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日蓮聖人佐渡流罪の法制史的考察(二) : 諸宗並に幕府批判

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はじめに

この稿は前号にひきつづき佐渡流罪の間接的原因となった日蓮聖人の諸宗批判並に幕府批判をとりあげて象た。蒙 一古襲来と諸宗批判及び幕府批判が佐渡流罪を考えるとき重要な役割を果していることは言うまでもない。それ故これ 二、幕府批判 一、諸宗の攻撃. 1、諸宗の状況 諸宗の攻撃・ 3、禅宗批判 4、律宗批判 2、法然浄土教批判 5竃真言宗批判 批判

目次

日蓮聖人佐渡流罪の法制史的考察口

諸宗並に幕府批判

中里悠光

(51)

(2)

日蓮聖人は貞応元年︵一二二二︶に生まれた。この時すでに法然は亡く︵一二一二年股︶、また栄西も亡くなって いた︵一二一五年残︶・これは当時全盛をきわめていた法然浄土教はもとより禅宗︵臨済宗︶にしても初祖開宗より 久しく、ましてや日蓮聖人が鎌倉において弘教をはじめたのはその後三十年以上も経ってからのことであるからこれ らの宗派が新興宗派としての地位よりむしろ中堅宗派として既に基礎がための段階を終り次第に根をおろしはじめて いたという事実はこれを否定することはできない。また一方平安時代公家・貴族にもてはやされてた天台・真言の密 教的で豪著な仏教は鎌倉武士の好むところではなく、一般庶民への布教もその性格として行われにくかったであろ う。その点法然浄土教の依って立つ浄土思想は末法到来の考えが社会一般に広まりつつあったため流布さるべき素地 は充分に整って、現実の苦しい生活を逃れて来世に安住の地を求めるという考え方は好んで下層階級に受け入れられ をその遠因として捉えてもういち度佐渡流罪を考察して桑るならば更に事件の本質に近づくこ・とができよう。 日蓮聖人は﹁立正安国論﹂をはじめとするいくつかの書において法華一乗主義を唱え、法華経こそ末法に流布すべ く説かれた経であり、法華経を依経とせざる他宗は誇法であり、邪宗であるとの信念に立ち、法然浄土教をはじめと して諸宗批判の挙に出ずるに至った。それは末法の世にこそ活躍すべき天台宗が真言・念仏等にその地位を奪われ、 堕落の一途をたどっている現状を憂え、更には社会情勢が不安な様相を呈し、諸災害が続出するに及んで、これを目 、、、、、、、、 のあたりに体験した日蓮聖人がその原因を誘法の流布に求め、末法の世に正法たるべき法華経を身軽法重死身弘法 の決意を以て弘めようとされたその一大決心が諸宗批判、聯府批判という行動を起さしめたのである。

一、諸宗の攻盤・批判

一、諸宗の攻盤 1、諸宗の状況

(3)

ていった。それ故日蓮聖人が鎌倉に現われた時には法然浄土教の勢力は著しく広まっており、﹁念仏者は数千万、か

①②

たうど多候也。﹂、﹁弥弥繁昌して、返って主上上皇万民等にいたるまで皆信伏せり。﹂という表現をそのまま受け とることはできないとしても、それほどまでに法然浄土教の勢力が広まっていたであろうことは事実であろう。他方 禅宗も栄西、大日能忍の力によって法然浄土教に比肩すべきほどになり、幕府上層部の庇謹を受けて幕府関係者に受 容されていた。北条時頼をはじめとする北条氏一門の帰依は当時の禅宗の勢いを物語るものである。 日蓮聖人の鎌倉仏教界への登場はこうした極めてきびしい宗教的情勢のもとに行われなければならなかった。そこ にはどのような弘教手段が考えられるであろうか。このような情勢下における弘教態度のパターンとして私は敢え 、、、、、、、 てここに日蓮聖人的登場とでも名づくべき一つの方法が社会学的に効果のあることを書きとどめておく。念仏・禅両 宗の隆盛をむしろ利用する形でその非なることを公けにし、更にそれらによって立つ公権の誤りを正さんとした日蓮 聖人のこの態度は宗教者として誠に型破りであると言えよう。そして結果的には大成功をおさめるというわけにはい かなかったが、このような﹁我不愛身命但惜無上道﹂の態度こそ後の世において日蓮聖人の遺志を継ぎ、あとに続 く者達に逆境こそ真に弘教の時であり、処であるとの信念を与え、不僥不屈の精神を植えつけていったのではないだ ろうか。とにかく仏教界登場に際し、当時隆盛を極めていた念仏批判を皮切りに、禅宗批判、律・真言等の諸宗を批 判したことは、これを換言するならば、仏教界への挑戦であると同時に政治権力への挑戦でもあったのである。それ 故ひとつ間違えば無に帰する危険性を充分に孕んでいる。その危険性を敢えて犯させたのは誇法を捨てて正法を受持 ③ させることが自分に与えられた使命であるとの自覚にほかならない。宗教を弘める最も容易な方法と言えば有力な外 護者を得ることであろう。就中権力の座にある者の外護を受けることは他の何にも勝れた手段と言うことができる。 (53)

