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洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法 : 村西商店の決算例 (江頭恒治博士還暦記念論文集)

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(1)

洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法

村西商店の決算例i

栄 一 郎

は し が ぎ  徒弟制度のもとで伝統的経営法を維持する反面、進取の気象をもって時代にさきがける商人気質が、西洋式複式簿記をどのように消化 したかとい弓問題は我が国固有の簿記法の終末期における中心問題である。  当時三つの動きがあったと推察できる。その第一は直輸入方式で、簿記書の翻訳、商業教育機関を通じての専門家養成、新興商社企業        ① での採用とい5過程を辿って急速に普及せしめられた。日本商事慣例類集所収の各地よりの報告はいずれも﹁大会社銀行以外では用いら れていないが、その優れている事実は周知のところである﹂旨が述べられている。 ﹁明治+六・七年︶第二は同化方式である。多くの商 店では固有の帳合法からぬけ切れなかったのであるが、基本的計算構造に触れない程度の技法面での長所は進んでこれを採入蜘固有帳合 法の中に同化せしめていった。しかし決算報告の方法にいたるに及んで根本的改変の必要なことが痛感せられ、一方商業教育面でも第一 種商業学校の目的たる自営商人養成が実を結びはじめるに及んで、西洋式簿記法の知識が普及し、一挙に西洋式に切替えることになる。        ② ︵明治末期︶た黛し固有帳合が漸進的に洋式簿記に移行するという事例は知られていない。 ︵著書としてはこの種のものあり︶第三は固 有帳合整備方式。これは明治二一二年商法典発布に魚倉されてその会計条項に応じるものとして考案されたものである。商法には具体的方       ③ 式を示していない。商法制定に際しては予め﹁具体的方法を呈示されたい﹂とい弓業者からの要請は少くなかったが、一般的規範として 特定の方式を打出すことは元来適切ではないから当然のことエして抽象的規定となったわけである。 しかし決算諸表に関する規定がある 洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶ 二三五

(2)

      二三六       ちょうめんかぎこみ     ペコ  ひと  やと    おエ ので、 これをいかにして固有の帳合によって作成するかとい弓問題が解決されねばならなかった。 ﹁帳面記入の捻め別に入を雇ふに及ば

