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3 4 邪馬台国 の女王 卑弥呼の活躍が 三世紀に中国大陸の歴史書に記されていたが その後の記録は消えた 五世紀になって 中国大陸と 倭の五王 との交流があったこと また大陸の 宋 などに対して 倭国が九回朝貢したこと が記されているのみで 四 六世紀の歴史を語ることは困難だった 中国で生まれた 漢

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(1)

 

 

武蔵野台地

記憶

 

  

歴史

り 

律令国家

飛鳥・奈良・平安時代

ら鎌倉・室町時代

三 ・一 「歴史」 と は ・・・   か つ て 「史」 の 一 文字 で 記 さ れ 、「事件、出来 ご と」 を 意味 し て い た 。   「 歴 史 」 を 語 る こ と は 、 人 々 の 社 会 や 文 化 を 知 る こ と で あ り 、 文 字、 文 献、 記 録 な ど の 手 段 が 必 要 に な る 。 こ れ ら が 出 揃 っ て 歴 史 を 語 る こ と が 可 能 に な っ た 時 代 は 、「 有 史 時 代 」 と い わ れ 、 一 方、 そ れ 以 前 は 「 先 史 時 代 」 と な る 。 で は 、 日 本 の 歴 史 は 何 時 か ら 、 と い う 問 い に つ い て 考 え て み た い 。

電子版市民プレス

 

75号

  タ ブ ロ イ ド 地 域 紙「 市 民 プ レ ス 」 第 75号( 0 7/ /5 発 行 ) の 電 子 版 と し て 再 編 集 し ま し た。 電 子 書 籍 専 用 の ア プ リ ケ ー シ ョ ン 等 で お 読 み 下 さ い。 またご利用の環境によっては、 電子書籍の閲覧ができない場合がございます 。 目次 -P A GE 2  武蔵野台地 の 小 さ な 街 の 記憶・ そ の 三   = 律令国家 の 成 立 = -P A GE 4  仏教 の 伝来    -P A GE 7  大化 の 改新    -P A GE 9  奈良時代 へ -P A GE 9  国分寺 の 建 立 と大仏造 立   -P A GE 4  武蔵国 」は ─志木市内 で は … -P A GE 8  平安京へ遷都     -P A GE 0  平家将門の乱─武家社会の成立へ   -P A GE 5  秩 父 氏 一 族 の 繁 栄 …  -P A GE 7  河 越 氏 の 貢 献 ─ 河 越 重 頼 の 光 と 影 -P A GE 30  室町時代へ…    「宗岡」が初めて文書に記録されたのは… -P A GE 3  聖護院門跡が廻った中世の道    -P A GE 34 を 旅 立 っ た 道 興 准 后 は … -P A GE 37 『廻国雑記』とは    -P A GE 38  大石氏の館に招かれて…

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3 4   「 邪 馬 台 国 」 の 女 王、 卑 弥 呼 の 活 躍 が 、 三 世紀 に 中 国 大 陸 の 歴 史 書 に 記 さ れ て い た が 、 そ の 後 の 記 録 は 消 え た 。 五 世 紀 に な っ て 、 中 国 大 陸 と「 倭 の 五 王 」 と の 交 流 が あ っ た こ と、 ま た 大陸 の 「宋」 な ど に 対 し て 、 倭国 が 九 回朝貢 し た こ と、 が 記 さ れ て い る の み で 、 四 〜 六 世 紀 の 歴史 を 語 る こ と は 困難 だ っ た 。   中国 で 生 ま れ た「漢字」 が 日本 に 伝来 し た の は 四 世 紀、 こ れ を 使 い こ な せ る よ う に な っ た の は 、 七 世 紀 と い わ れ て い る の で 、仏 教 が 公 式 に 伝 来 し た 六 世 紀 の 後 半 ( 古 墳 時 代 の 終 末 期 ) 、よ う や く 、 「先史時代」 と の 境 い が で き て 、「有史時代」 に 移行行 し た 、 と い う べ き か 、 或 い は シ ン プ ル に 、 日本 の 「歴史」 は 、仏教 が 大和 に 伝来 し た こ ろ 、 と す れ ば 、 ス ト ー リ ー は よ り明快 に な る 。 三 ・二  ま た 、歴史 の 始 ま り は 『 日本書記』 か ら ?   推 古 二 十 八 年 ( 6 0 ) 聖 徳 太 子 と 蘇 我 馬 子 に よ っ て 編 集 さ れ た 『 天 皇 記 』、 『 国 記 』 が 、 皇 極 四 年 ( 645 ) の 乙 いっ 巳 し ( お っ し 、 とも ) の 変 ( 豪 族 の 一 人、 藤 原 鎌 足 ら は 、 宮 中 で 有 力 だ っ た 蘇 そ 我 がの 入 いる 鹿 か を 暗殺 す る ) で 焼失 し た 、 と い う『 日本書記』 の 記述 が あ る の で 、当時 の 歴史 を 紐解く た め の 資 料 は 、『 古 事 記 』 ( 和 銅 五 年 = 7 に 成 立 ) と『 日 本 書 記 』 ( 養 老 四 年 = 7 0 に 完 成 ) に 限局 さ れ る 。 三 三  仏教 の 伝来   仏教 は 、 古く か ら 連綿 と し て 渡来 し た 人 々 に よ っ て 、 私的崇拝 と し て 伝 え ら れ た 。但 し 、『 日 本 書 記 』 に は 、 百 済 の 王 が 使 者 を 遣 わ し 、 欽 きん 明 めい 天 皇 ( 二 十 九 代 ) に 対 し て 、 欽 明 天 皇 十 三 年 ( 55  ) 仏 像・ 経 典 と と も に 、 仏 教 流 通 の 功 徳 を 称 賛 す る 上 奏 文 を 献 上 し た 、 と 記 さ れ 、 こ れ を 、 国 家 間 の 公 伝 ( 公 式 伝 来 ) と す る こ と が 一 般 的 で あ る 。 但 し 、 公 伝 の 年 次 は 、 宣 化 天 皇 ( 二 十 八 代) 三 年 ( 538 ) と の 説 も あ る 。   敏 び 達 たつ 天 皇 ( 三 十 代 ) 以 降、 用 明、 崇 すし 峻 ゅん 、 推 古 天 皇 に 仕 え て い た 有 力 な 貴 族、 蘇 そ 我 がの 馬 うま 子 こ は 仏 教 を 崇 拝 し て い た 。 馬 子 は 、 同 じ く 有 力 な 軍 事 氏 族 で 、 強 硬 な 排 仏 派 と し て 知 ら れ た 物 部 守 屋 を 攻 め 、彼 を 打 ち 取 っ た 。   政 治 の 実 権 を 握 っ た 馬 子 は 、 崇 峻 天 皇 ( 三 十 二 代 ) が 自 分 を 嫌 っ て い る と し て 、 崇 峻 天 皇 五 年 ( 59  ) 部下 に 天 皇 を 殺害 さ せ 、 欽明 天 皇 の 皇女 (蘇我馬子 は 母方 の 叔父 に 当 る ) を 即位 さ せ た 。   女帝 の 推古 天 皇 ( 三 十 三 代) は ・・・   推古 天 皇元年 ( 593 ) 、甥 の 厩 うまや 戸 どの 皇 おう 子 じ (没後 百年 以 上 を 経 た 、日本最初 の 漢詩集 『 懐 かい 風 ふう 藻 そう 』 に 「聖 徳太子」 と記 さ れ 、平安時代 以 後 に は 、一 般的 な 呼称 と し て は 「聖徳太子」 ) を 皇太子 と し て 、摂 せっ 行 こう (職

