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香港映画史再考――言語の視角から(西村正男)

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近年、かつてに比べ香港映画に勢いがなくなった、とい う言説を目にする機会が多くなった。一九九七年の香港返 還に伴う人材の流出、二〇〇三年の新型肺炎SARSの流 行など、香港映画にとって過酷な出来事が続いたのは事実 だが、実際のところは今なお香港の映画人たちの活躍が目 立っている。一方では北上して中国大陸の資金と観客を得 て、中国語圏を股にかけた活躍を見せる 陳 ピーター ・ チャン 可辛 のような映 画人もいる。その一方で、香港に留まり、香港というロー カルな土地に根ざした映画を撮り続ける 許 ア ン ・ ホ イ 鞍華 、 爾 イー ・ トンシン 冬陞 も おり、彼らの監督作は高く評価されている。それにもかか わらず、どうして香港映画の不振を嘆く声が目立つのだろ うか。 例えば、次のような文章がある。 「だ が 二 一 世 紀 に 入 り、 香 港 映 画 は に わ か に 勢 い を 失 っ た。 (中 略) た ち ま ち の う ち に、 中 華 民 族 共 通 の 夢としての武俠アクションを大陸で撮ることが主流と 化した。その大渦のなかに呉宇森も 陳 ピーター ・ チャン 可辛 も 周 チャウ ・ シンチー 星馳 も 呑み込まれ、以前彼らが作っていた香港の街角に根ざ す タ イ プ の 映 画 は す っ か り 影 が 薄 く な っ た。 (中 略) と き お り 現 れ る い に し え の 香 港 テ イ ス ト を も つ 作 品 が、従来からのファンの渇きをいやしてくれる程度な の だ。 し か し、 あ ま り 悲 観 は す る ま い。 か つ て 七 三 年、香港における広東語映画製作本数は 零本 0 0 にまで落

第Ⅰ部

映画大国

香港映画史再考

言語

視角

西村正男

ちた。そこから蘇ったのが現代香港映画なのである」 (野崎 二〇一二:九八、ルビは原文のまま) ここでは、香港映画は香港出身の監督が大陸で撮る映画 と 区 別 さ れ、 「香 港 の 街 角 に 根 ざ す」 こ と が そ の 要 件 と さ れ る。 さ ら に、 「現 代 香 港 映 画」 が 広 東 語 映 画 の 一 時 的 死 滅 か ら 蘇 っ た も の と さ れ て い る こ と か ら は、 「現 代 香 港 映 画」は広東語映画とほぼ同意義であることが読み取れる。 つまり、制作現場や市場に中国大陸が含まれたり、使用言 語 が 広 東 語 で は な く 北 京 語 で あ っ た り す る と、 オ ー セ ン テ ィ ッ ク な 香 港 映 画 と は 見 な さ れ な い の で あ る。 も ち ろ ん、 こ の 文 章 の 筆 者 は、 そ れ 以 前 の 香 港 に お い て 北 京 語 (国 語) 映 画 と 広 東 語 映 画 の 共 存・ せ め ぎ あ い が あ っ た こ とも記しているが、香港が「トランジット地点」から「市 民意識を持つ者たちの共同体」となることで、 (広東語の) ニューウェイヴ映画を生んだ、と結論づける。 私はこの筆者のニューウェイヴ以降の香港映画に対する 知識、愛情と、その鋭い分析に敬意を抱きながらも、香港 を 確 固 と し た 一 枚 岩 の「共 同 体」 と 捉 え、 北 京 語 = 国 語 (映 画) を そ こ か ら 排 除 す る 構 図 に は 違 和 感 を 感 じ ざ る を 得ない。歴史的にも一枚岩の「香港映画」が存在したと考 えるのは困難であるし、また、ニューウェイヴ映画全盛期 にあっても現在にあっても香港映画は決して単一の共同体 のために作られているわけではなく、言語も内容も一枚岩 ではないと考えるからだ。 本稿では、過去から現在までの香港映画が言語的に複数 性を保持してきたことを分析する。その上で、香港映画史 を閉じられた共同体の「一国映画史」に準じるものとして 考えるのではなく、開かれた交差点として捉える視座を提 出 し た い。 な お 本 稿 で は、 中 国 語 の 標 準 語 に つ い て は 以 下、香港での一般的呼称である「国語」を使用することと する。

無声映画

香港で初めて映画が撮影されたのは一八九八年のこと。 トーマス・エディソンが派遣した撮影隊が香港の風景を撮 影 し た も の で あ る (周 ほ か 二 〇 〇 九: 二 一 ― 二 八) 。 そ の 後、一九〇九年にロシア系アメリカ人ブロツキーが上海に 設立した亜細亜影戯公司によって香港で『アヒルの丸焼き 泥 棒』 が 撮 ら れ、 や は り ブ ロ ツ キ ー の 華 美 公 司 の も と で 黎 ライ ・ マンウァイ 民 偉 が 一 九 一 四 年 頃 に『荘 子 妻 を 試 す』 を 撮 っ た * 1 。 そ れから徐々に香港の映画産業が興隆していくことになるの だが、留意すべきは、この時代は無声映画であったため観 客にとって言語の障壁が少なかったことである。西洋の映

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画も、無料で映画の説明書が配布されることにより、英語 を 解 さ な い 観 客 も 英 語 の 字 幕 の み で も 理 解 で き る よ う に な っ て い た (方 一 九 九 七: 五) 。 一 九 二 〇 年 前 後 に は 上 海 で製作された記録映画や京劇映画が香港でも 立て続けに 上 映されている (周ほか 二〇〇九:六一) 。 香港の映画製作は、その後も上海と軌を同じくして発展 していった。一九二三年、黎民偉は二人の兄とともに香港 に映画会社「民新」を設立するが、そこにはハリウッドや 上海で映画製作に関わった関文清も参画していく。この会 社は一九二五年に閉鎖するも翌年、黎民偉は上海で李応生 とともに会社を再興、やがて李応生と訣別して一九三〇年 に は「聯 華」 の 設 立 に 関 わ る。 「聯 華」 は 上 海 の み な ら ず、黎民偉の兄、黎北海が香港で経営していた香港影片公 司を「第三製片廠」として加え、一九三四年まで存続する (周 ほ か 二 〇 〇 九: 六 一 ― 九 三) 。 こ の 間、 も ち ろ ん 上 海 「聯 華」 の フ ィ ル ム も 香 港 で 上 映 さ れ て い た (方 一 九 九 七: 七) 。 こ の「民 新」 か ら「聯 華」 へ の 流 れ か ら も、 香 港の映画界が上海と密接な関わりを持っていたことが窺え る。さらに、一九三三年にはショウ・ブラザーズの前身と なる上海天一公司が香港で広東語トーキーの粤劇映画『白 金の龍』を製作し、その後、他の会社も広東語トーキー映 画 の 製 作 に 乗 り 出 す こ と に な る (周 ほ か 二 〇 〇 九: 九 五 ― 一 一 一) 。 特 に 初 期 広 東 語 ト ー キ ー の 制 作 会 社 と し て 重 要 な「大観」も、関文清が趙樹 燊 とともにアメリカで設立し たのがその出発点となっている。 以 上 か ら 見 て 取 れ る こ と は、 無 声 映 画 の 時 代 に せ よ、 トーキーの時代にせよ、歴史的要因により数度の中断を余 儀 な く さ れ た 香 港 の 映 画 製 作 は 上 海 と 密 接 な 関 わ り を 持 ち、いわば上海映画の弟分として発展していったというこ とである。また、上海のみならず、アメリカとの関わりも 無視できない。香港映画の礎は、決して閉じられた空間で 打ち立てられたのではなく、上海や海外との相互作用の中 で形成されたのである。