ずぜっ犠飛も蕪の嚇を鍵ぜしたれ犠暴廊を郷ひ膵る耀には繍めて催り療くして饗蠣魔の藤獲蓑思に犠齢は羅なる馨げ

か芭こみか た     ゆえ  よむひこよ   ちふし     が てん      さ .ぼどなんぎ      ④ 記入方法なる故に読者能く注意せば会得するに左程難儀はなかるべし。﹂とい弓主旨で、商家の因習性に着眼したものである。当初はこの 方式が歓迎されたかも知れないが、商法の要求が具体的なものでないことが判明するにつれて、法律のもつ制度化への刺戟が薄れ、結局 のところ経済的要求が成熟するまでは簿記法の整備はふるわず、実質的要求が出るに及んで洋式が普及する。  明治初年洋式簿記法は逸早く輸入されたのであるが、政府の熱心な奨励にもか義わらず実業教育は一般的普及を見ず、一部の新興商館 や会社企業における中堅幹部養成に限られ特に申等商業教育が地方内国商業の近代的経営化に参劃するまでには四十年の新月を必要とし た。日清戦役の結果地方土着商業資本が大陸進出の機会を得たあとを基けて、 日露戦役が国内商工業活動を善戦し、海外雄飛の原動力と なったことによって、在来の内国商業に活力が賦与された結果、経営の近代化が急務となって、地方商人の子弟が中等商業教育を受ける 風潮を生じ、大正初年までの聞は、商業学校がその所在の地域社会の特色を生かした自営商人の養成を目標としてしきりに設立されるの を見るのである。  この時期に先がけて明治十三年の改正教育令には名称のみ現われて特に準拠すべき法規のなかった商業学校を充実拡張する意図をもっ て明治十七年商業学校通則が発布され、 こエに規定された第一種商業学校が自営商人養成の目的を掲げて設立されるのを見るが、その卒 業生が地方小商人や、老舗の主となってその経営の近代化に努力し、就中簿記法の洋式化に努力したとい弓事実は少い。  このよ5にして洋式簿記法が学校教育の成果として内国商業者聞に普及するのは右に述べた明治末大正初期の頃からと推定される。  滋賀県愛知郡秦川村安孫子の﹁高宮布﹂仲買持下り商村西茂左下門店は早くから大阪に店舗を構え呉服太物一般を取扱った。同店の帳 簿史料で現存するもの二百余焔、その保存状況は充分でなく、散逸甚しいが、安政二年より大正八年目及んで居り、その弓ちで大福帳は 大体良く保存されている。その記載状況を手が瓦りに帳合法、会計制度の変遷に躯節罫描してみよ弓。  万延元年より明治初年に到る十力年程は﹁売上帳﹂と題しているが、店別口座に掛売高とその回収高を記入し、残高を求めている。日 常の記入の一々には検算突合せを行ワた形跡はない。特に売上高を求めた証拠がないので、損益計算乃至決算を行ったとは考えられな い。各口座は﹁何年日月末日相済﹂として全記入に横線を入れて抹消してしま弓。また最終に﹁残り掛石膏﹂とい弓口座を設けて、年度 末未回収高を集計している。明治三年からは﹁大阪大福帳﹂と題するが、見開頁には﹁売上帳﹂と明記しており、記載内容、方法ともに 何ら異るところがない。売上帳と呼ばれるものが実は売掛金元帳であり、大福帳を売掛金に限るとい弓用法は古来最も一般的であったとい

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われ、その官倉で村西家帳合は決して特異なものではない。勿論この外に多数の帳簿が使用されたと思5が、現存しないから明言はでき ない。た黛金額記載に並べた検印のあり方は、当初には差引残高について﹁謝﹁が押されたのみであったものが、後には一々の記載に押され るようになる。これは﹁当座帳﹂との連絡をつけたものと推定できる。  明治十三年には﹁売上当座帳﹂に原始記録を行い、 ﹁南大福帳﹂﹁北大福帳﹂﹁大阪大福帳﹂に分割された上で、 ﹁売上仕切帳﹂がま とめる組織になる。  実質的改変は明治十九年の大福帳に朱書で調査済と記載されはじめ、 二十一年には﹁直七調査済﹂と朱書すると﹂もに、売上当座帳と の聞を⑨印で連絡し、金銭出入帳との間は翻印で結ぶ、さらに合計額・残高には禽轡印を押捺するとい5具合に、庭面方法に秩序をも たせるのみならず、一定の検査を5けることになったようである。 この検査はやがて一々の記帳について細密に行われるようになるので ある。年度最終の記載に続けて朱書で﹁是迄毛唐消印済︵罰轡﹂とい弓証明で終るのである。記帳の都度と一定の検査日の二重の照合をも ワて記帳の正確を期したよ弓に思5。  このよ5な照合印をもって連絡し、漏れなく捺印されることによって記帳の正否、取引の複記を保証するという仕組は、既に中井家帳 合で完成された方式であり、我が国固有の簿記技術の基本であった。村西家の場合むしろ遅きに過ぎた感がある。  さて﹁直七調査﹂の実施時期が極めて興味が深い。明治二三年の商法典発布は十六年頃から予備実態調査も行われ、永い問の話題であ ったとxもに、 これを迎える商人の側ではある意味での焦慮があったことも争えない。当時の著書のいずれもが商法施行に関連して出版 され、商法規定に適法であることを必ず附言していることでも分るのである。法規の制定が実務を刺戟することはこの例に止まらない が、これは誠に好適の例というべきである。明治二十年頃から以降の村西帳簿はそれ以前に比して蓬に保存状況がよいのである。﹁直七 調査﹂の実施も商法施行に関係があると考える理由があると思弓。  直七なる人物については知る由もないが、主人村西茂左工門は本宅にあり、村西和兵衛が大阪白血を預ったよ5である。明治三十年の ﹁雇人差引張﹂には全員の口座が設けられていて、冒頭の主人口座では主人の給料は五十円で種々取替金を差引き二三円七四銭預りとな っているのにひきかえ、和兵衛の口座では給料百円、衣類その他三十円でこれを年内に数度に分けて現金で渡しているのを見ても主人の 立場が不在資本主であることが分る。手代格と肩書のあるのは野村正七、城貝譲三郎、川口音次郎の三名で年俸十五円から五円、それ以 下は五十銭位である。それらがすべて周旋入が誰であるかを明記した純然たる雇人であるのに対して、只一入村西直七なる人物は周旋人 なしで来古している。 ﹁仮名直七、戸主村西黄兵衛、明治十二年四月生、愛知郡秦川村安孫子=一八、明治三一年九月来る﹂ とあるか 洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶ 二一二七

