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中国都城の立地環境:長安から洛陽へ

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Title

中国都城の立地環境:長安から洛陽へ

Author(s)

斉, 東方; 村元, 健一

Citation

都城制研究(9)東アジア古代都城の立地条件 (奈良女子大学古

代学学術研究センター)、pp.29-52

Issue Date

2015-03-27

Description

翻訳者:村元健一氏

URL

http://hdl.handle.net/10935/4123

Textversion

publisher

Nara Women's University Digital Information Repository

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中 国都 城 の 立 地 環 境 一 長 安 か ら洛 陽ヘー

斉 東 方 翻 訳 ・村 元 健 一 []は 訳者が補 った ことを表す 明 年 秋 、 雨稼 を 害 し、 京 師 飢 ゆ 。 帝 將 に 東 都 に 幸 せ ん と し、 召 して 人 を 救 う所 以 を 問 う。[斐]耀 卿 曰 く 「陛 下 既 に 東 巡 し、 百 司 畢(こ と こ と)く 從 わ ば 、 則 ち太 倉 、 三 輔 、 重 臣 を遣 し分 道 して賑 給 し、 東 都 よ り漕 運 を 益 廣 し、 以 て 關 輔 を 實 た す べ し。 關 輔 既 に 實 た ば 則 ち乗 輿 西 還 し、 事 の 濟 さ ざ る は蔑(な)し 。 且 つ 國 家 の 大 本 は京 師 に 在 り、 但 だ 秦 地 狡 く、 水 旱 置(と ぼ し き)を 易(か)う 。 往(い に し え)に 貞 観 、 永 徽 の 時 、 緑 稟 す る者 少 く、 歳 ご とに 粟 二 十 萬 を漕 す れ ば 客 ぼ 足 る。 今 用 度 寝 廣 し、 敷 倍 を運 ぶ も 且(ま さ)に 支 え ず 、故 に 敷(し ば し)ば 東 幸 し、以 て 赦 粟 に 就 く… 」。(1) これ は 開 元21(733)年 の 君 臣 問 の 議 論 で あ る。 原 因 は秋 雨 で 長 安 地 域 が 飢 饒 と な り、 皇 帝 は 百 官 を 率 い 東 都 洛 陽 に 避 難 して 食 を 求 め 、 長 安 に と ど ま っ た 民 に は 政 府 の 穀 物 倉 を 開 放 して 助 け 、 同 時 に急 遽 、 南 方 の食 糧 を 輸 送 しな けれ ば な らな くな っ た 。 この 史 料 は 、 関 中 に 立 地 す る都 城 長 安 が 、 常 に 食 糧 不 足 に 直 面 して い た こ とを 明 瞭 に記 して い る。 唐 初 は 人 口 も少 な く、 官 糧 を 受 け 取 る者 も少 な く、 外 地 か ら輸 送 され る少 量 の 食 糧 で 十 分 で あ っ た が 、 開 元 期 に は 状 況 が 異 な り、 災 害 に よ る食 糧 の 欠 乏 は 非 常 に 大 き な 問 題 とな っ た の で あ る。 唐 代 前 期 で は 、 災 害 の 年 に は や む を得 ず 皇 室 や 官 僚 の 多 数 の 人 々 が 洛 陽 に 移 り住 み 、 長 安 の 食 糧 問 題 の軽 減 を 図 っ た 。 高 宗 、 則 天 武 后 が 常 に 洛 陽 に い た 他 に 、 玄 宗 も何 度 も移 動 を繰 り返 し、洛 陽 に10年 以 上 も滞 在 した こ と に な る。 ほ ぼ500キ ロの 道 の りの 移 動 に は1 月 近 くを 要 した。 皇 帝 が 百 官 を率 い て 移 動 す る こ とは 大 事 業 で あ り、 莫 大 な 経 費 を要 す る だ け で な く、 政 府 の 管 理 上 の混 乱 も生 み 出 しか ね な い も の で あ り、 困難 な選 択 で あ っ た 。 も し切 迫 した 問題 で な けれ ば 、こ の よ うな こ と を 軽 々 に行 う こ とは な か っ た だ ろ う。だ が 、 食 糧 の輸 送 も大 事 業 で あ り、 困 難 で あ るだ け で な く、 時 間 を 要 す る も の だ っ た の で あ る。 唐 代 長 安 の 人 口、 移 動 な どに 関す る議 論 は 非 常 に 多 い が 、 食 糧 問 題 も避 け て 通 る こ との で き な い 重 要 な 要 因 で あ り、 人 口、 移 動 、 食 糧 問 題 の い ず れ もが 都 城 の 立 地 環 境 に 関 わ っ て い る。 唐 代 前 期 の 非 常 に 多 く の 政 治 措 置 や 国 家 基 礎 の建 設 な どが 、 長 安 、 洛 陽 の環 境 と 直 接 、 間 接 に 関係 して い る こ と は容 易 に 見 て 取 れ る。 こ の 問 題 に つ い て 文 献 史 料 に基 づ く 議 論 は 非 常 に 多 い が 、 新 た に得 られ た 考 古 資 料 へ の 関 心 は 非 常 に薄 い 。 現 在 で は 、 両 京 か ら離 れ た 場 所 に あ る 運 河 、 橋 梁 、 穀 物 倉 、桟 道 な どが 次 々 と発 見 され て お り(2)、も し、場 所 が 非 常 に 離 れ て い る遺 跡 で あ っ て も 、 そ れ らを つ な ぎ合 わ せ て1つ の 有 機 的 総 体 と し、 両 京 全 体 の 環 境 ・空 間 運 用 の議 論 の 姐 上 に の せ れ ば 、 新 た な視 点 に よ る新 た な 研 究 の 端 緒 とな る だ け で な く、 環 境 と都 城 との 関係 に深 い 理 解 を も た らす こ と に な る だ ろ う。

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含 嘉 倉 洛 陽 に は な ぜ 東 西612m、 南 北710m、 総 面 積43万 ㎡ に も 達 す る 巨 大 な穀 物 倉 が 出 現 し た の だ ろ うか?食 糧 を 蓄 え る 目的 は 何 だ っ た の だ ろ うか?考 古 資 料 に よ り長 安 、 洛 陽 の 立 地 環 境 を 議 論 す る に は 、 含 嘉 倉 が 認 識 の 出発 点 と な る。 含 嘉 倉 は 、 洛 陽 が 東 都 と な っ た こ と と は最 初 か ら無 関係 だ っ た よ うで あ る。 階 の場 帝 が 即 位 後 に 洛 陽 を建 設 す る が 、そ の 理 由 は 「洛 邑 は 古 よ りの都 、王 畿 の 内 、天 地 の 合 す る所 、 陰 陽 の 和 す る所 な り。 控 え る に 三 河 を 以 て し、 固 む る に 四 塞 を 以 て す 。 水 陸 通 じ、 貢 賦 等 し。 故 に 漢 祖 曰 く、 『吾 、 天 下 を行 く こ と多 き も、 唯 だ 洛 陽 を 見 る の み 』 と。 古 よ り皇 王 、 何 ぞ 嘗 て 意 に 留 め ざ るや 。 都 とせ ざ る所 は蓋 し由 有 ら ん。 或 い は 九 州 の 未 だ 一 な ら ざ る を 以 て 、 或 い は 其 の 府 庫 に 困 る を以 て 、 作 洛 の 制 、 未 だ 暇 あ ら ざ る所 以 な り。 … 今 、 伊 、 洛 に東 京 を 螢 建 す べ し。 便 ち 即 ち 官 を 設 け 職 を 分 ち 、 以 て 民 極 と爲 す な り」 とい うも の で あ っ た(3)。要 す る に 洛 陽 の 位 置 は 貢 賦 に も、天 下 を 掌 握 す る に も適 して い る とい うこ とで あ る。 『階書 』場 帝 紀 上 に は さ らに 「今 は漢 王 諒 悸 逆 し、毒 は 山 東 を 被(お お)う 。 遂 に 州 縣 を して 或 い は 非 所 に倫(し ず)ま しむ 。 此 れ 關 河 懸 遠 に して 、 兵 急 に赴 か ざ る に 由 る。 加 う る に 井 州 の 移 戸 を 以 て 復 た河 南 に 在 ら しむ 。 周 、 股 人 を 遷 す は 、 意 、 此 に 在 り。 況 ん や 復 た 南 服 は 遽 遠 、 東 夏 は股 大 な り。 機 に 因 りて 動 に順 ず る、 今 や 其 の 時 な り」 と述 べ て お り、 や は り関 東 と江 南 の 情 勢 を安 定 させ る うえ で 洛 陽 の役 割 が 重 要 で あ る こ とを 強 調 して い る の で あ る。 都 市 に は食 糧 を生 産 す る能 力 は な く、 都 城 の 存 続 と発 展 に は 、 食 糧 は 重 要 な 供 給 物 資 と 見 な され 、 そ れ は 国 家 の 安 全 、 政 権 の 存 亡 に 関 わ る も の で あ っ た 。 東 都 造 営 時 に 含 嘉 城 は あ っ た が 、 倉 城 が 主 で は な く(4)、階 代 の 穀 物 倉 は 洛 陽 周 辺 の子 羅 倉 、 洛 口倉 、 回 洛 倉 、河 陽倉 な どで あ っ た 。唐 初 、[洛 陽 は]一 時 的 に東 都 を廃 され た が 、李 世 民 の 秦 王 府 は洛 陽 に あ り、 皇 位 継 承 後 は洛 陽 宮 を復 興 させ(5)、3度 に わ た り洛 陽 に 移 っ て政 務 を 執 っ て お り、 そ の 期 間 は2年 余 りに お よぶ 。 次 い で 高 宗 は 洛 陽 で 大 規 模 な 造 営 を行 い 、 顕 慶2(657)年 、 「東 都 」 の 称 号 を回 復 した の で あ る(6)。 含 嘉 倉 が 穀 物 倉 と して 使 用 され 始 め た 時 期 は 明 らか で な い が 、 唐 代 の 国 家 最 大 の穀 物 倉 で あ っ た こ と に は 何 ら疑 い は な い 。 ボ ー リ ン グ調 査 で は 穴 蔵287基 を確 認 して い る が 、 現 代 の 建 物 の 下 に あ る もの も多 量 に あ り、 総 数 は400基 以 上 に及 ぶ 。 整 然 と配 置 され 、 穴 蔵 と穴 蔵 の 間 隔 は10rn前 後 あ る。 す で に 発 掘 され た 穴 蔵 は40基 余 り、 そ の 多 くが 円形 、 平 底 で 、 口径 が 大 き く底 が 小 さい 。 穴 蔵 の 底 は 、 ま ず 火 で 焼 き 、 さ ら に焼 土 塊 と木 炭 と砕 石 を混 ぜ た も の を敷 き詰 め て 防 湿 層 と し、 中 に は壁 板 の 痕 跡 が 発 見 され た も の も あ る。 穴 蔵 上 に は木 製 の 骨 組 み に 泥 を 塗 っ た 地 上 構 造 物 が あ っ た と思 わ れ る。穴 蔵 の 口径 は10∼16m、 最 大 の もの で18mあ る。 深 さ は7∼9mで 、 最 深 の も の で12rnで あ る。 大 型 の 穴 蔵 は 穀 物 を1万 石 以 上 、 小 型 の も の で 数 千 石 を 蓄 え る こ とが 可 能 で あ っ た 。 そ の よ うな 穴 蔵 が 、 こ れ ほ ど多 くあ る こ とか ら穀 物 の 貯 蔵 量 の 大 き さを 窺 うこ とが で き よ う(7)。史 書 に は唐 の 玄 一30一

