神学的現実
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(2) 44. 小. 林. 謙. -. するためには役に立たない。ただ,現実を変えて理想を実現する,また逆に理想の実現を 妨げる,というとき,その主体は倫理的に考えられた人間であって,神や悪魔ではない。 この点は後の本論の問題にかかわる。)そこでそれを分類して,社会的現実をさまざまの 視点から整合的にとらえる試みがなされる。とりわけ経済は,最近の東ヨーロッパの変動 を見ても,日本の現状を見てもわかるとおり,きわめて大きな力であり,人間と歴史を動. かす基礎的な要因のようである。しかし,経済も政治も,現実の全体とはいえず,その認 識にも完全な客観的確実性を求めることはできない。 このような,現象の奥または彼方にあると予想される,究極の現実を,哲学者たちはと らえようと務め,またとらえたと信じるo二,三の例がすくoに思いうかぶoデカルトの問. 題は,外界の事物および考える自我の実在ということであり,つまりは確実な現実認識の 問題であった。プラトンほ,長く厳しい訓練に耐えた哲学者の知性の限にのみ見えるイデ アの世界を真の実在とし,感覚界から現実としての権利を奪う.ストア派にとっては,世 界と人間を貫くロゴス(理法)が高次の現実である。このような考え方は,ごくおおまか にいって,ヘーゲルとも共通する。有名な『法曹学』序文である。自然の国家(社会)杏 貫いて,同一の理性的な論理つまり精神が,通っているoそれが概念によって法則,さら に学としてとらえられるのである。けっして個々の偶然的・悪意的な事象や,直接的覚知 (感覚)でとらえられるものだけが現実として存在するのではない。 このように,個人の主観的理性からその現実性を奪い,超個人的な客観的精神と合法則 性にのみ十全な現実性をみた--ゲルに反対して,キルケゴール(あるいほむしろ仮名の ヨハネス・クリマタス)ほ,. 「主体性(Subjektivitat)が真理であるo主体性が現実であ. る」2)と宣言するoひ・らたく言えば,個人の精神の自由の主張であるo このような思想の 塑も,上の型と並んで,ヨーロッパの精神史のなか紅たえず生きているように見える.シ ソフィストの (カントも?),また古代ギリシャのソフィストたちo 兼高たることを誇るプラグマテイストにとって,現実の認識とは,すでに客観的に与えら. ュライエルマッ--. れた理法の再発見ではなく,アモルフな混沌に人間主体また知性が形を与え,秩序をつく り出すことである.こういった考え方は,ベルクソソにも実存主義にも.共通するo ひるがえって東洋ではどうであろうか。筆者はこの方面でほあまり確かなことは言えな いが,おおまかに見て,現実とはありのままの「自然」であるととらえる傾向が強いと思 われる。丸山寅男は日本人の歴史意識の「古層」として一貫する自然観を「つぎつぎに・ なりゆく・いきほい」とまとめている3'。まさに歴史の自然化にはかならない。日本人の. 感覚にとって, 「歴史」は現実性の度がうすいようで,歴史ほたえず「自然」に解消され る債向を示す。源了囲も,原始時代から古代の日本の自然観において「ある」ではなく 「生成」. (なる)が第一の価値であって,ここから生産・生殖の重視が帰結することを説. いている4'0. 日本に決定的な影響をあたえた中国の自然観も,. 「オノヅカラシカルモノ」. とまとめられる5)。日本人の現実観ほ,単純化していうと,パルメニデス・プラトンに典 型的にあらわれているように,不変の,絶対の「ある」ではなく,むしろ存在を「なる」 (Werden)ととらえる-プライ的思考6)に近いのは興味深いところであるo. しかしそれは.
(3) 神. 学. 的. 現. 実. 45. また,たえず変化する流れの,そのつどの現在に集中し7),変化の底または後方に,変化 の法則もしくは不変の理念を求めない点で,ヨーロッパ的思考と異なり, 「つくる」を見ない8). 「なる」の底に. (「つくる」とほ,日本人の思考でほ,すでに限の前にあるものの配. 置を変えることにすぎない)点で,. -プライ的思考と異なる。. このような特徴は日本の言語にもみられる。日本語ほ,ヨーロッパの諸言語とほ違っ. て,状況からの独立性が希薄である。敬語がその代表であることほ言うまでもない。ま た,一人称を状況に応じて使い分けなければならない。二人称・三人称代名詞を普遍的に 使うことができない。多くの場合その代わりとして,名詞,特に固有代名詞が(というよ りむしろ実物そのものが)何度でも文のなかに登場するo. ヨーロッパの言語のように,い. ったん文のなかに入ったら,あとほ人称代名詞で押し通す,つまり状況から切り離された 言語の世界を独立させる,という債向が,日本語では弱い。つまりありのままの状況が唯 一の現実で,言葉はそれに従属し,それを模写するのが役目である。思考の構造がプラト ニズムと逆の向きになっている(ヨーロッパの言語を規定しているプラトニズムの根強さ を′あらためて思う)。まして,ストアのようにことば(Logos)を宇宙原理に高めたり,≡. -ネ福音書のように人格化しでとらえる(内容的には逝に え方とは対極的である。. Logos. の人間化であるが)考. じっさい,独創的な日本の学者が規模■の大きな独創的な説を出すと,歴然と日本的な特 徴を示すように思われる(仏教やキリスト教の日本化という大問題はさておいて)。いく つか例をあげれば,岸田秀(すべてが,とりわけ形而上的なるものは,幻想であるとする 心理学)。今西錦司(生物ほ進化するべくして,現にあるように進化してきた,という進 化論)。大森荘蔵の「重ね措き」の認識論(常識的見方への接近)。湯川秀樹や岡潔にもこ ういう債向がある。いずれも, 「あるがまま」の存在と, 「おのづから」の変化を拠りどこ ろとしていて,超越の視点がほいってこない。西田幾太郎の「即」の弁証法は(それでは 「歴史」の入る余地がない,ということのほかに)自覚的に内在の立場に固執する。日本 の神学者も,独自の思考を深めれば深めるほど,同様の懐向を示すo八木誠一(人格神が 肴薄化して,神学が内在的な宗教哲学になり,禅仏教に近づく)。田川建三(自覚的な唯 物論の立場に立って,福音書を明快に分析する)o 本稿では,上に略述したいくつかの現実観とほ異なる,神学的な現実観を明らかにしよ うと試みる。そのさい,現実のとらえ方が最も明瞭に神学的であると思われるカール・バ ルトを主に取りあげたいと思う。 1.第一の現実と第二の現実. 「言うまでもなく,塾塞が問題なのだ。しかし現実とは何のことか?この概念の導入 が致命的に重要な意味をもちうる,ということを,ひとは見抜かねばならぬo神の言葉に おいてわれわれに明らかにされたような,命じる神と行動する人間との出会いのできごと が,現実ではないとでもいうのか?」9)創造論の枠のなかでの倫理学において,現実とは このように,. 「神と人間との出会いの歴史」. (Ⅲ/4, 27),出会いのできごとであって,そ.
