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J.K.A.ムゼーウス「メレクザーラ」 訳・注・解題

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題

     

  聖ペテロの 御 み 座 くら に就いたグレ ゴ リウ ス九 世 (( ( はある眠れぬ夜はたと霊感を得 たが、これは予知の聖霊に導かれてで はなく、ドイツの 鷲 (( ( が誇り高いローマ を眼下に見ることがないよう、その 風 かざ 切 きり 羽 ば を (( ( 切り詰めてしまえ、との政治的 策謀から発したやつ。朝日が神聖なる ヴァティカン宮 殿 (( ( を照らすやいなや、 早くも教皇 猊 げい 下 か は鈴を鳴らして控えて いる近侍を呼び、高位聖職者会議を招

メレクザー

(( (

ヨーハン・カール・アウグスト

・ムゼーウス著

鈴木滿

訳・注・解題

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 集するよう命じた。この席でグレ ゴ リウスは 祭 イ ン ・ ポ ン テ ィ フ ィ カ リ ブ ス 服ニ威儀ヲ正シテ 厳 (( ( かなミサを 執 と り行い、これが終わると十字軍編成 を 発 ほつ 議 ぎ 。 並 み 居 る 枢 すう 機 き 卿 きょう 一 同 は、 教 皇 の 賢 明 な 意 図 を 容 易 に 類 推、 神 の 栄 光 と 尊 い キ リ ス ト 教 の 共 通 の 繁 栄 の た め の遠征がいかなる目的によるものかよく呑み込めたので、喜び勇んで賛成した。   さてそれから一人の 老 ろうかい 獪 な 教 ヌ ン テ ィ ウ ス 皇大使 が、皇帝シュヴァーベンラントのフリードリ ヒ (( ( が当時宮廷を開いていたナポ リ (( ( に 慌 あわ ただしく下向。大使は旅行嚢の中に二つの箱を携えていた。一つは説得の甘い蜂蜜で一杯、もう一つには 火 ほ 口 くち と 火 打 ち 金 と 燧 ひうち 石 いし が 入 っ て い て、 こ れ は 聞 き 分 け の 無 い 息 子 が 聖 な る 父 に し か る べ く 服 従 し な い よ う な ら、 破 門 と い う火を点火するため。 遣 レ ガ ー ト 外使節 は宮廷に到着すると、甘い方の箱を開き、服用し易い 舐 な め薬製作に惜しげもなく使っ た。しかし皇帝フリードリヒは繊細な舌の持ち主だったから、甘味の中に隠されている苦い丸薬の味がすぐに厭にな ったし、そのせいで腸がよじれてひどく痛くなった。それゆえ彼はこのまやかし菓子を拒み、一向食べたがらなかっ た。 そ こ で 遣 レ ガ ー ト 外 使 節 は も う 片 方 の 箱 を 開 け 、 幾 つ か の 火 花 を 飛 び 散 ら か し た が 、 こ の 火 花 、 皇 帝 の 髭 を 焦 が し 、 蕁 い ら く さ 麻 み (( ( た い に 肌 を 焼 い た。 そ こ で 皇 帝 は、 [ で ん と 居 座 っ た ] 遣 レ ガ ー ト 外 使 節 の 臀 しり よ り 聖 な る 父 の 指 の 方 が ど う や ら 重 そ う だ、 と 思い知らされ、目的に注意を向け、 東 オリエント 洋 の不信者どもに対する 主 しゅ の 御 み 戦 いくさ を遂行することをおとなしく承諾、聖地へ 出 征 す る よ う 諸 侯 に 通 つう 牒 ちょう を 発 し た。 諸 侯 は 皇 帝 の 命 令 を 伯 爵 た ち に 伝 達、 伯 爵 た ち は そ の 封 臣、 騎 士、 貴 族 た ち に 指令。騎士たちは盾持ちや兵卒を武装させ、馬にまたがり、おのおのその軍旗の下に集合したもの。   サン・ バ ルテルミーの 夜 ((( ( に次いで、神の代理人[教皇]が眠れずに過ごしたあの夜 ほ ど多くの嘆きと苦悩を地上に 齎 もたら したものはない。ああ、騎士や兵卒たちが恋人を抱き締めて別れを告げた時、なんとまあ熱い涙が流れたことか。 外地に赴く父たちの腰の中でドイツの勇ましい息子の丸丸一世代が死滅したのだ。灼熱の ア ロ ッ コ フリカ風 が ((( ( シリアの砂漠 に 吹 き 荒 すさ ぶ 時、 繁 茂 す る 草 木 の 芽 が 枯 れ 凋 しぼ む よ う に。 何 千 も の 幸 せ な 夫 婦 の 絆 きずな が 荒 荒 し く 引 き 裂 か れ た。 エ ル サ レ

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 ム の 娘 た ち が バ ビ ロ ン の 柳 の 木 に[ 竪 た て ご と 琴 を ] 掛 け、 座 っ て 泣 い た ((( ( よ う に、 何 万 も の 許 い い な づ け 嫁 が 悲 し く 十 字 架 を 掛 け た。 そ し て 何 十 万 も の 魅 惑 的 な 乙 女 た ち が 許 い い な づ け 婚 を 待 っ て 成 長 し た が 無 駄 だ っ た。 花 咲 き は し た が、 も の 寂 し い 修 道 院 の 中庭の 薔 ば ら 薇 の花園でのよう。だって、摘む手とて無く、楽しまれずに 萎 しお れてしまったのだもの。聖なる父の眠れぬ夜 のために、いとしい背の君を傍らから連れ去られ、溜め息をつく妻たちの中には、テューリンゲン方伯夫人聖女エリ ーザベ ト ((( ( もいたし、グライヒェン伯爵夫人オッティーリ ア ((( ( もいた。なる ほ どこちらの方には、聖女だ、との名声こそ 立たたなかったが、容姿でも徳高い品行でも同時代の女性方のいずれにもやわか 後 おく れを取りはせぬ。   皇帝の忠義な封臣ルートヴィヒ方 伯 ((( ( は、家臣たちが彼の許に集まり、その指揮下で陣営へ赴くよう、動員令を発布 し た。 し か し 大 多 数 が、 外 国 遠 征 を う ま く 免 れ よ う と 何 か 口 実 を 探 し た。 足 そく 痛 つ う ふ う 風 に 苦 し ん で い る の も い れ ば、 結 石 で 我 慢 で き ぬ、 と 言 う 者 ((( ( 。 落 馬 し た、 と か、 武 器 庫 が 燃 え て し ま っ た、 な ん ど と も。 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 エ ル ン ス ト ((( ( だ け が、 大 胆 不 敵 で 独 ひと り 身、 か つ 遠 い 土 地 で 冒 険 を や っ て の け よ う と 志 す 少 数 の 強 壮 な 勇 士 と と も に、 乗 馬 兵・ 歩 卒 を 武 装 さ せ、 方 伯 の 下 げ ち 知 に 従 い、 軍 勢 を 集 合 地 に 率 い て 来 た。 伯 爵 は 二 年 前 か ら 結 婚 し て い て、 こ の 間 に 彼 の 愛 ら し い 妻 は 二 人 の 子 ど も を 与 え て く れ た。 若 君 と 姫 御 ご ぜ 前 で、 こ の 子 た ち は い か に も あ の

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 頑健な時代らしく医術の助けも借りず、さながら曙から露が生まれ出るように、 安安と短時間で誕生。三番目の愛の担保 [ 子ども ] はまだ胎内にあり、これは教 皇が夜眠らなかったせいで、この世にお目見えする際パパに抱っこしてもらえな い羽目になった。エルンスト伯爵は男らしく気丈にふるまいはしたものの、自然 がその権利を主張したので、別離に当って涙を流す妻の腕から無理に体を 捥 も ぎ離 したとき、愛の強い気持ちを隠すことができなかった。彼は 懊 おうのう 悩 を口に出さずに 彼女に背を向けようとしたが、奥方は急に子どもたちのちいちゃな寝台に向き直 り、すやすや眠っている坊やをさっと抱き上げ、優しくママの胸に押し付けると、 泣き濡れた眼差しで父親に差し出した。伯はパパの別れの 接 くちづけ 吻 を清浄潔白な頬っ ぺにした。奥方は同じことを姫君でもした。これはエルンストの心をぎゅっと掴 んだので、唇はわななき始め、口ははっきりへの字に歪み、大声で 啜 すす り泣きながら子どもたちを、その下でとても柔 らかな感じ易い心臓が鼓動している 鋼 は が ね 鉄 の胸甲に押し付け、接吻をしてちびちゃんたちの目んめを覚まし、いとしく て堪らぬ奥方とこの子たちを神とあらゆる聖人方の保護に委ねた。さてそれから彼が騎馬の手勢もろとも 屹 きつりつ 立 するグ ライヒェンの城塞から曲がりくねった 大 おお 手 て の道を下って行くのを、伯爵夫人は愁いに沈んで見送った。彼女が細い真 紅の絹糸で赤十字を縫い取りした夫の軍旗が 目 め じ 路 に 靡 なび いている限り。   ルートヴィヒ方伯は堂堂とした封臣が騎士と従士を率い、十字の軍旗を先頭に駆けつけたのを見て、並並ならず喜 んだが、よくよく注視すると伯の滅入った様子に気づいたので腹を立てた。伯が遠征に気乗りがせず、厭厭参戦した のだ、と思ったからである。そこで額に 皺 しわ を寄せ、鼻を不興気に鳴らした。エルンスト伯爵の方は微妙な 情 パ ト グ ノ ミ シ ュ 念学的 視 ((( (

