王治本
明治十五、
六年の北陸漫遊と詩文交流
―加賀・越中・能登・越前
柴
田
清
継
はじめに
明 治 十 年 ( 以 下、 誤 解 を 招 く 恐 れ の な い 場 合 は「 明 治 」 を 省 略 す る ) 春 に 来 日 し て 以 来、 東 京 に 居 住 し、 ほ と ん ど 関 東 地 方 か ら 離 れ る こ と の な か っ た 王 治 本 ( 号 漆( 桼 ) 園。 一 八 三 五 ~ 一 九 〇 八 ) が、 十 五 年 の 晩 春 か ら、 初 め て 長 期 に わ た る 日 本 国 内 旅 行 に 出 か け た。 こ の 旅 行 の 前 半 に 当 た る、 東 海 道 を 経 て 十 五 年 夏 の 越 前 滞 在 ま で の 足 跡 と 詩 文 交 流 の 様 子 に つ い て は、 既 に ま と め て 発 表 し た (注 1 ) 。 本 稿 は そ の 続 篇 で、 十 五 年 八 月 か ら 十 六 年 五、 六 月 ご ろ ま で の 加 賀・ 越 中・ 能 登・ 越 前 に お け る 彼 の 足 跡 と 詩 文 交 流 の 跡 を探ろうとするものである。一、加賀金沢、及び越中福光
八 月 九 日 以 後 に 福 井 を 発 っ た 王 治 本 は、 一 九 六 四 年 か ら 着 手 さ れ た、 さ ね と う け い し ゅ う の 調 査 に よ る と、 同 月 十 八 日 に 金 沢 に 着 い た ら し い。 さ ね と う は、 中 国 語 学 者 山 岸 共 ともに 氏 ( 一 九 一 三 ~) を 介 し て 閲 覧 し た、 王 治 本 の 金 沢 で の 筆 談 資 料 (注 2 ) に 拠 り、 王 治 本 の こ の 時 の 金 沢 で の 活 動 の 跡 を 調 査 し、 紹 介 し て く れ て い る (注 3 ) 。 詳 細 は さ ね と う の 叙 述 に 譲 る こ と と し、 こ こ で は そ の 概 要を紹介することにしたい。すなわち、 八月十八日に金沢に着き、 上今町の森長という宿に投宿した王治本は、 日本人松村茂 平 (注 4 ) を秘書として連れていた。 王は小野湖山 (一八一四~一九一〇) から横山政和、 号は蘭 洲 (注 5 ) あての紹介状を携えてきており、 翌朝その蘭洲に手紙を書いた。 二十日、 蘭 洲 は 王 を 訪 ね、 午 後、 兼 六 園 で 詩 の 会 を 開 い た。 こ の 日、 来 会 し た 者 に は、 山 岸 弘 ひろむ ( 号 は 北 洲、 も と 藩 校 明 倫 堂 の 教 師 (注6 ) ) ・ 吉 村 政 行 ・ 渡辺琢 (号は梧軒) ・ 山本咸斎 (名は 恵 (注7 ) ) ・ 横山正誠 (号は鶴洲、政和の長子で十五歳。詩を作った) ・ 横山隆起 (号は梅坡、十一歳。絵を描いた) ・ 横 山 隆 主・ 吉 倉 惣 佐 な ど が あ っ た。 二 十 一 日、 王 は 県 令 千 阪 高 雅 (注 8 ) の 招 宴 に 赴 い た。 県 令 は 宮 島 誠 一 郎 (注 9 ) と 同 郷 で、 王 は 宮 島 の 紹 介 状 を 持 っ て き て い た。 二 十 五 日 は、 山 岸 北 洲 の 家 を 訪 れ た。 こ こ で は 北 洲 の 詩 文 を 添 削 し た。 そ の 中 に「 亡 弟 山 岸 惇 碑 銘 」 もあった。二十六日には、金沢を発って、越中の福光へ行った。 以上、 さねとうの叙述に拠るが、 金沢到着後わずか一週間ほどで、 何はさておきといった感じで福光 (金沢市と接し、 金沢から約 二 十 キ ロ メ ー ト ル の 距 離 ) へ 赴 い た の は、 そ こ が 松 村 西 荘 の 故 郷 で あ っ た か ら だ ろ う。 と こ ろ で、 石 崎 家 も、 松 村 家 と 並 ぶ 福 光 の 名家であるが、 江戸中期に分家した喜兵衛の曾孫である徳太郎 (号桜所) とその子、 寛は、 一家を挙げて、 福光に関する史料の「集 輯 」 に 尽 く し た )(注 (注 。 そ の 石 崎 寛 編 輯 の『 桜 所 文 献 松 村 西 荘 』 に、 王 治 本 か ら 西 荘 あ て の 書 簡 に 依 拠 し て、 王 は こ の 時 の 旅 に お いて「途中一度西荘と別れ、 (中略) 初秋の候に再び会して、 金沢富山福光辺に滞在し」た旨述べられてい る )(( (注 が、 あるいは「秘書」 の 松 村 茂 平 が 一 足 先 に 西 荘 を 故 郷 福 光 へ 送 り 届 け た う え で、 単 身 福 井 辺 り で 王 と 合 流 し て 一 緒 に 金 沢 に 入 り、 王 を 福 光 ま で 案 内したのかもしれない。このように想像するなら、 さねとう氏の金沢到着時の説明に西荘への言及がないことにも説明がつく。 さて、 王治本は福光に半月ほど滞在したようであるから、 一定数の詩を詠んだと想像されるが、 現在判明しているのは、 「含 津 )(注 (注 即 景 」 と 題 す る 七 律 と、 松 村 卓 堂 ( 和 一 郎 )(注 (注 。 一 八 六 四 ~ 一 九 一 二 ) の 嘱 に 応 じ て 詠 ん だ「 福 光 懐 古 」 詩 の う ち の 一 首 で あ る。 前 者 の 詩 句 は 石 崎 寛 が『 桜 所 文 献 近 世 福 光 町 史 』 の 中 で 引 用・ 解 説 し )(注 (注 、 後 者 の 詩 句 は さ ね と う が「 王 治 本 の 日 本 漫 遊 」 の 中 で 紹 介 し て く れ て い る )(注 (注 。 そ れ ら 以 外 で、 筆 者 自 身 の 調 査 に よ り 知 り 得 た 事 柄 で、 こ の 時 の 福 光 滞 在 中 の こ と と 考 え ら れ る も の を 紹介しておこう。
ま ず、 『 金 城 新 誌 )(注 (注 』 第 三 十 四 号 ( 十 九 年 二 月 五 日 ) に 掲 載 さ れ て い る 王 黍 ママ 園 の「 養 真 堂 記 」 で あ る。 越 中 で 知 り 合 っ た 友 人 で 酒 造 家 の 天 あまとみ 富 某 に 請 わ れ て、 そ の 堂 名 に つ い て 記 し た 文 章 で あ る。 文 中 に 福 光 と い う 地 名 は 見 ら れ な い が、 そ の 執 筆 の 日 付 が 「 尖 ママ 緒壬午秋七月既望」 、すなわち陽暦の十五年八月二十九日となっていることから、ここで取り上げておくことにした。 次 は、 石 崎 寛 の『 桜 所 文 献 松 村 西 荘 』 に 掲 載 さ れ て い る 王 の「 雲 峰 楼 」 と 題 す る 文 で、 貴 重 な 資 料 な の で、 石 崎 に よ る そ の「訳文」 (書き下し文) ともどもそのまま転載しておきたい。 『桜所文献 近世福光町史』によれば、 「中秋にいたり福光をたず ね」た王が、 福光で「生徳堂主人から、 新築になる三層楼上に招ぜられ、 月明下の福光の夜景を満喫し」て草した一文で、 「生 徳堂とは、中酒屋彦右衛門の弟平九郎を初代とする四代目の石崎平九郎らしく思われる」とい う )(注 (注 。 雲峰楼 王治本 壬午秋七月、 余来含津、 適斯楼新成。 楼主生徳堂主人、 風雅愛客、 余至即夕過訪、 邀余登楼。 余以夜辞。 老人曰、 今夕月明如昼、 曽 嘱 張 燈 捲 簾 以 俟。 請 即 一 眺。 余 察 其 意 誠、 従 而 往。 一 楼 之 上、 又 上 一 層。 楼 不 甚 大、 而 精 潔 幽 雅、 四 面 皆 牕。 老 人 引 余 倚 窓 坐、 指 而 言 曰、 其 東 群 巒 矗 列 者、 為 五 箇 山、 其 北 二 岫 斜 垂 者、 為 双 鬟 山、 其 西 岡 林 叢 密 者、 為 育 王 山、 其 南 石 岩 突 兀 者、 為 人 形 山、 東 北 崇 高 而 特 峙 者、 為 立 山、 西 北 幽 邃 而 若 谷 者、 為 源 氏 峰。 此 外 凝 烟 畳 翠、 不 勝 屈 指。 余 従 月 下 遙 覘、 只 覚山容重畳、樹影迷離。其為浮雲之巻舒乎、其為遠峰之縹緲乎、若可辨而不尽可辨也。老人索余名楼。遂名之曰雲峰楼。 (右の訳文) 壬 午 秋 七 月、 余 含 津 に 来 る。 適 々 斯 の 楼 新 に 成 る。 楼 主 生 徳 堂 主 人、 風 雅 に し て 客 を 愛 す。 余 の 至 る や 即 夕 過 訪 し、 余 を 邀 へ て 楼 に 登 ら ん と す。 余 夜 な る を 以 て 辞 す。 老 人 曰 く、 今 夕 月 明 か に し て 昼 の 如 し。 曽 ち 嘱 し て 燈 を 張 り 簾 を 捲 き 以 て 俟 つ。 請 ふ 即 ち 一 眺 せ よ と。 余 其 の 意 の 誠 な る を 察 し、 従 ひ て 往 く。 一 楼 の 上、 又 上 る こ と 一 層。 楼 は 甚 だ 大 な ら ず、 而 れ ど も、 精 潔 幽 雅、 四 面 皆 牕 な り。 老 人 余 を 引 い て 窓 に 倚 り て 坐 せ し む。 指 し て 曰 く、 其 の 東 に 群 巒 矗 列 す る
