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西洋哲学史研究序説(一)

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(1)

西洋哲学史研究序説︵こ

    梗  概

序  論       

  ︹一︺西洋哲学史の概念規定に関する問題

第一音f 西洋とは何か

  ︹二︺Morgenland

 f東洋﹂

  ︹三︺yび∼巳皿乱−﹁西洋﹂

  ︹四︺Westen。 the West ︱ f西洋﹂﹁西方﹂

     osten。 the East

 f東方﹂

  ︹五︺orient。 the Orient

 f東洋J

     Okzident。 Occident。 the Occident

 f西洋﹂

  ︹六︺以上のまとめ

⋮二頁

・:二頁

︹七︺﹁西洋﹂と﹁東洋﹂が指す地理学上の領域−ヨーロ∼ハとアジア

︹八︺地理・学上の区分は必ずしも文化圏の区分と一致しない。

。︹九︺西洋哲学史と東洋哲学史

第二章 哲学とは何か

 第一節 哲学という用語の由来

・:三頁

⋮三頁

 ︹Ξ︺哲学という日本語は西周による翻訳語、ヨーロッパ語のそれは古代

  ギリシア語に由来

 ︹一こヘラクレイトス、ヘロドトス、ツキュディデスの用例

 ︹Ξ︺ディオゲネスーラエルティオスの報告−ピュタゴラス

 ︹二一︺キケロの﹁トゥスクルム論議﹂の報告−ピュタゴラス剛

 ︹一四︺同右閣

第二節 哲学と科学の区別       ・:五頁

 ︹Ξ︺問題提起−哲学の対象である知恵とは何か。

六七

崎  文

 人文学部

哲学教室

 ︹一六︺ヴィンデルバントー世界と人生の知恵

 ︹一七︺宇宙万有の知恵・知識−理論的と実践的

 ︹一八︺哲学は神話・宗教・物語・詩・劇と区別される。

 ︹一九︺哲学と科学の区別田−全体と部分

 ︹言︺ 一般形而上学と特殊形而上学

 ︹Ξ︺超越的概念︵transcendentia︶

 ︹三︺﹁有﹂は宇宙万有のすべてを指す。

 ︹︺三︺ 一般形而上学は有一般を探究する。

 ︹二四︺哲学と科学の区別②−哲学は有一般を、科学は特殊な有を研究対

  象とする。

 ︹一三︺哲学と科学の区別圓︱科学は具象的、哲学は抽象的。哲学は科学

  と次元を異にする。

 ︹二六︺哲学と科学の区別㈲−個別科学の百科全書的集成は哲学にはなら

  ない。

 ︹二七︺科学=実証的

 ︹二八︺自然物の形相

 ︹二九︺実証とは何か

 ︹言︺実証科学とその前提

 ︹Ξ︺哲学と科学の区別倒−哲学は科学に実証という学的方法を与え保

  証する。

 ︹昆︺哲学と科学の区別倒−哲学は実証科学の領域を拓き支えて

  いる。

 ︹量︺第二節のまとめ

第三節 哲学の根本的課題      :二I頁

 ︹一a︺特殊形而上学−有の根源・原理を探究する

 ︹曼︺特殊形而上学の﹁全体の探究方法﹂と﹁万有の根源﹂

 ︹一興︺哲学の根本的課題−宇宙万有の根源の探究

︹一毛︺万有の根源の別称と訳語

(2)

高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

 ︹一穴︺哲学上の神・神学と宗教上の神・神学の区別

 ︹莞︺第三節のまとめ

第四節 哲学と宗教の区別

 ︹四巳哲学と宗教の区別剛−普遍的霊魂と個的霊魂

 ︹四一︺哲学と宗教の区別閤−現実的行為としでの救済

 ︹四二︺哲学と宗教の区別倒−哲学上の神と宗教上の神

:二三頁

︹翌︺第四節のまとめI哲学は普遍にかかわり、宗教は個にかかわる

第五節 哲学とは何か

 ︹図︺アリストテレスの規定

/  ̄ n C y η 字 7 W m [ 7 1 3 六 J r 7 n 窄 心 。 ノ

トマスーアクィナスの規定

ヘーゲルの規定

哲学とは何か﹁

:二五頁

  ︵続︶

・:二八頁

   序  論

 二︺ 西洋哲学史とは西洋で成立した哲学の歴史である。かかる歴史

を考察する際にはその概念規定を明確にしておかなければならない。そ

こでわれわれは﹁西洋哲学史﹂の概念を構成する諸概念を次の順序で考

察していくことにしよう。

 ︲ 西洋とは何か

 □ 哲学とは何か

 曰 哲学史とは何か

第一章 西洋とは何か

 ︹二︺ ﹁西洋﹂という語は、多くの哲学専門用語と同じく、‘ヨーロ。

パ言語からの邦訳語である。

 これはドイツ語ではAbendlandと言われ、Morgenlandと対語をな

している。yr乱同乱。の字義通りの意味は﹁夕方︵Abend︶の地︵r乱︶﹂

である。なにゆえこう称するのであろうか。

 周知の如く地球上の一日は太平洋のほぼ中央にある東経と西経が一致

する一八〇度の経線から始まる。いわゆる日付変更線はこの付近に設定

されている。   \

 。地球上で最初`に朝を迎えるのはユドラシア大陸の東端である。次いで

日本、朝鮮、中国と順次朝を迎えていくのである。したがって朝はアジノ

アから始まる。それゆえこの地域は﹁朝の地﹂︵Morgenland︶と言わ

れる。朝の地は太陽が昇って来る地でもある。太陽は﹁東﹂から昇る。

それゆえこの地は﹁東洋﹂と称せられ、Morgenlandの邦訳語にあてら

れる川。

 ︹三︺ これに対してAbendlandは狭義にはユーラシア大陸の西、つ

まりヨーロッパを指す。この地域はユーラシア大陸のうちで最後まで夕

方︵yr乱︶を留める地︵に乱︶である。太陽は﹁西﹂に沈んでいく。

それゆえこの地は東洋に対して﹁西洋﹂と称せられ、Abendlandの邦

訳語にあてられるI。

 ︹四︺ ﹁西洋﹂を意味する他のドイツ語にWestenがある。これは

文字通り﹁西﹂を表わし、ここから﹁西洋﹂﹁西方﹂等と訳されるに

至ったa。

 これに対して〇stenという語がある。これは元来﹁東﹂を意味し、

(3)

