幸子
E
ぎ願
と
聖旨 耳豆性
||日蓮聖人の
﹁
誓
願
﹂
の意味l
|
町 田 是正
、 霊 性 に つ い て 、 ﹁ 智 者 ﹂ の 普 願 二 、 普 願 に つ い て 四 、 ﹁ 立 教 ﹂ の 普 願 霊性について わ が 日 蓮 教 団 で は 、 ﹁普願と霊性﹂という論題名は余り見ることがないであろう。その理由は、宗教性の特異な概 念としての﹁霊性﹂という語が、キリスト教的用語であり、我国の宗教界では、曹洞・臨済禅に於て比較的抵抗なく 用いられている程度であって、わが教団内で使用するときには、抵抗を覚える以上に、奇異に感ずるであろう。 円 一 八 七 Ot − 九 六 六 ︾ 円 l v 我固に於て﹁霊性﹂の問題について、始めて学問的成果をあげたのは、鈴木大拙博士である。ここで、博士の著書 ﹃日本的霊性﹄の所論を参照し、筆者の理解を加味して、 ﹁ 霊 性 ﹂ の 意 味 を 少 し く 紹 介 し て お き た い 。 ﹁ 精 神 ﹂ と ﹁ 霊 性 ﹂ に 当 る ヨ ー ロ ッ パ 語 、 た と え ば ド イ ツ 語 で は 、 共 に ﹁ 品 。 吋 の 包 忠 ﹂ と 同 じ 綴 り で 日 常 用 い ら れ ている。然し、学的用語に厳密性と意味を求めるドイツでは、別に﹁霊性﹂に当る語として﹁色。の宮昆のv w
a
け ﹂ を 用 い、その宗教的色彩を強調しており、単に日常会話で﹁ガイスト﹂ ︵ 精 神 ﹀ と 使 用 す る 場 合 と 一 線 を 画 し て い る 。 普 願 と 霊 性 ︵ 町 田 ﹀普 願 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ −﹄・﹄包 q ’ ど き ﹁霊性﹂とは、単に精神の作用を指すのではなく、倫理的規範を 超越した宗教意識を指している様に思える。つまり、精神とか心の概念では包みきれない、精神の内奥に在って、知 情意をはたらかせている原理として理解すべきであろう。 随って﹁霊性﹂は、人間生活のあらゆる営みの源泉であるとも云える。若し仏教の語裁で云えば、殊に禅の常用語 右のドイツ語の使用例からも理解されるように、 で あ る ﹁ 大 円 鏡 智 ﹂ と 、 ﹁成所作智﹂を当てることができよう。そして大円鏡地を霊性の知的直覚と云うならば、成 所作智は霊性の意的直覚と表現してもよいのではないか。若し、日蓮聖人に即して云えば、法華経行者の忍難の弘通 をおしすすめた精神的当為に当たるのではないか。 ︽ 切 一 河 口 V 門 ω ﹀ Z 剛 内 寸 O 吋 吋 同 H L M W Z 関 M l o ω 吋 ,
m v
筆者は一昨年、遠くヨーロッパの空の下、西ドイツ・バイエルン州の﹁聖オッテイリエン大修道院﹂で、僅かに三 ヶ月の短期間ではあったが、日蓮宗僧侶として始めて修道生活を体験するなかで、はからずも﹁替願﹂の意義と﹁霊 性﹂の意味について、思索をめぐらす撃を与えられたのであっ勺以来、帰朝して今日に至るも、震と霊性の問 題は、理論としてではなく、信仰を深める﹁縁﹂として、筆者自身の胸奥で胎動を続けているのである。こうした筆 者の思いを背景としながら、極めて恋意的な拙論の展開ではあるが、此処に改めて、日蓮聖人の﹁普願﹂l
殊に立教 閲宗を中心にしてl
の意味を聞い直してみたいと思う。 ︹ 註 ︺ ︿ 1 ﹀ 鈴 木 大 拙 ﹃ 日 本 的 霊 性 ﹄ ︵ 昭 和 十 九 年 ・ 大 東 出 版 社 ・ 昭 和 四 十 七 年 岩 波 文 庫 に 所 収 さ れ た ﹀ ﹃ 霊 性 的 日 本 の 建 設 ﹄ ハ 昭 和 二 十 一 年 ・ ﹁ 鈴 木 大 抽 選 集 ﹂ 春 秋 社 第 九 巻 所 収 可 ﹁ 霊 性 ﹂ の 語 が 曹 洞 ・ 臨 済 で 比 較 的 用 い ら れ て い る の は 、 鈴 木 博 士 に 依 る 所 が 大 き い 。 博 士 は ﹁ 禅 ﹂ の 説 明 に 当 っ て 、 特 に 膨 大 な 英 文 論 文 で は 、 禅 の 述 語 を し り ぞ け て 現 代 語 で 表 現 す る こ と に 努 め 、︿ 2 ﹀ ﹁ 禅 ﹂ と は 、 存 在 の 最 も 深 い 基 礎 を え ぐ り 、 形 式 や 技 巧 の す べ て を 勧 砕 し 、 全 く 裸 の 精 神 そ の も の 、 つ ま り 執 着 の な い 和 ・ 敬 ・ 清 ・ 寂 の こ と 、 そ し て そ の 体 得 ・ 体 験 ・ 直 覚 が 禅 で あ る と す る 。 博 士 の こ う し た ﹁ 禅 ﹂ の 理 解 が 、 ﹁ 霊 性 ﹂ と い う 微 妙 で 深 遠 な 宗 教 意 識 え と 連 動 し て い っ た の で は な か ろ う か 。 西 ド イ ツ ・ 聖 オ ッ テ 4 リ エ γ 大 修 道 院 の 修 道 生 活 に つ い て 、 筆 者 は す で に 、 修 道 普 顕 の こ と ・ 迫 害 と 犠 牲 ・ 愛 と 慈 悲 ・ 愛 と 献 身 ・ 霊 性 の 交 流 な ど に つ い て 拙 著 ﹃ 修 道 普 願 と 霊 性 ﹄ ハ 接 神 五 十 三 号 ・ 昭 和 五 十 六 年 ﹀ 。 ﹃ 愛 と 哲 顕 ﹄ ︵ 玉 成 十 五 号 ・ 池 上 本 門 寺 内 玉 成 会 ・ 昭 和 五 十 七 年 ﹀ に 成 果 の − 部 を 報 告 し て お い た 。 誓願について 向 島 脚 聞 の o v o 伸 一 V ︽ 品 。 ﹃ d q g ロ 日 開 同 ﹀ ﹁祈り﹂とか﹁ねがい﹂という意識が作用しているようである。事実、普願は﹁必ず SZ 司 o g a v 成し遂げたい﹂とする、意志の連動作用のことである。随って、時には自己に対して精神的﹁かせ﹂となることもあ ︽ 品 目 。 司 ﹃ ぬ ロ 角 田 o v り、また時には躍動する﹁よろこび﹂へと昇華されることもあろう。この意味で﹁哲願﹂は、自己の霊性を深めてゆ ︽両国師国の o
−
B V A 凶@︾ ﹁ 普 願 ﹂ と い う コ ト パ に は 、 く重要な契機となるのではないか。即ち、 ﹁霊性﹂の深まりによって、自己の揺湯う気持が払拭されて、確固たる普 願者への道を志向するのではないか。 仏教に於ける四弘哲願︵総願﹀ ・弥陀の四十八大願・薬師の十二大願・釈迦の五百大願など、その願の表現には違 いはあっても、等しく衆生の放済を普願の本旨としている。 また筆者が滞在した聖オッテイリエン大修道院に於て、修道士百余名は、ベネデイクト修道会則l
祈り・労働・読 番 ハ 学 習 ﹀l
