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満州における旗地的奴隷制莊園の形成・崩壊と漢人の植民

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お満

け洲 るに

旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民

ノ、

は  し  が き  近世より近代を経て現代に至る満洲経済の史的展開を取扱うに当って、その基盤をなす在来の経済は、満洲農業経済を 根幹とする再生産構造及びこの基礎の上に展開する経済循環であるといいうるが、この性格の解明は、その歴史的形成を 究明することによって始めて達成出来ると思われる。  この在来経済の再生産構造及び循環が後仏まで強い影響を残す根本的性格は、それが形成のそもそもの始めから、満洲 に陸続と流入した漢民族によって謂わば植民的に形成され、而もこの形成過程が中華商業資本の媒介のもとに展開したと いうことに基づくと考えられる。即ち、満洲農業が漢民族の対満植民によって形成されるこの過程が中華商業資本の活動 を媒介として展開されたということが、この農業経済を根幹とする満洲の再生産構造が中華商業資本を媒介とする貨幣経 済的再生産循環を展開しつつ形成されていったことを意味する。  しかし、この歴史過程は清朝政権の成立のそもそもの始めから行われたものでなく、それは、順治黒闇︵同+年即ち一六 五三年以降︶清朝政府によって実施された遼東踏面開墾例等の植民政策に端を発するというものの、むしろ康煕七年︵一六 六八年︶以降実施された幾多の移民封禁令にも拘らず、康煕末葉から雁正へ、更に乾隆より嘉慶、道光へと年を経るに従      満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民      一

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     満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民      二 って愈汝加速度化していった漢民族の対等植民の自然発生的な過程と表裏をなして展開したと見るべきであろう。  だが、我汝は、右の如き歴史過程の研究に入る前に、先ず、その前史として清朝政権の成立過程に展開された所の旗地 なる土地制度の形成とこれにおける奴隷制荘園の編成を取上げ、次にこの荘園における再生産が如何にして崩壊し、我汝 の問題とする歴史過程への途を開いたかを明らかにする必要があると考える。        一 浩初入関前の悪地的奴隷制荘園の形成とその崩壊       ヌル ハチ  清朝政権は、いうまでもなく満洲族の酋長から後に清の太祖となった弩濡濡斉の挙兵︵一六一二年呉剣国を攻め、翌年一月こ れを回す︶とそれに続く対明戦争の勝利的展開の過程のうちに確立されていったもので、一六一二年の挙兵から一六四四 年の京師︵北京︶陥落まで三十三ケ年を経過している。その後も中国全土の掃蕩戦が展開され、それが完了までに上二十         ク年の戦争が継続された。従って、清朝政権の確立の過程は同時に清朝の軍隊である八議の編成拡充の過程でもあったの である。  ところで、この八旗の編成、補充ないし拡充は、その経済的基礎として、旗地なる封建的土地制度の形成とそれにおけ         る荘園制度の形成、登園を不可欠たらしめた。この間の研究は周藤吉之氏によって厳密に展開されている。  同氏の研究によれば、明の萬暦︵一五七三一一六一九年︶の中頃、弩爾恰斉は東南満洲の興京を中心に勢力を張っていたが、 当時その支配下にあった蘇子河の上流及び俸三江の流域は土地が肥沃で農耕が絹当発達していた。当時、彼はその兄弟及        びその他の酋長と共に荘園を有し、主に奴隷に耕作させていた。また一般の七重は石面を自癒しなければならなかったの で、各部落に屯田が行われ、兵丁自身も多少の奴隷と共に耕作するという有様で、未だ旗人たる兵士が荘園をもつまでに         は至らなかった。それは支給すべき土地も、また耕作に従事する奴隷も充分でなかったからである。ところが征服の進展

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につれて、土地が新に獲得され、被征服民はどしどし奴隷に繰入れられた。 一方、軍隊の編成、拡充も進められ、萬暦二 十九年︵=ハ〇一年︶には四聖が設けられ、同四十二、三年︹一六一四、五年︶には更に四聖が増設されて、ここに満洲八旗        の編成を見るに至った。  八旗の経済的基礎の拡充のため、征服された土地は、八旗を構成する平入に旗地として支給され、奴隷もそれぞれ醍分 されるに及んで、各将兵も荘園を所有するに至り、萬暦四十七年︹天命四年、一六一九年︶頃には、将領となった旗人で五十         余所の荘園を有するものも生じた。  すなわち、萬暦四+六年︵清の天命三年、一六一八年︶以後、太祖弩弓陰斉は明の撫順・濃州・馬土丹・撫安墾・花豹衝. 三盆児墾・清河・一堵培・地場等を陥れ、翌春暦四十七年 ︵天命四年︶ には明の大軍及び朝鮮の援軍を撃破し、遂に開 原・鉄嶺を征服して多数の俘虜を獲得した。この年に朝鮮の援軍中より降ってきた李民奨が﹁建導出記録﹂を著わし、そ        れが伝わっているので当時の事情が明らかにされているのである。その中には﹁旗人が田庄を多く所有し、其の耕作には 奴隷ばかりが従事した﹂と報告されており、このことから当時の荘園は単純な奴隷耕作が行われたと結論される。  天命六年︵一六一=年︶三月には太租は重陽、難解の両城を陥れ、繰暦の東方流域を領有し、二二、海州附近に土地三十   ゆ       万日を取上げ、これを旗人に支給した。そしてこの土地の分配は、配分した奴隷の壮丁数を基準として例えば壮丁一名当り   ゆ       ゆ 地素馨という風に行われたと解されている。このように太租が遼東に侵入して、後には、太組、太宗は壮丁を基礎として 土地を均給したので荘田も漸次奴隷の壮丁を以て組織されたといわれる。そしてかかる荘田には骨頭がおかれた。荘田の 構成は二十男・十三二七牛、十男六牛・七男・四男二二男等大小種汝に分れる。就中、十男六牛の荘田が多かったという        ことである。太宗の朝になると朝鮮・察恰爾蒙古を征服し、中国本土にも侵略を進めたので奴隷は愈汝多くなって来た。 就中、天童六年︵一六三二年︶六月の察恰爾蒙古の征服によって入口・牲蜜十万余を得、崇徳元年︵=ハ三六年︶九月の明      満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民      三

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     満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民      四 への侵入によって人口、牲畜十七万九千余を、同四年三月目侵略によって俘虜四十六万二千余を、同八年五月の征服によ       ⑭ つて人口三+六万九千余を獲得したといわれる。これらの俘虜は奴隷の壮丁として或は耕作に従事し、或は軍隊に編入さ れて戦争に参加したわけである。  奴隷の売買は満洲族の間では明代より既に行われ、明代の中期においては、その価格が頗る高価で、漢入奴隷一人の価 は牛馬十四、五匹であったといわれ、前記の李民選の﹁建州聞見録﹂にも旗人の間には相互に奴隷の売買が行われたこと が述べられている。太宗朝の﹁藩陽二十﹂の辛早年︵正徳六年、一六四一年︶十二月二十三日の啓には開城においては奴隷 の市が立ち、漢人の農耕奴隷が盛んに売買され、 一人の価は銀十十両で、同じ崇徳七年三月の啓によれば、農牛一隻は銀       ⑮ 十五、六両又は十七、八両で奴隷の価格と耕牛の価格が略汝等しかったと見られている。  かくの如く、太租の遼東侵入後には、その侵略戦の進展と共に俘虜よりの奴隷が懐しくもたらされ、その市価も著しく 低落したので、当時の荘田においては奴隷の耕作は圧倒的であった。尤もそれは単純な奴隷の耕作から、奴隷の壮丁によ        ⑮ る耕作まであり、ことに後者が多くなって来たが、それは、純然たる奴隷耕作の牧穫率が余りに低く、一般民﹂人の耕作に       ⑰ よる牧穫に比して殆どその半分に過ぎなかったので、寧ろ奴隷の壮丁を以て荘田を組織せしめ、壮丁毎に一定の糧米を徴       ⑱ し、その余分は壮丁の所有とするという壮丁耕作をとる方が有利だつたからと考えられる。なお、奴隷耕作の牧穫高に関        ⑲ する詳細な研究は周藤氏によって示されているが、ここではその結論のみを援用したに過ぎない。   この辺で注意して置かねばならぬことは、これまでの叙述に於て旗地という用詔が広義に使用されていることである。それは、太祠.  太宗の直属地も亦、その王公宗室への分賜荘園も含める意味に於て用いられて来た。これは周藤吉之氏の用い方に従ったので、清朝の  封建的土地制度の形成過程を取扱う場合、その歴史的性格を表わすためには、有効な表現であるともいい得よう。併し、かような広義の  旗地は後の歴史的展開に於て、清皇室の直属地を中心としては、内務府宮荘、礼部官製、戸部官荘、工部宮壁塗となり、更に王公宗室   の分国荘園を中心とし.て発達した王公荘園を含み、そして最後に旗入所属地としての狭義の旗地を含んで来るわけである。このうち内