(4)

それは北条氏一門の外護のもとに全盛をほこった禅・律宗を例にとるまでもない。そして日蓮聖人もこのことを考え た。それは﹁立正安国論﹂を提出し、三度までも為政者を諌めようとしたことからもわかる。しかしながら日蓮聖人 の場合外護を受けるということは決して権力に媚び調うということではなかった。あくまでも権力者の誇法受持の態

︵譜︶︵怖︶

度を匡し、正法に帰依せしめることが本意であり、﹁天台真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらい、をづること、

︵尾︶︵畏︶︵仕官︶クキク④

犬の主にををふり、ねづゑの猟ををそるるがごとし。国王将軍にみやつかい、破仏法因縁を能説能かたるなり。﹂と いう態度はむしろ日蓮聖人の最も嫌うところであった。日蓮聖人が﹁立正安国論﹂を北条時頼に上呈したことは、こ れによって幕府の実力者としての時頼の誇法帰依を改め、法華経の正法たることを知らしめることによって幕府指導 者層の反省を促し、法華経の考え方を武士階級をはじめとして一般庶民に弘めようという意思の表現であった。しか しながら﹁立正安国論﹂は容れられず伊豆流罪・佐渡流罪という結果を招来することとなった。それは日蓮聖人が当 時の宗教界にあって全く無名の僧であったばかりでなく、教団としての歴史を殆んどもたず、天台・真言・念仏・禅 ・律といった既成仏教の壁は厚く、歴史の重みを一朝にしてくつがえすことは不可能であった。それがたとえ他の諸 宗に勝れ、正しい教えであるとの確信のもとに行われたとしても、それを広く受容させ、弘めて行くということが極 めて困難なることは我々宗教者が常に体験していることである。このことは日蓮聖人とて例外ではなく、新しいもの は時を経て、歴史をもつことによってはじめて場を得、所を得るということは史実の示すところである。そして﹁立 正安国論﹂上呈に対する時頼の回答は具体的には伊豆流罪という形であらわされた。しかしながら正法流布の信念は 屈せず、それどころか難に遇うごとに確信は深まり、二度、三度の諌暁に及び、あくまでも法華経に帰依すべきこと を説くと共に、既成仏教の矛盾を教理・現象の両面より追求し批判することによって自己の説くところの正当性を社

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日蓮聖人が鎌倉仏教界登場に際し最初に批判、攻撃の対象となったのは法然浄土教であった。前述したように当時 は法然浄土教が破竹の勢いで社会各層に広まりつつあったから、最も勢いのあるものを攻撃するのは効果のあること であり、かつ法然浄土教が他の諸宗と違って社会の下層階級に広く支持されていたことは同じく民衆を布教対象とす る日蓮聖人にとって教団を開発するうえで必要なことであったに相違ない。尚、諸宗批判は﹁戒体即身成仏義﹂︵仁 治三年︶、﹁諸宗問答紗﹂︵建長七年︶、﹁念仏無間地獄紗﹂︵建治七年︶等にも見られるが本稿の性質上なるべく 実証され得る資料をもって考察すべきであると考えるので真蹟の存在する現存の遺文を中心に用いることにする。 ﹁守護国家論﹂︵正元元年筆︶は法然浄土教攻撃の最初の書と考えられる。その内容は、比叡山第十八代座主慈慧 大師の弟子であった慧心僧都源信の著わした﹁往生要集﹂及び.乗要決﹂は法華経最勝をその主旨とする。にもか ⑥ かわらず法然とその弟子が誤ってこれを解釈して法然浄土教の依経たる浄土三部経を最勝の経としていると指摘し、 誇法の流布が、今日の災難を招き、天災地変を起し、他国の侵掠を受ける結果をもたらすものであると断言してい いう手段によって諸宗の非なることを天下に示す効果的な方法であるとの考えをもち、折あらぱ公の場所において他 会に訴え、一般大衆の支持を徐々に広げる努力が払われていった。更に日蓮聖人は諫暁・大衆布教と共に公場対決と ⑤ 宗と議論を戦わす機会をまっていた。これは布教方法としては極めてラジカルな手段であり、またそれだけに多くの 危険性を含んでいたと言えよう。 判を個別に考察してゑたいと思う。 2、法然浄土教批判 以上日蓮聖人が佐渡流罪に処せられるまでの諸宗の状況について述べた。次に法然浄土教・禅宗・律宗・真言宗批 (55)