(4) 小. 46. 林. 謙. れ以前の「現実」はないのである。同じことほ, 現実」. (Ⅲ/4,. 44,. 一. 「イエス。キリストにおける神の恵みの. 662u.. passim)と言い換えられる.これがわれわれの出発点である. 神学的なPerspektiveで見る,あるいほむしろ信仰の限で見る現実であるo創世記1-2 章の創造物語も,福音書の復活の記事も,伝説(Sage)の形でのみ表現されうる現実を記 述しているのであって(Ⅲ/1,. 88ff.,. Ⅳ/1, 370f.),歴史学(Historic)の言語だけが現. 実をとらえうるのではない。ただしここで注意しなければいけないのは,このような見方 は決して鳥撤(tJberblicken)的になってはならず,まして世界を外から傍観することと 取り違えられてはならない,ということである。常に神との出会いのできごとのただ中 で,この現実認識はなされる。哲学がしばしばおちいる誤りであるが,神の限は人間に与 えられてほいない。神の限で見た現実は,ただイエス・キリストに集中する啓示において のみ,それもいまだ不完全な形で,われわれに明らかにされるだけであるo. しかしさら. に,この神学的現実認識は常に部分的にとどまる,というのも正しくない.啓示は完全に 首尾一貫しているので,神との出会いの地点から,世界の歴史を統一的にとらえることは 可能である。それどころか,完全な真理ほ神のもとにしかないのであるから,その啓示を 正しく受け取ったキリスト教徒は,終末論約留保をつけてではあるが,唯」正しい歴史把 握をなしうる,と神学は主張できるのである。 この神と人間の出会いという出発点から,その前と後を見ることができる。前とは神ご 自身の現実,いわは第一の現実である、。後とほ世界と人間の現実,いわば第二の現実であ る。バルトはRDⅡ/1の第6章を「神の現実性」と題し,. 500ページ近くを費やして,. この主題について言えることをほぼ述べつくしている。ここではその中のいくつかの点を 取り上げたいと思う。 まず時(Zeit)について(Ⅱ/1,. 685H.)o 神の時すなわち永遠性(Ewigkeit)が真の時. であって,われわれが考える時は永遠性の写し,比聴にすぎないo 時間の不完全さが生じ,それがわれわれにもどかしさを感じさせる.. ここから,われわれq). (たとえば,われわれ. の時は一次元・一方向の狭さに閉じ込められていて,人間は過去と現在と未蹄紅引き裂か れて生きるはかない)。人間の時をもとにして,永遠性をただ無限に長く続く時間と考え るのは誤りである.永遠,すなわち豊かな充溢としての其の,完全な時ほ,われわれの所 有ではない。それは終末において実現する。 空間(Raum)についても同様である(Ⅱ/1,. 518fE・).空間の第一の現実は神の遍在 (Allgegenwart)および神の空間性(R良umlichkeit Gottes)であって,われわれの不完全 な空間はその写しにすぎないo. しかし,このことにはまた肯定的な意味もある。われわれ の空間ほ(そして時間も),世界と人間にたいする神の働きかけ,行為の舞台として造ら れた,という決定的な意味を有するのである。 カ(Macht)について。. 「捜里カ,したがって皇妃(A. (Ⅱ/1, 589.強調ほ原著者)o. llmacht)が,__塾窒タカなのだ」. 力の強い人間や動物をもとに類推して,. 「神を一種のスー. パーマンと考える」10)のほ倒錯である。またこの本来のカは善であることが注意されなけ.