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 線を目にして、主君は何がおもしろくないのかすぐに悟ったので、つかつかと歩み寄るなり、自分が憂鬱な訳をあか らさまに打ち明けた。これには不興という酢に混ざった油の効果があり、方伯は誠実な親しみを籠めて封臣の手を握 り、 こ う 言 っ た。 「 そ な た の 言 わ れ る 通 り な ら、 我 ら 両 人 の 悩 み の 理 由 は 同 じ だ の う。 我 が 妻 リ ー ス ベ ト[ エ リ ー ザ ベトの愛称]は別れの折おいおい泣いて 余 よ の胸を痛めた。したが、元気を出されい。我らが戦っている間、我らが妻 た ち は 家 で、 我 ら が 栄 光 と 名 誉 と と も に 帰 還 す る よ う 祈 っ て く れ る だ ろ う 」。 さ よ う、 夫 が 出 征 す る 時、 家 を 守 る 妻 はその小部屋にひっそりと独り 籠 こ もり、断食と祈祷に専念、夫が無事に 凱 がいせん 旋 することを念じて絶えず誓願を立てるの が、当時の国の風儀だった。こうした古俗はもはや我が国のどこでも行われているというわけではない。最近ドイツ の戦士たちが遠い西の土地に十字軍として出掛け た ((( ( 折、旅の空にある亭主連の留守中、家族の人数がたっぷり増えて しまって、少なからずこういう現状の 証 あかし になっているようにね。   敬 けいけん 虔 な方伯夫人は背の君との別離の苦しみを、運命をともにする仲間であるグライヒェン伯爵夫人と全く同様、痛 感していた。旦那様の方伯はいささか荒っぽい性分だったが、それでも彼女は至極仲睦まじく暮らしていた。それに 彼を形成している 捏 こ ね土は敬虔な伴侶の聖性に徐徐に浸透されたので、幾人かの寛大な史家は聖方伯なんて添え名を 付けたりしたくらい。もっともこれは彼にあっては事実というより単なる敬称と考えた ほ うがよかろう。今日のドイ ツでも「偉大なる」とか「いとも尊き」とか「老練極まりなき」とか「学識豊かなる」とかといった形容詞が得てし て 上 うわ っ 面 つら だけの 縁 ふち 黄 き ん 金 鍍 め っ き 金 というやつに過ぎないように。あらゆる状況から明らかなのだが、この高貴な夫妻は聖な る行為を実施するという点では必ずしも 琴 きんしつ 瑟 相和していたわけではない。そうして生じた夫婦の確執に天界の諸力が しばしば介入して家庭平和を維持したのは、次のような例からもはっきりしている。敬虔な伯爵夫人は、 美 お い 味 しい物 が い か に も た っ ぷ り 盛 ら れ た 鉢 を 幾 つ も 方 伯 の 食 卓 か ら 持 ち 出 し て、 居 城 の 周 り に し ょ っ ち ゅ う 屯 たむろ し て い る 飢 え た

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 物乞いたちに回してしまったり、宮廷の食事が終わるたびに、本来役得になるはずの残り物を手ずから貧民に 頒 わ かち 与えたりして、宮廷の従僕たちや食いしん坊の小姓どもの大憤激を買っていた。大膳職ご一同は宮廷流儀 ―― こいつ のお蔭でささやかな倹約と多大な浪費がいつもとんとんにされてしまうのだが ―― に従い、まるで全テューリンゲン 方伯領がああしたがつがつした客人連にそっくり 喰 く らい尽くされるかのように、この件で時時強く苦情を言上。そこ で無駄を省きたがる方伯はこうした施しが由由しい額に上ると考えたので、もともと奥方の信心深い道楽であるこの キリスト教的慈善を、大真面目に禁止したもの。ある日のこと彼女は、善行をしたい、という衝動と、それによって 妻 と し て の 従 順 さ を 破 り た い、 と い う 誘 惑 に 抗 あらが え な く な っ た。 食 卓 の 後 片 付 け を し て い る 女 た ち に 合 図 を し て、 手 が付けられていない幾つかの鉢と幾塊かの小麦粉のパンを横流しさせると、これらを全部一つの小籠に集め、それを 携えて岩壁に開いている小さい 潜 くぐ り戸を通って、そっと城塞から抜け出した。   しかし手ぐすねひいていた連中はもうこのことを調べ出して方伯に密告したので、方伯は館のあらゆる出口をせっ せと見張らせた。奥方様が荷物を抱えて脇門からこっそり忍び出られました、とご注進があると、方伯は城の中庭を ずっかずっかと横切り、外の空気を吸おうとでもいう様子で跳ね橋を渡った。ああ、敬虔な方伯夫人は夫の 黄 き ん 金 の拍 車がりんりんと鳴るのを耳にした。すぐさま恐れと驚きに襲われた彼女は、膝ががくがくして先へ進めなくなってし まった。食料の入った小籠はできるだけうまく前垂れの下に隠した。これは女性の魅惑と悪業を慎ましやかに被う物。 し か し こ う し て 確 立 さ れ た こ の 不 可 侵 の 隠 れ 場 所 の 特 権 は 税 関 吏 や 徴 税 人 に こ そ 効 力 が あ る が、 夫 に 対 し て は 金 きん 城 じょう 鉄壁ではない。どうも 訝 いぶか しい、と思った方伯は急いで歩み寄る。褐色の頬は怒りに紅潮、額に青い 癇 かん 癪 しゃく 筋が立った。 「奥」と彼は短気な口調で言った。 「さようにしてわしに隠している籠の中に何を持っておる。わしの食卓の残り物で はあるまいな。それを浮浪人や物乞いどもといった役立たずの 下 げ 人 にん に食わせてやろうというのか」 。「決してさようで

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 は。 御 ご 前 ぜん 様」と柔和な方伯夫人は 淑 しと やかに、しかし胸が締め付けられるような思いで答えた。彼女は目下の窮境にあ っ て は 切 せっ 羽 ぱ 詰 つ ま っ て の 嘘 も、 聖 性 を 傷 つ け る こ と な く、 許 し て 戴 け よ う、 と 考 え た の で あ る。 「 こ れ は 私 が お 城 の 内 庭 で 摘 み ま し た 薔 薇 の 花 に 過 ぎ ま せ ぬ 」。 方 伯 が 我 ら と 同 時 代 の 人 間 だ っ た ら、 奥 方 の 誓 言 を 信 じ て、 そ れ 以 上 あ れ こ れ 追 求 す る の を 止 め た に 違 い な い。 し か し 厳 し い 往 時 は そ の よ う に 洗 練 さ れ て は い な か っ た。 「 持 っ て い る 物 を 見 せなさい」と関白亭主はのたもうて、びくびくしている相手から乱暴に前垂れをひったくった。かよわい妻はこうし た 無 法 に た だ 後 ず さ り し て 身 を 守 る し か な か っ た。 「 御 前 様、 ど う か お 気 を お 鎮 め あ そ ば し て 」 と 言 葉 を 返 し た も の の、彼女は自分の宮廷の使用人たちの前で嘘を 暴 あば かれるのが恥ずかしくて堪らず、顔を染めた。 ―― けれども、おお、 なんたる奇跡、なんたる奇跡ぞ。 罪 コルプス・デリクティ 体 は ((( ( この上もなく美しい咲き誇る薔薇に変わっていた。 丸 ゼ ン メ ル パン は ((( ( 白薔薇に、 直 シ ュ ラ ッ ク ヴ ル ス ト 腸詰め腸詰 は ((( ( 真紅の薔薇に、卵菓子は黄色い薔薇になったのだ。聖なる夫人はこの不思議な変容を目の当たりにし て驚喜し、我が目を信じてよいのかどうか分からなかった。なにしろ彼女自身だって自分の守護聖人がこんなに 慇 いんぎん 懃 鄭重にふるまってくれるとは信じられなかったのだからね。峻厳な夫を欺き、切羽詰まった嘘の体面を保つというこ とになった時、女性の肩を持って奇跡を起こすなんて。   かかる明白な無実の証拠を示されて怒れる獅子は軟化し、今度は慌てふためいているおべっか使いの家来ども ―― 方伯の意見によれば、温順な方伯夫人を 故 ゆえ 無くして中傷した ―― の方に恐ろしい目つきを向け、激しくののしり、淑 徳高い奥を余の 許 もと へ 誹 ひ 謗 ぼう しに参るような密告屋めがまた出たら、そやつを即刻城の地下牢に叩き込み、そこで 悶 もだ え死 にさせてくれるわ、と厳かな誓いを立てた。それから薔薇を一本手に取ると、 無 む こ 辜 の勝利をこと ほ いでそれを帽子に 挿した。もっとも、次の日彼が帽子の上に見たのが萎れた薔薇だったか直腸詰め腸詰だったかについては、物語は言 及していない。しかしながら、御前様が和解の接吻をしていなくなり、先 ほ どの驚愕から立ち直るやいなや、聖女エ