の厳しい修道に明け暮れるなかで、その修道を全うするために、清貧︿私財の奉献と謙遜の徳を積む︶ ・従順︵心身の奉献・殉教精神の体得﹀ ・貞潔︿性愛の奉献・生涯独身︶を修道番願とすることで、他に献身する愛 普 顕 と 霊 性 ︵ 町 田 ︶普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ を 深 め 、 一旦事ある時は、十字架を背にして辺境の地に赴むいて行くのである。 普 願 の 語 意 か ら も 理 解 さ れ る 如 く 、 ﹁普願﹂は、慈悲の精神を実践しよう、愛の心を具現しようと、強く志向して いる。随って、その実現のためには、殉教も覚悟することがあろう。この意味で、普願論の展開は単に理論を組み立 てるのでは満足されない。揺ぐことのない信の確立こそ、哲願の原点であることを認識すべきである。 日蓮聖人の﹁普願﹂については、すでに精細な文献考証的な研究、特異な所論、解説が公刊されている。筆者はそ れらから稗益される所が多くあった。 さて、日蓮聖人の生涯は、法華経の殉教の如来使と称せられる通り、忍難慈勝の軌跡であった。この事は数多い遺 文の行聞からあふれ出る法華経行者の意識、留難重々の迫害の体験などが現証していよう。日蓮聖人の著述の大半が 短篇だと云うことは、大著を成す時間的余裕と、思索の場が与えられなかったことを物語っている。 法華経の如来使の生涯を全うするためには、絶対の普願と、深められた霊性がなければならない。日蓮聖人の普願 意識と霊性は、どのようにして培かわれていったのであろうか。 日蓮聖人の﹁普願﹂と聞けば、直に﹃関目紗﹄に閲顕されるコニ大番願﹂の一条を想起させられる。周知の通り三 大哲願の一条は、仏陀釈尊の﹁普願﹂を継承する者として、如来使の自覚を確しかめられた箇処である。 詮するところは天もすで怠諸難にもあえ身命を期とせん。身子が六十劫菩隆一行を退せし乞眠の婆羅門の寅を堪ピ るゆへ。久遠大通の三五の鹿をふる悪知識に値ゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつる地獄の業なるべし。 本 願 を 立 つ 。 日本国の位をゆづらむ法華経をすてて観経等について後生をごせよ。父母の頚を例念仏申ささず わ、なんどの種々の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難風の前の塵なるべし。我日
本の柱とならむ吹田本の眼目とならむ我町本の大船とならむ等とちかいし願やぷるべからか︾ 古来、法華経行者の普願の宣明、その体現のために生涯を捧げきたった事を明らかにされた御文書とされている。 即ち、本紗の官頭に﹁夫一切衆生の尊敬すべき者三あり。所調主・師・親これなり﹂︵定遺五三五頁﹀とあり、更に ﹁大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり﹂︵定遺五三八頁﹀とあり、一ニ大普願の 三大を夫々に、日本の柱は主徳、眼目は師徳、大船は親徳を具備するものと配し、三大番願の内容を具体的に開示し ている。三大番願を仏陀釈尊の三徳に配することで、今の日惑の替願は、釈尊の哲願を継承するものであることを、 明らかにしようとしているのである。 さて、こうした遺文を照合した考証的考察は、遺文の講義集などの研究にゆずりたい。筆者は此処では、先に引用 した文中、傍点を付した﹁本願を立つ﹂の一文と、 ﹁智者に我義やぶられずば﹂の一文について、少しく考察を加え て お き た い 。 す で に 理 解 さ れ る 如 く 、 ﹁誓願﹂は自己の絶対的意志を体現する志向である。退転することのない絶対信の樹立で ある。生涯を賭けての願行なのである。 こうした﹁醤願﹂の意味を踏まえて、 智者に我義やぶられずば用じとなり。其外の大難風の前の塵なるべし ﹃ 関 目 紗 ﹄ に 宣 明 す る との御文書を拝するとき、それは紛れもなく、日蓮聖人の強烈なまでの主知的立場を哲願したものである。実は、 この主知的基盤は、すでに清澄寺修学の時代に麟成されていたのである。即ち、 幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く日本第一の智者となし給え 普 顧 と 霊 性 ︵ 町 田 ︶
普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ と 立 顕 を さ れ て い る の で あ る 。 ﹃関目鯵﹄の﹁智者に我義やぶられずば云云﹂の智者の認識は、明らかに清澄修学 の智願の延長線上で発展した普顕である事は、云うまでもない所である。 従前、﹁本ト願を立%はの一文について、﹁大願を立つ﹂と読むべきか、 解釈をめぐって議論の岐れる所である市︾すでに﹁智者普願﹂が清澄修学時の立顕であり、また﹃関目妙﹄全篇の構 ﹁ 本 ト 願 を 立 つ ﹂ と す べ き か 、 叉 は そ の 成が、日蓮聖人の教義・思想・信仰が揮然として文面にあふれ、 一 切 衆 生 の 盲 目 を 聞 く こ と に 主 眼 が お か れ て い る 、 その主知的立場を流れとしていることから、哲願の支柱は、 ﹁ 大 願 ﹂ で は な く 、 ﹁ 本 ト 願 ﹂ と す べ き で あ ろ う 。 然し現代に於て、例えば回避聖人の宗教を論じ、日蓮聖人の救済観を論ずるときは、 願とされ、忍難六十一年の御生涯でありました﹂と、 ﹁ 一 切 衆 生 の 教 済 を 悲 願 ・ 大 ﹁ 大 願 ﹂ と 表 現 す る 事 は 差 し 支 え な い で あ ろ う 。 即 ち ﹃ 種 種 御 振 舞 御 書 ﹄ に 於 て 、 まらせ給ベき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども二陣三陣つづきて云云﹂ ﹁法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始に一閤浮提にひろ ︵ 定 遺 九 六 二 頁 ﹀ と の 、 末 法 広 宣 流 布 へ の 遺 誠 の 場 合 に は 、 ﹁大願﹂であって然るべきであろう。また、現代の日蓮門下の総弘通の立場からしても、 皆 帰妙法を大願﹂としたいとするのは、当然の在り方であると思う。 ︽
m v
然し、日連聖人が﹁十二のとしより此の願を立つ﹂と、虚空蔵菩薩に対しての立願・智願の意味と、末法弘通の制 誠としての大願の意味とは、次元を異にしている宗教理念の問題のように思える。。 随 っ て 、 ﹃関目妙﹄の﹁本ト願を立つ﹂の一文を、素直に﹁もと︵元・原・始﹀、願︵智願﹀を立て﹂と読むなら ば、それは法華経方便品に於ける 我本立替願、欲令一切衆、如我等無具、如我品目所願、今者己満足、化一切衆生、皆令入仏海 vの教説を受けている解すべきである。即ち﹁本ト願を立つ﹂と宣言することで、釈尊の﹁我本立普顕﹂を継承する 如来使の自覚を表明し、同時に﹁日本第一の智者普顕﹂の祈請を明確にされたのである。 こうした意味で、﹁本ト願を立つ﹂の一定、他替に於て、﹁一つの願をおこ・