(5) 神. 学. 的. 現. 実. 47. ればならない。これを誤って抽象化し,中立化した「力それ自体というものは悪である」 (589)0. 数学的な-. (Einheit)の根拠も神の-性である(Ⅱ/1,. 498ff・).パルメニデスやピタ. ゴラスはこのこ,とPこ幾分か気づいていたかもしれない. (Ⅱ/1, 734).. 「神は美しい・.・・・・到達不可能な原美(Ursch6nheit)として,美しい」. 「ま. さに神的本質それ自体が美しい.まさにこの神的本質それ自体から,糞とほ何かが読み取 られる。次いで,まさにこの本質のなかに,われわれ被造物の実の概念が,再び見出され (740). 「神はあぁゆる真理とあらゆる善の源であるだけ たり,されなかったりするのだ」 でなく,またあらゆる糞の源である」. 最も美しい学問である」. (749)。それゆえ,神学は「あらゆる学問のうちで. (740)0. こういう思考の構造はパルトに一貫している.つまり,神のもとに真の現実があり,こ の世と人間の現実はそれの比聴(Gleichnis),類比(Analogie),しるし(Zeichen),また 対応(Entsprecbung)である,というとらえ方である。いくつか例を挙げよう。神が,あ らゆる自然(Natur),人格存在(Personsein),精神(Geist),知(Wissen),意志(Wol1en)の,前提にして根拠である(Ⅱ/1,. 611u.. passim)o教会と聖書,また国家と社会. 紘,それぞれ違った意味で,神の国の比聴である(Ⅳ/3,. 131,. 967,. u・. passim)11'。結婿. はキ.)ストと教会の関係をモデルとしており,父と子の関係ほ三位一体の父子関係を原型 としてもつ(Ⅲ/4,. 315u.a.m.)。人間の死さえもがそうである。 663)。 べての人間の死の前提である(Ⅲ/4,. 「キリストの死が他のす. 「神はあらゆる真正の可能性(M6glichkeit)の尺度(MaJ3)である.そしてまさにこの 可能性のあらゆる現実化において,神があらゆる真正の現実(性)の尺度である。神が事 故自身を繰り返し(wiederh.olen),また確証する場となるすべてのものが-そしてそれ だけが一現実的なのである。実にそのために神は世界と人間を創造したのだ。つまり世 界と人間は神の自己活動の舞台,道具,また仕え人たることが許されており,またその.よ うなものたるべく定められている」 (Ⅱ/1, 598)。この引用に,神学的な現実のとらえ方 がまとめられている。. まず,すべてが可能だということはない。人間と物贋の存在と行数・・思考が,いかに無 限の多様性を示し,無限の可能性を秘めているように見えようとも,そこには限界があ り,その限界の外紅神がいるのであるo 次に,神による可能性の現実化ほ,けっして自動的なものでほないoいまわれわれが主 に参照しているKDⅡ/1,第6章の最初の§28の表題「自由において愛する者としての 神の存在」が表しているように,自由な愛,いわば理由のない恵みが,その根拠にして尺 度だ,ということである.われわれは,現実また特に現実の基盤というと,なにか確固不 働のものというイメージを抱きがちであるが,しかし実は,われわれの(第二の)現実 ほ,それ自体では根拠なく宙に浮いているのであって,第一の(究極の)現実たる神の意 志によって造られ,支えられているからこそ,現実性を得ているのである.そしてまた, ではこの第一の現実こそ確固不動だ,と誤解してはならない.そのような異教的に神を.
(6) 48. 小. 林. 謙. 一. 「純粋なimmobile」と規定するのほ,実は神の恒常性(Best孟ndigkeit)を「死という最 後の現実」と取り違えているのにほかならない(II/1,. 555f.).神は自由な,すなわち動 く着である。さらに,この神の意志が愛,すなわち善なる意志であることが重要である.0. KDⅢ/1,. §42, 1・の表題「慈愛の行為(Wohltat)としての創造」に端的にあらわれて. いるように,世界と人間の存在はよいことである。第一の現実のゆえに,存在は価値中立 的ではなく,善なのである。神学はペシミズムを斥ける。 三番目のこrとはすでに何度も述べてきたo第二の現実ほ第一の現実の類比として,第一 の現実を(不完全ながら)写し(また映し),繰り返す。 冒頭に引用したユソゲルの論文ほ・ルターの義認論を手がかりにして,可能性に兜する 現実性の優位というアリストテレス以来支配的な形而上学を反駁して,可能性の存在論的 優位の復権を要求することを趣旨としている。そこでほバルトはほとんど参照されていな い(一度だけ脚注でふれられる)が,本稿の関心からほ,ユソゲルの主張ほ,ここに略述 したバルトの現実性に関する思想の敷街(Paraphrase)にほかならないと思われる(エン ゲルがバルトの神論について著した本12'の高幡も``Eine Paraphrase''であった)oここで 言う可能性とは神の自由のことであり,それはそれ自身が根拠であってそれ以上の根拠を もたず,この神の自由の原決定(Urentscbeidung)が,われわれのあらゆる現実の根拠だ からである。本稿そのものもまた,バルトの創造論の基礎たるべき部分についての「一つ のパラフレーズ」である。. 「つまり神は万物について,それが存在することに基づいて知 るのでほなく,逆に,神が万物について知っていることに基づいて, 万物が存在するのだ (Ⅱ/1, 629.強調ほ原著者)。 このような神学的現実観ほ,その形式的棒造だけを見れば,プラトンのイデア論といち じるしい類似を示す。バルト自身,人間主義に全面的に侵された近代神学を蒐服する,紘 粋に神学的な神学を求めていた形成期に,他の何人かの思想家とならんで,プラトンから も深い衝撃を受けている。しかしこの二つの思想の内容ほ,深淵にへだてられているよう に,根本的に異なる。プラトンの思考の運動はエロ-スであって,地上から上昇の方向を もつ.そして目指されるべきイデアの世界ほ不変不動である.これに対.L,キリスト教的 思考の運動ほアガペーがもとになっていて,上から下へ向かうoそしてその主体は神であ り,神は行為(Tat)の,つまり自由と愛の神であって,地上へおりてきて歴史をつくる。 神の存在は動きと生成(Werden)にある.つぎに何よりも,世界ほこの神による無カラ ノ創造(creatio ex nibilo)であって,永遠のイデアの世界の写し,というのではない。 もっとも, 『ティマイオス』や『法律』の,後期のプラトンは,キリスト教の創造説にい っそう近づいているようである。しかしそこでもイデアの先在ほ保持されており,また言 うまでもなく,そこでの神々やデーミウールゴスほ,聖書の神でほ全然ないoキリスト教 からは,創造の神は和解と救済の,また摂理と完成の,神と不可分である。神学的にいえ ば,神の創造めわざの理解にほ,キリスト諒と三位一体論の前揖が不可欠だ,ということ である。.