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 リーザベトは心安らかに自分の被庇護者たちである 蹇 あしなえ 者 、 瞽 め し い 人 、身に纏うものとて無い 者、飢えに苦しむ人人が待ち設けている村の共有牧草地指して山を下って行き、そこで いつもの 施 せ 物 もつ を頒け与えた、と語られてはいる。この奇跡のまやかしがそこまで行けば 再び消え失せる、とよく分かっていたし、実際そうなったのだから。つまり彼女が食料 籠を開けると、中にあったのは薔薇の花ではなく、宮廷の寄食者どもの口から 掠 かす め取っ て来た滋味豊かな残り物だったのである。   さて、旦那様が聖地へ出征したため、その厳しい監視から解放され、こっそりとでも 公然とでも好きな 遣 や り方で、好きな時に慈善事業ができる意のままの権力を手に入れた 彼女であったが、専制的な夫を貞節に真心籠めて愛していたので、彼と別れてこの上も なく悲嘆に 昏 く れた。ああ、現世で再びお目に掛かれないのでは、と予感がしてならなか った。では来世では楽しく暮らせるかというと、これも全く不確か。 彼 ひ 岸 がん では聖徒に列 せられた女性には高い位が約束されるが、他の亡魂どもは彼女に較べれば下賎な死者に 過ぎない。   方 伯 は こ の 下 界 で こ そ 高 位 に あ る け れ ど も、 天 国 の 前 庭 で も、 聖 女 の 玉 座 の 絨 じ ゅ う た ん 毯 に 跪 ひざまず き、 か つ て の 伴 侶 の 顔 を 目を上げて見る資格がある、と 看 み な 做 されるかどうか、こいつはどうも依然として疑問。エリーザベトがどんなに誓い を立てても、どんなに善行を積んでも、普通だったら彼女の代願があらゆる聖者様方にどんなに効験があろうとも、 背 の 君 の 寿 命 を 僅 か 一 指 シ ュ パ ン ネ 尺 延 ((( ( ば せ る ほ ど の 貸 し が 天 国 に あ る わ け で は な い。 方 伯 は こ の 征 旅 の 途 次、 人 生 の 花 の 盛 り に 悪 性 の 熱 病 に 罹 かか っ て ヒ ュ ド ゥ ル ン ト ゥ ム ((( ( で 死 去。 サ ラ セ ン 人 ((( ( を 鞍 くら 頭 がしら も ろ と も 一 刀 両 断 唐 か ら た け 竹 割 り に す る、 と い う

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 騎士の武功を立てぬうちに。死出の旅路に赴く折、いまはのきわに彼は、周囲に立ち並ぶ従者や封臣の中からエルン スト伯を臨終の枕辺に呼び寄せ、 己 おの が代理として 麾 き か 下 の十字軍士の一隊の統領に任命、更に、不信者どもに三度剣を 閃かさぬうちは帰還しない、と誓言させた。そして従軍司祭から聖餐を受け、自分と家士全員が打ち揃って威風堂堂 天国のエルサレムに入城できるよう、たっぷり死者追悼ミサを挙げるよう指示してから 身 み 罷 まか った。エルンスト伯爵は 主 君 の 蒼 あお 褪 ざ め た 亡 骸 に 防 腐 処 置 を 施 さ せ、 銀 の 柩 ひつぎ に 収 め る と、 寡 か ふ 婦 と な っ た 方 伯 夫 人 の 許 に 送 っ た。 夫 人 は 背 の 君 のためにさるローマの皇后のように喪に服した。つまり生涯喪服を脱ごうとしなかったのである。   グライヒェン伯爵エルンストはできる限り巡礼行を急がせ、部下たちともども無事にプトレマイ ス ((( ( 近郊の陣営に到 着した。ここで彼が見出したのはもちろん、本気の遠征ではなく大仰な戦争劇とでもいったようなもの。と申すのは かかる次第だったからで。当世ドイツの舞台では、陣営あるいは会戦の場というと、前景にはただ僅かの天幕が張ら れ、小人数の役者たちが 小 こ 競 ぜ り 合 あ いをやっている。遠景にはたくさんの天幕群や密集した軍勢が描かれ、想像を刺激 し た り、 目 を ご ま か し た り す る。 全 て は 五 官 を 人 工 的 に 錯 覚 さ せ る こ と を 狙 っ た も の。 こ う い う 具 合 に 十 字 軍 も 虚 構 と 実 際 の 混 合 だ っ た。 郷 国 か ら 旅 を し て 来 た 夥 し い 戦 士 の 群 の う ち、 征 服 し よ う と 鹿 か 島 しま 立 だ ち し た 先 方 の 国 の 境 に ま で 到 達 し た の は と に か く そ の ほ ん の 一 部。 し て ま た サ ラ セ ン 人 の 剣 の 餌 食 に な っ た の は ご く 少 数 だ っ た。 こ の 不 信 の 輩 ともがら に は 強 大 な 同 盟 者 が あ っ て、 彼 ら は こ れ ら を 敵 勢 に 向 か っ て 国 境 の 遥 か 先 ま で 送 り 出 し、 同 盟 者 は そ う こ う す る う ち 勇 猛 果 敢 に 掃 討

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 作戦をやってのけたのである。この功績に対し報酬も感謝も受け取りはしないのに。これすなわち飢え、窮乏、陸路 と海路の危難。それから 厭 いと うべきやつらの中には、厳寒、酷暑、 黒 ペ ス ト 死病 、悪性の 腫 しゅよう 瘍 なんてのもある。なんとも辛い 郷愁が時折鋼鉄の胸甲の上に重い 夢 ア ル プ 魔 み ((( ( たいにのしかかり、それをぺなぺなの厚紙みたいに折り曲げるので、故郷を 指して一目散とばかり馬に拍車を掛けることすら。こうしたていたらくなのでエルンスト伯爵には、祖国へ引き上げ てもよいかな、と思う前に、願い通り迅速に確約を果たし、騎士の大剣を三度サラセン人に閃かせる望みは薄かった。 陣 営 の 周 囲 三 み っ か 日 路 ぢ と い う も の、 ア ラ ビ ア 人 の 射 手 一 人 見 つ か ら ぬ。 無 気 力 な キ リ ス ト 教 徒 軍 は 稜 りょう 堡 ほ と 砦 の う し ろ に 隠れ込み、遠方の敵を探そうとそこからあえて出陣することはなく、十字軍結成を企んだあの眠れなかった夜以来う とうととまどろんで、妨げられた安息を楽しみ、聖戦の成功などろくに気に掛けていない教皇が約束した、のびのび になっている救援軍をひたすら待ち望んでいる始末。   昔むかしのその昔、英雄アキレウ ス ((( ( がさる 遊 あそびめ 女 をめぐって盟友とぎゃあつく喧嘩したあそこ、血に飢えてはいたが 勇猛なあのトロヤを攻囲したギリシアの軍勢もそうだったが、キリスト教徒の軍勢にとって不面目なこの無為無策状 態にあって、陣営のキリスト教徒の騎士の面面は逸楽と気晴らしに 耽 ふけ り、暇を潰し、憂さを払っていた。南国のイタ リア人が唄と弦楽に夢中になれば、身の軽いフランス人はこれに合わせてぴょんぴょこ踊る。謹厳なイスパニア人は 将 チ ェ ス 棋 。英国人は闘鶏。ドイツ人は飲むは喰うはの宴会騒ぎ。こうした慰みごとはあまり好きではなかったエルンスト 伯爵は狩りに興じ、 乾 ひ 涸 から びた 曠 あれ 野 の で狐どもを攻め立て、焼けつく山並みに狡賢い 巖 いわ 羚 かもしか 羊 を追った。彼の配下の騎士た ちは昼間の灼熱の太陽とこの異国の空の下のじめじめした夜気に 辟 へきえき 易 し、主君が馬に鞍置かせると、そっと逃げ出す のだった。そこで彼に 随 つ き従って狩猟に赴くのはいつも、手早のクルトと 綽 あだ 名 な された忠実な盾持ちとたった一騎の乗 馬 兵 だ け。 あ る 時 な ん と し て も 羚 羊 を 仕 留 め よ う と 巌 山 を 攀 よ じ 登 っ て い た 彼 は 遠 とおっ 走 ぱし り し 過 ぎ て し ま い、 帰 ろ う と 思

