対話としての『地獄の季節』 : 「錯乱I」について
著者
北村 仁史
雑誌名
年報・フランス研究
号
32
ページ
15-28
発行年
1998-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9392
対話としての「地獄の季節
J一―「錯乱
I」について一―
北村 仁 史 1 前稿では「地獄の季節Jυ″ 助′sο “`“ `Jψrの最初の三つの章,無
題の序章, 「悪い血」M"vais s“g,「
地獄の夜」助J′ルJ'`′ψrま でに現れた二人称 を指標 に してテクス トをたど りなが ら,そ
の対話 としての特徴 を分析 しだD。 しか し ,それに続 く「錯乱I」
D″
ras Iのテクス トの独 自性は,地
の文 を対象にするの と同 じ方 法で分析 することはで きないだろう。語 り手 〈私 〉が他 者である「狂気 の処女」
yIERCE FOLLEを
登場 させ て語 らせるという設定が,前
章に比 して二 人称の指示対象 をより明 白に しているので,二
人称の出現 とい う切 り口だけで はあま り有効で ないように思 えるか らである。本稿 で は,こ
の章独 自の設定 と 枠組み に注意 を払いなが ら,二
人称 と対話性 の問題 を考察 してみたい。「錯乱 I」 のテクス トを「地獄の季節Jの
他の章か ら決定 的に区別する差異はその外的 な形態 にある。形式的に言えば,
この章の地 の文すなわち「地獄の季節Jの
話 り手 〈私 〉が直接私たち読者に語 りかける箇所は冒頭の一文 (Ooutorls h∞nfes―Jon d'un∞mpagrlon d'enfer:「地獄の道連れの告白を聞いてみ よう」
)と
末尾の 一文 (DЮ le de m`FLage!「なんとまあ,奇
妙 な夫婦だろう」)だ
けであって,あ
とはす べて
,ギ
ュメ (引用符)に
括 られた,狂
気の処女の語るモノロー グとい うことになる。拠 は, まず タイ トルその もの
,お
よびモ ノローグにお ける女言葉 (フラ ンス語 では話者の一人称主語の性 に一致 して形容詞や過去分詞 などの話尾がeを
伴 っ て女性 形になる),そ
して何 よりも文脈に依存 したご く素直な読解に基 づ くと い うことにあるだろう。いまこのことを,原
点に戻って少し考えてみるために, ランボ ー自らが 出版 した初版本の この章のタイ トル部分 をまね て再現す ると以 下の ようになる(2ゝ DЁLIRES
IVIERGE FOLLE
L'重POU= =N「 ERNAL
少 し間 延 び した 感 じを与 え る ほ ど 文 字 間 の 広 い,も
っ と も大 き な 文 字 で 印 字 さ れ た タ イ トルVIERGE FOLLEと
い う二 語 は,文
字 の細 さ に もか か わ らず,こ
れ こそがメインタイ トルであって,上
段の「錯乱 I」 も下段の「地獄の夫」 もサブ タイ トルにす ぎないのだ と暗示 しているかの ように,そ
の存在 感は上下 のタイ トルを圧する ものがある。すなわ ちタイ トル部分は, この章のおよそすべてが 「狂気 の処女」 にまるご と委ねられていても何 ら不思議でない ことをあ らか じ め読者にほのめかすのに大いに寄与 しているように感 じられるのである。 タイ トルが本文に一度 も顔 を出 さない文学作品はべ つに珍 し くはない けれ ど も,こ
のいわば メインタイ トルと もいうべ き「狂気の処女」 という語は,テ
ク ス トの なかには一度だけ,た
だ し複数形で しか出てこない。それは,や
は リタ イ トルの最下段 に掲 げ られた L'ЁPOUX INFERNALが
テ クス トのなかで一度 だ け言及 され る の と同 じ,第
8パ ラグラフの 第一文 においてであ るが,こ
の文 は後対話としてのF地獄の季節』 で引用考察す る。 ちなみ に
DttIRESは
テクス トに二度現 れて,最
上段 に印字 さ れた正 当性 を主張 してい るかの ようで もある。 む しろDЁLIRESは
