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龍谷大學論集 479 - 001田畑正久「現代日本の医療文化と仏教文化」

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現代日本の医療文化と仏教文化

は じ め に 医療とは、人聞が生まれて、この世で世俗の生活をする、その過程で老い、病むという加齢現象の中で起こる苦し み悩みからの救い、即ち生命の救命・延命を目指すのが仕事である。この生老病死の四苦に関わる領域を二千数百年 の歴史をもって取組んできて四苦を超える道を教えるのが仏教である。医療と仏教は同じ領域の課題に取り組んでい る。しかし、同じ課題に取組みをしながら両者の協力関係のできてないのが現代日本の医療文化(医療を取り巻く社 会的・文化的状況を表現する)の現状である。 世界宗教といわれるキリスト教圏、イスラム教圏では世俗化の大きな動きはあるが、医療と宗教の協力関係は医療 機関に宗教者の常駐がなされるなど比較的に実現できているように思われる。そこで現代日本の医療現場の課題を医 療文化、仏教文化という視点から問題点を分析・検討してよりよい協力関係構築への方向性を考える。

第一章

現代日本の医療文化の現状と課題

明治時代、それまで中国文化圏を主に展開されてきた東洋医学を中心にした医療から、西欧の医学・医療を取り入 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑)

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龍谷大学論集 れる政策に転換をした。初期の頃はドイツ医学、医療を移入してきたが、第二次世界大戦後はアメリカ医学からの学 びを医療制度、医師教育の基本として展開させてきた。その推進のなかで国の方針は一貫して宗教性をほとんど抜き にした医療知識・技術を学び構築していったのである。 西欧の科学的合理主義を基本として、病気や病人の客観性を尊重した病歴聴集、診察、検査を実施して、診断、治 療を進める診察の方法であり、患者である人間を対象化して、病巣(状)の局所を客観的に詳細に観察して異常の把 握に努めて判断して対処する方法である。 ドイツ医学の影響の残る中、アメリカ医学を中心とした多くの医学情報の影響をうけながら医学教育を受け、その 後、消化器外科診療に携わり、医師としての仕事の後半では高齢者の医療に関わり、現在も医療・福祉の仕事に関わ っている視点から見えてくる医療文化(医療関係者や患者・家族の共有する)の課題を取り上げ考察を加える。 ( 1 ) 治療の概念につての課題 病気の治療において、治療とは身体の中に起こった異常を元気な健康の状態に戻すことを基本としている。老病死 に直面した患者の状態は本来のあるべき状態ではない、元気で若々しい健康体こそあるべき状態である。その本来の 健康状態に戻すことが治療の概念である。そこには老病死はあるべき状態ではないという人間の理想的な希望的状態 への執われが背後に隠されている。 外科手術であれば、ガンの治療では腫療を肉眼的に見える部分や統計的に想定される転移している範囲を全て切り 取り根治的な治療を目指す。その過程において一つ一つの操作は削点満点の実施が求められる。

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点や加点の達成で は操作目的は達成されない。しかし、ミクロの細胞レベルの切除は肉眼的には不可能である。治癒切除できたかどう かの結果は数年後に再発の有無という事実で明らかになる。その為にやり直しのできない一回の手術で削点満点の操

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作が求められる。再発なしという事実はガンを物理的に完全に切除してしまい治癒させた、元のガンのない状態戻し たということである。完全に治癒できた時には患者も喜ぶし、担当医師もやりがいを感じ患者と喜びを共有すること ができる。しかしながら、一ヶ所の病巣に対処できても他の組織での加齢現象は必ず進行していくのである。 多くの国民の期待は治療による病気の治癒である。診断学、治療学の進歩で確実に治療の成果は向上して国民の期 待にこたえている。しかし、時間の経過と共に次なる加齢現象の疾患を発症してくることは避けられない。 感染症や外傷に対応する医療が主なる業務である場合には治療という概念に沿う治療が実施でき都合がよかった。 高齢社会を迎えようとする日本の現状は、社会環境・生活環境の変化に伴い、疾病構造の変化が起こってきている。 特に医療現場で多く遭遇する生活習慣や加齢現象に関わる病気(変性性疾患)に対しては若い健康状態の姿に戻すこ とは無理になってきている。 癌や肉腫の悪性疾忠の再発や進行した状態で治癒不可能な状態の忠者には、いくら最新の治療をおこなっても寸死﹂ ということは避けられず、医療の敗北になるのは自明の事実である。これは人聞が生まれ、生活し、加齢現象で老い、 病をえて死んでゆく全体を術服するとき、削点満点の外科手術ができたとしても、それはその時点での治癒であって も、死を一時的に先送りしたに過ぎないのである。 老病死する人間の健康問題の全体像を看て課題に取り組むのをケア(わ﹀目白)と・いうが、現代の医療界では医師の 担当する治療は細分化されて専門領域での専門医としての治療

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包凶)が尊重されている。しかも治療を担当する 医師が現代の医療界を主導しており、

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の訳においてもの﹀富山の訳が治療、すなわち集 中治療室(部門)と表示されているように治療という概念が日本の医療文化を席巻しているのである。 人間の背悩は﹁思い﹂と﹁現実 L の差に起因していると考えられる、治療は病気や外傷という﹁現実﹂を思いの 寸健康﹂に戻す取り組みである。医療知識・技術は多くの患者の健康に思恵をもたらしているが、治癒不可能患者へ 現代日本の医療文化と仏教文化(凹畑

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龍谷大学論集 四 の対応には対症療法は出来ても根治療法は出来ない。その患者の苦悩を緩和する種々の緩和ケアがなされるようにな っているが、最終的には寸死﹂という結果になり、医療・治療の無力さを知らされる。治療という概念で健康で長生 きを目指す医療は、最終的には老・病・死につかまり、世俗の物差しでは、まさに不都合な老・病・死が三つ重なり ﹁不幸の完成﹂﹁医療の敗北﹂ということになる。

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)

