要 旨 シラーの古典主義期最初の戯曲『ヴァレンシュタイン』3 部作は,彼の 9 年余の雌伏期間における,歴史研究,哲学的・芸術論的省察,古代ギリシア 芸術的古典性との理論的対決等の成果を踏まえながら,具体的には,彼の 30 年戦争史研究を通して培われた批判的歴史眼に映ずるヴァレンシュタイ ンの現実像を素材として造型された人物像を劇展開の中軸に据えて,普遍的 人間性の象徴的表現を目指す古典主義的志向のもとに制作された壮大な歴史 劇である。小論は,そのような『ヴァレンシュタイン』研究の序章として, 作品の構成や内容を研究する上で留意しておくべきシラーの独自の詩人的表 象法の特質や,彼の「古典性」についての考え方,およびアリストテレスの 文芸観への対応の仕方,そして悲劇についての彼の理論的見解などについて 論述したものである。
第 1 節 作品制作の動機と着想に至るまでの経緯
シラーは,1787 年 6 月末に彼の青年期の疾風怒濤文学の掉尾を飾る戯曲 第4作『ドン・カルロス』を出版したあと,ドレースデンのケルナー1) のも とを離れて翌月半ば過ぎにゲーテ2) ,ヘルダー,ヴィーラントたちのいたヴァ イマルに赴き,結局その地に定住することになったのであるが,それから 1796 年 10 月に第 5 作『ヴァレンシュタイン』の制作に着手するまでの 9 年 余の歳月をほとんど歴史研究と哲学的・芸術論的省察に費やした。彼がこのシラーの『ヴァレンシュタイン』研究 序章
内藤 克彦
期間のはじめに集中的に全精力を傾注したのは,独立戦争期のオランダ史の 研究であった。彼のオランダ史研究の成果は『スペイン統治からのオランダ 連邦離反史』として出版され,その業績によって,彼はイェーナ大学に歴史 学担当助教授として招聘された3)。 シラーはオランダ連邦の独立戦争史を完成したあと,更に,ライプツィヒ の出版者ゲッシェンの勧めによって『30 年戦争史』の執筆を始め,その第 1 巻,第 2 巻を『婦人のための歴史年鑑』の 1791 年版に,第 3 巻を 1792 年版に,そして第 3 巻の終りと第 4 巻,第 5 巻を 1793 年版に掲載した。そ のとき,彼は,この『30 年戦争史』を書き進めながら,次第に,皇帝軍の 最高指揮官に 2 度任命されながら,2 度罷免されたのちに信頼していた部下 に裏切られて暗殺されたヴァレンシュタイン将軍に関心を寄せ始めていたら しい。例えば,彼の友人ケルナーあての 1791 年 1 月 12 日付の手紙には,「あ る悲劇のプランが頭の中をまた去来しています」4) という文章があり,更に 同人あての 1792 年 5 月 25 日付の手紙では,「私はいま何か詩的なものを手 がけてみたくて仕方がありません。特に私のペンはヴァレンシュタインに向 かってむずむずしています」5) と告白している。そしていよいよシラーが実 際に歴史劇『ヴァレンシュタイン』制作のプランを練り始めていることをケ ルナーに伝えたのは,同人あての 1794 年 3 月 17 日付の手紙6) においてであっ た。シラーがヴァレンシュタインを彼の新しい悲劇の主人公とするのに適し ていると考えるようになったことの根拠を推察する場合,参考になし得るも のとしては,三つのことを挙げることができる。 その第一は,彼の『30 年戦争史』の中のヴァレンシュタインに関する次 のような記述である。 「フェルディナント皇帝は彼の将軍の運命に涙を捧げ,殺害された彼のた めに 3000 の追悼ミサを行わしめた。しかし同時に彼は,殺害者たちに恩賜 の金鎖,侍従の鍵,高官位,騎士領を報酬として与えることを忘れなかった。 こうしてヴァレンシュタインは 50 歳で彼の活動的で並外れた生涯を終え
た。功名心によって駆け上り,名誉欲によって没落したのであったが,すべ ての欠点にもかかわらず,もし彼が節度を守っていたならば,なお,偉大で, 感嘆に値し,凌駕しがたい人物であった。支配者ならびに英雄としての徳, 賢明さ,正義感,堅固な精神と勇気は,彼の性格において非常に傑出してい た。しかし彼には,英雄を飾り支配者から愛をかち取る人間としての優しい 美徳が欠けていた。恐怖が,彼が他者に影響力を行使するための護符であっ た。処罰においても褒賞におけると同様に常軌を逸することによって,部下 の熱意を絶えず緊張させておくことができた。[……]彼の自由な感覚と冴 えた頭脳は,彼の世紀の宗教的偏見を超越させ,イエズス会は,彼がその会 のシステムを見抜き,教皇をローマ司教以外のものとはみなさないことを決 して許さなかった。[……] しかし,すでに預言者サムエルの時代以来,教会と仲たがいした者は誰一 人として幸せな最期を迎えなかったように,ヴァレンシュタインもその犠牲 者の一人になったのである。修道士の陰謀によって,レーゲンスブルクで指 揮権を失い,エーガーで命を失った。もしかしたら,彼は,修道士的策略に よって,彼の名誉ある名前と後世に対するよい評判という二つのもの以上の ものを失ってしまったのかもしれない。なぜなら,正義を守るために最後に 告白しておかなければならないのは,この並外れた男の歴史を伝えたのは, 決して全く誠実なペンではなかったということ,公爵の裏切りやボヘミアの 王冠への計画は,いかなる厳密に証明される事実にも基づいたものではなく て,単にそれらしいという憶測に基づいたものでしかなかったということで ある。彼の行動の隠れた動機を歴史的信憑性をもってわれわれに明らかにす る資料はまだ発見されていない。彼の公的で一般に認証されている行為の中 で,結局,事実無根の資料に基づいていないものは一つもないのである。彼 の最も非難された歩みの多くは,単に彼の真剣な平和愛好心を証明するもの でしかない。他の大抵の歩みは,皇帝に対する彼の正当な不信感ならびに自 己の重要性を主張する当然の努力を説明し,また,許容するものである。な
るほど彼のバイエルン選帝侯に対する言動は野卑な復讐欲と和解しがたい精 神を証言してはいる。しかし彼の行為の一つとして,彼の裏切り行為を証明 するものとみなし得るものはないのである。結局,困窮と絶望が,彼を無実 の者に下された判決に実際に値するものにしてしまったとするならば,この ことは,判決自体が正当なものであるとすることはできない。そういうわけ であるから,ヴァレンシュタインは,反徒となったから没落したのではなく て,没落したから反徒になったのである。生者にとっての不運は,彼が勝利 する側を敵にしたことである―死者にとっての不運は,その敵が彼より生き 延びて,彼の歴史を書いたことである。」7) シラーがヴァレンシュタインを作品の主人公とすることに決めたと推測さ れる第二の根拠として挙げられるのは,彼の論文『悲劇芸術について』の中 の,「歴史的模倣に対置される」8)悲劇についての言及であるが,それについ ては,第 6 節〈シラーの悲劇論〉において詳しく見るので,ここでの考察は 省略する。 シラーがヴァレンシュタインを作品の主人公にすることに決めた第三の根 拠として考えられるは,若いゲーテの『シェイクスピアの記念日に』という 題で作成された講演原稿における次のような言及である。 「シェイクスピアの劇は,この世の歴史が,われわれの眼前を時代の眼に 見えない糸に引かれて通り過ぎて行く美しい稀品覗き箱Raritätenkasten であ る。[……]彼の作品は,すべて,(いまだいかなる哲学者も見たこともなけ れば規定したこともない)われわれの自我の独特のもの,われわれの意志の 僭称的自由prätendierte Freiheit と全体の必然的歩みとの衝突する秘密の一点 を巡っている。」9) 以上のような考え方が,やはり,シラーがヴァレンシュタインを作品の主 人公として選ぶ際にも,強い根拠として働いたのではないかと推測されるの である。しかし,制作の着想を得てから,作品の構想をあれこれと練るのに 時間と手間がかかり,プランが一応のまとまりに到達したことをシラーがケ