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務府官署は清朝内廷の私用に供する租賦の貢納を目的とする官地であり荘田である。主として内務府の膏零に属するものである。これ は、太祖、太宗の直属の荘田に加うるに被征服者の所謂帯地投充︵即ち帰服に際し自己の所有地を献上すること︶等によって増設され         ⑳ たものが中心をなした。戸部試弾、礼部孤島及び工部馬差は、夫々盛京軍政の機関たる盛京戸部、盛目礼部及び盛京工部の管轄に属す        @ る官荘であるが、その牧入の大部分は、永、福、照の三陵の祭礼、営繕等に充当されたといわれる。このうち、芦部官署は最も多くの荘 園を包含し糧荘、塩荘、綿花荘の三種に別れていたといわれる。  かくの如く、清朝による征服の進展と軍隊の加速度的増大と共に、想出従ってそれにおける荘園の増設が著しく進展し たが、それは先ず満洲の遼東地方に行われたことはいうまでもない。   ところが遼東地方は既に肥代に漢民族の植民によって開拓され、その時代すでに戸口二十七万といわれる。それが明の嘉靖四十四年  代︵一五六五年︶には三十八萬と信ぜられ、またこれの屯田軍に供給され租税の徴された耕地は同じ嘉言年代で三百六十八萬畝から三   百四十二萬畝を前後していたことは、満洲旧慣調査報告︵一般民地 上巻︶において作成された明代遼東耕作面積表に見らるる通りで       ㊧  ある。併しそれは恐らく可耕地であって全部既耕地ということには疑問が抱かれている。  ところで問題は、清の多年に亘る征服戦でこれら遼東地方の耕地が大半荒廃に帰したという有力な言説が行われて、こ れが前述せるが如く遼東に旗地従って荘園の増設が進展したという命題と矛盾しないかということである。   例えば、天海謙三郎氏は、幾多の文献を援用して次の如くいわれる。    ﹁約三十年に亘る清明戦争の戦果は、この遼東・西の状勢を一変して、城鎮は衰廃し、農圃は荒蕪して、炊煙稀にhる底の暖野と化  せしめた。蓋し開原城陥るや、 ﹃遼藩大に震ひ、烈女墜の軍民尽く曇れて、数百里人跡なく﹄、守将熊廷弼の如きも、 ﹃乃ち⋮尽く積  聚を焚き、難民数十萬を護りて、関︵山海関︶に入る﹄敗績ぶりで、明朝が満州に築き成せる勢圏、即ち漢民族の遼東植民地は、悉く  清軍馬蹄の躁躍に遺棄せらるるに至ったからである。其の結果は、清朝の定業後、将に二十年に垂んとする順治十八年︵一六六一年︶  に混んでも、盛京の形勢は、之が民政長官たる奉天府伊張侍賢の上奏した如く﹃内を以て言へば、河︵遼河︶は東城堅多しと錐も、皆  荒土と成り、独り奉天、遼陽、海城三処のみ、準々府県の規を成すも、遼陽、海城には働ほ城池なく、蓋州、鳳鳳城、金上の如きは、  数百人に過ぎず、墨黒、部隊は県営徒諸人あるのみにて、耕種する能はず、又生環なく、隻身者は逃れ去る者大半、略ぼ家族ある者、 満洲における旗地的奴隷制荘園の形9・崩塚と漢人の植民 五

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満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の櫨民 山 一X  僅かに既の地に老死するのみ、事に益なし。−:・甲西は城量更に多きも、人民稀少にして、独り寧遠、馬糞、黒黒のみ入民湊集する  も、僅かに佐領一人あるのみにて、地方を如何に料理するかを知らず﹄と言ふ落莫たる状態に変貌して了つたのである。而かも康煕二  十二年︵一六八三年︶に於ける工科望事口任辰旦の奏疏に﹃盛京の松山諸処の如く、凡そ明師の漬診せる所に至りては、骨を荒塵に委  ぬるもの綿互数里、望めば漬雪の如しと聞く。尤も乾益すべし﹄とあり、康煕年聞の編著である﹃遼陽州志﹄や﹃鉄嶺県議﹄等にも   ﹃下魚は傾頽し、学園は茂草し、官舎は倒壊す。遼民は稀少にして、田土は荒蕪し、新島は情を殊にし、風化を一にし難し﹄叉は﹃甕  碑は鉄剥し、脾脾は存するものなく、頽然たる一垣、牛馬を禦ぎ得べきのみ﹄などと記されて居るところを以て見れば、張遍照の上奏  が、必ずしも支那一洗の誇張の言で無かったことは、想見に余りあるのである。又以て連年の戦禍が如何に遼東・西一円の地を荒廃さ  せ、之が開発を逆転せしめたか、略ぼ推測し得るであらう。況んや、これは同地方の攻略後、各要衝に八旗官兵を強精せしめて治安の       ⑳  回復を計り、鋭意内政を振興すること十数年を経た上の光景である。其の兵火劫掠の惨、盲想に勝ふべしではないか。﹂   また大上末広氏も同じ様な見解を簡単に次の様に述べている。    ﹁十七世紀の初頭に於ける約半世紀の倒感興清の戦乱は、これらの満州農村に徹底的な悪魔的勢力を振った。田地の荒廃、家財の掠  奪、家屋森林の兵火、車馬・糧秣の徴発は明代の熟地を直接に破聾した。のみならず、太祖から太宗にかけての絶えざる大小の戦争に  よる不断の兵力補充の必要のためになされた荘丁の徴発、順治帝の込関に伴ふ満州民族の大規模な関外移住等々は如上の破壊作用を倍       ⑳  加した。明清戦争によるこれらの直接的・間接的諸影響は、かくて遼東地方に存在した明代の農業生産諸関係を全く破壊し去った。﹂  大上末席氏のいうが如く、清明戦争によって明代の農業生産諸関係が全く破壊したと見られるが、周藤氏の研究によれ ば、その崩壊と編成替は、清軍の遼東征服とこれに伴って行われた旗地の設定及びそれにおける荘園の形成ないし展開に よって進められた。併し、かかる形態に於ける編成替は果して完了されたか、換言すれば、農業生産関係の確立という所 まで進み得たかに問題が残る。即ち、なるほど土地制度としての広義の旗地が法制的には確立したでもあろう。併し、荘 園形態における農業的再生産が進展し、農業的生産関係が確立されて行ったか否かに大きな問題が残って来るのである。 大上氏等の如く、清明戦争による明代の農業生産諸関係の崩壊から直ちに遼東招民開墾例に端を発した漢民族の植民によ る︵清代の︶所謂﹁封建制度の形成過程﹂に進むのは飛躍であろう。その聞に清朝の政策として行われた斜地、従って荘園