次章「錯乱 I こ とばの錬金術」DjLJRES tt Aた力加j`ル ″rbgと つ な ぎ含 わせ るための作 品 構成上 の整合 的 な タイ トル と考 えてほぼ差 し支 えないだろ う。 2 まず冒頭で「地獄の季節Jの
語 り手 く私 〉が発する,「
錯乱I」 の導入の言葉を取 り上げてみる。 この半譜音 と畳韻法にみちた命令法 】的outons la∞nfesslon
d'un∞mpagnon d'enfer:に おける一人称複数に含 まれるものは
,ま
ず もっとも一 般的に私たち読者 を想定 するのが妥当であるが,さ
らに無題の序章にお ける, 語 り手 〈私 〉の最初の重要な対話相手である悪魔や魔王サタンはもちろん,「
悪 い血」 や「地獄 の夜」の章で呼びかけられた もろもろの登場人物 をも暗 に包括 している可能性 もあるか もしれない。un∞
mpagnonと い う語は注意を引 く。こ の語は男性形で あって,
タイ トル にうたわれ た「狂気 の処女」 を指示す るので あれば,な
ぜその女性形の ∞mpagneを使わなかったのか,ひ
ょっとして「狂気 の処女」の仮面 が一瞬剥 げ落ちて,そ
のモデルであるか もしれ ないヴェルレー ヌその人とは言 わないまで も,語
り手 く私 〉や作者 ラ ンポーの男性的正体 を垣 間見せ ているのではないのかと疑 いた くなる誘惑 も押 さえがたい。 さらに付せ られた不定冠詞un
のために,少
な くともテクス ト表層においては,語
り手 〈私 〉はまるで その人物 と地獄め ぐりのさなかに偶然 出会った,多
少 と も胡散 くさい他者であ るようかのように装って もい るのであ る。いず れにせ よ,こ
の 導入文 の真意は,語
り手 〈私 〉ない しそれを操作する作者 ランポーの企 図する ところ,す
なわ ち自らの 内面劇 を寓喩的な登場人物に よつて演 じさせ ようとす る,自
らは表舞 台には登場 しない影の演出家 に徹 しようとする決意であ ること には違いないだろう。 舞台裏に姿 を消 した語 り手 く私 〉にかわって (じつ は操 られて),表
舞台に現れ 出る「狂 気の処女」は
,開
ロー番,二
人称 (vo us)の 命令法でモノロー グ を開始する。O divin Ёpoux,mon Scigneur,ne refusez pas ia confesslon de la plus triste de vos seⅣ antes. おお,神聖 なる夫,わが主 よ,あなたにお仕 えす る下婢のなかで もっとも哀れな女 の告 白を
,ど
うか拒 まないで ください。 (第2パラグラフ) この「地獄の道連れ」を装いつつ登場 した「狂気の処女」の繰 り広げる饒舌な 告白は,以
後「神聖 なる夫」すなわち「わが主」=神
に向かって語 られてゆ く ことが明示されている。以下に続 く「狂気の処女」のモノローグのすべ ては, 言い換 えればこの章の最初 と最後の二文を除 くすべては,「
狂気の処女」によ る神への繊悔であるとい う枠組みが設定されるのである。 しか し,こ
のあらか じめ語 り手 〈私 〉ないし作者が設定 した基本的枠組みは形式上最後まで維持さ れているけれども,モ
ノローグの中身は,懺
悔=告
白 ●onfession)か ら打 ち明 け話 (Enfln,faisons∝L conrlden∝ (。。.)「さて,打
ち明け話を始めましよう。… …」第7パラグラフ)へ
と移行するにつれ,ま
るで懺悔の聴 き手であるはずの「神 聖なる夫」=神
の存在がないがしろにされているように思わせる展開をみせる。 こうしてモノローグは,一
対のカップルの演 じる軋裸葛藤やカップル相互間コ ミュニケーシヨンの断絶 などを,必
ず しも過去のもの として断罪できない矛盾 にみちた生々しい表現で語 り続けるのである。 つ ぎに,す
で に触 れ た 。 こ の 章 の タ イ トル 中段 のVIERGE FOLLEが
唯 一 テ ク ス トに現 れ,タ
イ トル 下 段 の L'重POUX INFERNALと
た だ 一 度 だ け テ ク ス トの な か で 出逢 う,第