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 い立つ前にもう地中海に日が沈んでいた。陣営に戻ろうと大いに急いだが、辿り着かぬうちに夜。人騙しの鬼 火 ((( ( が現 れ、 そ れ を 陣 営 の 篝 かがり 火 び と 思 い 違 い し た の で、 更 に 遠 く 逸 そ れ て し ま っ た。 迷 っ た、 と 分 か る と、 彼 は と あ る 野 の 樹 の 下で明け方まで憩うことに決めた。忠実な従士は疲れ果てた殿のために柔らかい苔で寝床をしつらえた。主人は、日 中 の 暑 さ に ぐ っ た り し て い た の で、 慣 わ し 通 り 十 字 を 切 る た め 手 を 上 げ る 暇 いとま も な く、 ぐ っ す り と 寝 入 っ た。 し か し 手早のクルトの目には眠りは訪れなかった。彼は生まれつき夜鳥のように油断の無い性分だった。仮にこうした用心 深い才能を授かっていなかったとしても、ご主人様大事と思う心のお蔭で目ざとくなっていたことだろう。アジアの 気象では普通のことだが、明るく晴れた夜で、星星が切り子磨きの 金 ダイアモンド 剛石 のように清らかな輝きできらめき、死の谷 のような厳かな静けさがこの人里離れた僻地を支配していた。そよとの風も無かったが、夜の冷気が植物や動物に命 と活力を注いでいた。しかし暁の明星が夜明けを告げる第三夜警 時 ((( ( の頃、遠くの暗闇に険しい断崖を流れ落ちる轟轟 と鳴る森の川のような物音が起こった。油断の無い従士は耳を 欹 そばだ て、その鋭い目も夜の 帳 とばり を見通すことができなか ったので、残りの感覚も全て情報収集に送り出した。彼はじっと聴き、また、猟犬のように臭いを 嗅 か いだ。というの も、芳香を放つ薬草や踏み 躙 にじ られた草の茎のような香りが吹きつけられて来たからである。異様な物音はますますこ ちらへ近づくように思われた。クルトは地面に耳を押し付けた。すると馬の蹄のかっかっという響きが聞こえた。彼 は魔王の軍 勢 ((( ( が通過しようとしているのではないか、と推量したので、全身ぞっと戦慄し、ひどい恐怖に襲われた。 そこで主人を揺さぶり起こすと、こちらは目覚めるなり、これは妖怪変化とは違うものを相手にしなければなるまい、 と気づく。乗馬兵が馬たちに 馬 ば 勒 ろく を付けている間に、エルンストは従士に手伝わせ、大急ぎで物の具を身に 纏 まと った。   周囲の黒い影はだんだんに消え失せ、近づく 黎 れいめい 明 が東の地平線の縁を真紅で染めた。その時伯爵は自分が予想した もの、つまりサラセン人の一隊が、いずれも充分に戦支度をし、キリスト教徒から何か獲物を手に入れようと、進軍

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 し て く る の を 見 た。 彼 ら の 手 か ら 逃 れ る の は 不 可 能 だ っ た。 一 夜 の 宿 り と な っ た 樹 は 広 広 と し た 平 野 に あ っ て 人 馬 を 隠 す 保 護 を 与 え て は く れ な か っ た。 不 幸 な こ と に 図 体 の 大 き な 馬 は ヒ ッ ポ グ リ フ ((( ( で は な く、 ず っ し り 重 た い フ リ ー ス ラ ン ト 産 ((( ( で あ っ て、 そ の 体 格 の た め、 主 人 を 風 の 翼 に 乗 せ て 運 び 去 る と い う 願 わ し い 能 力 は 与 え ら れ て い な い。 そ こ で 雄 雄 し い 戦 士 は 霊 魂 を 神 と 聖 処 女 の 庇 護 に 委 ね、 騎 士 ら し く 死 の う、 と 覚 悟 し た。 家 来 た ち に、 我 に 続 け、 で き る 限り高価に命を売りつけてやろうではないか、 と命じ、 フ リ ー ス ラ ン ト 産 の 軍 馬 に し た た か に 拍 車 を 入 れ る と、敵の騎馬隊の真っ只中に乗り入れた。敵勢はこの奇襲がたった一人の騎士によるものとは思いもかけなかった。 不信者どもは風に舞う 籾 もみがら 殻 のように散り散りになった。しかし、相手方が 武 む 者 しゃ 三人以上ではない、と気づくと、勇気 を盛り返したので、恐れを知らぬ大胆さも人数には屈する不釣合いな闘いが始まった。伯爵はそれでも勇ましく馬を 駆り立てて戦場を 駆 は せ 巡 めぐ り、槍の穂先を閃かせて敵勢に死と破滅を齎した。槍が相手を突き留めると、抗いようのな い 勢 い で 鞍 か ら 放 り 出 し た も の。 伯 爵 目 掛 け て 激 し く 馬 を 寄 せ て 来 た サ ラ セ ン 人 部 隊 の 首 領 す ら 彼 の 雄 雄 し い 腕 は 打ち倒し、虫のように砂の中を転げ回るのを、騎士聖ゲオルギウ ス ((( ( がおぞましい龍を退治したように、常勝のその槍 で刺し貫いた。手早のクルトも負けず劣らずすばしこく立ち働いた。なる ほ ど彼は突撃には役立たずだったが、後ろ

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 巻きとなると堂に入ったもので、抵抗できない者は皆殺しにした。これから文学界という馬上槍試合 場 ((( ( に自信たっぷ り撃って出ようとする不具者や 蹇 あしなえ 者 といった無力な 人 じん 士 し を 縊 くび り殺してのける芸術評論家みたいな調子でね。時折弱弱 しい怪我人が、憤慨した中傷屋追求者かなんぞのように激怒して、 萎 な えた手から彼に石を投げつけることがあっても、 とんと気に掛けなかった。自分の鉄の冑と胸甲は並みの 投 とうてき 擲 には充分耐えられると承知していたので。乗馬兵も身の 回りのあらゆる障害を除こうと全力を尽くし、主人の背後の安全を確保した。しかし九つの馬車 制 ブ レ ー キ 動機 がこの上なく 強い 挽 ばん 馬 ば に、四頭の牡のアフリカ水 牛 ((( ( がアフリカの獅子に、そして周知の伝説によれば、 二 ウ ス 十日鼠 の群が大司教に ― ― ヒ ュ プ ナ ー に よ れ ば ラ イ ン 河 の 鼠 モ イ ゼ ト ゥ ル ム の 塔 が ((( ( こ の 物 語 の 確 か な 証 拠 と な っ て い る ― ― 打 ち 勝 ち、 思 い の ま ま に す る こ とができるのだから、騎士の闘いの習いで、グライヒェン伯爵は衆寡敵せず打ち負かされた。彼の腕は疲れ、槍は折 れ、剣は 鈍 なま り、馬は敵の血の流れる合戦の場で脚を踏み滑らした。騎士の落馬で勝利はふい。何百もの手が、剣を奪 おうと掴み掛かったが、こちらには抗う力のあらばこそ。騎士が倒れるのを目撃したとたん、手早のクルトは勇気を、 同時に、今まであれ ほ ど上手にサラセン人の頭蓋を叩き潰していた 戦 せん 鎚 つい も ((( ( どこかへ失くしてしまった。彼は無条件降 伏をし、しきりに助命を嘆願。乗馬兵は茫然と立ちすくみ、なるようになれ、と諦め、 戦 せんこん 棍 の ((( ( 一撃を冑に喰らって大 地にく ずおれるのをなげやりな態度で待ち受けた。   しかしながら、敗者たちには思いも掛けないことだったが、サラセンは人道的な勝利者で、戦争捕虜を武装解除す るだけで満足し、体には何の危害も加えなかった。こうした穏やかな手加減は別段博愛心の発露ではなくて、斥候兵 の慈悲に過ぎなかったのだが。敵を殺してしまえば何一つ訊き出せないし、この巡察部隊の使命はもともとプトレマ イスに布陣したキリスト教徒軍の状況について確実な情報を得ることだったのである。捕虜たちの訊問が終わると、 アジアの戦の慣わしに従い、彼らは奴隷の鎖を掛けられた。折しもアレクサンドリ ア ((( ( 行きの船が出帆準備を完了して