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宗 の 天 宝8(749)年 の 全 国 の 主 要 な 大 型 穀 物 倉 に貯 蔵 され た 穀 物 の 合 計 は1,266万 石 で あ る が 、含 嘉 倉 の貯 蔵 量 は583万 石 と あ り、 ほ ぼ 半 分 を 占 め て お り(8)、ま さ に 当 時 の 最 大 規 模 の穀 物 倉 だ っ た の で あ る(図1∼3)。

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図1階 唐 洛 陽 城 と含 嘉 倉 の 関 係 図8さ 伽o。ii

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  イ i・ ….''"='口 .' .1' _-3il ."1 .一..一 一_r-一 一・・, 図2含 嘉 倉 穴 蔵 分 布 図 図3含 嘉 倉穴 蔵 復 原 図 含 嘉 倉 の 莫 大 な 貯 蔵 食 糧 が 、 洛 陽 城 で 消 費 され る た め の も の で は な い こ と は 明 らか で あ り、 「關 中 は 號 して 沃 野 と稻 す る も、 然 れ ど も其 の 土 地 は狭 く、 出 す 所 は 以 て 京 師 に 給 し、 水 旱 に備 う る に 足 らず 。 故 に 常 に 東 南 の粟 を 韓 漕 す 」 とあ る 史 料 を 連 想 させ る(g)。唐 代 長 安 の 官 員 が 激 増 し、 軍 需 品 や 民 の食 糧 は 、 関 中 で 生 産 す る食 糧 だ け で は 供 給 で き な く な っ て い た こ とが 窺 え る。 長 安 の食 糧 不 足 と洛 陽 の食 糧 貯 蔵 を 関連 させ る と、 洛 陽 の 含 嘉 倉 は 中継 基 地 に ほ か な らず 、 そ の 目的 は 長 安 に転 送 す る こ とに あ っ た の で あ ろ う。 関 中 の 「地 狭 き」 長 安 に 都 を置 い た た め 、 人 々 の 消 費 生 活 の 一 部 を各 地 か らの 供 給 に よ り賄 わ な け れ ば な らな か っ た。と りわ け食 糧 は 、河 北 と食 糧 生 産 の盛 ん な 江 准 か ら の租 米 に 頼 っ て い た 。 長 安 に輸 送 す る た め に は 、 まず 、 洛 陽 に 集 約 す る必 要 が あ り、 そ の た め 洛 陽 に 出 現 した 巨

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大 な 含 嘉 倉 は 必 須 の もの だ っ た の で あ る。「凡 そ 都 已 東 の 租 は 含 嘉 倉 に 納 め 、含 嘉 倉 よ り韓 運 し以 て 京 の 太 倉 を 實 す 」 とあ る(10)。 長 安 が 都 城 とな っ た 当初 は 、 主 と して 管 理 規 制 す る こ と の利 点 を 考 慮 した も の で あ っ た が 、 統 一 帝 国 の政 権 が 安 定 す る と、 人 口 は絶 え ず 増 加 し、 次 第 に 弱 点 が 目立 っ よ うに な っ て きた 。 洛 陽 は基 本 的 に長 安 と 同 一 の プ ラ ン を 用 い て い るが 、 異 な る 点 は洛 河 を 意 図 的 に 城 内 に 取 り込 ん だ こ とで 、地 理 的 に も全 国 の 中央 に あ た り、中原 の経 済 の 発 達 地 域 で あ り、 交 通 は便 利 で あ り、 次 第 に そ の 長 所 が 顕 在 化 して き た の で あ る。 長 安 と洛 陽 の そ れ ぞ れ の 動 向 は 、 国 家 の政 治 、 経 済 に影 響 を 与 え 、 国 家 の 穀 物 倉 で あ る 含 嘉 倉 も 自ず と重 要 と な っ た。 含 嘉 倉 の 一 部 の発 掘 調 査 で 、 食 糧 搬 入 時 の銘 文 を 刻 ん だ 碑 が 出 土 して い る。 銘 文 は最 初 に 倉 名 を刻 み 、 次 い で 場 所 を刻 み 、 さ らに 穀 物 を輸 送 して き た場 所 、 時 間 、 種 類 、 数 量 お よび 入 庫 の 年 月 日を 刻 み 、 最 後 に 携 わ っ た 中 央 官 吏 、 本 倉 の 官 吏 、 外 地 の 官 吏 と穴 蔵 を 警 備 す る武 職 の 官 吏 な どを 刻 み 、 職 位 が 最 も高 い も の は最 後 に 記 され る。 銘 文 に は唐 代 の 調 露 、 天 授 、 長 寿 、 聖 暦 と開 元 な どの 年 号 が あ る(図4、5)。 穀 物 が 運 ば れ て きた の は 、蘇 州 、徐 州 、楚 州(江 蘇 省 中部)、 潤 州(江 蘇 省 鎮 江)、 マ除州(江 蘇 筍 除州)、 階 州(河 北 省 邪 台)、 糞 州(河 北 省 翼 県)、 徳 州 、漢 州(山 東 省 漢 県)、 魏 州(河 北 省 大 名)な どの 地 域 か ら で あ る。

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瑞"3・'一 胡 図4含 嘉 倉銘 文 碑 図5含 嘉 倉 銘 文 傳 1.穴蔵50出 土、2.穴蔵19出 土、3.穴蔵182出 土 穴蔵19出 土 銘 文 の 内容 に 関 す る研 究 に よれ ば 、唐 初 か ら 玄 宗 の 開 元4年[716]ま で は 、含 嘉 倉 が 大 き く拡 張 され た 時 期 で あ り、 食 糧 の 搬 入 が最 も 多 い の は 高 宗 と武 則 天 が 洛 陽 に滞 在 した 時 期 で あ る(11)。銘 文 傳 は 多 く は な く、 完 全 な も の で も な い が 、 明 らか に な っ た 情 報 と二 人 の 皇 帝 の 洛 陽 滞 在 時 間 が 最 も長 か っ た こ と と は 見 事 に 整 合 して い る。 王 朝 の 度 重 な る洛 陽 へ の 移 動 は 、 国 家 の動 乱 に よ り生 じた の で は な く、 政 治 上 の原 因 が 一32一

