尾崎放哉︵以下放哉と記す︶についての短文を書いてみよう と 思 う が 、 ま ず 、 は じ め に 、 第 一 高 等 学 校 の 一 級 先 輩 で あ り 、 俳句の指導者で俳句の雑誌﹃層雲﹄を主宰していた荻原井泉水 ︵ 以 下 井 泉 水 と 記 す ︶ の 放 哉 に 寄 せ る 思 い を の べ て お き た い 。 井泉水は、晩年の放哉を物心両面にわたって支援し続けた。次 の 発 言 を あ げ て お き た い 。 こ れ は ﹃ 層 雲 ﹄︵ 大 正 十 五 年 六 月 号 ∼ 八 月 号 ︶ に 掲 載 さ れ た も の で あ る 。﹁ 放 哉 を 葬 る ﹂ の な か の 一 節 で あ る 。 井 泉 水 が 放 哉 に か け て や っ た 最 期 の 言 葉 で あ る 。 これだけでも、放哉はじつに﹁幸せな男﹂であったと私は思う。 少し長くなるが引用しておきたい。 ﹁ 思 へ ば 何 か ら 何 ま で 遺 憾 だ っ た 。 彼 の 生 活 費 も 、 も 少 し 潤 沢にする道を講じてやればよかった。彼の好きな酒も、飲める 時に もっと 0 0 0 飲ましてやればよかった。 ⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮彼のやうに、 死を前にして晏如としてゐた者は少いであらう。彼はほんとう に 身 を 捨 て き っ て ゐ た 。 い つ 死 ん で も 好 い と い ふ 気 で ゐ た 。 たゞ、独り安らかな大きな自然の懐に抱かれて死にたいといふ 気 で ゐ た 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ ほ ん と う に 、 彼 は 今 の 世 の 人 の や う で はなかった。その天真の純情は、到底現代の社会と妥協し得る ものではなかった。彼が何処へ行っても容れられぬ悲しみを抱 いて流転しつゞけた心持は貴い、結局、此の南郷庵を得て、も う爰から出ないと誓った其隠者の態度もうなづかれる。彼は 自分で、乞食とも云った。大馬鹿者とも云ってゐた。それが古 人のさういった心持の模倣ではなくて、彼の偽らぬ気持其まゝ だった。彼は全人的に無技巧で、自然さがあふれてゐた。斯う いふ人は古来、稀である。私は、友人としてばかりでなく、彼 と い ふ 人 間 の 前 に 心 か ら 手 を 合 し た の で あ る 。﹂ ︵﹃ 放 哉 全 集 ﹄ 第三巻、筑摩書房、平成十四年、一九四∼一九五頁︶ この文章を書いてくれた井泉水という友人が、この世に存在 したというだけでも放哉は幸せな男であった。井泉水は、放哉 を捨てておけなかったのである。
綱澤
満昭
尾崎放哉の一側面
人間知性の過信を軽蔑し、世間の常識から逸脱し、嗤ってし まった放哉を支援する人間はほとんど皆無にちかかった。妻も 捨て、地位も財産もすべて放下し、人間社会をも拒絶し、酒癖 も 悪 く 、 裸 一 貫 と な っ た 放 哉 を 、 井 泉 水 は ど こ ま で も 助 け た 。 助けずにはおれなかったのである。 井泉水を、そのような気持にさせた放哉という男は、いった いいかなる人間であったのか。このような放哉の全体像を知り たいが、いま、私はその力量を持ち合せていない。ここでは断 片的に、きれぎれに放哉の一部をのぞいてみたい。 1、青春のひとこま 放哉は、明治三十五年三月に、鳥取県立第一中学校を卒業し、 九月には東京の第一高等学校に入学している。 そのときの第一高等学校の校長は、狩野享吉であった。彼は 南部八戸で医者でありながら﹃自然真営道﹄ 、﹃統道真伝﹄など の著書を持つ農本主義者安藤昌益の研究などで知られていた。 放哉は、文科一部の甲︵英語︶の一組で、二組には安倍能成、 藤村操などが在籍していた。一級上には、荻原井泉水、阿部次 郎などがいた。 放哉が入学した翌年、つまり、明治三十六年五月に、同級生 の藤村操が、日光華厳の滝で投身自殺をはかり、多くの学生の みならず、社会的に大きな衝激をあたえた。この藤村の自殺に ついて、少し言及しておきたい。 時代の洞察と予見の出来る若者たちが、当時いかなる思想的 雰囲気のなかに置かれていたかというと、それは、もう国家至 上主義とか立身出世主義というようなものではなかった。人生 の根本的なものを問うということが若者の世界をとらえていた のである。 藤村の自殺に大きな衝激を受けた一人に、先にあげた安倍能 成 が い る 。 彼 は 、 一 種 の 校 友 会 雑 誌 に 、﹁ 我 が 友 を 憶 ふ ﹂ と い う 一 文 を 載 せ て い る 。 の ち に 彼 は 藤 村 の 妹 と 結 婚 を し て い る 。 安倍の著書に、岩波書店の創立者である岩波茂雄の伝記である ﹃ 岩 波 茂 雄 伝 ﹄ が あ る が 、 そ の な か で 、 岩 波 も 藤 村 の 自 殺 に ショックを受け、学業を怠った、明治三十六秋から翌三十七年 夏頃までほとんど学校に行ってない。 安部能成の主張をみておこう。 ﹁ 藤 村 の 自 殺 が 我 々 に 与 へ た 衝 激 は 大 き く 、 未 熟 の 身 で 人 生 を﹃一切か皆無か﹄につきつめて、自殺に駆られるといふ傾き の我々にあったことは事実である。私は入学の時藤村、藤原と 同級で、藤原は特に藤村と親しかった。藤村は紅顔の美少年で 死んだのは数へ年十八歳だが、満は十六歳十ヶ月で岩波より五 つ 年 下 で あ っ た 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 岩 波 は 藤 村 の 自 殺 に 刺 激 さ れ 、 東 片 町 の 寓 居 で 、﹃ 厳 頭 の 感 ﹄ を 読 ん で は 、 林 、 渡 辺 と 共 に 泣 いたりした。しかし岩波の先を越したのは、去年の夏横浜から
の帰りに、岩波と一緒に鉄道乗車とかけっくらをした同じ信州 人の林久男であった。彼は学校にも出ず、遂に寮を出て、一人 で 雑 司 ヶ 谷 の 畑 の 中 の 一 軒 屋 に こ も り 、 雲 雀 鳴 く 晩 春 ︵ 明 治 三 十 六 年 ︶﹁ 麦 の 色 濃 い 季 節 に 、 昼 も 戸 を 閉 め て 悶 え て 居 た 。﹂ ︵ 安 倍 能 成 ﹃ 岩 波 茂 雄 伝 ﹄ 岩 波 書 店 、 昭 和 三 十 二 年 、 六 二 ∼ 六三頁︶ こ の 藤 村 の 自 殺 は 、﹁ 朝 日 ﹂ や ﹁ 万 朝 報 ﹂ な ど で も 取 り 上 げ られている。青少年の自殺は少くはないが、この藤村の件の特 徴は、思想、哲学に悩む青少年の自殺ということで、日本の自 殺史においては注目すべきものであった。 先にあげた井泉水は、藤村が投身自殺したその年の秋、華厳 の滝まで出かけている。いうまでもなく、彼の死を弔うためで ある。そのときの状況を次のようにのべている。 ﹁ 藤 原 操 が 死 ん だ 、 そ の 年 の 秋 、 わ た し は 日 光 へ 行 っ た 。 は じめてではない。華厳の滝の落ち口のところは、危険だと言う ので、近寄れぬように遮断してあると聞いた。わたしは滝を仰 いで見る一ばん近いところまで行って見た。藤村の死を弔うと いう気持で、途中で摘んできた竜胆の花を手向けたいと思った。 花は軽くて水のあるところまで届きそうもないので、花と小石 とを一しょに紙にくるんで遠くへ投げてやった。その上に茶店 があって、おばさんが茶を出してくれた。その話によると、そ のとき、おばさんは何気なく滝のほうを見ていると、滝の落ち 口に人影があらわれた。なんであんなところに学生さんが⋮⋮ と思う途端に、その学生服の男は、両手を大きくひろげて
︱
おばさんは自分でその身振をして見せた︱
