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女性史研究 : 第9集 (1979.12.1)特集「母権の発見 」

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(1)

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(5)

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(6)

狽煤Gn. t 11 蛇コ (4}バッハオーフェン  1843年(28才)  写真の説明  (1)アメリカのルイス・ヘンリー・モルガン(主著「古代社会』1877年刊)と文通しながら,r古代 書簡』第1巻を刊行した1880年ごろの写真で,「博士J.J.バッハオーフェン」の署名がある。『バッ ハオーフェン全集』第8巻から転載した。  ② 「母権論』初版,1861年刊を所蔵しているiJf究施設をあきらかにしていないが,このタイトル・ ページは井上五郎氏が,カール・マルクス・ハウスのヘルムート・エルスナー氏より入手されたもので ある。  (3) r母権論』の「クレータ」篇のなかの§18のさいこから§19のはじめの部分の原稿であるが, 「バッハオーフェン全集』第2巻では161頁のしたから1行目より,162頁のうえから12行目までにあた る。原稿での「xviii」が刊本では「§19」となっている。「バッハオーフェン全集」第2巻から転載し た。  {4)パウル・デーシュヴァンデンがえがいたもので,この年の2年前である1841年にバーゼル大学の ローマ法の正教授となり,1842−43年の第1回目のイタリア旅行で古代墳墓の調査をおこない,原始の 習俗・法・宗教への関心をたかめて,1844年には,ついに職を辞して母権の研究にうちこむことにな る。『バッハオーフェン全集』第1巻から転載した。  写真の選択や入手などでは井上五郎氏のご配慮をえたし,複写ではコシバ・ヒロナル氏のご協力をえ た。記して感謝の意をあらわすしだいである。       石原通子

(7)

地域女性史に想う

伊藤康子

 暑いさかりを姫路、広島、秋芳台と日光、東京へ旅して、あら ためて、日本の都市は背景とする山川を除けば、どこも同じと痛 感した。金もうけへ通ずるとなれば、昔なかった所にでも城を築 くのが日本の現代である。衣食住は大量生産大量販売利潤拡大の 手段にされつくしている。  旅の楽しさは味わいにくくなったけれども、日本中が均質化さ せられるなかで、私は新しい芽をみている。それは、戦前、婦人 の運動の出発点は東京と京阪神がほとんどを占めるのではないか と思うのだが、現代には、がんばる主体さえあれば、どこからで も火の手はあがる事実である。  一九六六年結婚退職制違憲判決第一号の鈴木節子さんは、福島 県四倉町磐城セメント︵のち住友セメント︶で働いていた。男女 賃金差別撤廃裁判︵一九七〇年提訴︶は、秋田相互銀行労働組合 によるものであった。公務員の昇給昇格差別は、一九七二年三重 県鈴鹿市の山本和子さんによって、裁判でたたかわれ始めた。大 分高教組婦人部の実践を基礎に、女子教育研究大会が数年前から 開催され、今は女子高校生問題研究会ができている。私の読んで いる新聞は﹁名古屋版﹂なので、他地方の波頭で、まだうねりが 名古屋にとどいていないことも多いだろう。  日本史からすれば、婦人運動のこういう姿は、国民にとっての 民主主義深化拡大の一つのあらわれといえるだろう。そして私が こんなことを考えるのは、 ﹁女性史のつどい﹂を二年前開いた 時、なぜ名古屋でこんなつらいことをやらなければならないの か、と思ってしまった﹁恨み﹂のほこ先をさぐるためかもしれな い。  日本中どこででも、主体的力量さえあれば、女性のくらしにく さをつき破る運動をおこせる時代になったという仮説が正しけれ ば、地域の婦人が歴史的に積み重ねてきた歩みを客観的に位置づ けうる地域女性史研究、それゆえにその成果をひろめていける人 人のたいせっさを、あらためて強調していいだろう。できること なら、小さくても一年一度でも、機関誌がもてたら、蓄積は確実 になろう。  ﹁平和で中流の生活﹂という日常感覚が大きく国民を支配して いる時、身に鑑みる史実の掘りおこしが、現実を直視させ、地域 の主人公になる道をさぐらせる女性史研究の道を、私も一歩ずつ ふみしめている。

(8)

J・J・バッハオーフェン論

カジミール・フォン・ケレスークラウス

        訳・井 上 五 郎

    ω

 一九〇一年は、家族史と原始文化の分野における画期的な著作、さらに社会概念一般の発展にかなり強い影響を及ぼした

著作の刊行四〇周年にあたる。私が言っているのは﹃母権論 宗教的・法的性質よりみたる古代世界の女人統治制に関する

研究﹄のことであり、一八六一年にシュトゥットガルトで刊行された部厚い一巻である。この著作の著者はヨーハン・ヤー

コプ・バッハオーフェンで、バーゼルの控訴院官、その地の大学のローマ法の教師であった。 ﹃母権論﹄は、この著者の処

女作ではなく、古典古代世界、つまりギリシア・ローマ世界の諸制度の理解に真の変革を含んでいた。それにもかかわら

ず、この書物は、刊行時にもその後長い間も、専門家、すなわち法学者や歴史家や文献学者の注意を全くひかなかった。バ

ッハオーフェンがいくらか有名になったのは、コリオラーヌス伝説におけるロ;マの老貴婦人の積極的な役割を弁護して

﹁偉大な﹂モムゼンに論争的な態度をとった一八七〇年になってのことであった。それに対してモルガンやマクレナンのよ

うな民族学者たちはバッハオーフェンの発見をただちに利用した。フリードリッヒ・エンゲルスもモルガンによってその発

  ︵原注1︶ 見を知った。そして、﹁母権﹂の発見者の名前が幅広い階層の人びとに知られているとするならば、それはフリードリッヒ.

エンゲルスの﹃家族の起源﹄における言及のおかげであることは確かである。というのは、バッハオーフェンが古代研究全

般の分野でなした功績にもかかわらず、彼の名前は奇妙にも﹃エンサイクロペディア・ブリタニカ﹄ ︵第九版︶にもフラン

一2一

(9)