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[都 の遷 徒 の]主 た る要 因 で は な い 。 高 宗 期 の 朝 廷 は7回 も洛 陽 に 遷 っ て い る が 、 政 治 上 の理 由 だ け で は こ の 問 題 を 説 明 す る こ と は で き な い 。 経 済 面 か ら考 え る な ら ば 、 多 量 の 人 口が 東 都 に移 動 して 食 を得 る こ とは 、実 は応 急 か つ 高 い 効 果 の あ る 措 置 で あ る。な ぜ な ら、 皇 室 と数 多 く の 随 員 は 途 中 で 食 糧 を 得 るた め に 、[食 糧 の 長 安 へ の]輸 送 は 不 必 要 とな り、 通 過 す る地 域 で も税 を 免 除 され 、 そ れ ら の 地 域 に 何 ら か の 破 壊 や 貧 困 を も た らす こ と も な い か らで あ り、 や む を 得 な い 状 況 の 中 で 非 常 に 賢 明 な 対 応 な の で あ る。 含 嘉 倉 の 碑 の銘 文 か ら、 蘇 州 か ら洛 陽 ま で の食 糧 の 輸 送 に1年 も の 時 間 を 要 した こ とが 分 か るが 、 そ の 原 因 は 沿 線 上 の 河 川 の 水 量 の 増 減 とい う障 害 に よ る も の と思 わ れ る(12)。 含 嘉 倉 で の 食 糧 貯 蔵 が 重 要 とな れ ば 、 食 糧 、 特 に 江 南 の食 糧 を い か に して 含 嘉 倉 に運 び 込 み 、 さ らに 長 安 に輸 送 す る の か とい うこ と も非 常 に 重 要 で あ る。文 献 に は 、 「州 毎 に送 る所 の租 及 び 庸 調 等 、 本 州[宣 州 の こ と]正 月 二 月 上 道 し、 揚 州 に 至 り斗 門 に入 らば 、 自口ち水 淺 き に逢 い 、 已 に 阻 碍 有 り、 須 ら く停 留 す る こ と一 月 以 上 な るべ し。 三 月 四 月 以 後 、 始 め て准 を 渡 り沐 に入 る も、 多 く沐 河 の 乾 淺 に属(つ)き 、 又 た 船 運 停 留 す 。 六.月七,月に 至 り て後 、 始 め て 河 口 に 至 れ ば 、 自口ち 黄 河 の 水 濾 に逢 い 、 河 に 入 る を得 ず 。 又 た 須 ら く停 ま る こ と一 雨 月 な る べ し。 河 水 の小 な る を待 ち 、 始 め て 河 を 上 る を 得 。 洛 に 入 ら ば 自口ち漕 路 乾 淺 、 船 艘 隆 闊 して 、 般 載 停 滞 し、 備(つ ぶ さ)に 歎 辛 を極 む 。 江 南 よ り東 都 に 至 る を 計 る に 、 停 滞 の 日多 く 、行 く を得 る 日少 な し」 とあ り(13)、江 南 の 食 糧 を長 安 に輸 送 す る こ と が 非 常 に 困難 で あ っ た こ と が窺 え る。 運 河 お よび 沈 没 船 各 地 の 食 糧 を長 安 に 転 送 す るだ け な ら ば 、 洛 陽 は 中 継 点 の1つ に す ぎ な い 。 階 唐 が 天 下 を治 め る と、首 都 長 安 の 人 口 は 急 速 に 増 加 して50∼70万 の 間 、な い しそ れ 以 上 に 至 り(14)、 生 活 消 費 の 点 で試 練 に 直 面 す る こ と に な っ た 。 隆 盛 す る 首 都 長 安 は 、 生 活 保 障 の 点 で は 逆 に脆 弱 と な り、 こ の 逆 説 が 含 嘉 倉 の 発 見 に よ り一 部 明 らか とな り、 含 嘉 倉 で 出 土 した 儲 糧 傳 の 銘 文 が 、 南 方 に 関 心 を 向 け させ る こ とに な っ た の で あ る。 果 た して 江 南 の 洛 陽 へ 至 る河 道 上 で 唐 代 の 沈 没 船 が 発 見 され た 。 江 蘇 省 如 皐 で 発 掘 され た も の は 、 長 さ17.32m、 最 大 幅2.58m、 船 倉 の 深 さは1.6mで あ り、 年 代 は唐 の 高 宗 以 後 で あ り、 風 に よ りマ ス トが折 れ 沈 没 した も の と考 え られ る。 こ の 船 は9つ の 船 倉 に 分 か れ て お り、容 積 は 非 常 に大 き く、一 艘 で お よ そ20tを 積 載 す る こ と が 可 能 な 輸 送 船 で あ り (15)、沈 没 した の は 南 方 か ら洛 陽 ま で の 漕 運 に 用 い られ る河 道 上 で あ っ た 。 揚 州 で も唐 代 の 沈 没 船 が 出 土 して い る(16)。 階 唐 期 の 国 家 の 収 入 の 主 源 は 賦 税 で あ り、 実 物 税 は 穀 物 と 織 物 が 主 で あ る。 こ の2品 目の 重 要 な 産 地 が 河 北 と江 南 で あ り、 階 の蝪 帝 が 奇 跡 的 に 開 削 した 大 運 河 に よ り、 これ ら の 地 域 の 食 糧 は永 済 渠 、 通 済 渠 な ど を通 じて 洛 陽 に もた ら され た。 通 済 渠 は准 河 と黄 河 を連 絡 す る もの で 、 安 徽 省 准 北 市 灘 渓 県 柳 孜 集 は 通 済 渠 沿 岸 の 要 衝

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で あ る。 近 年 、 こ の 地 で 大 運 河 の 遺 跡 が 発 掘 され 、 唐 代 の 沈 没 船 や 宋 代 の石 造 の 埠 頭 が 発 見 され 、 大 量 の 階 、 唐 、 宋 代 の 磁 器 が 出 土 した 。 沈 没 船 は運 河 の 故 河 道 の 南 側 で 発 見 され た 。 船 体 は 堆 積 した 土 砂 に埋 も れ て お り、 合 計 8艘 で あ り、船 と船 の 間 隔 は 非 常 に接 近 して お り、中 に は 互 い に 折 り重 な っ た も の も あ る。 船 の 破 損 状 況 か ら、 沈 没 す る 前 に い ず れ も何 らか の 外 か ら の衝 撃 一 そ の 程 度 は 異 な るが 一 を受 け て い た よ うで あ る。1号 船 は 木 板 構 造 で 、 両 端 が狭 ま り、 中 央 が 膨 らん で い る。 全 長 は12.6m。 船 倉 内 か ら は 白紬 、青 紬 、黄 紬 の 磁 器 お よび 土 ・器 、鉄 器 な どが 出 土 して い る。 2号 船 は一 本 の 丸 木 か ら削 り出 した 丸 木 舟 で 、 長 さ10.6m(図6)。3号 船 は 破 損 した 丸 木 舟 で 、4号 船 は わ ず か に 船 首 と船 底 板 と右 舷 の 舷 側 板 が 遺 存 して い る の み で 、5号 、7号 、 8号 船 も著 し く破 損 して い る 。6号 船 の 保 存 状 態 は 非 常 に 良 く 、総 長 は27m、 幅3.7m、 深 さ1.4mで 、 船 倉 内 か らは 青 紬 、 黄 紬 、黒 紬 の磁 器 や 三 彩 器 、 土 器 、 「開 元 通 宝 」 銭 な どが 出 土 して い る。 船 を覆 っ て い た 瓦 礫 層 内 か ら は 黄 紬 磁 器 椀 、 青 紬 玉 壁 底 椀 、 青 紬 壺 、 三 彩 器 な どの 陶 磁 器 お よ び 「開 元 通 宝 」 銭 が 出 土 して お り、 そ れ ら は船 体 に 堆 積 して い た 地 層 か ら 出 土 す る器 物 とほ ぼ 同 じで あ る。磁 器 に は 、初 歩 的 な 検 討 で 、寿 州 窯 、薫 窯 、吉 州 窯 、 景 徳 鎮 窯 、 建 窯 、 長 沙 窯 、 越 窯 、 耀 州 窯 、 磁 州 窯 系 、 定 窯 、 鈎 窯 、 臨汝 窯 、 宣 州 窯(東 門 窯)な どの も の が あ る こ と が分 か っ て い る。 こ れ らは 運 河 が 食 糧 の 輸 送 だ け で な く、 そ の 他 の 物 資 も運 ん で い た こ と、 さ らに そ れ が宋 代 ま で 継 続 して い た こ とを 物 語 っ て い る。