女優

香港映画

上海映画

さて、このように香港映画界は上海映画界と密接な関係 を持っていたとはいえ、トーキーの時代に入ると言語の壁 が生じる。上海映画は基本的に北京の言葉を中心に作られ た国語で吹き込まれ、香港映画は広東語で吹き込まれるこ とになったのである。 ここでは、三名の広東籍女優がこのようなトーキーの時 代にどのように対処したかを見てみたい。 ま ず 伝 説 的 存 在 と な っ た 大 女 優、 阮 ロアン ・ リンユィ 玲 玉 (一 九 一 〇 ― 一 九 三 五) で あ る。 彼 女 は 広 東 出 身 だ が、 上 海 で 育 っ た。 そ してサイレント時代の上海映画界の大スターの座を手に入 れた。彼女は男性問題のスキャンダルにより自ら命を断っ てしまう。だが、国語をうまく話せなかった彼女の自殺に は も う ひ と つ の 要 因 が あ っ た と い う 見 方 も あ る。 女 優・ 黎 リー ・ リーリー 莉 莉 の 回 想 に よ る と、 「阮 玲 玉 の 死 も、 一 つ に は プ ラ イ ベートな恋愛問題もあったけど、もう一つにはトーキーが 出てきたことも関係していたでしょうね。いまみたいにア テ レ コ は で き な か っ た か ら」 (黎 一 九 九 二: 一 二) と い う。ことの真偽はともかく、確かに北京方言を中心として 作 ら れ た 国 語 が 話 せ る か ど う か は、 上 海 の 映 画 人 に と っ て、トーキー時代に生き残っていけるかどうかを左右する 重要な要素であった * 2 。 一方、阮玲玉の死後、上海映画界のスターダムにおどり 出 た の が、 も う 一 人 の 広 東 籍 の 女 性、 胡 フー ・ ディエ 蝶 (一 九 〇 七 ― 一 九 八 九) だ っ た * 3 。 阮 玲 玉 と 同 じ く 上 海 生 ま れ だ が、 国 語 も 広東語も操ることができた。自伝ではあまり触れられてい ないが、そのことは彼女の女優生活に大きく影響したはず である。彼女の特殊性がもっとも現れるのは、日中戦争の 勃発後、上海の映画人が香港に移ってきてからのことであ る。第二次上海事変の勃発に伴い、上海の多くの映画人が 内地や香港に活路を求めた。その後の上海~香港映画史に 大 き な 足 跡 を 残 す こ と に な る 張 ジャン ・ シャンクン 善 琨 (一 九 〇 五 ― 一 九 五 七) の「新 華」 も 香 港 で の 映 画 製 作 に 乗 り 出 し、 単 独 で 映 画を制作し、また香港の会社と合同でも映画を制作した。 こ れ ら の 映 画 の 音 声 は、 ほ と ん ど が 広 東 語 で は な く 国 語 だったが、そのうち南粤公司と共同で制作した一九三八年 の『頬紅に涙』は特殊なケースである。これは阮玲玉主演 の『女 神』 (一 九 三 四) の リ メ イ ク で あ り、 広 東 語 版 と 国 語版が同時に撮影され、ほとんどのスタッフとキャストは 別々であったものの、広東語も国語も話すことができた胡 蝶 は 双 方 に 主 演 し て い る の で あ る (方 一 九 九 七: 三 七) 。 一 説 に よ る と、 先 に 南 粤 公 司 が 広 東 語 版 を 制 作 し、 「新 華」がその後でその国語版を完成したといい、胡蝶の出演 料は広東語版が千元であったのに対し、国語版は五千元と い う、 当 時 の 香 港 の 水 準 で は 破 格 の 金 額 で あ っ た (余 一 九 九 七: 一 七 七) 。 彼 女 は 戦 後 の 一 九 四 六 年 に な っ て 再 び 香港にやって来て、断続的に映画に出演する。基本的には 国語映画に出演することが多かったが、女優生活の最晩年 にあたる一九六〇年代に入ると、 『孝の道』 『新・姉妹花』 『母の愛』などの広 東 語 映 画 に も 数 多 く 出 演 し て い る ( 胡 一 九 八 六 : 二 七 四 ; 一九九七:八三) 。最後まで、国語と広 東語を股にかけた活躍を続けたのである。 こ こ で 取 り 上 げ る 三 人 目 に し て 最 後 の 女 優 が 陳 チェン ・ ユンシャン 雲 裳 ( 一 九 一 九 ― ) で あ る * 4 。 彼 女 は 先 の 二 人 と は 異 な り 香 港 の 広 東 語 映 画 で デ ビ ュ ー し 、 上 海 の 国 語 映 画 へ と 進 出 し て い っ た 稀 有 な 存 在 で あ る 。 彼 女 は 広 州 で 生 ま れ 育 ち 、 同 地 で 新 劇

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の 舞 台 に 立 っ て い た と こ ろ を ス カ ウ ト さ れ 、 香 港 に 渡 り 、 一九三五年夏から一九三八年末までに三四本もの広東語映 画 に 出 演 し た 。 だ が 上 海 映 画 界 の 大 物 ・ 張 善 琨 に 見 出 さ れ 、 国 語 を 話 せ る こ と か ら 上 海 映 画 に 出 演 す る こ と に な る * 5 。『木 蘭従軍』 (一九三九) などに出演した後、太平洋戦争以後、 上海が完全に日本の支配するところとなった後も映画に出 演 し 続 け、 『萬 世 流 芳』 (一 九 四 二) で も 重 要 な 役 ど こ ろ を 演じている。ところが、その後すぐに映画界から引退し、 戦 後 は わ ず か に 香 港 で 復 活 し た 張 善 琨 の「新 華」 の 三 作 品、 す な わ ち 復 活 第 一 作『曲 が っ た 月 が 全 土 を 照 ら す』 (一 九 五 二) 、『世 に 稀 な る 女 性』 (一 九 五 二) 、 オ ム ニ バ ス の『庭 中 が 春』 (一 九 五 二) に 出 演 す る の み で あ っ た。 国 語が話せた彼女は、その能力のお陰で上海へと活躍の場を 移し、ひいては日本支配下の上海映画にも出演することと なった。李香蘭こと山口淑子の回想によると、陳は満映と の合作映画である『萬世流芳』に出演することで売国奴と 罵る脅迫状を受け取ったと漏らしており、また日本側から は、軍艦「出雲」の艦長に花束を贈呈することを強要され た と い う (山 口 ほ か 一 九 九 〇: 二 九 五 ― 二 九 七) 。 自 ら が 政治的に利用されたことに対する思いも彼女の女優生活が 短 命 に 終 わ っ た こ と に 影 響 し た に 違 い な い。 そ も そ も 当 初、張善琨が彼女を香港から上海に連れて行ったのは、香 港に居を構え上海に戻ろうとしない胡蝶のために、ロケ隊 を引き連れて香港に撮影に来ることが割に合わないと思っ たからだという説もある * 6 。彼女が国語を話すことができな け れ ば 胡 蝶 の 代 わ り に 上 海 に 行 く こ と は な か っ た だ ろ う し、売国の疑いをかけられることもなかっただろう。一方 の胡蝶は、上海には戻らず香港陥落後は国民党重鎮の戴笠 に想いを寄せられ、重慶で軟禁生活の日々を過ごした。し かし、そのことは彼女を対日協力などの政治のしがらみに 巻き込まれることから防ぎ、結果的に一九六〇年代に至る まで長い女優生活を全うすることとなったのである。 以上、三人の広東籍女優の上海・香港映画界との関わり について概観した。国語が話せなかった阮玲玉の活躍の場 がトーキーに限られたのに対し、胡蝶と陳雲裳は、広東語 と国語の能力により上海映画と香港映画の間を往来するこ とができた。しかしながら、そのことは彼女たちの運命を 大きく左右したのである。