スの新しい﹃グラン・アンシクロペディ﹄にもなく、ブロックハウスの百科事典が第一四版︵一八九二年︶ではじめて彼の

著作についての極めて短かい記事を載せたからである。ようやく一八八九年に、あまり有名でない地理学者・民族学者では

あるが、パリ在住の博学なニコラウス・ルザノブ氏がバッハオーフェンの死去に寄せて﹃ルースカヤ・ムィスル﹄ ︵ロシア

       ︵a︶

思想︶誌に彼の伝記を発表した。故人の弟子ジロートゥロン氏とその友人である原始文化の有名な研究者エリー・ルクリュ

の報告に基いて、ルザノブ氏は、残念ながら不充分ではあるにしても、極めて信頼できる資料を提出している。この伝記か

ら以下のわずかな資料を引用しておく。

 バッハオーフェンは一八一五年バーゼルに生まれた。この町の古い裕福な名門の出身であった。絹織物業者である彼の父

から莫大な財産を相続した。彼は少年時代から高い文化的・芸術的環境のなかで過ごし、彼自身も古代の壺や絵画や彫刻の

素晴しい収集を所蔵していた。彼は、バーゼル、ベルリン、ゲッティンゲンの大学で、もっぱら歴史的・哲学的観点から取

り扱った法学研究を終えた後、なおもパリとロンドンで研究を続けた。彼は歴史的連続性を極めてはっきりと示している英

国法に特に興味をもった。バーゼルで一八四一年についたローマ法の教職を、古典古代についての彼自身の研究に完全に没

頭するために、彼は二年後に再び放棄した。彼はそれ以後彼の時間を学問的研究とイタリア、スペイン、ギリシア旅行に費

し、それらの地で彼みずからの手で発掘をした。この研究旅行の間に、納骨壷、より正しくはその壺の碑文が彼に、父権に先

       ︵b︶

行ずる母権の思想をはじめて思いつかせた。彼は晩婚で、その時すでに五〇歳を越えていた。そして一八八七年=月二八

日に卒中で死去した。バッハオーフェンは、父と同じヨーハン・ヤーコプという名の一人息子を残した。        ︵c︶  一八三八年にローマの抵当権について書いた学位論文の後に、バッハオーフェンは、彼の最初の大きな著書を刊行した。        ︵d︶

それは﹃ローマ史﹄第一巻で、彼がゲルラッハ教授と着手し完結しなかった著作であった。バッハオーフェンはこの著作で

      ︵e︶

特にローマ国法の基礎を取り扱った。 ﹃古代墳墓の象徴に関する試論﹄は彼をすでに彼本来の領域である古代研究に導き入

      ︵f︶

れた。この労作の続編が﹃古代の墓標におけるオルペウス教の不死説﹄ ︵一八六七年︶をなしている。この両著作の間にバ

(10)

ッハオーフェンの主著﹃母権論﹄が一八六一年にi従って画期的な別の二二、すなわちマルクスの﹃経済学批判﹄とダー

ウィンの﹃種の起源﹄ ︵ともに一八五九年︶とほぼ同じ頃に、出版されている。 ﹃母権論﹄を増補するものが﹃リュキア民 ︵9︶      ︵h︶ 族﹄ ︵一八六二年︶や以下の著作をなしている。﹃タナクゥィル伝説﹄︵一八七〇年︶、ついで﹁モムゼンのグナエウス・マ        ︵i︶ ルキウス・コリオラrヌス物語批判﹂ ︵一八七〇年︶、そして最後に二巻ものの﹃古代書簡 特に最古の親族概念の理解の  ︵j︶ たあに﹄。これらの著作が彼の見解を知るための主要な原典である。

 歴史的証言の、特に神話の才気あふれた独創的な解釈と比較とによって、古代世界における家族の家父長漬秩序が原初的

なものではなく、 ﹁母権﹂の時期がそれに先行していた、とバッハオーフェンは確信するにいたった。女性たちの全く宗教

的で利他的な感情のために、自然生活の規律への女性たちの直観的で親密な感覚のために、この状態における人類は﹁民族

      ︵k︶

の全ての成員をわけへだてなく一様につつみこみ﹂、あらゆる不和、あらゆる個人的利害を避ける﹁親族のような態度の﹂        、 、 、 、       ︵1︶ 善行を亨輸した。これこそが﹁後代の人びとが銀の時代の絵の主要な特色とした﹂かの母権の長い原始的な時期である。

 しかし、母権的秩序は民族の最も原始的な生存形式ではなかった。J・J・ルソーにおけると同様にバッ出山ーフェンに

おいても、二つの継続する﹁自然状態﹂に区別がみられる。そのうちの第二の自然状態は調和のとれた家族共同体的時期で

あり、あらゆる組織の欠如によって特徴づけられる第一の自然状態は、ルソーによって第二の自然状態よりもいっそう理想

       へ

化された。それに対してバッハオーフェンは、 ﹁純粋な自然﹂のこの状態を完全な野蛮の時期、つまり牲関係の無規律、ヘ ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ

テリスムスの時期として叙述した。母の宗教的で道徳的な魔力が、それどころかたいがいは堕落に対する女性たちの武装し

    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

た征服︵アマゾーン主義︶が、ヘテリスムスを終わらせた。この﹁アプロディーテー的自然法﹂はただ漸次的に規律に屈服

する。長期にわたって存続する残存物は、それがかつて実際に実存したことに対しても証拠となる。後代に族長の人物に具

現される全民族の法のそのような残存物をバッ吊目ーフェンは甘。・bユ目器冨8けδ︹葭葺権︺とも呼んでいる。彼は民族学        クヴア ド の他の謎も解いている。すなわちoo吐く9島。︵父の擬娩︶で、そこに彼は母権から父権への過渡のしるしをみている。

一4一

(11)

 母権とそれに結びついた女性支配︵女人統治制︶とは、諸民族のなかに長い間持続する痕跡も残した。多数の伝説のなか

に、また実際アフリカの多くの諸種族にも、賢明で勇敢な女王たちがいる。彼女たちは卑賎の出の他種族の居たちを夫に

し、王位を高めるのである。完全に家父長的なロ:マの歴史においてさえも、タナクゥィルはタルクゥイニウス・プリスク

スならびにセルウィウス・トゥリウスとそのようにおこなった。ギリシアでは、ピュ二三ゴラース的女性崇拝は家母長的伝

統の存続によってのみ説明しえるのである。そして、はるか後代では、女性たちがイオーニア世界に生きている屈辱にもか

かわらず、ソークラテースが女予言者ディオティ!マの足もとに伏して﹁彼女のまったく神秘的な啓示の感激的な高揚によ

      ︵m︶ うやく従っている﹂のをみる。  ギリシアがバッコス主義への没落のために女人統治制のこのアジア的・エロース的堕落を克服できなかったものを、ローマ

は克服した。ローマでは父性原理が圧倒的勝利を示した。一そしてこの原理は真に精神的なもの、個人的なものである。

それは人類に完全性への闘いと努力の道をひらくのである。‘﹁そこ︵母権的で差別のない状態︶では物質的束縛があり、こ こ︹父権的世界︺では精神的発展がある。そこでは自然への没入が、ここでは自然の克服が、生活の古い障壁の打破が、不動       、 、 、 、 、 、 、 、      ︵n︶ の静寂や平和な享受や老化する肉体のなかの永遠の未成熟性のかわりに、プ三部ーテウス的生活の努力と苦悩がある⋮⋮﹂。    ヒストリオゾブイ 

 この歴史哲学のなかにドイツ観念論哲学の古くさい影響が新しい古代学の方法や概念と混じっているのをすぐにみてと

れる。 (2)

 裕福なスイス市民として、ローマ法のドクターとしてのバッ二丁ーフェンは、純粋に家父長的な観念と伝統のなかで教育

され形成された、彼は家母長制と女人支配を決して最高の社会的存在形態とはみなしておらず、いわんやそれらに復帰する

(12)