十の字の形をして、 まっすぐに飛び込んだ。もちろん、忽ち見えなくなってしまっ た が 、 一 二 回 、 回 転 し た よ う に 思 わ れ た 。⋮⋮ と い う 話 だ っ た。 ﹂︵荻原井泉水﹃放哉という男﹄大法輪閣、平成三年、九∼ 一〇頁︶ 藤村の自殺を、すべての若者が、岩波や安倍のような かたち 0 0 0 で 受 け と め た わ け で は な い が 、 し か し 、 先 に も 少 し ふ れ た が 、 内観的、哲学的雰囲気が、この時代の多くの知的と呼ばれる若 者たちを囲繞していたことは間違いない。藤村の自殺は極端な 一つの現象であるが、この明治三十年∼四十年代、そして大正 期にかけて、煩悶する若者の流出があった。 国 家 至 上 主 義 的 人 間 像 は 後 退 し 、 私 的 関 心 へ の 執 着 が 強 く なっていた。天下、国家を論ずることなど、いかほどの価値も なかったのである。国家からの個人の離脱現象が一大流行とな り、国家は国民統治の上で機能障害をおかしていた。 こういった状況下において藤村の自殺はあった。 一高生のみならず、当時の若者に大きな衝激を与えたこの藤 村の自殺にたいし、放哉は、どのような反応をしたのであろう か。あるいは、まったくの無関心だったのか。 磊落的なところがありそうな放哉であるが、彼の生涯から感じ取れるものは、きわめて繊細な神経の持ち主ではなかったか。 そうだとすればこの事件を無視しているとは思えない。 放哉が直接この藤村の自殺の件に関して、意志表示をしたの か 、 し て い な い の か 、 私 は 寡 聞 に し て そ の こ と を 知 ら な い が 、 彼 は 、 明 治 三 十 八 年 三 月 に 、 一 高 の ﹁ 校 友 会 雑 誌 ﹂︵ 第 一 四 五 号 ︶ に 、﹁ 三 天 坊 ﹂ と い う ペ ン ネ ー ム で ﹁ 俺 の 記 ﹂ を 発 表 し て いる。かなり評判になったといわれている。この作品は、同じ 年 の 一 月 に 夏 目 漱 石 が 、﹁ ホ ト ト ギ ス ﹂ に 発 表 し た ﹁ 吾 輩 は 猫 である﹂にヒントをえたものといわれている。この放哉の作品 は、彼が一高の寮に入って三年の月日が流れた時点でのもので ある。 この作品のなかに放哉の思想、哲学の本質が含まれているよ うに思われる。間接的であるが、藤村の自殺についても、なに かしら語っているようなところがある。 長年、放哉の研究を続け、 ﹃放哉﹄ ︵層雲社︶を著わした村尾 草樹は、放哉のこの﹁俺の記﹂を次のように評している。 ﹁ こ れ は 彼 の 全 生 涯 を 繰 り か え し 繰 り か え し 調 べ 上 げ た 私 か ら 見 る と 、 お ど ろ く べ き こ と に 、 明 治 三 十 八 年 、 二 十 一 歳 の ﹃ 三 天 坊 ﹄ が は か ら ず も お の れ の 全 生 涯 、 そ の 俳 人 放 哉 に 到 る プロセスである 生きかた 0 0 0 0 そのものをここに於て既に規定してい る如き、あるいはそれを予見しおぼろげながらもその設計図を ここに描き上げている事実であった。尠くとも彼はここに書き、 信じた思想を、その社会に出る第一歩から自ら実践しはじめた 感 が あ る の だ 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ こ の ﹃ 俺 の 記 ﹄ の 人 生 観 、 死 生 観 を以て、そして改めて彼の酒歴や結婚生活
︱
ことに一灯園以 来の流転の生活をふりかえって見るとき、その時々の行動や言 葉や考えかたなどが一つとして﹃俺の記﹄のランタンの思想な ら ざ る は な い こ と に 思 い あ た る 筈 で あ る 。﹂ ︵ 村 尾 草 樹 ﹃ 放 哉 ﹄ 層雲社、昭和三十九年、五九頁︶ ﹁俺の記﹂を少しのぞいてみることにする。 放哉は、手紙は多く書き、俳句も沢山つくったが、雑誌掲載 などの文章はほとんど書いてはいない。そのなかにあって、こ の﹁俺の記﹂は数少いなかの重要なものである。 ﹁俺の記﹂は次のようにはじまる。 ﹁ 俺 に は 名 前 が 無 い 、 但 し 人 間 が 付 け て く れ た の は 有 る が 其 れを云ふのは暫く差控へて置かう、だが、何も恥かしいので云 はぬと云ふわけでは毛頭ない、云ひたく無いから云はないのだ、 外になんにも理屈は無い、冬になれば雪が降る、夜になれば暗 くなる、腹が減ったら飯を喰うのだ、一体理屈と云ふ物は、あ とから無理に拵へてクツ付けるので、なす事、する事、始めか ら 一 々 理 屈 で 割 り 出 し て 来 る 物 で は な い 、﹂ ︵﹃ 放 哉 全 集 ﹄ 第 三 巻、筑摩書房、平成十四年、一三頁︶ 水は高い所から低い所へ流れる。朝の来ない夜はない。自然 界も人間世界も、理屈があって現実があるのではない。すべては、なるようになっているのである。この年令の放哉が、すで にこの時点で、人間の死生観、人生哲学の発言を多くしている。 藤村の投身自殺の影響がないとはいえない。 次のような諦観的人生観を主張している。 ﹁ 面 白 い 事 と 、 悲 し い 事 と 、 差 引 勘 定 零 、 此 点 に 於 て 、 何 も 思はん事となるのさ、一と二と三と加へて、一と二と三を引け ば差引勘定零、此処に於て何も無い事となるのさ、花が咲いて、 花 が 散 っ て 、 何 も 無 い 事 と な る の だ 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 人 間 が 、 此 の世に生れて来て、十歳で死なうが、二十歳で死なうが、乃至 百歳で死なうが、皆死んでしまう、即、生と死、差引勘定零と なるのだが、即この零、即死、なるものに於ては、一だが、其 の死に至る間のプロセスに至っては実に、千変万化である。ど んなプロセスでも、死に至ると零となるけれ共、其零となる所 以のものを考えて見るのは、面白くない事ではない、否、人生 の楽しむ可き処は、そのプロセスに有るのだ。 ﹂︵同上書、一五 頁︶ 死 滅 す る と い う こ と を 前 提 と し て 、 人 間 の 生 を 考 え て い る 。 誕生は偶然であるが、死は必然である。短命か長寿かの違いは あっても、人間は必ず死ぬ。この死に到るまでの過程を、どう 過すかが、それぞれの人生だという。 考えてみれば、人間という生きものは、所詮、つまらぬ生き ものである。そのつまらぬ生きものである人間が、道徳だとか 倫理だとかを勝手に作り、それが正道だとして他の生物を圧し ようとしている。笑止沙汰である。 この若さで、人間の近代的﹁知﹂の偽善と傲慢さのすべてを 体得していたとは思はないが、なぜか、放哉の心中には、主知 主義的なものへの懐疑がふつふつとしているように思える。つ ま ら ぬ 人 間 が 、 自 惚 れ て 勝 手 に 万 物 の 霊 長 な ど と い っ て い る 。 放哉はランタンに次のように語らせている。 ﹁ 人 間 位 、 悪 好 な 者 は な い 、 し か も 、 針 の 穴 程 の 智 慧 を 持 っ て居て、それで、自惚加減と来たらまるで御話しにならない奴 さ、第一、人間を製造する事が出来ない様な、智慧で以て、そ れで、万物の霊長とは、どーした者だ、動物には、理性が無い だ の 、 猿 に は 毛 が 三 本 足 り な い だ の 、 大 き な 御 世 話 だ 、 乃 至 、 鳥は空を飛ぶ物だの、飯は食う物だの、しかも、俺等の仲間は、 生命なきもの、意識なきもの也と、抜かすでは無いか、チャン チャラ可笑くって、御臍が、御茶を沸かして、煮えこぼれてし まうは、人間が勝手にこしらえた、一人ヨガリの理屈とか、道 理とか云ふ物を見給え、こんな愚にも付かん事が、よく云はれ た物さ、 ﹂︵同上書、一六頁︶ 一 高 在 学 中 と い う 若 さ で 、 放 哉 は 人 間 、 お よ び 人 間 社 会 に 、 すでに背を向け、人間の英知と呼ばれるものに大きな疑問を抱 いているのである。 その後の社会生活において、このことは実に大きな意味を持