(7) 神. 学. 的. 現. 49. 実. 2.人間の現実. 前に人間の人格や精神も第二の現実であることにふれたが,ここでもう少し詳しく述べ ることにしようo. 精神(Geist)についてはKDⅢ/2・. §46・特に・. 2・. 「心(Seele)と体の根拠としての 「人間. 精神」に論じられている。要点は,精神は神との関係である・ということであるo. 紘,精神をもつことによって,あ旦。人間が精神をもつということは,しかし・人間が自 分の体の心として,神によって根拠づけられ,構成され,保持される,ということであ 「聖書にしたがえば精神は,人間にたいする神のわ呈 る」 (Ⅲ/2, 414.強調は原著者)o (436・ (中略)人間を生あるものとする」 (werk),人間-の神の塵塾(Gabe)であって・ dei),比愉で 強調は原著者).人間の・精神存在はこのように・神から贈られた像(imago. ぁ813,.精神はそれ自体で立つものと考えるのは,神学的に払高ぶり(Hochmut)であ り,罪であるo. r人間は人格(Person)三重旦のではないo人間は,神に愛されること・そして自分の 方でも神を愛してもよいのだということ,このことに基づいて,人格に包旦のである。 (中略)神が人格そのものである○ ぁる」. (中略)われわれ人間ではなく・神が塾(Icb)なので. (Ⅱ/1, 319・強調・は原著者)o人間は自分になぞられえて神を考える・つまり擬人. 化(Personi丘zierung),というのがフォイユルバッ-以来の近代人の神観であるが・これ ほ倒錯であって,人間の方が神になぞらえてPersonとされているのである(305)oこの ことを具体化してバルトはさらV-驚くべきことを述べるo話し・行動し・聞き,苦しむ・ といったことも,第一には神とイエス・キ1)ス-ついていえることであって・次いでた だその模像・反映として,人間にもそうできるのであり・さらに・神の手・足・口・軌 日といった,ふつう擬人的(antbropomorph)と思われている表現も,実はそうではない のであって,人間の手その他の方が像(imago)・写しなのである(320f・)。なお,理性 (vernunft)も,信仰において神の声を聴きとる(vernebmen)ことが・その起源である (Ⅲ/2,. 156,. 478f・)0. (Ⅱ/1・ 323ff・)も興味深いo これに関してバルトが近代精神を批判しているExkurs 啓蒙主義からイデア1)スムス,ロマン主義と--ゲル学汎さらにその影響下にあった近. 代神学を通じて,神はPersonではない,いわばもっと高級な存在だ・との主張が一貫す (近代の)人間こそが絶対的な主体でなけれ る。その秘密は,神が主体であってほ困る・ ばならない,神は人間の認識の(そしてその認識に服従する)客体であってほしい,とい ぅ願望にほかならない○このような神の非人格化は中世カト1)シズム哲学と同じであるo ens. summun. bonum,. perfectissimum, そこでは神は,旧新約聖書の神とは大いに違って・ (中性的な)概念にされたoこのことは思考の構造から またactus purusというふうに,. して必然的である.つまり,中世および近代は・主体たる人間,実在たる自然から出発し. て,上方に向かい,神にいたろうとする.第一の現実が人間また存在であるから・神は目 標,つまり客体でしかありえないのであるo (中略)それ 要するに, 「人間であるということは・遡上と如⊆塵旦ということであるo.