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への編制替なる過程のあることは周藤氏の研究によって明らかにされた所である。我々が今問題にしているのは、周藤氏 によって明らかにされたこの編成替が、右に述べた様な意味で、果して完了されたか否かという点である。ここに我汝は 改めて天海氏等によって強調される遼河流域荒廃の問題を取上げる必要に迫られる。  かかる農耕地の荒廃が事実であったことは先ず否定出来ないであろう。それは、前述の天海氏によって援用された丈に たとえ甚だしい誇張があるにしても、何よりも後に遼東嶺桜開墾例を始め、幾多の勧農招墾諸法令等の形で植民政策が繰 返し強力に遂行されねばならなかったと言うことによって証明されていると言わねばならない。周藤氏も﹁順治朝の初め        の には満洲より旗人が殆どみな去ったので、奉天の土地は腰かに荒廃するに至った﹂と述べてこの事実を認めている。  次にこの事実は何を意味し、前記の編成替に対して如何なる影響をもつか、思いかなる原因によって生じたかの問題が 生じて来る。農耕地が荒廃に帰するということは農業的再生産の縮小ないし崩壊を意味する。従って、遼東地方に嘗て農 耕地が広範に亘って荒廃に帰したということは、先に述べた様な清朝政権によって設けられた陣地に於ける荘園的農業再 生産が縮小ないし崩壊して行ったということにぽかならない。なるぼど旗地なる土地制度は農耕者なくとも荒蕪地の上に も制度としては存続し得るであろう。併し、荘園なる農業的再生産形態は農耕者なく、再生産なくして存続するとは考え られないのである。尤も広義の荘園には掃過も含まれるので、この揚合は農業的という形容をのぞけばよい。かく考える ならば、清朝政権の確立ないしその征服戦の過程に於て編成された所の旗地における荘園的再生産は、征服戦の展開のう ちに自ら崩壊の過程を辿ったのではないかという帰結に導かれる。この様に戦争の過程において再生産が強力的に編成さ れる一方、それが片端から崩壊して行くということは長期の激しい戦争にはあり勝ちな経済過程であり、寧ろかかる戦争 経済に不可避な法則的事実であるということも出来る。それは戦争という激しい消費過程と戦争によって相対的に縮小し 行く民需的再生産力との矛盾の不可避な表われといいうる。併し、戦争経済の再生産法則を究明することはここでは差し      満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民      七

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満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民 八 控えるべきで、寧ろ我々は史実を払うてこの点を明らかにして行かねばならない。  先ず史実を通して考えられることは、征服戦の拡大のために、損失兵力を補充した上に更に軍隊を次汝と編成してその       ⑱ 増大を計らねばならぬということである。先に述べた清軍の制である亡霊の編成を年代順に示すと亥の如くなる。   一六〇一年︵萬暦二十九年︶満州四旗編成   一六一五年︵萬暦四十三年︶満州八旗に編成   一六二七年 太祖没し太宗つぐ   一六三四年︵天聰八年︶蒙古二旗編成   一六三五年︵天聰九年︶蒙古八旗、に編成   一六こ﹁七年︵趨蒼偲二年︶漢宙甲二旗編﹁成   一六三九年︵崇徳四年︶漢軍四旗に編成   、   一六四二年︵崇徳七年︶漢軍八旗に編成   一六四三年︵崇徳八年︶太宗没す   一六四四年︵順治元年︶京師陥落   一六六一年︵順治末︶明滅亡す   矢野仁一博士によれば、清初八旗の制度の創立された当時、八旗は満洲佐本圃百八、蒙古佐領七十六、漢軍佐領十六から成り立って        ニ ル   いた。佐頒は満洲語の牛景を訳したもので一佐領は壮丁三百入を以て編成されていたといわれる。筒、太宗の末年には満洲八旗は三百       ⑳  十九佐領、蒙古八白は百二十九佐領、漢墨入旗は百六十七佐領になったということを﹁乾隆曾典﹂から援用して居られる。  ところで斯くの如くにして編成された軍隊の維持発展のための兵糧の再生産が問題となる。これがためには、既に述べ た如く征服によって得た土地と俘虜を夫汝旗人たる将兵に与えて荘園を構成せしめるという方策がとられた。例えば、天 命十年十月に面取は十三男・金牛を以て一荘田を構成させたが、この揚合田は百選を与え、各男に六賄を増給して題下さ        ⑳ せ、二十駒を協同耕作させてその牧丘を官糧として徴回した。土地の支給は、壮丁一人当り太虚の時は談論を支給するを

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       ⑪ 例としたから、一荘田百噛の土地に対して約十七壮丁が与えられることになる。十二、三壮丁を耕作に従事させれば、そ       ⑫      ⑬ の余の四、五丁を兵役、髄室、家事に従わせることが出来た。太宗朝になると壮丁当り田五器を支給することになったか ら、百駒の荘田で二十壮丁を得十二、三壮丁に耕作させれば七、八丁を兵役、三役等に従わせることが出来たという。所 が太阻が天命六年漢人に下した書に﹁⋮⋮二十男毎に︼人を兵に徴す。急用には十人毎に一人を出さしめて働かしむ、平        ⑯ 用には百男毎に一人を出さしめて働かしむ﹂とあり、二十男手に兵一人を徴したことが明らかである。然るに太宗朝に於       ⑳       ⑩ ては漢人十丁に兵一名を出さしめたようであるといわれる。碕旗人については壮丁三名に↓名割で兵営たらしめた。   周藤氏によって述べられている具体的例について見ることとしよう。即ち太祖は天命六年︵一六二一年︶三月に藩陽、遼陽の両城を   陥れ、遂に遼東地方を領有したが、この年の七月旗人に田地を分給せんがため﹁海州の処に十万日、遼東︵遼陽︶の処に二十万臼総計   三十万日の田を取上げて、雄傑に糧食の田地並に馬の草糧地を支給し、衆庶人をして此等の田を耕作させよう﹂とした。かくして実際   の支給としては天命七年正月に民丁を旗人及び漢官に与えて之を管轄させた。即ち満洲の藩王、総兵官には三千男を、副将には千七百   舅を、参将、遊撃には千男を、耳茸には五百勇を与え、漢人の総兵官には四千勇を、副将には三千男を、参将・遊撃には二千男を与え   た。 ︵﹁近交老棺﹂太祖の巻三二・天命七年正月四日、三六八頁︶さうして此の月には漢入の壮丁を兵として徴牧した。漢人四千舅を  管轄するものは二百の兵を出し、三千男を管轄するものには百五十の兵を、千七百男を管轄するものは八十五の兵を、千男を管轄する  ものは五十の兵を、五百男を管轄するものは二十五の兵を出させた。 ︵同上同年正月六日、三七=貝︶従って漢人二十男面に兵一人を  微古したのである。ただこれには漢人の参画、遊撃の二千男を管轄するものが見えないが、彼等は百の兵を出したと見られる。そして   かかる漢人の兵丁は太宗朝には漢軍入旗の中に編入されたという。    土地の支給は民丁を基準とし天命六年三月には民丁一人に田六田を均給し、三丁毎に官田一晦を耕作させ、この牧穫は官糧として微        ⑩   牧した。天命七年七月には一男に一石つつの官糧を徴牧したとある。  ここに兵略と之を支える兵糧生産入口との関係が看取される。なお、兵のぽかに官の径役もあり、荘園主の瘤役もあ り、更に民青一人に例えば︺石つつの官糧を納付する必要があるから、兵を中心として見るならば、平均兵一乃至二に対       満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民      九

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     満洲にね40ける旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民      一〇 して前述の如く↓荘園の再生産が必要であり、十八、九人の奴隷が必要とされたということになる。かくて当時は兵員に つき之を含めて之に十倍ないし二十倍する奴隷が必要とされたという結論に到達する。  戦争が拡大するにつれて兵員の損失の補充とその増大が必要とされる、そしてこれを支える兵糧の確保が緊要となって 来る。この糧米の再生産のために兵員に]○∼二〇倍する奴隷が必要とされる。俘虜の奴隷化によってこれが充当され、 それが荘園に編成されて行ったことは既に述べた。斯様に多数の俘虜を獲得すればこれを生産的に利用出来るが、それに しても、農業生産の性質上それが実を結ぶまでは、これを支えるために却って糧米の需要が激増して来るといわねばなら ない。尤も多数の俘虜と共に之を支えるにたる糧米の貯えを同時に獲得出来ればよいが、必ずしもこの様にうまく運ぶと は限らない。        ⑪   例えば周藤氏の述ぶる所によると太宗朝に東部満洲の瓦爾喀・虎詳言及び蒙古の帰服して来るものが多く、又漢人が多数投降したの   で、彼等の纏米が頗る必要となった。そこで太宗は外に於ては朝鮮より対米を運送きせたが、内に於ても貝勒.公主.功臣・高官等か  ら置く糧米を損納させた。即ち朝鮮は天聰二年︵一六二八年︶に米三千石を、崇徳五年︵一六四〇年︶には一万石を、建徳七年には七千   石を送った。内に於ては天瀬八年︵一六三四年︶正月に広鹿島副将研出喜が投降したので、八貝勒に命じて各糧粟四千石を出させ、ま  だ不足したので、積量の家に命じて之を招納させた。 ︵﹁太宗実録﹂巻一七・天聰八年正月乙卯︶又翌九年六月の上諭によると蒙古・  虎谷冶が多く帰附し、公庫の粟粒を発給したが、不足したので衆官はみな生米を措納した。然るに多爾濱額射は独り措納しなかったの   で、太宗に叱責された。︵同上巻こ三・天聰九年六月丁未︶其の後者徳七寺塔・三月には太宗は、松山・短身を攻撃して、洪承疇・濾大  土目を得たが、此の時諸王に命じて、力に従い千石・五六百石・四五百石を損納させたのである。︵﹁重陽漏壷﹂壬午年三月二十九日︶  かように戦争の進展による俘虜投降者の増大は先ず之を支える糧米の必要の増加となって現われ、ここに先ず糧米の徴 発乃至損納が加重して来る。それでもなお、不足勝なことは右に援用した記述よりしても明らかである。先に軍隊の維持 編成のために再生産が必要とされると述べた.が、更に今ここで述べた投降者俘虜の増大による糧米需要の激増とその不足       .膨 という事情が加わって、愈汝荘園の編成乃至増設の政策を行わしめたものと考えられる。俘虜投降者のうち兵一に対し之