のを望ましいとは思っておらず、逆にそれを戒めた。この点で彼は、彼の階級の精神と概念にあくまでも忠実であった。古

       ︵原注2︶

代研究の分野でのこの階級の他の有名な代表者たち、例えばモムゼンやグラッドストンのような者とバッハオーフェンと

は、まさにこのことによって区別され、その点に、すくなくとも過去の研究にさいしては彼の階級の先入見から免がれて理

解するという利点がある。この家父菖蒲先入見に目をくらまされているのが特に顕著なのはモムゼンである。モムゼンは、

エトルリア人やサビー二i人、あるいはローマ人においてさえも存在する家母長制のおびただしい痕跡を見落しているばか

りではなく、実に、彼のブルジョア的帰結として、コリオラーヌスが反逆を回避する際のウォルムニアやウェトゥリアやウ

ァレリアの果す役割を誰かある﹁知られざるローマのシェークスピア﹂の夢想のせいにすることによって、ローマの老貴婦

人の堂々たる姿からその名誉を奪い取ろうとする。ローマの女性にとって、そのような愛国心の発露は決して異例なことで

はないことを、バッハオ:フェンは明らかにしている。  バッハオーフェンは、そもそも過去の神秘的で不思議な伝説から﹁今日の私たちにみられるような人間性原理﹂、すなわち

批評家とその時代の合理主義に適合しないものすべてを退けるあの﹁主観的で歴史化する批判﹂を是認しない。かの伝説が

      ボエジロ      デイヒトウング ありそうもない詩にすぎないといったような良識による方法の陳腐さを嘲笑している。 ﹁作り話に﹂、と彼は述べている。        デイヒトウング ﹁現状に照らしてみれば、これらすべては作り話になる。しかし、あらゆる夢想以上に活気に満ち心をゆさぶる最高の文学       ︵o︶

は、歴史の現実性である﹂。神話は生活の花であり、表出である。従って研究者は注意深く神話に近づかねばならず、研究

者にとって﹁合理的に﹂みえるものではなく、当該時代の神話のなかで普遍的かつ統一的にみえるものを強調せねばならな

い。 ﹁真の批判は理解にある﹂と彼の﹃古代書簡﹄のモットーがのべている。

 その世界観が神話のなかに横たわっているところの民族に対するそのような理解のおかげで、また、すでにヘルダーが過

去についての研究者にすすめた民族の生活に身をおく能力のおかげでバッハオーフェンは全く新しい世界を発見した。彼

は、歴史時代と先史時代との間に貫通しがたい壁を築いた古典古代を扱う歴史家のなれを打破した。彼の見解によれば、そ

一6一

(13)

のような分離は全く不当である一何故ならば、神話的伝説は、古代世界の歴史的発展がその神話的伝説の起源と根拠とを

もっている時代の生活規律の表現だからである。徹頭徹尾人文主義者でルネサンス全体の相続人であるバッハオーフェン

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

は、ルネサンスと人文主義にとって回顧の対象をなしたこの古代の境界をはるかに押しもどした。この回顧の没頭が古代に

ついての見解に革命をおこし、これまで唯一可能で変わることなく至る所で認められたものとみなされた家父長制家族の相

対性と時間性を証明することで、新しい革命的な酵素を社会的概念に導くのである。バッハオーフェンが文献的に役所の机

上で到達するこの発見は、同時に、なおあの先史時代の水準にある諸民族と直接に接触したために、モルガンによって完全

にされるのである。モルガンの﹃イロクォイ連盟﹄は一八五一年刊であり、マクレナンの﹃原始婚姻﹄は一八六五年刊であ

る。両著者は当時、バッハオーフェンが彼らを知らなかったのと同様に、バッハオーフェンの著作を知らなかった。 ﹃親族 諸名称体系﹄ ︵一八七一年目と﹃古代社会﹄ ︵一八七七年︶のなかで、モルガンはすでにバッハオーフェンの延著を利用し ︵補注︶ ている。 ﹃古代書簡﹄のなかではバッハオ;フェンもすでに、モルガン、マクレナン、ラボック、バスティアンによって収        ︵P︶

集されたデータを利用している。バッハオーフェンは彼の観点をゲルマンやスカンジナビア、その他の伝説に応用し、概し

て盛んに民族学にかかわっている。       ゲマインシヤフトリツヒカイト

 この基礎のうえにあらわれた新しいヒューマニズム的な傾向は原始的・家母長言共 同 体を理想化する。モルガン

とエンゲルスは、この共同体の﹁より高い形態﹂における復帰すら期待している。バッハオーフェンは、そのような考えを

いだくには余りにも市民的人文主義者であった。しかしながら、人間の感情と思想は分かちがたいという、また学者、特に

普遍化する思想家にあっては、帰結と発見の方向は感情と願望の方向によっているという偉大な真理は、バッハオ:フェン

にもみられる。特に感情面での価値にある相反する性質の影響による幾分かの作用がなかったならば、バッハオーフェン

は、彼が生活していた家父長制にすっぽりとっかっていたあの環境のせいで、彼が過去を観察したあのもうひとつの観点に

きっと到達しなかったであろう。私たちは、そういう二つの影響を指摘することができる。第一の影響は純粋に伝記的な性

(14)

質のものである。バッハオーフェンの母、ヴァレーリェ・メーリアンは大変すぐれた素晴しい人であった。バッハオーフェ

ンは彼女の思い出に主著﹃母権論﹄を献げた。ルザノブは、この本のギリシア語のモットー﹁私たちはあなたの愛と誠実を

誉めたたえて記念することを終生やめないであろう﹂は、この著作全体の主要理念の鍵としてのみならず、息子の心からの

愛の表現ともみなすことができる、と正しく述べている。それゆえ、よく組織され解体の脅威をまだ被っていない家父長

制家族のなかで例外をなしていない人びとのひとりであるこの老貴婦人に、ディオティーマのような人類最初の女教育者

で女指導者の思い出、ウォルムニアのような偉大な女市民の思い出を意図的な忘却から救い出すことを女たちは負ってい

る。

 第二の要因は、個人的なものというよりも、むしろ一般的な性質のものである。観念論的・弁証法的ドイツ哲学、すなわ

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

ちフィヒテ、シェリング、クラウゼの哲学は、全発展、つまり宇宙的発展と同様に社会的発展の出発点として、矛盾のない

ヘ  へ 状態を仮定した。その状態は非個人的な状態でもあり、個々人が集団のなか、一般性のなかに没入している状態であった。

個々人の登場と個々人による全体への対立の形成は、発展過程のはじまりであると同時に、人類の苦痛と苦悩のはじまりと

みなされた。この思想の社会的・感情的下部構造が一方で特定の個人、つまり所有者の利害の主張と結びついたルソーの

﹁自然状態﹂概念の、他方で黄金時代、あるいはすくなくとも︵キリスト教的な︶天国の概念の形而上学的加工にすぎない ことを思い浮かべるならば、この下部構造は理解されるであろう。当時、伝統的なものへの革命的批判においてと同じく、

生存i所有をめぐってのますます仮借のない資本主義的競争においてもあらわれている個人主義の抑制が問題であった。

    ゲマインシャフト

個々人と共同体との平和という矛盾なき状態は、ある新しい、より高い形態で再現すべきであろう。富豪家であるにもか

かわらずバッハオーフェンが生存をめぐる残忍な競争にある種の不満と、社会的利害の調和へのある種のあこがれという感

情をもつことができたのは、バッハオーフェンが直接に営業する資本家ではなく、彼の資本の社会的起源を考えることが多

分すでにすっかり消え失せた美学者であったことと、スイスが暴力的な階級闘争の舞台ではなかったことを思い浮かべるな

一8一

(15)