ここから﹁東方﹂と邦訳され、アジア地域を指す語となる。。

 これら両語に対応する。語は英語にも見出される。the Westとthe

Eastである。これらは各々﹁西洋﹂と﹁東洋﹂と邦訳される。。

 ︹五︺ さらに﹁東洋﹂と﹁西洋﹂を指す他のドイツ語に〇rientと

Okzidentもある。この両語はラテン語に起源を有している。前者はラ

テン語の動詞onor︵昇る︶に由来する。すなわち〇rientは﹁陽が昇

る地方﹂を意味する。そして﹁東洋﹂と訳される6.また後者はラテン

語の動詞occido︵落ちる︶に由来する。つまりOkzidentは﹁陽が落ち

る地方﹂、﹁日没の地﹂を意味する。そして﹁西洋﹂ヽと訳される。。

 先と同様にこれらの両語に対応する語が英語とフランス語に見出され

る。the Orient︵英︶、Orient︵仏︶と路・〇ccident︵英︶、〇ccident

︵仏︶である。これらは右のドイツ語と同じ由来と意味を持つ卯。

 ︹六︺ 以上から解せられるように﹁西洋﹂という邦語はAbendland。

Westen。 Okzident ︵独︶、the West。 the〇・・i・5︵英︶、○・・i・コ’︵仏︶

の訳語である。これに対して﹁東洋﹂という邦語はMorgenland。

9ten︵独︶、Orient ︵独・仏︶、the Orient。 the East ︵英︶の訳語である。

 ︹七︺ さて、﹁西洋﹂及び﹁東洋﹂という語は地理上の如何なる地域

を指しているか、次にこれを見ておかなければならない。

 ユーラシア大陸は、地理学上、ウラル山脈、カスピ海、コーカサス山

脈、黒海をつなぐ線で二分される。この線より東側は﹁アジア﹂と称さ

れ、西側は﹁ヨーロッパ﹂と称される。

 前者には近東、中東、極東の地域が含まれる。﹁東洋﹂とはかかる広

大なアジア地域を指す語である。。

 これに対して後者は﹁西洋﹂と呼ばれる。この語は広義にはヨ∼ロッ

六九  西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

パとアメリカの地域を指すがしかし狭義にはヨーロッパのみを指してい

るu。われわれはこの語を狭義の意味で用いることにしよう。

 ︹八︺ このように区分された地理学上の﹁西洋﹂は必ずしも文化圏と

しての﹁西洋﹂と一致するものではない。例えば哲学史においては、小

アジア半島の西岸地方は古くはイオニア地方と呼ばれ、ごの一都市ミレ

トスからギリシア哲学が始まるとされている。したがって西洋の哲学史

においてはこの小アジアの地中海沿岸地方を﹁東洋﹂ではなくて﹁西洋﹂

の範囲にいれるのである。すなわち小アジア半島の西岸地方から西洋哲

学が出発するのである。

 右のような多少の修正は必要であるとしても、地理学上のヨー。ロッパ

地域をひとまず﹁西洋﹂とみなすことができるであろう。しかし洋の東

西の区別は右の如くかなり便宜的・相対的である。

 ︹九︺ さて、このようにみてくると、西洋哲学史とは西洋という圏域

で成立した哲学の歴史であると言うことができるであろう。ここには古

代ギリシアにおいて成立した諸哲学、ジルソンの言うところのキリスト

教哲学00、近世から現代にかけて成立したヨーロッパの諸哲学等が含ま

れる。

 これに対して、東洋哲学史とは東洋という圏域で成立した哲学の歴史

であると言うことができるであろう。ここには中国哲学、インド哲学、

イスラム哲学、ユダヤ哲学等が含まれる。

 第二章 哲学とは何か

  第一節 哲学という用語の由来

︹Ξ︺ 哲学という邦語もヨーロッパ語からの翻訳である。これは他の

(4)

高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

哲学専門用語の多くと同様に、明治時代の官僚学者・西周二八二九−

一八九四︶によって英語のphilosophyの邦訳語として作られたとい

 西洋における﹁哲学﹂という語は古代ギリシアに始まる。ギリシア語

ではそれは︵pdoaocpiaと言われる。で応∼名斗はs以∼︵愛好する︶

という形容詞とCKxpia︵知恵︶という名詞からなる合成語である。し

たがってその意味唸﹁知恵を愛し求めること・知恵への愛﹂ということ

になる。

 この語の動詞形のmiXooocpe

Tu︵哲学する︶は﹁知恵を愛する﹂と

いう意味にな肌、また形容詞形の︵plX

oaocpcK

■は。﹁知恵を愛していると

ころの﹂Jcいう意味になる。そしてこれから由来す&名詞’<piXoao︵po︵:

︵哲学者︶は﹁知恵を愛する者・知恵を探究する者﹂という意味を持つ。。

 ︹二︺ 我々が今日手にし得る最古の(piloaoaxx:の用例はヘラクレイ

トス︵Herakleitos。 c. 540-c. 470 B. C.︶の断片三五に見出される。

 ﹁知恵を愛し求める人︷︵pLXoocxpoL avSpei;︶は、実に実に多くのこと

を探究しなければならない。﹂︵断片三五︶″

 ここでは︵pLXoao<po<:は形容詞として用いられている。

 またヘロドトス︵Herodotos。 c. 484-c. 430 B. C.︶はその著﹃歴史﹄

︵哨艮∼E︶の中で、ソロン︵Solon。 c. 640-c. 560 B.C.︶に向かって

話しかけるリュディアの王クロイソス︵Kroisos。在位560-546 B.C.︶

の言葉を引用して

 ﹁⋮⋮あなた︵ソロン︶は知恵を愛し︵︵piXoaocpiuiv︶・、多くの土地を見

るために旅をしてこられた。﹂。

と述べている。ここの︵pikoacxpkoivは分詞形をしている。

 またわれわれはツキュディデスCThucydides。 c. 460-c. 398 B. C.︶・の

﹃歴史﹄︵Historiai︶においてもその動詞の形の用例を見出すことができ

る。これはペリクレス︵Perikles. c. 495-c. 429 B. C.︶の言葉の引用で

ある。

 ﹁われわれは贅沢でなく美を愛し、また柔弱なしに知恵を愛する

︵aLXoaowodiiS-v︶。﹂。

 右の三つは現存する古い用例であるが、次に内容に即した古い用例を

見てみよう。

 ︹三︺ アイオゲネスーラエルティオス︵Di0genes Laertios。 c. 240

B.C.︶の﹃ギリタア哲学者列伝﹄によると、︵ptXopocpiaと’︵piXoaoaKK

の両語を最初に使用じた者はヘラクレイトズよりも古いピュタゴラス

︵Pythagoras。 c. 582判c. 497/6 B.C.︶で屯るという。”。

 ﹁しかし哲学︵<p{。︸.oao︵pia ︶という語を最初に用い、かつ自分を哲学者

︵wiXooocpoi;︶と最初に呼んだ者はピュタゴラスであった。・⋮⋮しかし

哲学者とは知恵を熱心に追究する人である。﹂。

ディオゲネスーラエルティオスによるとこの記事はポントスのヘラクレ

イデス︵Herakleides P0ntikos。 c. 390-c. 310 B. C.︶の著作﹃息の絶え

た女について﹄︵De mortua︶の中にあると報告されている。

 ︹一三︺ この話はキケロ︵Marcus Tullius Cicero。 160-43 B. C.︶の

﹃トゥスクルム論議﹄︵Tusculanae disputationes︶の中により詳細に報

告されているS。これによると、ピュタゴラスはプリウス︵回目巳の

支配者レオン︵r∼︶と対談をした。その時レオンはピュタゴラスの才

能と雄弁に驚き﹁どの学芸︵ars︶に最も自信をお持ちか﹂と彼にたず

ねた。するとピュタゴラスは﹁自分はどの学芸も知ってはいない。だが

哲学者︵philosophus︶である﹂と答えた。するとレオンは﹁哲学者﹂

という初めて聞く新しい言葉に驚き﹁哲学者とは何者か、哲学者と残り

(5)