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二一二八 ら、この直七が直七調査の直七でないことは明らかであるが、彼は戸主であって先代が死亡していることが分る。この年にやっと二十才 となり元服式を行ったばかりである弓えに明治三十一年雇入である。手代格の川口音次郎は同年であるが明治二四年雇入れの先輩で直七 こと村西茂兵衛は全くの新入である。にもか瓦わらず直七は最初から手当金七円を給され川口音次郎は五円である。このよ弓な点からみ て﹁直七調査﹂の直七を継ぐべき村西一統の者であったと思う。川口音次郎の経歴との対比からしても分るよ弓に、この若い直七は丁稚 奉公の年期を経ていないのである。  さてこの三十年三十一年という年は村西帳合の劃期的年代である。すなわち﹁資産勘定帳﹂﹁損益勘定帳﹂の二種の決算記録、貸借対 照表、損益計算書に相当するものが三十年度から開始され、結局は完全なものにはならなかったが曲りなりにも十年間続けられるのであ る。た穿基礎帳簿については、村西の簿記方法は伝統を守って改変せず、決算について態勢を整備しよ弓としたよ5に思弓のである。  明治三十年といえば、中等商業教育も発足しているし、商法制定を機に和式記帳技術を基調にしつx洋式複式決算を行幸方法を考案 し、実務家一般に普及しよ弓とした書物も出版されているのであるから、直七はこのよ5な知識に基いて村西商店の会計を改良しよ弓と したとい弓想橡も成立たなくはないが、種々の点からして、私見はこの見解さえも同意できないのである。その理由の第一は、日常の記       ゼロ 帳はもとより決算記録でさえも別人が行ったものであることが分る。まず記数法であるが、日常記帳・決算記録とも○を用いることは知 っている点が江戸時代よりは進んでいるが、その用法があまりにもしばしば聞違っている。例えば嘱,メ刈OH■目Oα︵ヒ千七百一円+銭五厘︶ と書く場合に﹁金七千七百〇一円十銭〇五厘﹂と記している。この誤用はずっと以前から相当長期聞に亘って共通している。それにひき かえ、二種の決算簿の二八肩の余白に鉛筆書で仮計がメモされるのであるが、 この場合は﹁七、七〇一、 一〇五﹂と正しく記数されてい る。この点から別入が記したものと判断できる。 また、誤字を訂正するに朱筆をもってすることがあるが、その筆跡は鉛筆書と同じであ る。これが直七の検算に際しての記入で原記入は別人によるものであると推定できる。  理由の第二は当時の著書に記述されている簿記法を一二検討したところ、 相当の影響があったことは窺へるが、体系的知識として受け 入れられ、これに基いて徹底的題良をみたとい弓形跡が発見できないのである。複式決算は江戸時代にすでにあったし、明治十六・七年 の印行、 ﹁日本商事慣例類集﹂所収の全国事例申にもその形跡が5かぼえるのであるから、明治時代であること玉複式決算の導入とい5 だけでは輸入された洋式簿記法の普及の結果であるとは断定できないのである。むしろ次のよ弓であったと想像できるのである。  原理的には在来の帳合法が根強く保存され実用上も充分満足しみるものであった。その反面罫線による様式化された帳簿、正負残高の 金額欄を分つこと、万千百拾の位取文字を用いない記数法、借方貸方といった用語等の枝葉末節に亘る利点は次々に採用された。その