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 いたので、アシドドの 領 ベ イ 主 は ((( ( 彼らをエジプトの 王 スルタン の ((( ( 許に送った。宮廷でキリスト教徒軍の状況をその供述により実 証させるためである。この 健 け な げ 気 なフランク人[ヨーロッパ人]の大胆不敵ぶりについての噂は彼の到着前に既に大い なるカイ ロ ((( ( の城門にまで広まっていた。そこで本来ならこれ ほ ど勇敢な戦争捕虜はこの敵国の首都で、四月十二日ガ リア[ ゴ ール=フランス]の海の英雄( 1 )がロンドンで得たのと同様の素晴らしい歓迎を受けたことだろう。この 日陽気な王都は、敗者にブリタニアの勝利の栄光を感じてもらおう、と競って努力した。しかし イ ス リ ム スラム教徒 の自負 心が異国人の手柄を公平に扱うわけはない。エルンスト伯爵は徒刑囚の列に入れられ、重い鎖を負わされて、 王 スルタン の 奴隷たちがいつも寝泊りする格子の 嵌 は まった塔に幽閉された。ここで彼は長い苦しい夜毎、孤独な哀しい日日、今後 の自分の人生の過酷な宿命をつらつら思いやる時間を与えられた。こうした物思いに屈服せぬようにするには、巡察 するアラビア兵の全部隊を相手に戦場で立ち回りをするのと全く同じ英気と果断を必要とした。しばしばかつての家 庭の至福の 団 だんらん 欒 の光景が目の前に 揺 ようえい 曳 し、愛らしい奥方と貞潔な愛のいとけない芽生えたちを追憶するのだった。あ あ、聖なる教会と東洋の ゴ グとマ ゴ グ ((( ( との不幸な確執をどんなに彼は呪ったことか。これこそ現世の生活の幸せな運 勢を彼から奪い、解かれることのない奴隷の鎖に彼を縛りつけたもの。この頃彼は今にも絶望しそうになり、すんで のところ彼の敬虔さも[自殺の]誘惑という暗礁に乗り上げそうだっ た ((( ( 。   グライヒェン伯爵エルンストの在世中、逸話好きな連中の間に変てこりんなある物語が広まった。これはハインリ ヒ 獅 デ ア ・ レ ー ヴ ェ 子 公 を ((( ( 巡 る も の で、 本 当 に あ っ た で き ご と と し て ド イ ツ 全 土 で 大 い に 信 じ ら れ た。 公 爵 は ― ― と こ の 民 間 伝 承 は物語る ―― 海を渡って聖地へ巡礼をした折、ひどい嵐に見舞われてとある人の住まぬアフリカの海岸に漂着した。 ここで彼は災厄をともにした者たちのうちただ独り難破から命助かり、あるもてなしの良い獅子の洞窟に宿と避難先 を見出した。もっともこの洞窟の怖らしい住人の温良さは生来心にあったのではなく、その左後足のためだったので

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 ある。獅子はリビア砂漠で狩りをしていた時、 棘 とげ を踏み抜いてしまい、おっそろしく痛いので身動きもできないでい た。そこで天然自然の食欲をすっかり忘れていたわけ。知り合いになり、お互いに信頼しあうようになると、公爵は 百獣の王に対しアスクレピオ ス ((( ( の代役を演じ、骨を折って足から棘を抜いてやった。獅子は元気になり、客人に示さ れた親切を忘れず、取って来た獲物で至れり尽くせりのもてなしをし、愛玩犬のように愛想よく人懐こくふるまった。   し か し 公 爵 は 四 足 の 宿 の 亭 主 の 冷 た い お 膳 立 て に す ぐ に う ん ざ り し て し ま い、 か つ て の 自 分 の 宮 廷 の 厨 ちゅう 房 ぼう の 大 おお ご 馳走を憧れて止まなかった。なにしろ提供してもらった猟獣肉を、以前彼の大膳職が腕を振るったように美味しく調 理することができなかったもので。そこで公爵はひどい郷愁に襲われ、いつか世襲の領地に帰れるという見込みは無 いから、心底暗然として、傷ついた牡の角 鹿 ((( ( のように目に見えて 窶 やつ れた。すると誘惑者が周知の、こうした荒地では こやつに付き物の厚顔無恥な態 度 ((( ( で、ハインリヒに近づいた。ちっぽけな黒い 侏 こ び と 儒 に化けたから、公爵は最初見た時、 黒 オラン・ウータン 猩 猩 か ((( ( 何かだ、と思った。しかし我が 主 しゅ なる神の 猿 えて 公 こう であるサタ ン ((( ( だったのであって、肉体を具え、にたにた笑 い 掛 け て、 こ う 言 っ た も の。 「 ハ イ ン リ ヒ 公 爵、 何 を く よ く よ し と る。 お い ら に 任 せ て く れ る な ら、 あ ん た の 悩 み に 悉 しっかい 皆 けりを付けて、奥方のとこへ帰らせて進ぜよう。そうすりゃあんた今晩のうちにブラウンシュヴァイ ク ((( ( のお城で 奥方の隣に座って飯が食えるがな。だってあすこにゃすんばらしい晩餐が支度されてるだでよ。奥方は、あんたが死 んじまった、と諦めたんで、他の男と婚礼するもんだからなあ」 。   この 報 し らせは公爵の耳に雷鳴のように轟き、 両 もろ 刃 は の剣のように心臓に突き刺さった。怒りに目は爛爛と燃え、胸に は絶望が荒れ狂った。天に助ける気が無いなら、地獄に助けてもらおう、と進退ここに 窮 きわ まった彼は考えた。これこ そかの老練の哲学的手品師[悪魔]が、欲しくて堪らない魂をまんまと調達しようとする時、まこと名人芸で利用す る 危 機 的 状 況 の 一 つ。 公 爵 は ぐ ず ぐ ず 思 案 せ ず、 黄 き ん 金 の 拍 車 を 付 け、 剣 を 腰 に 帯 び、 出 発 準 備 を 調 え た。 「 お い、 は

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 し っ こ い の 」 と 彼 は 言 っ た。 「 余 と こ の 忠 義 な 獅 子 を ブ ラ ウ ン シ ュ ヴ ァ イ ク へ 連 れ て 行 け い。 そ の あ つ か ま し い 色 男 が 余 の 寝 台 に 上 が ら ん う ち に な 」。 「 よ う が す 」 と 黒 髯 の 返 辞。 「 だ け ん ど、 こ の 運 搬 を や っ て や る 代 わ り、 お い ら が ど ん な 報 酬 を も ら う こ と に な っ て る か、 先 せ んこく 刻 ご 承 知 だ よ な 」。 「 何 で も 欲 し い も の を 要 求 せ い 」 と ハ イ ン リ ヒ 公。 「 誓 っ て 貴 様 に く れ て や る わ 」。 「 一 い ち ら ん 覧 払 い で あ の 世 ま で の あ ん た の 魂 を な 」 と 悪 ベ ル ゼ ブ ル 魔 。 ((( ( 「 い い と も、 手 打 ち だ 」 荒 れ 狂 う 嫉 妬 に 突 き 動 か さ れ て ハ イ ン リ ヒ は ど なった。   か く し て 二 人 の[ 霊 魂 の ] 協 同 所 有 者 間 の 契 約 は 法 に き ち ん と 則 のっと っ て 締 結 さ れ た。 地 獄 の 沢 ち ゅ う ひ 鵟 は ((( ( す ぐ さ ま 怪 鳥 グ リフィ ン ((( ( に変身、一方の 鉤 かぎ 爪 づめ で公爵を、もう一方の鉤爪で忠義な獅子を掴むと、一夜にして両者をリビア砂漠からハ ルツの堅固な山塊 ―― ツェラーフェルトの見霊者の嘘八百の予 言 ((( ( ですら震駭させることができなかった ―― の上に屹 立する町ブラウンシュヴァイクへと連れて行き、重荷をつつがなく 市 マ ル ク ト プ ラ ッ ツ の立つ広場 に降ろすなり消え失せた。丁度その 時夜警が真夜中の刻限を知らせるため角笛を吹き鳴らし、 嗄 しゃが れた 麦 ビール 酒焼けの 咽 の ど 喉 から昔ながらの祝婚歌を朗唱し終 わったところ。公爵の御殿と全市はまだ星空さながら華燭の典の灯火できらめいており、街路はどこもかしこも、装 いを凝らした花嫁御寮と婚礼の締め括りとなる華やかな 炬 たいまつ 火 舞踏を眺めようとどっと繰り出した、歓呼する民衆が押 し合いへしあい大騒ぎ。遥かな空の旅路にも一向疲れを感じなかった飛行家は、拍車をりんりんと響かせ、忠義な獅 子にお供され、雑踏の真っ只中を押し通って宮殿の入り口を抜け、宴席に入ると、剣をすらりと引き抜き、こう言っ

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 た。 「ハインリヒ公爵に忠義な者はこれへ参れ、して、裏切り者どもには呪いと 匕 あいくち 首 を」 。同時に獅子が、七つの雷鳴 の 響 き の よ う な 声 で 吠 え、 恐 ろ し い 鬣 たてがみ を 振 り、 怒 り に 燃 え て 攻 撃 の 徴 しるし に 尻 尾 を も た げ た 。 ((( ( 円 ィ ン ク 錐 管 楽 器 と 喇 ポ ザ ウ ネ 叭 は ((( ( 静まりかえり、ごったがえす婚礼の広間から ゴ シック様式の 穹 ア ー チ 窿 まで慄然たる闘いの騒音が響き渡り、ために四壁は 鳴りどよもし、敷居もびりびり 震 しんかん 撼 した。   黄 き ん 金 の巻き毛の新郎とその廷臣たちである彩り華やかな蝶の群は公爵の剣の下に 斃 たお れた。そのさまはさながらマノ アの子の逞しい手に握られた驢馬の顎骨で千ものペリシテ 人 びと が ((( ( 撃ち伏せられたよう。そして剣を免れた者は獅子の口 に走り込む羽目となり、無力な仔羊のように圧殺された。あつかましい求婚者が家臣の貴族・従者を道連れにして根 絶され、ハインリヒ公爵がその家法を、昔むかし賢いオデュッセウス( 2 )が貞潔なペネロペイアの求婚者の一団に 施したのと全く同 様 ((( ( 峻厳に行使し終わると、彼は奥方と並んで朗らかに食膳に向かった。奥方は夫に与えられた死の 恐怖から丁度気を取り直し始めたところ。公爵は、自分のために作られたわけではなかったが、己が大膳職ども調製 のご馳走を美味しく味わいながら、新たに征服した獲物[奥方]に勝ち誇った目を向けると、公妃が 面 めんよう 妖 なことによ よと泣き崩れているのを見た。これすなわち、勝ったというより負けたんだ、と解釈され得る。しかしながら公爵は 奥方に、生き方を心得ている男として、ただただ自分に有利になるよう説明、愛情の籠もった言葉で奥方に、そなた はちと気が 急 せ き過ぎたのだよ、と 諭 さと した。そしてこの時以降元元通りなべての権利を取り戻した次第。   エルンスト伯爵はこの妙ちきりんな物語を乳母の膝の上で何度と無く聞かされた。あとで大きくなってからは賢い 人間としてその真実性を疑わしく思ったもの。しかし格子の塔の悲しい幽閉生活にあっては、こうしたこともありう るのでは、と思われてならず、頼りない荒唐無稽な考えが ほ とんど確信にまで成長。もしかの悪霊がおぞましい真夜 中にその 蝙 こうもり 蝠 の翼を提供してくれるなら、大気を飛び抜けるなんてことは世の中で一番簡単なような気がした。彼は

