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徳川吉宗の母浄円院の系譜 : 大工頭中井家との関係

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Academic year: 2021

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(1)

徳川吉宗

母浄円院

系譜

︱大工頭中井家

との

関係︱

 

 

清二郎

はじめに―旧説の点検― 浄円院 ︵ 本名 ﹁ も ん ﹂︶ は 紀伊徳川家第五代藩主 ・ 第八代将軍徳川吉宗 の 生母 で あ る ︒先 に 筆者 は ︑ 先行研究 に 依拠 して 小著﹃紀州藩主・徳川吉宗﹄ を 著 し ︑ その 後︑個別論文 で 浄円院 の 出身︑吉宗 の 母方従兄弟等 について 検討 し た (( ( ︒ こ の 論文 に お い て ︑ 諸史料 の 検討 に よ っ て ︑ 浄円院 ︵ 落飾前 は ﹁ も ん ﹂︑ ﹁ お 紋 ﹂﹁ 門姫 ﹂ と 表記 ︶は 不遇 の 中 ︑ そ の 母︵後 に 冷 香 院︶ と 家 族 三 人 で 京 都 か ら 紀 州 へ 移 動 し た こ と ︑浄 円 院 は 紀 州 徳 川 家 へ の 女 中 奉 公︑吉 宗︵幼 名﹁源 六﹂ ︶誕生 により 同家 に 包摂 されたが ︑ その 系譜確定作業 において 作為 が 存在 することを 推定 した ︒ この 結論 ︵本稿 で 新史料 による 新説 を 述 べるので ︑先 の 著書・論文 を 以下旧説 と 呼 ぶ ︶を 導 き 出 した ︑史料的 な 根 拠 と 論定 の 要点 は 以下 の 通 り で あ る ︒︵ ⅰ ︶﹃ 寛政重修諸家譜 ﹄ の 巨勢氏 の 項 に は ︑ 利清 の 子 と し て ①女子 ︵ 浄円院 ︶・ ②勘左衛門 ︵忠善︶ ・③女子・④十左衛門 ︵由利︶ が 書 き 出 されているが ︑①④ の 母 は 京都 の 女性 で 同腹 であるが ︑年

(2)

齢的 に 挟 まれた ②③ については 不詳 ︵記載無 し ︶であり ︑①④ の 実父 は 利清 ではないと 推測 した ︒︵ⅱ︶ 延宝五︑六年 ︵一六七七︑八︶ 頃 の ﹁和歌山分限帳﹂ には ﹁巨勢 ︵中井︶ 利清八左衛門﹂ および ﹁巨勢勘左衛門﹂ の 名 は 見 えないの で ︑親 子 両 者 は そ の 頃 紀 州 家 家 臣 で は な か っ た ︒︵ⅲ︶ 宝 永 七 年︵一 七 一 〇︶ 頃 の ﹁分 限 帳﹂ に ﹁勘 左 衛 門﹂ ﹁十 左 衛 門﹂ の 名 が 見 え ︑兄弟両人 は 紀州藩士 として 抱 えられていたが ︑兄 は 三百石︑弟 は 一千石 という 異例 ︵地位 の 逆転︶ の 状態 が 見 ら れ た ︒︵ ⅳ ︶﹁ 勘左衛門 ﹂ は 宝永七年 こ ろ に は 存命 で 奉公 し て お り ︑ 寛政九年 ︵ 一七九八 ︶に 大立寺 で 百回 忌法要 が 営 まれた ﹁諦岳院殿﹂ は 元禄一二年 ︵一六九九︶ に 死去 しており ︑ この 人物 は ﹁巨勢利清八左衛門﹂ と 推定 した ︒︵ⅴ︶ 利清 は 一七世紀末 まで 存命 であったことから ︑町人 であり ︵分限帳 にない ︶︑子連 れで 浄円院母 と 再婚 し たと 推測 した ︒以上 の 五点 である ︒ しかし ︑浄円院 の 父母等 については ︑傍証史料 に 欠 けるため ︑ なお 推測 の 域 に 留 まらざるをえなかった ︒ とりわ け ︑父 と 伝 える ﹁八左衛門﹂ の 系譜 が 推測 によっており ︑説得性 に 欠 ける 面 があった ︒ また ︑近世中期 に 旗本 とな った 巨勢両家 の ﹁始原﹂ については ︑最初 の 一滴 に 関 する 解明 が 依然 として 課題 として 残 っていた ︒ 浄円院 の 家族 の 系譜 に つ い て は ︑ 江戸幕府京都大工頭中井家 の 親戚 と の 伝承 が あ る の で ︑﹁ 大工頭中井家文書 ﹂ の 中 から 手 がかりが 得 られないかと 考 えた ︒今般︑中井正知氏・中井正純氏所有 の 国指定重要文化財﹁大工頭中井家 関係資 料 (( ( ﹂ の 内︑浄円院関係 の 古文書 を 閲覧 することが 出来 た ︒ これら 古文書 の 内 に ︑浄円院 と 中井家 の 接触 の 始 まりに 関 する 史料 を 発見 した ︒ またその 後 の 事実 を 示 す 史料 もあり ︑浄円院 と 中井家 の 関連 について 整理 すること ができたので ︑以下 に 論述 する ︒

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【 1】中井家の系譜と正利家 ︵ 1︶ 寛文一〇年法名 ︵戒名︶ 系図 について すでに 中井信彦・高橋正彦両氏 によって 大工頭中井家 の 系図 が 整理 されている が (( ( ︑ より 整備 された 高橋氏作成 の 系図 は 次 のようであ る (( ( ︵後半部略︶ ︒   ︿系図 1﹀        大和守   元和五没 ‌    大和守   寛永八没    ‌ 大和守後主水正︑ 正徳五没   ‌‌ ‌ 主水︑    享保二〇没    主水    寛延三没    ‌ 主水    天明八没    ‌      文政元没   ①正範︱︱②正吉︱︱③正清︱︱④正侶 ⑤正知 ︵浄覚︶ ︱︱⑥正豊︱︱⑦嘉基︱︱⑧正武︱︱⑨正紀               五郎助︑大和守         ‌ ‌ 正徳 ︵彦仙︶ の 子 カ        ︱︱正純︱︱︱正知   正侶 の 跡 を 継 ぐ                ︱正徳   後︑巨勢彦仙 と 称 す ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌              信濃守       ︱︱正利︱︱利次 ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌ この 系図 は 一九世紀初 め 頃迄 を 引用 したものであるが ︑本稿 ではさし 当 たり 嘉基迄 が 関係 する ︒ これを 参考 とし て ︑ 寛文一〇年 ︵ 一六七〇 ︶と い う 年紀 の 書 か れ た 中井家系図 ︵ A‒1‒b‒7 ﹁ 中井家並母方系 図 (( ( ﹂︶ を 見 て み よ う ︒□枠 は 引用者︒○ は 人名略︒

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  ︿系図 2﹀   ︱ 浄慶 ︱︱

︱︱妙春︱ ︱ ︱ ○ ︱ ︱ ︱○ ︱ ︱ ︱○ ︱ ︱ ︱○ ︱ ︱ ︱五郎左衛門   ︱ ︱ 浄恩︱        ︱ ︱慶寿    ‌  ︱ ︱ 道恩︱    ︱ 道意 ︱ ︱ 大雲    ‌  ︱ ︱ 道可︱    ︱ ︱ 浄清︱ ︱ ︱○︱ ︱ ︱○    ‌  ︱ ︱ 八左衛門   ︱ ︱ 清心︱ ︱ ︱○           ︱ ︱皎玄︱ ︱ ︱○           ︱ 道雲 ︱ ︱ ︱○           ︱ ︱法栄  ‌  ︱ ︱○       ‌   

○         ‌  ︱ 正朝  ︵正知︶   ︱︱俊嘉           ‌  ︱ ︱   ︵八人略︶    ‌  ︱ ︱︵以下四人略︶          ‌   ︱ ︱正徳 孫左衛門            ‌     ︱ ︱重任      鎌田氏︱︱妙祐   正吉婦也︑正成已下母 ︱︱○ ︵以下三代略︶     ︵ ‌ 以下 ︑ 正清婦=正以母 ︑ 正清婦 = 正以養母 ︑ 正以婦 = 正朝養 母︑正純婦 ︵二人︶ ︑正朝婦 ほか ︑六家系略︶       寛文十年正月二十七日        中井以云 ︵書判︶ 図中︑法名 の 右 や 下 に 細文字 で 官職名 や 没年 が 記 されている ︒主 要 な 人物 についてこれを 別記 すると 次 のようである ︒ 図1

(5)

浄慶   中井大和守 ︑ 始号孫太夫正吉 ︑ 住和州法隆寺 ︑七十七歳死 道意   ‌ 従四位下中井大和守正清︑住山城王都︑五十五歳死︑仕 大将軍家康卿寵 大雲   従五位下中井大和守正似︑三十二歳死 皎玄   中井主馬正成︑三十一歳死 道雲   従五位下中井 内匠頭正純︑住洛陽三条六十歳死︑与任益居士好 正朝   従五位下中井主水正︑   以上 のように ︑ この 系図 には 寛文一〇年 ︵一六七〇︶ 正月二十七日 の 年紀 があり ︑中井以云 ︵正徳 = 巨勢彦仙︶ の 署名 があ る (( ( ︒ この 系図 は ︑姻戚者 の 法名 ︵過去帳等 に 書 かれた 名 (( ( ︶を ︑ その 親子・兄弟姉妹 の 関係 を 整理 し ︑作成 したものである ︒ ただし ︑正朝 ︵正知︶ は 存命 ゆえに 俗名 である ︵正徳五年︿一七一五﹀没︶ ︒ こ の 系図 は 血縁関係 ・ 家族関係 を 示 す こ と に 主眼 が 置 か れ て お り ︑ 代々当主 ︵家長︑後見 を 含 む ︶には 記事 が 添 えられているが ︑ それは 付随的 な 記載 である ︒家長 の 継承 を 明 らかにす る と い う 観点 で 作成 さ れ て い る の で は な い ︒ ま た 後半 の ﹁ 母方系図 ﹂ に は そ れ ぞ れ の 母方出身 の 家 を 記載 し て お り ︑ この 段階 で︵母方 を 含 めた ︶かなり 詳細 な 姻戚関係 が 把握 されていたことがわかる ︒ 年紀 の 信憑性 で あ る が ︑ 宝永七年 ︵ 一七一〇 ︶の 由緒書案 ︵ A‒1 ‒a ‒6 ‒(2) ︶に よ る と ︑ 正朝 ︵ 正知 ︶が 寛文一三丑年 ︵ 一 六七三 ︶二月廿七日江戸 へ 参勤 す る 際 に 伴 っ て 伺候 し た ﹁ 倅長五郎 ﹂ の 名 が 明確 に は 見 え な い こ と か ら ︑ 上記法名書