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に一〇∼二つ倍する人員を荘園編成に向け、更に民了一に言忌一年度納めさせたということは寧ろ糧食事情が逼迫し、如 何に之が増産を必要としたかを物語るものというべきであろう。  ところが斯様な糧食事情の逼迫は荘園編成を政策的に推し進め、荘園の増設を促がしたと思われるが、同じ事情がまた 切角増設された荘園を片端から崩壊さしたのではないかと思われるふしがある。というのは、右に述べた糧食事情の逼迫 は、先に援用した周藤氏の研究によっても明らかな如く、太祀、太宗をして、荘園主たる旗人の将兵に対し、糧米の指納 を加速度的に求めしめる結果となった。そこで旗人はその負担を荘園の農耕入丁に転嫁して詠求を行い、その結果、遂に はその糧食さえも奪われた奴隷たちはその負担加重に堪え兼ねて陸続と逃亡するに至ったのである。    この点に関する周藤氏の研究成果は次の如くである。    ﹁かやうに太祖・大宗朝に湿ては糧米を頗る必要としたので、旗人にも屡々揖納させた。そこで旗人は農耕人平に訣求を行ひ、其の   糧米さへも奪った。即ち朝鮮の仁祖の庚辰年︵崇徳五年一=ハ四〇年︶十二月に朝鮮が義州・錦州の援軍のため、遼東に於て其の纒粟   を買はうとして、清朝の訳官鄭命寿に之を問うたとき、彼は﹁遼渚農民、将一年所牧国章、尽入響動高山之家、貧不能自食、山屋有余資可   羅宇換乎、八高山所積之糠、皆在長陽、貸仁山穀、償納於鳳鳳城園圃莫﹂ ︵朝鮮﹁仁祖実録﹂巻四一・庚辰年十二月壬戌︶と対へた。   かやうに近心・遼寧に於ける農民は一年置報を尽く八旗に納めて、自らは食ふことが出来ないやうな状態にあった。叉斯かる事実は遼   東より明に逃亡した漢人の農耕奴隷の言からも窺はれる。崇蔭六年︵天爵七年一一六三三年︶十一月登島を監視してみた太監魏相の題   本には﹁陳大供称、年二十九才、係金団小河山之人、原於遼陽失焔之時、被奴虜去、在四王子帳下、発作荘農、今年奴将屯種糧米、尽   行羅売買馬、削去食用、又連年苦累不堪、是以自門陽沿辺、要逃奔南朝﹂ ︵﹁明清史料﹂八︶とあって、四王子即ち太宗の荘屯さへも   農耕奴隷の糧食を尽く取上げた。従って当時に於ては此の理由から奴隷の逃亡即ち逃人が頗る多かった。かくして膳人は重大なる問題   となった。因って逃入の多かった例をあげると、太宗の天聰十年︵一六三六年中四月には辺境を守る官員の功罪が定められた。此の時海州   の河口を駐塾した伊勒慎・奏奈・丹心礼等は逃人百九ナニ名を、五三を駐着した喀爾聯碁・青善・寧層塔・薩恰連等は画人百六十八   名を、蓋州を墨守した雅什塔・札弩等は野人二百六十名を得たので彼等はみな呈せられた。塗鞘場を駐越した落磐巴は無人百三十二名   を、曲巌を千守した費木蘇は見入百名を、海州を駐守した上代は逃人百四十八名を、牛荘を墨守した恰選録は兄人三十九名を、東京を 満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民 一一

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     満洲における門地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民       一二  山守した瞼嚢阿・呉爾鳴納等は聖人二百九十名を得たが、彼等は分に循って職を尽しただけであったから、賞罰がなかった。︵﹁太宗実       ⑫  録﹂巻二八・天聰十年四月庚辰︶﹂  かように戦争の進展による糧食事情の逼迫化は糧米の措納の加重となり、それが結局奴隷に対してはその糧食を奪う程 に苛烈なものとなって、 遂に奴隷の記しい逃亡を惹き起すに至ったのであるが、 そうなれば、負担は残った奴隷に対し て愈汝加重とならざるを得ない。生産の減少から糧食事情は一層悪化するからである。奴隷の逃亡は更に加速度化せざる を得ない。農耕奴隷を失えば、農業的再生産は縮小ないし停止し、耕地は荒廃し、荘園は崩壊するより外ないであろう。そ して周藤氏によって明らかとされた様に、入関前、遼河流域に旗地が著しく増設され、それに於いて荘園の編成も盛ん に行われたにも拘らず、この地域は入三具荒廃に帰し農業的再生産の展開を見るを得なかったということは、取りも直さ ず再生産形態としての荘園が次汝と崩壊して行ったことを示唆すると考えられるが、かかる事態を惹起した有力な原因の 一つとして、前述の如き奴隷の逃亡に着眼することが必要なことではなかろうか。そして、かかる事態に決定的な影響を 与えたものが、北京の占領と旗人を中心とする満洲族の大移動であったろう。この移動が如何に大規模なものであったか         は、これを目撃した別品の漂流記﹁鍵朝物語﹂に﹁薩鞄︵奉天︶より引越候男女三十五六日か間、引ぎも不信候﹂とあるを 見ても明らかである。而して、稲葉博士は﹁以上の事実は、疑いなく、満洲全土の開拓を退化せしめた最大の原因に外な         らぬのであった﹂といい、又周藤氏も﹁順治朝の初めには満洲より旗人が殆どみな去ったので、奉天の土地は腰かに荒廃 するに至った﹂というている。  かくして農業経済を根幹とする満洲経済は、歴史的に謂わば御破算となり、その再出発を余儀なくされたということが 出来よう。  ①  ﹁支那問題辞典﹂附支那文化史年表一六一二〇頁参照。  ②周藤吉之﹁清朝の入関前に於ける旗地の発展過程﹂︵﹁東方学報﹂=7二、昭和十六年︶この論文は旗地を中心とする其他の研

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 究と共に集大成されて、昭和十九年﹁清幽満洲土地政策の研究−特に私地政策を中心として﹂という書名の下に出版された。 ③周藤吉之著﹁清代満洲土地政策の研究﹂五頁、九五頁。④右著九五頁、九六頁 ⑤  同  著 二九頁。 ⑥⑦ 同  著 九六頁。

⑧同著九六頁、一〇七頁。

⑨  同  著 四三頁及び一二四頁註参照。 ﹁箒遼碩書﹂ ︵﹁満蒙叢書﹂︶巻一、熊廷弼の修復屯田疏に﹁遼俗五畝為一日﹂とある  ところがら、当時は一日の面積は五畑であったと周藤氏は露結しておられる。なお満洲帝国協和会・地籍整理局分会編・加藤鉄矢監  修の﹁土地用語辞典﹂ 二七九頁には日について、 主として、奉天工開原県以南の耕地の面積を量る場合に旧来慣用された面積の単  位で、冊封を一日地となしたとして、 ﹁積読為頃地之名也轡虫則日日以六畝計之﹂︵楊伯馨著藩故巻一︶なる文句を引用している。  この六二を一日地とするものは日本の三反七畝五歩に該当するという。周藤氏は康庶二十三年版の﹁盛手通志﹂巻一八・旧賦・八旗  七二に﹁一日は五六畑である﹂と記されてあるが、これは入明後の一日の面積であると述べている。前掲書一二四1=一五頁。 ⑩ 周藤氏前掲書 四三、四八、五五、六二、八一頁。 ⑪ 前掲﹁土地用語辞典﹂三二〇頁によれば鴫 ω︸籍謁とは吉林省以北及び蒙古地方の新開放地に行われた土地測量の単位で二八八弓  を一畝とし十畝を一繭とし日本の七反四畝一歩に該当するという。 ⑫周藤氏 ⑬  右 ⑭  同 ⑯⑯ 同 ⑰⑱ 同 ⑲  同

