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2月刊行予定 第 第 章 章 抱一の伝記 抱一の有年紀作品 光琳百図の基底 抱一筆 十二か月花鳥図考 抱一筆 十二か月花鳥図に おける和と漢 酒井抱一の芸術 微光感覚を中心に 鈴木其一の画業 光琳水墨画の展開と源泉 光琳二大傑作の源泉と特質 尾形光琳と大坂 光琳と能 光琳水波試論 光琳と

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◉ 日 常語 の な か の 歴史 10 む じ ゅ ん 【矛盾】 近藤好和 ◉ て ぃ ー た い む 装飾 と リ ア リ テ ィ ― 響 き あ う 琳派 の 美 河野元昭 ◉新連載   万博 が も た ら し た も の 1 メ タ ボ リ ズ ム と カ プ セ ル ・ ホ テ ル 橋爪紳也 ◉ エ ッ セ イ 伝統社会 の 識字・学 び ・ リ テ ラ シ ー 大戸安弘 陰陽師 が 使 う 式神 の 実態 を め ぐ っ て 山下克明 ◉史料探訪 58 百万塔と陀羅尼 辻本直彦

2014. 12 No.96

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思文閣出版新刊案内 (表示価格は税別)

風俗絵画の文化学

瞬時をうつすフィロソフィー

【 12月刊 行 】

松本郁代・出光佐千子・彬子女王編

▼ A 5 判・四三四頁/ 本体七、〇〇〇円 「 風 俗 絵 画 研 究 会 」 の 文 化 学 的 探求の研究成果をまとめたシリ ーズ第 3 弾。 風俗絵画の歴史的な実証に留ま らず、描かれた事象に織り交ざ る虚実を読み解くことで、鑑賞 されることを意識した美的な演 出や、儀礼や慣習から生じた絵 の上での約束事や仕掛け、信仰 のイメージや地域に根ざした特 殊 な 世 界 観 な ど と い っ た 人 間 の 営為 そ の も の の 原理 を 探究す る 、 哲 学 的 思 考 ( フ ィ ロ ソ フ ィ ー ) へと解釈を広げた 13篇。 【内 容】 瞬時をうつすフィロソフィー 出光佐千子   第 東西のエクリチュール 食事の情景 宮下規久朗 中華民国期の絵画における 「 風俗 」 への   まなざし 呉   孟晋 近代日本画肖像考 中野慎之   第2部 美のメディア 幕末風刺画の中の役者評判絵 倉橋正恵 上方役者絵における中判普及の背景 中野志保 円山派の美人画の展開 宮崎もも 出光美術館蔵「桜下弾弦図」をめぐる   いくつかの問題 舘野まりみ   第 演出のメカニズム 『古今和歌集』注釈にみる秘説の視覚性 松本郁代 「打出」 吉住恭子 「吉祥画」としての四季耕作図 松本直子   第 信仰のプラットホーム 狩野元信「釈迦堂縁起絵巻」 (清凉寺)   の制作をめぐって 森   道彦 四天王寺図についての覚書 米倉迪夫 サントリー美術館蔵 「 日吉山王祭礼図屛風 」   に見る中世の日吉祭 下坂   守

琳派

響きあう美

河野元昭著

▼ A 5 判・八五〇頁/ 本体九、〇〇〇円 日本美術史研究の泰斗、河野元昭氏による琳派研究の集大成。 光悦・宗達・光琳・乾山・抱一・其一など、琳派と呼ばれる芸術家たちが互 いにどう影響しあい、独自の美を生み出してきたのか。今もなお人びとを魅 了してやまない才能あふれるクリエーターたちの実像に迫る 26篇。 第 1 章   光悦試論 第 2 章   宗達関係資料と研究史 第 3 章   養源院宗達画考 第 4 章   宗達における町衆的性格      と室町文化 第 5 章   宗達から光琳への変質 第 6 章   宗達金銀泥絵序説 第 7 章   琳派の主題 ― 宗達の場合 第 8 章   宗達と能 ﹇ Ⅱ ﹈ 第 9 章   光琳水墨画の展開と源泉 第 10章   光琳二大傑作の源泉と特質 第 11章   尾形光琳と大坂 第 12章   光琳と能 第 13章   光琳水波試論 第 14章   光琳と津軽家 第 15章   光琳と乾山      │山根有三先生の墓前に捧ぐ│ 第 16章   渡辺始興筆「真写鳥類図巻」      について 第 17章   乾山の伝記と絵画 第 18章   乾山と定家    │十二か月花鳥和歌の世界│ 第 19章   乾山と光琳         │兄弟逆転試論│ 第 20章   抱一の伝記 第 21章   抱一の有年紀作品 第 22章   光琳百図の基底 第 23章   抱一筆   十二か月花鳥図考 第 24章   抱一筆   十二か月花鳥図に      おける和と漢 第 25章   酒井抱一の芸術          │微光感覚を中心に│ 第 26章   鈴木其一の画業    【 2 月刊 行 予定】 こうの・もとあき … 一九四三年秋田県生。京都美術工芸大学学長・東京大学 名誉教授・元『國華』主幹。

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◎日常語のなかで、歴史的語源 やエピソードを取り上げ、研究者 が専門的視野からご紹介します。

10

日常 語

なかの

歴史

〜前二二三)の盾 たて と矛 ほこ を売る商人が、この 盾はどんなものでも防ぎ、この矛はどんな ものでも突き通すといった。ある人がその 矛でその盾を突いたらどうなるのかと聞く と、 商人は答えに窮したという。 これが 「矛 盾」の由来である。 日本中世では敵対・争い・戦い・喧嘩等 の 意 味 だ が( 『 日 葡 辞 書 』) 、 現 在 で は 辻 褄 が 合 わ な い と い う 意 味 で 使 用 す る。 こ の 「矛盾」 の由来は著名である一方で、 「矛盾」 が武具に関わる言葉であることを意識して は「 ほ こ」とは異なる日本独自の攻撃具。 一四世紀に成立した。 盾も世界史的な防御具。甲冑に先行して 成 立 し た。 楯 と も 表 記 す る。 材 質 は 木 製・ 金属製・皮革製等とさまざま。また、携帯 型 の 手 て 盾 だて ( 持 もち 盾 だて ) と 設 置 型 の 置 おき 盾 だて ( 垣 かい 盾 だて ) がある。前者は小型で左手に持ち、右手に は「 ほ こ」等の刀剣を持つ。後者は大型で 弓箭や鉄炮等の飛び道具用。 「 矛 盾 」 の「 盾 」 は 手 盾。 日 本 で は 手 盾 は 弥 生 時 代 に あ り、 『 和 名 抄 』 巻 一 三 に

むじゅん

【矛盾】

私の専門とする武具に関わる日常語のうちもっとも普及し ているのは、中国戦国時代に韓 かん 非 ぴ (?〜前二三三)が著した 『韓 かん 非 ぴ 子 し 』(難一)を出典とする「矛盾」であろう。楚 そ 国(? に古代で使用され、古墳時代の銅 どう 矛 ほこ は有名だし、正倉院には 三三口(うち一三口は刀身に鎌状の枝が付設)が現存。中国 では鈹 ひ ・矟 しゃく 等もあり、漢字ごとに種類が相違し、刀身も無反 り ・ 両刃に限らない。ヨーロッパにも多様な 「 ほ こ」 がある。 な お、 「 ほ こ 」 は 鑓 やり と 誤 解 さ れ る こ と が 多 い。 し か し、 鑓 いる人は多くなかろう。まして矛と盾がどのような武具かを 知っている人は少ないと思う。 矛は長い柄 え の先に無反り・両 もろ 刃 は を基本とする刀身を取り付 けた世界史的な攻撃具。弓箭に先行して成立した。日本語で は「 ほ こ」と言い、対応する漢字は鉾・槍・桙等もある。主 「 歩 て 楯 だて 」 が み え、 『 法 然 上 人 絵 伝 』( 知 恩 院 蔵 ) 巻 一・ 第 四 段 に 一 例 管 見 で き る が、 他 は も っ ぱ ら 置 盾 の み。 「 矛 盾 」 は 中 国由来の言葉のため、背景にある武具も日本の実状とは相違 するのである。 (近藤好和・國學院大学兼任講師)

