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昭和51~r.
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贋 天 堂 大 学
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宕 窓 る 事 次 凶 し 品 川 ひ 学目
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ド方中央の(11..、建物が新病棟,研究練。主主方は天域峠。法人だより
一一寸去
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志気高揚の時
で,ここ首くは黙々として 笑)Jを貯えるほかない。 第三期における具体的 計画理事長
今年以後当分のl
自J.頗天堂全職員の栴別なご協 }Jもど願 わなくてはならなし、。その理山を説明するに先立ち,順 天堂が大学に組織がえしてから今日に至るまでの発展経 過を簡巾に述べておきたい。 発展経過O
第 a期(昭和2
2
年 一3
4
年〉 昭和19年開設した順天堂医学専門学校時代を前史期と すれば,第 a期はj闘天堂医科大学開設から大学院医学研 究科設内までの「基礎造り時代」である。戦後の荒涼た る物資欠乏のどん底にあって, III!馬天堂の名声と財産を活 用して大学を新設したスピードには,敗戦のシヨヅク状 態から,なお立ち上がれなかった医学関係者は目をみは ったほどで,苦しかったが突に働き甲斐があった。 。第二期(昭和3
5
年 一5
1
年) 「大学の施設拡充」の時代である。新病陳〈昭和39年), 八号館 (41年),九号館(44年),新館(.47年),関,号館・ 講 堂(
5
1
年〉等が2
年ないし4
年の!間隔で建築され,新 式の~械も追々盤備された勾しかし建築法規上.新.m 築出来るJ故地が無くなったので.['埼i
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館・誠堂の落成を もって第三期は終了する。 。第五期(昭和5
1
年一) 教育,診療,事務等の改忠能本化並びに財力の議績 を計り,本館の全面改築に陥えるための「内部充実Jの 時代である。 。第四期 本館改築の時期である。この改築は,一万数千坪の大 建築を短期間に完成しなければならないとし、う大工事で あると共に非常な難工事である。一応, 10年後の若工を 目指して設計を練っているが,医学の進歩は甚だ急で, 倍心の設計もたちまちにして時代遅れになってしまうの この期における全職員の 拐)J如何によって,本館改 築の準備期1
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'1が伸縮する巴 このJ
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、味からも第三期は地 味ではあるが11頂天堂の発展k
毛要な時である。 現 時 点 に お け る 順 天 堂 は,大学になってから平くも30年を経過して,職員の柏 村1も施設も大分疲労,消耗し各部局における活動が苦 しく鈍り,能率が低下するに弔った。この老化現象は過 般の新館建設に伴う組織の拡大,業務の繁忙によって j仔大写しにされ,大学は発展するのに,志気はかえって 点えるとし、う逆現象が起った。しかも慣性に堕した眼に は,それが奇異には感じられないという憂うべき現状で ある。 能率が低下すれば,人討を附加しなければならず,用 品すればさらに能率が搭ちるという悪循環を繰り返し ているうちに, IJ関天堂医院の教職員数は異常に高い教偵 を示すに至り,付表に見るごとく,昭和5
1
年2
月現在, 弘立大学病院の平均人員1,056名に対して1,720:Z,で断然 1位である。外来,入院患者数が多ければ教職員数もま た多いのは当然であるが,それにしても余りに多い。し かるに病床利用率は,辛うじて弘立大学病院の平均値 ミ一セント台に達しているに過ぎなし、。新館建築以前の 約95パーセントに比較して大きく落ち込んでいることは 診療活動の不振を明示するものである。 教職員数の多いことは,次の諸現象の直接原闘になっ ている。 (1)人件費の年!日!総額は私立大学病院の平均額よ り突に12億円も多く,第1(立であり,経常的支出に占める人件~~比率も弘立大学病院の平均52.
1パ{セントに対山
定~ 付 表〈分訟は弘立医大病院数と.阪天欽医院の属創立を示す) 大学名 1日一平坦?明~叫除引討
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立に下がっている。これは,人 数が多ければ計'ff.上当然の結栗であるが,r
給 与 」 の 観 点からすれば改持を要する大問題である。 (2)教 職 員 の活 動状態については,有給教職員1人当り 1日平均患者数 は在、立大学病院平均1.9
名に対して1.6
名 で1
0
位 で あ る。この数字は述、者数は多いが教職員の勤務は息立大学 病院付J -醤~1 (らく〉なことを示している。なお1臼1 患者当り収入額は3位であるが,教職員i人 当 り 年IMJ稼 働額は8(立に下がっている。 以上述べた数字から,次の結論を導くことが出来る。J
能本を.[.1'1進すれば収入が射し,託金が尚くなる。また 能冷U,t'I進は/(iノJ的効果があり,人民を少くすれば倒入所 得が併す。②所得用'傾はぶ~í.,古i錫の有 )J な方拡・である。 ③ぷ気 r~4:j鈎は能 )J の期進を促す。こうして能率と,ι~í.と 職員数とはこミっ巴(ともえ〉の関連関係にあるから,そ の・つを改持すれば他の三つも向ら改持されて,業務の 忠商環が打ち切られー転して正調な循環に変ずることが 期待される。よって第三j切における内部充実は,忘気尚鋭, 能不明進,人民の適正配訟にi
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i'i:くことになる。そ のため欠員補充に似重を期している。 今期の行!lìI)~主事務の諜を部に舛絡し,職員の配 ii立がえ を行うこと,および教員の定員制jを災施することから蛤 める。 教育,研究その他の改持については既に 11 頭及び文 LI~ をもって発点しているのでs別の機会にL攻めて述べるこ とにする。有山記念館新築工事状況
新築工:jJ │ 山 附 日 均i
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したので, 7月七色J工事を先[,以後調11部の調節, 凶l!}の搬入呼を行って, 9JJ411 (土〉に竣仁式を行う ことになった。 ー')5,記念館建設資金の非金は,ぇII設1~総額 9 t~川の コち,各位のご協jJによって,2
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込 レ ッ ド色の花嵐岩が張られた 正面外壁には 、 インド産のポこ卜 法人だより 額1
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億円の日際額にひと忠、というと ころである。 建築完成が延期したことから私学振興財問との!日jでの 寄付金の受払いも延期しなければならなくなり, fJH
和52 年 3 月 31日まで延長を rl'~I'JL
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された。 従って, 51年 ~3Ji311:1を納期とされていた}jも,引き つづき受付けが可能となったわけで・あるが,事務処坪ーのk
からは,遅くとも8J1ぶまでに完f
されるようお願い したいところである。新 年 賀 詞 交 換 会
*学恒例の新年賀川交換会は 1月5H (月)午後4 1砕から,有山>O:理事長,懸I.H克朗学長, Jt~ 島英 (f~,イi
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両学部長,小酒井吃u
両院長をはじめ教職員等178名 の出席のもとに 8り・館ホールで開催された。 1f頑にあたり,有III理事長から次のように挨拶があっ た。 「本 年9月には凶,'f-館・消堂の竣r.舷泌が行われる予 定である。ここ符くの1