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出系図 はそれ 以前 の 内容 が 記 されているものと 判断 される ︒ この 点 を 確認 するのは ︑浄円院 の 母︵冷香院︶ と 子供二 人 の 親子 が 紀州 へ 辿 り 着 くのはおそらく 延宝二︑三年 ︵一六七四︑五︶ 頃 と 推測 されるが ︵後述︶ ︑ この 系図 が 浄円院 家族 と 中井家 とが 接触 する 以前 に 作成 されたのか 否 かを 確定 するためである ︒寛文一〇年 であれば ︑浄円院家族 を 通 じてもたらされた 可能性 のある ︑家系関係情報 は 含 まれていないとみてよい ︒ さ て 本 稿 の 主 題 は ︑系 図 中︑浄 慶 の 弟 浄 恩︵正 利︶ 系 に つ い て で あ る ︒ こ の 法 名 系 図 で は ︑﹁浄 慶・浄 恩﹂兄 弟 が ︵文字 の 大 きさもほぼ 同 じく ︶併記 されているが ︑ その 横 の 空欄 に ︑浄恩以下三代 の 名前 が 横 に 併記 され ︑系譜 を 示 す 線 で 結 ばれている ︒空 いた 場所 に 多少無理 に 書 き 込 んだという 書 き 方 である ︵図 1参照︶ ︒要 するに ︑ この 系図筆 者中井以云 にとって ︑浄恩系統 に 関 しては 系図作成目的 からはそれており ︑ しかし ︑初代姻戚 にこの 系統 の 家族 が 存在 することを 書 き 添 えたと 理解 される ︒浄恩系統 の 三代 には 次 のような 注記 が 添 えられている ︒ 道恩     中井伊豆   道可     八郎右衛門︑有兄弟 八左衛門   有兄弟︑有子孫 八左衛門迄 の 存在 が 系図筆者 ︵本家筋︶ によって 知 られているが ︑八左衛門 は 系図作成時 の 情報 では 未 だ 存命 であ った ︒ この 八左衛門 には 兄弟 ︵姉妹 を 含 む ︶があり ︑ また ﹁子孫﹂ があった ︒ このことが 系図筆者 ︵本家筋︶ によって 知 られていた ︒ ただし ︑言葉 の 厳密 な 意味 での ﹁孫﹂ ではなく ︑子供一般 と 理解 される ︒ すなわち ︑中井家本家筋 ︵浄慶︶ は ︑ この 程度 の 関心 であるが ︑姻戚筋 の 浄恩系 の 家族 や 系図情報 をこの 程度把握 していた ︒情報 の 集約 はおそらく 長香寺 ︵中井正清 が 建立︶ においてなされていたのであろう ︒ ︵ 2︶ 巨勢正利系四代 の 記録 と 系譜

(7)

後 に 成立 する 旗本巨勢至信家 ︵勘左衛門家系︶ の 末裔 である 巨勢利直 が ︑文化一一年 ︵一八一四︶ 頃 に 作成 した ﹁巨 勢家譜 ﹂︵ A‒1 ‒e ‒3 ︶に よ る と ︑ 浄恩 ︵ 正利 ︶か ら 四代 の 系図 は 次 の よ う で あ る︵ 関係必要部分 の み ︶︒ な お ︑ 本家正吉家 系 の 記事 に つ い て み る と ︑ 正範︱正吉︱正清︱正侶︱正純迄 は 詳細 で あ る が ︑ 正知 に つ い て は 法名 も 触 れ て い な い ︒ す な わ ち 正知 に よ る 正徳二年 ︵ 一七一二 ︶頃 の 編纂内容 が 直接反映 さ れ て い る 可能性 が 高 い︵ 後述 ︶︒言 う ま で も な く ︑ それは 浄円院 が 中井家 と 接触 して 以降 である ︒   ︿系図 3﹀    ︱ 正利   生国大和︑甚大夫 ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱       ‌ 天文六丁酉年出生 ︑ ︵ 中略 ︶ ︑ 慶長十五庚戌年十月二十三日死 ︑ 七十四歳 ︑ 大和国平群郡龍田村浄慶寺 ニ 葬︑法名徳誉浄恩居士    ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱ ︱    ︱ 利次   生国大和︑五左衞 ︵門︶ ︑信濃掾︑信濃守︑伊豆守 ‌︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱ ︱         ︵母妻中略︶                天 正 八 庚 辰 年 出 生︑同 十 六 戊 子 年 ︵中 略︶ 利 次 モ 中 井 ト 改︑ ︵中 略︶ 慶 長 十 五 庚 戌 年 六 月 十 一 日 任 信 濃 掾︑ 年月日 不   詳 被叙従五位下任信濃守 ︑ ︵ 中略 ︶ 寛永三丙寅年正月十五日死 ︑ 四十七歳 ︑ 大和国平群郡龍田村浄慶寺 ニ 葬︑法名玄皓院法林道恩居士       ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱ ︱    ︱ 利盛   生国山城︑次郎八改八郎右衛門︑隠居名道可 ‌︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱         ︵母妻中略︶               慶長十四己酉年出生 ︑ 洛陽 ニ 浪居 ︑ 後年隠居 ︑ 道可改名 ︑ 好龍茶道 ︑ 明暦三丁酉年三月五日死 ︑ 四十九

(8)

歳︑洛陽長香寺 ニ 葬︑法名覚園道可禅定門 ‌‌‌‌‌‌‌       ‌     ︱ ︱ 策雲西堂   生国山城︑寛文十一辛亥年九月二十一日死         ‌        洛陽請願寺塔頭竹林院住持         ‌‌    ︱ ︱ 某   名乗不詳︑生国山城︑中井九郎右衛門︑隠居名道悦 ︵ 中略 ︶ ‌‌‌‌‌‌‌‌    ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌         ︵妻中略︶                ‌ 元和元乙卯年出生 ︵ 中略 ︶ 貞享四丁卯年六月十三日死 ︑ 七十三歳 ︑ 洛東東福寺寺中退耕庵 ニ 葬 ︑ 法名禅岩 道悦禅門 ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌   ‌‌‌‌         ‌    ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱ ︱    ︱ ︱ 某   名乗不知生国山城俗名不知        明暦二丙申年八月八日死︑洛陽長香寺 ニ 葬︑法名浄心宗清居士    ︱ 利清   生国山城︑八左衞門 ‌︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱         妻     壺井源兵衛義高女 嵯峨大覚 寺宮家臣                 寛永五戊辰年出生︑宝永五戊子年三月十二日死︑八十一歳         ‌          法名冷香院浄誉清寿貞量信女︑紀伊国若山大立寺 ニ 葬        ‌        ‌ 寛 永 七 辛 未 年 出 生︑洛 陽 ニ 浪 居︑家 名 中 井 改 テ 巨 勢 ニ 復 シ ︑姓 ヲ ハ 不 改︑寛 文 十 二 壬 子 年 四 月 十 六 日 死︑四十三歳︑洛陽長香寺 ニ 葬︑法名光融院宣誉法岳源居士 ‌    ︱童形   生国山城   正保四丁亥年七月二十三日死︑法名意玄童子︑洛陽長香寺 ニ 葬            ︱童形   生国山城   慶安三庚寅年十月七日死︑法名利覚童子           ︱女子   明暦元乙未年八月二十日死︑法名知法童女       

(9)

この 系図 の 性格 を 考 えるため ︑幾 つかの 点 について 検討 しておこう ︒ まず ︑正利・利次・利盛三代 の 法名 である が ︑先 に 見 た 寛文一〇年 ︵一六七〇︶ の 法名系図 の 法名 と 一致 している ︒利清 ︵八左衛門︶ は 寛文一二年 に 死去 したと 記 されており ︑法名系図作成以降 の 事実 が 反映 している ︒作成年代 について 言 えば ︑利清 の 妻 は ﹁壺井源兵衛義高 女 ﹂︵ 後 に 冷香院 ︶で ︑ 宝永五年 ︵ 一七〇七 ︶に 死去 し て い る が ︑ こ の 事実 が 記事 に 反映 し て い る ︒正徳二年 に 本家中井 正知 が 巨勢家系 をも 調査 して 系図 を 編集 したが ︵後述︶ ︑二 つの 事実 は 整合的 である ︒ ところで ︑利清死去 の 事実 や 先 の 三代 に 関 する 諸事実 はどのようにして 獲得 されたのであろうか ︒正利・利次 は 寛永期頃 ︵一六三〇︑四〇年代︶ 迄本家中井家四代 ︵正吉~正純︶ と 業務 を 共 にしており ︑情報 は 共有 されていた 可能 性 が 高 い ︒ しかし 三代目 の 利盛 と 四代目 の 利清 はともに ﹁洛陽 ニ 浪居﹂ と 記 されている ︒ おそらく ︑大工頭 に 関 わ る 職 を や め ︑ そ の 表象 と し て 家名中井 を 巨勢 に 変 え た の で あ ろ う ︒本家中井家 と は 疎遠 に な っ た こ と が 推測 さ れ る ︒ それにも 関 わらず 情報 が 得 られるのは 長香寺 を 通 じてである ︒利盛・利清 はともに 山城 ︵京︶ 生 まれであり ︑死去 の 際 には 同寺 に 葬 られている ︒利清 の 兄弟姉妹 の 多 くも 同寺 に 葬 られている ︒一七世紀半 ば 頃 の 正利系 の 動静 は 中 井家 の 菩提寺長香寺 によって 集約 されていた ︒正徳二年頃 に 本家・分家 の 系図 を 調査︑編纂 した 正知 は 長香寺 を 通 じて 情報 を 収集 できたのである ︒次 にみる 正清 の 子供 も 寛文一〇年以前生 まれと 伝 えるので ︑遡 って ︑寛文一〇年 法名系図 の ﹁子孫有 り ﹂ の 記事 もこれらの 情報 を 踏 まえた 記載 であったと 理解 される ︒ 以上 の よ う に ︑ 本章 で は ︑ 浄円院母子 が 紀州 へ 移動 す る 以前 の 寛文一〇年頃 ︑﹁ 浄慶 ・ 浄恩 ﹂ 兄弟家 の 血縁関係 が 中井家 において 把握 されていたこと ︑ および 浄恩系 の 利清 の 系譜 について 確認 することができた ︒

