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江戸後期・生野代官領における学問所の研究-『生野銀山孝義伝』の刊行をめぐって-

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Academic year: 2021

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(1)江戸後期・生野代官領における学問所の研究. _『生野銀山孝義伝』の刊行をめぐって_. 【研究の目的と先行研究】. 専  攻. 学校教育学. コ ース. 教育コミュニケーション. 学籍番号. M08007D. 氏  名. 小 山 直 樹.  終 章 江戸後期・一幕領代官の施策.  本論は、特に解明が進んでいないと考えら れる江戸後期の幕領下の教育についてその一.    第1節 学問奨励と領民教化    第2節 課題. 端を、一代官所に設置された学問所による「孝. 【研究の概要】. 義伝」の板行を事例として考察することを目. 〈第一章〉徳川氏の政権を財政的、軍事的に. 的とする。. 支えたのが幕府直轄地(幕領)であった。京・.  「孝義伝」については、享和元年(1801)の. 大坂を始め、港湾・鉱山・穀倉地帯などの全. 幕府による『官刻孝義録』の刊行だけでなく、. 江戸時代を通じ全国で数多の類書が編纂され. 国の重要な地域に配置された。その中で最も 数が多かったのが代官による支配所(代官所). ている。それらについて、内容の分析、編纂. であった。そのうちの一つ但馬国生野代官所. 過程の解明、他藩の類書との比較、家族・女性・. は、戦国期の山名・織田・豊臣氏の頃から重. 介護の視点からの分析など、近年、いくつか. 要視されていた生野銀山を支配した。代官は. の研究がなされている。学問所研究について. 幕府旗本から選任され、幕府勘定所の指揮下. も「孝義伝」研究についても、全てを一括り. で、地方・公事方・山方(銀山)行政にあた. にすることはできない。一つ一つの事例の実. った。地方行政官という性格上、度々転任が. 相を丁寧に調べていくことが必要となる。. あり、その際、手附・手代などの部下役人を. 【論文の構成】. 伴って異動した。生野では享保以後、40人近.  序 章 研究の動機と目的. くの代官が平均5年余り在任した。代官の下.    第1節 問題の所在. には地元在住の地役人もいて、主に山方の仕.    第2節 先行研究  第一章 幕領生野代官所. 事を担当した。また江戸詰めの役人も置き、 地元と勘定所との連絡調整事務にあたらせた。.    第1節 幕藩体制下の幕領. 〈第二章〉学問所とは学問を教授する施設で.    第2節 生野代官所  第二章 生野学間所    第1節 始まりと私塾時代. ある。各地の幕領内にも、中央の昌平坂学間 所に倣って学問所が設けられたが、それらの.    第2節 学問所・導性堂時代. である。天明期、稲垣代官による陣屋の一間.    第3節 麗澤館時代    第4節 麗澤館から明徳館へ 第三章 善行者の褒賞と記録の刊行    第1節 『官刻孝義録』. を提供した学問奨励の史料が残っている。寛. 解明は十分ではない。生野学問所もその一つ. 政の改革の地方版といってよい。次に目にす ることができる記録は天保期大草代官時代で、 出石藩儒桜井東門の私塾が開かれ、その後、.    第2節 様々な類書. 代官所に収公され学問所「導性堂」と名付け.  第四章 『生野銀山孝義伝』. られる。.    第1節 内容    第2節 著者小川含章.  次の勝目ヨ代官は、儒学者不在となっていた 学問所に大坂から小川含章を招き、名前を「麗. 澤館」と変える。代官は小川に命じて町内の. 一20一.