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は事務,診療,教育等内部の充 実を凶っていきたし、。焼棋が大きくなるにつれ,職員の ぷ%がかえって揚がらなくなってきていることは山々し い問題である。すべての分野において, I1積天堂創立、~1りj の緊張-したぶ気を取りもどさなければならなし、J
・ 出 席 者 氏 名 ・(50'ff眠敬体略} -*俊郎 isit木 虎 占 浅 見 - 下 秋Jl;f!} 臥1I1先;ー良SI1
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山な安藤進伊藤t~~il: 飯坂礼 二 緒狩伴池み;秀,Jl イi
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(水〉午後411年 から8り館ホールで開催された。本年1)115 Hに成人を 迎えた職はは, 116名(男 (4名, tJ..r
112名〉であっ た。 月rlは, (f 11 J{~賄事長, ~!IU'克射学 jも小i向井理病院 長, ',';nllちか総細長をはじめ学内関係者から新しし、門I
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を祝う祝詞が述べられ,あわせてι
、合littlの凶語辞典〈広 辞林)が各人にIlM
られた。 ・職員氏名+c
昭利51年1月15日現自己所.tMJIJ.験不同.草生隊略) 111本相i
技(人J'山梨〉 ド必守〈符財課))1: 11里子(1.任務 課)(J,:久I
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主 な る 人 事 異 動
昭和51年3月 1日付 鈴木満男助教搾,教持に舛(1:(医学部進学,深緯 人顔 学・法学〉 米林)j{;'
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年度朝日賞受賞
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敏夫教終〈係学部趨i斤波探ザ研究セソター所長〉 は「超汗波診断訟を創始したり9~'U により,共同研究 lf である街地保充東北t
大学長とともに,昭和50年度朝日 立を受賞した。 制w
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は,学術・2
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術学あらゆる分野で傑l1iした業制 をあげ,投l
吋の文化・:t:
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会の発展, I;'j卜J;こ多大の只.献を した者に1
1Mられる民!日!ではJtiも権威ある抗である。 人m
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えなL、 I~れ、問波数を持つ超汗波は, f;(~i~f傑 知機などに利J
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されていたが,和1
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訟として,初めて臨床IIli
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した。従 来のX
線診断のような杭繰な拶保は仰られないが欣射線 を浴びる心配が全くないので, '1'状腺,心臓など内臓の まとんどの診断に使用され,その平I
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t(ftは明大する, 方である。1
月25日111の上ホテルで開催された本学超;子被研究グ ルーフE
催の受賞祝釘会では,i
超行波医学は枇界的に みても雌i
天堂で生れ,本f11
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席の先生ノ7
を始め多くのIIOCi 天堂関係者によって育てられてきた文字通りのj腕天堂生 挨拶される和賀井教授=朝日新聞社から1
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i守万Iljが見守られたー一一
大学だよりだ
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粋の学nl]です。このような怠味で叩両天堂大学が受賞した ものといえます。お祝いのことばを在、が頂くというより1
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剖天堂の皆さまへ'
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げるべきものと心得ております 今後この学院j研究をより発展させることは私ども!駅大位: の点任でもありますJ
と和1
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1:教授の挨拶があった。 会I昭和24年3月新潟阪大卒,昭和25年 6月本学研究生, rrij28年11月本学見}J,
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1司461f.教掩就任。奥悌と尚怜生の 長男,中学生の長IJ..'と東京都渋谷i
ベ代々木にご荘{t:。大 1.1
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年生まれ。!?年震体育学部・医学部入試状況
体育学部では,ノド午ーから入ぷの実f
姉ijに内科の健康診 断を行い,持久定に耐える )Jを チ ェ ッ ク す る こ と と し た。その結果,胤しんやJ
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炎I I~ "":j血)1:のためドクタース トップとなった者も~~f
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みられた。 また,際学部では,学)J,試験に際して風しんらしい受 験生が 1名でたため, 予備宅で受・験するt
,'i'J;(もみられ た。 本年の入試の特徴として,院ザ:部入学返i:iが51年度ーか ら90名に即i
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(50年度は80名〉され,さらに理f
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選択が物期,化学, ~t:.物 rl'2
科日のI
と,その2
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のうちの1科1
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までという特殊な選択)
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訟であった 点である。 本年のぷ願書等はド友の通りであるが,前年度にJ
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べ て持しし、仲長をみせている。 昭和51年度両学部入試状況 体 育 学 部 民生宇都 体育学科 他成学科 │阪 学 科 ,ぶ願指数1
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67) 672 126 受験長数 617 120 1089 一・次介柿 207f
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32) 617 120 合 r~発点 140 30 93 入学An 100 40 90 5-大学だより 〈本 郷)
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教 授 退 任
退任にあたって
義 理 学 " 持 政 板 東丈夫
