アジアの動向 ビルマ 1968
著者
アジア経済研究所
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
シリーズタイトル
アジア動向年報
雑誌名
アジアの動向1968年版
発行年
1968
出版者
アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00052034
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ア ジ ア 経 済 研 究 所この「アジアの動向」く国別シリーズ) 1968年は,月刊『アジ アの動向』を各国別にまとめ,総目次, 1968年の回顧,年表を 追録したものです。
アジア諸国の政治・経済・社会の動きを適確に把握する基礎 資料として,月刊『アジアの動向』とあわせて利用ください。
目 次
ピ ノ レ マ -1968年一 年 表(1968) ...折込 〔月間概況〕 1月の動向...1 3月の動向...29 4月の動向...59 5月の動向...,75 6月の動向...89 7・
8月の動向・• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • ・ • • • þÿ0û0û• • • • • þÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0ûþÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û133 9月の動向...149 10・
11・
12月の動向...217 〔主要事項〕 投降者,赤旗共産党について語る(1月) ...3 メノレグイからの報告 C1月) •••••••••.•••••.•••••••••••••••••••••••••••••••• 4 〔 資 料 〕 国民への報告196768年度(要旨) C 9月) •••••••••••••••••••••••••••••••••• 180ビ
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- 1968
年 一
政治的にはピノレマ全士を統一し,経済的にはピルマ国民の生活を安定させ るというネ・ウィン軍事政権の基本目標は, 1968年を通じて依然として達成 されることはなかった。 しかし一方においてネ・ウィン政府に対抗して同様の課題を達成せんと目 指しているピルマ共産党もまた,その目標に従来以上に近づいたとはいえな かった。 すなわち全士にわたるネ・ウィン政府軍およびその支持者逮に対する,ピ ノレマ共産軍,およびカレン,カチン,シャンなどの少数諸民族反政府軍との 戦闘はほぼ日常的な出来事となって継続した。 経済生活においては,ピノレマ社会主義の名の下に行なわれる政府統制経済 制度は,繊維製品,日用品などの必需品を中心とする工業生産の低下,停 滞,輸送手段の不足や形式主義の横行による流通面での陸路の激化などをや はり日常的なものとさせ,このために民衆の生活にとっては「社会主義jの 枠外での“ヤミ”経済の存在がいまや不可欠のものとなるという情況がつづ いていくことになった。 このようにして1968年のピルマは,内戦と見通しのない経済的不安定とを 前年にひきつづき再び最も支配的な特徴とすることになった。勿論この年も ネ・ウィン政府とピノレマ共産党は,こうした情況を克服し,あるいは改善 し,また利用せんとして様々な政策,戦略的,戦術的諸方策を発表し,実行 した。しかしそれらはこれまでのところ情勢を決定的に変化させていくほど の実効力をもたなかったし,近い将来においてももちそうもない。このこと は1968年にひきつづく 1969年においても,ピノレマの政治,経済,社会を何ら かの統一的方向にひっぱっていくような力が未だ立ち現われないであろうこ とを示唆している。 1969年以降のピルマがどうなっていくかについては勿論 明確な指摘を行なうことはできない。しかし1968年の問,政府やその反対勢-149-ビ ノ レ マ 力が何をやり,またやろうとしたか,そして民衆がそれに対しどう反応して いったかを仔細に検討することは,将来のピノレマを予測するうえで大いに役 立つことになろう。以下1968年のピノレマをあとづけてみたい。 軍 事 情 勢 はじめに軍事情勢の特徴を概説しておきたい。 焦点はペグ一山系ならびにイラワジ・デソレタを拠点とするピノレマ共産党軍 およびその協力者カレン族武装部隊対ピノレマ政府軍との対決がどのように推 移したかということであった。 政府軍の目標はピノレマ共産党中央本部のあるベグー山系におかれた。すな わち政府軍はピノレマの反政府活動の中心であるピノレマ共産党中央委員会政治 局キャンフ。の所在を徹底的に追求し,党指導部とそれを守る共産党正規軍を 見つけ出し,破壊するという作戦を行なった。 ベグー山系,特に共産軍の中心地たるその南部地区は, 1967年秋頃から政 一 一 11 一一 一
150-府軍により包囲された。政府軍はベグー, トングー,プロームを結ぶ三角形 状にペグー山系南部を包囲し,そこに三つのレインジャー部隊,戦車部隊, を含む政府軍約20ヵ連隊ならびに警察隊を配置し, 1967年末から 1968年を通 じて全力をあげて包囲せんめつ戦を遂行した。この包囲線上,および内部に は共産党正規軍約500人ならびに恐らく 300
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400人前後のカレン人部隊がい たものと推定される。 政府軍は1967年末から 1968年前半にかけてベグー山系をとりまく農村地帯 における共産系武装勢力の排除に総力を集中した。このため政府に協力的な 地主などの力の強い村々や容共分子が排除された村々には,村落民兵隊が結 成され政府軍に協力させられた。共産軍は小部隊に分散したゲリラ戦で政府 軍を悩ましたり,また上記三角形状包囲網上を走るピノレマ国鉄に対し,地雷 による列車,鉄道レーlレ,橋などの爆破を行ない政府軍の補給ノレートのかく 乱を行なったりして対抗した。 しかし政府軍は徐々に共産軍の中核部隊をベグ一山中に追い込み,ある場 合には捕捉することに成功していった。このため共産軍は数々の犠牲者,投 降者を出すに至った。 1968年 4月には有名な共産軍軍事指導者ボー・ゼ、ヤが ベグ一山中で戦死している。激戦は 5月, 6月, 7月とつづきミャーツー,マ ン・ガイ,チョーソーなどの著名な軍事指揮官に卒いられた共産部隊,カレ ン人部隊は次第にベグー山中で圧迫され,彼等の多くは秘かにベグ一山を逃 れ,シッタン川を越えカレン人部隊の本拠のひとつであるコートレイ州境沿 いのジャングノレ地帯へと身をひそめるに至った。 一方タキン・タン・トンを中心とするピノレマ共産党中央本部部隊も追求を さげるのに必死であった。彼等のキャンプ地点は次々と発見され,その都度 かれらは政府軍の攻撃をさけて新しいキャンプ地を見出さねばならなかっf
こ。 ところがこの苦境に立つ共産党中央部隊に新たなあ重大な打撃が加わっ た。それは 1968年 9月2413,党首タキン・タン・トンが死亡したことであ る。彼は共産党デ、ノレタ地方軍から党本部にきていたー兵士により射殺され た。 タキン・タン・トンら党首脳部は中国における劉少奇グノレープ失脚後,ピ-151-ビ ル マ ノレマ共産党内にあって従来劉少奇路線に忠実であった人々一ーそのなかには 1963年の対政府和平交渉に積極的だった人々が多かった一一の排除に乗り出 し,イエボー・テー,ボ・ヤン・オン,ゴーシャルなどの生え抜き党員を処 刑した。この党内の粛清運動は1968年に入っても続き,彼等処刑者に連なる 人々が追求され,ある者は処刑され,ある者は政府側に投降した。 こうしたなかで1968年 8月末,中国帰りの著名なデ、ルタ地方の軍事指導者 ボ・トン・ニィエンが党本部で処刑された。罪名は分派活動,修正主義であ った。同じ頃, 1963年の和平交渉決裂後地下に入った当時の大学学生運動指 導者数名が平和主義的反革命主義者として処刑された。 タキン・タン・トンの暗殺者は,こうした党中央のやり方に反対した,ま た彼自身処刑されたボ・トン・ニイヱンの部下であったデ、ルタ地方軍の兵士 であった。 