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・ 一一 冨一『-一 忌 再 一 一一、 臼 一 一 一 ムIl ロ 。"舛 「一』甲一r山 一一1]一 一 一一『 一一一一一 『 一一一一 一一 一一   o]米 1号抗船{独木舟 〕平、剖面囲 図6柳 孜 運 河1、2号 沈 没 船 大 運 河 で こ の よ う に 多 く の 唐 代 の 沈 没 船 が 発 見 さ れ た の は 初 め て の こ と で あ り 、 こ れ ら の 船 は 、大 、 中 、小 の3つ に 分 け る こ と が で き る 。1、2号 船 は 短 距 離 の 輸 送 船 と 考 え ら れ 、 -34一

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6号 船 は船 体 が 非 常 に大 き く、積 載 重 量 は30∼40tと 推 定 で き 、長 距 離 の 輸 送 船 で あ ろ う。 これ らの 船 が 集 中 して 出 土 した こ と は 、 唐 代 で は こ の 場 所 が す で に 積 み 替 え 埠 頭 とな り、 各 地 の 物 資 が 集 中 し、 大 量 の船 が 輸 送 に 当 た っ て い た こ と を物 語 っ て お り、 当 時 の漕 運 の 隆 盛 を 見 る こ とが で き る。 考 古 調 査 に よ る と、 当 時 の運 河 沿 岸 の 町 の あ っ た 場 所 や 運 河 の 故 河 道 か ら は 多 量 の 遺 物 が 出 土 して お り、 運 河 交 通 の 隆 盛 と、 沿 線 に 次 第 に数 多 くの 町 が 勃 興 して き た こ とを 物 語 っ て い る。 そ の 中で 特 別 な の が 揚 州 で あ り、 南 北 の 頻 繁 な 漕 運 の 中 で 重 要 な 役 割 を担 っ た こ と が 、 揚 州 城 の 発 展 を促 した の で あ る。 揚 州 は 、 事 前 に 綿 密 に設 計 され 築 か れ た 長 安 や 洛 陽 とは 異 な り、 先 に 都 市 域 が あ っ て 、 後 に 城 壁 が 築 かれ た 都 市 で あ り、 主 に水 路 と街 道 が 里 坊 を 区 画 して お り、 坊 塙 は 発 見 され て い な い 。 都 市 の 形 状 は政 治 軍 事 を 目的 と した も の で は な く、 物 資 の集 散 地 か ら始 ま っ た 町 とい っ て も よ く、 城 内 に 張 り巡 ら され た 運 河 は そ の よ うな需 要 に 応 え る た め の も の で あ る。こ の 立 地 環 境 が 体 現 す る都 市 の 役 割 の 変 化 は 、 新 型 の 商 業 都 市 の 出 現 を示 して い る。 黄 河 の 桟 道 ・蒲 津 渡 広 大 な 領 域 を もつ 唐 朝 で は 、 自然 災 害 も 多 くは 局 地 的 な も の で 、 全 体 と して 食 糧 は 南 北 で調 整 す る こ とが で き た 。 関 中、 中 原 が 災 害 に 襲 わ れ て も、 二 期 収 穫 され る江 南 の食 糧 は 北 方 に輸 送 され た 。 しか し運 河 に よ り食 糧 を 洛 陽 に輸 送 す る こ とは 容 易 な こ とで は な く、 さ ら に長 安 ま で の 輸 送 は い っ そ う大 問 題 で あ っ た 。 人 力 と畜 力 で 輸 送 を 行 っ て い た 時 代 で は 、 洛 陽 か ら長 安 へ 多 量 の 重 量 物 を 運 搬 す る こ と は 陸 路 で は 困 難 で あ り、 黄 河 の 水 運 を と ら ざ る を 得 な い 。 問題 に な る の は 、 風 雨 が順 調 で あれ ば 、 思 い どお りに な るが 、 一 度 、 水 害 や 干 害 とな れ ば 、 黄 河 の 水 量 の増 減 に よ り航 行 が 直 接 規 制 を 受 け る こ とで あ る。 しか し 水 害 や 干 害 の 時 こそ 正 に長 安 が 食 糧 を欲 して い る時 で あ り、 決 め られ た 期 間 内 に 食 糧 を輸 送 で き るか 否 か は 長 安 の 人 々 の 命 に 関 わ る こ とだ っ た の で あ る。 文 献 に は 「江 准 、 租 米 を 漕 して 東 都 に 至 り含 嘉 倉 に 輸 し、 車 或 い は駄 を 以 て 陸 運 し陳 に 至 る。 而 も水 行 して 來 る こ と遠 く、 風 波 覆 溺 の 患 多 く、 其 れ 嘗 て 十 に 七 八 を 失 う。 故 に 其 れ 率 ね 一 斜 に して 八 斗 を得 ば成 勢 と爲 す 。 而 して 陸 運 して 陳 に 至 る に綾 か に 三 百 里 、 率 ね 雨 斜 に して 傭 銭 千 も て 計 う。 民 の租 を送 る者 、 皆 水 陸 の 直 有 り、 而 も河 に 三 門 底 柱 の 瞼 有 り」 と あ る(17)。この 史 料 で は水 運 に も弊 害 が あ る こ と を述 べ て お り、そ の鍵 とな る の が 、 い か に して 「三 門 底[砥]柱 の 瞼 」 を 通 過 す る か とい う こ とで あ っ た 。 河 北 、 江 南 の食 糧 を 関 中 に輸 送 す る に は 、 途 中 、 恐 るべ き 黄 河 三 門峡 谷 を 通 らね ば な ら な か っ た 。 そ こ は 両 岸 が 壁 の よ うに 讐 え 立 ち 、 河 の 中 央 に は2つ の 岩 礁 が 河 流 を3つ に 分 け 、 そ れ ぞ れ 「人 門 」 「鬼 門」 「神 門 」 と 呼 ば れ 、 そ の た め 「三 門 峡 」 と言 わ れ る。 さ らに 砥 柱 が 三 門 に 向 か い あ っ て お り、 黄 河 の 水 流 は 三 門 を 出 る と砥 柱 に ぶ つ か り、 さ らに 二 つ の流 れ と な っ て柱 を包 み 込 ん で 流 れ て い く。 そ の た め 「中流 砥 柱[柱 石 の 意 の成 語]」 とい

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うの で あ り、これ こ そ が 天 下 に 知 られ た 三 門 の 天 険 で あ る。「歳 ご と に漕 して 底 柱 を経 る に 、 覆 る者 幾 ど半 ば な り。 河 中 山 有 り、『米 堆 』 と號 す 。 運 舟 、三 門 に入 らば 、 平 陸 の 人 を雇 い 門 匠 と爲 し、 標 を執 り摩 を 指 す 。 一 舟 百 日に して 乃 ち 能 く上 す 。 諺 に 曰 く 『古 は 門 匠 の 墓 無 し』 と。 謂 は皆 な 溺 死 す る な り」(18)と あ る。 た とえ 漕 運 の船 が 何 度 転 覆 して も、 こ の危 険 を 冒 さね ば な ら な か っ た 。 「(開元)二 十 九 年 、 陳 郡 太 守 李 齊 物 、 砥 柱 を繋 ち 門 と爲 し以 て 漕 を通 じ、 其 の 山顛 を 開 き朝 路 と爲 し、 石 を焼 き醗 を沃 ぎ て こ れ を繋 つ 。 然 れ ど も石 を 棄 て 河 に 入 れ ば 、 激 水 益 ま す 濡 怒 し、 舟 、 新 門 に入 る こ と能 わ ず 、 其 の水 の 漂 る を 候 ち 、 人 を 以 て 舟 を翰 き て 上 る 」 と あ る(19)。 こ の 人 工 の水 路 の 狙 い は 「三 門 の贔(い た だ き)を 辟(ひ ら)き 、 岩 険 の 地 を途(こ)え 」 て 漕 運 を 通 じ させ る こ と に あ っ た 。 しか し、 黄 河 が 増 水 す れ ば水 路 の 流 れ も激 し く な り、 逆 に 渇 水 の 時 は 、 水 路 は 干 上 が っ た の で あ る(20)。 黄 河 の 漕 運 に は 多 くの 困 難 が あ っ た が 、 考 古 調 査 に よ り発 見 され た 三 門 峡 の 桟 道 か らは そ の 実 際 の 状 況 を見 る こ と が で き る(21)。山 西 省 平 陸 、 夏 県 、 垣 曲 の3県 の 黄 河 に 沿 っ た 場 所 で は 、 古 桟 道 の 遺 跡 が45か 所 、 総 長4,517mに わ た っ て 発 見 され て い る 。桟 道 は 山 に 依 っ て 河 に 面 して お り、 修 築 時 に は まず 崖 面 に 「凹 」 字 を 横 に 倒 した 形 の 通 路 を 掘 削 し、 通 路 の側 壁 上 に は 方 形 の 壁 孔 を穿 ち 、 地 面 に は底 孔 が 穿 た れ た 。 方 形 の 壁 孔 は 、 桟 道 路 面 上 に 横 に 並 べ ら えた 木 梁 を 固 定 す るた め に用 い られ 、幅 、高 さは 多 く が12∼36cmの 問 で あ る。 底 孔 に は 木 梁 を 差 し込 み 、 梁 上 に は 板 を 敷 く。 桟 道 は 基 本 的 に 水 平 で あ る が 、 幅 に は 広 狭 が あ る(図7)。 桟 道 は 車 馬 の通 行 が で き ず 、 通 行 す る者 と船 曳 だ け が使 用 で き た 。 岩 壁 上 に は 牛 鼻 形 孔 が648個 あ る。 牛 鼻 形 孔 は 一 般 に左 右 に 配 列 され た2つ の 小 さ な 孔 が組 み 合 わ さ っ た も の で 、2つ の 孔 は 中で つ な が っ て お り、 綱 を縛 る の に用 い 、 横 方 向 に 連 な っ て 、 一 定 の 高 さ の綱 の 手 す り とな り、 船 曳 が船 を 曳 く と き に 掴 ん だ り、 人 夫 の 安 全 確 保 の 役 割 も担 っ て い た 。高 宗 の 「顯 慶 元(656)年 、苑 、.-.弘 … 西 監 楮 朗 議 す ら く、 三 門 山 を繋 r軒 乱1'ち て 梁 と爲 し、陸 運 を通 ず 可 し、

