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特集「文芸公共圏」への導入

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 われわれは公共的なものの価値が問われつづける時代に生きている。先進国と呼ばれ る多くの国々で政治の関心が国民的な単位へと内向的に委縮し,公的な場における言葉 の軽視と空転が断罪を免れるための常套手段として甘受され,近代法治国家を支える公 開性の原則が大きく揺らぎつつある一方で,住民投票や社会運動というかたちをとっ て,市民のあいだで広く共有された利害や意思を可視化しようとする流れもまた強まっ ている。人々の共通の関心が形成され表現される場として,公共的な空間の持つ重要性 が近年ますます高まっていることは間違いない。  共通の関心をめぐって対等な立場でおこなわれる言論のための,一般的な参加に開か れた空間,すなわち「公共圏(Öffentlichkeit)」1)という社会的カテゴリーをめぐっては, 20世紀後半から現在にいたるまで活発な議論がおこなわれてきた。その火付け役となっ たのは,周知のとおりユルゲン・ハーバーマスの初期の主著『公共圏の構造転換』(1962) (以下,『構造転換』と略記)である。西欧史において,文学市場の急激な拡大と読者人 口の大幅な増大とによって特徴づけられる18世紀は,多様な言説が書物を介して広範 な人々のあいだに流通し,そこから集合的な気分や意見が大規模に醸成されていく可能 性が開花したという点で,まさしく現代の情報化社会の前段ともいうべき革命的変化を 経験した時代であ った。 こうして成立した新たな社会空間の総体を「市民公共圏 (bürgerliche Öffentlichkeit)」と呼び,その歴史的変遷を跡づけたのが同書である。  ハーバーマスによれば,17世紀以降,とくに18世紀のイギリスとフランスにおいて, 重商主義政策との対決・交渉を通じてみずからの経済的な利害を主張しはじめた私人た ちのなかから,「市民階級(Bürgerliche)」という新たな社会層が成立してくる。国家と 社会の緊張関係のもとで彼らはしだいに政治的な役割を引き受けるようになるが,ハー バーマスのテーゼによれば,その過程で重要な役割を果たしたのが読書という行為であ る。近代的な新聞の原型が17世紀に登場して以来,その受容者として徐々に成立する にいたった「公衆」という名の私人たちからなる圏域は,まず「公共的論議の訓練場」 として,コーヒーハウスやサロン,会食クラブといった諸制度のなかで「文芸公共圏 1) 「Öffentlichkeit」には「公共性」という訳語もあるが,本導入ではこの術語を社会的な空 間概念を表すものととらえる立場に立って,基本的にはこれを「公共圏」と訳している。花田 達朗:公共圏という名の社会空間─公共圏,メディア,市民社会(木鐸社)1996の,とくに 第1章・第5章を参照。なお,本特集全体では訳語の統一は図っておらず,それぞれの論考の 力点の違いによって適宜訳し分けがなされていることを断っておく。