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■芸術と宗教が融合するシャングリラ

平 成 二 十 七 年( 二 〇 一 五 ) は、 本 阿 弥 光 悦 が鷹 たかが 峯 みね に光悦村をつくって四百年になります。 京 都 で は、 官 民 あ げ て「 琳 派 4 0 0 年 記 念 祭 」 が 展 開 さ れ て い る と こ ろ で、 こ れ か ら 盛 り 上 がっていくと思います。先生の光悦村について の考え方を教えてください。 皆 さ ん ご 存 知 の よ う に、 光 悦 村 は 元 和 元 年 (一六一五) に本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の 地を拝領して、町を開いたものです。その跡は 光悦寺となって光悦のお墓があり、昔の雰囲気 を残しています。 今は洛中といってよい場所ですが、光悦の孫 である光甫らが書いた『本阿弥行状記』を読む と、当時あの辺りは辻斬りや追剝ぎが出るよう な所だったそうです。そうすると、なぜ家康が そういう土地を与えたのか、ということになる わけです。 そ れ に つ い て は、 林 屋 辰 三 郎 先 生 が 昭 和 三 十 九 年( 一 九 六 四 ) に 出 さ れ た『 光 悦 』( 第 一法規出版)の中で、まず一つに、出版事業に 関 心 を 持 っ て 伏 見 版 や 駿 河 版 を 版 行 し た 家 康 が、嵯峨本に深く関わった能書家光悦に対し尊 敬の念を抱いていたことであるとしています。 そしてもう一つには、家康は今でいう芸術家を 危険視する思想を持ち、光悦についても危険な 人間だと思って、所払いしたのではないかとい うのが、林屋先生の見解です。私は後者の側面 がまずあるのではないかと思っています。しか し、それは家康側からの見方であって、光悦の 中にも新しい空間をつくりたいという気持ちが あったのだと思います。これを実証するのはな か な か 難 し い の で す が、 『 本 阿 弥 行 状 記 』 を 読 み込むと、その思いを強くします。 光悦村がどういう村であったのか。それにも 二 説 あ っ て、 一 つ に は 芸 術 家 村 だ と 言 わ れ ま す。 佐 藤 良 氏 が『 光 悦 の 芸 術 村 』( 創 元 選 書、 一九五六年)で、十九世紀後半イギリスで活躍 したウィリアム・モリスに光悦をなぞらえ、産 業革命後、工芸品が機械化されるなかで手仕事 の美しいものを使って生活しようと設立された モリス商会を光悦村と結びつけました。 それに対して林屋先生は、あれは芸術家村で はない、法華信徒の法華村だという説を出した のです。言われてみるとたしかにそうで、村内 に法華寺院が四つも営まれています。その後は

装飾とリアリティ

─響きあう琳派の美─

河野元昭

こう の もと あき (京都美術工芸大学学長)

川﨑 博

かわ さき ひろし (美術史研究家) 聞き手

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法華村だというのが定説になって、芸術家村だという人は少なく なりました。 光悦はいうまでもなく法華信徒で、宗達も光琳も、そもそも狩 野派も長谷川派もみな法華信徒なのです。しかし、信仰の対象は お題目といわれる「南無妙法蓮華経」の文字そのもので、厳しく 偶像を否定する法華の宗徒が、なぜあのような芸術品をつくった のか。最大の謎ですが、あえていうと、法華宗には非常に自由の 気 風 が あ る の で す。 『 本 阿 弥 行 状 記 』 に「 家 父 光 悦 は 一 生 涯 へ つ ら ひ 候 事 至 つ て 嫌 ひ の 人 に て 」 と い う 有 名 な 一 節 が あ り ま す が、 そのすぐあとは 「殊更日蓮宗にて信心あつく候故」 と続くのです。 法華信徒で自由、阿 あ 諛 ゆ 追 つい 従 しょう や媚 こ びへつらいを嫌ったことが、芸術 をつくる上で、非常に良かったのではないかと思います。 法 華 宗 が 権 力 に 媚 び へ つ ら う こ と を 非 常 に 嫌 っ た と い う の は、 日蓮の生き方がその通りですね。日蓮の思想のなかに 「浄仏国土」 というのがあります。それは仏国土を浄化するという意味にもと れるし、浄い仏の国土だという二つの説がありますが、光悦は日 蓮の「浄仏国土」というのをあそこで実現しようとしたのではな いでしょうか。芸術と宗教とが融合するシャングリラ、理想郷を つくろうとしたのではないかと思っています。 ■天平の写経所から宮崎駿まで

本 阿 弥 光 悦 と 角 す み の く ら 倉 素 そ 庵 あん が 刊 行 し た、 主 に 木 活 字 を 用 い た 書 籍 群は、料紙や装幀に創意あふれる華麗な意匠を施した、光悦の総 合芸術の精華で「嵯峨本」と呼ばれます。この嵯峨本の活字の版 下を誰が書いたのかについては、今も議論が続いています。先生 は、嵯峨本の筆者について、工房論を展開されていますね。 嵯峨本の筆者が光悦ではないというのは、はじめは能楽研究の 方面から出てきた説です。嵯峨本の字の流れに節 ふし 付 つけ があって、こ ういったことはプロでないとできないので、観 かん 世 ぜ 黒 こく 雪 せつ が書いたの だろうというものです。ほかに、角倉素庵説があります。 私 は以 前 、 字 母 表 を つ く っ て 光 悦 と 黒 雪 と 素 庵 とを 比 較 し て み ました 。 字 母 表 も 絶 対 で はあ り ませ ん が 、 素 庵 と い う 可 能 性 は な い け れ ど 観 世 黒 雪 の 可 能 性 は 一 応 あ る よ う に 思 い ま し た 。 し か し 、 筆 者 を 一 人 に す る の は 難 し い だ ろ う と い う の が 私の 考 え で す 。 そ れ は 私 が 言 い 始 め た こ と で は な く 、 小 松 茂 美 先 生 が 『 光 悦 』( 前 掲 林 屋 編 ) の 中 で ち ら っ と に お わ せ て い ま す 。 実 際 問 題 とし て 、 あ れ ほ ど 多 く の 版 下 と な る 字 を 書 く と い う の は あ り 得 な い わ け で す 。 それではたと思い当たったのが写経所です。天平時代に中国か らお経がもたらされたときは、写経生がお経を写して流布したわ けです。その写経生の上に題師という人がいたと、石田茂作先生 の研究にあります。題師というのはお経のタイトルを書いたので しょう。さらに面白いことに、写経所には装 そう 潢 こう 師という装幀をす る人もいて、光悦本についても同じように、光悦の周りには紙屋 宗二や筆屋妙喜という装潢師のような人がいた。つまり、版下の 字を書く写経生のような人たちの上に、光悦という題師のような 人がいたのだろうと思いついたわけです。

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金銀泥下絵に書かれた光悦流の文字は素晴らしいですが、私が 見 る と こ ろ 光 悦 流 は 御 お 家 いえ 流 りゅう と 同 じ で、 美 し い け れ ど 決 ま っ た パ ターンがあり、すこし慣れればすぐ読めるような字なのです。そ れ を 書 き 写 す 人 が た く さ ん い て、 書 い た 文 字 を 木 活 字 に 彫 っ て、 印刷して、写経所の題師のような光悦がまとめたのでしょう。あ の厖大な量を光悦でも黒雪でも素庵でも、ひとりで書くことはで きず、写経生がいて、まとめ役の光悦がいて、パトロンの素庵が い て、 何 と い っ て も 謡 本 が 多 い で す か ら 黒 雪 が 関 与 し て 作 っ た と。そういうものではないかなと思います。 宗達も酒井抱 ほう 一 いつ も鈴木其 き 一 いつ もそうで、かのエキセントリックな 伊藤若 じゃく 冲 ちゅう にも工房があったでしょう。工房については、現代の例 を見ればわかりやすくて、さいとう・たかをの『ゴルゴ 13』や宮 崎駿のアニメ作品など、彼らはプロデューサーであり、またディ レクターであって、みんな手分けしてやっているわけですよ。さ いとう・たかをもゴルゴ 13の顔は自身が描いているが、あとは弟 子が描いていたりする。嵯峨本にしても一種の工房論、写経所の ようなものを考えれば理解しやすいと思います。

工 房 論 に は 、 浪 漫 的 芸 術 家 論 か ら の 卒 業 と い う 大 き な 意 義 が あ る と 思 い ま す 。 し か し 一 方 で は 、 何 で も か ん で も 「 工 房 作 」 で 済 ま し て し ま う の も ど う か と 思 い も し ま す 。 そ の あ た り も 先 生 は 論 文 の 中 で 、「 工 房 論 の 陥 穽 」 と し て 警 鐘 を 鳴 ら し て お ら れ ま す ね 。 工房というのはたしかに便利ですが、美術史家であれば出来の 良いものと二番手のものとを直感的に区別する能力がないとまず いでしょうね。かといって良いものは真筆、悪いものは偽筆と二 分してしまうと、実態とは明らかに違ってきて、日本美術史はや せ細ってしまうと思います。 ■ユーモアの感覚