つことになった。 あるとき、ランタンは寮の三階から飛び降り自殺をした生徒 を目撃している。秋風がものさびしく吹き、冷たく、寒くなろ うとしていたとき、三階の窓から一人の若者が飛び降りたので ある。 ﹁ さ す が わ 向 陵 の 健 男 子 と か 云 ふ 丈 に 、 立 派 な 物 だ っ た よ 、 あ 、 今 思 い 出 し て も 、 気 の 毒 で な ら ん わ い 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ ツ イ と何気なく下を見ると、窓に向って立ってる人がある、青白い 月 光 に 片 頬 大 、 ゲ ッ ソ リ と こ け た の が 、 透 き 通 る 様 に 見 え る 、 し か も 眼 に キ ラ 〳 〵 と 輝 く 物 は 露 か 涙 か 、 始 め に は 、 君 等 も 知ってる例の化物連中かとも思ったが、容子がどーも変だ、一 口も物を云はないで立ってる事半時計り、俄然、ヒラリ動いた と思ふが早いか、窓から大地へ向けてツルリ、真っ逆様、ドタ リ と 音 が 聞 え た き り 、 向 陵 は 又 も こ の 寂 寞 に 帰 っ て し ま っ た 、 無 論 自 殺 さ 、 此 時 の 俺 は 、 人 間 で は 無 い が 、 恐 ろ し か っ た ね 、 どーして死ぬ気になったであらう、さつきから開いたまゝの窓 の処を見てゐると、ボンヤリと見えるのは、今のゲッソリ頬の こ け た 人 の 顔 だ 、 し か も 半 面 鮮 血 淋 漓 、 ゾ ッ と し て 眼 を し ば たゝくと、窓は矢っ張りあいたまゝで斜に月の光が昼の様、三 階から飛び居りて死ぬる、何とした、はかない運命で有ったら う、 ﹂︵同上書、二二頁︶ 人間というものは、その気になれば、いつでも、どこでも死 ぬことが出来る。そして、人間の周辺には、死ぬ道具が沢山散 在 し て い る 。 剣 や 鉄 砲 は い う ま で も な く 、 棒 で も 人 は 殺 せ る 、 手拭でも殺せる。滝に落ちても死ねるし、噴火口に這入っても 死ねる。地球上には、死ぬ道具が満ちあふれているという。 ﹁ ど っ ち に 転 ん で も す ぐ 死 ね る の だ 、 生 き た り 死 ん だ り 、 そ 処 で 貴 人 は 生 き て 居 る の で は な い か 、 吾 に は 死 な う と 思 へ ば 、 何時でも死に得る、 ﹂︵同上書、二三頁︶ 放哉は、人間の死を宿命と断定している。その必然である死 に至るまでの間を人間は楽しめばいいという。 したがって、深く考えこんで気が沈むことを放哉は嫌う。沈 んでいても一日、浮いていても一日、笑っていても一日、怒っ ていても一日である。どうせ同じ一日であるなら、笑っている 方がいいではないか。 こういう放哉だから、藤村の自殺にさほど影響を受けていな いという説もあるが、私はそうは思わない。無関心をよそおい ながらも放哉は、死というものを意識し、藤村の投身自殺に思 いを寄せていたと思われる。 瓜生鉄二の次の評価を私は是としたい。 ﹁﹃ 俺 の 記 ﹄ に は ﹃ 俺 は め 入 る と 云 ふ 程 、 気 に 向 ん 事 は な い ﹄ という記述もある。放哉にとって、藤村操の自殺は、こうした ﹃ 開 放 的 ﹄ な 性 格 か ら み れ ば さ し た る 影 響 は 受 け な か っ た の か もしれない。しかし上辺では﹃開放的﹄にみえながら、奥には
﹃ 淋 し が り や の 閉 鎖 的 な 性 格 ﹄ が 潜 ん で い る 。 こ う し た 彼 の 性 格の中に巣食っている﹃孤独感﹄が、無関心を装いながら死に 憧れる放哉と、藤村操とを結びつける役割を果たしていること は否めないであろう。 ﹂︵瓜生鉄二﹃流浪の詩人・尾崎放哉﹄新 典社、昭和六十一年、五二頁︶ ﹁ 人 生 不 可 解 ﹂ が 多 く の 若 者 の 流 行 語 と な り 、 立 身 出 世 、 金 銭的欲望などといった栄華の道を捨て、内観的に生きる道を憧 憬していくところに、この時代の若者の存在理由があった。 放哉もこの雰囲気から完全にのがれていたとはいえない。 ﹁俺の記﹂のなかで、いま一つ注目しておきたいことがある。 それは酒についての放哉の思いである。酒と放哉は切っても切 れ な い 関 係 に あ り 、 彼 の 生 涯 は 良 く も 悪 く も 酒 と 共 に あ っ た 。 この﹁俺の記﹂のなかに、酒と放哉の将来が、すでに見え隠れ している。放哉は酒が好きだ。こよなく酒を愛した。酒癖が悪 く、他人に迷惑をかけ、どうしようもない放哉だと指摘する人 は多い。 ﹃ 海 も 暮 れ き る ﹄ と い う 名 著 を 書 い た 吉 村 昭 も 、 酒 癖 が 悪 い ことが放哉を破滅させたと断言している。 ﹁ 放 哉 に は 生 ま れ た と き か ら 酒 癖 の 悪 い 根 が あ る ん で す ね 。 で す か ら 、 こ れ は ど う し て も 治 る わ け は な い 。﹂ ︵﹁ 尾 崎 放 哉 と 小豆島﹂ ﹃私の好きな悪い癖﹄講談社、二〇〇三年、二二六頁︶ と吉村はいっている。 たしかに、短い一生ではあるが酒で失敗している場面が何度 も何度もある。 生 命 保 険 会 社 時 代 は い う ま で も な く 、 一 燈 園 そ の 他 を 経 て 、 終の住処となった小豆島の南郷庵の生活にいたるまで、酒を除 いては語れないほどの放哉の人生である。 しかし、これはすべて失敗だったのか。私にはそうは思えな い。酒も飲まず、大声もあげず、権力の奴隷となって従順に生 き 、﹁ 善 人 ﹂、 ﹁ 良 民 ﹂ と 呼 ば れ る こ と を 放 哉 は 嗤 っ て い る の で はないか。こういう人もいる。 ﹁放哉は、人間知性の過信を軽視し、世俗のモラルを嗤った。 つまり、 〝まとも〟はくだらなかった。 ⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮人は、放哉 を飲んだくれといい、忘思の徒と蔑すんだ。しかし、そうでは なかった。酒こそ、放哉に俳句と真実を伝えた思寵であった。 ﹂ ︵上田都史﹃放哉の秀句﹄潮文社、昭和四十七年、一∼二頁︶ 放哉は、酒を飲まない人間、飲めない人間などに、酒につい て語るなという。 ﹁ 酒 を 呑 ま ぬ 人 間 と は 、 即 酒 を 呑 ん で も 呑 め な い 、 遂 に 酒 の 味を解する事が出来ない人間であるから、こんな人間は、酒に 付 て か れ こ れ 云 ふ 価 値 の 無 い 者 で あ る 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 一 寸 云 っ て置きたいのは、酒を呑むと云ふ事と、大酒をすると云ふ事を 混用してもらっては困まる、過度と云ふ事は、総てに於ていか ん。 ﹂︵ ﹃放哉全集﹄第三巻、三二頁︶
大酒は困るというが、酒の効用、これまたきわめて大切なこ と だ と い う 。 気 持 が 大 き く な る 。 愉 快 に な る 、 無 邪 気 に な り 、 豪傑気取になれるという。 酒が身体に害だという人がいるが、そんなことはないと断言 する。 一 杯 の 酒 も 飲 ま ず 、 世 俗 の 道 徳 に 拘 束 さ れ て 生 き る こ と が 、 そ ん な に 高 貴 な こ と か 。 ま た 、 長 命 が 人 生 の 最 終 目 標 な の か 。 放哉はこの若さで、そのことを悟っている。 ランタンは次のようにいうのである。 ﹁ 僕 に 云 は せ れ ば だ 、 春 雨 に 叩 か れ た ら 猶 枝 に ク ッ 付 い て 、 まっ青に恨めしさうな梅の花よりも、寧ろ一夕の狂風に満枝を ア ッ サ リ と 辞 し て 去 る 桜 花 を 好 む の で あ る 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 短 か い小便を垂れて、小さい糞をして百迄生き延びた処で何になる、 大飯を喰って、大糞をたれて、宿命五十年でアッサリとやりた い で は な い か 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 余 け い な 事 だ が 、 我 輩 が 、 屢 々 、 禁酒会員とか、禁酒会とか云ふ事を耳にする、この位可笑い物 は無いと思ふ。 ﹂︵同上書、三三頁︶ 一 高 時 代 に 、﹁ 三 天 坊 ﹂ の ペ ン ネ ー ム で 書 い た ﹁ 俺 の 記 ﹂ を 覗 い て 、 放 哉 の 青 春 の ひ と こ ま に ふ れ て み た 。 こ の ﹁ 俺 の 記 ﹂ を貫いているものは、時折、揺さぶられはするが、放哉の全生 涯の根底に存在する一本の赤い糸のような気がする。 2、西田天香との出合い 明治四十二年、東京帝国大学法学部を卒業した放哉は、日本 通 信 社 に 入 社 す る が 、 あ っ と い う 間 に 退 職 し て い る 。 明 治 四 十 四 年 に 、 東 洋 生 命 保 険 株 式 会 社 に 就 職 す る 。 こ の 会 社 は 、 のちに帝国生命と合併し、戦後は朝日生命となる。 大正三年には、東洋生命保険会社の大阪支店次長となり、次 の年は東京に戻り、東京本社の契約課長となる。 大正九年には、東洋生命保険会社を退職。一時、郷里の鳥取 に帰るが、大正十一年に、朝鮮火災海上保険会社の支配人とし て朝鮮に渡る。不退転の決意で仕事に没頭。しかし、翌年に退 職している。次に満州に渡るが、左湿性肋膜炎のため、満鉄病 院に入院。その後帰国する。郷里の鳥取には帰らず、従弟のい た長崎に住む。ここで静養しながら寺男のような仕事を探すが、 適当なものがなく、ついに大正十二年の十一月二十三日、京都 の一燈園に入園することになる。この日は新嘗祭の日であった。 放哉自身の言葉を引用しておこう。 ﹁ 長 崎 か ら 全 く 無 一 文 、 裸 一 貫 と な っ て 園 に と び 込 み ま し た 時の勇気というものは、それは今思ひ出して見ても素晴らしい ものでありました。何しろ、此の病体をこれからさきウンと労 働で叩いて見よう、それで くたばればる 0 0 0 0 0 0 位なら早く くたばって 0 0 0 0 0 しまへ、せめて幾分でも懺悔の生活をなし、少しの社会奉仕の 仕事でも出来て死なれたならば有難い事だと思わなければなら