ピノレマ共産党指導部が政府軍の大攻勢のなかにあって,党内で敗北主義的 な,また政府との和平を求めるような傾向が出てくることを極度に恐れて, そうした傾向に通ずると見られる見解をもっ人々を片っぱしから逮捕,処刑 していったことは一面では理解できる。しかし党指導部の公式見解にいささ かでも相違する意見なり,やり方が死をもって報復されることは,他面,党 内の団結を弾力的なものから形式的なものへと変化させ,却って党組織の柔 軟性を弱め,党を弱体化させることにも通ずる。この意味でタキン・タン・ トンの死は,ビ、/レマ共産党の党内運営に重大な問題点のあることを示唆する ものであろう。 さてそれはともかくとして,タキン・タン・トンを失なった共産党中央部 隊では,タキン・ジンが後継者となり党を指導することになった。しかし彼 等もまた10月頃ペグー山系を離れ,シッタン川を越え,コートレイ州沿い地 方に身をひそめた。 かくしてピルマ共産党ペグ一山系部隊は小規模のゲリラ部隊に分散したも のはベグー山中とその周辺の村々に残存しているとはいえ,主力はベグー山 系を追われ,コートレイ州方面に逃れるという形で1968年を終えることにな った。同時にタキン・タン・トンを失なったことにより,政治的にも党の立 直しを重大な課題として残すことになった。 一 一 IV -
-152-さてこうしたわけで, 1968年は政府軍にとってペグ一山系方面作戦は軍事 的にも,またタキン・タン・トンらの死といったことによって政治的にも大 きな成功であったといえる。しかしピルマ共産党ならびにカレン軍のもうひ とつの重要拠点であり,ピノレマ経済にとって最も重要な位置をしめるイラワ ジ・デソレタに対する政府の奪回作戦は,ベグ一山系作戦のようにうまい具合 いにはいかなかった。 イラワジ・デノレタでは1964, 65, 66年とほぼ全域にわたり,カレン人武装 部隊,共産軍による農村解放闘争が進められた。この結果政府による農村組 織化,すなわち土地委員会,農協などを通ずる農民の組織化,政府の集荷セ ンターを通ずる米の買付け促進,などの諸方策は殆んど失敗に終った。農 協,集荷センターなどは共産系部隊により破壊され,政府協力者は連日のご とく射殺された。ピノレマの米輸出が1963年の百数十万トンから 1967年には60 万トン余に低下したことの主な原因がこのデ、ノレタ地区における政府の米集荷 機構の麻時にあったことは勿論である。 かくして政府にとってデ、ノレタ地方にその権威を再確立するという課題は, 最初に述べたペグー山系作戦以上に重要なものとなっていた。しかし軍事作 戦は1968年にはペグ一山系に重点がおかれ,デノレタでは約10個連隊の政府軍 が活動したにすぎなかった。しかも共産軍,カレン軍はベグー山系部隊をか なり上廻る数で、デソレタに展開していた。共産軍は数百人,カレン軍はそれ以 上の数とみられる。 政府軍はモーピン,ミャゥンミャ,へンザダを結ぶデ、ルタ中心の三角地帯 を数個連隊の兵力で包囲する形をとっていた。しかしその三角地帯内部を 「解放」せんとする政府軍の努力は実らなかったようである。政府の集米セ ンターの活動は回復せず,政府系の村々に対する政府系民兵隊の組織工作も 進展しなかった。 一方晶デ、ノレタ南部の米作地帯でも状況は大して変りはなかった。政府軍は駐 屯地を離れて深く農村地帯に入りこんでいくことはできなかった。このため この辺りでは戦闘は比較的少なく,農民一達は共産党が政府側に米を売却する ことに対してのみ禁止的で、あるという状況のもとで,米以外の農作物の生産 や淡水漁業にはげみ,やや平和な環境のなかで生活を送ることができたよう -153
ピ ル マ である。こうした農民達の聞からは,政府軍と共産軍との争いにまきこまれ ることはこりごりだとして村落自警団をっくり,いささか無政府主義的な行 き方で自分達の平和な経済生活を守ろうとする考え方が生れてきているよう である。 しかしデルタの全体的状況は, 1968年度のピルマ米輸出が1967年をまた大 幅に下廻り, 25万トン程度とみられることに示されるように政府にとって決 して好転はしなかったのである。 さて以上が1968年のピノレマの軍事情勢の中心的状況であった。この他の地 方ではマレー半島寄りでは相変らず,政府軍は「点
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しか維持できないでい ること,カチンリ十l
,シャン高原においてもやはり政府は「点と線J
を維持す るにすぎないこと,インド国境方面でチン,ミゾ族などの武装勢力の動きが 目立ってきたことなどが留意されるべき点であろう。 経 済 情 勢 以上のような血なまぐさい武力闘争を背景としながら,ピノレマ国民は1968 年を通じてどのような経済生活を送ったのであろうか。 ネ・ウィン政権が登場した当時の1963年度のピノレマの輸出額は 12億6370万 チャット,輸入は12億
6900万チャットであった。しかし1967年度は輸出,輪 入とも6億7000万チャット強に低下し, 1968年は 1∼ 8月で輸出は 3億2450 万チャットラ輸入は5億8990万チャットとなった。すなわち輸出はさらに下 廻り,輸入は前年を若干上廻るということである。 ピノレマのような農業国においては農産物輸出の低下が輸入の減少としては ね返るのは止むをえないことである。しかしこのことは国内に十分な製造業 部門をもたない農業国において,国民生活に重大な悪影響をもたらすことに なるのはいうまでもない。なぜなら国内で生産できない消費物資のみならず 機械類,部品,原材料などの輸入が低下することは直ちに国民の消費生活に はねかえるのみならず,同時に部品,原材料の不足,生産機械設備の老朽 化,輸送用機械,施設の老朽化,不足などといった形で全体としてその国の 経済の再生産過程に重大な悪影響をもたらすからである。 ピノレマの場合,輸出の低下が世界市場的要因や気候などの要因によるので 一一 VI - -154はなく,ネ・ワイン政権の国内政策にもとづくものであるだけに問題は長期 にわたり深刻なものとなった。すなわち単に輸出が低下したことの悪影響に 加えて,流通機構と主な金融・鉱工業部門の固有化が行なわれたことは,全 体として企業家層にやる気をなくさせ,固有化企業でのお役所主義とあいま って国内製造業の活動を低下させた。そして全般的な物資不足は,消費物資 のみならず,部品,原材料などのヤミ取引ブームをもたらし,これは勢い物 価高という形で国民生活を圧迫した。このことは都市労働者の生活が圧迫さ れるということであり,労働者達は手取り給与と生活費の上昇との聞に苦し み,多くの人々をヤミ取引や様々の副業に従事することを余儀なくさせた。 そしてこれはまた全体として工場を中心とする労働者達の勤務能率を引き下 げることに役立つた。 こうした一般的状況は1967年にひきつづき 1968年も継続した。 ただ食生活の面において状況は前年より若干改善したようにみえる。農民 は別にして,都市住民は1968年は前年のような深刻な米不足には見舞われな かった。 これは米の生産が前年よりもよかったことに加えて, 1967年の米危機以来 米の自由取引が公然と認められ市場に米が出廻ったこと,同時に米の買付け 所に農民の気を引くラジオや農機具などがおかれ,農民の政府への米の売渡 し状況が若干よくなったこと,さらに軍事状況が政府側に有利となり農民か らの米の売渡しが増加したこと,さらに1968年 2月以降政府が米の統制を強 化すると発表したにもかかわらず,米のヤミ取引が依然として大規模につづ いていたことなどの諸要因によるとみられる。 ラングーンを中心とする都市部に対しては,米の他にも,野菜,果物, 肉,魚などほぼ途絶えることなく入荷しつづけたようである。こうしてヤミ 市場が経済生活にとって必須のものとなってしまったという政府にとって面 白くない情況はともかくとして,都市住民は1968年はなんとか食生活は事な く送れたといえよう。 さてこうした全般的な状況をふまえながら,もう少しくわしく各経済部門 の動きとその問題点,政府のそれに対する対応策などみてゆこう。 工 業 1968年 9月に発表された政府の「国民への報告」に発表された