俵 屋 宗 達 に つ い て お 伺 い し ま す。 王 朝 美 術 や 中 世( 室 町 ) の やまと絵との関連をおっしゃっていますね。 よく知られているように、宗達は、慶長七年(一六〇二)に福 島正則が発願した平家納経の修理に参加します。現在では、宗達 の表紙・見返し絵や蔦 つた 蒔 まき 絵 え 唐 から 櫃 びつ ばかりが補修の成果のように見な されていますが、実際は、全三十三巻にわたる表具の締め直しが 主目的でした。このときに宗達は、この王朝美の粋をじっくり鑑 賞することができたに違いありません。実際、後年の「松島図屛 風 」( フ リ ー ア 美 術 館 所 蔵 ) の 左 隻 の 奇 妙 な 浮 島 の 形 態 は、 平 家 納経「授記品」の表紙・見返し絵からとっています。それ以外に も、意匠感覚や装飾技法など、平家納経からの影響を宗達作品の いたるところに見いだすことができます。 それだけではなくて、直前の室町時代のやまと絵、和画系から 学んだのももちろんです。たとえば京都・養源院の松図は、現在 東京国立博物館所蔵の土佐光信の「松図屛風」を見てからでない と、あれだけのものは描けません。 それにしても、現代人が感動するのは襖絵の松より、どうして

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か一過性のものも含んでいると言います。 また、琳派の特質は装飾性だと言ったのは西洋人だから、装飾 という言葉を使ってはダメだという説があります。日本人は身近 に あ る 琳 派 の 作 品 を 装 飾 的 だ な ど と 思 わ な い け れ ど、 西 洋 人 が 「 あ れ は デ コ ラ テ ィ ブ だ 」 と 言 っ た と い う の で す が、 そ ん な こ と を言っていては浮世絵の研究はできません。日本人が気づかない 美に西洋人が気づくというのは十分あるのです。いずれにせよ西 洋人が言い出したからダメだというのはナンセンスですね。 日本の絵画自体がひじょうに装飾的なものだというのは、何も 私が言い始めたことではありません。中国・宋代の徽 き 宗 そう 皇帝が集 め た 宮 廷 収 蔵 コ レ ク シ ョ ン に『 宣 和 画 譜 』 と い う 目 録 が あ っ て、 そこに日本の絵画は「観美」であると書いてあります。観美、つ ま り 観 て き れ い だ と い う こ と で、 こ れ は 日 本 絵 画 が 装 飾 的 だ と 言っているわけです。観美という言葉の中には、観て美しいだけ 4 4 も白 はく 象 ぞう ・唐 から 獅 じ 子 し ・麒 き 麟 りん を描いた杉戸の ほ うですね。たしかにあれ は素晴らしい、見れば見る ほ ど。狩野派も描くし、長谷川派も描 きますが、宗達のものが素晴らしいのはなぜでしょうか。一つに はフレームがはっきりしています。意匠デザインとリアリティが 渾然一体となって、デザイン的だけれどムーヴマン(動き)が感 じられます。そしてもう一つは、宗達にはユーモア、諧 かい 謔 ぎゃく 味が感 じ ら れ る と い う こ と で す。 「 風 神 雷 神 図 」 を と っ て み て も、 風 神 や 雷 神 と い う の は、 本 来 は 人 に 災 い を な す お っ か な い 存 在 で す が、宗達の「風神雷神図」には、見ると思わずにっこりしてしま うユーモアの感覚があります。 ■装飾は絵画の本質

一 般 に は 琳 派 の 特 質 と し て「 装 飾 性 」 が い わ れ ま す。 し か し この言葉も、突き詰めて考えてみるとよくわからないところがあ ります。琳派の 「装飾性」 とは何なのでしょう。 美術史の世界では、装飾という言葉をみな嫌 います。それは、装飾というと表面だけを飾っ て内実がない、本質は空疎であるという感じが あ る か ら で し ょ う。 装 飾 は そ も そ も 漢 語 な の で、日本美術を説明するのにはそぐわないとい う意見もあります。辻惟雄先生はやまと言葉で 「かざり」と言っています。 「かざり」というの は、装飾の置き換えだけではなくて、風流だと という意味が含まれていて、中国の山水画がも のの本質、真を写そうとしているのに対し、日 本の山水画は美を写そうとしているというわけ です。漢民族の目には、日本の山水画には、あ る意味、装飾性が見えるということを表してい ます。 私は装飾性というのは、絵画全般にわたって 本質的な部分だと思っています。とくに琳派に はふさわしくて、なぜかというと、装飾という

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ことばの「装」には「衣」の字が入っているからです。宗達は蓮 池の唐 から 織 おり 屋の出の可能性があり、尾形光琳は雁 かり 金 がね 屋という呉服商 の出身です。ともに衣に関係します。酒井抱一は殿様の弟だから とくに染織とは関係ありませんが、鈴木其一のお父さんは江戸紫 の染めの家から出たと史料に書かれています。実際は琳派だけで はなくて、長谷川等伯の家も染物屋、浮世絵の菱川師宣も千葉の 保田の縫 ぬい 箔 はく の家から出ているし、曾我蕭白も伊勢の紺 こう 屋 や の出だと いう説があります。一流の画家の多くが染織の家から出ていると いうことは、日本の絵画が工芸的であることと関係があります。 そ れに 装 飾の 「 飾 」 の 字 も 、 右 側 の 旁 は 、 人 が 布 で 手 を ぬ ぐ っ て き れ い に す る と い う 、 ピ ュ ア な こ と を 示 し て い る 字 で す 。 琳 派 の 絵 も ピ ュ ア の 要 素 が ひ じ ょ う に 強 い で す ね 。 光 琳 の か の 「 燕 か き つ ば た 子 花 図 屛 風 」 に し て も 、 燕 子 花 の ピ ュ ア な 部 分 、 本 質 だ け を 描 い て 余 分 な も の は 一 切 描 か な い 。 こ れ が ま さ に 装 飾 で す 。 日本人は、琳派には哲学があるのだ、日本の精神があるのだと 一所懸命言いたいところでしょうが、そんなことを言う必要はな いのです。装飾性があるというのは絵画の本質であって、絵画の 独立性があるということを意味しているのです。美を加えて生活 を豊かにするというのは日本人が古代からやってきたことなのだ から、それを卑下する必要はないというのが私の説です。 ■現実世界への強烈な関心

リアリティについて指摘されていますね。 装飾というとどうしても表面だけを飾るというのは否定できま せん。しかし、琳派には、装飾性だけではなくてリアリティもあ ると私は言いたいのです。たとえば燕子花は装飾的だけれど、よ く見ると植物のリアリティは捉えられています。花弁の疵 きず つきや す さ、 葉 の 先 端 の 優 し い 鋭 さ、 大 地 に し っ か り と 食 い 込 む 根 元、 驚くべき実在感によって堅固に支えられています。 光琳の写生については、 『小西家文書』 中にある 「鳥獣写生図巻」 がその謎を解く鍵になります。そこに描かれるのは、幾種類もの 鴨にはじまって、 孔雀 ・ インコなど当時珍しかった鳥や、 駱 らく 駝 だ ・ 狸 ・ 鼯 ももんが 鼠まで、六十六種の禽鳥と三種の獣に及びます。光琳が生まれ たころの京都では、珍鳥に対する関心が高まり、それらを数多く 集め飼っていた公家もいました。また、時代が下りますが、十九 世紀初頭の京都には、祇園に孔雀茶屋というのがあり、孔雀やイ ンコなどの珍鳥を見世物にして名物になっていました。そういう 所で珍鳥を見た可能性もあるし、光琳のまわりには本草学者もい ましたから、絵の抜きんでた出来ばえを見るとき、光琳が実物を 見て写生した可能性は、ほとんど確実だと思っていました。 ところが、辻惟雄先生が、あるとき大英博物館の倉庫中に、こ の 光 琳 の「 鳥 獣 写 生 図 巻 」 と 同 じ 絵 を 含 む 画 帖 を 発 見 し、 昭 和 五十四年(一九七九)に論文として発表しました。それは狩野探 幽の写生帖の模写の模写でした。光琳の写生帖に載せる六十六種 のうち、六分の一の十一種がまったく同じだったのです。そうす ると光琳は探幽の写生帖の原本かその模写を写したことになりま

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すが、そのような二次写生の場合にさえ、実在感が損なわれるこ とはなかったのです。的確な羽毛の柔らかさ、風切り羽の鋭さな ど は、 と て も 二 次 写 生 の も の と は 思 え ま せ ん。 「 鳥 獣 写 生 図 巻 」 のなかには、実際に見て描いたものもあるだろうと思うし、仮に 全部が模写だとしても、この実在感付与の才能を根底で支えてい たものは、現実世界への強烈な関心であったに違いありません。 宗達にしても、養源院杉戸絵の「白象」を見てください。デザ インとして素晴らしいのと同時に、あそこには象の一トンとか二 トンとかの重量も表されていると言わざるを得ないでしょう。 ■さまざまな個性を包括