ぬ 、 と 云 ふ 決 心 で と び 込 ん だ の で す か ら 素 晴 ら し い わ け で す 。 殊に京都の酷寒の時期をわざ〳〵選んで入園しましたのも、全 く如上の意味から出て居ることでした。 ﹂︵ ﹁入庵雑記﹂ ﹃放哉全 集﹄第三巻、筑摩書房、平成十四年、八五頁︶ これは、大正十三年十二月十五日に、須磨寺から、放哉が東 洋生命保険会社で課長をしていたときの部下であった佐藤呉天 子にあてた手紙の一部である。 現世のあらゆるものを放下して、奉仕活動をはじめて、少し 経過した頃のことである。孤立無縁の状況のなか、ふとこの佐 藤のことを想い出し、実社会での惨めな生活の経過を、そのま ま吐露したのである。放哉は、この手紙の内容については、極 秘にして欲しいと佐藤に強く念を押している。 放哉は法学部で学んだが、法律に関するものより、哲学や宗 教に関するものに興味を抱き、鎌倉の円覚寺にもよく出かけた という。 東京帝国大学法学部を卒業すれば、官僚の道が大きく開けて いた。しかし、放哉はその道を嫌った。銀行を希望したが、次 のような助言で保険の世界に入ったという。 ﹁ 官 吏 ト 謂 フ モ ノ 、 虫 ガ 好 カ ズ 、 銀 行 ニ 入 ラ ン ト セ シ ニ 、 穂 積陳重先生ノ話シニ、保険界ニハ大シタモノナキ故、寧ロ、保 険界ニ入ル方上達ノ道早カル可シトノス、人ニヨリ、玆ニ保険 界ニ入ル。豈ハカランヤ、保険界ニハ人物ナケレドモ、利口ナ 人 ノ 悪 イ 人 物 ハ 雲 ノ 如 ク 集 リ 居 ラ ン ト ハ 。﹂ ︵﹃ 放 哉 全 集 ﹄ 第 二 巻、筑摩書房、平成十四年、六六頁︶ 指導教授の指摘通り、大人物はいないが、悪知恵のはたらく 利 口 な 人 物 は 多 い と い う 。 正 直 を 自 分 の 道 と し て い る 放 哉 に とって、ここはストレスの醸成所であった。 放哉が最初に手痛い仕打を受けたのは、彼が大阪支店に赴任 したときだという。 ﹁最初ノ不平ハ、小生大阪支店赴任ノ時ヨリ始マル。 ⋮⋮其当 時ノ支店勤務ノ人々ノ中ニテ、小生東京ヨリ来タナラバ、酒ト 女デ殺シテ帰シテシマウ方針ニ議一決シ居タリトハ﹃神﹄トテ 知ランヤ。之ハアトヨリ其謀議ニ加ハリシ人々ヨリ洩レシ也。 ﹂ ︵同上︶ 酒 が 好 き で 、 酒 癖 の 悪 い こ と が 、 す で に 、 会 社 中 に 知 れ わ たっていたのであろう。放哉のような帝大出身の純粋な人間な ど、その場におれないようにすることぐらい、赤子の手を折る ようなものであったにちがいない。 じつにいやらしい世界であった。悪知恵のはたらく族に放哉 は利用された。 ただ重なる陰謀、策略に疲れはてた放哉は、ついに辛抱しき れず、謀略、偽善のない世界に飛翔したいと思った。 ﹁ 個 人 主 義 ノ 我 利 〳 〵 連 中 ニ テ 充 満 サ レ 、 十 一 ヶ 年 間 ノ 辛 抱 モ遂ニ不平ノ連続ニテ、酒ニ不平ヲ紛ラシ、遂ニ辞職スルニ至
ル。其ノ時小生、最早社会に身を置くノ愚ヲ知リ、小生ノ如キ 正直ノ馬鹿者ハ社会ト離レテ孤独ヲ守ルニ如カズト決心セシナ リ。 ﹂︵同上︶ この時点で放哉は、もうこの俗社会からは離れ、孤立無援の 世界に徹しようとしたのである。 しかし、その時である。周囲からの声があった。もう一度頑 張 れ ! と の 声 で あ る 。 そ の 誘 い を 放 哉 は 受 け て し ま う 。﹁ 凡 人 タル小生、猶未練アリ。又、ノコ〳〵ト郷里ヨリ上京ス、 ﹂︵同 上︶ということになる。これが、朝鮮火災海上保険会社の件で ある。 この件を引き受けた放哉は、朝鮮に渡り、新会社の支配人と して、決死の覚悟でのぞんだ。これで、もし失敗すれば、死を 選ぶか、僧侶を選ぶしかないと断言している。 新会社の基礎も、人間の育成も順調に進み、積立金において も相当の業績をあげ、これからというときに、突然、社長より 退職命令がくだされる。 やはり、ここでも放哉は酒で失敗している。大学の同期生で あ っ た 丸 山 鶴 吉 が 、 朝 鮮 総 督 府 の 政 務 総 監 と し て 京 城 に い た 。 酒 を 飲 ん で 、 あ る 日 、﹁ 丸 山 は い る か ﹂ と 大 声 で 総 務 官 邸 へ 押 し か け た と い う 。 親 し さ の 余 り と い う こ と も あ る が 、 丸 山 に とっては大変な迷惑だったのであろう。 自分は、なにも恥じることはないが、東洋生命のときと同様、 悪質な人間が、社長にいろ〳〵と吹きこんだに違いないと放哉 はいう。 余 り に も 急 な 退 職 な の で 、 友 人 た ち の 借 金 の 返 済 も 出 来 ず 、 放哉は満州に飛ぶことになる。佐藤への手紙は次のように続く。 ﹁満州デ一働キシテ借金ヲ返サネバ死ヌニモ死ナレヌト考エ、 長春辺迄モ遠ク画策ヲシタノダガ、寒気ニアテラレ、二度 左肋 0 0 膜炎 0 0 ニカヽル。満鉄病院長ノ言ニ肺炎甚弱クナッテ居ル、三度 目ノ肋膜ハ最モ危シトノ事。天ナル哉命ナル哉。借金ヲ返ス事 モ出来ズ、事業モ出来ヌ。此時、妻ト﹃死﹄ヲ相談シタ。此ノ 時ノ事ハ今想ヒ出シテモ悲壮ノ極也。人間﹃馬鹿正直﹄ニ生ル、 勿 レ 、 馬 鹿 デ モ 不 正 直 0 0 0 ニ 生 ル レ バ 、 コ ン ナ 苦 労 ハ 決 シ テ セ ス 也。 ﹂︵同上書、六七頁︶ 東 洋 生 命 か ら 朝 鮮 火 災 に い た る ま で の 放 哉 の 失 敗 の 多 く に 、 酒があることは明らかであるが、それだけが原因かということ と、酒に走らせたものの究明がなされねばならない。 そもそも、放哉がこのような世界で、思う存分生きれるはず がない。放哉という魚は、それまで一度たりとも水を得ること は出来なかった。 普通の常識人が耐え、その体制に自分を合わせて生きる、そ のことが彼には出来なかった。それでも、何度も何度も、自分 をいつわって、体制、組織と共に生きようとはした。 しかし、所詮、放哉には無理であった。
この十一年という歳月は、決して短かくはなかった。放哉に とって、この地獄の体験は、苦しかったが、大きく成長させて くれる時間でもあった。 藤村操が﹁人生不可解﹂といって、投身自殺をし、すべてを 放下したように、放哉も、この虚偽の世界を完全に放棄し、理 想の世界に飛び込みたかった。ウソ、偽のない世界、それは死 の世界である。その死のために生きたかった。 西田天香の一燈園の下座奉仕の世界に突入することは、放哉 のそれまでの生活からみれば、死地に赴くようなものであった。 托鉢奉仕は、彼にとってのいわば生活革命であった。そうで あるはずなのに、なぜか、放哉のこの決断には、悲壮感のよう なものはない。西田天香に心酔している様子もない。 一燈園がつくられたのは、明治三十八年であるが、この頃か ら大正にかけて、にわかに、修養団的な組織が生れ、それなり の運動が展開された。 伊 藤 証 信 の ﹁ 無 我 苑 ﹂、 蓮 沼 門 三 の ﹁ 修 養 団 ﹂、 田 沢 義 鋪 の ﹁青年団運動﹂などがそれである。 伊藤証信は、明治三十八年六月に﹁無我の愛﹂という機関誌 を出して、東京郊外の巣鴨の﹁大日堂﹂を﹁無我苑﹂と称した。 そこで自炊生活をし、無我愛の伝道を開始している。 ﹁無我愛﹂の創刊号の巻頭にこうある。 ﹁ 吾 人 の 期 す る 所 は 、 我 が の 世 界 を 亡 ぼ し て 無 我 の 愛 の 世 界 を 建設せんとするにある也。吾人は、自力主義、我利主義の基礎 に立てる現代の思想界を根底より破壊して、個人の心霊の上に、 他力主義、利他主義の大理想を実施せしめんとするもの也。吾 人は、現代社会の裏面にせる人類の苦痛煩悶を根本的に除 去し、個人の心霊の上に、絶対的幸福の妙境を開顕せしめんと するもの也。 ﹂︵千葉耕堂﹃無我愛運動史概観