の者の間にはどのような違いがあるのか﹂と再び問うたのである。そこ

でピュタゴラスは一つの比喩によってこれに答えたという。

 ︹一四︺ 人間の生活はオリュンピアの祭礼に似ている。ここにはギリシ

ア全土から人々が集まり、競技が行われる。そこには三種類の人々が見

られる。第一の種類は、競技に参加して優勝をしそしてその名誉を得よ

うとする人々である。第二は、集まって来た人々を相手に売買をして金

儲をしようとする人々である。第三は、生れつきのよい人夕で、称賛や

金儲を求めるのではなくて、見るために︵visendi causa︶来、何かどの

ように行なわれるか︵quid ageretur et quo modo︶を熱心に観る人々で

ある。

 この世に生れて来た人々も同様に三種類があって、一つは名誉に、ま

た一つは金銭に仕えるが、少数の第三の人々はそういうものには目をく

れずに事物の本性︵rerum natura︶を熱心に観入る。こういう人々が自

分を’﹁知恵を熱心に求める者﹂︵sapientiae studiosi︶すなわち﹁哲学者﹂

︵philosophi︶と呼ぶのであるS。

 このエピソードは哲学の根本的な性格である﹁観想﹂︵・0ntemplatio。

decopia︶をよく表わしている。哲学は本来、実践的というよりもむし

ろ観想的及至思弁的な性格を持つ学であると言うことができるであ

ろう四。

  第二節 哲学と科学の区別

 ︹一五︺ われわれは初期の哲学者や歴史家等の﹁哲学﹂の名詞、動詞、

形容詞の各形の用例と意味を見てきた。次にその内容に即して﹁哲学と

。は何か﹂を考察していかねばならない。

 ﹁哲学﹂は、その歴史における時代状況や問題状況によっ゛て実にさま

七一  西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

ざまに規定されている。それゆえ一般に承認された哲学の概念規定を見

いだすことは困難であると思われる。

 しかしわれわれが見てきたように哲学の原義は﹁知恵を愛し探究する

こと﹂﹃であった。では﹁かかる知恵とは一体何であろうか﹂。また﹁こ

れは一体何についての知恵であろうか﹂。われわれはまずこのことから

見ていくことにしよう。

 ︹一六︺ 先にみたピュタゴラスやヘラクレイトスと比較して独創的とは

言い難いが、近世哲学︵新カント派Neukantianer︶の立場から哲学を

手際よく体系的に粗述した哲学者ヴィルヘルムーヴィンデルバント

︵Wilhelm Windelband 1848-1915︶の見解をみてみよう皿。

 彼は哲学を﹁世界観の学﹂︵Wissenscheft der Weltanschauung︶と規

定し、この中には﹁世界と人生の知恵﹁Weishe已﹂が含まれていなけれ

ばならないとする。すなわち哲学は﹁世界と人生﹂に関する知恵を探究

する学である。そして﹁世界に関する知恵﹂は理論的問題を扱い﹁人生

に関する知恵﹂は実践的問題を扱う。つまり哲学は理論と実践の両問題

を扱うのである皿。

 ︹一七︺ ﹁世界﹂とはたんにわれわれが棲む惑星のみを意味しない。そ

れは古代ギリシアの最初期の哲学者達が考察の対象としていた﹁宇宙・

万有﹂︵OKoawx。  TO nav︶を意味している皿。人間ほこれに含まれ。

これを構成する一員である。それゆえ、換言すれば、哲学とは﹁宇宙・

万有の知恵︵ acxpia。 Weishei巳乃至知識︵ kniOTTiuTi。 Wissen︶を愛し探

究する学﹂であることになる。このように哲学︵ciAoocKSKi。 Philosophie︶

は、その発端からしてもまたその本質からしても﹁宇宙論的﹂︵″o’ヨぼ乙

である。

・哲学の理論的問題領域においては・﹁宇宙万有は如何に在るか﹂につい

(6)

七二

高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

て探究される。次にそのようにして明らかにされた宇宙万有のなかに在

る人間は、それでは﹁如何に生くべきか﹂と問われる。これが実践的問

題である。ここには人生の目的、幸福、自由、善等々のテーマが含まれ

る。しかしかかる実践的問題は知識︵Wissen。 Weisheit︶として問われ

るのであって、直接的で具体的な行為や行動として問われるわけではな

い。哲学は実践的問題も広い意味で理論的に扱うのであって現実の個々

の行為・行動を論じるわけではない。哲学はどこまでも普遍的な知識

︵ kniarrm)︶であることが要求されるからである。

 比八︺︲ところで周知のごとく﹁世界と人生の知識﹂は哲学の専有物で

ぼな’い・われわれはかかる知識切探究が種々の分野で既に古くからな・さ

れできた跡を見ることができる。例えば神話や哀教、物語や詩や劇、そ

 ︹一九︺ ところが諸科学における﹁宇宙万有の知識﹂の探究は哲学のそ

れと同様に厳密な﹁論理﹂によってなされる。この点で科学は哲学と共

通しているように思われる。では両者は区別されうるのであろうか。も

し区別されうるとしたならば、両者はいかなる点で区別されうるのであ

ろうか。これを明確にするために、われわれは﹁科学とは何か﹂につい

て考察することにしよう。

 科学は専門分野︵Fachgebiet︶を持つ学︵Wissenschaft︶である。﹁科

学﹂の﹁科﹂は学科の﹁科﹂と同義で、分類の条目を表し皿、そこから

専門分野・領域を意味する語となった。

 ところでこの専門領域は宇宙万有の一部分である。例えば﹁生物学﹂

︵Biologie︶は﹁生命を待ったものの全体﹂を専門領域とする。生物学

はかかる領域において生物や生命現象の本質や機能や原因等を問う。こ

の領域は宇宙万有の一部分である。すなわち﹁科学﹂とは宇宙万有の

﹁一部分﹂を専門分野とする学︵Wissenschaft︶である。

 これに対して﹁哲学﹂は宇宙万有の﹁全体﹂を探究領域とする学であ

る。つまり哲学の対象は宇宙万有の一部分ではなくて﹁全体﹂である。

かかる点で﹁哲学﹂、と﹁科学﹂は区別される。、

 しからば諸科学のすべてを百科全書的に集積して、宇宙万有の全体に

ついての知識を形成したものが﹁哲学﹂となるのであろうか。そうでは

ない。祐んに部分をすべて寄せ集めただげでは﹁全体﹂に以ならな‘いひ

である。これについては後に︹。二六︺詳しく検討することにしよう。

 ︹言︺ それでは﹁哲学﹂は宇宙万有の全体を如何にして探究するので

あろうか。そもそも人間にとって万有の﹁全体﹂を問題とし、探究しか

つ捉える等ということは可能なことであろうか。

 実はそれは哲学においてはある仕方で可能なのである。−哲学は伝

統的に二つの仕方で宇宙万有の全体を探究対象としてきたのである。一

つは﹁一般形而上学﹂︵metaphysica generalis︶における学的方法であ

り、いま一つは﹁特殊形而上学﹂︵ヨetaphysica specialis︶における学

的方法である皿・

 ︹ニこ では先ず前者から見ていくことにしよう。一般形而上学におい

て﹁万有﹂を捉えるある種の概念の道具が見出される。それは﹁超越的

概念﹂︵transcendentia︶と呼ばれる一群の概念である。これらは宇宙万

有の全体を指し示す概念である。例えぼ﹁有﹂︵・回︶、﹁もの﹂︵﹁a﹂、

(7)