8パラ グ ラ フ の 第 一 文 を見 て み よ う。対話 としての『地獄の季節』 わた くしは
,地
獄の夫の奴隷です。愚かな処女たちを破滅 させたあの男の。 (第8パ ラグラフ) まずここには,
この章の形式的な着想の第一歩を提供 したマタイによる福音書 第25章「十人の処女」の歳言 を反省 し確認する意識が見て取れるが,そ
れ以上 に強く感 じられるのは,す
でにその歳言の枠組みをはるかに超脱 して,「
告白」 から「打ち明け話」への移行を前パラグラフで明言 したあとの流れを受けて, オリジナルな虚構 を展開する物語の開始宣言であろう。すなわち,こ
こまでは 「神聖 なる夫」=神
への懺悔の形式を装いつつ,暗
にその存在 をほのめかしな がらも(L'autre peut me ba■ re mttn“nant!「今はもうひとり(の夫)に
ぶたれたって構わないのです!」 第4バラグラフ
),あ
えて明示 しなかったもの,こ
の章の テーマそのもの ともいうべき「地獄の夫Jを
はっきりと名指すにいたるのであ る。 一方,「
地獄 の夫」 と相対時す る ところの,こ
の告 白=懺
悔=打
ち明 け話の 本来の聴 き手 であ る「神聖 なる夫」への 配慮 は,同
じ第8パ ラグラフの後半で は まだ明 白に意識 されてい る。Comment vollsle d“dre!Je ne sais meme plus parler.Je suis en deuil,je pleure,j'譴 peuro Un peu de f賢 1,cheur,Seigneur,si vous voulez,si vous voulez bien!
一体どうやってあの男のことを物語ればいいので しょうか
!
もはや話す術さえわ か りません。わた くしは喪に服 してお ります,泣
いてお ります,怖
いのです。主よ0わずかなりと新鮮 な空気をお恵み ください
,ど
うか,後
生ですから!(第
8パラグラ フ)Comment vous L d魔 Hre!に おける間接 目的語の vollsは
,最
終文の Sdgneur,豆かならない。さらに続 く第
9パラグラフ最終文にも「神聖なる夫」を指示する
vousが 現 れている。 C〕'cst un D6mon,vous savez,c`“ 'θS′μ “"たο″″・ あれは悪魔なんです,そう,人間ではあ りません。 (第9パラグラフ) 「そ う」 と訳 された vous savezは 話 し相手に軽 く念 を押すだけの常套的な語句 にす ぎないけれ ども,「
地獄の夫」 を厳 しく非難するあまりの このような表現 の過激 さのなかでなれなれ しく神 に呼びかけ るのは,涜
神的で さえある と言 え るだろう。 すべ てのモ ノローグは「神聖な る夫」 を聴 き手に しているはずなのに,そ
の 語は,第
4パラグラフのHus tard,je∞mttmi L d宙 n tpoux!「 いずれはこのわた くしも神聖なる夫 を知ることにな るで しょう!」 とい う表面的 には希望 を託 し た文 を最後にテクス トには現れない。 また,そ
れに類するSdgneurと いう語 も, 二人称の代名詞 vollsの 指示対象 としても,第
9パラグラフ最終文以後,記
述 さ れることがない (ただ しつ ぎに考察する13パ ラグラフの曖味な vousを 除いたな ら)。 「狂気の処女」の語るモノローグのいわば序文 的な部分 とも考え られる 第9パ ラグラフまでは,ま
だ本来の聴 き手=「神聖なる夫」 を意識す る配慮が残 つ ているのに反 して,「
地獄の夫」の言葉 を直接話法 で引用 し始 める第10パ ラグ ラフにいたつて い よい よ打 ち明け話が佳境 に入るや,少
な くとも聴 き手の存在 は等閑視 されて しまっていると言えるだろう。 ところで,13バ
ラグラフ終 わ り近 く,「
狂気の処女」が自らを保護 して くれ る「地獄の夫」 の精神的空 間を「宮殿」 に暗喩す る くだ りに,唐
突に現れ る vousは 怪 しげな曖味 さを組っている。対話 としての『地獄の季節』
21
personne si peu noble que vous:voila tout.
