恥生院に広神ハ無給w m
﹀ が 旭 て ら れ た 。 基礎 台 市 民銘に﹁首院開法/安心寂叫和尚﹂とある。安心の墓碑は晩年の拠点であった門鏡庇にも建立された。角柱上 部 の 円形に ﹁安心絞叫律師﹂とあり 、問聞に 焚 字 で 光 明 日 H ハ誌が刻まれている。光明其立は安心の減 非往 生を断ったの であろう。また品川柱上部の門形は 、 彼が大事にしていた門額鋭を狭刻したものに泣いあるまい。 安 心 の 硲 耐 叫 が転生院と門鋭山地のニカ所に建てられたのは 、 制夜一千日成就碍が同 じ ニ カ 所 に 存 荘 す る よ う に 、 や 6主 り安心の隔夜修行対象の仏設が転生院と門鏡陀であったことを示唆している。安心の千日隔校修行は変則的であった に せ よ 、 隔夜修行が特定の仏閣に往復品告諭することが山本であったとすれば、安心の隔夜修行は転 生 院と門鋭庵の往 復参請が企図されていたに迎いない。転生院と門鋭胞は公心にと っ て貨裂な自幼であった 。 安心没後 、 師 の 精 神 を受け継 い だ 弟子 ・ 禅 休 が 一 元 禄 三 年 から陥夜修行を尖践し 、同 五年に千日間夜を成就した。安 心の怒川出供必と村氏の万人減供必であろう。現占 、 出 作 休 辿 ー 止 の が 附 夜 前 怖 が 八 必 発 比 さ れ て い る . 神休の純肢はあきらか の で . 万 な罰金
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制 作 休 万 人 講 隔 夜 端 ( 人 古 市 山 地 木 町 戸 川 郎 必 地 ) 仰 休 一 千 日 隔 夜 抗 H ( 人 件 前 宝 来 町 公 凶 ﹀ む す び に か え て 似 附 枝 川 川 安心は 、 一 況 と して彼は人六市の 制成苅 十 七 肥後川球防山 山民村山川 を 川内 とし、俗名は秋山氏と伝える。 批寂辰法印の弟子という。十七世紀半ばに伊勢川の文也上人について山ハ包律、持磁波を受けた。文性上人については 今のところあきらかでない。 ついで安心は伊勢の世田川省大師常に止似していた。 世間山守は修験道当山派の代女的た正 先達股寺院であり 、 ﹂ こ で 体 得 し た が って安心は修験山伏の放仮と行法を身につけていたと思われる。隔夜修行は 、 万 治 一-4
に故郷に州り 、 転生院を例述、すぐさま門鋭陀(必仰堂﹀も所助惚 山 一 と し た 。 延 宝 -一 一 年 、 務主相良頼究の菩提供必として陥夜行を開始し 、 三年三カハをかけて 千日制夜行を成就した 。 村氏と万人議を組 織 し し た の で あ る う 。 158 龍谷大学7品集て隔夜碑を各地に建て、銘文には法語のほか阿弥陀仏、念仏の文字も刻み込んでいる。 肥後人吉の領主相良氏は、中世末期から近世を通して一向宗禁制政策をとったから、安心の念仏銘文が疑問視され、 h p 常に議論の対象となった。しかし、安心の念仏は、真言念仏、禅念一致、民俗的念仏など、多面性、複雑さをもって いる。また隔夜僧・安心の名前と、真宗の﹁安心﹂が複合的に解け合い、地元の人びとに信仰されてきた側面も拭い z h u v 切 れ な い 。 重要なことは中世的な隔夜修行が、ほぽ完全な形態で九州の人士口球磨地方に残っていた点である。こうした隔夜修 行は、平安期に﹁一宿上人﹂と呼ばれた行空の行業に淵源を求めることも可能であろうし、 一遍上人の一所不住を生 命とする遊行も隔夜行の傍系と捉えることができるだろう。 隔夜行は特定の二カ所を往復参詣する初歩的な行業とはいえ、接待とか万人講とか善根宿などの習慣を残す四国八 そうした隔夜参詣修行の延長線上に西国三十三所観音巡礼などをはじめ とする日本の巡礼形態が生まれる素地をもっていた。隔夜修行、隔夜参詣は、歩く宗教の精神と行儀を伝える原初的 十八カ所遍路修行とも不可分の関係にあり、 な巡礼であったことを提唱してみたかったのである。 註