蕪1鍵嫡

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.砕 、 窪 護 .協 撃 胃 聯 ・ン ∴ な わ)ち 墜 ち て 死 な ば 、 則 ち 逃 図7黄 河 三 門 峡 桟 道 亡 を 以 て 報 じ・ 因 りて 其 の 父 母 妻 子 を繋 ぐ。 人 以 て 苦 と爲 す 」 -36一

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とあ り(22)、唐 代 の桟 道 の 修 築 と人 夫 の 船 曳 き の 過 酷 さ と危 う さを 述 べ て い る。 考 古 調 査 に よ り、 早 く も貞 観16年[642]に は 官 員 を派 遣 して 桟 道 と水 路 の 修 築 を 調 査 させ 、 同 時 に 造 船 して 試 航 させ て い た こ とが 分 か っ た(23)。 さ らに2つ の 総 章3(669)年 の 題 記 に は 、 唐 朝 が 派 遣 した 官 員 が 人 々 を 率 い て 桟 道 を修 築 した こ と が記 され て い る(24)。 そ の 中 で 述 べ られ る 「三 門 河 道 を 開 繋 す る の 用 功 、 記 す 可 か らず 」 とは 、 大 が か りで 難 航 した 工 事 で あ っ た こ と を反 映 して い る。 さ ら に 「垂 操 元 年[685]七.月 曲沃 縣 朱 大 恵 」 の題 記 が あ り、 則 天 武 后 期 に も依 然 と して 桟 道 が 修 築 中 で あ っ た こ とが 分 か る。 岸 壁 で は 後 漢 か ら清 代 ま で の 石 刻 が44か 所 で発 見 され て お り、唐 代 の 石 刻 に は 貞 観 、総 章 、 垂 挑 の 紀 年 が あ り(図8、9)、 唐 初 か ら こ の 地 域 の黄 河 の 漕 運 が利 用 され 、 絶 えず 補 修 され て い た こ と が 証 明 され て い る。 桟 道 が 湾 曲 す る箇 所 の崖 面 に は 、 必 ず 深 さ が異 な る 幾 筋 も の 磨 滅 痕 が あ る。 綱 に よ り研 磨 され 、 非 常 に 滑 らか に な っ て お り、 お そ ら く曳 き 綱 を 曳 く際 に残 され た もの で あ ろ う。 重 い 船 を流 れ に 逆 らい 遡 航 させ る に は 人 夫 に よ り船 を 曳 か ざ る を得 な か っ た の で あ る。そ れ は非 常 に 困難 で 、磨 滅 痕 の 深 い も の は30cmに も達 し て お り、 長 い 時 間 を か け て 出 来 上 が っ た の で あ る(図10)。

熱 灘1

図8黄 河 三 門 峡 桟 道 上 の 唐 代 貞 観 題 記 図9黄 河 三 門峡 桟 道 上 の唐 代 総 章 題 記

鞍 隷

図10黄 河 三 門 峡 桟 道 上 の 石 孔 と磨 滅痕

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綱 を 引 い た 痕 跡 が 多 く遺 され た 場 所 に は 立 式 転 筒 が あ る。 これ は 上 ・中 ・下 の3部 分 か ら構 成 され 、 上 部 は岩 壁 上 に方 形 の 孔 が あ り、 下 部 の 垂 直 に 対 す る地 面 に は 円形 の底 盤 が あ り、 底 盤 の 中央 に は1な い し2つ の 浅 い 窪 み が 彫 られ 、 非 常 に 滑 らか に 磨 か れ て お り、 重 量 物 が 長 期 間 に わ た っ て 回転 した 結 果 つ く られ た も の で あ る こ とが 分 か る。 こ う した も の が20か 所 余 りあ り、 そ の役 割 は 、 曳 き 綱 を 曳 く際 に 綱 と岩 壁 に 擦 れ る こ とを 避 け 、 綱 の傷 み を 緩 和 し、船 曳 が 船 を 曳 く際 の 労 力 を軽 減 す る こ と で あ っ た(25)。こ れ らの 遺 構 を 見 れ ば 、 洛 陽 含 嘉 倉 の租 米 を 長 安 に転 運 す る こ との 困難 さを 窺 うこ とが で き る。 輸 送 は 環 境 の制 限 を 極 め て 強 く受 け る に もか か わ らず 、 関 中 地 区 に も し災 害 が あ り急 に 食 糧 が 必 要 と なれ ば 、そ の 救 援 に は 必 ず 黄 河 を通 り、桟 道 や 船 曳 に よ っ て 困難 な漕 運 を行 っ た の で あ る。 大 規 模 な桟 道 の 修 築 は 、 工 事 量 も大 き く、 施 工 も極 め て 難 しい た め 、 国 家 の 力 に頼 ら ざ る を え な い 。 唐 代 前 期 に絶 えず 黄 河 の 桟 道 を 修 築 して 漕 運 を確 保 した こ と も、 断 崖 絶 壁 に 道 路 を 削 り出 した こ と も 、 す べ て 長 安 の 生 活 と統 治 の 生 命 線 を 確 保 す る こ とだ っ た の で あ る。 長 安 と 関係 す る交 通 道 路 で は 、 この 他 に も重 要 な遺 跡 が 発 見 され て い る。 そ れ が 山 西 省 蒲 州 古 城 の 黄 河 故 河 道 東 岸 の 蒲 津 渡 遺 跡 で あ る(26)。そ れ は 雄 渾 な 鉄 牛 、 鉄 人 、 鉄 山 、 鉄 柱 な どか ら構 成 され る橋 頭 遺 跡 で あ る(図11)。 蒲 津 橋 は 浮 橋 で あ り、 こ れ らの 鋳 造 物 は 舟 を繋 ぎ とめ 、浮 橋 を 固 定 した 部 材 で あ る。鉄 牛 は 合 計4体 で 、1号 牛 の 長 さ は3.3rn、 高 1.5mで あ り、 そ の 他 の3体 も ほ ぼ 同 じ で あ る。 い ず れ も西 を 向 き 、 伏 した 姿 で あ り、 幅 2.3m、 長 さ3.5m、 厚 さ0.7rnの 鉄 板 の 上 に 鋳 造 され て い る。 各 牛 の 下 に は4本 の 大 鉄 柱 が あ り、地 表 下 に深 さ3m以 上 入 っ て い る。牛 の 重 量 は 約15ト ン で あ る 。各 牛 の 尻 尾 の 後 ろ に は長 さ2.33rn、 直 径0.5mの 横 方 向 の鉄 軸 が あ り、 これ は 橋 の 鉄 の 鎖 を く く りつ け る の に 用 い られ た も の で 、4体 の 牛 に 合 計8本[1体 の 牛 に棒 を貫 通 させ 、左 右2本 と数 え る] で あ る。4体 の 牛 の 外 側 に は そ れ ぞ れ1体 の 鉄 人 が 牛 に沿 っ て 並 ん で い る。4体 の 鉄 牛 の 中 央 に は2つ の 鉄 山 が あ り、 鉄 牛 、 鉄 人 を 補 い ラ ン ドア ン カ ー の 重 量 を増 加 させ て い る の で あ る。 牛 、 山 、人 の 全 体 の配 列 の 中央 に周 長1.03rnの1本 の 大 鉄 柱 を 中 央 軸 と して 打 ち 込 ん で お り、 これ らが 組 み 合 わ さ り、 完 全 な浮 橋 の 橋 頭 の遺 構 を 構 成 して い る。 蒲 津 渡 は 古 代 黄 河 の 蒲 津 、 孟 津 、 茅 津 とい う3大 渡 し場 の1つ で あ り(27)、蒲 津 関 も長 安 に 通 じ る重 要 な 関 所 で あ る。 唐 代 の 東 北 の 陸 路 が 関 中 に入 る要 衝 で あ り、 河 東 の 塩 や 山西 の 鉄 な ど の重 要 戦 略 物 資 を長 安 な どへ 輸 送 す る街 道 で あ っ た。 こ の歴 史 あ る道 路 に は 以 前 か ら浮 橋 が あ り、 開 元9(721)年 に 改 築 され 、永 続 性 の 図11蒲 津 渡 橋 頭 遺 跡 あ る 浮 橋 と さ れ た が(28)、 金 の 元 光 元 一38一