まるで (あなたのように)あまり品のよくないひとには会わずにすむようにと,と くに場所を空けてもらった宮段のなかにいるかのように。以上のような次第です。 (13パラグラフ
)[(あ
なたのように)は引用者付記] このvousを本来の聴 き手=「
神聖なる夫」=神
と読むならば,等
閑や蔑視 どこ ろか明らかな冒涜と言うべきだろう。それとも,一
般的な人々を表すonの
強勢 形 と読 むことができるのだろうか。いずれに しても,前
者の含意が滲みでる以 上は,本
来の聴 き手への等閑視ないし蔑視は明白であって,逆
に「地獄 の夫」 への共感と愛着が強調されることになるのは必然であろう。 第15パ ラグラフ後半,「
地獄の夫」の超人的な力に託す無邪気な旅立ちの夢 を語る「狂気の処女」の言葉に,親
しい二人称単数のtuが
現れる。自らの言葉 を直接話法で三度引用するJe te comprends「 あなたのことよくわかるわ」を除 く と,「
狂気の処女」がtuを使うのはこの一回だけである。Oh!la vie d'aventures qui existe dans ies livres des enfants,pourrne r“ ompenser,
j'ai tant souffert,me la donneras― tu?II ne peut pas.
ああ!子供向きの本に出てくるような冒険生活
!
わた くしへの償いとして,一一こ れほどの苦 しみを嘗めてきたのですもの,一―そんな生活を与えて下さってもいいで しよう?
いいえ,そんなこと,あのひとには出来や しません。 言うまでもなく本来の聴 き手=「
神聖なる夫」=神
への二人称ではなく,一
貫 して三人称で指示されていた「地獄の夫」が突如として親 しい二人称の tuで 話 しかけ られているものと考えられるのであるが,直
後の文では再び三人称に戻 されている。二人称であるべ き本来の聴き手=「
神聖 なる夫」が一瞬無視され て発せ られた, この「そんな生活 を与えて下 さってもいいでしょう?」 という言葉は
,テ
クス ト空間上 では多少乖離 してい る,直
接 話法で引用 された「地獄 の夫」 の親 しげな言葉 とまるで掛 け合ってい るかの ようでさえある。この言葉(me n dOmeras‐tu?)を
,あ
るいはその前後 をギュメには括 っていないのであって
,ま
さに前稿 で検討 した,あ
の地の文にふ いに二人称が聞入 して くる 自由な エクリチュールに通 じる形式が,「
錯乱 I」 のテクス トにも,あ
らか じめ設定 さ れているはずの枠組みを突 き破 って噴出 している例 として興味深いのである。 第15パ ラグラフの末尾近 くでは「神」Dicu
とい う語がテクス トに現れるが, 本来の聴 き手 を示す二人称ではな く,そ
こにいない存在 を指す 三人称化 された 実詞で あつて,モ
ノロー グを聴い ているはず の神が まるでそば にいないか,あ
るいはその存在をすっか り忘れて しまっているかの ような素振 りなのである。Paric―t-1l a Dicu?Pcut― emD devrals― Je m'adresserれ Dicu.
あのひとは神に語 りかけるので しようか
?
きつとわた くしの方こそ,神に呼びか けるべ きなので しょう。 (第15パラグラフ)このあとにJe suis au plus profond de l'aЫme,etje ne sais plus pder.「わたくしは深
い深い淵に沈み込んでいて
,も
はや祈るすべ も知らないのです。」 と,
きっぱ りと祈 りの不可能,拒
否を表明する文が続いている。 こうしてモノローグはひたすら「地獄の夫」を執拗 に描破 しようとして対象 に迫ってゆくのであるが,つ
いにその正体はとらえきれずに,喚
起されるイメー ジはじだいに混乱を深めてい くように感 じられる。ここに展開 されているもの は,む
しろ語 り手=「
狂気の処女」が告発対象=「
地獄の夫」 との間に繰 り広 げる葛藤軋礫を描 き出す メロ ドラマ的でありながらなおかつ形而上学的でもあ る,い
わば,矛
盾に満ちた安易な要約を拒む修羅場 とも言うべ きものだろう。 つぎに,第
10パラグラフか ら「地獄の夫」の言葉 を引用する直接話法が現れ て,形
式上単純明快なこの章のデ イスクールの構造をやや複雑 なものに してい対話 としての『地獄の季節』 る
,直
接話法の内なる直接話法 と も言 うべ き二重のギ ュメ (引用符)に