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拙 稿 ﹁ 隔 夜 の 聖 ・ 安 心 ﹂ 日 年 ) 参 照 。ω
佐 藤 謙 三 校 注 ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 本 朝 仏 法 部 ・ 上 巻 ( 角 川 文 庫 ﹀ に よ る 。 助日本古典文学大系﹃太平記﹄(二)による。ω
控 脅 之 助 編 ﹃ 多 聞 院 日 記 ﹄ 第 一 巻 ・ 四 五 四 頁 。ω
﹃ 奈 良 県 史 ﹄ 金 石 文 下 。 一 七 七 ・ 一 八 二 ・ 二O
一 一 貝 。 そ の ほ か 、 大 阪 府 貝 塚 市 水 間 寺 に は 、 基 礎 部 に ﹁ 隔 夜 僧 ﹂ を 浮 き 彫 り し た 宝 箆 印 塔 が 遺 存 す る ( 奥 村 隆 彦 氏 の ご 教 一 不 お よ び 図 版 写 真 の 提 供 に よ る ) 。 ( ﹃ 尋 源 ﹄ M 号 ・ 昭 和 田 年 ) 、 同 ﹁ 原 初 的 巡 礼 と し て の 腐 夜 修 行 ﹂ ( ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 第η
巻 ・ 第 四 輯 ・ 平 成 原初的巡礼論〈根井〉 - 159ーω
永井義憲﹁長谷寺の隔夜僧とその源流﹂(﹃豊山教学大会紀要﹄日号・昭和田年)参照。なお﹁宝輪寺参詣受茶羅﹂には、六波 羅蜜寺蔵・空也像と同じように口に六阿弥陀仏を加えた修行僧が行脚している絵像がある。 州 w 仰教大学民間念仏研究会編﹃民間念仏の研究﹄資料編・五O
一 頁 。ω
﹃豊山全書﹄﹁和州豊山長谷寺古今雑録﹂一九頁。 制﹃続豊山全書﹄第四巻﹁豊山玉石集﹂一四二頁。 同﹃奈良県史﹄金石文下。四九九頁。 帥奥村隆彦﹁隔夜小考﹂(﹃史迩と美術﹄三八六号・昭和必年﹀、奥村邦通﹁隔夜﹂笥近畿民俗﹄日号・昭和必年﹀、岸田定雄﹁隔 夜小考﹂(﹃近畿民俗﹄日号・昭和必年)、潰回謙次﹁関西の隔夜信仰﹂(﹃史迩と美術﹄六七五号・平成9年)、同﹁関西の隔夜信 仰(二﹀﹂(﹃史迩と美術﹄六八四号・平成m
年)、仲芳人﹁伊勢長谷隔夜について﹂(﹃史迩と美術﹄六九O
号・平成m
年 ﹀ 、 漬 回 謙次﹁関西の隔夜信仰(三﹀﹂(﹃史迩と美術﹄六九五号・平成日年)、同﹁関西の隔夜信仰(四)﹂(﹃史迩と美術﹄七一O
号・平 成ロ年 ) O M 阿梅山無一軒﹃南藤蔓綿録﹄巻目(肥後国史料叢書・第 3 巻・二九七頁 ) 0 ﹃南藤蔓綿録﹄は建久年間の相良長頼(初代)から正 徳二年の相良煩福(二十三代)まで歴代領主・法主の事跡。江戸後期成立。同じく著者梅山無一軒(西源六郎)編纂による﹃歴 代嗣誠濁集覧﹄(巻凶)は、ほぼ同文の安心伝を載せるが、俗姓秋山、山田生まれの続きに﹁願成寺十七世法印寂辰弟子也﹂の 一 節 が あ る ( ﹃ 相 良 村 誌 ・ 資 料 編 一 一 ﹄ 三O
八頁)。安心が号した﹁寂叫﹂を考慮すれば、師﹁寂辰﹂の一字を貰ったとも考えられ、 整合性がある。同著者による﹃南藤蔓綿録﹄と﹃歴代嗣誠濁集覧﹄の先後成立については議論があり決めかねるが、﹃南藤蔓綿 録﹄が﹁願成寺十七世法印寂辰弟子也﹂を削除した根拠はあきらかでない。 岡高田素次﹁安心と禅休の建碑﹂(﹃郷土﹄ω
号・昭和貯年・六七 J 六八頁)、前川清一﹁隔夜による十三仏碑﹂(﹃石人﹄二七九 号・昭和町年・同著﹃肥後の金石論集﹄E