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【 2】浄円院と中井家浄覚 (正知) との接触、交流 ︵ 1︶ 元禄一〇年頃︱延享三年書状 より ︱ 系 図 1の 七 代 目 中 井 嘉 基︵主 水︶ が 延 享 三 年︵一 七 四 五︶ 一 二 月 に 作 成 し た ﹁中 井 家 由 緒 書﹂ ︵平 出︑欠 字 は 省 略︑ A‒1 ‒d ‒15 (1) ︶には ︑浄円院 と 中井家 の 接触︑交流 に 関 する 記事 がある ︒   ︹史料 1︺      ﹁ (端裏書) ‌ 延 享 三 寅 年 冬︑石 原 清 左 衛 門 へ 為 見︑内 々 御 所 司 牧 野 備 後 守 殿・町 奉 行 三 井 下 総 守 殿 へ も 御 披 見 之 由︑御 所 司 家 老 藤 川 健 次郎 へも 一通 り 為見被申候由︑          中井家由緒書 ‌ 三通之内       ﹂             覚 私家筋名字之儀︑先祖巨勢 ニ 御座候処︑権現様江被召出︑中井与相改申候︑ 浄 ① 円院様御儀 ︑私先祖 ハ 巨勢孫兵 衛尉正範 ト 申候 ︑ ︵ 中略 ︶ 正範 カ 妻嫡子正吉 六歳 ・ 弟正利 二歳 二子 ヲ 誘 テ 落行 ︑ ︵ 中略 ︶ 右兄弟 ノ 子巨勢孫太夫正吉 ︑ 弟巨勢甚太夫正利 ト 申候︑右正利四代目 巨 ② 勢八左衛門利清娘 ニ 而御座候 ︑ 右 ③ 八左衛門利清 ハ ︑浄円院様紀州家 江御出︑ 唯 ④ 今 ノ 大御所様御誕生︑御十五︑六 ニ 被為成候而   浄円院様御親類 ヲ 御尋被成 ︑右 八 ⑤ 左衛門利清・浄 円院様御弟巨勢六左衛門忠吉・巨勢十左衛門由利父子三人共紀州御家江被召出候 ︑唯今 ノ 巨勢伊豆守 ハ 六左衛 門 忠 吉 子 ニ 而 御 座 候︑巨 勢 大 和 守 ハ 十 左 衛 門 由 利 後丹波守 ト   申   候 ︑右 丹 波 守 子 ニ 而 御 座 候︑ 浄 ⑥ 円 院 様 御 親 類 方 ヲ 紀 州 家 ゟ御尋之時 ︑ 祖父主水 浄覚事   浄円院様 よ り 御頼 ニ 而祖父主水姉分 ニ 仕候而 ︑ 紀州江御親類書等御指出被成候事 ニ 御 座 候 ︑私 家 筋 ハ 巨 勢 孫 太 夫 正 吉 ゟ 引 続︑高 祖 父 二 代 目 巨 勢 藤 右 衛 門 正 清 名字中井改︑ 後名 モ 大和守改 ︑三 代 目 曾 祖 父 中 井 大

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和守正似︑四代目祖父中井大和守正知 後主水正改隠居 仕︑浄覚 ト 申候 ︑ ︵中略︶ 五代目私親主水正豊︑六代目私 ニ 而御座候︑ 右 之 通 ニ 付︑畢 竟 浄 ⑦ 円 院 様 御 儀︑祖 父 浄 覚 姉 分 ニ 被 為 成 候 得 共 ︑私 方 先 祖 家 筋 ゟ 引 続 申 候 御 由 緒 ニ 而 御 座 候 ︑ 尤 ⑧ 至極御内々之御尋 ニ 付何方 へも 差控罷在候得 共 ︑相認懸御目候間︑外々江者御沙汰被下間敷候事 ︑     寅十二月 こ の 覚書 は ︑ 浄円院 の ﹁ 私家筋 ﹂︵ 本家中井家 ︶は 正範 か ら 始 ま り ︑ 六代目筆者 ま で の 系譜 を 述 べ る と と も に ︑ 初代 正吉 の 弟正利 の 家系 である 浄円院 との 関 わりについて ︑同家 で 伝承 されていることがらについて 述 べている ︒ まず ︑冒頭中井改家名前 は 巨勢家 であり ︑浄円院 は 中井家 の 傍系 の 末裔巨勢八左衛門利清 の 娘 であることが 述 べ られている ︵傍線部①②︶ ︒ なお ︑傍線部③ の 主語 に 対 する 述語 は 見 あたらず ︑突如 に 挿入 された 感 が 強 い ︒ そして 浄円院 の 話 が 展開 す る ︒傍線部④ の よ う に ︑ 中井嘉基 は ﹁ 唯今 ノ 大御所様 ﹂︵ 徳川吉宗 ︶が 誕生 し ︑ 一五 ︑ 六歳 に な っ た 頃 ︑﹁ 浄円院様御親類 ﹂ の ﹁ 御尋 ﹂ が な さ れ た こ と を 紹介 し て い る ︒吉宗 は 貞享元年 ︵ 一六八四 ︶の 生 ま れ で ︑ 元禄 一一年 ︵一六九八︶ に 一五歳 となっているから ︑ この 頃浄円院 の 親類調査 ︵﹁御尋﹂ ︶が 行 われたことになる ︒ さ ら に 注目 さ れ る の は 傍線部⑥ ﹁ 浄円院様御親類方 ヲ 紀州家ゟ御尋之時 ﹂ に ︑﹁ 祖父主水 浄覚事 ﹂︵ 五代目正知 ︶は ﹁ 浄 円院様 より 御頼 ニ 而︑祖父主水姉分 ニ 仕候而︑紀州江御親類書等御指出﹂ しがなされたことである ︒中井正知 は 浄 円院 を 自分 の 姉 と 証言 する ﹁親類書﹂ を 紀州藩 に 提出 した ︒ さらに 傍線部⑧ のように ︑ この 事案 は ﹁尤至極御内々 之御尋﹂ で ﹁何方 へも 差控﹂ えてきた ︒機密事項 ゆえ 中井家側 からは 口外 しなかった ︒ この 事実 を 延享三年段階 で 初 め て 一部 に 伝 え ら れ た が ﹁ 外 々 江者御沙汰被下間敷候事 ﹂︵ 傍線部⑧ ︶と 念 が 押 さ れ て い る ︒調査 が 秘密裏 に 行 わ れ たことはもちろんであるが ︑調査内容 ︵報告内容︶ も 封印 されていた ︒ しかも ︑ これらは 浄円院 の ﹁御頼﹂ とあり ︑中井正知 の ﹁姉﹂ とするよう 働 きかけたのは 浄円院側 であったこと が 重要 である ︒浄円院 は 大工頭中井正知 の 姉 とすることによって 何 を 得 ることができたのであろうか ︒ それは ︑父

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と 考 えられる 八左衛門利清 との 親子関係 が 隠 れ ︑母・浄円院・十左衛門三人 の 放浪 の 旅 が 公式 の 記録 から 消 される ことであると 推測 される ︒ 元禄一一年 ︵ 一六九八 ︶の 頃 ︑ 吉宗 ︵ 当時新之助 ︶は 元禄九年 に 綱吉 に 御目見 え し ︑ 翌一〇年 に 大名 に 取 り 建 て ら れ ︑ 同一一年 から 同一二年 にかけて ︑参勤・帰国 を 果 たしている ︒ つまり 幕藩武家世界 に 登場 したのである ︒浄円院 は 元禄九年︑城下近郊 の 松林寺天旭和尚 に 依頼 し ︑千手観音坐像 によって 吉宗 ︵当時新太郎︶ の 武運長久等 の 祈願︑祈 禱 をしてもらってい る (( ( ︒浄円院 の 出自︑経歴 は 吉宗 の 昇進 に 障碍 を 生 みこそすれ ︑有利 な 条件 とは 成 らないことを 浄円院 は 能 く 承知 していたと 思 われる ︒ 元禄一一︑一二年頃 にこのような ﹁御頼﹂ ができると 言 うことは ︑浄円院 と 中井正知 ︵浄覚︶ は 相当親 しかったと 推測 される ︒ この 時点 で 初 めて 遠縁 であると 名乗 り 出 てもこのような 形 では 進行 しないであろう ︒ とすれば ︑ いつ 頃 から 両者 は 近 づいていたのであろうか ︒浄円院家族 が 和歌山 に 居着 き ︑女中奉公 した 時点 では 中井家 の 方 が 疎遠 な 浪人家族 を 相手 にしないであろう ︒吉宗 が 誕生 し ︑三~五歳 に 成長 した 頃 には 浄円院 の 社会的地位 も 高 まり ︑中 井家 の 側 もつきあうことが 得策 との 判断 も 生 じたことであろう ︒元禄一一年頃 には 繫 がりが 生 じて 一〇年程 が 経過 していたのではなかろうか ︒同時 に ︑両者 の 付 き 合 いが 生 じても ︑利清 はすでに 死去 しており ︑母 ︵後冷香院︶ の 証 言以外︑利清 と 浄円院 ︵当時 お 紋︶ の 親子関係 を 証明 するものはないという 危 うい 状態 であった ︒ 一方︑中井正知 は 寛永八年 ︵一六三一︶ 頃生 まれで ︑貞享三年 ︵一六八三︶ には 五〇歳代 であり ︑分別 がついたであ ろう ︒ しかし ︑本家養父正侶 は 寛永八年 ︵一六三一︶ に 死去 し ︑ その 弟実父清純 は 承応三年 ︵一六五四︶ に 死去 してい るから ︑血縁関係 の 知識 は 長香寺 の 記録 に 頼 らざるを 得 なかったであろう ︒ このように ︑血縁関係 の 確定 は 流動的 であったことも 注意 しておく 必要 がある ︒ ちなみに 傍線部⑤ のように ︑浄円院 の 父八左衛門利清・弟六左衛門忠吉・十左衛門由利 の ﹁父子﹂三人 が 紀州藩