広東語映画

国語映画

さて、先に胡蝶に触れた際に確認したように、日中戦争 の勃発に伴い、上海から一部の映画人が香港に移住し映画 を製作するようになるが、彼らが製作した映画のほとんど が国語映画だった。これ以降、香港映画の多言語的性格が 決定的なものとなっていくが、それには単に映画人が移動 しただけでなく、一般の人々も戦乱に伴いイギリス植民地 であり安全な香港へと移住したこととも関連している。す なわち、香港映画の特徴は、移民の町としての香港の性格 と切り離せないのである。 そもそも、盧溝橋事変により全面的な日中戦争に突入す る以前から、広東語映画の立場は盤石ではなかった。特に 一九三五年以降広東語トーキーの製作が本格化するが、言 語 的 統 一 を 求 め る 国 民 政 府 の 製 作 と の 間 で 軋 轢 が 生 じ る (ま た、 そ れ を 機 に、 一 時 は 香 港 を 上 回 る 製 作 本 数 を 誇 っ た 広 州 の 映 画 製 作 は 衰 え て い く) 。 一 九 三 六 年 春、 中 国 国 民 政 府の中央電影検査委員会は突然方言映画の撮影の禁止を宣 告する。イギリス植民地の香港も、中国領土内の広東を市 場としている以上無視できない問題となり、広東語映画業 者は請願を行って、広東語映画の持つ強化の役割を強調、 その結果、この禁令は厳格に運営されることはなかった * 7 。 そうして、日中戦争の時期に入ると国語映画と広東語映 画の二元体制が確立していくが、映画の本数自体は当初は 広東語のほうが圧倒的に多かった。一九三八年の香港では それ以外にも当時のフランス領インドシナ向けのベトナム 語映画も二本作られている (余 一九九七:一九〇) 。 太平洋戦争の時期になると香港は日本の軍政下に入り、 多くの映画人は香港を脱出することとなった。日本軍政下 の 香 港 で 撮 ら れ た 映 画 は『香 港 攻 略   英 国 崩 る ゝ の 日』 (大映、一九四二) 一本のみである * 8 。 戦 後 、 香 港 で の 映 画 製 作 が 再 開 し た の は 一 九 四 六 年 で あ る が 、 最 初 に 製 作 さ れ た 『 蘆 の 花 は し お れ 白 燕 は 飛 ぶ 』 も 最 初 に 上 映 さ れ た 『 情 熱 の 炎 』 も 国 語 映 画 だ っ た ( 余 一 九 九 八 : 八 二 ― 八 八 * 9 ) 。 だ が、 日 中 戦 争 後 か ら 一 九 五 〇 年 代 は じ め に かけて多くの映画人が上海から香港へと移住してきたとは い え、 製 作 本 数 で は 広 東 語 映 画 が 国 語 映 画 を 圧 倒 し て い た。例えば、香港映画史上映画製作本数が初めて百本を超 えた一九四八年は、広東語映画が一二六本、国語映画が一 九 本 (こ の 一 九 本 の 中 に は『国 の 魂』 『清 宮 秘 史』 と い っ た 大作も含まれるのだが) であり (余 一九九八:一二六) 、翌 一九四九年は広東語映画が一五三本、国語映画が二七本で あ る (余 一 九 九 八: 一 七 一) 。 紙 幅 の 関 係 で 細 か い 会 社 の 変遷などは省略するが、国語映画も製作本数が徐々に増加 していき、豊富な資金を背景に、映画の質では広東語映画 を 圧 倒 し て い た (も ち ろ ん 広 東 語 映 画 で も 傑 作 は 時 折 生 ま れたものの) 。 その中でも国語映画界には大きな変化があっ た。一九五〇年代前半は上海から香港への移住組が香港の 国語映画界の中心を占めていたのに対し、少なくとも資本 の 上 で は「電 懋」 「邵 氏」 と い っ た 南 洋 に 資 金 源 を 持 つ 会 社が中心を占めることになる (韓 二〇〇七:六八―七一) 。 一九五〇年代の香港映画の言語的特徴として特筆すべき

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は、 広 東 語・ 国 語 映 画 以 外 に「厦 語 片」 (ア モ イ 語 映 画) と呼ばれるフィルム群が作られたことである。アモイ語映 画とは、マレー半島の福建系華僑を中心としたキャストに より作られた映画であるが、その主要なターゲットは、マ レー半島の福建系住民だけでなく、アモイと言語的共通性 を 持 つ 台 湾 (の 福 建 系 住 民) も 含 ん で い た。 一 九 五 九 年 に は香港の映画製作本数が初めて三百本を超え、そのうち広 東語映画は一六九本、国語映画は七六本、アモイ語映画は 八 九 本 (潮 州 語 映 画 九 本) と、 初 め て ア モ イ 語 映 画 の 本 数 が国語映画を上回った。ただし、アモイ語映画は一九六〇 年代に入ると急速に衰えることになる * 10 。 香港でこのように多様な言語の映画が作られたのは、香 港住民向けというよりも、東南アジアなどの住民を意識し たためであった。国語映画の場合は、さらに共産党の支配 する中国大陸と国民党の支配する台湾というマーケットを 意識せざるを得なかった。国語映画製作会社の中でも、左 派に属する「長城」や「鳳凰」などは中国大陸で上映可能 だ っ た が、 台 湾 で は 上 映 で き な か っ た。 逆 に、 張 善 琨 の 「新華」や南洋より進出した「電懋」 「邵氏」などの右派に 属 す る 会 社 は、 大 陸 で は 上 映 で き な か っ た が 台 湾 の マ ー ケットを頼りにしていた。 このように、香港で製作される映画の言語は必ずしも香 港の現状を反映したものとはいえず、むしろ映画が上映さ れる市場の事情に依拠した部分が少なくなかった。とはい え、香港自体も移民によって構成された街であり、人々の 話す言語も広東語に統一されていたわけではなかった。そ んななか、広東語と国語が飛び交う映画シリーズが製作さ れ た。 『南 北 和』 シ リ ー ズ と 呼 ば れ る 三 部 作 で あ る (写 真) 。製作したのは、国際電影懋業有限公司 (略称・電懋、 キ ャ セ イ) で あ っ た * 11 。 同 シ リ ー ズ は『南 北 和』 (一 九 六 一) 、『南 と 北 は 一 家』 (一 九 六 二) と『南 と 北 の 嬉 し い 出 会い』 (一九六四) からなり、また他社でも『南北の因縁』 (邵 氏、 一 九 六 一) 、『南 北 の 姻 戚』 (龍 鳳、 一 九 六 四) 、『南 北 の お し ゃ べ り 娘』 (麗 士、 一 九 六 五) な ど の 模 倣 作 が 作 ら れ た (河 本 二 〇 一 二: 五 七) 。 三 部 作 は す べ て 王 天 林 が 監督を務め、後二者は、日本支配下の上海~香港~アメリ カで活躍した作家・張愛玲が脚本を手がけている。映画は す べ て 北 方 (大 陸) と 南 方 (地 元 香 港) の 若 者 男 女 が 親 の 世代の対立を乗り越えて結ばれ、親の世代も和解するとい うストーリーであった。そして、その対立する親を演じた の は、 三 部 作 共 通 し て 香 港 の 粤 劇 (広 東 オ ペ ラ) ス タ ー の 梁 醒 波 (一 九 〇 八 ― 一 九 八 一) と、 満 洲 映 画 協 会 出 身 の 俳 優・ 劉 恩 甲 (一 九 一 六 ― 一 九 六 八) で あ り、 満 映 か ら 香 港 へ移動する劉の軌跡は興味深い。さらに注目すべきは、親 の世代に比して、子供の世代の俳優たちの多くは実際には 広東語と国語の両陣営に固定されていたわけではなく、広 東 語 映 画 と 国 語 映 画 の 間 を 越 境 し て い た こ と で あ る。 『南 北 和』 の キ ャ ス ト に 注 目 す る と、 国 語 を 話 す 家 庭 の 娘 役 だ っ た 丁 皓 (一 九 三 九 ― 一 九 六 七) は 電 懋 に 所 属 し て い た 時代は国語映画に出演していたが、同社を離れたあとは広 東語映画に出演するようになる。一方、広東語を話す家庭 の娘役である白露明は、実際にはこの当時から国語映画・ 広東語映画双方に出演している。もう一人、国語を話す家 庭 の 息 子 役 の 雷 震 (一 九 三 三 ―) は 国 語 映 画 に 出 演 し 続 け た が、 時 を 隔 て て 二 〇 〇 〇 年 に 上 映 さ れ た 王 ウォン ・ カーウァイ 家 衛 監 督 の 『花 様 年 華』 で は ヒ ロ イ ン・ 張 マギー ・ チャン 曼 玉 (一 九 六 四 ―) の 上 司 役で出演し、広東語を話している。このことは、親の出身 地にかかわらず、若い世代の間では香港で暮らすことで広 東語が実質的に標準語として機能していくことを示してい る。ところが、香港映画史においては、やがて国語映画が 香港映画を圧倒し、一九七二年には広東語映画は一旦「死 滅」することになる。いったいそれはどうして起きたのだ ろうか。