コ﹂︵unum︶、﹁或るもの﹂︵巴ぷに&︶、﹁善﹂9o∼ヨ︶、﹁真﹂︵verum︶、

︵﹁十の諸類﹂decem genera︶等である皿・これらの諸概念は﹁存在して

いるもの﹂をすべて覆い、またこれらの諸概念によって捉えられない﹁も

の﹂は皆無である。’

 仮にこれらの諸概念によって捉えられないものがあるとしたら、一つ

は絶対的な意味での﹁無﹂︵R回︶である。しかし﹁無﹂は如何なる意

味においてももはや﹁もの辻ではない。ゆえにこれは超越的概念によっ

ても把握されることはできないのである。

 したがって超越的概念は人間の有するすべての諸概念のうちで最大の

外延を持つものと言わねばならない。哲学はかかる概念を用いて宇宙万

有の﹁全体﹂を探究し、その本質、構造、機能、働き等々を明らかにし

ていこうとするのである。

 ︹ニニ︺ さてここで超越的概念の一つである﹁有﹂を例にとり考察して

いくことにしよう。

 ﹁有﹂はens ︵羅︶、&︱︵希︶、i乱・F乱・︵独︶、︸ぷ’﹁・︵仏︶、tne being

︵英︶の訳語である。

 一般に名付けにおいては、名称︵nomen︶−概念︵ぷにo︶−もの

︵﹁・巳の三層構造が看取される。すなわち﹁名称﹂は﹁定の﹁概念﹂を

表している。概念とは意味内容︵significatio︶のことである。そして

﹁概念﹂︵乃至﹁意味﹂︶は一定の具体的な対象︵=﹁もの﹂︶を指し示し

ている。これが名付けにおける基本構造である剛。

 この三層構造より﹁有﹂を考察してみよう。

 先ず﹁有﹂は一つの名称である。

 では次に、この名称は一体如何なる概念・意味を表しているのかが

七三  西洋哲学史研究序説︵一︶︵岡崎︶

問題となる。有の原語ensは巴ヨ動詞の現在分詞・中性・単数・主格

乃至対格形である。同様に?もeluL動詞のそれである。したがって

この語の概念・意味は文字通り﹁存在しているもの﹂である。ここから

﹁有﹂は他にさまざまに訳される。例えば﹁存在するもの﹂、﹁存在者﹂、

﹁在︵有︶るもの﹂等々である。そしてこれらはいづれも同義である。

 では最後に﹁有﹂という概念は如何なる対象︵もの︶を指しているの

かを見なければならない。それは﹁宇宙万有﹂である。これはこれ全体

が一つの﹁有﹂︵﹁存在者﹂︶であると同時に、また個々の多数の﹁有﹂

から構成されてもいる。したがって宇宙万有は全体としても部分として

も、どこからしても﹁有﹂︵﹁存在者﹂︶である。そして﹁有﹂からはみ

出すものは同時に宇宙万有からもはみ出すのである。この﹁はみ出すも

の﹂かおるとすればそれは前述の﹁無﹂︵︱三︶に外ならない。このよ

うに﹁有﹂﹁存在者﹂の概念は宇宙のすべてを対象︵もの︶として指し

示しているのである。そしてかかる概念から漏れるものは存在しない。

 ︹一三︺ 一般形而上学とはこれらの、超越的概念を道具として駆使し、万

有の﹁存在の仕方﹂︵modus essendi︶を分析し考察するところの学であ

る。そこからこの学は別名﹁存在論﹂︵ontologia。 Ontologie︶を得て

いる皿o

 ところで、この学において分析され、考察され、探究された事柄はす

べて万有の﹁全体﹂に適合する。

 例えば﹁有﹂をとづてみれば、これは種々の角度から考察されう

る。−有は﹁実体﹂︵substantia。 ouaia︶と﹁付帯性﹂︵accidentia。

ovuBeBriKoza︶の範躊︵categoriae。 icavriyoplaこに分けられるとか、

また﹁形相﹂︵forma。  eldcK︶と﹁質料﹂︷materia。   uXti︸に分析される

とか、また﹁現実態﹂︵actus。   euepreca︶と﹁可能態﹂︵ potentia。

6vvaaL<:︶の観点から分析されるとか、また更に﹁存在﹂︵esse︶と﹁本

(8)

七四

高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

質﹂︵essentia︶に区別される等々といった考察がそれである。そしてこ

のような仕方で進められた考察の結果はすべての﹁有トすなわち﹁宇宙

万有﹂に適合するのである。

 哲学︵一般形而上学︶は右の如き方法で、﹁全体﹂を探究するのであ

る︹言︺。

 ︹二四︺ 今日の個別科学︵Einzelwissenschaf

t︶はアリストテレス

︵Aristoteles。 384-322 B.C.︶に始まる。彼が初めて諸科学の原理を発

見し、その領域を大きく確定したからである。それゆえ彼は﹁万学の祖﹂

と言われる︹二七︺。’そこでアリ‘ストテレスの存在論︵一般形而上学︶に

     χ  I゛         ﹄jll  l一     ︱従って、面学と科学の区別を試み’てみょう。   ド \

上蜃形而上学が扱い論じる有は﹁有一般﹂である。この学は具体的な

 ゛     一 一    l a      ¥ 

有−例えばこの人間、この馬といった有−を考察するみではなく、

この人間、この馬の﹁この﹂という個別性を捨象し、さらに﹁人間﹂、

﹁馬﹂という特定︵殊︶の有をも捨象して残ったところの﹁有である限

りでの有‰

ens inquantum ens。   ro bu rj 6v

を考察するのであ

る。かかる有を﹁有一般﹂という。

 これとは反対に、科学は﹁有一般﹂を取扱わない。科学が研究対象に

する有は﹁特殊︵定︶の有﹂︵?コ︶である`。

 例えば生物学は﹁生命を持つ有︵存在者︶﹂という特殊の有を考察対

象とする。そしてかかる有の持づ特殊な側面である﹁生命現象﹂を研究

するのである。言い換えれば、﹁生命を持つ有﹂を﹁生命﹂という観点

から探究するのが生物学であると言うことができるであろう。

 また物理学︵Physik︶は﹁空間と時間のなかで動く質量を待ったもの

︵存在者︶﹂という特殊の有を考察対象とする。そしてかかる有が持つ特

殊の側面であるところの﹁空間、時間、質量﹂という特殊の観点からか

かる有を研究するのである。︵物理学にとって生命という特殊な部分は

問題とはならず捨象される。︶

 しかし哲学︵一般形而上学︶は、生命を待った有や空間と時間におい

て質量をもって動く有といった如き﹁特殊の有﹂ではなくて、これらの

特殊性を捨象して、ただ﹁無条件的で、端的な有﹂すなわち﹁有一般﹂

を探究するのである。

 このように哲学は探究対象と探究観点︵ISo︶という点で明確に科学

と区別される。

 ︹二五︺ ここから次の’ことが結論される。、科学は哲学に較べて﹁具象

的﹂︵konkret︶であるが、哲学はその反対に科学に較べて﹁抽象的﹂

︵abstrakt︶となる。なぜなら哲学は、科学の研究対象︲のづ特殊な有﹂”