(8) 50. 小. 林. 謙. 一. ほ,神からの存在 である」 (Ⅲ/2・ 167・強調は原著者)○この句が導いている節ほ§ 「3・現実の人間」という題をもってるが,これが以下, §45でrl・イエスー他者のため の人間」・. 44,. 「2・人間性の根本形式」,さらに「3・比倫と希望としての人間性」へと展開され. るoここにおいて,イエスを模範として,人間性の根本的成定が他者との共両性であり, それが男と女としての人間存在にもっとも鮮明に表現されていることが詳説される14).杏 稿の主題からして重要なのは次のことであるo 「男と女の関係の背後には,創世紀2章と. 『雅歌』における描写(Bil°)に明らかなように,ひとつの塵塵(Urbild)が圧倒的に立 っている.すなわち,狸,ヤ-ウェ-エロヒムの,かれの民イ・スラエル にたいする関係が」 (Ⅲ/2・ 358・強調は原著者)o人間の現実の最深の成定は, §45の表題「神の契約相手へ と競走された人間」にも明らかなように,神との契約(Bun°)である。契約は, §41, 「3・創造の内的根拠としての契約」に詳説されるように,創造にも先立ち,またⅣ/1, § 57,. 「2・和解(Vers6hnung)の前提としての契約」および「3・破られた契約の成就」. が示すように,和解論とも不可分であり,つまり教会教義学全体を緊密に結ぷ一本の糸で あるから,人間論の根底となるのも当然である。 人間との関係をいちおう捨象して神自身について述べるのがⅡ/1,第6章で,これにつ いてはすでにかなり触れてきたが,今の論点に関して一言付け加えたい.人間の共同人間 性への虎定は, 「契約」をも越えてさらに,神自身の現実にその根源をもつからである。 「まさにこの最内奥・つまり神の栄光において,神は共同性(Gemeinscbaft)を求めかつ. 見出し,創り出し・保持し,統治する着であり,丑A3,自己自身において,それ故またさ らに神の外部にあるものすべてに対しても・園塵(Beziehung)笠塾旦,あらゆる関係の 根拠にして原像なのである」. (Ⅱ/1, 723.強調は原著者)0. これまで其の現実の根源といった次元のことばかり述べてきたが,人間(および世界) に関する科学はどのように位置づけられるのであろうかoバルトは「精密科学」が対象と する現実と神学的現実との遣いをも明瞭に論じている(Ⅲ/2, 12ff・, 25ff., 237ff.).これ について今詳しく縮介する必要ほないと思うが,要点を述べようo科学は「現象で満足す るほかない」 (12)o科学は「外面的な」 「部分的現象」, 「今のところほこうだという瞬間 像」を轟示できるだけで・ 「人間の現実にふれることほなく,ましてそれを根拠づけたり, 説明したり,. 〔科学の言語で〕言い換えたりすることほできない。しかし科学は人間の講. 可能性の全充溢をあらわにする」. (26)o 「科学は現実の人間の〔神学的〕認識から由来で (中略)人間の諸現象(Phanomene)を, 〔現実の〕人間の徽 侯(SylnptOme)として理解し,評価できる」 (241)○こうして科学は,相対的に肯定的 き・その認識を前捷でき・. な評価を得,神学的現実に基づく・その現れ,形(Formen・. 237)としての位置づけを 得るo本稿の言い方を応用すれば・いわば第三の現実,ということになるo (さら軒こまた, 観念論駒倫理学や実存哲学,有神論的人間学についても,一定の限界内で,同様のことが 言えるo. 239f・)ただし・ 「精密科学が自己の先端的言明や仮説を絶対化したり, -つの哲 学や世界観の代弁者や構成要素になったり,つまり精密でも科学でもなくなってしまうよ.
(9) 神 うなことがあれば」. 学. 的. 現. 51. 実. (26),それほキ.)スト数的現実観に敵対することになるo 3.創られた現実. 「数学の公理」でも・ 「いわゆる月然法則」でも, 神の現実は「経験可能な事実」でも, 「一言でいえば,われわれがふつう現実と称するものの総体 「運針や「星座」でもなく, (中略)神の言葉は創られざる現実であり,神自 が現実的であるようにほ,現実でほないo (Ⅰ/1, 163・強 身と同一であり,それゆえ一般的に現存し確定可能・というのでは旦k:」 調は原著者).それに対して,われわれの第二の現実は,. 「創られた現実」 (164u. passim) 523・. 593u・. passim)o である。被造物を「(神とは)別の現実」という表現も多い(Ⅱ/1, 「神自身によって現実-と高められたものとしての,神の外部の現実」という言い方もさ れる(620)。人間は神によって「存在-呼び出され」,. 「神の意志によって現実を主星旦塾. 生」,そしてそれは「墓室里現実」なのである(班/4,. 42・強調は筆者)oたとえば,人間. の栄誉は神の栄誉の「盈痘(Entsprechung)また重畳に土星吐が,しかしまたそれな りの仕方で堂萱なのである」(728・強調は原著者)oれわれの現実ほ,神のそれ紅較べれ ば,まったく非本来的であるが,しかし仏教的な(またグノーシス的な)思想とは異な § 42の1・ り,世界も人間も,幻影や虚妄ではないのであるo先に引用したⅢ/1・ の行為としての創造」に続く. 「慈愛. 2・が「実現(現実化)としての創造」という題をもつゆ. えんである。 4.いつぁりの現実. 何が現実で逢吐か,ということほ,これまでの記述で削ぎ明らかであると思うが,さら にいくらか付け加えておきたい。 .)プシウスの「三重の世界秩序」などほ,現実 シュライエルマッ--の「自然連関」, 595ff・)o E・プルソナーの「創造の秩序」 を暦称しているが,非現実にすぎない(=/1, 20f・・ 39ff・)o前節で挙げたものや 「自然法」 「人間の自然的理性」も同様である(Ⅲ/4・ 「人間が自由に (41)も含めて,これらふつう現実と称されるものの特故は, 「推測」にすぎず・ (41)であることで・したがって「抽象」 処理できる悟性カテゴ.)-」 「因果連関」. 「不確実」 「不明瞭」たらざるをえない(40)oすべての現男性と可能性の尺度である神と 「不可 「デモーニッシュな現実」であり, の関わりを離れた,これらいわゆる「現実」ほ・ 能な可能性」である(Ⅱ/1,. 599)0. 「神は人間なしにほならないのだから,人間の無神性も,人間の思い込みでしかありえ (Ⅲ/4・ 750)oつまり・神と人間の分裂,したがってま ない。存在論駒無神性などない」 た人間の問の分裂(-罪の現実)は最後的現実でほな(15),存在論的に深い意味では・非 現実なのである。 本来であればここで悪,熟死,夜,つまり無の「現実」を扱わなければならない(バ 蛋50, 4. 「虚無的なものの現実」,そのほか当然・神論,和解論でも論じ ルトでは皿/3, られる)のであるが,たい-ん微妙な主題で,いずれ稿を改めて論じるほかあるまいo.