fj、が本年:の教授として就任したのは昭和28年5月でし た。 その当時は5り館も出来てはおらず,木造の3J,}館に 入りました。教授宰.は2階にあり,それにl面した北側の ・宅が唯・の研究宅でありました。 研究設備は皆無で,全く本から出発したわけですが 23年という時間がし、かに長いものであったかは,いまむ の研究室内に直って多くの研究設備を眺め,それぞれに i史の砲、められていることをさとるとき, .]汗痛切な忠、 いで感ぜられます。 せ4
初は,学会万l面でもみ;学の名を人に知らせたい 4心 で,無我夢中でした。分科会の総会長を引受けたりした のもその:意味からで,その後も総合研究班などの位話役 をいたしました。その都度,教室H
の所労は並大抗では なかったかと思いますが,いまでは懐かしい忠、い!:f'l,f
[iと なっています。 23年間の研究生前の中で労-
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をともにした人たちのrll から今円までに5名の大学教段が育ち,さらに布能な研 究おたちがあとに姥えていることを考えますと,弘は)¥. 変恵まれていたと思います。 教綬主任中3 私が大過なくその任を呆し仰たとすれ ば,それは有山先生はじめ理事者各位のご究特と,先弘 同僚の各{丸事務局の各位の眠いご指導ご協)Jとのお践 であろうかと存じ,点心感激に棋えぬ次第であります。 以後に,本学の今後益々のご発展と各位のご健康とを 祈念しつつ鳴を翻きます。 会│昭和11年東京帝国大学院学部際学科卒, IHj助手,東京 大学附M~専講師,1
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本歯科大学薬理学教綬などを庇任 後,昭和28年1月から本学医学部薬理学講師,向年5月 教授就任,昭和4
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館長を兼務。主な研究 領域は,m
虫薬〈サントニン), 平滑筋,中幅アミ γ。 4月から新H本実業東京研究所長に就任。昭和51年3月3
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付定年退職。明治4
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ψ中 央 機 器 分 析 室
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滑にあった生化'学,親学教
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心とした購入機器を,共有し めてゆく方法で3 技術的アドバイスは但均者から何られi
て使おうとし、う協)]体制から出発している。照和4
4
年 る。機訴としては,分光器8
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((1記分光,て波長分光,i
ぶから 45年にかけて 5り館から 9り館に移転する際的f
ノミ蛍光, J朕f
吸光等〉および述心機 6台〈超法心機,冷 :究'主配向のnu
題と、F
行して,生化学系の有志の研究者 凍述心機〉があり,胞設としては低温室(9り・館6・ ;によって生化学懇談会が作られた。301叫にわたる懇談 附),共同低レベル実験室([lIj8構),アイソトープ化学j
会での・需のポイントは,r
l
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に'カ所に機捺を集めて 分析室 (5号館地階)があるf
1
千人か不1
1
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するという形だけではなく,各向が手許に2
.
セミ・オープン:利用告による主体的な分析が可能i
持っているだけでは期待できない activity を持った となるように同室の技術指導および協力,さらにはデー ?中央施設を形作りたいということであった。それに作 タ解析,指導が行われる方法である。これに属する機器 ;い研究段術青の(
¥
I
i
t
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付けについても徹氏的に話合われ としては,ガスクロ寸トグラフ(佐々木さん,小林さん ?た。投術者は単なる研究者の補助役として存布するの 担当),分析用超遠心機(有馬さん担曳)がある。現あ ?ではなく,むしろ主体的に研究を行う研究者と積極的 小児科の胆汁酸分析,内科の糸球体基絞膜々構成々分の ?に協)Jするという形で研究に参加し,そのt
f
を向上さ 分析,限刊のクロロキン分析等がガスクロマトグラフで :せるものでなければならなレという結論に迷した。 行われている。趨遠心機では生化学,医進・化学の蛋向'fi - 6 --中 検 病 理 の 拡
充
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1
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央臨床検夜寝j毛小
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向井
田
,~ ,検病理の拡充とはいっても,従来1
1
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倹細菌で使別し ていた9り・館4階の1部屋を押しつめて,病期.学説円そか ら:1¥向の斉雌{市助教托らの鏡倹宅を設けたにすぎない。 従って・拡充」はあくまでも,臨床へのサービスの鉱充 と理解していただきた¥,¥。 '1.1検(中央臨床検先~と '1'央機能検作セ〉は, I診桜各H
の必要とする臨床検査をサービスする部門であり,臨 床検査情報を提供する場所である。民子y
t
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民療の進事に よって,新しい検査稀fIがつぎつぎに日常険t
i
にとり入 れられ,検査件数も年々J:\~)JIlの ・途をたどっている。 よ り正確に,より早く倹査成縦を提供するように,'
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険と してはおう一杯の努))をしているが, 人 n ,設備などの ~I~JM、ら思うにまかせず,時々診療各科からお叱りを受け
ることになる。しかし他大学病院や綜合仇もE
へ出た俣師 からは,わが中検のサービλは,それら紛らこに比べると 大学だより 〈病 院) 検 査 料 は 入 院 病 料 院 、収 薬 入 治 と 料 な に つ 次 て ぐい る 決して劣らない,むしろまさっているとの訴を受けるか ら,おH巴りはサービス部WIの'((i命というべきでdうろう。 』てr~I検病理は制IIJ胞診,組織診の部 t"J である。従来耐 用 学 第1,第 2 品11~ の rJlj 教段に,この部門の指却をお願 いし, [,Li
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のZ文京t{が'Wf'J交代で検証を.Jn
叫 し てL た。新館が:H
米るまでは,この形態でどうにか!日jに介っ ていたのであるが,新館が H1 米て,皆、者数がふえた名li~ふ 細胞診,組織,診の件数も二,',Jfiし,サービ.スがζれに追い つかなくなってきた。技術付の人れかわりも比しく(r
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検全体としても技術良の入れかわりが多く,毎年15'"'-'20 %が泌職し,新人と交代する), 熟練した肢術n
が少な くなり ,J,
当用氏が4r
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交代するため,肢体Iを指i(f.する'
1
'
心がないことも,サービスの(Itドを助長することになっ た そこで大学当局にお願いし,病理学の両教綬のごお(解 を1!}て,斉藤{市助教段に可分のIllJr{'検病理にHifゐjしてい の沈降定数,1
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放定数,分子世てす-の損IJiiがなされているI
,ij宅では,技術省の研鎖の一端として,毎t
.