の特殊性を捨象して﹁有一峻﹂にまで抽象化しいそのような有を探究対

象となしているからである。それゆえ哲学は最も抽象的な学と言い得る

であろう。

 この事情は学の道具である論理の立場からも看取できる。科学は﹁特

定の有﹂を研究するのであ。るから、その論理の適用範囲はその特定の有

の領域に限定される。また科学は﹁特定の観点﹂から研究するのである

から、その論理は一面的となる。換言すれば、それは一意的な論理とな

り、従って厳密かつ精密となる。

 これに対して哲学は、有一般を探究対象としているのであるから、その論

理の適用範囲は﹁すべての有﹂にわたる。そしてその論理は名面的となる。

換言すれば、それは多義的となり、そこから科学の意味での厳密性を欠

くものとなる。しかしながら、そうであるとしても哲学の論理は不正確

ではない。例えば、有︵?︶の持つ多面的な意味︵多義性︶を明らかに

し、識別し、分析を加え、そして有の全体に適用され得る論理を形成す

るのである。かかる論理は極めて多面的かつ正確である。しかし科学の

一面的な厳密さを持つ論理とは区別される。

(9)

 また哲学は科学に並列して並び立つ学ではなくて、科学と次元を異に

しつつ、科学をすべて間接的に包含している学となる。なぜなら、抽象的な

有一般は具体的な持殊︵定︶の有の全体を間接的に含んでいるからである。

 ︹二六︺また以上から、個別科学をすべて集積して百科全書的な知識を

形成しても、それは哲学とはなり得ない理由も明らかとなる︹一九︺。

 個別科学は各々独自の﹁専門分野﹂を持っている。そればかりではな

い。個別科学は各々固有の﹁特殊な研究観点︵乃至研究角度︶﹂も持っ

ている。かかる観点︵乃至角度︶から、各科学は有︵存在者︶を研究す

るのである。

各科学が持っている各観点はすべて異っている。︵仮にそ

の研究の各観点が同一であるとするなら、それらの科学は区別すること

はできず、むしろ同一の科学となるであろう。︶ここに各科学の持つ個

別性と独自性が存する。

 ところでかかる個別科学を百科全書的に寄せ集めて、すべての分野に

おける有に関する知識を形成したとしよう。だがこの知識は、有を研究

する観点が異なる諸知識の集積にすぎないことになろう。換言すれば、

これは相互に統一性のない断片的な知識の集成にすぎない。ここには全

知識を貫き、全体を統一する観点は存在していないのである。

 凡そそれが一個の﹁学﹂であるためには、その全体を貫き、その全体

を統括する﹁観点﹂︵∼にo︶乃至﹁原理﹂︵principium︶がなくてはなら

ない。右の百科全書的な知識の集成はこれを欠いているゆえに、一個の

学たる﹁哲学﹂には決してならないのである。

 一般形而上学において全体を貫き統括する観点とは﹁有である限力で

の有﹂︵=有一般︶である。

 ︹二七︺ 以上は研究の観点︵Sにo︶と対象︵obiectum︶より哲学を科学

︵個別科学Einzelwissenschaft︶から区別し、哲学の探究観点と対象を

七五  西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

確定しようと試みたのであるが、次にわれわれは﹁実証的﹂︵positiv︶

という点から哲学を科学から区別してみよう。

 ﹁実証的﹂であることは、それが科学であるための必要不可欠の条件

である。なぜなら科学の理論は﹁実証﹂されてはじめて﹁真の﹂︵vera。

a?.Ti&>k︶知識となるからである。そこでわれわれは﹁実証する﹂︵r∼Fこ

と﹁真﹂︵verum。 czXtiBec︶とは何かを見なければならない。

 ﹁実証﹂の原理と方法を発見し導入した最初の人はすなわちアリスト

テレスである。実証的な学︵今日の科学︶は彼に始まる︹一西‰。

  ︹二八︺彼はこの自然世界すなわち宇宙万有のなかに存在するもの︵=

 自然物︶を﹁形相﹂と﹁質料﹂という一対の存在論的基礎概念で考察す

 る方途を初めて明確にした哲学者である。彼は、自然世界に内在する具

 体的な有︵すなわち個物︶を形相と質料に分析し、形相がその個物の本

。質であるとする。換言すれば、形相とはその個物をしてそのものたらし

 めyる差ころのそのものの原因︵aizia︶である剛・かかる形相にはそ

 の個物の構造や能力や機能等が包含されている。しかも形相自体は不変

 で常に一定である皿。 ’

  例えば﹁人間の形相﹂とはらの人間を人間たらしめているところの

 ﹁人間の本質﹂であって、そこには知性認識や理性推理や感覚や運動等

 の諸能力、諸機能、働き等々凡そ人間である限りのすべての人間が共通

 に持っているところのものを包含している。もしこれを欠くならば、そ

 れはもはや人間でなくなってしまうところのもの、これを﹁人間の形相﹂

 と言うのである。しかもこの形相は一定不変である。﹁人間の形相﹂が

 変化して、例えば﹁猿の形相﹂になったりすることはない。人間はどこ

 までも人間であり、人間以外に変化することはないからである。生成消

 滅︵つまり生誕と死︶の変化を蒙るのは肉体と結合した人間すなわち具

 体的な人間’︵=個物︶であって、﹁人間の形相﹂ではないのである皿。

(10)