(10) 52. 小. 林. 謙. 一. 5.現実の認識 ここで視点を変えて,神学約諾識の場合について短く見ておきたい。 パルトに特徴的なことであるが,神の認識に関して,その現実が先で,認識可能性はそ 25・ 26・ の後に続く。 Ⅱ/1,第5草で§ 「神認識の遂行」が§ 「神の認識可能性」に先行 し,内容的にもこの順序の必然性が論証される'oこの順序ほ神の言葉の認識についても守. られている。. Ⅰ/1・第1章・. §4・で神の言葉の(現実の)三つの姿が挙げられ,. §5で神 6 の言葉の(現実の)本質が詳説された後にはじめて・ § 「神の言葉の認識可能性」が解 明されうる。神の啓示の場合・ Ⅰ/2・ §13では,まず「1・イエス・キリスト-啓示の 客観的現実性」があり,次に「2・イエス・キリスト-啓示の客観的可能性」が来るo 「自由」に関しても,その概念が先にあって,次いでそれが神に適用される,というので はなく,逆であって,まず神が自由な着であるという現実があり,それが啓示されて,紘 じめて人間にも自由が理解可能になるのである(Ⅱ/1, 360f・)o人間の存在についても, すでに本稿第2節に引用した(Ⅲ/2, 241)ように,また§44全体の行論が示すように, 神に造られたものとしての人間の現実の認識が,人間の諸徽侯・諸可能性を正しく理解す る前揖となる。したがって人間の罪の認識も,啓示によってもたらされる現実であって, 宗教的(また哲学軌神話乱世界観的)人間が自己を内省して発見する「罪」ほ,一般 的・自然的な可能性にすぎない(Ⅳ/1,. 411f.,. Ⅳ/2, 424.)。いくらか趣は違うかもしれ ないが,祈りの場合も,聴き届けられること(Erb6rung)が先であり根拠であるから,. 願い(Bitten)が可能になるのである(Ⅲ/3,. 306).. この順序ほ教会教義学紅一貫していて,バルトの論敵からよく「啓示実証主義」と批判 されるところであるが,本稿の関心からすると,この順序は必然的であると言わなければ ならないo第一の現実ほもちろん,第二の現実も,一般的な悟性認識や感覚.による認識の 可能性の外にあるからである。これがプラトンやフォイ-ルバッ-と決定的に異なる(ヘ ーゲルの場合ほ少し事情が違うかもしれない)点であり,また方法として神学が一般的宗 教学や宗教哲学と一線を画さなければならない理由である。第二の現実は神から与えられ たものであり・つまりその存在根拠は神にあり,したがってその認識根拠もまた,神から 贈られたものである。この神学的現実認識において,認識可能性(能力)ほ,認識そのも のとともに(それに添えて,つまり論理的順序としては,その後に),人間のうち、に創ら れるoつまり・この能力(-信仰)は人間にあらかじめ内在するのではなく,啓示に後読す るのである。. この頗序は,第2節でエンゲルに関してふれた,現実性にたいする可能性の優位という 点に矛盾すると思われるかもしれないが,そうでほない。そこでほ, ′まだ世界ができる前 の神自身の内部の可能性(すなわち自由と愛)の先在ということを言ったのである。そし てこの自由と愛にもとづいて,世界と人間が現実化した,つまり創造された。人間はこの 第二の現実を,いわば神とは反対側から見るはかないのであって,その場合,正しい認識 紘(認識の可能性もろとも)神から贈られるほかないのである。人間の認識で可能性が先 行しうるのほ,現象・徽侯,つまり第三の現実の場合である。.
(11) 神. 学. 的. 現. 53. 実. このような神学的認識は,表層の現実を貫いて,思いがけない深みに達し得るo イスラエルはキリスト教神学にとって大きな問題の一つであり16',バルトもこの主題を 何度も取り上げて釈義的・歴史的・教義的に考察しているが・ここでほ一つだけふれてお (Ⅱ/2・ 331・強調 こう.ユダヤ人は神の敵三重旦」が,同時に「神に愛された者ヱ旦星」 ほ筆者)o後者の方が深い現実である.この問題ほ選び(予定論)と希窒(終末論)とい う大問題に根ざしていて,本稿では詳しくあつかう余裕がないが,イスラエル問題ほ神学 的に見ないと,最後のところわからないであろうoユダヤ人が世界で唯一・何千年も,祖 国を失いながら,存続する民族である,ということは人知でほ説明がむずかしいo神の世 226, 238乱参照)。 界統治の,証明ではなくとも,暗示の一つではなかろうか(Ⅲ/3, イエスの活動は十字架上の死によって終わりを告坑かれの生涯は敗北に終わった,と 人間(かれの弟子たちも)の限には見えた○しかし「父〔なる神〕の判断」は違った(Ⅳ /1, § 59,. 3)。死ではなく,復活が人間イエスの生の終わりであり,かれの生の意味を決. 定する現実であったoそれだけでほなく,このできごとに基盤をおくキリスト教の成立. 紘,それ以降の地中海世界とヨ-.,ッパの(ひいては地球重体の)歴史を決定的に変え た。しかし神学はさらに,このできごとこそが中心的な啓示であっ七,歴史と世界と人間 の意味を解明する光であり,かつそれらの存在の根拠でもあることを主張するo 信仰の認静ま「この世の現実」から絶対性を奪い,それを「かのように(alsob)」とし 698f・参照)oこれが, て見る(コ.)ソト人への第一の手紙7章29-31乱なおKDⅢ/4, 辛.)スト教が非難され,また(特にその中の急進的セクトが)迫害される大きな理由の十 っである17'.不信仰の立場からは,神学的現実が道に「かのように」と見えるであろう。 しかし,信仰は「教養」と似た構造をもち,教養の代わりとして,現実の認識と解釈とい う役割をも果たしてきていることは,歴史的事実である¢本稿の用語を用いれば,一般の 教養は第三の現実にかかわり,信仰ほ第一および第二の現実を見る,ということになるo (ヨハネの第一の手紙2章20節参臥さらにヨ-ネ文書に特徴的な「知識」,パウロ・特 にコ.)ソト人への第一の手紙1-2章の「知恵」の形式o) 6.結. 論. 1.神学的な現実のとらえ方の視点は,上か,ら下-,を基本とする。神からの藩示によ って,他のあらゆる現実認識が正しい位置づけを得るからである。しかし同時に,神は天 tua (オ前ノ問題ダ)というホラティウスの言葉が信仰的 resagitur!. に,人は地にある。. に転釈されなければならない.神は自由と生成,動きと歴史の神であるから,したがって 'B分に関 世界と人間も生成と歴史のなかにある.そのなかで.人間および人間の集団は, わる現実を正しく認識し,見通し,行動しなければならない。 Summum (最高存在) 2.ローマ・カト.)シズムほ神を一種の存在ととらえる. として,存在の階梯(Hierarchie)の一番上に置く.事物や人間の存在から,つまり下か esse. ら上へ昇って,神の現実にいたろうとする.このanalogia entisの方法(その板は三位 KDⅡ/1, 86fE・参照)は自然的理性紅合致して・わか 一体の神の分害帖あると思われる..