(5)

間、教育としては純粋に西洋式の簿記法が大々的に採用されたが、実用には供されず、在来の技術のまxで原理的に洋式化する試もあっ たが、その真価は発言されないま玉であった。日本固有の帳合法は一見極めて特殊のよ弓に受け取れるのであるが、それは主として形式 的末端技術的な問題についてであって、しかも因習的な要因を除いては特に保存維持さるべき利点とてないのであるから、一旦洋風化が すΣめば、能率的な西洋式簿記法が優位に立つであろう。固有技術を支持していた因習的要因は明治三十年頃には急速に払拭されつΣあ った。村西商店の帳簿には日本固有の簿記法の洋風化されてゆく過程が如実に現われているが、原理的変革がみられないま製に結局衰退 し、洋式簿記法に転換されるにいたる頃の実例である。

@@@@

司法省編纂﹁日本商事慣例類集﹂ ︵滝本誠一校閲︶昭和七年四月廿五日 設問第三節三四頁以下二七二頁以下。 伊藤岩次郎著﹁簿記正法・商法帳簿式﹂上・下巻 明治廿四年一月二十日。 司法省編纂﹁日本商事慣例類集﹂ 磯村音介齊藤軍八郎土ハ著﹁商法活用帳合之法﹂二頁。

二 史 料 の 状 態

 泰川村大字安孫子の本宅に蔵されていたものが昨秋表具材料として売却されんとした矢先、滋賀大学史料舘が発見

買取ったものである。漏すでに一部は仏壇修理材料として解体されていた。現存する史料の主体は商業帳簿で、二百

冊余に上る。最古のもので安政二年、最新のものは大正八年、大多数は明治十年より四十年のもので、決して古い史

料ではない。簿記法研究のために必要なのは同一年度の諸帳簿一揃がまとまって現存するということであるが、その

点では決して整った史料ではない。不揃なうちに恣明治十年以降三五年位まではそれぞれ十種以上は残っていて、簿

記法の大綱を把握するに適当、且つ十分である。特に、明治三十年より十年聞が程は﹁損益勘定帳﹂ ﹁資産勘定帳﹂

と呼ばれる二種の決算簿が残っている上に、 日常取引の記録のための帳簿も相当に残っている。

 帳簿の種類は時代によって相当の相違点が存在するのであって、後日分割されたり、新設される反面、廃止される

    洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶      二三九

(6)

      二四〇

ものもある等のために、特定の年度では特定の種類のものを用いたのみであるが、とのような関係を無視して、各時

代に命名された各様の帳簿名を並列してみると、延べ五〇種類に亘る。

 大部分は美濃紙白紙を長客または横四つ折の古い体裁の帳簿に、若干の罫線入り縦書帳簿と、背皮装大判の縦書帳

簿になっている。とれらは大体において著しい記帳技術の変化なしに古くから用いられていたのである。

 本宅金銭出納簿・空方金銭出入帳・記事録・諸事仮控帳・本宅雑費明細高等の若干の本宅帳簿以外はいつれも大阪

支店のものである。

三帳簿組織と記帳方法

 ︵日記帳︶ 原始記録簿であって ﹁日誌﹂ ﹁郵便電信﹂ ﹁金銭仮出入﹂ ﹁借買物﹂ ﹁白米出納﹂ ﹁玄米出納﹂ ﹁日 雇﹂ ﹁物品取遣﹂ ﹁飲食受与﹂の口取に分たれている。その全部が会計情報とは限らない。通常の文章で記述してい るのが多い。そのうちで次の項は会計情報であって、会計帳簿に転記されその都度一記入戸一の印や一囲陰一点が捺押され ている。

