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69一一『奈良法学会雑誌』第7巻3・4号(1995年3月〉 t土 めじ
ファシズムという言葉ほど乱用ないし誤用される概念はほかに見あたらないであろう。またその 定義もきわめて困難であり、欧米の学界においては、この概念に関する明確な見解の一致はいまだに生みだされては 一 般 的 に い っ て 、 いない。両大戦間期のヨーロッパ諸国に出現したファシズム運動と体制を考察し、そこからファシズムに関する一般 的概念を樹立しようとする比較ファシズム研究が、 ようやく軌道にのりかけたのは、 一 九 六0
年代半ばであるが、そ ファシズム概念について﹁科学的に厳密な︹定義︺にまでは、今のと ころ到達していない。だがそれが果して入手できるのかどうかも疑わしい﹂と、早くも悲観的な見通しを語っていた。 の時イギリスの歴史家シ 1 ト ン H ワ ト ソ ン は 、 一 九 七0
年代には、このようなシ 1 トン日ワトソンの弱気とも受けとれる発言を裏づけるかのような指摘が行われ て く る 。 即 ち 、 イタリア・ファシズムの研究者グレゴ l ア は 、 一九七四年に﹁ここ一0
年 間 の 聞 に 、 ファシズム解釈第7巻3・4号一一70 への関心があらたに生れてきている。歴史学者、政治学者、社会学者、ジャーナリストたちは、漠然と﹃ファシズ ム﹄とみなされている現象の複合体に何らかの﹃理解﹄を与える試みを行ってきた。:・:・しかしこの企てに捧げられ た時間や批判的英知にもかかわらず、 ﹃ファシズムの理解﹄に関しては、 ほとんど得るところがないのが実情であ ﹃ファシスト﹄という言葉の意味につき、何らの意見 る﹂と記し、さらに﹁社会科学者もしくは歴史学者の聞には、 の一致も見いだされていない︺と、ファシズム研究の現状を語っていた。またその二年後の七六年に、 フランス・フ アシズム研究の歴史 H 政治学者シュテルンヘルは、次のように指摘している
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﹁ファシズムに正確な照準をあてる ことは依然として容易な事柄ではない。すべての人びとに受け入れられるか、もしくは普遍妥当性をもっと承認され るファシズムの定義は、今のところ見あたらない﹂と。 一 九 八0
年代においても、この種の混迷状態に変化は見られない。即ち、 スペイン・ファシズムの研究者ベインは、 ﹁︹ファシズムに関する︺論争は、半世紀以上にもわたって行われてきている。しかしながら︹ファシスムを︺説明する ︿ 4 ﹀ 概念についての全般的な意見の一致は、今なお生みだされてはいない﹂と研究の現状を要約しており、また先述のシ ュテルンヘルも、﹁ファシズムという言葉ほど多用されてきた政治的語実はなく、またそれにもかかわらず、これほ ︿ 5 ﹀ ど変り易く、かつ誤った定義がなされている現代の政治的概念もない﹂と記して、ファシズム概念樹立の困難性を再 度、指摘した。さらに九0
年代初頭のファシズムに関するある著作の冒頭には、次のような記述が見いだされるi│
﹁大量の研究時間と知的エネルギーが研究に投入されてきたにもかかわらず、:::ファシズムは二O
世紀の研究者た ちにとって最大の謎に止まっている﹂と。 今われわれがファシズム研究の混迷状態を物語る以上のような発言に直面しながらも、この概念樹立に向けての歩 みを続けねばならない時、まず想起してよいのは、このファシズム概念それ自体が比較概念という長所をもっているということである。何故なら、 ファシズムとは自由主義、保守主義、権威主義などの他の概念との比較を通じて、 tま じめて成りたつ概念なのであって、 ﹁ファシズムにおいて独自なものとは何か﹂という問いかけも、これらの概念と の相違を明確にする手続きを経ることの中で回答へと到達できると思われるからである。だがそのさい何よりも留意 しなければならないのは、これまでの歴史研究においてファシズムがしばしば権威主義と混同されるか、場合によっ ては保守主義とさえ等置されてきたことである。このような研究動向が、ファシズム概念の樹立に大きな混乱をもた らした主要な理由の一つであったのではないか。 71一一一九三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 このファシズムと権威主義との同一視ないし混同に、異議を唱えたのがアメリカの歴史家ベインである。彼は﹁フ 一切の権威主義的ナショナリスト集団と同義ではない﹂とのベ、かつ権威主義は﹁基本的にみてフ ァシズムとは異なっている﹂と指摘して、両者の峻別を提案した。また彼はファシズムと権威主義とがややもすると ア シ ズ ム 運 動 は 、 混 同 さ れ た 理 由 を 、 ﹁ファシズムの全盛期が第二次世界大戦前夜のヨーロッパの多数の国々において、あれやこれや の形態で政治制度を支配した政治的権威主義の全般的時期と重なり合ってい民ことの中に見いだしている。なるほ どベインは、この政治的権威主義興隆の過程がファシズムと独立に進展したとは考えにくいと指摘している。だが彼 ハ 9 ﹀ ﹁この過程はファシズムと同意語ではない﹂というのである。しかも彼は権威主義的右翼を﹁保守 の 主 張 に よ れ ば 、 的権威主義的右翼﹂と﹁急進的右翼﹂の二つの類型に区分し、 する有益な類型を設定してみせた。 さらにこの両者とファシズムとの三者聞の相違を明示 このベインの類型を継承したのが、同じくアメリカの歴史家カ I シャであった。彼もファシズム概念が乱用される 理由の一つとして、研究者たちがファシズムとは異なる﹁権威主義的右翼の顕現を取り扱う概念的道具を持ち合わせ ていなかった﹂ことをあげ、両者の区別の必要性をやはり力説した。さらにブリンクホ I ンも、ファシズムと権威主
第7巻 3・4号一一72 義的右翼との比較の有効性を主張する。彼は両者間の相違をふまえて、前者にたいする後者の﹁主観的ならびに客観 的関係﹂を検討することを﹁有益な作業方法﹂として推奨したのである。 本稿はベイン、ヵ l シャ、ブリンクホ l ンの視座を継承し、考察の舞台を両大戦間期のハンガリーにおき、 フ ァ シ ズムと権威主義という二つの概念の区別を明確にする手続きを通じて、 一般的ファシズム概念の樹立に迫る努力を継 続してみたいと思う。 ハンガリーを舞台に選んだ理由は、この国では次のような政治的光景の展開が見られたからで あ る 。 即 ち 、 ハンガリーにおいては一九一九年八月にクンを指導者とするゾヴェト政権が倒壊したのち、二一年四月には ベトレン伯を首班とする内閣が成立し、以後この国は一一一一年八月まで高級貴族 u 大土地所有者、大銀行日工業界、軍 ( 保 守 n 権威主義体制)のもと 部上層、高級官僚聞の権力カルテルに依拠する﹁非競合的、 一党優位的多元主義体制﹂ での再建と安定の時期を迎えた。しかしハンガリーが世界経済恐慌の波に見舞われる一九三
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年以降には、セゲド理 かつ多党制の排除と政治参加の独占をめざす急進 H 権威主 念と中間的階級会常ε