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(1222)年 に 戦 火 に よ り破 壊 され た 。 巨 大 な浮 橋 の 橋 頭 は 、 設 計 が 巧 妙 で 、4体 の 鉄 牛 の 形 状 は そ れ ぞ れ 異 な り、 肥 え た 体 躯 、 隆 起 した 筋 肉 、 怒 っ た よ うな 丸 い 目 を して い る。 これ らは こ の 交 通 の動 脈 を 極 め て 重 視 して い た こ とを 具 体 的 に 示 して い る。 集 津 倉 ・塩 倉 遺 跡 唐 代 前 期 に は食 糧 を 絶 え ず 長 安 に 輸 送 す る必 要 が あ っ た が 、 洛 陽 の含 嘉 倉 に集 中 して 貯 蔵 され た 食 糧 を 、 黄 河 の 漕 運 に よ り長 安 へ と運 ぶ た め に は 、 必 ず 莫 大 な 対 価 が 必 要 な 三 門 の天 険 を 通 る必 要 が あ っ た 。 統 治 者 を悩 ま し続 け た こ の状 況 は 開 元 時 期 に な っ て 次 第 に 改 善 され た 。開 元21年[733]、 京 兆 サ とな っ た 斐 耀 卿 は 水 利 に も経 済 に も精 通 した 人 材 で あ っ た 。 彼 は 、 災 害 に よ る食 糧 の 欠 乏 か ら東 都 に食 を 求 め に い く玄 宗 に 向 か っ て 次 の よ うに 建 議 した の で あ る。 國 の 大 計 を爲 す に 、 臣願 は く は 陳 運 道 を 廣 げ 、 京 師 を して 常 に 三 年 の 食 有 ら し め ん こ と を 。 水 旱 と錐 も 憂 うる に 足 らず 。 今 天 下 の輸 丁 、 約 四 百 萬 、 丁 を して 百 銭 を 出 し 陳 、 洛 の 運 費 と爲 し、 又 た 益 の 半 ば は 螢 害 の 用 と爲 し、 司 農 、 河 南 、 陳 州 に 分 納 せ し む 。又 、租 米 を して 悉 く東 都 に 輸 せ しむ 。都 從(よ)り 陳 に 至 る ま で 、河 益 し濡沮 す 。 若 し漕 路 を 廣 げ 、 陸 を攣 じて 水 と爲 さば 、 支 す る所 尚 お 萬 計 に 嘉(あ ま)ら ん 。 且 つ 江 南 の租 船 、 水 を候(ま)ち 始 め て 進 む 、 呉 工 、 河 漕 に 便 な らず 、 庭 庭 停 留 し、 隠 盗 を 生 じ易 し。請 う ら くは 倉 を 河 口 に置 き 、以 て 東 租 を 納 め 、然 る 後 、官 自 ら載 を顧 み 、 分 け て 河 、洛 に 入 ら しめ ん こ と を。 三 門 を度(わ た)り て 東 西 各 お の 赦 倉 を 築 き 、 東 よ り至 る者 は 、 東 倉 之 を 受 く。 三 門 瞼 に迫 れ ば 、 則 ち河 に 労(よ)り 山 を繋 ち 、 以 て 車 道 を 開 か ば 、 十 敷 里 を運 び 、 西 倉 之 を受 く。 宜 を度 り徐 う に 太 原 倉 に 運 抵 し、 河 に 趨 き 滑 に 入 ら ば 、 更 に 留 阻 無 く、 費 釦 萬 を 減 ず べ し」 と。 天 子 、 其 の 計 を 然 り と し、 黄 門 侍 郎 、 同 中 書 門 下 平 章 事 に 拝 し、韓 運 使 に 充 っ 。 是 に お い て 河 陰 、 集 津 、 三 門 倉 を 置 き 、 天 下 の 租 を 引 き 、 盟 津 蘇(よ)り 河 を 源(さ か の ぼ)り て 西 せ しむ 。 三 年 に して 七 百 萬 石 を積 み 、 運 費 三 十 萬 繕 を省 く。(29) 斐 耀 卿 は か つ て の輸 送 幹 線 を利 用 して 大 改 革 を 行 い 、 輸 送 方 法 と 国家 の 穀 物 倉 の設 置 を 整 備 しな お した の で あ る。 黄 河 付 近 の 沐 口に 河 陰 倉 を 、 河 清 に 柏 崖 倉 を 、 三 門 峡 の東 に集 津 倉 、 西 に 三 門倉 を設 置 し、 さ らに 黄 河 三 門 峡 北 岸 の 断 崖 上 に 十 八 里 に わ た っ て 道 路 を 開 削 し、 これ に よ り危 険 な水 路 を回 避 した の で あ る。 沿 線 に 倉 庫 を設 置 し、 リ レー 輸 送 方 式 を 実 行 す る こ とで 長 江 、 准 河 、 沐 河 、 黄 河 、 洛 河 の 各 河 川 の 季 節 ご との 状 況 の 変 化 が 引 き 起 こす 輸 送 上 の危 険 と輸 送 時 間 の 遅 延 を 回避 した の で あ る。 斐 耀 卿 の 改 革 の 力 点 は 、 黄 河 の 三 門 峡 の東 西 に そ れ ぞ れ 穀 物 倉 を 置 き 、 三 門 の 北 山 の 十 八 里 を 開 削 して 陸 運 と した こ と に あ る。「三 門 東 の 集 津 倉 、三 門西 の 盤 倉 」の遺 跡 お よ び 「十 八 里 を 繋 ち 陸 道 」 と した 遺 跡 もす で に発 見 され て い る(30)。 集 津 倉 遺 跡 は 黄 河 北 岸 に 位 置 し、 三 面 を 山 に 囲 ま れ 、 南 は河 に 面 して い る。 遺 跡 の 範 囲