琳 派 を 考 え る と き に 面 白 い の は、 近 代 の 日 本 画 家 は 必 ず 琳 派 回帰するということです。とくに菱田春 しゅん 草 そう ・速 はや 水 み 御 ぎょ 舟 しゅう こそ装飾性 と実体性によく当てはまると思います。御舟はリアリズムのあと に琳派に回帰していて、近代の日本画を理解するには恰好の素材 です 。 春草や、横山大観、下村観山、それから御舟ですね。御舟は明 らかに琳派を学んでいますが、彼はリアリズム画家ですよね。 近代から見るというのは、古田亮さんという研究者がやってい て『 俵 屋 宗 達 』( 平 凡 社 新 書、 二 〇 一 〇 年 ) を 出 し て い ま す。 古 田さんはもともと近代絵画史をやっている人で、近代絵画から見 た 宗 達 で す ね。 私 た ち は 歴 史 を 伝 統 か ら の 連 続 と し て 見 る け れ ど、 現 代 か ら 照 ら し 上 げ る の も 確 か に よ い や り 方 で す。 し か し、 古田さんが出した結論は 「宗達は琳派ではない」 というものです。 つまり近代の画家と非常に類縁性が強くて、宗達はひとりの近代 の芸術家であるというのです。宗達は頭抜けた芸術家だから琳派 ではないというのですが、琳派から宗達が抜けてしまったら困り ますね。今回の私の本から宗達を全部抜かないといけません。 それと関連して、よく琳派を定義してくださいと言われます。 琳派ってなんですかと。しかし定義できないのが琳派である、と いうのが私の定義です。定義できないのです。

最後に、江戸琳派についてはどうでしょうか。 京都に来ると、江戸琳派は琳派ではないという先生がたくさん いらっしゃいます。あれは琳派の堕落であると。確かに美意識は ずいぶん違っていて、能に対する歌舞伎、和歌に対する俳諧・川 柳みたいに違う。しかし琳派とはそういうものです。さまざまな 個性を包括しているのですよ。狩野派というのは代々統一感がひ じょうに強くて、そのなかに個性があります。しかし琳派はむし ろ個性の中に統一感があります。それらは私淑することによって 生まれます。美意識がちょっと違うからといって琳派ではないと いうのは、あまりに近視眼的な見方です。 私はよく虫瞰・鳥瞰というのですが、近寄って虫のように見る と違いがあるけれど、鳥のように高いところから抱一・光琳・宗 達を見ると、日本の絵画史全体からすればよく似ています。響き あっているわけです。 (二〇一四年一一月二六日   於:京都美術工芸大学)

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万博がもたらしたもの (第 1回)

は し

づ め

し ん

メタボリズムとカプセル・ホテル

二 〇 一 五 年 は ミ ラ ノ 万 博 !   じ つ は 万 博 を き っ か け に 世 の 中 に 広 が り 、 人 び と が 知 ら ず 知 ら ず に 恩 恵 を 受 け て い る 万 博 の 「 遺 産 」 を 紹 介 し ま す 。( 全 4回 ) 一 九 七 〇 年 大 阪 万 博 を 契 機 に、 各 種 の ア イ デ ア や シ ス テ ム が、 社会全体にひろまった。居住機能のカプセル化も、そのひとつで ある。 千里丘陵で開催された博覧会場では、新しい工法や構造を採択 したもの、前衛的なデザインのものなど、各種のパビリオンが建 設された。そのなかで、必要に応じて居室を増殖させることがで きるユニット化されたパビリオンも注目された。 タカラビューティリオンのように、鋼管フレームによる立体格 子を積み上げていくことで構成されるものがあった。いっぽうで エキスポタワーや住友童話館のように搭上にユニットを据え置く モデル、あるいは巨大なトラス構造の大屋根から展示室を吊る空 中テーマ館などの事例もあった。 いずれも黒川紀章氏や菊竹清訓氏たちが提唱していた「メタボ リ ズ ム 」 の 設 計 思 想 に 基 づ く デ ザ イ ン で あ る。 「 メ タ ボ リ ズ ム 」 と は、 「 新 陳 代 謝 」 と い う 意 味 合 い で あ る。 工 業 生 産 さ れ た 着 脱 可能なユニットを組み合わせることで、社会状勢の変化、家族構 成の変容に応じて、有機的に成長する可変性の高い建築空間が提 案された。 居 室 を 工 場 で 生 産、 現 場 に 輸 送 の う え 組 み あ げ る、 い わ ゆ る 「 プ レ ハ ブ 工 法 」 は、 当 時、 す で に 日 本 で も 普 及 を み て い た。 一九五九年に大和ハウスがミゼットハウスを販売して以降、積水 ハウスやミサワホームなどが追随するかたちで、鉄鋼系や木質系 の工業化住宅が販売されるようになっていた。 しかし万博会場で見受けられたメタボリズムのパビリオン群に は、 ス ケ ー ル ア ウ ト し た も の が 目 に つ く。 な か に は「 空 中 都 市 」 のモデルを可視化するものもあった。プレハブ工法による建築の 工業化という発想を、都市の尺度に発展させたものとみなすこと が可能だろう。 いっぽうで、プレハブ住宅やメタボリズムの建築とは質の異な るユニット化の試みもあった。流行をみていた 「スペースエイジ」 のデザインの影響のもと、プラスチック系の素材を曲面や球形に 成型し、居住に必要な一定の機能を収めようという試みだ。

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サンヨー館に出展された「健康カプセル」や「ウルトラソニッ クバス」が、その好例だろう。特に後者は「人間洗濯機」の通称 で知られるところとなった。カプセル内に座っているだけで、自 動的に温水が注入される。水中で派生する超音波と激しく流動す るマッサージボールの効果で、身体が洗われると同時にマッサー ジの効果がもたらされるというものだ。水着の女性による実演が 話題となった。 カプセル状の極小空間に多様な機能を収め、全自動で作動させ るという発想にその本質がある。技術的には現在の介護用入浴装 置のプロトタイプとなったと、のちに出展企業は説明している。 アポロの司令船や月着陸船の内部を連想させる「カプセル」状 の機能的な空間ユニットの提案に、触発された人が少なからずい たようだ。大阪でサウナを経営していた中野幸雄氏もそのひとり であった。 中野氏は博覧会場での強烈な印象をもとに、ホテルのカプセル 化を着想、黒川紀章氏に相談を持ち込む。結果、奥行き一九〇セ ンチ、幅九〇センチ、高さ九〇センチという限られた空間に、寝 具のほか、時計・ラジオ・テレビなど、人ひとりが宿泊するうえ で必要最低限の機能を収納するユニットがデザインされた。要は ビジネスホテルの室内にある諸機能を、最小限のサイズに切り詰 めようとしたたわけだ。 発 注 を 受 け た 家 具 メ ー カ ー の コ ト ブ キ が 製 作 し た ユ ニ ッ ト は、 「スリープカプセル」 と命名された。工場で一体成型することで、 カ プ セ ル 自 体 が 十 分 な 強 度 を 持 つ。 そ の た め 室 内 の 状 況 に 応 じ て、さまざまな組み合わせが可能となった。 この「スリープカプセル」を室内に積み上げて、宿泊者向きの 居室とした「カプセルイン・大阪」が、大阪梅田に開業したのは 一九七九年のことだ。世界初となる 「カプセル ・ ホテル」 である。 以後、安価なビジネスホテルのモデルとして全国に普及する。現 在 で は、 海 外 か ら 来 日 す る 観 光 客 の あ い だ で も 知 ら れ る よ う に なった。万国博覧会で提示されたアイデアが、新たなビジネスモ デルとなって継承された事例である。 (大阪府立大学 21世紀科学研究機構教授) ウルトラソニックバス (三洋電気株式会社提供)