3
と か 、 表現されている事と同じであろう。当しく﹁日本第一の智者替願﹂を本願とされたのである。 ︹ 註 ︺ ︿ 3 ﹀ ︽u v
ごつの願を立つ﹂と、 ハ 4 ﹀ ︵ 5 ﹀ ︿ 6 ︶ ハ 7 ﹀ ハ 8 ︶ ハ 9 ﹀ 塩 田 義 遜 ﹃ 法 華 経 に 於 け る 願 と 受 持 譲 与 ﹄ ハ 棲 神 三 三 号 所 収 ﹀ 。 上 田 本 田 国 ﹃ 日 蓮 聖 人 に 於 け る 願 の 研 究 ﹄ ︵ 棲 神 三 六 号 所 収 ﹀ 。 日 蓮 宗 刊 ﹃ 日 蓮 宗 事 典 ﹄ の ﹁ 三 大 普 願 ﹂ の 項 参 照 。 田 村 芳 朗 ﹃ 日 蓮l
殉 教 の 如 来 使 ﹄ ︿ NHK ブ ッ ク ス ・ 日 本 放 送 出 版 協 会 ﹀ 0 閲 目 鈴 ・ 定 遺 六O
一 頁 。 前 向 普 無 畏 三 蔵 鈴 ・ 定 遺 四 七 三 頁 。 破 良 観 等 御 書 ・ 定 遺 一 二 八 三 頁 。 註 ハ 5 ﹀ 参 。 清 水 竜 山 碩 学 は ﹃ 関 目 紗 講 義 ﹄ ︵ 日 蓮 聖 人 遺 文 全 集 講 義 第 九 巻 下 ﹀ に 於 て 、 ﹁ も し 御 真 蹟 に 本 願 と あ っ た と し て も 、 そ れ は 恐 ら く 個 々 御 筆 誤 で あ る と 云 い た い 。 本 紗 の 前 後 に 照 し 、 聖 祖 の 発 願 の 所 依 な る 宝 塔 品 六 鍵 九 易 ・ 勧 持 品 廿 行 の 偏 等 に 照 し て 見 る 時 ﹁ 大 願 ﹂ で な け れ ば な ら ぬ 0 ・ : 即 ち 六 難 九 易 の 文 に ﹁ 此 為 難 事 宜 発 大 願 ﹂ と あ る に 応 じ て 、 今 の ﹁ 大 願 を 立 て ん 乃 至 種 々 の 大 難 出 来 す と も 乃 至 其 外 の 大 難 風 の 前 の 鹿 な る べ し 乃 至 普 い し 願 破 る べ か ら ず ﹂ と な っ た こ と は 、 : ・ 須 く ﹁ 大 顕 で あ る べ き で あ る 0 ・ : 吾 祖 の 大 願 は 本 経 正 宗 分 の 其 等 に 直 接 激 発 せ ら れ た も の で は な く 、 法 華 経 と 滅 後 と を 結 ぶ 流 通 分 の 文 に 直 接 激 発 せ ら れ て の 立 教 開 宗 死 身 弘 法 の 願 な る 故 に 、 若 し 経 の ﹁ 本 立 番 願 ﹂ ・ ﹁ 昔 所 願 ﹂ 等 に 例 し て 、 今 の 文 を 解 せ ん と す る 者 は 、 全 く 経 意 聖 意 を 解 せ ざ る も の で あ る o ﹂ ハ 五 五 四 | 五 五 六 頁 よ り 彦 借 ﹀ こ れ に 対 し て 、 立 正 大 学 の 渡 辺 宝 陽 教 授 は ﹁ 本 と 願 を 立 つ 、 大 願 を 立 て ん は 真 蹟 の 読 み 方 に よ る 。 ﹁ 立 ハ つ ﹀ ﹂ ﹁ 立 ハ て ん ど の 、 カ ヲ コ 内 は 後 人 の 訓 点 で あ る o ﹁ 大 願 を 立 て ん ﹂ と い う 訓 は 所 調 、 − 天 四 海 皆 帰 妙 法 の 大 き な 顕 を 進 め て 行 こ う と す る 哲 願 と 霊 性 ハ 町 田 ︶普 願 と 霊 位 ハ 町 田 ﹀ ︵ 加 ﹀ ハ U ﹀ ハ ロ ﹀ ︿ 路 ﹀ イ メ ー ジ に 連 な る 。 し か し 、 日 蓮 聖 人 の 普 願 は 教 主 釈 尊 の 普 願 の 継 承 な の で あ る 。 ﹁ 本 と 願 を 立 つ ﹂ の 表 現 は 、 法 華 経 方 便 品 の ﹁ 我 本 立 普 顕 云 云 ﹂ 等 の 経 説 を 受 け て い る 。 随 っ て ﹁ 本 と 願 を 立 つ ﹂ と は 、 立 教 閲 宗 以 来 の 日 蓮 聖 人 の 普 顕 を 明 ら か に す る 言 楽 で あ り 、 釈 尊 の 哲 願 を 継 承 す る も の と 理 解 さ れ る ﹂ ︿ 日 蓮 宗 事 典 ・ ﹁ 三 大 哲 願 ﹂ の 解 説 よ り ・ − ニ 九 頁 審 借 ︶ さ て 、 現 代 の 宗 徒 が 挙 げ て ﹁ 大 願 ﹂ に 帰 一 し た い と す る の は 、 宗 徒 の 切 な る 心 構 え と し て は 重 要 で あ る 。 皆 帰 妙 法 を 実 現 し た い と 身 内 に 昂 揚 し て く る 願 望 ・ 緊 張 感 を 、 大 願 に 帰 − す る こ と で 昇 華 し よ う と し て い る の で あ る 。 そ れ は 情 熱 の 発 露 だ と 云 え よ う 。 然 し こ れ に 対 し て 、 ﹁ 本 願 ﹂ と 云 う の は 、 そ の 個 人 の 生 死 を 賭 け た 顧 い
2
2
4
q
g
g
o
v
﹀ で あ る 。 自 己 の 深 め ら れ た 霊 性 ・ 高 め ら れ た 信 仰 の 発 露 な の で あ る 。 我 々 は こ う し た 次 元 の 遣 い を 明 確 に し て お か な い と 、 日 蓮 聖 人 の 本 願 と 、 宗 徒 の 大 願 と の 聞 に 混 同 を ま ね く の で は な か ろ う か 。 註 ︿ 7 ﹀ 参 。 銀 本 ・ 岩 本 共 訳 注 ﹃ 法 華 経 ﹄ ・ 岩 波 文 庫 上 巻 ・ 一O
八 頁 。 妙 法 比 丘 尼 御 返 事 ・ 定 遣 一 五 五 三 頁 。 報 恩 抄 ・ 定 遺 一 一 九 四 頁 。 ﹃ 関 目 妙 ﹄ 定 遺 五 七O
頁 。、
﹁ 智 者 ﹂ の普願 ハ 七 九 四 l 八 六 回 ︾ ︽ M V 日蓮聖人の修学の期聞については、十二歳で慈覚大師阿仁の中興と伝えられる清澄寺に入寺し、同寺の本尊・虚空 蔵菩薩に対して﹁日本第一の智者﹂たらんとの立願をないW
J
干二歳に至るまで鎌倉・京都・高野・叡山など諸国で 修学したとされている。 その修学期におけるエポックメ I キ γ グは、虚空蔵書薩に対する﹁日本第一の智者﹂への立願であろう。即ち、こ の智者への祈請は、出家発心の霊性を一点に凝集した回心の表現である。 ︽ U V ところで、日蓮聖人の回心の動機については、諸説論議の多い所であって、例えば﹃妙法尼御前御返事﹄・ ﹃ 妙 法比 丘 尼 御 返 且ヨ.,『 b~ は 人 生 の 無 常 感 の 故 と 述 J