広東語映画

死滅

国語映画

隆盛

本数において国語映画を圧倒していた広東語映画だが、 一九六〇年代末には本数の上でも国語映画が広東語映画を 上回り、一九七一年二月から一九七三年九月にかけては広 東語映画が一本も作られなかった (方 一九九七:一九九) 。 いったいどうして広東語映画はこれほど急速に衰えたのだ ろうか。 当時の新聞雑誌等では、以下の四つの原因が挙げられて いたという。すなわち、第一に広東語映画の粗製濫造、第 二 に 無 料 の 広 東 語 テ レ ビ 放 送 の 開 始 (一 九 六 七 年) 、 第 三 に、 国 語 映 画 の 流 行 が 広 東 語 映 画 を 圧 倒 し た こ と (字 幕 の 出 現 は 言 語 の 壁 を 消 し 去 っ た) 、 第 四 に、 戦 後 に 成 長 し た 世 代 の 好 み の 変 化、 で あ る (鍾 二 〇 〇 四: 一 七 八) 。 一 方、 歴史学者の鍾寶賢は、産業面からその原因を分析し、第一 に「電 懋」 「邵 氏」 な ど の 南 洋 資 本 が 香 港 に 進 出 し、 デ ィ 写真『南北和』広告

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ストリビューターから映画製作にも乗り出すようになり、 製作、発行、放映に至るまで映画業界を壟断し、小規模な 広東語映画業の脅威となったこと、第二に、東南アジアの 民族運動が盛んになり、広東語映画の海外市場が縮小した こと、第三に広東語映画の不況を目にした映画館が国語映 画や西洋映画を上映するようになったことを理由に挙げて い る。 鍾 の 議 論 は、 「粗 製 濫 造」 あ る い は「好 み」 と い っ た漠然とした評価基準を広東語映画衰退の理由に求めるの ではなく、資本の面から理由を考えようとするという意味 では重要であるが、広東語映画の質の低さの問題やテレビ 放送との関係は無視できないのではないだろうか。いずれ にせよ、テレビ放送の開始と広東語映画の衰退は必ずしも 因果関係で結ばれるものではないかもしれないが、広東語 映画の衰退・復興とテレビ放送とは密接な関係がある。例 えば、広東語映画の衰退するなか、俳優たちは国語映画の 製 作 側 に 転 じ る 者 も い た が (鄧 光 栄、 呂 奇 な ど) 、 テ レ ビ 俳 優 と な っ て い く 者 も い た (鄭 少 秋、 王 愛 明、 沈 澱 霞 ら) 。 やがて、テレビ放送は広東語映画、さらには香港映画全体 の隆盛に対して大きな役割を果たすのだが、それは後述す ることにしよう。 さて、これまで見てきたように、一九六〇年代には香港 の国語映画が黄金時代を迎えた。一九五七年にそれまで香 港 の 国 語 映 画 界 を リ ー ド し て き た「新 華」 の 張 善 琨 が 死 去、 そ れ と 入 れ 替 わ る よ う に 南 洋 か ら「電 懋」 「邵 氏」 が 進 出 し て く る * 12 。「電 懋」 は、 日 本 の 東 宝 と 共 同 で 製 作 し た 宝 田 明・ 尤 敏 主 演 の『香 港 の 夜』 (一 九 六 一) か ら 始 ま る 「香港三部作」がもちろん日本でも上映されたし、 「新華」 「電懋」 「邵氏」いずれの会社も日本と協力関係を持ち、日 本 の 人 材 や 技 術 を 頼 り に し て い た (邱 二 〇 〇 七) 。 だ が、 これらの会社が市場として頼りにしていたのは南洋と台湾 だった。このような会社は、香港映画界においては右派会 社に分類され、台湾との密接な関係を保った。一方、左派 会 社 に 属 す る「長 城」 「鳳 凰」 な ど の 会 社 は 中 国 大 陸 の 市 場を頼りにしていた。中国大陸で見ることができた香港映 画はこれら左派会社のもののみであり、大陸の観客にとっ て左派会社の映画は数少ない資本主義社会の覗き窓の役割 を果たしていたのである。 ところで、もともと移民の町であった香港では、戦後、 香 港 生 ま れ が 人 口 全 体 に 占 め る 割 合 が 徐 々 に 高 ま っ て い く。 一 九 三 一 年 の 三 二・ 五 % か ら 一 九 六 一 年 に は 四 七・ 七%、一九六六年には五三・八%とついに過半数を突破す る (谷 垣 二 〇 〇 一: 二 一 三) 。 そ れ に つ れ て、 国 語 が 香 港 の人々にとって遠い存在となっていく。製作サイドにとっ てまず解決すべきことは、国語を話すことのできる俳優の 不足という問題だった。これを解決したのが他人による吹 替という方法であり、本格的にそれが採用されたのは張徹 (一 九 二 三 ― 二 〇 〇 二) 監 督 の『虎 が 仇 を 殲 滅 す る 』 (邵 氏、 一 九 六 六) で あ り、 そ の 後 の 香 港 の 国 語 映 画 製 作 に お いて一般化していく (魏 二〇一〇:四五二―四五三) 。 一方、映画の内容に目を向けると、歴史物や武俠映画な どで国語を用いることは全く不自然ではなかったが、同時 期の香港を描いた国語映画では、時に言語的に不自然な場 面が現れることも避けられなかった。広東語映画が死滅し て い た 時 期 に 撮 ら れ た 張 徹 監 督 の『若 い 人』 (邵 氏、 一 九 七 二) で は、 意 外 な こ と に 三 つ の 場 面 に お い て 広 東 語 が 流 れる。香港中文大学でロケを行ったこの「学園もの」は、 三人の男性主人公が活躍する。すなわち、狄龍はバスケッ ト・ボールの試合で大活躍し、陳観泰は武術大会で優勝、 さらに姜大衛はカーレースの試合で優勝するのだが、それ ぞれがテレビ放送されていて、アナウンサーが試合の模様 を実況する。その実況の言葉が広東語なのである。これは 当時の香港のテレビ放送の状況に合致するものであるが、 例えば台湾の観客はこれを聞いてもあまり理解できなかっ たであろう。どの程度リアルに香港を描くのか、そして映 画を見る対象をどの地域の人々と考えるかによってぶれが 生じてしまうのである。だが、一九七〇年代を通じて、国 語映画と広東語映画のバランスは、再び緩やかに変化して いく。