特集 文芸公共圏 への導入

西  尾  宇  広

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(literarische Öffentlichkeit)」を形成した。公権力からの干渉を受けずにおこなわれる私 的で自由な経済的・文化的活動のなかに,換言すれば,国家と家族の中間領域4 4 4 4 4 4 4 4 4 4に形成さ れる私的に自律した圏域のなかに,近代に特有の公共性が生じたのだ。この一見錯綜し た構図において,その新たな公共圏に参入するために求められた資格とは,あらゆる社 会的属性を取り払われた「人間」としての「市民」という(矛盾と虚構を孕んだ)当事 者たちの自覚であり,それは「自由」と「愛」と「教養」によって構成された「人間性 (Humanität)」の理念にほかならない。さらに,その理念に現実的な意味を充塡するた めの経験の源泉となったのが,「小家族的な親密性の領域」で営まれる情愛に満ちた人 間関係と,そこに由来する「主体性」であった。文学や芸術についての議論が交わされ るこの「文芸公共圏」から,やがて政治的な「世論(öffentliche Meinung)」を形成す る「政治公共圏(politische Öffentlichkeit)」が発展すると,理性的な法によって君主の 恣意による伝統的支配を解体し,政治的な意思決定の過程に私人みずからが関与すると いう展望が,「公開性の原理」の旗印のもとに大きく切り開かれていく。ところが,そ うした啓蒙主義時代の「文化を論議する公衆」が,19世紀の資本主義の進展にともなっ て「文化を消費する公衆」へとしだいに変質・ 落したことで,かつての公共圏の批判 的機能は失われたとされている。2)  とりわけ1989年に『構造転換』の英訳版が刊行されて以来,ハーバーマスのテーゼ は幅広い学問分野で絶え間のない注目を集めることとなった。しかし,社会科学の分野 における公共圏論では,しばしば前述の二つの公共圏モデルのうち「政治公共圏」だけ が焦点となり,「文芸公共圏」は等閑視されてしまうことが多い。1990年代以降,欧米 に劣らず「公共圏」をめぐる議論が活発におこなわれてきた日本においても,それは顕 著な傾向となっている(最近の例では,たとえば2019年の3月号と4月号で「公共」 をテーマとする大々的な特集が組まれた『思想』誌においても,「文芸公共圏」を取り 上げた論考は皆無だった)。  だが,こと人文学にとってはその後者の観点,すなわち公共圏のなかで広義の文学が 果たす役割もまた,重要な論点をなしている。この主題において含意されているのは, 近代の公共圏が出版文化(郵便制度の普及と定期刊行物の隆盛)を前提として成立した という歴史的事情だけではない。すでに示唆したとおり,ハーバーマスが想定する「文 芸公共圏」とは,「感情移入する読者」が物語に描かれた「虚構の親密性」と日常生活 のなかでみずから経験する「現実の親密性」とを照らし合わせ,それについて他者と議 論を交わすことで,「政治公共圏」に参入するために必要な市民的主体性を反省的に涵 養する場なのである。3『構造転換』ではこうした「文芸公共圏」の機能が,一種の「媒

2) Jürgen Habermas: Strukturwandel der Öffentlichkeit. Untersuchungen zu einer Kategorie der bürgerlichen

Gesellschaft. Mit einem Vorwort zur Neuauflage. Frankfurt am Main (Suhrkamp) 1990.〔ユルゲン・ ハーバーマス(細谷貞雄/山田正行訳):[第2版]公共性の構造転換─市民社会の一カテゴ リーについての探究(未來社)1994。〕

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介」として特徴づけられていることからもわかるとおり,当該の二つの公共圏モデルの 関係は,互いに異なる二つの段階として素朴に峻別できるほど単純なものではない。ハー バーマスにおける「文芸公共圏」が,親密圏の経験と結びつく固有の圏域でありつつ も,潜在的にはつねに政治的な意見形成へと通じる突破口として構想されていること を,ここでは強調しておこう。  本特集は,以上の前提を踏まえたうえで,理論的かつ歴史的な視座から「文芸公共 圏」という主題に新たな光をあて,それによって現在のわれわれが置かれている状況を 照らし返すことを目的として組まれたものである。ここではおもに二つの観点から,本 特集が論究する問題の輪郭を素描しておきたい。  第一に,フィクションとしての文学が公共圏の物質的条件のみならず,その参加者の 精神的要件にも深くかかわっているというハーバーマスの見通しには,文学を社会的現 実のたんなる反映物ではなく,社会秩序にとって構成的な機能を果たすメディアとして とらえる視点が胚胎している。実際,啓蒙主義時代の雑誌にしばしば設けられた投書欄 では,読者から寄せられた(架空の)手紙にもとづいて,誌面を舞台に読者と作者(な いし編集者)とのあいだで交わされる対話が仮想的に演出されることも珍しくなく,ま たフランスの文筆家ヴォルテールは,ジャン・カラスという一市民をめぐる有名な 罪 事件にさいし,無実の罪で処刑されたその被告を擁護するため,遺族の手紙と称する真 贋不明の書簡を公開することで,世論の喚起に努めたのだった。4)こうした経緯からは, 近代的な公共圏の黎明期において,公共の議論を実現するためにある種の〈虚構性〉に よる媒介が必要とされていた事情が窺われよう。同じく啓蒙主義の時代に端を発する 「公開性」や「出版自由」を求める要請が,正確な「情報」すなわち〈真実〉への要求 と表裏をなすものであったことに鑑みれば,5)この点はきわめて興味深い。  このような〈虚構性〉と公共圏の一見したところ逆説的とも映る関係が,とくに現代 のわれわれにとっては「フェイクニュース」や「ポスト真実」といった標語のもとに, 新たなアクチュアリティを獲得していることは言を俟たない。だが,たとえば20世紀 のメディア研究がもともと「正しいメッセージ内容」ではなく「効果的なメッセージ伝 達」に照準を合わせて成立した学問であったように,6)現代にかぎらずそもそも近代の公 共圏の発展においては,〈真実〉以上に〈虚構性〉こそが重要なファクターになってい たとも考えられる。そうであるとすれば,「文芸公共圏」という主題の持つ射程の大き さはあらためて認識される必要があるだろう。虚構の(あるいは虚実の定かならざる)