155-ピ ノ レ マ 数字をまず検討してみよう。 民衆の生活に是非とも必要な商品の生産状況は前年に比して改善されたと はいえない。 繊維製品の生産は全体として 1967年度の 6億 3千万チャットから 1968年度 (1967年10月から 1968年 9月〉は 6億 6千万チャットに上昇したことになっ ている。しかし綿製品は
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億7
千万チャットに下落,ただ プリント類,合繊製品の生産が上昇した。 石けん,洗剤,ろうそく,マッチなどは横ばい,プラスチック製品,その 他一般化学製品,紙などは生産が低下し,一般的に日用品,家庭用品の生産 は横ばい,あるいは低下ぎみであった。 しかし一般的な物価上昇を考えると繊維製品,建築用材,日用品,家庭用 品などの国民生活に直接関係する製品の生産は,数字上若干前年を上廻った ことになっていても,実質的には停滞していたと考えてよいであろう。この ことは,輸入面で、消費財輸入が前年を上廻ったことによっても説明されるで あろう。 こうした消費財生産の停滞ないし低下傾向は,主にその生産部門が私企業 に属していたために,私企業部門に責任のあることとされた。 政府当局者は工業生産の低下が原料の不足,機械の老朽化,部品不足など による私企業工業の操業率低下,そして閉鎖,また労働者の労働意欲の低 下,経営者の不正などにあると述べていた。 このことは全国 100余の国営工業企業の生産が概ね良好であったという事 実と対照されて大きな問題となった。 原料,部品などの優先割当てをうけ,労働条件もよく,比較的生産規模の 大きな,製鉄所,自動車組立工場,機械工場,繊維工場,紡績工場,化学工 場,製糖工場,製薬,かん詰工場,タバコ工場,セメント工場などの国営企 業の生産が,原料,部品不足に悩み,労働条件の悪い,小規模な私営諸製造 工業に比して好調であったとしても驚くに当らない。 しかし工業の全般的な国家管理,運営を目指す政府にとっては,非能率な 私企業部門を整理し,能率のよい少数の国営企業に統合していくことは望ま しいことといえる。したがって 1968年度の私企業経営の悪化は政府をして, V-156-いま一歩その国有化主義を推進させる動因を与えることになった。 1968年 8月政府は私営工業企業を工業計両対象企業と対象外企業に分け, 原料品は対象企業にのみ配分され,対象外企業は閉鎖され,労働者は配転す るとの新方針を発表した。 この背景には, 7月に入ってマンダレーの石けん工場28のうち, 23工場が 原料不足で操業を停止したこと, 8月にはラングーンの中小工場地帯で、小規 模工場の22%が原料と部品の不足で操業を停止, 1千人以上の失業者を出す に至るなどの急迫した情況があった。 政府としては結局この際中小工業は整理し,比較的大きな工場のみを[計 画対象企業jとして残してゆくことによって苦境を脱するしかないとしたわ けであろう。 そしてこうした布;
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イの後で, 12月16 日政府はラングーンを中心として60の 繊維工場,28の食品工場,23の化学(プラスチック,マッチ,石けんなど) 工場, 16の金属工場, 9の機械工場など 168の私営工業企業を国有化すると 発表した。すなわち,政府は固有化という形で大工場は存続させ,中小工場 を切り捨てていくという方針をこれによって最終的に固めたわけである(な おラングーンには1100余の工場があるとみられている〉。 これによって精米工場などの農産品加工工場,零細な個人経営的な織物, 縫製加工工業などを残してピノレマの工業部門は殆んど国有化されることにな った。しかしこの陰には多数の中小工場が倒れ,多くの失業者が生み出され また全体として生産量が低下し国民生活が圧迫されるといった,資本主義社 会発展過程に普遍的な現象がここでも特徴的にみられることになったわけで ある。 1968年,かくしてピノレマの工業界にはまた一歩新しし、動きがみられたので あるり なお工業部門についていえば,政府は企業家の創意に替る企業運営の動因 として,企業内での労働者ー評議会設置運動,合同協議会設置運動などを展開 して労働者の発言力,イニシアチプの増大を期待している。これは国営企業 が動脈硬化に陥らないために必要な措置であろうが,軍管理下において,ま た一般的な生活の不安定さのなかで,どれほど効果があがるかは大いに問題ヒ ノレ ーず であろう。 農 業 さて次に農業部門の動向にふれたい。 1967年末の収穫期の米の生産量は約765万トンで,これは前年を 100万トン 以上もー上廻っていた。このことが1968年のピルマに前年のような米不足をも たらさなかった基本的要因となったことはいうまでもない。しかしこの生 産高は 1964年度, 65年度の800万トン以上の生産, 1966年度の793万トンをい ずれも下廻っている。 米作の低下傾向は政府の低米価政策,流通上の問題,さらに共産党による 政府への販売禁止令などの結果であり,こうした要因が変化しない以上今後 ともつづくかもしれない。その他の農産物についていえば,クーデター後政 府の固有化方策,流通麻;庫などの結果一時減退していた商品作物の生産が回 復してきていることが注目される。 落花生は 1963年度, 64年度の40万トン台から 1967年度の27万トンまで低下 したが, 1968年度は36万トン台にまで回復した。ごまもクーデター前の 7万 トン台から一時 5万トン台まで落ちていたが1968年は 10万トンを上廻った。 この他立類,綿花などもかつての水準に回復してはいないが,前年の生産は 上廻った。しかし砂糖きびは伸び悩んでいる。 畜産,水産高はここ 2, 3年上昇傾向にある。一時減少を伝えられた家畜 数
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政府発表によれば増加しているという。 こうした商品作物,畜産,水産などの増加傾向は,農民達が問題の多い米 の作付を制限し,より利益の上る,またヤミ取引も米よりも自由な,この種 の生産物部門へとその生産活動を転換したことを反映しているようである。 またデソレタ地方からの報告では,富農,地主達も,また共産軍もともにこう した方向へと農民達を指導しているという。また農業労働者が米作労働から 河川漁業などに転換したために,米作労働力が不足しているといった報告も なされている。 さてこのようなわけで,ピノレマは単純な米作中心の米輸出国から,多様な 農作物をもっ,自給自足的な小農民へとその体質を転換させはじめたかのよ うである。 しかしこうした農業における一種の資本主義的取引の再開は,米のヤミ取 ー− X --158-引ともあわせて,当然のこととして村落レベルにおける富農層,地主層の地 位の強化,逆にいえばネ・ウィンの自作農創設政策で一時陽の当りかけた小 作人,農業労働者達を再び,かつての地主・富層支配体制下に組み入れるこ とにならざるをえない口 政府は一時地主制の廃止を志向して,農業労働者に土地を配分し,小作料 を廃止するなどの措置をとり,また農繁期には耕作料の融資すら行なった。 しかし耕作費融資は生活費としてたちまち消費され,したがって返済される こともなく,しかも農業労働者達は「農具をもたず,年の終りまで、食って行 ける米もなく,種をまく費用ももっていず,その結果彼等は効果的に土地を 耕作することはできず,したがって生産は低下することになった」 (1968年 9月のネ・ウィン議長発言〉。 そのために農業生産の回復を目指す政府は小作人や農業労働者に依拠する ことをあきらめ,ついに富農層にのみ頼ることを決めた。 1968年 9月ネ・ウィン将軍は次のように宣言した。 「生産を上昇させるた めに,より多くの土地を,現に所有している土地の他にさらに耕作する能力 をもっ農民に配分すべきである。」 「それは川に雨を降らすようなものであ り , すで豊かなものを富ませることになる。」しかしこれは背に腹はかえら れぬ政府には止むをえぬ政策転換であった。 さてそういうわけで,政府は今後は農業融資も富農層にのみ支給するとい った形で彼等を助け,彼らが村落内で、小作,農業労働者を使用して生産を増 強していくことに期待している。そして将来は富農層を幹部とする農協など を中心として無秩序なヤミ取引をわが国の全購連,全販連的取引体系でおき かえていくことを考えているようである。 しかしこうした方向は当然のこととして共産系分子の反発を招くことはい うまでもなく,彼等が農協幹部をテロの第1目標としているのも当然のこと といえよう。政府は村落民兵隊を親政府派農民幹部を中心として結成させ, 「赤い力」に対抗せんとしている。 かくしてピノレマの農業社会はこうした重大な問題をはらみながら1968年を 終えたわけである。 流 通 ピノレマ経済にとってもうひとつの問題は流通部門にある。 F b 一−