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 自らの教義に従い、毎夜胸の前で大きく十字を切ることをゆるがせにしなかったけれども、それでも同じ冒険をやっ て み た い と い う ひ そ や か な 衝 動 が 心 に 蠢 うごめ く の だ っ た。 こ の 願 望 を 是 認 こ そ し な か っ た が。 し か し な が ら 夜 う ろ つ き 回る鼠が壁の鏡板の間でかさこそ音を立てるたびに、地獄のプロテウ ス ((( ( [何にでも化ける悪魔]が、お役に立とうと 参上つかまつった、と合図しているのではないか、とすぐに妄想、しばしば頭の中でまずさしあたってそやつと運搬 契 約 を 締 結 す る こ と を 逸 いち 早 く 思 い 巡 ら す 始 末。 し か し 祖 国 ド イ ツ へ の 目 眩 くるめ く 空 中 旅 行 を 演 出 し て く れ る 夢 想 を 除 く と、この荒唐無稽な考えがエルンスト伯爵にありがたく思えるのは、そうした物思いに耽っていれば、登場する主人 公に成り代わってしまう小説の読者みたいに、なすことの無い数時間がすぐに経つことくらい。霊魂略取が肝心の問 題で、諸般の状況から 推 お してこの取り引きがうまく行くこと間違い無しだったのに、ア バ ドン先 生 ((( ( が何だって手出し をせずじまいだったのかについてはれっきとした理由が一つならず挙げられよう。ハインリヒ公爵がかねてその魂の 世 話 を お 願 い し て い た 守 護 聖 人 よ り、 伯 爵 の 守 護 聖 人 の 方 が お さ お さ 油 断 怠 おこた り な く、 強 力 に 防 御 を 固 め た の で、 邪 よこしま な敵はその身にちょっかいを出せなかったからか、契約貨物の件でかの大気を支配する霊は結局のところハイン リヒ公爵に 騙 だま されたので、この元素を通過する輸送稼業に嫌気が差したのか。と言うのも、いざ借金取り立てとなっ た時、公爵の霊魂はそれまでに多大な善行を積んでおり、地獄の帳簿に記入されていた売り掛け代金は、お蔭でそっ くり帳消しになっちまったのである。   エルンスト伯爵が幻想的な物思いに耽りながら、この格子の嵌まった陰鬱な塔から解放されまいか、と微かな望み を夢見、 ほ んの片時ながら苦悩と 憤 ふんまん 懣 を忘れたりしている間、帰国した従者たちは待ち焦がれている伯爵夫人に、ど んな 椿 ちん 事 じ に遭遇なさったものやら、てまえどもに何一つ仰せられぬまま、ご主君が陣営からお姿を消されましてござ る、 と 復 命 し た。 伯 爵 は 有 ド ラ ッ ヘ 翼 龍 か ((( ( 、 無 リ ン ト ヴ ル ム 翼 龍 の ((( ( 餌 食 に な っ た の で は、 と 憶 測 す る 連 中 も い れ ば、 シ リ ア の 曠 野 で 瘴 しょう 気 き

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 に侵されて亡くなったのだ、とする者も。また、アラビア人の追剥ぎの一味徒党に襲われて殺されたか、捕虜として 連れ去られたのだろう、と言う輩もあった。だれでも一致したのは、伯爵は 死 プ ロ ・ モ ル ト ゥ オ 去セシモノ と ((( ( 看做され得るのであって、 伯爵夫人は結婚の誓いから自由になった、ということ。奥方の方も背の君が本当に死んだと思って 悼 いた み嘆いたのだっ た。 孤 児 に な っ た ち び ち ゃ ん た ち が マ マ が 拵 こしら え て く れ た 黒 い 小 さ な 頭 巾 を 被 かぶ っ て、 も う 帰 っ て 来 な い と は 実 感 し な いまま、優しいパパの喪に服すのを無邪気に嬉しがると、オッティーリアは切なくて堪らなくなり、その双眸からは 憂いに満ちた悲嘆のあまりどっと涙が流れた。しかし、それにも関わらず、何かの虫の知らせが彼女に、伯爵はまだ 存命だ、と告げるのだった。こうしたありがたい考えを彼女は決して胸から消し去ろうとはしなかった。なにせ希望 こそ悩める者の最も強い支えであり、人生の最も甘美な夢なのだから。この望みを持ち続けるために夫人は一人の忠 実な家来の支度をこっそり調え、情報を集めるために海を渡って聖地に遣わした。この男は 方 はこぶね 舟 から飛び出した 鴉 ((( ( の ように水の上をあちこち 彷 さ ま よ 徨 い、新事実は何も報告できなかった。次いで彼女が派遣した別の使者は、海陸を遍歴し て七年後戻ったが、嬉しい見込みという 橄 オリーヴ 欖 の葉っ ぱ ((( ( を 嘴 くちばし にくわえてはいなかった。だが毅然とした奥方は、夫に はまだ生者の国で会える、ということを 露 つゆ 疑わなかった。あれ ほ ど優しく誠実な背の君が、こうした破局に際して故 郷の妻と幼な子たちを思い起こし、この世との告別の徴を送ること無しに身罷るなんてあり得ない、と堅く信じてい たからである。それなのに、伯爵が出征してこのかた、城中ではこれに符節を合わせるようなことは何も起こってい なかった。武器庫で物の具の響きがした、とか、物見台の張り出しで 梁 はり がぎしぎし 軋 きし んだ、とか、 臥 ふし 所 ど で低い 跫 あしおと 音 か 長靴でずしりずしりと歩く音がした、とかね。宮殿の高い鋸型屋根から夜の 泣 ヴ ェ ー ク ラ ー ゲ き叫び が ((( ( 挽 ばん 歌 か を歌い上げることもせず、 悪名高いまっしろ 白 しろとり 鳥 が ((( ( 戦慄すべき死の叫びを聞かせることも無し。悪い前兆が一切示されなかったため、伯爵夫人 は女性論理学( 3 )の諸原則に従い、いとしい旦那様はまだ生きておいでだ、と結論した次第。この女性論理学とい

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 うやつはご婦人方の間では当世でもまだまだ 廃 すた れちゃいません。アリストテレス爺さんの『オルガノン 』 ((( ( が男どもに 用いられているように。で、この断定が正しかったってことを我我は知ってるわけです。さて彼女は最初の二回の捜 索旅行 ―― これは彼女にとって南極大陸発見より大事だった ―― が不首尾に終わったのに些かも 怯 ひる まず、三人目の使 徒 を 広 い 世 の 中 に 送 り 出 し た。 こ の 男、 不 ぶ 精 しょう な 性 分 で、 待 て ば 海 路 の 日 ひ 和 より か な、 と い う 金 言 を よ お く 心 得 て い た。 そこで 旅 はた 籠 ご 屋 や があれば必ず泊まって骨休めをしたもの。それから伯爵のことであれこれ問い 質 ただ さなければならない人 たちを広い世間へ追って行って、探し当てるより、自分のところへ来るのを待つ方が遥かに快適だ、と確信していた ので、東洋からの旅人を全て、都市の門の遮断棒に控えた税関吏のようにずけずけと詮索して、訊問できる持ち場に 陣取った。これすなわち水の都ヴェネツイ ア ((( ( の港である。ここは当時聖地を後にした巡礼や十字軍士が故郷に帰る時 必ず通る共通の門みたいなものだった。この狡賢い男が課された任務を果たすのに選んだ手段が最上のものだったか、 最悪のものだったか、いずれお分かりになろう。

     