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は東 西 約120m余 、南 北 約40m余 で 、黄 河 の 北 約200m余 りの 場 所 で あ る(図12)。 地 表 に は漢 代 の 灰 色 縄 文 瓦 の 破 片 と唐 ・宋 の 白磁 片 が 散 布 して い る。倉 を建 て る際 に 斐 耀 卿 が 「今 、 漢 、 階 の 漕 路 、河 に 瀕 い 、 倉 厘 の 遺   尋 ぬ べ し」(31)と 述 べ て い る よ うに 、集 津 倉 は 漢 階 の遺 構 の 上 に 築 か れ て い る可 能 性 が 極 め て 高 く、 地 表 に 大 量 の 漢 代 の 瓦 片 が 散 布 して い る 状 況 と整 合 す る の で あ る。 集 津 倉 遺 跡 は 現 在 の龍 岩 村 で あ り、 こ の 地 で は龍 岩 村 が 「運 糧 城 」 と伝 え られ て い る。20世 紀 の90年 代 初 め の 道 路 工 事 の 際 、 数 十 点 の唐 宋 時 期 の 磁 器 が発 見 され た 。1997年 に発 掘 調 査 され 、唐 代 の建 築 趾1棟 、宋 代 の 建 築 趾2棟 お よ び 明清 時 期 の培 が 検 出 され た 。 出 土 した 各 種 の 建 築 部 材 と器 物 は 古 い も の で 漢 代 、 時 期 の 降 る も の は 明 清 の も の で あ る。 こ の こ とか ら長 期 に わ た る遺 跡 で あ る こ と が分 か るが 、 唐 代 で は 三 門 の 険 を避 け るた め の 食 糧 輸 送 の 中継 点 に 過 ぎ ず 、 長 期 に わ た る食 糧 の貯 蔵 に は用 い ら れ な か っ た の で あ る(32)。 塩 倉 の 遺 跡 は 三 門 峡 を黄 河 に 沿 っ て 西 に約2.5キ ロ行 っ た 台 地 上 に あ り、東 西 約100m、 南 北 約20∼30mで あ り、河 原 に近 接 して い る。 台 地 上 に は 数 多 くの 唐 代 の灰 色 素 面 布 文 瓦 片 と 白紬 磁 器 片 が 散 布 して お り、 そ の 磁 器 片 は 集 津 倉 遺 跡 で 出 土 す る も の と 同 じで あ る (33)。十 八 里 陸道 は 「三 門 峡 の 北 岸 に あ り、 今 日で は1本 の 細 い 道 が 東 西2倉 の 遺 構 を 通 っ て お り、 … こ こ が 唯 一 、 唐 代 の 旧道 の 遺 存 で あ る が 、 三 門 峡 地 区 内 で は ご く短 い 部 分 に す ぎ な い 」 と[報 告 され て い る](34)。 現 在 、 こ の 地 の村 の 名 前 が 糧 宿 村 で あ る こ とか ら も 、 唐 代 の 食 糧 輸 送 隊 が 陸 路 で 積 み 出 す 前 に宿 営 した 場 所 で あ っ た 可 能 性 が 極 め て 高 い (35)。三 門 峡 の 東 西 に そ れ ぞ れ 倉 庫 を 建 て る だ け な ら 、 臨 時 に 輸 送 の 準 備 をす る場 所 に す ぎ な い が 、 そ の 間 に 十 八 里 陸 道 を 開 削 す る こ とで 、 危 険 を避 け 、 陸 運 の 距 離 を短 縮 した の で あ り、さ ら に一 定 の 距 離 をお い た 倉 庫 の 設 置 と、停 滞 す る こ と の な い 分 割 輸 送 に よ っ て 、 そ の 効 率 を 高 め た の で あ る。 斐 耀 卿 の 改 革 後3年 で 租 米700万 石 が 関 中 に運 ばれ た 。 宝 応2年[763]、 劉 宴 が転 運 使 に任 ぜ られ た 時 に も 改 革 は 継 続 され 、 食 糧 は 洛 陽 に集 約 して か ら長 安 に 転 送 させ る必 要 が な く な り、 河 陰 倉 が 洛 陽 .詔'⊇ 二1._.一 に 替 わ り全 国 最 大 の 穀 物

∴ 呂 』r癌

・、

∫も

倉 とな塩

と中継

輸送方式の変化 により関

鰹 ぞ緩 ξ》,雛 灘 欝

〆"-讐

獣 一  ン

たちはもはや洛陽に行っ

擁'・

ンご∵

食を求める必要もなく

.一 溢 職_.な っ た の で あ る 。 図12黄 河 北 岸 集 津 倉 遺 跡(矢 印 が 指 す 台 地 の場 所 。 東 か ら撮 影) -40一

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お わ りに 定 都 は 国 の 大 事 で あ り、 立 地 環 境 に つ い て は 、 戦 時 で は 長 安 は 守 り易 く攻 め に く く、 関 中 に 拠 っ て 天 下 を争 い 、 函 谷 関 を 守 れ ば 、 政 権 を 維 持 す る こ とが で き た 。 平 時 で は洛 陽 は 統 治 に 有 利 で あ り、 四 方 八 方 に 通 じ る た め各 地 を 容 易 に 掌 握 す る こ とが で き 、 経 済 も発 展 した 。 だ が 、 別 の 面 か ら見 れ ば 、 長 安 は 相 対 的 に 閉塞 的 で 物 資 の 流 通 が 困難 で あ り、 洛 陽 は戦 乱 時 に は 頼 む べ き 天 険 が な く、周 囲 か らの 攻 撃 を受 けや す い 。こ の た め 、階 唐 の 長 安 ・ 洛 陽 の 両 都 制 は 、 そ れ ぞ れ の長 所 に よ っ て 補 い 合 っ た とい う よ りは 、 短 所 を 補 い 合 っ た と い うほ うが よい 。含 嘉 倉 、運 河 の 沈 没 船 、黄 河 桟 道 、蒲 津 渡 口、集 津 倉 、塩 倉 の 遺 跡 こそ 、 こ の 長 所 ・短 所 の バ ラ ン ス を と る鎖 の 環 な の で あ る。 異 な る地 点 の遺 跡 を 関連 させ れ ば 、 唐 代 前 期 の 都 城 の 立 地 上 の い か ん と も しが た い 欠 陥 を 見 出 す こ と が で き る。 階 唐 王 朝 の 建 立 当初 、 長 安 は 集 権 的 な 統 治 に応 え る こ とが 第1の 目標 で あ っ た が 、 社 会 の 安 定 、 人 口の 増 加 、 経 済 の 発 展 の 後 に は 、 各 種 の 弊 害 が 顕 著 とな り、 特 に 都 城 の食 糧 供 給 が 保 障 し難 い とい う、 この 重 大 な 問 題 は 、 何 代 も の 帝 王 の努 力 に よ りよ うや く解 決 した の で あ る。 しか し物 質 の輸 送 とい う点 か ら言 う と、 出 現 した 江 南 一 洛 陽 一 長 安 とい う三 段 跳 び の よ うな 輸 送 が 、 や は り交 通 輸 送 の 発 展 と揚 州 な どの 新 型 都 市 の 勃 興 を 促 した の で あ る。 長 安 は 当初 、 政 治 、 軍 事 を 主 た る 目的 と して 建 設 され た が 、 立 地 の選 択 と要 塞 の よ うな プ ラ ン の い ず れ もが 、 都 城 そ の も の と して 発 展 す る 上 で の 欠 陥 を有 して お り、 最 後 に は 平 和 な 環 境 と経 済 繁 栄 とい う衝 撃 に よ り衰 退 へ と向 か っ た の で あ る。 唐 末 の 戦 乱 で 、 昭 宗 が 洛 陽 遷 都 を 強 要 され た の は 最 後 の 一 撃 で あ り、 これ に よ り世 界 に名 を馳 せ た 大 都 会 の 繁 栄 は 終 わ りを 告 げ た の で あ る。 そ の 後 、 明 代 の 蜂 起 軍 ・李 自成 が ご く短 期 間 、 こ こ に都 を 置 い た 以 外 は 、 中 国 古 代 の 都 城 は 次 第 に東 へ と移 り、 開 封 、 洛 陽 、 杭 州 、 北 京 、 南 京 が 以 後 の歴 代 の 国 都 とな る の で あ る。 注 (1)『 新 唐 書 』 巻127・ 斐 耀 卿 伝 、(中 華 書 局1975年)、4453頁 。 (2)河 南 省 博 物 館 ・洛 陽 市 博 物 館 「洛 陽 階唐 含 嘉 倉 的 発 掘 」 『文 物 』1972年3期 、 洛 陽 市 文 物 工 作 隊 「洛 陽 含 嘉 倉1988年 発 掘 簡 報 」 『文 物 』1992年3期 。 (3)『 階書 』 巻3・ 場 帝 紀 上 、(中 華 書 局1973年)、59頁 。 (4)杜 宝 撰 、 辛 徳 勇 輯 校 『大 業 雑 記 輯 校 』(三 秦 出 版 社2006年)、5頁 。 顧 祖 萬 撰 、 賀 次 君 ・施 和 金 点 校 『読 史 方 輿 紀 要 』 巻48、(中 華 書 局2005年)、2224頁 。 (5)河 南 志 』 巻4・ 唐 城 閾 古   ・宮 城 に は 「貞 観 六 年 、 號 爲 洛 陽 宮 。 武 后 光 宅 元 年 名 太 初 宮 」 とあ る。 徐 松 輯 、 高 敏 点 校 『河 南 志 』(中 華 書 局1994年)、117頁 。 (6)『 新 唐 書 』 巻3・ 高 宗 本 紀 に 「(顯慶 二 年 十 二 月(656))丁 卯 、 以 洛 陽 宮 爲 東 都 」 とあ る(『 新 唐 書 』、58頁)。