ピ ル マ 国家統制のもたらす諸幣害はすでに論じっくされているのでこの問題につ 」hてはふれない。ただ1968年の新しい動きとしては,政府が地域単位の消費 者協同組合の育成に乗り出し,将来うまく行けば人民商店を通ずる小売をや めて,消費者協同組合制に移行させようと方針を打ち出しているのが注目さ れる。しかしこれがうまく行くかどうかは将来の問題である。この他にはヤ ミ取引が実質的に政府統制を骨抜きにしていっているということを別にすれ ば,制度上の大きな変化はなかった口 ただ1968年新たに注目されたのは,政府経営の国鉄,内陸水運局などで, 列車,船舶の不足が表面化してきたことである。 たとえば内陸水運局で、は船舶の老朽化にともない故障船が激増し, 1968年 9月末総保有船777隻中ラ 627隻が稼動しているにすぎず,船便の廃止や,船 便数の削減が目立ってきている。また国鉄では戦前の機関車保有 371輔に対 し現在は;350余i岡ァ貨車は9460繭に対し 8505嗣,客車は958輔に対し 67fif雨と 大幅に保有台数が減少しており,しかも輸送必要量は激増している。 こうした輸送手段の不足はピノレマ経済にとり深刻な問題で、あり,ここでも 政府は民営の小型船舶, トラックなどの輸送力に次第に頼らざるをえなくな っている。この問題も今後のピノレマ経済をみてゆくうえで注目すべき点のひ とつであろう。 その他の諸問題 ネ・ウィン政府は 1968年を通じて,軍事方面,経済方面などで上述のよう な諸方策を講じてきた。しかしネ・ウィン政権が1968年に行なった諸方策中 にはもうひとつ注目されるべき動きがあった。それは同政府の旧議会政治下 における政治運動家に対する対策である。 ネ・ウィン将軍は, 1968年 9月全軍司令官会議において次の上うな見解を 表明した。 「われわれは国家の福祉のために働らかねばならない。われわれは目下権 力をもっている。それをわれわれの利己的な目的に使ってはならない。この 権力を人民の手に再び与えることはわれわれの責任で、ある。−−ー・・・私について いえば私はあまり長く指導権をとりづづけたくない。」 一 −Xll 一一 一一
160-「われわれは政治を独占することはできない。−…−−政治家一一古いものも 新しいものも,軍人,公務員,すべてが政治に参加せねばならない。それだ けでなく,人民,農民,労働者,知識人も参加せねばならない0 ・ー…われわ れは政治家を一般的に非難することをやめねばならない。」 こうした見解の下に,ネ・ウィン将軍は 11月29日,ウーヌーら旧政党指導 者:33名と会見し,その結果12月 1
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,彼等部人の旧政治家からなる“ピノレマ 共和国国内統一諮問会議”の設立が発表されることになった。この会議は政 治的,経済的,社会的,倫理的にピノレマ統一に役立つ方策を提案し,将来の 憲法起草の一助とさせるという重要な役割をもつこととなった。 ネ・ウィン将軍がこの時点でこうした「民主化」措置を採用した裏には, 最初に述べたような対共産党対策の成功を背景としながら,ここで再び旧政 治指導者に活動の場を与えることによって,より広汎な反共統一政権といっ た方向に,ネ・ウィン政府の基盤を拡大していくといったねらいがあるもの とみてよいであろう。その意味でこれは従来の労働者に対する労働者評議会 設置運動,合同協議会運動,農民に対する農協組織拡大運動,農民評議会設 置運動などと並ぶ一連の対民衆工作の一環といえよう。 勿論ネ・ウィン将軍個人は,政権を長く独占するつもりはないのかもしれ ない。しかしここ当分は政府の国有化旋風でかきまわされたビノレマには,強 力な国家統制官僚(すなわち軍人達〉の存在を不可欠のものとする経済機構 がつづくことになるし,対共産軍対策上も中央政府が強力なものでありつづ けることが必要となってくるO したがって軍政は若干の“民主化”措置をと もないつつも容易に廃止されないとみるべきであろう。その意味でこの旧政 治家再登用も,ここしばらくは軍政の息抜き的役割にとどまる可能性が強い といえよう。 ピルマ共産党の政策方針 ピノレマ共産党は 1968〆年,軍事的にはペグー山系で後退を余儀なくされた が,デ、ノレタをはじめその他の地域では旧状を維持した。また党の指導体制の うえでタキン・タン・トンの暗殺にみられるような問題点を暴露し,またボ ーぜヤーのような有能な軍事指導者を失ななうという損失を受けた。ピ ル マ しかしこうした打撃にも拘わらず,共産党の基本方針たる,武装闘争によ り農村を解放し,都市を包囲し,さらに反ネ・ウィンの側に立つ総ゆる民主 勢力と連合して,最後にラングーンを奪取するという方針には変化はない。 1968年 3月18日共産党中央委員会はその革命武装闘争20周 年 を 記 念 し て 「全国の被抑圧人民は団結して,ハリコのトラ=ネ・ウィン軍人政府を打倒 しよう」と題する声明を発表したが,そのなかで, 「ネ・ウィン軍人政府は これまでにない,解決しようのない経済・政治・組織・軍事の危機に直面し ている」と規定している。そしてネ・ウィン政府は農業政策において失敗し 農民は貧困に苦しんでいるから,彼等農民達を解放し,農村を根拠地とし, 都市を包囲して政権を奪取しようと述べている。しかしその場合土地問題の 解決の仕方,またピノレマにおける少数民族問題の解決策,を提示することが 重要な課題となるといっている。 ピノレマ共産党が指摘するようにネ・ウィン政権が様々な重大な困難に直面 していることは明らかである。そのことによってネ・ウィン政権反対者が有 利な地歩を占めうることもまたいうまでもない。しかしピノレマ共産党が現政 権の打倒に成功するためにはまだ数多い障害がありそうなこともまたいうま でもない。 軍事的な問題,党組織上の問題,またカレン族との関係を第1とする他の 少数民族との関係調整問題,さらに農民大衆が貧しいとしても,何とか食っ ていけるという意味で保守的であれまた富農属の影響力も無視できない多 くの農村地帯においてフさらに農産品の多角化,農民の定着性の高まりなど といった新しい要因の発生してきている農村地帯において,たえず状況の変 化に応じながらその工作を進展させていくことの困難さなどを考えるとき, ピノレマ共産党の活動進展が容易なものではないことが理解される。 こうした諸問題に対し共産党がどのような新ししな具体的な対策をもち出 すか,それに対抗してピノレマ政府がどう動くか,この対決こそ上述してきた 様々の問題を含むピルマ情勢のなかで,今後最も注目すべきところであろう。 なお最後にふれなければならないことは,この対決について中国共産党は ピノレマ共産党を支持し,ソ連・東欧・北鮮の各政府はアメリカ,日本,西独 などともにネ・ウィン政権を支援しているということである。 一 −XlV一一
-162-ピ
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マ