自分を廃品とする。 外来診療に通院していた∞∞歳のご婦人が、﹁私なんか役に立たない、迷惑をかける、本当なら旗捨山に捨てられて しかるべきなのに・::::、あの時あのまま眠りたかった﹂と語ってくれたように、睡眠導入薬を多量に服用した自死 おとし 未遂の患者さんを経験したことがある。人生の後半で自分自身を﹁廃品﹂の如くに庇めて傷つける思考の発想は文化 程度の来熟さを示すのではないだろうか。 通院して来られる高齢者の忠者からは、体調の不調や、将来の病気を心配する愚痴みたいな訴えを聞くことは多い が、長生きしたことを喜ぶ声はあまり聞こえてこない。ある識者は﹁人生の最後の叩年、初年を廃品と思わせる文明 は挫折していることの証明だ L と発言されている。

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)

身体の責任を全うできない。 現在、部歳の男性患者さんで乃歳の時、前医から引継ぎ、私が受け持ちになり、

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型肝炎(慢性)でガンになる確 率を押さえる静脈注射を週に三回、継続して治療を受げていた。人間関係ができて、雑談等をする状況で、ガンにな る心配をされて真面目に通院されるので、浄土真宗の門徒さんということが分かってから寸人生を鷹揚に生きために 仏教の勉強をしませんか﹂、と誘ったところ、﹁私は仏教の勉強をするには早い﹂と言われた。 m M 歳になった頃、取り

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越し苦労するようにガンになる心配をしているように感じたので話の中で﹁南無阿弥陀仏の意味がわかると、もう少 し、鷹揚に生きられますよ﹂と話をすると、即座に﹁わけの分からない南無阿弥陀仏だけは言いたくない﹂と言われ た。その後邸歳のとき、ついに危倶していた肝臓のガンを発症した。その後の対話のなかである時、﹁運命だ、諦め るしかない﹂と弱音を吐かれた。 現代人の拠って立つ理性・知性はいわば﹁わけの分からないもの﹂を自分の人生の中に組み込むことを拒否して、 自分の納得のいく堅実なものを積み重ねて生きてきたのです。それは人生を生きる私の、そして私の身体の責任者と しての持持としてしっかりと分別を働かせてきたのである。しかし、最後の最後になって寸運命﹂という、自分では ゆ だ 管理できない、わけの分からない運命に身体を委ねざるを得ない、一貫性のなさに、なかなか気づかない。我々の分 別は自分の身体の責任者として全うできないことを露呈している。

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)

死亡診断書の問題点 法律で死亡診断書を書くことのできるのは医師だけである。死亡原因をできるだけ正確に書くことは公衆衛生の資 料として貴重は物となる D また犯罪がらみの死亡の可能性をも見過ごさないようなチェック機能の働きも合わせ持つ て い る 。 死亡診断書は原則、病名を書くことが求められており、老表という診断は他に病名がなく自然死のときには認めら れるということなっている。その為に老衰という診断はできるだけ避けるようにとの指導が医師向けに記載されてい る 。 加歳を超えた高齢者の死亡時に﹁老表﹂という死亡診断をつけますかと いう話題がだされた。その中である医師が、寸かつて地域医療を担っていたころは、私の死亡診断書には老衰という 最近、医療関係者の情報交換の場で最近、 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑 五

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龍谷大学論集 _L_ / 、 病名が半数以上あったように思います。山村で年老いて寝たきりになって自宅で看取った方は、みな老衰でした。日 年まえ、今の病院(研修指定病院)に移って、老衰という診断書はすぐに科学的でないと他の医師たちから批判され ました。老衰であるという医学的な根拠を示せと。そのために寸不詳の死﹂としているケ

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スが増えました。もう

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年以上、老衰という死亡診断は書いていません。そろそろ老衰という死亡診断が許される医療に戻りたいと考えてい ま す J という意見が書かれていた。 また別の医師は、ョ老衰﹄で死ぬのはいけないことなのですか、私は、理想的な死に方だと思いますが。以前、私 が、死因について﹃老衰でしょう﹄と説明したら、遺族から、﹃老衰とはなんだ﹄と、ものすごく嫌味を言われたこ とがあった。その人は、年齢は卯才をはるかに超え、自分では立つことも、食べることも、排継することもできず、 介護度

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で、全介助で生きながらえていたが、徐々に栄養力が低下し、やせ衰え、肺活量も低下し、ついには、酸素 を吸うようになり、その上で呼吸停止した。医師の皆さんは、これを﹃老表﹄と思いませんか。卯歳を過ぎるまで、 癌や心筋梗塞や不慮の事故で死ぬことなく、生きながらえ、その後も大勢の医療や介護の世話になり続けながら何年 も生きてきた。これを﹃幸せ﹄と言わずして、何が幸せか:::。しかし、遺族は、﹁老衰とは認めず、何らかの病気 が根底にあって、それを医療側が見逃したから死んだのだ。うちの父が亡くなった原因は医療ミスだ﹄といい﹃賠償 請求する﹄と言ってきた。﹂ということが書かれていた。 医療の準拠する科学的な思考は分析的に細分化して原因究明をしてきました D 寝たきりの状態の高齢者がインフル エンザから肺炎をこして死亡すれば死因は﹁インフルエンザによる肺炎﹂という死亡診断書になるでしょう。しかし、 肺炎を起こして死亡するような老年症候群といわれるように全身状態が予備能力を使い果たしてぎりぎりで寝たきり 状態になっていて、最後にインフルエンザが最後の一撃を与えて肺炎となり死亡したというのが全体像と思われます。 そうすると肺炎という死亡診断がその患者の全体像を把握しているかという課題が残るのです。老年症候群で全身状

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態の悪化している状態が基礎になっていてそれに追い討ちをかけるよう病気で死亡に至るというのが死の全体像ですロ 一つの病気に死亡の全責任があるかのように死因として死亡診断書を書くことは、人聞が死ぬ事実の全体像の把握に は適切ではないと考えられます。公的な書類の内容というのは現代の日本の医療文化を含む文化状況に強い影響力を 発揮して、病院で自然死(老衰)しても、それは医療ミスか医療過誤かとまで思われる状況がある。