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5 6 務 を 行 わ せ る ) さ せ た 。 推 古 天 皇 は 頭 脳 明 晰、 し か も 公 正 な 女 帝 と し て 、 厩 戸 皇 子 の 才 能 を 十分 に 発揮 さ せ る 。   『 日 本 書 記 』 に よ れ ば 、 推 古 天 皇 九 年 ( 60  ) 飛 鳥 か ら 斑 いか 鳩 るが ( 現・ 奈 良 県 生 駒 郡 斑 鳩 町 ) に 移 る こ と を 決 意 し た 厩 戸 皇 子 は 、 宮 殿 の 建 設 に 着 手 し て 、 同 十 三 年 に は 自 ら 斑 鳩 宮 に 移 り 住 ん だ 、 と い う 。   先 立 っ て 、推古 天 皇十 一 年 に 、「冠位十 二 階」 、同 十 二 年 に は 「十 七 条憲法」 を 制定 し て 、法令、 組織 の 整備 を 進 め た 。   小野妹子 を 隋 に 派遣 し て 仏法 の 興隆 に 努 め 、 斑鳩 の 地 に 推古 天 皇十 五 年 ( 607 ) 、「法隆寺」 を 建 立 し た ( 但 し 、『 日 本 書 紀 』 に は 、 天 智 九 年 = 570 年 = に 法 隆 寺 は 全 焼 し た が 、 間 も な く 再 建 さ れ た 、 と記 さ れ て い る ) 。   法 隆 寺 は 、 古 代 寺 院 の 姿 を 現 在 に 伝 え る 仏 教 施 設 で 、 そ の う ち 、 西 院 伽 藍 は 、 現 存す る 世 界最古 の 木造建築物群 と し て 、平成 五 年( 993 )、 ユ ネ ス コ の 世 界遺産 に 登録 さ れ た 。   氏 寺 や 、 多 く の 仏 像 が つ く ら れ 、 貴 重 な 工 芸 品、 古 文 書 を い ま に 残 す 。 わ が 国 最 初 の 仏 教 文化 と し て 、「飛鳥文化」 を 花咲 か せ た 。 三 四 「飛鳥寺」 の 建 立   六 世 紀 末 か ら 七 世 紀 初 め に 掛 け て 現・ 奈 良 県 高 市 郡 明 日 香 村 に 建 設 さ れ た 「 飛 鳥 寺 」 は 、 蘇我氏 の 氏 うじ 寺 でら で あ る 。推古 天 皇 四 年 に 発祥 し た 、 本格的 な 伽藍 を も つ 「 法興寺」 ( = 仏法 が 興 隆 す る と の 意 = を も つ 、 日 本 最 古 の 本 格 的 寺 院 ) の 後 身 と し て 、 推 古 天 皇 十 七 年 ( 609 ) = 但 し 異説有 り = 、 銅像 の 本尊 (飛鳥大仏) が 造 立 さ れ 、 人 々 に 尊崇 さ れ た 。 天 武 天 皇 ( 四 十代) の 時代 に は 、 官 かん 寺 じ (朝廷 ま た は 国 が 監督 ・ 維持 す る 寺院) と 同 等 に 扱う よ う に 、 と の 勅 ちょく が 出 さ れ た 。   遺憾乍 ら 、「飛鳥寺」 は 火災 な ど の 災害 に 遭 っ て 、寺勢 は 衰 え た 。 し か し 、江戸時代後期 に は 、 篤志家 に よ っ て 同 所 に 再建 さ れ 、法灯 は 今 も守 ら れ て い る 。 三 五  飛鳥京跡地 の 発掘 に よ っ て ・・・   現・ 奈 良 県 高 市 郡 明 日 香 村 で 発 掘 さ れ た 「 飛 鳥 京 跡 」 は 、 大 王 お よ び 天 皇 の 歴 代 の 宮 殿、 官 かん 衙 が ( 官 庁 ) 、 豪 族 の 邸 宅、 寺 院 な ど 、 大 和 朝 廷 が 支 配 し て い た 拠 点 で 、『 日 本 書 記 』 な ど と 照 合 す る と、 飛 鳥 岡 本 宮 ( 630 〜 636 、 三 十 四 代 舒 明 天 皇 ) 、 飛 鳥 板 いた 蓋 ぶき 宮 ( 643 〜 645 、 三 十 五 代 皇 極 天 皇、 重 祚 し て 三 十 七 代 斉 明 天 皇 ) 、 飛 鳥 浄 きよ 御 み 原 はら 宮 のみや ( 板 葺 宮 の 跡 地 か 、 四 十 代 天 武 天 皇、 四 十 一 代持統 天 皇) の 遺構 で あ る こ と が 分 か っ た 。

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7 8   大化 の 改新   推 古 天 皇 三 十 年 ( 6 ) に 厩 戸 皇 子 が 死 去 し た の ち 、 豪 族 の 蘇 我 氏 の 専 横 は 甚 だ し く、 そ の 権勢 は 天 皇家 を 凌 ぐ ほ ど に な る 。豪族、 中 なか 臣 とみの 鎌 かま 足 たり ( の ち 藤原氏 の 始祖 と し て 、藤原鎌足) ら は 、 中 なかの 大 おお 兄 えの 皇 おう 子 じ ( 即 位 し て 三 十 八 代 天 智 天 皇 ) と と も に 宮 中 で 、 大 臣 の 官 位 を も つ 、 大 和 朝 廷 の 有力者、蘇我入鹿 を 打 つ ( 乙 いっ 巳 し の 変) 。   幸 徳 天 皇 ( 三 十 六 代 ) は 飛 鳥 の 宮 殿 を難 波 に 移 し 、 天 皇 を中 心 と す る 政 治 の 確 立 に 努 め る 。 日本書記 に よ れ ば 、大化 二 年( 646 ) に 改新 の 詔 を 発布 し た (但 し 異説 も あ る ) 。 三 六  白鳳文化 が 開花 し た ・・・   天 てん 武 む 天 皇 ( 四 十 代 ) の 政 策 は 、 皇 后 に 引 き 継 が れ る 。 女 帝 の 持 統 天 皇 ( 四 十 一 代 ) と し て 即 位 し 、 飛 鳥 京 の 西 北、 現・ 橿 かし 原 はら 市 に 、 首 都 と し て 、 本 格 的 な 唐 風 の 都 と 城 じょう が 建 設 さ れ た 。「 飛 鳥京」 と 同 様 に 、近世 に な っ て 、「藤原京」 と呼 ば れ る 。   こ の 都 で は 、 仏 教 文 化 に 加 え て 、 律 令 国 家 成 立 期 の 息 吹 を 感 じ さ せ る 新 し い 貴 族 文 化 が 成 立 し た 。 こ の こ ろ華 開 い た 、 天 皇 と 貴 族 を 中 心 と し た 大 ら か な 文 化 は 、「 白 鳳 文 化 」 と い わ れ て い る 。   天 武 天 皇 は 、 皇后 の 病気平癒 を 誓願 し て 、「薬師寺」 (平城遷都 の の ち に 建 立 さ れ た 「薬師寺」 と区別 し て「 本 もと 薬師寺」 と い わ れ る ) を 着 工 す る 。 ま た 、飛鳥時代 の 最大士族 だ っ た 藤原氏 の 始祖、 鎌 足 と そ の 子 息 所 縁 の 寺 院 と し て 、 天 智 天 皇 八 年 ( 669 ) 、 現・ 奈 良 市 に 所 在 す る 「 興 福 寺 」 が 建 立 さ れ た 。世 界遺産 に 登録 さ れ 、代表的 な 興福寺 の 仏 ぶつ 頭 とう (国宝) が 残 さ れ て い る 。   「 律 りつ 令 りょう 国家」 の 形成   大 宝 元 年 ( 70  )、「 大 宝 律 令 」 が 制 定 さ れ 、 国 家 と し て の 体 制 が 整 備 さ れ る 。 律 は 刑 法、 令 は 行政法、訴訟法、民事法 な ど か ら 成 り 立 つ 。   と き の 天 皇 は 、 四 十 二 代 文 もん 武 む 天 皇 で 、 当時、 断絶状態 に あ っ た 「元号」 の 使用 を 再開 し た 。 以 後、 「元号」 の 制度 は 途切 れ る こ と な く現在 ま で 継続 さ れ て い る 。 三 七  秩父市黒谷 の 遺跡 か ら・・・   慶 けい 雲 うん ( き ょ うう ん 、と も) 五 年 ( 708 ) 、武蔵国秩父郡 か ら 自然銅 が 発見 さ れ 、 朝 廷 に 献 上 さ れ た 。「 和 銅 遺 跡 」 は 、 現・ 秩 父 市 黒 谷 に 所 在 し 、 埼 玉 県 指 定旧跡 と な っ て い る 。   女 帝 の 元 げん 明 めい 天 皇 ( 四 十 三 代 ) は 、 元 号 を 和 銅 に 改 元 し て 、 日 本 最 初 の 流 通 貨 幣 の 「 和 わ 銅 どう 開 かい 珎 ちん 」 ( か い ほ う 、 と も ) が 発 行 さ れ た 。 直 径 4mm 前 後、 円 和銅開珎銀銭