激戦を伝えられていたPaukkhaung地区での政府軍と共産党軍との戦闘 は,民兵隊との協力により,政府軍が勝利を収め,共産党を一掃したと伝え られたが。 11月中旬より報道された当地区の戦闘でピルマの内戦がさらに深 刻なものであることが理解される。ベグー山麓一帯のこの地方が1949年来, 共産党の支配下におかれていたことが明らかにされたのである。 しかも,最近では,当地区の中心地を“北京市”(Cityof Pekin)とも呼 んでいたという。もともとこの地区一帯はデ、ノレタの“豊かな米作地帯”と違 って貧しい山村であり,そこに住む農民はカレン人小作農が多く,容易に共 産党の地盤に成り得る条件があったといえる。しかし,最近各地の戦闘状況 を見ると, こうした共産党の支配する区域は Paukkhaungのみにとどまら ず特にベグー山麓一帯あるいは下ピノレマ全域に存在するようである。 Paukkhaungの戦闘では,共産党の戦闘勢力は僅か数 100名にあるにも拘 わらず,政府軍は3個連隊を対峠し,さらに親政府軍の農民・労働者が構成 する民兵隊(PeoplesMilitia)数100名を投入しなければならなかったのであ る。この激戦について,政府は“勝利し,当地域を奪回した”といっている。 だが,Paukkhaungと同様な戦闘は全ビノレマに及んでおり,共産党の遊撃戦か らすれば,それは決っして政府軍の“勝利”を保証することにはならなし、。 今収穫期間における,内戦情況の最も大きな特質は,デ、ノレタ中心部イラワ ジ省内での戦闘についての報導が少ないことである。このことはデ、ノレタで大 きな戦闘が無いことをも意味している。事実政府はデソレタの治安は回復され つつあるとの印象を国民に与えようとしており,ネ・ウィン議長自ら12月末 から1月にかけて,デ、ノレタ地帯を視察して,それを立証することに努めた。 しかし事実は,テソレタにおいては,こう着状態が続いていると理解すべき である。政府の論理からすれば,軍隊の大量投入によらなければならない, しかも軍事的に消耗度の激しいデソレタでの戦闘を自ら仕掛けることもない。 -231ー 一( 1 )一ピ ル マ C1月) デ、ノレタで、の籾の収穫には,これ以上期待できないということであろう。むし ろ,共産党を「中国の走狗」「売国奴」「仏教迫害者」と呼んで国民に,連邦 の危機感と大同団結を強調することによって,政治的な信頼の確保を努める ことに専念した方がより効果的で、あるとの政策を採りつづけるべきだとして いる。農民が国旗を掲げて牛車隊を編成し,政府買付所に籾を販売にくる様 相が連日,新聞に掲載され,籾を販売した農民を英雄とまで呼んで集荷をキ ャンベ}ンしている。そして政府は「今期籾の収穫は大成果」であると強調 する。 しかし, Paukkhaungでの戦闘に象徴されるように,政府は軍事的にはす でに,手いっぱいの努力を続けており,デ、ルタへの全面的な奪回作戦を行な う余裕は無いのではないか。不断の共産党による遊撃戦に対処するには,現 在の政府軍勢力にとっては,あまりにも戦場が広く,闘わなければならない 敵が多すぎる。各地で民兵隊が結成された背景にはこうした事情もある。し かし,農民側からの民兵隊結成の要望もあり,即座に政府が一般民衆に武器 を渡すことはしないだろう。且って,ウー・ヌ一政権時,民兵隊を組織した ため,各地で不良民兵隊が強盗団に変わったり,あるいはそのまま反乱軍に 加わった例をネ・ウィン将軍は自ら経験している。現在の民兵隊結成の動き の中にも,共産党の触手が感じられる。したがって,すでにデ、ノレタを軍事的 手段によって奪回する望みを棄てた政府は,あくまで共産党を「売国奴
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と して国民にその危険な思想を訴えて行かざるを得ない。ネ・ウィン政府の望 みは,必要以上に外国人支配を怖れるピノレマ人民衆の心情をくみ上げて,独 自の力で共産党と対決することであろう。しかも,一時的には外国からの大 量援助をしてでも,マヒした経済を再建していくことである。 しかし, 1月16日,米国政府はかねてより報導されていたビ、ノレマへの軍事 援助の実態を公式に発表するに及び,ネ・ウィン政府が,共産党との対決に 何を用いようとしているかが明解に示唆されたのである。 米国の軍事介入は,ネ・ウィン政府および米国が決定的なブレーキを掛け ない限り,序々に拡大され,内戦は自ずとベトナムの道を歩むことになろう。 一方共産党は,ますます毛沢東路線を明確にしており,武装活動はもとよ り,政治的にも農民を基盤に全国的な組織活動を強めている。このことは, 一( 2 )ー LMつ q o ワμ1 まだ相次いでいる指導的立場の投降者が明解に語っており,毛路線の堅持は, 持久戦として,全国的な陽動作戦をつうじ,ピノレマをベトナムの道に引きづ り込む方向に持ち込んでいくであろう。 だが先きにも述べたように,明確に中国共産党,毛沢東の路線を宣言して いるピノレマ共産党が一般民衆にどのように映じているか,少くとも,約半世 紀間インド人によって,外国人支配の苦渋を味わってきたデルタ農民達は, これまでインド人と変わらないネ・ウィン政府から“解放”されることを期 待して共産党に協力し支持してきた。しかし,ビノレマ共産党の教条的ともい える毛沢東思想、の崇拝をこれらの農民達は,政府のキャンベーンではあるが 「売国奴」という眼を共産党に持たないという保障はない。しかし,ネ・ウ イン政府が米国からの軍事援助をさらに導入するようになればこの疑問は解 かれようし,また政府が,あくまで「社会主義」を貫くとして,農民の犠牲 を再考膚、しなければ,例え,農民の眼に中国の従属者と映っても,彼らの選 択は共産党に向かうことになる。 1968年の始めに当り,ピノレマの内戦がベトナムの経験を想起しながらどの ように発展するか,われわれは注目しなければならないと考える。 勢多投降者,赤旗共産党について語る
12月22日, 海軍情報部に投降した赤旗共産党員 KoKyi ’fun Kyawは南部管区
Ngwethaungyan政府軍キャンプで「赤旗共産党はすでに壊滅し,彼ら自身,人民解 放軍と称しているが強盗団に過ぎない」と述べ,党内事情などについてつぎのように 語っfこ。 (1) 私は1963年に地下に潜り,赤旗共産党に参加した。党内では常に上ピルマ地 域と下ピルマ地域の梯隊問で、意見の相異がある。配下達は政治的訓練はほとんど受 けておらず,人民の利益となるような行動は一切許さなれい。指導者自身でさえ, 人民の福祉となるようなことは一切しない。 (2) 党は 1年間に人民から 100万チャツト以上の税金を強奪することができない。 -233- - ( 3 )ー
ピ ノ レ マ (1月) だから配下達は,彼らの身体を保持するに充分な食物しか与えられていない。指導 者達は好きなだけ金を使っているが,配下には1銭も与えられない。指導者達は快 適な生活を送っている。彼らは舶来の酒や煙草を常用している。 (3)赤旗共産党員達は何事も口先だけであり,人民から強奪した金で生活する武 装集団に過ぎない。私は指導者達が如何にして人民を代表しているか知らない。彼 らは自分達自身でさえも代表していないのではないか。 (4)党は常に,婦人達は1万年の昔から圧迫されていた。だからわれわれはこの 悲しむべき状況から解放しなければならない。そしてわれわれは,婦入達が好む夫 を選ぶ自由を与えるべきであるといっている。この思想、に基づいて,結婚した婦人 は,彼女の意のままに夫を変えることが出来る。 ある指導者が既婚の婦人を欲しい時には,彼は彼女の夫に協力と働きかけを要請 することができる。夫の方は,彼自身,自分の妻を取られたことを報告するだけで, 何もいうことは出来ない。このため指導者でも多くの恨みやしっとが発生しており, これらの事は70件以上にも達っしているO (5) 党の最新の指令によれば革命政府に対して武装反乱をしない,闘いは制度に 対して行なうべきであるとしている。したがって農協に放火することは禁じられた。 また農民は,彼らが好む価格であれば籾を政府に売ることを許されている。 (6) 私は,党が人民の生活を向上出来ないと考えたため投降を決意したのである。 多くの党員が投降を希望している。しかし,彼らの多くは機会を見つけることがで きないでいる。彼らは,武器の持参なしでは,投降が許されないと考えている。 争メルゲイからの報告
The Guardian紙,メノレグイ支局の KyawWin記者は, 1月31日付でメノレグイ地
区について要旨つぎのように報告してきた。
私は以前の報告でも述べたように,東南軍管区内における多くの経済開発計画は 順調に実施され,成功している。これらのうち最も成功してし、るのは製塩,魚莱製 造,鳥巣採取,水産業,真珠養殖業,鉱業などで,最近ではパイプ製造業も挙げる
ことができる。