らば、いっそう確かに思えるであろう。彼が事実ドイツ観念論の上述の理念の影響下にあったことは、母権に支えられた社

会の叙述がこれを証明している。彼はその母権社会を﹁あらゆる発展のはじめに特有なものである﹂普遍性の類型的な性質

       ︵原注3︶ と集団の統一性に帰しており、そして父権制は区別し個別化する自らの影響力によって母権社会を解体するのである。

 バッ旧盆ーフェンの家母長制社会の記述には経済的共産制の特徴が優位を占あている。彼は、共産制と女人統治制が不可

分のものとみなしている。バッハオーフェンは家母長制共同体の状態を理想化し、それを﹁祝福に満ちたもの﹂とよんでい

る。バッハオーフェンが﹃古代書簡﹄のなかで、人びとがそれらを私的所有物に変えると成長を止める繁茂した果実をつけ

      ︵q︶

た灌木や流れをやめる不思議な泉についてアテーナイオスの話によって物語る美しいメールヘンは、この理想化を証明して

いる。けれども、この現象の説明のなかに、哲学的観念論の痕跡がいたる所に認あられる。﹁般にバッハオーフェンは宗教

のなかに社会生活の唯一の力強い要因、社会生活を変える原動力をみている。

 感情は愛に満ち闘争や敵対行為から自由な家父長的状態の理想化をバッハ器量フェンに命じるが、彼の市民的理性はこの

理想化に抗議している。次の言葉に葛藤がみられる。 ﹁ローマの政治的理念は自己のなかに、デルポイ的・アポローン的政       ︵r︶ 治理念よりも少ない精神性しかもっていないにしても﹂。しかし、 ロ:マの政治理念の偉大さは、それが男性的・喜入的精 神を最終的に解き放ち、とりわけ母性宇土ハ同体の束縛のなかに根強く残っているような人類のかのふるびた幼児期への復帰

を二度と不可能にしたことのなかにある。すべての独創的な人たちや進化の途上にある人類の指導者、バッハオーフェンが

古典古代、ゲルマン、インドの伝説から蘇らせる﹁太陽英雄たち﹂は、彼にとっては、リヒァルト・ヴァーグナーにとって

       ︵原注4︶

とほぼ同じく、女に敵意を持つ者であり、女らしさの敵である。そして彼らのわなが女たちを待ち受けている。デモクラシ

ーについて、バッハオーフェンは﹁無差別な大衆の支配﹂、すなわちこれが﹁バッコス主義﹂という社会的堕落やその他の

弊害と手をたずさえていく云々という肉体の本能の解放を、極めてきびしく排撃している。これは明らかにギリシア・ロー

マ世界についてであったが、新しい政治に関してもバッハオーフェンは彼の追従者のひとりに、ラディカルな進歩主義者に

(16)

反対して、はっきりと次のように打ち明けた。 ﹁デモクラシーは、事情によっていつでも専制政治を招くものだ。私の理想        ︵原注5︶

は、多数の市民によってではなく、最良の市民によって支配される共和制だ﹂。バッ百子ーフェンは一世以前の多くの歴

史哲学者と同様にーデモクラシーと専制政治が姉妹であるアリストテレース・マキァヴェッリを継承した国家形態になお

もしがみついている⋮⋮。彼がヘテリスムスをどのように評価しているかは、彼が﹁母権論﹄序言のなかで家族関係のその

ような開始を信じる人間への不快をはっきりと示していることからみてとれる。彼自身は﹁そのような品位なき幼年期の痛

     ︵s︶

ましい思い出﹂を免がれたいと願っていた。1しかし、歴史の証人はそれを彼に許さなかった⋮⋮。また、ヘテリスムス

がバッコス崇拝に再び現われた時、われらが哲学者はこの現象をどのように評しているか。 ﹁歴史は、諸民族の初期の状態

がその発展の終りに再び表面に押しよせるとの観察が正しいことをいろいろと証明している。生活の循環は終局を新たに端

      ぬ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

初へと連れもどす。以下の研究は、この悲しむべき真理を新たな証拠によって全く疑問の余地なく示すというありがたくな

・         ︵t︶

い課題をもっている﹂。べーベルは彼の有名な本﹃婦人論﹄のなかでバッハオーフェンの歴史的循環説を、女性は自らが原

始社会のなかで果した活発な役割を再び獲得するであろうとの自分の期待を裏付けるために引き寄せることによって、形式

      ヘ  ヘ  ヘ  へ

面では不完全に、内容面では不正確にバッハオーフェンを引用していると思う。反対に、バッハオーフェンがミシュレのよ

         ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ うな、それどころかジラルダンのような人間の穏当な解放の渇望にあたって、 ﹁イーシース原理﹂へのそのような復帰の危

険を人類に警告するなど、ほとんどこっけいな印象を与えるであろう/

 そもそもバッハオーフェンはそのような復帰の可能性を決して信じていない。ギリシアのばあいに、国の不運にあたって

実際にこの可能性があてはまったにもかかわらず、ローマ精神の介入が復帰を断固不可能にした。また、彼がピュータゴラ

ース主義における女性の立場に関連して述べた言葉はもっぱらギリシアにかかわっている。 ﹁かつての世界が墓場からよみ

がえる。生活はみずからの出発点に立ち返ろうとする。広大な時間の隔りは消えうせ、時代や思想のいかなる変転もおこら

      ︵u︶

なかったかのように、後代の人びとは太古の人びとと結びつく﹂。ただ一箇所でバッハオーフェンは歴史的循環の理念を純

一10一

(17)

      ヘ  ヘ  ヘ  へ

遍化している。しかも当の時代の終わりに端初の現象に復帰する事実から1全くヴィーコの精神によって一﹁人類発展

       ︵原注6︶ の歩みは、行動の全き自由にもかかわらず、完全に合法則的におこなわれる﹂との結論を引きだすために。

 それにもかかわらず、歴史的循環と未来のなかでの過去の復帰の思想の展開においてバッハオーフェンの果す役割も重要

である。彼はこの理念を、すでに承知のごとく、ルソーの﹁自然状態﹂思想の影響の所産であったドイツ観念論哲学から受

けとった。このルソーの思想もまた、ある概念的雰囲気全体の表現であった。一八世紀において人びとは自然状態をフラン

スでさまざまに、改革者の望みに応じて、理想化した。とりわけ、アミアンのアカデミー会員であるロランとかいう人は、        、 、 、 、 、 、 、︵;︶      ﹂ ︵原注7︶ 全くルソーの精神によって、﹁ガリア人における婦人たちの特権に関する研究﹂︵一七八七年︶という題の論文を書き、その