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に 仕官 したとの 記載 は 誤 りである ︒八左衛門 が 仕官 した 痕跡 はな く (( ( ︑先 に 見 た 系図 2では 寛文一二年 ︵一六七二︶ に 京都 で 死去 している ︒ また 六左衛門忠吉 は 勘左衛門忠善 の 間違 いである ︵六左衛門 はその 子至信 の 通名 である ︶︒ た だしこれは 延享年間 の 問題 で ︑一七世紀末 において 間違 いが 流布 していたか 否 かは 別問題 である ︒ つ い で ︑ 七代目中井嘉基 は 何故秘密事項 を 口外 し た の で あ ろ う か ︒ こ の ﹁ 覚 ﹂ は 何故作成 さ れ た の で あ ろ う か︵ 端 裏書内容 と ﹁ 由緒書 ﹂ と の 表記 は 作成時以後 の 認識 を 示 す ︶︒傍線部⑦ の よ う に ︑﹁ 私方 ﹂︵ 中井嘉基家 ︶が ﹁ 先祖家筋 ゟ引続申候御由緒﹂ であることが 強調 されている ︒後述 するように ︑一八世紀以降中井家系譜 の 中 に 将軍職吉宗 や 浄円院 とつながった 巨勢家 の 系譜 が 書 き 込 まれるようになり ︑本家・分家 の 両家 が 融合的 な 状況 にあったため ︑両 家 の 区別 を 明示 しようとしたのではないかと 考 えられる ︒中井家 の 京都 での 格 が 問題 となったため ︑中井家 は 将軍 母方 から 厚遇 を 受 け ︑ さらに 中井嘉基 の 先祖 はその 本家筋 であることを 強調 しようとした ︒ と こ ろ で ︑前 出 由 緒 書 と 同 時︵延 享 三 年︶ に 作 成 さ れ た ﹁中 井 家 由 緒 書﹂ ︵七 代 目 中 井 嘉 基 作 成︒前 出 と は 別 書︒ A‒1 ‒d ‒15 (2) ︶には 次 のような 記載 がある ︵平出︑欠字省略︶ ︒   ﹇史料 2﹈ 一 ① 曾祖父大和守・祖父主水儀紀州御家江別而御懇意被成下候事︑ 一 ② 正徳六未年︑私又従弟女従浄円院様被為召︑紀州 へ 江罷下候罷登候節︑親主水母姉私儀品々拝領物仕候︑ 一 ③ ‌ 享保三戌年︑浄円院様紀州ゟ 江戸表江御引越被為遊候已後︑享保五子年二月私姉義江戸表江被召出︑罷下 り 候処︑御中﨟相勤候様被仰付︑浄円院様御側御奉公相務罷在︑   其後浄円院様為御意巨勢大和守養妹 ニ 仕︑御小姓組岡部靱負方江嫁申候処︑ ︵以下略︶ 第一条目 の 祖父 は 五代目中井正知 であり ︑同人 が 浄円院 と 関係 が 深 かったことはすでに 見 たとおりである ︒ しか し 曾祖父 は 四代目正侶 ︵正以︶ ということになり ︑正侶 は 寛永八年 ︵一六三一︶ に 死去 しており ︑紀州藩 とは 未 だ 縁 が

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ない ︒ この 点 は 不正確 で ︑誇張 した 表記 と 思 われ る ((1 ( ︒ 第二条目 に よ れ ば ︑ 浄円院 は 正徳六年 に 中井家 の ﹁ 私 ﹂︵ 嘉基 ︶の ﹁ 又従弟女 ﹂ が 紀州 へ 招待 さ れ ︑ そ の 上 ︑ 京都中 井家 の 正豊 と そ の 妻︵ 嘉基 の 母 ︶︑ 娘︵ 嘉基姉= お 町 ︶に 贈物 が 渡 さ れ た ︒吉宗 の 将軍宣下 の 前 か 後 か は 不詳 で あ る が ︑ そのような 状況下 で 浄円院 は 京都中井家 とさらなる 関係深化 を 図 った ︒ 第三条目 が 注目 される ︒吉宗 が 将軍 に 就任 し ︑浄円院 が 江戸 へ 移住 した 後︑享保五年 ︵一七二〇︶ ︑中井正豊 の 娘 が 浄円院 に よ っ て 江戸城二之丸 ﹁ 御中﨟 ﹂ に 取 り た て ら れ ︑﹁ 浄円院様御側御奉公相務 ﹂ め た ︒元禄時代 の 正知 の 証 言︵前述︶ に 対 する 恩返 しであるとともに ︑浄円院 の 周囲 に 知己 を 配置 しようとした ︒ これは 浄円院 の 差配 であった とみられる ︒吉宗 は 多 くの 紀州藩士 を 江戸城 に 連 れて 行 き ︑権力基盤 を 固 めようとしたが ︑母 もそのような 奥向 き の 政策 を 採 った ︒ その 際︑中井家 が 人材 を 提供 した ︒   つ い で ︑ 享保一〇年 ︵ 一七二五 ︶一二月岸和田藩主岡部美濃守従弟岡部長豊 ︵ 縫殿 ︶子岡部靱負 ︵ 勝盈 ︑ 二 五歳 ︑ 高二 千石 ︶と 中井正豊 ︵ 主水 ︑ 正知養子 ︶娘 お 町 の 縁組 が 始 め ら れ た︵ A‒2 ‒a ‒76 (7) ︶︒浄円院 に 仕 え て い た お 町 は 中井正豊 の 娘︵中井嘉基 の 姉︶ で ︑ いったん 巨勢利啓 の 妹 にして 縁組 を 進 め た ((( ( ︒翌年三月~五月 に ︑巨勢至信・利啓 と 中井正 豊 の 手紙 に よ り ︑ そ の 準備 が 進 め ら れ た 様子 が 分 か る︵ A ‒2 ‒a ‒76 (1) ~(6) ︶︒ ︵ 享保一〇年 ︶一二月二八日付 け 中井正 豊 あ て 利 啓 書 状︵ A ‒2 ‒a ‒76 (8) ︶に よ る と ︑﹁二 之 丸﹂ ︵浄 円 院︶ が お 町 の ﹁御 暇﹂ を 許 可 し た と あ る ︒ ま た 縁 組 話 の 進 展 に つ い て ︑浄 円 院 付 年 寄 小 田 か ら 浄 円 院 御 意 向 が 中 井 正 豊 に 伝 え ら れ て い る︵ A ‒2 ‒a ‒76 (6) ︶︒浄 円 院 は 同 年 六 月 に 死去 するが ︑亡 くなるまでに 婚家 を 決 めたいと 考 えていたのではなかろうか ︒ ︵ 2︶ 正徳二年 の 中井家系図改 め 中 井 家 で は 延 宝 二 年︵一 六 七 四︶ 由 緒 書 が 作 成 さ れ︵ A ‒1 ‒a ‒1 ︶︑天 和 三 年︵一 六 八 三︶ に 天 和 三 年︵一 六 八 三︶ 京 都 町

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奉 行 前 田 安 芸 守・井 上 志 摩 守 へ 由 緒 書 を 提 出 し て い る︵ A ‒1 ‒a ‒7 ︶︒宝 永 七 年︵一 七 一 〇︶ 一 一 月 に も 由 緒 書 案 が 作 成 さ れ た︵ A ‒1 ‒a ‒10 ︶︒ ﹁ 浄覚様御時代御調被成置明細由緒書案 ﹂︵ 包紙 ︶と 後記 さ れ て い る よ う に 作成者 は 中井家五代目 の 正知 である ︒袖 に ﹁一﹂ ﹁二﹂ ﹁三﹂ と 記 された 三通 の 由緒書案 には ︑同家三代目正清︑四代目正侶 ︵正以︶ ︑五代 目 正 知︵自 身︑通 称﹁主 水﹂ ・﹁浄 覚﹂ ︶お よ び そ の 倅 源 八 郎 ((1 ( の 事 績 が 書 き 出 さ れ て い る︵ A ‒1 ‒a ‒6 ‒(1) ~(3) ︶︒文 面 に は 年紀 がないが ︑記事 の 下限 が 元禄一二年 ︵一六九九︶ であるから ︑宝永七年 の 案文 の 可能性 がある ︒ この 頃︑正知 はすでに 八〇歳近 くなっていたが ︑上記 の 由緒書 の 内容 のみでは 不充分 とみて ︑ その 後 には 同家系 図 の 再検討︑同家 の 歴史 の 再編集 に 取 りかかった ︒正徳元年 ︵一七一一︶ と 推定 される 正知 ︵浄覚︶ の 書状案 ︵下書︶ が ある ︵ A ‒1 ‒d ‒9︶︒   ︹史料 3︺‌ ⁂ 抹消文字 は 省略 した        ﹁ (端裏書) 巨勢十左衛門様    中井浄覚   十月五日﹂     ‌ 某系図書改可申旨︑同様浄円院様 へも 申進候 へ 共︑拙者切々持病指出︑延引仕︑今程 ハ 気分能御座候故書可 申 与 ︑跡 々 よ り 御 座 候 系 図 見 候 処︑落 聞 而 已︑一 向 ニ 落 申 事 多︑不 埒 ニ 御 座 候 故︑仍 之 及 申 程 遂 吟 味 申︑草 案 を 先如此認申候︑貴様御一覧被成下︑思召寄之所御書加可被下候︑    一 ① ‌ 浄円院様御事具 ニ 書申度候 ︑貴様御伺候而御書可被下候︑清書之表書申度︑子孫迄之 ためと 存候︑ 中納言様 御母堂之趣書申度事候 ︑御伺被成貴様御了簡 ニ 而草案可被下候︑    一 ② ‌ 貴様・六左衛門殿御奉公之品︑知行之高 ヲモ 書付可被下候︑    一 ③ 右之品々書立︑其奥 ニ 古大和守正清・大和守正似・某御奉公之品 ヲ 書可被申 与 存候︑    一 ④ 一通 り 父方之分相済︑其奥母方 の 系図 ヲ 写置可申候︑    一 ⑤ ‌ 諸親類大 形 (方) 死去︑拙者書付不申候 ハてハ ︑先祖之事存 たるもの 一人 も 無御座候故 に ︑書付置候而末孫迄残申

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度念願 ニ 御座候︑此趣相伺被成下候︑思召寄又々可被仰下候︑以上︑ 高齢 となった 正知 は ︑後半部第五条目 に 書 き 記 しているように ︑親類 がすでに 死去 して ︑自分 が 書 き 置 かなけれ ば 子 孫 に 先 祖 の 家 系・事 績 を 伝 え ら れ な い と い う ︑悲 壮 感︑義 務 感 が 伝 わ っ て く る ︒ さ て ︑前 半 部 趣 旨 は ︑﹁某﹂ ︵ =自分 ︑ 正知 ︶の 系図 を 作 り 直 す こ と を 先 に 浄円院 に 伝 え た が ︑ 病気 の た め 延引 し た ︒快気 し た の で こ れ ま で︵ 宝永 七年作成 カ ︶の 系図 を 見 たところ ︑聞 き 落 とし ︑書 き 落 としが 多 く ︑再度吟味 をして ﹁草案﹂ を 作成 したので ︑︵巨 勢十左衛門 に ︶点検 と 追記 を 依頼 するとのことである ︒ 後半部 ︵一 つ 書 き ︶では ︑﹁浄円院様御事﹂ を ﹁具 ニ 書﹂ くこと ︑﹁中納言様御母堂之趣﹂ の 書 き 加 えを 強調 してい る︵第一条目︶ ︒吉宗 の 母浄円院 について ﹁具 ニ ﹂書 いてほしいとのことである ︒第二条目 では ︑十左衛門 とその 甥 に 当 たる 六左衛門 の 紀州家奉公 についても 追記 されたいと ︒注目 すべきは 第三条目 で ︑吉宗母 とその 家族 について 記載 した 後 に ︑大工頭正清・正以・ ﹁某﹂ ︵正知︶ の 幕府奉公 について 書 くとのことである ︒紀州藩主 の 権威 の 下 に 自 らを 位置 づけようとしていることが 明白 である ︒ 以上 のように ︑正徳年間初 め 頃︑中井家 はその 系譜 の 内 に 浄円院家族︑ つまり 吉宗権威 を 取 り 込 もうとしていた こ と が わ か る ︒﹁ 落聞 ﹂︑ ﹁ 落申事 ﹂ と は こ の こ と で あ っ た ︒ ま た ︑ い う ま で も な く ︑ す で に 正知 と 十左衛門 は 十分 に 親 しい 間柄 となっている ︒ さて ︑ この 正知 ︵浄覚︶ の 直書 を 受 け 取 った 巨勢十左衛門 は ︑︵中井家家来︶ 佃市左衛門 あての 正徳二年正月一一日 付 け の 年 頭 祝 詞 に ︑﹁旧 冬 者 被 入 御 念 主 水 正 様 御 直 書 被 成 下︑委 細 承 知 仕 忝 な く 奉 存 候︑御 申 越 被 成 候 拙 者 先 祖 実 名 ・ 歳之義 ︑ 今般別紙認 ︑ 入御覧候 ﹂ と 書 き 送 っ て い る︵ A‒1 ‒d ‒8 ‒(1) ︶︒ な お ︑﹁ 先祖実名 ・ 歳 ﹂ を 記 し た ﹁ 別紙 ﹂ は ︑﹁ 今般 ﹂ = 近 々 に 認 め ︑ お 送 り す る と い う 趣旨 で あ る ︒ こ の ﹁ 別紙 ﹂ に 該当 す る 史料 は 見 あ た ら な い が ︑ そ れ の ﹁ 追啓 ﹂ が 同年一〇月一五日付 け で ︑ 十左衛門 か ら 正知 ︵ 浄覚 ︶あ て に 送 ら れ た︵ A ‒1 ‒d ‒8 ‒(2) ︶︒ こ れ を み て お こ う ︒