収録・昭和印年)、高田素次(文﹀・渋谷敦(写真)﹃円鏡庵安心﹄(平成1年)、およ び、菖蒲和弘氏、溝下昌美氏、筆者の調査による。なお四百日隔夜碑は再建である。銘文に﹁隔夜四百日接待所﹂とあり、隔夜 碑(上村長里)が存在する場所に近接した堂で接待がおこなわれたことを示唆する。六百日隔夜碑にみえる﹁石久米﹂とは、石 材が多良木町久米地区の産であったのであろう。 M W 現存する隔夜碑を場所を地図に落すと、いずれも球磨川の東側(南)となる。この条件を勘案すると八百日と九百日隔夜碑も 球磨川東側(商)の地区に建碑された可能性がある。悉皆調査が期待される。 -160ー 龍谷大学論集同隔夜と十三仏信仰については、中村雅俊﹁隔夜スル法師│十三仏信仰伝播の問題
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﹂令仏教と民俗﹄口号・昭和路年﹀が参考 と な る 。 帥梅山無一軒﹃市藤蔓綿録﹄巻ロ(肥後国史料叢書官・二五八頁 ) 0 ﹃ 相 良 氏 系 図 ﹄ ( ﹃ 人 士 口 市 史 ﹄ 第 一 巻 収 録 ) に は ﹁ 寛 文 七 年 廿 九 日逝去、年六十八、法名天真院殿本源雄性﹂とある。相良頼寛の法名は﹁天真院殿本源雄性﹂が正しいが、安心は﹁本源雄性﹂ を﹁本源自性﹂と誤ったのであろう。 制相良頼泰について﹃南藤蔓綿録﹄は﹁(延宝五年)丁巴十月廿七日卒、十六歳、徳光院文渓良鍍ト号ス﹂と記し、﹃相良氏系 図﹄(﹁人吉市史﹄第一巻)には﹁延宝五年十月廿七日江戸ニ卒、年十六、法名徳光院文渓良鑑﹂とみ与える。宝永六年︿一七O
九)には三十三回忌が営まれ、﹃南藤蔓綿録﹄同年条に﹁十月廿五日ヨリニ夜一昼、瑞祥寺ニ於テ、徳光院殿三十三回御忌御法 事有、江戸御牌所麻生吸江寺にオイテモ御同前﹂とある(肥後国史料叢書・コ二九頁)。徳光院隔夜碑については溝下昌美﹁転 生院跡の隔夜碑﹂に紹介してある(日刊﹁人吉新聞﹂平成 6 年 5 月 日 日 付 ) 。 同﹃南藤蔓綿録﹄巻口・元禄元年(一六八八﹀条に﹁同年護団渓空山転生院-一於テ、天真院殿御仏殿建立、但当山開基安心寂昨 律 師 ノ 草 創 、 当 院 後 -一 来 迎 院 ト 改 ム ﹂ と あ る ( 肥 後 国 史 料 叢 書 ・ 二 九 五 頁 ) 。 帥円鏡庵において安政三年(一八五六)安心二百回忌がおこなわれ、﹃廻文控帳﹄(上村中村家蔵﹀に﹁瑞祥寺末寺一武村円鏡 庵、安心和尚弐百回忌法会執行致し度く、且、寺大破に及び修理出来兼ね、殊に檀家も至極難渋に付、托鉢願出、願の通り御免 成され候旨、寺社奉行より御達しこれ有り候問、しらせ相達し候、其の意を得、此段郷中洩れざる様に、相違し置かるべく候/ 一 一 一 月 九 日 ﹂ と あ る ( ﹁ 上 村 史 ﹄ 五 七 九 頁 ) 。 帥参照文献帥と同じ。相良村川辺の供養塔は元禄二年四月上旬の建碑と推断される。 帥梅山無一軒﹃南藤蔓綿録﹄巻 2 ( 肥 後 国 史 料 叢 書 ・ 第 三 巻 ・ 二 九 頁 ﹀ 。 同五来重三遍上人と法燈国師﹂q
印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹄ 九 巻 二 号 ・ 昭 和 お 年 ) 。 M W たとえば﹃浄阿上人行状﹄には、﹁或時開一一遍事跡、思慕鷲、永仁年中到紀州由良、入心地上人座下﹂とある(﹃続群書類従﹄ 9 輯 上 ・ 二 一 八 頁 ) 。 凶相良氏の御願寺・人士口の願成寺は、天福元年︿一三三一)弘秀法印(元・遠州常福寺住僧)を関山として真言宗から出発した が、以後二百年は時宗であったという。願成寺に残る相良定額(六代﹀・前額︿七代)・実長(八代)の墓碑には、それぞれ、契 阿・立阿・寅阿とあり、時宗の阿弥号(法名)を刻む。