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付伊藤証信先 生略伝﹄無我愛運動史料編纂会、昭和四十五年、二六頁︶ い ま 一 つ 、 蓮 沼 門 三 の ﹁ 修 養 団 ﹂ の 例 を あ げ て お こ う 。﹁ 修 養団﹂が創設されたのは、明治三十九年である。創設の思いを 蓮沼は次のようにのべている。 ﹁ つ ら つ ら 世 の あ り さ ま を 見 れ ば 、 滔 とう 々 とう と し て 我 が 利 り 我 が 欲 よく に 趨 はし り、自己のためのみをはかって他人を顧みるの暇なく、人を引 き落しても、噛み殺しても、自分の懐に金が入り、おのれの立 身 が で き る な ら か ま う も の か と 、 互 い に 毒 どく 舌 ぜつ を 吐 は き 、 毒 剣 を 揮 ふる っ て 修 羅 の 巷 を 現 出 し 、 互 い に 血 潮 を 流 し て お る 。⋮⋮ ︵ 略 ︶ ⋮⋮あふるる熱誠は、現世の状態を黙視するに忍びず。やまん としてやむあたわざる憤慨の念は、ついに誠心ある青年の一大 団結となり、修養団は組織されたのである。 ﹂︵ ﹃蓮沼門三全集﹄ 第十巻、蓮沼門三全集刊行会、昭和四十四年、一〇四∼一〇五 頁︶ 国家的人間像や立身出世的人間像は後退し、人格の向上、修 養 を 積 む こ と が 期 待 さ れ る 世 情 が 強 く な っ て い た 時 期 で あ る 。こういった状況のなかで西田天香の一燈園も誕生したのである。 一燈園での生活をふりかえって、放哉は次のようにのべてい る。 ﹁ 京 都 の 冬 は 中 々 底 冷 え が し ま す 。 中 々 東 京 の カ ラ ッ 0 0 0 風 の や うなものぢゃありません。そして鹿ヶ谷と京都の町中とは、い つでもその温度が五度位違ふのですからひどかったです。一体、 園には、春から夏にかけて入園者が大変多いのですが、秋から かけて酷寒になると ウン 0 0 と減ってしまひます。いろんな事が有 るものですよ。扨それから大に働きましたよ、何しろ 死ねば死 0 0 0 0 ね 0 の決心ですから怖いことはなんにもありません、園は樹下石 上と心得よと云ふのが モットー 0 0 0 0 でありますから、園では朝から 一飯もたべません、朝五時に起きて掃除がすむと、道端で約一 時 間 程 の 読 経 を や り ま す 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 先 方 に 参 り ま し て ま づ 朝食をいたゞく、それから一日仕事をして、夕食をいたゞいて 帰園します。帰園してから又一時間程読経、それから寝ること になります。何しろ一日中くたびれ果てゝ居ることとて、読経 がすむと、手紙書く用事もなにも有ったもんぢゃない、煎餅の や う な 布 団 に く る ま っ て 其 の 儘 寝 て し ま う の で す 。﹂ ︵﹁ 入 庵 雑 記﹂ ﹃放哉全集﹄第三巻、八五∼八六頁︶ この文章で、一燈園の生活の概略はわかる。放哉はこの生活 は予期してはいたが、それまでの人生では経験したことのない、 いわば生活の革命であったかもしれない。 まだまだ、病後の身体で、しかも、すでに若くはない。園内 の 集 団 生 活 で 、 精 神 も 肉 体 も ボ ロ ボ ロ に な り 、 残 さ れ た 道 は 、 どこまで自分を責め切れるかということであった。 なんとしても、自分の煩悩を放下し、他のために身を投げだ し、余力のあるかぎり、奉仕せんとした。多くの宗教書、哲学 書を読み、禅寺にもこもる体験もしている放哉が、西田天香の ﹃懺悔の生活﹄をどのように評価していたのか。 実践の面で天香は、たしかに先導者であり、開拓者であって、 そ の 点 に 関 し て 、 放 哉 が 太 刀 打 出 来 る は ず は な か っ た 。 大 正 十三年八月二十二日、一燈園で放哉が兄事した住田蓮車あての 手紙で彼はこうのべている。 ﹁私が、コノオ寺に、アナタの御世話で来させていたゞいて、 落付いて居られるのも、結局、天香サンに御目にかゝってから、 入園させていたゞいてこうなったのですから、其の因縁を感謝 しまして、其の通りを、天香サンに御礼申しました次第であり ま す 、 私 ハ 正 直 者 な ん で す か ら 、 ア ナ タ の 御 言 葉 の 通 り 慥 に 、 天香サンハ、先導者であり開拓者であります、そうして、私の 尊敬する点を、ウンと持って居らっしゃる方で有ります、故に、 今后益々、天香サンの御指導を、お受けする考で居るので有り ます、之は決して人后に落ちないのであります、 ﹂︵ ﹃放哉全集﹄ 第二巻、筑摩書房、平成十四年、四五∼四六頁︶ 住田への手紙の内容が、放哉の天香にたいする真意かどうか、
疑問が残るが、一応世話になった謝辞をのべている。それにし ても余りにも御世辞にちかい謝辞のように私には思える。 入園して、まもなく放哉は、この西田天香にたいし、疑問を 持ち始める。 天香は、なぜ講演ばかりしてあちこちを動き回るのか、そし て、また、書物を出版するための原稿も問題である。放哉にし てみれば、そういうことはどうでもいいことで、天香は、ただ 懺悔と奉仕の実践をしていればいいと思っている。天香は講演 も奉仕活動と思っているかもしれないが、そうではあるまいと 放哉は思う。 放 哉 の 独 断 か も し れ な い が 、 天 香 の 言 動 が 売 名 行 為 に 見 え 、 彼が俗物に見えてきたのであろう。 大正十三年の九月二十二日に、住田蓮車にあてた手紙で放哉 は次のようにのべている。 ﹁ 天 香 さ ん と 敦 賀 ⋮⋮ ぢ ゃ な い 、 舞 鶴 に お 伴 し た 時 、 一 夜 寝 てから、天香さんが﹃尾崎さん、あなたは私が各地方で講演す る の を ど う 思 い ま す か ﹄ と 問 わ れ た か ら 、 直 に 、﹃ 私 と し て は 非常に面白くないと思ひます。ヂッとして坐はって居られるあ なたを欲します。 ﹄と答へた事がありました。 ⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮只々、 又ナニカ﹃本﹄を出版されるために原稿を書いて居られるやう な事は万々あるまいとは思ひ、且希望する次第であります、書 くことは不必要であり、シャベル事は蛇足でありませんか、如 何でせう。 ﹂︵同上書、五三∼五四頁︶ 黙って講演を続ければいいではないか、なぜ、天香は放哉に そのことを聞いたのか、それが問題である。天香自身にも、な にかしらうしろめたさがあったのか。 懺悔だの、奉仕だのといいながら、天香は、いまや自分の利 益のために明け暮れているように放哉には思えたのである。 いま一つ、放哉がどうしても許せなかったのは、一燈園に付 随した﹁宣光社﹂という財団の管理を依頼してきたことである。 一燈園で生れ、育ち、天香の教えを長年受け、一燈園の燈影 学園の学園長の任にながくついていた相大二郎は、この一燈園 と宣光社についてこうのべている。 ﹁ 一 燈 園 は 無 所 有 を 旨 と し ま す が 、 有 名 に な る と 天 香 さ ん に 家や土地などを寄進する人が出てきます。それらをどう扱うか 思案した天香さんは、事業体としての宣光社をつくり、そこで 預かるようにしたのです。以来、生活共同体としての一燈園と 宣 光 社 が 一 燈 園 生 活 の 車 の 両 輪 と な り ま す 。 放 哉 が 一 燈 園 に 入った頃はそうした転換期に当たり、そうした全容を放哉は理 解 で き な か っ た の で は な い で し ょ う か 。﹂ ︵﹁ 源 泊 の 俳 人 ・ 尾 崎 放哉と西田天香﹂ ︿ Viewpoint, 2019. 8 ﹀世界日報 月刊ビュー ポイント編集部、七一頁︶ 天香は、放哉の健康状態、年令のことなどを考慮して、デス ク・ワークをと思ったのかもしれないが、放哉にとっては、屈