われわれは最近 Kyaikkhamiのモデノレ製塩場, Bilugyunのパイプ製造所, Tavoy の Kyaukmetaung鉱山,鳥巣集積所などを視察した。これらのところでは当初の われわれの期待を超えて順調であり,労働者との会談でさらにその成功を知ること ができた。 Merguiで,われわれは予期せぬ経験をすることができた。それは最近
ピ ル マ
投降した共産党員と会談する機会を持ったのである。
この投降者は12月末に1人で政府軍第1海兵隊に投降し, Mergui西部の作戦・
政治部長の BoMyo Myintという。 BoMyo Myintは党内の事情についてつぎ
のように語った。 ( i ) 毛沢東思想、が当地域の共産党の指導者,従卒聞に強制的に広められてい る。われわれは如何なる赤書も持っていなかった。しかし毛沢東の三つの論文を 持ち,北京放送を聞いていた。われわれはラングーンでの中国人の煽動による暴 動について, 1ヵ月以上も知らなかった。私はその事を知った時,私は中国人に 対して激しい怒りを感じ,投降を決意するまでになった。 (ii) 如何なる場合でも,われわれが行なってきたような破壊活動は用いては ならぬと私は考えるようになった。われわれは農協,人民商店,漁船を破壊,焼 きつくし,モーターボート,聞の鉛,ゴム,魚菜などに掛けた税金を徴収した。 このような税金から年間約20万チャットを得ることができた。しかし,殆んどは 指導者の手に入り,われわれはその内容を知らされていなかった。多くの指導者 達は豪著な生活をし,従卒達はボロを着,腹を空かしている。 (iii) 私はラングーンの中国人暴動の3∼4ヵ月前に共産党に参加していた6 人の学生を家に帰した。また中国人暴動直後, Merguiから2人の中国人少女が 党に参加してきた。彼らはまだ14才と15才であった。彼らはまだ党の事務所にい るはずである。 なお, BoMyo Myintは投降していらい,海兵隊キャンプで好対遇を受けてお り,キャンプ内を自由に歩きまわることが許されている。彼の妻は昨年 (1967年〕 共産党県委員 BoMyint Htayの妻と一緒に政府軍によって逮捕されている。 1 日 V米価値上り一一ラングーンで、は,上ピノレマの業者が大量に買入れているため, 最近,米価が値上り傾向を示している。先週中に 1パスケット当り 7チャット∼ 10チャットの値上りを示した。品種別価格は次のとおりである。 (注:単位はパ スケット当り, ( 〉内は先週の価格〉 Ngasein種 25チャット(18)
ビ ノ レ マ (1月〉 Yebawsein種 30チャット(23) Meedon種 29 II (36) Ngakywe種 33 グ (40) 2日 Vネ・ウィン議長,デルタ視察から帰る一一ネ・ウィン議長夫妻および一行が デルタ地帯の視察を終え,空路ラーグーンに帰朝した。 一行には,タウン・チ農相,ラー・ハン教育相, Ko Ko官房長官らも含まれ ており, 12月27日,船でラングーンを出発,パセインで南西軍管区司令官 SanKyi 大佐および計画党第12区副議長 KyawZaw中佐と合流,河船による視察を開始 した。視察旅行の概要は次のとおりである。 12月27日::Maubin,Kyaiklat, Bogaleで農民と会談。 12月28日: Bogaleで漁業労働者と会談, Moulmeingyunで農民と会談,同 タ, Wakemaに到着,同様に農民と会談した。 12月29日: Myaungmyaで,農民および製塩労働者と会談,|司タパセインに 到着。 12月30日:バセインで同県内の農民と会談,製傘・製陶工場などを視察。 12月31日: Ngaputaw郡 Magyisin村で農民および製塩労働者と会談,当村 のモデノレ製塩場および Thongwa村近郊の製塩場を視察した。
Vチン評議会員農村視察 チン特別省評議会員 U Vum Thu Ha Shein ら 一行はチン省 Mindat県内 Kanpetlet,Paletwa, Minbya郡の農村を 40日間にわ たって視察し,このほど終了した。視察中一行は主に民兵隊の結成,農村住民の 教育および一般福祉について農民と話し合った。 V警察駐屯所,反乱軍に占拠さる一一午前 5時,ベグー県 Daik・
u
管区内から “祭門の帰りと装った反乱軍が2台の牛車に乗ってベグー市西方口の警察駐屯所 を急襲,6名の警官に対し武装解除を命じ,武器を捕獲,一時駐屯所を占拠した。v
間業者米価を吊り上げ Thedaw-Wundwin地区では,当地の間業者が新 米を公定価格の倍以上で買っており, Ngasein種では 100パスケット当り 1000チ ヤツト, Taunghtaikpan手重では 1200チャットの高値で買っているという。 3 日 V「国は公正配分のために米を買うのである」一一北西軍管区司令官 SeinMya 大佐は Shwebo県 Hladaw村の政府買付センターで籾を販売に来た農民約80人 に対し, 「政府が農民から直接,米を購入するのは,国民の聞に公正に配分する ためであり,国民を間業者や,手lj潤追求者から擁護するためであるjなどと述べ fこO 一( 6 )一-236-ピ ル マ (1月〉
Vカチン州議長, Putao県を視察一一一カチン州評議会議長 UDingra Tangと
その一行は, 26日間にわたって, Putao県内 Machamaw, Nawnmon郡などを
視察,村氏と治安,国民団結,経済,社会福祉問題などについて討論し,このほ どミチナに帰着した。
T Gyobingaukで共産テロ活発化一一Gyobingauk郡西方地域で最近,共産党に
よる活動が活発化している。当地域では, 共 産 党 Tharrawaddy郡委員会書記
Sein TheinとBahTheinこと BahMya Sae卒し、る30名が主に活動しており,
一部では, さらに15名の中核党員とともに MaAye Myintこと BahGyi Ma
Maの指導による20名の婦人部隊もいるという。 これらの共産党軍の活動は,特に農民に対し,政府に米を販売することを禁止 し,従わぬ者に対するテロを行なっている。 ある地域の農民は共産党主催の「国民登録カードを焼却する式典」に強制的に 出席させられたケースがある。
v
ソ連,鉱業開発に援助の用意一一一モスクワで聞かれた第20日ピノレマ独立記念 日式典前夜祭に出席した対外経済関係ソ連委員会代表のPavelSaladav紙は,タ ス通信との記者会見でピノレマ,ソ連との関係について, 「ピノレマの経済開発に対 するソ連の援助は,両国間の友好関係を強化する重要な要素である。ソ連はピノレ マに対し,鉱業および非鉄金属の開発に援助を行なう用意がある」などと述べた。 4 日 V第20回独立記念日一一第20回独立記念日を迎えて,ラングーンの中央式典会 場を始め全国各地で記念式典が行なわれ, 「国民団結」が強調された。なおネ・ ウィン議長夫妻は,国賓館で各国外交官を招待し,記念式典を行なった。 V農民,民兵隊結成を要求一一サノレウィーン河西岸のMyainggale地区の3カ 村からの農民代表が2日Pa-an郡計画党支部議長に,カレン反乱軍を自らの手で 一掃するために民兵隊を結成するよう要求した。これらの農民達はすでに18年間 もKNDO反乱軍の支配下にあり,常にテロの脅威にさらされていると語ったov
解放部落でも独立記念式典一一12月中に政府軍によって解放された元共産党支配地域通称“北京市”と呼ばれる Thabyedan, Htubauk, Theegan, Kyaukp司
yintha, Phalanbinなどの村落で独立記念式典が催された。 また同じく最近解放
されたベグ一山麓の Zigan地区村落でも同様の式典が行なわれた。 いずれの式
典においても,共産党を強く非難する演説が行なわれ, 「ピノレマ社会主義」の下
での団結が強調された。
またトングー県 Oktwin北西のThayetpin,Maung, Hnama,および近郊農村
ピ ル マ (1月〉
で独立来最初の独立記念日式典が開催され3500人の農民が出席,県 SAC議長 Ko
Ko Lay中佐も同席した。
5日
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司令官地方視察一一一東南軍管区司令官 MaungLwin大佐は Chaungzon郡Kalu, Kangaw, Ywdut, Chaungzonなどを訪れ,農民と米の諸問題につき話し