ルナーに伝えたのは,ようやく 1796 年 3 月 21 日付の手紙10) においてであっ た。そのようにして,シラーは,1796 年 10 月 22 日のカレンダーに,はじ めて『ヴァレンシュタイン』に着手した旨を書き留めることができた11) 。作 品全体が書き終えられたのは,1799 年 3 月 17 日12)であった。 大作の歴史劇『ヴァレンシュタイン』の制作のために,シラーが実際に要 した月日は約 2 年半である。それが可能であったのは,ひとえに,それに先 立って彼が多くの文献を渉猟し研究した上で執筆を進めた『30 年戦争史』 における,歴史上のヴァレンシュタインの実像に関して蓄積した豊富な知識 があったからに違いない。とはいえ,この作品を完成するまでに,30 年戦 争時代の容易には見通しがたいほどに複雑に絡み合ったヨーロッパ諸国の国 際関係を背景とした題材との悪戦苦闘を繰り返したのに相違ないシラーの苦 労は,到底筆舌に尽くし得ないものであったのに相違ない。 いずれにもせよ,歴史劇『ヴァレンシュタイン』の内容を適正に理解する ためには,題材の源泉としてのシラーの『30 年戦争史』におけるヴァレンシュ タインに関する記述の内容についても,両者を比較する上でも,知っておく 必要があるであろう。ましてや,シラーも知悉しているアリストテレスの『詩 学』における歴史書の記述と文芸の叙述との間の相違に関する見解を顧みる ならば,そのことは,必須の予備作業であると言わなければならないであろう。
第 2 節 シラーとアリストテレスの『詩学』
かつてアリストテレスは,彼の『詩学』第 9 章において,歴史書は特殊な 出来事が生起したことを記述するのに対して,文芸は生起するかもしれない ことを,普遍的真実を,伝えようとするものであると言って,両者を区別す る見解を示していた。 シラーは,歴史劇『ヴァレンシュタイン』制作途中の 1797 年 4 月末にゲー テにアリストテレスの『詩学』のクルツィウスのドイツ語訳を貸してほしい旨の手紙を送り,早速,ゲーテから,5 月 3 日付の手紙とともに送られて来 た同書を受け取って読んだあとの 5 月 5 日付のゲーテあての手紙の中で,次 のような感想を伝えている。 「私はアリストテレスに非常に満足しています,しかも,アリストテレス ばかりでなく,私自身にも満足しています。このような冷静な頭脳の人でし かも冷厳な立法者の書を読んだあとで,内心の平和を乱されないということ は滅多にないことです。 アリストテレスは,外面的形式に奴隷的に執着するか,あるいはあらゆる 形式を無視するすべての人にとって,真の地獄の審判者です。彼は前者を彼 の寛大さと精神によって絶えず矛盾に陥らせるに違いありません。なぜなら ば,彼にとっては内実の方があらゆる外的形式よりもどれだけ重要であるの かは明らかなことだからです。また,後者にとっては,彼が詩とりわけ悲劇 の本性の中から彼の確固とした形式を導き出す厳さは恐るべきものであるの に相違ありません。[……] 何はともあれ,私は,アリストテレスを今よりも前に読まなかったことを 大変喜んでいます。そうでなかったら,私は,このような大きな喜びや,い ま彼が私に与えてくれる利益をすべて失っていたことでしょう。もし彼を読 んで利益を得たいと思うならば,私たちはその前に基本的概念についてすで に知悉していなければなりません。彼が取り扱う事柄をあらかじめよく知っ ていなかったら,彼から助言を得ようとすることは危険なことに違いありま せん。 しかし,彼が完全に理解される,ないしは,評価されることは,きっとあ り得ないことだと思います。なぜなら,彼の悲劇に関する全見解は,経験的 根拠に基づくものだからです。彼は,私たちがもはや眼前にすることのでき ないたくさんの上演された悲劇を実際に眼の前に見ていて,その経験を基に して彼の理論を作り上げているわけですが,彼の判断の基礎全体が,大部分, 私たちには欠けているのですから。彼が概念から出発することはほとんどな
く,常に芸術と詩人と上演の事実のみから出発しています。ですから,もし, 彼の判断が,その本質からして,真の芸術法則であるとするならば,私たち は,事実によってイデーを現実化した,あるいはそのジャンルを個々の場合 において表象可能なものにした芸術作品が当時存在したことを,幸運な偶然 に対して感謝しなければなりません。」13) シラーがこの手紙を書いたとき,彼はすでに4編の戯曲を世に送り,その あとの,歴史研究や哲学的・芸術論的省察のための 9 年余に亘る雌伏期間を 終えたところであった。彼が「アリストテレスに非常に満足しています,し かも,アリストテレスばかりでなく,私自身にも満足しています」とゲーテ に述懐し得たのは,そのような実際的な創作経験を積み,理論的な研鑽をも 重ねて,アリストテレスの所説を的確に理解し得るのみならず,その「芸術 法則」に十二分に応え得る創作能力の段階に到達していることの自覚があっ たからではなかろうか。 念のために,シラーの読んだクルツィウス訳におけるアリストテレスの『詩 学』第 9 章「詩人と歴史家,筋とエピソードについて」を,もう少し詳しく 見てみるならば,そこでは次のようなことが論じられていたのである。 「[……,]詩人の義務は,生起したことを物語ることではなくて,生起す べきでもあったことや,蓋然性ないしは必然性によって生起し得たでもあろ うと思われることを物語ることである。[……]両者の区別は,むしろ,歴 史家は生起したことを物語ることにあり,詩人は生起すべきでもあったこと を物語ることに基づいている。それゆえ,文芸は歴史よりも哲学的であり教 訓的である。なぜならば,文芸は普遍的なものに関わるのであるが,歴史は 特殊なものに関わるのみだからである。普遍的なものは,ある人物が一定の 性格により蓋然性によって語るもの,あるいは行うものである。この普遍的 なものが,文芸の最終目的である。たとえ,それが,人物に特殊な名前を添 えようとも。」14) 以上のようなアリストテレスの文芸に関する見解の骨子は,考えてみると,
シラーが,例えば彼の『ビュルガーの詩について』と題する批評文(1791 年 1 月 15 日と 17 日の両日に亘ってイェーナの『一般文学新聞』に掲載さ れた)において,「古典性」として要請したことにほぼ合致するものである と見ることができる。シラーは,その批評文において,「詩人がわれわれに 与え得るすべては彼の個性である」15) のだから,「教養ある人士を感動させよ うとする前に」,「彼の個性をできるだけ高貴なものに高め,最も純粋で最も 壮麗な人間性にまで浄め上げることが,彼の第一の,そして最も重要な仕事 である」16)という大前提に立った上で,詩人に更に要請される技法に関して, 「理想化,高貴化」,「局地性,個人性を普遍性へ高めること」17) などが是非と も必要であるということを力説していたのである。
第 3 節 シラーの「古典性」志向
