江戸後期・生野代官領における学問所の研究-『生野銀山孝義伝』の刊行をめぐって-
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(2) 善行者を調査させ、褒賞を与え、嘉永2年. 小川は豊後目出藩町医師、玄亀の長男とし. (1849)その記録を刊行させる。これが本論. て文化9年(1812)、目出城下に生まれた。近. で扱う『生野銀山孝義伝』である。. くにあった藩儒帆足万里の家塾で学び、やが. 小川が去った後も、学問所の施設・行事は. て京師に遊び、大坂・目田・長崎など各地を. 充実され明治を迎える。生野代官所を明け渡. 遍歴して見聞を広め、その後、再び上坂し父. させた新政府軍の折田年秀は、「明徳館」と名. の知人でもあった私塾梅花杜を主宰する篠崎. 前を変えさせ存続を許可した。. 小竹の世話で漢学塾を開き、結婚。弘化3年. く第三章)『官刻孝義録』は寛政の改革の一環. (1846)、小竹の推薦で但馬生野代官所に仕官. として庶民教化を目的に松平定信の命で享和 元年(1801)昌平坂学問所において編纂され. する。代官の諮問に応じたり学問所で諸経の 傍ら、代官の求めで銀山町内の善行者を調査。. た。公領・私領を間わず全国から報告された. 嘉永2年、その記録を『孝義伝』にまとめた。. 善行者は8600人近く、そのうち900人余りに. また町人有志のために学間の講座を開くなど. 伝文(評伝)が付けられている。但馬国から. の事蹟も残している。嘉永5年(1852)、生野. も120人が報告され、生野代官領からは2人、. 代官所を致仕して帰郷。翌年、日出藩に隣接. その中の1人には伝文がある。その後、文化 年間に幕府は続編を計画し、再び全国から資. する杵築藩に儒道教授として仕官し江戸詰と. 料を集めたが、刊行には至らなかった。. 変を目撃する。文久3年(1863)、国詰となり、. なる。そこで万延元年(1860)の桜田門外の. また官刻版の刊行以前から、全国で多くの 類書が作られている。幕府の『官刻孝義録』. 藩校の教師を務める。やがて幕末維新となり、. にはそれまでに編纂された地方の類書からも. 退く。その後、私塾r麗澤館」を開き漢学を 教えるなど青少年の教育にあたり、晩年を迎. 多くが転載、収録されているという。 〈第四章〉『生野銀山孝義伝』は、当時の勝田. 代官の命により嘉永2年(1849)1月に生野 学問所r麗澤館」から板付された。著者は学 問所の司鐸であった儒者小川含章である。小 川は学問所での講義の傍ら銀山町内を踏査し. 明治4年(1871)の廃藩置県により杵築藩を. える。明治27年(1894)に残する。 〈終章〉地方に置かれた一幕領下においても、. 学問所が整備され、出版事業まで行われたこ とが明らかになった。学問奨励によって配下 の役人や有力町人たちに君臣・身分の秩序と. て、13名の善行者を発掘した。勝田代官はこ. 人倫の道を弁えさせ、また孝子・節婦・忠義. れら13人に褒賞を与え、小川はその善行内容. 者などを褒賞し、その評伝を出版して広く領. を評伝に記した。13人の中には、幕府老中か. 民に知らしめ教化に役立てようとしたのであ. らも賞賜を受けた者もいた。最初は漢文で記. る。その善行者の記録『生野銀山孝義伝』の. 述されたが、和文に直されr麗澤館蔵梓」と. 成立には、儒者・文人墨客たちのネットワー. して出版されたのである。. 採り上げられた13人の殆どは、自己を犠牲. クが関与していた。学問所はその地の文化の 拠点にもなっていたのである。. にして、貧しくとも穏和・実直で働き者、親. 今後の課題は、地元の資料館や旧家などに. に孝養を主人に忠義を尽くし、兄弟妻子和睦. 今も残る史料を調べ解読していくいこと、そ. まじい、という理想的な人物たちである。こ. うした作業を通して空白部分の一つ一つを埋. の『孝義伝』には他の類書にはない特徴がい. めていくことである。. くつかある。序や政に当時の鐸々たる文人・. 学者が筆をとっていて、それぞれが格調高い 内容であること。また、本文と同様に小川が 記述したもので、善行者たちが居住する町「生 野銀山」の説明或いは案内書のような『開坑 客記』が附録として収録されていることなど である。. 一21. 主任指導教員 安 部 崇 慶. 指導教員安部崇慶.
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