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老病(死) の受容の困難性 老いや病気は克服すべきものであるという概念の医療・治療の世界では、死はあってはならないことだと考えてし まいがちです。その為に老病死は自然の経過であるという受容の世界の発想は展開しにくいことになります。その為 に死の犯人探しが始まるでしょう。 小学生の女の子が大好きなおばあちゃんが病院に入院して治療の甲斐なく亡くなった。父親に尋ねます。 寸お父さん、病院って、病気を治すところでしょう﹂父親﹁そうだよL女の子﹁それなのに、どうしておばあちゃ んは死んじゃったの﹂寸誰が悪かったの?L﹁おばあちゃん?﹂(不摂生だったから?)﹁私たち?﹂(看病が足りなか ったの?)﹁それとも、病院?﹂(医療ミスか医療過誤か?)父親﹁::::・L父親はなんとも答えようがない。 この素直な親子の対話が象徴的です。仏教の智慧の世界から見るならば、人間の死亡原因の一番は﹁人間として生 まれたLことになります。そして、病気や事故や災害という種々のご縁で死亡するということです。科学的合理主義 思考の分析的解明方法は狭い局所的な事象の把握には強みを発揮しますが、感性を伴う人間全体の把握には不十分で あることの認識が必要である。 女の子 理出来るというメッセージの発信が多く、 また、医療・保健サイドのリップサービスが行過ぎて、治療すれば(特に早期発見早期治療)病気は良くなる、管 一般の人達は病気になれば医療機関に行けば病気は克服できるという思い 現代日本の医療文化と仏教文化(旧畑 七

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龍谷大学論集 八. に な っ て い る 。 友人の外科医師は患者が亡くなる 3 日前に寸だましたな ! L という言葉を患者が発し、気まずい雰囲気の中で患者 さんがなくなったという話を教えてくれた。それは田舎の名士の患者が大腸ガンを手術受けた。無事手術も終わり、 術後も順調で退院した。その数年後の経過観察中に肺臓への転移が見つかり、病名、病状を正確に説明をして再手術 した。これも無事終了退院となる。その後肝臓へ転移病巣が見つかり再入院。三度目の手術後、骨への転移が見つか り、全身の化学療法を開始、しかし、その後は病状の進行があり、亡くなる三目前に主治医が病室訪問をした時に ﹁だましたな﹂と言う言葉を言われたそうである。 著者自身の経験ですが、卯歳の男性が寝たきり状態で地域の中核病院の医師会病院から転院して入院してきた。意 識障害、寝たきり状態、老衰に近い状態で転院してきた。家族には当院では不自然な延命処置や気管挿管での人工呼 吸、心臓マッサージなどの蘇生術はせずに、看まもりを主にしていますとの説明をして入院していただいていた。 入院後しばらくして、深夜に状態が悪化したために病室に入ると、日ごろあったことの家族で看護師をしている人 が、酸素を毎分 3 リットルをマスクで送るようにしているのを見て、寸先生、酸素を 5 、 6 リットルではなく、どう し て 3 リットルなんですか﹂と私に言う。それで希望通りに 6 リットルに上げた。すると今度は﹁この病院は酸素吸 入をするときに加湿器を使わないのですか﹂と貧弱の病院設備をさげすむような口調で私に言う。病院の備品の説明 をしたが、急性期医療対応でないことに不満気味である。しばらくすると﹁どうして点滴(静脈注射)をしないので すか﹂と私に不満をぶっつけてくる。患者の状態が次第に悪くなると家族が﹃ここにいては死んでしまう﹄と言い、 大きな病院へ連れて行かなければと﹁医師会病院へ転院させてくれ L と要求する。老衰に近い状態での終末期に入院 時の説明と同意とは裏腹に急性期の救命医療を求める日ごろ来ない医療関係者の家族に戸惑ってしまったことがあ&。 深夜に職員がしっかりと仕事をしてくれているのにその結果を家族は不満に思われ、不満を職員にぶっつけられる

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と、職員のつかれも一段と大きくなるだろう。その積み重ねが H 燃え尽き症候群ヘ。立ち去り症候群 H になるのだろ う と 思 わ れ た 。

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死を見ないようにしてきた医療 現代社会の状況を術服してみると、人びとの世俗での活動は欲望充足に応える﹁豊かな暮らし﹂を実現するための 取り組みにすぎないのではないだろうかと思われる。その中で﹁死﹂という現実を見えないようにして、あたかも死 がないかのように生活をしている。死ということに直面すると戸惑い、迷いに振り因される。 元中学教師で脳梗塞になり田舎の病院の脳外科に救急車で入院した患者が、後遺症も無く運よく退院した。凡帳面 気の小さい元教師で退院時、再発すると死ぬのではないか寸死の不安﹂に襲われ、奥さんに寸夜、再発してもすぐに 気づくように近くに居てくれ﹂と言ったら、奥さんが﹁そんな子どもみたいなか事を言いなさんな﹂と相手にしてく れなかた。その為に不安が高じてまた脳外科に再入院したという。死の不安で入院してこられた時、医師は患者の状 態の全体像を把握しようとすると同時に、緊急避難的に不安対策として、抗不安楽と睡眠導入薬を処方することが考 えられる。その場はそれでしのげても、翌日に﹁死の不安﹂は解決がついていくのだろうか。医療は問題点を先送り して原因の解決にはなってない可能性が強い。 医療の世界で医師の老病死への対応は結果的には先送りの対症療法を繰り返すしかないということになります。長 年先端的な外科の仕事に携わっていた医師、石飛幸三氏は著作﹁平穏死のすすぬ﹂の中で寸不遜にも治せる医師にな りたいと思って外科医になりました。当時の先端医療であった血管外科の応用を目指しました。もっぱら科学的側面 の追求に専念してきました。自分自身歳を重ね、ましてや特別養護老人施設で働いて見て、老衰の終末期において 我々がしなければならない医療とは何か見せつけられました。自分では先端医療に遁進していると思ってやってきま 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑) 九

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龍谷大学論集 O したが、我々が提供している医療はあくまでも患者さんの人生にとっては対症療法でしかないのだということを改め て認識した次第です。樹をみて森を見なかったのです。﹂と言われ、人間全体を見てなかったと反省されている。 国民の

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割以上が病院は施設で亡くなるという時代をむかえています。多くの死、即ち老病死の現場が病院であり、 これまでの救命・延命の治療をする教育を受けてきたスタッフによって支えられた場で十分に配慮のされた対応がな されるかどうか疑問であります。まして大学卒業以来、医師としての約

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年間の経験で老表による自然死を診る機会 がなかったという医師も多くいるということは問題であると思われる。