シラーの 1798 年 8 月 24 日付のゲーテあての手紙の中には,次のような ことが述べられている。 「私は劇中の人物たちに多くのことを,ある程度は長く自由に語らせます。 あなたはそのことについては何もおっしゃらなかったし,非難なさっている ようにも見えません。あなたご自身の戯曲や叙事詩におけるいつものなさり 方から見ても,私の処置に同意なさってくださっているように思います。確 かに,悲劇的行いの幕を上げたり下ろしたりするためには,わずかなことば で事足りそうな場合もあると思います。また,それが行動する性格の人の本 性により適っているように見えるかもしれません。しかし,同様に考えてい ても,アリストテレスが思想と見解と呼ぶものにおいて決して寡黙ではな かった古代ギリシア人の例は,まさにその点においては現実からの離脱を要 求するより高い詩的法則を暗示しているように見えます。詩的人物はすべて 象徴的存在であること,彼等は詩的人物として常に人間性の普遍的なものを 表現し,また,発話すべきものであること,また更に,詩人ならびに総じて芸術家は,公的にまた公正に現実から離れているべきであること,そして以 上のことを自分は実践しているということを思い起こすべきであるというこ とが考えられたならば,この慣行に対しては何も言うべきことはないのです。 その上にまた,より短く簡潔な扱い方は,あまりにも貧弱で無味乾燥である ばかりでなく,あまりにもリアリスティックで硬く,激しい状況においては 耐えがたいものになるだろうと思われます。それに対して,よりのびやかで よりゆったりとした扱い方は,描写される暴虐きわまりない状況においてさ えも,常に一定の静けさと安らぎとをもたらすだろうと思います。」18) この手紙の中における「詩的人物はすべて象徴的存在であること,彼等は 詩的人物として常に人間性の普遍的なものを表現し,また,発話すべきもの であること,また更に,詩人ならびに総じて芸術家は,公的にまた公正に現 実から離れているべきである」という考え方は,シラーが『ビュルガーの詩 について』と題する批評文において詩的表現の目指すべきものとして掲げた 「古典性」の要請に通底する考え方である。また,以上のような手紙の中の 最後の文章における「よりのびやかでよりゆったりとした扱い方は,[……] 常に一定の静けさと安らぎとをもたらすだろう」という見地は,振り返って 考えてみると,シラーの『人間の美的教育について,一連の書簡として』に おいて力説された,芸術による「遊戯衝動」の励起の説に全く呼応するもの であって,その限り,シラーの古典性志向は,決して彼の詩的完全性へのや みがたい衝迫に起因するばかりでなく,真の政治的改革を完遂しようとする ならば,そのためには,まず,フランス革命の場合のような凄惨な流血的推 移を招来することのない自由で円満な調和的人格を必須の基礎的教養として 用意すべきであり,その目的を実現する最適の手段は,理性と感性との遊動 的調和を作興する芸術の振興であるという主張にもつながっているのであろ うと推測されるのである。 (なおついでに付言するならば,このシラーの手紙の中で言及される「象 徴的存在」や「人間性の普遍的なもの」の語は,さほどに厳格な概念規定に
よるものではなくて,「象徴的存在」は,「代表的存在」のような意味におい て,「人間性の普遍的なもの」は大まかな意味での一般的な蓋然性における「人 類的共通性」の意味において解すればよいのではあるまいか。) ところで,シラーの古典性志向はいつごろから始まっていたのかについて 調べてみると,その目覚めはかなり早く,すでに彼がプファルツ国(当時の ドイツの領邦の一つ)のマンハイムに亡命中に,その地の古代美術館を 1784 年 5 月 10 日(シラーの 24 歳半の日)に訪れたことがその端緒になっ たと言うことができるようである。その証拠として挙げることができるのは, この訪問の印象に基づいて書かれたエッセイ『旅するデンマーク人の手紙, マンハイム古代美術館(直訳:マンハイムの古代の広間)』(『ラインのタリー ア』誌第 1 号,1785 年 3 月刊,所収)の文章の中に「高貴化」Veredlung19) という語が見出されることである。この語は,シラーが後年の『ビュルガー の詩について』と題する批評文において,「古典性」の重要な要件の一つと したものを示す語である。それらのことを考え合わせるならば,シラーの古 典性への目覚めはあのときに始まったと見ることは,決して当を失したもの とは言えないであろう。 マンハイムの古代美術館に収蔵されていた古代ギリシア彫刻は,すべて模 造品であった。しかし,シラーは,それらの彫刻からでも,深甚の芸術的震 撼を受けたもののように見える。彼はそこで,神々と人間の姿との合一した 美の極致をまのあたりにしたのであろう。彼が当時制作中であった戯曲『ド ン・カルロス』の散文体を,1 か月後の 6 月には早くも韻文体に改めること にした20) のも,文体を現実的な生々しさから彫琢された高雅な芸術性へ高め たいという思いが深いものになっていたことの一つの現れであるのかもしれ ない。多分,真の芸術家たるものはかくあらねばならないということを,心 の底から納得したからであろう。それまでの激越な感情の横溢した疾風怒濤 文学とはきっぱりと訣別して,節度のある古典主義的創作方法へ向かうべき であるという思いを強く抱くようになったと想像されるのである。のちに彼
が古代ギリシア文化喪失の嘆きを歌った『ギリシアの神々』という題の思想 詩を作ったとき,彼の脳裏を去来していたのも,かのギリシア彫刻の記憶像 であったのに相違ない。 小論の表題として,私は〈歴史劇と古典性〉を掲げるのであるが,この場 合の〈古典性〉は以上のような意味において解し,個的なものが同時に普遍 的なものを代表的に体現しているとみなされ得る場合には,その個的なもの には同時に〈古典性〉があると認めてよいと考えている。
第 4 節 シラーの歴史劇の基本的構図
さて,戯曲『ヴァレンシュタイン』の基本的構図について考えてみると, それは一見,すでに触れておいた若いゲーテの『シェイクスピアの記念日に』 という講演原稿における演劇観―「われわれの自我の独特のもの,われわれ の意志の僭称的自由と全体の必然的歩みとの衝突する秘密の一点を巡る」― にかなり近い考え方に基づくものであるように思われる。 しかし,また,シラーの劇作品全体を振り返って眺めてみると,彼の作品 は,処女作『群盗』から最終作『ヴィルヘルム・テル』に至るまでの(『オ ルレアンの処女』,『メッシーナの花嫁』を除く)すべての作品において,多 かれ少なかれ,ゲーテの言ったことに近いような劇のあり方―人間の自由と 国家ないし社会の旧体制との衝突する一点を巡る―が基本的構図として見ら れることが指摘できる。 第 1 作『群盗』の内容は,性格の全く違う兄弟のうちの兄のカールは,弟 フランツの奸計によって父の代りに作成された廃嫡の偽手紙を受け取るや否 や,激昂のあまりに極悪非道の盗賊団の首領となり,世の政治的不正と道徳 的退廃に天誅を下すという名目のもとに暴れ回ったのちに,手下の盗賊たち のあまりの非人道的悪行にショックを受け,「自分のような者が二人いたら 道徳的世界の全体系を破滅させてしまうだろう」21) ということを悟って,身を司直の手にゆだねる決心をするというものである。また,弟のフランツの 情け容赦のない暴君的振る舞いのそもそもの原因は,次男として生まれたこ とから甘受せざるを得なかった社会制度上の不公平な処遇に対する憤懣に あった。第 2 作『ジェノヴァのフィエスコの反乱』は,危殆に瀕した共和制 の立て直しが劇の出発点であったが,フィエスコはのちに自分が最高権力者 になろうという野望を抱いたために,同志の硬派的共和主義者ヴェリーナに よって乗船用の懸け橋から海中に突き落とされて溺死するという結末の作品 である。第 3 作『たくらみと恋』は,生一本な理想家肌の貴族青年と町の音 楽師の純真な娘との恋が身分差結婚に対する当時の階級制度による因習的偏 見の犠牲にされる非人道性に対する弾劾が底流をなす,いわゆる市民悲劇の 代表作と目される作品である。第 4 作『ドン・カルロス』が描いたのは,ヒュー マニスティックな新君主国家建設の理想に燃えながら,しかし政略結婚のた めに父王の后にされてしまったかつての婚約者への恋情を断ち切ることがで きずに悶々と時を過ごし,親友のマルタ騎士修道会士ポーザ侯爵の諫死的犠 牲死によってはじめて目覚めるスペイン王子の旧態依然たる国家秩序打破へ の挑戦と悲劇的挫折の顚末である。第 5 作『ヴァレンシュタイン』は,数々 の勲功を重ねながらも,脆弱な宮廷政治体制に翻弄されて皇帝軍の総指揮官 の地位を 2 度も罷免されるという非運に見舞われたために,忘恩の皇帝に対 する報復と自己のボヘミア国王の王位獲得の野望を遂げるための時機を星辰 の動きによって占うことにして,好機の到来をうかがっているうちにいよい よそれが見えて来たときになってもなお決断をためらい続け,ついに一人の 女性の自然権思想に基づく説得によってようやく決断するに至る人間の複雑 な内面を,錯綜した国際政治上の歴史事情を背景にして,人間味豊かに描き 切ろうとした作品である。第 6 作『マリア・スチュアート』は,プロテスタ ント的イングランドとカトリック的スコットランドの間の宗教的・政治的対 立を背景にして,国家の安寧を第一義とする重臣たちに囲まれたエリザベス 女王の王者としての苦悩と,エリザベス暗殺計画に加担したとの疑いをかけ