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前掲書 書 書 書 書 書 満洲旧慣調査報告﹁内務府官荘﹂  右  書 満洲旧慣調査報告﹁皇産﹂ 八一頁。 一〇三頁。 一〇七頁。 一〇八−一〇九頁。 一一五頁。 一 一 一−一 一六頁。        二頁。 一↓頁、 一八頁、なお内務職官荘については、     五頁、 一〇一頁、 一六〇頁。 満洲における白地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民 この書が詳細な資料を提供している。 一三

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  満洲における旗地的奴隷.制荘園の形成。崩壊と漢人の植民       一四  右  書   六頁。 満州旧慣調査報告﹁一般民地 上巻﹂一五一一九頁、稲葉岩吉著 増訂﹁満洲発達史﹂一六七、一穴八頁。 満鉄調査研究資料第七二編﹁満洲土地問題関係文献目録﹂附﹁満洲国土地制度の理解に関する一関鍵﹂︵天海謙三郎と七.一八頁。 一九三三年版﹁満洲経済年報﹂︵満鉄経済調査会編︶第一章満洲経済の史的考察、第一節封建制度の形成過程︵大上氏執筆︶三一四頁。 周藤氏 前掲書  一三一頁。 この表は周藤氏右書二九頁及び﹁支那問題辞典﹂附﹁支那文化史年表﹂によって作成した。 矢野仁一著﹁近代満洲史﹂︼三頁。 周藤氏  右  同  同  同 前掲書 書 書 書 書 ﹁満文老棺﹂太顧の巻二八         右書 資料編⋮四二八頁。 周藤氏 右書  同  書 ﹁満文老頭﹂太祖の巻二四︵天命六年七月一四日の太祖の言︶二八三−二八四頁、 周藤氏 右書  七ニー七三頁。  同  書   七三頁。  同  書    一一七、 一一八頁。  同  書    一一八、 一一九頁。 園田亀=者﹁ 朝漢流記の研究﹂ ︵満鉄鉄道総局庶務課︶一〇五頁。 稲葉岩吉著﹁増訂満洲発達史﹂三〇四頁。 周藤氏 前掲書  一三﹂頁。      ,

八七の一九一九九

七六巻〇二〇一二

頁頁二二頁二頁頁

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二 漢民族の対満植民の展開  既に述べた如く、清朝が征服戦の展開と共に、占領地を旗地に編入し、この上に奴隷労働による荘園を創設し、これを          幽霊の嵩置基体とする政策をとったが、戦争の展開がもたらす矛盾のため、この努力が片端から裏切られ、清朝の入電と 共に満洲の地は荒廃に帰し、その農業経済の形成は、いわば﹁振出し﹂から再出発せざるを得ない状態となったのであ る。かくて満洲における農業的再生産の煩しい形成は以下述べる漢民族の対満植民によって進められていったが、この植 民過程が当時中国本土において著しく進んでいた商業資本の媒介を経ざるを得なかった所に、後下までも強い影響を残し て来た満洲の在来経済の特異な性格が形成されていったのである。 , ︵a︶掘民開墾政策とその効果  ところでこの植民の虹彩的過程の第一歩は何よりも先ず順治十年︵一六五三年目より嬉嬉いで行われた遼東招民開墾例な        る植民奨励策によって進められたと見ることが出来る。順治十年の遼東島民開墾例は、遼東に雇入を招いて開墾させた世 話入即ち招頭には、報酬として文官乃至武官の地位を授けるとなし、招民百重に達するものには、文官ならば知県を授け、 武官ならば守備を授ける、六十名以上のものには丈官なら州同・州判を、武官なら千総を授け、五十名以上のものには、 文官は県丞主簿を、武官は百総を授ける、更に多数を招いた者には聯名を商うる毎に一級を加えるとした。そして招かれ た民人には、毎月食素三斗を与え、開墾耕地一戸毎に種子六升を支給し、又招民百名毎に牽牛二十頭を貸与し、その食糧         種子は秋の牧穫後に返還させることにした。その後更に順治十二年︵一六五五年︶には遼東に農民百名を招いて開墾さした 者には、身体、言語、書法、判断力を試験し、三等に分ちて知県を授け、丈字に通ぜない者なるときは兵部に送って要職       ④ を授けるとした。順治十五年には招民開墾に関する一般規定として丈武郷紳にして荒地五十頃即ち五千畝以上を開墾せし      満洲における旗、地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民      一五

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     満洲における旗、地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民       =へ        ゆ めたときは、現に官職に在る者には記録を加え、辞任せる者には麗額を給して控謁することを公布し、超えて順治+六年 には同じく︺般規定として、農民の荒地二平畝以上を開墾する者には衛早牛に任用し、武挙せられた官吏にして二千畝以 上を開墾せるときは当然升授すべき官職に一等を加え署守備に任用する旨公布した。          更に康熈二年︵一六六三年︶には、遼東に百名を招射した者は試験を廃して直ちに知県に任命するとして、さきに︵順治         +二年︶試験によって三等に分ちて知県に任命するという規定の寛和を行っている。ところが三重六年には同じく遼東に 百家を招忘する者に、その先任せらるべき特権を削ぎ、他の知県採用候補者と同じく年次順序を論ずるものと改めるに至 った。  ともかく右に述べた様に順治十年の遼東招民開墾例以来次々と満洲への漢人植民の政策が講ぜられたが、その理由につ いて矢野仁︸博士は﹁清朝の考えでは、満洲旗人の生計を保護する見地より、かれらに永世不動産として給与した陰地を         開墾して、その経済的価値を増進するため支那入の労力を利用せんとしたものである﹂と述べている。それはともかくと して、この招民開墾例は少くとも順治年間にはその効果が思わしくなかった様で、それは相次いで植民の方策を強化しな ければならなかった事実そのものが既にこれを物語っているとも老えられる。更にこれは、順治十四年中一六五七年︶に吏 科漫事中王益朋が上奏文に﹁欝を懸けて遼陽等の処に民を招いても応ずるものが少く、招く所の民が多からず、民人がい         ないので開墾の地も広くない⋮⋮﹂と述べているのを見ても明らかであり、更に先に引用した順治十八年に奉天府府弄張       ⑩ 倫賢が奉天地方の荒涼たる状態を論じた丈章によっても明白である。  満洲旧慣報告書はこの植民の不振の原因に説・き及んで﹁山海関内各省人ロノ稠密山人ヲシテ生存ノ難キヲ覚エシメ謀生 ノ途ヲ荒地多キ遼東二求メントセルニ際シ給与ヲ厚クシテ三振スルノ福音ヲ耳ニセルニ当リ若シ泰平ノ世ナリセバ彼等流 民ヵ如何二面躍シテ事由移住二従ヒシカバ想像ノ外二在リシナラム然モ招民例公布以後順治末年二至ル間ハ爾ホ中原武ヲ