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仏教への関心の薄さ 医療者の関心事は医療に応用できる最新の知識や技術であり、日進月歩の進展に遅れないように努力をされている。 日本は仏教国と言われながら、医療と同じ課題、生老病死の四苦に取り組む仏教への関心は低い現実がある。 日本社会全体が脱宗教の世俗化の動向が強く医療もその影響を強く受けている。その為に世界保健機構(巧国 O ) の健康の定義にスピリチュアルの要素が入るという動きに対して、国としてどう対処するかの有識者の審議会で寸無 宗教の私には、そういう動向は医療界にとって迷惑だと考える﹂という発言に象徴されるように、ものごとを対象化 して客観的にみて思考を構築してきた医療界には、宗教への理解が少なく、協力関係を構築することは困難な仕事で あると恩われる。 科学的合理主義の思考の延長線上の考えで、仏教は自分の理知分別の理解の内にあるものだという発想を抜け出る ことが出来ない。そして自分の思考を超えた領域や思考の無明性を認めるのに抵抗を示す。病気の治療のためにはあ らゆる情報・技術を駆使して治療に取組む姿勢は尊重されるべきであるが、病気の人の苦しみ、悩みの救済にあらゆ る情報・哲学・宗教をも動員して患者の救いに取組むことに関しての姿勢に欠ける嫌いがある。自分の思考の足りな

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さ、視野の狭さを謙虚に受け止める人間としての幅の広さ、深さが不足しているにもかかわらず、診療において寸自 分たちは十分にやっている﹂という倣慢になる傾向が見られる。 仏教の教える内観の世界への理解や関心は一段と薄く、自分の身体を取り巻く外の状況に関心は集中している。そ して人間の幸・不幸は人間を取り巻く外の条件が決めるという発想で、生さることの意味や物語性に気づく宗教性へ の関心は薄く、即物的な寸健康で長生き﹂への執われが強い。

第二章

医療文化の課題に仏教はどう対応するか

世俗の人々から見えてくる仏教は葬式を代表とする死者儀礼である。人びとの仏教への関心と言えば観光の対象で あり、美術品としての仏像や歴史的な事象としての仏教であることが多い。仏教に対するイメージは初詣やお盆の行 事であり、願ごとを祈ったり、死後の法要やお一遍路さんなどである。人びとの仏教に対する理解・関心は浅く、少な く、まして、仏教の教える救いの陪り、信心の内容に関しての理解は極めて少ない。 生老病死の四苦に直面して、世俗的な思いや病気平癒を仏教に願う人は多いが、仏教に真の救いを志向する人は少 ない。仏教関係者が医療現場で患者から生老病死の四苦の課題の質問を受けたときに具体的にどう対応して良いか分 からないと、医療現場での医療と仏教の協力への取り組みに蹄踏する僧侶も多い。仏教が本物かどうか、本当に四苦 を超える道としての力が試される場としての医療・福祉の現場があると思われる。 仏教関係者も現代の医療現場で老病死に直面している患者、そしてその四苦に取組みストレスに曝されている医療 者の現実の場では宗教的な需要が潜在的に多いと認識を新たにして関心をもって解決の道に取組んでいただきたい。 日本社会は自分の心の内閣を見る視点、即ち内省・内観ということへの認識が低く、内面的な悩みは私的な領域とし て、四苦のストレスに曝されている医療・福祉の現場での受け取りは、個人的な課題として公的な場で問題にするこ 現代日本の医療文化と仏教文化(問畑)

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龍谷大学論集 と は 少 な い 。

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治療という概念に対して 人生の全体を僻敵した時、人間として生まれ、世間生活をし、老い、病み、そして死んでゆくことは自然な現象で ある。人間の身体はその生老病死の現実を受け止めて生ききってゆくのですが、人間の分別が、その事実をなかなか 受け取れないのです。そして老病死はあってはならないことだ、元気な若々しい身体が本来の姿である、として治療 という概念の医療を展開させている。一方看護の概念。﹀同開は老病死するのが人間の自然な経過であり、老病死す る身体を、﹁お世話する﹂のが看護であるという概念で人間の全体像を正しく看る視点で医療を展開させている。 現実の医療界では医師の治療の概念での医療の活動が主導的であり、老病死を受け取らないで病気を対治する対象 と見なしてしまっている。 そんな医療界の中でも、緩和医療の展開が進むにしたがって人問、そして生活全体を視野に入れた医療の展開も出 て き て い る 。 人間存在を仏教の基本の考え、縁起の法によってみると、ガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して、今、ここ に私という現象の如くに存在している。そして一利那ごとに生滅を繰り返している存在であると教えている。別の表 現でいうと時間的・空間的に無量の要素(因や縁)によって生かされている、支えられている、願われている存在で あるということである。 人間を﹁欲望する存在﹂であると表現する時、治療は自然の展開(老病死)に逆らって人間の分別の思い 死の欲望)を実現する取り組みになっている。一方、仏教の救いは寸存在の満足﹂に導くものである言うことができ る 。 ( 不 老 不

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存在していることを当たり前の事実をして思考を展開させるならば、次には﹁思いや欲望﹂の実現へ向きますから ﹁欲望の満足﹂を目指すことを避けられません。現代の医療は人間の欲望を充足させる方向に展開されている面が強 い。そうすればその先には、死の先送りか、死という医療の敗北しかないことになる。 仏教の智慧によって寸存在の満足﹂の目覚めに導かれる者は、﹁今 L 、生かされている事実を大事にして生かされて いることで果たす役割・使命に気づき、自分に﹁与えられた仕事を精いっぱい果たして生きます、南無阿弥陀仏﹂と なる。その後の展開はご縁次第に寸お任せしということになるであろうロそこに老病死への執われを超えさせていた だくのである。そして﹁健康に老い、健康に病み、健康に死んでいく﹂という世俗の常識を超えた世界が展開す&。 仏の心を受け取った念仏の生活では、この世での仕事が終わったら、ちょうど良い時に仏が浄土に迎えとってくれ る、お任せしますとなり、﹁人間に生まれでよかった。生きてきて良かった﹂と生ききる世界に導かれる。老病死は 先送りしたいことは多くの者の願いでしょうが、それはご縁のままに対応すればよいことです、何が何でも健康で長 生きという思いに囚われることは少なくなるのである。