広東語映画

復権

一 旦 死 滅 し た 広 東 語 映 画 は ど の よ う に し て 復 活 し た の か。 こ の 問 題 に 対 す る 答 え と し て し ば し ば 言 及 さ れ る の は、 『七 十 二 軒 の 店 子』 (邵 氏、 一 九 七 三) と 『 Mr.Boo! ギャンブル大将』 (嘉禾、一九七四) の登場である。 『 七 十 二 軒 の 店 子 』 は 久 々 に 作 ら れ た 広 東 語 映 画 だ っ た。この物語はもともと上海方言を用いた芝居である「滑 稽戯」として一九五八年に作られ、その後一九六三年にま ず は 中 国 大 陸 の 広 州 の 珠 江 電 影 製 片 廠 に よ り 映 画 化 さ れ た。これは広東語が用いられ、中華人民共和国で撮られた 映画としては数少ない方言映画であった。だが楚原監督が 意識したのは、香港影視話劇団が演じた舞台の脚本だった (楚 口 述 二 〇 〇 六: 三 三 、 一 〇 一) 。 そ の 脚 本 を 当 時 の 香 港 の現実と結合して描こうとしたのだが、その際に「邵氏」 の俳優と同時にテレビ番組『歓楽今宵』のメンバーを起用 したことは興味深い (楚口述 二〇〇六:三三) 。その結果、 この映画は 李 ブルース ・ リー 小龍 監督・主演の 『ドラゴンへの道』 (嘉禾、 一 九 七 二) の 興 行 成 績 を 上 回 っ た (楚 口 述 二 〇 〇 六: 三 三) 。 一 方 、『 Mr.Boo! ギャンブル大将』 も テ レ ビ と 密 接 な 関 係

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き、 方 育 平 の『半 辺 人』 (一 九 八 三) は 台 湾 か ら ア メ リ カ 留学して香港に戻った男と少女との交遊を描く、などであ る。この新浪潮も、一九八三年頃には監督たちが商業映画 に取り込まれることによって評論家たちを失望させること と な っ た (羅 二 〇 〇 六: 二 五 五) 。 し か し な が ら、 そ の こ と は 香 港 映 画 を さ ら な る 繁 栄 へ と 導 く こ と に な る の で あ る。

九〇年代以降

香港映画

︱︱大陸 の 影 ニューウェイヴ以降の香港映画は、香港ノワールと呼ば れる犯罪もの、武俠映画、コメディ、恋愛ものなど、さま ざまなジャンルにおいて発展してきた。言語的にはほぼ広 東語一色と言える状況が形成されることになるが、本稿で は香港映画を閉ざされたものとして考えるのではなく他の 地域との交差点として捉える立場から、内容や言語の面に おいて中国大陸が香港映画の中にどのように立ち現れるか を、主に本稿の冒頭でも触れた陳可辛が監督した映画から 考察したい。 陳 ピーター ・ チャン 可 辛 (一 九 六 二 ―) は タ イ 華 僑 で あ っ た 映 画 監 督 の 父 のもと香港で生まれ、幼少期にタイに戻る。その後、アメ リカ、香港と移り、映画界に進むことになる。例えば徐克 と同様、彼もまた香港人というアイデンティティの外側に 位置していたと言えるかもしれない。彼は仲間とともに電 影 人 製 作 公 司 (U F O) を 設 立、 一 九 九 一 年 に 監 督 デ ビューするが、その初期のフィルムはもちろん広東語映画 だった。基本的に香港を舞台にした恋愛などの人間模様を 描いていた彼の初期のフィルムの特徴としては、しばしば 古 い 映 画 に 対 す る オ マ ー ジ ュ が 見 え 隠 れ す る と こ ろ に あ る。 例 え ば、 監 督 第 二 作 の『風 塵 の 三 俠 客』 (一 九 九 三) は 梁 トニー ・ レオン 朝偉 、梁家輝、鄭丹瑞の三人の恋愛模様を描いた映画 で、等身大の香港の若者の姿がコミカルに描写される。武 俠映画を思わせるような題名もその内容とのギャップが異 化効果を生んでいるのだが、音楽の面でも昔の映画を想起 させる。この中では「説不出的快活」という曲が主人公た ち に よ っ て (広 東 語 で) 歌 わ れ、 主 題 歌 的 な 役 割 を 果 た し ているのだが、この曲がもともと使われた映画は国語映画 『野 薔 薇 の 恋』 (電 懋、 一 九 六 〇) で あ り、 「電 懋」 の 最 盛 期のミュージカル映画であった。映画中、同曲を歌うのは 当 時 を 代 表 す る 歌 手・ 女 優 の 葛 グレース ・ チャン 蘭 、 作 曲 し た の は 日 本 か ら招かれた服部良一である * 14 。従って、等身大の香港を描い た広東語映画であるといっても、国語映画の伝統も意識さ れているのである。 そ の こ と は、 陳 可 辛 監 督 の 次 作、 『月 夜 の 願 い』 (一 九 九 三) で も 同 様 で あ る。 タ イ ム ト ラ ベ ル に よ り 主 人 公 は 四 〇 が あ る 。 日 本 で も 『 Mr.Boo! 』 シ リ ー ズ の 一 つ と し て 人 気 を 博 し た こ の 映 画 は 、 日 本 で の 公 開 順 と は 異 な り 、 許 冠 文 監 督 の 第 一 作 と な る コ メ デ ィ で あ る 。 監 督 自 身 と そ の 弟 の 許 サミュエル ・ ホイ 冠 傑 が 主 演 し た こ の 映 画 は 、 二 人 が 出 演 し た テ レ ビ ・ コ メ デ ィ 『 双 星 報 喜 』 か ら 発 展 し た も の と 言 え よ う ( 鍾 二 〇 〇 四 : 二 四 九 * 13 ) 。『 Mr.Boo! ギ ャ ン ブ ル 大 将』 は『七 十 二 軒 の店子』の記録を更新する興行成績を上げ、許冠文・許冠 傑兄弟はさらに二人の間に挟まれた兄弟である 許 リッキー ・ ホイ 冠英 を加 えて、その後も広東語映画のヒット作を連発していく。中 で も、 『 Mr.Boo! ギ ャ ン ブ ル 大 将』 同 様、 『 Mr.Boo! ミ ス タ ー・ ブ ー』 (一 九 七 六) お よ び『新 Mr.Boo! ア ヒ ル の 警 備 保 障』 (一 九 八 一) は、 香 港 の 映 画 興 行 成 績 を 更 新 す る 大ヒットとなった (魏 二〇一〇:四二) 。 し か し な が ら、 『七 十 二 軒 の 店 子』 『 Mr.Boo! ギ ャ ン ブ ル 大将』 以後、すぐに広東語映画が国語映画を圧倒したわけ ではないことには注意が必要だ。一九七六年までは、国語 映画の方が数の上で広東語映画を遙かに上回っている。一 九七七年になってようやく国語映画四二本に対し広東語映 画四五本と逆転し、翌一九七八年には国語映画二四本に対 し広東語映画七五本と、広東語映画の優位が決定的になっ た (と は い っ て も、 こ の 時 期 は 国 語 映 画 に せ よ 広 東 語 映 画 に せ よ 音 声 は 吹 替 で あ っ た た め、 製 作 現 場 に お い て 両 者 の 間 に 差 異 は な ん ら な か っ た) (鍾 二 〇 〇 四: 二 四 〇) 。 広 東 語 映 画の復権はもちろんテレビの広東語放送の発展と無関係で は な く、 一 九 七 〇 年 代 半 ば か ら 一 九 八 〇 年 代 前 半 に か け て、しだいにテレビ界から映画界へと活動の場を広げる人 材が増えていったことにある (鍾 二〇〇四:二七八) 。 な か で も、 注 目 す べ き は 香 港 新 浪 潮 (香 港 ニ ュ ー ウ ェ イ ヴ) と 呼 ば れ る 現 象 で あ る。 ベ ト ナ ム 華 僑 で あ っ た 徐 ツイ ・ ハーク 克 (一 九 五 〇 ―) 、 日 本 人 の 母 を 持 つ 許 ア ン ・ ホ イ 鞍 華 (一 九 四 七 ―) 、 譚 パトリック ・ タム 家 明 (一 九 四 八 ―) 、 厳 イム ・ ホー 浩 (一 九 五 二 ―) 、 方 アレン ・ フォン 育 平 (一 九 四 五 ―) ら の 監 督 た ち が そ の 代 表 格 で あ る が、 彼 ら も ま た テレビ出身であり、その多くは海外に留学して映画製作な どを学んでいる。彼らのスタイルはさまざまであるが、従 来の画一されたスタイルに囚われず、独自の映像を創りだ そ う と 努 力 し た。 本 稿 が 注 目 し て き た 音 声 に つ い て 言 え ば、従来のアフレコに対し、多くの映画では同時録音を行 い、それによって映画に臨場感をもたらしている。従って 言語としては、俳優が話すことができ、香港で一般的に使 われている広東語に限定されることになる。一方、内容面 では、監督たちが外国留学を経験していたため、文化を越 境する内容のものも多く見られた (羅 二〇〇六:二五六) 。 許 鞍 華 の『獣 た ち の 熱 い 夜   あ る 帰 還 兵 の 記 録』 (一 九 八 一) や『望 郷   ボ ー ト ピ ー プ ル』 (一 九 八 二) は と も に ベ ト ナ ム 難 民 を 扱 い、 譚 家 明 の『愛 殺』 (一 九 八 一) で は サ ンフランシスコと香港を行き来する精神障害者の殺人を描