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伝統社会

識字・学

リテラシー

お お

や す

ひ ろ 日本の近世以前の伝統社会では人々の識字力はいか ほ どのもの だったのだろうか。このような問いかけをすると、おそらく大半 の方々は、手習塾や寺子屋の存在を思い浮かべながらも、武士層 はともかく、一般の民衆層についてはその能力はさ ほ どではない という反応が多いのではないだろうか。その一方で、この種の問 題に関心のある方々の大半は、その程度はかなり高いのではない かと応じられるのではないだろうか。場合によっては、江戸時代 もしくは幕末維新期においては、相当に水準が高く、国際的な比 較をしても高い水準であり、世界で最も高い識字力を持っていた と捉えている方も少なくないかもしれない。このように、伝統社 会に生きた人々の識字状況に関して対照的な見方が存在するよう で あ る が、 前 近 代 の 民 衆 層 の 識 字 状 況 に つ い て、 関 心 や 知 識 を 持っている方々においては、総じてその識字力はかなり高めに捉 えられる傾向にあるといっていいであろう。 では、そうした捉え方の根拠としては、どのようなものが挙げ られているのであろうか。言い換えればそうした判断に導いた文 献 で は、 何 を 根 拠 と さ れ て い る の か と い う こ と で あ る。 そ の 代 表 的 な 事 例 の 一 つ と し て、 一 九 六 九 年 に 公 刊 さ れ た ハ ー バ ー ト・ パ ッ シ ン に よ る『 日 本 近 代 化 と 教 育 』 が あ る。 こ こ で は 石 川 謙・ 乙竹岩造などをはじめとする在来の日本教育史家の研究成果に拠 りながら、近世における男子の識字率を四〇 % から五〇 % と、比 較的高く捉えても不合理ではないとされているのだが、根拠は手 習塾・寺子屋への通学状況である。ただパッシンは近代化論者と して知られていたために、その主張はストレートには受け止めら れてこなかったといえる。 しかし、このような捉え方は八〇年代以降になると底流では引 き継がれていたかのように、何人もの研究者によって幾重にも浮 上してくる。それらのうち最も影響力のあったのは網野善彦とい えるだろう。斬新な社会史的観点から新たな中世史像を提示しな がら、矢継ぎ早に公刊された網野の著作のなかでも、多くの読者 を得ていたのが一九九一年の『日本の歴史をよみなおす』であろ う。同書のなかで、中世後期から近世にかけての識字状況につい て の 言 及 が あ る。 南 北 朝 期 を 日 本 史 の 分 水 嶺 と み て い た 網 野 は、 この時期以降に識字状況についても大きな変化が現れ、徐々にそ

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の高揚が進み、近世後期には国際的な水準からみても特筆すべき 高みに達したと強調している。ただしパッシンと同様に、民衆文 書の残存など周辺状況からの論であり、識字状況の具体的な説明 が な さ れ て い る わ け で は な い と い う 制 約 が あ っ た。 し た が っ て、 大づかみの指摘に留まっていたことは否めなかった。 このようなことは以後の他の研究者によっても、微妙な相違を 含みながらもおおむね引き継がれ、一般化されてきたといえるだ ろう。こうした日本の伝統社会における識字状況についての捉え 方に潜む問題について、前近代を専門とする日本教育史研究者の 間にあらためて検討してみようという気運が高まり、折々意見交 換を重ねていたが、その後、二〇〇一年の夏に識字研究会を発足 させ、組織的に共同研究に取り組むことになった。そこから試行 錯誤しながら現在に至っているのであるが、これまでの研究蓄積 の 一 区 切 り と し て、 今 秋、 『 識 字 と 学 び の 社 会 史

日 本 に お け るリテラシーの諸相

』を思文閣出版より上梓した。 これまでの前近代、とりわけ近世における民衆層の識字状況を 論じる際の論拠として注目されてきたのが、前述のとおり、手習 塾・寺子屋の圧倒的ともいえる普及状況であったり、七〇〇〇種 類を上回るとみられる往 おう 来 らい 物 もの (民衆向けのテキスト) の残存状況、 民衆層にまで深く浸透した読物の出版状況、膨大に残されている 民衆文書、幕末維新期に来日した外国人による紀行文や日記など であった。ここには明治期以降の急速な近代教育の量的普及に成 功した素因を、伝統社会における民衆教育の普及に求めようとす る傾向の強い日本教育史分野の動向が投影されている可能性もあ るだろう。ただ、このような周辺状況による論証だけでは、信頼 性という点で制約があるという見方が、識字研究で先行していた 西洋史分野にあることも、意識しないではいられなかった。 こうした識字研究をめぐる難しさや隘路を切り開くために、当 初、研究会のメンバーである木村政伸が着目していた花押・略押 を手掛かりにして調査を試みた。その成果は、この度の論集のい くつかの章に現れているのだが、活動を重ねていくなかで、研究 対 象 は 拡 大 し、 識 字 率 を 求 め よ う と す る 量 的 な 側 面 だ け で は な く、識字を核とする学びの内容や意味を問う質的側面についても 考察を進めることになった。花押による自署率の推定や明治期の 識字率調査に関する分析とともに、平安期貴族の識字状況、一向 宗 門 徒 や キ リ シ タ ン の 学 習 状 況、 近 世 在 郷 商 人 の 教 育 意 識 な ど、 リテラシーと学びの内容にまで範囲を拡げた構成となっている。 近 年 、 リ チ ャ ー ド ・ ル ビ ン ジ ャ ー 『 日 本 人 の リ テ ラ シ ー   16 00 -1900 年』 の公刊、 大黒俊二による 「限界リテラシー」 の紹介など、 新たな視点からの研究動向もみられ、大いに刺激を受けている。 なかなか困難な課題ではあるが、これからも一つ一つ個別具体的 な状況を掘り起こし、日本の識字をめぐる諸状況の具体相に少し でも迫っていきたい。 (横浜国立大学教育人間科学部教授)

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おん

よう

使

式神

実態

をめぐって

や ま

し た

か つ

あ き 『 今 昔 物 語 集 』 な ど に も 登 場 し、 陰 陽 師 が 使 役 す る 精 霊 と い う 式 神 の 実 態 に つ い て は こ れ ま で 具 体 的 な 史 料 に 乏 し く、 式 しき 盤 ばん の 十二神将や三十六禽とか、陰陽師に従う童子をイメージしたもの とか、さまざまにいわれてきた。ところが一〇世紀前半、澗 かん 底 てい 隠 いん 者 じゃ ( 延 暦 寺 東 塔 の 僧 薬 やく 恒 こう ) が 北 斗 信 仰 に 関 連 す る 仏 典・ 天 文 書・ 五行書などの典籍を引用して著した 『北斗護摩集』 (東寺観智院蔵) に興味深い証言がある。その第十五には、 『九 く 曜 よう 秘 ひ 暦 りゃく 』から、 羅 ら 睺 こう こ れ 翻 り て 月 障 を な す。 こ の 星 天 上 に あ り て は 羅 睺 と い い、悪星なり。地にありては黄 おう 幡 はん となすなり。羅睺は殺気あり て、天 てん 岡 こう となす。計 けい 都 と はこれ翻りて彗星をなす。この星天上に ありては計都といい、悪星なり。地にありては豹 ひょう 尾 び となす。計 都は殺気ありて、河 か 魁 かい となす 云云 。 と、つまり九曜の羅睺と計都は悪星で暦の八将神の黄幡・豹尾で あり、ともに殺気があり、陰 いん 陽 よう 家 か 十二神の天岡・河魁でもあると の説を引き、薬恒自身は、 陰陽家の十二神中、河魁・天岡の二神を以て悪毒猛将の神とな す。式を封じ厭鎮する 0 0 0 0 0 0 0 0 とき、この二神を以て猛将となすなり。 と 注 し て い る 。 こ れ に よ り 六 壬 式 盤 の 十 二月 将 ( 徴 ちょう 明 めい ・ 河 魁 ・ 従 じゅう 魁 かい ・ 伝 でん 送 そう ・ 小 しょう 吉 きつ ・ 勝 しょう 先 せん ・ 太 たい 一 いつ ・ 天 てん 剛 こう ・ 大 だい 衝 しょう ・ 功 こう 曹 そう ・ 大 だい 吉 きつ ・ 神 じん 后 ごう ) が 式 神 で 、と く に そ の 中 の 二 月 将 河 魁 と 八 月 将 天 岡( 天 剛 )と が「 悪 毒 の猛 将 」 だ と い う の で あ る 。 そ の用 法 に つ い て も 「 式 を 封 じ 厭 えん 鎮 ちん す る 」、 す な わ ち 式 神 を 封 じ 込 め ま じ な い 鎮 め る と い う 。 で は 何 を 目 的 と し て 河 魁 や 天 岡 な ど の 式 神 を ま じ な い 鎮 め る の か 。 まず、説話にみえる式神を使った陰陽師の呪詛が考えられる。 例 を あ げ る と『 宇 治 拾 遺 物 語 』 巻 二 の 八、 「 晴 明 蔵 人 少 将 を 封 ず る事」では、相 あい 聟 むこ の雇う陰陽師に「式」をふせられた蔵人少将を 安倍晴明が夜通し身固めをして救い、かえって陰陽師は「しきふ せて、既に式神かへりて、おのれ只今式にうてゝ死に侍りぬ」と いって死んだという。晴明の呪力と呪術師としての陰陽師の不気 味さを示す話しである。 政 権 を 握 っ た 藤 原 道 長 は 実 際 に し ば し ば 呪 詛 を し か け ら れ た が、 『小 しょう 記 き 目 もく 録 ろく 』第二十の長保二年 (一〇〇〇) 五月八日条には、 「左 府の所悩、式神の致す所と云々の事」と、道長の病が式神のなす ところとされ、翌九日に邸内から「厭 えん 物 もつ 」が発見されている。な