4) Russel A. Bermann/Peter Uwe Hohendahl/Karen J. Kenkel/Arthur Strum: Öffentlichkeit/ Publikum. In: Ästhetische Grundbegriffe. Historisches Wörterbuch in sieben Bänden. Bd. 4. Hrsg. von Karlheinz Barck, Martin Fontius, Dieter Schlenstedt, Burkhart Steinwachs, Friedrich Wolfzettel. Stuttgart/ Weimar (Metzler) 2002, S. 583-637, bes. S. 588f. und 594.

5) Jörg Requate: Journalismus als Beruf. Entstehung und Entwicklung des Journalistenberufs im 19. Jahrhundert.

Deutschland im internationalen Vergleich. Göttingen (Vandenhoeck & Ruprecht) 1995, S. 120ff.

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内容を媒介するメディアとしての文学が,さまざまな歴史的状況下において同時代の公 共圏の形成にどのように寄与し,またそれをいかに変形してきたのかという問いは,公 共圏一般を考察するうえでも欠かすことのできない必須の検討課題となるはずだ。  第二の観点は,ハーバーマスの公共圏論自体に対する批判的な取り組みである。『構 造転換』は,過去50年間の「ドイツの学問史において,おそらくもっとも多く議論さ れ,かつもっとも的確に論駁されてきた教授資格論文」7)と称されるほどに,実際その 刊行以来さまざまな分野の研究者によって,多くの批判的検証が重ねられてきた。8) 連の批判の要諦は,ハーバーマスが特定の社会集団(市民男性)をその担い手とする 「市民公共圏」という特殊歴史的なカテゴリーを理想化し,そこに規範的地位を与えて しまった点に集約されよう。それによって,たとえば「女性」や「民衆」ないし「労働 者」から構成される複数の非同質的な公共圏が存在する可能性は,あらかじめ否定され ることになるからだ。それだけではない。ヘーゲルの枠組みにしたがって国家と社会の 分離を前提とし,市民社会の本来的な自律性を強調してしまうその議論構成において は,近代の公共圏が国民国家の成立と並行して(ある種の協働関係のうちに)発展して きたという歴史的経緯の持つ重要性,あるいは言語と文化の同質性を基盤とする公共圏 がネイションと重なって「想像の共同体」を帰結する可能性が,9)得てして見過ごされ てしまう。政治・経済・文化のあらゆる領域でグローバル化が急速に進展した19世紀 以降の歴史的状況,とりわけ移民や難民という境遇がいまや決して例外的な生存条件で はなくなっている現代の政治的文脈を踏まえるとき,こうした視点をまったく抜きにし て公共圏を語ることはもはやできまい。  ハーバーマスの理論的視界からは排除されている多元的な公共圏の可能性をあらため て想定することで,「文化を論議する公衆」から「文化を消費する公衆」へと向かうそ の単線的な公共圏衰退史観は,大幅な修正を迫られることになるだろう。すでに挙げた 第一の観点に照らすなら,こうした複数の公共圏モデルを構想するうえで,文学こそは すぐれて有効な参照点となるはずである。それは,文学と公共圏の関係にかんするハー バーマスの視野狭窄を,いわばその内部から4 4 4 4 4 4拡張していく試みにほかならない。いうま でもなく,文学が読者の主体化を促す回路とは,彼が指摘するような「感情移入」だけ