者 は、 五 箇 山 と 為 す。 其 の 北 に 二 岫 斜 垂 す る 者 は、 双 鬟 山 と 為 す。 其 の 西 の 岡 林 叢 密 な る 者 は、 育 王 山 と 為 す。 其 の 南 に石岩突兀なる者は、 人形山と為す。東北の崇高にして特に峙つ者は、 立山と為す。西北の幽邃にして谷の若きものは、 源 氏 峰 と 為 す。 此 の 外 凝 烟 畳 翠、 指 を 屈 す る に 勝 へ ず。 余 月 下 よ り 遙 か に 覘 ふ。 只 山 容 の 重 畳、 樹 影 の 迷 離 を 覚 ゆ。 其 の 浮 雲 の 巻 舒 た る か、 遠 峰 の 縹 緲 た る か、 辨 ず べ き が 若 く に し て、 尽 く 辨 ず べ か ら ず。 老 人 余 に 楼 に 名 づ け ん こ と を 索 む。遂に之に名づけて雲峰楼と曰 ふ )(注 (注 。 ところで、石崎は王治本が福光を訪ねたのを十五年の中秋 (陽暦の九月二十六日) としているが、 「雲峰楼」の文章では陰暦七月 の「月明らかなること昼の如」 き日とされているから、 陰暦の七月十五日 (陽暦の八月二十八日) ごろと見るのがふさわしいであろう。 その方が、さねとうの記述とも合致するのである。 そ の ほ か、 松 村 卓 堂 の 父、 松 宇 が 建 造 し た 茶 室、 迎 こうげつてい 月 亭 ( 松 村 寿 氏 邸 内 ) に 今 も「 立 山 為 迎 月 亭 主 人 属 桼 園 逸 士 」 と い う 識語のある、次のような七絶が書軸にして掛けられてい る )(注 (注 。 峭峰如剣矗当空 峭峯 剣の如く 矗 たかくそび えて 空に当たる 影落能州碧海中 影は落つ 能州 碧海の中 鼎足争雄唯富白 鼎足して雄を争うは 唯 富白 〔富士山と白山〕 のみ 其餘羣岫尽児童 其の餘の羣岫は 尽く児童 この詩は十六年一月二十五日発行の『花月新誌』第一三〇号に「望立山」の題で掲載されてい る )注注 (注 。 さ て、 こ こ で 再 び、 金 沢 で の 筆 談 資 料 に 基 づ い た、 さ ね と う 氏 の 調 査 結 果 に 戻 る こ と に し よ う。 王 と「 松 村 」 は、 福 光 か ら
富 山 に 行 こ う と 思 っ て い た が、 西 荘 が 病 気 に な っ た の で、 九 月 十 四 日、 金 沢 に 引 き 返 し た。 そ し て、 十 七 日 は 山 岸 北 洲 の 招 宴 に 赴 い た。 こ の 日、 集 ま っ た 者 に は、 弘 の 子 千 た か よ し 吉 ・ )注( (注 内 海 吉 堂 ( 名 は 復、 敦 賀 の 人。 画 を 善 く し、 久 し く 中 国 を 旅 行 し た ) ・ 小 池 梅 所 ( 大 聖 寺 の 人 ) ・ 河 波 椶 園 ( 名 は 有 道 ) ・ 井 いのくち 口 孟 徳 ( 名 は 済 せい ) ・ 中 村 竜 渓 ( 名 は 政 太 郎 )注注 (注 ) ・ 横 山 兄 弟・ 森 虚 堂 ( 名 は 惇 成 ) ・ 広 岡 青 嶽 ( 名 は 有 久 ) ・ 千 吉 の 弟 が い た。 十 八 日 は 亀 田 貞 勝 )注注 (注 の 招 宴 に 赴 い た。 腸 胃 熱 を 患 っ て い た 蘭 洲 が、 面 接 は で き る よ う に な っ た の で、 二 十 三 日 に 王 を 自 宅 に 招 い た。 こ の 日 陪 席 し た 者 は、 仁 洲 禅 師・ 渡 辺 従 吉 ( 医 師 ) ・ 林 敬 忠 ( 書 家 ) だ っ た。 蘭 洲 は 家 宝 二 点 を 見 せ、 真 贋 に つ い て 王 の 意 見 を き き、 ま た、 家 蔵 の 画 に 賛 を 頼 ん だ。 二 十 四 日、 蘭 洲 は 王 あ て 次 の よ う な 手 紙 を し た た め た。 「 富 山 に 行 く の な ら、 も と の 家 老、 戸 田 方 義 に 紹 介 し よ う。 七 尾 に 行 く そ う だ が、 七 尾 か ら 和 倉 温 泉 へ、 陸 路 一 里 半、 海 上 二 里 の 田 舎 村 に 小 泉 清 右 衛 門 と い う 家 が あ り、 私 の 定 宿 だ か ら、 行 く な ら、 そ こ に 泊 ま れ 」。 二 十 七 日、 蘭 洲 は ま た 王 に 手 紙 を 書 き、 王 か ら 詩 を 贈 ら れ た 礼 を 述 べ、 潤 筆 料 に つ い て は「 松 村 君 」 の 指 示 に 従 う こ と と し、 ま た、 「 富 山 に 行 っ た ら、 岡 田 順 二 )注注 (注 ・ 前 田 則 邦 )注注 (注 に も 会 え 」 と も 記 し た。 一 方、 山 岸 家 の 方 で は、 十 七 日 の 招 宴 の 後、 十 九 日 に 北 洲 が 王 の 旅 舎 を 訪 れ た。 そ の と き、 王 は 北 洲 の た め に 書 い た 絹 代 を 請 求 し た。 二 十 日 に は 千 吉 が 絹 代 一 円 を 持 っ て 旅 舎 を 訪 れ、 筆 談 を し た。 二 十 一 日 に は、 北 洲 が 王 か ら 借 り た『 絶 ママ 史 論 存 )注注 (注 』 十 五 本 を 返 し に 行 っ た。 こ の と き 広 岡 有 久 に 頼 ま れ た「 瓶 城 」 の 二 大 字 を 王 に 揮 毫 す る よ う に 頼 ん だ。 潤 筆 料 一 円。 千 吉 は 二 十 四 日 午 前 に も 旅 館 に 王 を 訪 ね て 筆 談 を し た。 二 十 四 日 の 午 後 に は 橘 建 堂 ( 金 沢 藩 の 文 学 教 師。 十 四 年 歿 ) の 祭りがあり、 北洲はここで王に会い、 筆談をした。二十五日には北洲が王を旅舎に訪ね、 この時「先生の書を請う友人が多い」 と 伝 え た。 二 十 七 日 に は 北 洲 が 王 を 自 宅 に 招 待 し た。 そ の 時 の 筆 談 で 王 は「 先 日、 新 地 へ 出 か け た。 富 山 の 高 峯 先 生 が 宿 に 来 て、自分を誘ってくれた」と述べた。 以 上 で、 筆 談 資 料 に 基 づ い た 王 の 金 沢 で の 活 動 の ま と め を 終 え る こ と に す る が、 最 後 に そ の 名 が 出 て き た「 高 峯 先 生 」 に つ い て は 後 述 す る こ と と し、 如 上 の 交 流 の 中 で 横 山 蘭 洲 が 残 し た 七 絶 二 首 が、 そ の『 環 翠 楼 詩 鈔 )注注 (注 』 に 収 録 さ れ て い る の で、 こ こ で取り上げておきたい。
更賦一律呈王 桼 園先生 邂逅方欣得好期 邂逅 方に欣ぶ 好期を得たるを 休言人事易参差 言う休かれ 人事 参差 〔思うようにならない〕 たり易しと 曾因文字通名字 曾て文字に因りて名字を通じたり 転覚新知勝旧知 転た覚ゆ 新知 旧知に勝るを 一坐光風清亹亹 一坐の光風 清くして亹亹 〔美しい〕 たり 半天珠斗影離離 半天の珠斗 〔北斗七星〕 影 離離たり 滄波萬里他時夢 滄波 萬里 他時 夢みなば 不識何由寄所思 識らず 何に由りてか 思う所を寄せん 桼 園王先生有餞予東行作、次韵言謝、而予因病緩期、先生先予赴富山矣 夜半鐘沈燭影微 夜半 鐘 沈 た えて 燭影 微かに 東離西別夢相依 東離 西別 夢 相依る 逢秋癡蝶難勝痩 秋に逢える癡蝶 痩するに勝え難く 遶岫頑雲尚倦飛 岫を遶る頑雲 尚お飛ぶに倦めり 禿筆慵題愁裏字 禿筆 〔詩文を書く才能が乏しい〕 題するに慵し 愁裏の字 衰楊怕払病餘衣 衰楊 払うを怕る 病餘の衣 起鈎疎箔収襟坐 起ちて疎箔を 鈎 か け 襟を収めて坐れば 山月孤高鶴独帰 山月 孤高にして 鶴 独り帰る