  大 い な る カ イ ロ の 格 子 が 嵌 ま っ た 塔 と い う 狭 苦 し い 牢 の 中 で 七 年 も の 間 禁 きん 錮 こ ― ― こ れ は 伯 爵 に と っ て ロ ー マ の 地 カ タ コ ン ベ 下墓地 で ((( ( の七年間が七人の眠れる聖 者 ((( ( にとってそうだったより遥かに長く思われたが ―― された伯爵は、天国から も地獄からもすっかり見捨てられた、と考え、お 天 てん 道 と 様を拝むことなんてことはついぞ無く、衰えた日差しだって狭 い、 鉄 棒 で 守 ら れ た 窓 か ら 辛 う じ て 差 し 込 む だ け の こ の 陰 鬱 な 鳥 籠 か ら の 解 放 を 諦 め 切 っ た。 悪 魔 噺 ばなし は と う の 昔 に おしまいになっていて、守護聖人が奇跡的に助け出してくださるだろう、という期待は今や 芥 か ら し 子 種 だね 一粒の重さしか。 彼はもはや生きているというより植物のよう。この境遇でもまだ生み出せる希望は、死にたいなあ、くらいのもの。

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題   そうした無気力な昏迷状態から突然彼を呼び起こしたのは、独房の扉の前でがちゃがちゃ鳴った鍵束の響き。ここ へ入れられてからというもの、牢番は二度と鍵を使わずじまい。というのも囚人の用足しは全て獄房の跳ね上げ 戸 ((( ( を 通して行われたので。だから錆びついた鍵は、 橄 オリーヴ 欖 油という餌をもらうまで長いこと抵抗してなかなか言うことを聞 かなかった。しかし開き出した扉の、軸の周りをのろのろと動く鉄の 蝶 ちょう 番 つがい のぎいぎい軋む音は、伯爵にとって丁度 フ ラ ン ク リ ン の 口 ハ ー モ ニ カ 風 琴 の ((( ( 発 明 者 の そ れ み た い に、 と ろ け る よ う な 和 ハ ー モ ニ ー 声 の な ん と も 甘 美 な 音 楽 だ っ た。 こ れ か ら 何 が 起こるかと胸がどきどき。凝固していた血液が循環し始め、彼は運命がどう変わるの かの知らせを今や遅しと待ち受けた。ちなみに生死いずれを告げられようと、それは どうでもよかったのである。二人の黒人奴隷が牢番とともに入って来、牢番の合図で 囚人の鎖を外した。もったいぶった白髯はまた黙って身振りをし、鎖を外された男に 随いて来るよう命じた。こちらはがくがくした足取りで従った。足が言うことを聞か なかったので、彼は二人の奴隷に支えられて、石の廻り階段をよろめき降りた。囚獄 の 長 おさ の 前 に 連 れ て 来 ら れ る と、 相 手 は 厳 し い 顔 を 向 け て こ う 語 り 掛 け た。 「 強 情 な フ ランク 人 ((( ( 、きさま、どんな技を心得ているのか、格子の塔に押し込められる時、なぜ 隠しておった。きさまと一緒に 捉 つか まった者どもの一人が、きさまが園芸に巧みだ、と 洩らしおったわ。 王 スルタン 様の 御 み 旨を恐れ 畏 かしこ み、フランク人の流儀で庭を作れ。そして、 そこで世界の花の君が東洋の飾りとして晴れやかに咲き匂われるよう、きさまの目の 玉そこのけにお世話申し上げるのだ」 。   仮に伯爵がパリのソル ボ ンヌ大学の総長に選ばれたとしたって、その職はエジプト

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 の 王 スルタン の林苑を宰領するというこの任命 ほ ど彼をびっくりさせはしなかったろう。園芸については俗人が教会の秘密 について心得ている ほ どにしか知らなかったので。なる ほ ど南国イタリアとニュルンベル ク ((( ( でたくさんの庭園を見は した。ニュルンベルク人の庭道楽は当時、 九 きゅう 柱 ちゅう 戯 ぎ 場 ((( ( やローマ 萵 ち し ゃ 苣 栽 ((( ( 培より遥かに盛んと言う ほ どでは無かったけれ ども、ドイツで真っ先に造園術が 曙 あけぼの 初 そ めたのはこの都市だから。しかし伯爵は、庭園の設計、植物学、育樹につい て、身分柄関心を持ったことは皆無だったし、世界の花なるものに気を留める ほ ど植物学的造詣を深めたこともあり はせぬ。また、それがどういう遣り方で取り扱われたがるものやら知らなかった。 蘆 ア ロ エ 薈 の ((( ( ように栽培技術が要るのか、 金 きん 盞 せん 花 か の ((( ( ように活発な自然に任せて置けばすくすく伸びるのかも。さりながら彼はあえて自分の無知を白状したり、 任命する、と言われた顕職を謝絶したりはしなかった。足の裏に棒打ちの刑を喰らっ て ((( ( 職務に熟達していることを無 理やり得心させられるのではないか、ともっともながら 懸 け 念 ねん したからである。   彼がヨーロッパ風の林苑に造り変えるよう指定されたのはとある快適な庭園だった。この場所は気前の良い母なる 自然によってか、過去の文化の手によってか、きわめて適切に設計・装飾されていたので、二代目アブドロニュム ス ((( ( が 鵜 う の目 鷹 たか の目で調べても、改良が必要な短所・欠陥を発見することはできなかった。その上、この七年間というも の陰鬱な独房の中で無しで済まさざるを得なかった生き生きと活発な自然を見た彼は、鈍麻していた感性を突然強く 覚醒されたものだから、どんな野草の花にもうっとりとし、身の周りのもの全てを天にも昇る心地で眺めた。神のお 庭 の こ と で 何 か 咎 め 立 て し よ う と の 批 判 が ま し い 考 え な ん て 念 頭 に 浮 か ん だ こ と も な い 楽 パ ラ ダ イ ス 園 の 人 間 の 始 祖[ ア ダ ム]のように。それゆえ伯爵は、命じられた仕事をどうかして無事に果たしたい、と思いつつ、少なからず当惑した。 どう変更を加えてもこの庭園の麗しさを奪うことになる、そして、自分が能無しであることがばれたら、多分また格 子の塔へ逆戻りしなければならないだろう、と心配で堪らない。

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題   さて、もろもろの庭園の総 目 め 付 つけ にして 王 スルタン の寵臣たる 長 シェイク 老 キ ((( ( アメルが、作業に取り掛かるようせわしなく急き立て たので、計画を実現するのにはこれだけ 要 い り用、と五十人の奴隷を請求。次の日の早朝彼らは提供され、一人一人を ど う 働 か せ た ら よ い や ら ま だ 見 当 も 付 か な い で い る 新 し い お 頭 かしら の 査 閲 を 受 け た。 が、 こ の お 頭、 奴 隷 の 群 の 中 に 災 厄に遭った時の二人の仲間、手早のクルトと鈍重な乗馬兵の顔を目に留めた時、なんとまあ嬉しかったことだろう。 お蔭で百貫目の 重 お も し 石 が胸から転がり落ち、憂鬱の小皺が額から消え去り、棒を 生 き の蜂蜜に浸してそれを味わったみた いに、目つきは浮き浮きと晴れやかになった。忠実な従士を傍へ呼び寄せると、泳ぎも 浸 つ かりもできない異質な元素 の中へむら気な運命によって投げ込まれてしまった、と隠し立てせず打ち明けた。それから、謎めいた誤解のために 生 しょう 得 とく の 持 ち 物 で あ る 騎 士 の 大 剣 を 鋤 すき と 取 り 替 え さ せ ら れ た が、 こ れ が ま た な ん と も 訳 が 分 か ら ぬ、 と も。 そ う 語 り 終 え た 彼 の 足 元 に 手 早 の ク ル ト が 涙 を 流 し な が ら 跪 き、 声 を 張 り 上 げ て こ う 言 っ た。 「 殿、 な に と ぞ お 許 し を。 殿 の ご心配、それから殿が長いこと 囚 とら われの身でいらした汚らわしい格子の塔からのご出獄、いずれもてまえが原因でご ざ り ま す る。 こ の 下 僕 の 罪 の 無 い 嘘 の せ い で そ こ か ら 自 由 に な ら れ た こ と を お 怒 り に な ら ず、 お 天 道 様 を ま た お 頭 つむり の上にご覧になれるのをお喜びになって下さいまし。 王 スルタン がフランク人流の庭が欲しくなりまして、 公 バ ザ ー ル 設市場 に ((( ( おり ますキリスト教徒の捕虜全員に触れを出したのです。かような庭を造れる者は名乗り出よ、この企てがうまく行けば、 莫大な恩賞を取らす、となあ。だれも引き受けようとはいたしませなんだが、てまえは殿が重禁錮のお身の上なのを 考 え ま し た。 天 使 が て ま え に、 あ な た 様 が 造 園 の 名 人 だ、 と 偽 り を 吹 ふい 聴 ちょう す る こ と を 思 い つ か せ て く れ た の で ご ざ い ます。これはまことにもってうまく運びました。さてこれからですが、どうすれば無事にやってのけられるか、など とご心労なさいませぬよう。 王 スルタン は、世のお偉方の例に洩れず、今あるのより優れたものが欲しいのではなく、新奇 で違ったものが欲しいのです。ですから、お好きなようにこの素晴らしい園を荒らし、 ほ じくり返すとよろしゅうご