(6)

るoこれは法然浄土教を批難すると共に末法に流布さるべき真の経が法華経以外に存在しないことを法然の師たる源 信の所説によって明らかにし、また大集経・金光明経等によって誇法を信ずる国には種との災難が起る旨を述べると ⑦ 共に更に幕府において政治を司る為政者を暗に批判して速やかに末法に流布すべき法華経に帰依すべきことを強張し ている。﹁守護国家論﹂が著わされた年が正元元年であったことを考えるとき、その前後に地震・大火事・大風・大

③び倉ん

雨等の天災によって災害が続出していることは、その原因を邪法弥漫に求める絶好の機会であった。天災地変の起因 を諸宗の邪義にありとし、諸仏教が熱心に信仰されているにもかかわらずこうした災難が生起するのは諸宗の堕落と せんちゃく 邪法の流布にありとの考えは、自己の教義に真向から対立する法然浄土教の捨、閉、棚、勉の撰択廃立に対して徹底

⑨⑩

した批判・攻撃を加えていった。﹁立正安国論﹂に集大成される﹁守護国家論﹂、﹁災難興起由来﹂、﹁災難対治紗﹂ の一連の著作は日蓮聖人の鎌倉仏教界への登場を意味するものである。 ここで当時の記録として歴史的に意義のある﹁吾妻鏡﹂の一文と日蓮聖人の番かれた﹁安国論副状﹂並に﹁安国論 御勘由来﹂の中の日付に一致する部分が存在するので引用してゑる。 御勘由来﹂︵ ﹁吾妻鏡﹂ ケ 所を地裂。水涌山 ﹁安国論副状﹂ 抑正嘉元年誌醜八月二十三日戌亥尅大地震云々。

いぬのこぐモシキス

正嘉元年八月廿三日乙巳。晴。戌尅大地震。有し音。神社仏閣一宇而無し全。山岳頽崩。人屋顛倒。築地皆悉破損。 ケ

おうノーシテシ

を地裂。水涌出。中下馬橋辺地裂破。自其中火炎燃出。色青云云。 ﹁安国論御勘由来﹂

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さてそもそも浄土教は円仁、空也の念仏易行の唱導とそれに統く恋心僧都源信の﹁往生要集﹂、.乗要決﹂等に よりその理論づけが行われ、たまたま末法到来の思想が唱えられるようになると保元・平治の乱等によって武士階級 が貴族階級にとって代るきざしが見えはじめ、更に世の中は災害・戦乱によって不安と混乱の様相を呈しはじめた。 他方仏教界の混乱腐敗ぶりも極に達し、末法の世に苦しむ民衆を救うべき宗教が求められている時期であった。この ような時代の要請によって現われたのが法然房源空であった。彼は他の複雑な修行を捨てて易行の念仏に帰すことを ● ● ● ● 説き、自力修行の心を捨てよ、禅定修徳の門を閉じよ、一切の工夫を閣き万事智恵を拠って、只唱名念仏の一行に帰 ●●●● せよ、と主張した。これは日蓮聖人が著書の中でしばしば法然浄土教を攻撃するときに使う捨閉閣勉の句で、これは 天台・真言の渡雑な修行を否定する主張であった。その浄土教も十三世紀後半になると京都においては証空の西山派 が、九州にあっては聖光を中心とする鎮西派が、また鎌倉にあっては隆寛の長楽寺流、長西の九品寺流、証空の西山 派がそれぞれ定着しつつあった。ここで敢えて法然浄土教の歴史に触れたのは法然の孫弟子にあたる然阿良忠、道阿 道教等が日蓮聖人と直接かかわりあいをもってくるからである。 このように九品寺流、長楽寺流、西山派が勢力を伸張しつつある中で証光の弟子である然阿良忠は京都における叡 山の専修念仏弾圧を避けて関東に下り、信濃・上野・下野・武蔵・常陸・上総・下総を歴訪して浄土教の教線を拡げ 最後に鎌倉に至った。一説には良忠が下総を去って鎌倉に来たのは念仏の庇護者であった千葉氏との間がうまく行か 畠ノ。 エ ー ー フ 正嘉元年誌恥八月二十三日戌亥時超二於前代一大地振。 この天災に関する記載事項の一致は、地震当時日蓮聖人が鎌倉にあって災害を体験したことを示すものといえよ (57)