なかで﹁女性たちに、彼女たちのうちにある希望を喚び起こすために、彼女たちの偉大な先駆者に比肩するために、彼女た

ちのかつての偉大さを思い出させようとした﹂。サン・シモンや特にフーリエのような空想的社会改良子たち一彼らも原

      フエミニステイツシユ

始状態を讃美している一は、一八世紀の少数の極めてラディカルな改革者たちの女性尊重主義的傾向を保持し強めた。

 彼ら一またドイツ哲学一に由来して、過去の理想化された復帰理念は、いっそう高い形態でマルクス主義の創始者た

ちに現われた。ここにはバッハオーフェンとモルガンの影響がみられ、彼ら両者一特に前者1は、女性尊重主義的側面

に、女性の立場に、そして理想化された過去と歴史循環における家族状態に、注意を払った。私たちは、べーベルにおける

この影響の跡をすでに指摘した。ポール・ラファルグは、その﹃財産発展史﹄のなかで、全くバッハオーフェンの精神によ

      ︵v︶

って、 ﹁原始共同体のなかの女性がもつ女祭官・秘密の保護者︵思出ド巳oo奥義に通じた女︶の崇高な役割﹂について述べ

ているが、更に全くロランや空想的社会改良家の精神によって、未来の社会において女性によるこの役割の再獲得について

述べている。フリードリッヒ・エンゲルスは、いっそう冷静かつ肯定的である。彼は﹃家族の起源﹄のなかで、所有の分野

におけるそのような復帰を正しいものと考えているにもかかわらず、未来の家族の研究に関しては、家母長的、あるいはヘ

テリスムス的形態への復帰について全く触れていない。反対に、中世の騎士階級が両性関係のなかにお互いに対して理想的

(18)

で気高い愛という従来知らなかった要素を持ち込んだことを顧りみて、エンゲルスは単に、未来に対しても、そもそもそれ

を予見できる限りで、一夫一妻婚、ただ愛だけを基礎にしており、離婚が不可能という義務から自由な一夫一妻婚の完成を

予見している。

 更に、エンゲルスは、ラファルグやクーノやその他の人達と同様に、バッハオーフェンの見解に批判的な態度をとらねば

ならなかった。比較法学や民族学の批判は、観念論哲学の図式主義に強く影響されたこの見解を完全には固執できなかっ

た。﹁アマゾーン主義﹂は当の種族のなかで男たちから分れて生活している女性集団の形態でだけ認められること、家族生活

に限られた女人統治制ではなく、国家的女人統治制は非常に稀れであること、しかも完全な家母長制は主として牧畜状態を

経ずに狩猟状態からただちに農耕に移行したかの民族に特有であるらしいこと、がわかる。それにもかかわらず、バッハ開

門フェンの思い出は、決して一九世紀の思想史のなかに没しないであろう。彼は黒く新しい世界の天才的な発見者として、

i彼の全階級的立場に対立して、彼の研究にさいして、女祭官デー二千テールに導かれるように歴史の皮肉な弁証法に導

      へ

かれ、市民的ルネサンスの階層のもとで力強く革命を起こす新しいルネサンスの貴重な要素を掘りおこした人として一丁

へ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 産主義的精神のルネサンスの人として、一九世紀思想史のなかにとどまり続けるであろう。 一 12 一一

 凡例

 ω、本論文はOρ訟ヨ耀<●閤巴①甲寄9ロい、智匂。切碧ゲoho昌︵一毛一i一〇〇一︶● ﹀ロωユ。”qoε島①昌口げ臼象①Oロ①=o口O中気胆嚢μo。玉器.<oユ量αq層αqo7㌣ #①昌9昌畠。﹁ζ三く。諺律①Zoにく。=①ぎ切急ωωΦ♂ぎ二︶冨Z①=oN臥ρ誌. 憎ρ匿・ピド02\おOρOD・G障旨一㎝蓉.を訳したものである︵これはζ碧①.・ ﹃す=O昌N‘ じ﹂”OサO隔。昌切 U”qo竃三8護06耳●躍話σe’<oコ寓m雷甲︸β﹁9qo昌 魔。ぎ﹁剛07ω噛男δ5ζ霞P9ヨフ♂ぎ一〇お︵ω=﹃蒔餌量売け節ω07窪げロ。ケ≦∵ ωωo昌鴇ぎ国津おO︶噸ω・斜io。①に再録されている︶。 (1) ②、原注は︵原注1︶⋮⋮で、訳注は︵a︶⋮⋮によって示した。

原注

 著者はここである誤りにとらわれているようである。この誤りはもち ろん容易に推測でき、従ってそれを明らかにすることは余計ではない。 エンゲルスは確かにモルガンより先にバッハオーフエンを知ったとする に充分な理由がある。何故ならば、エンゲルスはすでに一八八○年に、 モルガンに言及せず、バッハオーフェンとその重要性に私の注意をむけ たからである。 ︹K・カウツキーの注︺

(19)

② {3) ㈲ (6) {5} ω  家母長制理論はホメーロスと調和させることができない、とグラッド ストンは述べた。マクレナンはこの点に関して﹁古代ギリシアの親族関 係﹂一八六六年という題の論文で応答した。 ︹このマクレナンの論文 (M i一 R。摩ゲ凶U一P>口O一〇口け∩甲﹁⑦①60︶な、↓ゲ。閏。旨三αq﹃二二国。≦①≦.<or ♪一〇〇①9>實=︵ロO.αOO一◎oQo︶四P岱竃潜唄︵ロb.Ooobっ一⑩一︶.に発表さ れ、ωε集。ωぎ﹀ロ90暮=韓。姥OoヨO誌ωぢ鵬切開。ロユ三〇h℃﹁一旨− 凶ユく。竃費﹃冨oqρい。昌畠。昌讐一〇。刈90ロ●b。ω中1ωOO●に収録された。W・E ・グラッドストンの著書はωε島。ωop缶。ヨ。﹃暫づ画工。ヨ〇二〇mαqP 。。 ュ。﹃O囲ho壇9H。。㎝Q。であるi訳者注。︺  この点にスペンサーの、つまり彼の﹁同質から異質への移行﹂の影響 をみることができないのは明らかである。  従ってわれらがバーゼルの貴族、このカロスカガトカ︹立派な人− 訳者注︺のよく調和のとれた姿もノルダウ氏によって﹁堕落した者﹂に 加えられるならば、さぞ面白いであろうに。  ルザノブ、一。  ﹁母権論﹄前づけ二四頁。q●い切ロ。げoh8ωOoω二野日①三才。時ρ bd喧m3”︼W器。一一〇㎝倉ω.画Q。・拙訳﹁母権論序説﹂ ﹃女性史研究﹂誌第三 集三四頁。1訳者注︺  この興味深い資料を﹃フランス史関係文書集成﹄パリ、 一八二六年一 一八三八年︵Oo濠。ユ8住。ωロ譲。①ω﹃色餌二く①ω巴.三ω8マ。畠。雷撃50ρ 勺鶏冨一〇。h。?山。。ω。。‘︶ の第=巻から掘りおこした功績もルザノブ氏に 帰せられるべきである。