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年以降、この国にはファシズム運動、とりわけサlラシの率いる矢十字党の大きな躍進が見られるよう になり、保守日権威主義勢力、急進 H 権 威 主 義 勢 力 、 ファシズム運動、この一二者間の対立、抗争がハンガリーの政治 を大きく規定してゆくようになる。 従って、この三者間の角逐の考察から、 ファシズム概念樹立のための有益なテーゼを抽出することが当面の課題と なるのであるが、本稿では視野をいささか限定し、急進 H 権威主義勢力を主たる考察の対象に取り上げてみたい。即 ち、いま少し具体的に指摘しておくならば、本稿ではゲンベシュとイムレ I ディ指導下の急進 H 権威主義勢力とベトAλQ 善寺ムl-Ql:!l三割 7= 銀世判榔請
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一川 Jh1 ーーロ第7巻3・4号一一一74 との区別にかかわる類型学は、一九七五年にリンスにより提唱されていた
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彼 は政治体制の特質を考察するにあたって、従来、行われてきたような民主主義体制と全体主義体制という二分法的視座にた つことをしりぞけ、あらたに権威主義的政治体制という概念を独自に設定し、これと前二者の概念との比較の類型学を築き あげた。従って、リンスの著述はファシズムと権威主義との相違と比較のモデルを含むものであるが、本稿は彼の観点を殆 んど活用しないままに終っている。彼の理論の批判的検討と摂取については他日を期したい。なおリンスの権威主義的体制 論については、高橋進﹁権威主義体制の研究l
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・リンスの研究を中心として 114 ﹂ ﹃ 思 想 ﹄ 一 九 七 七 年 ・ 七 月 号 、 山 口 定 ﹁権威主義体制の諸類型とファシズム体制﹂﹃書斎の窓﹄一九人O
年・一二月号、ならびにリンス﹁権威主義的政治体制││ ス ペ イ ン l l i ﹂ ハ 別 立 宵 ﹀ ロR
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-呂志]﹃現代政党論﹄宮沢健訳︹而立書房・一九七三年︺所収)を参照 さ れ た い 。 (日)拙稿﹁ハンガリーにおけるファシズム運動││比較ファシズムの視野から││﹂ 一 九 九 三 年 、 二 五i
二 六 ペ ー ジ 。 ﹃ 奈 良 女 子 大 学 文 学 部 研 究 年 報 ﹄ 一 二 六 号 、第一章
セ ゲ ド 理 念 と 中 間 的 階 級 両大戦間期ハンガリーにおける急進日権威主義の起源と形成は、 クンのソヴェト政権の時期に湖及できる。即ち、 一部の高級貴族・高級士官・財界人はウィーンに亡命し、同年四月 ベトレンの指導下に﹁反ポリシェヴィキ委員会﹂を結成して旧体制の復活を画策したが、他方で五月には、その当時 一九一九年三月二一日にこの政権が成立すると、 フランス軍の占領下にあったセゲド(ハンガリー南部)にはソヴェト政権に対抗する政府が樹立された。このセゲドは グン政権の抑圧を逃れた避難者の集合の場所となり、 またこの地こそがのちの急進日権威主義勢力の理念的発祥の地 ともなるのである。 ハンガリーの歴史家セレシ U ヤンツェは、 ﹁セゲドという地名が、右翼急進主義的な中間的階級の政治イデオロギーに名称を与えた﹂と指摘している。 ウィーンの委員会が第一次世界大戦前におけるハンガリーの権力エリートから構 成されたのとは対照的に、窮乏化した小貴族、地位喪失の危機に見舞われた士官、当時の継承諸国に取得された旧領 土から避難した前官吏などの非権力エリートにより構成されていた。セゲド政府の国防相には海軍提督ホルティが就 任し、彼の指揮下に国民軍が編成される。だがそれの実際の組織化と指導にあたったのは、参謀本部付き将校のゲン ベシュであり、このホルティ、実質的にはゲンベシュ指揮下の国民軍が、ソヴェト政権倒壊後の首都ブダベシュトに このセゲドで組織された運動は、 75一一一六三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 入 城 す る の で あ る ハ 一 九 一 九 年 一 一 月 一 六 日 ) 0 ゲンベシュは主として士官たちから構成された﹁ハンガリー国防連盟﹂ ( M O V E 一 九 一 八 年 秋 、 な お こ れ よ り 先 、 結成) ( 一 九 年 一 月 一 九 日 ﹀ 。 と い う 愛 国 的 結 社 の 会 長 に 就 任 し て い た こ の 連 盟 は 、 ゲ ン ベ シ ュ の プ ダ ペ シ ュ ト 帰 還 後 と彼の退役後には参加者の構成を多様化しつつ、青年運動、各種のスポーツ組織、射撃クラブなどを影響下に置き、 またこの国の民主化に抵抗する﹁ハンガリー社会結社連盟﹂ ( T E S るという傘組織にも加入して、セゲド理念の保 塁としての活動を継続してゆく。 ハンガリーは一九一二年四月以降、ベトレン内閣のもとで再建と地固めの時期を迎えるが、ベトレンの解決すべき 問 題 の 一 つ に 、 セゲド運動の担い手たちの体制内統合という課題があった。何故なら、このセゲド的急進右翼はハプ スプルク王朝の復位やポリシェヴイズムの浸透に抵抗するばかりではなく、高級貴族 H 大土地所有、大銀行 H 工 業 界 、 軍部上層、高級官僚聞の権力カルテルに立脚し、かつベトレンを指導者とする保守日権威主義体制にたいしても、鋭 い反対の鉾先を向けていたからである。イギリスの歴史家マカ I トニlはベトレン体制とセゲド派との対立に注目
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、 ﹃ウィーン﹄と﹃セゲド﹄との間にあっ前︺と主張しているが、これは的 ﹁ハンガリーに進行した真の権力争いは、第7巻 3・4号一一一76 を射た指摘といえるであろう。 それでは急進右翼の掲げるセゲド理念とは、どのような内容のものであったのか。まずこの理念は、 的 l 国民的﹂と﹁農業的﹂という三つの立場から構成されていることがあげられねばならない。前者のそれは、 ﹁ キ リ ス ト 教 ウ イ ーン・グループと同一であったが、急進右翼に特徴的であったのは、この立場から由来する強烈な反ユダヤ主義の主 張である。彼らの場合、反ユダヤ主義は社会民主主義やポリシェヴイズムの影響力の排除ばかりではなく、 ハ ン ガ リ -経済に特徴的なユダヤ系大資本による支配の打破にも向けられていた。急進右翼の認識によれば、 ユダヤ系大資本 は高級貴族日大土地所有者と提携して、中位の大土地所有やマジャ I ル人種から構成される農民層を破滅へと追いや っているという。このような判断から、彼らはユダヤ系大資本の没収を叫ぶとともに、農地改革による高級貴族 H 大 土地所有の解体と小農民・零細農の生活改善をも要求する。 しかもセゲド理念の強調するところによれば、 ハンガリーの真正の国民維持的基盤は中間的階級に求められねばな らないのであって、中間的階級は高級貴族日大土地所有の政治的・社会的優越を打破して、自ら権力を獲得しなけれ ばならないという。それだけに止まらず、この理念は議会主義体制を排除し、独裁的方法による権威主義的統治体制 トリアノン条約の修正、聖イシュトヴァ I ンの王冠に包 摂された歴史的ハンガリーの復興がはじめて可能になると力説したのである。 を樹立してこそ、社会変革の達成、 ハ ン ガ リ ー 国 民 の 結 束 、 それでは次に、急進 u 権威主義勢力が立脚する中間的階級とは、何であろうか。この階級の社会的構成と範囲につ いては、研究面で必ずしも意見の一致を見ていないようであるが、確実なのは、この概念がハンガリー独自のそれで 西 ヨ l ロヅパの中産階級