(8)

⑪ なくなったからであるとされている。それによると彼が鎌倉入りしたのは文応元年︵一二六○︶であるとされている から、これは日蓮聖人が﹁立正安国論﹂を時頼に上呈した年にあたる。﹁行敏訴状御会通﹂の中の念阿弥陀仏とは然 阿良忠のことであるから、その後彼がかなりの実力を持つようになったこと、更に念仏が相当広まっていたことは明 らかである。彼の場合鎌倉での布教は決して楽なものではなかったようであるが、既に法然浄土教が武士の間、民衆 の間に信者を得、勢力をもっていたのであるから、日蓮聖人が法華一乗主義をかざして新地開発に要した労苦に較べ れば努力の質愚はおのずから違ったであろう。当時の仏教界で弘教を成功させる手段が権門、それも高位の人に近づ くことであったことを考えると、鎌倉に入った当時は彼を迎える者のなかった状態であったが、関東諸国におけるそ れまでの教化活動は鎌倉においても充分発揮され、北条氏一門である北条朝直が彼に帰依することとなり、これを契 機として着々と勢力を伸ばし、長楽寺の智慶、新善光寺の道教と共に日蓮聖人の佐渡流罪にあって重要な役割を果し たのは彼であった。 法然I ノ ー一条覚明今道阿弥等 l第一聖光執癖識掴

l第一コサヵ善慧房当娠謡岬

l第一弟子娠楽締隆寛霜辨娠倉八人

(9)

2、禅宗批判 ようさい 鎌倉への禅宗伝播は早く、正治元年︵二九九︶に栄西が鎌倉幕府に招かれている。また翌正治二年には頼朝追善 ⑫ のために寿福寺が造営され栄西に寄進された。 栄西にその発端をゑる禅宗の鎌倉進出はその後幕府の保護を受けて大いに盛んになり、殊に南宋より来日した蘭渓 ⑬ ⑭ 道隆は南宋禅を弘め時頬の外護のもとに建長寺の開山となり、この建長寺の建立によって南禅が一世を風廉し、東 に建長寺、西に建仁寺と並び称せられともに禅宗の本拠として栄えた。この間南宋より兀稚普寧・無学祖元が来日し また我が国でも円爾等が出て時頼・時宗の外護にあずかり、幕府権力の庇護のもとに他宗より優位にあった。このよ うに幕府の信あつき禅宗を日蓮聖人はどのように見、どのような批判を加えていったであろうか。これについて比較 的早い頃の書では主に教義面より抽象的な批判が目につく、曰く﹁次に禅宗の法門は或は教外別伝不立文字と云、或

⑮⑯

は仏祖不伝と云⋮﹂、﹁汝仏祖不伝と云て仏祖よりも不伝となのらぱ、さては禅法は天魔の所伝法門なり如何。﹂、 ﹁禅宗なんど申宗宗者、天台仁をとされし真言・華厳等不可及。依経既に梼伽経・観経等也。此等乃経経は仏乃出世乃

⑰⑬

本意にも非ず、一時一会の小経也。﹂、﹁禅宗は如来の意密、言説におよばず教外の別伝なり。﹂といった抽象的. ’

l法本一念

l成覚一念

已上弟子八十余人 ︵.代五時図﹂より︶、 (59)

(10)