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お、五月十一日には呪詛者の安正が拷 ごう 訊 じん され六月五日には獄死し ているが、式神は厭物に封じ込められていたのであろうか。 寛 弘 六 年( 一 〇 〇 九 ) 二 月 の 中 宮 藤 原 彰 子・ 敦 成 親 王・ 左 大 臣 道 長 呪 じゅ 詛 そ 事 件 は、 藤 原 伊 周 の 復 権 を も く ろ む 高 階 光 子 や 源 方 理 が 法 ほっ 師 し 陰 おん 陽 よう 師 じ の 円 能 に 厭 符 を 作 ら せ 行 っ た も の だ が、 『 政 事 要 略』巻七十所載、円能らの罪名勘 かん 文 もん には訊問調書を引き、明法博 士は円能に「厭式 0 0 を作り、中宮、若宮並びに左大臣を呪咀し奉る の由、実に依り弁じ申せ」と訊問している。繁田信一氏はこれに 注目して、陰陽師が作った呪符が「厭式」と呼ばれていることか ら、呪詛のために陰陽師が作った呪物が「式神」の実体であった 可 能 性 が あ る と 指 摘 す る が( 『 陰 陽 師 と 貴 族 社 会 』 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 四 年 )、 こ れ も 薬 恒 の、 式 神 を 封 じ 込 め ま じ な い 鎮 め る 用 法と関わるものと理解できるだろう。円能はさらに「ほかにこの 事を相知る陰陽師いくばく侍りし。また有験の寺社 0 0 0 0 0 及びしかるべ きの所々にこの厭法をなすか」と、弟子の妙延も「厭符等を埋め 0 0 置く 0 0 所々、 弁じ申せ」 と訊問されている。これらから呪詛は天岡 ・ 河魁等の式神を厭符に書してまじなう相手の家、あるいは験 げん 力 りょく の ある寺社に埋め置くことにより達せられたことがうかがえる。 ここで気づいたことがある。平将門の乱の顚末を記し、一一世 紀前半までには成立した『将門記』に、天慶二年(九三九)の末 に将門がいよいよ 「新皇」 と称すと、 朝廷では 「百官は潔斎して、 千たびの祈りを仁祠に請ふ。いはむやまた山々の阿闍梨は、邪滅 悪滅の法を修す。社々の神祇官は、頓死頓滅の式を祭る 0 0 0 0 」と、諸 社の祈禱や密教修法とともに式を祭り将門の急死を祈願したとい う。 「 日 本 思 想 大 系 」 本 の 注 で は 式

「 式 神、 識 神。 陰 陽 師 が 使役する鬼神」とするが、陰陽師ではなく「社々の神祇官」とあ る の を 不 審 に 思 っ て い た。 こ れ も 先 の「 有 験 の 寺 社 」 と 解 す と、 将門呪詛のために朝廷が陰陽師に命じ神社で神職とともに式神に よる厭法を行ったとすれば腑に落ちる。 さらに 『将門記』 は続けて、 「悪鬼の名号をば、 大壇の中に焼き、 賊人の形像をば、棘 〔棗〕 楓の下に着く」とある。修法の加持の煙火で 将 門 の 名 号 を 焼 く と と も に、 形 像 を 棗 なつめ ・ 楓 ふう の 下 に 着 く と は、 『 唐 六 典 』 巻 十 四 太 卜 署 に「 以 ㆓楓 木 ㆒天、 棗 心 為 ㆑ 」 と、 両 木 を 式盤の天盤地盤の材と記すように、将門の人 ひと 形 がた を式神の座す式盤 の下に敷くということであり、これも呪詛行為だった。 朝廷が追討使の派遣のみならず将門調伏の祈禱を種々行ったこ とは当時の記録に明らかだが、陰陽寮にも兵乱鎮定の祭祀を諮問 し、 『 貞 信 公 記 抄 』 天 慶 二 年 五 月 十 六 日 条 で 陰 陽 権 助 文 武 兼 に 八 省院で太一式祭 (これも太一式盤と関わる祭祀であろう   ) を修さ せ、 十 二 月 三 十 日 条 に は 陰 陽 師 の 賀 茂 忠 行 を 召 し、 「 若 し 功 あ れ ば、 殊 に 賞 す べ き の 事 を 仰 す 」 と あ り、 『 将 門 記 』 の 式 神 と 式 盤 を用いた呪法の記述は、俄然真実味を帯びてくるのである。 な お、 『 続 古 事 談 』 巻 二 の 源 高 明 の 左 遷 に ま つ わ る 話 し か ら、 式神を使う厭法は呪詛だけでなく、競馬などのさいにも邪気を鎮 め、勝利を祈願するまじないとして行われていたであろうことも 付記しておく。   (大東文化大学東洋研究所兼任研究員)

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百万塔と陀

つ じ

も と

な お

ひ こ (紙の博物館   学芸部長) 百万塔は、紙の博物館創立当初から、館のシンボルとなってお り、百万塔と陀羅尼の実物は、紙の博物館四階に常設展示されて いる。昭和三〇年に創刊した当館の機関誌は、現在一四八号を数 えるが、その機関誌名は「百万塔」で、同年出来た博物館友の会 の 名 称 は「 陀 羅 尼 会 」。 現 在 の 会 員 数 は 約 一 五 〇 名 で あ る。 本 稿 の後半で、陀羅尼を内包した木製の百万塔が、陀羅尼を一二〇〇 年以上守ることができたその科学的理由をご説明したい。 百 万 塔 と は、 藤 原 仲 麻 呂 の 乱 を 平 定 後 の 天 平 宝 字 八 年 (七六四) 、国家安泰を願う称徳天皇の発願で、木製の三重の塔が 百万基作られ、法隆寺・興福寺など十大寺に奉納されたもの。こ の こ と は、 『 続 日 本 紀 』 宝 亀 元 年( 七 七 〇 ) に 記 さ れ て い る。 十 大寺は諸説あるが『薬師寺縁起』によると、右記二寺以外に、奈 良の大安寺 ・ 東大寺 ・ 元興寺 ・ 西大寺 ・ 薬師寺、摂津の四天王寺、 近江の崇福寺、大和の弘 ぐ 福 ふく 寺とある。 百万塔の内部に納められている陀羅尼は、一種の呪文で根本陀 羅尼、相輪陀羅尼、自心印陀羅尼および六度陀羅尼の四種類があ り、当館はそのうち根本陀羅尼と自心印陀羅尼を各一巻ずつ所蔵 し て い る。 な お、 平 子 鐸 嶺『 百 万 小 塔 肆 攷 』( 明 治 四 一 年 ) に よ ると法隆寺に当時残存する陀羅尼の内訳は、根本三一一巻、相輪 四 一 〇 巻、 自 心 印 九 八 〇 巻、 六 度 七 巻、 そ の 他 断 片 は 二、 三 一 五 巻に及ぶ。 また法隆寺に残存する百万塔小塔は四三、 九三〇基で、 そのうち完全なものは、三〇〇基のみであったという。このとき 一〇〇基が旧国宝に指定され、現在は重要文化財として、その一 部が大宝蔵殿において展示公開されている。 百万塔の陀羅尼が印刷物として、刊行年代が明らかで、世界最 古 の 現 存 物 で あ る こ と も あ っ て、 そ の 研 究 は 数 多 く、 最 近 で は、 『 百 万 塔 陀 羅 尼 の 研 究

静 嘉 堂 文 庫 所 蔵 本 を 中 心 に

』( 増 田 晴美編著、平成一九年、汲古書院発行)など優れた報告がある。 その参考文献目録によると、百万塔と陀羅尼に直接言及した文献 数は江戸期で一〇件、明治以降は単行本として八五件、雑誌・紀 要・定期刊行物で六八件あり、多くの人々が百万塔と陀羅尼に興 味を持っていたことが分かる。 百 万 塔 と 陀 羅 尼 の 研 究 領 域 は、 称 徳 天 皇 と そ の 時 代 背 景、 『 無 垢 浄 光 大 陀 羅 尼 経 』 の 中 の 四 種 の 呪 文、 印 刷 に 関 す る 様 々 な 点、