.
附IJに : 3, クロウズド 利伊丹省の依頼により中央機お室担当お 抄説会を聞いており,また科n
の関係する生化学々会, が分析する方法。ただしぷ料の!IIi処照.および解析は利 薬学会等へも桜傾的に参加していゐが,初期の恥神のi
j持者が行うことが義務づけられている これにはアミノ 具体的あらわれの例として組織令体にかかるものに, 自主分析計(太日!さん,;.i"~'原さ 曙 _ ;-;;.; 牛 舗 一 一一 bι- ーτ'1.. ' _ - アミノ椴分析でのリチウ人 i圃
~叫一面長 t ム子阿 佐噂斗 ~ .• 'r~/"'" --_~ , -.i
ん 削 ) が あ り , 腕 , 小国
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怯 の 成 果 が あ る 。 臨 床 を 陀 ? 児科,小児外科,脳神経内 開臥~.,叫孟流己昆 陰極孔~ えた本学での研究の特殊性j
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,ぼ中アミノ徴.
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に 鑑 み , 生 体 州 分 析 の 下 分析が行われている。 [11 ,、ァ、
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度 を あ げ る た め に , 緩 衝 系 ? 以t
の技術担吋の{也に,f
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として従来のクエン殿ナト1
fイソトーフ関係は主とし 一 ・ ・L リウムに代るクエン般リチ: ) )IJ列左からお瓜さん,村山室長締佐.大誕百貨長.jjpjjiさん,後列左から = て小林さんが担当し,機器 宮間さん.小体さん.太閉さん.'i~:bj( さん,徐々木さん ウ ム を 用 い た 方 訟 を 検 討 し ; の修理及び部品整理全般,事務手続,文献整理等を宵i
瑚 てきた。この成果はI-l立研究所の共同研究として発表; んが.m.当し全般を,室長,村111宅jミ補佐,進藤さん の迎ひに哲っている。また,係tH
同人に関するものとj
t ;i担当している。 して昨年11月小林京子さんが第1障政射線取扱引モ者i
現在の利用登録者は,基礎系は生化,寄生虫,il:医 r試験に見事合掛したことがあげられる。大家室長によ i 縮碕,衛生,薬理,体育学部医進等を合み16,溝控68名, れば「他の室員全員がfr
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じ可能性を持っている」とl
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臨床系池内科,外科,小児,産婦,皮TM
,神経内科等15宝
n 8名への抗額はj手L。、 講座87名,合わせて155名になっている。 """-'・・・"・・・1・・・・....・..・.1・・.,.t.. ・...・・・・・0.'"・・・・・・0,'10 ."・・..h....・..11""・.'"・・・・ 8 ・~I t "....•• ''''/・11"-・・・1・....1. - 7ー大学だより (習志野〉 ただくことになった。斉藤助教隠は長く都立病院の検貞 利
k
として,臨床への倹夜サービス、を体験されたんaであ る。、1'1然技術o
の指導にも熟練しておられるので, '11倹 約到!の妓術n
の教育,技術のレベルアップにとりかかっ ていただいた,またf
JfJ助教段はr~ I倹にいつもおられるの で, ,診療科料の際削iが細胞診,組織診で HI ぷし,教ノJ~ を 受けることも作劫である。細胞i
診,組織診は;診療科科と の述絡を械にする乙とが大切で・あるが,この }:I~ を l' 分に 配慮していただく予定である。 もちろん庁藤助教段ひとりで,1
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部門のサービスを することはできないから,従来通り fð,j病理学講J~から 11'14.