られて冤罪のまま,自己の夫の殺害に加担したことへの贖罪をするのである と諦観し,従容として不当な処刑を受け入れるに至るマリアの最期の数日の 崇高な姿を描いた作品である。そして,最後の第 9 作『ヴィルヘルム・テル』 は,オーストリアの圧政に対するスイス山岳地方の住民たちの,もともと勅 許を得て享受していた自由の侵害に対する抗議,ならびに人権回復のための 勇敢な戦いとその勝利とを,独立独行の猟師テルを作品のタイトル主人公に して描いたものである。 なお,ここで更に付言しておきたいのは,シラーは,彼の歴史劇を歴史書 と文芸の調和において構築しようとしていたのではないかとも推測されるこ とである。そのわけは,『ヴァレンシュタイン』には,一方において,その 題材の源泉となったシラーの『30 年戦争史』の中に記述された史実のかな りのものが取り込まれているのであるが,他方,例えばマックス・ピッコロー ミニという,歴史上には実在しなかったけれども作品の中では筋の展開に とって少なからず重要な役割を担う脇役的人物が登場させられていること や,また,歴史上の行動は同じでも,行動をする人物が変えられている場面 もいくつかあることにも気付かされるからである。このような処置は,文芸 作品としての完成度のためになされたものであろう。そのように考えると, 歴史劇『ヴァレンシュタイン』は,一方で史実を尊重しながら,他方,歴史 的真実を枉げても詩的真実を守り,歴史書と文芸の融和の上に築き上げられ ていると解釈することも,あながち牽強付会とは言えないのではないかと思 うのである。 ディルタイは,この作品に関する評論の結びにおいて,次のように述べて いるのであるが,如上の解釈への関連において,非常に参考になる見解であ ると思うので,以下に引用しておくことにする。 「歴史的諸条件の中から人物たちの性格が引き出されているように,彼等 の運命もまたそのように処置されている。この戯曲は,一つの歴史世界全体 をその因果関係に従って描き,そうすることによって,私たちに歴史世界を
理解することを教えている。しかも,この世界において明瞭に示されている のは,徹底的に対立する巨大な諸関係である。この戯曲は,哲学より哲学的 であるばかりでなく,歴史より歴史的なのである。」22)
第 5 節 シラーの詩人的(芸術家的)表象法(言語的表現法)
ゲーテは,シラーと自分の表象法ないし言語的表現法の違いについて,『格 言と省察』と題する寸言集の中で,次のようなことを述べたことがある。「象 徴的表現Symbolik は現象を理念に,理念を形象に替えるのであるが,それは, 理念を形象においても常に限りなく有効にするけれども,なお到達不可能な ものに留め,それ自体はあらゆることばで語られてもなお語り尽くせないも のに留めるのである。」23) 「アレゴリーは現象を概念に,概念を形象に替えるのであるが,概念は形 象において依然として限定されたものであって,完全に保持され,また,所 持され得,形象において語り尽くされ得るものである。」24) 「私のシラーへの関係は,同一の目標へ向かう二人の不退転の志向と,私 たちの共同の活動が,私たちが達成しようとした目的のための手段の相違に 基づくものであった。かつてあるとき,私たちの間で話題になったもので, また私が彼からの手紙のある箇所によって再び想起させられたほんのわずか な相違については,次のように考えたことがある。 詩人はある普遍的なもののために特殊なものを探すのか,それとも特殊な もの中に普遍的なものを見るのか,ということの間には,大きな違いがある。 前者の方法から出来するのはアレゴリーである。アレゴリーにおいては,特 殊なものはただ普遍的なものの例ないし模範とみなされる。後者が,本来, 詩の本性なのであって,詩は普遍的なものを考えることなしに,あるいは, それを指し示すことなしに,特殊なものについて語るのである。この語られ た特殊なものを生き生きととらえる人が,同時に,普遍的なものをも,それとは知らずに,わがものにするのである。あるいはずっと後になって。」25) 「特殊なものが普遍的なものを,夢あるいは幻影としてではなくて,究め がたいものの生々として現時的な啓示として代表するのが,真の象徴的表現 である。」26) 確かにゲーテの言う通り,シラーの詩的表現法が多分にアレゴリー的であ るということは,彼のいわゆる思想詩や教訓的な含みのある物語詩がアレゴ リーに満ち満ちていることを見れば,一応うなずけることではある。しかし, シラーにも,象徴的表現ではないが,ことばにできないことを,二つの名詞 を重ね合わせることによって,あるいは二つの機能の合成によって,ある一 つのことを言外においていわゆる知的直観的に理解させようとする言語使用 のあることを忘れてはならないであろう。その最もよい例は,「現象におけ る自由」27)という美の規定と,『人間の美的教育について―一連の書簡として』 における「遊戯衝動」28) である。(このようなシラーの思考法の原型としては, 彼のカール学院のあまりにも大胆不敵な所論として受理されなかった医学科 卒業論文『生理学の哲学』における,「中間力」29) という全く新しい力(機能) の考え方を想起することができる。)そのような表象法は,ゲーテの「対象 的思考」30) とも名付けられる独特の表象法に類似する表象法であって,これ らにおいては,ゲーテもシラーもほぼ類似の表象法を共有していると見るこ とができる。ゲーテが,『幸運な出来事』という題の回想文の中で,彼が根 源的な植物として表象するものを描いた素描をめぐって,二人の間で交わさ れた対話について記した文章は,両詩人の表象法の親和性のあり方の機微に ついて,ゲーテのまさに比類のない卓抜な表現力によって意味深く語り伝え ている31) 。 シラーの「遊戯衝動」という考え方については,すでに『シラーの美的教 養思想,その形成と展開の軌跡』(1999 年,三修社刊)において詳しく説明 しているので,ここでは「現象における自由」という美の規定について,少 し解説させて頂くことにしたい。
シラーはカント美学を学んだあとで,カントの美の主観的規定を乗り超え る美の客観的規定として「現象における自由」という考え方を提起するので あるが,これは,哲学者カントが,観照美学の立場に立って,美の表象は想 像力と悟性との自由な戯れの中にある32)ととらえたのに対して,詩人シラー は,創作美学の立場に立って,美の表象の枠をひろげて,美は,感覚表象(現 象)と実際には感覚され得ない実践理性の表象(自由)とが芸術家的想像力 によって重ね合わされた「現象における自由」であるという風に規定しよう としたのであると一応は理解できる。 しかし,仔細にカントの『美的判断力批判』における美についての論述を 読んでみるならば,カントの発想とシラーの発想との間には大きな隔たりの あることが判明する。問題はこうである。カントの道徳的判断において重要 であるのは,意志の自律的自己規定,換言すれば,内からの原因によるとい う意味での内的自由,積極的,能動的行動的自由である。それに対して,彼 が美的判断において真の美は「自由美」33) であるというときの自由は,美し いと判定される物がいかなる外的原因にも依存しないという意味での外的自 由,消極的,状態的自由でしかない。 ところが,シラーが美を「現象における自由」と規定したときの自由は, 内的,外的の区別なく,等しく内的自由としての自律的自由の意味に統一さ れている。つまり,シラーにおける美の規定は,カントの考え方の単純な言 い換えなどではなかったのである。それが可能であったのは,まさしく,感 情移入的心的傾向のすぐれて強かったシラーの芸術家的想像力による思考の 飛躍によるものであったと言わなければならないであろう。 「現象における自由」においては,表象の重心は,現象と自由との間のい ずれか一方に偏することなく,両者に同等にまたがっているのであって,両 者の完全な調和の中にある。(これが,カントの,美的表象は想像力と悟性 との自由な戯れの中にある,という思考法によるものを,理性と感性との自 由な戯れの中にあるという風に拡張したものであったと見ることのできる可