括 られ た部分 を検討 してみよう。 3 その前 に,こ
の章全 体のギュメの使 い方 につい て述べれば,語
り手 〈私 〉に よる導 入の一文 に続 く二 行 日に開 かれ,逐
一 パ ラグラ フの冒頭 で規則正 しく開 かれ,語
り手 く私 〉に よ る総括 の 最終文の一 つ前 のパ ラグラフで初 めて 閉 じら れてい る (ただ し第10パ ラグラフ末尾は「地獄の夫」の言葉 を引用する直接話 法の末尾 と一致 しているためにギ ュメが閉 じられてい る)。 これは,長
々と続 く直接 話法を導入するばあい,各
パ ラグラフの冒頭にギュメを開き,い
ちいち 各パ ラグラフの末尾でギ ュメを閉 じることをせずに,最
後のセ リフの終 わった 箇所にのみギュメを開 じるという,規
範的な フランス語句読法 に基づい ている もので,冒
頭一 文 と末尾 一文以外 はすべてこの章の語 りを託 された登場 人物, すなわち「狂気の処女」のセ リフに帰することになんらの疑念の余地 もない。 その「狂気の処女」のモノローグのなかに,さ
らに二重の引用符で括 られた, 「狂気 の処女」 によって直接話法 で引用 され る「地獄 の夫」の言葉,あ
るいは そう判 断される言葉が (「狂気の処女」が自 らの言葉 を直接話 法で三度引用す る Je te comprendsを 除 くもの として)五
箇所ある。なかには引用箇所の発話者 を明示 する記述 がないために,「
地獄の夫」 の言葉 と断定で きない もの もの も ある (いくつかの版でこの二重引用符 を “"や`'で
示 しているのは,テ
クス ト をより読み易 くしようとする編者の善意にみちた配慮であろうが,も
ともと 《》 しか用いていないオリジナルなテクス トの原形 を隠蔽 してしまう恐れ もあって, 功罪相償 うものであろう)。 このような二重の引用箇所に用いられている親 しい二人称単数の tuが,「
狂 気の処女」 を指示 していることは文脈か ら自明である。たとえば,「
地獄の夫」 の美 と富への犯 罪的なまでに凶暴 な偏執 を狂犬 じみた イメージでかたどるパ ッセ ー ジ。
(。 .。)tu ve耐,je hurlemi dans ies rues.Je vellx devenir bien fou de rage.Ne me
montrejamJs de b10ux,je mrnpemis et me tordrais surle tapiso Ma Hchesse9je la
voudtts tach6e de sang partout.JamJsje ne mvJne面 。¨
(……
)今
にわかる,おれは通りで大声をあげるだろう。憤怒のあまり思いつきり 狂つてしまいたいのさ。ゆめゆめおれに宝石なんか見せるなよ。おれ力漱 毯のうえ を這いまわり,身を捩ることになるだろうから。自分の財宝は至るところ血にまみ れていて欲しいのだ。おれは決して働きはしないよ……(第Hパ
ラグラフ) あるい は,「
地獄の夫」 が,あ
りうるか もしれない「狂気の処女」 との別離 を 社会的 な使命感 にかこつ けて,芝
居 じみた甘 ったる くも大げさな言葉で メロ ド ラマ調に語る第14パ ラグラフ。《Comme"te pamltn dめle,qumdje n'y serai plus,ce par quoi tu as pass6.QLand
tu n'aumsメuS mes bras sous ton∞u,m mon ccurpourt'y reposer,ni∝ tte bouche
sur tes ycux.Parce qu'ilfaudm queje m'en aille,tめs loin,unjour.Puis il faut que
j'en aide d'autres:c'cSt mOn devoir.Quoiquc∝ ne soit guё re ngoOtant.。。,chё re ame.¨》 『おれがいな くなったら,こうしてお まえ力f耐えて きたことは,さぞか しお まえに は奇妙なことに思えることだろうね。おまえの首にまわ したおれの腕 も,おまえが 安 らぎを求めるおれの胸 も,そしてお まえの眼に触 れるこのおれの回 も,みんな無 くなって しまつた ら。なぜ つて,その うちおれは
,ず
っと遠い ところへ行 つて しま わなければな らないだろうか ら。それに,ほかの連中 も助けてや らなければならな い。それがおれの務めなのだ。あまり気のすす まないことではあるがね……,ねえ, お まえ……・J(第