 ﹁金銭仮出入﹂金銭出入帳に記入する前に一時的にと・に覚書されているのである。

 コ借買物L雑物品等の掛買の原始記録である掛買のときこ・に記載し、馴囹再が押され、情熱に附替えると﹂記入済一

印を捺し、後日支払があったとき[相払﹁印が押される。

 ﹁玄米出納﹂玄米出納帳が設けられているので、その原始記録である。玄米は食糧であったばかりでなく、仕立賃

等に現物で支払はれたので、と・から会計帳簿に転記されることがある。その際 記入済一事が押される。

 ︵金銭平入帳︶ 本宅の金銭出入帳は美濃紙四折の古風な体裁であるが、大阪支店のものは青と赤とで罫線を引

(7)

Ψ

いて、入金・出金・残高の三つの金額欄を設けた新しい体裁のものである。

書用にしてあるのが面白い。市販品であらう。一部を示さう。

しかし数字は縦書毛筆のために、罫も縦

劉肝

不残消印済

響㊧㊧

小計㊧

国武喜預り分⑭戻し正七約束

摘要

二六

二 七 四 五 二 八

入金高

○ 七 九

0

五 二

二六

一 六 三 八 六 七

出金高

一 四 ○ 七 八 四 五 三 五 八

八 一 一

0

○ 五 五

残高

九 九 一 一 七 七 七 七

 右は明治三十年度最終の記載状況である。欄外上部の鞠印は記帳者が相手勘定での記帳と突合せた検印である。

︵鳳矧は直七の改め印であらう。前述のごとくこの頃では日常記帳の一々にまで直七の検査が及ぶのである。因に残高

欄は大体に於て毎記入算出され、この最終残高は資産勘定帳︵B/S︶の当該項目と一致する金額である。

 ︵売上当座帳︶ 売上を発生順に記録する原始記録簿である。冒頭に得意先名が大書されるので入名口座のよう

にみえるが、実は発生順であって入名は大福帳に転記するための見出しにすぎない。

 金額には颪四幽印が押される。これは﹁売上帳﹂すなわち通称﹁大福帳﹂と呼ばれる計算簿への転記の証である。ま

た数量には⑲印が押される。とれは﹁物品出納帳﹂との突合せ印である。合計金額でもって検査を行ったらしく、

    洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶      二四一

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二四二 〆高に調査印が押してある。長帳。

 ︵大福帳︶ 村西店では明治初年まで売上帳と称して来たし、その後も表紙には麗々しく大福帳と記すけれども、

見返しには売上帳と書いている。この帳簿の第一の目的は得意先別口座で掛売高と入金高を記録し、その残高を求め

ることによって、売上仕切帳に計上すべき貸売代金請求額を算出するもので、得意先元帳に相当する。第二の目的は

損益計算に必要な売上高を求めることで、明治三十年の大福帳は﹁南方﹂ ﹁大阪北﹂ ﹁諸国﹂の三冊に分冊されてい

るが、そのうちの﹁南方大福帳﹂の表紙裏に次の記載がある。

 一拾万三千百四拾七円八十一銭三厘 〆

   内五百七拾円廿四銭九厘 欠引

   又 五拾三円九十銭九厘    直引  正   金捨万弐千五百廿二円六拾五銭五厘

 しかして、この金額が決算書たる﹁損益勘定帳﹂の売上金之部の合計に一致するのを見ても、

が算出されていることが明瞭である。他に売上収益算出のための帳簿は存在しないのである。

 次に売上当座帳と大福帳の一部を揚げて記帳の関連を例示しょう。

明治三十年丁酉第一月吉農

    売上当座帳

  ︵中 略︶

 酒井和吉様

◎ 明治三十年丁酉第↓月吉最

    大福帳 ︵南方︶

  ︵中 略︶ 大阪森屋町泉町南江入

    酒井和吉殿

との帳簿で売上収益

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一月升日  一 燻l拾四円也一圃幽 一金皿川七円廿山ハ銭      關田︻ 〆金八十壱円廿六銭 八十八〇 二子別製  五十反