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宍にロ{テートしてもらわなければならないし,また'
1
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検術開への長期間の出向島も漸次附加する予定であ る。将来病即.医の充実にともなって,病院病理.部への発 炭も則侍される。診療科科のあたたかL、援助と協))をお 願L、する。C
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からの表彰
品.己の1
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1央臨床検在宅で は,肢体j水準が同際的なレ ベルにあるかどうかをみる ために ,College of Ame. rican PathologistsがJ
五く jll:界 的Jこ行っている臨床検 育成i弘1'(,p
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フ・ログラムに参 加 し て い る が , こ の た び 昭和5
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年度(通r.C!Iヮ1)の 点彰を受けた。臨床検査は'
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央臨床検在窒だけででき回
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legeof EムE作lerlcan因
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Ithologists 中検4度目の受暗号、 るものではなく,今1
111
の長彰によって多少とも診療件付 の期待にこたえることができたと忠う。'
1
1倹はI11日府136年に小i
j'lj)十数慌が部長就任以来,臨床 病理学講践と情緒な関係を保ち,常に診療各科の民向liに じ頼される検証成軌を挺供することを念願に働いてき た。現 {1:は,管理Utu 拘1; ブール血 Îl'i の{史~m はもちろんのこ と、'
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臨検t!f.や抜取検f
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をたえず行い,相当技術H
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f:管揮ー高,臨床!lii.P.R学教主t
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の令:
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が.倹t
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支縦を数段 階に分けてチェックしている。 臨床検夜は,ι
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者の坐命にI{(車内しており, ミスは絶対 こ11午ふれないものと懸命に訓練と努)Jを位ねているが, 今後ともg診療各科をはじめi
渇述部事のあたたかいご援助 と励主しをお願L火、たしたい。 (11'検般向IiH )
能以武,l
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順天堂
EYEBANKから
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天堂γイバンクの総合録点数は昭和38年創立か ら昨年ぶまでで 6,924 ~にのぼっています。 しかし,年間に提供される約1
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慢のうちを録者 i からは年令のお川、こともあって5%
程に11:まり, ほ ; とんどが州斑解 f11J患者からの提供に頼っているのが i 勺状です。学内では年!日j約3
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人の角膜移航手術i
を行っていますが,他ノIj,手術待ち患者も3
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人 : おり,約l年程手術を待っていただいております。 しかも他院の要請に応じて斡政する数も年t
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利用の・ 3:
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l)を,'
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めている状況です。このような現状を皆保 にお知らせして,殺録される力ーの善意を待つばかり でなく,病理学教宰.のご J~)} に感謝すると共に,広 く臨床各科及びご1
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業の諸先生方のさらなるご協力: をお願いする次第です。(アイパンク係〉「
習
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野
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教 授 就 任
就任にあたって
医j住 人 類 学・法学担当鈴 木 満 男
就任のご挨拶に代えて,私が専攻する文化人類学を紹 介し,持さまのご理解を得たい。 社会科学のさまざまな分野で,近年とくに現地調査が 況視されはじめている。だが,現地調査なくしては成立 しない'芋!日jは文化人類学のほかには,まず見あたらない ようである。この怠1床で,文化人頼学はたいへんt"t
沢な , き そIUJとし、うことになる。 現地調査を行わない文化人頬学者というのは,ちょフ ど実験を行わない自然、科学暑のようなもので,それ肉体J
E
義矛盾である。 現地調査にもさまざまあろうが,荘、どもに必要なの は.海外でのjミ期滞ィ1:のみが可能とする F参与観察d〆ParticipantObservation)である。これが金と暇を要 することは明rLjであろう。 幸いにして,私は,昭和44'9えから 461ドにかけての 2年 ! 日
1
,嗣天堂からはl較を賜わりハーパード大学からは奨励 金を頂き,台湾と綿闘に滞在し,i
町向の文化に│瑚する基 建的なデータをiJ占めることができた。 だが,一線の研究者として ,J悦務しないためには「フ ィールドJ
(調査地域)との絶えざる接触が必要不可欠 である。昨年兵休みから始めた台湾中部の村落調査は3 年軽度続ける予定で,その後は禅問においてもI
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J
燥の調 査を実施し,行く行くは日/ドも合めての東アジア三国の 比較にまで持っていきたいと考えている。 それにつけても暇はともかく,金銭の訴で恐縮だが, 家計の“出血"はなかなかのものである。し、つの円か在、 ども支化人類学おに対しても,お民者さんなみに70%の 「必要経費」を大蔵官が認めてくれないものであるうカ・。 会昭和51年3月1日付昇任。 [riJ教綬は昭和25年3月東京 大学法学部政治学科卒業,昭和お年3丹東京大学生物系 大学能人類学研究科博士課程修J
,同年 4月本学助教段 こ就任。主なる研究領域は,東アジアの諸文明の文化J
顕学的比較研究。千葉県野日l市にご{E(l:,大IE
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5年生ま れぬ践。 大学だより 〈習志野〉教 授 退 任
退任にあたって
民 進 数 学 相 当 南 本;内 1 1日取]22年から29年間もの永きにわたり在、の教育・研究 おとしての生命の大部分を頗天堂にボげ,この3)
1
をも って停年退職することになりましたが,今日までどうに か無!jHこ大任を果たし得た乙とについては有 1[1理・好長を 始め学内諸先生,職員の皆様からのあたたかいご指導の 賜であることを強〈心に念じ感謝の気持で一杯です。 この!日],医学部では11慎天堂医科大学1, 2 I'll生を始め 1 1関天堂大学医学部の卒業生といま荘学中の学生諸新など の千数斤~,また体育学部では1""-'20[nJの卒業生と花学 生などの2千数丙名の多くの方々と教問を越えておつき あいをし,また役職としては昭和29年から10年間H