7) Volker Gerhardt: Öffentlichkeit. Die politische Form des Bewusstseins. München (Beck) 2012, S. 225. 8) Vgl. z. B. Craig Calhoun (Hrsg.): Habermas and the Public Sphere. Cambridge, Mass./London, England (MIT Press) 1992〔抄訳として,クレイグ・キャルホーン(編)(山本啓/新田滋訳): ハーバマスと公共圏(未來社)1999〕; Gerald Raunig/Ulf Wuggenig (Hrsg.): Publicum. Theorien der

Öffentlichkeit. Wien (Turia + Kant) 2005; Andreas Gestrich: The Public Sphere and the Habermas

Debate. In: German History. The Journal of the German History Society 24, 3 (2006), S. 413-430; Nancy Fraser (Übers. von Nikolaus Gramm): Theorie der Öffentlichkeit – Strukturwandel der Öffentlichkeit (1961). In: Hauke Brunkhorst/Regina Kreide/Cristina Lafont (Hrsg.): Habermas-Handbuch. Stuttgart/ Weimar (Metzler) 2009, S. 148-155.

9) ベネディクト・アンダーソン(白石隆/白石さや訳):[定本]想像の共同体─ナショナ リズムの起源と流行(書籍工房早山)2007。

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にかぎらないし,そこで構築される主体の内実もまったく一様なものではない。そこか ら生まれる公共圏は,必然的に4 4 4 4多元的なものとならざるをえないのだ。「文芸公共圏」を めぐる問いは,公共圏論そのものに画期をもたらすような無数の可能性を秘めた人跡未 踏の豊穣な領野なのである。 ***  本特集に寄せられたのは,中世から現代にいたるさまざまな時代の具体的事例にもと づいて,それぞれの分析視角から上述の問題圏への接近を試みた9本の論考である。い ずれの論者も,ハーバーマスのテーゼに批判的に取り組む姿勢を唯一の共通項としつ つ,それ以外の点では方法も関心も大きく異なる議論を展開しており,当然のことなが ら,当該の問題圏にかかわる論点がここですべて網羅されているわけではない。にもか かわらず,考察対象の時系列にしたがって配されたその一連の論考は,結果として,そ れ自体がドイツ語圏における「文芸公共圏」のひとつの4 4 4 4歴史を浮かび上がらせるものと なっている。10)以下では,各論考の内容を概観しながら,「文芸公共圏」が ったその歴 史的な道のりを跡づけてみたい。  公共圏論の本来の草分けであるハンナ・アーレントの『人間の条件』(1958)の作法 にならって,古代における公私領域の区分を出発点として書き起こされた『構造転換』 が,それにつづく中世の封建社会のなかに,「私的圏域からは区別された独自の領域と しての公共圏」の存在を認めなかったことは,よく知られている(代わりにそこで確認 されるのは,王侯貴族や聖職者たちが自身の支配権を威光とともに顕示する「代表具現 の公共性(repräsentative Öffentlichkeit)」であった)。長年にわたって暗黙のうちに支 持されてきたハーバーマスのこの仮説は,しかし,近年の中世研究によってしだいに反 駁されつつあり,いまでは「西ヨーロッパのキリスト教圏でさまざまな新しい形の公共 性が基礎づけられた」こと,それどころか「キリスト教独自の宗教性と教会主義のなか に,中世にとどまらないそれ以降の時代の公共性の本質的な基盤と発展がある」という 大胆な主張が掲げられるまでにいたっている。11)

 片山由有子の ‚Kritische Öffentlichkeit im Mittelalter? Das Fallbeispiel der Mystikerinnen Margaretha Ebner, Hildegard von Bingen und Mechthild von Magdeburg‘は,この開拓途 上の主題圏に挑発的な問題提起によって切り込んでみせる。そこで追究されるのは,ハー バーマスが近代4 4の男性4 4によって担われるものと考えた公共圏4 4 4に対し,中世4 4の女性4 4が記録 した神秘思想4 4 4 4の言説の受容圏のなかに残されている別種の公共性の可能性なのだ。教会 10) 本特集の展望を補足する議論として,ドイツ語圏における(文芸)公共圏の展開を通史 的に記述した研究のうち,代表的なものを挙げておく。Vgl. Bermann/Hohendahl/Kenkel/Strum (wie Anm. 4); Peter Uwe Hohendahl (Hrsg.): Öffentlichkeit – Geschichte eines kritischen Begriffs. Stuttgart /Weimar (Metzler) 2000; Jürgen Schiewe: Öffentlichkeit. Entstehung und Wandel in Deutschland. Paderborn/ München/Wien/Zürich (Schöningh) 2004.