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と同義ではないことである。今、 て、中間的階級という概念を整理してみるならば、まず中規模の大土地所有者(二0
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ホ ル ド ) あ り 、 ハンガリー史家の研究にもとづい である中級( 9 V 貴族、即ちジエントリー
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がこのカテゴリーの中に含まれる。このジエントリーという言葉は、 一 九 世 紀 の 八0
年代ごろから白らの階層を指す自称として使用されはじめたものであるが、中規模の大土地所有 n 経営者として 一九世紀半ばの農民解放後における新しい労働力調達の過程や一八七0
年代以降の農業不況により、多額 の負債をかかえるに至り、自らの農場を売却せざるをえない事態に追い込まれていた。だが経済的に衰退過程に入つ の 彼 ら は 、 たジエントリーは、他方では農場経営から手をひき、官界、政界へと進出する。今、世紀転換期を例にとってみるな 77一一一九三C年代ハγガリーにおける急進=権威主義政権 らば、中央官庁の三分のつ県知事の四分の三、司法官、将校の圧倒的部分、さらに議員の二分の一は、ジエントリ ー出身者で占められていた。イギリスの歴史家テイラーは、この過程を﹁ジエントリーは、経済的に破滅した瞬間に 政治的には成功した﹂とたくみに表現している。 以上の傾向は第一次世界大戦後も継続するが、セレシ H ヤンツェは中間的階級の概念の中に官僚(さらに士宮・教 師)をも含め、次のような指摘を行っている│
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年代においても、官僚が中間的階級の中核を構成してお ないしは三世代前にはジエントリーであった官僚家族が優越していた L と。しか り、官僚においてはジエントリー、 もハンガリーにおいては、官僚は公共の奉仕者ではなく、主人公として民衆に君臨していた。同じくセレシ日ヤンツ ェの記述によれば、中間的階級は﹁その身分意識ならびに社会的地位や役割についてのイデオロギー的過大評価とに ︹ お ) よって、他の社会集団から自らを区別していた﹂というのである。さらに彼女は、市民層もしくは小市民層出身の官 僚がジエントリーの生活様式や価値規範を受容したことに着目して、彼らを﹁疑似ジエントリー﹂と呼び、これも中 間的階級の中に含めている。以上にのべたことを纏めてみるならば、 エントリー出自の官僚、 ハンガリーの中間的階級とはジエントリー、 士官、市民層・小市民層出自の疑似ジエントリーと要約できるであろう o ジ第7巻3・4号一一78 それではここでベトレンによるセゲド的急進右翼への対処の問題に立ち戻ろう。この急進右翼勢力は、議会主義の ユダヤ系大資本の没収、大土地所有の解体、中間的階級による権力の獲得を叫び、ベトレンの 廃止、独裁制の樹立、 支持層である高級貴族 H 大土地所有や大銀行 n 工業界を脅やかしていた。そこでベトレンは急進右翼にたいし、彼ら の無害化を通じて自らの体制への統合、馴致を試みる。 即ち、彼はソヴェト政権打倒に尽力した準軍事組織の指導者たちには議員の地位を提供するか、それとも中央官庁 での高位の地伎を与えたのちに正規軍の中に編入した。また正規軍それ自体にたいしても、給与・年金面での改善、 トリアノン条約の条項に違反するやり方での軍事予算の支出、士官・兵士の一般官庁への採用などを通じて懐柔がは かられた。さらに急進的な学生組織の指導者にたいしては、彼らをまず官庁へ採用し、ついで首都から離れた地方の 部局に配置転換するという措置が講じられた。 セゲド的急進右翼の指導者ゲンベシュも、統一党の成立(一九二二年二月)後には、この党に加入し副議長の要職に 抜擢される。そして彼は二二年五/六月の議会選挙にさいしては、その運営を司どり、自ら議員に当選するとともに、 (叩叫︾ 彼の支持者をも議会に送りだしていた。 なるほどゲンベシュは反ユダヤ的措置の緩和に抗議してベトレンと対立し、 一九二三年八月にはエックハルト、 シ リンスキを含めて六人の議員とともに統一党を脱退し、翌二四年一一月にはあらたにハンガリー独立国民党 人種保護党﹀という独自の政党を結成している。彼らの主張によれば、ハンガリーの経済的安定は大資本の排除、 ( 通 称 、 工 業 化の阻止、農業的性格の保持によって達成されるべきであり、 ハンガリーの民族的特質は内外の破壊的な影響力(ユ ダヤ人、マルクス主義、自由主義)に対抗する人種主義的・軍事的組織によって守護され、また大貴族と資本主義エリー ( n v トとの連合支配はキリスト教的中間的階級の独裁体制に取って替えられねばならないというのであった。だが人種保
護党はニ六年一一月の議会選挙で敗北し、その結果、ゲンベシュは党を解散し、統一党へと復帰した。その後、彼は 同年に国防次官、二九年には国防相に任命される。以上の経過は、ベトレンによるセゲド的急進右翼の無害化と保守 日権威主義体制内への統合の一応の成功を物語るものであった。 ただし、このことはセゲド的急進右翼の全面的駆逐や消滅を意味してはいない。彼らは統一党の地方支部や中位の 官僚、士官、大学卒の知識人の聞に支持を見いだし続けた。そして彼らは高級貴族、大土地所有者、大企業家層、高 級官僚から構成される同盟体制に反対の態度を取りつつ、中間的階級の指導権確立を叫び、 一 九 一 一 一
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年代以降にはゲ 79一一一九三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 ンベシュとイムレ 1 ディのもとで二回にわたり政権を担当するまでに至るのである。次章以下においては、この両政 権の歩みとこれへの保守 u 権威主義勢力の対応を考察してみることにしたい。 z k z o ︼阻田沼・ Z 担 問 一 ﹃ iH , 色 白 4 m 円 m y 、 阿 , F 冊。円巾開口∞乞円同国同ロ ssm 。仲町巾門田口﹀回目印丹 0 3 1 0同町,回目円伊国間同戸山口出己出向田門司白白血河F
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一 九 二 二 年 ﹀ ﹂ ﹃ 社 会 科 学 研 究 ﹄ 四 四 巻 三 号 ・ 一 九 九 二 年 を 参 照 さ れ た い 。 ︿ 6 ﹀ 冨 RRZ4 ・8