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9 0 る た め、 天 平 十 三 年 ( 74  ) に は 詔 みことのり を 発 し て、 各 地 ( 各 国 ) に 国 分 僧 そう 寺 じ と 国 分 尼 に 寺 じ の 建 立 を 命 じ た。 現・ 東 京 都 国 分 寺 市 西 元 町 の「 武 蔵 国 分 寺 」 は、 そ の 跡 地 が 詳 細 に 調 査 さ れ、 国の史跡に指定され、歴史公園として整備された。   同 十 五 年、 聖 武 天 皇 は 大 仏 造 立 の 詔 を 発 し、 同 十 九 年、 鋳 造 が 開 始 さ れ、 難 工 事 の 末、 天 平 勝 宝 四 年 ( 75  ) に 大 仏 ( 東 大 寺 盧 る 舎 しゃ 那 な 仏 ぶつ 像 ) は 開 眼 さ れ、 盛 大 に 法 要 が 行 わ れ た。 続 い て 大 仏 殿 の 建 設が始まり、天平 宝 ほう 字 じ 二年 ( 758 ) に完成した。   平 城 京 を 中 心 と し て 貴 族・ 仏 教 文 化 が 華 開 き、 聖 武 天 皇 の 元 号 を取って、 「天平文化」と呼ばれる。 三 十 『万葉集』の成立   七 世 紀 後 半 か ら 八 世 紀 後 半 に か け て 編 集 さ れ、 日 本 最 古 の 和 歌 集 が 成 立 し た ( 天 平 宝 字 三 年 以 後 か?) 。 こ こ に は、 天 皇、 貴 族 か ら 下 級 官 吏、 防 さき 人 もり ( 辺 地 を 防 衛 す る 人 ) な ど、 様 々 な 身 分 の 人 が 詠 んだ歌を四千五百首以上収録している。 形 方 孔 の 形 式、 中 央 に は 、 一 辺 が 7mm の 正 方 形 の 穴 が 開 い て い る 。 表 面 に は 、 時 計 回 り に 和 同 開 珎 と 表 記 さ れ て い る が 、 裏 は 無 紋。 和 銅 元 年 ( 708 ) 五 月 に は 銀 銭 が 発 行 さ れ 、 七 月 に 銅 銭 の 鋳 造 が 始 ま っ て 、 八 月 に 発 行 さ れ た こ と が 『 続 日 本 紀 』 に 記 さ れ て い る 。 但 し 、 銀 銭 は 翌年廃止 さ れ た 。 三 八  平 へい 城 じょう 京 に 移 っ て 奈良時代 へ   和銅元年 ( 708 ) 、遷都 の 詔 が 発 せ ら れ 、同 三 年 、平城京 (現 ・ 奈良県奈良市及 び 大 やま 和 とこお 郡 りやま 山 やま 市) の 建 設 が 始 ま る 。 ま ず 、 内 裏 と 大 極 殿 な ど が 建 築 さ れ 、 施 設 は 段 階 的 な 整 備 に よ っ て 、 仏 教 に よ る 鎮護国家 を 目指 し た 。   『古事記』 、『 日本書記』 の 成 立   和銅 五 年、 稗 ひえ 田 だの 阿 あ 礼 れ の 記憶 を 基 に し て 、日本最初 の 歴史書、 『古事記』 が 編纂 さ れ る 。 ま た 、 天 武 天 皇 の 皇 子、 舎 と 人 ねり 親 王 の 撰 に よ っ て 、 養 老 四 年 ( 7 0 ) 最 初 の 正 史 と し て 、 神 代 か ら 持 統 天 皇 ( 四 十 一 代) の 時代 ま で が 記 さ れ た 、『 日本書記』 が 完成 し た 。 三 九  国分寺の建立と大仏造立   聖 武 天 皇 ( 四 十 五 代 ) は 仏 教 に 深 く 帰 依 し、 天 平 年 間 に 流 行 し た 疫 病 の 災 い か ら 脱 却 す

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⇦ ・ ・ ・

代 ・ ・ ・

500 600 1000 700 1100 1200 900 800 592 710 794 1185 飛鳥時代 奈良時代 平安時代 1300 1400 1500 1333 鎌倉時代 室町時代 南北朝 1573 古墳時代 時代区分 1000 ±0 -1000 -2000 -3000 -4000 -5000 -6000 -7000 -8000 -9000 -10000 -11000 -12000 -13000 2000 古墳 縄文晩期 縄文後期 縄文中期 縄文前期 縄文早期 縄 文草創期 現代 石器時代 縄文 海進 西 暦 -弥生 地域に依存する 移行期

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4 5 な遺跡は少ないので、入間郡内の閑地だったと推測され、渡来人の集住は閑地開発を担っ たもののようだ。   『 続 し ょ く に ほ ん ぎ 日 本 紀 』 ( 勅 撰 の 歴 史 書 で、 七 九 七 年 に 完 成 し た ) に は、 天 平 宝 字 二 年 ( 7 5 8 ) 、「 帰 化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉」と記 され、 朝廷は、 帰化人を武蔵国の閑地に移し、 これが、 「 新 しら 羅 ぎの 郡 こおり 」の始まりといわれている。   新羅郡は・・・   今日の志木市 ・ 和光市 ・ 新座市 ・ 朝霞市の一帯であるが、のちに 新 にいくら 座 郡と呼び変えられた。 入間郡の東端、 豊島郡の北端に当り、 当時は「閑地」で、 居住する人々の無い地域だった。   新羅人が移住して、開墾した土地は、今日まで「新倉」という地名を残している現・和 光 市「 新 倉 」 と 和 光 市「 白 しら 子 こ 」 ( 新 し ら ぎ 羅 か ら 転 化 し た と す る 説 が あ る ) の 地 域 と さ れ て い れ る。 しかし、志木市域への新羅人の移住は無く、志木市に集落は営まれなかったようだ。 三 十二   志木市内では・・・   古墳時代後期以降に拡散したと考えられる集落、特に中野・城山・中道・西原大塚・田 子山遺跡には、この時代の遺品が残されている。   城山遺跡では、平成八年に発掘調査された住居跡から、印面に「冨」の一文字が書かれ   奈良時代は八十四年・・・   女 帝 の 孝 謙 天 皇 は 聖 武 天 皇 の 息 女、 四 十 六 代 の 天 皇 ( 重 祚 し て 四 十 八 代 称 徳 天 皇 ) で、 天 平宝字八年 ( 764 ) 、藤原仲麻呂(太政大臣)の乱を鎮圧し、仏教重視の政策を推進する。   つ い で、 桓 武 天 皇 ( 五 十 代 ) は 仏 寺 の 肥 大 し た 影 響 を 避 け る た め、 延 暦 三 年 ( 784 ) 、 山 城 国 乙 おと 訓 くに 郡 ( 現・ 京 都 府 向 むこ 日 う 市、 長 岡 京 市 と 京 都 市 西 京 区 ) に「 長 岡 京 」 を 造 営 し た が、 さ らに十年後の延暦十三年 ( 794 ) 、改めて平安京に遷都する。 三 十一「武藏国」は・・・   七世紀のころ、律令制に基づいた地方行政区分によって、東山道、のち東海道の律令国 として成立した。   渡来人が移住   六 〜 七 世 紀 の 朝 鮮 半 島 で は、 大 国 の 唐 の 影 響 下 で 政 治 状 況 が 変 化 し、 高 こ う く り 句 麗 ・ 新 し ら ぎ 羅 ・ 百 く だ ら 済 三国の人々が続々と日本に渡航した。彼らは先進的な技術をもち、半島での戦乱を避 ける意味もあった。多くの渡来人は東国に移住させられたが、 ついで、 武蔵国に移された。   移住した高句麗の王族 高 こ 麗 まの 若 じゃっ 光 こう は、その地 (現 ・ 日高町に当たる) の豪族として定住し、 霊 亀 二 年 ( 7 1 6 ) 、 入 間 郡 を 割 い て 高 麗 郡 が 置 か れ た。 日 高 町 に は 奈 良 時 代 以 前 に 顕 著