(12) 54. 小. 林. 謙. 一. りやすいo. しかしわれわれほ,存在そのものをも創り,与える神を信じる。 底に「開け」を見る後期-イデッガ-紘,構造としてほプロテスタソト的である.. (存在のなお 「善の. イデア」を存在の根拠とするプラトンも同じ。) 3・山口眉男18'ほ神話学(iた記号論)からの現実のとらえ方(切りとり方)の普遍性 を論証して,説得的である。つまり,自然(Chaos,周縁)に,意味(Sinn)によって文 化(Ordnung,中心)をつくる,という二極対立構造ほ,人間社会に普遍的だ,とレヴィ A.シュッツをふまえて,. 「現実の多次元性」 を遼示して説得的であるoしかし本稿でパルトに拠りつつ指し示そうとしたのは,これと =ストロースとともに主菜する。また山口は,. は違った現実である。単純化して言うと,山口のいう「自然」と「文化」をひっくるめた 全体の外にある,また現実の多次元性(ないし多層性)の底にある,現実の根拠(Grund) である.たしかに,現実は多次元的である.さまざまの共同体,各個人によって,それぞ れの現実の色や匂い,濃淡の差,重要度の順位がある。多次元性というより, Perspektivitat. (遠近性)と言う方がいいかもしれない.しかしここでも,中心たる自分からの距離. と現実性をほかる遠近法とほ違った遠近法が,いっそう根源的である。. 「神のこの新しい わざ〔和解と救済〕のなかで,被造物自身,つまり人間と,しかし人間だけでなく創造そ. れ自体の全空間・全現実が,遠道塗駒深垂を得る」 (Ⅱ/1, 573.強調は原著者).すなわ ち,終末(Eschaton)という「未来に啓示さるべき最後の現実(Letztwirklichkeit)」 (ebd・)をまってはじめて,現実の全構造が透明に見とおせるのである。 「終末論的緊迫 (escbatologiscbeDringlichkeit)」 となるo否,. (Ⅲ/4, 664)紘,創造論的現実をとらえる際にも,鍾. 「救購(救済・. Er16sung)ほ,製造以土であるo」19) KD第Ⅴ巻(救済論)は善かれず,パルトの終末論の充分な展開ほ見られなかったが,. 比較的初期の倫理学講義の最後の部分20)が終末論の視点からの倫理を略述しており,そこ から本稿にとって示唆となる点を読み取ることができる。終末論的現実は創造論的および 和解論的現実の「目標と意味」 (361)である。すなわち,われわれの言う第二の現実の意 味と全容があらわになり,完成する。. 「神自身の現実への参与」 (424)である。人間の現 実が「神の子」であることが明らかになる。いわば第二の現実が第一の神の現実に近づく (一つになるのでほない)。しかしこれほ救済の完成の時のことであって, 「いま・ここ」. においてほ,この終末論的現実は約束(Verbei8ung)と希望の現実として現在を照射す る。すると生の人間が,いかに真剣(ernst)であろうと,神の絶対的な真剣さに較べれ ば,根本的にほ遊び(Spiel)であること(434ff.),われわれの言い方でいえば,第二の現 実がまさに第二の,つまり二義駒なものであることが,明らかになる。しかしこの終末論 的生の本質的要素として芸術とユーモアが含まれる(437ff.)ことからもわかるように, それほ喜びの生であって,日本の俳詣でいう「軽み」に通ずる次元を表すように思われ, そのようなものとして.. 「最後の現実」を指し示す「しるし」の性質をもつ。 なお・長くバルトの論敵だったE・プルソナーも, 1947年のギッフォード講演で「存在 の遠近性(perspectivity, perspectivism)」という語を使ってキリスト教的存在論をしめく くり,かつバルトに「心から賛成」し,終末論を強謁している21'。.