封ぶ野 教務委n
長その後'般教育委員長を延6年間,学生部副 部長を2
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など厳しい思い出が一杯です。また学 ~... ウム削i残x
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,(訊JI定詰i
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や,骨年令や皮下脂肪 E:
体力学・体力測定研究室
巴t~
刷 )1定に用いる軟線X
線袋町どがある。 ー υ そ~~お 4砂スタッ7紹介・i
: 体力学・体β測定研究室は,体育学部キャ・
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栗本閥夫教授j本人述懐によると,名門で; ;ンパスの中根かはく離れて長111jの す 々 近C
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ー あ った頃の日比谷峨出身で,本学体育学部j
=く。パス柳原天堂大学前で降りるよりも,もち
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4 の第一期卒業生である。 “長男"が訴しがら; :うつ先の停留所で降りる万がずっと近い。 れる時代は去り,今やただ気汚労と全く突従のない点; 本研究室は3名の職員が所以してもaる。いずれも本 任ばかり多いという。しかしご家庭は奥さんと日男1
学の卒業吐ミで,本学では唯一の純血研究室である。:
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しごく幸せな係人 ー ;刷物本拠は,もちろん運動 r
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身で,本学部十じ期の卒業生。 3月初日コi
‘ なお,研究室の設備には,体j七
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推定のためのへリ ーノレイγの予定。- 9
ー図書館だより 一 一 一一一 生のクラブ活動に ついては,体育学 部ではハンドボー ル部長(16年間), 鉢道同好会 (6年
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討J)を,また侠学 部 で は 空 手 部 長 (8年I
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)
,コIレフ 部長 (3年間), III岳部顧問J(101下院J)などを通し色々 な学生議君と親しく接触してきました すでに“j慎太.堂だより"第1
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り・(昭5
1.1.1
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で紹介 した研究抗励や特別ゼミナールの指導などとともに花験 中 の -[
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が突に充実したn
々でありました。 順天堂をよ・るにあたって公私にわたりお111:話になった 学内の皆係への心からの感:甜と今後のご健勝を念ずると ともにわが1
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出天堂の益々のご発展を祈り上けI
す。 会昭和5
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年3
H31n 付・退職。 n~1 教授は昭和 10年北海道帝 同大学理学部数学科卒。北海道庁立札幌第・小学般教 諭,p
全市航?主上't=r
学校教官教授,東京物理学校教授,点 京怒恵会阪科大学予科教授等を瞭任後,昭和2
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Jll
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f:t 天堂医科大学予科技任教綬就任。2
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年 5月)1踊天堂大学体 育学部法任品師,2
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1f.・5月教綬就任。 38年医進設杭に作 い民学部に配i
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換え。研究領賊は話i
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陶-数。明治-141ド2n
1 fl/l=.まれ。「
図書館だ、より
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最 近 の 分 館
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館 分 館 長 小 島 茂 男i
月志野校舎で,大学問,'}に附する活動が始まったのは 戦後守i
百!もないIlH
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年(
1
9
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)
, 順天堂限科大学子科 の~の凶ii? 室であって,久しく活字に飢えていた学生た ちは,この間乃をむさぼり tut んだ。敗戦の暗い ill~相の中 で,佐々たる国出の灯は,この大学技に文化のにおいを ただよわせていた。 て,分館は,学長のドに本館の動きに沿って,然も 本館とは別の特色を発揮している。時には潮の香のほの かな1
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志野の関J
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館として,常に心にかかっているのは 舘 内 (;t 明 か る 勉 強 も 捗 る その位i
在p 規模,成,'}の数と質,冷暖房をふくめた館内 外の環境,セ'ロックス・サービ久も行う司l
'
J
の数,視覚 教育設備,他大学との相正利用,私大連盟関.rf
館協議会 との述絡などであるが,分館のビジョンについても具体 的に考え,見出jしている。 まず,分館の現在のスペースは約1
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坪,減計は約.
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,0
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冊ほど沖i
え,雑誌は本館との弔肢をな るべくさけて和伴、ド々で約1
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縄である。その内特につ いては,保健体育の大学院,専門i諜程,一般教育,医学 部1...2 年などの教職 t~学生の要求にこたえ,また他大 学やI
I:¥J板販売会計:からのリストを入手したりして殊iこ件 育生理,保健衛生関係,突技関係で魅)Jあるものにし, 新しい体育学,学H
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としての体育学,さらにはヘーゲル 以来の学問的傾向に対する反有がここにおこることを希 って,分館長ほか4委員. 4人の riL'}が実働にはげみ,(
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学部長も時々よって立見を述べられる。 次に1I
唱。号館で月jいている間際1
.
進法 (u.D. C.ま たはD.K.)についてi時々?WU
をうけるのでここにのべ るのであるが,元米,分類というものは2 そのとき加やj に合理的なものを作定しでも,学rgjの進タ発展に{下って 不釣り合いなものになるのであって,しかもその改廃 は, r時を絞ると実務的に r1q~Ê なのである。 現イE
のD.K.