教義的な批判の域を出なかった批判も文永五年︵一二六八︶一月を契機に具体的となりはじめた。曰く﹁悪鬼入二其

︽︾|’ク・一⑲ノノ

ユ ッテッテリ 身一狂一惑国中一上下挙代レ成二念仏者一毎し人趣二禅宗一。﹂、﹁禅宗・律僧等又一同に行しかどもかなはず。⋮彼国々禅宗

︵所為︶⑳

.念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ。⋮其故は故最明寺入道に向て、禅宗は天魔のそいなるべし﹂とまで言うに及 び、禅宗の帰依者であった時頼が忠告を聞きいれなかったことを暗に批難している。ここで考えなくてはならないの は、何故﹁立正安国論﹂に禅宗批判が存せず、また文永五年以前の書における禅宗批判が教義に関するものが殆んど であるのに﹁安国論御勘由来﹂に至ってその批判が顕在化し、具体性を帯びてきたかということである。これについ てはさきにも触れたように﹁立正安国論﹂上呈の時の権力者北条時宗は熱心な禅宗信奉者で、建長年間に建立された 建長寺は彼の寄進によること、蘭渓道隆を建長寺の開山として迎え、彼自身はもとより、当時の幕府要職にあった者 が禅宗に帰依していたという事実が日蓮聖人に対して禅宗批判をさし控えさせたのではないかとの説があるが、﹁立 正安国論﹂における念仏批判当時、執権長時及びその父重時が念仏の帰依者であったことを考えるとこの説を全面的 に肯定するわけにはいかない。また別に、﹁立正安国論﹂に禅宗批判が見えないのは、この時期には栄西・弁仁のご とく顕密に合一した禅が行われ、いまだ教外別伝の独立した禅宗が勢力を表に現わすに至らなかったことから、日蓮 聖人はその世界観として不二絶対開会に立っているので、禅宗がこの世界観に適応するものであるから、この面から ⑳ も日蓮聖人の対破意識にのぼらなかったとする説もある。しかしながら私としては、禅宗が本格的に幕府の外護を受 けて活動しはじめたのは、野守鏡における﹁禅宗の諸国に流布することは建長寺を建てられしゆへなり。﹂との記述 から蘭渓道隆が来日して時頼の保謹を受け、建炎寺の開山となってより南宋禅が本格的に幕府の保護のもとに受け入 れられていったと考えるものである。そしてこれに加えるに文永五年一月に到来した蒙古国書が禅宗批判の契機とな

(11)

奈良時代鑑真によって伝えられた律宗は、末法の世到来の考え方が広まるに戒律を厳守することよりも口唱念仏等 の易行が受け入れられるようになり戒律は衰退の一途を辿った。しかしながらその律宗も鎌倉時代に入ると北京律の しゅんじよう 俊乃・曇照、南京律の実範等によって中興され、覚盛・叡尊が出るに及んで次第にその勢力を回復していった。そし て律宗が関東に広められたのは実に北条時頼の招きによって叡尊が下向した時を契機とする。叡尊の西大寺復興に伴 う戒律興隆の風聞は時頼・実時に叡尊を鎌倉に招くに至らせた。天災地変の続出による民心の混乱、政治の行きづま りは、これを解決して難局を切りぬけるため、たまたま京都において信望を得ていた叡尊から何らかの策を得ようと したとも思われる。それでなくては実時・時頼が一切経蔵並称名寺を寄進すると申し出、二度までも叡尊の関東下向 を求めたりはしなかったであろう。また下向後滞在中に幕府要職者をはじめとして御家人、一般大衆の受戒せる数が 数万人に及んだとするもこれを裏づけている。 なり 叡尊のあとを受けた弟子忍性もその活躍において決して師叡尊に勝るとも劣るものではなく北条重時・長時・業時 実となって現われたのであるから、今こそ自分の立ちあがるべき時であり、法華経がその真価を発揮するときである とは前号に述べたとうりであるが、﹁立正安国論﹂に他国侵過難を示した日蓮聖人にとっては自己の信ずるところが現 ったと考える。蒙古国書の到来が幕府当局者は勿論のこと一般大衆に至るまで蒙古襲来に結びつけて受けとられたこ ⑳ との確信を得たとしてもそれは当然である。その確信が当時押しも押されもせぬ勢力となっていた禅宗批判となり、 ひいては禅宗の帰依者としての為政者の政策批判となって現われたとしても何ら不思議ではない。否、このような危 急存亡の事態出来に際しこの国難を救うべく立ちあがることこそ真の宗教者であろう。 3、律宗批判 (61)