11) アルフレート・ハーファーカンプ(北嶋裕訳):「大鐘を鳴らして知らしめる」─中世の 公共性について[同(大貫俊夫/江川由布子/北嶋裕編訳,井上周平/古川誠之訳)『中世共同 体論─ヨーロッパ社会の都市・共同体・ユダヤ人』(柏書房)2018,151∼204頁],164頁。

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の男性聖職者たちが占める権力機構の中枢からは遠ざけられ,不安定であやうい周縁的 な立場へと追いやられていた三人の女性神秘家の言葉が,いったいどのようにして生ま れ,そして公共的と呼びうる規模で伝播していったのか,本論文ではその実情が,現代 の社会学の知見(ニクラス・ルーマンの観察理論)の慎重な援用によって分析される。 それは,そもそも宗教を公共圏の埒外の案件ととらえるハーバーマスの自由主義的な立 場に対し,12)彼が過小評価したジェンダーの視点を交えて根本的な批判を企てる果断な 試みだ。  前近代の歴史のなかにオルタナティヴな公共圏モデルを探求する,研究史的に見て新 しいこうした目論見と比べたとき,これより時代を下った18世紀の公共圏をめぐって は,すでに相当の学術的議論の蓄積がある。その層の厚い分野で新たな論点の発掘に挑 んでいるのが,菅利恵の「市民,人間,世界市民─ヴィーラントのコスモポリタニズ ムと市民的公共圏」である。公共圏に参入するための「主体化」の原資として,ハー バーマスは親密圏における情緒的な経験に着目したが,菅は18世紀後半に広く流布し た「コスモポリタニズム」の思想によって提示される人間像のなかに,当時の公共圏を 支えたもうひとつの基盤を見出している。この思想を代表する文学者クリストフ・マル ティン・ヴィーラントは,特定の政治的共同体の一員たる「市民」というあり方から距 離をとり,自由な「対話」にもとづく「批判性」の実現をめざす言論活動を実践した。 市民公共圏に代わる〈コスモポリタン公共圏〉とも形容しうるようなその構想には,ト ランスナショナルな公共圏への要請がますます高まる現代へと通じるアクチュアリティ が認められよう。  つづく二藤拓人の「1800年頃の文芸公共圏における断章の変遷─フリードリヒ・ シュレーゲルを手掛かりにしたメディア文化史的考察」では,初期ロマン派において先 鋭的に理論化された「断章/断片(Fragment)」の構想が,18世紀に隆盛した書簡文化 や世紀後半における「断章」という文芸ジャンルの流行を背景に,当時の文芸公共圏を 特徴づけるひとつの「文化現象」として描き出される。この世紀転換期にドイツ語圏の 文芸公共圏が直面していたのは,旧来の身分秩序を侵犯する規模で急激に拡大していく 巨大な読者層を前にして(「読書革命」),文学のあり方が「娯楽文学」と「芸術の自律 性(Kunstautonomie)」の理念のあいだで両極分解をきたしていく事態にほかならな い。13)本論文では,この大きな歴史的過程が「断章」という現象を定点として,シュレー ゲルの言語実践の変容という具体的事例に即しつつ,さらにロマン主義研究では得てし 12) こうした姿勢は,現代の世界情勢に応じて公共圏への「宗教」の包摂を論じるようになっ た近年の彼の思考においても,いまだ根強いように思われる。ユルゲン・ハーバーマス/チャー ルズ・テイラー/ジュディス・バトラー/コーネル・ウェスト/クレイグ・カルフーン(エドゥ アルド・メンディエッタ/ジョナサン・ヴァンアントワーペン編,箱田徹/金城美幸訳):公共 圏に挑戦する宗教─ポスト世俗化時代における共棲のために(岩波書店)2014参照。

13) Vgl. z. B. Christa Bürger/Peter Bürger/Jochen Schulte-Sasse (Hrsg.): Aufklärung und literarische