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  ︹史料 4︺     ‌ 貴様御系図御書改可被成旨︑先達而浄円院殿 へ 御申聞被成候処︑何角無御隙候付御打過︑頃日御気分 も 御快 御座候 ニ 付御書改︑夫付可被申越候趣御尤奉存候︑ 浄円院殿 へ 御草案披見 ニ 入申候︑殊外御満足︑貴体様御 心尽之段感 シ 被成候︑    一 ① ‌ 浄円院殿義︑御書付置可被成 との 御事申達候処︑此段御女中之事候 ヘハ ︑何之始末 も 無之 と 御座候間︑此方 ゟ書付可遣義無之御座候間︑其段可申遣 との 事故︑書付差越不申候︑左様 ニ 思召可被下候︑    一 ② ‌ 故大和守殿御奉公之品︑後大和守殿貴様御伺事御書加 へ 可被成 との 事︑御尤奉存候︑弥御書加御清書被遊︑ 浄円院殿 へも 一遍被通候節︑拙者共 も 拝見可仕 と 奉存候︑    一 ③ ‌ 拙者幷同氏六左衛門務之品知行高書付可進由︑則別紙書付進之候︑    一 ④ ‌ 貴 体 様 何 角 御 心 尽 之 段 奉 察 候︑諸 親 類 中 (様方) ニ 而 ハ 昔 之 事 覚 へ (不申) 奉 察 候︑別 而 貴 体 様 御 壱 人 之 差 略 奉 察 候︑拙者共 ハ 幼少 ニ 而親死去故︑昔之事承不申︑被入御念御紙上之趣奉存候︑恐惶謹言︑      十月十五日        巨勢十左衛門   由利 ︵花押︶        浄覚様    尚々︑御差越被成候御草案︑又被進仕候︑以上︑ 浄円院宛 て に 届 け ら れ た ﹁ 御草案 ﹂ を み て ︑ 浄円院 は ﹁ 殊外御満足 ﹂ で あ っ た ︒﹁ 貴体様御心尽之段 ﹂ が 感 じ ら れ たからである ︵冒頭 の 傍線部分︶ ︒﹁心尽﹂ とは ︑中井家 の 系図 に 浄円院 の 家族 が 書 き 込 まれていたこととみられる ︒ このほか 浄円院 の 意向 が 箇条書 きで 記 されている ︒要点 を 記 しておこう ︒ まず 浄円院 に 関 することで 記録 してお く べ き こ と は な い か と の 質問 に 対 し ︑ 浄円院 は ﹁ 御女中之事候 ヘ ハ ︑ 何之始末 も 無之 ﹂ と 返答 し て い る︵ 第一条目 ︶︒ 以前 のことは 一切触 れない ︑明 かさないという 意志 が 窺 える ︒次 に 中井正清・正以 の 大工頭奉公 についての 追記清

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書︵正知筆︶ を 浄円院 に ﹁一 遍 (辺) ﹂見 せるとのことである ︵第二条目︶ ︒ また ︑中井家﹁諸親類中﹂ では ﹁昔之事﹂ を 覚 えている 者 がいないが ︑十左衛門 も ﹁拙者共 ハ 幼少 ニ 而親死去故︑昔之事承不申﹂ と 記 している ︵第四条目︶ ︒父利 清 は 寛文一二年 に 死去 しており ︑父 については ︑母 ︵冷香院︶ が 話 さない 限 り 浄円院・十左衛門 が 知 らないのは 当然 である ︒一七世紀半 ば 頃︑中井家・巨勢家 ︵浪人︶ の 間 は 疎遠 になっていたとみられるが ︑正知 は 浄円院 や 十左衛門 が 家系・家譜情報 を 知 っている 可能性 があるとの 幻想 を 持 ち ︑過大 な 期待 を 持 っていたようにみうけられ る ((1 ( ︒ 十左衛門 と︵ 甥 ︶六左衛門 の 紀州藩 で の 奉公内容 に つ い て は 次 に 別紙 に そ の 詳細 が 記 さ れ ︑ 送 り 届 け ら れ た が︵ 第三 条目 ︶︑ 他藩内 の こ と は こ の よ う に 書 き 送 ら な い と 伝 わ ら な か っ た ((1 ( ︒ こ の 時点 ま で は 紀州藩 で の 両人 の 奉公 を 中井家 は 掌握 していなかった ︵京都町奉行所 へ 届 ける 親類書 には 記 されていなかった ︶︒ なお ︑六左衛門 の 父勘左衛門 の 存 在 については 中井家 の 念頭 になかった ︒ このような 状態 が 正徳年間 の 両者 の 関係 であった ︒ 十左衛門 は 上記﹁追啓﹂ と 同日 の ﹁辰十月十五日﹂付 けで ︑次 のような 兄勘左衛門忠善︑ その 子六左衛門至信︑ 自分 に 関 する 紀州藩 での 勤書 ︵ A‒1 ‒d ‒8 ‒(3) ︶を 送 った ︒辰 は 正徳二年 ︵一七一二︶ である ︒   ︹史料 5︺       巨勢勘左衛門忠善    一元禄七年戌十二月近習番 ニ 被召出︑宛米八拾石拝領︑    一同丑 ノ 年八月清渓院殿着領具足預 り 勤 ル ︑    一同寅年六月為加増地方二百石拝領仕候︑    一同卯年五月十日病死仕候︑       巨勢六左衛門至信    一元禄十二年卯九月親勘左衛門跡目︑幼少 ニ 付拾人扶持拝領︑

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   一宝永七年寅五月為加増地方三百石拝領︑奥小姓務申候︑以上︑       巨勢十左衛門由利    一元禄二年巳六月近習番 ニ 被召出︑蔵米六拾石拝領︑    一同寅年二月奥之番務 ル ︑    一同卯年六月清渓院殿着領具足預 り    一同辰年二月為加増地方弐百石拝領︑徒頭之格相勤候︑        ︵三事項中略︶    一同 ︵宝永︶ 七年寅五月為加増都合千石拝領︑大番頭格 ニ 務 ル ︑       以上︑ これらの 根拠 となる 任命書 はそれぞれが 保有 し ︑ それを 写 して 勤書 を 作成 し ︑必要 に 応 じて 提出 した ︒紀州藩 の 人事記録 と 合致 する 性格 の 書類 である ︒ いくつか 指摘 しておこう ︒冒頭 に 示 した ﹃寛政重修諸家譜﹄ の 記載 では 勘 左衛門 が 兄 で ︑十左衛門 が 弟 であるが ︑紀州藩 への 出仕 は 十左衛門 が 元禄二年 ︵一六八九︶ ︑兄勘左衛門 は 同七年 で ある ︒弟 が 先 である ︒ この 点 については 後述 する ︒何 れも 最初 は 近習番 であり ︑宛米 は 兄八〇石︑弟六〇石 となっ ている ︒ この 点 では 長幼 の 序 が 保 たれている ︒ ま た 勘左衛門 は 元禄一二年 ︵ 卯 ︑ 一六九九 ︶に 病死 し ︑ 六左衛門 が 後目 を 継 い だ と あ る ︒旧稿 で は 宝永七年 ︵ 一七一 〇︶ の ﹁分 限 帳﹂ に ﹁御 小 姓﹂ ﹁巨 勢 勘 左 衛 門﹂ と 記 録 さ れ て い た ︒ こ れ を 根 拠 に 元 禄 一 二 年 死 去︵寛 政 一 一 年 百 回 忌︶ の 諦岳院 を 利清 と 推定 したが ︑ この 勤書 が 正 しいとすれば ︑諦岳院 は 勘左衛門 ということになる ︒ しかし ︑旧説 の 史料根拠 とした ﹁分限帳﹂ は 天保一〇年 ︵一八三九︶ の 写 であった ︒﹃寛政重修諸家譜﹄ によると ︑ 六 左 衛 門 が 勘 左 衛 門 を 名 乗 っ た こ と は な い が ︑幼 名 に ﹁勘 太 郎﹂ が 見 え る ︒﹁勘 左 衛 門﹂ の く ず し 字 表 記 は ﹁勘 太