14パ ラグラフ)対話としての『地獄の季節』 「狂気 の処女」の言葉と彼女によって引用される「地獄の夫」の言葉とのゆき ちがい
,強
面と優 しさに引き裂かれる「地獄 の夫」のイメージの矛盾と混乱, しかし,そ
のような錯綜 した文脈のなかから聞こえて くる「地獄の夫」 の声に は妙に リアリテイがある。女言葉のモノローグに挿入 された男言葉による親 し い二人称は,一
人芝居 とはいえ対話的要素を生き生きと演出す る効果を上げて いるだろう。もっとも,い
かに「狂気の処女」の口で語 られていようとも,そ
のモノローグが,錯
綜す る「地獄の夫」のイメージを通 して語 り手 く私 〉のみ ならず作者ランポーの姿 をも見え隠れさせるのは,い
かに虚構 のヴェールを組 おうとも否応な く作者の現実がテクス トに露出するという意味で,こ
れ またま た当然のことであろう。 じじつ,「
狂気の処女」によって引用 される「地獄の 夫」の言葉には,詩
人の他のテクス トとのかなり著 しい比較対照が可能な箇所 が少な くないのであるが,こ
こでは言及できないので,ま
たの機会にあ らため て考察 してみたい°し さて,第
17パラグラフにおける最後の直接話法で,親
しい二人称単数tuが
, 一見す ると直接 カップルにはかかわりのないかのような第三者 を喚起する箇所 がある。つぎに一瞥しておこう。《Tu vois cet 616gantjeune homme,cntmrlt dans ia belle et calme maison:il
s'appelL DuvJ,DufouL Amand,MauHcc,quc ttsje?Une femme s'est d6vou“ a
aimer∝m∝hant idiot:elle est morte,c'est celtes urle sainte au ciel,apだ sento Tu
me fett moudr commell a fait mounr cette femmee C'est notre sort,a nous,coEu疇
charitables.。.》
「ほら,あそこに品のいい若者が,いかにも静かな屋敷 に入 ってゆ くのが見えるだ ろう。あいつの名前は
,デ
ュヴァルか,デ
ュフールか,アルマ ンか,モー リスか,しまったのだ。その女は死んで しまったが
,今
ではきっと天国で聖女になつている だろう。あいつがその女を死なせてしまったように,いずれおまえがおれをくたば らせるだろう。それがおれたちの運命なんだ,慈
悲にあふれた心の持ち主であるお れたちのな……J(第
17パラグラフ) 引用箇所は,発
話者を明示する記述はないけれど,す
でに四度反復された同様 の直接話法形式から判断 して,ま
た何 よりも文脈を支 えとして,「
地獄の夫」 の言葉 に帰着させるのがほぼ妥当であろうと考えざるをえない。「地獄の夫」 は,自
らと「狂気の処女」との運命を暗示する書えとして,ア
ルマ ン・デュヴァ ルを男性主人公にしたアレクサンドル・デュマ・フイスの小説『椿姫J La D″
αtt ε″″′加 をなにげなく引き合いに出しながら,マ
タイ福音書から着想された 神話的な設定に もかかわらず,自
分たちの関係の本質が期せず してメロ ドラマ の水準 とさしてたがわぬ ことを自潮的に暗示 しているものと読むことができる だろう。『地獄の季節Jが
書かれた当時一世 を風靡 していたであろう通俗大衆 小説とその劇化の影響を吸収 して作品の否定的なバネにしていることは,当
然 のことながら, ランポー もまた時代の刻印を逃れていないことを如実に示 して いて興味は尽 きないのである“L 4 以上,「
錯乱 I」 における二人称 と対話性の問題 を考察 して きたが,他
の章に 顕著に見 られる,語
り手 く私 〉が 自ら呼び出 した二人称である他者に述べた言 葉 を地 の文 と判然 と区別する形式上の記号 を必ず しも明記せず に記述 してゆ く とい う,よ
り自由なスタイルは,独
自の枠組みが設定 された「錯乱 I」 の章にお いて もある程度は継続 されていると一応は言 うことがで きるだろう。 ところで,こ
の章は「地獄の季節J全
体 を俯離 したとき,終
章「別れ」Adliθ “ 末尾の以下の くだ りに作品構成の根抵において対応 しているように思われる。対話としての『地獄の季節』
Que paridsje de main amie!Un bel avantage,c'cst quCje pds dre des vLilles