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て看過されやすいメディア史的な観点から記述され,ハーバーマスの市民公共圏におい て想定されているのとは別種の読書行為モデルに準拠した文芸公共圏のあり方が示唆さ れている。  こうしたロマン主義の経験とともに幕を開ける19世紀には,ドイツ語圏の文芸公共 圏をめぐる状況がふたたび大きく転回する。ウィーン会議後のいわゆる「三月前期 (Vormärz)」において強力な検閲体制が布かれた結果,ハイネやグツコーに代表される 「若きドイツ」派の作家たちが,亡命先で,もしくは法の網目をかいくぐるかたちで,反 体制的な論陣を張る一方で,現実政治からは距離をとって小市民的な生活世界を描く 「ビーダーマイヤー」の潮流が同じくひとつの主流をなしたことにより,1800年頃とは 異なる意味での分裂状態が生じるからだ。  磯崎康太郎の「不自由な時代のフマニテート─シュティフター,シュミットにおけ る文学の公的課題」は,一般にその後者の流れに数えられるアーダルベルト・シュティ フターと,1848年の三月革命によって区切られる「三月後期(Nachmärz)」に台頭し た「リアリズム」文学の代表的論客ユリアン・シュミットを相関的にとらえつつ,19世 紀後半における文芸公共圏と政治公共圏の合流と反発の局面を浮き彫りにしている。革 命後の文学のあり方をめぐって対立するこの二人の文学者は,にもかかわらず,ともに 18世紀以来の「人間性」の理念のなかに新たな政治的可能性を求める点で,共通の精 神史的脈絡に立っていた。ハーバーマスが「文化を論議する公衆」の後退期として語る 19世紀後半において,それに抗する試みが作家個人の党派性を問わずに見られたこと は,注目に値する事実だろう。こうした指摘は,近年にわかに再検討の機運が高まる19 世紀後半の文芸公共圏をめぐる最新の研究動向に照らしても意義深い。14)  ともあれ,結局は彼らの試みが試みのままに終わったという厳然たる事実のなかには, やがて到来する大衆社会の現実がすでに予感されてもいる。資本主義の進展につれて新 聞や雑誌といった公共圏を支える基幹メディアが商業化され,しだいにその自律性を失 うと,ジャーナリズムは世論を媒介する4 4 4 4という控えめな役割には飽き足らず,公衆の論 議を操作する4 4 4 4マスメディアへと成り上がってゆく。20世紀初頭に進行したこうした事 態を,ハーバーマス自身は「公共圏の再封建化」と呼んでいた。そこでは商品提供者 (国家)がさながら中世の「代表具現の公共性」のような威光を纏って,消費者(国民) に対する宣伝活動に明け暮れるようになるからだ。  一般にメディア史的な観点から論じられることの多いこの歴史的な局面を,同時代の 文芸公共圏そのものの「再封建化」としてとらえ直したのが,稲葉瑛志の「作者と権威 ─「再現前的公共圏」の復権とユンガー『鋼鉄の嵐のなかで』」である。第一次世界 大戦に従軍したエルンスト・ユンガーは,自身の戦場日記をもとに 作したその出世作 において,さまざまな修辞的戦略を駆使しつつ,大戦後のヴァイマル共和国で流布した

14) Vgl. z. B. Katja Mellmann/Jesko Reiling (Hrsg.): Vergessene Konstellationen literarischer Öffentlichkeit