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に北京で、周迅と張学友はともに大陸の人間、金城武は北 京に留学していたことのある香港人で、留学後香港で映画 スターになり、再び大陸に撮影にやって来るという設定で ある。実際に香港人である張学友が大陸の人間を演じ、逆 に金城武が香港人を演じている。回想シーンの舞台は冬の 北京で、その情景がノスタルジックに描かれる。このよう にして、この映画では香港は希薄な存在になっている * 17 。 陳 可 辛 監 督 は そ の 次 に や は り 国 語 映 画 の 『 ウ ォ ー ロ ー ド / 男 た ち の 誓 い 』 ( 二 〇 〇 七 ) を 撮 る 。 こ こ で は 香 港 の み な ら ず 大 陸 の 資 本 も 参 入 し 、 す べ て 中 国 大 陸 で 撮 影 さ れ て い る 。 ま た 、 出 演 者 が 中 国 大 陸 、 日 台 ハ ー フ 、 香 港 な ど か ら 集 ま っ て い る こ と も 、 前 作 と 共 通 し て い る 。 音 声 、 キ ャ ス ト 、 ロ ケ 地 の い ず れ か ら 見 て も 、 香 港 的 な 部 分 は ほ と ん ど な い 。 た だ 、 こ の 映 画 が 香 港 映 画 史 の 延 長 線 上 に あ る こ と を 想 起 さ せ る の は 、 設 定 は 多 少 異 な る も の の 、 こ れ が 「 邵 氏 」 全 盛 期 の 国 語 映 画 で あ る 『 ブ ラ ッ ド ・ ブ ラ ザ ー ス   刺 馬 』 ( 一 九 七 三 ) の リ メ イ ク 的 映 画 と な っ て い る こ と で あ る 。 陳可辛が中国大陸に新会社「人人電影」を設立した後に 監 督 し た『捜 査 官 X』 (二 〇 一 一) は、 今 の と こ ろ 彼 の 最 新 作 で あ る。 こ れ は 香 港 で は 広 東 語 (一 部 国 語) 版 が 上 映 さ れ、 そ の 他 の 地 域 で は 国 語 版 が 上 映 さ れ た 模 様 だ。 大 陸・台湾・香港出身のキャストが入り交じっているのは前 作、 前 前 作 と 同 様 で、 広 い 中 国 語 圏 (お よ び そ の 他 の 海 外) 向 け の 制 作 が 行 わ れ て い る こ と を 見 出 す の は 容 易 で あ る。だが、この映画の注目すべきところは、一九六〇年代 から一九七〇年代にかけて香港国語映画~台湾映画界の大 ア ク シ ョ ン ス タ ー と し て 活 躍 し た 王 ジミー ・ ウォング 羽 (一 九 四 三 ―) を 起用しているところである。一九八〇年代のアクションス ター女優、 恵 クララ ・ ウェイ 英紅 も出演しているほか、 甄 ドニー ・ イエン 子丹 が演じる役 名は唐龍であり、これは『ドラゴンへの道』における李小 龍 の 役 名、 あ る い は そ れ に ち な ん で 付 け ら れ た 李 小 龍 の そっくりさん俳優の芸名でもあった。このようなディテー ルに気づけば、陳監督が以前同様、国語映画を含む香港映 画史に対するオマージュを捧げていることに気付かされる のである。 一九九〇年代の広東語映画一色の時代にあって、古い国 語 映 画 へ の オ マ ー ジ ュ を 捧 げ た 監 督 と し て は、 爾 イー ・ トンシン 冬 陞 (一 九 五 七 ―) の 名 を 挙 げ る こ と が で き る。 秦 沛、 姜 大 衛 と い う二人の俳優を異父兄に持ち、自身も「邵氏」のスター俳 優だった彼は、一九九三年に撮った監督第四作『つきせぬ 想い』によって人気監督となる。香港を舞台にしたこの純 愛ドラマは、全篇広東語ではあるが、やはりかつての国語 映画に淵源がある。題名からもわかるようにこれは林黛が 主 演 し た 国 語 映 画『尽 き る こ と の な い 想 い』 (邵 氏、 一 九 六 一) の 枠 組 み を 借 り た も の で あ る * 18 。 爾 冬 陞 は、 他 の 監 督 が北上し、大陸からの資金を得て大作映画を作る傾向とは 年前の世界へと旅立つのだが、その過去の世界の下敷きと なっているのは、明らかに先述の『七十二軒の店子』であ る。 一 方、 映 画 の 中 で は、 『風 塵 の 三 俠 客』 同 様、 国 語 映 画・流行歌曲界の大スター・葛蘭が国語で歌った「我要你 的愛」を広東語で歌うシーンが挿入されている。つまり、 広東語映画の復活のきっかけとなった映画にオマージュを 捧げると同時に、香港の国語歌謡への敬意が表れているわ けである。 陳 可 辛 が 香 港 (映 画) = 広 東 語 と い う 観 念 を さ ら に 揺 り 動 か す こ と と な っ た の は、 香 港 へ の 移 民 を 主 人 公 に し た 『ラ ヴ ソ ン グ』 (一 九 九 六) だ ろ う。 こ こ で は 主 人 公 男 女 は 香港出身でもなく、また香港に安住することもない。一九 八〇年代にそれぞれ天津と広東省から香港に移住してきた 男 女 主 人 公 は、 そ れ ぞ れ の 言 語 的 背 景 は 異 な っ て い る。 黎 レ オ ン ・ ラ イ 明 演 じ る 天 津 か ら 来 た 男 主 人 公 は、 当 初 全 く 広 東 語 を 話すことができず香港に馴染めずにいる。一方、張曼玉演 じるヒロインは広東出身であるため広東語は話すことはで き、より香港に馴染んでいるように見えるが、英語交じり の香港人特有の話し方とは距離があった。二人は英会話学 校に通い、やがて「香港人」になっていく * 15 。物語はやがて 二人を別々にアメリカへと移動させ、クライマックスの再 会を迎えることとなる。従って、香港は彼らにとっていっ たん帰属する場所となりながらも、最終的には通過点に過 ぎないこととなる。 こ の 映 画 が プ ロ ッ ト の 上 で 以 上 の よ う な 特 徴 を 持 つ 一 方、映画の中では 鄧 テ レ サ ・ テ ン 麗君 の音楽も使われ、重要な要素を構 成 し て い る。 台 湾 の 外 省 人 家 庭 出 身 で、 香 港 (や 日 本) で も活動し、だが香港よりも長く大陸の人々に愛された彼女 は、華人社会全体のアイコンであった。この映画では、香 港人と大陸との彼女の音楽に対する温度差の違いや彼女の 死去のニュースなども織り交ぜて映画にリアリティを付与 しているが、ここでも広東語の流行歌ではなく国語流行歌 が使われている。 この時期以降の香港映画における移民については後で再 び触れることとして、陳可辛のフィルモグラフィに目を戻 せば、一九九九年にハリウッドに進出して『ラブレター/ 誰かが私に恋してる?』を撮り、さらにオムニバス映画や プロデュース作などでの試行錯誤を経た後、久しぶりに長 篇 監 督 作 と な っ た の が『ウ イ ン タ ー ソ ン グ』 (二 〇 〇 五) である。この映画は香港資本で撮られたとはいえ、純粋な 香港映画とは言いがたいキャストと撮影場所であった。ま ずキャストには日台ハーフの金城武、大陸出身の女優・周 迅 、 香 港 の 張 ジャッキー ・ チュン 学 友 、 韓 国 の チ ・ ジ ニ と バ ラ エ テ ィ に 富 ん で い る 。 台 詞 や 歌 詞 は ほ ぼ 国 語 の ミ ュ ー ジ カ ル 映 画 で あ る * 16 。 劇中劇であるミュージカル場面とそれ以外の写実的な場面 がうまく溶け合っているが、この映画が撮影されたのは主