あった。また中央軍管区司令官 TinU 大佐は1日 Akyabを訪れ,省,県,郡 SACおよび計画党役員らと,今期籾の買付状況などについて討論した。 V肥 料 需 要 増 大 −ARDC(農業農村開発公社)の配給する化学肥料の需要が 増大し,過去 5年間で 15万トンを超えた。これは 1957年から 1961年まで、の需要量 6万トンに比べ倍増したことになる。 6日
v
共産党軍, j魚船 5隻を捕獲一一Ye郡 Zeebyuthaung漁業協同組合所属の漁 船3隻と,人民真珠漁業公社所属の 2隻が,最近共産党軍によって捕獲されたこ とが明らかになった。協同組合所属の漁船 3隻は 12月初日, BoYu Shanに卒い られる 30名の共産党によって,漁網とともに捕獲された。また公社所属の 2隻は 12月31日, 20名の共産党によって Kalagok河付近で操業中捕獲されたものであ る。7日 T Kyaukmeで 民 兵 隊 結 成 −Kyaukme郡 Maingtin地区の Maingtin
,Saung-ywa, Loi A w Ywa, Nantmun,および Mainghka村から選ばれた農民49名が訓
練を受け,正式に民兵隊を結成, Maingtin村で行進をした。この結成式には第 22連隊司令官 TunAung Zan少佐が出席,民兵隊の任務および役割などについ て演説したO V仏教僧侶反共祈願集会 ラングーン市の仏教徒組織代表 90名および僧侶 500人が出席して Chaukhtutkyiパゴダで,共産党によって脅やかされている仏教 の危機を救う反共祈願集会が聞かれた。当集会は僧侶 U PyinnyaとU Wibarada によって主催されたもので,席上 Sarlinの僧侶が, 当集会の目的を説明し,共 産党による仏教迫害について言及して,「われわれは,好んでする訳でもないし, 世俗の出来事に干渉しようと望んでいる訳ではない。われわれは,共産党が鉄道 や橋を爆破し,村を焼きつくし,人々を殺害することには沈黙を守ってきた。し かし,共産党が組織的に仏教の破壊活動をしている今,われわれ僧侶達は,深い 悲しみを表現せずにはおられない」と述べた。 8日 V工業, 労働相マウン・シュウェ大佐は労働省次官 MyoMyint 中佐,繊維
計画委員会議長 Mya Thaung 中佐らとともに Mongsat の精糖所を視察し, Inpawkhon村で織物労働者と討議した。
-238-月〉
9 B T Sein Mya大佐,買付所を視察一一北西軍管区司令官 SeinMya大佐および
計画党第 1区副議長 MyaMaung中佐は Madaya郡 Kyauktadaの籾買付所を
視察し,さらに Amarapuraの農民と Rizal種(ミラクノレ・ライス〉の来期植付 について話し合った。
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地雷爆発で37輔転覆一一−Myingyan-Thazi問で第 4号下り貨物列車通過中, 共産党軍埋設の地雷が爆発したため全車輔が脱線転覆,乗員3名が死亡した。 10日 V共産党軍アラ力ン山中に逃げる一一パセイン地区 Ngathaiggyaung地域で行 動していた共産党および NDUF軍は当地の政府軍と民兵隊との激しい攻撃に会 い,その多くが秘密基地を放棄し,アラカン山中に逃げこんだと伝えられている。 これは Zabyin付近で政府軍と共産党軍の交戦の際,政府軍に捕えられた共産党 村落委員が語ったものである。これらの反乱軍は郡委員会議長 Tin Aung, 書記 Thaing Kyaw,作戦参謀 Than Kyaw,郡委員 MaAye Shin らに卒いられた部隊である。
T Pinlebuで民兵訓練一一Pinlebuで約 100人の青年が民兵訓練を終え,市内運 動場で郡 SACおよび計画党役員など 500人の前で行進を行なった。 11日 V反中国人暴動指導者に判決一一一昨年6月に起った反中国人暴動に参加し指導 したとして逮捕されていた5人の青年に対する判決が下され,懲役2年間と決定 した。 V共産党と連絡し関係を持ったとして非合法結社法により逮捕されていた者の
うち42名が Pegu県 SACによって釈放された。出身地別の内訳は Toungoo県
33名, Tharrawaddy県 9名である。 12日
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共 産 党 省 委 員 殺 さ る −Paunglaung郡 Leinle村付近で政府軍第 88師団第 3連隊が共産党軍と交戦した際, 共産党中央ピlレマ管区委員会書記長 TunZan こと AungMyintの死体を確認した。 現在第88師団は中央ピノレマ特に Paunglaung地域で共産党掃討作戦を展開して おり,政府軍は各所で優勢に闘い, TunZan派軍は序々に勢力を失なっている。 数日前,共産党軍“師団長” KyawLwinこと KhinMaung と“師団付軍医”Saya Lay こと MyaHlaingが当地域で戦死したと伝えられている。
Tun Zanは中央ピlレマで、は重要な省レベノレ書記長で, 彼の死は反乱軍に少な
からず影響を及ぼすであろう。
V民兵隊,反乱軍を捕える一一Paukkhaung地区 Ainzauk村の民兵隊は 10日,
ジャングノレ地帯の秘密基地で、共産党指導者1人を捕えた。
-ピ ノ レ マ (1月〉 13日
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労相,国民団結を強張一一ラングーンで合宿中の模範労働者に対し,工業・ 労働相マワン・シュウェ大佐は「働らく人々のための社会主義国家建設のために 労働者と農民は統一し,団結しなければならぬJ
と強張した。 14日 f Paungde地 区 平 静 に −20年間,共産党の支配下にあった Paungde地区 Taungyo付近のペグ一山麓一帯では,民兵隊の力を借りた政府軍の掃討作戦に よって,ょうやく共産党から解放され,政府の機能が凶復した。 Kwingyai,Py-inmakhaung, Thaphanchaungなどの部落では協同組合,学校などが開放され, 医師などが派遣されている。 15日v
ラシオ県でも民兵訓練一一ラシオ県 Hsenwi郡 Pyeinsa村で婦人も含む 53 人のシャン,カチン,ラフ族が民兵隊基礎訓練を受け,このほど終了した。 またラングーンでは人民事業公社訓練学校で,生徒に対し軍事訓練を始めた。 この開始式には公社副総裁 HtinKyaw大佐が,民兵隊の役割などについて演説 した。 f Homalinで米不足一一チン特別省 Homalin郡内の村落住民約 1000人が, 1 月初より,野菜だけしか食べていないという。これは深刻な米不足のためである。 また Myaukkon郡でも,米が到着しないため,米不足問題が起っている。 Vカチン反乱軍,大挙中国へー−WPD紙記者はカチン州東北 Lawkhaung地 区の Shuyaw村村氏とミチナで会い,当地域のカチン反乱軍(KIA)の状況につ いて事情を聴取,次のように報告してきた。(1) Zaw Htu, Zaw Lwan, Dwanphawgaungらの指導者は住民に強制的に
毛沢東思想、を学習させ,伝統的な住民の宗教を断圧する運動を続けている。 KIAはこれらの運動を特に青年達に対し集中的に行なっている。 (2) KIAは咋年 9月,当地域の青年約 800人をだまして, Lahok,Shopyi, Mokkhaung経由で中国に連れていった。このうち 3名の青年が拒否したため Gaw Hay村で重傷を受け,両親の下に帰ってきた。 (3) Lawkhaung地域の KIAは11月, 12月にかけて,当地域の住民から“税 金”を徴収した。税額は 1家族につき米 5パスケットラ塩25チカル,現金 6チ ヤツトである。この徴税は ZawLwanの指導によるといわれる。これらの地 域から最も近い政府軍駐屯所までは40マイルも離れている。 V解放部落で供出一一最近,政府軍により,共産党支阻から解放された Zigon 郡で,合計2万1000パスケットの籾が政府買付所に販売された。 16日 V反 共 農 民 集 会 −Meiktila郡 Ondon村で約 3千人の農民が反共集会を開 一( 10 )ー