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6 7 数多くの遺跡で発掘されている。   地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建てた。梁や垂木を繋ぎ合わせ、家 の骨組みを作って、その上に、土、葦などの植物で屋根を葺いた建物だった。発掘された 竪穴住居跡からは、各種の生活用具が出土するので、祖先の暮らしと生活の痕跡が詰まっ た貴重な遺産であることは勿論だが,遠い昔に廃棄され、その後経年変化を経ていること を忘れてはならない。   平地住宅、 高 たか 床 ゆか の建物へ・・・   縄 文 時 代 中 期 の 三 さん 内 ない 丸 まる 山 やま 遺 跡 ( 現・ 青 森 県 青 森 市 所 在 ) な ど か ら、 祭 壇 と し て 用 い ら れ た と 見 ら れ て い る 高 床 建 築 ( 堀 立 柱 建 築 ) の 遺 構 が 出 土 し、 弥 生 時 代 に は、 穀 物 等 を 蓄 え る 高 床 倉 庫 ( 鼠 が 入 れ な い よ う に、 ま た 風 通 し を 良 く し た ) も 普 及 し て い た、 と 推 測 さ れ る。 また、集落を統率する豪族は環濠をもつ建築群を構えていた。   但し、留意すべきこと・・・   平地住居や高床倉庫などの掘立建築は、地下に柱跡を残すだけで、竪穴住居のような地 下の溝跡を残さない。発掘調査で見落とされることがあり、平安時代まで、庶民の住居は すべて竪穴式だったとする見解に、疑問ももたれている。 た完形品の銅印が出土し、この住居跡からは、その他、須恵器坏や 猿 さ 投 なげ 産の 緑 りょく 釉 ゆう 陶器の破 片 が 出 土 し た (「 猿 投 窯 よう 」 は 現・ 愛 知 県 名 古 屋 市 東 部 か ら 豊 田 市 西 部、 瀬 戸 市 南 部 か ら 大 府 市 お よ び 刈 谷 市 北 部 に 集 中 す る 千 基 を 越 す 古 窯 跡 の 総 称 で、 食 器 な ど の 高 級 品 に 限 ら れ、 平 城 京・ 平 安 京 を は じ め、 寺 社・ 官 衛・ 豪 族 な ど の 支 配 層 に 供 給 さ れ た。 ま た、 「 緑 釉 陶 器 」 は、 光 沢 の あ る緑色のガラス化した 釉 ゆう 薬 やく ∧ う わ ぐ す り 、 と も ∨ が 表 面 に ほ ど こ さ れ た 陶 器 と し て 知 ら れ る ) 。   平 成 二 十 〜 二 十 一 年 の 調 査 で は、 平 安 時 代 の 住 居 跡 か ら、 皇 朝 十 二 銭 の 一 つ、 「 富 ふ じ ゅ し ん ぽ う 壽神寳 」が出土している。   田 子 山 遺 跡 で は、 平 成 五、 六 年 の 発 掘 調 査 で、 住 居 跡 の 他、 掘 立 柱 建 築 遺 構・ 溝 跡、 土 坑 群 が 検 出 さ れ、 住 居 跡 か ら、 腰 帯 の 一 部 で あ る 銅 製 の 丸 まる 鞆 とも ( 円 い 飾 り の つ い た 帯 ) が 出 土 し た。 さ ら に カ マ ド 横 の 床 面 上 か ら は、 東 ひがし 金 かね 子 こ 窯 よう 跡 せき 群 ぐん ( 埼 玉 県 入 間 市 所 在、 瓦 や 須 恵 器 な ど を 生 産 し た ) の 前 まえ 内 うち 出 で 窯 かま の 製 品 と 鳩 山 窯 ( 埼 玉 県 鳩 山 町 所 在 ) 製 品 の 須 恵 器 坏 つき ( お 茶 碗 の ようなお皿) が一点ずつ発見された。 三 十三 「 竪 たて 穴 あな 式住居」は・・・   縦穴を掘って、その底に 床 ゆか をつくり、柱を立てて屋根を 葺 ふ いた住居であるが、旧石器時 代末から、 縄文、 弥生時代を経て、 有史時代となり、 平安時代ころまでの長期にわたって、

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8 9   藤原氏と摂関政治   平 安 時 代 の 初 期 ( 九 世 紀 初 め ) に は、 豪 族 層 に 出 自 す る 士 族 が、 貴 族 と し て 力 を も っ て いた。しかし、時代が進むに従い、天皇と婚姻関係を結んだ新興士族の藤原氏や源氏など が、 急速に上流貴族層を占める。九世紀半ばには、 藤原氏が 摂 せっ 政 しょう (天皇が幼少の折りなどに、 そ の 代 理 と し て 政 務 を 行 う ) 、 ま た 関 かん 白 ぱく ( 天 皇 が 成 人 し た の ち に 天 皇 を 補 佐 す る ) と な る ( 併 せ て摂関政治) 。   「国風文化」の繁栄   平安時代の西国では、一般家屋も殆ど平地住宅に移行し、上流貴族は、贅を尽した造り の 住 宅 を 構 え た。 貴 族 の 住 ま い は「 寝 殿 造 」 ( 中 心 の 建 物 が 南 の 庭 に 面 し て 建 て ら れ、 付 属 的 な 建 物 は 廊 で 繋 が れ た。 九 世 紀 に 建 設 さ れ た「 東 三 条 殿 」 は 代 表 的 ) と な り、 「 大 和 絵 」 は 自 然 を 描 き、 絵 と 物 語 り で 構 成 さ れ る「 絵 巻 物 」 が 作 ら れ る。 「 仮 名 文 字 」 に よ っ て、 感 情 を生き生きと伝える国文学が続々と著される。和歌が公の場でもてはやされる。 三 十六 「荘園」の発祥は・・   八世紀とされるが、九世紀になると、貴族、大社寺は、農民が自ら開墾した土地を買収 して所有地を増やし、初期の本格的な「荘園」が形成された。十世紀に入って、地方の政 ・ 十四   平安京へ遷都   桓 武 天 皇 ( 五 十 代 ) は、 延 暦 三 年、 奈 良 の 都 を 北 方 の 山 城 国・ 長 岡 京 に 移 し た。 さ ら に 延暦十三年には、水利の優れた、現・京都市街に遷都した。平らかで安らかな都を目指し て「 平 安 京 」 と 称 せ ら れ る。 平 安 京 は、 東 西、 南 北、 そ れ ぞ れ 五 十 キ ロ 米 の 区 域 を も ち、 唐の首都、長安に習って、碁盤の目状に整然と区画された。   遷都後の日本仏教は・・・     平安新仏教   最 さい 澄 ちょう と空海   平安京に遷都後、 入 にっ 唐 とう 求 ぐ 法 ほう の 還 げん 学 がく 生 しょう ( 日 本 に 還 っ て ∧ 帰 っ て ∨ 来 る こ と が で き る 短 期 留 学 生 ) に選ばれた最澄は、 延暦二十一年 ( 80  ) 、唐に渡った。同二十四年に帰国し、 天台宗を開く。 また、 空海は、 延暦二十三年 ( 804 ) 、遣唐使の留学僧として唐に渡る。長安に入って修行し、 大同元年 ( 806 ) に帰国して真言宗を開祖した。   新 し い 日 本 仏 教 の 展 開 に よ っ て、 平 安 時 代 の 貴 族 層 や 都 周 辺 の 人 々 の 信 仰 は 拡 大 す る。 しかし、仏教の普及が庶民に及んだのは、鎌倉時代を経て,中世以降まで待たなければな らなかった。 三 十五   平安時代の貴族政治から新しい国風文化が生まれる・・・