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       便メス聲鼓往汝南北ノ地ヲ動カサントセルヲ以テ野心不安荒聖プレ移民ノ招練予期ノ如クナラサリシカ如シ﹂と述べてい る。勿論永年の対明掃蕩戦の展開からする入心の不安もさることながら、何よりも入関前、満洲においてなされた旗人に よる漢人奴隷の過重な搾取と虐待の事実が、重ならぬ逃亡漢人によって流布されていたと想像される。従って、未だその 記憶も充分さめていない当時として、かれら漢人にして見れば招民授厚層の如き好餌には容易に信を置けなかったという ことが遼東招民策の不成績の最大の原因であったと判断して過りないであろう。  ところが相次いでなされた植民の方策が不成績乍ら実行にうつされて来るに従って、当初いだかれた不信も漸次薄らい で来たであろうし、これと共に漸訳植民も軌道に乗って来たと考えられる。これは順治+五年以後康熈二+二年以前二         六五八ーエハ八三年︶の満洲に於ける人丁及び開墾地の増加状態を示す別表︵次頁︶によっても窺い知ることが出来る。さ きに述べた康熈六年の規定に於て遼東に裏を招民芸芝認められた知県先任の特権を削かれたこと・更康熈七転 ︵一六六八年︶には十数年来の遼東招民授身屋の停止を見るに至ったことは、植民が年と共に速瀬を加え最早特別の奨励を 要せざる状態に達して来たことを示すものと考えて大過ないであろう。  事実、遼東招民主の徹廃後も漢人の満洲移住開墾は停癒する所か益々盛んになり、ことに康煕十八年とか康熈三、四十         年代に頻発した山東方面の自然的災害乃至飢鍾の起る毎に愈女その速度を加えることとなった。周藤吉之氏が乾隆元年版 ﹁盛京通志﹂ ︵巻二三、戸口︶より授用せる数字によると順治十八年︵一六六一年︶に五、五五七丁だつた民人の人丁︵永吉 翼長寧県を除くyが僅か二十四ク年を経た康熈二十四年︵=ハ八五年︶にはその四・五倍強である二六、二二七丁に増加し、        ゆ 更に雍正+二年︵一七三四年︶には四五、0八九丁に増加している。斯様な植民の加速度的増進は民地の開墾の促進として 現われ、順治十五年から康煕二十二年までに三一二、八五九畝に増加した起霊地面積︵荒地を開墾し、=疋年限の後、登記さ         れて課税されることになった土地の面積︶が雍正十二年にはその八・四倍の二、六二二、七二七畝に増加している。      満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民       一七

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満洲における旗地的奴隷欄荘園の形成.崩壊と漢人の植民 一八 順治十五年以後康煕二十二年以前に於ける二丁の増加

年代

順治一七年

同着同派同同派同派同区同派同同同同康至自同

      煕

 一  〇  九  八  七五四  三  二  元八五八

 年年年年年年年年年年年年年

府 州 県 遼陽、海城 金  州 錦県、寧遠、沙後、広帯 遼陽、海城、金州 錦  県

遼陽州

錦  県 遽陽、金州 錦  県 承徳、遼陽、海城、蓋平

承徳県

承徳等六州県 錦県、寧遠、広宵 承徳、鉄嶺、海城、開原、 同県、寧遠、広密 承徳、鉄嶺、蓋平、開原 錦県、広蜜 承徳、遼陽、鉄嶺、開原、 錦県、寧遠、広蜜 承徳、鉄嶺、開原、蓋平 茸県、寧遠 蓋平 蓋平 増加人丁数     丁 三、七二三   一≡九 一、六〇五   四二〇   六九三   =二〇 二、〇六五   一六五   四一〇   四八九   一五四 二、六四三 三、九一七   八六〇   三三〇 一、七九二   七七六 二、三九七   五六一   一七〇   三一=

同上開墾地面積の増加状態

年  出 府 州

県[

増  加  地  積 同同田田    順順    昌昌 八八五 年年年

同同同同同同同同塵同塵同同同同康

       煕

遼陽、海城 金  州 錦県、望遠、

九八七六五四三 二元

年年年年年年年 年年

承錦承嘉承寧遼寧遼遼遼錦金差金遼

県州陽州陽

沙後、広蜜

黒子州

雪男、海城、蓋平

遼寧州

寧遠、広麿 遼陽、海城、蓋平

寧遠州

承徳、遼陽、鉄嶺、開原 錦上、三遠 承徳等六州県 錦州、寧遠、広密 承徳、遼陽、鉄嶺、開原、 蓋平

  四

五七八

i一 N N   畝 一六五・四四四二 一⊥ハ七・⊥ハ八○〇 六〇〇・○000     一六・五〇〇〇       ・二四六〇   二三三・一二〇〇    一七入・五回目〇  一、九五〇・○○○○    =二〇・一〇〇〇  一、〇四二・二〇〇〇    一七二・○○○〇  四、三六五・○○○〇  二、〇九二・○○○〇    二〇〇・○○○○  二、一四六・一一〇〇  八、一〇九・九〇〇〇 六、七三七・○○○Ω 一一、五三四・○○○〇 二五、三九三・○○OO

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同同同同同同同同断同同同同同同同

一四年 一五年 一六年 一七年   [   寧遠、広台 一三隻承徳・二丁・海城・開原    錦岡、寧遠、広賓 一二年一承徳二六州県

天際徳、遼陽、馨、華、甕

一九年 二〇年  b

蓼璽

國及内合

 陸敏「

額塵額置

承徳、鉄嶺、開原 承徳等六州県 錦県、寧遠、広鷺 承徳、遼陽、鉄嶺、開原 豊門、三遠、広密 承徳、鉄嶺、海城、開原 錦県、寧遠、広賓 承徳等六州県 下県、寧遠、広麿 承徳、遼陽、鉄嶺、海城、開原 錦県、寧遠、広宵  五六三 一、三一〇   =一≡   一入一   一二〇  二五五  四四八  一ご一〇  四七〇    五   一四八  四一一   九六  二六二  二七九  七六八 二九、五一八

 1 1A同上同同工同同同士同同量同型同同量同

感’に内口 一〇年 一一年 =二年 一四年 一五年 一七年 一八年 一九年 目〇年 二二年  計 皇霊、寧遠、広賓 承、徳、遼陽、鉄嶺、噛開原、 雲州、寧遠、広密 承徳等六州県 寧遠、広密

寧遠州

寧遠州

承徳二六州県 深層、寧遠、広鷺 承徳等六州県 錦県、三遠、出品 承徳、蓋平 錦県、寧遠、広賓 承  徳 錦県、海城、広島 承徳、海城、蓋平 寧  遠 寧遠、広賓 蓋平

 一五一

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}  N  N  一 三、 三三一、 八五六・○○○〇 一く山畠一 ・七〇〇〇 三二六・六〇〇〇 八四四・七八○○ 詣ル イ一 黶@・⊥ハ○○〇  五〇・○○○〇 一〇〇・○○○〇 七五八・一一一〇 二四四・九〇〇〇 三四﹁五.山ハ○○〇 五二四・九〇〇〇 四〇四・○○○〇 二三二・二〇〇〇 一八○・○○○〇 六一四・九〇〇〇 五三〇・○○○〇  二九・二〇〇〇 二五〇・三〇〇〇 一二 齊オ.⊥ハ・兀一二   

黷R−⋮一L⋮七三−顯謄=一旨i一

  

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O八、七二旦  額一

  奮刊盛京通志巻二三より作成せるもの、満洲奮慣調査報告﹁一般民地上巻﹂二八一三〇頁による。 対露防衛策としての植民   満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壌と漢人の植民 τ八、四五入・四二九入七