訳注

㈲ 原文ではエリーアス・ルクリュ︵悶騨一一”oo 勾①O一口ω︶となっているが、国一δ  菊8ゴ。・の誤まりとみなし、訂正した。 ㈲ 正しくは一一月二五日。なお、 ﹃バッハオーフェン全集﹂︵冒三士p  蜜訂。び切四〇ず。常昌ωOoω9ヨヨ①謀。≦o蒔ρじd二巴μO畠1●︶の第三巻にあ  るカール・モイリーの﹁あと書き﹂では一一月二七日としている。︵内餌二  ζ①巳計Z四6げ≦O辱N二”09ω]≦確実O﹁﹁06ゴ仲−ゆコ”旨■匂.05m6げOhoロωOOψ一  国§一β①犀①≦⑦﹁尻O℃切阜ω讐ω●一〇刈P︶ ㈲ Uo幻。ヨm50﹁ニヨご象。嵩ω9≦嵩び¢ω輸住08αq[自門四〇二〇三σ賃ω﹁ユ①Oop−  巳〇二〇ロ。象ωの。罫切口〇三。。ωOユ8・鳥O領ヨ緯凶oo・09叶ぎOq器 o。お・この学位  論文は一八三九年七月一日付で大学に提出され、翌一八四〇年、三四六  頁の本として刊行された。 ㈹ ∪げOoω6げげげ再。傷。﹃幻αヨ。﹃<05閃﹁・Uo﹁曾Oo二陣6ゴロ昂傷旨・旨  切毬げOhoP・国謹書﹃切凶巳・切9ω9一。。田・一巻二分冊、六七六頁の本書の  うち四二二頁がバッハオーフェンの筆になる。﹁バッハオーフェン全集﹂  第一巻︵一九四三年︶所収。 ㈹ <O﹁ωロ07βび⑦﹁900﹁聾σ①﹁¢矯ヨげ◎嵩評αO﹁b岸①口”切戸ωO一一〇〇切O●﹁バッ  ハオーフェン全集﹄第四巻︵︸九五四年︶所収。 ω 一︶凶。ご口oo9﹁ぴ鵠Oゴ犀O犀ω写ゴ﹁⑦αo﹃O昌︾窪ω6ゲ。昌↓﹃〇三〇笹。騨ロh住。ロ  O話匹O盲目理03住Oω﹀犀O吋宕日ω曽bd9◎g陰巴里OS ﹁バッ四壁ーフェン全  集﹂第七巻︵一九五八年︶所収。 ⑧ 一︶”ω貯匹ω6ゴO<9詳ロ昌傷ωO凶ロ①切OαO鐸再ロ昌σq剛⇔﹁集O国謬け乱0搾一ロ昌σq  岱Oω﹀胃O腎げ信ヨq自葡閃﹃Oぴ露﹁αq一●bコ﹁。嵩Oトの●︵﹁バッハオ:フェン全集﹂第  五巻に収録の予定。︶ ㈹ U冨の躍O︿Oロ]﹂騨昌”ρ巳r国帥昌od昌9吋ω賃OげニロmqOげ①﹃島。ロOユO昌け”一  嵩ωヨロωぎ国Oヨ露5島一件﹄冨P属O置OぎO峠Oq冨刈O・ ︵﹃バッハオーフェン  全集﹂第六巻︵一九五一年︶所収。 〔田 @↓ゴoO仙O腎︼≦o匿3ωo昌ω開ユけ涛自。吋国﹁N餌匡ロロoqく。コOP︼≦”﹁O貯自。  Ooユ。冨ロ臣・ この論文は﹁タナクゥィル伝説﹂の附録二として発表され  た︵﹁バッハオ:フェン全集﹄第六巻、三八01四〇五頁に所収︶。また、  モムゼンの論文﹁グナエウス・マルキウス・コ.リオラーヌス物語﹂ ︵U冨

(20)

 国嵩似包ロ昌3q︿o口Oコ●ζ母。冒ωOoH帥。す口口ω︶は﹃ヘルメス﹄︵=o﹁ヨ。ω︶  誌第四巻︵一八七〇年︶ 一一二六頁、に発表され、後に補筆のうえ彼の   ﹃ローマ研究﹄第二巻︵一八七九年︶に収められた︵幻α日凶零ゴ。閃。で  ωOび賃旨αq①O噂剛Wα。ドし口①二一口HQo刈Pω●一一ω一一切bの︶。 ω  ︾ロユρ口僧ユooOげO切ユOh①・ くO﹁口①ゴHロ一回OげN¢鴇国O口切け昌一ロロ 自①﹃ 蝉一叶Ooゆ什Φ昌  く①﹁類獅昌偽けω079津ωげ00qユ角ρ0◎け﹁Oじ◎σロ吋σq剛ゆ窪・r COCoρ切畠・h⊃殉 00000.﹃バ   ッ廿里ーフェン全集﹄第八巻︵一九六六年目所収。 ㈹ 旨8切鋤。げoh①コωOoωo目旨。犀。≦o蒔P窪●b。噛ω・b。一.拙訳﹁母権  論・序説﹂ ﹃女性史研究﹄誌第三集=一頁。 ︶ (P) (o) (n) @ (1   ノッハオーフェンカ ラボック、 バスティアン ある。  ピ①零一ω︼肖.竃O﹁ぴq聾コ噂ω団ロロ叶OヨロoOhOO昌ω餌5αq月頃ゆ津嘱望油島鎚臨昌律団Ohけゲ① げ口目ロロh即日一一︽讐≦ロωげ一”鳴O昌℃一QQ﹃一・  UO﹁qnこ﹀口O一①口什mδ6一①叶団,いO昌店O博鰯一〇〇﹃刈●  ㎏O﹃口閏O﹁αqロooOロζOぴO口昌9ρ5”ω什虞ユ圃①ω一昌 暫昌O凶O昌梓 げ尻けO﹁楼=●噂 HO昌1 αO昌鱒Hoo﹃O・  匂Oゴコピ仁げσOO評﹁ 口﹂ケO Oユαq一旨 Oh O一く一鼠ω餌ユO昌 餌ロ匹 けゴO O﹁一昌島ユ<⑦ OO昌Ω一二〇”Ohヨ四目輸bΩ位●0α二 いO口血O口り一co刈O●  ︾伽O一h︼WOω底口5サUO周︼WロロHロ 一目 く①﹁αq一①一〇げ①昌山①﹃ 国けず昌O一〇笹ρ 一ロ” N①一叶ωO冒ユ沖協自吋くα一評O﹁℃oo騰OずO一〇αq凶O口昌山ωb﹃鋤07≦一ωω①昌紛Oげ固hr一〇q・伊 一〇Q①o◎。  国臣毛9﹁亀一W鋸﹁昌O暮↓賓一〇陛噛男①ωO”機O﹃Oω 一P樽O けげO O9二団 ﹃一ω仲O﹃矯 Oh 国竃こω・Nbδ● 国び匹ξω●ωω● 国竃こ ω●㎝㎝・ 国区豊 ω●悼α・ く