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廃品とすることに対して 世俗の社会を生きる私たちのモノサシは、名聞・利養・勝他であり、それに役に立つ・立たない、迷惑をかける・ かけない、利用価値がある・ない、などでしょう。しかし、仏智に照らされて明らかになる我々のあり方は、﹁存在 の満足﹂の世界である。多くのいのちに支えられ、生かされておりて、仏より仕事が与えられているのである。生か されている、支えられている、願われているということは必ず、役割が与えられていることの気づき、目覚めへ導か れるのである。信心を頂く世界では、生死を超える世界であるから世俗のモノサシに振り回されることは少なくなる。 いのちのある限り、仏より頂いた使命・役割・仕事を精一杯生きます。与えられた業を念仏して果たして生きます、 現代日本の医療文化と仏教文化(悶畑)

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龍谷大学論集 四 と生ききることへの勇気を頂くのである。本願・念仏の心は、﹁役に立つとか迷惑をかけるとか、そんな小さな殻を 出て、大きな世界(仏の世界)を生きよ﹂との呼びかけであり、それを実現する道と歩む勇気を与えてくれるのであ る

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智慧のない分別は身体への責任を全うできない。 我々の分別は自分の思いを通して思い通りにしたいという意思のために、自分に都合のよいもの、確かであり信頼 できるもの、自分の管理できるもの、自分の意のままに動くものを自分の周囲に集めながら、物事を実行しようとし ま す 。 私の周囲の状況、即ち、園、住居地、生れてきた家、両親、自分能力、家庭環境、時代状況、社会状況、経済状況、 身体状況、文化状況などは、私が自分の人生に責任を持って生きていく上で好ましい条件は整っているでしょうか。 私の思うようにならない現実に出遇うときには愚痴が出てきます。まして、私の身体の老病死がらみの課題に直面す ると、﹁何で私が、こんな病気に L 寸人生の予定が狂った﹂﹁死んだら無になるのか﹂などという気持ちが出てきます。 理性・知性の分別は自分に都合の悪い現実や状況を出来るだけ避けて生きていこうとしてきたために、現実にそう いう状況に直面すると当惑して右往左往して愚痴がでてきて苦悩することになります。仏教が教える寸惑・業・苦﹂ の迷いの連鎖を繰り返し、迷いに振り因されることになっている。 身体の方は現実を受付とめているのに自我意識は現実を受け取れずに迷い、遂には寸運命だ﹂などと責任放棄の愚 痴を発することになっている。 自分の分別の愚かさに目覚め、智慧をいただく歩みに展開することが願われる。自分の現前の事実を自分に与えら れ現実と受け止め、その状況に囚われなく、智慧をいただき、悪業を転じて善業と成し完全燃焼の人生を生ききる道

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へ導かれることが願われる。

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死亡診断書の問題点 超高齢者が自宅で家族のみまもりの中でなんとか自立の生活をしていて、何らかの原因で風邪から肺炎を併発して、 入院治療を受けた。その入院治療から寝たきり状態になるも、小康状態を得て本人の希望で自宅退院した。自宅での 生活を介助を受けながらしていた。発熱したとの連絡で往診依頼を受けて訪問診察を行った。はっきりした原因にな る異常所見が無く、経過を診ていきましょうと家族に説明する。翌日患者の呼吸状態がおかしいと連絡があり患者宅 に往診した。呼吸状態が悪く、全身状態から老年症候群と思われる状態悪化と判断された。その 1 時間後に自宅で穏 やかに死亡した。このような場合死亡診断書を書く時に死因の病名を特定するのは難しい。老衰と言う死亡原因は、 他に病気がないという前提での自然死を示しています。他に病気がないという証明は難しくて、死因は寸不詳﹂と書 くのが一番合理的であるかも知れません。 全身状態が老年症候群で弱っていき、肺炎を起こして一段と悪化、小康状態になる。かろうじて生命現象を保って いたが、何らかのきっかけで発熱、それが追い打ちをかけるように患者さんを死に導いたというのが、あるがままの 状況であろうと思われる。死亡原因を何か一つの病名に決めつけることの難しさがあるが、これは死亡原因を特定の 疾忠で表現するということのジレンマではないでしょうか。国の厚生行政のための書類であるから仕方がない一而は あ り ま す 。 しかし、人間が死ぬという一番の原因は﹁人間として生まれた L ことであるという人間の生命現象の全体像、その 中の加齢現象を正しく把握することが人間の人生の全体を文化的に考える上では大切ではないだろうか。医療の世界 で死因とされる種々の疾病や外傷は、死亡原因と考えるよりは、それは死亡する一つの縁と考えるほうが全体像を正 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑 五

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龍谷大学論集 一 六 しく把握していると思われる。医療文化の中で死因を診断することが人間の全体像を把握しているのではなく、仏教 の教える人間として生まれたことが死ぬ根本の原因であり、医療の世界で考えられている死因は、本来は死の縁であ るとの認識がなされるべきでないだろうかロ

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老病(死)の受容の困難性 在家から僧侶になり後天的に眼の障害を持たれた人が、障害の受けとめの歩みを次のように発言されている。 (前略)、まだ片目が見えていたこと寸両目さえ見えれば絶対に他人に負けない﹂、ずっとそう思って、高校時代に思 いが破たんした。死にたいと思った時、﹁あなたが苦しいのは片目が見えないからではなく、幻を追いかけているか らです。片目が見えないのがあなたなんですよ。そのあなたがかけがえのないものとして生きることを如来に願われ ているんですよ﹂と、教えてくれた真宗の僧侶がいました。教えに出遇うというのは、そこに本当の自分を見い出す ということですロありのままの自分です。不満であるかもしれないけれど、それこそが生さることを願われたかけが えのない、﹁私﹂なんです。 私は目が見えるようにしてあげるという様々な宗教の勧誘を受けました。でも寸仏説無量寿経﹂の寸下巻﹂に、 寸回あれば回を憂う。宅あれば宅を憂弘﹂とあります。要するにあればあったで憂うです。私たちはあってもなくて も憂うのです。人間の板本の悩みや苦しみというのは条件ではありません(苦悩の原因は外の状況ではないという 意)。かけがえのない私を摂め取って捨てない知来の本願をいただげない限り、苦しみは続きます。目が見えるよう になったらなったで、また別の苦しみがでるのです。 私はどこへ行くのにも白杖を突いて、ゆっくり歩くほかに方法がありません。たくさんの車やバイクが、私を追 い越して行きます。しかし白杖を突いて歩く人と、車やバイクを運転できる人とは、同じ価値です。速度が違うだけ