前 者 は 題 に「 更 に 一 律 を 賦 し 」 と あ る か ら、 そ の も と に な っ た 作 が あ る は ず だ が、 そ れ は 不 明 で あ る。 第 三 句 に「 僕 五 年 前 巳 ママ 通 書 信 」 と の 蘭 洲 の 自 注 が あ る が、 さ ね と う 氏 が 紹 介 し て い る 筆 談 の 内 容 に よ れ ば、 蘭 洲 が 王 に 手 紙 を 出 し、 詞 餘 の 添 削 を頼んだことがあったようであ る )注注 (注 。 後者の題の意味するところは、 蘭洲が東行することになり、 王が餞別の詩を詠んだ。 蘭洲はその詩に次韻して謝意を表したが、 病 の た め 蘭 洲 の 東 行 が 延 期 に な り、 王 の 富 山 行 き の 方 が 先 ん じ る こ と に な っ た と い う も の で あ る。 蘭 洲 の 病 と い う の は、 上 述 の「腸胃熱」かもしれな い )注注 (注 。 さて、 上記の「高峯先生」は、 当時富山病院長を務めていた高峰精一 (一八二五?~一八九九) に相違ないと思われる。工学博士 ・ 薬 学 博 士 高 峰 譲 吉 の 父 と し て 知 ら れ る が、 漢 詩 も 作 っ た 人 で あ り、 亀 谷 龍 二・ 橘 米 次 郎 編『 越 中 古 今 詩 鈔 』 の 収 録 作 者 紹 介 )注注 (注 に よ れ ば、 槐 処、 聴 松 と 号 し、 高 岡 の 人。 藩 医 で あ っ た が、 維 新 後、 富 山 県 病 院 長 と な っ た と い う。 高 峰 の 誘 い だ け が き っ か け だったか否かは不明であるが、王治本は金沢を離れ、富山へ行くことになった。
二、越中各地
こ こ で 三 み 度 たび 、 さ ね と う 氏 の 筆 談 の ま と め を 参 照 す る と、 北 洲 が 王 を 旅 舎 に 訪 ね た 九 月 二 十 五 日 か ら 数 日 後 ( 高 峰 か ら 誘 わ れ て か ら は 直 ち に、 と い う こ と に な ろ う か ) 、 つ ま り 九 月 末 か 十 月 初 め、 王 は「 金 沢 を た っ て、 富 山 に ゆ く。 こ こ に は 三 カ 月 も い た。 富 山 を た と う と す る と、 雪 に は ば ま れ て、 明 治 一 六 年 の 正 月 は 富 山 で す ご し た。 正 月 六 日、 富 山 を た っ て 高 岡 に ゆ き、 二 十 数 日 を す ご す。 つ ぎ に 放 生 津 に ゆ き 二 十 数 日、 つ ぎ に 伏 木・ 氷 見・ 七 尾 に か け て 一 カ 月 滞 在 し、 三 月 二 五 日、 半 年 ぶ り に 金 沢 に か え っ てき た )注( (注 」。本節では越中における王治本の足跡を述べ、能登に属する七尾での足跡については節を改めて述べることにしたい。⑴ 「 常 稔 倉 記 」 の 執 筆 と 揮 毫 今 も 富 山 市 宮 尾 の 国 登 録 有 形 文 化 財「 豪 農 の 館 内 山 邸 」 内 に、 「 常 稔 倉 記 」 の 額 が 掲 げ ら れ て い る。 「 光 緒 壬 午 歳 九 月 中 澣 穀 旦 淛 東 桼 園 王 治 本 撰 幷 書 」 と の 識 語 に よ り、 十 五 年 十 月 下 旬 の 執 筆 並 び に 揮 毫 で あ る こ と が 分 か る。 字 数 は 五 百 三 十 餘 字 で、 王 が「 毎 歳 石 〔 容 量 の 単 位 〕 毎 に 穀 若 干 を 取 り て、 諸 これ を 倉 に 存 し、 我 の 之 を 主 る に 帰 す。 苟 く も 歳 の 歉 〔 穀 物 が 実 ら な い 〕 な る に 遇 わ ば、 田 有 る 者 は、 其 の 人 の 存 す る 所 の 穀 を 以 て、 之 を 其 の 人 に 償 い、 田 無 き 者 は、 則 ち我が存する所の穀を以て、 散じて之を給し、 飢餒すること無からしむ」ということを実行している、 神通川畔の宮尾村の富家、 内 山 年 彦 宅 を 訪 れ た 際、 内 山 に「 其 〔 倉 〕 の 名 を 命 なづ け、 幷 び に 之 が 記 を 為 」 さ ん こ と を 請 わ れ、 宋 の 銭 公 輔 の「 義 田 記 」 に ち なんで「常稔倉」と命名し、これにまつわる事柄を記したものであ る )注注 (注 。 ⑵ 遊 説 中 の 藤 田 茂 吉 ら と の か か わ り 自 由 党 に 遅 れ る こ と 半 年、 十 五 年 四 月 に 大 隈 重 信 を 総 理 と し て 結 成 さ れ た 立 憲 改 進 党 は、 藤 田 茂 吉 )注注 (注 ・ 久 松 義 典 ら を 北 関 東・ 信 州・ 北 陸 へ の 遊 説 に 派 遣 し た。 石 崎 寛 に よ れ ば、 福 光 か ら 藤 田 ら 一 行「 出 迎 の た め に 出 富 し た 谷 村 西 涯、 石 崎 桜 所 の 両 名 は、 小 閑 を 見 出 し て、 折 柄 滞 富 中 の 松 村 西 荘 を 加 え た 三 人 で、 富 山 病 院 長 高 峰 精 一・ 清 国 人 漆 園・ 王 治 本 の 両 客 を、 十 一 月 一 日 神 通 河 畔 の 料 亭 に 招 待 し て、 木 枯 吹 き す さ び、 冷 雨 門 扉 を 打 つ 騒 々 し さ を よ そ に、 清 談 会 食 に 一 日 を 過 し た 」 と い う )注注 (注 。 こ こ で、 高 峰 精 一 と 王 治 本 と の 詩 文 上 の 交 流 に つ き 触 れ て お こ う。 富 山 県 立 図 書 館 司 書 を 務 め られた太田久夫氏が一九七四年十月三日の『富山新聞』第八面「文化」欄所載の「王治本と富山県」と題する文章の中で、 「私 は二年前の秋に上京した折、 高峰精一の漢詩に王治本が朱筆で添削したものを見せてもらったことがあ」ると記しておられる。 さて、 藤田ら一行は同月三日には福光までやって来た。遊説旅行の詳細は、 『郵便報知新聞』に藤田の執筆により「北遊紀行」 という題で十五年十一月八日から十六年二月二十一日にかけて断続的に連載されているが、 十六年一月十三日の同紙掲載の 「北 遊紀行」 によれば、 藤田らは二日の 「夜八時福光村ニ達シ」 た。翌三日の福光でのことが 「北遊紀行」 に次のように記されている。
午 後 三 時 石 崎 和 善 氏 親 睦 会 ヲ 其 家 ニ 開 キ 諸 有 志 ヲ 招 ク 会 ス ル 者 五 十 餘 名 諸 氏 ノ 席 上 演 説 ア リ 余 及 久 松 兄 各 一 説 ヲ 演 フ 松 村 精 一 郎 氏 祝 詞 ヲ 作 リ 人 ヲ シ テ 之 ヲ 読 マ シ ム 氏 ハ 著 名 ノ 聾 才 子 ニ シ テ 我 栗 本 翁 ノ 知 音 ナ リ 故 ヲ 以 テ 余 ト 相 識 ル 前 キ ニ 余 富 山 ニ在リ氏モ亦清客王治本ヲ伴フテ富山ニ寓ス因リテ来訪筆ヲ操リテ談話ス其近作ヲ見ル琅々誦ス可シ真ニ奇才子ナ リ )注注 (注 もっとも、王治本がその場にいたと明記されているわけではない。彼は福光へ同行しなかったかもしれない。 ⑶ 岡 田 呉 陽・ 小 杉 復 堂・ 渡 辺 停 雲 と の 唱 和 岡 田 呉 陽 ( 一 八 二 五 ~ 八 五 ) は も と 富 山 藩 士 で、 十 年、 富 山 師 範 学 校 教 諭 と な っ た が、 翌 年 こ れ を 辞 し、 清 水 村 ( 現 富 山 市 清 水 ) に 養 父 の 岡 田 栗 園 時 代 か ら の 学 塾 学 聚 舎 を 移 し、 門 生 の 育 英 を 楽 し み と し て い た )注注 (注 。 岡 田 よ り も 三 十 歳 年 下 の 小 杉 復 堂 ( 一 八 五 五 ~ 一 九 二 八 ) は、 名 は 熙、 十 五 年、 石 川 県 令 千 坂 高 雅 に 聘 せ ら れ て 石 川 県 第 二 師 範 学 校 の 教 師 を 務 め て い た )注注 (注 。 渡 辺 停 雲 (?~ 一 八 八 四 ) に つ い て は、 詳 細 は 不 明 だ が、 名 は 正 義 で、 「 富 山 侯 ニ 仕 」 え、 「 富 山 師 範 学 校教官ニ任セラレ尋テ同県官吏ニ任セラレ明治十七年病テ」死んだとされ る )注注 (注 。師範学校で小杉と同僚であった可能性もある。 こ の 三 人 に、 王 治 本 と の 交 流 の 跡 を 示 す 作 品 が あ る の で、 簡 単 に 紹 介 し て お き た い。 筆 者 が 見 出 し た の は、 呉 陽 六 首、 復 堂 三 首、 停 雲 一 首 の 計 十 首 だ が、 そ れ ら の う ち、 呉 陽 の 七 律「 歩 王 桼 ( 漆 ) 園 韻 贈 之 )注注 (注 」 と 五 律「 桼 園 翁 見 訪 席 上 贈 之 」 以 外 は、 いずれも富山を去る王への送別の作 (五首) と、 王の新年 (十六年) の詩に対する次韻の作 (三首) である。前者に属する作のうち、 呉陽と復堂の各一首は、玉水楼での宴で詠まれたものである。いずれも挙げることにしよう。 桼 園翁留別於玉水楼探韻得催字 呉陽 (『呉陽遺稿』巻一) 玉水楼頭晩霽催 玉水楼頭 晩霽 〔夕方、雨または雪がやむこと〕 催し 波光帯恨入離杯 波光 恨みを帯びて 離杯に入る
