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松尾芭蕉の足跡を訪ねて八幡橋を渡り 八幡宮の裏手から清澄通りに出 小名木川に架かる海辺橋の袂に松尾芭蕉が奥の細道に旅立った採茶庵 ( さいとあん ) が再現されています 松尾芭蕉は 後で私たちが訪れた芭蕉庵を手放し 弟子の杉山杉風 ( さんぷう ) の援助を受け 採茶庵に住み ここから奥の細道に旅立

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Academic year: 2021

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東京散歩

粂川芳広 社友会会報No.67にてご案内した第三回の東京散歩を11月5日に行いました。 今回は、下町に江戸を探し、今東京で最も話題となっているスカイツリーを近くから見た後、浅草 で電気ブランを飲んで明治の風を味合うという3つの時代を散歩するという企画でした。 13時に塩地さん、山崎さんと東西線門前仲町駅で待ち合わせ。この企画も今回で3回目となります が、いずれも晴天に恵まれ、今回も初冬とはいえないような温かな晴天に恵まれた日となりました。 この稿では、私がお二人をご案内した箇所を皆様にもご紹介する形で書いてみます。 深川八幡宮 散歩の初めに深川八幡宮にお参りをすることにしました。深川八幡宮は、徳川家光の時代に創建さ れ、地元っ子は「深川の八幡様」と呼んでいます。この八幡様のお祭り(土地っ子は富岡のお祭りと呼 んでいます)は、大小120基ほどの町神輿が担がれ、江戸三大祭の一つといわれています。 尚、ここで話を横道にそらすことになりますが、この江戸三大祭は、神田明神、日枝神社(山王祭) の二つに加えて、富岡の祭りを入れるか、浅草の三社祭を入れるかで、意見が分かれています。この あたりの事情について話をしていくとかなり長くなるので、ここでは割愛しますが、司馬遼太郎の街 道をゆく第36巻「本所深川散歩」の深川の富の項に深川八幡宮のことや深川っ子が富岡の祭りを東京 一の祭りだと思っていることなどが書かれています。 深川八幡宮は、日本地図を完成させた伊能忠敬(彼は八幡宮からほど近い黒江町に住んでいた)が測 量に出かけるときに必ずお参りしたところで、数年前に鳥居の脇に伊能忠敬の像が建てられました。 伊能忠敬像の少し先に、一の宮と二の宮の本社神輿がガラス張りの建物に飾られています。特に一の 宮神輿は重さ約4.5トン、飾られている宝石がすごく、ダイヤが鳳凰に7カラット、鳳凰の目に左右4カ ラット、鳳凰の鶏冠にルビー2010個等が使われています。 また、深川八幡宮は、江戸で初めて勧進相撲が行われた場所でもあり、その関係で境内には大関力 士碑、横綱力士碑があり、石碑に歴代の大関、横綱の名前が刻まれています 富岡八幡宮 伊能忠敬像 八幡橋(旧弾正橋) 深川八幡宮の裏手には、緑道公園を跨ぐ赤い鉄の橋、八 幡橋があります。この橋は、以前は中央区にあった弾正橋 を移設したもので、日本で最古の鉄橋といわれ、国の重要 文化財に指定されています。 横綱力士碑

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松尾芭蕉の足跡を訪ねて 八幡橋を渡り、八幡宮の裏手から清澄通りに出、小名木川に架かる海辺橋の袂に松尾芭蕉が奥の 細道に旅立った採茶庵(さいとあん)が再現されています。松尾芭蕉は、後で私たちが訪れた芭蕉庵を 手放し、弟子の杉山杉風(さんぷう)の援助を受け、採茶庵に住み、ここから奥の細道に旅立ったので す。 芭蕉庵は、ここから北へ行き、小名木川と隅田川の合流する場所にありましたが、芭蕉没後は武 家屋敷となり、江戸切絵図では尼崎松平紀伊守屋敷の中に「芭蕉庵ノ古跡庭中ニアリ」と書かれて います。このように芭蕉庵の跡地は、所在が不明となっていましたが、大正時代の高潮被害(大正の 大津波と呼ばれています)で芭蕉が愛好していたとされる石蛙像が発見されたことを契機として芭蕉 庵跡に芭蕉稲荷が祀られました。芭蕉稲荷は、江東区芭蕉記念館の脇を入る小さな祠で、石の蛙像 が三体置かれています。また、小名木川が隅田川に合流する場所の高台に芭蕉跡庭園があり、芭蕉 座像が置かれています。また、この芭蕉史跡跡庭園からはドイツのケルン大吊橋を模したといわれ る清洲橋が眺められ、ここで一休みすることにしました。 採茶庵跡 芭蕉史跡跡庭園(芭蕉像と清洲橋) 芭蕉史跡跡庭園 芭蕉記念館前の芭蕉の木