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です。条件はみんな違うけれど、同じいのちを生きる人なんです。そのことは私たちの思いを超えて、身が証明して い る ん で す 。 片目が見えていた頃、全盲の人が杖を突いて歩いているのを見て、私はあんな器用なことはできないと思っていた。 でも、中途失明したら程なく出来るようになりました。身は条件の変化を受け入れるのです。そうなった自分を心が ちゃんと受け入れて、掛け替えのない私として大切にしていけるかどうか、そちらの方が問題です。 寸死にたい﹂と苦しんでいる人に寸それくらいのこと、なんでもないじゃないか﹂と言って、苦しみを忘れさせよ うとしても、そんなごまかしは、何のカにもならんのです。(後略) 世俗の物差しで自分の直面する老病死の現実をはかれば、マイナス要因です。世俗の考えでは、それらがない方が よい、そうならないように努めて生きています。その為にその現実を受け取ることを難しくしている。自分の囚われ ている現実、智慈のない無明性に気付かされていく歩みが願われます。本願、南無阿弥陀仏の心は寸世俗の囚われの 小さな殻を出て、大きな仏智の世界を生きよ﹂というはたらきである。 我々は普通、死は生まれて生きる、その日常生活の延長線上の先にあると考えるが、仏教では死に裏打ちされて生 があり、生死一如と教えている。現実には我々は寸死を背負って生きている L の で あ る 。 生きていることが輝くの はいつでも死の可能性を秘めて、今、ここに、生かされていることだと教えてくれている。 キリスト者の柏木哲夫氏はホスピスで多くの人を看取って、私は﹁矢先症候群﹂という一連の症候群があると気づ いた、これはもちろん私が勝手に名付けたもので、正式に認められた病気ではない、と書かれていて寸矢先症候群﹂ と言うユーモアの言葉でそのことを教えてくれてい&。あるがままをあるがままに見る智慧の目による老病死の受容 は我々をイキイキした人生に導いてくれるということを教えてくれている。 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑) 七

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死への対応 物事を対象化した思考の客観主義、事物や自然の普遍的な法則を見つけて考えたり、要素還元主義的思考では人間 のいのちは死によって消滅すると考えることが一般的である。人生の到達点がそのような死であるという事実から、 生きることの意味付けを持つことが出来ずに、虚無主義的な種々の感情的な反応が引き起こされている。 不治の病だと分かったあと、どうしたら人は再び生きる力を取り戻せるか。残りの生を力強く生きようとするカが 失われてしまうのは、何のために生きてきたのかという寸意味の喪失﹂や未知なる死の不安・恐怖に密接な関連があ ると思われる。恐怖や苦痛と共に今を生きている意味、そしてこれまで生きてきた意味を十分に実感できてはじめて、 死の恐怖や悲しみを乗り超えていく可能性を見いだすことができると思われる。生きる力とは生きる意味、そして生 きる意味とは他者からの承認が大きな意味となる。 医療人の多くは、死はあってはならないことだと考えたり、死を見ないようにしてきた。同時に死とは人間一人ひ とりの個人的な事柄であるとしてきた。そして死を先送りすることしか死の課題の解決はないと考えている。その大 きな要因は対象化の思考によると思われる。対象化の思考はどうしても相手を向こう側に見る視点に重点が置かれて 自分を見る視点においてどうしても表面的な範囲に留まり、心の内面の深さ、幅広さにおいては仏教に及ばないと思 われる。そのために生物学的な死を扱うことはできても意識や心といわれる領域の死というものを対象化することは 難しいので、ほとんど触れないか私的なものとして、除かれる傾向がある。自分が除かれるということにおいて、人 間という現象の全体像を見る視点において課題を残している。 仏教の智慧(無量光)で知らされる私の全体像は、客観性という面を超えた目覚めの視点であるが人間の過去現在 未来に渡る人生の全体像を豊かに味わえる物語りとして気づかせてもらえるのであふ。 死は誰もが生きているうちに経験できないことであり、死んだ人からの経験情報を知ることも不可能である。その

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為に﹁死や死後のことは分からない﹂というのが正しいと思われる。知らないことや仮説を前提として思考している いつの間にか確かのものとして扱っていくことの倣慢さや愚かさに気づいたり、目覚めたりすることが大切 も の を 、 で あ る ロ 例えば、医療現場で生命現象を観察すると老いによってしぼみ、病によって傷つき、死によって滅びる生命現象が 見える。その見方の無明性、我見であることに仏智によって気づき、目覚めさせられる者は智慧、即ち念仏の生活者 は死をも超える世界に導かれるのであ&。

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仏教への関心の薄さ 医療が取り組む課題、生老病死の凶背に仏教は二千数百年の取り組みの歴史があり、生死を超える道として解決の 智慧の世界を文化として持っています、しかし、現代社会の中で見える仏教は死後の葬儀や法事であり、生きた人間 を相手とした仏教活動がすくない。まして先祖供養や願いごと成就を祈ったり、願を懸けるのがあたかも宗教活動の ようにマスコミなど報道される仏教的な知識のなさは日本人全体の宗教文化の浅薄さを示しています。 公的教育では宗教の内容にはほとんど触れず、表層的な宗教情報や世俗の宗教行事からの知識が宗教というものへ の理解をゆがめたものにしている。そのために多くの医療関係者は老病死の課題に直面したときに、その解決方法を 宗教にも尋ねようという動機付けになるようになっていないという現実がある。そのことは医療界には不幸なことで そしてその内容についての関心をもってもらう方向性へのと ある思われる。仏教関係者には国民全体への仏教知識、 りくみのいっそうの努力が求められていると思われる。 日本の現代までの歴史的なしがらみのなかで公教育の中で仏教を教えることは困難であることを考えると公教育以 外での家庭教育、 お寺での取り組み、 いのちの教育、生命倫理教育などでの種々の機会をとらえての仏教の生きた人 現代日本の医療文化と仏教文化(田畑) 九

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を相手した、苦悩に寄り沿う仏教の正しい知識の普及が願われる。 医師や看護師などの生老病死の四苦に関わる医療関係者の教育の中では普遍性のある哲学・宗教教育を常識レベル でも持ってもらう必要性があるのではないだろか。 三木清は人生論ノ