・ n X 4 H Y ご・なお念のため、ベトレン指導下の保守 H 権 威 主 義 体 制 の 特 徴 を 記 し て お く な ら ば 、 ハ け 統 一 党(ベトレンの与党)の庄倒的優勢下にはあるけれども、多党体制(社会民主党を含む)の維持と存続、同選挙権の制限と その行使に束縛は見られるけれども、議会の設置と存続、国政府により統制はされているけれども、社会民主主義的労働組 ( 1 )4rr0 史論 o 議星 1昼':81様 ~0 説経宕佃也~誌記!と, @1iiì対 1~0~ 延吋必 ÄJ ~ -¥Q'':t l{l ) J AJ ':R yJ,wぬ (Gyorgy Ranki , The Problem of Fascism in Hungary , in: Peter F. Sugar [edJ. , Native Fascism in the Successor States 1918-1945 [Santa Barbara , 1971J , p. 68; Szollosi-J anze , op. ci t., S. 87) 。 〈ド) ~.J1 0 ,'間短土 f 気 0$1 駅料請霊長 I~ 亀区,...)\-'制 AJ ~ ¥-' ,{ -i-2 0 William M. Batkay , Authoritarian Po !i tics in a Transitional State: Istvan Bethlen and the Unified Party in Hungary 1919-1926 (New York , 1982) , p.ll; Lorant Tilkovszky , Die rechtsextreme Opposition der Regierungspartei in Ungarn 1919-1944 , in: Anna M. Drabek et al (Hgs.) , Das Parteiwesen Osterreichs und Ungarns in der Zwischenkriegszeit (Wien , 1990) , S. 158; Sz 凸 llosi.Janze , op. ci t., S. 82-84. (∞) Sz 凸 llosi-J anze
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二年間に、行政ポストの数は六万七七六から九万七八三五へと増加したが、その増加したポストの大部分は経済的に 破滅したジエントリーによって占められたという ( Z 同 盟 ー l 吋E
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一 九 一 八 1 1 1 オーストリア帝国とオーストリア日ハンガリーの歴 史││﹄倉田稔訳(筑摩書一房一・一九八七年)、二六八ページ。 ( 日 ) ω N E D 回 目 i F D N 9 0 同 y n x ・ ω ・ 印 3 ・ ( M ) H E P -ω -A S ・ ( 日 ) H E a -( 日 山 ) F E ・﹁疑似ジエントリー﹂という呼称は切 S E ア 喜 -n -了 HYS にも見いだされる。なお市民層出自の官僚は、例え ば首相官房・内務・通商・財務省の指導的ポストにおいて二二・七%(一八九O
年)から四一・五%(一九一O
年)へと上 昇し、他方でジエントリーは五六・七%から四五・九%へと低下している 3 N g r T τ ロ N P c -Y 2了 ω ・ 怠 ) 。 ハロ)パムレ l ニ一編の著述は、中流ブルジョワジーや知識人を中間的階級の中に含めているが(前掲訳書、八七ページ)、この 種の考え方にたいしてセレシ H ヤンツェは懐疑的である2
・日乏し。しかし中間的階級の代弁者が大貴族川大土地所有やユ ダヤ富裕市民層の影響力排除を叫ぶような持、その訴えが政治・経済面で上昇を求める市民層・小市民層の支持を受けるこ とは確かであると思われる。 ( 印 日 ) ω N O -D 白 山 l ﹄ 白 ロ N P O ℃ -a 了 ω ・ ∞ ほ ・ ( 凹 ﹀ 富 田 門 田 江 口 巾 M J O 同 ynF ・ s-al 豆 一 ﹀ ロ 品 円 相 君 。 -E ロ o p 吋 宮 町 司 D 宮 山 口 印 C片 目 白 n r 若 田 邑 ロ 巾 凹 田 吉 田 口 口 岡 田 H M ﹁ 同 ∞ N 印i H 也 九 日 目 ( 句 ユ ロ n m -z p S ∞N ) w 同 ︼ 同 } -N O ∞l N C U ・ ( 加 ) 沼 田22
ロ ミ w D 匂 ・ 門 戸 了 目 y 叶 N ・ ( 幻 ) し ﹃ 白 ロ O 印W C ℃ -n 日 了 七 回 } -N N 品l N N 印 一 ω N 2 5 即 日 ﹄ 田 口 N F O M ︼-n 伊 丹 よ ω ・ ∞ ∞ ( 忽 ) ω N E C 曲 目 l l ﹄SNFC 同 y a 了 ω ・ ∞ ∞ ・第7巻3・4号一一82
第二章
ゲンベシュ政権の登場 一 九 二 九 年 一O
月にはじまる世界経済恐慌はハンガリーにも押し寄せ、とりわけ一三年以後、この国を大きな経済 的混乱の中へまき込むようになる。しかしベトレン内閣は、恐慌下における経済的・社会的利益のきびしい対立を調 ハンガリーではカ I ロイ伯が組閣するが短命におわり 整することに失敗し、ゴ二年八月一八日に退陣した。その後、 ( 一 三 年 八 月 二 四 日1
三二年九月一一一日)、彼の辞任後には、政治的・社会的混乱の克服を期待されて急進右翼の指導者ゲ ンベシュが首相に任命される。このゲンベシュが組閣を完了するのは一二二年一O
月一日であり、以後、この国は三六 年 一O
月二一日まで右翼急進主義政権の統治下に置かれることになった。 まず注目に値するのは、ゲンベシュ内閣の登場以後、この国に新しい政治スタイルの出現がただちに見られること である。即ち、彼の首相就任直後には、急進右翼の結社主催の大規模な行進がブダベシュト市内をねり歩いて﹁指導 者万才﹂の叫び声をあげ、この群衆の歓呼にたいし、ゲンベシュ自身はバルコニーからムッソリ l ニ風の挨拶で応え た。しかも首相としての彼の最初の演説は、議会にたいしてではなく、まずラジオ放送を通じて、直接、国民に呼び かけるというスタイルをとった。しかもその演説で、彼は﹁国民全体の魂の変革﹂を叫び、またすべての階級聞の協 力、とりわけ工業労働者のそれに訴えながら、社会民主党にたいしポリシェヴイズムと親近性のある立場の修正を要 ( 2 ) 求 し た 。 さらにゲンベシュは、 一O
月六日には九五か条から編成された﹁国民労働計画﹂を発表して、 マルクス主義、自由 主義、封建制、資本主義、大土地所有制に反対の意向を表明するとともに、 ハンガリーにおける﹁あらたな一千年﹂ の致来と﹁改革の時代﹂の開始を告げた。九五か条網領の具体的な項目としては、農地改革・税制改革の実施、農業への補助金の交付、農産物輸出の促進、労働機会の創出、秘密選挙制の導入、広汎な社会立法の制定などが約束され て い 常 一