七六  高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

 ︹二九︺’ところで﹁形相﹂は既述の︹二四︺﹁特殊の有﹂である。科学は

これを研究対象とするのである。われわれの知性はこのような形相を個

物から﹁抽出︵象︶する﹂ことができる。すなわちわれわれは同じよう

な自然物︵=個物︶を観察し、それらに共通するそれらの本質︵形相︶

を分析して帰納的にその本質︵形相︶を﹁抽象︵出︶する﹂ことができ

るのである。そしてその形相を定義し、説明し、かつ記述する。つまり

﹁抽出﹂し’た本質︵形相︶を言論︵ロゴス︶に固定するのであるso:こ

の言論は主語と述語を備えた命題︵文章︶の形をとる。現代科学では仮

説の理論に相当する。・      ‘ 。‘

 さて次・に問われることは、かかる言論︵=抽出された形相︶。は真であ

るか、それとも偽であ&か、。という問題である。換言すれば仮説的理論

 l   y       −  ■  I      Iの﹁検証﹂の問題である。  。 

 われわれの知性は、個物の形相を抽出し言論に固定する、すなわち理

論を作ることができるばかりではない。さらに進んでわれわれは言論に

記述された形相を元の個物に戻して、元の個物の有している形相と合致

しているか否かを確かめることができるのである。これは実験や観察と

いう仕方でなされる。抽出された形相が元の形相に合致している場合に

は、その言論︵命題・理論︶は﹁真﹂となる。もし両者が合致していな

ければ、その言論︵命題・理論︶は﹁偽﹂となる。すなわち言論が実在

するものに正確に対応していれば﹁真﹂となり、対応していなければ

﹁偽﹂となるのであるe。かかる﹁確かめ﹂︵検証︶の過程を﹁実証﹂と

言うのである。

 ︹言︺ このように命題乃至理論は実証されてはじめて﹁学知﹂乃至

﹁知識﹂こ昔鼠∼︶となる。そしてかかる仕方で形成される知識の総体

がいわゆる﹁実証的な学﹂︵positive Wissensclreft︶すなわち﹁実証科

学﹂となるのである。

 しかし右の実証の原理と方法には一つの前提が見られる。それは﹁有

は形相と質料に分析することができる﹂という有に対する一定の観方

−すなわち形而上学︵存在論︶−である。もしこのような分析を許

す哲学︵存在論︶がなかったとするならば、そもそも﹁実証﹂の原理は

存在せず、したがって実証的な学としての科学もまた存在することはで

きなかったはずである。

 ︹Ξ︺それゆえ哲学は実証科学と右の点で明確に区別されるのである。

哲学は実証科学ではない。またそれは科学の意味での実証性を有する学

でもない。‘哲学μ﹁実証主義﹂︵Positivismus︶ではないの‘である1哲

学は﹁貪証の原理﹂を発見し、これをしって拝学を創始したところの

  I I       II     I     `・”・   I゛r

﹁科学の生みの親なる学﹂‘である。、しかもかかる。﹁実証﹂という学的方

法は科学に対して﹁学﹂としての一定の確実性と真理性を保証している。

のである。そこから科学は、この方法を信頼して、自らの学的分野にお

いて、かかる方法を適用しつつ、その研究を自信と安堵をもって推進し

ていくことができるのである。

 その上、このような実証科学が成立しうる領域は、形相と質料に分析

することができるあらゆる有︵存在者︶にわたる。それゆえこの宇宙万

有において、我々にとって未知なるものが出現するとしても、それがも

し原則的に形相と質料という観点からの考察を許す存在者であれば、わ

れわれはその未知性の前にたじろぎ恐れる必要はないであろう。なぜな

らこの未知なるものも実証科学によって取扱われ得、そしてやがてこの

領域においてその本質︵形相︶をわれわれに顕わにしていくであろう

からである。

 ︹三︺ かかる仕方で哲学は今も実証科学の領域を拓きその成立を根

底から支えているのである。そしてその結果、未知なるものに対する本

(11)

能的なわれわれの恐怖を減じているのである。それゆえ形相と質料とい

う一対の概念の発見は今日においてもわれわれにとって測り知れない意

義を有一していると言っても過言ではないであろう。

 しかしながら形相・質料の理論はなるほど実証科学を拓く支点になっ

たと。は言え、有を考察する一つの観方にすぎないのである。ここに実証

科学が持つ一面性の本質的な原因がある。

 ︹量︺ さてここでわれわれは第二節を簡潔にまとめておこう。

 ︲ 哲学は知恵の探究である。それは如何なる知恵であるか。ヴィ

ンデルバントによれば、それは﹁世界と人生﹂の知恵である。世界の知

恵とは宇宙万有の理論的な知識を、人生の知恵とは人間の実践的な知識

︵人間の目的、幸福、善等の知識︶を意味している。︹一五︺−︹一七︺

 □ 哲学は理性的な﹁論理﹂による宇宙万有︵人間を含む︶の知識

の探究である。ゆえに哲学は論理︵loycK︶という点で神話や宗教、物

語や詩や劇等から明確に区別される。しかし論理という点からだけでは、

哲学は科学から区別することは困難である。それでは哲学を科学から区

別する点は何か。︹一八︺

 目 科学の学的領域は万有の一部分である。これに対して哲学のそ

れは万有の全体である。この学的領域という点で両者は区別される。︹一九︺

 四 科学は特殊の有を研究対象とする。換言すれば、有を一定の特

殊な観点から研究する。これに対して哲学は有一般を研究対象とする。

つまり哲学は有の持つ特殊性を捨象して﹁有である限りでの有﹂という

観点から有を探究する。このように対象と観点から両者は区別される。

七七  西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

︹ニ巳︱︹二四︺

 ㈲ ここから哲学は科学より抽象的となり、逆に科学は哲学より具

象的となる。さらに哲学は次元を異にしつつ科学全体を間接的に包含

する。︹一三︺

 内 個別科学を百科全書的に網羅しても、それは統一的観点乃至原

理を欠くゆえに、一個の学たる哲学にはならない。︹二六︺

 旧 実証科学はアリストテレスに始まる。彼は有を形相と質料に分

析する方途を発見した。われわれは有︵個物︶から形相を抽出し、そし

て次に、抽出された形相を元の個物の形相と比較して双方が一致するか

否かを確かめることができる。この﹁確かめ﹂を﹁実証﹂という。双方

が一致しておれば、知性は真なる知識︵学知︶を獲得することができる。

知識は実証されてはじめて一定の真理性と確実性を持つ。かかる学知全

体が実証科学であ&。︹二七︺−︹言︺

 ㈹ 哲学はそれ自体実証的な学ではない。哲学はむしろ﹁実証の原

理﹂を存在論において発見して、科学の領域を拓き、かっ科学を支え成

立させているところの、言わば﹁科学の親たる学﹂である。︹三一︺−︹昆︺

   第三節 哲学の根本的課題

 ︹三四︺ 哲学は宇宙万有の部分ではなく全体に関する知恵乃至知識であ

る。すでにわれわれは宇宙の全体を如何にして探究するかを見てきた。

すなわちわれわ’れは一般形而上学。︵存在論︶において万有の全体を取扱

うことができることをみてきたのである。一般形而上学においては、有

(12)