-240-色仏教を迫害し,北京に追随する共産党と叫んだ。 Vシッタン渓谷開発計画調査まもなく開始一一国連開発計画(UNDP)の援助 に基づくシッタン渓谷開発計画の予備調査がまもなく開始されることとなった。 UNDP運営評議会は最近,当計画推進を承認し,特別基金から計217万9200ドル の援助を決定した。なお,専門家および技術者などに支払われる 109万6000ドル はピノレマ政府が負担することになった。 当計画は, 多目的ダムなどの建設が主で, Yenwe・Pyuntayaプロジェクト, Sintheプロジェクトなども含んでいる。 V米, ビルマへの軍事援助を公表一一一米国務省当局は16日,中立国ピノレマの国 内治安の維持のため,トラック,警備艇,消火器,通信補助機器を含む“中程度” の軍事援助をおこなっていると発表した。同発表によると,対ピノレマ軍事援助は 反中国人暴動以来続けられているという。 17日 f Paukkhaungの共産党一掃さる一一一12月来おこなわれている Paukkhaung地区 における政府軍と現地農民からなる民兵隊との合同掃討作戦によって,以前共産 党本部のあった通称“北京市”は奪回され,当地域の共産党軍はほぼ掃討された
と伝えられる。この岡県オルグ BoWin Aung, Bo Aye,作戦参謀 BoHla Sein
など 10名の幹部と輩下の死が確認され,約70名の中核党員が投降した。 Vサン・ユー准将,党の組織任務を強張ー←計画党第2日組織補習講座卒業式 に出席した党本部総書記長サン・ユー准将は, 「今や党を高度に組織し,充分な 規律を有するものにする時であるJと述べ,党の組織任務の必要性などについて 強張した。 18日
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婦人民兵隊行進一−Kyaukmeの政府軍第 22連隊グランドでこのほど基礎民 兵訓練を終えた婦人民兵隊が結成行進を行なった。 この婦人民兵隊は,政府軍兵士の家族が中心で,隊の任務は警官隊が行動不可 能な地域において民衆を防衛することにある。なお Mawlaik県 Phaungbyin郡の 9ヵ村から 270名が Khamaing村で基礎
訓練を終え,民兵隊を結成したo
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元南機関員ら来訪一一ネ・ウィン議長の招待により,ピルマ独立軍(のちピ ノレマ国防軍)結成に援助した元日本陸軍軍人18人が来訪した。空港には国防省か ら ChitKhin空軍大佐が出迎えた。 19日 V反共大集会一−Phaungbyin部 Khamaing村で約 5000人の農民が集会を開 き,非人道的行動として共産党を非難した。-241-ピ ル マ (1月〉 V中国軍,共産党を援助するため越境?一一一一The Times 19日付, デリーの特 派員報告として中国軍がピノレマの共産党を支援するため,カチン反乱軍をつうじ て越境し,ピノレマ領土に入っていると伝えてきた。この報道に対し,同日,ウ・ タント国連事務総長は言明を避けたが「この報道だけでは,中国軍がピノレマ領土 に侵入した証拠にはならない」と述べた。 20日
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北西軍管区司令官は Sinbyu, Pwinlηm, Minbuの政府籾買付所を視察,農民と会談した。またマンダレー省コミッショナー U Htaung Kyin Htanは Lewe,
Ela, Pyinmana, Meiktilaの買付所および精糖所,畜産振興センターなどを視察
した。
21 B V反 共 大 集 会 −Meiktilaの市民約 1万人が市内運動場で集会を聞き,共産党
のテロ活動を激しく非難した。
22日 Vネ・ウィン議長アラカン視察を終える一一ネ・ウィン議長は 1月15日より
Akyab, Kyaukpyu, Sandowayなどアラカン地方を 1週間にわたって視察し,ラ
ングーンに帰着した。
一行には婦人,鉱業相タウン・ティン大佐,計画党統合書記長タン・セィン大 佐,中央軍管区司令官 TinU 大佐らも含まれている。なお議長の視察内容要旨 はつぎのとおりである。
1月15日: 空路 Akyabに到着, アラカン管区司令官 Tint Lwin中佐,
計画党第13区副議長 SawPru空軍中佐の出迎えを受け,同日アラカン省行政 担当官と会談。 1月16日: Akyab市内で農民,漁業労働者などと会談後,織物工場を視察。 1月17日: Kyaukpyuを訪問, Yenandaung村の手掘油田を視察,農民,漁 民,製塩労働者と会談。 1月18日: Sandowayに到着, Ngapali休養所で,来訪中の18人の元日本軍 軍人と会う。 V政府軍, 共産党省本部を占拠一一政府軍第 6連隊部隊は,最近 Paukkhaung 東方30マイノレ地点 Yoksaing村付近の共産党省本部と思想、および軍事訓練センタ ーを3度にわたって攻撃し,当所を占拠した。との際,党議長タキン・タン・ト
ンの侍医 AungMyin Kyaw,県戦術参謀 BoThan Naung,県オルグ BoYe
Chan,ピノレマ生れの中国人で省委員会幹部候補生,県書記長 BoHla Kyiなど
の幹部が殺された。
Vコウトレイ議長,タイ国境地区を視察一一コワトレイ州評議会議長 SawHla
-242-ピ ノ レ マ (1月〉
Tun と一行は最近,約 1週間にわたって,ピノレマ=タイ国境の Myawaddy地区 を視察し,当地の担当官と各種問題を討議した。
23日 T UNCTAD代表にインド大使一一 2月 1日からニューデリーで聞かれる第 2回
国連貿易開発会議(UNCTAD)へのピノレマ代表団長に駐インド大使 U Hla Maw
が任命された。 なお団員には中央交易評議会の HanTun中佐, 外務省特務官
Tin Aung中佐,中央統計経済局長 U That Tun らが任命されている。
T Kalagon ダム完成一一一カチン州 Mogaung に建設されていた Kalagonダム がこのほど完成した。このダムは1964∼65年度に着工,約13万4千チャットの費 用を投じ, Mogaung郡の1900エーカーを濯瓶し, 2期作を可能にする。 24日 V財政年度を変更一一大蔵省は,財政年度を現行の10月1日∼9月30日を1月 1日から 12月31日に変更したい旨,各省庁の意見を求めているが,意見の同意が あり次第,同省は変更を発表する予定である。 26日 ' 州評議会議長,反乱軍問題について活動―――――シャン州評議会議長U Kyaw Zawは Hsipawの農民に対し, ピノレマ共産党を充分警戒するよう警告した。こ れは Hsipaw計画党事務所で農地委員,農民など200人が出席した会議の席上で、
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なったものである。 U Kyaw Zawは「Paukkhaungで、示した共産党の行動が,シャン州で起きな いという保証はない」とも述べた。またカチン州評議会議長 U Dingra Tangは Myitkyina郡 Arlan村付近の
農民600人と会談し,反乱軍について説明した。
V政府軍,反乱軍基地を襲撃一一政府軍第90連隊攻撃部隊は,深夜 Twante郡
Tawgyidanジャングル地帯の赤旗共産党地区特別指導者 BoLun Khaing派秘
密基地を襲撃した。同基地にいた Bo Lun Khaing と50名の反乱軍は逃亡した が,うち2名が殺され,多数が負傷したと伝えられた。 なお政府軍は同基地で武器,弾薬,重要文書などを押収した。 27日 T Lashioで民兵隊結成一一Lashioで52名の婦人を含む135名が第 1回の民兵訓 練を終え,正式に民兵隊として発足,東部軍管区副司令官 NeDun大佐の出席 の下, Lashio運動場で結成行進を行なった。 NeDun大佐は民兵隊の目的およ び任務などについて述べた。