神江風色如相思 神江 〔神通川〕 の風色 相思うが如し 明歳復携琴硯来 明歳 復た琴硯を携えて来れ 漆園先生、将辞富山、開別筵於玉水楼、酒間分韻、得詩字 復堂 (『復堂遺文』下巻) 江楼把酒晩晴時 江楼 酒を把る 晩晴の時 碧水溶々棹緩移 碧水 溶々 棹 移すこと緩し 野樹蕭踈無限恨 野樹 蕭踈たり 無限の恨み 不堪揮涙唱離詩 堪えず 涙を揮い 離詩を唱うに これらの作との前後関係は測りかねるが、次にあげる二首も呉陽・復堂両人同席しての作と見られる。 畳韻送 桼 園翁還東京 呉陽 (『呉陽遺稿』巻一) 匇匇底事賦将離 匇匇として底事ぞ将離を賦せん 其奈停雲別後思 其 い か ん 奈 せん 停 雲 )注注 (注 別後の思い 鮑氏雄文誰有敵 鮑氏 〔南朝宋の鮑照のこと〕 の雄文 誰か敵する有らん 徐翁孤榻独無期 徐翁の孤 榻 )注( (注 独り期する無し 欲嘗人世甘酸味 人世 甘酸の味を嘗めんと欲し 遍訪江湖新旧知 遍く訪う 江湖 新旧の知 才学如君何所擬 才学 君の如きは 何の擬する所ぞ
龍門一躍向天時 龍門 一躍 天に向かう時 漆園王先生、留吾富山五旬矣。将赴蜚州、因賦此奉送、次其東京留別瑤韵。 復堂 (『復堂遺文』下巻) 萍迹相逢倐復離 萍迹 相逢い 倐 たちま ち復た 離 わか る 祖筵空抱幾愁思 祖筵 空しく抱く 幾愁思 涙随越海風濤落 涙は越海 〔越中または北陸地方〕 の風濤に随いて落ち 鞭逐蜚山雨雪期 鞭は蜚山 〔飛彈の山〕 の雨雪を逐いて期せん 游橐唫篇争筆録 游橐 〔書物を入れる袋〕 の唫篇 争か筆録せん 夜牕別恨有燈知 夜牕の別恨 燈の知る有 り )注注 (注 自来聚散本無定 自来 聚散は 本 定まる無し 只待他年会面時 只待つのみ 他年 会面の時 この二首の畳韻 (次韻) の対象となっている「東京留別瑤韵」とは、 王が十五年五月五日、 この長途の旅行の出発に当たって 詠 ん だ 詩 の 韻 )注注 (注 の こ と で あ る。 こ れ ら は、 復 堂 作 の 題 の 内 容 か ら 見 て、 十 五 年 十 二 月 中 旬 か ら 下 旬 に か け て 詠 ま れ た も の と 考 え ら れ る。 な お、 復 堂 は 王 治 本 が 富 山 を 去 っ て 向 か う 先 を 飛 彈 と し て い る が、 こ れ に は 裏 付 け が 取 れ な い。 そ の 他、 呉 陽 の 五 律 「 邀 桼 園 翁 酌 別 酒 」 (『 呉 陽 遺 稿 』 巻 一 ) も 別 れ の 詩 で あ る が、 こ れ は そ の 初 句 に「 衡 門 迓 文 駕 〔 衡 門 に 文 駕 を 迓 う 〕 」 と あ る か ら、 王 治 本を自宅に招いての作である。 王治本の新年の詩に対する次韻の作は、呉陽、復堂、停雲、いずれにもある。ここでは呉陽の作を挙げることにしよう。
癸未新年作、歩 桼 園翁韻 呉陽 (『呉陽遺稿』巻一) 六十今吾欠一年 六十に今 吾 欠くこと一年 風懐忘老興随遷 風懐 老いたるを忘れ 興 随いて遷る 文才難得生花筆 文才 得難し 花を生ずる筆 清福聊娯煮茗煙 清福 聊か娯しむ 茗を煮る煙 屋後早霞初襯岳 屋後の早霞 〔朝霞〕 初めて岳を 襯 ひきた て 夜来新雪更飜天 夜来の新雪 更に天に飜る 肇春賀客多詞客 肇春の賀客 詞客多し 乗酔時開翰墨筵 酔いに乗じて時に開く 翰墨の筵 復堂、 停雲の作は、 それぞれ 「癸未元旦漆園先生寄一律、 因率次其韵奉酬」 (『復堂遺文』 下巻) 、「癸未新年作、 歩王 桼 園詞宗韻」 (『越 中古今詩鈔』乾、 四十四丁) と題するものである。復堂の作に「寄」とあることから、 少なくとも復堂に対しては、 すでに富山を去っ た王治本が郵送したものかとも考えられる。 王 治 本 は 三 十 八 年 に も 越 中 を 訪 れ た の で、 当 時 存 命 の 復 堂 と 王 と の 交 流 に 関 す る 資 料 は、 ほ か に も あ る。 そ の う ち、 十五、 六年訪問時の作と見なすことのできるものとして、王の「小杉熙字説」があるが、次項⑷で取り上げることにしたい。 な お、 阿 波 加 頴 ( 一 八 三 五 ~ 一 九 一 六。 阿 波 加 が 姓。 号 酔 夢 道 人 ) に も、 王 か ら「 寄 」 せ ら れ た 詩 に 次 韻 し た 次 の よ う な 作 が あ り、 十 八 年 に 出 版 さ れ た『 七 曲 吟 社 詩 )注注 (注 』 巻 五 に 載 っ て い る。 韻 字 が 上 記 の 呉 陽 ら の 作 と 一 致 す る の で、 王 が 郵 送 し た の は 同 一 の 新 年の詩であったと見てよさそうである。
酬王 桼 園見寄次其韻 阿波加頴 別後匆匆已隔年 別後 匆匆として 已に年を隔てたり 応憐異域物華遷 応に憐れむべし 異域 物華 遷るを 民間多混陰陽暦 民間 多く混ず 陰陽暦 野外未生梅柳煙 野外 未だ生ぜず 梅柳の煙 餘雪猶看堆塞路 餘雪 猶お看る 堆 うずたかくつ みて路を塞ぐを 片雲忽報舞降天 片雲 忽ち報ず 舞いて天より降るを 幾回朗誦陽春曲 幾回か朗誦せる 陽春の曲 疑是賡酬酔綺筵 疑うらくは是れ賡酬 綺筵に酔えるかと こ の 詩 で 気 が 付 く の は、 陽 暦 で 新 年 を 迎 え る よ う に な っ て )注注 (注 以 来、 新 春 の 季 節 感 に 混 乱 が 生 ず る よ う に な っ た 旨 詠 ま れ て い る こ と で あ る。 王 治 本 は 陰 暦 に 基 づ い て 季 節 や 日 付 を 記 す こ と が 多 い が、 こ の 時 の 新 年 の 作 は 陽 暦 に 基 づ い た も の だ っ た の か も し れ な い。 な お、 阿 波 加 頴 は、 魚 津 で 医 を 業 と な し、 か た わ ら 清 吟 吟 社 を 結 び、 私 塾「 阿 波 加 塾 」 を 開 設 し、 病 院「 好 生 舎 」 を設立し代議士にも選ばれた人物とい う )注注 (注 。 ⑷ 『 食 研 斎 文 稿 』 所 載 の 文 王 治 本 の 文 集『 食 研 斎 文 稿 』 の 中 に、 既 に 取 り 上 げ た「 常 稔 記 」 も 含 め、 彼 の 十 五、 六 年 の 北 陸 訪 問 時 の 作 と 見 ら れ る 文 が 何 篇 か あ る。 そ れ ら の う ち、 こ の 文 稿 に し か 見 え な い 文 を 紹 介 し た い と 思 う が、 本 項 で は ま ず 越 中 に 関 す る も の を 取 り 上 げ た い。 『 食 研 斎 文 稿 』 は 中 国 寧 波 市 の 天 一 閣 に 収 蔵 さ れ て お り、 筆 者 は ま だ こ れ を 閲 覧 す る 機 会 を 得 て い な い が、 幸 い 寧 波 市 在 住 の 王 治 本 の 曾 孫、 王 勉 善 氏 か ら、 氏 が こ の 文 集 の 文 章 を 電 子 資 料 と し て 入 力 し 印 刷 さ れ た も の
を 贈 与 さ れ た。 た だ、 簡 体 字 で 入 力 さ れ て お り、 原 資 料 と 一 致 し な い 字 が 一 定 数 あ る は ず で あ る か ら、 引 用 は せ ず、 そ れ ぞ れ の文の要旨と字数 (概数) だけを記すことにしたい。 ①「 紅 葉 園 記 」 富 山 滞 在 中 の あ る 日、 訪 ね て き た 客 に 西 本 郷 村 の 岡 崎 と い う 人 の 庭 園 の 紅 葉 し た 楓 の 美 を 文 に 記 す よ う 頼 まれて書いたもの。内容 (季節) からして十五年の作と考えられる。約四百七十字。 ②「 天 人 楼 記 」 王 は 富 山 滞 在 の 二 か 月 間、 し ば し ば 天 人 楼 と い う 料 亭 に 遊 ん だ。 か つ て「 藩 侯 游 聘 の 地 」 で あ っ た に も か か わ ら ず 維 新 後 す た れ て し ま っ た、 富 山 の 桜 木 町 を、 源 梅 山 が そ の 昔 の 長 安 の 平 康 里 の 如 き 町 と し て 復 興 す る こ と を 提 案 し、 自 ら こ の 料 亭 を 建 て て 営 業 し て い た )注注 (注 。「 将 に 東 に 帰 ら ん と し て、 諸 友 餞 を 是 の 楼 に 設 」 け て く れ た 際、 梅 山 に 依 頼 さ れ て 王 が撰したもの。五百六十餘字。 ③「藩大夫前田任斎伝略」 王が前田則 邦 )注注 (注 と交わり、 彼の父である富山藩主、 任斎 (一八〇六~七一) の「懿徳遺行を聞くを得て、 謹んで為に其の略を節して以て之を叙」べたもの。四百字餘。 ④「 公 園 記 」 富 山 藩 主、 前 田 公 の 居 城 跡 が 明 治 十 三 年 に 至 っ て 公 園 と し て 復 興 す る ま で に 至 る 経 緯 を、 富 山 の 友 人 た ち に 頼まれて記したもの。七百五十餘字。 ⑤「小杉熙字説」 小杉に字をつけてくれるよう頼まれた王が、 「敬止」とつけたこと、 及びこれに関する説明を記したもの。 約二百八十字。 ⑥「 杉 木 有 恒 伝 略 」 下 条 川 に 樋 二 百 餘 を 埋 め る こ と に よ っ て 水 流 を 調 節 し、 豊 作 を も た ら し た 越 中 石 割 村 ( 現 富 山 市 石 割 ) の 杉木有恒 (字千里、号蘭渓) の伝 略 )注注 (注 。五百三十餘字。 ⑸ そ の 他 こ こ で 再 び 太 田 久 夫 氏 の 前 掲 の 文 章 を 参 照 す る こ と に し た い。 太 田 氏 は、 王 治 本 の「 明 治 十 五、 六 年 ( 中 略 ) 、 雨 晴 海 岸 を 詠 ん だ 」 詩 も 残 っ て い る と し て、 そ の 詩 を 紹 介 し て く だ さ っ て い る ( 題 不 明 ) 。 筆 者 は そ れ に 書 き 下 し 文 を 付 け て 引 用 することにしたい。