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郎﹂ のそれと 酷似 している ︒ この 転記 の 際 の 誤記 が 事実 であれば 宝永七年頃 の 生 きていたのは 六左衛門 となり ︑矛 盾 は 解消 される ︒筆者 の 旧説 は 数少 ない 史料 から 立論 しているが ︑中井家文書 の 出現 によって ︑転記 ミスを 前提 と した 新説 が 成立 する ︒ こちらの 方 が 妥当 であろ う ((1 ( ︒ ︵ 3︶ 浄円院 の 浄覚見舞 い 状 浄円院 か ら 浄覚 ︵ 正知 ︶の 病気 を 見舞 っ た 書状 ︵ A‒2‒a‒76 ︵ 10︶︶ 残 さ れ て い る ︒浄円院自筆 の 文書 は こ れ が 唯一 で あろう ︒全文 を 紹介 しておく ︒   ﹇史料 6﹈      ‌ な に よ り の 一色被下 か た し け な く ︑ 今 ニ 〳〵 な (慰) く さ ミ ニ い た し ︑ 一入 〳〵 か た し け な く そ ん し ま い ら せ 候 ︑ かへす 〳〵 次第 ニ ひ (冷) へ 〳〵 となり 候 まゝ ︑ す (随分) いふん 御 さハリなく ︑ さやうニ 御 や (養生) うしやう 可被成候︑ ここ 元所 ろ (労) うにて 候 へ 共 ふ (無事) しにてくらしまいらせ 候 まゝ 御心 やすく 存 し 可被下候︑ 十左衛門方 へ 御懇 の 御 こと つて 申聞 せまいらせ 候 ヘハ ︑忝 くよく 〳〵 申進 しくれ 候 へと 申 まいらせ 候︑ めてたくかしく ︑    ‌ 跡月廿二日付 にて 御 ふミ 被下 かたしけなくそんしまいらせ 候︑ まつ 〳〵 その 御地清気候 にて ︑上々様方御機嫌 よくならせられ 候︑御同前 ニ 御 め (目出) て 度 かたしけなくまいらせ 候︑    ‌ 中納言様 ニも 御機嫌 よく 御 さなされ 候 との 御左右 さい 〳〵 御 さ 候 て 御 めてたくまいらせ 候︑浄覚 さまニハ 此間 少々御持病気 に 御 さ 被成候 よし ︑御年寄 の 御事 ニ 御 さ 候 ヘハいかゝと ︑御心元 なくそんしまいらせ 候処 ニ ︑廿 日付 にておかる 殿 より 御文被下︑少々御快御 さなされ 候 との 御事 にて ︑御同前 ニ 悦 まいらせ 候︑時分 からよほ と 御 す (涼) ゝしくも 成 まいらせ 候︑ なを 御 さ (障) ハりなく 御 する 〳〵 と 御 ほ (本復) んふくのやうニと 念 しまいらせ 候御事 ニ 御 さ 候︑御手前 さま 御気色 も 御 かハり 被成候御事 も 御 さなされす 候 よし ︑御気 の と (毒) くに 存 まいらせ 候︑ さりなが

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ら 暑気 ニも 御 さハりの 御事 も ︑御 さなされす 候 との 御事︑ うれしくそんしまいらせ 候︑随分御心 な (長) かくご 養 し (生) やう 可被成候︑ さやうニ 御 さ 候 ヘハめてたくかしく ︑      九月七日    御返事 ‌ 浄円院ゟ         中井源八郎 さま   申給 ヘ この 書状 は 和歌山 の 浄円院 が 京都 の 中井源八郎 ︵正雄︶ にあて ︑同居父正知 ︵浄覚︶ の 病気 を 見舞 い ︑九月 の 残 る 暑 気 への 対応︑長期療養︑回復 を 求 めるという 主旨 である ︒宛名 の 源八郎 は 正知 の 子供 で ︑貞享二年 ︵一六八五︶ に 所 司代 の 代替 わり 時 に 参府 して 御目見 している ︒元禄六年 ︵一六九三︶ には 京都所司代小笠原佐渡守長重 を 通 じて 老中 から 拾五人扶持 が 与 えられ ︵元禄一二年由緒書︑ A‒1 ‒a ‒6 ‒(3) ︶︑当時正知 の 跡取 りとして 活躍 してい た ((1 ( ︒ この 書状 の 年代 は 何時頃 と 推定 できるか ︒前述 のように ︑正知 は 病気 が 回復 して 正徳二年頃系図編纂 に 取 りかか っ た が ︑ す で に 高齢 で あ っ た ︒文中 に ﹁ 御年寄 の 御事 ニ 御 さ 候 ﹂﹁ い か ゝ と ︑ 御心元 な く ﹂ と あ る ︒ こ の 正知 は 正徳 五年 ︵一七一五︶ に 死去 しているが ︑ この 病気 は ︑正徳二年以前 のことか ︑正徳五年 に 近 い 時期 か ︒ この 書状 では ︑﹁中納言﹂ ︵吉宗︶ について 江戸 から 紀州浄円院 へ ﹁御左右﹂ を 伝 える 文章 となっており ︑吉宗江戸 在府 と 見 られる ︒吉宗 は 宝永七年 ︵一七一〇︶ 九月 と 正徳二年 ︵一七一二︶ 九月 には 国元 ︵和歌山︶ におり ︑両年 は 除 か れ る ︒ さ ら に 正徳元年 に は 浄覚 が 元気 に 編纂事業 に 従事 し て い る の で こ れ も 除 く と ︑ 宝永七年頃 の 病気時 ︑ 同三年 ︑ 同四年 が 考 え ら れ る ︒ さ ら に 浄円院 が 十左衛門 に ﹁ 御懇 の 御 こ と に て 申聞 せ ま い ら せ ﹂︵ 傍線部 ︶て い る の は 上述 の 巨 勢方系譜情報 の 提供 ではないかと 見 られ ︑正徳二年以降︑ つまり 同三年︑同四年 の 九月 ではないかと 推定 される ︒ 正徳三年頃 としておく ︒ ちなみに ︑文中﹁上々様﹂ は 中井家 の 当主正知 と 源八郎 をさすと 見 られ ︑藩主吉宗 より 上 位 に 置 かれていることに 留意 しておこう ︒ この 手紙 で 注目 されるのは ︑浄円院 が 正知 ︵浄覚︶ の 病気 を 大変気遣 っていることである ︒浄円院 の 城中奉公︑吉

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宗出産以前 は 疎遠 であったが ︑ ある 時点 で 血縁 が 判明 し ︑交流 が 始 まった ︒病気見舞 いの 親密度 は 先 に 述 べた 元禄 一一︑一二年頃 の ︑正知 の 浄円院﹁姉分﹂証言 をぬきには 理解 できないであろう ︒浄円院 にとって 正知 は 大恩人 で あった ︒ 以上 のように ︑本章 では ︑吉宗 の 誕生︑成長 とともに ︑一七世紀末頃 より 中井家 との 姻戚関係 を 梃子 に ︑中井家 との 交流 を 深 めつつ ︑浄円院家族 は 紀州藩 の 中 で 新 しい 地位 を 確保 したことを 見 た ︒ 【 3】浄円院と巨勢家の成立 ︵ 1︶ 一七世紀後半期 の 浄円院家族 中井家 が 浄円院・十左衛門 を 通 じて ︑巨勢家族 の 紀州藩内諸情報 をえたことをみたが ︑次 に 利清 の 家族 について 検討 することにする ︒先 に 掲 げた 文化年間作成 の 系図 ︵六左衛門至信家系︶ の 内︑ かなり 長 いが ︑利清 の 子 と 孫 につ いての 部分 を 下記 に 引用 する ︵系図 3のつづき ︶︒   ︿系図 4﹀     利清   生国山城︑八左衞門 ‌︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱ ︱︱︱︱ ︱    ︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱    ︱女子 紋        母   壺井源兵衛義高女       ‌ 明暦二丙申年 御 出生︑紀州大守従二位権大納言光貞卿 ニ 御奉 任 (仕ヵ) ︑御腹 ニ 御子従三位中納言吉宗卿御誕生︑ 正徳六丙申年

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      ‌‌ 吉宗公被任将軍 ︑ 江都御本丸 エ 御移徒 ︑ 依之享保三戊戌年従紀州若山御下向 ︑ 二之丸 ニ 御住居 ︑ 同十一年 丙午年六月九日御逝去 ︑ 御寿七十一歳 ︑ 江都上野東叡山寛永寺 エ 御葬送 ︑ ︵ 中略 ︶ ︑ 御法号浄円院殿禅台知 鏡大姉    ︱忠善   生国山城︑勘左衞門 ‌︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱

       母   同上        妻   西川四郎右衛門 名乗 不詳 女 紀伊殿 家 臣  ︵中略︶       ‌ 万 治 元 戊 戌 年 出 生︑洛 陽 ニ 浪 居︑ 元 ① 禄 七 甲 戌 年 月日 不詳 紀 伊 殿 エ 被 召 出 御 近 習 ニ 相 成 ︑御 蔵 米 賜 八 十 石︑同 十 丁 丑 年 八 月 日不 詳 光貞卿御着類之御具足頭 ニ 転 ︑ 同十一戊寅年六月 日不 詳 有加恩賜地方二百石 ︑ 同十二乙卯年五 月十日死︑四十二歳︑紀伊国若山大立寺 ニ 葬︑法名諦岳院法誉性道義快居士 ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌    ︱女   万治二己亥年出生︑天和四甲子年二月九日死︑二十六歳︑法名本寂栄照信女︑洛陽長香寺 ニ 葬          母   同上    ︱由利   生国山城︑十左衞門︑丹波守 ‌︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱

       母   同上        妻     中野七郎兵衛当恒 紀伊殿 家 臣 女 ‌       ‌ 寛 文 三 癸 卯 年 出 生︑ 元 ② 禄 二 己 巳 年 六 月 日不 詳 紀 伊 殿 エ 被 召 出 近 習 番 ニ 相 成 ︑御 蔵 米 六 十 石︑同 十 一 戊 寅 年 二 月 日不 詳 御 奥 之 番 ニ 転︑同 十 二 己 酉 年 六 月 日不 詳 光 貞 卿 御 着 類 之 御 具 足 預 ニ 転︑同 十 三 庚 辰 年 二 月 日不 詳 御 徒 頭 ニ 転︑有加恩︑賜地方二百石︑ ︵中略︶ 宝永七年庚寅年五月 不 詳 大番頭 ニ 転︑加恩賜五百石合千石 ヲ 領 ス ︑       ‌ 吉宗公御代享保三戊戌年四月十五日浄円院様御供 ニテ 紀州若山出立︑五月朔日江戸紀伊殿糀町屋敷 エ 着︑ ︵ 中略 ︶ 知行賜五千石 ︑ 同月二十三日西丸下 ニ 而屋敷拝領 ︑ 同年十二月十八日被叙従五位下任丹波守 ︑ ︵ 中略 ︶

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同 四 己 亥 年 正 月 十 五 日 知 行 三 河 国 加 茂 郡 碧 海 郡 之 内 ニ 而 拝 領︑同 年 四 月 八 日 死 ‌ 五 十 七 歳︑江 都 西 之 窪 大 養寺 ニ 葬︑法名善龍院到誉直心浄微大居士 ‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌‌    ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱

   ︱利啓   生国紀伊︑善之助︑十左衞門︑大和守 ‌ ︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱       ︵母・妻中略︶   同姓之祖也    ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱    ︱至信   生国紀伊︑勘太郎︑六左衞門︑伊豆守︑縫殿頭亦伊豆守︑隠居名道任 ‌︱︱︱ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ ︱︱