’同同同同

弐上上上上

=二頁。 二二頁。 三九頁Q 一五頁。 ﹃古代書簡﹄で利用したモルガン、マクレナン、 、およびタイラーの著作は、次のようなもので  露国昌ド一口儀潜5鳥什ゴ①住O<〇一〇弓ヨO昌什 Oh O一く一嵩Ngo二〇コ︾ N● ①血こ いO団円O旨鴇  一〇。刈O・    バッ目窪ーフェンと彼らとの関係については、さしあたり﹃バッハオ  ーフェン全集﹄八巻巻末のデールマンによる﹁あと書き﹂を参照。Q?  ゴ四戯口O匂。︼︶α盤β四コ口嫡Z餌Oゴ毛O﹁けN口“諺昌ユρ口”﹁一〇〇6﹃O︼W咬凶Oh①︾一昌”畑。陶.  ︼W動⇔﹃OhOロωΩ①ロ。胆ヨヨ①犀①≦O﹁閃①噛窪・Q◎噛ω。Oωoo−qOO。︶。 ④ 旨・臼・⇔6碧ずoho房Oo。ゆ門生50岸。≦o蒔ρ臣・Q。噂ω.さ。一・ ﹃古代書簡﹂  第一巻︵一八八○年︶=二頁。 ω 国竃ご臣●ρω.2.拙訳﹁母権論・序説﹂﹃女性史研究﹄誌第三集四  四頁。 補(v)(u)(t)(s) 国区3ω。ω①・ 国げα己ω・凸◎◎・ 国ぴユこ。励●ω騎・ 国区こω●毬・ 注 モルガンは

同同同同

上上上上

二四頁。 三三頁。 二一頁。 一八頁。         ﹃古代社会﹄のなかでバッハオーフェンを引用しているが ﹃親族諸名称体系﹂では利用していない。

一14一

(21)

婚姻と家族の成立

1

C・カウツキー

訳・丹後 杏一

ヘテリスムス  婚姻と家族の成立は、人類学や比較民族学が近年では特に好んで 取扱うテーマの一つである。イギリスのマクレナン、ラボック、タ イラーやハーバート。スペンサー、アメリカのモルガン、フランス のジロー・テユーロン、そして、とりわけドイツのバッハオーフェ ンが、この分野で卓越した業蹟を成し遂げてきた。ヘテリスムス、 略奪婚、それに族外婚などのようなある種の現象は、 ﹁母権﹂が家 族に関連するのと同様、婚姻の発展過程における︸定の段階とし て、見なされねばならぬということについて、われわれはすでにほ ぼ十分な理解を有するまでにいたっている。しかし、これらの諸現 象の成立ならびにその継続に関しては、個々の研究者の間でなお、 極めて大きな差異がある。  そのようなわけで、以前にもましてますます、研究者それぞれに 独自の道を歩むことが許されねばならない。たとえ最後には部分的 に他の人びとと同一の終着点に到達するにせよ、われわれは他の出 発点から発するのであるから、ますますそのような方法をとること を強いられているのである。あまり気がすすまず、ためらいがちで はあるが、われわれは、一方では、在来の方法では解明されぬ重大 な一連の諸事実のため、また他方では、まだほとんど意見の一致が みられぬところの婚姻と家族の種々の段階の発展を、始源的なもの とみなされる形態の自然的な諸結果として明らかになるという事情 のため、この仕事をすすめることにする。  それゆえ、われわれにとって、もっとも重要な問題は、つぎのよ うなことに存する。原始人の間における家族と婚姻の形態は一体ど のようにしてもたらされたものであろうか。もし、この問題が解決 されたならば、われわれは、つぎにこの研究をより一層すすめよう とする過程において、もはやそれ程の大きな困難に出合うことはな くなるであろう。  家族の始源的な形態については、今日なおたいていは、父が家族 の長であり、出自が父に由来するものとされる﹁家父長的﹂なそれ だとみなされている。家父長的形態が、要するに、人間の結合の最 初の形態であるべきであり、他の諸形態は後代になってはじめてそ れから派生展開したものだとする考え方である。メーンは、その著 作﹃古代法﹄の二〇〇頁でつぎのようにのべているが、それは単に 一般に流布されている見解を代弁したにすぎない。 ﹁最初の集団は 最年長の男の成員に対する共通の服従によって結合された家族であ         ゲンス       ハウス る。家族の結合体は氏族もしくは世帯を形成した。世帯の結合体は

(22)

シユタム 部族を形成した。部族の結合体は国家を形成した。﹂  今旧、このような見解は何によって支えられるであろうか。  そこで、われわれは、まず第一に、一体どのような素材が意のま まになるかどうか、調べてみることにしよう。  その素材としては、つぎのように種々様々なものがありえた。 e 原始人の同時代人により直接もしくは間接に伝えられている報 告類。⇔ われわれにそのままの状態に保存された記念碑類。⇔ 後代の萎縮した観念や制度。⑲ われわれに知られている原始人に 近いとしてよい存在の状態との類推。  第一の種類の素材を考える必要がないことはモーセの五書の成立 年代が比較的若いということ、すなわち、その最古の部分ですらキ リスト紀元から一〇世紀もさかのぼりえないということが証明され て以後、明白である。  先史人がわれわれに遺産として残したものは、何も記念碑類のみ にとどまるわけではない。なるほど、先史人の武器や衣類や道具や 墳墓や、それに三度の食事の跡でさえ見い出されたが、それらは単 にかれらの生活の表面を解明するに役立つにすぎず、政治的、社会 的生活また婚姻生活について解き明かすことはできない。われわれ は、これらすべての先史時代の出土品から、石器時代人が共和制的に 組織されていたか、それとも君主制的であったか、種々のカストに       “リジ昌1︵1︶ 分かたれていたか否か、また、かれらが一夫一妻婚、一夫多妻婚、 多夫一妻婚のいずれを誓っていたか、などについて推測することは できないのである。  したがって、われわれにのこされているのは、萎縮した制度や慣 習などから類推し、解釈するという手段のみである。なるほど、確 固とした論議の余地なき結論に到達するのを非常に困難にする、ま ことに貧弱な手段ではある。せめてわれわれの意のままに利用でき る素材が充分に整理された、全く安全なものであったならば/ し かし、おそらく、そういうことは決していないであろう。  その状態がわれわれに原始人のそれを類推させうるところの存在 とは、一体どのようなものであろうか。成程、たしかに、一方には        ︵2︶ 人間にもっとも近い動物たる猿が、他方にはいわゆる野蛮人、すな わち、僻遠の地方である島や山岳地帯あるいはまたオーストラリ ア、アメリカ、アフリカ、すくなくともその西部や南部のように国 際的な交流から隔絶した大陸に居住し、生存のための、さまざまな 条件との闘争にさらされることがまれな、それゆえに、多かれ少な かれ、弱なお原始的な生活をとどめている、かの諸民族すべてがそ れである。  残念なことに、われわれは、猿や野蛮人の社会生活に関して非常 に不十分にしか教えられていない。猿の観察は、ほとんどの動物た ちがその生活様式や習慣や性格を変える監禁状態のなかで行なわれ た。  野蛮人の観察のばあいもたいしてよくない。これはたいてい、す べての非キリスト教徒のなかに悪魔のなせる所業しかみなかった 一したがって客観的な研究や報告の役に立たないものであった i宜教師たちか商人たちによってなされた。商人たちにとって野 蛮人たちは利益の対象以外のなにものでもないのである。教養があ り、組織的な研究をすすめようとする旅行者の数は何と少ないこと であろうか。しかも、このような旅行者の多数でさえも一切を文明 化されたヨーロッパ人のめがねをとおしてながめており、したがっ