石室洞開深且幽 石室 洞開 〔大きく広がる〕 して 深く且つ 幽 おくぶか く 二松蒼翠覆巖頭 二松 蒼翠にして 巖頭を覆う 当年一雨身暫憩 当年 一雨 身 暫く憩い 従是名誇源予州 是れより 名 誇る 源予州 高 岡 市 北 部 の 雨 晴 海 岸 に は、 源 義 経 ( 源 予 州 ) が 奥 州 へ 落 ち 延 び る 途 中、 に わ か 雨 の 晴 れ る の を 待 っ た と い う 義 経 岩 が あ り、 その伝説を詠み込んだ作である。
三、能登を経て再び金沢へ
能 登 で の 王 治 本 の 足 跡 に つ い て は、 畑 中 榮 氏 が「 清 国 の 王 黍 ママ 園 は 明 治 十 六 年 に 富 山 や 金 沢 に 来 遊 し た が、 そ の 時 江 馬 天 江 や 北 陸 の 文 人 達 と 行 を 共 に し て、 七 尾 の 紅 雲 亭 や 遊 仙 楼 で 遊 ん で 詩 を 幾 編 か 賦 し て い る 」 と し て、 「 買 酔 游 仙 楼 上 把 杯 賞 勝 不 覚 巳 ママ 入酔郷」と題する七律を紹介してくださってい る )注注 (注 。 筆者が見つけたものとしては、 『金城新誌』第三十八号 (十九年三月十五日) に載る次のような作品がある。 光緒癸未仲 春 )注( (注 賦此贈金陽詞兄、同次能州尾湾 王 黍 ママ 園 〔清〕 加能頻渉歴 加能 頻りに渉歴し 三度喜逢君 三度 喜ぶ 君に逢うを探勝尋山月 探勝して 山月を尋ね 漫遊共水雲 漫遊して 水雲を共にす 画中伝逸趣 画中 逸趣 伝え 石上勤奇文 石上 奇文 勤む 袖浦歓方洽 袖浦 〔 袖 そで 江 がえ 湾 わん のこと〕 歓び方に 洽 やわら げり 何堪手又分 何ぞ堪えん 手 又 分かつに 王 と 共 に 能 登 の 七 尾 湾 に 泊 ま っ た「 金 陽 詞 兄 」 と は、 奈 良 県 生 ま れ で、 十 五 年、 金 沢 に 来 遊、 そ の ま ま 永 住 し て、 そ の 後 金 沢の画壇の長老として活躍した大西金陽 (一八五五~一九三 五 )注注 (注 ) のことであるが、金沢市立玉川図書館所蔵の『金陽先生真蹟詩稿』 一 に は、 こ の 王 の 作 に 次 韻 し た と 見 ら れ る、 「 次 清 人 王 漆 園 見 寄 韻 〔 時 同 次 能 州 尾 湾 〕 」 と 題 す る 作 が 記 さ れ て い る。 訂 正 さ れ て いない句だけ引けば、 「遊跡東西遍、 (中略) 南舩唫海月、北馬嘯山雲。 (中略) 酔中論篆文。 (下略) 」となる。 能 登 へ 足 を 延 ば し た 後、 三 月 二 十 五 日、 王 治 本 は 半 年 ぶ り に 金 沢 に 帰 っ て き た。 山 岸 弘 は、 二 十 九 日 に 旅 館 に 訪 ね て 筆 談。 その時、山岸が「いつ東京に帰るか」ときくと、 「これから大聖寺に回り、五月中旬には東京に帰る」と答えたという。 この時の金沢滞在中の金沢の文人と王治本との交流の跡を示すものとしては、小川南疇 (一八四四~一九〇八) の十六年の作で、 「 桼 園時自越中至」という注記のある、次のような七 律 )注注 (注 がある。 養 志 堂 集、 贈 清 人 王 桼 園。 此 日 会 者、 松 平 松 堂・ 小 川 清 太・ 井 口 犀 川・ 太 田 雪 岳・ 山 田 履 堂・ 東 郷 惺・ 徳 田 寛 処・ 内 海吉堂・小池梅処・堀蘭斎。 小川南疇 鵬程萬里去悠悠 鵬程 萬里 去りて悠悠たり
探勝深尋北陸州 勝を探り 深く尋ぬ 北陸州 学継大蘇推富瞻 学は大蘇 〔蘇軾のこと〕 を継いで 富瞻を推し 才兼小杜愛風流 才は小杜 〔杜牧のこと〕 を兼ねて 風流を愛す 魚津夜月憐霜雁 魚津の夜月 霜雁 〔秋雁〕 を憐れみ 栗嶺晨煙憶火牛 栗嶺 〔立山のことか〕 の晨煙 火牛を憶 う )注注 (注 定識新詩囊底満 定めて識る 新詩 囊底に満たん 金城好更賦重遊 金城 〔金沢のこと〕 は 更に重遊を賦するに好し 南 疇 の 自 宅、 養 志 堂 )注注 (注 に 会 し た 面 々 の う ち、 こ こ に 初 出 の 人 物 に つ き、 南 疇 自 身 も 含 め、 簡 単 に 紹 介 し よ う。 小 川 南 疇 は、 名 は 穟 す い 、 字 は 子 成・ 孜 成・ 政 成。 も と 加 賀 藩 の 医 員 で、 明 治 に 入 り 士 官 学 校 講 師 等 を 経 て 卯 辰 山 ( 金 沢 市 ) 養 生 所 棟 取 を 務 め た )注注 (注 。 小 川 清 太 (?~ 一 九 〇 九 ) は、 も と 金 沢 藩 士 で、 十 三 年 か ら 二 十 三 年 ま で 河 北 郡 長 を 務 め た )注注 (注 。 太 田 雪 岳 ( 一 八 三 一 ~ 一 九 〇 九 ) は、 名 は 良 策、 美 濃 里 は 通 称 の 一 つ。 維 新 前 は 大 阪 で 緒 方 洪 庵 の 門 に 入 り、 金 沢 に 帰 っ て 蘭 書 翻 訳 校 正 方 と な り、 軍 艦 方 御 用・ 壮 猶 館医学教授等を経た。明治五年に田中信吾等と共に金沢病院を設立し た )注注 (注 。徳田寛処(所) (一八二二~八八) は、 金沢人で、 医師、 文 人 画 を 善 く し、 書・ 詩 も 嗜 ん だ )注注 (注 。 堀 蘭 斎 は、 藤 田 維 正 編 輯 幷 出 版『 同 声 集 』 第 一 巻 ( 十 五 年 四 月 ) に「 蘭 斎 堀 文 平 」 と 見 え、 同 第 三 巻 ( 同 年 十 月 ) に「 蘭 斎 堀 敬 」 と 見 え る 人 物 と 思 わ れ る が、 そ れ 以 外 は 未 詳。 松 平 松 堂、 山 田 履 堂、 東 郷 惺 の 三 人 に つ いては情報が得られない。 そ の 他、 『 食 研 斎 文 稿 』 所 載 の「 紫 薇 園 記 」 も、 こ の 時 の 王 の 作 品 と 考 え ら れ る。 内 容 は、 王 が 金 沢 滞 在 中 何 度 か 訪 れ た 牧 野慎斎の庭園、紫薇園について記したもので、約四百二十字。
四、再び越前へ
⑴ そ の 後、 金 沢 を 離 れ た 王 治 本 が 四 月 九 日 に 越 前 の 丸 岡 で 詠 ん で 福 井 の 富 田 鷗 波 へ 送 っ た 作 )注注 (注 と、 王 の 訪 問 を 受 け た 鷗 波 が こ れに次韻した作とが、 四月十一日の『福井新聞』に載っている。両者とも挙げることにしよう。二人は前年七月に別れて以来、 九カ月ぶりの再会であっ た )注( (注 。 丸岡途中口占奉詢鷗波詞兄、請正 王漆園 紅藕花中話別離 紅藕 〔紅蓮〕 花中 別離を話しぬ 今番緑柳又垂絲 今番 緑柳 又 絲を垂れたり 腰囲 减 却三分痩 腰囲 减 却して 三分痩せ 心血嘔成百首詩 心血 嘔きて成す 百首の詩 重到与君曾有約 重ねて到るは 君と 曾て約有ればなり 漫遊笑我竟成痴 漫遊 笑え 我 竟に痴と成れるを 加山能海帰来日 加山 〔加賀〕 能海 〔能登〕 より 帰り来らん日 九々橋頭訪旧知 九々橋 〔福井の足羽川下流に架かる九十九橋のこと〕 頭 旧知を訪ねん 王漆園詞宗袖一律見来訪、走筆次其韻却呈、併政 富鷗波 去年岐路草離々 去年 岐路 草 離々たり 今日衡門柳搭絲 今日 衡門 柳 絲を 搭 か けたり残塁名園千古迹 残塁 名園 千古の迹 民風土俗一囊詩 民風 土俗 一囊の詩 欽君快絶仍超絶 欽 うやま う 君 快絶 仍お超絶なるを 愧我書痴更酒痴 愧ず 我 書痴にして 更に酒痴なるを 笑指桃花流水外 笑って指す 桃花 流水の外 者中情境没人 知 )注注 (注 者中の情境 人の知る没し その後、五月十九日の『福井新聞』には、甲斐海荘なる人物と王治本の作品が載っている。甲斐の作は、 癸 未 五 月 前 六 日 清 客 王 漆 園 先 生 偶 到 干 ママ 余 郷 里 、 滞 留 纔 五 日 、 瞥 然 将 告 別 還 東 京 。 余 賦 一 絶 為 贐 以 呈 請 政 甲 斐 海 荘 東都一別負再期 東都 一別 再期に 負 たが いたり 喜向海楼把酒巵 喜ぶ 海楼において 酒巵を把るを 無奈遭逢纔数日 奈 いかん ともする無し 遭逢して 纔かに数日 杜鵑啼血又分離 杜鵑 啼血 又 分離するを というもので、 王の作は「癸未首夏客游三国数日、 将乗輪赴敦賀、 辱承海荘詞兄賦詩餞行、 倚装次韻留別」と題するものである。 甲斐海荘については未詳であるが、 以上の詩題と詩句から、 三国 (現坂井市三国) を郷里とする人で、 以前東京で王治本とかかわっ た こ と の あ っ た こ と が 分 か る。 ま た、 王 が 五 月 六 日 に 三 国 に や っ て 来 て 五 日 間 滞 在 し た 後、 船 で 敦 賀 へ 渡 り、 そ の 後、 東 京 へ 帰る予定であったことも知られる。