各﹁相良氏系図﹂も同様である。願成寺の創建について﹃歴代嗣誠濁集 原初的巡礼論〈根井〉 -161ー書(巻一)は、寺伝として﹁開基弘秀法印ハ当寺ヨリ隠栖ノ後、須恵今木山平等寺田一住ス、其跡願成寺二代目ヨリ数代時宗也、 二百余年ヲ経テ時宗退転シテ後、平等弘専法印願成寺ヲ再興シテ住ス、此時至 ν子 ν今 復 元 真 言 宗 無 ニ 退 転 一 弘 専 ・ 良 秀 ・ 勢 辰 ・ 勢 尊ト相続シテ皆平等寺前住ヨリ相続シテ住ス、当寺ハ時宗ノ間ヲ除キ真言一派ヲ取テ弘秀・弘専ト相続セリ﹂とある(﹃相良村 誌 ・ 資 料 編 一 一 ﹄ H 頁)。また﹃歴代嗣誠濁集覧﹄弘専卒伝(康正三年・一四五七)には﹁同三年丁丑(長禄改元﹀九月廿八日、 弘専寂、願成寺ハ開山真言弘秀ノ後、時宗ニ押移ル事二百余年、其後時宗退転ニ仰テ阿蘇山平等寺ノ弘専真言再興シテ住ス故、 弘専今以テ当寺/二代住侶トス、是ヨリ真言也﹂とある(肥後国史料叢書・第一一一巻・四三頁﹀。なおまた﹃八代日記﹄には、享 禄五年に遊行二十六代空逮上人、天文十八年には二十八代遍円上人が八代荘厳寺(八代道場)に巡錫し、さかんに連歌会を催し ており、人吉球磨地域は、時宗の念仏が早くから定着していた(拙稿﹁遊行上人遍円の肥後巡錫﹂﹃仏教史学研究﹄お巻 1 号 ・ 昭 和 印 年 、 参 照 ) 。 帥﹃八代日記﹄享禄凶年七月十六日条に﹁旧例之大念仏依雨十九日ニあり﹂、永禄二年七月十六日条に﹁旧例御念仏、太鼓数廿 二丁﹂、同三年七月十六日条に﹁大念仏、依雨十七日在、太鼓数十六丁﹂、同七年七月十六日条に﹁旧例大念仏、依雨十七日成就 候 ﹂ と あ る 。 帥﹃大日本古文書﹄高野山之(一﹀・四八八 J 四 八 九 頁 。 閉すでに註帥でふれたように、安心は一説によれば願成寺十七世寂辰の弟子といい、﹁寂昨﹂の寂は﹁寂辰﹂の一字である可能 性を示唆した。さらに本文でふれたように﹁寂昨﹂の件が﹁昨阿上人﹂の一字とすれば、安心は真言念仏を受持していたことに な る だ ろ う 。 伺世儀寺住職・竹内秀興師のご教一不による。 帥高田素次・渋谷敦﹃円鏡庵安心﹄一一六頁。 開参照文献帥と同じ。人士口市宝来町公園に建つ元禄五年﹁(南﹀無阿弥陀仏/一千日隔夜成就﹂禅休建立碑は、昭和五十六年三 月二十三日に発見された(日刊﹁人士ロ新聞﹂昭和田年 3 月 お 日 付 ) 。 別人吉領内における真宗史・隠れ念仏については、岡崎秀善編述﹃熊本鰍球磨郡真宗開教史﹄(昭和 4 年・原版は明治 4 年 ﹀ 、 拙 稿 ﹁ 真 宗 禁 制 と 山 伏 お よ び 売 薬 商 人 ﹂ ( ﹃ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹄ 一 一 一
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巻一号・昭和田年)および、最近の成果として、ウイズ仏教文 化 研 究 会 編 ﹃ 人 士 口 ・ 球 磨 の 隠 れ 念 仏 ﹄ ( 平 成 げ 年 ) 参 照 。 開たとえば、錦町一武に存在した二十八日講(安心様)は、弘長二年十一月二十八日に示寂した親驚聖人の報恩講・御正忌報思 -162ー 龍谷大学論集講(現・一月十六日)の法座を示唆している。なお﹃球磨絵図﹄(安永二年作﹀に拙かれた﹁安心松﹂は、僧安心の埋葬地・埋 墓の上に松を嫡樹した可能性がある。墓上植樹と称す葬送民俗である。天文年間の洞然(相良晴広の重臣・上村長国﹀について も ﹁ 上 村 谷 水 一 一 洞 然 之 訟 有 リ L とあり、松が植樹された(﹃南藤蔓綿録﹄巻 7 ・肥後国史料叢書・第 7 巻 ・ 一 四 七 頁 ) 。 ︻ 付 記 ︼