一16一

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て宜教師たちよりはるかに客観的な意見をのべているわけではな い。しかし、自分とは異質な性向に身をおいて考える能力を有する 人にとっても、永年野蛮人のもとで生活し、かれらの不信感を克服 するすべを理解しないならば、かれらの婚姻・家族関係を正しく把 握することは極めて困難であろう。  しかも、それに加えて、以上のような方法で獲得された乏しい素 材は、末だにその中のきわめてわずかのものが整理されているにす ぎない。人々は、高度な文化に属さない諸民族のすべてを、一しょ くたにして野蛮人とみなしがちである。これら諸民族のうちもっと も粗野な民族でさえも、その背後に一千年の発展を有するというこ と、また、それら諸民族のほとんどすべてが異なった発展段階にあ るということ、したがって、すべての野蛮人が原始的状態にあると の類推のために早急に引き出されえないということを人びとは忘れ がちである。  それに加えて、さらに大きな難点がある。自然民族のうちもっと も粗野にして僻遠の地に住む自然民族ですらすべて、その発展経過 の中で他の諸民族と争いあってきたし、また、その内面からの自然 的な発展とは決して一致しないところの他の民族の風習や考え方を 受け容れてきたのである。一本の樹木の形がその種子の中にねむっ ている力によってのみでなく、土壌の化学成分、場所、風向き、気 候の状態などによっても規定されるのと同様に、ある民族の社会的 な発展も、単に内部的のみではなく、外部的な影響によっても規定 されるのである。両者を切り離すこと、つまり、本質的、典型的な ものを偶然的、外部的なものから分離することはかならずしも容易 ではない。  以上のようなことのすべては、素材の処理を困難ならしめ、確実 な結論を妨げ、しばしば無謀な仮定をたのみとさせるのである。  幸いなことに、矯正として、いや、しばしば唯一の導き星とし て、萎縮した制度や慣習がわれわれを助けてくれる。私は、習慣の 力で今日にいたるもなお持続しているそのような制度や風習を、た とえそれをよびおこした原因がはるか以前に消失してしまっている にせよ、萎縮した機関の類推とよぶ。好んで宗教的な衣をまとうこ の萎縮した制度については、その説明として他の理由がないので、 多くはつぎのゲーテの言葉が妥当する。 ﹁理性はナンセンスとな り、善行は苦しみとなる。汝が亜流であるということは災いなるか な。﹂社会政策家は、医者が人体の未熟な器官の存在をあわれむの と同様に、しばしば萎縮した制度の存在をあわれむであろう。これ に反して、その制度は、人類学者や文化史家にとってははかりがた い価値をもつものである。  このことが、それによってわれわれが先史時代の婚姻と家族の問 題に関する結論を基礎づけるところの素材である。たった合のべた ような素材の性質のばあい、疑いを許さぬ確実性に、少なくとも積 極的な方向で、到達することは、勿論さしあたって不可能である。 われわれは、大きな、あるいはわずかな蓋然性で満足しなければな らない。  さて、われわれがまず、野蛮人の社会組織を詳細に考察するなら ば、われわれは、われわれの意味での家族生活がかれらの間には全 く存在しないということ、かれらのほとんどすべての企図と努力が       ホルド 部族あるいは望むならば群によって要求されたということを見出 す。われわれが、その原始的な制度を今なお保持している諸民族の

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      ︵3︶ 間に見出すものは、家族ではなくて部族なのである。  すでに早く、ヒポクラテスは、 ﹃風と悪露﹄と題するその著述の 中で、スキュティア族は民族としてのタイプを有するのみで個々人 としてのタイプを有しないとのべており、近代の観察者達は自然諸 民族について同様のことを明言している。たとえば、フンボルト は、その著書﹃新スペイン﹄第一巻の一一六頁において、未開諸民 族の間では、個々人の相貌よりも部族や群の相貌の方がより一層認 められると書き記しているのである。  今日、家族内で行なわれている共産主義は、われわれの祖先の時 代にあっては、部族内で行なわれていた。たとえば、フェゴ島族の 間では、﹁ある人に与えられた一反の布でさえ細長く切って分け、       ︵4︶ 個人が他の個人よりもゆたかになるということは決してなかった﹂。 野蛮人達は共同で狩猟を行ない、おくれた社会的、政治的状態を保 持したままで農耕段階にまですすんだところでは、かれらはその土 地を共同で耕作したりもする。とりわけ、南アメリカのトウピイ 族、グワラニィ族およびオトマーク族がそうである。これらのイン ディアンたちは、飢鐘の時ですらその生活手段を部族の仲間達と気 前よく分け合う。アフリカのカフィール族のごときは、屠殺された ︸頭の家畜を部族の仲間に対してふるまわない者をどろぼうとさえ よぶのである。  ガラクトハーグ族について、ストラボーンは、かれらの間では刀 剣と酒盃以外はすべて共有であるとのべている。  原始の状態にあってもまた、部族員の行為について責任を負わね ばならず、他方、成員の侮辱に対して報復を行なわねばならないの は、家族ではなくて部族である。部族のすべての成員は、この点で 他の人々と同格である。すでに私有財産制の萌しが展開したアフリ カの西海岸地方では、今なお、その債務者から返済されなかった債 権者は、債務者が他の部族である限りは、単に親族に対してだけで はなくて、総じて行きわたりばったりの部族員にしがみついて、か れに支払いを強制することができるのである。このようなやり方 は、シエラ。レオネ海岸のマンディンゴ族のあいだや、黄金海岸の カブ・パフウ、それにコンゴやヴイダにおいてごくふつうに行なわ れている。  家族ではなくて部族が、本来は成員の殺害や傷害に対しこの人身 賠償金を受け取った。その名残りは、古代ゲルマン族の間にもあっ た。﹁人身賠償金︵ヨ巳30︶の一部は王または部族︵o貯詳緯凶︶に、 一部は被害者またはその親族に支払われた。﹂タキトゥス﹃ゲルマ ーニア﹄一二。しかし、部族は、そのすべての成員のたあに血の復 讐の義務を有した。このような風習は、今世紀にいたるまでモンテ ネグロ族の間ではごくあたりまえのことであった。そして、オース トラリア族、オセート族、チュフズール族、サモエード族やその他 の諸民族の間では、今日もなお行なわれているのである。  自然民族の神々が、罪の報いを、罪を犯した個人にではなく、ま た、より後の文化段階においてふつうにみられるようにその家族に 対してでもなく、部族に対して負わせたということも注目に値する ことである。このことを、バジヨットは、つぎのように非常にうま く説明している。 ﹁より後の時代や文明諸国においては、各人は自 らの行為についてのみ責任をもっており、だれも他人の過失が彼に 罪過を負わせることができると考えたりはしない。罪過とは、われ われにとっては、個人的な汚点、意志行為の結果であり、また、自

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参照

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