三 国 で は「 龍 翔 学 校 頌 」 と い う 文 章 も も の し て お り、 『 食 研 斎 文 稿 』 に 載 っ て い る。 明 治 初 年 オ ラ ン ダ 人 技 師 に よ っ て 設 計 された木造洋風建築の三国の小学校―龍翔学校の設備や教育をたたえる文章である。約二百三十字。 敦賀には衛鋳生と相前後して入港することになった。五月十六日の『福井新聞』に次のような記事が載っている。 兼 て 噂 さ あ り し 清 客 衛 鋳 生 氏 は 去 る 十 二 日 県 下 敦 賀 港 へ 来 着 富 貴 町 具 足 屋 三 右 衛 門 方 へ 止 宿 に ● 人 々 の 需 め に 応 じ 日 々 毫 を 揮 は る ヽ よ し 又 先 日 来 福 井 に 滞 在 な り し 王 漆 園 氏 も 入 港 あ り 高 木 匕 平 方 に 止 宿 し 此 れ も 揮 毫 を さ れ 居 る と か 又 玉 ママ 漆 園 氏はそれより西京へ赴かれ衛鋳生氏は武生を経て不日来福せらるヽ筈なりと云ふ二清客の来遊一時に集ふは奇と謂ふべし 判 読 し が た い 字 を「 ● 」 で 示 し た。 王 が 宿 泊 し た の は、 川 嵜 源 太 郎『 福 井 県 下 商 工 便 覧 』 ( 二 十 年 ) に「 敦 賀 港 富 貴 町 諸 国 御 定 宿 高 木 七 平 」 と 記 さ れ て い る 宿 屋 で あ ろ う と 思 わ れ る。 衛 鋳 生 は、 清 国 江 蘇 省 出 身 の 書 家・ 篆 刻 家 で、 十 二 年 ご ろ か ら 十年餘にわたり数度来日し滞在した。 ⑵ 越 前 の 人 と の 交 流 の 跡 で は な い も の の、 そ の 時 期 か ら し て 越 前 滞 在 中 に 執 筆 し た と 見 ら れ る 王 の 詩 文 が 二 篇 あ る の で、 こ こで取り上げておきたい。 一 つ は 高 桑 致 芳 編 輯『 小 学 口 授 新 撰 養 生 編 』 ( 四 書 堂 梓、 十 六 年 八 月 二 十 九 日 ) の 序 )注注 (注 で あ る。 「 大 清 光 緒 九 年 歳 次 癸 未 春 三 月 中 澣 縠 旦 時 客 遊 北 越 淛 東 桼 園 王 治 本 譔 幷 書 」 と の 識 語 が あ り、 陽 暦 に 直 せ ば、 十 六 年 四 月 十 七 日 ~ 二 十 六 日 の 執 筆・ 揮 毫 と い う こ と に な る。 こ の 書 物 は「 儒 に し て 医 」 で あ る 高 桑 が 独 自 の「 養 生 の 道 」 を 開 陳 し た も の で、 王 は「 編 中 皆 苦 口 薬 石 の 言 に し て、以て世を警む可く、以て時を済う可し」との評価を与えている。 高 桑 は 松 村 西 荘 と も 関 係 の あ っ た 人 で あ る が、 一 方、 政 治 的 活 動 に も か か わ っ て お り、 十 五 年 十 一 月 二 日 に は 富 山 滞 在 中 の
藤田茂吉に会いに行ってい る )注注 (注 。そのころ王と知り合ったことも想定できるかもしれな い )注注 (注 。 も う 一 つ は、 後 に 富 山 県 会 議 員 に な る 石 坂 専 之 介 ( 一 八 四 九 ~ 一 九 一 五 )注注 (注 ) に 頼 ま れ て 王 治 本 が 寄 贈 し た、 石 坂 の「 栗 山 草 堂 」 の 題 詠 で あ る。 桂 正 直 編『 中 越 名 士 伝 』 ( 清 明 堂、 二 十 五 年 ) 「 石 坂 専 之 介 君 伝 」 か ら、 関 係 す る 部 分 を 引 用 し よ う ( 漢 詩 文 に は 書 き 下 し 文を付け、語注も施す) 。 ( 石 坂 ) 君 又 郷 里 升 方 山 )注注 (注 下 に 一 堂 を 搆 へ て 游 息 の 処 と 為 さ ん と 欲 し 画 人 内 海 吉 堂 に 嘱 し て 其 図 を 作 ら し む 是 れ 風 致 を 画 図 に 摸 型 せ ん か 為 め な り 図 巳 ママ に 成 る に 及 ん て 命 け て 栗 山 草 堂 と 曰 ふ。 因 て 栗 山 草 堂 主 人 と 号 す 而 し て 清 客 王 麥 ママ 園 は 嘱 に 応 し マ で マ 題詠を寄贈せり今之を左に録す 雲峯畳々樹蒼々 雲峯 畳々として 樹 蒼々たり 中有栗山一草堂 中に栗山 一草堂 有り 林密不容車馬到 林 密にして 車馬の到るを容れず 其人高臥似南陽 其の人 高臥して 南陽 〔諸葛亮のこと〕 に似たり 石 坂 君 帰 隠 栗 山、 如 李 愿 之 帰 盤 谷、 有 終 焉 之 志。 吉 堂 兄 為 作 草 堂 図、 山 色・ 渓 声・ 竹 籬・ 茆 舎、 一 一 摸 写 逼 真。 図成、 郵寄索余題詠。余披覧之、 如恍身入此中、 幾欲叩扉相訪也。卒題一絶、 以塞所嘱。未審当二君意否耶。 〔石 坂 君 の 栗 山 に 帰 隠 す る、 李 愿 の 盤 谷 に 帰 る が 如 く、 終 焉 の 志 有 り。 吉 堂 兄 為 に 草 堂 図 を 作 り、 山 色・ 渓 声・ 竹 籬・ 茆 舎、 一 一 摸 写 し て 真 に 逼 る。図成り、 郵寄して余に題詠せんことを索む。余 之を披覧するに、 恍として身 此の中に入るが如く、 幾ど扉を叩きて相訪わんと欲せしなり。 卒に一絶を題し、以て嘱する所を塞ぐも、未だ二君の意に当たるか否かを詳らかにせず。 〕 光緒癸未初夏月、時游次角鹿 淛 東麥園王治本題 幷 識
「光緒癸未初夏月」は陽暦の明治十六年五月七日~六月四日の間に相当する。 「 角 つぬ 鹿 が 」は敦賀の古名である。
おわりに
王 治 本 は そ の 後、 東 京 へ 帰 っ た。 途 中 の 消 息 と し て 一 つ だ け 分 か っ て い る の は、 彼 が 美 濃 の 大 垣 の 野 村 藤 陰 ( 一 八 二 七 ~ 九 九 ) のもとに立ち寄っていることである。 『藤陰遺稿詩』に次のような作がある 。 聴泉亭雅集、晤清客王 桼 園、兼送其東行 萍蓬相遇是前縁 萍蓬 相遇うは 是れ前縁 只恨歓筵即別筵 只恨む 歓筵 即ち別筵なるを 重対杯樽又何日 重ねて杯樽に対するは 又 何れの日ならん 半宵剪燭儘留連 半宵 〔深夜〕 燭を剪りて 儘 つと めて留連す 『 藤 陰 遺 稿 詩 』 は 藤 陰 の 作 品 を 制 作 順 に 配 列 し て い る こ と が 看 取 で き る 書 物 で あ る が、 一 つ 前 の 作 と 三 つ 後 の 作 の 題 に、 そ れ ぞ れ「 四 月 十 六 日 」、 「 九 月 十 五 夜 」 ( い ず れ も 十 六 年。 陽 暦 ) と あ る か ら、 そ の 間 の 作 品 と い う こ と に な る。 さ ら に 上 述 の 越 前 で の事跡を考慮に入れれば、 その幅をもっと狭めることができ、 王が藤陰のもとを訪れたのは、 五月から六月にかけてのころだっ ただろうと見られる。藤陰の弟子、 戸田葆堂 (一八五一~一九〇八) の『覆 瓿 餘稾』 (岐阜県図書館所蔵の葆堂の詩の稿本) に記された「癸 未晩春過水竹居、示主人交翠」という題の詩に王治本の評が付されているが、これもその時のことであっただろう。た だ、 王 治 本 は あ ま り 寄 り 道 を せ ず に 東 京 ま で 帰 っ て い っ た の で は な い だ ろ う か。 な ん と な れ ば、 七 月 か ら ま た、 函 館 → 越 後→函館の一年半にわたる大旅行に出かけることになるからである。 謝 辞 本 稿 を 草 す る に 当 た り、 松 村 寿 氏、 南 砺 市 文 化 財 審 議 会 委 員・ 南 砺 市 立 福 光 美 術 館 運 営 委 員 の 辻 澤 功 氏、 南 砺 市 立 中 央 図 書 館 司 書 の 堀 内 美 幸 氏 に 多 く の 貴 重 な 資 料 を 閲 覧 さ せ て い た だ き、 ま た、 多 く の 有 益 な ご 教 示 を い た だ い た。 こ こに記して謝意を表する。 注 1 拙稿「明治十五年 王治本の旅と詩文交流―旅立ちから東海道を経て越前滞在まで」 、『武庫川国文』第八十号、二〇一六年三月。 