、
円 四 ︾ ﹃ 関 目 紗 ﹄ に は 父 母 救 済 の 為 と 云 い 、 ︽ 却 ︾ ﹃神国王書﹄では現実の王法仏 法に対する疑惑を表明されている。 しかし惟うに、十二歳で入寺された当時、両親はいまだ健在であり、また十二・十六歳という低い年令を考えたと き、如何に日蓮聖人であったとしても、無常感・出離生死・王法仏法の疑惑・父母並に御師への報恩などそれらすべ て に 亘 っ て 、 人生体験と思索を深めたとは考えられないのである。 だ と す れ ば 、 少年らしい情熱をたぎらせたもの は、学道精進の知的世界ではなかったか。この事は、同時代の法然・親驚・道元などが、無常感を出家の動機として ︽ 副 ︾ いることと対比して、日蓮聖人の場合、発心出家の動機を主知的立願にあるとしてよいのではないか。 ﹃ 普 無 畏 三 蔵 紗 ﹄ に 次 の 如 く 見 え る 。 而るを日蓮は安房国東条の郷清澄山の住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となしA n v
給 へ と 云 云 。 また﹃破良観等御書﹄にも次の如く追懐している。 幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立、日本第一の智者となし給え。十二のとしょ ︻ 盟 ︾ り此願を立。其所願に子細あり。今くわしくのせがたし 0 ・ 先の二書に於ても、幼少時の立願が﹁智者﹂でありたいとする祈請であった事が知られる。そして、その﹁智願﹂ ﹁所願に子細あり﹂と表現するのは、発心の複雑な心境、微妙に遁れる気持、回心に於ける錯綜した惑い が、追懐の表現ではあるが、修学立願時における思いが如実に語られている。 に つ い て 、 さらに﹃妙法比丘尼御返事﹄では、修学立願の心境を事こまかく次のように述べている。 普 願 と 霊 位 ︵ 町 田 ﹀普 願 と 霊 性 ︿ 町 田 ︶ 日蓮は日本国安一房固と申固に生て候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此度いかにもして仏種をも 植へ、生死を離るる身とならんと思て候し程に、皆人の願せ給事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号 を唱候し程に、いささかの事ありて、此事を疑し故に一の願をおこす 0 ・ ・ : : 所 詮 肝 要 を 知 る 身 と な ら ば や と 思 し 故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に毛まで二十余年が問、鎌倉、京、叡山、圏域寺、高野、 天王寺等の国々寺々あらあら羽町田り候し程に、一の不思議あい v 出家の動機について、﹁生死を離るる身とならん﹂とあって、人生の無常感を克服することが、発心契機の如くに 受けとられるが、しかし、その直後に、﹁所詮肝要を知る身とならばやと恩ひし故に﹂、諸国諸寺に遊学したと云っ ていることからも、矢張り出家発心の契機は主知的立願にあったと云えるであろう。 日 蓮 が 愚 案 は れ が た し 。 : : : い か ん が せ ん と 疑 と こ ろ に 、 ﹃ 報 恩 抄 ﹄ の な か に 、 次 の よ う な 一 文 が み え る 。 一 の 願 を 立 。 : : : 天 台 大 師 の 専 ら 経 文 を 師 と し て 一 代 の 勝 劣 を か ん が え し ご と く 、 一 切 経 を 開 き み る に 、 浬 梁 経 と 申 経 に 云 依 レ 法 不 レ 依 レ 人 等 云 : : : 此 経 に 叉 云 依 = 了 義 経 − 不 レ 依 = 不 了 義 経 二 苔 京 。 此 経 に 指 と こ ろ 了 義 経 と 申 は 法 華 経 、 不 了 義 経 と 申 は 華 厳 経 ・ 大 日 経 ・ 浬 紫 経 等 の 巴 n m v 今当の一切経なり。きれば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明銭として一切経の心をばしるべきか。 右の一文でも明らかに、智者普願の立場が明示されている。さて、先に鎖仰した修学と智者普願に関する数篇の御 文書の執筆年次は、文永七年︿世寿四十九歳﹀。建治二年︿世寿五十五歳﹀。弘安元年︵世寿五十七歳﹀のものであ る
。
随って、いずれも十二歳・十六歳時の立願を、追想追懐する形となっている。しかし大事なことは、十二歳の立願・十六歳の智顕であっても、時間と空聞を超越して、そのまま四十九歳の立顕であり、五十五歳の哲願となっている ことである。清澄虚空蔵菩薩に対する祈請は、その後十六年の諸国修学となり、更には法華経行者の忍難四十余年の 軌跡となった。建治二年・世寿五十五歳の今かえりみて、殉教如来使の法悦がほとばしり、時空を超えて、十二・十 六歳の立願が、建治二年或は弘安元年の﹁時﹂となっているのである。 日蓮聖人の固定関わる問題として、清澄寺入寺以前、﹁阿弥陀をたのみす幼少より名号を唱え鴎とある如く、 ︽ 叡 山 積 川 系 の 天 台 宗 に 所 属 ︾ ︽
m c
生家が浄土念仏であったことである。そして、清澄寺に入寺しては、天台本覚思想の洗礼を受け、師の道善房より浄 土教を学%、︾その為に暫時、弥陀称名したとしても不思議はなかろう。 と か 、 此処で大事なことは、この弥陀称名の落し子が、 ﹁ い さ さ か の 事 あ り て 此 事 を 疑 ひ ﹂ ﹁ 我 身 の 不 審 は れ が た き ﹂ ︵ 註 @ ﹀ ・ ﹁ 其 所 願 に 子 細 あ り ﹂ ハ 註 @ ﹀ ︵ 註 @ ﹀ 、 ﹁ 日 蓮 が 愚 案 は れ が た し ﹂ ︵ 註 @ ︶ と し て 、 参 学 と 求 道 に 精 進 し、知的情熱をたぎらせるのである。然しその知的欲求がままならぬ桔抗、そのための焦燥感など、精神的煩悶を重 ねる。そして遂にごの顕を立つ﹂ ︵ 註 ⑧ ﹀ ・ ﹁ 一 の 願 を お こ す ﹂ ︿註@﹀として、虚空蔵菩麓の御宝前に願を立て て 、 ﹁ 日 本 第 一 の 智 者 ﹂ ハ 註 ⑮ ﹀ の 立 願 に 至 る こ と で あ る 。 御文書を通して、偽わりのない真実の告白、知的欲求の情熱、そして普願へと高められてゆく霊性を見ることが出 来る。然し、そこには日蓮聖人の精神的葛藤がにじんでいる。 日蓮聖人が自己の徹底した統一的信仰を確立するに当って、 ﹁ 我 身 の 不 審 晴 れ が た き ﹂ ︵ 註 @ ︶ ﹁ 日 蓮 の 愚 案 は れ が た し ﹂ ︵註@︶として、精神的煩悶と苦悩を重ねられる。