は,昭和1
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年(
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に長間半太郎, ! 本秀次の名をもって各界の専門家が!世界のあらゆる分 訟を比較検討して採択しその後行原紘氏を斜め役とし て各専門家によるドイツ版の翻訳,それに日本的なもの はブラ μセルの4:部に fUj"、合わせてきめたものであって 有山学長j夜間乃館長(当時〉が蚊初からこれを採用きあ た。このD.K
は脚:,東邦大学その他の胤'j館で使用 Cれ,また研究おはベーパーの分顛盤瑚にも用いてい る。これは国際的で, ドッへ/レ・ブンクトで結べIt:他の 関連部門との関係もいくらでも保つことができ,まが‘ くらでも展開することができるもので,すでに日本語係 も学r:a
の全領域を通じて刊行されている。 (体育学部康史学教授)-
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ー高看だより 高等看護学校入試状況 本 fヰ } JJI f十 定 f~ I入学実星空!志願者・数1定 員I入学実敬志願
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数 43 127 102 1J6 119 140 185 187 234 148 139 1伺 148 U H 判 明 山 m 山 川 叩 む 印 目 的 目 的 印 日 明 叫 初m m
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印 印 印 閃 相 T M 初日山おお品開 H 引 川 悩 必 μ 桝 此 W M W 灯 油 刊 品 開 回 目 白 州 附「
高看だよ
入 学 試 験 状 況
51 "I'.!立人ぷでの特i
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すべき点は,本科,ぶ願者の急用で ある。過よ:41年度=の 290名をはるかにしのぎ定員の約 7 時346名ものJぶ願者数にのぼった。〈右}<参照〉 本位教室ばかりか,大学の教電をも合せて{吏刑する躍 で,無事終f
したが,*
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却を突破して入学した新人生の これからを期待したい。メ色、
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乞合主J
正 治一 同
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lIj窓生の助教段,議自Iiクラスが相談窓11をI
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せ と の 戸 も あ り , そ の 対 応 策 に 汗 し ん で い る 次 第 で あ る。C
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北町i幸ぷ〉 132名の新会員 (50年 3月卒業〉を 迎え,会員総数は 1,785名となりま した。新年度にあたり役員構成をお 知らせしますと,会長に角!日泰造(1 ).副会長二戸正副t
( 3 ),笠原高介(4).執行部としての理J
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玉長には49年度・ より,川f
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江主r可(8).副理'
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長に風)'1活;広(1 ).水野Jむ
府J(6)。実際の各種事業活動については,事業部長に沢 本啓介(11),出版部長に井i
二忠夫(12).財務部長に尚!同 省I~夫(1 6) ,総務部長に tG柄治 (11) ,総まとめ役としての 事務局長は勝亦紘一(10)となっています。 (敬称略()内 l ま本~[ill~生〉りー
=
よ
だ
地道な拐)),確Ir1ilたる基礎づくり をそヅトーに,新会j刊によるloj窓会 は,秋山会長を中心に平や l年がす医 学 部
体 育 学 部
ぎた。 4>:~.: 2月12H,懇親会を開催。多数の出席者で1時間を 志t
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ての会合となった。また,地方でも次々に支部が誕 生,県人会の教職1
4
の点々も,機会がある時には,ご述 ゐくださるようお願いしたい。 また, fl't:~ド 12 )J 1 [1カミら,i
メディカル・テレホン・サービス d を 1J~~bh, U
訴えを博している現状である。本1
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4の1"旨は,日常の診療で判断のむつ'カミしい症状やその メディ力ル・テレホンサービス 03-813-3111 │内線i
H 自 時 曜日 当 但 相談分野 小 児 科 大 塚 親 哉 , JJ J ι s J E S E -4ト F S μー
の 加ん巾駒山 小旗 執行部委員会を開催し 4)]4EI(1・1)の全凶代議n
会 に向け準備万端整えることになっています。 2年後には II~ 窓生も 2, 000名の大台に乗るので大'ド及活動をと考え ています。 (JII{i武n
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記〉 5011
三}交の出動をふり返るとI
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窓会 パッチのために生じた多額な借金の 返済にj
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われたというのが実感であ る。役品会ではL、つも知何に資金を i廿し,早期返済でき るか点剣に取り組んだ。 幸いにも1I1\~Õ.ii会開催時,各J5 rílÎ のJ5々よりごt
@j))を件,完済し,役H
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l1jほっとしてい るところである。 一鼻方, 50年度目標の「会員相五の認識と親貯・を 掠 め るJ
が多少おざなりになった感もあり,探く反/(iL
てい 611 338 31 14.00'"'-'16.00 10.00.-...-11. 45 10.00'-"'-12.0。
}"j 火 火 小児外科 l平 井 鹿 徳 新 神 科 │ jl:上 令 -I
15.30'-"'-17.002136 火 皮 j向 科 ';:J~g
白,1f¥高 看 本 科
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10.00""'12.00 14.00"-'16.0。
水 水 -般外科 八 木 義 弘 底婦人科 尚l1J道い 循環器内科 中国八洲郎舟
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掲催したが参加者も少なく,淋しい会 で残念であった。同窓会がもっと日気があり発展性のあ るものにするため,会員の協))をお願いしたい。4
月には新卒者4
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名を迎え, [riJ窓会総会が4
Jjl5H (本)181時より新館階段教室にて行われる予定である。 会員皆が111"]窓会を育ててゆこうという気持ちを持って多 数お集まりドさるようお願いします。(浜!日美佐f