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一日の彼の議会演説では、資本と労働の双方に公正な態度をとるという方針が宣言されてい勺 だがゲンベシュの行動の中でもっとも注目に値するのは、首相就任のほぼ一か月後にロ l マを訪問したことであろ ぅ。彼はイタリア・ファシズムの成果に感銘を受け、帰国後にはファシズムの達成した業績を紹介し、かつイタリア をハンガリーの従うべき模範として称賛した。以上にのベたすべての言動は、保守派勢力の聞に、ゲンベシュにたい ずる憂慮の念を深めることになる。 83一一一九三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 しかしゲンベシュの歩む道は、最初から大きく制約されていたといわねばならない。何故なら、彼は首相任命のさ い、摂政ホルティから次のことを約束させられていたからである。即ち、ハ円農相、内相、外相のポストには保守派の 人物を任命する、同現行の議会の会期が満了するまでは、新しい選挙を実施しない、同急進的な農地改革法や反ユダ ヤ法は制定しないということである。なるほどゲンベシュは、新内閣には一人の伯爵も含まれていないことを誇らし げに語っていた。だが彼の内閣には、ベトレン的立場の保守派の人物が多数を占めており、農相カ l ライ、内相ケレ シ ュ テ シ ユ H フ ィ y シ ャ l 、商相ファ l ピニは、ベトレンの推薦でそれぞれの地位に就任していた。また外相のカ I 一 九 三 五 年 に カ l ライに代って農相に就任したダラ l ニ も 、 ベ ト ニ ャ 、 法 相 ラ I ザ I γ も保守的立場の人物であり、 レシの推挙によるものであった。 このような内閣の構成から、ゲシベシュの活動の自由は大幅に制約されていたが、議会で第一党の地位を占める統 一党議員の政治的色彩においても、事態は同じであった。セレシ H ヤンツェの指摘によれば、この当時の統一党議員 の六八%はベトレ γ の支持者であり、グンベシュ支持の議員は七%を数えるにすぎなかっ情またハンガリーの歴史 一九三五年四月の議会選挙までは、統一党議員の圧倒的多数はベトレンの影響下にあったと記してい 家 ロ ム シ チ も 、第 7巻 3・4号一一84 ︿ 9 V る。ベトレンは首相の座からは退場したにもかかわらず、 ホルティと統一党の双方に依然として強い影響力を保持し ゲンベシュは九五か条網領にもり込ん 続 け 、 ゲンベシュはいわばベトレ γ の影の内閣に取り固まれていた。従って、 だ農地改革実施の延期を余儀なくされ、また反ユダヤ政策の面でも、 。 則 ﹀ 人エリートとの妥協に応じざるをえないことになるのである。 ハンガリーの大銀行日工業界に君臨するユダヤ しかしゲソベシュは、自らに課せられた拘束に甘んじてはいなかった。彼は首相任命時にベトレンから、今後、党 の指導を任せられる旨の譲歩を引きだしており、これが彼の活動の出発点となった。まず首相就任の二か月後に党の 名称を国民統一党と変更したことを手始めに、ゲンベシュは党改革へと乗りだす。彼は統一党の強化を通じて、議会 制排除と一党支配体制樹立への前提を創りだし、この国の政治・社会改革の実現をめざした。 即ち、党改革に関しては、まず中央のレヴェルに執行委員会と総書記のポストが設置され、前者の長にはストラニ ャフスキ、後者にはマルトンが任命される。このうちストラニャフスキの課題は、統一党議員団の府部)に党規律を導 入することであったが、ベトレン支持者が多数を占める状況の中では、彼の活動はほとんど成果をあげることができ な い で い た 。 これにたいし重視しなければならないのは、マルトンによる統一党機構の改革である。彼は二年以内にハンガリー 全土にまたがる党組織網を設置したが、その際、とりわけ注目に値するのは、国家の地方行政機構が党の地方組織と 固く結合されたことである。即ち、県知事は統一党の県本部の長を兼任するようになり、郡長、村役人も党への加入 を強制されて、統一党の地方組織の指導を担う一翼へと編入される。しかも彼らには、地方党員の名簿の保管も義務 づけられた。また末端の農村や町には、それぞれの上部組織から指令を受ける支部が四
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ほど設置され、こうし て党機構は頂点から底辺まで官僚行政機構と一体化されるに至るのであ泌 V しかも各レヴェルの党地方組織の指導部ア ﹂ 争ι
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ゲンベシュ系統の人物が任命された。 マルトンの党組織構築の企てを、 セ レ シ H ヤンツェは、このゲンベシュ、 ( 路 ) 名望家政党から常設の党役員を伴う大衆政党への動きと意義づけているが、これは適切な指摘といえるであろう。 ﹂のような大衆政党化への試みは、 マルトンが末端の各支部に﹁前衛隊﹂と称する組織の設置に尽力したことから も窺える。この組織の任務は、地域住民の政治的信条、職業、 会の妨害など多岐にわたっていた。 日常の言動などの調査、その記録の保管、他政党の集 ﹁ 前 衛 隊 ﹂ の 加 入 者 数 は 、 一九三五年までに六万人に達していたといわれるが、 85一一一九三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 これは正確な数字とはいいがたいであろう。さらに党内にはアンタルを長とする新聞局が設置され、彼は﹃独立﹄と ゲンベシュ政権への大衆の支持獲得に努めた。要するにマルトンの構想 ﹃ハンガリー主義﹄という新聞を刊行して、 によれば、国民統一党はハンガリー生活の再形成の道具として活動することを課題としており、 ﹁この理由から、党 は指導者︹即ち、ゲンベシュ︺と目的を共有するハンガリーの兄弟すべての人びとのところにまで、手が届くようにな ( お ﹀ らねばならない﹂というのであった。 ナショナリスト団体の傘組織である﹁ハンガリー社会結社連盟﹂の ︹ U ) 活動を盛りあげ、大衆を自らの政治路線の支持へと向わしめることに尽力した。その際、注目してよいのは、これら 他方でゲンベシュは腹心のパロシュを通じて、 の組織が開催する大衆集会の雰囲気である。即ち、それらの集会では念入りな下準備にもとづいて、 ゲンベシュにた い し ﹁ 指 導 者 ﹂ ( ︿ 巾 N mるという呼びかけが繰り返し叫ばれ、 また林立する旗には指導者の略号である﹁V
﹂という文 字が記されていた。さらにアンタル刊行の新聞には、ゲンベシュの写真が第一面を飾り、( m v
という標語が付記されていた。このような政治活動のスタイルは、イタリア・ファシズムの方式を模倣的に取り入れ ﹁ わ れ わ れ の 指 導 者 万 才 ﹂ たものといえるであろう。 ゲンベシュが軍部の中に支持をひろげたことも、見逃してはならない。彼は首相就任前から、とりわけ青年士官の第7巻 3・4号一一86 しかも彼らの聞にはセゲド理念が浸透していた。ゲンベシュは青年士官の昇進の機 ︹ 加 ) 会増加につながる軍制改革を行い、また予備役の青年士官を統一党や各種の中央官庁の役職に就任させたが、このよ うな優遇は青年士官の聞における彼の声望を高めた。 聞に強い支持を見いだしており、 さらにゲンベシュは、旧オーストリア U ハンガリー帝国の寧に勤務した将軍たちを退役させ、自分と政治的信条を 同じくする人物でその空席を埋めた。とりわけ帝政期以来の参謀本部付きの高級将校の聞には、ベトレンの政策を支 かつ軍の政治的中立という原則を固守する傾向が根強く見られたが、ゲンベシュは、この気風にも改革を加え 持 し 、 ルドヴィカ陸軍大学をはじめとする高級将校の養成機関は、急進右翼イデオロギーのセンターという 観を呈するに至る。この種の養成機関に勤務する教官たちは、軍が政治面で積極的な役割を演ずるべきことを説いた。 た 。 そ の 結 果 、 一 九 三 五 年 ま で に 、 ゲンベシュは軍を支配下に置くのに成功を収める。 なお彼は一九一ニ三年六月一七日に、その当時、首相の地位にあったヒトラーをベルリンに訪問した。これは外国の 元首による、最初のヒトラー訪問であった。さきにゲンベシュはムヅソリIニを訪問していたが、今回の訪独は、 ト リアノン条約修正のためハンガリーの外交政策を親ドイツ路線へと大きく変更することを予測させる動きであった。 以上にのベたゲンベシュの一連の措置は、保守派の憂慮を深め、 一九三五年はじめにはカ 1 ラ イ 、 ケレシュテシュ 目ブィッシャーなどの閣僚の抗議辞職が見られるようになる。しかもゲンベシュが同年一月二四日に選挙法改正案と 農地改革案とを準備中であると告げると、ベトレンはゲンベシュの動きに制肘を加えることを意図して、二月八日に はホルティの面前で両者聞の会談が行われた。だがベトレンの試みは無益におわる。それどころかゲンベシュは三月 四 日 に は 、 一旦、内閣総辞職を行い、同じ日にあらためて首相に任命される。しかも彼は、議会内のベトレン支持派 ( 匁 ) ホルティから議会解散の許可を取りつけ、一ニ月五日に議会を解散した。ベトレンは、 に打撃を与えることをめざして、