辱ともとれるものであった。 金銭を扱うような俗世界のことが嫌で、この一燈園にたどり ついたにもかかわらず、天香は、なぜ、自分に再びそのような 道を押しつけようとするのか。放哉は即座に断っている。 宣光社の仕事を受けるくらいなら、なにも生命保険会社など の仕事を捨てることはなかったのである。 井泉水は、この放哉の心情を次のように代弁している。 ﹁ 放 哉 は 金 銭 に 関 係 す る こ と に 嫌 悪 を 感 じ た れ ば こ そ 、 会 社 をやめて無一物の生活に飛び込んだのではないか。消費の合理 化とか、バランスとか、そうしたことに頭をつかうことがいや になったればこそ、一燈園に飛び込んできたのではないか。と ころがその一燈園で、天香さんが、またしても、自分にソロバ ン を 持 て と 言 わ れ る の か 、
︱
そ れ で は 自 分 の 気 持 の 置 き ど こ ろ が 全 く な い で は な い か 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 自 分 は 経 理 と い う よ う な世界を出てきたのだ、それがまた経理の世界にはいるのでは、 まったく自分の決意の逆転になってしまうではないか、会社と いう組織を出て、一燈園という組織の中にはいる。それでは自 分のポストが変わったということにほかならない。自分の心の 更生の方法にはならないのではないか︱
放哉の気持はこうい うことにあった。 ﹂︵荻原井泉水﹃放哉という男﹄大法輪閣、平 成三年、三三∼三四頁︶ すべてを放擲して一燈園に入った放哉の心情を天香はどの程 度理解していたのか。放哉にしてみれば、天香の無理解に驚愕 したのであろう。 放哉は放哉なりに、この一燈園で死力を尽し、人のため、世 のために奉仕活動に全力を傾けるつもりでいた。しかし、この ようなこともあって、天香の人間性に放哉は疑問を持ちだした。 天香は純粋な宗教家ではなく、宗教を事業としている俗人では ないか、といった思いが放哉の心をとらえはじめたように思う。 次第に、放哉の気持は、一燈園から離れていった。 3、南郷庵にたどりつくまで 南郷庵は、小豆島土庄の町はずれにある西光寺の奥の院であ る。ここを放哉は終焉の地とした。 一燈園を出てから、京都智恩院常称院の寺男、兵庫県の須磨 寺の大師堂の堂守、次に福井県の小浜町浅間の常高寺の寺男な ど、転々としながら、一燈園の知人、小針嘉朗を頼り台湾へ渡 ることも考えた。 いささかの報酬も考えずに、放哉に同情する人たちがいてく れた。南郷庵にたどりついたのも周囲の人たちの温情によるも のである。 南郷庵に入庵したのが、大正十四年八月二十日であるが、そ れより前、七月三十一日に、荻原井泉水に次のような葉書を出 している。﹁ 〇 淋 シ イ 処 デ モ ヨ イ カ ラ 番 人 0 0 ガ シ タ イ 、 〇 近 所 ノ 小 供 ニ 、 読 書 ヤ 、 英 語 デ モ 教 エ テ 、 タ バ コ 代 位 モ ラ イ タ イ 、 〇 小 サ イ 庵 デ ヨ イ 、 〇 ソ レ カ ラ ス グ 、 ソ バ ニ 海 ガ ア ル ト 、 尤 ヨ イ 、 済 ミ マ セ ン ガ 、 タ ノ ミ マ ス 、 今 、 十 二 時 ヲ 打 ッ タ 処 朝 五 時 カ ラ 、 身 体 ノ ウ ゴ キ 通 シ デ 、 手 足 ガ 痛 ミ マ ス 、 ヤ リ キ レ 申 サ ズ 候 、﹂ ︵﹃放哉全集﹄第二巻、九七頁︶ 放哉のために、いろいろと思案してくれている井泉水は、二 度、小豆島を訪れている。最初訪れたのは、妻を連れての旅で あった。二度目は、妻、母、子供をなくし、遍路の旅であった。 こ の い ず れ の と き も 、 井 泉 水 は 、﹁ 層 雲 ﹂ の 関 係 で 、 地 元 の 有 力者井上一二、西光寺住職の杉本宥玄のお世話になっている。 そのことがあって、放哉の小豆島行きを、井泉水は、井上に 依頼し、井上は杉本にも相談したのである。 井上は、いろいろと探してみるが、いま、すぐにというわけ にもいかず、適当なものが見つかるまでは、島へ来ることはや めてくれと、井泉水に知らせた。しかし、放哉はすでに小豆島 に向っていたのである。 八月十一日に放哉は井上に次のような手紙を書いていたので ある。 ﹁ 拝 啓 、 誠 ニ 突 然 ノ 事 デ ア リ マ ス 、 恐 縮 千 万 御 許 シ ヲ 乞 ヒ マ ス、先日、井師カラ御願シテイタヾイタ通リノ事情デ何トカ御 世話様ニナリ度イト思イマス、何分、已ニ四十歳ヲ超エマシタ ノデ、ハゲシイ労働ハ、到底、ツトマリマセン、ソコデ、簡単 ナ御掃除ト御留守番位デ、ドッカ、庵ノ如キモノヲ、オ守リサ セテイタヾキ度御願致シマス、ソレニ、小生、海ヲ見テ居レバ、 一日気持ガヨク、之ガ、一番ピッタリ来マスノデ、之等ノ条件 ヲモッテ井師ニ相談シマシタ処、ソレデハ、一二氏ニ相談スレ バ、ナントカ方法ガツクダロウト云フノデ、先日ノ御願トナッ タ ワ ケ デ ア リ マ ス 、⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 突 如 相 済 マ ヌ ガ 、 直 接 貴 宅 御 伺シテ、イロ〳〵、御目ニカヽツテ御話シタリ御願シタリシタ 方ガ好都合ダロウト云フ事ニ井師ト御相談シマシテ、此ノ願状 差出シ、小生、明晩カ明后晩、当地出発、貴宅御訪問スル事ト キメマシタ、 ﹂︵同上書、九七頁︶ 井泉水との強いつながりを強調しながら、きわめて不遜な手 紙を書いたものだと思う。 ここには放哉の高圧的態度がでていて、自分は東京帝国大学 出身で、俳句の世界でも、そこそこ知られた人間である。井上 な ど そ の 点 、 土 地 の 素 封 家 と は い え 、⋮⋮ 。 自 分 を 援 助 し ろ と でもいいたげである。 井上一二にしてみれば、放哉の件は、信頼している井泉水か らの依頼であるから、無下に断るわけにもいかなかった。真の 気持は、厄介者が突然飛び込んできたと思ったにちがいない。 南郷庵に入って、しばらくして、井泉水にあてた手紙のなか で、放哉は、この井上一二の真の姿を見抜いている。九月十一
日のことであった。井上という男は、想像していた通り、如才 無い男で、表と裏ではかなりの違いがあることを放哉は知った。 井 上 の 巧 み な 話 を 聞 い て 放 哉 が 喜 ん だ の も 束 の 間 の こ と で あった。 ﹁全く神仏に御礼申して、 ﹃我が命、猶あり﹄と有頂天になっ て喜んだのも無理もないではありませんか、 ソレガ 0 0 0 、物の一週 間 モ タ ヽ ヌ 内 ニ 突 然 、 フ ラ リ 0 0 0 と や っ て 来 て 、﹃ ド ウ モ 0 0 0 、 前 ニ 話 した通りにハ行かぬそうだ、 マア 0 0 二月カ三月カ、避暑の考で遊 ん で 居 給 へ 、 ナ ン デ モ 0 0 0 0 自 分 の 処 か ら 持 っ て 来 る 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 実ハネ、今、僕ニハ、弟の別家、朝セン土地問題︵水害ありし により︶等イロ〳〵重大問題があるので、実ハ、全く、 君の問 0 0 0 題 ナ ン カ に 0 0 0 0 0 、 関 係 し て は 居 れ な い 事 情 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 な の だ よ ハ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ﹄ と 来 た も の で す 、 於 玆 、﹃ 有 頂 天 ﹄ ハ 直 ニ ﹃ 那 落 ﹄ の 底 ニ 落 ち ざるを得んではありませんか、 ﹂︵同上書、一二六頁︶ 文面通りのことを井上が放哉にいったかどうかについては問 題 が あ る か も し れ な い が 、 事 実 だ と す れ ば 、 放 哉 に と っ て は 、 この上ない屈辱であった。 そうこうしているうちに、西光寺の住職、杉本宥玄より朗報 が届いた。庵が一つ空くかもしれないということであった。放 哉は、この宥玄の話を聞いて、泣いて喜んだのである。 しかし、また、放哉が気力を喪失するような話を、井上一二 が南郷庵を訪れて話したのである。