      ︵母・妻中略︶        ‌ 元禄九丙子年正月二十日出生 ︑ 同 ③ 十二己卯年五月十日父勘左衞門就病死 ︑ 同年 月日 不詳 就幼年十人扶持賜 り ︑ 家 督被仰付 ︑ 宝永七庚寅年六月 日不 詳 十五歳 ニ 而御小姓被仰付 ︑ 知行賜三百石 ︑ ︵ 中略 ︶ 正徳二壬辰年三月 ︵ 中略 ︶ 六 左衞門 ト 改名      ‌ 吉宗公御代享保三戊戌年四月十五日浄円院様御供 ニテ ︑紀州若山出立︑同五月朔日江戸紀伊殿糀町屋敷 エ 着 ︑ ︵ 中略 ︶ 御小納戸被仰付 ︑ 知行賜千石 ︑ 同月二十三日西丸下大久保長門守上知 ︑ 同姓由利 ト 両人 ニ 賜 り ︑ 同 年 十 二 月 十 八 日 布 衣 被 仰 付︑同 四 己 亥 年 正 月 十 五 日 知 行 三 河 国 宝 飯 郡 西 浦 村 戸 金 村 形 原 村 之 内 ニ テ 拝 領︑同年十二月二十一日紀州南龍院殿来子正月十日就五十回御忌御名代参拝被仰付︑翌二十二日被叙従五 位 ︑ 任伊豆守 ︑ ︵ 中略 ︶ 御加恩賜千石 ︑ 同年十二月晦日御加増地三河国宝飯郡形原村 ・ 碧海郡川嶋村之内 ニ テ 拝領 ︑ ︵ 中略 ︶ 同 (享保十一丙午) 年六月九日浄円院様就御逝去 ︑ 御遺物御道具品 々 御形身金百両拝領 ︑ ︵ 中略 ︶ 宝暦四甲戌年五 月十二日死︑五十九歳︑江都西之窪大養寺 ニ 葬︑法名高隆院誉義亨道任大居士︑ この 系図 では ︑十左衛門子利啓 の 記事 は 簡素 で ︑一方勘左衛門子至信 の 記事 は 重厚詳細 で ︑以降 は 同家系 のみ 文

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化年間迄記 されている ︒ つまりこの 家系図 は 近世後期 に 至 る 巨勢至信家 と 中井家 の 交流 の 中 で 作成 されたものと 理 解 されるが ︑利清 の 家系 や 至信 までの 記事 は ︑先 に 見 た 正徳二年頃 の 正知 ︵浄覚︶ の 系図編纂事業 の 成果 に 負 ってい るとみられる ︒先 に 見 た 勤書 は ︑傍線部①②③ ︵仕官 の 始 まり ︑以降 の 職務︑昇進過程︶ の 記載 にそのまま 反映 して いる ︒吉宗誕生以降 は ︑浄円院巨勢家族 の 側 に 系譜等 の 情報 が 存在 した ︒中井家 はこれを 取 り 込 み ︑家系図 を 膨 ら ませたのである ︒ さて ︑利清 の 子 は 女子紋・忠善勘左衛門・女子・由利十左衛門 の 四人 で ︑ その 母 はいずれも 壺井源兵衛義高女 と な っ て い る ︒﹃ 寛政重修諸家譜 ﹄ で は 中二人 ︵ 長男勘左衛門 と 次女 ︶の 母 に つ い て は 無記載 で あ っ た ︒旧稿 で は ︑ 挟 み 挟 ま れ る 二組 は 母 が 異 な り ︑ 特殊 な 事情 を 想定 せ ざ る を 得 な か っ た が ︑ 今回 の 記述 が 事実 を 反映 し て い る と す れ ば ︑ 記 されなかっただけということになる ︒ では ︑何故記 されなかったか ︑ この 点 が 問題 となる ︒ そ こ で ︑﹃寛 政 重 修 諸 家 譜﹄ の 記 載 を 再 点 検 す る と 以 下 の こ と が 確 認 で き る ︒ す な わ ち ︑巨 勢 利 清 の 四 子 の 内︑ ﹁ 女子 ﹂︵ 長女 ︑ 紋 ︶の 箇所 に ﹁ 母 は 大覚寺宮 の 家司壺井源兵衛義高 が 女 ﹂ と あ り ︑ 他 の 三子 の 母 に つ い て は 一切記 さ れていない ︵第二十︑三五二頁︶ ︒普通 であれば 詳細 は 記 されないが ︑︵幕府 と 関 わりの 深 い ︶将軍吉宗 の 母 について は ︑ その 母 の 出自 や 本人 の 没年︑戒名等 までが 詳細 に 記 された ︒ ついで ︑利清 の 次男由利 について ﹁母 は 大覚寺宮 の 家司壺井源兵衛義高 が 女﹂ と 記 されているのは ︑四子 が 横並 び に 列挙 さ れ て い る 箇所 で は な く ︑ 項 を 改 め た 箇所 で あ る ︒再度 ﹁ 巨勢 ﹂ 家 が 立項 さ れ ︑﹁ 由利 ﹂ の 項 に 母 に 関 す る 記述 など 詳細 な 記載 がある ︵第二十︑三五二頁︶ ︒十左衛門 が 幕臣 となったことにより 同書 の 記載対象 となり ︑分家 筋 ゆえ 立項 されているのである ︒   一方︑本家筋 の 利清長男勘左衛門 は 利清 の 後継 として 記 され ︑立項 されていない ︒四子横並 びの 箇所 では 簡略 な 記載 しかない ︒ これは 勘左衛門 が 紀州藩士 ではあったが ︑幕臣 でなかったことによる ︒ いわば 系図上 の 中継 ぎであ

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ったから 母 の 記載 はなかったのであろう ︒﹁女子﹂ ︵次女︶ については 全 て 省略 されたとみられる ︒以上 の 事情 から 結 果 として ︑﹁女子﹂ ︵紋︶ と 十左衛門 の 箇所 に ﹁壺井源兵衛義高 が 女﹂ と 記 されることになった ︒兄弟姉妹四子 の 中 で の 特別 な 事情 の 反映 ではないと 考 えられる ︒﹃寛政重修諸家譜﹄編集 の 観点 からの 分析 が 必要 であるにも 関 わらず ︑ 記載 の 形式 に 目 を 奪 われ ︑誤 った 推論 を 引 き 出 した ︒ 上記 の 再検討 から 四子 に 関 する 記載 を 事実 とみる 条件 が 整 った ︒ そこで 系図 4にもどり ︑ その 記載 を 委 しく 検討 し ︑四子 の 家族状況︑生涯 についてみておこう ︒ 四子 の 誕生 はそれぞれ 明暦二年 ︵一六五六︶ ︑万治元年 ︵一六五八︶ ︑万治二年︑寛文三年 ︵一六六三︶ であり ︑言 う までもなく 父利清 の 存命期間内 である ︒父利清 が 没 した 寛文一二年 ︵一六七二︶ ︑長女紋 は 一七歳︑勘左衛門 は 一五 歳︑次女 は 一四歳︑十左衛門 は 一〇歳 であった ︒ この 内︑勘左衛門 は 元禄七年 ︵一六九四︶ に 紀州藩 に 仕官 し ︑同一 二年 に 和歌山 で 死去 して 和歌山城下大立寺 に 葬 られる ︒弟十左衛門 が 元禄二年 に 仕官 しているが ︑五年後 からであ る ︒ この 事情 をどう 考 えるか ︒ 旧説 で 推論 したように ︑浄円院 と 母 はある 時点 で 京都 から 和歌山 へ 移動 している ︒十左衛門 は 母 に 伴 って 和歌山 へ 移動 したが ︑兄勘左衛門 は 伴 っていなかった ︒兄弟 の 仕官 の 年代的 ずれは ︑弟 が 仕官 した 後 に ︑京都 から 呼 び 寄 せられ 仕官 したと 解釈 することができる ︒浄円院 ︵紋︶ が 藩主家 へ 女中奉公 し ︑男子吉宗 が 誕生 し 初 めて 十左衛門 の 近習番仕官 が 可能 となった ︒ それは 吉宗 が 五︑六歳 に 成長 し ︑姉弟 の 紀州藩内 の 地位 が 安定 した 頃︑元禄二年 によ うやく 実現 したと 理解 される ︒十左衛門兄勘左衛門 が 仕官 できた 元禄七年頃︑吉宗 は 新之助 と 改名 し ︑藩主光貞 か ら 期待 されるようになっている ︒浄円院 は︵ おそらく 母 の 意向 により ︶京都 においてきた 弟勘左衛門 を 和歌山 に 呼 び 寄 せることができ ︑末弟 と 同 じ 近習番 に 仕官 させることができた ︵当時三七歳︶ ︒浄円院 は 藩主光貞 に ︑実 はもう 一 人弟 が ︙ というようなことで 仕官 を 願 ったのであろう ︒

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ところで ︑次女 は 天和四年 ︵一六八四︶ に 死去 し ︑京都 の 長香寺 に 葬 られている ︒ この 妹 は 和歌山 へ 呼 び 寄 せられ ることがなかったとみられる ︒浄円院 と 母 と 弟 が 京都 を 出 たのはいつのことであろうか ︒利清 の 死去後︑生活 は 困 窮 を 深 め ︑京都 を 欠落 し ︑家族 は 離散 した ︒熊野参詣 に 救 いを 求 めたのかも 知 れない ︒延宝二年 ︵一六七四︶ ~同三 年 にかけて 西日本 では 凶作︑飢饉 に 見舞 われ た ((1 ( ︒長女紋 ︵後 の 浄円院︶ は 躰 が 大 き く ((1 ( ︑手助 けとした ︒末 っ 子 は 手放 せず ︑間 の 弟妹 は 誰 かに 預 けたのであろう ︒次女 はその 時︵延宝二年 とすれば ︑一六歳︶ から 二六歳 まで 一〇年間程 母無 しで ︑兄勘左衛門 と 二人 であった ︒京都 の 長香寺 は 中井家 の 菩提寺 であり ︑先 に 父 が 葬 られている ︒ そこへ 妹 を 葬 ったのは 勘左衛門 ︵当時二九歳︶ であろう ︒﹃寛政重修諸家譜﹄ にこのような 事実 は 記載 されるべくもなかった ︒ ただ ﹁女子﹂ とのみ ︑ その 存在 は 記 されている ︒ ︵ 2︶ 浄円院系譜 の 特質   さて ︑長男勘左衛門 は 元禄七年 に 仕官 し ︑ その 二年後 に 跡継 ぎの 六左衛門至信 が 生 まれている ︒ おそらく 仕官直 後 に 妻 を 娶 ったのであろう ︒三八︑九歳 にして 初 めて 家族 を 形成 した ︒浄円院 の 甥 であり ︑吉宗 の 従兄弟 に 当 たる 六左衛門 は ︑吉宗 が 将軍就位直後︑浄円院 に 伴 って 江戸 へ 行 き ︑享保三年 ︵一七一八︶ に 千石取・小納戸役 に 取 り 立 てられ ︑幕臣 となった ︒ 一方 ︑ 十左衛門 の 方 は 浄円院付 き で 江戸 へ 随行 し ︑ 五千石取 の 幕臣 と な っ た ︒従五位下丹波守 に 任 じ ら れ て い る ︒ 同人 はその 直後 に 死去 するが ︑跡継 ぎの 利啓 は 遺跡五千石 を 継 ぐとともに 奥詰 となり ︑ その 後昇進 した ︒ このよう にして ︑浄円院 の 家族 から 二家 ︵本家筋・分家筋︶ 旗本 が 生 まれた ︒ これは 近世巨勢家 の 成立 である ︒浄円院 の 母 と 浄円院 の 兄弟 は 女性 を 家長 とした 直系家族 であった ︒ ただし ︑京都 に 一人 の 女性 を 放置 したままであるが ︒長女 か ら 始 まってこの 家族 の 紀州藩 への 仕官 ︵奉公︶ が 始 まり ︑新 しく 一 つの 武家家族 が 形成 された ︒浄円院 の 女中奉公︑