この措置に怒りを表明し、その翌日、十数名の支持者とともに統一党を脱党する。 総選挙に先立ち、ゲンベシュは一九三一五年三月九日に有権者に向けて自らの選挙綱領を発表し、選挙での勝利後に 87一一一九三0年代ハγガリーにおける急進=権威主義政権 は次の順序で法案を提出する旨を告げた。即ち、付摂政と上院の権限の拡大、口選挙法改正、旬新しい出版法の制定、 ( 明 岨 ) 帥農地入植法の制定、倒世襲財産法の改正、的一子状態克服のための措置である。しかも彼は別の日にセゲドで演説 を行い、ハンガリーに一党制コーポラテイズム国家を樹立する意図を表明した。ゲンベシュの方針によれば、ハンガ リーは﹁何らの階級的差異をももたず、また筋肉労働と精神労働問に何らの区別をももたぬ、統一された国民﹂へと ( 誕 ﹀ 編成替えされねばならないというのであった。 一九三五年四月一一日に実施された選挙では、ゲンベシュ支持派が勝利を収めた。即ち、統一党は四三・六%の得 一 七
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議席を獲得して第一党の地位を維持するのに成功するが、このうちベトレン派の比率は一六%へと低下 ( お ﹀ ゲンベシュ派のそれは二九%へと上昇を見せていた。この数字は、ゲシベシュの率いる急進 H 権威 票 率 、 し た の に た い し 、 主義勢力がハンガリー政界の中で、拡大をとげつつあることを物語るものといえよう。 そ の 後 、 との協調方針を告げるとともに、ゲ l ロングにたいし今後、二年以内にドイツと類似の体制をハンガリーに樹立する ( 町 四 ﹀ ことを約束した。このような言動は、外交面での親ドイツ路線と内政面での一党独裁制導入の意向を告げており、 一九三五年九月三O
日にゲンベシュは、再度ドイツを訪問した。彼は将来における外交政策面でのドイツ ノ 、 ン ガ リ l 政治の将来に不吉な影を投げかけるものであった。 だが全体としてみるならば、 ハンガリーに急進右翼的な一党支配体制を確立しようとするゲンベシュの企ては、ベ トレンを中心とする保守日権威主義勢力の抵抗によって挫折を余儀なくされたといわねばならない。まず注目してよ第7巻3・4号- 8 8 いのは、統一党の組織を国家の行政機構と合体させようとする総書記マルトンの構想が、数において圧倒的多数を占 める保守的な県官僚の反発に出会ったことである。というのも県知事の大部分は、ベトレン的方向の保守主義者であ ( 明 UV り、六人だけがゲンベシュの支持者にすぎなかったからである。またマルトンの目論見は内相ケレシュテシユ日フィ ッシャーとの対立を激化せしめて、 一九一ニ五年一月はじめには後者の抗議辞職の意向表明にまで発展し、同年三月に あらたに内相に就任したコスマも、 マルトンの企てを自己の権限への侵害であると異議を唱えた。 このような内務官僚の反対の集積の結果であろうか、 一九三五年二一月一二日開催の県知事会議においては、 ハ 咽 品 ﹀ を組織化しようとするマルトンの活動は:::われわれにとって有害である﹂との意向が表明される。しかも見落して ﹁ 由 { 兄 ならないのは、これらの反対の背後には常にベトレンが立っていたことである o なるほど彼は三五年三月はじめに、 ゲンベシュの策動に抗議して統一党を脱退しており、また何らの公職にも就任していなかった。それにもかかわらず 彼はホルティや保守的権力エリート層との間に、緊密かつ非公式な関係を維持しており、影響力の強い政治家であり 続 け る 。 ハンガリー駐在のオーストリア外交使節が三五年八月六日に本国外務省にあてた報告からも、ベトレンの有 ますます政治からは身を引いている。 だが政府への反対派の結集にはっきりと向けられた活動を、舞台裏で折にふれて繰りひろげている﹂と。 力な地位が読みとれる
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﹁ベトレンは首相ゲンベシュと不和になって以来、 ベトレン的方向とゲンベシュ的方向との抗争は、一一一六年一月には後者の敗北におわる。何故なら、 マルトンはさし あたり総書記の地位に止まり、自らの活動を継続したけれども、県知事をはじめとするすべての行政官庁のスタッフ ( 却 ) は、ふたたび中央官庁の命令にのみ服するようになったからである。 他方でゲンベシュにたいするホルティの信頼の念も、前者が自らを﹁指導者﹂と呼ばしめるに応じて減退していっ ( 羽 ﹀ た。さらにホルティが﹁最高の統帥者﹂と自任していた軍の人事政策へのゲンベシュの介入も、彼の不快を高め、またゲンベシュの農地改革への固執や外交面での対独接近も、 ホルティの危倶の念を強めた。 一九三六年八月にホルテ ィはゲンベシュの解任を決意し、その旨を彼に通告するが、他方でゲンベシュは頑くなに首相の座に固執し、辞職の 問題をめぐり両者間に確執が続く。だが同年一
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月六日にゲンベシュは突如、病死するに至り、彼の内閣はあっけな く終鷲を迎えた。ゲンベシュの後任には、同年一O
月 一O
日にダラ I ニ が 任 命 さ れ る 。 こ の ダ ラ l ニ首相の時期に、ゲンベシュ l マルトンの党機構も解体、廃止されてゆくようになる。即ち、 一 九 三 七 89一一一九三0年代ハソガリーにおける急進=権威主義政権 年二一月には党規約が改正されて、総書記のポストが消誠した。また地方の党組織の指導者や書記たちも、ゲンベシ ュの時期における党中央からの任命に代って、県や郡の党組織によって選出されることになった。加うるに地方の党 役員数も削減され、このポストはふたたび名誉職という性格をおびた。セレシ H ヤンツェは、以上のような﹁マルト ハ お V ン主義の敗北﹂の経過の中に、﹁名望家構造をもっ選挙マシ l ンへの政府党のあらたな復元﹂を見ている。 ハンガリーに一党支配制コ l ポラテイズム体制を構築しようとするゲンベシュの試みも、やはり実現しなかった。 彼の構想は一九一一一一一一年段階で漠然とした表現で公表されていたが、社会民主党の指導者ペイエルは同年の党大会で、 ﹁何者かがわれわれのもとに、イタリア・ファシズムの範例に則って形成される利益代表制を導入しようとするなら (引担︾ ば、その人物は最後の血の一滴まで抵抗を行う労働者層に、直面することになるであろう﹂と語って、激しい抵抗の 意志を表明していた。 またゲンベシュの構想は、経済界からの反対にも出会った。即ち、一ニ五年六月四日開催の第一二三回工業家連盟総会 は、経済組織のコ l ポラテイズムへの編成替えに抗議の表明を行い、その数日後に連盟の会長コリンはゲンベシュと 会見して、経済界の反対の意向を伝え鳩町このような反対の集積の結果、この国をイタリア・モデルに立脚したコー ポラテイズム体制へ変革しようとするゲンベシュの試みも、実現されないままにおわる。第7巻3・4号ー←90 なるほど一九一一一五年三月一五日には、農地改革の遅延にいらだっ青年層(大学生) われ、その行進では総面積二五