それはこういうことである。 南郷庵には収入源というものが無いに等しい。あるとすれば、 三月から五月にかけて、訪れてくれる御遍路達の喜捨のみであ る。それも百円程度で、いろ〳〵と経費を差引くと、五〇円ほ ど で あ る 。 一 ヶ 月 四 円 程 度 で 生 活 す る こ と に な る 。 こ れ ま で 、 この南郷庵にいた寺男は、近隣に葬儀があれば、手伝いに出か け、晩飯を食べて帰るとか、いろ〳〵工夫して、辛じて生活し ていたという。 井上は放哉に死の宣告をしに来たようなものである。 この井上の話しに放哉は驚き、やっと死場所が見つかったと 思い感涙にむせんでいたのに、急転直下、地獄へ突き落された 感がしたという。西光寺の宥玄は放哉に同情し、放哉の心配を 無用といってくれた。ただし、このことは井上には極秘にして くれという。井上の言辞には次のような裏があったようである。 手紙の日付は前後するが、荻原井泉水に放哉はこのようにのべ ている。 ﹁ 何 故 井 上 氏 ガ 西 光 寺 サ ン ニ 私 ノ 身 体 ヲ 、 タ ノ ム 0 0 0 事 ヲ エ ン 0 0 リョ 0 0 スルカトキイテ見ルト、近ク、西光寺サンニ﹃本堂﹄ヲ新 築スル計画アル由、早速井上氏ハ、寄付金者の第一人者ラシイ、 ソレデ、私ノ事ヲ、万事、西光寺サンニ任セルト、ナルト、其 ノ寄付金ノ方ヲ、自然、タクサン出サナケレバナラヌト云フ様 ナ⋮⋮早ク申セバ⋮⋮事ニナル、ソレデ、井上氏ガ大ニ、エン リョシテ居ルノダソウデス、 ﹂︵同上書、一一〇∼一一一頁︶
放哉は、西光寺の杉本住職の言葉に感謝し、泣いた。この住 職の温情に依存して、この小豆島で、安らかな死を迎えること が出来ると、安堵した。 放哉は流転の旅で身心ともに疲れはてていた。紆余曲折を重 ね、まともな収入のある生活から離れて三年というものは、浮 草のごとき生活で、安眠することはなかった。 次 第 に 、 む し ば ま れ て ゆ く 自 分 の 肉 体 を 知 っ て い た 放 哉 は 、 せめて、最後に、安心して死ねる場所が欲しかった。その場所 がこの南郷庵だった。ここに入庵出来たことは、なんと幸せな 男だろうと放哉は思った。欲望の支配する現実世界とは無縁の 魂の救済場所であった。神も仏もまだ自分を見捨ててはいない と思った。 南郷庵を世話してくれた西光寺の住職、杉本宥玄に次のよう な謝辞をのべている。 ﹁ 啓 、 御 手 紙 、 一 字 、 一 句 、 涙 を 以 て 拝 誦 、 私 の 如 き 感 情 に もろい男は、全く御親切に泣かされました、よろしく御願い申 します、一二氏の話に大に驚いた結果が、ヤケ酒となり、まあ 之が私のワルイくせ、今後は絶対ヤメます、そして御親切に感 涙して朝から木魚を叩いて句作する放哉に帰ります、御安心を ね が ひ ま す 、 朝 ば ん の オ 光 り は 必 ず た や し ま せ ん 、 実 は 一 夜 、 漁師の子供四人と、月明に、仏崎から舟を出した、一人で呑み ながら泣いてゐた様な有様御笑ひ下さいませ⋮⋮今後は、何も かも、御まかせ致します。玉句いたゞきました、 アタマ 0 0 0 も、ヒ ゲもそって、明日頃から、オ風呂いたゞきに、まゐります。心 か ら 御 礼 申 し ま す 、 何 と も 、 感 謝 の 辞 の 申 上 げ 様 も あ り ま せ ん。 ﹂︵同上書、一〇九頁︶ 流 れ 流 れ て や っ と 辿 り 着 い た こ こ は 、 放 哉 の 念 願 で あ っ た 、 独居無言の生活空間であった。 4、南郷庵に住んでみて 南郷庵は、放哉にとって、どのような場所であったのか。 一燈園にはじまり、次々と住み処を変え、ついに辿り着いた 南郷庵は、待望久しかった安住の地たりえたのか。 南郷庵の間取を放哉は次のように描いている。 ﹁ 庵 は 、 六 畳 の 間 に お 大 師 様 を ま つ り ま し て 、 次 の 八 畳 が 、 居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです、其次 に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくっ 付いて小さい土間に竈があるわけであります、唯これだけであ り ま す が 、 一 人 の 生 活 と し て は 勿 体 な い と 思 ふ 程 で あ り ま す 。 庵は、西南に向って開いて居ります、庭先きに、二タ抱へもあ らうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護して ゐ る か の や う に 、 日 夜 松 籟 潮 音 を 絶 や さ ぬ の で あ り ま す 。⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮東南はみな塞がって居りまして、たった一つ、半間四 方の小さな窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります、此の
窓 か ら 眺 め ま す と 、 土 地 が だ ん だ ん 低 み に な っ て 行 き ま し て 、 其 間 に 三 四 の 村 の 人 家 が た っ て 居 ま す が 、 大 体 に 於 て 塩 浜 と 、 野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁計り 行くと小高い堤になり、それから先きが海になって居るのであ ります。 ﹂︵ ﹃放哉全集﹄第三巻、六二∼六三頁︶ 放哉は喜び、南郷庵に手を合わせた。待ち望んでいた独居無 言の生活で、俳句を思いきりつくりながら、静かに死を迎える ことが出来るであろうことが、最高の幸せであった。 うそも謀略も虚偽もないところで死ねることは、放哉にとっ て、なにものにもかえがたい至福の世界であった。 南郷庵に来て、放哉が何よりも喜んだのは、念願の海が見え ることであった。ことのほか海が好きだった彼は、海を慈愛深 い母のようだという。海について放哉はこうのべている。 ﹁私は生来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、 波 音 を 聞 い て 居 る と 、 大 抵 な 胸 の 中 の イ ザ コ ザ 0 0 0 0 は 消 え て 無 く な っ て し ま ふ の で す 。⋮⋮ ︵ 略 ︶⋮⋮ 私 は 、 ご く 小 さ な 時 か ら よ く山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとっ て来るに従って、山はどうも怖い⋮⋮と申すのも可笑しな話で す が 、⋮⋮ 親 し め な い の で す な 、 殊 に 深 山 幽 谷 と 云 っ た や う な 処に這入って行くと、なんとはなしに、身体中が引き締められ るやうな怖い気持がし出したのです、丁度、怖い父親の前に座 らされて居ると云ったやうな気持です。処が、海は全くそうで は無いのであります、どんな悪い事を私がしても、海は常にだ まって、 ニコ 0 0 〳〵 0 0 して抱擁してくれるやうに思はれるのであり ます。全然正反対であります。 ﹂︵同上書、六八∼六九頁︶ どのように海が荒れようと、そのために舟がコナゴナになろ うと、怖くない、いつでもしっかりと抱いていてくれているよ うだと放哉はいう。海は慈愛深い母で、無条件で自分を抱擁し てくれる。続けて放哉はいう。 ﹁ 父 の 尊 厳 を 思 ひ 出 す 事 は 有 り ま せ ん が 、 い つ で も 母 の 慈 愛 を思ひ起すものであります。母の慈愛
︱