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0  治 が 乱 れ る と、 成 長 し た 豪 族 や、 「 荘 官 」 ( 荘 園 の 領 主 か ら 現 地 の 管 理 を 委 ね ら れ た も の ) な ど に な っ た 有 力 な 農 民 は、 荘 園 を 守 る た め に 武 装 し て 闘 争を繰り返す。   やがて 「武士」 が発生して 「武士団」 をつくる。 大 き な 武 士 団 へ と 成 長 し、 「 桓 武 平 氏 」 ( 桓 武 天 皇 の 賜 姓 に よ る ) 、「 清 和 源 氏 」 ( 清 和 天 皇 を 祖 と す る ) は特に有力なものとなる。 三 ・ 十七   平 将 まさ 門 かど の乱は・・・   十世紀中頃に起こった武士の反乱である。 将門 は、 平 氏 の 姓 を 授 け ら れ た 高 望 王 の 孫、 桓 武 天 皇の五世に当る武士で、 下総国、 常陸国に広がっ た 平 氏 一 族 の 抗 争 は、 関 東 諸 国 を 巻 き 込 む 争 い となる。天慶二年 ( 939 ) に常陸 ・ 下野 ・ 上 野 の 国 府 を 占 領 し、 関 東 を 支 配 下 に 置 い て 新 皇を称した。しかし、翌年には、 平 たいら 貞 のさだ 盛 もり 、 藤 ふじ 原 わらの 秀 ひで 郷 さと らに討たれた。   前九年の役と後三年の役   十 一 世 紀 後 半 に な る と、 東 北 地 方 で「 前 九 年 の 役 」 ( 永 承 六 年 ∧ 05  ∨ 〜 康 平 五 年 ∧ 06  ∨ ) 、「後三年の役」 ( 永 保 三 年 ∧ 083 〜 寛 治 元 年 ∧ 087 ∨ ) が起こる。これを鎮圧し たのは、 源頼義 ・ 義家 (「八幡太郎」の通称で知られる) の父子で、 関東の武士の信望を高め、 東国で勢力を伸ばした。   「院政」が始まる   平 安 時 代 の 末 期 に は、 天 皇 の 地 位 を 退 い た 太 上 天 皇 が 引 続 い て 政 務 を と る よ う に な る。 白 河 天 皇 ( 七 十 二 代 ) は 応 徳 三 年 ( 086 ) 、 堀 河 天 皇 に 譲 位 の の ち、 院 庁 を 開 い て 引 続 き 政 権 を 担 当 し た。 こ れ を「 院 政 」 と い い、 天 皇 が 位 を 引 い て か ら 」 は、 「 上 皇 」 と い う 尊 称で呼ばれた。   上皇は、源氏と平家の武士団に身辺の警護をさせ、また、荘園の寄進を受けた貴族や武 士を保護したので、荘園は上皇の許に集まり、 しかも、荘園は、上皇が信仰する寺社にも寄進されたため、それらの寺社の勢力は強化さ れた。 河越氏の荘園を復元すると・・・(河越館跡復元図)

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 3 三 十八   武家社会の成立へ   「院政」の下で成長した武士は、 東国で源氏が勢力を広げ、 対する平家は西国で活躍する。 清 和 天 皇 ( 五 十 六 代 ) は、 諸 皇 子 に 源 姓 を 賜 り (「 賜 し 姓 せい 」) 、 第 六 皇 子 貞 純 親 王 の 皇 子 経 つね 基 もと 王 の系統は、名門、清和源氏として各地で繁栄した。また、河内国を勢力下にした河内源氏 の二代目、頼義は、長男の義家とともに、東北地方の戦乱で安倍氏を打ち、戦功を挙げる ( 既 述 ) 。 ま た 義 家 の 孫 に 当 る 源 為 義 は、 摂 関 家 の 内 紛 か ら 勃 発 し た「 保 元 の 乱 」 ( 保 元 元 年 ∧  56 ∨ ) で は、 崇 す 徳 とく 上 皇 ( 七 十 五 代 天 皇 ) 側 の 指 揮 官 と な る。 一 方、 為 義 の 長 男 の 義 朝 は後白河天皇 (七十七代) 側の指揮を取ったので、父子対決の場面となる。   後 に 義 朝 の 子 の 頼 朝 は 鎌 倉 幕 府 を 開 き、 つ い で 活 動 す る 新 田・ 足 利 な ど の 名 門 諸 氏 は、 何れも清和源氏の流れに入る。   つづいて「平治の乱」が・・・   為義 ・ 義朝父子の相克によって大きな痛手を負った源氏に対して、平家の総帥、清盛は、 保 元 の 乱 で 義 朝 と 共 に 崇 徳 上 皇 側 の 指 揮 を と っ た の ち、 急 激 に 勢 力 を 伸 ば す。 平 治 元 年 (  60 ) 、今度は、 源義朝が平清盛を打倒すべく、 公卿の藤原信頼と結んで挙兵した。 しかし、 義朝と信頼は殺害され、平氏政権が成立する。   桓武平氏の流派は・・・   平 氏 は、 皇 族 が 臣 下 に 下 る ( 臣 籍 降 下 ) さ い に 名 乗 る 氏 の 一 つ で、 桓 武 天 皇 ( 五 十 代 ) の子孫となる「桓武平氏」ほか、四つの流派が知られている。その中で、武家平氏として の 活 躍 が 顕 著 な の は、 高 たか 望 もち 王 おう 流・ 坂 東 平 氏 (「 坂 東 」 は 東 国 の こ と、 王 は 東 国 に 下 向 し た ) の 流れである。高望王は、桓武天皇の第三皇子、葛原親王の三男・高見王の子で、賜姓を受 けて「平高望」となった。   高望王の長男、 平 たいらの 国 くに 香 か の孫、 維 これ 衡 ひら から始まる一族は、本家の坂東平氏に対して庶流と なる 「伊勢平氏」 だが、 北 ほく 面 めんの 武士 (上皇の身辺を警護) となった平正盛の系統 (六波羅流 ・ 六 波 羅 家 ) は「 平 へい 家 け 」 と 呼 ば れ る こ と が あ る。 正 盛 の 子、 忠 盛 は 初 め て 昇 殿 を 許 さ れ、 忠 盛の子清盛は平氏政権を樹立して栄華を誇った。   平清盛は・・・   平治の乱で対立する勢力を一掃し、後白河上皇の信任を得る。内大臣を経て、 仁 にん 安 なん 二年 (  67 ) 、 太 だい 政 じょう 大臣となるが、間もなく辞任し、表向きには政界から手を引く。   翌年、清盛は病いに倒れて出家するが、病いが癒えると、福原に別荘を造営する。後白 河院との関係は友好的に推移して、国内に五百余の荘園を保有するとともに、瀬戸内海の

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4 5 航 路 を 整 備 し て、 宋 と の 貿 易 を 盛 大 に 行 な っ た の で、 莫 大 な 財 貨 を 手 に 入 れ、 「 平 氏 に あ らずんば人にあらず」 、といわしめた。   そ の こ ろ、 後 白 河 院 は 福 原 に 清 盛 を 訪 れ、 娘 の 徳 とく 子 こ が、 高 倉 天 皇 の 中 ちゅう 宮 ぐう ( 天 皇 の 妻 た ち ) と し て 入 じゅ 内 だい ( 内 だい 裏 り = 天 皇 の 御 所 = に 入 る こ と ) す る こ と に な る。 一 門 挙 こぞ っ て 公 くぎ 卿 ょう ・ 殿 てん 上 じょう 人 びと と し て、 官 職 を 独 占 す る が、 鹿 しし ケ が 谷 たに 事 件 ( 平 氏 討 伐 の 密 議 の 発 覚 と さ れ て い る が、 異 説 も あ る ) を 契 機 と し て、 後 白 河 院 と の 対 立 が 深 ま り、 治 じ 承 しょう 三 年 (  79 ) 、 清 盛 は、 院 を 幽 閉 し て政権を掌握する。   一方、強権をもって朝廷の政治に介入したため、貴族、寺社、地方の武士たちの平家に 対 す る 反 感 は 急 激 に 増 大 し、 つ い に 翌・ 治 承 四 年、 以 もち 仁 ひと 王 ( 後 白 河 天 皇 の 第 二 皇 子 ) を 奉 じて源頼朝ほかが兵を挙げ、東国一帯はその支配下となる。   初 め て 武 家 政 権 を 樹 立 し た 平 清 盛 は、 治 承 五 年 閏 うるう 二 月、 熱 病 で 死 没 し た ( 六 十 四 才 ) 。 源頼朝から遣わされた頼朝の異母弟、義経は「一の谷」 、「屋島」で平家を打ち、元暦二年 /寿永四年 (  85 ) 、「壇の浦」で平家を滅亡させた。   鎌倉政権の確立   全国の軍事的な支配に成功した頼朝は、 鎌倉の地を本拠として武家政権を確立、 その後、 建久三年 (  9 、征夷大将軍に任命される。 三 十九   秩父氏一族の繁栄・・・   群雄が割拠していた武蔵国で、垣武平氏の流れを汲む「秩父氏」一族は、地方豪族とし て勢力を誇り、畠山氏、河越氏、豊島氏、江戸氏などを派生し、 それぞれ畠山郷 (現 ・ 埼 玉 県 深 谷 市 あ た り ) 、 入 間 郡 ( 現・ 川 越 市 あ た り ) を 治 め、 豊 嶋 郡 ( 現・ 埼 玉 県 南 部 か ら 豊 島 区にかけて) 、江戸郷を治め、荒川、入間川に沿って活動した。   河越氏は河越に荘園を開く   河越氏が、現 ・ 川越市 上 うわ 戸 ど の台地に立荘したのは、永暦元年 (  60 ) のころと伝えられ ている。 それに先立つ保元の乱で、 河越重頼は、 源義朝に従って上洛した。 保元元年 (  56 ) 七 月、 重 頼 は 弟 の 師 岡 重 経 と と も に 源 義 朝 の 陣 営 に 加 わ っ た。 『 保 元 物 語 』 で は、 河 越・ 師岡氏を「 高 こう 家 け 」と称している。高家とは、格式の高い、権勢のある家柄をもつ由緒正し い家、名門のことである。   平 治 元 年 十 二 月 (  60 ) 、 平 治 の 乱 で 義 朝 が 滅 び た の ち は 平 家 に 従 い、 平 家 を 介 し て 所 領を後白河上皇に寄進、新日吉社 (現 ・ 新日吉神宮) 領として河越荘が開かれた。本家 (宗