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深川めし 芭蕉の足跡を訪ねるの項を先に書いたので、我々の行程では少し前後してしまいましたが、採茶庵 跡を訪ねた後、清澄通りを北上し、清澄庭園(紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、その後岩崎弥太 郎が買いとって社員の慰安や貴賓客を招待する場所とした庭園)の前を右折して、寛政の改革を行った 松平定信の墓のある霊厳寺を過ぎたところにある深川江戸資料館を見学に向かいました。資料館に入 場する前に、まだ昼食をとっていない塩地さんと山崎さんに深川名物深川めしを味わってもらいまし た 深川めしは、元来気の短い漁師が手早く食事をするために、ご飯にアサリ汁をかけたものですが、 最近ではいろいろな工夫が凝らされているようです。 お二人が食事をした深川宿 深川めし(深川宿HPより転載) 深川江戸資料館 深川江戸資料館は、江戸深川の町が再現されている資料館ですが、資料館の説明として私の拙い文 章より、上記で記した司馬遼太郎著・街道をゆく「本所深川界隈」の文章を引用した方が的確に伝わ ると思い、下記に示すこととしました。。 「そこに、江戸時代の深川の町屋のむれが、路地・掘割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され、再現され ており、吹き抜けの三階から見れば屋根ぐるみ見えるし、階下に下りれば店先に立つこともできる。 春米屋(つきまいや)とその土蔵、八百屋、船宿から、各種の長屋もある。火の見櫓もそびえてお り、また掘割には猪牙船(ちょきぶね)も浮かんでいる。水茶屋もあれば、屋台も出ており、すべて原 寸大である。」 展示室については、URL http://www.kcf.or.jp/fukagawa/に詳しい説明がありますので、興味のある方 はご覧になってください。

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回向院 芭蕉庵を出て、新大橋東詰を通過し、ひたすら両国方面へ歩いてきました。この界隈は、江戸時 代は幕府艦船の格納庫の御船蔵あったり、池波正太郎作の鬼平犯科帳の舞台となったところです が、今ではその面影はなく、何の変哲もない街並みが続いています。 両国橋を渡ってきた京葉道路を右折して少し行ったところに回向院があります。回向院は、明暦 の大火で焼死した10万を超えた人たちを葬らうために建立された寺院で、境内には多くの無縁の死 者を葬らうための碑が建てられています。さらに境内には、ペットの慰霊塔があり、その塔の脇に は愛犬・愛猫の名前を書いた多くの卒塔婆が置かれ、最近のペットブームを見ることができます。 回向院のもう一つ見どころ(?)は、鼠小僧の墓です。鼠小僧が義賊であるかどうかは別として、墓 石のかけらを持っていると「賭け事に勝つ」、「運がつく」、「金がたまる」などといわれ、墓を 削っていく人が多かったため、墓石は丸くなっています。そのため、今では墓石の前に削るための 石碑があるほどです。また、参詣者が願が叶うと塩を備えたという塩観音があり、名前にちなんで 塩観音の前で撮った塩地さんの写真をアップしました 両国橋 回向院 吉良邸跡 忠臣蔵で赤穂浪士が討ち入る吉良上野介の屋敷は、回向院からほど近く、道を数回まがったとこ ろに本所松坂町公園として屋敷の一部がなまこ塀に囲まれて保存復元されています。ここで閑題休 話をひとつ。講談や三波春雄の歌などでは、本所の吉良邸を本所松坂町吉良の屋敷と言っています が、赤穂浪士が討ち入ったころは、本所一つ目と呼ばれ、事件後本所松坂町と呼ばれたため、本所 松坂町と呼ぶのは間違いなのです。 吉良邸跡には、吉良上野介を祀った吉良稲荷や上野介の首を洗った井戸、討ち入りで闘死した吉 良側の人たちの名前を刻んだ銘板などがあります また、両国橋の袂には赤穂浪士の大高源吾の詠んだ「日の恩や忽ちくだく厚氷」の句碑が建って います。 塩地蔵と塩地会長