能性は否定できないのではあるが。) ともあれ,シラーが「現象における自由」という表現で美を規定した際に は,あるいは,かの古代美術館で見た彫像の動的な美,まさしくその彫像の 中から生き生きと輝き出てきたとしか思えないような,かのシャフツベリが 唱えたForming Form34) によるもの,いわゆる気韻生動の美を示した古代ギリ シアの古典美の印象が根柢にあったのかもしれない。ちなみに,シラーが美 を「現象における自由」と規定したときの「自由」は,かのカントの自律的 自由を「きみをきみ自身の中から規定せよ」35)という風にとらえたシラーの 自由の内発的表象であった。そのように,古代ギリシア彫刻の美も,彫刻の 内奥から自律的に発出してきた美と思われたのであろう。 ところで,シラーの独自の芸術家的発想法にほぼ同じと見ることのできる 発想法は,実はゲーテにもある。そのよい例の一つは,彼の「直観的判断力」 anschauende Urteilskraft36) という短文の題名となっている語表現に見られるも のである。このゲーテの短文は,カントの『判断力批判』第 77 節37) の中の「直 観的悟性」等に関する論述から推して考えるならば,例えば,ゲーテの「根 源植物」38) という考え方も,(たとえシラーからは「それは理念です,理念を 経験することなどできるはずがありません」と批判されざるを得なかったに しても,)決して不条理なものとは言えないであろうという見解を述べたも のである。つまりゲーテは,「根源植物」という表象において,理性的表象 である理念と経験的感覚表象とを重ね合わせた,まさしくシラーの「現象に おける自由」の表象法と同じ表象法を持っていたことがわかるのである。 全く資質を異にする両詩人でありながら,あのように固い友情に結ばれて 協力し合えたのも,ゲーテにおいてはすぐれて表出能力の面で,シラーにお いてはすぐれて理解能力の面で,芸術家的表象法を共有し得ていたからでは なかったろうか。 かつて,シラーの処女作『群盗』が世に出たときにある評者によって,「い つの日かドイツのシェイクスピアと呼ばれる人が出現することがあるなら
ば,それはこの人だ」39) と評されたシラーの壮年期早々の古典性志向による 最初の歴史劇である『ヴァレンシュタイン』は,シラーが,シェイクスピア の劇とアリストテレスの『詩学』ならびに古代ギリシア悲劇を視野に入れな がら,理性と感性との調和的人格性を主幹とする近代ヒューマニズムの立場 に立脚しつつ,その制作に心血を注いだ作品であると考えられるのであるが, 以上のような両詩人の表象法の類似性から見ても,古典性というシラーと同 一の創作目標を目指したゲーテが,格別の関心をもってシラーの『ヴァレン シュタイン』制作を見守ったのは,至極当然のことであったと言うことがで きるであろう。
第 6 節 シラーの悲劇論
すでに第 1 節において見てきたように,シラーは,彼のオランダ独立戦争 史研究の成果によってイェーナ大学歴史学担当助教授に招聘されたのであっ たが,実はこの職は公式には哲学担当助教授の職であったことから,シラー は,歴史学の講義のほかに 1790 年 5 月からは悲劇論の講義もするようになっ ていた。そういうわけで,彼は,1792 年 1 月には『悲劇的対象における満 足の原因について』を『タリーア』誌 1792 年版第 1 号に,同年 3 月には『悲 劇芸術について』を『新タリーア』誌第 2 号に矢継ぎ早に発表した。その他 にも『崇高についてVom Erhabenen』を 1793 年に,『激情的なものについて』を 1801 年に,『崇高についてÜber das Erhabene』を 1801 年に発表している。 これらの悲劇論のうちで,差し当たり作品『ヴァレンシュタイン』に関係が あると思われるのは,はじめの 2 論文であるので,それらについて,しばら く,必要なことに触れておくことにしたい。 まず,『悲劇的対象における満足の原因について』であるが,この論文は, 「合目的性はいかなる場合にも満足を与える,それが道徳性には全く関係が ない場合でも,あるいは道徳性に反する場合でも」40) ということと,「われわ
れに道徳的快をすぐれて与える文芸の種類は,[……]混合感情を用いて悲 しみによってわれわれを楽しませなければならない。このことを特に行うの は悲劇であって,その領域は,何等かの自然合目的性がある道徳的合目的性 のために,あるいは,ある道徳的合目的性が別のより高い道徳的合目的性の ために犠牲にされるあらゆる可能な場合を含む」41) という考えを二つの柱に して論が展開されたものである。 『悲劇芸術について』は,アリストテレスの『詩学』における恐怖と同情 とカタルシスの論を踏まえて,シラー自身の悲劇の構成についての考え方を 手際よくまとめたものである。作品『ヴァレンシュタイン』への関連におい て,この『悲劇芸術について』の中の次のような論述は極めて重要であると 考えられるので,少し長いとは思うけれども,訳出しておきたいと思う。 「自己の真の利点をよくわきまえている詩人は,不幸を,それをたくらむ悪 意によって,いやそれにも増して,分別の欠如によって惹き起こさせるので はなくて,状況の強制によって惹き起こさせるであろう。不幸が,道徳的な 原因によるのではなくて,意志を持たないところの,あるいは,ある意志の 支配下にはないところの外的事物によって惹き起こされる場合には,同情は より純粋であり,少なくともいかなる道徳的反合目的性によっても弱められ ることはない。しかし,そのときには,同情する観客から自然における反合 目的性の不愉快な感情を払拭することはできない。しかし,この場合には道 徳的合目的性を救うことはできる。もし,苦難にある人や苦難を惹き起こす 人が同情の対象である場合には,同情ははるかに高い度合いにまで上昇する。 しかし,このことが生起し得るのは,後者がわれわれの嫌悪ないしは蔑視を 喚起することなく, 己の情愛とは逆に,不幸の張本人にされる場合である。 そういうわけで,オレストと彼の姉の願望の前に立ちはだかる唯一の人間 である悲しい王が,決してわれわれの敬意を失うことはなく,最後には,わ れわれは彼を愛さずにはいられなくなるというのは,ドイツのイピゲネイア における卓越した美点である。