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6 7 家 と も い い、 土 地 の 所 有 者 ) を 新 日 吉 社、 本 ほん 所 じょ ( 実 効 支 配 権 を もつもの) を後白河院として、河越氏はその 荘 しょう 官 かん (荘園の管理 を委ねられたもの) となる。   河越重頼は何故、源氏の惣領を援護したのか・・・   源 義 朝 の 子、 頼 朝 は、 平 治 の 乱 後 の 永 暦 元 年、 東 国 伊 豆 に 流 罪 と な っ た の で あ る が、 そ の 乳 母 比 ひ 企 きの 尼 あま は、 彼 を 援 助 す る ために武蔵国に下向した。河越重頼は比企尼の次女 (河越尼) を 妻 に 迎 え た の で、 以 後 二 十 年 余 り に わ た っ て 頼 朝 と 近 し い 縁 故 が 生 じ た。 そ こ で 平 家 に 従 い な が ら も 源 氏 と 深 い 繋 が り をもつことになる (『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条) 。   比 企 尼 は、 武 蔵 国 比 企 郡 の 代 官 ( 所 領 の 政 務 を 代 行 す る 職 ) を務めた、比企 掃 かも 部 んの 允 じょう の妻で、三人の娘は、源頼朝に近しい人々に嫁ぎ、嫡女が再嫁した 相手の安達盛長は頼朝の側近となり、次女は武蔵国の有力な豪族だった河越重頼、三女は 伊豆国の豪族伊東祐清に嫁いだ。   比企尼は比企郡から頼朝に米を送り続け、 三人の娘婿にも頼朝への奉仕を命じたという。 長女と次女の娘は、 それぞれ頼朝の異母弟 ・ 範 のり 頼 より と、 同じく頼朝の異母弟 ・ 義経に嫁いだが、 男子に恵まれなかったため、比企氏の家督は甥の比企 能 よし 員 かず を養子にして跡を継がせた。後 に能員が頼朝の嫡男・頼家の乳母父となって権勢を握ったのは、この尼の存在が大きかっ たようだ。尼の次女と三女も頼家の乳母となっている。 三 二十   武家政治の成立に向って・・・河越氏の不滅の貢献   河越重頼は平氏として、 畠山重忠、 江戸重長とともに、 治承四年 (  80 ) の八月、 三浦 氏が拠る相模衣笠城を攻略したが、十月には「長井の渡し」で、頼朝に降伏してその配下 に入るという、平家から源氏へと変転を余儀なくされた。   安房国で再起した源頼朝が隅田川を渡り、鎌倉に向かう途上のことであり、河越重頼の 行動は、武家政治への歴史的なキー・ステップとなった。

 

河越重頼の光と影   重頼は娘を源義経に嫁がせる・・   重頼は武蔵国留守所総検校職の地位を得、武蔵国入間郡「河越館」の武将として勢力を 伸 ば し た が、 源 頼 朝 の 命 令 に よ っ て、 元 げん 暦 りゃく 元 年 (  84 ) 、 自 ら の 娘 を 上 洛 さ せ、 弟 に 当 る義経に嫁がせた。頼朝は鎌倉八幡宮の社前で、自ら仲人となって婚礼を擧げたが、義経

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8 9 本人は知らず、西国に在って不在だったといわれ、重頼親子の悲劇の始まりとなる。   義 経 の 正 室 と な っ た 女 性 の 名 は、 伝 承 で は 郷 さと 御 ご 前 ぜん と 呼 ば れ て い る が、 故 郷 の 河 越 ( 現・ 川 越 市 ) で は、 京 に 嫁 い だ 姫 な の で、 「 京 姫 」 と 呼 ば れ、 ま た 終 焉 の 地 で あ る 平 泉 で は、 貴人の妻の敬称である「北の方」と呼ばれている。   河越重頼父子は戦う   同年、元暦元年の一月、河越重頼、嫡男重房らは、源義経軍について義仲軍を破る。重 房は義経の側近として 『平家物語』 にもその活躍が描かれている。 院の御所六条殿を警護し、 二月、河越重頼、重房らは義経に従って平家を追討し、一の谷で平家を破る。五月、源頼 朝は、義仲の子志水義高の残党討伐のため、河越重頼らを信濃に派遣した。   しかし頼朝に誅殺される   その後頼朝と義経が対立すると、 事態は一変、 義経の縁戚であることを理由として重頼 ・ 重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も、秩父氏一族の畠山氏、重能の子の 重忠に奪われた。   文治元年 (  85 ) 十一月、 河越重頼の領地は没収され、 同三年二月、 義経は妻であった 重頼の娘、子らを伴い、奥州平泉藤原 秀 ひで 衡 ひら の許に向かう。重頼、重房が誅されたのは、そ の年十月との記録が残されている。   文治五年 (  89 ) 四月、 藤原 泰 やす 衡 ひら は、 奥州衣川館に義経を襲撃する。義経 (三十一才) は、 妻 (二十二) 、子 (四才) とともに自害した。   その後の河越氏は・・・   一時期衰退したが、河越荘の所領は子孫代々が継承し、重頼の三男・ 重 しげ 員 かず は、嘉禄二年 (  6 ) 鎌 倉 政 権 か ら 武 蔵 国 留 守 所 総 検 職 に 補 さ れ、 武 蔵 国 で の 地 位 が 復 活 し た。 河 越 氏は重要な役職を与えられ、鎌倉時代から戦国時代末まで豪族として勢力を誇った。河越 経 つね 重 しげ は、 文応元年 (  60 ) に館内の新日吉山王宮に梵鐘を奉納し、 文永九年 (  7 には 高野山の町石を奉納したとの記録がある。 三 二十一   鎌倉時代は・・・   鎌 倉 に 本 拠 を 構 築 し た、 源 頼 朝 の 活 動 に よ る が、 建 久 十年 (  99 ) に死去する。その子、 頼家が跡を継いだが、 母親の 「北条氏」 を執権 (政権を援助しつ、 政務を統括する) とする政治へと変貌する。 源頼朝木像(信濃善光寺蔵) 文保三年(1319)の銘あり