 ⑲

五十四〇 金巾 六十九回

忌 ㊥

 ︵中 略︶  第四月限 一月滑日 一三四拾四円也 〃 一ご拾七円⊥μ山ハ銭 〆金八拾壱円廿六銭   内四十銭〇六厘 正二  金八拾円八拾五銭四厘   四月三十日     ︵働魍   内 金八拾円八拾五銭 八八東京   五拾反 五四金巾 六十九反 [ff1 1合1 五厘直引

入⑳

 ︵買入当座帳︶ 仕入に関する原始記録簿であって、記入法は売上当座帳に同じである。大福帳は売掛金の計算に

限られ得意先の口座のみであるから、買⋮掛金の処理には別に設けられた﹁貸借差引簿﹂があって、その口座の半数以

上が仕入先口座になっているので、こ・に記入計算される。その際﹁訓入汐頁が押捺される。美濃紙縦半折の長帳であ

る。

 因に、荷具・運賃等の附帯費用も仕入原価に加算されている。

 ︵貸借差引簿︶ 金銭出入帳と同様式の市販の有罫縦書帳簿を用い、多数の口座を設けている。常に上段金額欄

がプラス、中段がマイナス、下段に残高を記入して居り、洋.式簿記法の影響は認められない。口座の前半には仕入先

    洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶      二四三

(10)

       二四四

の全部に充てられていて、これは仕入勘定兼買掛金勘定の役割を果している。損益計算書に相当する﹁損益勘定帳﹂

では仕入費用は仕入先別に一々掲げられているので、仕入合計を集計し、これを記載する必要はなかった。

 五一口座の多数に上る仕入先口座のあとには、 ﹁本店﹂コ諸取替L﹁京都病院﹂﹁年代延滞利息﹂﹁本村﹂﹁珠玖﹂ ⋮⋮の口座があるが、これは最後には本店差引簿に附替られている。また、 ﹁割引其他利子受払﹂ ﹁借金﹂その他の

口座があるが、これらは損益勘定帳・盗産勘定帳に集計されている。また一部は本店勘定に振替て集計した上で、本

店勘定は﹁株式台帳﹂に附替られている。また主人・手代の口座は﹁店員差引帳﹂に附替ている。

 右のごとく﹁貸借差引簿﹂は主として負債関係の計算簿であるが、 一部の費用勘定を含み、また一応はこの帳簿に

記入された口座でも、性質によって別帳に統合されるのも少くない。多くの勘定では個別に集計された上でこ・から直

接に決算諸表に掲げられ、その際二烈 印を押している。

 ︵店員差引︶ 一面費用勘定たる給料の計算に用いられるが、地面従業員個々との債権債務の勘定を行うものであ

る。  村西商店の給与規定は次のごとくであった。

     定

   手代等級及手当金 第七等    年金拾五円 第六等    全 弐拾円

   中略

第一等   全七拾円

 右之通リ相定メ衣服其他一切個人二係り費用ハ各自之負担トス

(11)

 一、丁稚ハ衣服其他共個人之費用ト難モ店費ヲ以テ高給ス 但シ半ヶ年聞二少額ノ小遣ヲ仕払ス   右三十七年一月ヨリ施行ス

 丁稚は全くのお仕着せであるが、.手代は自弁である。自弁分は給金から差引かれるのである。この制度は江州商人

の通例である。

 そこで、 ﹁店員差引﹂には各人の口座が設けられ、冒頭に給金年額が記入され、次でその支払・控除状況が記入さ

れ、差引残高が領りまたは貸となるのである。       村西和兵衛  一金百参拾円也  給料百円衣類その他三十円   升年一月三十一日    内金一二拾円也  渡ス ㊧㊧

     申略

   十二月三十一日 叉拾七円九拾八銭 大帳米代附出し   差引金拾五円九拾八銭貸        差引帳より配当金預り   ●     内金六円五十一銭        附出し入       差引七十四丁より   差引金九円四拾七銭   貸・  三十年十二月珊一日改メ三十一年度二附出ス