記〉 l高看別科 新卒者を迎えての反例総会が 4月4
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(日)13
時から1
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時まで,右・IIIjj_ 学校第3教室において聞かれる。今 年度は1
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名の会員数となりJ 7)IJ科Ilij 窓会も発起5年1-1となったのを記念して,総会後柄例の一
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新館地下機械電気記録室 ヅッと,f~ 加盤を焼悦する係 n の姿に身のひき しまるものを覚える。スタッフは'~よ気係 5 1"., 機械係10名で新館諸設備および 5~;-館を管理し ている。 医学部の屯気使用料と料金は,年H
lJ約 878万 キロw
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数%にまでドがる そ う で あ る 。 ( 絵 と 文 解仰j学:・伊 藤J
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"停泊会に代えて参 JJn~' によるディスカッツョンを予定し ている。テーマば,i
l~iJ 窓会を考える」でJ })IJ科役員. 教務,現看護対,離職後の各人の立場から;立見をのべあ い同窓会のあり万等を考えようと思っている。会貝,皆 んの多数のご山席をお願いしたい。 ')J, 毎月第4土附円の「勉強会J
は,現存.,芝出不 ・男者f!i看護哲学」の抄説会をしている。,12
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は「全 体論と伺体論」等の大変むずかしい題について,身近かな │問題をとり入れながら参加者は少人数であったが熱心に ,f~t,諭するなど~~能ある時間であった。総会で新しい題目 をとりあげることになるかもしれないが,勉強会にもよ り 多 数 の 参 加 を 期 待 し て い る 。 ( 伊 藤 タ カ 記 )C
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1r.j:金道」も三代将軍家光より嘉jのご紋を賜わった藤原ていました。すでに iP~RÍj収集していた日本万30振程と議
金道の作ということです。また,槍に鎌食u
年代の「減 などは.rrp.和19年の戦災で惜しくも焼失してしまいまし 寺(,}閥J
があります。約鍛,ri
(<1闘が戦乱の世に腕'守 たaそれでも,戦後集めた刀剣は大小約 10援になり,名 で,戦い4
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にキを変えつつも,法城寺に生活していた時 こ と ラ u'ぜんl
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としてあげられるものはg 古刀では鎌倉時代の1
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-また10年余前でしょうか,いつも立ち寄っていた池袋 は人世座のあった俗に=人世横町三と呼んでいた通りに I>?さか 「有坂
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とし、う居酒屋があって,お庖の壁に 500枚程も ぎっしりと郵が埋めこまれていたんです。お庖の看板で もあり,いつもそれを眺めてはいたので・すが,たまたま 庖舗改修の時に当り,壁から外された郵 2"-'30枚を分け てもらいました。それがきっかけとなって,現在60枚位 も集ったでしょうか。なかでも,鎌倉初代将軍頼朝のも 。んどう のと伝えられる御所車,笹龍胞,梅の透かし彫りの入っ ぞうがん た,金で象販された鈍は,体育学部栴技のやはり小物を 収集しておられた~松信一先生のたっての願いで譲りま したが,先生はそれを大切に桐の小箱に入れて保管して いるとのことです 私は,なかでも特に刀剣が好きで,たまの休日には手 入れに余念がありません。じっくりと眺めつつ打ち粉を ホンホン打っていると,イライラしている時でも不思議 と心が務着いてきます。これからも暇をみては好きな古 f~M;5に,こまめに足を運ぶ乙とになると思います。 開設満10周年を迎えた本学形成外科では,昨年 9凡
この10年間に形成外科で行った手術の概略を発表し た。それによると,日本で形成外科が独立したのはま だ日が浅く,新しい診療科問として室長場したのは,昭 和35年東京大学と東京警察病院である。しかし順天 堂では形成外科的手術が古くから行われ,日本のパイ オニアであった。造t
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術を日本ではじめて行ったのは 佐藤尚中であるし明治8年に佐藤進が行った円蓋裂 の手術も,この種の手術ではいちばん古い記録である また,植皮術に,進は強い関心をよせていた。明治11 ひろば 職員の)J々に11顕天堂の動静をお伝えするものとして 年4号,名5千部を発行しております。 「だよりJ
の成併は,なんといっても皆さまから お寄せいただく原稿の質と批によります。今後とも ・建設的なご窓見,感想,経験談など,さらに例人的 な紀行,近詠,趣味,順天堂にふさわしい写点など 明るい原稿を槌時お待ちしております。そく j順天堂で…長二。二れはヒナ鶏の~
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から取った薄い皮片を茄面に航える方法であるが,前 述の楠皮術に変らない成果を得たとある。 進法先天性あるい(ま外傷または疾病のために身体の 部が欠損しているとき,それを補う手術が成形手術 であり,その目的とするところは局所の醜い形と機能 を回復することにあると定義して,その手術の名を成 形手術と命名したのである。ところが,明治39 年,骨-の異常を治す外科が整形外科と命名された。それ以 ,整形外科と成形外科は向音でまぎらわしくなり, 年t
こ下腿法務に Reverdin 式の植皮術を施して成功し 11慎天堂史余話
シリーズ
⑦
) 1頂天堂と形成外科
おまけに,第二次世界大戦 後の日本では,美容整形医 │ が続出して,進の窓図としl
たところから遠く離れた日 │ 的で手術が行われるように │ あったのである。 医史学研究室・講師 酒井シヅ 進は明治8年, ドイツから帰朝したi直後その方法を ドイツの医学雑誌で読んで,試みたのであった。植皮 術が世界ではじめて行われたのは 1869年であるが,進 がドイツにいた頃は,まだ, ョ ー ロ γパでもほとんど 行われてなく,彼にとっても全く経験のない手術であ ったのだ。もちろん,はじめは失敗の連続であった。 経験を重ねるうちに,植皮する務面の状態や移植する 皮片の厚さなどのこつを会得したのである。 また, 1880年〈明治23年〉には, ドイツの新聞で鶏 の皮片を人体に移植して成功した記事を読んで,さつ な - • なってしまった。そこで,本来の成形外科にたずさわ る人々のなかから,混同をさけるために名前を改めよ 1 うという戸がでて,耳慣れない形成外科という科名が │ 誕生したのである。 I 進が成形手術をLJ!視したのは本当の外科医は腿泌を 切り取るだけでなく,その続痕も配感すべきだと考え ていたからであり,そこに進の誠実な人柄をみる。 明治前期の医事川柳に,佐藤進の新しい外科手術を 讃えて;:,医学は進む 佐藤の造ぬ術=というのがあ る。」
- 13ー学事予定