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30 3   や が て、 政 権 に 反 抗 す る 新 田 義 貞 は、 北 方 よ り「 鎌 倉 街 道 」 を 進 撃 し て 鎌 倉 に 向 か い、 元弘三年 ( 333 ) 、稲村ケ崎を突破した。 三 二十二   室町時代へ・・・   後醍醐天皇 (九十六代) の建武の新政から始まる 「南北朝時代」 を経て、 建武二年 ( 335 ) 、 足利尊氏に征夷大将軍が宣下され、足利一族によって創建された邸宅は、京都に広大な敷 地をもち、室町通りに面して正門が設けられた。 「室町第」 、あるいは「室町殿」と呼ばれ る (また、通称は「花の御所」 ) 。しかし、八代将軍の義政が、政治を疎んだために起こった 内 乱 は 十 年 に 及 び、 都 は 壊 滅 的 な 被 害 を 受 け た (「 応 仁 の 乱 」 と 呼 ば れ る 。 応 仁 元 年 ∧ 467 ∨ 〜 文 明 九 年 ∧ 477 ∨ ) 。 三 二十三 「宗岡」が初めて文書に記録されたのは・・・   およそ五〇〇年前 (十五世紀末) のことになる   巡歴の高僧、 道 どうこうじゅごう 興准后 は、 文明十八年 ( 1 4 86 ) 、 北陸路から武蔵国に入り、 各地を廻っ て紀行文を著した。その書『廻国雑記』には、各地の地名を読み込んだ和歌や漢詩が収め られているので、その足跡を辿ることができる。 聖護院門跡道准后が辿った、 今も変わらぬ名前の「新座郡のまち」

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3 33   当時の地名には、 いまでも使われているものがあるので、 道興は志木、 新座、 朝霞各市を廻ったことが明らかであり、 そ の と き 目 で 見 て 感 じ た こ と を 詠 ん で い る の で、 当 時 の 風 景を生々しく蘇らせ、そのリアリティーは極めて高い。   聖護院門跡が廻った中世の道   新 にいくらごおり 座郡 を周遊   道興は武州十玉坊 (所在地については後述) を拠点として、 朝霞 ・ 新座 ・ 和光 ・ 志木各市を含むかつての新座郡を訪ね、 歌を詠んだ。   文明十八年の秋、志木市域の宗岡に赴き、   むねおかといへる所を通り 侍 はべ りけるに、夕の煙を見て、   夕けぶりあらそう暮を見せてけりわ が 家々の宗岡の宿   夕 食 を つ く る 煙 が、 あ ち こ ち か ら 争 う よ う に 立 ち の ぼ る 様 子 を 詠 っ た。 賑 や か な 宿 場 で は 無 い が、 集 落 が で き て い た こ と は 確 か だ ( 現 在。 上 宗 岡 の 千 せ ん こ う じ 光寺 近くに、この歌碑が建てられている) 。   新座市域では、   また、 野 の で ら 寺 といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。この鐘、 古 いにし へ国の乱 れにより、土の底に埋みけるとなむ。そのまま掘り出さ ざ りけれ ば 、   音にきく野寺をとへ ば 跡 あ と ふ 古 りて こたふる鐘もなき 夕 ゆうべ かな   片山の野寺の鐘で知られた八幡社は、明治末期に近在の神社と合祀されて、現在は 武 たけしの 野 神社となっている。   野 の び ど め づ か 火止塚 は、 新座市内の古利「平林寺」の境内にあるが、 同寺が建立される以前だった。   此 のあたりに野 びど めつかという塚あり。けふはなやきそと 詠 えい ぜ しによりて、 烽 のろしたちま 火忽 ち やけとまりけるとなむ。それより此の塚をの びど めと名 づ け侍るよし、国の人申し侍りけ れ ば 、   わか草の妻も 籠 こも らぬ冬されにや が てもかるゝ野火止の塚   と詠んだ。   朝霞市、膝折と浜崎を訪ねて・・・   こ れ を す ぎ て、 ひ ざ お り ( 膝 折 ) と い へ る 里 に 市 侍 り。 暫 しばら く か り や に 休 み て、 例 の 俳 は い か い 諧 を詠じて、同行に語り侍る。 細田千虎さんが描いた「宗岡の夕べに立つ煙」

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34 35   商 あきびと 人 はいかで立つらむ膝折の市に 脚 か っ け 気 を売りにぞありける   膝折は、江戸時代には川越街道の宿場だったが、それ以前、室町時代から市がたってい た こ と が 分 か る ( 歌 の 中 の「 か っ け 」 と は、 竹 で 編 ん で つ く っ た 茶 碗 な ど を 入 れ る 脚 つ き の 籠 かご をさし、 正しくは 「脚籠」 と書く。道興准后は、 脚の病の 「脚気」 と、 売り物の 「脚籠」 をかけて、 「膝 を 折 る と い う 地 名 の 市 で か っ け ∧ 脚 籠 ∨ と い う 籠 を 売 っ て い る 商 人 は 、 か っ け ∧ 脚 気 ∨ と い う 脚 の病にかかって、どうやって歩くのだろう」と 戯 ざ れ歌をつくって楽しんだのであろう) 。   旅に出て半年が過ぎ、道興准后は武蔵国で正月を過ごした。   武蔵野の末に浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、   武蔵野をわけつゝゆけ ば 浜崎の里とはきけ ど 立つ波もなし   武蔵野の草を分けながら、浜崎という名の地に向かったが、波が立つ浜などなかったと いう意味の歌だ。 三 二十四   都を旅立った道興は・・・   北陸道を通って越後国に至り、そこから南下して関東に入ったのであるが、武蔵国には 四回にわたって出入りを繰り返している。大塚の「十玉坊」で長旅の旅装を解き、越年し て、この間に武蔵野の名所・旧跡を訪れたようだ。   通 っ た 路 を 推 定 す る と、 相 模 か ら 武 蔵 国 の 霞 の 関 ( 現・ 多 摩 市 ) を 経 て、 多 摩 川 を 渡 り、 恋ヶ窪 (現 ・ 国分寺市西恋ケ窪) あたりは、 鎌倉街道の上道を利用しているようだ。狭山市 「掘 兼の井」から「やせの里」 、「入間川」に立寄り、 「佐西の観音寺」に着く。柳瀬川に沿って、 宗岡 (志木市宗岡) を往復、また「河越」 (現・川越市) の常楽寺を訪れている。   中世という時代は・・・   古 代 よ り 後、 そ し て 近 世 よ り も 前 の 時 代 を 指 す。 一 般 的 に は、 平 氏 政 権 の 成 立 (  60 年ころ) から安土桃山時代 (戦国時代末期) までをいう。   聖護院門跡は・・・   歴史上の人物の中には、 多くの人たちには全く知らされていないが、 知ってるひとにとっ ては、きわめて大きな存在の人がいる。並外れた貴族、 「道興准后」はそうした一人だ ・・ ・ と安斎達雄氏は述べている (本紙 6号) 。   この人   道興の勢威は、並のものではなかった。彼は関白、のちには太政大臣となった 近 こ の え ふ さ つ ぐ 衛 房 嗣 の 次 男 と し て、 永 享 二 年 ( 430 ) 、 摂 関 家 に 生 誕 し た。 幼 い こ ろ 出 家 し、 や が て 聖 しょうごいんもんぜき 護院門跡 となった。   聖 護 院 と は、 聖 体 ( 天 皇 ) 護 持 の 寺 と い う と こ ろ か ら 付 け ら れ た 名 で、 門 跡 と は、 皇 族