七八

高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

である限りでの有︵︹二四︺︶の構造、機能、働き、特性等々を明らかにし、

そして有の本性を明確にする。かくしてこの探究結果は万有の全体に妥

当する。

 それでは次に問われるべきことは﹁では有は何故かかる構造、機能、

働き等々を持つのか﹂、﹁このような有は如何にして成立するのか﹂とい

う課題である。換言すれば、﹁このような有が存在する根拠や原因は何

か﹂、﹁有の・根源や原理は何か﹂という課題である。

 かかる課題を探究する部門は﹁特殊形而上学﹂︵ヨetaphysica specialis︶

と言われる︹舌︺。

  ︹盃︺`特殊形而上学ぱ.一般形而上学よ力も一層根元。的に、宇宙万有の

 ︹三六︺ 哲学とはこのような根源・原理を理論的に探究しそして理解す

ることを第一の課題とする。しかしこれに尽きるものではない。哲学は

かかる根源・原理の理解をもって、その次に万有に還っていき万有を見

直し考察し直すのである。このようにして哲学は万有︵人間もその一部

分である︶とその根源に関する理論的な知識を形成する。かくして成立

する学知が、ヴィデンバントの言葉をかりるならば﹁世界観の学﹂であ

り﹁世界の知恵と人生の知恵﹂となる皿。

 右の意味で、哲学にとって、万有の根源の探究と理解は必須であり、

これなくしては宇宙万有全体の理解と知識の﹁統一性﹂︵Einhei巳は存

在しない。すなわち、これなくしては哲学そのものが本来の意味で︹一六︺、

成立しないのである。

 かくして哲学の根本的課題は﹁宇宙万有の根源の探究﹂となる。

 ︹一毛︺﹁万有の根源﹂はprincipium omnium ︵seu omnis︶。

CIPXTI tcbv

navTxov︷fi zou navzcK︸の訳語である。これはまた﹁万有の始源あるい

は原理﹂とも訳される。       ︿

・さて、ここで前述0 意味を僅つ﹁万有の根乱﹂ぱ古くから種々作名称

下にとらえられてきた。次にこれらの主な名称と訳語を見てみよう。

 これはcausa prima。 ri npwzri alzlaと言われ、第一原因と訳され

る。また§cヨ゛&?と言われ、﹁一者﹂乃至﹁□と訳される。ま

たlicヨ゛&召らStと言われ、﹁第一なるもの﹂と訳される。また

bonum。 to araOovと言われ、﹁善﹂と訳される。また’ finis。 TO ou evsKa

等と言われ﹁目的﹂と訳される。またov ouzoxと言われ﹁真実在﹂と訳

される。またDeus。 Qeocと言われ﹁神﹂と訳される。その他にも種々に

語られそれに応じて邦訳される。         ’

 ︹三八︺ 万有の根源は右の如く別名﹁神﹂と言われる。そこからこの根

源を探究する特殊形而上学は別名﹁神学﹂︵theologia。 dEoXoyLKij︶とも言

われる剛。

 ところで﹁神﹂・という名称についてその概念をもう少し明確にしてお

かねばならない。一般に神という名称は宗教に結び付けられて理解され

(13)

ている。。しかしながら哲学で論じる神は宗教上の神とひとまず区別しな

ければならない。なぜなら哲学と宗教は一定の関係を持っているが、原

理的に区別されるからである︵この区別については次節で言及する︶。

哲学上の神は既に見た如く︹呉︺︹一毛︺﹁宇宙万有の根源﹂を意味してい

る。そして宗教的な信仰という仕方によってではなくて、理性iXoroc︶

によって理論的かつ普遍的に研究される対象である。

 同様に﹁神学﹂も宗教上の神学と区別される。宗教上の神学は護教

︷andkoyta。 Apologie︸の・性格を根本的に有している。しかし哲学はか’

かる神学と区別される。哲学としての神学は哲学上の神を探究対象とし

て理論的かつ普遍的に探究される。そこには特定の宗教への信仰は直接的

には介入しない。そこからかかる神学は、宗教上の神学と区別されて、

﹁哲学的神学﹂︵theologia philophica︶と称される。あるいは啓示神学

︵theologia revelationis︶と区別されて﹁111然神学﹂︵theologia naturalis︶

と呼ばれるのである皿・

 ︹三九︺ さてここでわれわれは第三節を簡潔にまとめよう。

 ︲ 一般形而上学において﹁有とは何か﹂が探究される。その次に

﹁かかる有の根源は何か﹂が問われる。この課題を直接問うのが特殊形

而上学である。︹三四︺

 □ かかる根源を﹁宇宙万有の根源﹂と呼ぶ。これは万有に統一性

を与え、万有を成立させ、万有を根底から支えている原理である。特殊

形而上学はかかる根源を捉えることによって全体を理解しようとするの

である。かかる根源の探究が哲学の根本的課題である。︹曼︺︹三六︺

 目 この根源は、第一原因、一、善、目的、真実在、神等と称され

る。そこから特殊形而上学は﹁神学﹂と言われる。しかしこの学で探究

七九  西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

する神は宗教上の神ではなくて哲学上の神︵万有の根源︶である。また

哲学上の神を探究する神学は、宗教上の護教的な神学と区別されて、哲

学的神学あるいは自然神学と言われる。︹三七︺︹三八︺

   第四節 哲学と宗教の区別

 ︹四Ξ われわれは先に︵第二節︶ 一般形而上学の観点から哲学を科学

から区別した。次に特殊形而上学の観点から哲学を宗教から区別するこ

とを試みよう。

.宗教の目的は﹁魂の救済﹂である。そこで﹁魂とは何か﹂、﹁救済とは

何か﹂について順次問わねばならない。

 まずはじめに﹁宗教で問題とする魂とは何か﹂である。それは、端的

に言うならば、例えばアウグスティヌス、キルケゴールといった﹁個人

の魂﹂である。これは決してアリストテレ、スの﹃霊魂論﹄︵9∼IQ︶

で論じられているような﹁魂一般﹂ではない。しかしこれに対して哲学

が論及する魂はまさに﹁魂一般﹂である。・

 では﹁個人の魂﹂とは何か。それは余人をもってしては決して替える

ことのできない個的本性をもった具体者である。これに対して﹁魂一般﹂

とは、アウグスティヌス、キルケゴールといった個的本性を切り落し、

抽象化したところの、言わば、﹁魂である限りでの魂﹂とでも言うべき

﹁般者である。。そしてこれぱ肉体の﹁形相﹂である皿・

 また﹁個人の魂﹂とは喜怒哀楽、快苦、愛憎等々を感受するところの

生命のある具体的な存在者である。だがこれに対して﹁魂一般﹂とは右

の如き生命を抽象し、言わば標本化された普遍的な存在者である。

 さ盲にまた﹁個人の魂﹂とは宗教的、道徳的、法律的な﹁罪と罰﹂を

受ける主体︵Subjekt︶である。しかしこれに対して﹁魂一般﹂とはか

(14)

八〇  高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

かる主体とはなり得ない。

 またそればかりではない。﹁個人の魂﹂は相互に主体的な仕方で、言

わば我と汝という仕方で個的に関係し合い了解し合う存在者である。

しかし﹁魂一般﹂はそうではなくて理論的、客観的かつ第三者的な仕方

でヽ理解されるべきものである。

 したがって次のように言えるであろう。宗教が問題とする魂は﹁個人

の魂﹂︵﹁個的霊魂﹂︶である。しかし哲学が探究対象とする魂は﹁魂一

般﹂︵﹁普遍的霊魂﹂︶である。それゆえ哲学は対象︵霊魂︶を扱う観点

より宗教から区別される。ここに哲学を宗教から区別するひとっの原理

力ある  ”       ≒・    ”