amous merlsongёres,ct frapper dc hontc ces∞ uメeS men“us,一j'd vu renfer des
fernlnes I≧―bas;―‐et il ine sera loisible de′οss`&r raソ´だ′ごdatts“ “`′ ″ `′““ θθ弓′S・ 友愛の手について,私は何 を語 つたか !ひ とつの大 きな強みは
,昔
の偽 りの恋愛 を笑いのめ してやることがで きる とい うこと,あれ らの嘘つ きのカ ップル どもに, 恥辱の不意打 ちを くらわせてやることがで きるとい うことだ。― はあちらでは女 たちの地獄 を見て きた。一 していずれ私 には,ひとつの魂 とひとつの肉体の うち に真実 を所有することが,許
されるだろう。 絶対的 なもの とは言わないまで も,た
とえ一 時的な ものにもせ よ,こ
の ような 勝利宣言で作品を閉 じるためにも,「
錯乱 I」 は欺臓的なカップルの具体例 を呈 示 して告発する とい う,「
地獄の季節J終
焉 に不可避 の過程 と して,作
者 ラン ポーに よつて着想 された ものであ り,そ
れゆ えにこそ作品のなかで重要 な位置 が与えられているのであろう。 最後に「錯乱 I」 の解釈に一言 して結びたい。時間的な流れにそつて,ま
ずは シュザ ンヌ0ベル ナール編註 ガルニエ旧版Dによって強 く印象 づけられた伝記的 読解 (「狂気の処女」=ヴ
ェル レーヌ,「
地獄の夫」=ラ
ンボー)が
基本にあ り,つ
ぎにマルセル・リュフ(° の新解釈 を支持 し踏襲 したアン トワーヌ・アダン編 註 プレイヤー ド新版全 禦ηによつて詩人個人の内 なる二つの声の葛藤 (「狂気の 処女」=反
抗に 目覚める以前の従順 なランポー,「
地獄の夫」=反
逆す る樺猛 なランボー)と
する読み方が もた らされた。 このようなかつて支配的であつた 解釈は,厳
密に完全な等 号が成立 して読み換 え可能 という意味 でなら,過
去の 誤謬 と言 うほかないだろう。 しか しなが ら,作
品の もつ虚構 としての本質を重々 踏 まえてなおテ クス トの多義性 を尊重 した上 でなら,過
去の誤謬 として一蹴 されるよ りも
,今
日で も十分に参照 される価値 を多少な りとも保持 してい ると言 えるのではない だろうか。そこに こそ,こ
の稀有な く私 〉語 りのテクス トの面 目躍如たるものがあるようにも思われるのである。テ ク ス ト:ahνras,6didon de Stmme Bemard etAndに Guyaux,Bordas,coll.Classiques Gamler, nouvcHc(費五tion revuc,1991. 主 要 参 考 文 献 :助 “ 助 お “ θ “
′′ψr,6dittOn cH饉que par Pierre Brunel,Jos6 Corti,1987.
Yoshikazu N出珂i,Cοmbar ψ:rJ餃 ′α`li―門
`″五siο “′,JosC Corti,1987. 作品翻訳 :す べて宇佐美 斉訳「ち くま文庫」版 「ランポー全詩集
J(1996年 )か
ら借用 させて頂いた。 註 (1)年報・フランス研究第31号所収,北
村仁 史「対話 としての「地獄の季節J一一二 人称 のあ りよう― 」。 (2)たとえば,初版本 をその まま再現 した とい う廉価 な文庫本 υ″&お"`“ 鋼″r,cOll. Arl(免―Poche,1997。 (3)前掲書Pierre Brund,P.絲 。(4)前掲書 Yoshkazu Nak中 に「錯乱I」 と『椿姫Jとの詳細 な比較研究が見 られる。
(5)α
“ッraS,SOmmatre biol翼 aphiquc,introductton,notices,relev6 de varlantes ct notes par SlnIIne
Berrlard,Classiques Gamier,1960.
(6)Marcel A.R」r,R勘屁沼″,′'la― `′
′'α
“
vra,Hatier,collo Connaissance des lemEs,1968.
(7)(Z“ ッras cttpttras,鋤don etaЫic,present6c et annot6e par Antolnc Adam,Gallimard,
BiЫioth"ue dC h P16iade,1972.