(13) 神. 学. 現. 的. 5ー5. 実. 4.いささか感覚的な言い方をすると,バルトの現実観はたい-ん透明で,モーツァル トの音楽によく似ている.バルト自身,モーツァルトに熱烈な賛辞を贈っている22'oルタ -やバッ-の音楽があくまでも地上の,重く不透明な現実のただ中にあり,とりわけ人間 の罪の深淵にまで降りて行く,という趣が強いのと対照的に,モーツァルトは天上の音楽 を奏でる。これはいくらか瞭示的であると思われる。さらにこれには教派駒伝統の違いが 与かっているであろう。たしかにカルヴァソやバルトと,アルト-ウス,ゴーガルテン・. 特杜D.ボン-ッファーらルター派の神学者とでは,現実観も現実盛もだいぶ異なってい るように感じられる。 記. 7.追. 1.以上述べてきたバルト的現実観にたいして,有力な反対論を揖示できると思われる そ. のほ,トマス・アクイナスほ別にして,現代神学では′くウル・ティ7)ッヒであろうo concern (究極的関心),客観的にはdas の現実観はおそらく,主観的にはultimate. Un-. (無制約的なるもの),さらに「新しい存在」,象徴といった概念を軸に展開され. bedingte. るのであろうが,筆者にほまだ充分に検討する用意がない。またティリブヒにほこれと紘 違ったレベルで,本質と現東を対比させて宗教と文化,教会と社会の関係をとらえる考え 方があるが23',この場合の「現実」は常談的な見方に近い意味で,バルトなら「いわゆる 現実」 (Ⅲ/4, 41f.) 「混濁した世の現実」 (43)と呼ぶものであろう。 2.この点に関連して,注16に挙げた書の第10論文でほティリッヒとバルトの「現実 化」の問題が扱われている24'が,そこでの関心はブt2テスタソティズムの本質ないし原理 大木英夫氏の「歴史神学」と重なる),蘇 の塵史的現実イヒというこ・・とであって(この点 稿でいう現実とは次元を異にするo逝から見ると,パルトにほ(神における可能性の現実 化とは別のレーベルの)「本質」の「現実」化・tいう発想はない.そもそもかれは「キ1)ス ト教の本質」というような外からの見方を斥けるのである。 「現実」には無数のとらえ方がある。マルクシズム,それに似 3.言うまでもないが, た知識社会学,さらに法的な見方,社会倫理的な現実の認識と変革,芸術における「虚構 と現実」など,きりがないが,それらはみな本稿の関心でほなかったoただ・天使論と神 学約言語論(および解釈学)紘,神学的現実論からも・気になるところであるo 注 E. J色ngel, "Die M色nchen,. 2). Kierkegaard,. als. M8glichkeit. und. Wirklichkeit'',. in. Unterwegs. zur. Teil,. Werke. Sache・. S. 206.. Abschlie8ende. unwissenschaftliche 1958, S・ 47・. Nachschrift,. 2・. Ges・. Ddsseldorf/K6ln, 1972,解説,なお・武田清子編『日本文化の 「日本の思想」筑摩書見第6巻『歴史思想集』・ 1984,所載の丸山寅男「原型・古層・執物低音」,参軌 かくれた形』岩波,. Abteiling,. 3). 1972,. Welt. '・. 1). 354Eo. 5・とくに351, 4)源了囲「日本人の自然観」,新岩波講座『哲学』 5)福永光司「中国の自然観」,同書oただし著者はこの場合,心の本体としての自然という内面 的な方向を強調している。. 16・.
(14) 56. 6). 小. 林. 謙. 一. T・ポーマン『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』植田訳,新教出版社, 1957,有賀織太郎『キ リスト教思想軒こおける存在論の問題』創文社, 1969,特紅第一部第六章「有と--ヤー」,秦 照。. 7)加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」武田馬前掲書,所艶同『日本文学史序説』上岩 波, 1975, 「日本文学の特徴について」の章. 8)丸山其男『日本の思想』岩波新書, 1961,から示唆を得ている。ただし,丸山では「なる」と 「する」の対比。 9). Karl. Barth,. Kirchliche. Dogmatik. (KD). Ⅲ/4,. S.. 28.強調ほ原著者。以下同書からの引用 )に巻数と貢数を示す。 1988, S. 64. 10) L. Rinser, Gibt es Gott?白水社, ll)拙論「カール・バルトの社会主義」,本紀要第一類第二十三軌1977,参軌 12) E・ J血gel, Gottes Sein ist im Werden, T地ingen, 1966. 13)拙論「カール・バルトにおける神の像の問題」,本紀要第一額第二十四輯, 1978,参照。 14)同上. 15)バルト「教会と文化」吉永訳,パルト著作集5,新教出版社, 1986, 229貢参軌 16)近藤勝彦「現代神学におけるイスラエル論」, 『現代神学との対話』ヨルダン払1985,所載。 17) H・ R・ニーバー『キリストと文化』赤城訳,日本基督教団出版局, 1967,第一章,参照. 1975. 18)山口昌男『文化と両義性』岩波, 19)パルト「教会と文化」 235貢,強調は原著者。 EthikⅡ 20) Karl Barth・ Gesamtausgabe・ (1928-1931), TVZ 1978, 4. Kapitel.なお同書からの 引用は本文中の( )に貢数を示すo 21) E・プルソナー「キ1)スト教と文明」第一部,熊沢訳, 『現代キ.)スト教思想叢書』10,白水社, 1975, 49貢以下,特に53京。 Amadeus Mozart, Zdrich, 22) K・ Barth, Wolfgang 1956・バルト『モーツァルト』小塩訳,新 教新書, 1966. Bd. IX, S. 36, 102u. 23) Paul Tillich, Ges. Werke passim. 24)近藤,前掲書, 269-290貢。 は本文中の(.
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