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 ざ い ま す。 殿 が な さ る こ と は 何 で も 王 スルタン の 目 に は、 け っ こ う、 も っ と も、 と映る、と思われます」 。   こ の 話 は、 疲 労 困 こ ん ぱ い 憊 し た 砂 漠 の 旅 人 の 耳 に 聞 こ え た 滾 こ ん こ ん 滾 と 湧 く 泉 の せ せ ら ぎ だ っ た。 伯 爵 は お 蔭 で 心 爽 や か と な り、 こ の 難 し い 仕 事 を 敢 然 と 始 め る 勇 気 を 得 た。 彼 は 運 を 天 に ま か せ て、 何 の 計 画 も 立 て ず に 労 働 者 た ち を 仕 事 に 掛 か ら せ、 心 地 よ く し つ ら え ら れ た、 木 陰 の 豊 か な 園 を 改 造 し 始 め た。 さ な が ら、 大 天 才 が 己 が 創 造 の 鉤 爪 に 捉 え た 昔 の 作 家 の 著 述 に や ら か す よ う に。 こ ち ら は あ り が た く も な い し、 そ の 気 も な い の に 当世風に、つまり、また読めるよう、おもしろがられるようにされちまうのである。あるいは、古い学校教授法と新 進の教育学者、という比喩でもいいかな。目に触れるものはことごとくごったまぜにし、全ては改変したけれど、改 善 は 皆 無。 有 用 な 果 樹 は 根 こ そ ぎ 引 っ こ 抜 き、 そ の 代 わ り に 迷 ま ん ね ん ろ う 迭 香 と ((( ( 纈 かのこ 草 そう 、 ((( ( そ れ か ら さ ま ざ ま の 外 国 種 の 樹 樹、 あ るいはまた、香りの無い 葉 アマランサス 鶏頭 や ((( ( 千手 菊 ((( ( を植えた。肥えた土壌は掘り取らせ、剥き出しになった地面には色とりどり の砂利を敷き詰め、入念に踏み固めて、 脱 だっ 穀 こく 場 ば のように平坦にさせたので、草一本生えなくなった。敷地全体をたく さんの階段状に分割、それを芝生の縁取りで囲った。真ん中には変てこりんに曲がりくねった花壇が蛇のようにうね くねと横たわって、色色奇怪な形を作り、果ては臭い 黄 つげ 楊の 樹 ((( ( の渦巻き模様で終わっていた。また伯爵は植物学には とんと無知で、いつ種を 播 ま くとか植樹するとかなんぞには気にも留めなかったから、庭園は長いこと生死の間を彷徨 い、 朽 ア・フォイユ・ムラント ち 葉 風 襟 ((( ( 飾りといったていたらくだった。   長 シェイク 老 キアメルは、そして 王 スルタン その人すら西洋の造園家のなすがままに任せ切りで、口出しや頭ごなしの鑑定で構想

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メレクザーラ ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 著 鈴木滿訳・注・解題 を妨害したり、早まった批評を下して天才庭師の仕事の進行を中断したりしなかった。この点二人は当今ドイツの差 し出がましい世間様より賢明にふるまったのである。なにせ後者と来たら、あの有名な博愛主義的教 育 ((( ( を受けた樫の 実 が 二、 三 年 も 経 っ た ら す ぐ に 高 い 樫 の 樹 に 成 長、 そ れ か ら 帆 柱 が 切 り 出 せ る、 と 期 待 す る 始 末 だ も の。 植 樹 さ れ た 若木はとても繊細でかよわいので、たった一晩寒い夜に見舞われただけで参ってしまうこともあるんだけれどね。そ れなのに植えてやっとこ十五年目くらいで、初 生 な りの果実はもう熟し過ぎなんじゃないか、とばかり、だれかドイツ の キ ア メ ル と い っ た 御 仁 が し ゃ し ゃ り 出 て、 こ う 詮 索 す る 潮 時 と あ い な る だ ろ う。 「 お い、 庭 師、 何 し と る。 深 溝 ((( ( を 掘 っ た り、 土 砂 運 び 車 や ら 二 ラ ー デ ベ ル ゲ ン 輪 箱 車 で ((( ( や か ま し い 騒 音 を 立 て と っ た が、 ど ん な 果 物 が で き た ん じ ゃ」 。 そ れ で 植 栽 が 大いなるカイロのこの同類の庭園にあるのみたいに葉っぱをぐんにゃり萎らせていると、事態を妥当に評価して、か の 長 シェイク 老 のように黙りこくって頭を振り、歯の間から髯に唾を吐き、これなら元のままの方が良かったわい、と心中ひ そかに考えるのも無理からぬこと。すなわち、ある日のこと、我が造園家が彼の新しい創作をご満悦で眺め、自分自 身に芸術批評を下し ―― 名人は仕事で分かる[諺] ―― 大体のところ最初考えたよりなにもかもうまく行った、と判 断、自分の理想像を目の当たりにして、そこにあるものだけでなく、将来そうなるはずの景色も見ていると、総目付 け に し て 王 スルタン の 寵 臣 な る お 方 が 庭 園 に や っ て 来 て「 フ ラ ン ク 人、 何 し と る。 お ま え の 仕 事 は ど れ ほ ど 捗 はかど っ た 」 と 言 ったのである。伯爵は自分の芸術作品がこれから厳しい検閲を受けねばならないことを知ったが、しかしながらとっ く に こ う し た 場 合 に 備 え、 手 を 打 っ て 置 い た の だ っ た。 彼 は 冷 静 沈 着 さ を 総 動 員、 自 作 を 信 頼 し て こ う 応 え た。 「 さ あ、ご主人様、ご覧下さい。以前の荒廃は技芸に身を屈し、楽園を模範といたしまして愉悦の地に造り変えられまし た。 天 フ ー リ 女 た ち ((( ( ( 4 )もここに降臨することを否みはいたしますまい」 。自称芸術家がこのように熱情と節度を 面 おもて に表 して、才能を発揮したことを語るのを聞き、この大家がその縄張りではなんと言っても自分より高い見識を持ってい

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武蔵大学人文学会雑誌 第 38 巻第 3 号 る、と看做さざるを得なかった 長 シェイク 老 は、無知を見抜かれないよう、造営物全体に感じた不快な気持ちを吐露するのを 差し控えた。彼は謙虚な人間だったので、不満を覚えたのは自分が 異 とつくに 国 の好みに不案内なせいだと考え、価値があろ うとあるまいと問題自体にはそっと触れないでおこうとした。しかしながら参考のためこの庭園の 親 サトラペ 玉 に ((( ( 幾つか質問 の矢を放たぬわけにはいかない。相手はこれを受けてちゃんと返答。   「 あ の 素 晴 ら し い 果 樹 を ど こ へ や っ て し ま っ た の じ ゃ。 あ れ は こ の 砂 地 に 生 え て お っ て、 紅 い 桃 の 実 や 甘 い 檸 れ 檬 もん を たわわに付け、目の悦びとなり、召し上がってお元気におなりあそばせ、と逍遥する人を誘うてくれたのに」 。   「あれらはことごとく根元から伐って捨てましたので、その場所は見当たりませぬ」 。   「して何ゆえにな」 。   「 あ の よ う に 賎 し い 樹 樹 は 王 スルタン 様 の 林 苑 に は 相 応 し く な い か ら で ご ざ い ま す。 か よ う な 樹 木 は カ イ ロ の ご く あ り き たりの町人たちが庭で育て、その実は驢馬に満載されて売りに出されるではありませぬか」 。   「どうしてまあ、あの心地よい 棗 なつめ 椰 や し 子 や ((( ( タマリン ド ((( ( の林を荒廃させてしまう気になったのじゃ。あれは蒸し暑い日 中の炎熱から旅人を庇ってくれ、葉の生い茂った枝の天蓋の下で陰を与え、気分を爽やかにしてくれたのに」 。   「 太 陽 が 燃 え る よ う な 日 差 し を 浴 び せ て い る 間 は 荒 涼 と し て 物 寂 し く、 漸 く 涼 し い 夕 べ の 風 が 冷 気 を 送 り、 香 バ ル サ ム 膏 の 芳香が漂う、そうしたお庭に何をもって木陰など」 。   「 し た が こ の 林 は 見 通 し の 利 か ぬ 面 ヴ ェ ー ル 紗 で 愛 の 秘 密 を 覆 う て い た で は な い か。 王 スルタン 様 が シ ル カ シ ア ((( ( の 奴 隷 女 の 魅 力 に 陶然となられ、女の朋輩たちの嫉妬の目からご寵愛ぶりをお隠しになりたかった時になあ」 。   「愛の秘密を覆う見通しの利かない 面 ヴェール 紗 の役は、 忍 すいかずら 冬 と (((( ( 木 き 蔦 づた の (((( ( 蔓に絡まれたかしこの 園 あずまや 亭 が果たします。あるいは この涼しい人工の洞窟が。この中では水晶のような泉が巧みを凝らした岩から大理石の水盤へとさらさらと流れ込ん

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