 ︵本店・銀行差引簿︶ 銀行本店貸借簿ともい、、本店との決済、銀行領脚の増減を計算する。

 ︵公債株式台帳︶ 明治二八年以降に設けられたもので、有罫縦書様式である。後半に本店勘定が貸借差引簿か

らはつされてこ・に設けられるが、これは一種の混乱であらう。公債株式の払込高が決算に出て来ないのは奇異であ

    洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶      二四五

(12)

O 二四六 るが、その理由はよく分らない。

 以上資産負債関係が全部処理できる。

 ︵歳費帳︶ 雑費・旅費・運賃保険料共・諸税・組合費・備品・通信費・別宅費の口座に分たれている。金銭出入

帳と突合せの印がある。

 ︵物晶出納帳︶ 物品在高帳である。

 ︵その他︶ 日常の記録計算置として若干の補助簿があるぽか、本宅での金銭出入帳・小遣帳・旅心小遣帳・旅方

金銭出入帳がある。また、卜すなわち麻織物は所謂高宮布といわれ本宅近在に産した。村西商店は原料を購入し出機

したので、 ﹁布窯出帳﹂ ﹁布類仕入帳﹂ ﹁布六番三聖﹂がある。とれは本宅で記帳されたものであらうか、決算には ﹁布元方﹂として別計算でその製造原価を求め、仕入費用に合算している。

 ︵有寄附首帳︶ 全品個々に番号が打つであったらしく、その一々をかかげ、品目別に合計反数を明示してい

る。合計反数は、 ﹁現品収入﹂印を押して出入帳と連絡せしめているのである。

 興味のある点にその評価原則である。第一段として売値らしき単価で金額を計上し、その合計を求めた上で、朱筆

で﹁能掛見積金黒円何十銭﹂といった具合に、売値還元評価をやっているのである。この還元墓詣に用いる率は品目

によって異り、二一三割である。  最後に﹁元価計・金弐万八千弐百七拾四円弐十六銭⋮六厘、見積計・金弐万千九百七拾七円七拾九銭﹂とあり、 この 見積計は損益勘定帳の﹁有晶価格﹂に 致するから、とれは明らかに期未商品棚卸表である。 ︵あるいは個別原価法で評 価して、一定の減価をしたのかも知れない。仕入の資料との突合せが出来ないので判定不能である︶

 ︵資産勘定帳︶ 明治三十年以降一冊のみが残存している。これが唯︼の決算諸表で、他の年代には作成されな

(13)

 かったと推定できる。

  ︵損益勘定書︶ 二冊現存するが、右と同じ年代である。

 で、複式決算を行っている一証拠である。   以上の諸帳簿の記帳連絡関係を次に示す。 ♂

 圏

 lil i

l

 I帳l

 ltt l  i⊂エコL

 I出I

 l八1

 1帳i

慧Lr

一一一[1 Y一”1   一団

右と合せて貸借対照表・損益計算書に相当するわけ

紅 八)

黄八当座帳 掛貫 (売 k) 売lt当P±帳 貸∫基差引中長 布晶出帳 布類位八帳 魚類番付二 輪髄帳. 損益勘定帳 資産勘定帳

壁←

大野

南ゴヒ 言看国 鉱害借簿

預ケ 支柵 引出︺ 金銭出入帳 回 収 百向 ①  ヨヒ      ド ヨ ・上仕切帳  ﹁ーーIIIIlーー﹂

  日記帳

  (収 支) →日常記帳→決算記帳・・うその/t!1 [=] 原妊G;二八}箋 □ 日常計算簿[コラ央:写章簿 L−」団団帥ヌ辱覚書委貞 彦根論叢 第六五一六七合併大谷孝太郎先生還暦記念論文集  洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶ 二二九頁

 上の組織図の示すところを拙稿﹁我が国酒

       