三一二、入五九・二六ニ一三 一九

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     満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民       二〇  さきに述べた南満洲に於ける遼東招民開墾例とは別に、中満及び北面地方に植民を促す契機をもたらした方策のあった ことに注意を向けなければならない。それは当時北満洲に進出して来たロシヤに対する攻防政策と関連する。即ち十六世 紀の後半から+七世紀の前半にかけてシベリヤを経略して来たロシヤは=ハ五〇年代に至って黒龍江から牝丹絵、松花江         の水路を中心に満洲に侵入して来、絶えずこの流域を脅かすに至ったのである。斯くて順治九年︵=ハ五二年︶以来清露の 衝突もこの水路、流域を中心に屡々繰返えされたが、この結露水戦に備えるため順治十八年二六六一年︶に吉林鳥笛に船          廠が設けられた。揚玉の﹁柳瀬紀略﹂によると寧古塔将軍がここに移鎮し夕露戦用の船艦を造ったが、それ以来中土の流         人千余色はこの地に集り西門などには百貨参集して旗亭戯館として有らざるなき殿辻を極めたと記されているという。  其後多年に亘って北辺は依然として不安定を醸していたので、康煕帝は脱藩の乱等の内戦解決の見透しのつくと共に北       ⑳ 辺の戦備を拡充する決意をなし、康煕十九年︵=ハ八○年︶には遼河運橿舶、伊屯河︵伊通河︶運営船、混同江︵松花江︶逓        糧船併せて二百五十隻の建造をなすと共に、船廠運糧船百三十隻を黒龍江に運送した。帝は康煕二十一年奉天興京を訪ね 英額辺門から大園場を横断して伊満州街道を経て吉林鳥拉に巡幸したが、これに随従した高士奇の﹁庵単寧巡日録﹂に、直         隷各省の流入数千戸を話し、吉林鳥拉の船廠に居住して戦艦四十出直を修造せしめたことが述べてあるという。また﹁平 定羅刹方略﹂によると、康煕二+二年︵一六八三年︶、松花江の一支流骨骸河によって松花江の水運と遼河の水運とを連絡        ホルシ   ナインソオ し、関東の糧食を吉林、黒龍江に運輸するため、巨流河の開城︵新民屯東︶、東遼河上流の郡山村︵子笹蘇河上流、等色屯︶、 易屯門︵伊重臣伊通門、伊通達上流︶、易屯口︵伊通河と松花江との会流点︶の四ヶ処に倉庫が設けられ、水路なぎ凱子村、易屯 門間の百支那里ぼどのところに陸路解毒によって連絡せられたという。当時易屯河の運糧船は毎艘六十石積みで直管から        ⑳   エ ス リ       ⑳ あり、松花江の運洋船は二百石積みで八十艘からあった。叉額二面、輸血等には築城が急がれ、且つ康煕二十四年︵=ハ八 竃年︶には吉林から黒龍江愛琿まで千三百四十支那里の闇に十九ケ処の点者が設けられたとい・遍これらの築城並びに運

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輸交通の設備も直接間接に漢人の移住を促がしたと見られる。  これより先、北辺の前衛地ともいうべき北満洲とその背後地たる中部満洲の各要衝には駐防兵が配置されたが、之を支 えるためにその附近に官荘屯田が創設されて行った。先づ吉林地方に見るに康熈初年寧古塔附近に三+二の官爵が設け  蓼      ⑲ られマ康煕二十一年は黒地に屯田が既に開設せられ科爾主翼翌週伯鳥籠官田が一万二干石の軍糧を出している。北部満洲        の      の に於ては康煕二十 年以後黒龍江、墨爾根、斉汝恰爾の軽罪を営み、墨爾根塵荘十一、斉汝富岳田荘二十が設けられた。 同二十二年︵一六八三年︶には白蘭河に沿うて八箇所のキ倫︵監視所︶が設けられ、同二十三年には官兵の耕種を計ったと いう吃碕、呼蘭城が設けられたのは雍正十二年︵一七三四年︶になってからのことあでり、これから漸く軍事的植民の体裁     の をなした。即ち乾隆元年には斉々恰爾より呼蘭に満洲軍、漢軍、索倫、喚呼爾兵三百二+人、水師営四+四人、挙挙特二 戸、野津二+一戸と三都納より爪爾察兵一百八+八人、同二年奉天より旗開丁を屯丁として百三+八人等を移駐せしめ主 として漢兵の耕種によってその経済的基礎が作られた。即ち後の八旗老園地が成立し、呼蘭城を中心に約六万晦が開墾さ れた。この地域内には雍正十三年に官荘四十処が設けられ、急雨より種下壮丁四〇〇名が売口と共に来住して耕作に当り、 乾隆六年には官荘五座が増設、同七年には翠柳左辺温得享山及び都爾地方に同じく五座が増設された。  かようにロシヤに対する北辺防備のため北満及び中満の各要衝に軍事都市を建設し、ここに駐防兵を配置した上、之を 支えるためにその周辺に官爵屯田を設けた。そして、更に、これらの駐防塁城を連絡するために、略一日行程の距離即ち       の 六十支里ないし百支里毎に駅郵を設け、ここに屯倉及び牛馬を置いて屯度せしめた。また、この小砧を連絡する並道が設 けられ、延いては丁寧砧の発達を促しつつ、ここに中北満開発の動脈が形成されるに至った。かように北満及び中柱への 植民の端緒は専らロシアの侵入に対する防衛上の軍事的植民によって開かれたため、初めここに配置されたのは奴隷乃至 農奴たる壮丁であり、又漢人の流質であった。即ち順治末には寧古塔及び伯都納に、康煕初年には黒龍江に送られ雍正十      満洲における旗地的奴隷制荘園の形、成・崩窮と漢人の植民       二一

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     満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民       一=一        三年︵一七三五年︶には三姓地方に︸千丁を送り法爾地方の開墾が行われた。併し、このように北満・中差に軍事的植民が 行われ、叉その間を連絡する駅鈷交通路が発達すると南満に陸続と流入する漢人は、南満の取締が厳しくなり、その牧取 が強化すると共に、これらの拠点を足場に圧力の弱い中満から、北満へと移住して来るのは自然の勢といわねばならない。 かように漢民が南陽、中満、北満へと移住して行った謬論的経過が満鉄産調資料第九編﹁満洲漢人植民地域﹂に託て、文 献的に克明に追跡され、年代順地域別に﹁漢人植民地域図﹂としても示されているが、この歴史的過程は土地所有及び農 業経営の南満型、中満型、北満型の類型となってその跡を残していることは注目に値する。 ︵C︶ 満洲封禁政策の実施と自然発生的植民の加速度化  ところで先に述べたように漢人の対満流入が愈汝勢を加え、その開墾地も加速度的に増大して来たが、これより先、開 墾地が果して旗地なのか民地なのか判然せず、旗民問に問題を起すことも少くなかった。そこで康熈+八年十二月に奉天 の土地を丈量して黒地と民地とに分け、旗地は四、六〇五、三八○萌とし、民地は八七八、七七五駒とした。即ち天地を        ゆ 民地の五・二四倍としたのである。   尤も康煕十九年八月二黒の盛京戸部侍郎塞三等の上疏文に夫開墾地が一、五二五、二〇〇希書もあることがのっているので、右の旗  聞及び民地には、かかる未墾地が含まれていたわけである。そして此等の未墾地は棺冊に註記され、民人が開墾を願う場合、州県が奉  天府嫡謬言♀、砦地薄.凡、旗人が開墾、騒つ場含もその会.嚢を盛京戸部に呈して需に記して与えるというわけだったの  である。  このように、漢民人の入植に伴う旗民間の紛争を避けるために民地と旗地とを分つたが、康煕+九年︵=二八○年︶には 更にこれに基づいて旗界と民界とを設け、霊界には旗人を、民界には民人を住まわせる政策をとり、旗影は城守即ち駐防 八旗が管轄し、民界は州県の守令が治めた。併し、年と共に流れの勢を増す二値の入植が次汝と旗界を侵して来るので、 旗民間の紛争も絶えず、且つ、旗民混渚の生活から旗人の風習も惰弱に流れ、その経済生活も根底から蚕食される傾向を