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本所松坂町公園吉良邸跡 大高源吾句碑 松坂町公園内 割下水と有名人 吉良邸跡を出た私たちは、時間の関係もあり、両国三丁目より緑三丁目までバスに乗って移動した のですが、私たちがバスに乗ったあたりは、江戸時代道の中央を開掘した掘割が作られ、割下水と呼 ばれていました。本所割下水に周辺には葛飾北斎、三遊亭円朝、河竹黙阿弥等の今風の言葉でいえば 有名人が住んでおり、特に南割下水跡は北斎生誕の地にちなんで北斎通りと呼ばれていますが、実は 何の変哲もない街並みですので、私たちはバスでの移動としたのでした。 本所と勝海舟 私たちは、両国からバスで移動した後、整備された大横川親水公園を歩き、スカイツリーに向かっ たのですが、その道すがら本所と勝海舟についてご案内をさせてもらいました 勝海舟は、勝小吉の息子として本所に生まれ、生誕地の碑が、吉良邸跡にほど近い両国公園内にあ ります。勝海舟の家系には、優れた人が多く、勝子吉の兄の子供、すなわち海舟の従妹の男谷(おだ に)精一郎は、文武両道に秀で、江戸幕府の武道大学である講武所の頭取になっており、邸内には道場 があり、本所の男谷道場と呼ばれ、格式の高さで聞こえたものでした。 小吉は勝家の養子となり勝性を名乗ることになるのですが、勝小吉・海舟親子のことは、子母澤寛 の小説父子鷹(おやこだか)に描かれています。また、大横川親水公園のほぼ中間地点の西側に妙見堂 という社があり、勝親子が厚く信心したところとして海舟の胸像などが置かれています。 ここでまた閑題休話。大横川親水公園の蔵前橋通りを越えた先の東側にある報恩寺は、鬼平犯科帳 に度々出てくるお寺で、小説では報恩寺の門前に長谷川平蔵が剣の修業をした高杉道場があるとされ ています。 勝海舟と本所については、度々引用しています街道をゆく・本所深川界隈に詳しく書かれていま す。

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東京スカイツリー 大横川親水公園の北の終点を出ると東京スカイツリーが迫って きます。東京東部の多くのところから見える東京スカイツリーも 真下から見ると圧巻です。東京スカイツリーが最も間近に見られ る東武伊勢崎線業平駅近くの北十間川に架かる東部橋から撮った 山崎さんの写真をアップします。 東京スカイツリーは、本年5月に開業し、業平駅もとうきょう スカイツリー駅と名前が変わり、大リニューアルされるそうで、 この町を大きく変わることになるのでしょうか。 デンキブランを飲む 日が暮れて暗くなったので、私たちは業平駅から一つ乗った終点の浅草駅で降り、浅草の老舗 バー・神谷バーで今日の東京散歩の打ち上げをやることとしました。 神谷バーは、1880年創業、1階がバー、2階がレストラン、3階が割烹となっており、私たちは、2階 のレストランでおつまみを食べながらデンキブランを飲むことにしました。 デンキブランは、ブランデーをベースとしてジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされた カクテルで、デンキは、デンキブランが作られた時代にハイカラなものにデンキの名前を付けていた ため、ブランはベースのブランデーからとっています。デンキブランのアルコール度は当時は45度 だったそうですが、今は30度と40度の2種類があります。このように強い酒のため、チェイサーとし てビールを注文し、デンキブラン、ビールの順に飲んでいきます。塩地さん、山崎さんは40度のオー ルドを、私は30度のスタンダードを注文し、お二人は2杯ほど飲まれていました。 神谷バーを出たころは、日もとっぷり暮れ、また春に東京散歩をする企画することをお約束し、お 二人とお別れしました。 今回歩いたコースをすべて歩くとかなり長くなりますし、深川、本所共に他にも多くの名所があり ますので、お出かけになる場合はいくつかに分けて歩かれることもよいかもしれません。 浅草神谷バー

参照

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