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ヘクタールをこえる大土地所有の没収と分割が要求された。これまで農地改革への の街頭行進がブダベシュトで行 保守派の抵抗に時間踏を感じていたゲンベシュも、この動きに突き上げられ、同年四月の総選挙後には世襲財産改正案 と農地入植法案の議会上程を決意する。 しかし、この両案の内容は、急進的なものではなかった。何故なら、前者においては総面積二三万ホルドの土地が 世襲財産の指定から解除されたが、この総面積の大きさでは、農業従事者の大多数を占める無所有の農業労働者や零 たとえ世襲財産指定の解除後に設立される小地片の相続人になることができた場合でも、この国の土地所有 構造の抜本的改革にはつながらなかったからである。 細 農 が 、 また後者の法案は、大土地所有の総面積の八%にすぎない四一万六0
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ホルドの土地を、破産に瀕している大土 地所有者から国家が収用し、これを二五年の期限でコ一万七0
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の農民家族に売却するという内容のものであった。 しかし購入を希望する農民は、総価格の四分の一に相当する金額をまず支払わねばならず、その後は国家の側から抵 ハ 訂 ) 当権を設定された土地に四七年間にわたって支払いを継続しなければならなかった。このような農地改革の法案は、 きわめて控え目な内容しかもたぬものといえるであろう。 ( 1 ) 玄 白 内 恒 三 口 3 J o u -n -了 間 y 己 申 ・ ( 2 ) 同 豆 島 ・ ( 3 ) ﹄ C 品 開 ・ 出 0 0 5 n y d ロ 問 即 門 口 の g n F F n F Z H M o -妥当宮田与え仲(出血ロロ 0 4 m ♂ H S H ) ・ ω ・ ∞ N U 円 同 町 田 -5 m g -g m ︺ 込 町 宮 田 口 ロ ι 品目白営団 n F 富 山 田 n v g H w m 耳 目 同 ロ ロ 岡 市 ロ ( 宮 B H M n v g ・ 5 8 ) ・ω
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・ ・ 司 ・ ∞ 0 . ( 5 ) 富 由 円 恒 三 口 四 u c o 匂 -n 伊丹よ匂・ロ日・ 同 w E M 2 2 0 -芯 -U F m 関 ユ 印 叩繰越縦州録媒 (∞) Macartney , op. cit. , p. 103; Janos , op. cit. , p. 287. (ト) Macartney , op. cit. , pp. 103-105; Nagy-Talavera , op. cit. , p. 9 1. (∞) Szollosi.Janze , op. cit. , S. 97 f. (∞) Ig 拍 c Romsics , Parlamentarismus und Demokratie in der Ideologie und Praxis der ungarischen Regierungs. parteien in der Jahren 1920-1944 , in: Drabek et al (Hgs.) , op. cit. , S. 32. (;::) Janos , op. cit. , pp. 287-288; Macartney , op. cit. , p. 117; Szollosi.Janze , op. cit. , S. 90. (口) Macartney
,
op. cit.,
pp. 118-119. (;::1) Ibid. , p. 119. (虫) Margit Szollosi.Janze , Horty.Ungarn und die Pfeilkreuzlerbewegung , in: Geschichte und Gesellschaft , 12. Jg. , 1986 , S. 171. (苫) Nagy-Talavera , op. ci t., p. 95. (巴) Macartney , op. cit. , pp. 118-119. (;3) Janos , op. cit. , p. 289. (じ) Macartney,
op. cit.,
p. 119. (~) Nagy-Talavera , op. cit. , p. 97. (~) Macartney , op. cit. , p. 100; Thomas L. Sakmyster , Army Officers and Foreign Policy in Interwar Hungary 1918-41 , in: Journal of Contemporary History , Vo l. 10 , 1975 , p. 22. (お) Nagy-Talavera , op. cit. , p. 95. (;l) Sakmyster , op. cit. , p. 23. 将兵令吠ーャ ti1 ・~111 く社 1 1 民会心国同社 gr m:;制下 JQ 置は+<位 Q 起草!l!1l~ c' -i-l111<-<Q
lit~ 叶 Q 記 4 目宮沼恒み l路駅,....)-i-l':R' ~...;1l付予 0 -'J総心 Q~llti
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C'-i-l-'J ':;'10 (Sandor Szakaly , The Composition of Higher M iJi tary Elite , in: Gyorgy Lengyel [ed. J, Hungarian Economy and Society during World War II [New York , 1993 ], pp. 108-109)0 ~J 兵士~ 1 兵 111< 一回同社 ~Q 怖額千 Jti~ ぬ ta' く入守司ロー併話モrll
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、の町会お川﹄l henm¥ パ r 、ゼ川町 O 川 Jh1111H 罰第7巻 3・4号一一92 おける土地所有貴族の地位の低下、これとは逆に中間的階級のそれの上昇傾向を示唆するものといえる。 ( 幻 ) Z 同 巴 7 吋 巳