この事は生死解脱の志と、仏道を志す者として、戒定慈 ︽ 智 者 立 臨 時 ︾ の何れの一つも及ばざる現在の我が身との葛藤である。その煩悶は、信仰ハ霊性﹀樹立のための痛みであり、回心の 普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀普 願 と 霊 性 ︿ 町 田 ﹀ 当 に そ の 時 で あ っ た の で あ る 。 信仰の問題の解決は、行と学の精進、殊に教義の徹底的討究という知的練磨を離れては、その成就は望めないので ある。この事は、我々、浅学未修の者に於ても体験する所である。発心回心と学道精進とは、当に略啄の関係にある と 云 え よ う 。 ︿ 日 朝 コ 元 組 化 導 怒 ﹂ に は 童 体 ヲ バ 薬 王 丸 ト 号 ス ル 也 と 幽 ︾ 清澄寺に入った日蓮聖人は、倦むことなき昼夜に亘る刻苦修学であった。そして、智者普願の成果について、次の 様 に 開 陳 し て い る 。 生死の島空蔵菩薩より大智慧を給
γ
し事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや忠先げん。明 内m v
星の如なる大宝珠を給て袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ。 我が身の戒・定・慈の一つとして及ばざるに苦悩し、煩悶し、焦燥した赤裸々の姿をみせているのである。そして 命制︾ ﹁明星の如くなる大宝珠を給ぴて右の袖にうけり候﹂とあって、日本第一の智者の普願空しからず、虚空蔵菩醸の御 利生を体得したという法悦が宣明されている。﹁智慈の宝珠﹂を袖に受けたとの表現は、極めて象徴的な宣明である。 それは知的普願に於ける絶対的自信の表明であり、我身の煩悶と葛藤が払拭されていったことを意味している。 日蓮聖人は十二歳で天台宗の古利・清澄寺に登り、住持の道善房に師事し、兄弟子の浄顕・義浄より、 Q M m v 各々二人は日蓮幼少の師匠にておわします と あ る 如 く 、 訓 育 指 導 を 受 け た の で あ る が 、 し か し 、 修学の志を知行両面に亘って満たしてくれるものはなかっ た。即ち﹃本尊問答抄﹄の中に次のような追想がみられる。 v−
T 民 日 蓮 は : ・ ・ : 安 房 園 長 狭 郡 東 条 郷 片 海 の 海 人 が 子 也 。 生 年 十 二 同 郷 の 内 清 澄 寺 と 申 山 に ま か り て 、 遠 固 な る う え 、︽
m v
寺とはなづけて候へども修学人なし。然而随分諸国を修行して学問し侯しほどに我身は不肖也 σ 日蓮聖人にとって、清澄寺は修学の意を満たしてはくれなかった。端的に云えば学問的雰囲気に欠けていたのであ る。﹁修学ノ人なし﹂とは、兄弟子二人に対する失意の表明であろう。 ま た 、 御 師 道 善 房 に 就 て は 、 故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて憶病なりし上、清澄をは ︽ お ︾ な れ じ と 執 せ し 人 な り 。 と云い、更に﹃本尊問答抄﹄に ︽ 担 ︾ 地頭をおそれ給いて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのようににくみ と見え、立教宣言の当日、地頭東条景信による逮離於塔寺の迫害の只中の情況の下で、御師の優しさ、恩愛を思い つつも、然し、師の力量と識見に不満の意を示し、殊に師の優柔不断の性格については、入寺して以来、歳月を経る にしたがって、次第に失意の念は大きくなっていった。そして﹁寺とはなづけて候へども修学の人なし﹂と、追懐さ れる程に、浄顕・義浄の兄弟子を超えていったのである。端的に云って、法師蓮長は、清澄寺に於て学び得るものは なかったのである。この知的情熱に燃えた多感な少年の知的欲求のままならぬ思いが、日本第一の智者哲願へと高ま っ て い っ た と 見 る べ き で あ る 。 親鷲が法然源空の膝下に参学した如く、或は道元が天童山如浄と避遁した如く、日蓮聖人には、 ベき師との出合はなかったのである。此処に日蓮聖人の主知的な独立性を見い出すことが出来よう。知的欲求が昂ま るにつれ、旺盛な智者︵仏限﹀への願が高まるにつれて、遂に虚空蔵菩麓に対する祈請となり、独自の道を歩む決意 一 期 一 会 と も 云 う 普 願 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ を固められたのではないか。 ﹃ 関 目 妙 ﹄ に 於 て ︿ お ︾ 智者に我が義やぶられずば用じとなり と強い主知性が宣明されているが、この事は既に述べた様に、清澄修学・智者普願の延長線上に於ける﹁智者﹂の 絶対の宣明である。この強烈とも云える主知性は、法華経の忍難色読にも劣らない、日蓮聖人の生涯を貫く顕著な特 徴 と 云 え よ い 待 さて、筆者の斯る観点
l
智者立願ーについて異論があろうと思われる。即ち、数多の経典・諸宗分立の対立の現状 に鑑み、何れが真仏教、釈尊出世の本懐であろうか、その諸宗分立の疑問が修学の意図となり、発心出家への動機と る。
なったのではないか、と云う観方である。つまり真仏教の探究が出家への動機として重要ではないか、との主張であ これに関して、例えば﹃報思抄﹄に 日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやか p ならず。家にこの主あれば其家必やぷる。一切経も叉かくのごとくや有らん。何の経にでもをはせ、一経こそ一 切経の大王にてをはすらめ o 而ピ十宗七宗まで各々詩論して随はず o 固に七人十人の大王ありて、万民をだやか ならじ。いかんがせんと疑ところに、一の願を立。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代 ’ h’ ’
=
ν,
a ︽ U V 一切経を聞きみるに浬擦経と申経に云依 ν 法 不 レ 依 ν 人等云云 の 勝 劣 を か ん が へ し ご と く 、 と説かれている。右の追想にもある様に、諸宗対立の疑問を解決せんが為に、清澄寺に入寺修学したと文面上は解り ま た 清 澄 寺 時 代 更 叡 山
護自
主警
き丈
~ ~'~
ぞ
喜
子 著
,
、
r.!:7 ’ 万言 の 曜 は 吹雪証
言去
最 現語本
Z
暴
~
t
と
a
の 盤v は吾脅
ぷ与 耳豆是 を