 ︹四一︺ 次に今宗教上の救済とは何か﹂について見なければならない。

救済︵ZE︶とは苦の状態にある魂を楽の状態に移すことを言う。換言

すれば魂を悪︵不幸︶の状態から善︵幸福︶の状態へ移すことを指す。

 ところで悪によって苦しんでいる魂は普遍的霊魂ではなくて個的霊魂

である。なぜなら前述の如く、苦しみや痛みを感じるのは生命のある個

的霊魂であって、抽象的な霊魂一般には痛みや苦しみを現実に感受する

ことはないからである。したがって﹁救済﹂の対象は普遍的霊魂ではな

くて、あくまでも個的霊魂つまり個人の魂である。

 一般的に言って、哲学によって直接的に救済されるということは困難

であろう。なぜなら、魂の善や悪、快や苦、幸や不幸等々を普遍的に、

学的に考察し分析しそれらの有様を一般的な仕方で理解したとしても、

理解した当の魂が悪や苦や不幸から脱出することは極めて困難だからで

ある。丁度それは胃潰瘍で苦しんでいる患者に胃潰瘍の原理論と治療理

論の講義を医学界の大学者がどれ程解り易くやりかつ患者がどれ程よく

理解したとしても、患者の苦痛が治らないのと同様である。

 ﹁救済﹂とは思弁的乃至理論的知識ではなく、またさらに実践的知識

でもなくて、現実の行為︵wirklicher Akt︶でなくてはならない。現実

の行為は具体的である。すなわち個的である。それゆえ﹁救済﹂とは極

めて﹁個的な行為﹂であると言うことができる`o

 右の意味の救済を第一の目的とするか否かによって宗教と哲学は区別

される。これが哲学を宗教から区別する第二の原理である。

 ︹四二︺ 次に﹁神﹂について見なければならない。宗教上の神は魂を救

済へ導く意図を持つとされている。そしてかかる神と魂の間には先ず第

 一に﹁我と汝﹂の主体的関係、すなわち人格関係が存在する。かかる関

係は極めて直接的でありかっ個的である。’魂はその全体を投入して神を

目指す。このためには哲学的知識は必ずしも必要ではない。いやむしろ不

凄とさえされる場合もある。これが宗教的信仰者’のひとつの原型である。

 これに対して哲学上の神は魂を救済へ導く意図等は有しない。この神

は宇宙万有の窮極の根源として充足して自存している。この神は他を一

切必要とせず、人間を含む宇宙万有にさえ本来的には関心も興味も持っ

てはいないのである皿。しかしながらかかる哲学上の神は理性︵理知・

知性︶によって探究されうる。かかる神に関する理論的な知識が特殊形

而上学を形成しているのである。

  このように、神をみる観点から哲学は宗教から区別される。これが哲

学を宗教から区別する第三の原理である。

 ︹四三︺ さて第四節をまとめよう。宗教とは、個的な魂を救済という個

的な行為の成就に向ける一種の活動である。しかも宗教上の神と魂の関

係も個的関係なのである。すなわち宗教とは﹁個﹂︵TO 0£ zi。 singlarium︶

にかかわる。

 これに対して哲学は個的性格を捨象した普遍者を探究する。普遍者の

探究は﹁学的探究﹂の原則である。学が一般に理性︵理知・知性︶によ

(15)

り普遍を扱うのは、理性︵理知・知性︶が捉えることができるものは

﹁個﹂ではなくて﹁普遍﹂︷koBoXou。 universale︸だからである。すなわ

ち哲学とは﹁普遍﹂にかかわる。

 右の点で哲学は宗教と原理的に区別されると結論することができるで

あろう。

   第五節 哲学とは何か

 ︹四四︺ われわれはすでに哲学を科学と宗教から区別する原理・原則を

検討し、哲学独自の学的領域や観点また方法を確かめると共にまた哲学

の性格を明らかにしてきた。そこで以上をふまえて﹁哲学とは何か﹂に

ついて問い直さなければならない。そのために過去の哲学者達が哲学につ

いて語っているところを若干顧ることにしよう。

 古代ギリシアにおける最初の哲学史家であると共に体系的哲学者アリ

ストテレス︵Aristoteles。 384-322 B. C. ︶は哲学についてこう述べて

いる。﹁諸学のうちで最も王者的であり、いずれの隷属的な学よりも一

層著しく王者的であるのは、各々の事物がなにのために︹なにを目的と

して︺なされるべきかを知っているところの学である。そしてこの目的

は、その各々においてはそれぞれの善であり、全般的には自然全体にお

ける最高善である。さて、上述のすべてからして、われわれの求めてい

るもの︹知恵︺の名前は、まさにこの同じ学に与えられる。すなわちそ

れは、第一の根源や原因を研究する理論的な学であらねばならない。と

いうのは、善といい目的というのも原因の一つだからである。。﹂叫

 彼によると哲学は﹁第一の根源や原因﹂を探究対象としており、この

対象はごt’∼∼︶﹂であるとされるo‘

ノか

西洋哲学史研究序説︵一︶ ︵岡崎︶

 ︹四五︺ 西洋中世における体系的哲学者トマスーアクィナス︵Thomas

Aquinas。 1225-1275︶は哲学についてこう述べている。﹁哲学全体の考

察は神を認識することに秩序づけられている。﹂そしてこの神について

さらに

こう述べている。﹁神は諸事物の根源でありかつ諸事物の目的で

あるo﹂而

 ︹四六︺ 西洋近世における体系的哲学者ヘーゲルCGeorg Wilhelm

Friedrich Hegel。 1770-1831︶は哲学についてこう述べている。﹁哲学

の目的はこの唯一の真理を認識することである。しかしこの唯一の真理

は同時にそこからすべての他Cじの、自然の全法則、生命と意識の全現

象が流れ出る源泉としてあり、これらはこの唯一の真理の反映にすぎな

いのである。言いかえると哲学の目的は、これらの全法則と全現象をか

の唯一の源泉から概念的に把握するために、すなわちこれらのものの由

来をそこから概念的に把握するために、これら

の全法則と全現象を外観

上逆の途において、かの唯一の源泉に還元することである皿。﹂

 右で言われていることは、︲︷于宙万有の根源は唯一の真理︵Eine

Wahrheit︶乃至唯一の源泉︵Eine Quelle︶である。□万有はこの源泉

より流れ出る。目哲学はこの唯一の真理を認識し、かつこの真理︵源

泉︶から万有を把握するための学である。

 ︹四七︺ さて以上からわれわれは﹁哲学とは何か﹂について、ひとまず、

こう結論することができるであろう。哲学は、まずはじめに万有の根源

に向かって理解を延ばしこれを理解し、そしてその次にかかる理解をもっ

て万有に還りこれを理解し直すのである。このような理解の理論的知識

全体が哲学であると言えよう。ヴィンデルバントの言う﹁世界と人生﹂

の知恵とは、根源の理解から探究された万有に関する知識に外ならな

い︹三六︺。

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