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「前線の秘密」の言説を梃子に,戦場の「真実」を特権的に語ることのできる「作者」 という「権威」の確立に成功した。党派的には革命的ナショナリストに分類される彼の 著作は,イデオロギー的に限定された受容圏をはるかに越える広範な読者層(共産主義 者から反戦文学の旗手レマルクにいたるまで)の支持を獲得するのだ。このとき 出さ れた権威主義的かつ開かれた圏域は,機能不全に陥る議会主義に代わって「再現前 (Repräsentation)」の政治の復権を唱えた公法学者カール・シュミットの用語を借りて 「再現前的公共圏(repräsentative Öffentlichkeit)」と形容されている。  こうした1920年代の事態と並行して登場したラジオというニューメディア,さらに はデモや祝祭といった街頭公共圏の経験に媒介されながら,ドイツ社会はいよいよナチ ズムの総動員体制へ,すなわち「ファシスト的公共性」へと突き進んでいく。15)伊藤白 の「ナチス時代の「レッシングの図書館」─ヴォルフェンビュッテル・アウグスト公 爵図書館は他者に寛容な公共圏を生み出したか」では,「図書館」という公共圏を支え る重要な一制度を観測点に,第三帝国下の公共圏の閉塞状況が立体的に描き出される。 啓蒙主義の文筆家ゴットホルト・エフライム・レッシングが館長を務めたことで知られ る北ドイツの図書館において,1927年から48年まで館長の任にあったヴィルヘルム・ ヘルゼは,ナチス政権に従順な態度を示しながらも,政府の検閲から蔵書を守る振舞い を一度ならず見せていた。それを「政治的に動機づけられた抵抗運動」と素朴に評価す ることはできないと断ったうえで,伊藤はレッシングの「寛容」の精神を称揚したヘル ゼの論考を繙きながら,そもそも対抗的な公共圏を組織する見込みがかぎりなく乏し かった全体主義体制下において,その18世紀の先達の「後継者」を自任するヘルゼが 響かせた「かすかな雑音」を聴き取ろうと試みる。  つづく竹岡健一の「「公共圏の解体」とブッククラブ」は,同じく制度的な観点から, 第二次世界大戦後のドイツ社会における文芸公共圏の実情に光をあてる。ここでいう 「ブッククラブ(Buchgemeinschaft)」とは,ドイツにおいては第一次世界大戦後に急速 に普及したとされる通信販売型の書籍事業であり,その発展をまさに同時代的に経験し ていたハーバーマスは,『構造転換』においてヴォルフガング・カイザーの議論に依拠 しつつ,それが読書を通じたコミュニケーションの圏域を書籍業者と顧客の関係に切り 詰めてしまうという診断を下していた。戦後の「公共圏の解体」を示す実例としてブック クラブをとらえるこの否定的な評価に対し,竹岡はその後の社会史的な書籍研究の成果 を渉猟しながら,ブッククラブがむしろ会員の積極的な読書姿勢を涵養し,公共的論議 の活性化をもたらす可能性を有していたことを説得的に論じている。19世紀末以降,公 共圏の主体が「読書する市民」から「感受する大衆」へ変容したと見るならば,16)本論 文の議論は,いうなれば〈読書する大衆〉というさらに異なる主体モデルを示唆するも 15) 佐藤卓己:ファシスト的公共性─非自由主義モデルの系譜[同『ファシスト的公共性 ─総力戦体制のメディア学』(岩波書店)2018,33∼65頁]参照。 16) 佐藤卓己:[増補]大衆宣伝の神話─マルクスからヒトラーへのメディア史(ちくま学 芸文庫)2014の第3章章題より借用した。