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らやって来た移民もしばしば香港映画に登場し、近年の香 港映画における言語混淆状況の一つの要因となっているこ と。第三に、香港映画の不況のもと、中国大陸等の資本と の提携のもとで映画が作られるケースが増えており、その ような映画では当然ながら言語の混淆が見られることが多 いことである。ただし、香港のローカルな観客向けに撮ら れたリアリズム映画であっても、そこには大陸との関わり が影を落としていることも強調しておきたい。

本 稿 で は、 「香 港 映 画 = 広 東 語 映 画」 と い う 定 見 に 対 し、 歴 史 的 な 視 角 か ら 疑 義 を 唱 え る こ と を 目 指 し た。 事 実、一九七〇年代はじめには、広東語映画が死滅し、国語 映画が全盛の時期もあった。それ以外にも東南アジアや台 湾マーケット向けにアモイ語映画が作られていたこともす でに見た通りである。香港という映画の都は、香港の中だ けに安住していたのではない。早くから上海映画界と交渉 を持っていた香港は、戦後は東南アジア、台湾、そして中 国大陸に映画を供給する拠点となっていった。香港映画で 使われる言語が複数であっただけでなく、そもそも香港映 画は閉じられた世界ではなかった。その対象とする観客も 早くからアジアに広がっていたし、俳優やスタッフも大陸 や台湾からやって来た人が少なくなかったのである。特に ニューウェイヴ映画以降は、香港映画はローカルの香港の 世 界 を 描 く 広 東 語 映 画 で あ る と い う イ メ ー ジ が 強 化 さ れ た。 だ が、 一 九 九 〇 年 代、 特 に 一 九 九 七 年 の 香 港 返 還 以 後、大陸との人の行き来も盛んになり、映画の合作なども 多く行われることになる一方、実際に大陸から香港に渡っ てくる新移民も急速に増加している。 このようななか、近年、香港の映画人の中には北上して 大陸資本で映画を撮るケースが目立つようになっている一 方で、香港にとどまって香港を描くことにこだわる監督も いる。どちらか片方に肩入れすることは不毛であろう。そ も そ も 香 港 映 画 と は 交 通 の 多 い 交 差 点 の よ う な も の で あ り、人間も映画もそこをたくさん通り過ぎ、動くものは動 き、とどまるものはとどまるような場所であるからだ。い ずれにせよ、これまでの長い歴史の中で香港で培われた映 画製作のノウハウは今後も中国語圏、東アジア、ないしハ リウッドを含む世界中でさらなる進化を遂げていくに違い ない。 反対に、香港にとどまり続け、香港の現実を反映した映画 製作を続けている。だが、そんな彼の映画にも国語映画の 影響が見て取れるのは興味深いところである。 香港と大陸の合作、あるいは国際的な合作によって多言 語映画が出現しているのも近年の特徴である。例えば王家 衛監督が香港・中国・フランス・ドイツ資本で撮った『2 0 4 6』 (二 〇 〇 四) で は 広 東 語、 国 語、 日 本 語 が 飛 び 交 うが、これは出演俳優の言語的能力という理由も考えられ る一方、監督自身は「一九六〇年代当時の香港は、さまざ まな場所から人が集ってきたから、異なる言語が飛び交う ことはさほど不自然なことではなかったんだよ」と述べて いる (東和プロモーション 二〇〇四 ; 韓二〇〇八:六〇) 。 思えば王家衛はそれ以前から香港における上海文化を描い てきた。 『欲望の翼』 (一九九〇) 、『花様年華』 (二〇〇〇) にはともに本業は歌手である 潘 レベッカ ・ パン 迪華 が出演し、上海語を話 している。これらもやはり一九六〇年代の香港が舞台であ り、まだ香港生まれが人口の過半数に達する前の時代を描 いていたので、このような言語混淆は当然ありがちなこと で あ っ た。 『花 様 年 華』 に は さ ら に 周 璇 が 歌 う 上 海 の 国 語 歌謡「花様的年華」も使われていて、上海イメージに満ち あ ふ れ て い る (梁 二 〇 〇 七: 一 〇 〇) 。 王 監 督 自 身 が 一 九 六〇年代はじめに上海から香港に移住した経験を持つこと も関係しているのかもしれない。 世界的にヒットした言語混淆映画としては、 周 チャウ ・ シンチー 星馳 ・李 力 持 監 督 の『少 林 サ ッ カ ー』 (二 〇 〇 一) を 挙 げ る こ と が できる * 19 。台湾などでは国語版が上映されたようだが、他の 地域では広東語版が上映され、広東語の中に国語が混ざっ ている。 趙 ヴィッキー ・ チャオ 薇 が演じるヒロインは基本的に国語を話し、 周星馳演じる主人公は彼女に話しかけるときだけは国語を 話すのである。このことはヒロインが大陸から来た新移民 であることを暗示している。 大陸からの新移民といえば、より香港の現実を反映しよ うとする映画の中に登場するのは必然であった。許鞍華監 督 の『夜 と 霧』 (二 〇 〇 九) は、 深 圳 で 娼 婦 を し て い た 四 川省出身の女性が香港人の夫と結婚して香港に移るも、夫 の家庭内暴力を受け続け、無理心中により殺されてしまう という実話に基づく壮絶なストーリーが描かれる。大陸の 場面を含むこの映画には、もちろん一部で四川方言や国語 が使われている。これもまた香港の現実である。 以上、一九九〇年代以降の香港映画に見られる大陸/国 語の要素を概観してきた。ここで言及したもの以外にも、 国語が使われたり、大陸ロケが行われたりした映画は枚挙 に暇がない。本節の内容をまとめると以下のようになる。 第一に、近年の広東語映画の中にもかつての黄金時代の国 語 映 画 を 踏 ま え て 作 ら れ た も の が 少 な く な い こ と。 第 二 に、一九六〇年代以前や一九八〇年代以降の香港に大陸か