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藩主 お 手付 き ︑男子誕生 がその 契機 であり ︑ その 後 の 兄弟 の 仕官活動 が 新武家家族 の 形成 につながった ︒未婚女性 とはいえ ︑奉公開始 において 武家家族 の 形成 を 志望 する ︵願望 する ︶契機 は 孕 まれて 居 らず ︑上記 の 家族形成 は 偶然 の 結果 である ︒ 振 り 返 って ︑浄円院 の 姻戚 を 遡 れば ︑大和巨勢 氏 ((1 ( の 流 れを 汲 む 正吉 の 子正清 が ︑中井 を 名乗 り ︑大工頭 として 慶 長一四年 ︵一六〇九︶ 徳川家康 から 千石 の 知行 を 受 けた ︒正吉弟正利 子 (11 ( の 利次 は 慶長一五年 に 従五位下信濃守 に 任 じ られ ︑大工集団 の 有力 な 一員 と 位置 づけられている ︒ このような 系譜 があったものの ︑利次子利盛 は 生活拠点 を 大 和 から 山城 ︵京都︶ に 移 し ︑ かつ ﹁洛陽 ニ 浪居﹂ し ︑ その 子利清 ︵八左衛門︑浄円院父︶ も ﹁洛陽 ニ 浪居﹂ し ︑ さらに 家名中井 を 名乗 らないようになっている ︒ ここで ﹁浪居﹂ というのは ︑武家 へ 仕官 しないこと ︑ もしくは 大工頭中 井家 に 統率 される 集団 に 属 さないと 理解 される ︒中井家姻戚関係 によって 保障 される 職分 から 離 れ ︑如何 にして 家 族 を 養 い 生活 していたのであろうか ︒大工頭 の 身分的位置付 けは 武家 か 匠︵職人︶ か 難 しいが ︑洛陽﹁浪居﹂者 は 明 らかに 町人身分 に 属 する ︒ いずれかの 町 の 住民 であったと 推測 される ︒母 ︵後 の 冷香院︶ の 出自 は ﹁壺井源兵衛義高 女 ﹂ と あ り ︑﹃ 寛政重修諸家譜 ﹄ に は さ ら に ﹁ 大覚寺 の 宮家司 ﹂ と 書 き 添 え ら れ て い る ︒ し か し ︑ こ れ は 母 の 証言 の みで ︑傍証 する 史料 は 何 もなく ︑確定 できない ︒ 以上 のように ︑紀州和歌山 へ 移動 する 前 の ︑浄円院 を 含 む 家族 は 町人身分 であった ︒ しかも ︑父 の 死去 の 上 に 何 かのきっかけ ︵ おそらく 延宝飢饉︶ が 重 なり ︑ その 町 から 離脱 せざるを 得 なくなり ︑浄円院 を 含 む 家族 は 貧困 により 分解 してしまった ︒母 と 浄円院 と 弟 の 三人 は 町人身分 を 喪失 し ︑紀州 への 途上︑ あるいは 紀伊国 ︵紀伊徳川家領内︶ において ︑移動 する 途中 の 彼等 を 保護 する 身分的制度 はなかった ︒順礼 の 姿 を 取 って 居 れば 順礼者︑道心者 であっ た ︒行 き 倒 れにも 通 じる 移動弱者 であっ た (1( ( ︒

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むすびに 享保四年 ︵一七一九︶ 四月 に 巨勢十左衛門由利 が 死去 し ︑善之助利啓 ︵大和守︶ が 跡 を 継 いだが ︑ それより 少 し 後 の 享保八年 ︑ 利啓 は 七月十一日付 け 中井主水 ︵ 正豊 ︑ 正知養子 ︶へ の 手紙 で ︑﹁ 拙者共家 ノ 紋 ノ 事 ︑ 只今 ハ 御存 ノ 通 ノ 紋 所付来﹂ っているが ﹁今 ノ 紋所 ハ 中古ゟ付候紋﹂ なので ︑﹁元来巨勢 ノ 紋所 ハなにニて 御座候哉﹂ と 尋 ねた ︒﹁家紋 正 シキヲ 承置申度﹂ いと 述 べている ︵ A‒1 ‒d ‒7 ‒(1) ︶︒ これに 対 し ︑中井主水 は 養父浄覚 ︵正知︶ や 実父彦仙 から 聞 い た と こ ろ を 丁寧 に 返信 し ︑ 巨勢家伝来 の 家紋 に つ い て 教示 し て い る ︒浄円院 の 弟 と 甥 が 新 し く 旗本 に 取 り 立 て ら れ ︑ 新巨勢二家 が 形成 されたが ︑戦国・近世初期 の 大和巨勢家 の 伝統 が 継承 されようとしている ︒ 家紋 の 伝統 を 引 き 継 ごうとしているが ︑ しかし ︑一旦分解 を 遂 げ ︑巨勢分家 は 消滅 したことも 事実 である ︒浄円 院 の 父利清 の 家 はいったん 崩壊 した ︒ その 家=中井分家 は ︑利清 の 妻 = 浄円院 の 母 が 京都 を 欠落 した 時点 で 崩壊 の 道 を 歩 んだ ︒ ただし ︑紀州 の 寺院 や 町家 の 救済 で 破片家族 は 偶然 にも 生存 を 確保 することが 出来 た ︒ また ︑ すぐに 京都 の 長男・次女 と 連絡 が 付 いて ︑血縁関係 を 継続 したか 否 かは 不詳 であり ︑吉宗誕生以前 に 亡 くなった 次女 を 母 ︵冷香院︶ は 引 き 取 っていない ︒弔 いの 寺 は 京都 と 紀州 に 分 かれた ︒ その 後︑幸 いにして 吉宗 が 誕生 して ︑男子 を 生 んだ 功績 で ︑次男︑遅 れて 長男 を 仕官 させることが 出来 た ︒長男 は 紀州 の 冷香院家族 に 復帰 したが ︑ これは 完全 に 偶然 の 結果 であった ︒ すなわち ︑浄円院 の 家族 は ︑ その 女性性 と 藩主男子出産 という 偶然的契機 を 媒介 にした 新巨勢家 を 形成 する 道 を 歩 み 始 めた ︒旗本巨勢家 の 取立 については 浄円院 の 系譜 とこのような 流 れを 正確 にみておく 必要 がある ︒ さらに 付言 すれば ︑大工頭中井家 にとっても ︑浄円院・吉宗 との 姻戚関係 は 地位上昇︑家族 の 奉公等︑生存 にと

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って 有利 であり ︑歓迎 され ︑活用 された ︒将軍就任以降 は 浄円院 および 新巨勢二家 と 中井家 は 相互 に 交流 を 深 め ︑ 扶助・支援関係 を 形成 し た (11 ( ︒ も う 一点 ︑ 旧説 で 誤 り を 含 ん だ こ と と 関連 す る が ︑﹃ 寛政重修諸家譜 ﹄ に お け る 浄円院兄弟姉妹二名 の 母親名 の 省 略 は ︑ この 家族 ︵吉宗祖母家族︶ の 流浪事実 につながる 要素 を 省 いたことによるものであろう ︒ そのため 不要 な 混乱 が 生 じた ︒ また 冷香院・浄円院 は 流浪事実 を 一切語 っておらず ︑ なかったことになっている ︒ このような 結果記載 のみでは 歴史 の 事実︑ ダイナミックスを 捉 えることができない ︒ このことを 浄円院家族 の 歴史 は 示 している ︒ 注 ︵ 1︶拙稿﹁徳川吉宗 の 母浄円院 の 家族︱幕臣巨勢氏 の 始原︱﹂ ︑﹃紀州経済史文化史研究所紀要﹄第 38号︑二〇一七年一二月︒ ︵ 2︶中井家 の 文書群 の 大半 は ﹁大工頭中井家関係資料﹂ として 平成二三年 ︵二〇一一︶ 六月︑国 の 重要文化財 に 指定 され ︑現在﹁大阪 く らしの 今昔館﹂ に 寄託 され ︑保管 されている ︒ ︵ 3︶中井信彦・高橋正彦﹁史料紹介   大工頭中井家文書 ︵一︶ ﹂︑三田史学会﹃史学﹄ 37︵ 1︶一九六四 ︱ 〇六︒ ︵ 4︶高橋正彦 ﹃ 大工頭中井家文書 ﹄︵ 一九八三年 ︑ 慶応通信刊 ︶の 解説︒ な お ︑ 中井正清 に つ い て は 横田冬彦 ﹁ 中井正清 ‌ 棟梁 た ち を 率 い た 大工頭﹂ ︵﹃講座 ‌ 日本技術 の 社会史﹄別巻 1︑一九八六︶ も 参照︒ ︵ 5︶この 法名記載 の 系図 は ︑国指定重要文化財﹁大工頭中井家関係資料目録﹂ ︵文化庁文化財部美術学芸課︑平成二三年三月︶ によると ﹁︿中井家文書父方系図﹀ ︵浄慶~正徳︶ ・母方系図﹂ となっている ︒ なお 本稿 で 引用 する 中井家文書 の 史料番号 は 川上貢編﹃幕府京 都大工頭中井家文書目録︱長香寺寄託分︱﹄ ︵昭和五八年三月︶ 掲載 の 番号 である ︒ ︵ 6︶城戸久解題 ﹃ 中井家系譜 ﹄︵ 私家版 ︑ 名古屋工業大学 ︑ 昭和二六年七月 ︶に 記 さ れ た 文化一〇年 ︵ 一八一三 ︶﹁ 中井家系譜 ﹂ に は ︑ 中井 正徳 に 関 し ︑﹁ 孫十郎 ︑ 以云 ︑ 後彦仙 ﹂︑ 慶安元年 ︵ 一六四八 ︶生 ま れ ︑ 元禄一四年 ︵ 一七〇一 ︶五四歳没 と あ る ︒寛文一〇年 ︵ 一六七〇 ︶

参照

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