(12)

の帰依を受けて極楽寺の開山となり戒律の布教につとめるかたわら慈善事業を盛んに行った。これは民衆にとっては りやく 形のある利益であり、布教の新しい型として評価しなくてはならない。叡尊が時頼・実時の招きによって鎌倉を訪れ たのは弘長二年︵一二六二︶のことであるから、それ以前には律宗の活動にこれといったものが見られなかったと考 えてよかろう。弟子の忍性が叡尊の許可を得て建長四年︵一二五二︶に関東に下っているが、彼は常陸の三村に住し 三村寺を拠点として布教しながら鎌倉進出の機会を得んとしていた。それ故叡尊の下向は時頼・実時の意向もさるこ とながら、これを機会として忍性等の弟子が律宗を鎌倉に本格的に弘めようと企てたと考える。したがって当然日蓮 聖人の律宗批判もこれといって特韮すべきものはなく、わづかに﹁禅宗律僧等又一同に行しかどもかなはず。﹂と言 っている程度である。佐渡流罪以前に律宗に触れたものは﹁諸宗問答紗﹂とさきの﹁法門可被申様之事﹂くらいのも のである。ただ佐渡流罪に直接関係あると考え、訴状の内容を表わしているところの﹁行敏訴状御会通﹂の中に﹁当 世日本第一持戒僧良観聖人﹂という名前がみえる。勿論これは忍性のことであるが、忍性等の僧が訴状を提出するに 至ったいきさつは後に書かれた﹁下山御消息﹂、﹁頼基陳状﹂、﹁四条金吾殿御返事﹂等によらなければならない。 これらについては佐渡流罪の本質の章で改めて触れることにする。ただ忍性を名ざして攻離したことがもとで佐渡流 罪という事件が起ったということを記すにとどめる。 平安時代に貴族の厚い保護のもとにあって平安仏教の中核をなしたかに見えた真言宗も貴族の没落とともに除災招 福のための加持祈祷を行う祈祷仏教と化してしまった。もともと京都における公家・貴族の頽廃、堕落を嫌って鎌倉 に幕府を開いた武士階級にとってこのように豪著な儀式の象にはしる仏教は肌に合わず、それ故真言宗の鎌倉進出も 4、真言宗批判

(13)

日蓮聖人の幕府批判は﹁立正安国論﹂提出をその職矢とする。これは﹁安国論副状﹂並に﹁安国論御勘由来﹂にお いて語られているとおり﹁立正安国論﹂執筆の動機は正嘉元年︵一二五七︶八月二十三日の大地震にあったoそして その大地震の原因を時の為政者が念仏宗・禅宗等の誇法に帰依していることによると言い、これを改めなければ更に 外題を受けると警告しているのである。これは直接には法然浄土教の批判をその主旨としているが、それを為政者の 目に触れさせることによって暗に為政者の姿勢を匡さんとしたものである。国を立てるに先ず誇法を捨て正法に帰依 することが第一であり根本であるとする思想をもってするならば、諸宗を批判することも必要なことであるが、しか し真の目的は正法による政治を行わせることにあった。それなくして国を立てることは不可能であるとの確信が身に かかる危険を敢えて犯してまでも諫暁という挙に出ださせたのである。文永元年の﹁立正安国論﹂提出は勿論のこと きことを批判している。 と言い、﹁当世真言等︵ 禅・律・念仏ほど華やかさはなかった。日蓮聖人もこのような真言宗を評して﹁真言宗の漢土弘始は、天台の一念三 @ 千を盗取て真言の教相と定て理の本とし、枝葉たる印真言を宗と立、宗として天台宗を立下す条誘法の根源たるか。﹂ ⑳ と言い、﹁当世真言等の七宗の者しかしながら誇法なれば大事のいのり叶うべしともをほへず。﹂とその祈祷の効な

●●●●●●●●●●●●●●

以上所謂四箇格言といわれる念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊とまでいって諸宗を攻撃・批判した日蓮聖人の 態度及び諸宗の概況ともいうべきものを述べた。これらの批判が直接的とは言わないまでも佐渡流罪の間接的原因と なったことは既に触れたとうりである。最後に幕府当局及び為政者に対して日蓮聖人がとった態度を考察してゑた