感動的なもののこのジャンルは,不幸の原因が道徳性に反するものではな いばかりでなく,いやそれどころか道徳性によってのみ可能であり,相互の 苦難が単に苦難を惹き起こしたという考えのみに起因するジャンルによって 更に凌駕される。[……] この場合には,われわれの同情は不快感によって妨げられることなく,む しろ二倍の炎で燃え上がる。しかし,幸福に最高にふさわしいということと 不幸のイデーとを結び合わせることは不可能であるということが,われわれ の同情の快をなお悲しみの雲によって曇らせるかもしれない。そのような反 合目的性に対するわれわれの不満は,道徳的存在には向けられなくて,最も 無難な場所に,必然性に逸らされることによって,いくらかの利益は得られ るにしても,運命への盲目的屈従は自由な自己規定的存在にとっては依然と して屈辱的であり侮辱的である。[……]しかし,道徳的に陶冶された人が 登りきわめ,感動的芸術が高まり得る最高最終の段階においては,そのよう な難点も解決され,それと同時に,すべての不快の影も消え去るのである。 このことが成就されるのは,運命に対するそのような不満さえも脱落して, 諸物のある目的論的連関の,ある崇高な秩序の,ある汎愛の意志の予感ない しはむしろ明瞭な意識の中へ解消してゆくときである。そのときには,道徳 的な合致に対するわれわれの満足に自然の偉大な全体における最も完全な合 目的性のさわやかな表象が加わり,個々の場合においては悲しみを呼び覚ま したところの,合目的性の外見上の侵害も,単に,われわれの理性が普遍的 法則の中にこの特殊な場合の弁明を探し,個々の不協和音を偉大な調和の中 で解消させるための刺激にすぎなくなるのである。このような悲劇的感動の 純粋な高みに,ギリシア芸術は一度も登ったことはなかった。なぜなら,ギ リシア人の民族宗教も哲学さえも,彼等のためにそこまで先を照らすことは なかったからである。純化された哲学からより純粋な素材を受け取る利点を 享受する近代の芸術には,そのような最高の要求をも満たし,そうすること によって芸術の全道徳的品位を開示することが可能になっている。なるほど,
われわれ近代人は,到底凌駕し得ないギリシア芸術をいつか復興させような どということは実際には断念しなければならないにしても,悲劇だけは例外 になり得るかもしれない。」42) 以上のような,多分にライブニッツ流の弁神論的予定調和思想43)やカント の『目的論的判断力批判』における倫理神学的目的論思想44) をも想起させる シラー独自の,アリストテレスのカタルシス論の一種の修正ともみなし得る 悲劇の最終的効果論を展開したあとで,シラーは,彼の悲劇論のまとめとし て,「悲劇とは,[……]われわれに苦難の状態における人間を示し,われわ れの同情を呼び覚ますことを意図するところの,一連の相互に連関する出来 事(ある完全な行いHandlung)の詩的模倣であろう」と述べた上で,次の ような 6 項目の事柄を列挙している。 「悲劇は,第一に,ある行いHandlung の模倣である。模倣の概念は,悲劇 を,単に物語るあるいは記述するだけの他の文芸のジャンルから区別する。 悲劇においては,個々の出来事の,それの生起する瞬間におけるものが現在 のものとして,第三者の介入なしに,想像力あるいは感覚の前に提示される。 [……]現在的なものは,印象やそれに関与する情緒を強める。[……] 悲劇は,第二に,一連の出来事,ある一つの行いHandlung の模倣である。 悲劇的人物たちのもろもろの感情や情緒だけでなく,それらがその中から湧 き起ったところの,それらがそれをきっかけとして現れたところの出来事を, 模倣しつつ再現するdarstellen のである。[……] 悲劇は,第三に,ある完全な行いHandlung の模倣である。いかに悲劇的 であっても,個々の出来事はまだ悲劇を作りはしない。われわれの関心がひ とり基づくところの真実,すなわち,再現される情緒や性格やそれに類する もののわれわれの心の本性との合致,が認められるべきであるとするならば, 多くの,原因と結果として互いに根拠づけ合う出来事が,一全体を作るため に合目的的に一つに結び合わなければならない。もしわれわれ自身が,同様 の状況においては同様に苦しみ,同様に行動したであろうということを感じ
ない場合には,われわれの同情は決して目覚めないであろう。それゆえ,重 要であるのは,われわれが,再現された行いHandlung をその関連全体にお いて見守り,それが,行いHandlung の行為者の心の中から自然な漸層的な 発生法によって,外的な状況の共同作用のもとに,流れ出るのを見ることな のである。[……] われわれの注意力を緊張させ,われわれの精神のすべての能力に呼びかけ, 減退しつつある活動欲を活気づけ,満足を遅らせて,それだけ一層激しく燃 え上がらせるような心情の動きの交替をわれわれの中に惹き起こすために は,一連の幾多の連関のある出来事が必要とされる。感性の苦難に対しては, 心情は,道徳性以外にはどこにも助けを見出さない。それゆえ道徳性の助け をそれだけ一層痛切に要請するために,悲劇芸術家は感性を責めさいなむこ とを長引かせなければならない。しかし,道徳性にそれだけ一層勝利を困難 にして一層称賛すべきものにするためには,感性にも満足を示さなければな らない。この両者はただ,そのような意図のための賢明な選択によって結合 された一連の行いHandlung によってのみ可能である。 悲劇は,第四に,同情に値する行いHandlung の詩的模倣である。そして, そうすることによって,悲劇は歴史的模倣に対置されるのである。もし悲劇 が歴史的目的を追求し,生起したこと,生起の仕方について教えることを目 指すならば,悲劇は歴史的模倣ということになるであろう。この場合には, 悲劇は厳密に歴史的正確さを守らなければならないであろう。なぜならば, 悲劇は,ただ,現実に生起したことの忠実な再現Darstellung によってのみ, その目的を達成するのであるから。しかし,悲劇は詩的目的を持っている。 すなわち,悲劇は,感動させ,そして感動によって楽しませるためにも,あ る行いを再現する。それゆえ,悲劇が所与の題材をそのような悲劇の目的に 適うように扱うならば,悲劇は,まさにそうすることによって,模倣におい ては自由になる。悲劇は,歴史的真実を文芸の諸法則に従わせ,所与の題材 を悲劇の要求次第に加工する権利を得る,いや,義務を負う。しかし,悲劇
はその目的,すなわち感動を,自然の法則との最高度の合致という条件のも とにおいてのみ実現できるのであるから,悲劇は,その歴史的自由にはかか わりなく,歴史的真実に対して詩的真実と呼ばれる自然真実の厳格な法則に 従わなければならない。そういうわけであるから,歴史的真実を厳格に守る 場合には詩的真実が難を受け,逆に,歴史的真実の手荒な侵害においては, 詩的真実がただそれだけ一層利益を受け得ることが稀ではないということの 事情が理解され得る。悲劇詩人,総じてすべての詩人は,ただ詩的真実の法 則にのみ従うのであるから,歴史的真実を極めて良心的に守ることは,彼の 詩人としての義務を免除されることにはならず,詩的真実の違反や関心の欠 如が許されることもないのである。[……] 悲劇は,第五に,苦難の状態における人間をわれわれに示す行いHandlung の模倣である。人間という表現は,ここでは決して無意味なものではなくて, 悲劇がその対象の選択において制限される限界を明確に表すのに役立つもの である。われわれ自身がそれであるところの感性的・道徳的な存在の苦難の みが,われわれの同情を喚起し得る。[……]われわれが純粋知性であると 想像するような,感性の強制から解放されている存在や,感性の強制を,人 間的な弱さが許容する程度を超えて超越した人間は,同様に悲劇には向かな い。総じて,すでに苦難―われわれが同情すべき苦難という概念が,人間と いう語の十全の意味における人間のみが苦難の対象であり得るということを 規定している。純粋知性が苦難を受けることはあり得ない。この純粋知性に 並外れた程度にまで近づいている人間的主体は,その道徳的本性において, 弱い感性の苦難に対してあまりにも速い防御を見出すのであるから,パトス の大きな程度を呼び覚ますことができない。道徳性を欠いた全く感性的な主 体や,それに近い主体は,彼等の感性が圧倒的な程度に働くのであるから, なるほど苦難の極度の程度をも感受することはできるが,いかなる道徳的感 情によっても立ち直らされることはないのであるから,彼等はこの苦痛に打 ち負かされてしまうのである。―そういうわけであるから,われわれは,こ