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トの中で﹁幸福とは人格である L と表現されていふ。哲学、宗教に深い素養を持っていた人の 発言は貴重である。幸福な人格とは仏教の智慧を身につけた人格を示唆している。我われは自分の存在を当たり前の こととして考えがちであるが、自分の存在は智慧の目で見るとき、多くの命ある存在を含む因や縁によって生かされ ている、支えられている、願われている、教えられている存在であり、﹁有る事難し﹂の存在である。今村仁司はそ れを寸存在の満足 L という言葉で表し仏教の救いの構造を分かりゃすく表現している。

第三章

医療文化と仏教文化のあるべき姿と今後の期待される展開

医療と仏教は同じ生老病死の四苦を課題としているのに両者の協力関係がうまくいってない日本文化の状況は、世 界に誇る長寿社会を迎え、物質的な豊かさは世界の国々がうらやむ程であるのに国民の満足度や幸福感は低いと報告 されていることに大いに関係があると思われる。 医療を取り巻く医療文化と仏教を取り巻く仏教文化を並列的に比べて両者の協力関係構築に向けてどうするかと問 題点を考えていたが、両者の質を考えたとき並列的協力関係ではなく重層的な関係にあるのではないかと気づくよう になってきた。今村仁司氏が人間を寸欲望する存在であ

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と定義されていることはその構造を示唆している。現代 医療は人間の健康になりたい。長生きしたという思いというか人間の欲に応えようとする営みである。一方、大乗仏 教、浄土教の救いは、見える命は見えないいのちによって支えられている、生かされているというように﹁存在の満 足 L への気づき、目覚める世界と言うことができる。

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仏教は我われの日常生活の﹁縁の下の力持ち﹂みたいに人間存在の基本の基礎を支えている領域への目覚めである、 即ち目覚めによって知らされる仏教文化の基礎の上に我われの世俗の生活が営まれているということができるが。多 くの人はその表面的な世俗の領域のことしか目にせず、見える世界で充分だという我見に囚われてしまっている。 前に記してきたように、科学的合理主義に主に準拠した医療文化は種々の課題に直面しているがその解決の方向性 を、現在の思考の延長線上に見出そうとしても、思考方法の限界というものがあると思われる。仏教の教える﹁生死 を超える﹂という世界へは届かないように思われる。 (生活)、老いる、病む、そして死という人間存在の根本的な課題を、考えるのは 人類の英知を総動員して思考すべきであると考える。そのためには人類の先人の気づき、目覚め、そしてその展開を なさしめてきた人類の文化の蓄積から説かれた教え、智慧の世界を受けとめて人類の課題、生老病死の四苦を超える 課題へ答えを模索すべきではないないだろうか。 まして人間の生まれる、生きる それは対象化を超えて自分の内面をも見通した視点で、自分を含めて 全体を見る仏教の智慧の観点から全体を見通した見方と表現せざるを得ない世界である。 人間存在の基礎の部分を明らかに見る視点、 医療文化の多くの展開で人類に恩恵をもたらしている内容が、重層的に仏教文化の基礎の上に更に展開されるなら ば、医療文化がより生きた機能するものとなると忠われる。そして医療と仏教の関係者の取り組みも両者の協力関 係・補完関係が発期されてみのりあるものになっていくであろう。そして当事者の生きがい、働き甲斐に結実してい くことが思われる。それは日本の社会全体の文化、そして医療への大いなる貢献となるであろう。 志 A m と

同じ生老病死の四苦に取組む医療と仏教が協力関係がうまくいってないということは国民にとって、 そして医療関 現代日本の医療文化と仏教文化(問畑

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龍谷大学論集 係者、仏教関係者にとって不幸なことである。種々の医療現場での具体的は事象は両者の協力関係構築への潜在的な 需要があることを示してると考える。 両者の生老病死の四苦への対応の内容を考えてみると、両者は並列的に四苦の解決の方向を志向しているのではな く、医療は具体的な現象として出現している一人ひとりの老病死に対して即物的な対応を実施している。しかしなが ら、治療は如何に順調に経過して成功であっても、人間の人生の全体を備敵する時、結果として死を免れることはで き な い 。 仏教は人間存在の基本的な基礎の領域での理性、知性の思考の問題点を見破って、目覚め・気づきの観点から生死 を超える質的転換を教え、生老病死の四苦を超える世界を教えてくれている。 医療と仏教は対立や競合する関係ではなく、仏教の思考は医療の思考を包含する幅の広さ、深さを持っており、科 学的な合理思考の底辺を支える基礎の思考を構成していると思われる。その為に科学的合理主義の医療文化が華聞き、 質的・量的に実のあるものを成就するためには仏教文化の基礎の元に医療文化が展開することは望ましいロ仏教文化 の基礎の上に医療文化がはたらきを成就していくならば、一人ひとりの患者が﹁人間として生まれでよかった。生き てきてよかった﹂と人生を生き切り、患者の苦しみに対応する医療関係者も仏教関係者も患者に寄り添いながら、患 者から学ぶところも多くなり、仕事をしていく充実度も向上していくだろう。 駐

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死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル、厚生労働省、平成二二年

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著者自身の経験ですが、卯歳の男性が寝たきり状態で地域の中核病院の医師会病院から転院して入院してきた。意識障 害、寝たきり状態、四肢の拘縮あり、経胃痩経管栄養状態である。入院するときに、療養型病棟に入院して来る患者は既に 全身状態が良くなくて寝たきり状態になっているので当院では不自然な延命処置や気管挿管での人工呼吸、心臓マッサ l

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ジなどの蘇生術はせずに、看まもりを主にしていますのでと、説明をして入院していただいていた。 転院入院して 2 週間ぐらいした時に、忠者が幅吐をされた。幅吐した場合、意識障害、四肢拘縮、寝返りも打てない状 態ですから、吐物が口の中に留まり気道にトラブルを起こします。看護師さんが気付いて口の中をきれいにして気道の吸 引などの処置をしながら、主治医の私に午後 7 時頃連絡があり、すぐに病院は駆けつけた。おおむね処置はしてくれてお り、口腔内と気道に明らかな異物をないことを確かめて、顔色が悪いので酸素を毎分 3 リットルをマスクで送るようにし て経過をみましょうと看護師に話をして、家族にもその旨を電話し