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のとして興味深い。  残る2本の論考は,いずれも『構造転換』以後に発表されたテクストを扱う点で,よ り直接的に現代の文芸公共圏をめぐる状況を焦点化するものとなっている。  竹峰義和の「暗い時代のカタツムリ─アレクサンダー・クルーゲのレッシング賞受 賞演説における〈文芸公共圏〉の理念」は,ハーバーマスの公共圏論批判の嚆矢となっ た社会哲学者オスカー・ネークトとの共著『公共圏と経験』(1972)において,「プロレ タリア公共圏(proletarische Öffentlichkeit)」の概念を提唱した映像作家・思想家であ るクルーゲの「文芸公共圏」論に光をあてる。1990年におこなわれたレッシング賞受 賞記念の講演のなかで,彼は公共圏と親密圏を媒介する現代的な理路を構想し,その媒 介の契機を「詩学」,つまり「文芸作品」に求めた。本論文では,クルーゲによって「触 角」を守るための「カタツムリの殻」に えられた「詩学」,ひいてはそこから生まれ る新たな公共圏の内実が,東西ドイツの統一や湾岸戦争といった同年のドイツ国内外を めぐる政治的動揺への目配りとともに,とりわけアーレントのレッシング賞受賞講演 「暗い時代の人間性」(1959)を補助線として精緻に解き明かされていく。  金志成の「この公共圏の片隅に─トーマス・メレの『背後の世界』」では,ドイツ の現代作家メレの最新作(2016)が,現代の文学制度との関連で考察される。重度の双 極性障害を抱えるがゆえに,規範的な公共圏への参入を認められながらも「言説の資 源」において大きな制約を被っているこの作家は,自身の病と奇行のせいで歪められた その「パブリックイメージ」,すなわち「自分の物語」を「奪い返す」ため,自伝風の テクストの発表を企てる。しかし,「自分自身というものを二度と確信できなく」なっ てしまうほどに深刻な彼の病が,このテクストで語られた内容の虚実そのものを宙吊り にすることで,この一冊の書物はいわば「真実」と「フィクション」の彼方4 4で語られる 物語となる。小説の言葉を読む「読者」に対し,「作者」の「声」に関心を寄せる「公 衆」という分析概念を設定したうえで,さらにヴァルター・ベンヤミンの「物語」論を 参照しつつ,同作を「公共圏の片隅で」一種の「対抗的公共圏(Gegenöffentlichkeit)」 を 出するための「パフォーマティヴな実践」として読み解く本論文には,文芸公共圏 の現在地を窺わせる指摘が豊富に鏤められている。 ***  こうして過去から現在にいたるまでの文芸公共圏の諸相を一望するとき,文学によっ て媒介される公共空間の歴史のなかには,いくつかの変数と定数が見出されるように思 われる。たとえば,本特集の数 の論考が陰に陽に主題化している「経験的主体」とし ての「作者」の存在は,おそらく文芸公共圏につきまとう古くて新しい問題だ。18世 紀に誕生したとされる「著名人(célébrité)」の文化は,華々しく儚い名声の背後でおこ なわれる過剰な広告や私生活の暴露など,現在にいたるまでその基本的なメカニズムを 温存しているが,17)それと同時に,近代的公共圏の勃興期にあたるその世紀には,レッ 17) アントワーヌ・リルティ(松村博史/井上櫻子/齋藤山人訳):セレブの誕生─「著名

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シングやカントの論争の戦略に見られたように,何らかの公的な後ろ盾に頼ることなく 個人の人格で発言/執筆することが,かえって批判的な議論のための「正統性」につな がるという道筋も開通していた。18)このことは,社会学の分野で近年さかんに議論され,19) 本特集のいくつかの論考でも焦点化されている問い,すなわち親密圏と公共圏の本来的 な結びつきをめぐる問いにも直結する論点だろう。さらに,そうした公共圏のあり方は, 文芸にかかわる多様な「制度」によって支えられたものでもある。ハーバーマス自身は のちに『事実性と妥当性』(1992)のなかで,公共圏とは「基本的な社会的現象」ない し「コミュニケーションのためのネットワーク」であり,「制度としてはもちろん,組 織としても捉えられはしない」という立場に転じたが,「強い規範」性を含意していた かつての公共圏概念からの修正は妥当だとしても,20)現実の公共圏が制度的な基盤と制 約を免れるものではない以上,そうした観点からの考察が不可欠であることに変わりは ない。それは本特集の議論の随所でも示されているとおりである。  インターネットとソーシャルメディアの普及によって,誰もが情報の受信者にとどま らずその発信者でもあるという状況が技術的に常態化している今日,われわれはごく日 常的に文字やイメージによって媒介されたフィクションに接し,そして新たなフィク ションの 造と伝達に参加している。ただ理性的に「文化を論議する」のでも,ひたす らに「文化を消費する」のでもない,別様の「公衆」の姿を構想する必要性は今後ます ます高まっていくにちがいない。その現在的な課題に対し,複数の論考によって「文芸 公共圏」の実相を多角的に描き出す,という日本ではおそらくほとんど類例を見ない本 特集の試みが,文学研究という方法論上の立場からなされた実りある最初の応答となっ ていることを期待したい。 人」の出現と近代社会(名古屋大学出版会)2019参照。

18) Dorothea E. von Mücke: The Practices of the Enlightenment. Aesthetics, Authorship, and the Public. New York (Columbia University Press) 2015, bes. S. 235-242.

19) 落合恵美子:親密圏と公共圏の構造転換─ハーバーマスをこえて[『思想 特集=公共 Ⅱ』第1140号,4月号(2019),146∼166頁]参照。

20) 林香里:新聞紙4

の衰退にみる日本の「公共」の構造変容─ SNS時代到来に向けた一考 察[『思想 特集=公共Ⅱ』第1140号,4月号(2019),40∼58頁],40∼41頁。

参照

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