2 一九六四年当時、金沢の市史編纂室所蔵。山岸共氏の祖父や父も筆談に加わっている。 3 さねとうけいしゅう「王治本の金沢での筆談」 、同氏『近代日中交渉史話』 (春秋社、一九七三年)所収。 4 筆 者 が 二 〇 一 六 年 秋、 福 光 で 現 地 調 査 を し た 際、 福 光 の 松 村 一 族 の お 一 人 で、 安 永 六 年 に 開 業 し た 松 村 薬 局 を 受 け 継 い で 経 営 し て お ら れ る 松 村 寿 氏 は 松 村 茂 平 に つ い て、 聾・ 唖・ 跛 の 三 重 苦 を 背 負 っ て い た 松 村 西 荘( 前 掲 拙 稿 二 十 三 頁 ) に 付 き 添 っ て 身 の 回 り の 世 話 を し て い た 人 物 で は な い か と の 見 解 を 述 べ ら れ た。 な お、 日 中 友 好 に 尽 く し た 松 村 謙 三 も 出 て い る 福 光 の 松 村 家 に つ い て は、 富 山 新 聞 社 報 道 局 編『 越 中 百 家 』 下 巻( 富 山 新 聞 社、 一 九 七 四 年 ) 二 一 七 ~ 二 二 二 頁「 日 中 の か け 橋 松 村 家( 福 光 ) 中 国 に か け た 50年 貫 い た 反 骨の謙三氏」 に詳しく、 「松村家略図」 も載っている。なお、 松村寿氏には、 福光の今昔について述べた 『福光ゆめ散歩』 (松村懸壺堂文庫、 二〇〇七年)の著書がある。 5 横 山 政 和( 一 八 三 四 ~ 九 三 ) は、 も と 加 賀 藩 家 老、 廃 藩 後 は 神 社 の 宮 司。 日 置 謙『 改 訂 増 補 加 能 郷 土 辞 彙 』( 北 国 新 聞 社、 一 九 五 六 年 ) 九四九頁。石川県 『石川県史 第参編』 (石川県図書館協会、 一九七四年) 三三一頁。北國新聞社出版局編 『石川県大百科事典』 (北國新聞社、 一九九三年)一〇一二、 一〇一三頁。 6 この山岸弘が共氏の祖父であると思われる。なお、その生卒年は、 『石川県史 第参編』によれば、一八三三?~一九〇四年。
7 藤 田 維 正 編 輯 幷 出 版『 同 声 集 』 の 巻 三、 四( い ず れ も 十 五 年 ) 等 に「 咸 斎 山 本 愿 」 の 作 品 が 載 っ て い る。 『 改 訂 増 補 加 能 郷 土 辞 彙 』 に 「山本愿中 号は咸斎」 として立項されている人物ではないかと思われる。だとすれば、 加賀藩の老臣 長 ちょうつらやす 恭連 (一八四二~六八) の医員で、 詩を林蓀坡(一七八一~一八三六)に学んだ(九三二頁)人物である。 8 松村西荘は千阪と「深く相識る間柄」であったという。石崎寛『桜所文献 近世福光町史』 (石崎寛)一四三頁。 9 宮島誠一郎(一八三八~一九一一)は元米沢藩士で、官僚・政治家として活躍した。 10 石崎家については『越中百家』下巻一九九~二〇四頁「南砺振興の石崎家(福光) 寛永から加賀藩御扶持人十村」に詳しい。 11 石崎寛編輯、吉波彦作謄写『桜所文献 松村西荘』 (南砺市立中央図書館蔵)第三冊二〇七、 二〇八頁。 12 文中の「含津」 (ふくみつ)は福光のことであるが、松村寿氏によれば、福光をこのように称する例は他に見られないとのことである。 13 松村和一郎については 『越中百家』 下巻 「日中のかけ橋 松村家 (福光) 中国にかけた 50年 貫いた反骨の謙三氏」 に、 松村薬局の五代で、 「金沢大学の前身、金沢医学校の製薬生となり」 、「富山県内では薬剤師の草分けともいえる」人だったと述べられている(二一八頁) 。 14 石崎寛『桜所文献 近世福光町史』一九三~一九四頁。 15 松村寿氏家蔵の屏風に、松村西荘・永山亥軒らの作品と並べて、後者の詩を揮毫したものが表装されている。 16 『金城新誌』 は加賀の牧野一平 (一八四一~一九一〇) が十八年に創刊した雑誌。芳井先一編 『石川県大百科事典』 (北国新聞社、 一九七五年) 七〇八頁。 17 石崎寛『近世福光町史』一九三~一九四頁。 18 石崎寛編輯、吉波彦作謄写『桜所文献 松村西荘』第三冊二〇八~二一〇頁。 19 迎 月 亭 の 外 観、 及 び 書 軸 を も 含 む 亭 内 の 写 真 が、 兼 久 文 治・ 津 山 昌 監 修『 富 山 の 茶 室 』( 桂 書 房、 一 九 八 七 年 ) 六 十 ~ 六 十 一 頁 に 掲 載 さ れている。 20 そ の 他、 筆 者 が 二 〇 一 六 年 秋、 福 光 で 行 っ た 調 査 に よ り 知 り 得 た 事 柄 を 付 言 し て お こ う。 一、 松 村 寿 氏 邸 に 王 治 本 が 王 羲 之 の「 清 晏 帖 」 を 揮 毫 し た 半 切 が 保 存 さ れ て い る。 一、 『 近 世 福 光 町 史 』 八 四 三 頁 に 写 真 が 掲 載 さ れ て い る、 松 村 西 荘 の 少 年 時 代 の 金 沢 で の 師、 永 山 亥 軒( 一 八 一 五 ~ 七 九。 金 沢 藩 士 ) の 筆 稿 に 対 す る 王 治 本 の 批 評 文 の 保 有 者 の 武 田 氏 と は、 福 光 の 西 町 に 生 ま れ、 町 議 会 議 長 を 務 め、 歌 集 も 残 さ れ た 武 田 吉 三 郎 氏( 一 九 一 三 ~ 一 九 九 七 ) で あ る。 一、 南 砺 市 立 中 央 図 書 館 に、 王 治 本 が 明 の 高 啓 の「 梅 花 九 首 」 其 の 四 を 揮 毫したものを表装した書軸が収蔵されている。
21 この山岸千吉が共氏の父であると思われる。山岸千吉については、 藤田維正編輯 幷 出版『同声集』第一巻(十五年)に「剛堂 山岸千吉」 と見える。剛堂と号したようである。 22 小池梅所 (梅処とも。一八三一~一九一三) は金沢の御徒町に住み、 上海にも遊歴して南宋文人画を能くし、 篆刻も能くした人。畑中榮 「加 越能詩作者略傳 その2[お~こ] 」(金沢高等学校総務部編『紀要』三十五号、 二〇〇七年) 。 河波椶園(棕園とも。一八二二~九〇) は 明 治 元 年、 明 倫 堂 助 教 と な り、 自 ら も「 梅 塢 塾 」 を 開 い て 諸 生 に 教 え、 こ の 間 輪 島 小 学 師 範 学 校 や 農 学 講 習 所 教 授 に 任 じ た 人。 蒲 生 重章 『近世偉人伝 義字集 五編』 下 (二十四年) 二十四~二十六丁、 玉井敬泉編 『加能画人集成』 (金沢文化協会、 一九三五年) 十七頁、 『改 訂増補 加能郷土辞彙』 三〇六頁、 石川県 『石川県史 第参編』 (石川県図書館協会、 一九七四年) 三二八~三二九頁。 井口孟徳 (一八一二 ~ 八 四 ) は、 通 名 嘉 一 郎、 字 は 孟 篤( 徳 )、 号 は 犀 川、 維 新 前、 加 賀 藩 の 老 臣 横 山 氏 に 仕 え て 儒 臣 で あ っ た が、 維 新 後 は 文 学 教 師 と な っ て諸学校に教鞭を執った。和田文次郎『金沢墓誌』 (加越能史談会、 一九一九年)三十頁「井口嘉一郎」の項、 『改訂増補 加能郷土辞彙』 九八八頁、 石川県 『石川県史 第参編』 三二六~三二八頁、 畑中榮 「加越能詩作者略伝 その1 [あ~え] 」(金沢高等学校総務部編 『紀要』 三十四号、 二〇〇六年) 。 中村竜渓 (一八五七~?) は、 明治八年三月師範学校に入学、 卒業の後、 石川郡相川小学校五等訓導に任ぜられ、 次で松任小学校、 栗ケ崎小学校へ転任した人。ルーブル社出版部編『大日本人物名鑑』巻四の一(ルーブル社出版部、 一九二一、 二二年) 。 23 亀 田 貞 勝( 一 八 一 八 ~ 一 八 八 三 ) は 金 沢 の 薬 種 商 で、 文 雅 を 好 ん だ。 『 改 訂 増 補 加 能 郷 土 辞 彙 』 二 二 四 頁、 畑 中 榮「 加 越 能 詩 作 者 略 傳 その2[お~こ] 」。 24 岡田順二は後述の岡田呉陽の通称。 25 前 田 則 邦( 一 八 四 七 ~ 一 九 一 五 ) は 富 山 藩 主 前 田 家 の 分 家 で あ る 若 土 前 田 家 の 祖、 利 民 の 長 男 で、 廃 藩 置 県 後 は 富 山 第 百 二 十 三 国 立 銀 行 ( 現 北 陸 銀 行 ) 頭 取、 富 山 市 長 な ど を 歴 任 し た。 富 山 市 郷 土 博 物 館 編 集・ 発 行『 富 山 市 郷 土 博 物 館・ 富 山 市 佐 藤 記 念 美 術 館 特 別 展 若 土前田家の人々―お殿様の孫 前田則邦が生きた幕末・明治』 (二〇一五年) 。 26 『 絶 史 論 存 』 は『 経 史 論 存 』 の 誤 り。 十 二 年 出 版 の 関 義 臣 編 纂、 全 六 巻 の『 経 史 論 存 』( 内 藤 伝 右 衛 門 ) と、 十 三 年 六 月 出 版 の 関 義 臣 編、 全十五巻の『日本名家経史論存』 (温故堂)がある。前者は未見だが、後者には評点者の一人として王治本も加わっている。 27 横山政和『環翠楼詩鈔』 (札幌・横山隆起、三十五年) 。 28 さねとうけいしゅう「王治本の金沢での筆談」一五〇頁。 29 なお、 参考までに、 『環翠楼詩鈔』において後者には小野湖山の「巧穏勝 桼 園粗笨詩遠矣〔巧穏にして、 桼 園の粗笨なる詩に勝ること遠し〕 。