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経過を見ることにした、その後は看護師に任せて帰 宅しました。 夜も叩時過ぎ病院の看護師から﹁忠者の三番目の娘で看護附をしている人が吋医者を呼べ L と叫んでいます L と電話が あり、すぐに病院へ行きました。数人の家族が側主の中におり、思者の顔を見ると顔色が先ほどより悲く、忠者の状態は 悪くなっているのが分かりました。入院時にか看まもり。でと話をしていたので何もせずに同室していると、看護師をし ている娘さんが﹁先生、酸素を 5 、 6 リットルではなく、どうして 3 リットルなんですか﹂と私に言う。マスクで酸素吸 入するときは供給酸素を上げても気道に行くときには酸素濃度はわずかしか上がらないので、みまもりと言うこともあり、 毎分 3 リ ッ ト ル で 経 過 を み て い た の で す 。 そ れ で 希 望 通 り に 6 リットルに上げた。すると今度は﹁この病院は酸素吸入 をするときに加湿器を使わないのですか L と貧弱の病院設備をさげすむような口調で私に言う。そういう治療を.長期にす る想定をしてない病院ですからと説明するが、不満気味である。しばらくすると寸どうして点滴(静脈注射)をしないの ですか﹂と私に不満をぶっつけてくる。家族の意向に沿って何とか苦労して細い血管を探して点滴を開始した。 患者の状態が次第に悪くなり、ある家族が﹁じいちゃんを呼び戻さないと、あっちに行ってしまうぞ﹂と、﹁オジ l チャ ン L と家族が口々に大きな声を出す。他の家族が守ここにいては死んでしまう﹄と言い、大きな病院へ行かなければと 寸医師会病院へ転院させてくれ﹂という。 医師会病院から紹介で転院してきた忠者さんであったのですが、夜中で全身状態の思い忠者さん(老衰に近い忠者さん でもある)を紹介しても、医師会病院でも医師や看護師が潤沢にいていつも用意して待っているわけではないので、高齢 者の老衰に近い患者をこの時間に紹介するのは私にはできません。家族がどうしてもと考え、個人的に前の主治医にたの むのだったらそちらでして下さい、と私は話をした。 しばらくすると別の家族が医師会の病院の医師が良いと連絡がついたと言ってきた。事情を説明して医師に伝えようと、 現代日本の医療文化と仏教文化(凹畑

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龍谷大学論集 二 四 改めて電話したら、その医師はこの時間帯に老衰に近い患者の終末をどうして医師会病院へ戻してくるのか、と言わんば かりに言われた。その気持ちは十二分に分かった。再度病室にいって患者をみると呼吸状態が悪く、搬送の途中で心肺停 止の状態になりそうなので、その旨を家族に説明して、そのまま私の所でみることにした。被害妄想かも知れないが家族 の私を見る視線が﹁ヤプ医者 L そして﹁こんな程度の低い病院﹂とみるような視線を感じた。その後、呼吸状態が悪化し た。日ごろは最後に人工呼吸はしないのだが、延命の人工呼吸が期待されているように感じて、人工呼吸を儀式的にして、 その叩数分後に死亡したことを家族に告げた。

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﹁ 平 穏 死 L のすすめ、石飛幸三著、講談社、二

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厚生省大臣官房厚生科学課。 WHO 憲章における﹁健康﹂の定義の改正案について。第 M 回厚生科学審議会研究企画部 会議事録。一九九九年。

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﹁なぜ、今、仏教が医療・看護・福祉の領域で求められているのか﹂田畑正久、真宗学、

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号、平成二二年三月、引│

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頁 。

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寸健康であれば幸せか﹂駒沢勝著、法蔵館、平成一二年

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-治す医療から生活を支える医療ヘヘ第日回日本緩和医療学会の新聞記事から、週刊医学界新閥、ニ

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一一年八月二二 目、医学書院

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医療と仏教の協力、田畑正久、りゅうこくブックス、 Z 。 ・ H N N ・ M N l m 頁、ニ

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ω

浄土真宗聖典、註釈版日頁

ω

願われて生きる、教えに照らされた生活、田口弘(ひろし)寸なごやごぼう L ( 名古屋御坊新聞、真宗大谷派名古屋別 院 ) 、 二

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七 年 二 月 一

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日 、 第 側 号 、 3 頁 。

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矢先症候群、柏木哲夫、緩和ケア︿己・ M0 ・

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。 ・ N ・ NOHO-ml 削頁、ホスピスで仕事をしている時、患者の病歴を聞くな かで、寸仕事も一段落ついて、これから人生を楽しもうとしたやさきに、::・::こんな病気になりました﹂ということが 多かったので正式な名前ではないが﹁矢先症候群﹂という表現をしたと脅かれている。 ご主人がホスピスへ入院した日に奥様が、﹁主人は会社人間でこれまでずっと仕事一筋でした。昨年、定年を迎えてほ っとし、二人で温泉へでも行ってゆっくりしたいと思っていた矢先にがんで倒れました﹂と言われた。典型的な矢先症候 群である。また、奥さんがホスピスへ入院した日にご主人が、﹁家内は 3 人の子供をしっかりと育ててくれました。昨年、

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末の娘が結婚して家を出て、夫婦二人きりになりました。ほっとして温泉でも行きたいねと話し合っていた矢先にがん で倒れました﹂と言われた。これも一つの矢先症候群の例である。矢先症候群は我々が﹁死を背負って生きている﹂何よ り の 証 拠 で あ る 。

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﹁緩和ケア・哲学﹂、新城拓也、苫野一徳、緩和ケア、 g F N F Z 0 ・P N E H 年、制頁

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医療・福祉の現場で求められる寸物語性﹂についての考察、田畑正久、真宗学、

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号、平成二三年三月、

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凶 買

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﹁死とは﹂池田品子著、毎日新聞社、ニ

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九 年 、

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頁 回信心をいただき、念仏を生きるものは、老いによってしぽまず、病によって傷つかず、死によって滅びない、南無阿弥 陀仏の念仏を生きる存在へと導かれる、その詳細は別の稿で考察する予定 側人生論ノート、三木抑制、新潮文庫 間前沢満之の思想、今村仁司、人文書院、二

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三年 キーワード 医 療 仏 教 文 化 現 代 日 本 の 医 療 文 化 と 仏 教 文 化 ( 田 畑 ) 二 五

参照

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