二、幕府批判

日蓮聖人の幕府批判は一 いて語られているとおり一 IU 、0 (63)

(14)

第二、第三の諌暁においても日蓮聖人は幕府の政治政策或は宗教政策を具体的に批判せず、現在の国家不安の根源 をあくまでも邪法流布に求め、この国家不安は正法即ち法華経の教えに帰依することによって解決され得るとしてい ●●●● る。この態度は他宗よりみれば他宗の存在を認めぬ所謂是一非諸といわれる程の妥協のない激しいものであった。た だこれ程の諌言を禅宗に深く帰依し、わざわざ京より叡尊を招いて受戒する程律宗に信を置く幕府当局者がそれを真 向から批判する意見をたやする聞きいれるはずはない。その意見が受けいれられるにはあまりにも日蓮聖人の宗教に 教団として歴史が浅すぎたしまた日蓮聖人自身に対する評価も蘭渓道隆、円爾、叡尊、忍性といった諸僧に対する評 価に比して軽かったであろう事実を見逃してはならない。たとえその主張に誤りがなく、歓迎すべき思想であったと しても、それを採り入れるか否かは全く別問題で、その意見、思想の持ち主がどの程度に評価され重要視されていた かという点にかかるし、また為政者自身の能力、人格にかかっている。これは政治の常であるし、我々が日常体験し さてここで筆を日蓮聖人の政治批判に戻してみると、文永八年以前の書には直接為政者を批判したものはみられな ⑳ いが、後の書には文永八年九月十二日の事件を回想して、事件当時時頼・重時が阿鼻地獄に堕ちたと言ったと記され ているし、更に禅宗、念仏宗の帰依者となった権力者の妻等が禅僧・念仏僧にけしかけられて幕府に日蓮聖人が国を 失わんと祈る僧であり、時頼・重時を無間地獄に堕ちたと言っている僧であるから直ちに首を切るべきだと申し出て ⑳ いる。これは日蓮聖人の幕府批判が諸宗批判をとうした間接的なものから直接的なものに変化したことを物語ってい ていることである。 z︾◎

むすび

(15)

法然浄土教を手はじめに禅・律と及んだ日蓮聖人の諸宗批判は当然の帰結としてこれら諸宗に帰依している為政者 の批判に至った。言論の自由の保障されている現代日本にあっては為政者批判は現在のところ一応自由に為されてい る。しかしながらこれがひとたび中央集権の政治体制がとられていた武家社会で行われたとなると事は重大性を帯び てくる。従来の研究にあってはこのような政治体制をも考慮した上での﹁佐渡流罪﹂というものが為されていない。 現在の状況からものを考えるのでなく事件当時の社会でどの程度言論が保障されていたかということを考えなければ 伊豆流罪にしても、佐渡流罪にしても、これは行きすぎた幕府の処置であると考えてしまいがちである。しかしなが ら文学を通して行われる政治批判でさえも国外追放、処刑の対象となる社会主義体制下の状況を考えるとき、たとえ その批判が正しく、国を憂いての批判であったとしてもそれは国を乱す者として幕府が流罪・斬罪に処することは、 あるいは当然のことであったかもしれない。このことについてはおいおい触れて行くつもりであるが紙数に制約があ るため本稿においてはしばらく佐渡流罪の間接的原因となった日蓮聖人の諸宗批判・幕府批判について述べるに止め た。 訂 ①﹁南条兵衛七郎殿御識︲ ②﹁菩無長三蔵妙﹂四六一 ③﹁高橋入道殿御返事﹂ ④﹁開目紗﹂六○七頁 ⑤﹁行敏御返事﹂四九害 ⑥﹁守護国家論﹂八九頁、 ⑦﹁顕誇法紗﹂二五四頁 ③﹃吾妻鏡﹄に天災地変炉 に天災地変に 四九六頁 ﹂ ついて救っている部分を抜き出すと次のようになる。 三二六頁 五頁 一○八六頁、﹁頼基陳状﹂一三五二頁 一○四頁 (65)

(16)

⑩右に同じ ⑪﹃アジア仏教史日本編Ⅲ﹄一五二頁参照 ⑫﹃吾妻鏡﹄正治二年閏二月十三日 ⑬寛元四年︵一二四六︶に来日 ⑭﹃野守鏡﹄に﹁禅宗の諸国に流布することは、関東に建長寺を建てられしゆへなり。﹂とある。 ⑮﹁諸宗問答紗﹂二七頁