(2) 善行者を調査させ、褒賞を与え、嘉永2年.  小川は豊後目出藩町医師、玄亀の長男とし.  (1849)その記録を刊行させる。これが本論. て文化9年(1812)、目出城下に生まれた。近. で扱う『生野銀山孝義伝』である。. くにあった藩儒帆足万里の家塾で学び、やが.  小川が去った後も、学問所の施設・行事は. て京師に遊び、大坂・目田・長崎など各地を. 充実され明治を迎える。生野代官所を明け渡. 遍歴して見聞を広め、その後、再び上坂し父. させた新政府軍の折田年秀は、「明徳館」と名. の知人でもあった私塾梅花杜を主宰する篠崎. 前を変えさせ存続を許可した。. 小竹の世話で漢学塾を開き、結婚。弘化3年.  く第三章)『官刻孝義録』は寛政の改革の一環.  (1846)、小竹の推薦で但馬生野代官所に仕官. として庶民教化を目的に松平定信の命で享和 元年(1801)昌平坂学問所において編纂され. する。代官の諮問に応じたり学問所で諸経の 傍ら、代官の求めで銀山町内の善行者を調査。. た。公領・私領を間わず全国から報告された. 嘉永2年、その記録を『孝義伝』にまとめた。. 善行者は8600人近く、そのうち900人余りに. また町人有志のために学間の講座を開くなど. 伝文(評伝)が付けられている。但馬国から. の事蹟も残している。嘉永5年(1852)、生野. も120人が報告され、生野代官領からは2人、. 代官所を致仕して帰郷。翌年、日出藩に隣接. その中の1人には伝文がある。その後、文化 年間に幕府は続編を計画し、再び全国から資. する杵築藩に儒道教授として仕官し江戸詰と. 料を集めたが、刊行には至らなかった。. 変を目撃する。文久3年(1863)、国詰となり、. なる。そこで万延元年(1860)の桜田門外の.  また官刻版の刊行以前から、全国で多くの 類書が作られている。幕府の『官刻孝義録』. 藩校の教師を務める。やがて幕末維新となり、. にはそれまでに編纂された地方の類書からも. 退く。その後、私塾r麗澤館」を開き漢学を 教えるなど青少年の教育にあたり、晩年を迎. 多くが転載、収録されているという。 〈第四章〉『生野銀山孝義伝』は、当時の勝田. 代官の命により嘉永2年(1849)1月に生野 学問所r麗澤館」から板付された。著者は学 問所の司鐸であった儒者小川含章である。小 川は学問所での講義の傍ら銀山町内を踏査し. 明治4年(1871)の廃藩置県により杵築藩を. える。明治27年(1894)に残する。 〈終章〉地方に置かれた一幕領下においても、. 学問所が整備され、出版事業まで行われたこ とが明らかになった。学問奨励によって配下 の役人や有力町人たちに君臣・身分の秩序と. て、13名の善行者を発掘した。勝田代官はこ. 人倫の道を弁えさせ、また孝子・節婦・忠義. れら13人に褒賞を与え、小川はその善行内容. 者などを褒賞し、その評伝を出版して広く領. を評伝に記した。13人の中には、幕府老中か. 民に知らしめ教化に役立てようとしたのであ. らも賞賜を受けた者もいた。最初は漢文で記. る。その善行者の記録『生野銀山孝義伝』の. 述されたが、和文に直されr麗澤館蔵梓」と. 成立には、儒者・文人墨客たちのネットワー. して出版されたのである。.  採り上げられた13人の殆どは、自己を犠牲. クが関与していた。学問所はその地の文化の 拠点にもなっていたのである。. にして、貧しくとも穏和・実直で働き者、親.  今後の課題は、地元の資料館や旧家などに. に孝養を主人に忠義を尽くし、兄弟妻子和睦. 今も残る史料を調べ解読していくいこと、そ. まじい、という理想的な人物たちである。こ. うした作業を通して空白部分の一つ一つを埋. の『孝義伝』には他の類書にはない特徴がい. めていくことである。. くつかある。序や政に当時の鐸々たる文人・. 学者が筆をとっていて、それぞれが格調高い 内容であること。また、本文と同様に小川が 記述したもので、善行者たちが居住する町「生 野銀山」の説明或いは案内書のような『開坑 客記』が附録として収録されていることなど である。. 一21. 主任指導教員 安 部 崇 慶. 指導教員安部崇慶.

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