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百万塔の製作、その組織および期間など多岐にわたる。印刷に関 し て は、 木 版 説 と 銅 版 説 の 両 説 が あ り、 結 論 は い ま だ 出 て い な い。用紙は、楮 こうぞ 紙 し と麻 ま 紙 し の二種類とされている。法隆寺に残され た百万塔には、三重小塔の他に、十万節塔と一万節塔が一基ずつ 百万塔と陀羅尼(紙の博物館蔵) ある。三重小塔は高さ 一 三 ・ 五 セ ン チ だ が、 十万節塔は十三重で高 さ約七〇センチ、一万 節塔は七重で約四八セ ンチで、それぞれ小塔 が十万基、一万基とい う満数の時に作られた とされる。百万塔は塔 身部と相輪部から出来 ている。その塔身部の 空洞に陀羅尼一巻が納 められた。 塔内に経文を納める 意味とその科学的理由 を考えてみたい。話は 少し飛ぶが、正倉院の 紙が百万塔の陀羅尼と 同様一二〇〇年以上保 たれた理由は、校 あぜ 倉 くら 造りの建物ではなく、木材の吸脱湿効果によ ると考えられる。実は正倉院内部に設置されていた総数一六六個 に上る唐 から 櫃 びつ 内部の湿度が一定していたということがその理由であ る。すでにいくつか知られている要因は、まずは、中性紙である 和 紙 で あ っ た こ と、 「 勅 封 」 す な わ ち 天 皇 の 許 可 無 く し て 開 錠 で き な か っ た こ と、 高 床 式 校 倉 造 り で 通 気 性 な ど が 優 れ て い た こ と、 曝 涼 で 点 検 と 修 理 を 行 っ て い た こ と が よ く 知 ら れ て い る が、 実は決定的要因が、二〇〇三年「正倉の温湿度環境調査」で明ら かにされた。それは唐櫃の内部湿度の安定性である。 平成一二年四月二九日から六月九日までの正倉院内・外および 唐櫃内の相対湿度変動を測定した結果、外気湿度は、一日に平均 して約五〇 % も変化しているのに対して、正倉内部の一日の変化 は 約 六 % 、 唐 櫃 内 の そ れ は 〇 ・ 八 % で あ っ た。 唐 櫃 内 の 一 日 の 湿 度変化は、正倉内部の十分の一にとどまり、外気と比較すると百 分の一となっている。どうして、唐櫃内部はわずかな湿度変化に 押さえ込むことができたのか。それは、唐櫃を構成している厚さ 約 二 セ ン チ の ス ギ 材 す な わ ち 木 材 の 吸 脱 湿 作 用 に よ る。 木 材 に は、温度が上がりその結果湿度が下がると放湿し、逆に温度が下 がり湿度が高くなると吸湿する作用があるからである。なお、唐 櫃 で は な く、 麻 袋 に 収 蔵 さ れ て い た 屏 風 一 〇 六 帖 六 三 二 扇 の う ち、 現 在 残 っ て い る の は 四 〇 扇 の み と の こ と で、 唐 櫃 の 効 果 は、 このことからもうかがい知ることができる。 な お、 こ の 裏 付 け と な る 研 究 結 果 を、 外 国 で の 報 告 に 見 出 す

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公益財団法人

博物館

〒 114│ 0002   東 京 都 北 区 王 子 1 │ 1 │ 3 ( 飛 鳥 山 公 園 内 )    ℡ 03 │ 39 1 6 │ 2 3 2 0   ℻ 03 │ 5 90 7 │ 75 11 ホ ー ム ペ ー ジ   htt p:/ /w w w .pa pe rm us eum .jp • 開館時間   午前 10時〜午後 5時(ただし入館は午後 4時半まで) • 休 館 日   月曜 (祝日の場合は開館) 、祝日直後の平日、        年末年始 ( 12月 28日〜 1月 4日) • 入 館 料   大人   個人 300 円   団体 ( 20名以上) 24 0 円        小中高生   個人 1 00 円   団体 80 円 紙 の 博 物 館 は 和 紙 、 洋 紙 を 問 わ ず 古 今 東 西 の 紙 に 関 す る 資 料 を 幅広く収集し、 保存 ・ 展示する、 世界有数の紙専門の博物館です。 一 九 五 〇 年 に わ が 国 の 洋 紙 発 祥 の 地 で あ る 東 京 ・ 王 子 に 開 設 さ れ ま し た 。 一 九 九 七 年 に 飛 鳥 山 公 園 内 に 移 転 し 、 翌 九 八 年 に 現 在 の 新 館 が オ ー プ ン し ま し た 。 二 〇 〇 九 年 に は 、 博 物 館 ・ 美 術 館 関 係 で は 全 国 初 と な る 公 益 財 団 法 人 の 認 定 を 受 け ま し た 。 今 日 で は 、 多 く の 紙 関 係 会 社 の 支 援 に よ っ て 運 営 さ れ て い ま す ( 今 年 六 月 現 在一四一社) 。 常 設 展 示 で は 、 紙 の 製 造 工 程 、 種 類 や 用 途 、 紙 の 歴 史 、 紙 の 工 芸 品 、 歴 史 的 資 料 や 生 活 用 品 な ど を 展 示 し て い ま す 。 ま た 、 紙 に 関する書籍、 約一万五千点を有し、 図書室で一般公開しています。 開催中の企画展 「紙で旅するニッポン     〜関東・甲信編〜」 会期   来年三月一日まで 関 東 ・ 甲 信 地 域 の 製 紙 業 の 歴 史 や 特 色 を 、 様 々 な 資 料 で紹介。 こ と が で き る。 そ れ は、 室 温 一 定 の 条 件 下、 湿 度 の み の 変 化 で、 紙 の 強 度 が 低 下 し て い く と い う も の で あ る。 二 〇 〇 二 年、 カ ー ネ ギ ー メ ロ ン 大 学 の ジ ョ ン・ ボ ガ ー ド と ポ ー ル・ ウ イ ッ ト モ ア が、 文 化 財 保 存 国 際 研 究 所《 The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works 》のボルチモア会議 で発表した「湿度変動が紙の劣化に与える影響に関する研究」で ある。不純物の無いセルロース濾紙を、温度(室温)一定の条件 下に、相対湿度二五 % と七五 % で二時間ずつ交互に経験させ、そ の 強 度 変 化 を 測 定 す る 方 法 で あ る。 湿 度 変 動 を 千 回 繰 り 返 す と、 紙の強度が半分以下に低下し、紙を構成している繊維の強度も同 様に低下した。なぜ、湿度変化だけで紙の強度が低下するのか。 その答えは繊維のセルロース分子が切断されているという結果で あ っ た。 温 度 変 化 は 無 く て も、 湿 度 変 化 が 繰 り 返 さ れ る だ け で、 セルロース分子が切断され、繊維強度が低下することを示したの である(詳しくは、 『百万塔』第一三六号(二〇一〇年) 、七七頁 の 拙 論 を 参 照 )。 以 上 か ら、 紙 を 保 存 す る 上 で、 湿 度 変 化 が い か に大きく影響するかが明らかになった。 陀羅尼は木製の百万塔の塔内に納められている。檜材の塔身自 体が湿度調整をして、一二〇〇年間、陀羅尼を守り抜いたのであ る。陀羅尼が百万塔のくりぬかれた塔身部中に納められ、相輪部 で蓋をされていたのは、科学的な理由もあったのである。

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 書評・紹介一覧 10 〜 11月掲載分         ※(評)…書評(紹)…紹介(記)…記事〔敬称略〕 岩倉具視関係史料 憲政常道と政党政治 (紹)『日本史研究』627号(母利美和) (紹)『藝林』第63巻2号(菅谷幸浩) 牛と農村の近代史 元伯宗旦の研究 (評)『日本史研究』627号(大島真理夫) (紹)『淡交』12月号 栄花物語・大鏡の研究 講座日本茶の湯全史 (評)『日本歴史』797号(福長進) (紹)『石州』654号 近江の古像 (紹)『婦人公論』10/22 (紹)「中外日報」11/7 住友の歴史 茶の湯 恩籟抄 (紹)「愛媛新聞」11/9 (紹)『なごみ』11月号 大航海時代の日本と金属交易 外国人のみたお伽ばなし (紹)「西日本新聞」11/2 (紹)『男の隠れ家』12月号 大徳寺伝来五百羅漢図 京都雑色記録 (紹)「佛教タイムス」10/23 (紹)「解放新聞」10/20 月を愛でる 近代京都の施薬院 (紹)『月刊美術』No.471 (紹)『科学史研究』No. 271(木下知威) 日本古代の武具 近代古墳保存行政の研究 (紹)「読売新聞」10/25夕刊 (紹)『考古学ジャーナル』10月号(山岸良二) 法然上人絵伝の研究 近代日本の歴史都市 (評)『日本歴史』797号(祢津宗伸) (紹)『地方史研究』371号(松本洋幸) 室町幕府管領施行システムの研究 (評)『日本歴史』798号(岩元修一) 図  書  名 著 者 名 ISBN978-4-7842 本体価格 発行月 月を愛でる 逸翁美術館編 1778-6 C1071 1,000 10 日本中世の地域社会と仏教 湯之上隆著 1773-1 C3021 8,000 10 識字と学びの社会史 大戸安弘・八鍬友広編 1772-4 C3037 7,000 10 緒方郁蔵伝 古西義麿著 1774-8 C1021 2,500 10 中世寺院社会と民衆 下坂守著 1779-3 C3021 7,500 11 平家物語生成考 浜畑圭吾著 1769-4 C3093 7,000 11 10月から11月にかけて刊行した図書 シ リ ー ズ 名 配本 回数 巻数 巻タイトル ISBN978-4-7842 本体価格 発行月 別府大学文化財研究所企画シリーズ 3 3 大航海時代の日本と金属交易 1768-7 C3021 3,500 10 別府大学文化財研究所企画シリーズ 2 2 キリシタン大名の考古学(2刷) 1472-3 C3021 3,800 11 新島襄を語る 14 10 志を継ぐ 1782-3 C1016 1,900 10 10月から11月にかけて刊行した継続図書 (表示価格は税別)