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36 37 や上級貴族が入る特定の寺、またその寺の統括者につけられた呼称である。このころ聖護 院 門 跡 は 修 験 道 の 本 山 派 を 統 括 す る 地 位 に あ り、 そ の 後、 園 お ん じ ょ う じ 城 寺 ( 三 み い で ら 井 寺 ) の 長 ち ょ う り 吏 、 熊 く ま の 野 山および 新 いま 熊野の 検 けんぎょう 校 をも兼ねた。寺院の職名は宗派などによって異なっているが、長吏 も検校も寺の代表者と考えてよい。   皇后などの三后に準ずる待遇の「准后」となって・・・   道興はさらに大僧正に任じられ、准后となった。これ以後、道興は「道興准后」と書か れるようになる。准后とは太皇太后・皇太后・皇后の三后に準ずる待遇を与えられた人の ことである。   戦乱が相次いだこの時代、経済的な恩典はほとんどなかったと思われるが、大変な名誉 であることには変わりはない。道興准后は天皇家の信任が厚かったが、 それだけではない。 室町幕府の八代将軍足利 義 よしまさ 政 お抱えの 護 ご じ そ う 持僧 も務めていた。足利義政といえば、東山文化 を代表する銀閣 (国宝。世界遺産にも登録) をつくった将軍である。武家政権との固いきず なも持っていたのである。   八 代 将 軍 足 利 義 政 の 跡 目 を め ぐ っ て、 そ の 弟 義 よ し み 視 と 実 子 義 よ し ひ さ 尚 の 相 続 争 い に 胆 を 発 し た 応 お う に ん 仁 の 乱 ( 467 〜 477 ) は、 有 力 な 大 名 の 家 督 争 い と も 複 雑 に 連 動 し て 十 一 年 も 繰 り 広 げられ、京都を焼け野原にした。乱は一応の終息をみたものの、時代は本格的な戦国乱世 に向かいつつあり、それは武蔵国とて同様であった。   道興准后が諸国巡歴の旅を始めたのは、 そうした最中の文明十八年 ( 486 ) 六月中旬の ことである。年齢は五十七才だった。   『廻国雑記』は、長い間著者が不明であり、入手も困難だった   江 戸 初 期 に は、 連 歌 師 宗 匠 の 宗 祇 が 著 し た も の (『 宗 祇 廻 国 雑 記 』) と さ れ た。 し か し、 文政八年 ( 8 5 、関 せき 岡 おか 野 や 洲 す 良 ら ( 77  〜 83  ) が 『廻国雑記標註』 を刊行し、 その序の中で、 この書の内容に直結する古文書が『白川古事考』所載のものと一致すること、甲斐国妙法 寺の記録の、文明十九年の条に聖護院が甲州・武州より奥州に下ったと記されていること を挙げて、この書の作者は道興であることを証明した。   ま た 幸 い に も、 塙 保 己 一 が 編 集 し た 国 文 学・ 国 史 を 主 と す る 叢 書の 『 群 ぐんしょるいじゅう 書類従 』 に掲載されたため、 本書の存在が明らかになった。   塙 保 己 一 は 延 享 三 年 に 生 ま れ た が、 幼 く し て 失 明 し た。 し か し 学 問 の 世 界 に 果 敢 に 挑 戦 し、 古 書 の 散 逸 を 危 惧 し て 安 永 八 年、 菅 原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓い、江戸幕府や諸大名 ・ 寺社 ・ 大 月 隆 著『 廻 国 雑 記 』( 発 行 :「 文 学 同志会」 、明治三十三年 )の表紙から

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38 39 公 家 な ど の 協 力 を 得 て、 古 書 を 収 集、 『 群 書 類 従 』 を 編 集 し た。 膨 大 な 叢 書 で、 古 代 か ら 江戸時代初期までの史書や文学作品、 一千二百点余りを収め、 寛政五年 ( 793 ) 〜 文政二 年 ( 8 9 、木版で刊行された。史学・国文学等の研究に、計り知れない貢献を齎した。   道興は風流な旅をしたように受けとられるが・・・   『 廻 国 雑 記 』 の 本 文 は、 道 興 自 身 の 旅 の 覚 え、 歌 な ど を 記 す 日 記 と な っ て い て、 彼 が 風 雅の道に精通し、詩文・和歌・連歌などにも長じていたことを読者に強く印象づける。   し か し、 そ の 冒 頭 に、 「 文 明 十 八 年 六 月 上 旬 の 頃、 北 征 東 行 の あ ら ま し に て、 公 武 に 暇 の 事 申 入 れ 侍 り き。 お の お の 御 対 面 あ り 」 と あ り、 『 御 湯 殿 上 日 記 』 や『 後 法 興 院 日 記 』 にもその旅が、聖護院門跡の公的な旅であることが書かれているのである。   眺望が優れた大石氏の館 (現・志木市柏町に所在した「柏の城」 ) に招かれて・・・   ある時大石信濃守といへる武士の館にゆかり侍りて、まかりて遊 び 侍るに、庭前に高閣 あり。矢倉な ど を相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとお もほゆ。あるじ杯取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、   一閑乗興屡登楼   遠近江山分幾炎   落雁斗霜風颯々   自沙翠竹斜陽幽   興に乗じて高楼に登り、 遠近の山河が幾つもの国を区切っている様子を見たのであろう。 おそらく丹沢や奥多摩や奥秩父、さらに遠く筑波や上州の山まで見えたのではないだろう か?   河越といへる所に到り、最勝院といふ山伏の所に一両夜や ど りて、   限りあれ ば けふわけつくす   武蔵野の境もしるき河越の里   此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。   ところ沢とへる所へ遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてささえをとり出し けるに、薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧   野遊 び のさかなに山のいもそへてほり求めたる野老沢かな   大石氏の館に再 び 招かれて・・・   野 遊 の つ で に、 大 石 信 濃 守 が 館 へ 招 引 し 侍 り て、 鞠 な ど 興 行 に て、 夜 に 入 り け れ ば 、 二十首の歌をすすめけるに

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40 4    (中略)   大石信濃守、 父の三十三回忌とて、 さま ざ まの追善を致しけるに、 聞き及 び 侍りけれ ば 、 小経を花の枝につけて贈り侍るとて、   散りにしはみそぢ三年の花の春けふこの本にとふを待つらむ 三 二十五   昔からジゴク谷と呼ばれていた「十玉坊」は・・・   道興准后が逗留したところで、現・志木市幸町に所在し、十玉が訛ってジゴクと言い倣 わ さ れ た の で は な い か、 神 山 健 吉 の 証 拠 を も っ た 意 見 で あ る。 そ の こ ろ、 全 国 の 修 験 ( 山 伏) の有力な拠点だった、と彼は主張する。 三 二十六   八王子から志木に向かって城館群を構築した大石信濃守の謎に迫る!   彼が大石信濃守の館に招かれたとき、繰り広げられた華やかな 宴 うたげ の有様を、この書の中 の漢詩を通して、垣間みることができ、また   道興を招いたのは大石信濃守と記されているが・・・   そ の 人 は、 当 時 武 蔵 国 の 管 理 を 任 さ れ た 守 護 代 ( 守 護 の 下 の 役 職 ) 、 信 濃 大 石 家 十 一 代、 大石 顕 あきしげ 重 と推測されている。   何故なら、道興が訪れたとき、顕重は戦死した父の三十三回忌の供養を依頼したという が、 父 は、 分 倍 河 原 の 戦 い ( 足 利 成 し げ う じ 氏 の 率 い る 鎌 倉 公 く ぼ う 方 勢 と 上 杉 顕 あ き ふ さ 房 の 率 い る 関 東 管 領 勢 と の 間 で 行 わ れ た 合 戦 ) で 亡 く な っ た 房 ふ さ し げ 重 で あ ろ う。 そ の と き 道 興 は 冥 福 を 祈 る 歌 を 添 え て 花 一枝を贈った、と「廻国雑記」には記されている。   残された系図によれば・・・   大石氏は、信濃藤原氏の後裔と伝えられる。系図の一部の信憑性に疑いがもたれている が、木曽義仲を祖先として信濃国佐久郡大石郷に住んだことから、大石氏を名乗ったよう だ。大石氏は本拠の信濃から次第に武藏へと移って、七代信重は関東管領山内上杉 憲 のりあき 顕 に 仕 え た。 延 文 元 年 ( 356 ) 戦 功 に よ っ て 入 間・ 多 摩 両 郡 の 柳 瀬 川 流 域 を 含 む 十 三 郷 を 与 え ら れ た。 武 蔵 国 の 目 も く だ い 代 ( 国 の 行 政 官 の 代 理 国 司 ) に 任 命 さ れ、 ま た 至 徳 元 年 ( 384 ) に は 浄 福 寺 城 ( 現・ 八 王 子 市 下 恩 方 町 ) を 築 城 し た と も 伝 え ら れ て い る。 系 図 で は、 石 見 守 憲 のりしげ 重 、 憲 のりよし 儀 、十代目の 房 ふさしげ 重 につづく十一代の当主が信濃守顕重となる。 次号の「大石氏館跡」につづく

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4 本紙「市民プレス」は年四回(一、 四、 七、 十月、各五日)発行    「市民フォーラム」 は・・・   地域住民と行政に対して取材活動を行ない、報道によって市 民の公共参加を推進します。また市民間のコミュニケーション の増進に努めます。   市民フォーラムは地域情報紙「市民プレス」を編集 ・ 発行し、 無料で配布します。   読者の「オピニオン」 (意見・感想)をお寄せ下さい。           編集部   原宛にどうぞ        TEL 090 ( 3048 ) 5502

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