考 修 ぇ 学 る さ と れ 、 た 先 後 の の 『 事 報 で 恩 あ することが出来るが、 し か し 、 ﹁いかんがせんと疑フところに一つの願を立つ﹂とは、諸宗研鍛に当 抄﹄に云う﹁日蓮愚案はれがたし﹂の一文と、 って、先ず智者でありたい。仏限を得たいとする念顕であったと、解してよいのではないか。 ﹃妙法比丘尼御返事﹄ ︵註@﹀にみられる、発心修学の追懐と、その心境を素直に受けとめるべきであろう。 ︹ 註 ︺ ︿M ︶ ︵ 日 ﹀ 本 尊 問 答 抄 ・ 定 遺 一 五 八O
頁 。 破良観等御密・定進一二八三頁。普無畏三蔵鈴・定遺四七三頁。清澄寺大衆中・定遺二三三頁。 ︵旭川﹀ ︵ 臼 ﹀ 妙 法 比 丘 尼 御 返 事 ・ 定 遺 一 五 五 三 頁 。 妙 法 尼 御 前 御 返 事 ﹁ 日 蓮 幼 少 の 時 よ り 仏 法 を 学 び 候 し が 念 願 す ら く 、 人 の 寿 命 は 無 常 也 。 出 る 気 は 入 る 気 を 待 事 な し 。 風 の 前 の 露 尚 昏 に あ ら ず 。 か し こ き も 、 は か な き も 、 老 た る も 若 き も 定 め 無 き 習 也 ﹂ ハ 定 遺 一 五 三 五 頁 ﹀ 。 妙 法 比 丘 尼 御 返 事 ﹁ 民 の 家 よ り 出 で て 頭 を そ り 袈 裟 を き た り 。 此 度 い か に も し て 仏 種 を も う へ 、 生 死 を 離 る る 身 と な ら ん と 思 て 侯 し 程 に ﹂ ︿ 定 遺 一 五 五 三 頁 ﹀ 。 ハ 四 ﹀ ﹁ 閲 目 鈴 ﹂ に 何 況 や 仏 法 を 学 せ ん 人 、 知 思 報 思 な か る ぺ し ゃ 0 ・ : 父 母 の 家 を 出 て 出 家 の 身 と な る は 必 父 母 を す く は ん が た め な り ﹂ ︿ 定 遺 ・ 五 四 四 頁 ﹀ 0 ハ 却 ﹀ 神 国 王 御 密 に 、 安 徳 天 皇 の 海 中 に 崩 じ た 事 。 後 鳥 羽 上 皇 の 隠 岐 配 流 O 順 徳 上 皇 の 佐 渡 配 流 。 土 御 門 上 皇 の 土 佐 配 流 o 仏 の 加 謹 − 神 の 守 護 に 対 す る 疑 念 を 述 べ て い る ︵ 定 遺 八 八 一 ー 八 八 二 頁 ﹀ 。 ハ 但 ﹀ 法 然 は 父 の 非 業 の 最 後 を 自 己 の 宿 命 と 受 け と め 、 自 己 の 心 的 態 度 の 転 換 に 新 し い 解 決 の 道 を 見 い 出 す べ く 出 家 す る ハ 大 橋 俊 雄 ﹃ 法 然 に お け る 専 修 念 仏 の 形 成 ﹄ ︿ 日 本 思 想 大 系 −m
法 然 ・ 一 週 集 所 収 ﹀ 。 道 元 の 動 機 に つ い て は ﹁ 我 れ 始 て ま さ に 無 常 に よ り て 柳 か 道 心 を 発 し ﹂ ハ ﹃ 正 法 限 蔵 随 聞 記 ﹄ ︿ 岩 波 文 庫 ・ 六 九 頁 ﹀ と み え る 。 註 ︿ 7 ﹀ 参 。 ︵ 四 ﹀ ︵m
﹀ 普 願 と 霊 性 ︵ 町 田 ﹀替 願 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ ︿ お ﹀ 破 良 観 等 御 書 ・ 定 遺 一 二 八 三 頁 。 ︵
U C
註 ハ 路 ︶ 参 。 ︿ お ﹀ 報 思 抄 ・ 定 遺 一 一 九 四 頁 。 ハm v
妙 法 比 丘 尼 御 返 事 ・ 定 遺 一 五 五 三 頁 。 ︵幻﹀日蓮聖人が天台本覚思想の洗礼を受けた事は、円珍仮託の﹁授決円多羅義集唐決﹂の書写をもって当てている。昭和九年 三九三四︶恵谷隆戒民による金沢文庫所蔵の天台関係典籍調査の折り、是聖房密写の星決円多羅義集唐決上巻﹄一帖が 発見された。その奥歯に﹁嘉禎四年大才戊成十一月十四日阿房国東北御庄清澄山道普房東西執事是聖房生年十七才後見人々 是無非誇﹂とあることから、関靖・稲田海索・塩田義遜各氏により若き日蓮聖人の写本であることが確認された。翌年﹃回 避聖人真筆・授決円多羅集唐普影印本が金沢文庫同好会より刊行された。この是型房書写の﹃円多難義集﹄については、 辻 善 之 助 ﹃ 日 本 仏 教 史 ﹄ ︿ 第 三 巻 ・ 中 世 之 ニ ﹀ o 田 村 芳 朗 ﹃ 鎌 倉 新 仏 教 思 想 の 研 究 ﹄ ハ 五 七 六 頁 ﹀ 。 高 木 豊 ﹃ 二 人 の 日 蓮 ・ 改 芭 ︵ 大 崎 学 報 二 一 一 五 号 所 収 ﹀ な ど 、 夫 々 に 日 蓮 聖 人 の 若 き 目 、 天 台 本 覚 を 修 し た こ と を 確 認 さ れ て い る 。 ︿ 却 ︶ 南 条 兵 衛 七 郎 股 御 書 に 於 て ﹁ 法 然 善 導 が 書 き お き て 候 し ほ ど の 法 門 は 日 蓮 ら は 十 七 ・ 十 八 の 時 よ り 知 り て 候 き ﹂ ︵ 定 道 三 二 六 頁 ﹀ と あ る に よ り 浄 土 教 を 学 ば ら れ た こ と を 知 る o ︿ 却 ﹀ 清 澄 寺 大 衆 中 ・ 定 遺 一 一 三 三 頁 。 ︿ 却 ﹀ 普 徳 無 畏 三 蔵 紗 中 に ﹁ 虚 空 蔵 菩 盛 眼 前 に 高 僧 と な ら せ 給 ひ て 明 星 の 如 く な る 智 慧 の 宝 珠 を 授 け さ せ 給 い き ﹂ ︵ 定 遺 四 七 三 頁 ︶ と あ り 、 清 澄 寺 大 衆 中 ハ 定 遺 一 一 三 三 頁 ﹀ に も 同 意 文 が み え る 。 ハ む ﹀ 報 恩 抄 ・ 定 遺 一 二 四O
頁 。 ハ 沼 ﹀ 本 尊 問 答 抄 ・ 定 遺 一 五 八O
頁 。 ハ お ﹀ 報 恩 抄 ・ 定 進 一 二 三 九 頁 。 ︵ M m ﹀ 本 尊 問 答 抄 ・ 定 遺 一 五 八 五 頁 。 ハ お ﹀ 関 目 鈴 ・ 定 遺 六O
一 頁 。 ハ お ﹀ 戸 頃 重 基 ﹃ 日 蓮 教 学 の 思 想 史 的 研 究 ﹄ ハ 幻 ︶ 報 恩 抄 ・ 定 遺 一 一 九 四 頁 。 ︿ お ︶ 註 ︿ 幻 ﹀ 参 照 。 ハ 富 山 房 ・ 一O
頁 ︶ 。四
﹁
立
教
﹂