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示して来た。旗人のかかる傾向は清朝の軍事的基礎たる八旗制の弱体化を意味するので清朝としては之を放置することが 出来ない。そこで遂に彼の有名な満洲封禁令の発動を見ることになり、入為的に漢民人の満洲流入を禁止する策が講ぜら れることとなった。  即ち乾隆五年︵︸七四光年︶四月に兵部左侍郎箭霊徳は上奏丈に﹁奉天地方には旗人の人口が増加し、叉各省の商人、民人が聚集し て、善悪混清し、旗人は悪風に染み、其の生計、風俗は従前のようでなくなった。速かに之を整思しなければ、日が久しくなると民人       ⑯ が益ζ多くなり、旗人の風俗は日に下りて、愈く挽回し難くなる﹂と述べ、満洲の封禁政策を上奏した。それは﹁民入の山海関を出入 するのを厳禁し、奉天の貿易商人が商船に民人を多く播饗するのを禁止し、保甲の細査を厳にし、民人の余地を開墾するのを禁じて、 旗人に空間地を耕作させ、宗室.覚羅の風俗を整え、山海関を出つる旗人には蔵記を給与する﹂こと等であった︵﹁高覧実録﹂巻一一       ⑨ 五・強要五年四月甲午︶。また、箭盛徳は奉天において未だ入籍しない民人を半年を限って、本籍に回らせようとした。併しこれだけ は施行されるに至らず、民人の入籍を願う者は保証を立てて入籍を許し、入籍を願わないものは十年を限って陸続と原籍に帰還させる ことにした。︵同上巻コ一七・乾隆五年九月丁酉及び会典事例巻一五八︶  かようにして満州の封禁政策が行われるに至ったのであるが、ただ乾隆八年︵一七四三年︶には直轍及び山東.河南等の地に飢謹が あったので、罹災民は流民となって熱河及び山海関外の奉天地方に出るものが多かった。そこで、翌九年正月には、特に此の年を限っ て封禁策を弛めて、至誠の罹災民の奉天に撃て生活するのを許した。 ︵﹁高歩実録﹂差等〇九.乾隆九年正月癸卯︶併し、これは飽く までも臨時の特別な難民対策であって、一般的には寧ろ封禁策が強行されて行ったのである。即ち乾隆十一年正月には奉天府府勇窪備 が奉天に洗面せる民八の整理を怠り、数万の流民が山海関を出たのに之を取締らなかった理由で免職となり︵コ局宗実録﹂鳶口五七、乾 町十一年正月戊子、財田及び高宗聖訓巻七六︶ 同年三月には山海関の出入を更に厳楽し、叉山海関以外の喜峯[[等の十五処に於ても 商人の往来を厳類し、各省の海船が民人を載せて奉天に到るのを厳禁し、民人が由海関より古北口等に至る耳癖及び九関台、中後所等       ⑰ の処を冒越するのを取締らせた。 ︵コ局宗実録巻二六一、乾隆十一年三月甲午︶  乾隆十五年は乾隆五年の発令より公認期限の十年目に当るので、奉天に建て未だ入籍しない寺入のうち、資産を有しないものは本籍 地に帰らし、資産を所有していて本籍に帰ることを欲せず、而も民籍に編入することを願わないものには更に十年の猶余期間を与え、 十年を過ぎても入籍しないものは処罪することにした︵﹁高話実録﹂官界五六、乾隆十五年正月乙卯、巻三七一、同年八月甲午︶。か 満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民 ご三

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    満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢入の植民      二四        ⑫ くして奉天に於ける民人の入籍の問題は乾隆二十五年を以て整理を完了することになったのである。筒これと並行して乾隆十五年に は、西南各省流民の海港を楡超渡航するを禁止すると共に、山東、江蘇、蔓立、福建、広東、広西の督撫に通達して商船の無職業者の 搭載することを禁止し、奉天沿海に在っては地方官に命じ官兵を増派して海岸を巡湿せしめ、野業妻問の守備官が沿道の州県官をして       ⑳ 洗民の往来を禁阻せしむることとした︵会典事例巻一五八︶。  他方耕地については、興隆二十七年︵一七六二年︶より同三十年に互って丈量し、民地に於ては紅冊地四六〇、二〇〇鴫有奇︵二 七、六一二頃︶に対して、余地七四、七〇〇陶有要︵四、四八二頃︶を丈出した。此の余地は私墾地であるから、一応官に牧め、此の中        ゆ から継歯地、水沖沙立地の機補地を支給して、其の余の民余地は上中下の三則に分って、叢誌租銀七分、六分、五分を微施したという。  かくの如く、一方既に移住せる漢岳人の民籍への編入整理を行うと共に、その開墾地を丈量整理し、私墾地を摘発して夫々徴租すべ きは微比すると共に、他方あくまでも新な満洲内流入に対して極力之を防圧するという政策をとった。それは乾隆五年掛一七四〇年︶ より約百年に亘って繰返し執拗に展開されたのである。来だ述べていない分を年代順に羅列すると次の如くなる。  乾隆三十五年目一七七〇年︶農民の典得せる旗地を整理し、三春旗人余地、永遠徴租地、暫行止租地の地目を置いた。  同四十二年︵一七七七年︶吉林省に洗民の移住を禁止した。︵高宗聖訓巻髪六四︶        ⑰  同四十五年︵一七八○︶までに省内各県内の丈量を行い各地目面積の増減を明らかにし原額を算定した。  同四十六年︵一七八一年︶徴匿報の令を発し、開墾地を隠蔽して届出を為さざる者に対する藤波規定を公布した。 ︵新刊盛京通志巻   ⑱ 三七︶  嘉慶四年︵一七九九年︶奉天省に於ける人民の私開地に対して自菖せしむるの法を採り、特に開墾の事実を自首せる者に対しては、        ⑳ 従前懲匿報の令に依って高率の銀米を兼ね課するものと反対に其租銀を半減する一時的規定を設けた。        ⑳  同五年︵一八○○年︶永久法を制定し、嗣後憂の自首を許し、且つ紅目地砦の滋生私開地に限り人民の用益分権を認めた。  同八年︵一八〇三年︶四月、歯入の自作農たらんことを奨励し、出関農民に対しては旗人の土地を私墾私典するを得ざる旨告知し た。五月、家族を携えて関を出んとする者は一切之を禁止する、但し関内地方荒稼の年に遭い貧民家を移して謀食せんことを希望する 者あるときは、先ず地方官より災害の程度移住希望者の多寡を調査し、督撫に通知し、其移住の許可を侯って出関を許すべく、其の出関 移住を許可すべき期闇も之を欝血して、其後の移住を禁ずることとした。倫単身商業に従事する者、他人に雇はれて食を得んとする貧 民に限り入満を許す特例を置いた。 ︵仁宗答皇帝聖訓巻八入、東華録 嘉慶一五ノニ四︶

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  同十三年中一入○入年︶貧民の奉天威遠墜、法庫県門を楡越して吉林又は蒙古の地を私墾することを禁じた。 ︵東華録 嘉慶二六ノ   ⑫   一一︶        ⑬   同十七年置一八一二年︶山東地方の農民家族と共に奉天海港に来る者が多かったので、山東園芸をして海路洗民の渡航を禁ぜしめた。   道光八年︵一八二八年︶七月、流民の海路より入満する者を防止するため、天津、上州、泰州、青州等の港肩に於ける船舶は商用で海  洋を往来する者を除き、小船の奉天地方に向はんとするものは之を禁止すべきことを命じ、十月に洗民の出港に闘する禁令を強化し、        ⑭  私かに流民を便乗せしめる者に対する処分規定を溶け、商船の出港に際し之を臨検せしめた。 ︵宣言三皇膏聖訓 巻九三︶   同十四年︵一八三四年︶三月、貧民の名目を便りて家族を移住せしめんとし、大小車輌に坐乗して奉天、吉林に向うものは、中途之       ㊧   を原籍に帰還せしめ、その逼行を禁じた。 ︵宣宗成目三焦聖訓 巻九︶  このように漢民人の入満を禁止する命令が百年もに亙って繰返し発せられたということは、これら封禁令にも拘らず、 漢民の流入が如何に止めどないものであったかを物語るものというべきであろう。尤も乾隆五十七年︵一七九二年︶とか嘉 慶六年︵=八〇一年︶とかには直隷地方に凶作這出があったので臨時的に封禁令を寛和し、飢民が奉天、熱河地方に入るを許     した。 ことに乾隆五十七年には難民の奉天、吉林、熟河等に出たものは数十万人を下らなかったといわれている。 ︵﹁高       ⑰ 宗実録﹂巻一四五八、乾隆五十九年八月乙酉︶ 併し、凶年以外は封禁令を厳守すべき建前だつたのである。然るに平年と錐 も相変らず密入満配多く、上記の如き封禁令が改めて点せられる度毎にその前文には、このことがうたわれている。例え ば嘉慶八年の発令に際しては﹁当今猶ぽ家族を携えて山海関を出つる者数百戸を算せるは当該官吏の不注意に出つるもの    ⑱ である﹂といい、同十七年の発令は﹁山東地方の農民の家族と共に船に乗って奉天海港に来る者が多かった﹂ことが動機         となっている。なお道光八年︵一八二八年︶七月には、 ﹁盛京辺柵外の戸口が新に二三万を増加せるを知り官有荒地を開墾 するを恐れたるも流民の駆逐容易ならず、此らは移住後に駆遂せんよりも其の以前に出関出港を禁ぜねばならぬ﹂として       ⑳ 封禁令の公布を見たのである。又道光十四年三月の発令は﹁嘉慶八年に貧民に限りて出関を許す特例を置いて以来、辞を 設けて山海関を東に出つる者四千六百渾名に達し、豊年に会うも一人の原籍に帰来する者がないのみか朋を呼び類を引い      溝洲における旧地的奴隷制荘園の形成・崩擾と漢人の植民      二五

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