敬服敬服」との評語が付されている。 30 亀谷龍二・橘米次郎編『越中古今詩鈔』 (光奎社、一九二六年)乾七十二丁。 31 さねとうけいしゅう「王治本の金沢での筆談」一四八頁。 32 内山家については、 『越中百家』下巻、一~六頁「富山藩十村役 内山家(富山) 神通の廃川地を開く」に詳しい。 33 藤田茂吉(一八五二~九二)は、号鳴鶴。新聞記者・政治家。明治八年、郵便報知新聞社に入り、主幹。 34 『桜所文献 近世福光小史』一九〇頁。 35 「栗本翁」は、 『郵便報知新聞』の主筆を務めた栗本鋤雲(一八二二~九七)のこと。なお、 これと同じ文章が、 福光町史編纂委員会編『福 光町史』 下巻 (福光町、 一九七一年) には、 藤田茂吉 「北遊日記 (抄) 」 からの引用として、 十一月四日のこととして記されている (五〇三頁) 。 「 北 遊 日 記( 抄 )」 な る 文 献 の 所 在 の 不 明 で あ る こ と が 問 題 で あ る が、 そ れ と は 別 に、 『 郵 便 報 知 新 聞 』 所 載 の「 北 遊 紀 行 」 の 記 載 に も 疑 わ し い 箇 所 が な く は な い。 同 紙 は「 北 遊 紀 行 」 以 外 の 記 事 に お い て も 数 回、 藤 田 ら 一 行 の 動 静 を 報 じ て い る( こ れ も 旅 行 の 同 道 者 か ら の 通 信 に 基 づ く の で あ ろ う が ) の だ が、 十 五 年 十 一 月 十 一 日 の 記 事 で は、 藤 田・ 久 松 の「 両 氏 は 翌 三 日 砺 波 郡 福 光、 今 石 動、 射 水 郡 高 岡に向て」富山を発足せられたと記し、二日に富山を発ったとする「北遊紀行」の記載と、日にちが一致しない。 36 富山新聞社大百科事典編集部編『富山県大百科事典』 (富山新聞社、一九七六年)一三六頁。 37 小 杉 熙『 復 堂 遺 文 』( 小 杉 醇、 一 九 三 〇 年 ) 上 巻 所 収「 復 堂 先 生 事 略 」。 石 川 県 第 二 師 範 学 校 は 現 在 の 富 山 大 学 教 育 学 部 の 前 身 で、 開 校 当 初、 富 山 に あ っ た。 富 山 県 の 成 立 は 十 六 年 の こ と で あ る。 そ の 他、 復 堂 は 上 述 の 山 岸 千 吉 に よ り 漢 学 を 修 め た と 言 わ れ て い る( さ ね と うけいしゅう「王治本の日本漫遊」二〇八頁) 。 38 北村勝三編輯兼出板『観光餘影』 (十八年)に停雲の七絶一首が載り、そのように注記されている。 39 二 首 と も『 呉 陽 遺 稿 』 巻 一 所 収 で あ る が、 前 者 は 岡 田 正 之『 越 中 古 今 詩 鈔 』 乾 に も 収 録 さ れ て い る。 岡 田 正 之( 一 八 六 四 ~ 一 九 二 七 ) は 呉陽の二男で、東京帝国大学教授を務めた。 40 「停雲」は陶淵明の「停雲」詩に基づき、親しい友を思うの意。 41 徐翁は後漢の徐 稺 のこと。 「徐翁孤榻」は陳蕃が徐 稺 のためにわざわざ設けた榻(長椅子)のことで、来客を好む意の典故。 42 この句は、杜牧の七絶「贈別」の転・結句「蠟燭有心還惜別、替人垂涙到天明」を連想させる。 43 注1所掲拙稿二十二~二十六頁。
44 有馬龍斎・関三一編『七曲吟社詩』 、東生亀次郎。 45 明治六年一月一日を以て、陰暦から陽暦に改められた。 46 畑中榮「加越能詩作者略傳 その1[あ~え] 」。 47 「 源 」 の ホ ー ム ペ ー ジ に よ れ ば、 江 戸 時 代、 「 旅 館 の 主 人 で 風 流 人 で あ っ た 源 梅 山 」 は、 「 料 理 業 を 中 心 と し て 吉 川 屋 を 営 」 み、 ま た、 「 茶 人 と し て、 富 山 の 文 化 交 流 と、 発 展 に 寄 与 し 」、 明 治 初 期、 梅 山 の 息 子 の 金 一 郎 が こ の 楼 の 初 代 の 主 人 と な っ た と い う。 天 人 楼 は 今 も 鱒 寿司等の弁当の販売店として、その屋号を存続している。 48 前田則邦については注 25を参照されたい。 49 石割村の杉木家については前掲『富山県大百科事典』四三三頁の「杉木文書」の項に詳しい。 50 畑 中 榮『 能 登 詩 情 ― 漢 詩 で 読 む 能 登 ―』 ( う つ の み や、 二 〇 一 四 年 ) 四 十 八 ~ 四 十 九 頁。 な お、 江 馬 天 江( 一 八 二 五 ~ 一 九 〇 一 ) は 京 都 在住の医者にして漢詩人。 51 「光緒癸未仲春」は明治十六年三月九日~四月六日の間に相当する。 52 佐 久 間 龍 太 郎 著 作 権 発 行『 大 正 十 一 年 版 北 陸 人 物 名 鑑 』( 一 九 二 二 年 ) 一 九 二 ~ 一 九 四 頁、 北 國 新 聞 社 出 版 局 編『 石 川 県 大 百 科 事 典 』 一七二頁、畑中榮「加越能詩作者略傳 その2[お~こ] 」。 53 小川政修編輯兼発行『南疇遺稿』 (四十二年)所収。 54 「 晨 煙 」 は 朝 の 雲 霧 ま た は 炊 事 の 煙。 「 火 牛 」 は 戦 国 時 代 の 斉 の 田 単 が 用 い た 奇 計 で、 牛 の 角 に 兵 刃 を 束 ね、 尾 に 葦 を 結 び 付 け て 点 火 し、 夜陰に乗じて敵陣に放つもの。ここでは、その結果立ち昇る煙のことか。 55 『南疇遺稿』所収「養志堂記」による。 56 和田文次郎 『金沢墓誌』 三十一頁、 黒本植 『三州遺事』 (石川県立図書館、 一九三一年) 十七~十九頁、 『改訂増補 加能郷土辞彙』 九九二頁、 石川県編 『石川県史 現代篇⑵』 (一九六三年) 一一五一頁、 石川県 『石川県史 第参編』 三三七頁、 畑中榮 「加越能詩作者略伝 その2 [お ~こ] 」。 57 和田文次郎『金沢墓誌』六頁、畑中榮「加越能詩作者略伝 その2[お~こ] 」。 58 和 田 文 次 郎『 金 沢 墓 誌 』 十 六 頁「 大 田 美 農 里 」 の 項、 金 沢 市 医 師 会 編『 金 沢 医 師 会 医 政 史 』( 金 沢 市 医 師 会、 一 九 四 三 年 ) 二 十 ~ 二 十 二 頁 「大田美農里」 の項、 その他。藤野恒三郎 ・ 梅溪昇編 『適塾門下生調査資料』 第二集 (大阪大学、 一九七三年) 十八~十九頁、 石川県 『石
川県史 第参編』三三七~三三八頁、畑中榮「加越能詩作者略伝 その2[お~こ] 」。 59 和田文次郎『金沢墓誌』五十二頁、玉井敬泉編『加能画人集成』 (金沢文化協会、一九三五年)十六頁。 60 「癸未四月初九日」との日付がある。陽暦としか見なせない。 61 十五年七月、越前における二人の交流については、注1所携拙稿二十九~三十三頁。 62 四 月 十 三 日 の『 福 井 新 聞 』 所 載 の「 正 誤 」 に よ り、 「 訽 」 を「 詢 」 に、 「 黍 」 を「 漆 」 に、 「 畳 」 を「 塁 」 に、 そ れ ぞ れ 改 め た。 な お、 鷗 波の作は彼の『還読斎遺稿』に「王 桼 園、 自越中来訪、 有詩見似、 輙次其韵」という題で載っており、 そこでは「者」を「這」に、 「境」 を「 况 」 に、 「 没 」 を「 少 」 に そ れ ぞ れ 作 る。 ま た、 『 福 井 新 聞 』 所 載 の 鷗 波 の こ の 詩 の 後 に は「 先 生 北 遊 詩 草 中 有 富 山 古 城 及 公 園 地 等 記文第三句故云」という自注があり、それにより、王治本が北陸漫遊中の詩作を一つにまとめていたらしいことが知られる。 63 この序も『食研斎文稿』に「 《養生編》序」という題で収載されている。 64 石崎寛『桜所文献 近世福光町史』一四五頁。 65 な お、 『 小 学 口 授 新 撰 養 生 編 』 の 奥 付 に は「 編 輯 人 富 山 県 平 民 高 桑 致 芳( 石 川 県 金 沢 区 母 衣 町 十 五 番 地 寄 留 )」 と あ り、 金 沢 に 住 ん でいたようである。 66 畑中榮「加越能詩作者略傳 その1[あ~え] 」。 67 升方山は魚津市にある山。 68 平野豊次郎編輯兼発行『藤陰遺稿詩』 (四十一年)巻之二、 十二丁。 (しばた・きよつぐ 本学教授)