有の簿記法展望︹所載の簿記組織図︵一般︶

と対比するとき、あまりの類似性に一驚する

のであるが、醗って考えると、在来の簿記技

術を基本にする場合の組織化にはこうしか仕

方のないことに気付くであろう。村西店帳合

での特色は、 ﹁売上帳﹂ コ仕入帳しすなわち

収益費用系統a勘定が固有の帳簿となり切ら

すに債権債務の帳簿と併用・流用され、いわ

ば未分化の段階にあるという点である。現金

取引が少く、掛取引と同じ方法で処理するな

らば、充分に用を達するのであるから、必ず

しも未発達とはいえないのである。 二四七

(14)

二四八

四 決 算 諸 表

 ﹁勘定帳﹂ ︵計算帳.差引帳.店卸帳・算用帳︶は一般には商晶売買損益計算、特に進歩した場合には複式決算を行う決

      

算簿であって、我国各地で相当に発達したものであることは明らかにされている。

 村西帳合ではこれが﹁資産勘定帳﹂ ﹁損益勘定帳﹂のこ冊に分けられている。その詳細については紙巾の都合上別

稿に譲らざるを得ない。結論的にはこれは貸借対照表・損益計算書に相当し、複式決算を意図したものである。

 その体裁も中井家帳合の店卸勘定帳と酷似していて、資産・負債・収益・費用について取引先別個々に計上してい

る点、特に費用・収益について取引先別に計上している点は﹁層詳細な決算書であるという観を呈している。

 そして計算原理は全く同様であるばかりでなく、資本に利息を附し、家屋積金を設け、貸倒の見積計上を行うなど

より進歩した原則を樹立している点が目立つのであるが、さればとて一日の長ありとはいい難いのである。私見によ

れば、むしろ会計意識としては進んでいても、基礎原理の面で重大な欠点があるために、結局成功せすに終ったもの

と判断せざるを得ない。

 直七上阪の前後からとの決算の構想が進められ、明治三十年から実施されたのであるが、教科書的には熟知の筈の

明治三十年開始貸借対照表は﹁不整理のため消﹂として中止せざるを得す、 三三年まで一応見送りとなった。

 三三年にはじめて成功し、こ・から暴戻って、再び三十年度の決算を試み以後大体順調に進められたが、その間両

計算系統による純益は.一回として一致せす、その差額の原因は不明のま、、年と、もに差額は大きくなり、三七年以

降は終に損益勘定帳は放棄ぜざるを得なくなって結局三九年で両帳とも廃止されるのである。その後の分は存在した

ものが解体・紛失して現存しないのか、恣ともと存在しないのか不明であるが、三九年度の記載状況と、余白の状況

(15)

から判断して、断念されたと考えるのが至当と思う。

 三〇年度の決算は最も良く出来ていて、純益の差も少いので、これを引用して決算手続を再現せしめて旨みたとと

ろ、日常の計算簿の期未の残高集計に一記入済﹁の印を押しながら﹁損益勘定帳﹂,﹁資産勘定帳﹂に集合せしめたもので あることを立証できた、のであるが、 この手続に際して、精算表に相当する仲介を用いることなしに、個々に直接に集

      ②

合せしめていることが判明した。中井家帳合における﹁店卸下書﹂に相当する集合と決算整理の手段を欠いているの

である。

 日常の記帳にあっては照合印を各種用い、さらに画啓叉は︸調圃印を押し再検して、取引複記によち記帳の正確と、

二勘定体系分類を行っていながら、決算手続において組織立った技術を具へ得なかったところに村西帳合の欠点が認

められよう。前に述べた費用・収益の取引先口座別計上も表示の細密さとみれば、必要以上に細密である。実は集合

手段の欠如のもたらす欠陥であったことが分る。とのようにして村西帳合における決算はや・混乱があるので、純益

に生じる誤差は補正し難いのである。

 ①拙稿前掲論文二二三頁ニニ五頁

 ②拙稿江州中井家帳合法の総括−記帳技術と決算手続彦根論叢五八号五一・二頁五五・六頁      江州中井家帳合法における決算手続、彦根論叢開学十周年記念号 二一六頁 洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法︵小倉︶ 二四九

参照

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