母の私に対する慈愛 は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であ り、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善 人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を⋮⋮その大 願 を た て ら れ た 仏 の 慈 悲 、 即 ち 、 そ れ は 母 の 慈 愛 で あ り ま す 。 そして、それを海がまた持って居るやうに私には考へられるの であります。 ﹂︵同上書、六九頁︶ 人間誰しも、人為的なものによっては、いかんともしがたい 悩みが、押寄せてくることがある。この人為的なものによって 解決できない悩みを、自然は救済してくれる。それが海であっ たり、山であったりする。放哉の場合、海が強烈であった。 庭の掃除、木魚を叩いて般若心経と観音経を読経し、それ以 外 の 時 間 は 俳 句 を 作 る と い う 南 郷 庵 の 生 活 は 、 放 哉 を 救 っ た 。 放哉をとりまく自然の環境はすべてよしといったところである。しかし、彼をとりまく人的環境は、そうではなかった。南郷 庵で暮している放哉を見るムラ人たちの眼は、それは冷やかな も の で あ っ た 。 放 哉 の 心 臓 に 突 き さ さ る よ う な 声 と 雰 囲 気 が あった。 島 崎 藤 村 が 、﹁ ス ト レ ン ヂ ャ ー の 悲 哀 ﹂ と い う こ と を 書 い て いたのを思い出し、そのとき涙なしには読めなかったが、それ よりも、もっと悪辣なものが、この島にはあったという。 この島にも丸山真男が指摘した日本の村落共同体に類するも のがあったのであろう。丸山のいう村落共同体をあげておこう。 ﹁同族的︵むろん擬制を含んだ︶紐帯と祭祀の共同と、 ﹃隣保 共助の旧慣﹄とによって成立つ部落共同体は、その内部で個人 の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避 する情緒的直接的=経営態である点、また﹃固有信仰﹄の伝統 の発源地である点、権力︵とくに入会や水利の統制を通じてあ ら わ れ る ︶ と 思 情 ︵ 親 方 子 方 関 係 ︶ の 即 自 的 統 一 で あ る 点 で 、 伝 統 的 人 間 関 係 の ﹃ 模 範 ﹄ で あ り 、﹃ 団 体 ﹄ の 最 終 の ﹃ 細 胞 ﹄ をなして来た。 ﹂︵ ﹃日本の思想﹄岩波書店、一九六一、 四六頁︶ どこの馬の骨ともわからぬ放哉が、南郷庵に住んでいるとい うだけでも、島民にしてみれば、面白くないか、それとも奇人、 変人に見えたのか。とにかく、島の土着民にとって、放哉は気 になる存在なのである。 放 哉 と は 一 体 、 何 者 な の か 。 高 松 の 人 間 か 、 岡 山 の 人 間 か 、 元役者だったのかもしれない、資産家の息子が養生に来ている のだ。お遍路さんからの収入だけで、どうして生活しているの か。動物園の動物を見るがごとく、鵜の目鷹の目、放哉は包囲 されていたのである。 たまりかねて放哉は、十二月二十八日に井泉水に次のような 手紙を書いている。 ﹁ 此 島 ノ 土 着 ノ 住 民 ︵ 何 代 モ 何 代 モ 住 ン デ ル ︶ に か ん し て ゞ あります、之レ等﹃土着民﹄ハ他国から移住して来て此島デ生 活 ス ル 人 々 を 常 ニ ﹃ 異 端 者 扱 ひ ﹄ に し ま す 、 そ し て 常 ニ 、﹃ ウ ノ目タカノ目﹄で其ノ人々ノ行動ヲ見テ居テ、一寸シタ事があ ると、直ニ之を同人土着者間ニフレ廻りて悪口を申します、故 ニ他国から移住した連中ハ常ニ小サクなって居なけれバナリマ セン、 ⋮⋮自分ノ生レタ︵土︶ ⋮⋮郷里ヲ見捨て、他国デ生活ス ルト云フ事ハ已ニ其ノ間、何等かの悲シイ﹃歴史﹄ガ有ルニ相 違ありません⋮⋮此ノアハレナ旅人⋮⋮ストレンヂャーを彼等 土着民ハ、同情ヲ以テ見ズシテ、カエッテ機会アレバ、之レヲ ハネ出し追イ出サントシテ常ニ﹃異端者﹄トシテ注意ヲ怠ラナ イ⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮コンナ連中ガオ大師サン信心モ何モアッタモン デスカ、 ⋮⋮全くアキレ返ルトハ此事ニ候、 ﹂︵ ﹃放哉全集﹄第二 巻、二九一頁︶ 土着民の根性とこのムラの雰囲気というものを、ほぼ正確に 把握しているように思える。小豆島のなかでも、この土庄町の
人間が、もっとも悪知恵のはたらく人間が住んでいると放哉は いう。 大正十五年一月九日には、やはり井泉水にあてて放哉はこう 書き送っている。 ﹁ だ ん 〳 〵 島 の 生 活 が 長 く な っ て 来 る と 、 色 々 な 事 が わ か っ て 来 ま す 、 此 間 も 、﹃ ス ト レ ン ヂ ャ ー ﹄ の 悲 哀 の 事 を 一 寸 申 し 上げましたが、一体、此ノ小豆島全体の中で此ノ土庄町の人間 が一番﹃悪がしこく﹄内海といふ処や其他、皆よい処だそうで す⋮⋮ ︵略︶ ⋮⋮此ノ土庄町と云ふ処ノ住民ハ、ドウモイロンナ 点カラ見て敬神、敬仏の念も無し、又、人情も無し、只、悪が しこくて、オ金ヲホシガル連中ガ多いらしいニハ困った事です な﹂ ︵同上書、三〇七∼三〇八頁︶ このような雰囲気のなかで、西光寺の住職のような人間に会 えて放哉は幸せであった。この島で彼が心をかよわせることが 出来たのは、限られた人たちであった。 そのなかでも、放哉の病状が悪化し、床に伏すようになって から、彼を世話してくれた南堀シゲさん︵この人は〝さん〟を つけて呼びたい︶がいる。近くの漁師南堀菊松の妻である彼女 は、西光寺の檀徒で、熱心な信者であった。西光寺に依頼され て、南郷庵の掃除をしたり、お大師様のみがきをしたりしてい た。放哉は咳が激しく、のどが痛くて困っていたが、糸瓜の水 をしぼってくれ、また、キンカンとクチナシを煮て持って来て くれた。夫の菊松は、台風で破壊された雨戸などを修理してく れる。 放哉が床から起き上ることが出来なくなると、身の回りのす べての世話を、シゲさんはしてくれる。何度も御礼を渡そうと したが、彼女は絶対受け取らない。 病状がひどくなり、死期が近づいてくると、シゲさんは、朝、 粥を作って、そこに卵を入れてくれる。夫が海で釣ってくる魚 を細かくほぐして、その粥のなかに入れてくれる。 子どもたちが好きだからといって、シゲさんは赤飯をつくり、 それを粥にして持ってきてくれる。 便秘と下痢が日常となっていた放哉は、便秘のときは、死ぬ 思いで﹁りきむ﹂が、結果腸が肛門からとび出す。とび出した 腸を、押し込もうとすると血だらけになり、まさしく死闘の繰 り返しとなる。 あるとき、放哉は便器を抱くようにして倒れていた。シゲさ んが彼を抱えるようにして、布団まで運んでくれた。便所まで 行けなくなった放哉のために菊松は便器を作ってくれた。下の 世話までシゲさんはしてくれた。 放哉の最期を直観したシゲさんは、菊松に放哉を頼み、自分 は西光寺に走った。そしてまた、南郷庵に帰った。菊松が抱い ていた放哉を自分が引き取った。放哉はシゲさんに抱かれて目 をつぶった。
いかなる報酬も拒絶し、他人から陰口の一つや二つささやか れたであろうに、シゲさんは懸命に放哉を支えた。妻も親族も、 財産も地位もすべて放下し、無一物、裸になった放哉は、至福 の晩年をシゲさんにいたゞいたのである。 5、 ﹁鉦叩き﹂と﹁石﹂ 最 後 に ﹃ 入 庵 雑 記 ﹄ に 登 場 す る ﹁ 鉦 叩 き ﹂ と い う 昆 虫 と ﹁石﹂にふれておきたい。 い ろ い ろ と 不 自 由 な こ と は あ っ た が 、 放 哉 は こ の 南 郷 庵 で 、 はじめて自分一人の世界を持つことが出来た。そのことは無上 の喜びであった。 この島での人間関係は別として、この南郷庵を取り巻く自然 の息づかいは、放哉の目も耳も心も、やさしくつつみ、癒やし てくれた。夕闇がせまり、一日が暮れてゆくとき、煩わしさか ら は 解 放 さ れ て い る と は い う も の の 、 人 と の 交 渉 が な い の は 、 淋しい。 しかし、自然界は静寂を装ってはいるが、きわめて、にぎや かな世界がある。南郷庵の周囲にはいろいろな草花がある。雑 草もすごい。そのなかで、虫たちが鳴いている。涼しさが増し てくるといよ〳〵その鳴き声が多くなる。放哉は夜ははやく寝 る。暗くなれば、蚊帳を吊って、なかで横になる。 ﹁ ヂ ツ 0 0 と し て 聞 い て 居 ま す と 、 そ れ は 色 々 様 々 な 虫 が な き ま す、遠くからも、近くからも、上からも、下からも、或は風の 音の如く、又波の叫びの如く。そのなかに一人で横になって居 るのでありますから、まるで、野原の草のなかにでも寝てゐる やうな気持がするのであります、か様にして一人安らかな眠り のなかに、いつとは無しに落ち込んで行くのであります。その 時 な の で す 、 フ ト 0 0 ︵ 鉦 叩 き ︶ が な い て る の を 聞 き 出 し た の は