のような苦難,全く救いようのない苦難,理性の完全な無為からは憤懣と嫌 悪とをもって目を背けるのである。それゆえ,悲劇詩人が混合的性格を好む のは正しいことであって,彼の主人公の理想は,全く非難されるべき人と完 璧な人との間の,等距離に離れた中間点に位置するのである。 悲劇は,最後に,これらすべての特性を,同情の情緒を喚起するために統 合する。[……] 悲劇的形式,すなわち,ある感動的行いHandlung の模倣が,同情の情緒 を喚起するために最もよく利用された悲劇が,完璧な悲劇である。従って, 喚起された同情が,素材の効果であるよりも,最も巧みに利用された形式の 効果であるような悲劇が,最も完璧な悲劇ということになろう。そのような 悲劇が,悲劇の理想とみなされるかもしれない。」45) シラーが彼の歴史劇『ヴァレンシュタイン』の制作に着手したのは,すで に見たように,この論文の発表から約 4 年半のちの 1796 年 10 月であった から,その間の芸術論的省察によって,彼の悲劇論的見地にはなおいくばく かの前進と深化があったかもしれないが,いずれにもせよ,『ヴァレンシュ タイン』の形式や内容を考察する上で顧慮されるべき重要な資料であると思 われたので,いささか訳出箇所が多過ぎたきらいはあるものの,作者自身の 理論的発言として紹介した次第である。
第 7 節 ゲーテの作品制作への関与
シラーが,1794 年 7 月 20 日のイェーナにおける自然研究会の会合のあと, たまたま同様に出席していたゲーテと一緒に帰り道を歩きながら,先ほどの 自然研究会における講演についての批判的な意見を述べたことから,二人の 間には対話が始まった。興味を覚えたゲーテは,シラーの自宅に立ち寄ると, 彼の見たという「ある象徴的植物」の絵を描いた。ところが,シラーが,そ れに対して,「それは経験ではありません,理念です」と応じたことから,二人は一層深い理論的対話に進み,最後に意気投合して,その後の詩作活動 の協力を確約した46)。それ以来,シラーは,ゲーテと極めて親密な交友関係 を結んでいたので,『ヴァレンシュタイン』の想を練ることに専念するよう になった 1797 年2月には,ゲーテにこの作品のはじめの部分のプランにつ いて詳しく話すまでになっていた。ヴィルペルト編著『シラー年表』ほかに よれば,その後両詩人は頻繁に会って種々の話題について話し合っている。 そのとき,話題が『ヴァレンシュタイン』に及ぶことも稀ではなかったのに 相違ない。実際,例えば,同年 5 月 21 日には,シラーはでき上った序幕『ヴァ レンシュタインの陣営』を読んでゲーテに聞いてもらっている。翌日に,ゲー テは,この作品を 3 部作にすることへの助言をしている。その後も,シラー は,作品の原稿ができ上がる度に読んでゲーテに聞いてもらっていることが, ヴィルペルト編著『シラー年表』に記載されている47)。シラーが 1797 年 6 月上旬に物語詩の制作を開始したのも,詩的表現の一層の琢磨のためのゲー テの勧めによるものであったのかもしれない。1798 年 9 月 21 日にシラーは 『ヴァレンシュタイン』3 部作の広告文をコッタ書店へ送付しているが,シ ラーがこの作品の構成をそのようにすることに決めたのも,さきに触れた ゲーテの勧め48) に基づくものであったのに相違ない。作品の中に占星術の場 面を導入することの可否については,シラーはゲーテに助言を求め,占星術 を用いることを強く勧めたゲーテの意見に同意して,占星術の場面の導入に 踏み切ったことは,1798 年 12 月 11 日付のゲーテあての手紙49) によって知 ることができる。
第 8 節『ヴァレンシュタイン』のプロローグ
シラーは,この劇が,改装成ったヴァイマル劇場の落成記念上演劇である ことから,はじめに,俳優の一人が観客に語りかける形の前口上を添えた。 このプロローグでは,例えば,劇場は諧謔的仮面や厳粛な仮面の俳優たちの演技の場であるが,同時にそれは芸術によって飾られる晴れやかな聖堂でも あるという見方が表明されている。そのような見方は,明らかに,シラーが 劇作へのはやる気持を抑えて取り組んだ哲学的・芸術論的省察の最大の成果 としての論文『人間の美的教育について,一連の書簡として』における芸術 仮象論や「遊戯衝動」論,『悲劇芸術について』において説かれた深奥の道 徳的世界秩序の予感における一種のカタルシスの論を踏まえたものである。 このプロローグは,また,やがて舞台上に展開する出来事の大筋を次のよ うに予告するものでもあった。 党派の愛と憎しみによって混乱させられて 歴史における彼の性格像は揺れていますが, ここでは芸術が彼を皆さまのお眼にもお心にも 人間的なものとしてお近づけいたします。 なぜならば,すべての物事を,制限 または結合する芸術は, あらゆる極端なものをも自然に戻すからです。 芸術は,人間を生の衝動において眺め, 彼の罪過の大半を 不運な星辰の動きに帰するのです50) 。 そして,シラーは,このプロローグを,次のような詩行で結んでいた。 ミューズの女神が,真実の暗い情景を 芸術の晴れやかな国に移し替え, 芸術の創り出した幻影をみずから 真顔になって打ちこわして, 芸術の創り出した仮象を真実といつわり
すり替えることなどしないことを, 女神に感謝いたしましょう。 人生は厳しくとも,芸術は晴れやかです51) 。
注
1) 拙著『シラー』清水書院刊,新装版,41 ページ―64 ページ参照。ケルナー はシラーを亡命地のマンハイムでの生活上経済上の窮状から救い出して約2 年間の寄寓によって彼の自由な作家活動への道に踏み出すことを助けた人で ある。 2) そのときはまだイタリアに滞在していて不在であった。 3) 実は,シラーは,名目上は歴史学担当助教授であったけれども,正式には 哲学担当であったから,彼は美学講義をもするようになり,やがて死の誤報 が流れるほどの大病を患ったときにデンマーク王子から贈られた3年間の援 助金に支えられて静養と研究の余暇を得たときに手に取ったカントの著作, 特に『判断力批判』に魅了されて,それを耽読すると同時に,自己独自の芸 術論的思想の展開の機縁を見出して,それまでなかなか親しく交わることが できなかったゲーテとも終生かわることのない友情を結ぶことができ,彼等 の古典主義的思想と文学を確立するに至るのである。4) Schillers Werke, Nationalausgabe (NA), Bd.26,S.71.
5) NA,Bd.26,S.141. 6) Vgl.ebd.S.350.
7) „Geschichte des dreißigjährigen Krieges“, 4. Buch, NA,Bd.18,S.327ff. 8) NA,Bd.20,S.166ff.
9) „Zum Shakespeares Tag“, Goethes Werke, textkritisch durchgesehen von Werner Weber
und Hans Joachim Schrimpf, 1953 Hamburg, Bd.12,S.226. 10) Vlg. Brief an Körner, NA, Bd.28, S.309.
11) Vgl. Schiller-Chronik, hrsg. v. Gero von Wilpert, 1958 Stuttgart, S.202.
12) Vgl. ebd. 233.
13) Brief an Goethe v. 5.5.1797, NA, Bd.29, S.72f.
Abhandlungen, versehen, von Michael Conrad Curtius, DOCUMENTA SEMIOTICA, hrsg. v. Walter A. Koch, Serie 2, Litteraria, 1973 Hildesheim, New York; S.19; Neuntes Capitel. Von dem Unterscheide des Dichters und des Geschichtschreibers, wie auch, von der Fabel und von den Episoden.