⑯同二九頁

○建長二年七月十八日壬午。團尅大地震。其後小動十六度云々。 ○建長四年七月廿三日乙已。天晴。入し夜雨降。寅尅大地震。 ○建長五年二月廿五日癸酉。午尅大地罐。認神動。 ○建長六年正月十日甲申。暗・西風烈。夘一鮎。浜風早一幽辺焼亡。至二名越山王堂一。人家数百宇災。日出以後火止。焼死者数 十人云々。 ○同七月大○一日辛丑。甚雨暴風。人屋顛倒。稼穀損亡。古老云。廿年以来無二如レ此大風一云々。 ○同八月十日庚辰。雨降。入夜晴属.丑尅。東方白虹見。 ○同十一月十八日丁巳。酉尅大地麓。 ○庚元元年七月廿六日甲寅。時。度々変異等事。可し被レ行二御祈祷一之旨。 ○同八月六日甲子。甚雨大風。河満洪水。画岳閃頽穀。男女多﹁云々﹂横死云々。. ○正嘉元年八月一日癸未。購。戊尅大地鍵。 ○同八月廿三日乙已。晴。戊尅大地震。有し音。神社仏閣一宇而無し全。山岳瀕崩。人屋顛倒。築地皆悉破損。所々地裂。水涌 出。中下馬橋辺地裂破。自二其中一火炎燃出。色青云々・ 同九月四日乙夘。小雨降。申尅地震。去月廿三日大動以後。至レ今小動不二休止一。依し之。為親朝臣奉二仕天地災変一躍一。 ○正鶏二年正月十七日丁夘。霧。丑尅。秋田城介泰盛甘繩宅失火。南風頻扇。越二薬師堂後山一。到二寿福寺一・惣門。仏殿。庫 裏。方丈已下。騨内不し残二一宇一。余炎。新清水寺窟堂。並其辺民屋。若宮宝蔵。同別当坊等焼失。 ○同八月一日丁丑。暴風烈吹。甚雨如レ溌、昏黒天顔快晴。諸国田園悉以損亡云云。 ○同八月廿八日甲辰。階。戌尅。焚惑犯二南斗第五星一。同時大流星。搾幽辱自レ乾至レ巽。今日評定。将車家御上洛延引云々・ 足依二諸国損亡一。民間有愁之故也。 ○同十月十六日辛夘。朝購。巳尅。以後韮雨洪水、屋宅流失。人溺死。 ⑨正元二年︵一二六○︶著 ー

(17)

⑲﹁安国論御勘由来﹂四二三頁 ⑳﹁法門可被申様之事﹂四四九頁、四五五頁 ⑳﹃鎌倉新仏教思想の研究﹄二八四頁参照。 、﹁安国論御勘由来﹂四二三頁﹁:.⋮今年後正月見大蒙古国国撫。相叶日蓮勘文宛如符契。⋮⋮﹂、﹁法門可被申様之事﹂四五四 頁﹁⋮⋮今一国挙て仏神の敵となれり。:⋮・﹂ ⑳﹁法門可被申様之事﹂四四九頁 、右に同じ ⑬一顕誇法妙﹂二六四頁 ⑰﹁菩無長妙﹂四一二頁 ⑳右に同じ ⑳﹁光日房御番﹂二五 ⑰﹁報恩抄﹂二一三八頁 一 五 尚、日蓮聖人遮文の頁数は﹁昭和定本遺文﹂による。 参考文献

昭和定本遺文身延山久遠寺

入門日本史︵上︶有信堂

日蓮lその行動と思想アジア仏教史評論社

日本編Ⅲ。Ⅳ佼成脳版社

日蓮の生涯と思想春秋社

日蓮とその門弟弘文堂

日本仏教史第二・三巻岩波譜店

日蓮聖人御遺文講義平楽寺書店

日蓮聖人遺文大講座立正安国論・守護国家論平凡社

日本仏教思想史吉川弘文館

日蓮聖人研究平楽寺謹店

叡尊・忍性吉川弘文館

日蓮の思想と鎌倉仏教富山房

国史大系吾妻鏡第一・二・三・四吉川弘文館

日本仏教史Ⅱ中世編法蔵館

三 頁 (67)

参照

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