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(7)穴 蔵 の1っ に は 、 北 宋 時 期 に 納 め られ た50万 斤 の 粟 が あ っ た 。 大 小 の 違 い は あ る が 、 各 穴 蔵 に は1万 数 千 石 、少 な く と も数 千 石 は貯 蔵 で き た と考 え られ る。河 南 省 博 物 館 ・ 洛 陽 市 博 物 館 「洛 陽 階 唐 含 嘉 倉 的 発 掘 」 『文 物 』1972年3期 参 照 。 (8)杜 佑 撰 、 王 文 錦 ら点 校 『通 典 』 巻12・ 食 貨12、(中 華 書 局1988年)、292頁 。 (9)『 新 唐 書 』 巻53・ 食 貨 志3、(中 華 書 局1986年)、1365頁 。 (10)『 旧唐 書 』 巻43・ 職 官 志2、(中 華 書 局1975年)、828頁 。 葛 承 雍 「唐 代 太 倉 試 探 」 『人 文 雑 誌 』1985年4期 。 (11)段 鵬 埼 「階 唐 洛 陽 含 嘉 倉 出 土 銘 文 傳 的 考 古 学 研 究 」 『考 古 』1997年11期 。 (12)槍 清 「含 嘉 倉 碑 銘 初 探 」 『考 古 』1982年3期 、304∼308頁 。 (13)『 通 典 』 巻10・ 食 貨10、221頁 。 (14)鄭 顕 文 「唐 代 長 安 城 人 口百 万 説 」 『人 文 雑 誌 』1991年 第2期 。 妹 尾 達 彦 「唐 長 安 人 口 論 」 『堀 敏 一 先 生 古 稀 記 念 中 国 古 代 の 国 家 と民 衆 』(汲 古 書 院1995年)。 (15)南 京 博 物 院 「如 皐 発 現 的 唐 代 木 船 」 『文 物 』1974年5期 。 (16)江 蘇 省 文 物 工 作 隊 「揚 州 施 橋 発 現 了 古 代 木 船 」 『文 物 』1961年6期 。 (17)『 新 唐 書 』 巻53・ 食 貨 志3、1365頁 。 (18)同 上 、1370頁 。 『新 唐 書 』 巻53・ 食 貨 志3に は 「隣 號観 察 使 李 泌 益 繋 集 津 倉 山西 蓬 爲 運 道 、 属 干 三 門 倉 、 治 上 路 以 同 空 車 」 と あ る(『 新 唐 書 』、1370頁)。 (19)同 上 、1367頁 。 (20)三 門 峡 ダ ム が 造 られ る以 前 は 、 当 時 、 李 斉 物 が 開 削 した 水 路 に 残 る斧 や ス コ ップ の 痕 跡 を 見 る こ とが で き た 。 人 門河 北 岸 の岸 壁 に は桟 道 の た め に 穿 た れ た 非 常 に 深 い 四角 い 孔 が2列 に な っ て い る の を 明 確 に 見 る こ とが で き 、そ の 数 は概 数 で8、900は あ っ た だ ろ う。 こ の ほ か 、 多 くの 牛 鼻 状 の 石 環 が あ り、 石 環 上 に は 当 時 の 船 の 曳 き 綱 に よ り 磨 滅 した 痕 が 残 っ て い た。 (21)山 西 省 考 古 研 究 所 ・山 西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 姑 『黄 河 漕 運 遺 跡 』(科 学 技 術 文 献 出版 社2004年)。 (22)『 新 唐 書 』 巻53・ 食 貨 志3、1365頁 。 (23)桟 道 の 崖 面 に は 「大 唐 貞 観 十 六 年 二 月 十 日前 岐 州 鄙 縣 令 侯ii恣陳 州 河 北 縣 尉 古 師 成 三 門 府 折 衝 都 尉 北 武 將 軍 林 陽縣 開 國 男 侯 宗 等 奉 救 適 此 導 河 之 磧 從 河 陽 武 」 と あ る。 山 西 省 考 古 研 究 所 ・山西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 姑 『黄 河 漕 運 遺 跡 』(科 学 技 術 文 献 出 版 社2004年)、5頁 。 「大 唐 貞 観 十 六 年 四 月 三 日岐 州 鄙 縣 令 侯 酪 河 北 縣 尉 古 師 成 前 三 門府 折 衝 都 尉 侯 宗 等 奉 救 造 船 爾 艘 各 六 百 石 試 上 三 門 記 之 耳 」。 中 国 科 学 院 考 古 研 究 所 『三 門 峡 漕 運 遺 跡 』(科 学 出 版 社1959年)、44頁 。 (24)桟 道 の 崖 面 に は 「大 唐 総 章 三 年1E月 十 五 日太 子 供 奉 人 劉 君 踪 奉 救 開 繋 三 門 河 道 用 功 不 可 記 典 令 史 丁 道 樹 」 「絡 章 三 年 正 月二 十 一 日儒 林 郎 守 司馬 表 開 三 門 河 道 」 とあ る。 山 西 省 考 古 研 究 所 ・山 西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 靖 『黄 河 漕 運 遺 跡 』(科 学 技 術 文 献 一42一

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出版 社2004年)、5頁 、中 国 科 学 院 考 古 研 究 所 『三 門 峡 漕 運 遺 跡 』(科 学 出版 社1959 年)、43頁 を そ れ ぞ れ 参 照 。 (25)張 慶 捷 ら 「黄 河 古 桟 道 的 新 発 現 与 初 歩 研 究 」 『文 物 』1998年8期 。 (26)山 西 省 考 古 研 究 所 『黄 河 蒲 津 渡 遺 趾 』(科 学 出 版 社2013年)。 (27)張 説 「蒲 津 橋 賛 」 『全 唐 文 』 巻226、(中 華 書 局 影 印 本1983年)、2277頁 。 (28)『 資 治 通 鑑 』巻212に 「開 元 九 年 … 新 作 蒲 津 橋 、融 鐵 爲 牛 以 系 緬 」 と あ る 。『資 治 通 鑑 』 (中華 書 局1956年)、6748頁 。 『通 典 』 巻179・ 州 郡9に 「大 唐 開 元 十 二 年 、河 雨 岸 開東 西 門 各 造 鐵 牛 四 、 鐵 人 四。 其 牛 下 井 鐵 柱 連 腹 、 入 地 丈 飴 、 井 前 後 鐵 柱 十 六 」 とあ る(『 通 典 』、4726頁)。 (29)『 新 唐 書 』 巻127・ 斐 耀 卿 伝 、(中 華 書 局1975年)、4454頁 。 『旧唐 書 』 巻49・ 食 貨 志 下 に 「臣 望 於 … 三 門 之 東 、 置 一 倉 。 三 門既 水 瞼 、 印 於 河 岸 開 山 、 車 運 十 敷 里 。 三 門 之 西 、 又 置 一 倉 、 毎 運 至 倉 、 自口般 下 貯 納 。 水 通 帥 運 、 水 細 便 止 」 と あ る(『 旧唐 書 』、 2115頁)。 ま た 、「三 門東 集 津 倉 、三 門 西 盤 倉 。開 三 門 山 十 八 里 、以 避i濡瞼 」(『旧唐 書 』、 2115頁)「(開 元)二 十 五 年 、 運 米 一 百 萬 石 」 とあ る(『 旧唐 書 』、2116頁)。 『新 唐 書 』 巻53・ 食 貨3に は 「其 後 以 太 倉 積 粟 有 鯨 、 歳 減 漕 数 十 萬 石 」 と あ る(『 新 唐 書 』、1367 頁)。 (30)1957年 の 中 国科 学 院 考 古 研 究 所 の 三 門 峡 古 代 漕 運 遺 構 の 調 査 。 (31)『 新 唐 書 』 巻53・ 食 貨3、1366頁 。 (32)山 西 省 考 古 研 究 所 ・山 西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 靖 『黄 河 漕 運 遺 跡 』(科 学 技 術 文 献 出版 社2004年)、189∼194頁 。 (33)中 国 科 学 院 考 古 研 究 所 『三 門 峡 漕 運 遺   』(科 学 出版 社1959年)、38頁 。 (34)同 上 、39頁 。 (35)山 西 省 考 古 研 究 所 ・山 西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 姑 『黄 河 漕 運 遺 跡 』(科 学 技 術 文 献 出版 社2004年)、92頁 。 図 出 典 一 覧 図1・ 図4河 南 省 博 物 館 ・洛 陽 市 博 物 館 「洛 陽 階唐 含 嘉 倉 的発 掘 」 『文 物 』1972年3期 図2河 南 省 博 物 館 ・洛 陽 市 博 物 館 「洛 陽 階 唐 含 嘉 倉 的 発 掘 」『文 物 』1972年3期 所 掲 図 に 加 筆 図3・ 図5余 扶 危 ・賀 官 保 編 『階 唐 東 都 含 嘉 倉 』 文 物 出版 社1982年 図6安 徽 省 文 物 考 古 研 究 所 ・安 徽 省 准 北 市 博 物 館 『潅 北 柳 孜 一運 河 遺 趾 発 掘 報 告 』 科 学 出版 社2002年 図8・ 図9山 西 省 考 古 研 究 所 ・山 西 大 学 考 古 専 業 ・運 城 市 文 物 工 作 帖 『黄 河 漕 運 遺 跡(山 西 段)』 科 学 技 術 文 献 出版 社2004年 図12中 国 科 学 院 考 古 研 究 所 編 『三 門 峡 漕 運 遺 跡 』 科 学 出版 社1959年(矢 印 の み 修 正)

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