„Aus dem angeführten erhellet, daß eines Dichters Pflicht nicht sey, zu erzählen, was geschehen ist, sondern was hätte geschehen sollen, und nach der Wahrscheinlichkeit oder Nothwendigkeit, hat geschehen können.[...] Der Unterscheid zwischen beyden beruhet vielmehr darauf, daß der Geschichtschreiber erzählet, was geschehen ist: der Dichter aber, was geschehen sollte. Die Dichtkunst ist desfalls philosophischer und lehrreicher, als die Historie, weil sie auf das Allgemeine, die Historie aber nur auf das Besondere, gehet. Das Allgemeine aber ist, was einer, vermöge eines gewissen Charakters, nach der Wahrscheinlichkeit redet, oder thut. Dieses Allgemeine ist der Endzweck der Dichtkunst, auch wenn sie den Personen besondere Namen beyleget.“ (S.19) „Anmerkung dazu: (S.147) Aristoteles hat bewiesen, daß das Trauerspiel eine vollständige Handlung enthalten, daß es die Triebfedern der Handlungen und deren Wirkungen, entdecken, und daß die Theile desselben so genau mit einander verknüpft seyn müssen, daß eines aus den andern entweder nothwendig folge, oder doch wahrscheinlicher Weise folgen könne.“ 15) „Über Bürgers Gedichte“, NA, Bd.22, hrsg. v. Herbert Meyer, Wermar 1958, S.246. 16) Ebd.
17) A.a.O., S.253.
18) NA, Bd.29, hrsg.v. Norbert Oellers u. Frithjof Stock, Weimar 1977, S.265f. 19) NA, Bd.20, hrsg.v. Benno von Wiese, Weimar 1962, S.105.
20) Vgl. Schiller-Chronik, S.79.
21) „Die Räuber“, NA, Bd.3,hrsg.v.Herbert Stubenrauch, Weimar 1953, 135.
22) Dilthey, Wilhelm: „Wallenstein“, in: Schillers Wallenstein, hrsg.v.Fritz Heuer u. Werner
Keller, Darmstadt 1977, [Nachdruck von Wilhelm Dilthey, Von deutscher Dichtung und Musik, aus den Studien zur Geschichte des deutschen Geistes, Leipzig u. Berlin 1933, S.380―412], S.102.
23) „Maximen und Reflexionen“, Nr.749, Goethes Werke, Hamburger Ausgabe in 14
Bänden, Hamburg 1956, Bd.12, S.470. 24) A.a.O. Nr.750, S. 471.
26) Ebd., Nr.752.
27) Brief an Körner v. 18. Februar 1793, NA, Bd. 26, hrsg. v. Edith Nahler u. Horst Nahler, Weimar 1992, S.192. „Zeigt sich nun ein Objekt in der Sinnenwelt bloß durch sich selbst bestimmt, stellt es sich den Sinnen so dar, daß man an ihm keinen Einfluß des Stoffes oder eines Zweckes bemerkt, so wird es als ein Analogon der reinen Willensbestimmung (ja nicht als Produkt einer Willensbestimmung) beurtheilt. Weil nun ein Wille, der sich nach bloßer Form bestimmen kann, frey heißt, so ist diejenige Form in der Sinnenwelt, die bloß durch sich selbst bestimmt erscheint, eine Darstellung der Freiheit, denn dargestellt heißt eine Idee, die mit einer Anschauung so verbunden.“ 28) NA, Bd. 20, S.353.
29) A.a.O., S.14.
30) „gegenständliches Denken“, Goethes Werke, vollständige Ausgabe letzter Hand, 50.
Bd., Stuttgart u. Tübingen 1833, S.95.
31) Vgl. „Glückliches Ereignis“, Goethes Werke, Hamburger Ausgabe in 14 Bdn., Hamburg
1959, Bd.10, S.540ff.
32) Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft, hrsg.v. Karl Vorländer, Der philosophischen
Bibliothek Band 39, Hamburg 1954, S.56.
33) „freie Schönheit“, Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft, hrsg.v. Karl Vorländer, Der
philosophischen Bibliothek Band 39, Hamburg 1954, § 16, S.69.
34) Shaftesbury, Anthony Ashley Cooper Third Earl of: Characteristics of Men, Manners, Opinions, Times, 1711, (Nachdruck der Ausgabe London 1711), Volume II, “Forming
Form”, S.405.
35) NA, Bd. 26, a.a.O, S. 191.
36) Goethes Werke in 14 Bdn., Bd.13, textkritisch durchgesehen und mit Anmerkungen
versehen v. Dorothea Kuhn, Hamburg 1955, S.30f.
37) Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft, § 77. Von der Eigentümlichkeit des
menschlichen Verstandes, wodurch uns der Begriff eines Naturzwecks möglich wird. 38) „Urpflanze“: Goethes Werke, Hamburger Ausgabe in 14 Bdn., Bd.11, hrsg.v. Herbert v.
Einem, Hamburg 1950, Zweiter römischer Aufenthalt, S.374. 注 30)参照。
39) „Die Räuber. Ein Schauspiel. 1781“, in Schiller und sein Kreis in der Kritik ihrer Zeit, hrsg.
v. Oscar Fambach, Berlin 1957, S.1.
41) A.a.o., S.140. 42) NA, Bd. 20, S.155ff.
43) Vgl. Leibniz, G.W.: Die Theodizee, Übersetzung v. Artur Buchenau, Hamburg 1968, 2.
Auflage, (Philosophische Bibliothek B. 71), S.107, 134f.
44) Vgl. Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft § 86. „Von der Ethikotheologie“, S.312ff.
45) NA, Bd.20, S.164ff.
46) Vgl. „Glückliches Ereignis“, Goethes Werke, Bd.10, textkritisch durchgesehen v.
Lieselotte Blumenthal, S.538ff.
47) Vgl. Wilpert, Gero von: Schiller-Chronik, S.209ff.
48) A.a.O., S.209.
49) NA, Bd.30, Weimar 1961, hrsg.v. Lieselotte Blumenthal, S.10f.
50) „Wallenstein“ Ein dramatisches Gedicht, Friedrich Schiller, sämtliche Weke, hrsg.v.
Gerhard Fricke u. Herbert G. Göpfert, zweiter Band, München 1965, S.273, V.102―110. 51) A.a.O., S.274, V.133―138.
参考文献
Schillers Werke, Nationalausgabe, Bd. 3, 18, 20, 22, 26, 28, 29, 30.
Schiller, Friedrich: Sämtliche Weke, hrsg.v. Gerhard Fricke u. Herbert G. Göpfert, zweiter
Band, München 1965.
Goethes Werke, textkritisch durchgesehen von Werner Weber und Hans Joachim Schrimpf,
1953 Hamburg, Bd.10, 12, 13.
Goethes Werke, vollständige Ausgabe letzter Hand, 50. Bd., Stuttgart u. Tübingen 1833.
Aristoteles: Dichtkunst, ins Deutsche übersetzet, mit Anmerkungen, und besondern
Abhandlungen, versehen, von Michael Conrad Curtius, DOCUMENTA SEMIOTICA, hrsg. v. Walter A. Koch, Serie 2, Litteraria, 1973 Hildeheim, New York.
Dilthey, Wilhelm: „Wallenstein“, in: Schillers Wallenstein, hrsg.v.Fritz Heuer u. Werner Keller,
Darmstadt 1977, [Nachdruck von Wilhelm Dilthey, Von deutscher Dichtng und Musik, aus den Studien zur Geschichte des deutschen Geistes, Leipzig u. Berlin 1933.] Fambach, Oscar(hrsg.): Schiller und sein Kreis in der Kritik ihrer Zeit, Berlin 1957.
Kant, Immanuel: Kritik der Urteilskraft, hrsg.v. Karl Vorländer, Der philosophischen
Leibniz, G.W.: Die Theodizee, Übersetzung v. Artur Buchenau, Hamburg 1968, 2. Auflage,
(Philosophische Bibliothek Bd. 71.)
Shaftesbury, Anthony Ashley Cooper Third Earl of: Characteristics of Men, Manners, Opinions, Times, 1711, (Nachdruck der Ausgabe London 1711).