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-ゲンベシュの選挙公約の中でもっとも注目に値するの は、ハンガリーに一党制コ I ポラテイズム国家を樹立するという構想であろう。だがハンガリー史の研究者たちは、残念な ことながら、この案の内容について何らの具体的な説明を行つてはいない。おそらくゲンベシュ構想の目標は、企業家層や 労働者層の従来の自立的組織をそれぞれの職能団体に編成替えし、議会主義体制の排除のもとで、それらの職能団体間の協 議により政策を立案・決定し、その実施を通じて社会調和的、社会連帯的な国民共同体を構築することに置かれていたと思 われる。ゲンベシュはコlポラテイズム運営をめざし、急進右翼的立場のエンジニアを政府の要職に任命した。その代表的 な例はボルネミッサが新設の産業省の大臣に任命されたことであり、この省は急進右翼的エンジニアの機関紙﹃ハンガ F ア﹄の三五年八月一五日号で﹁テクノクラートの省﹂として歓迎された(玄RU
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。なお先にふれた九五か条綱領には、早急 に着手さるべき短期の産業・財政上の措置をもり込んだ緊急綱領が付記されていたが、ゲンベシュはそれらの課題遂行のた め、例えばサクヴァ l p とベトネハ 1 ジという経済エキスパートを産業政策の、またクンデルという同じくエキスパートを 外国貿易の担当者に任込町していた。しかもこれらの専門家たちは、ゲンベシュに直接、報告書を提出し、かつ政策への提言 を行い、議会の統制を超越した一種の﹁超官庁﹂、非公式な内閣という性格をおびたG22
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。もともとのセゲド理念には、ハンガリーの工業化を阻止し、農業的性格を保持しようとする立場 が濃厚であったが、それにもかかわらずゲンベシュが白己の側近に経済・技術テグノクラ I トを登用したことは、この国の 工業生長と近代化を通じて社会問題を解決しようとする構想が基礎にあったと考えられる。その限りでゲンベシュの政策は、 一 九 三O
年におけるセゲド理念の一定の変容をあらわしており、上昇を求める一部の市民層・小市民層の願望を代弁し、か っそれをとり込んだものといえるであろう。 ( お)
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(お) Macartney,
op. cit.,
p. 148. (~) Szollosi.Janze,
op. cit.,
S. 94. (罰) Ibid. (gj) Ibid. (宕) Ibid. (c;:J) Miklos Stier , Analogien und Divergenzen in den politischen Systemen Osterreichs und Ungarns in der ersten eineinhalb Jahrzehnten der Zwischenkriegszeit,
in: Drabek et al (Hgs.),
op. cit.,
S. 38. (~) Macartney,
op. cit.,
p. 173. (沼) Szollosi.Janze,
op. cit.,
S. 95. (話) Peter Sipos , Di e Sozialdemokratische Partei und die liberale Opposition in Ungarn 1919-1939 , in: Drabek et al (Hgs ふ op. cit.,
S. 137. (沼) Stier,
op. cit.,
S. 62,
Anm. 34. (~) Macartney,
op. cit.,
p. 132. て 4 斗ー11
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Geschichte Ungarns,
S. 128; Macartney,
op. cit.,
pp. 132-133. 日制期,羽山町公認 UhlEK 、ハ︿だ社 O 川 Jh1118総川
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日に内相ケレシュテシユ H フィッシャlは、官吏ならびに公営企業従業員が公共の秩序を脅やかすとみなされた結社 に加入することを禁止したが、その九日後に発表された、その種の結社リストの冒頭にはサ I ラシの矢十字党が記載 されており、以下その他の国民社会主義運動の名が記されていた。 だがイムレ I ディの基本目標は、 また除去することに置か 一連の政治的社会的改革を通じて国内の緊張を緩和し、 れていた。そしてまさしく、この方針が彼を突如として急進右翼的方向の道を歩ましめ、ベトレンをはじめとする保 守派との対立を招くようになるのである。従って、この脈絡から重視しなければならないのは、 一九三八年九月四日 にイムレlディがカポシュヴァlルで行った公開演説と同じ日の晩餐会での演説である。というのは、この二つの演 説の内容は、保守派の聞に彼の内閣の前途に大きな不安を喚び起すことになったからである。 まず公開での演説における彼の発言によれば、内閣の目標は、 ﹁ ハ ン ガ リ ー の 土 壌 の 上 に 、 ハンガリー風のやり方 で時代の新しい思想を実現することであり:::われわれは多くの点で、この国の社会構造を変革しなければならない ﹂ の で あ っ て 、 ま た 自 分 の 綱 領 は 、 ﹁革命的手段を通じて実現されるのではないけれども、革命的意義をもつものであり、それは富者が貧者の負担をにない、他方で貧者が性急さを慎しむ奇蹟の革命なのである﹂というのであった。 それでは﹁革命的意義をもっ﹂ ﹁奇蹟の革命﹂とは、具体的にいったい何であろうか。彼は実施されるべき政策とし て 、 一般兵役の導入のほかに、多人数家庭への特別援助基金の創設、高額所得へのより一層高率の累進課税、手工業 工業・農業労働における最低賃金制、包括的な農地改革、農村住宅の建設、農業負債の解 消などを列挙してみせた。彼は、これらの措置を通じて国内の対立を除去し、社会調和の実現をめざした。他方で彼 者・小商人への信用供与、 は ダ ラ I ニ 内 閣 期 に 準 備 さ れ 、 95一一一九三0年代ハンガリーにおける急進=権威主義政権 はないとの約束を行って、 一九三八年五月二九日に施行された反ユダヤ法(第一次﹀を、これ以上、強化する意向 工業日金融界を安堵せしめた。 だが注意しなければならないのは、公開演説に見える﹁ハンガリー風のやり方﹂という一句である。なるほどイム レ l ディは、公開演説においては独裁樹立への願望を否認しながらも、首相職に在任する限りは指導者になるとの意 向を表明していた。だが彼の本音が開かれるのは、同じ日に統一党の地方有力者たちが集まる晩餐会での演説の方で ある。彼は、その演説では議会主義体制を公然と非難し、独裁的権力の保持への必要を語り、 の体制を称賛して、列席者を驚かせた。彼の唱える﹁ハンガリー風のやり方﹂の意味内容は、独裁制の樹立であった かつドイツ・イタリア と考えて差し支えないであろう。 イ ム レ l ディは、このような意向を別の機会に既に漏らしていたのであろうか、晩餐会の演説の前後と推察される 時期に、上下両院議長のセ l チ ェ l ニとコルニシュはイムレ I ディと会見し、彼の見解を尋ねたことがある。その折 の彼の答弁によれば、現行の議会の審議手続きは余りにも非能率でありすぎ、とりわけ上院は既存利益の擁護の砦と 化しているので、社会改革の実施には不適切な機関であり、従って、緊急の課題となるのは、全権を付与された独裁 的統治機構を設立して現行の議会に取って替えることであるというのであった。また彼は、その当日の会見でドイツ