の替願 日蓮聖人は、自己の宗教生命に関わる初転法輸について、 ﹃清澄寺大衆中﹄に於て、追懐の一節ではあるが次のよ う に 述 べ ら れ て い る 。 此を申さはム日蓮が命と市町べしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八 日安房国東条郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申者設に少々大衆にこれを申しはじめて、其後二 十余年が問退転なく由三ぎ 右の一節は周知の如く、立教の宣言について、その時刻と場所、そして宣言の趣旨を述べたものである。日蓮聖人 の立教審願の宣明である。云うまでもなく、 ﹁普願﹂とは、自己の信念・絶対意志を体現してゆくことである。随っ て自己の信念を体現するためには、肉親との訣別、兄弟とも今生の別れを覚悟し、また働突の痛みを超えねばならな いであろう。普願者にとって、今生の訣別、痛突の涙を断ち切る覚倍こそ、最も要請される心意気であろう。 筆者は一昨年、西ドイツの﹁聖オッテイリエン修道院﹂に於て、幸いにも二名の修道士の修道普願の叙戒式典に参 列する機会を得、彼等二名が修道掘削願の故に、両親兄弟と訣別する姿を眼前したのである。修道士二名は、自らをイ エズスに献身する信仰の世界にひたり、法悦が満ちていたが、然し残された両親たちは、大聖堂に於て働突の涙を流 し訣別の悲しみに耐えていた。筆者は改めて、 日蓮聖人の普願について、聞い直してみたくなったのである。 ﹁必ず日蓮が命ちと成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんが 円 智 懇 宝 珠 の 授 受 ︾ ため﹂と云っているのは、生死を超えて、虚空蔵菩薩の御利生に応える報恩意識の大きいことを如実に示している。 さきの﹃清澄寺大衆中﹄に於て、 普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀哲 顕 と 盤 性 ︿ 町 田 ﹀ 知恩報思の意識が、生死の苦難を超えさせて、立教哲願となったことは、日蓮聖人の宗教形成に於ける特色であろう。 このことは、後年の﹃関目紗﹄に於て 畠 守 − h 聖賢の二類は孝家よりいでたり。何況仏法を学せん人、知恩報恩なかるぺしゃ。仏弟子は必四恩を知って知恩報 ヲ ハ 組 制 ︾ 恩 ほ う ず べ
Li
− − − と云い、また﹃善無畏三蔵鈴﹄にも 此諸経・諸論・諸宗の失を弁ぶ事は虚空蔵菩麓の御利生、本師道普御房の御思なるべし。亀魚すら恩を報ずる事 あ り 、 何 一 広 人 倫 を や 。 此 恩 を 報 ぜ ん が 為 に 清 澄 山 に 於 て 仏 法 を 弘 め 道 善 一 房 を 導 き 奉 ん と 欲 −m v
とあって、知恩報思惑が哲顕の重要な要素であることは間違いない。恩を知ることが﹁智﹂でもあったのである。 チ ル そしてまた﹁必日蓮が命と成べしと存知せしかども﹂とは、明らかに法華唱導の殉教意識の表明である。換言すれば、 ﹁餓悔をする﹂と云った、普願の心的要素が深まり充ちていたのであ ﹁ 帰 依 を す る ﹂ 。 ﹁ 献 身 す る ﹂ 。 ﹁ 改 め る ﹂ 。 る。正に立教哲願は法華経行者への旅立ちの朝となったのである。 建長五年の立教普願は、周知の通り忍難殉教への旅立ちとなったことは、その後の法華経色読の軌跡が如実に示す 所 で あ る 。 さて、立教の哲願をなすことで、必ず自己の身命に及ぶ迫害を覚悟はしても、現実にその場に直面し、その当事者 として、肉親と訣別をなし、故郷を離れるとなれば、慎悩の重圧は胸をしめつけ、心は揺れ動き、惑う気持を抑える ために、思慮をめぐらされたのではなかろうか。 ﹃ 報 思 抄 ﹄ に 次 の 如 き 述 懐 が み え る 。日蓮此を知ながら人々を恐て申さずば、寧喪身命不匿教者の仏陀の諌暁を用ぬ者となりぬ。言んとすれば世間を そろし。止とすれば仏の諌暁のがれがたし。進退此に谷り。むベなるかなや、法華経の文云而此経者如来現在猶 多 怨 疾 況 滅 度 後 、 叉 一 民 一 切 世 間 多 ν 怨 難 レ 信 等 云 一 碍 ︾ いかな日蓮聖人であっても、二者択一の岐路という現実に立った時、 ﹁言んとすれば世間をそろし。止とすれば仏 の諌暁のがれがたし。進退此に谷り﹂と、思い惑はれたとしても不思議ではない。それどころか、仏限を関かれた智 者・回避聖人であり、父母の思愛と師の高恩を思うとき、 ﹁進退わずらいて﹂との快悩が、胸中深く重圧となったで あ ろ う 。 ︽ 綿 ︾ 建長五年の立教関宗について、宗門では、日澄の﹃日蓮大聖人註画讃﹄や、日諦白書の﹃本化高祖年譜﹄等にみら れる、清澄山々頂の旭の森に登り、昇天する朝日に向い唱題して開宗宣言したと喧伝されてきた。が、しかし、日蓮 聖人の立教宣言は、そのようなドラマティックなものではなく、身命をかけた普顕であったのである。偶々、清澄寺 持仏堂に於ける初転法輪その事が、地頭の迫害をうける劇的な場となったことに徴して、立教宣言の英姿を、日蓮聖 人の自負と確信を、旭日昇天に向って唱題したと云う、ドラマティックな形で表現することで、立教宣言を象徴化し て き た か ら で あ ろ う 。 日蓮聖人の立教哲願は、沈潜・熟慮・思案・煩悶・決意の心的経韓の成果である。遺文は建長五年の述作は見られ ず、いずれも後年の述懐の形をとっているが、中には生々しく往時を追懐した御文書が残されている。 たとえば﹃関目紗﹄に次の如く見られる。 日本国に此をしれる者但日蓮一人なり。これを一言も申出すならば父母・兄弟・師匠国主王難必来ベし。いわず 哲 願 と 霊 性 ︿ 町 田 ﹀
普 顕 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ 屯 ば慈悲なきににたりと思惟するに法華経・浬繋経等に此二辺を合見るに、 いわずわ今生は事なくとも後生は必無 問地獄に堕ベし。いうならば三障四魔必競起るべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転す ︽ M 3 ベくは一度に思止ベし。今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ。既に二十余年が問此法門を申す。 ま た 、 ﹃高橋入道殿御返事﹄にも同意の内容が、次のように見える。 此事を知ながら身命ををしみて一切衆生にかたらずば我が敵たるのみならず、一切衆生の怨敵なり。必阿鼻大城 戸 伊 佃 ︾ に堕べしと記給へり。此に日蓮進退わづらいて、此事を申ならば我身いかにもなるべし。我身はさておきぬ。 先 の ﹃ 関 目 鈴 ﹄ の 中 で 、 ﹁法華経・浬架経等に此のニ辺を合せ見る﹂と表現されているのは、法華経響喰品の説示 で あ る ﹁ 若 人 不 信 ・ 毅 誘 此 経 ・ 則 断 一 切 ・ 世 間 仏 種 ﹂ の 駿 誇 堕 獄 の 教 示 と 、 浬擦経の一文である ﹁ 寧 喪 身 命 不 匠 教 者﹂という、滅後の弘教を勧奨した教示の、二者択一の岐路に立ち、精神的煩悶・惑いが﹁進退谷まれり﹂・ ﹁ 進 退 わづらいて﹂と云い、その二者択一の葛藤を赤裸々に吐露しているのである。 