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2014(平成26)年12月24日発行 4・7・9・12

No.96

営業部より ▼ひょんなことから、フジテレビ月曜日 9 時 の連続ドラマ、いわゆる「月 9 」の「信長協 奏 曲 」 に は ま っ て い ま す。 「 月 9 」 で 歴 史 ド ラマなので、期待はほとんどしていませんで したが、第一回目からほろりとさせられる部 分あり、奇抜な設定もうまい具合につじつま を合わせていく展開に構成のうまさを感じま した。原作は連載中の漫画ですが、このよう な漫画やドラマ・アニメ・ゲームなどをきっ か け に 学 問 の 世 界 に 入 っ て こ ら れ る 方 が 増 え、学問の世界の活性化につながれ ば 良いな と日々妄想しております。 ( I ) ☆フェア情報 左記書店にて歴史書懇話会ミニフェアを開催 中です。 • TEND O 八文字屋 (山形県天童市) • 紀伊國屋書店新潟店 (新潟県新潟市) • 今井書店グループセンター店 (島根県松江市) • 芳林堂書店高田馬場店 (東京都新宿区) • ジュンク堂書店三宮駅前店 (兵庫県神戸市) • 喜久屋書店阿倍野店 (大阪市阿倍野区) • ジュンク堂書店上本町店 (大阪市天王寺区) • 今井書店出雲店 (島根県出雲市) ▼ 今 回 の て ぃ ー た い む は 、 美 術 史 家 ・ 川 﨑 博 先 生 に 聞 き 手 を お 願 い し 、 濃 密 で しか も わ か り 易 い 、 贅 沢 な 琳 派 講 座 と な っ て い ま す 。 河 野 元 昭 先 生 の 著 書 『 琳 派 ― 響 きあ う 美 』 も学 術 書 な が ら 啓 蒙 書 と し て も 読 み 易 い 内 容 で す ! ( Q ) ▼ 万 博 は 未 来 を 映 す 鏡 。 来 年 の ミ ラ ノ 博 は ど ん な 未 来 を 映 す の か ? 万 博 と い え ば 万 博 競 技 場 を 本 拠 と す る ガ ン バ 大 阪 が 完 全 復 活 ! 関 西 サ ッ カ ー フ ァ ン と し て は う れ し い 限 り で す 。 (M ) ▼ 11月 に 、 日 本 の 和 紙 が ユ ネ ス コ 無 形 遺 産 に 登 録 さ れ た 。 和 紙 独 特 の 風 合 い は 、 一 度 触 れ た ら 忘 れ ら れ な い 。 本 の 手 触 り も 、同 様 に よ い も の 。 来 年 も ご 贔 屓 く だ さ い 。 ( 大 ) ▼ 冬 は 寺 社 が よ り 神 聖 に 感 じら れ ま す 。 雪 が 積 も れ ば な お よ し 。 い つ も の 景 色 が 真 っ 白 に 変 わ る 瞬 間 は 大 人 に な っ た 今 で も 心 躍 り ま す 。 ( ) ▼ 年 々 、 冬 が 好 き に な っ て い ま す 。 た く さ ん 着 込 め ば 、 寒 風 も ま た 楽 し 。 冷 た い 中 、 逆 境 の 中 で こ そ 感 じ る 生 の 暖 か み が あ り ま す 。 ( h ) ▼ 書 店 店 頭 用 書 籍 の 入 替 が遅 れ て お り ま す 。弊 社 書 籍 を 並 べ る 書 店 様 が 増 え ま した が 、 入 替 が 追 い つ き ま せ ん 。 申 し 訳 ご ざ い ま せ ん 。 ( 江 ) ▼ 表 紙 図 版 : 加 彩   婦 女 俑 ( 8 世 紀 / 大 阪 市 立 東 洋 陶 磁 美 術 館 / 『 中 国 南 北 朝 隋 唐 陶 俑 の 研 究 』 よ り )

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思文閣出版新刊・既刊案内   章   本書の視点 第一章   『珍宝帳』記載器仗 正倉院器仗の概要 『珍宝帳』 記載器仗の概要/正倉院器仗の概要/ 『珍宝帳』 記載器仗の出蔵 第二章   大   刀 「 御大刀壹佰口 」 /正倉院の大刀 第三章   小刀・刀子・鉾・手鉾 『 珍 宝 帳 』 記 載 の 小 刀 ・ 刀 子 / 正 倉 院 の 刀 子 ・ 合 鞘 / 正 倉院の鉾・手鉾 第四章   弓・鞆 「 御弓壹佰張 」 /正倉院の弓/正倉院の鞆 第五章   靫・胡禄・箭 靫・胡禄・箭の概要/ 「 御箭壹佰具 」 /正倉院の胡禄と胡 禄収納箭/正倉院の胡禄未収納箭 第六章   甲 古代の甲/ 「 御甲壹佰領 」 /正倉院の甲   章 図版編/図版出典一覧   第   南北朝時代の陶俑の様式変遷 地域性 第 1 章   洛陽北魏陶俑の成立とその展開 第 2 章   北朝鎮墓獣の誕生と展開 第 3 章   南北朝時代における南北境界地域の陶俑について 第 4 章   南朝陶俑の諸相 第 5 章   北斉時代の俑に見る二大様式の成立とその意義 第 6 章   北斉鄴地区の明器生産とその系譜   第   隋唐時代の陶俑への新たな視座 第 7 章   隋俑考 第 8 章   白瓷の誕生 第 9 章   初唐黄釉加彩俑の特質と意義 第 10章   唐代邢窯における俑の生産とその流通に関する諸問題 第 11章   西安・唐代醴泉坊窯址の発掘成果とその意義 第 12章   唐時代の俑の制作技法について こんどう・よしかず … 一九五七年神奈川県生。一九八七年國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期単位取得満期退学。博士 (文学・広島大学) 『国家珍宝帳』 と正倉院の器仗 (武具) を それぞれ詳細に解説し、図版編には正 倉 院 器 仗 を 中 心 に 多 数 の 写 真 を 収 録 。 貴重な基本文献・伝世品である両者を 相関的に取り扱い、日本古代の器仗を 理解するための基本図書をめざす。 始 皇 帝 の 「 兵 馬 俑 」 で 知 ら れ る 俑 は 、 死 者 と と も に 埋 葬 さ れ る 副 葬 明 器 で 、 中 国 の 南 北 朝 か ら 隋 唐 時 代 は 質 量 と も に そ の 黄 金 期 で あ る 。 近 年 各 地 の 葬 墓 か ら 続 々 と 出 土 例 が 報 告 さ れ 、 と く に 考 古 学 的 手 法 に よ る 研 究 の 蓄 積 が 著 し い 。 こ れ に 対 し 本 書 は、 豊富な実物調査に基づいて、 膨大な数の資料を造形的特質、 様 式 の 変 遷 、 地 域 性 な ど に よ っ て 整 理 し 、 美 術 史 ・ 陶 磁 史 的 視 点 か ら さ ま ざ ま な 論 点 を 提 示 。 分 裂 か ら 統 一 へ と ダ イ ナ ミ ッ ク に 転 換 す る 時 代 の な か で 生 じ た 変 化 と 連 続 性 を 跡 づ け 、 新 た な 陶俑研究の確立を目指す。収録図版多数。 内 容 内 容 ▼ A 5 判・四七〇頁/ 本体八、五〇〇円 ▼ B 5 判・カラー口絵八頁+四五〇頁/ 本体一三、〇〇〇円

日本古代の武具

国家珍宝帳』と正倉院の器仗

近藤好和著

【 10月刊 行 】 こばやし・ひとし … 一九六八年東京都生。大阪市立東洋陶磁美術館主 任学芸員。

中国南北朝隋唐

 

 

陶俑の研究

小林仁著

【 2 月刊 行 予定】

参照

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