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(二〇〇五) 、DVD販売。 『国 魂』 …… ① 國 魂、 ② ブ ー・ ワ ン ツ ァ ン(卜 萬 蒼) 、 ③ 一 九 四八年、④香港、⑤北京語、⑥未公開。 『獣   録』 …… ① 胡 越 的 故 事〔胡 越 の 物 語〕 、 ② ア ン・ ホ イ(ホ イ・ オ ン ワ ー、 許 鞍 華) 、 ③ 一 九 八一年、④香港、⑤広東語、⑥ビデオ・DVD販売。 『孝の道』 ……①孝道、②ジュウ・ゲイ(珠璣) 、③一九六〇年、 ④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『情 炎』 …… ① 情 燄、 ② モ ク・ ホ ン シ ー(莫 康 時) 、 ③ 一 九 四六年、④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『少 ー』 …… ① 少 林 足 球、 ② チ ャ ウ・ シ ン チ ー(周 星 馳) 、 ③ 二 〇 〇 一 年、 ④ 香 港、 ⑤ 広 東 語、 北 京 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二〇〇二) 、DVD販売。 『白 龍』 …… ① 白 金 龍、 ② ト ン・ ヒ ュ ウ ダ ン(湯 曉 丹) 、 ③ 一九三三年、④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『清 史』 …… ① 清 宮 秘 史、 ② ジ ュ ー・ シ ー リ ン(朱 石 麟) 、 ③一九四八年、④香港、⑤北京語、⑥劇場公開(一九五三) 。 『新・ 花』 …… ① 新 姊 妹 花、 ② ウ ー・ パ ン(胡 鵬) 、 ③ 一 九 六二年、④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『新 Mr.Boo!   障』 …… ① 摩 登 保 鑣〔現 代 の 鏢 局〕 、 ② マ イ ケ ル・ ホ イ(ホ イ・ グ ン マ ン、 許 冠 文) 、 ③ 一 九 八 一 年、 ④ 香 港、 ⑤ 広 東 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 八 二) 、 ビ デ オ・DVD販売。 『捜 X』 …… ① 武 俠、 ② ピ ー タ ー・ チ ャ ン(チ ェ ン・ コ ー シ ン、 陳 可 辛) 、 ③ 二 〇 一 一 年、 ④ 中 国、 香 港、 ⑤ 北 京 語、 ⑥ 劇場公開(二〇一二) 、DVD販売。 『荘 す』 …… ① 莊 子 試 妻、 ② ラ イ・ ミ ン ウ ァ イ(黎 民 偉) 、③一九一四年、④香港、⑤サイレント、⑥未公開。 『タ た』 …… ① タ イ ヨ ウ の う た、 ② 小 泉 徳 宏、 ③ 二 〇 〇 六 年、 ④ 日 本、 ⑤ 日 本 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 〇 六) 、 D V D販売。 『つきせぬ想い』 ……①新不了情、②イー・トンシン(爾冬陞) 、 ③一九九三年、④香港、⑤広東語、⑥劇場公開(一九九四) 、 ビデオ・DVD販売。 『月 い』 …… ① 新 難 兄 難 弟〔新・ 苦 難 を と も に し た 心 の 友〕 、 ② ピ ー タ ー・ チ ャ ン(チ ャ ン・ ホ ー サ ン、 陳 可 辛) 、 リ ー・ チ ー ガ イ(李 志 毅) 、 ③ 一 九 九 三 年、 ④ 香 港、 ⑤ 広 東 語、⑥劇場公開(一九九六) 、ビデオ・DVD販売。 『尽きることのない思い』 ……①不了情、②タオ・チン(陶秦) 、 ③一九六一年、④香港、⑤北京語、⑥未公開。 『ど る?』 …… ① 教 我 如 何 不 想 她、 ② イ ー・ ウ ェ ン(易 文) 、 ワ ン・ テ ィ エ ン リ ン(王 天 林) 、 ③ 一 九六三年、④香港、⑤北京語、⑥未公開。 『虎 る』 …… ① 虎 俠 殲 仇、 ② ジ ャ ン・ チ ョ ー(張 徹) 、③一九六六年、④香港、⑤北京語、⑥未公開。 『ド 道』 …… ① 猛 龍 過 江〔ド ラ ゴ ン 海 を 渡 る〕 、 ② ブ ルース・リー(リー・シャオロン、李小龍) 、③一九七二年、 ④ 香 港、 ⑤ 北 京 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 七 五) 、 ビ デ オ・ D V D販売。 『七 子』 …… ① 七 十 二 家 房 客、 ② チ ョ ー・ ユ ン(楚 原) 、③一九七三年、④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『南北の因縁』 ……①南北姻緣、②チャウ・シールク(周詩祿) 、 韓 燕 麗(二 〇 一 一) 「香 港 攻 略 戰: 記 日 據 時 期 唯 一 一 部 在 香 港 攝製的劇情片」 《香港電影資料館通訊》五八、一九―二四頁。 黃仁編(二〇〇〇) 《何非光:圖文資料彙編》國家電影資料館。 胡蝶(一九八六) 《胡蝶回憶錄》聯合報社。 蒲 鋒(二 〇 一 二) 「被 遺 忘 的 香 港 影 史 一 偶」 《香 港 電 影 資 料 館 通 訊》五九、三―六頁。 盧琰源主編(二〇〇一) 《一代影后陳雲裳》新華出版社。 http://baike.baidu.com/view/331362.htm 。 羅 卡(二 〇 〇 六) 《香 港 電 影 點 與 線》 香 港 聯 合 書 刊 物 流 有 限 公 司。 魏君子(二〇一〇) 《香港電影演義》時英出版社。 余 慕 雲(一 九 九 七) 《香 港 電 影 史 話(卷 二) : 三 十 年 代》 次 文 化 有限公司。 余 慕 雲(一 九 九 八) 《香 港 電 影 史 話(卷 三) : 四 十 年 代》 次 文 化 有限公司。 鍾寶賢(二〇〇四) 《香港影視業百年》三聯書店。 周 承 人・ 李 以 莊(二 〇 〇 九) 《早 期 香 港 電 影 史(一 八 九 七 ― 一 九四五) 》上海人民出版社。 左 桂 芳・ 姚 立 群 編(二 〇 〇 一) 《童 月 娟: 回 憶 錄 暨 圖 文 資 料 彙 編》行政院文化建設委員會、財團法人國家電影資料館。 ◉映画リスト 『2046』 ……①2046、②ウォン・カーウァイ(王家衛) 、 ③ 二 〇 〇 四 年、 ④ 香 港、 フ ラ ン ス、 イ タ リ ア、 中 国、 ⑤ 広 東 語、北京語、日本語、⑥劇場公開(二〇〇四) 、DVD販売。 Mr.Boo! ギャンブル大将』 ……①鬼馬雙星〔いたずらな二人〕 、 ② マ イ ケ ル・ ホ イ(ホ イ・ グ ン マ ン、 許 冠 文) 、 ③ 一 九 七 四 年、 ④ 香 港、 ⑤ 広 東 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 七 九) 、 ビ デ オ・ DVD販売。 Mr.Boo! ミスター・ブー』 ……①半斤八兩〔どっちもどっち〕 、 ② マ イ ケ ル・ ホ イ(ホ イ・ グ ン マ ン、 許 冠 文) 、 ③ 一 九 七 六 年、 ④ 香 港、 ⑤ 広 東 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 七 九) 、 ビ デ オ・ DVD販売。 『愛 殺』 …… ① 愛 殺、 ② タ ム・ ガ ー ミ ン(譚 家 明) 、 ③ 一 九 八 一 年、④香港、⑤広東語、⑥未公開。 『蘆 ぶ』 …… ① 蘆 花 翻 白 燕 子 飛、 ② ホ ー・ フェイグアン(何非光) 、③一九四六年、④香港、⑤北京語、 ⑥未公開。 『ア 棒』 …… ① 偷 燒 鴨、 ② ベ ン ジ ャ ミ ン・ ブ ロ ツ キー、③一九〇九年、④香港、⑤サイレント、⑥未公開。 『ウ グ』 …… ① 如 果・ 愛〔も し も・ 愛〕 、 ② ピ ー ター・チャン(チェン・コーシン、陳可辛) 、③二〇〇五年、 ④ 香 港、 ⑤ 北 京 語、 広 東 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 〇 六) 、 D V D販売。 『ウ い』 …… ① 投 名 狀、 ② ピ ー タ ー・ チ ャ ン(チ ェ ン・ コ ー シ ン、 陳 可 辛) 、 ③ 二 〇 〇 七 年、 ④ 香 港、中国、⑤北京語、⑥劇場公開(二〇〇九) 、DVD販売。 『花 華』 …… ① 花 樣 年 華 / In the Mood for Love 、 ② ウ ォ ン・ カ ー ウ ァ イ(王 家 衛) 、 ③ 二 〇 〇 〇 年、 ④ 香 港、 フ ラ ン ス、⑤広東語、⑥劇場公開(二〇〇一) 、DVD販売。 『カ ー・ ル』 …… ① 功 夫、 ② チ ャ ウ・ シ ン チ ー(周 星 馳) 、 ③ 二 〇 〇 四 年、 ④ 香 港・ 中 国、 ⑤ 広 東 語、 ⑥ 劇 場 公 開

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