し か し 、 ﹁ 進 退 わ ず ら う ﹂ と い う 思 案 、 つまり﹁云うか・云うまいか﹂の選択を迫られた中で、決然としてコ一辺 の 中 に は い う べ し ﹂ と さ れ 、 ﹁ 強 盛 の 菩 提 心 を お こ し て 願 し ぬ ﹂ と 云 い 、 ﹁我身はさておきぬ﹂と、捨身弘教の哲願 を 立 て ら れ た の で あ る 。 日蓮聖人の立教誓願に関する遺文を拝して、喚起される事が一つある。それは鼓詩堕獄・誘法俄悔の意識が強烈で あ る こ と で あ る 。 即 ち 、 ﹁ 日 本 国 に 此 を 知 れ る 者 但 日 蓮 一 人 な り : : : い わ ず は 今 年 は 事 な く と も 後 生 は 必 無 間 地 獄 に ・ ま た ﹁ 此 事 を 知 り な が ら : : : 一 切 衆 生 に 諮 ら ず ば : : : 必 ず 阿 鼻 大 城 に 堕 つ ベ し ﹂ ︽ 崎 ︾ ﹁此を知て申さずば日蓮無間地獄に堕ちてうかぶ期なかるべし﹂等々と述べていることである。 ︵ 註 @ ﹀ ︵ 註 @ ﹀ ・ 或 は 堕 ベ し ﹂
法華正法に対する鼓誘堕獄・機悔滅罪の意識は、法華経の勧持品・薬玉菩薩本事品に説示されている末法弘教の勧 奨との関わりに於て、立教普願をおしすすめた重要な霊性ハ宗教意識︶となっていると恩われる。 法華経﹁勧持品﹂の官頭に於て 爾時薬王菩薩摩詞薩・及大楽説菩薩摩詞薩・与二万菩薩春属倶・皆於仏前・作是哲言・唯願世尊・不以為慮・我 等於仏滅後・当奉持読語・説此経均 と、薬玉菩薩衆の替言がなされ、また﹁薬玉菩薩本事品﹂の説示の一節に、
a v
我滅度後・後五百歳中・広宣流布・於閤浮提、 と、末法に於ける弘教勧奨・仏勅懲湿がなされているのである。日蓮聖人は、この勧奨勅令を身に受けとめられた の で あ る 。 ﹁ 二 辺 を 合 せ 見 る ﹂ ・ ﹁進退谷れり﹂との、二者択一の絶対の岐路に立つ厳しい試煉に臨んで、 コ 一 辺 の 中 に は い う べ し ﹂ ・﹁我身はさておきぬ﹂と葛藤を払拭して法華唱導を決定させたものは、鼓誘堕獄・末法流布の仏 勅懲患を受けとめ得た霊性であったのである。 たとえば、仏勅懲湿の受けとめ方に於て、道元の加きは、 ︽ O V な得道す﹂と、正像末わくことなしと、時代が機根の上下をつくるのではなく、機根は時代を超えて皆同じである。 ﹁なほ大乗実教には正像末法わくことなし、修すればみ 末法であっても只ひたすらの参禅参学すベし。きすれば悟道に入ると主張し、 門 田 ︾ 道の最要なれ﹂と、発心修道を説くのであるが、何んと云っても、道元の特色は、主著﹃正法眼蔵﹄に見られるよう ﹁只身命を顧みず発心修行するこそ学 に、思索の倍道に生涯がかけられたことである。末法思想の克服を宗教理念としながらも、その宗教形成に於て日蓮 聖人との聞には違いが見られるのである。 輔 副 顧 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀哲 願 と 霊 性 ハ 町 田 ﹀ 即ち日蓮聖人は忍難弘教・法華経行者の生涯を普願されたのである。法師品の弘教の三軌
l
如来の室である大慈悲 合引︾ 心。如来の衣である柔和忍辱の心。如来の座である諸法空の心ーを弘法者の心得となし、勧持品の二十行偏に於て、 ﹁我不愛身命・但惜無上道﹂と普言されている薬王菩薩衆の在り方を、日蓮聖人は心と身に読むことを普願されたの である。この意味で、立教哲願とは、法華経の真意と仏勅とを、身に読むことの宣明であったのである。 建長五年の清澄寺に於ける初転法輸は、故郷では容れられなかった。聖書ルカ伝ハ 4 のM
﹀に﹁予言者は故郷に容 れ ら れ ず ﹂S
E
官o
p
o
仲 間 宮 民 各 骨E
g
z
g
︿ 向w g
ユ
g
品。﹀とあるが、当しく、日蓮聖人も迫害法難への旅立ちと な っ た の で あ る 。 さて、立教哲願に付随する一つの問題が残されている。それは、建長五年は、まだ天台沙門日蓮の宗教活動が開始 白 凶 ︾ された時期であり、本化の沙門日蓮へと、霊性は高められていなかったのではないか、と云う見方である σ 即ち、諸 宗批判・破邪顕正の宗教理念は、いまだ確立していなかったのではないか、との主張がなされるのである。 たしかに、立教関宗当時、御文書に依れば、破邪顕正の理念は未成熟であった感をうけよう。例えば、建長六年鎌 倉で執筆した﹃不動愛染感見記﹄には、 自 − 一 大 日 如 来 一 至 = 日 蓮 一 廿 三 代 嫡 々 相 承 自 己 日蓮授新仏 建長六年六月廿五日 とあって、真言大日の系譜上に御自身を位置づけており、 ま た ﹃ 善 無 畏 三 蔵 妙 ﹄ に も 、 建長五年の比より今文永七年に至るまで此十六七年の問、禅宗と念仏宗とを難ずる故匂・ 7. .
と あ り 、 ﹃破良観等御書﹄に於ても かく申程に、年品川二建長五年の春の比より念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念 白拘︾ 仏者等にはあなづる と述べ、更に﹃清澄寺大衆中﹄でも ︻ 幻 ︶ 真言宗は法華経を失宗也。是は大事なり。先序分に禅宗と念仏宗の僻見を責て見んと恩ふ。 とあって、建長五年の開宗当時、そして数年の聞は、専ら念仏ハ浄土﹀と禅宗に対して破折の限が向けられており、 真言宗に対しては文永期に至るまで破邪の言が見られない。 こうした一連の御文書を拝する限り、所調、四箇格言の如き強烈な破邪顕正の理念は確立はされてはいない。然し、 筆者は惟うに、普願意識と、それを支える霊性の問題は、その宗教者の宗教思想の深化・教義の深奥とは次元を異に する問題であると考えている。思想の深化、教義の確立は、その宗教者の年輪と共に豊かに充実されてゆくものであ る。ところが、哲願意識とか発心は、宗教者の霊性による所が大きいのである。随って、立教哲願の当時、 た と え 諸 宗批判が未熟であるうとも、日蓮聖人の法華弘通の普願は確固としていたとみたいのである。 以上で捌筆する。哲願の問題は、三大普願と法華経行者の殉教意識に立ち入る問題を残しているが、 いずれ稿を改 め る こ と に す る 。 ︹ 註 ︺ ︵
m v
︵ MW ﹀ 定 進 一 一 三 四 頁 。 定 遺 五 五 四 頁 。 哲 願 と 霊 性 ︿ 町 田 ﹀普 願 と 霊 性 ︿ 町 田 ﹀ ハ n u ﹀ 普 無 畏 三 蔵 紗 ・ 定 遺 四 七 三 頁 。 ハ 純 情 ﹀ 報 思 抄 ・ 定 進 一 一 九 八 頁 。 ハ n w ︶ 梅 本 正 雄 編 ﹃ 回 避 聖 人 伝 記 集 ﹄ ︵ 本 満 寺 刊 ・ 昭 和 四 十 九 年 所 収 ﹀ ハ 斜 ﹀ 閲 目 鯵 ・ 定 遺 五 五 六